日本軍

【百人斬り】皇軍軍人の「僕」の用例


百人斬りを否定する歴史修正主義者に、「軍人は僕などとは言わない」という主張があるそうだ。
「(軍隊では)ボク・キミ・アナタ・ワタシ等は絶対に口にできない禁句に等しかった」、「一人称代名詞は原則として使ってはならず・・・使う場合は『自分』であって、他の言葉は使えない」、「軍隊語の二人称代名詞は俗説では貴様だが・・・私自身、将校同士が貴様と言い合った例を知らない」、貴公のはず。山本七平は自身の将校経験から会話文を分析する。軍隊ではこれを叩き込まれ、三カ月もすれば反射的に軍隊語が出てくるという[56]。

^ 288,287頁『私の中の日本軍』山本七平 4カ月ぶりに家に帰ったとき、私が「自分は・・」「自分は・・」というので、家のものがおかしがった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E6%96%AC%E3%82%8A%E7%AB%B6%E4%BA%89#%E4%B8%BB%E3%81%AA%E5%90%A6%E5%AE%9A%E8%AA%AC

以下は、「僕」「私」「君」などの用例
社会記事資料(其の二七)(九―八后)海軍軍事普及部報道班

二、壮絶なる第一回南京爆撃
「功名話ではない、諸君の行った事を銃後の人々に伝ふる事も一の義務と思ふから感想を語って呉れ」と強いて口を割らしたのが本文である。ポツリポツリと各人が語ったのを私の方で纏めたもので文責は勿論筆者にある。
「今迄の内で一番印象深いのは何と云っても第一回の南京の爆撃だ」とT司令は語る。「皆が初陣で・・・それから第一回空襲の時が本隊では最も多数の犠牲を出したんだから、僕としてはどうしても忘れられないね」(1・2枚目)

H隊長はポツリポツリと当時の模様を語る。・・・
私の隊のY隊○機は胡宮飛行場、I隊の○機は大教場飛行場を爆破し・・・私はI隊の一番機に乗ってゐましたが、爆撃を終った時敵戦闘機五機と遭遇し空中戦をやりました。・・・其時私の乗ってゐる一番機にも被弾が多くて偵察員の渡邊兵曹長は機上で戦死し・・・部下一同が沈着に銘々の任務に従事してゐる模様を見て、私は大丈夫敵地突破が出来ると思って決して絶望的な考へは起りませんでした。午後九時半ピッタリと基地に着いた時、私は平素の訓練の賜物と思ってシミジミ部下の信頼性を深めました。(2~4枚目)

司令は此話をジッと聞いてゐたが
「『我れ単機片舷機飛行中速力○○浬』と無電が来てから約七時間何とも云って来ないんだもの、僕はもう君の所の一番機は四番機と同じ運命だと諦めてゐたね、ハハ、、、、、」と寂しく笑った。
当日損害を受けたのは右のI隊とH隊だったがH隊長は語る。
私の隊は支那大陸にとり着いた時は何にも見へぬので、既に他の隊と別れてゐました。・・・と同時に私の所の四番機が敵弾の為火災を起し傾き乍ら次第に・・・別に悲観的な気持にはなりませんでしたけれども成功の割に私の隊丈け犠牲が一番多かったので、・・・
(5・6枚目)

司令は語を次で・・・「犠牲者に対しては誠に同情に堪へないが、何しろ第一回南京爆撃の効果は全く偉大だよ、想像も出来ぬ悪天候を冒して敵の主都を爆破したんだから、支那全土は勿論、全世界を震駭さしてゐるよ。僕なんか東京であの号外を手にした時涙がボロボロ出たね、では第二回の痛快な所を」(7枚目)

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レファレンスコードC11081077700
防衛省防衛研究所>海軍省公文備考>⑩公文備考等>その他>社会記事資料 昭和12

社会記事資料(其の二八)(九―九)海軍軍事普及部報道班

三、溜飲を下げた第二回南京爆撃
(軍官学校と参謀本部とを粉砕)
「八月十九日だった。私はK、T、Hの三ケ○隊を引卒し勇躍して隊を出発しました。・・・」と○○隊長は「モウ爆撃談には興味が湧かぬ」と云ったんだが腰を乗り出した。(1枚目)

・・・「僕は各隊から無線報告を読むと結果がとても素晴らしいし味方の害はチッともないので急いで隊内の皆に知らせてやった」と司令は嬉しそうな顔して語る。横から主計長が、「私は、祝杯の用意をしませうと司令にお勤め〔ママ〕したんです。(3枚目)

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防衛省防衛研究所>海軍省公文備考>⑩公文備考等>その他>社会記事資料 昭和12

社会記事資料(其の二九)(九―一〇)海軍軍事普及部報道班

四、陣営素描(其の一)
「近頃は敵も中々楠流の戦法をやりますよ」とT中尉は語る。・・・「僕は自分の眼を疑った事が一つあった。それは何日だったか爆撃を終っての帰途、スッカリ暗くて何も分らない。・・・(1枚目)
元気な商船学校出身のО中尉が語る。
「敵の戦闘機は集際〔ママ〕よくつけて来ますね、あの真暗の中にいつの間にか直ぐ後からシュッシュッと焼夷弾を撃つんです。尤もコチラの戦闘機を見ると逃げるそうですけど、僕等の此の大きな奴には感心にくっ着いて来る。それでも振り放すと暫くは見えなくなる。随分向ふでも苦心しているでせう。」(2枚目)

「でも君の崑山鉄橋爆破はウマク行ったね、此の写真はО中尉御自慢の写真ですよ」とT大尉が鉄橋の真中に爆弾が命中した写真を見せて呉れた。最後にО隊長が、
私共はモウ無神経になりかけてゐます。尋ねられると今言った様な話も
ありますが、・・・(5枚目)

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社会記事資料(其の五五)一〇―八、后 海軍軍事普及部報道班

痛快!巡歴低空偵察行 
    天性の鳥人間間瀬兵曹長
・・・最近同方面基地から帰った航空本部前田中佐は、同兵曹長の快翔振りを次の如く語った。
「間瀬兵曹長は以前から僕は知ってゐるが、全く海軍航空界の勇士だ。・・・(1枚目)

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社会記事資料(其の七四)一一の二后 海軍軍事普及部報道班

支那避難民に灑ぐ武士の涙
一等水兵 神山恒男
私達は共同租界の避難民整理及び便衣隊狩をしてゐました、一日、幾万人といふ避難民が私達の警備してゐる所を通りますが実に悲惨なものです。・・・私達は避難民に対してはやさしくしてやります。各国の外人にも特に優しくしてやりますので上海の外人はとても陸戦隊に好意を持って居ります、或は米国人と思ひますが私達の警備してゐる近くに大きな青物市がありまして其処から持って来てくれたと思ひますが、バナヽを沢山持って来て子供の云ふやうな日本語で「御苦労様さま」と言って置いて行きました。その時は私達は幾度も礼を云ひましたがまた何となく心強く感じました。(4・5枚目)

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社会記事資料(其の一一一)六―四、前 海軍軍事普及部

還らぬ海の荒鷲からの国防献金
韶関空襲の散華奥西二等航空兵曹の遺書
 故海軍二等航空兵曹奥西静夫は本年二月二十一日粤漢線韶関空襲に参加した際、不幸敵弾を受け、愛機諸共肉弾となって敵陣地に突入、壮烈なる戦死を遂げたものであるが、奥西兵曹は予てこの事あるべきを予期して出陣に臨んで両親宛に次のやうな書翰を送った。・・・

出動に際し両親に送れる書翰
警備を終へて去る五日帰還致しましたが、漸く整備も完了致しましたので又愈々明十四日の朝八時○○航空隊を出発して敵地に向ふことと成りました、又暫くの別れですけれど今度は○○基地に居た様な具合に安閑としては居られません
敵地の中に在る飛行機ですからね、弾丸も毎日飛んで来るやうな地ですから相当に危険も伴ふことと思はれます
私達の航空隊の先発隊員は今頃は毎日勇敢な上海爆撃を決行して偉勲を挙げて居ります
今度は私達の番ですよ
大いに此の際平素訓練して来た腕を試しませう
・・・私は一人身ですから何の心配もありません、只々一意専心報国の誠を効す決心、決して御心配下さいますな・・・(1~3枚目)

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社会記事資料(其の一一五)六―一八后 海軍軍事普及部

白○の勇士が語る広中路の激戦
鮮血淋満 伝令に従事した岡崎一水

今岡崎一等水兵は湯の里大分県亀川の別府海軍病院で静かに傷を養ひながら、幸満足に残った左手だけで一週三回の「ミシン」教育を受けてゐるが、さすがに昔は相撲二段の猛者、見るからにガッチリとした体格の持主で、ベッドにドッシリと腰を下ろして、そゞろに激戦の当時を偲びながら大きな眼を輝かして次のやうに語った。
私は八月十五日の晩から明方にかけて潜伏斥候に出て居りましたが、夜明け方二名の敵兵をチラと発見しました。薄闇を通して尚よく凝視ると其の遙か後方に当って白壁の家を背景として敵の大軍がクッキリと浮び上って見えます。それが丁度我が広中路陣地の略真正面でした。
私は直ぐ陣地に帰ってこの事を小隊長に報告しましたが、果して午前五時頃になると、約三千に余る敵兵は・・・
小隊長園畑兵曹長は直に「突撃」と叫んで、自ら陣頭に立って白刃を揮って戦って居られました。私も一人で手榴弾を五、六十発は投げたと思ひます。・・・
私は本部に飛込んで、「園畑小隊全滅」と叫んで報告しますと、中隊長貴志中尉は、何も言はず、いきなり日本刀を引抜いて、「集まれ」と一言怒鳴られたと思ふと其処にゐた七名を引具して直ぐ外へ飛び出して行かれました。あれが私の見た貴志中隊長の最後の姿でありました。・・・
相撲部員が私の外に二人居りました。あの右腕をやられたので、銃の床尾を右小脇に挟み、左手を添へて敵中に飛込んで行って散々格闘した上遂に戦死を遂げた小隊長伝令の兼田兼成一水と、銃が折れたのでこれを繃帯で巻き止めて尚も力闘した揚句戦死した吉原一水の二人がさうです。皆二段でした。兼田はきっと体当りをやったのだらうと思ひます。・・私は幸右手をやられたので「ミシン」をやるには却って好都合です「ミシン」の右の方にある車は手首から先がなくても右腕で結構回せます。・・・(2~5枚目)

 同じく八月十六日我が広中路陣地園畑小隊の銃隊陣地の右端機銃陣地に在って勇戦奮闘、重傷を負ひ、遂に足関節を切断するに至った海軍一等水兵(当時は二水)田村博(和歌山県那智郡山崎村大字金池)は激戦の模様を次のやうに語った。
「敵は我が陣地の右後方に迂回して後ろから殺到して来ました。あの時は我が陣地の土嚢の所までやって来て、図々しくもこちらの土嚢を台にして外側から機銃や小銃を据へて我が陣地に対して側射を始めた。私はいきなり敵の小銃、機銃を引ったくって、二名宛二回、四人を銃殺しました。どうしたのか剣が見つからなかったからです。矢張り銃剣はどうしても必要だと思ひました。
その時でした。分隊下士の今川正明二等兵曹が突然頭を抱へて「頭が割れた、割れた」と云って地上に昏倒しました。敵の手榴弾が額に中ったのを右手で攫んで投げ返したのです。
盲弾だったのです。敵の手榴弾には非常に盲弾が多かったやうです。若し炸裂したら真箇に今村兵曹の頭は微塵に打砕かれたでせう。その中に私もやられました。もう戦線では水兵も特科兵もありません。・・・(7・8枚目)

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社会記事資料(其の一一六)六―二二、后 海軍軍事普及部

孝感上空に散った櫻井兵曹長の遺書
得猪機の操縦員
 ・・・戦史後遺品整理中次のやうな遺書が発見された。・・・
前略寸暇を割きて認め遺す。
・・・今や私は祖国日本の隆盛と東洋永遠の平和を祈りつゝ愛機と共に敵地に散り行く。・・・
今日迄私を育て上げて下さった御両親の海山の御恩、又妻には結婚以来家計や私への面倒や潔坊の養育の苦心、共に深く深く御礼を申上げます。・・・私は悠久無限の十万億土の彼方から姿はなく声はなくとも常に見守りつゝ事の達成を祈って居ります。

妻嘉代子へ
父なき潔坊にとりて母たる御身は絶対必要な存在であることを忘れて呉れるな。
潔坊には父たる私の血が通って居るから飛行家として適する体格でなければならぬ、必ず軍人飛行家として育てゝ呉れ、それが御身の唯一の責務であり草葉の蔭から私の最も喜ぶ事である。(2~4枚目)

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社会記事資料(其の一二〇)七―八后 海軍軍事普及部

南雄空爆の散華、藤田二等航空兵曹の絶筆
・・・当航空隊からは約○○名の精鋭が特選されて出動する事になったのですが此の名誉ある一員として選ばれた私の喜び何と言って良いか御推察下さいませ。得意の絶頂とは今の私達の心事ではないでせうか。・・・上海の華と散り護国の鬼となってこそ日頃慈み育てられた大君に対しての最大唯一の御奉公であり年来の大望が果せられた時なのです。
御父様 御母様 生を享けてより二十有余年間の言語に絶するお慈しみに対して秋市は只無言で感謝の祈りを捧げて居ります。只残念に思ふのは
二十有余年我儘だったと言ふ以外只一つとして鴻恩に御酬ひする事も出来なかったを唯一の心残りに存じますが幸にも忠孝一本の皇国に生を享けた私ですが御父様 御母様の日頃の御期待に背かない武功を立てる事によって少しでも報恩の志が○くなればどんなにか慰められる事でせう、空閑少佐の言、「吾に遭ひたくば靖国神社に来れ」僕の心境も是に勝るとも劣らう筈はございません、身辺の整理も昨日一昨日ですっかり片付きました今は只出発の命を待つばかりです。今後の行動は発表することも出来ませんし、又詳しい事は私自身にも分りませんが、海軍機の上海方面に活躍するを聞かば私達をお思ひ下さい。私も今日限父もなければ母、兄妹も無い俗界を脱した秋市として大君の為国の為活躍するつもりです。・・・(2・3枚目)

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社会記事資料(其の一二九)九、一〇―后 海軍軍事普及部

衝陽上空の大空中戦詳報
野中大尉感激の手記
機内では傷いた〔ママ〕山崎兵曹が盛に怒号して居る「分隊長敵を三機撃ち落しました、併しもう起てませぬ申訳ありませぬ」、「アヽ羽根田がやられて居ます鈴木兵曹私は構ひませぬ羽根田を介抱して下さい」振り返って見ると・・・(5枚目)

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皇軍実態集 市民を置いて逃げる(途中)

日本軍は皇軍、天皇の軍隊であり、天皇(国体・国家と言い換えてもいいが)を守るのが任務であり、一般人はしばしば見捨てられた。

 昭和二十年八月十五日、日本は無条件降伏をした。京城はこの日もきれいな夏空の朝やけで夜が明けた。私には、いつものように、楽しい一日が始まるはずだった。が、店内のあちらこちらでは従業員の人たちが顔をくもらせ、ひそひそと立ち話をしていた。電話もひっきりなしに鳴っていて、受話器をとった父は深刻な顔付きで応対していた。
 翌十六日になって父は、在留日本人を国民学校の校庭に集めて、日本人として今後とるべき道を協議することになった。しかし、集まった人々の中に憲兵や軍の関係者がいて、「敗戦はデマだ」と叫んで父の話を阻止しようとしたが、父は断固たる態度で、「これは正確な情報である。日本が無条件降伏したからには、憲兵隊も、軍隊も、言論行動を阻止することはできない」と、言いきっていた。・・・
 当時、大阪朝日新聞の支局長だった父のもとには、明確な情報がいろいろと入っていたようだった。集会を阻止しようとした憲兵隊員や軍の関係者は、その日のうちにどこに行ったのかは分からないが姿を消していた。(p460)波多野・朝鮮
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15hikiage/H_15_458_1.pdf

 八月十二日、早朝出勤する途中で、陸軍官舎の前に補充馬廠の幹部の家族が荷物を背中に背負い、両手にも持って避難するかっこうで集まっているのにぶつかった。私はびっくりして、「どうしたのですか?」と声を掛けると、その人たちは「南に避難するので、これから会寧駅に向かいます」という返事だった。それを聞いて私はびっくり仰天だった。もう事態がそこまで、ひっ迫しているのかと思うと同時に、私たち一般人を置き去りにして逃げるのかという、何ともいえない憤りを覚えたものだった。私は急いで勤務先に行き、別れの挨拶もそこそこに家に戻った。しかし、一般人にはまだ何の指示もなく、その日は不安を高めながら過ぎていった。(p280)三木・朝鮮
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15hikiage/H_15_279_1.pdf

 翌十日は晴天であった。レンガ建ての満鉄社宅の外壁には機関銃弾が突き刺さっており、家の中は割れたガラスとはがれた天井の漆喰が散乱して、 足の踏み場もない有様であった。駅から港に通じる広い通りは、爆弾で至る所穴が開き、切れた電 線が垂れ下がっていた。街路樹のポプラ並木は、幹が折れて歩道をふさいでいた。気が付くと、昨日あれほど頼もしく応戦していた高射砲や機関砲 が、朝から全く沈黙していた。早朝、情報収集のため司令部へ行った府尹(市長)が帰ってきて「要塞司令部はもぬけの殻、日本軍は夜中にどこかへ撤退したらしい」という衝撃的な事実を知らされた。これを聞いたときの気持ちは、どう表現したらよいのか言葉が見当たらなかった。軍は、家庭から大黒柱の父や兄を軒並み召集しておきながら、ここ一番という大事なときに、「日本国民を護る」という最高の任務を放棄して先に後退したのは何事かと憤ったが、後の祭りとなった。我々は戦場に取り残されたのである。ソ連軍との国境までは、わずか四十キロメートル、戦車なら一時間足らず戦闘機なら数分の距離しかない。街は騒然となった。(p366・367)福地・朝鮮
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16hikiage/H_16_365_1.pdf

 鏡城を過ぎたころから、道端に座り込んでいる避難民を見るようになりました。ほとんどが女性と子供で、どの顔も汚れ、疲れた表情をしていて憔悴しきっていました。このとき、自動車の警笛と共に軍用トラックが三台、砂煙をあげ近づいてきました。停車したので、道端にいた人たちは車の前や横に集まりました。先頭車両から飛び出した下士官が、大声で「お前たちは今ごろ、何をしているんだ!道端へ寄れ、道を開けろ、命令が分からんのか!」と怒鳴りました。みんなはあとずさりをしていましたが、一人の老人が「兵隊さん、子供たちはもう歩けない。どうか子供だけでも!」と頭を下げんばかりにして頼み込みましたが、その下士官は「黙れ!どけ!」と一喝して、南の方へ走り去りました。老人は車に向かい、「お前たちは本当に日本の軍人か!国民を見殺しにするのか!」と叫びました。でも、私は日本の軍隊を、軍人を、まだ信頼していましたので、これは軍の迂回戦術のためと思い、老人の方をにらみつけるように見つめました。(p251・252)川村・朝鮮
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16hikiage/H_16_244_1.pdf

 昭和二十年八月九日は、満州に在住している人たち、内地での原爆にさらされていた方々はもとよりのこと、多くの日本人にとって悲しい日でしたが、私たち家族やここ慶興に住んでいた日本人たちにも、忘れられない日となりました。・・・
 夜明けになると、なぜかトラックは私たち民間人を残して、兵隊さんだけを乗せて走り去りました。私たちには信じられないことでした。「なぜ!」遠ざかって行くトラックの荷台が今でも目に焼きついています。子供だった私の幼い心の中でも、兵隊さんは私たちを守ってくれる強い人なのだという気持ちを強く持っていたので、余計に口惜しさでいっぱいでした。後で母から聞いた話では、兵隊から一緒に北方に行こうと誘われたが、祖父や父は多くの同胞を残して我々だけここから出て行くような理不尽なことは、と言って断ったとのことでした。(p312)舩戸・朝鮮http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18hikiage/H_18_308_1.pdf



皇軍実態集 行動様式

以下に挙げる行動様式は、日本軍発祥かどうかは分からないが、従軍手記によく出て来るものである。そしてその内の幾つかは、現代でもよく見られるものだろう。

挨拶第一(敬礼)
あちらもこちらも身の回りは全部が上級者ですから、上級者に対しては敬礼をしなければなりません。内務班の中は家族と同様なので敬礼の省略を許されていますが、兵舎の外に出たときは全く困りました。片手だけでは足りなくて両手で左右を見て敬礼しなければならないほどでした。欠礼をしようものなら「コラッ!そこの初年兵待てッ!」ハッと気付いて敬礼してももう遅い「何中隊の何班の者だ。官姓名を名乗れ」とくる。「第一中隊第二班陸軍二等兵河村廣康であります」「ウン、貴様の中隊では上級者に敬礼せんでもよいと教育されているんか」「違います」「そうか教えられているんか、そんならなぜ敬礼せん」などといじめられます。用を足して班に戻ると、初年兵係上等兵が「河村!ちょっと来いッ!」と睨みつけて呼び付けます。もう既に先程の欠礼の通報がきているのです。そこでまたこってりと油を絞られます。(p79)河村

 三歩以上は「駆け足」、上級者(どっち向いても皆上級者)には敬礼しなければなりません。初年兵はどこを向いても上級者ばかりですから敬礼の手が上りっぱなしです。(p415)上原

それから野砲・小銃・帯剣・軍靴の手入れをします。手入れ中にもし古参兵の一等兵が通ると、手入れを止めて起立、拳手の敬礼をします。何度会ってもしなければなりません。(p232)猪俣

 日曜の外出には上装被服着用、徒手帯剣、巻脚絆、水筒携行、八時舎前に整列。週番下士官の検査を受け出発。鳥取市内にて喫茶店、映画、市内ぶらぶら。何時でも上官に出会えば敬礼、欠礼すれば大変、初年兵は外出しても敬礼演習のようなり。暑くてもホック、ボタン一つはずすこと許されず、汗だくだく早々帰って洗濯。(p160)岩本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_157_1.pdf

軍旗歩哨に立哨中一歩遅かった捧げ銃、無念や要注意の一声が連隊中の回報に載り、中隊の名誉を汚したと苦汁の難に落涙した。(p34)山下

またいずれを見ても上官ばかりで、班内を一歩出れば敬礼づくめで、目まぐるしい日課である。(p116)竹内

私が初めて興安嶺で見たソ連軍の兵隊は、敬礼もせずに将校に近づき煙草の火を借りて「シバシイーバ(有難う)」と言って去って行った。(p82)清田

 ある日昼食を終わって休んでいると、S地区司令官の「将校おらぬか」という怒声が聞こえる。ちょうど居合わせたY将校が挨拶に出た。敬礼が…と何か怒っているようである。その時、何時もの定期便が来た。マナゴックの爆撃のためである。途端、彼が叫んだ。「動くな見つかるぞ」私は噴き出したくなった。この薄暗い密林の中で空飛ぶ飛行機に人の動くのが見えるものか。また怒声がする。「誰だ大声で話をする奴は。聞こえるぞ」。ますますおかしい、空飛ぶ飛行機にこの林の中の人声が聞こえるものか。少々頭がおかしいようである。この指揮官の下で生死を共にするのか。真に張り合いのない次第である。(p115)松井http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_097_1.pdf

山浦瑞洲「一兵卒乃告白」大正元年11月18日発行 1912年

軍隊の敬礼(p46~)
 凡そ礼儀なるものは社会の何れなる分界にも当然行はるべきものなれども、殊に軍隊と云ふ所は礼儀なくては、一日も治り行くものに非ず。然れば軍隊には「陸軍礼式」「海軍礼式」など特別の制式あり。其の具体的に定めたる礼法は数百条の正文法となりて一冊の書籍となり居れり。若し軍人にあらぬ人之を見ば如何に其の礼法の面倒なるかを感ずるならんも、軍隊の秩序統一と云ふものは、実に此の礼法の厳格に行はるゝに依りて成り立ち行くもの也。
 余等新兵の身分は軍人の最下級なれば、東へ向きても西へ向きても、軍服を着けたる人を見たらんには必ず「パッ」と活発に正しく挙手注目の敬礼を為さざる可からず(新兵同士即ち同僚間に於ては敬礼の交換を為す)されば余等今日の身分にありては敬礼々々で時には窮屈至極の思ひなきに非ずと雖も、少し軍隊の生活に馴るれば此の敬礼の制度が誠に痛快に感ぜらるゝ也。普通世間の礼儀ならば、人に逢ふて先づ帽子を取り、頭を下げ、埒も明かぬ冗長の言葉などを取り交はさねばならぬものを、軍隊に於ては、たとへ大将閣下に逢ひたりとて、鳥渡停止して、パッと頗る活発に、無言の儘挙手注目せばそれで宜敷、閣下は之に対し威容徐ろに矢張り挙手注目の答礼を為さるゝなど実に此の上なき愉快を感ずるなり。
 而して此の敬礼は、一級上の一等卒に対しても又大将閣下に対しても同じ心持にて同じ動作に於て為さるべきものにて、元来軍隊礼式の精神は、其の個人に対して敬礼すると云ふ心持よりは寧ろ軍人たる制服、其の星章、其の肩章に敬礼するもの、換言せば 大元帥陛下の統率し給ふ軍隊の権威ある秩序なり、礼法なりと信ずべきものなるが故也。
 海軍礼式は余等陸軍兵の未だ詳かにせざる所なるも、陸軍礼式は常に之を詳かに知了し居らざる可からず。其の礼法の詳細に亘りて言へば限りもなけれど、例へば軍旗に対する敬礼、将官に対する敬礼、直属上官に対する敬礼、一般上官に対する敬礼、部隊の敬礼、歩哨の敬礼、教練中或は勤務中の敬礼、陣中に在りての敬礼、営外に在りての敬礼、室内に在りての敬礼等の如き、其の叮嚀と簡略との種々なる区別及び其の細目に渡りては却々に繁褥なるものなりと雖も、要するに軍隊は上述の如く礼法の厳格に行はるゝに依りて秩序統一を維持され行くものなれば、軍人として此の礼法に反するものあれば、是れ当に違反の罪に座すべきものなり。殊に軍人の精神と云ふものより解釈しては、時に迂濶して此の礼法に反したりと云ふが如き、寧ろ過失に属すべきものと雖も、当然之を詰責すべき価値ある位厳格のものたる也。
 然れど余の近頃思ふ様、軍隊の礼式は寔に尊重すべき性質のものにして、且つ寔に痛快なるものなりと。但し

大声第一
内務班から一歩外へ出る時は、必ず大きな声で「小林二等兵!厠(便所)へ行って来ます!」と叫ぶ。帰って来た時も「同じく帰って来ました!」と叫ぶのです。すべて大きな声で復令、復唱することです。(p202)小林

自分は声が大きくて子供の頃から両親に「もう少し小さな声で話せ」と言われる位の大声でした。これが軍隊では幸いしました。班内から一歩外に出る時は必ず「茶木二等兵、厠へ行って来ます」また入室の時は「茶木二等兵、入浴より戻りました」と大きな声で発表します。声が小さいと古年兵から「今なにか虫の声がしていた、今一度官姓名を名乗れ」と再度申告させられました。(p254)茶本

 宮崎県、高鍋陸軍飛行場大隊、西部第一〇一部隊で初年兵教育が行われました。自分は軍隊のことは何一つ知りませんから、一から十まですべて勉強でした。まず、一番に大きな声を出すことでした。これは人一倍大声でしたから完了で、二番目に行動の迅速が要求されました。そして軍人勅論の暗記暗唱・次に戦陣訓・典範令・操典等々の記憶の外に、日常勤務の規則、喇叭音にいたるまで、朝の起床から夜の消灯喇叭まで、初年兵はちょっとの休みもなく、頭と体を酷使して、はじめて一人前の兵隊になるのだと実感しました。昔々、村の古老が兵隊に行って来たら二人前だ」と言われたが事実でした。(p329)大久保http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_328_1.pdf

「河村二等兵!厠に行って参ります」。意地の悪い古参兵が「聞こえんぞー」「河村二等兵!厠にいって参ります」「声が小さいッ!どこへ行く!」「河村二等兵!……」三、四回大声で叫ぶようにすると「よーし」。(p84)河村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_082_1.pdf

私は、軍隊へ入る前、撫順の会社にいる時、軍隊経験のある一年志願の将校である先輩から、機関銃の名称や部品の名を教わったり、分解、組立てまでも教わり覚えていたし、軍隊では大きな声を出すことが大事だ、とも教わっていたので、中隊長は、私が幹部候補生になるので注目していてくれたのだろうと思う。(p229)安井

教育が始まりますと父親から聞いた軍隊の厳しさが身にしみてきました。「すべて大きな声ではっきりと」を主眼の教育でしたので、東北弁で大声で答えると間違って受け取られ、ビンタのお見舞を受ける事もしばしばでした。(p20)佐藤

何をするのも大声で「やります」「行ってきます」「帰りました」と叫ぶのである。(p87)前田

ただ私は大声で下士官室に出入りするので、下士官の間では好評だったようです。(p439)石橋

さあ翌日より「関東軍」特有の内務班教育が始まった。「起床が遅い」「声が小さい」「動作がにぶい」「飯の盛りつけ動作が悪い」「銃の手入れ不備」「整頓がなってない」などと、次から次へと気の休むひまもない。(p76)山田

点呼の際、声が低いと何回でもやり直しを受ける。(p436)熊谷

内務班の出入時は「どこに何しにゆく」と大きな声で申告、報告が実行されました。(p22)堺

第一に大声を出すこと、そして早飯と早糞だ。などなどで少しの時間的余裕もない、現地での初年兵教育でした。(p174)小川

何日いかなる時も水兵さんは「大声」で言葉を発すべしでした。(p553)久保

暗記第一
自分達も日常教練の外に、特に軍人勅諭の暗記が第一で、歩兵操典、作戦要務令ほか典範令集から日常勤務守則、例えば不寝番・各当番勤務・厳格な衛兵勤務等々の守則を全部丸暗記しました。現在の頭脳では到底出来得ないことでした。(p254)茶本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_251_1.pdf

古参兵の意地の悪いのがちょっと来い」と呼び付け「不動の姿勢の要領を言ってみよ」「ハイッ」と典範令に書いてあることを言うのですが、なかなかきちんと言えません。そこで、ああでもない、こうでもないといじめられることになります。軍隊では、実行できても典範令に書かれている通り暗唱できなければ駄目なんです。(p77)河村

 教練の後は久留米と同じく軍歌の練習で大変でした。初めて歌う軍隊歌は「露営の唄」「愛馬行進曲」「日本陸軍」「戦陣訓の唄」「麦と兵隊」他にまだありましたが、今でも哀愁のある「綏芬河小唄」は忘れられません。最初古参兵殿が歌って、直ぐ後を歌わせられ、何回も何回も繰り返して、大声で歌わんとこれまた気合を入れられ、覚えが悪いとカッポでした。(p22)堺
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_018_1.pdf

 入隊後、馬に次いでの思い出は、軍隊手帳に記されている「軍人勅諭」です。入隊すると一週間以内に暗記せよとのことでした。私は夜の消灯後、便所で軍隊手帳を持って努力したので、三日で成功し、班長さんにほめられました。(p317)川上
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_315_1.pdf

 入隊早々、週番士官が私に「軍人勅論を言うてみい」と言うので、私は入隊前に勉強していたので、直ぐにつまらずにスラスラと答えました。週番士官は喜んで班長に対して、「今度の補充兵は優秀である」と申されました。(p348)篠原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_347_1.pdf

親父から入団前に軍人勅諭を覚えるよう言われましたが、海軍は五カ条の御誓文をたまに言わせられた程度で、陸軍とは全く違いました。(p494)梶本

 覚えていて良かったことは、軍人勅論の暗唱だ。中隊長の精神訓練には「忠誠・礼儀の項、暗唱できる者あるか」と必ず質問がある。それを指名され、班名・氏名を大きな声で言って、暗唱出来れば、班長も全部いるし、以後の学科は、一応及第である。(p65・66)岡

教育の内容の第一は、覚えなくてはならないということです。「軍人に賜った勅語」「五箇条の御誓文」などで、便所でも暗記をするという状況で、頭の悪い人も良い人もいますが、絶対覚えなくてはならないということでした。(p287)安藤

軍隊へ入り先ず覚えなければならぬのは「軍人に賜りたる勅諭」である。これは必ず暗唱しなければならなかった。軍隊には教育資材がある。教範・教典などの書籍がある。(p225)青山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_225_1.pdf

 入営し、まず覚えなければならないのは上官、特に直属上官の名前であります。即ち連隊長、中隊長であり、更に大切なのが連隊長の方針であります。・・・
 連隊長の方針は、「忠―君に対し二心なきこと」「節―節制が正しく其の操を守る」「吾々軍人は名が命である」「軍人勅諭を覚えることは、軍務に精励することである」具体的には一、軍人精神ノ鍛錬二、団結の鞏固 三、必中ノ信念(砲兵は特に) 四、実戦的訓練 五、馬匹車輛ノ愛護 六、正シク強ク朗ラカニ」であったと記憶します。(p233)谷川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_231_1.pdf

 学科は軍人勅諭と戦陣訓。広島当時一年余、朝の青年学校を経験しただけなので学科で頑張らねばと、以前より勉強していたので大いに助かった。入隊間もなく「勅諭と戦陣訓言える者は手を挙げよ」と言われ、躊躇せず手を上げたが、自分一人だったので鳥肌が立った。(p61)大原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_057_1.pdf

 三カ月の検閲が終わると近衛本来の教育である。守則の教育です。大宮御所七〜八カ所、宮城に十四カ所ほど、それぞれ勤務の守則が違う。この違う守則は全部暗記し動作も修得しなければならない。どこへ立哨戒してもよいように教育を受けねばならない。・・・
 いろいろなことを想定して全部教育を受ける。どこの守則を、どこの守則は、と問われる。覚えられない人もあったが、だんだんに覚えた。(p385)小林
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_384_1.pdf

山浦瑞洲「一兵卒乃告白」大正元年11月18日発行 1912年

 次は新兵さんの学科なり。余等は是迄学校に於て多少六ヶしき学問をし、又憖なる理論を口にして偉がることも知り居れど、軍隊の学科は是亦全く別なり。差当り新兵さんの習ふ学科とは、上官の官姓名、軍隊の編成、勲章の区別、兵種の識別等の課目なれど、要するに軍隊の学科は、一々諳唱的に覚えざる可からず。突然中隊長などより「お前連隊長の官姓名を言って見」などゝ問はれたる時は「ハイ、歩兵第五十連隊長陸軍歩兵大佐長谷川達海殿」と、声張り揚げて語尾明晰に即答せざる可からず。又「経理部員の襟票は何色か」などゝ問はれたる時は、「ハイ、銀茶であります」と高声に即答せざる可からず。総て軍隊の言葉使は、出来る丈高声に、而も語尾明晰なるを要す。若し忘れたる時は「ハイ、忘れました」と高声に活発に即答すればよし、考へて愚図々々などし居れば、直に大目玉を頂戴す。・・・「お前日本の勲章の種類を言って見い」「はい、大勲位菊花賞、菊花頸飾章旭日章、瑞宝章、宝冠章、終り」と云ふが如き質問と答解とは即ち目下余等新兵の学科也。(明治41年12月5日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/15

松本香州「兵営観」1906年 ※明治39年

 勅語の暗誦
精神教育は軍隊教育の真髄にして又首脳たり故に当路者の苦慮実に茲に存す、由来我国には千古不磨の大和魂ありて正大の気、普天の下卒土の濱に充塞すといへども、砿鉄は未だ兜を断つの利刃たる能はずして、百煉精鉄して始めて蛇尾の剣たるが如く、大和魂亦大いに鍛煉せざるべからず、これがため精神教育には全心全力を濺ぎ、先づ勅語に就き暗誦を勉めしむ、故に新兵が余暇に於て軍隊手帳を繙き、恰も坊主が読経するが如き、一心千年、千百万遍、繰返し々々々精読するの結果、仮令其意義は諒解せざるにせよ、暗誦丈は一ケ月以内に成功し、昏愚の輩すら二三ケ月内には必ず記憶す、此記憶こそ新兵が最も脳裡を痛(や)むるところにして、一丁字なき輩には頗る無理の注文たる憾なき能はず而して此解釈は主に新兵掛将校の担任にして種々の例談を引証し、熊本籠城の死者谷村計介の如き、長篠陣の使者鳥居強右衛門の如き、武勇の権化として、忠義の化神として、賞揚し、彼等に膾炙せしむ、この啓発的教育手段や可也、然れども吾人門外漢をして、若し斯る暗誦を慫慂し督励する隊ありとして忌憚なき評論を下さしめなば、大いに同意する能はざるものあり。曰く学力の程度幼稚にして記名だも自由ならざる輩に強て暗記を逼るはかたきを攻むる也、其愚や宛も旅費を給せずして米国に航せしむるが如く、燃料なきに機関を運転せしむるに等し医者の匙加減は強がち医者にのみ用ゆべき語にあらず、座を見て法を説くは強ち僧侶にのみ望むべき諺にあらざるなり、よしや幸いにして記憶し得たりとするも、彼等果して会得したるや否や、恐らくは一行たりとも満足に理解する能はずして、一種の蓄音機に外ならざるべし、若しある一部分に於て会得し大部分に於て暗誦するも、これぞ克く兵を談ずる趙括に過ぎざるやの憂いなきにしもあらず、
 茲に於て予は恁る形式的教育(若しありとすれば)を全廃し、勅諭の大本に因り充分咀嚼し嚥下し徹底する如く、活用主義に出づるあらんことを
翹望して歇まざる也。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843223/23

五分前行動
 昭和十七年五月一日、入団祝もそこそこに鹿島駅にて多数の見送り人の歓呼の声に送られて、佐世保第二海兵団相の浦分団に無事入団しました。第二十四分隊第八教班に配属されましたが、知った者は一人もいません。そして志願兵ばかりですから十七、十八歳の若者揃いでした。
 私達は兵科でしたので、寝るも起きるも、すべて「総員起床五分前」のラッパの合図で釣床降ろし、釣床納め等です。数回一番後にでもなったら平手打ちを食らうのです。(p100)山上
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_099_1.pdf 

・・・昭和十四年六月海軍を志願し佐世保海兵団に入りました。
 海軍の一員となるや「早朝総員起こし五分前」に始まり起床以後、食事から休憩就寝に至るまで総て「五分前精神の涵養」でしたし(p368)櫨元
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_368_1.pdf

 いまでもフッと「ドンガメ」乗りのころを思い出すが、「急速潜航ベーント開け」「急速浮上メーンタンクブロー」、活気のある総員配置についた行動号令。人港用意、前部ハッチ開け、何事にも「五分前」精神は風化なく、今も懐かしい教訓である。(p142)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_138_1.pdf

連帯責任
 翌年一月十日に呉海兵団に入団せよと通知がきました。私は海で泳いだことがないのに、海軍とは大変なことになったと思いました。・・・陸軍との差異は海軍には軍人精神打ち込み棒というものがあり、ちょうど野球のバットを大きくしたような木製の棒で、一人の失敗は全員の責任だと言って、連帯責任を負わされることでした。そのような事故、失敗者、守務違反者が出た時は全員の尻が精神打ち込み棒の洗礼を受けました。三打罰・五打罰といって力いっぱい叩かれました。(p341・342)片桐
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_340_1.pdf

 私は、昭和十七年志願兵として、九月一日、大竹海兵団(呉海兵団は満杯のため)に入団した。・・・少しでも過失があれば、連帯責任で、樫の棒(バット)で臀を古参兵に叩かれる。従って初年兵の我々の臀にはいつも紫色の「あざ」が消えることがない。(p389)池田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_388_1.pdf

 昭和十七年六月十二日、教育召集令状が届けられ西部第五三部隊へ入隊したら、無線通信隊だった。・・・
 内務班に帰れば古兵から「お前達は昼間楽をしているから」と叩かれる。自分では納得出来ない、連帯責任だと叩かれる。しかし、可愛想に思ってくれる古兵もいて、内緒で菓子を食わせてくれた時は、本当に嬉しく今でも忘れられません。きつくされた兵隊、優しくしてくれた兵隊、ともに忘れられない。・・・他の者との連帯責任で、食事当番に間違ったら古兵ばかりでなく班長にもやられる。(p211・212)橋川

下級者が上級者の、後輩が先輩の世話
それから古年兵の銃剣の手入れ、軍靴の手入れと、これこそ初年兵の泣き場のひとときでした。特に北満の赤土は軍靴にくっついて離れず、これこそ初年兵の大きな苦労の種でした。(p21)堺

 十一月三十日、ルンガ沖海戦(夜戦)切り込み、艦砲射撃(ガ島輸送の駆逐艦八隻と敵有力部隊と交戦し、そのとき揚陸は不成功)のたたかいだったが、新兵は夜眠くても眠られぬし、うえの人の洗濯もしなければならない。(p407)渡辺http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_406_1.pdf

上級者の兵器及び被服の手入れ、洗濯などが全部完了した後で、自分の武具や被服の手入れです。(p205)小林

起床ラッパで起こされて営庭で点呼、天突き体操、厩舎へ突撃、軍馬の手入れ、寝藁の取替え等、目の回る忙しさ。総てが終わると、我々の朝食であり、この食事もだれよりも早く終わらせて、先輩の食器洗いや掃除などを済ませて演習という日課の連続でありました。(p42)小林

そして、新しい新兵が入ってくるまでの約一年間は、新兵は自分の戦友となった古兵の衣服の洗濯、軍靴の手入れ、銃剣の手入れ、食事の用意など一切の面倒をみることになるのです。ですから、古兵は本当に軍隊用語の「神様」で、新兵はただ古兵となる日を思いつつ一年間、じっと辛抱するのです。(p262)柏木

大別山作戦も終わり、昭和十八年一月十六日、本隊が帰って来たその日より毎日忙しい初年兵時代が始まりました。古兵の衣服の洗濯、食事の準備、後片付けと本来の任務以外に初年兵特有の仕事が山積し、それはそれは忙しい毎日で嫌になってしまいました。とても私には軍隊は向かないと思いました。(p28)吉田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_027_1.pdf

昭和十八年一月十六日、大別山作戦より帰隊した戦友の衣服の洗濯、食事の世話、後片付けの繰り返しであった。・・・寒い間の江北作戦も終われば、三十一日に応山本部に帰着、馬の手入れ。翌日は古参兵の被服の洗濯、その夜は衛兵。体の弱い兵は皆病院行きです。(p66)吉田 http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_065_1.pd

 初年兵教育が終わり、十月に一等兵に進級しました。こうなればしめたものです。星一つの差は天と地の差です。テレビでよく見る入牢者の差別のようなものです。食事は上げ膳、据え膳、洗濯はいつの間にか初年兵がしていてくれる。一般世間とは全く異なった世界です。今考えると、いい習慣とは思いませんがね。(p260)西畑
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_260_1.pdf

 また、つらいことといえば、内務班(指揮班)のことでした。内務班はそれぞれの中隊の中枢でした。その業務については、古参兵は一切手を出しませんので、初年兵の私たちが三人程度で、兵器、軍靴の手入れ、班内の清掃、食事の世話、水汲みなどをし、とくに水汲みは、数百メートル隔てた井戸まで醤油ダルに釣り手を付け、それを天秤棒の前後に吊して、毎日五、六回汲みました。(p52)都築

大きなスコールがくるときは手あきの全員に洗濯用意の号令があり、新兵はとくに上官の身のまわり品からさきに洗濯にかかり、その後自分の物を洗う。大変なことであった。スコールのあと、上甲板の水取り清掃は毎日であった。艦隊生活の毎日は、この世の地獄のように思われた。(p224)鶴見

二年兵の戦友を一人受け持ち先輩のすべての面倒をみた。順番のことで初年兵の役目であった。(p200)末木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_200_1.pdf

 内務班での教育も精神教育を通り越した初年兵泣かせの所でもありました。古年兵の洗濯や食事の世話なども義務付けられていました。(p199・200)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_199_1.pdf

班付下士官が班長の他に十人もいて、飯上げの時は何回も下士官室を往復せねばならず、腰を下ろしてゆっくり飯を食う暇がなく、ようやく食べられる時には残りの食事も少なくなっていて、空腹を抱えて演習整列に駆け出すことは常時でした。(p439)石橋

そして教育演習や討伐から帰隊すると、初年兵は、われ先にと班長や助手の脚絆を解き、小銃、軍靴の手入れをしてやるものです。班長や助手はまるで神様扱いで楽でよろしかったでしょうが、初年兵にとっては大変な仕事でした。そして班内に戻れば、古参兵の銃の手入れから洗濯物を、そして自分の物と、まったく手が廻らぬ超多忙でありました。その為自分の銃の手入れや点検、被服の手入れなどには落ち度が出て来ることもあります。(p210)和田

教育が済めばまた内務班の勤務が続く。先輩殿の衣服を洗濯し、干し、演習から帰り、取りに行けば洗濯物は無い。盗られたのだ。それを上官殿に訴えると「馬鹿もん、ボサッとしとるけん盗られるのだ」と反ってどなりつけられる。(p200・201)小宮

演習が済むと、古参兵の靴四・五足を磨く。それが終われば洗濯だが、手が凍傷で痛い。今でもまだその跡が残っている。(p137)有門
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_137_1.pdf

 要領を本分とすべしの連中が大勢いて、班長、古兵と演習から帰ると、巻脚絆取りから、洗濯物まで先を競ってやったが、秋葉班長だけは何故か自身でやるか、私のみにやらせた。少しは他の者にも頼めば良いのにと思ったこともあったが、教育がそろそろ終わりに近い頃、班長はポツリと言われた。「日置お前は感心だ、誠意があって良い。他の者は員数で駄目だ。濯ぎが悪くって石鹸が残っておって靴下はぬるづく、下着は臭い、衿など特に残っておるでなあ」と。(p94)日置
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_087_1.pdf

初年兵は飯上げ、兵器の手入れ、古兵の身の廻りの世話などで大変である。生水を飲み下痢が続き、皆困り、入院兵も出る始末である。私は水を飲まず、煮沸湯を飲み、何とか倒れずにすんだ。戦闘教練には毎日気合が入り、厳しさが増し、毎日のごとくビンタがとぶ。兵隊と背嚢は叩けば叩くほど良くなると言い、教育された。(p87)小林http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_086_1.pdf

 入営したとき、軍隊とは、なんといっていいか言葉に言いつくせないところだと思った。「古参兵、戦友の面倒をみるように」と言われた。一班に二十二人、真中にオンドルがある部屋だった。片側に十一人か、そのなかに、神様などという一等兵(二〜三人しかいないが)がいて、班長の言うことも聞かぬ、いわゆる万年一等兵で、進級されない、その人たちが一番恐かった。(p420)渡辺

演習から帰ると班長、助手の巻脚半を取ってやり、靴下または下着の洗濯などをしてやらねばならない。へまをすれば全員の責任とされ、たちまち回りビンタである。責任を他人になすりつけたりすると青竹でたたかれ、その丸い竹も割れるほどたたかれたものだ。軍隊生活の中で忘れられないのが、この内務班のしごきであった。今思えば人間扱いではなく動物扱いの仕ぐさであった。(p103・104)大竹

教育、演習、討伐から帰隊すると、われわれ初年兵はわれ先にと奪い合って班長、助手の小銃を貰い、帯皮を貰い、巻脚絆を解き、軍衣袴のほこりを払い、「御苦労様でした。お疲れでしょう」と言っては班内へ帰って貰います。この模様は全国一律の麗しい情景であった。
 ところが班長や助手は楽でよろしいが、初年兵はもう大変である。上級者の兵器、被服の手入、食事、洗濯と自分のことまでは手が廻らぬ超多忙を極める。そのため時として兵器、被服の手入れなどに落ち度が出てくることもある。私が一度小銃の手入れに不都合がありました。(p282)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_280_1.pdf

 初年兵教育の一端を記すと、班長吉田陸軍伍長、起床号令と共に跳ね起き、服装を整え、寒風吹き荒む丘の上の広場に我れ先にと整列、この時の順番が後日の昇進に関わる。山脈の峰がようやく白み始めるころ祖国の空に向かって遥拝、点呼が終わると同時に班内へ帰る。早速、各自分の分担にて下士官室及び班内の掃除、飯上げには炊事場より食事を運ぶ。班長古年兵の分は何事にも優先し、洗面する間は無い。飯に汁をぶっ掛けて一気に食べる。(p250)

 夕刻、兵舎に戻ればさらにてんてんこ舞い、その忙しさは体験者のみ知るところ。一日中黄塵を被り、兵器、被服はもとより、顔から口の中まで砂でジャキジャキである。兵器、被服の手入、洗濯、飯上げ、さらに班長、古年兵の分も初年兵がやらなければならぬ。身体がいくらあっても足りない。(p251)岩崎

早く食事が終わったものが班長の膳を下げに行く。私は三度に一度は下げに行った。早く班長に顔を知ってもらうためだ。
 夕方になれば軍靴の手入れだ。これも班長、古年兵分と一人で三足ぐらい磨いた
。夜間の不寝番には三日に一度は立たされた。一日中休む暇とてない。休めるのは日曜日であるが、これも班長、古年兵の下着や私のものを洗濯して盗難防止のため乾くまで番をする。しかも操典を勉強しながらである。(p266)小椋

 軍隊にはこうした替え歌が沢山ありました。新兵と言えば入隊して一年間は家の事や兄弟の事など思い出す暇もないほど忙しく、初頭に書いたように、早飯、早糞、早駈けでなければとてもついて行くことはできなかったのです。これが、当時の軍隊の本当の姿であります。いかにして要領良く一日の業務をやり遂げるか、また如何にして勉強の時間をとるか、これは、人それぞれの考え方により異なりますが、とにかく、洗濯をする暇の無いほど忙しかったのです。
 これはあくまで初年兵に限ったことであり、二年兵や三年兵には当てはまらない。二年兵はモサと言って新しく入隊してくる新兵が、今までやっていたことを全てやってくれることになり、従って二年兵はすることがなくなり、唯モサーとしている事から、このモサと言う言葉が生まれたと聞いています。所謂二年兵になると神様のようになって、ただ箸を持って飯を食べるだけになってしまうのであり、後の事は全部新兵が女房役となって、下着まで洗濯をしてくれるので、戦友となった二年兵は、こうした事から神様と呼ばれるようになったのである。
 従って、古兵になると兵器から下着に至るまで新兵がやり、そのためにやることが無くなり、ただボサーッとしているしかないのである。こうした事はあくまで兵舎内に居る時だけで、演習や戦闘に出た場合は二年兵も三年兵もなく、あくまでも指揮官の指示に従って行動をしなくてはならない。かと言って軍隊は運隊とよく聞くが、そんなに旨い訳には行かない。忙しい中からもやはり暇を見て勉強をしなければ進級は難しいのであり、また上司からも認めて貰えない。(p571・572)堂前

 軍隊というところは、一日の生活合図がラッパである。起床ラッパから一日が始まり、食事、訓練、また演習、内務班に帰れば古参兵の世話、洗濯、靴磨き、銃の手入れ、食事の用意、食後の後片付け等、休む暇もなく立ち働かなげればならない。(p271)越智

各自毎日実施する事項
一 個人に貸与されている兵器の手入れ
二 襟、靴下の取り替え洗濯、編上靴及び営内靴の手入れ
以上の事は下士官の物も皆で手分けして行い、決して下士官に行わせてはならない(p246)阿部

尾上新兵衛, 鵜崎一畝「陸海軍人生活」1897年

 いでさらばこれから、新兵の起居の大略を順序的に書て見やう。
 まづ午前の一時二時三時四時、此等は寝台の上に送る時間で、故郷の楽しさを夢に繰り返しつヽある。云はヾ懐かしい時間である。さて四時が打って、烏が一声二声鳴やうになると、廊下にゴソゴソゴソゴソといふ音、それにまじってアーといふ欠伸の声が聞える。これは新兵共が、寒風吹き通しの廊下の片隅に、水鼻を啜り啜り、上等兵や故兵の靴を、一生懸命に磨いて居るので、自分も此の靴磨には、余程勉強したものだが、野外演習の翌日や、雨降の翌朝などに、泥だらけの奴を五六足引受けると、実に泣き度くなる。いくら力を入れて摩っても摩っても、なかなかに光沢は出ず、其中に腕がぬけさうになるから、此位でよからうと、其まヽ列べて置くと、やがて上等兵の起きて来て、
「尾上、貴様は鼻の先にばかり白粉をつけておけば、顔へはぬらでもよいと思ふか。
何をいふのかと思って、気を付けェの姿勢を取て、ビクビクもので立て居ると、
「何もそんなに固くならんでもよいが、此の靴を見い!爪先許り光って居ても、踵は泥だらけぢゃないか。
と、又磨き直させる、骨折損の草臥もふけとは、真に此事だ。
 やっとの事で靴も磨き、ボタンも磨き、ホット一息つくと五時がなる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/34

・・又午後の練兵が始まり、それが三時半に済んで、まづ一日の実科は終となる。
 が、此後の時間が、又、新兵に取っては頗る骨だ、故兵の為に、銃の掃除、靴磨、洗濯、小使と遠慮なく使ひまはされて、揚句の果に、褒められでもするとか、ヤレ鈍馬だの、ヤレぼんやりだのと、云ひたい事を云はれて居る。それも黙って聞いて居ればよいが、出様によっては直ぐに、「生意気だぶん擲れ」を喰って、酷い目にあはされるか、左もなければ、官物棚の下に立たされる。官物棚といふのは、高さ胸にも充たない位な棚であるのに、大男が、其下に首を縮めて立て居る苦しさ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/35

橋亭主人「兵営夢物語」1899年

其内の一人赤羽義三という兵卒は東京の某学校に通学し、教育を受けた男であるから、物の理屈も能く解り、字も能く書ける、先づ兵隊中では学者として大に名声を博する方であった、君も御存知の通り、兵隊といふものは大概は百姓や町人さもなくば漁師や職人で、読書にかけては余り縁の近い方でないから、少しでも書生の生涯を経たものは「何に下等社会奴が、無教育の奴等が」といふ気が出で、「此んなものらと一所に居らねばならぬとは実に残念だ、此んなやつらと同等に言葉を使はねばならぬとは実に忍びないことだ」と、思うものなれども、能く考えて見ると自分が生意気なのだ、赤羽も始終其気があって、設へ何時でも外へ現はして居るといふのではないが、言へば己れの才気や学問を負うて、「何に上等兵が何を言ふが何にも知らない癖に乃公(おれ)に命令しやアがる、乃公は相当の教育を受けて居る、ソンナ下らぬ理屈や講釈は皆んな知てる、勅諭の理解や読法の講義なんぞを耳新らしく言はんでも、千も百も承知だ、然るに他の無学文盲の奴等と同一視しやがる失敬の奴だ、食事番や、庭掃や、板間の掃除などは下等社会のやる事だ、靴を磨いたり茶碗を洗ったり夫れも自分のなら兎に角、生れ処も知れない上等兵とか古兵とかいふ連中の靴を磨くなんて、人を以て穢多視するも甚しい、我輩だって天下の学生であったのだ、失敬ながら英語も読む、文章も書く其素養に至ては中尉や少尉に劣らない積りだ」。

青木竜陵「兵営生活」1903年

一四、新古兵の関係
 古兵は新兵に命じて、己の床をとらせる、銃掃除をさせる、靴を磨かせる、自ら腰をかけて居って、その被服の取り出し、整頓までさせる、酒保に使にやる、何もせずに新兵を小使同様につかふ、そして新兵の仕様が、少しでも悪い事があると、直ちに「油を取る」・・・

覆面の記者「兵営の告白」1908年 ※明治41年

 朝は未明に起きて喇叭の鳴らぬ前に、チャンと自分の武器被服は勿論、上等兵や古兵の分迄手入をせねばならぬ、是れが一日や二日なれば兎も角、半歳の長き間だから堪らない、折には寝遅れて喇叭と共に起ることもある、其の時の極の悪さ、急ぎ跳起きて先づ洗面にと飛行かむとすれば、

 一般に軍隊は兵営内では厳しく、古参兵はいばって、新兵は何でもやらなければいけないが、作戦中は古兵も新兵も全員協力して戦闘すると思っていたのです。ところが、兵営内と変わらないので、新兵が何から何まで全部やらなければならない
 宿営の時は炉を作り、その周りに藁を敷く、夕食を作る(民家の釜を利用して)。副食を探して調理する。食事の後片付けをし、全員の水筒に湯をつめる。古兵の多くは上げ膳、据え膳で手伝ってくれない。・・・
 昼は行軍、戦闘、夜は平均二〜三時間しか眠れない。靴下へ詰めた米は古兵のから使用するから新兵の装具はいつまでも軽くならない。(p239)小林

 翌朝営庭で、各連隊(第六、七、一〇)に配属された。・・・我々は豆タン(タンクー戦車)と呼ばれながら可愛がってもらった。関東軍は優秀だと聞いていたが、初年兵は使役や衛兵要員、二年兵は内務班で酒と花札。どうなっているのかと思った。

 私は昭和十七年の徴兵で、大竹海浜団に入団、きびしい新兵教育を受け、同十七年のくれ、新兵教育を終了した。みな各艦船に配属になり、私は巡洋艦「阿賀野」だった。・・・
 毎日毎日のくりかえしであるが時々スコールがくる。大きなスコールがくるときは手あきの全員に洗濯用意の号令があり、新兵はとくに上官の身のまわり品からさきに洗濯にかかり、その後自分の物を洗う。大変なことであった。スコールのあと、上甲板の水取り清掃は毎日であった。艦隊生活の毎日は、この世の地獄のように思われた。(p224)鶴見

早飯、早糞、早走り
 三歩以上は「駆け足」、上級者(どっち向いても皆上級者)には敬礼しなければなりません。初年兵はどこを向いても上級者ばかりですから敬礼の手が上りっぱなしです。(p415)上原

 従軍中の思い出は、まず、内地のことです。善通寺の輜重兵連隊では馬がいます。朝起床すると、食事の前に厩舎へ行き、両手いっぱいに藁を抱えて舎外へ出して天日に干して乾燥します。藁には昨日の馬糞の新しいのや、牝馬の出した血の交じった月のものの出しものやら、小便類と排泄物一切があります。手も服も汚れてきます。馬体の手入れもします。上等兵が「何をトロトロしているか! 早く飯を食って演習の支度をせんか!」と怒鳴ります。
 急いで水で手を洗い、服を掃除します。ところが時として水道が故障で水が出ないことがあります。哀れなこと、馬糞や汚物のついたままの汚れた手で、とにかく飯を食います。普通の食事ではなくて、ただもうがむしゃらに口の中へ押し込んでは飲み込む、一秒でも早く。口いっぱいに飯をホウ張って足には巻脚絆を巻き、軍装をしてできるだけ早く整列する。すべて三歩以上駆け足だ
 新兵はとにかく用事が多く忙しく競争である。整列も後尾の方になるとまた別の制裁がある。以上のような日常生活に男の魂が負けて脱走兵が出る。新兵を除く全連隊の人員総動員で探す。他の中隊の者に見付け出されない内に、脱走兵の出た中隊で発見しようと懸命である。捕らえるともう、まともに見ていられないくらいの制裁で、その上、営倉入り。この悲しい経歴は一生涯ついて回る。(p372)野田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_371_1.pdf

 我々の任務は負傷者の収容、治療。・・・その間食事はおろか、煙草一本も吸えない。歩いていてはもどかしい、三歩以上は駆け足、止血している間に死亡する者もいる。(p356)森田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_354_1.pdf

訓練は熾烈を極めた。然も凛冽の酷寒である。そして食缶洗いや洗濯の水の苦労は大変なものである。煙草一本吸う時間さえない、二個以上は整頓、三歩以上は駈足だ。(p46)須藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_045_1.pdf

早食い・早糞・早走り」は初年兵の必須条件だ。演習中の食事ときたら、有りっ丈のものを飯盒にぶち込んで、フォークでガァーッと口中へ押し込む。噛んでいたら暇がかかるし、早く腹がへる。これも戦闘間における給食の訓練である。初年兵は忙しい。たまに書く葉書一枚も消灯後便所へ行くふりをして、暗い電灯のなるべく近くを選んで、立ったままの走り書きである。(p243)畠嶋

翌十日朝、西部第八十四部隊の営庭は新入隊者の群で埋っていた。・・・ 第六中隊第五内務班は、歩兵・衛生兵の初年兵が約二十人、古兵は兵長殿はじめ二十五人位、合計四十五人程であった。朝礼、点呼、銃剣術、朝食、食缶返納、掃除、銃剣手入れ、通修整列、つまり、早飯、早糞、早走り、他の者より一秒でも早い者が勝ちである。朝食当番が飯・汁をつぎ終わり、週番上等兵殿が「よし」と合図がなければ食器に手をふれられないし、盛付けの多いのを注目している。 そのすきに、雑巾七枚のうち一枚を素早く軍衣の下にかくしおき、合図と同時に飯に汁をかけ一気に呑み込んだ。直ちに廊下を駈け足で雑巾がけ、折り返している時、二番手が五班を出発している。私は、五班到着と同時に「よーし、中島交替せよ」の掛け声で、ドロドロの雑巾を次の戦友に渡す。ホウキかバケツ、塵取り、何でも握っている者はよいが、手ぶらな者は古兵殿よりビンタが飛ぶ。 銃剣術の間、稽古も、木銃は充分あるが防具が七組だけで、防具取りの争奪戦はすさまじい。半分防具を付けていると、古兵より直突き一本でひっくり返され、起き上がれない程痛い目に会う。 ちょっとでよいから足りない防具を貸してもらい、型の訓練をしなければならない。ゆっくり着ていると、一人も居なくなり整列点呼が始まっている。このような行動により、機敏で、困苦に耐える兵隊が仕上がっていく。軍隊へ入った殆どの者が体験するのである。(p564・565)(p567)中島 http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_559_1.pdf

 隊内生活では、騎兵隊は起床、消灯時刻とも他の兵科より三十分ほど早くて遅い。馬を連れているからである。朝夕の点呼が終わると直ぐ厩へ走る。世話する馬も自分独りの馬だけでない。古兵、上等兵、班長、教官、隊長の馬と一人で数匹の馬をもつ。忙しいことこの上ない。三歩以上は常に駆け足である。朝一番に水をやる。次に餌、寝藁出し、馬体の手入れ、馬糧の受け取り等々。いつも駆け足だ。(p244)金子
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_243_1.pdf

居住区(兵舎)内でも三歩以上あるく時は駆足で行かねば何が飛んで来るかわからない。とにかく厳格です。これに耐えきらずに脱走した者も何人かいた。
 上等兵以上は雨具をもって整列の号令が出ると、また逃亡かと不思議におもった。(p408)中江
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_406_1.pdf

昭和十九年六月二日、私は高知市朝の西部第三十四部隊第二中隊第三班へ入隊を余儀なくされ、以来終戦、復員まで私は軍隊の消耗品となった。・・・ 入隊翌日から、六時起床に始まり、班内掃除、点呼、飯上げ等で、我々初年兵は「早駆け」で少しでもモタモタすると二・三年の古兵殿より過分なる手厚いおもてなしをたくさん頂いた。私は当時二十一・二歳だったので幾分は良いものの、三十余歳の戦友は大変な苦労だった。(p65・66)大西 http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_065_1.pdf

 私は昭和十六年徴集の現役兵として、昭和十七年二月一日篠山連隊へ集合して十日後に出発しました。その時、第六十八師団第五十七旅団第六十一大隊第三中隊より初年兵受領として軍曹が来てました。・・・初日一日だけお前ら内地から来たのだとお客様扱いされ、やれやれと思って寝た。翌日の起床のラッパで途端に大雷です。初年兵モタモタするな、支那風の厳しさを教えたると。何をするのも早駆けでやれと点呼の時からバンバンとビンタが飛んでくる有様です。整列が遅いと早駆け営庭五周と朝の一瞬にして全員度肝を抜かれました。(p187・189)嵯峨http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_187_1.pdf

数日後、役所から通知があり、「昭和十六年一月十日、近衛歩兵第一連隊に入隊すべし」でした。・・・

内務班・初年兵教育・第五カ条
第一 早めし・早がけ・早ぐそ
第二 軍隊は「メンコの数」食事の事で、長年勤務した者が一番偉い
第三 要領を旨とすべし、員数の確保
第四 地方弁不使用。大声の軍隊語で話する
第五 兵器、衣服は陛下からの預かり物だ。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だと心得よ
 右の五ヶ条は、初年兵の最大厳守事項でした。(p506・507)吉田

第一に大声を出すこと、そして早飯と早糞だ。などなどで少しの時間的余裕もない、現地での初年兵教育でした。(p174)小川

盗みの横行、盗られたら盗り返せ
教育が済めばまた内務班の勤務が続く。先輩殿の衣服を洗濯し、干し、演習から帰り、取りに行けば洗濯物は無い。盗られたのだ。それを上官殿に訴えると「馬鹿もん、ボサッとしとるけん盗られるのだ」と反ってどなりつけられる。娑婆では人の物を盗った者が悪いのに、ここでは盗られた者がどなられる、困ったところだ。員数をつけるため自分も盗って来なければならない。員数員数の厳しきところである。(p200・201)小宮

 鏡第十三師団山砲兵第十九連隊の初年兵現地教育が始まった。アンペラの壁で土間の板の上で勉強し、カンテラの明かりで、朝鮮兵と共に、月月火水木金金の叩き込みの連日である。支給品は員数と言って、無くすれば戦友のものを盗んでも合わせなくてはならない。無二の親友でもあり泥棒同志でもあった。(p93)佐藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_092_1.pdf

 馬一頭に四人で、前足後足と責任を持って爪を切り、足合わせの金鉄を焼いて叩いて加工し、出来上がったら班長の検査を受けなければ部屋には戻れないし、食事も喰えず、次の馬を曳いて来てまた仕事にかからねばならない。釘は金靴の内側に二本、外側に三本、計五本で取り付けねばならない。中には釘を打って取り付けているうち右に左にと曲がり使用不能になると隣の相手の釘を盗んで来なければ自分の任務が果たせない。まるで泥棒の集まりのような職場でした
 軍隊と言うところは、支給された物品の員数観念が徹底していて、常に数だけは整えて置かなければならないと教育をされた。だから数が足りなくなったら、よその隊に行って盗んで来ても数を揃えると言うのである。
でも班長の身の廻りのことは誰もやらず、ひたすら自分の事で精いっぱいでした。
 釘が足りなくなるとやはり班長殿(浅見軍曹)にお願いすると「もし敵が目の前に来たら見て見ぬ振りをしてしまうのか」と、罰として真っ赤に焼けた蹄鉄を火箸で挾み、装蹄場を三回、熱をさまさず廻って来いとの事。夏の熱い時に上半身丸裸なので汗が流れ、そこに火花が飛んで軽い火傷、風呂に入っても体をこすることができない。(p233・234)小笠原

早く食事が終わったものが班長の膳を下げに行く。私は三度に一度は下げに行った。早く班長に顔を知ってもらうためだ。
 夕方になれば軍靴の手入れだ。これも班長、古年兵分と一人で三足ぐらい磨いた。夜間の不寝番には三日に一度は立たされた。一日中休む暇とてない。休めるのは日曜日であるが、これも班長、古年兵の下着や私のものを洗濯して盗難防止のため乾くまで番をする。しかも操典を勉強しながらである。(p266)小椋

 洗濯はたいたい夜の十時ごろからで、室内へ干しておくとよくぬすまれます。上級者のものをぬすまれるとまた(制裁を)やられる。
洗濯物をよくぬすまれたり、ぎゃくにぬすみかえしたりしましたが、海軍ではぬすんだ者をドロボーといい、ぬすまれた方をベラボーといったりしました。(p404・405)大山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_402_1.pdf

前述の衣類のほか、丸首で後にボタン一つの下シャツと袴下、靴下などが支給され、これら身に付ける支給品には、すべて分隊名、兵籍番号、氏名などを墨字で書き入れておく。でも洗濯後、なぜかよく支給品が紛失するから不思議で、我々は員数確保が大変である。(p557)榊原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_554_1.pdf

入隊前日の夕刻、二年先輩の吉田さんと私のために、松永坑長をはじめ六十人余の人々が、仕事の疲れも見せず、出征祝賀の酒宴を盛大に催して下さいました。
この席での話題は主として新兵時代の心得の指導でした。
一 軍人は要領を本分とすべし
二 発声は大きな声で
三 支給品は盗まれたら盗み返せ
と軍隊のOBは経験談を話してくれました。(p483)竹下

その外に洗濯物を盗まれるという苦労もありました。自分の物以外に古兵の物、班長の物いろいろです。靴下一枚無くなっても大変。周知のことながら、員数合わせは恐ろしいこと。
 盗まれたら盗み返せとは言いますが、皆盗まれぬよう警戒しているし、もし見つかればただでは済みません。あれやこれやの難関を乗り越え、悪条件を克服して行かねば。とにかく洗濯物では毎日必死の綱渡りの気分です。(p353・354)清水

営内生活で一番苦労したのは支給品の員数合わせである。軍靴がいつの間にか紛失していたのには本当に参った。これもビンタをもらって班長指導で解決。(p76)

 私は銃の手入れ器具の一つを手入れ終了後紛失したことがある。誰かが一緒に自分の袋の中に入れていると思ったけれど、その事の詮議はなく紛失したことを間抜けだと厳しく叱るのである。一度支給した物は二度とは支給しない、自分で工面して来いという。盗んで来いと言わんばかりである。・・・ある日入浴場で略帽を盗まれてしまった。上等兵の叱言を思い出し、早速工面して帰って来た。悪い事をしたと思いながら。兵器の手入れ器具は、後で班内の一人が二つ持っているからと言って渡してくれた。(p141)上津原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_137_1.pdf

そのような厳しい十三日間の班内生活の中で頭に残っているのは掻っ払いが多いことです。夕刻に入浴に行くのですが、私の隣に寝ていた人も、二日目の晩に編上靴を盗まれてしまった。代わりがないかというと、自分の足に合わない靴が残っている。それを上官に話しますと、次の日にどこからか貰ってきてくれたと、こういう泥棒のやり取りです。こういう生活が甲府に入隊した十三日間でした。(p286)安藤

山田北洲「新兵の生涯」1908年※明治41年

貴重品の監視
 如何に帝国の軍隊と雖も、之を組織して居る軍人は全国各種の方面より徴募したる者の集合で、中には不心得の白徒も混って居る、従って軍隊には是等の物品には一定の目標が付着して居らぬゆゑ、被害者は之を証明するに難く、窃取者は之を使用するに手易いからである、他人の物品を窃取する如きは素より言語道断の所為で、、明に刑法の罪人である、斯る罪人は素より論外として、自己の物品を盗まるヽが如きは、実に不注意の甚しきもので、畢竟斯る呆然(ぼんやり)の兵が軍隊に居るため犯罪も其間に起るので、従って軍隊では却て是等懈怠者を処罰する場合もある、物を盗みて罪あるは素より当然のことであるが、盗まれて罪ありと云ふは甚麼(いか)にも奇怪千万に感ずるであらうが、軍隊で之を罰する所以のものは只之を盗まれたと云ふ簡単なる事実を罪とするのでなく、寧ろ其精神即ち自己の物品を盗まるヽまで心付かざりし其不注意を罰するのである、蓋し戦時に於ては僅一人の不注意が延いて全軍の勝敗に関することがある、故に平素斯る頓馬の呆然漢(ぼんやりや)に注意を喚起せしめ置くには、相当の制裁を加ふること寧ろ至当と信ずるのである、
 次に物品は如何なる場所で多く紛失するかと云ふに、大抵浴室や私物箱に置き忘れたり、或は衣の隠(判読困難。振り仮名「ポッケット」)に入れた儘就眠したる場合等である、故に貴重品は成るべく身辺を離さヾる様に注意せざるべからず、若し入浴に出掛けるならば之を戦友に預けて行け、夜分は必ず寝具の下に敷いて就眠せよ、物を置き忘れするが如きは、不注意も亦甚しき次第なれば、最も気を引き緊めて置かねばならぬ、何れにしても貴重品は必ず肌身を離さヾる様注意すれば、決して盗難に罹る虞はない、若し多額の金銭を所持し居らば必ず中隊に預け、入用の度毎に請求せよ、然らば第一盗難の虞なきのみならず、無利子の銀行に預けたと同じく至極便利である、余は此点に殊に注意を与へて置く、盗まれて後泣かむより、盗まれぬ前に防御工事を施さば、如何に敵の奇襲に際しても能く之を掩護し、且利を将来に占むることが出来るであらう、俚諺に云はずや転ばぬ先の杖と、

死の間際に天皇陛下万歳
(実際には天皇陛下万歳と言った者はいない、という主張が歴史修正主義者から出ているようなので、ここではあえてその事例だけ挙げる)
・・・三、四機のグラマンが飛び交い赤い曳光弾を発射し、盛んにこの器材小屋を目標に打ち込む搭乗者の顔がはっきり見えました。
 柄の無いスコップの取り合いをして自分の身辺に置く、頭や背中を負傷する者が増えて「天皇陛下万歳」の最後の声も聞こえます。「この攻撃がいつ終わるかと時間がとても長く感じられました。(p391・392)堀池・ミンダナオ

と私の腹の下からしぼり出すような声で「天皇陛下万歳」といっているようです。ハッとして下を見たか見ないかさだかではありませんが、一瞬のこと小塚上等兵の臀部は砲弾のため左半分ズボンごともぎ取られておりました。それでもうめき声で「天皇陛下万歳」を唱えています。「お母ちゃんとかおやじ…」とかの言葉はないのでしょうか、その当時としては当然の言葉かも知れません。私もこのような時期がきた時、いわなければと心の隅でチラッと思ったものです。が今体験文を書きながらあふれる涙をどうすることもできません。(p191)渡辺
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_185_1.pdf

その時、前方で「天皇陛下万歳」の声がした。しかし、その姿を確認することができなかったのです。私達の応射と手榴弾戦の中にあったからでした。・・・
 応援に来てくれた隊が、突撃をして敵を撃退してくれたのです。四囲には敵の死体や、不発手榴弾や、兵器なども散乱していました。私はすぐ前の陣地に走りました。そこに新村分隊長が倒れていたので「新村班長」と言って抱き起こしたけれど、既に名誉の戦死をとげておりました。先程のとげておりました。先程の最後の声だったわけです。
※よく「天皇陛下万歳」と唱えた人はいない「お母さん」だった。というけれども、新村班長をはじめ、何人かの人の「万歳」は現実に聞いていたし、実際に唱えた人が九死に一生を得て生還した実例は、我が部隊ではありました。(p380・381)大島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_378_1.pdf

分隊長は私しの身体に覆い重なってきましたので分隊長と呼んだが返事がありません。やられたなと感じた瞬間、突然、上半身を起し両手を挙げて「天皇陛下万歳」と二回叫んで再び私の上に倒れてきました。私は悔しくて涙が流れ声も出ません。
 こうして何時間ぐらい経ったのか、私もぼんやり意識が戻り、途切れ途切れに思い出せるようになって周りも薄暗く、人影も分からなくなりました。そして何だか身体の上が重いのでよく見ると。分隊長が私の上で息途絶えていました。(p377)高橋・マレー半島

その戦闘で初めて「天皇陛下万歳」を三回唱えて、庄内の難波上等兵が戦死した。この耳ではっきり聞いた。(p277)小山田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_275_1.pdf

まちまち生死をさまよう兵士、マラリアの熱病、水、水をくれの連呼、あの声、いまだに忘れ得ぬ。力尽き、「お母さん、お母さん!」、最期の声は「天皇陛下万歳!」と、かすり、やむ。嗚呼、軍人の哀れさよ、まぶたが涙で浸みる、死して護国の楯となる。(p356)福島・中国

中隊に二人しかいない衛生兵も走ってきて応急の手当てをしたが、その甲斐もなく、「お母さん、お母さん」と幾度か叫び、最後に苦しい息の下から「天皇陛下万歳」と叫んで壮烈な戦死を遂げたと、後になって聞いた。(p173)安達・バターン

私は星上等兵を抱きかかえ、「星しっかりしろ、頑張れよ」と勇気付ける以外はなかったのです。星は私に抱かれ悲痛な力のない声で「天皇陛下万歳!」としっかりした口唱〔ママ〕で二回絶叫し、三回目の「天皇陛下万歳!」はかすかな声と共に壮烈な戦死を遂げられたのでした。(p56)加藤・中国

指揮班の松尾上等兵が胸部貫通銃創。中隊長に抱かれて「やられてすみません……だんだん見えなくなりました……もう何も見えません」と虫の息。最後に声をふりしぼって「天皇陛下万歳!」と唱えて息絶えた。感激されてか中隊長は「よし、金鶏勲章だ」と大声で叫ばれた。(p308)川島・中国

このようにして私は無事帰ることができたのですが、上海から乗船した人が、帰る途中、船の上で「天皇陛下万歳」と叫んで海に飛び込んだ人がいました。軍人

薬莢など紛失厳禁
私は特に真面目にやっていたので認められていたようであったが、一期の検閲の時、薬莢を演習場に落としてしまった。その時、中隊長も一緒になって捜してくれた。本来なら、相当強く制裁されるのだが・・・(p137)和田

五月十日に久留米第一陸軍予備士官学校へ入学しました・・・演習で薬莢一つ亡失しても、広い演習場を這いずり廻されました。(p371)河村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_370_1.pdf

いく日かたったある日、忘れもしない事故が発生した。二月中旬のころだったと思う。同僚の者が訓練中に三八式歩兵銃の一発の薬きょうを紛失したのだ。これを探すため一列横隊に並んで、薬きょうを雪の中へ足で踏んだものと判断して、雪を掻き分けながら探し続けたが見つけられなかった。時はもう夕方に入っており、手指は冷え切って真赤になり感覚はなくなりそうな状態だった。私は初めての苦い経験であり、なんと軍隊とはあんな小さな消耗品一つでも大事にしなければならないということをつくずく思いしらされた。(p57・58)平野

空砲の小銃弾十五発ずつを支給され、「これから夜間演習をする。終了後、空の薬やっ莢きようは必ず返納するため紛失しないように」と言われ、近くの演習場まで月明かりの雪原を行軍する。ゾクゾクして寒さで体が震え伏せたり、走ったり、匍ほ匐ふくしたり、その間に空砲を撃つ。東の空が白みがかったころ演習は終わり帰隊する。寒さと教練にくたくたに疲れた。空薬莢を返納したが、初年兵の一人が「十四発分返納が一発足りない」と、班長が怒り、古参兵はうんざりした顔をする。どうなるかと思った。他の班は解散となり、第二班はそのまま演習場に引返しました。朝食抜きです。一列横隊に並んで演習場の雪を両手でかき分けながら午前中探しましたが出てきません。寒さと睡眠不足と空腹、それに疲れが重なりフラフラになって隊に戻りました。やっと昼飯にありつけると思っていましたら、「班長以下全員食事なし」さすが午後の教練はなかったが、初年兵の自分たちは班の仕事や使役に駆り出されて、休むことができなかった。たった一発の空薬莢のためとはいえ、軍律は厳しかった。(p76・77)河村

擲弾筒で思い出すのは部品のリング(転輪)を落して、夕暮まで全員で捜すことを命ぜられたことであった。広い練兵場の中で、夕暮まで捜したが見付けることはできなかった。私はこれに懲りて面会にまた父に頼んでリングを作ってもらい、それからは常に予備を持つとともに、リングを二つずつ全部の擲弾筒についたことを思い出す。(p397)田上

軽機関銃の部品が紛失して、演習場を一列になって這って探させられた経験がありました。これも教育の一つの方法だったのです。(p241)手塚
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_239_1.pdf

新兵は古兵のお古
 入営した姫路の部隊は、第十師団歩兵第三十九連隊の留守部隊で、本隊は既に満州へ進駐していました。(p307)
 季節は二月。厳寒です。入営する時に着ていた私物の被服一式を脱いで、小包便で留守宅へ送り返す。新しい越中褌一つとなり、その上へ官物のジバン、コシタ、靴下を着用し、さらに軍衣(うわぎ)、軍袴(ズボン)を着る。すべて官給品であるが、新兵に与えられるものは古兵の着古した程度の悪いもの。乞食に近いもので、これでキッパリと娑婆と縁を切り、軍隊という別世界の人となった覚悟を否応無く自覚させられました。(p308)松本

 内地で受領した新品の被服は全部脱がされ、古いよれよれの物と取り替えられ、編上靴もピカピカの新品は取り上げられ、代わりに支給されたのは皮のザラザラの靴の中に釘が出ている古い靴でした。そこで毎日釘を叩いて、ひっこめて演習に参加していましたが、二週間位たつと左足の平と腿が腫れて痛くなり、大隊本部の医務室へ二週間の入室となって、漸く痛みもとれ退室して中隊へ帰りました。
 早速、班長から「気合が抜けている」とビンタの嵐でした。(p234)菅野

 衣服は下着まで全部お古。何人もの先輩が着たもので、袖の長いのもあれば、ズボンの短いのもあり、靴も大きさがピッタリなんていうことはあり得ない。自分の体に衣類を合わせて着るのではなく、衣類に自分の体を合わせるという。(p464)森

 福岡連隊での十日間ほどは、朝晩の点呼以外大した訓練もなかったが、私に困ったことが起きた。入隊のとき古い軍服と革の軍靴を支給されたが、兵営内の履は縄緒の下駄であった。(p138)上津原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_137_1.pdf

私達、初年兵は、正月、部隊が帰って来た一月五日に正式に入隊しました。
 本隊が帰って来た時、その服装はボロボロでした。我々初年兵は支給されていた服を脱いで、ボロボロ服と交代、服も長靴も返納させられました。今度支給されたのは古い服で、修理したのや、血痕のあるものもありました。(p354)福島

 その日のうちに着ていた私物は全部脱ぎ、支給品と着替えて兵隊らしくなった。しかし、支給された軍服はよくもこれまで耐えられたと思われる明治時代の製品であった。この詰襟の服は毎日の演習による破れがひどく、夜になると針と糸を出しては慣れぬ手つきで繕わなくてはならなかった。そのうえ驚いたのは、初年兵には営内靴がなく、便所に行くのも裸足であった。便所から戻ると入口の水を入れた箱の中で足を洗い、横にある筵で足を拭くとそのまま毛布の中に入って寝ていた。(p396)田上


小銃(の菊の紋章)は命より大事
(関連 皇軍実態集 兵は消耗品、武器や馬の方が大事
 昭和二十年六月八日、陸軍部隊五百人ぐらいを乗船させて移動中、バンガ海で島陰に隠れていたイギリスの潜水艦が発射した魚雷が、右舷脇に四発命中し、船が横揺れしたと思った瞬間、火薬庫が爆発し、見る見る中に沈み始めました。さあ大変「救命具を海に投げ込め」「海へ飛び込め」の大騒ぎとなりました。
 ざぶんざぶんと海に飛び込む者、「退艦!退艦!」と呼ぶ者、その退艦の声に陸軍の兵隊達も銃を持ったまま海へ飛び込む。海軍の水兵達も次々と飛び込む。先に海に投げ込んだ救命具や救命筒に捕まり泳ぐ。・・・
 陸軍の兵隊たちは銃を握り、片手で器具に掴まり泳いでいるので、目に付いた兵隊には「銃を捨てなさい!自分が死ぬぞ!」と叫び、銃を捨てさせました。菊の紋章が付いている歩兵銃をしっかり持っている兵隊さんに頭が下がりました。(p423・424)佐藤

 早速、各連隊から敵潜水艦から発射される魚雷監視の見張りが交替でつくことになりました。我が中隊からは古年兵が指名され、初年兵は退避訓練が始まりました。驚いたことには、完全軍装で船底から縄梯子で船上に出ることでした。銃の扱いになれていない初年兵には重く、その上、安定もしない梯子を登るのだから大変でした。銃は菊のご紋章がついている兵器ですから、我々人間の命より大切な悲しい時代でした。毎日島影一つ見えない洋上を走行する船の中で厳しい訓練は続けられました。(p485)竹下

完全武装のまま飛び込む。何時間経ったのか、東の空も白々として来た。二十数人沈黙のままだ。海にただ浮いているだけ、助かるか死か、頭の中は何も浮かばない。夏とはいえ海の中では身体中が冷え切って感触もなくなる。ちょうど太陽が赤々と輝きを見せた頃、戦友の一人が船がこちらへ向かって来ると知らせた。もうこうなれば敵も味方も無い、ただ助かりたいという気持ちが先で、銃身に日の丸の旗をくくり必死に振った。幸い海軍の掃海艇であった。「ありがとう、ありがとう」と言うのだが声にならない。(p127・128)米重

 今回の撤収は軍人軍属だけ、兵器その他一切の持ち込みは禁止されていたので、陸軍の兵隊は本艦に乗り移る直前、持っていた三八式歩兵銃を両手で捧げ、拝むようにして海中に投棄する
 この光景を艦橋で見ていた艦長から、三八式歩兵銃だけは持ち込みを許すと命令が出た。この時は陸軍の兵隊とともに、目頭に涙を浮かべたものであった。(p428・429)掛下

昭和二十年九月中旬、米軍特使による停戦の通達があり「ホッと一息付きました」とこれが偽らざる心境でした。正式の終戦命令が発令され陣地を後に下山しました。米兵がニコニコと笑顔で迎えてくれるのが不思議なようでした。ただ命より大切に扱った「天皇陛下」から与えられし銃火器は米軍に子供の玩具のごとく取り扱われ足蹴りにされた時は、腹が立ち顔色が変わったと思いました。(p518・519)村田

 本隊追及の行動は依然として続く、八月二十日武昌付近で武装解除された。丸腰、無防備の状況で敵中の生活が始まった。各自所有の三八式又は九九式歩兵銃は、金物や銃剣などで完全に菊の御紋章を削り取らねばならぬ。妻や子供を銃後に残してきて、大陸の赤土に埋もれた戦友、兵器として命より大切な菊を削った。徴収した民家に住むとすぐに「宮城」の貼紙をして、目覚めには礼拝して毎日を励んできたのだ。(p96)佐藤http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_092_1.pdf

  二、価値観の倒錯
 中支藤部隊の当陽における師団通信隊の候補生教育は熾烈さの重なりであったが、いつしか一応の前線指揮者の卵として態様もやや整いつつあった。野外演習のある日、先任として豊川教官に命令受領のため「○○候補生、命令受領にまいりました」と直立不動で待機の瞬間、馬上の教官が手綱の操作を誤り、突如として馬がいななきと共に馬蹄を宙に上げて蹴りかかって来た。そのままの姿勢で居続けていたとしたら肋骨か顎の骨を粉砕して重傷はまぬがれぬところ。本能的にとっさの気転で手に持った銃で、ハッシと蹴りかかって来る馬蹄を、受け止めて難をのがれることをえたのだ。血の色を失った教官は、やおら馬から降り立つと「おそれ多くも、陛下から賜った銃を盾にして身を防いだ、その不届きは万死に値する」と豪語して抜刀の上白刀をかざして切り降ろさんとした
 部隊全員が息を飲み注視する中で、鉄誅を加えるというのだ。一瞬の後、教官の手が思い止まったので事なくしてすんだものだが、このことだけは戦時の真っ只中とはいえ、命に対する条理の倒錯に際限のない噴怒を今もって禁じ得ない。(p70)土網
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_069_1.pdf

 昭和十九年二月、第一海上護衛隊司令官の作戦指揮下に入りました。月日は忘れましたがバシー海峡で南方行きの船団護送中に、ある輸送船が雷撃され沈没したので救助に行きました。このバシー海峡は鮫が多いので有名な海で、早く救い上げないと鮫にやられてしまうので、浮かんでいる兵隊に向かって「銃が邪魔で助けにくいから放せ!」と怒鳴ったら、その兵隊が「この銃は自分の魂だから放せません」「お前はどこの兵隊だ」「自分は関東軍であります」と叫んで銃を差し上げて、とうとう終わりまで銃を抱いたままでした。幸いその兵隊は助かりましたが、陸軍の教育に感心させられました。(p496)梶本

 我々二十二名の二個分隊員は、私の指揮のもと一ノ谷から十三ノ谷までの山中へ入ったのですが、昼は敵の攻撃や空襲が激しいので薮の中にかくれ、夜行動するのでした。しかし、夜間山中を歩くので、兵隊の体が保てない。止むなく機関銃を分解して捨てようと、六分隊長に相談しましたが、彼は「陛下から預かった兵器は捨てぬ」という。私は「貴方は兵隊の苦労が分からぬのか」と反論し、「自分は自分で責任を取るから」と言って分解し、川の中ヘバラバラにして捨て、「貴方は持って行きなさい」といいました。
 第六分隊では二日間くらい機関銃を持って歩いていましたが、その後、「ああ言って悪かった」と言い、第六分隊の重機関銃も捨てました。そのとき、私は肚を決めていて、兵器を捨てたのだから、もし中隊と合流できたとき、銃殺刑になるのは確実と思っていました。我々は一ノ谷から直ちに十三ノ谷へは危険で行けないので、東側を抜けて山中に入りました。一カ月後に十三ノ谷で中隊長に追い着くことができました。私は兵器を破棄したので罰を受けると思って、拳銃を帯革に差していて、万一の時は中隊長と差し違えようとも思っていました。ところが中隊長から、二個分隊を置いて先行したことを自分から詫びられました。(p183)丸山

階級より在籍年数
 昭和十八年二月一日付で、一選抜の上等兵に進級しました。初年兵にとっては名誉なことですが、先輩や古参兵(中には札付きの万年古参兵もいる)をさしおいての進級はなかなか大変なものです。軍隊は「めんこの数」といって、階級より年数の多い方が幅をきかせる社会であるからです。そのような苦しみも味わいながら、我慢をしながら、訓練、勤務、討伐と日々を送っていました。(p258)山口

 一年が過ぎた。上等兵に進級した。この時ほど何よりも嬉しく思ったことはなかった。本部付として対外的には他部隊の兵や下士官と接触の機会を持つ私の立場としては、無理からぬ事と思っていただきたい。しかし上等兵の星も対外的、外出時には格好良いが、自分の部隊内にあっては古兵には全然通用しないものと、しみじみと味わされたものである。(p118)竹内

同年十二月一日付で西部第五十一部隊、姫路第十師団野砲兵連隊・第四中隊四班(中隊長片山中尉)に入隊。一〇センチ榴弾砲の挽馬部隊であっ
た。
「初年兵の心得五カ条」
第一 早めし、早がけ、早ぐそ
第二 要領を旨とすべし、員数の確保
第三 地方弁を使うな、そして大きな声
第四 軍馬は兵器、陛下からの預かりもの。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だ。
第五 軍隊は、メンコの数(食事の事)
右五カ条を旨とすべし、だった。(p473・474)柏井

 軍隊は階級がものを言うところですが、同じ中隊内、同じ班内ですとこれが通らないところです。「軍隊は飯の数」とも言われています。上等兵が一等兵に文句を言われたり、将校が下士官に叱られたり、私的制裁を受けたりしていたことは常識になっていました。「やい、伍長殿と奉っていればいい気になりやがって大きな面をするな。貴様、何年メンコ飯を食ってきたというんだ」と、任官ホヤホヤの若い伍長に一発かませるという光景はよく見かけました。(p79・80)河村

 入営したとき、軍隊とは、なんといっていいか言葉に言いつくせないところだと思った。「古参兵、戦友の面倒をみるように」と言われた。一班に二十二人、真中にオンドルがある部屋だった。片側に十一人か、そのなかに、神様などという一等兵(二〜三人しかいないが)がいて、班長の言うことも聞かぬ、いわゆる万年一等兵で、進級されない、その人たちが一番恐かった。(p420)渡辺

 我々の隊は、あの有名なノモンハンの生き残りの隊だと聞かされ驚いた。我々の知る限りでは「ソ連軍と戦い壊滅された」筈で、星二つの四年兵、五年兵が数人おり上等兵や兵長より威張っている。「メンコ」の数がもの言うところが軍隊だなと思う。(p17)高橋

分隊の中に柴田上等兵と言う十三年兵がいて、位が上の村中伍長分隊長を「オイ村中、オイ村中」と呼び捨てにしているのには驚いた。(p305)

 私達初年兵も古参兵も皆、あの暑い桂林の被服のままで、柴田古参兵が主計少尉を呼んで「冬の衣類を兵站を廻って貰って来い」と叱りつけていました。ところが全部他の隊に取られて破れた外套とかで我々小隊を乞食部隊とののしられました。それでも汚い駄馬の荷台用に使った毛布を何枚か着せあって寒さをしのいだ。
 柴田十三年上等兵は物凄い見幕で文句を言っていた。軍隊と言う所は十三年以上の年数の兵隊は階級を物ともせず、命令的に物を言っても罰せられない所だと不思議に思いました。(p306・307)石田

南京の下士候隊卒業の新品伍長の週番下士官殿にとっつかまり、いまにもピンタの一歩手前、命の綱と頼む兵長さんが現われ、週番の伍長に「わしが連れて行った。お前文句あるか」で終わりました。階級は下でも年次が古い、軍隊とは不思議なところです。(p276)村上

 内務は階級よりも食事の飯の数がものを言う。三年兵が神様か、二年兵の兵長より三年兵の一等兵が幅をきかせるところ。勤務は階級、内務は飯の数それが当然とし存在するところである。下士官志願の任官者より古年兵が内務では顔が広い。(p263)信濃http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_259_1.pdf

 ここでは日曜日は休日である。自分は同じ部落から召集で入隊している鈴木五郎さんという人を探しに行った。第三中隊の内務班に入って行ったら窓際のベッドの上にいて「おお、よく来たな、こちらへ来い」と言って若い上等兵に「俺と同じ郷里から来た者だ。お前、酒係に行って饅頭を買って来い」と言い付けたのだ。鈴木さんは予備役でまだ一等兵であったが、軍隊というところは、兵のうちは、階級よりも一日でも早く入隊した者が上位だと言う。このようなことも初めて知った。(p100)大竹
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_096_1.pdf

軍隊は階級ではなく、メンコ(食事の数、年数)の数です。(p241)手塚
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_239_1.pdf

行軍しながら眠る
 昭和十七年五月作戦開始。杭州を起点として正面の敵である顧祝同指揮の中国軍を金華、蘭谿で約二個師を壊滅しましたが、ちょうど中支では雨季に入り雨の降らぬ日は五十日間のうち僅か九日間でした。したがって道路は水没し、一歩誤れば水死の危険がつきまとっていました。とくに夜間行軍の連続では歩きながら眠る訳ですから、うっかりすると道だと思って水たまりの中へ入り込んで、転んだら最後、誰も助けてくれません。「○○はいないか、どうした」という者もいないのです。疲労困憊の極みになると自分を守るだけで精いっぱいなのです。それに加えて雨のため補給は絶無、栄養失調と豪雨と炎暑とで倒れる者も多かったのです。(p264)田中

 広西省の仏印に近い辺境は日中は四〇度に近い猛暑であるが、夜間になるとさすがに気温も下がり冷気さえ感ずる涼しさである。昼間は休憩の度ごとの軍馬の水飼も、夜間はほとんど必要がなくなる。
 それとともに急に眠気が催してくる。歩きながら眠るということは平常は想像もできないことであるが、疲れきった状態の中では歩きながら眠ることができるのである。その場合の絶対の要件は、何かに掴まって歩くことである。それには馬である。馬のどこかに掴まって歩くことである。馬具の一端か、時には尻尾の一本であることもある。前方から行軍が止まる。馬も止まる。が眠りながら歩いている兵は馬の尻にぶつかって、ハッと目を覚ます。暗闇の中で苦笑しながらまた眠っている。(p82・83)井上

 昼は行軍、戦闘、夜は平均二〜三時間しか眠れない。靴下へ詰めた米は古兵のから使用するから新兵の装具はいつまでも軽くならない。砲手も馭兵も睡眠不足になやまされた。行軍中、行進が止まると、決まって前の馬の尻に頭をぶっつけて止まる。一歩、一歩足を運んでいる感覚はなくて、無意識に機械的に足を動かしているのですよ。
 或る時など、行軍で止まっていると付近の景色がだんだんと変わり、富士山が見え(私は毎日富士山を見て育ってきた)、故郷の兄や母の顔が見えた。なんでここにいるのかなと思ったら、「前進しているぞ、何をしているか」大声にハッとしたら、二〇人ぐらい前からみな止まっている。私も大声で前へ逓伝した。皆立ったまま居眠りをしていたのです。ですから、行軍中に敵と出くわさないか、なと期待する。戦闘が始まれば伏せられるからです。・・・なりふりかまわないで、一寸した時間でも腰を下ろして眠り、歩きながらも眠れるようになる。禁じられてはいるが、みな馬の尾をつかんで行軍するようになりました。(p239・240)小林

残飯あさり
初年兵の腹は乞食腹といって喰っても喰っても腹が空いてたまらないものですが……。飯盒の蓋に八分目しか飯がないのには参りましたね。仕方ないから早く食べて古兵や下士官のところへ行って「食器洗いに参りました」ということにして残飯にありつく有様でした。古兵に意地悪いのがいて、わざと残飯に水をかけておくのです。現地の生水は赤痢のもとですから生水は絶対の飲めません。恨めしげに水が引くのを待って上の方をさらって食べたことを思い出します。なぜ飯が小量なのかは後日判明しました。一期の検閲後、古兵と食糧受領の使役に出たのですが、船で運ばれてきた米袋を食糧庫にはこび込む時に古兵が、竹筒を米袋に突き刺して持参した乾パンの空袋に「ザー」と詰め込むではありませんか。古兵はその米を売って自分等の飲み喰いに使っていたのでした。(p426)長谷川

しかし訓練は一般兵の倍も三倍も厳しく、その訓練に加えて学習、精神教育、相次ぐ試験などで全く多忙だった。最も苦労したのは食糧で、若い兵隊にとって腹ぺコが一番辛い。動作の鈍い者は常に可哀想だ。恥ずかしい話だが班長の残飯や魚の骨等は初年兵にとっては歓迎された御馳走だった。(p219)山下

 初年兵には空腹はつきもの。いつもごろごろと雷のように腹が鳴る。飯上缶を洗いに行くのも役得の一つ。古兵が残す残飯が目当てである。洗い場まで行く間にきれいになっている。パンの耳なんかは食べ残ったらポケットの中へ遮二無二押し込んで持ち帰り、便所へ入って食ってしまうという案配である。
 ある時、炊事場裏の箱の中に残飯が盛り上がっているのを見つけ、手づかみでやっているところを週番兵に見つかり、強かにビンタを取られた。曰く「皇軍の体面を汚す」と。空腹に耐えるのも訓練の一つである。(p242・243)畠嶋

初年兵は演習や運動で腹がすく。与えられた給与だけでは足りないので古兵の残飯を頂く事もあった。(p263)信濃

 起床から消灯まで軍人勅諭、戦陣訓、歩兵操典の教育、それに教練、飯上げ、洗濯など班内の業務に走りながらの行動です。腹が空き古兵の残飯で助かりました。(p388)菅原

 部隊はこれまで少数の現役兵の部隊だったのですが、いわゆる「関特演」で大勢の召集兵が入ってきたわけです。そのため、準備も不十分だったのか半年ぐらいは食事も充分でなくて、戦友の中には厩使役に行って馬の主食の豆粕を割って食べ、日夕点呼の時、口から豆粕が飛び出して週番下士官に見つかり「馬の上まえをはねた」とビンタを受けることもありました。
 また、下士官の残飯などを奪い合う風景もしばしば見受けられました。そんな状態だったから、休日には必ず外出して、一週間分の不足をと、腹一杯食べて満足することもしばしばありましたが、日が経つにつれてそんなこともだんだんとなくなりました。(p285)相原

 現地入隊は同時に、戦闘訓練の猛練習が日夜続きます。百姓そだちで大麦飯を十分食ってそだった初年兵は、金の茶碗一杯の盛飯は、食後すぐ腹がすきますが、それ以外に一粒のおやつとてあたえられず、空腹をしのぎ古兵の残した残飯を犬畜生同様にあさり、我慢の連続でありました。夜、炊事のこげ飯や黒砂糖の固まりをぬすむ等、ずいぶん飢えには苦労しました。(p121・122)河原

 本日より大日本帝国軍人として張り切る。朝の起床ラッパで始まり、九時の消灯ラッパまで初年兵は忙しい。軍人勅諭、戦陣訓、歩兵操典、教練、飯上げ、洗濯と目が廻る。走り行動で気合が入る。よく腹が空き、古兵の残飯を手づかみで食すことなどがあった。(p87)小林

 一期の検閲までの三カ月間は例の通り昼夜を問わぬ猛訓練の連続でした。初年兵の腹は乞食腹といっていくら食べても食べるそばから腹が空いて、残飯を漁り、見つかってビンタを頂戴するパターンはどこでも同様でした。(p402)和田

 食事は各班ごとに決めてあり、当番も順番に回ってきました。上司の分は沢山盛りっけなくてはなりません。少ないときは「今日の当番は誰だ」と怒鳴られるので、皆食事当番になったら上司の分を多く盛り、自分の分は少なくなるのですが仕方がありません。寝ても覚めても「食いたい、食いたい」の一念でした。そのためか誰も彼もがだんだんと身体が弱ってしまい、ある者は残飯の中の物を拾って食べていたと聞きました。(p360)松島

トイレの時間が無い・行軍しながら垂れ流し
腹が減ってくるが食べ物はカンパンのみ、口の中にほうりこむ。追撃戦のため、口の中はからからだ。カンパンは団子となってのどを通らず、また小便はできるが、大便をしていると皆に遅れてしまう。そのため進撃中にしてしまうのでとても臭い。(P48)北口


皇軍と右翼の結びつき

自衛隊と右翼(思想)の親密さが話題だが、旧日本軍も右翼ととても仲が良かった。あるいは軍人自身が右翼だった。

神戸新聞 1932.7.16 (昭和7)
軍部を中堅とする大ファッショ陣成る
愈よ国民指導の立場を獲得すべく近く綱領を発表、具体運動へ

世界的に捲き起ったファッショの嵐は我国においても対外硬化、農村問題、政党腐敗、財閥の不正行為、テロリズム等の問題を引っくるめて物凄く展開されて来たので既成右翼団体は素より全右翼大衆に呼びかける新ファッショ団体が右翼無産陣営中からさえ展開されるに至った、然るにこれが決定的中堅勢力をなしていると認められるいわゆる『軍部』方面においては却って鳴を鎮めている状態であったがその実この方面における潜行運動は驚くべき進展を見たものの如く、遂に表面化し尖端的にファッショの旗印を掲げて国民の指導的立場を獲得すべく愈よ運動を起すことに決定し実際の陣容を完成するに至った、この全日本大衆に呼びかける軍部方面の大ファッショ運動の出発こそ政界、財界、思想界に一大センセーションを捲き起すであろう

田中大将を中心に全国的に活動網
神戸にも支部設立準備進行
軍部首脳部も承認済

軍部関係方面から国民大衆に提唱せんとするファッショの陣容を見るに総帥としてその運動の中心をなすものに予備陸軍大将田中国重氏を推し、予後備佐官級の陸海軍首脳数十名を網羅してその左右に配置し、総本部を東京に置き大阪京都、神戸、名古屋、横浜、福岡広島、金沢、仙台、小樽の十ヶ所に大支部を設け更に他の主要都市に小支部を、町村には各班を配することになっている、右のうち東京の総本部はもちろん神戸その他の四ヶ所にも目下潜行的に設立準備を急いでいる、これら支部の組織は実に堅実を極めその附近における軍部関係者中で前途有為な府県市会議員を支部員とし、その他における在郷軍人団の中堅をこれに配して統一的に活動を行う仕組みである
田中国重大将はこの挙国的非常時に臨み時局匡救のため当然投げかけられるであろう世間の毀挙褒貶の責を一身に負う覚悟をもって毅然としてファッショ運動の旗印を以て全国民に呼びかける決意の下にすでに軍部首脳部の諒解を求むべく先般来両三回の交渉の結果軍部首脳部においては在郷軍人を中心とする愛国運動の熱意を承認するに至ったのでこの運動に着手したものである(写真は田中大将) [写真あり 省略]

三大綱領 議会政治を否認せず=既成政党打破=農民労働者救出 既に実行期に入る
この数日来その首脳部と指導部は荒木陸相、小磯次官と頻繁に往来して運動は既に実行の範囲に入り今日まで潜行的だったのが近く本格的に宣言綱領等の発表を見るはずでその三大綱領は左の如くである
一、議会を否認せず
一、既成政党打破
一、農民労働者の救出
右によると議会政治を否認するものではないが党弊百出の既成政党に対してはあくまで打破をもって進む方針であるから既成政党内はこれによって動揺を来し在郷軍人たるものはもとよりであるが可なりの脱党者を見るであろうと観測されている、またその綱領である農民労働者の生活救済はそのファッショ運動が在郷の将兵をもって根強く建設されることを物語るものでこの運動の大衆性に大きな期待がかけられている

石原産業社長も有力なる支持者
既成政党に大動揺か
この新運動が新日本の大衆に如何に反映するかは今後の進展に俟たねばならぬが予後備軍人らの共鳴はもちろんこれが新武士道精神によるので右翼思想団体を初め既成政党中の右翼派の参加は確実と見られ、既成政党の大動揺を免れざるものの如く運動にとって最も肝腎とされている財界方面においても海外にあって皇軍の庇護に感泣している在外事業家を初め内地の財的有力家にしてこの運動を援助するもの少からず神戸市海外通に本社を有つ石原産業海運株式会社社長石原広一郎氏の如きはその一人で氏は既に田中大将らとともに幹部の一人として陸軍首脳部と折衝を重ねあくまで之を援助するといわれている(写真石原広一郎氏) [写真あり 省略]

本部としては何等関知せず
帝国在郷軍人会 佐藤忍氏談
帝国在郷軍人会本部主軍佐藤忍氏は語る 在郷軍人がファッショ運動を起しているというようなことについては本部としては何等関知せずまた在郷軍人会の有志間に憂国の至情迸るところ世相不安一掃のため何等かの相談をしているかどうかと云うことも言明の限りでない、しかしこれだけは云える、在郷軍人はつねに国家社会の中堅をもって任じ国難に一身を挺するだけの覚悟と決心を十二分に有している、又一部の間には既成政党との関係をいかにも清算するかの如く考えているが要するに在郷軍人は出でては国家の干城であり、入りては忠良なる臣民として国家の御役にたつことを寸時も忘却しておらないことを断言する
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070682&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

神戸新聞 1936.9.6 (昭和11)
現役軍人を中心に右翼大合同計画
注目される橋本大佐の活躍
建川中将らも支持す

去る二日社会大衆党が、条件附門戸開放を声明して以来、多年分裂抗争を続けて来たわが国の農民戦線も、社大系の全国農民組合を中心として全国的大合同を図り所謂人民戦線を強化して反ファッショ勢力の糾合を図りつつあるが、これに対抗して退役軍人による右翼の大合同が企図せられ、人民戦線に対する国民戦線の結成が急速に進展せんとする形勢にあることは注目に値する
右の国民戦線強化運動は八月の陸軍定期異動において待命となった前三島野戦重砲兵第二連隊長橋本欣五郎大佐が中心となって活躍し同大佐等は最近内務次官湯沢三千男氏及び社大党の亀井、麻生両氏を始め在郷軍人会方面の主要人物と屡々会見してこれが実現を企図しつつあり、橋本大佐と同時に待命となった前第二師団長建川美次中将等も右の運動を支援して居る模様である
この国民戦線の強化運動は労農協会及び全国農民組合等による人民戦線に対抗するを目的とせるは勿論であるが、従来五・一五および二・二六の両事件に於て現役軍人が国家改造運動の中枢として活動せることが独り軍秩を紊すのみならず、却って当初の目的に反するが如き結果となるに鑑み、合同せる右翼の大勢力を以て国家革新の実を挙げようと言うのがその主眼である 然し乍ら右運動の成果については成否二様の観察が下されて居り、成功すべしと見る方面に於ては、資金関係の整備と、中心人物たる橋本大佐が、三月事件並に十月事件の幕僚ファッショの中枢として大勢力を糾合し得た力量を挙げて居り、これに反してその成功を疑う方面に於ては、現在退役軍人を中心とする右翼団体には明倫会あり、皇道会あり、三六倶楽部があり、その他荒木大将、秦中将の一派があってその派別的対立は退役後極めて猛烈なものがあるのでこれ等の諸勢力を民間の右翼団体と共に合同せしむるとの困難さを挙げて居る
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10056025&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

報知新聞 1936.9.24 (昭和11)
昭和維新を目標に青年学生を糾合
全国で五十名を検挙

二十二日早暁を期して行った右翼の一斉大検挙は東京では神兵隊の獄外被告三十名、大アジア青年連盟、帝大七生社等より学生、青年等十数名、大阪で七名、茨城、群馬、長野、山梨の各県で各一名宛合計五十余名に上る全国的検挙で、中心の警視庁では特高第二課の係主任警部八名で直に取調べを開始したが、一斉大検挙の動因たる神兵隊獄外被告を中心とした前田虎雄、安田鉄之助中佐、影山正治、鈴木善一の諸氏が神兵隊蹶起の意志を継続し、あくまで昭和維新断行を目標に多数の青年、学生を非合法的に糾合したことに端を発していた、影山正治氏は麹町区飯田町に修養国体青年道場『維新寮』を設置、毎月五の日に二十数名の青年を集めて五の日会の催しをなし、その模様は厳粛のうちに神前礼拝と神兵隊の軍律綱領を朗読、次で神兵隊の幹部である安田中佐、鈴木善一の諸氏を講師に『生命奉還論』の訓話を聞くという物々しさ、ここに集まる青年学徒は二・二六事件で処刑された山口元大尉の主宰していたアジア青年連盟の青年と拓大、明大、中大等の学生で組織している大アジア学生連盟の学生で、一方日本橋浜町の神兵隊の寄宿舎には鈴木善一氏を中心に地方の青年を糾合していた、ここでは神兵隊検挙の行われた昭和七年八月十一日を記念して十一日会を組織し、毎月十一日集合してここでも昭和維新断行の『生命奉還論』論を論議していた、この二ヶ所へ集合する青年学徒のメンバーは、本年八月明徳会で開催した千葉県勝浦町の林間講習会に臨み、ここでも『生命奉還論』の訓話をきき二・二六事件処刑者の慰霊祭を行うなど当時から既に今回検挙の危機をはらんでいた、なお地方の検挙は既報の通り大阪の七名と茨城小池銀次郎(神兵隊被告)群馬未詳、長野吉川澄(神兵隊被告)山梨橋爪宗治(神兵隊被告)の十名であるが、この中修成寮の主宰者で元新日本国民同盟の水島完之氏を原宿署に留置したが老人で健康上釈放される筈http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10064724&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

件名
日本国粋大衆党首笹川良一氏に伊国陸軍大臣宛「メッセーヂ」托送の件
(大臣、次官等の押印有)

陸軍大臣より伊太利国陸軍大臣宛(軍務課経由)
書翰を以て啓上致候
日本国粋大衆党首笹川良一氏貴国訪問に際し同氏に托し本官の閣下に対する深甚なる敬意を表するを光栄の至に存候
笹川氏の本親善飛行は貴国訪問を目的とするものにして日本民間企ての嚆矢なることを特に強調致候
茲に本官は日伊両国並日伊両国陸軍の友好関係の益々緊密ならんことを希念し重ねて閣下に対し衷心より敬意を表し奉候
敬具
昭和十四年十二月二十三日
日本帝国陸軍大臣
陸軍大将 畑俊六
伊太利国陸軍大臣
ベニト、ムッソリーニ閣下
昭和十余年十二月二十一日(「野口」印)

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盾津陸軍飛行場敷地及建物無償使用許可に関する件伺
昭和十五年九月十六日 大阪師団経理部長 桂巽
陸軍大臣 東条英機殿

昭和十三年二月七日陸普第六五七号指令に基き首題の敷地及建物を国粋義勇飛行隊長笹川良一に無償使用許可しある所本年九月三十日を以て期間満了引続き向ふ三年六ケ月間使用方願出ありたるに付前回同一条件を臥し許可し差支なきや指示相成度
 追て本件に関しては留守師団長に於ても同意に付申添ふ

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※盾津飛行場について
1933年(昭和8年)に国粋大衆党(笹川良一総裁)の組織する「国粋義勇飛行隊」によって[1]民間人搭乗員養成用の「(財団法人)大阪防空飛行場」(発起人:笹川良一、藤本忠兵衛)として建設開始。1934年(昭和9年)2月に起工、9月に完成。同時に陸軍省・陸軍に寄贈され大阪陸軍飛行場として開業。盾津飛行場と呼ばれた[2]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%BE%E6%B4%A5%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4


皇道挺身隊兵営宿泊状況に関する件報告
昭和拾年五月拾九日 第八師団長中村孝太郎
陸軍大臣林銑十郎殿
首題の件に関し憲兵隊より左記要旨の通報に接し師団に於て調査せし事項並処置別紙の通報告す

左記
一、管内右翼分子に依り結成せられたる皇道挺身隊は「石川観農社青年修養会」名義を以て兵営宿泊を計画し四月二十六日正午より二十八日迄二泊三日間歩兵第十七連隊に宿泊せり
二、此間軍事教練の外皇道挺身隊員の座談会を催したるが座談会中矯激なる言動ありて注意を要すべきものあり

別紙
皇道挺身隊歩兵第十七連隊兵営宿泊に冠する件報告
一、皇道挺身隊に就て
皇道挺身隊は「石川観農社青年修養会」の別名にして川原挺進隊の名称より本団体名を採りしものの如く其趣意書並守則付録第一、第二の如し
該団隊体は結成後日尚浅く其真状を観察すること能はざるも会員営内宿泊時の一般状態より観察せば善良真摯にして尚思想的団体と認め得ざるものあり
二、兵営宿泊の状況
付録第三の計画に基き石川観農社(秋田県の篤農家たりし故石川力之助の設立せる農事研究を主とせるもの)を中心として各地方代表青年を集め兵営宿泊を実施せんとし出願せしを以て連隊に於ては之を許可し将校二名、下士官、兵若干名を指導官として任命せり。而して四月二十六日午前十一時半幹部以下百十三名秋田駅前に集合し入隊したるが其大部は青年団、青訓服を著用したるも中には四十歳に過(?)ぎ農民、地方農会義手在郷軍人等を含有し何れも熱心に指導に従ひ四月二十八日正午過解散退営せり。
訓練事項は行事予定の如く第一日夜は乃木将軍の映画を視覧せしめ第二日午後の講演は友部国民高等学校長加藤完治の日本農民道に関する講演を連隊将校以下と共に聴講し又第二日夜は下士官集会所に於て座談会を開催せり。
兵営内に於ては毎朝勅諭奉読、遥拝、楠公の壁文暗誦等を真面目に実施して精神修養に努め又指導に従ひ軍事教練を熱心に実施し其効果相当大なるものありたるが如し。
三、座談会の状況に就て
座談会は県下各地方より集合し未だ相互一面識もなきもの多きを以て兵営宿泊の機会を利用し会員相互に意志の疎通を図り且指導を目的とし許可を得て富永中佐監督の下に実施せり。従ひて懇談は講話を主とし指導的に実施し併せて各自の意見を述べしめたるに席上稍々矯激なる意見を発表せしものありしも富永中佐は団員の心底を洞察する好機なりと認め某程度迄之を吐露せしめたる後之が誤れるを正し皇軍の本義を説示し之を指導せり。
座談会席上配布せる書類左の如し
書名  部数  作成者
核心(昭九、一一号)  一  核心社
皇道挺身隊守則  一  鈴木真洲雄
熟(解説書)  一  鈴木真洲雄
皇道挺身隊趣意書  一  鈴木真洲雄
連絡委員表  一  鈴木真洲雄
●●  一
改造対内案  一  不明
日本産業等の非常監察  一  富永良男
創生  一  創生会本部
大亜細亜青年  一  大亜細亜日本青年同盟
四、 地方に及ぼしたる反響に就て
1、会員の兵営宿泊に関し富永中佐は県知事、経済部長等を訪問し連絡せるに知事、部長等は会の精神及兵営宿泊に依る軍隊の指導誘掖と会員修養に関し賛意を表し経済部長は第二日午後の講演者加藤完治を兵営に伴ひ来り県農民の更生の為本団体の発展を冀望する旨述ぶるありたり。
然れ共県特高課等は本団体を右翼団体として密に内査を進めあるが如し。
2、地方民心に対しては好影響を与へたるものの如く爾後団員其他のものより兵営宿泊に関し幾多の感謝状を連隊に送り来れり。又各地に漸次修養団体として結成せられんとする趨勢に在るものの如し。
五、処置
1、此種地方団体の営内宿泊並営内に於ける会合の際の指導に関しては将来特に注意を周到ならしむ
2、旅団長並連隊長の報告に依れば富永中佐は思想的に注意を要すべきものを認めざるも将来思想上の容疑ある団体及人物との交渉等に関しては特に慎重ならしむる如く注意す。

付録第一、
皇道挺身隊趣意書
満洲事変以後の国際関係はまさしく非常時の雲行を見せてゐる。だが翻って国内を見れば生民は憔悴し菜色あり政党政治の信頼地を払ひ思想混沌として帰する所を知らない。
不幸にして此のまゝ外難至らばその結果や恐るべきである。今日の状態は恰も尊王倒幕、廃藩置県を断行し外難を突破せる明治維新の前●にも似まさしく歴史的瞬間を包蔵せり。
我等は此の危機に際し一刻の猶予なく内昭和維新を断行し国内を整備するにあらずんば外難に当ること能はずと信ずるものなり。
それ故に我等は真剣なる研究によりて日本更生の正道を発見しこれを唱道せざるべからず。
されども天下の大事は先づ己より始め己より治めよ。
我等同志の団結同行を画策し我等の住む町だけでも村だけでも正しく歩ましめんとす。
この主旨に従って自ら相集りたるもの即ち皇道挺身隊なり。
付録第二
皇道挺身隊員守則
(以下略)

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皇軍実態集 兵は消耗品、武器や馬の方が大事


内閣情報部「写真週報」351号 1944年12月13日

「御紋章と小銃・・・自己の身命を顧みず小銃を尊重擁護する至高の精神もまたこゝに発するのであって」(p7)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2006070616411057931
DN_HkotVwAAcXdE

 次に、帝国陸軍では兵器が人命より優先しており、特に菊のご紋章が刻まれた歩兵銃は、手放すことなどもってのほか、命をかけても手中に取り戻さねばならなかった。(p72)菅原

 馬の他に兵器の手入れも大切です。人間よりも馬や兵器が優先される軍隊ですからやむをえません。(p288)郡

夕暮れに山の方でドッカンと爆発音、皆武装して飛び出した。「三小隊」と呼ぶ、班長と共に走る。しばらくすると前から声があり、「大事無し、各隊帰って待て」「情況は後程連絡する」ということで、帰って待ったら、敵襲でなく、古兵が手榴弾を腹に抱いて自殺したという知らせがあった。
 一時間程たって集合がかかった。部落の外の畑に集められ中隊長の訓示があった。T上等兵が帯剣を止める止鉄が無くなり、剣の鞘を落としてしまった。上等兵は補充兵で気が弱く、毎日がつらいと言っていたそうだ。上官より「天皇陛下より預かった大切な兵器を何と心得ておるか。戦いが終わったら貴様は重営倉入りだぞ」と言われ、それを苦にしたらしい。(p90)日置http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_087_1.pdf

 四月も半ば雨季の近づく南ビルマのモチ高山越えが始まった。一握りの米と靴下一本の岩塩が食料のすべてだった。植生物、食える物はなんでも口に入れた。水筒はいつの間にか竹筒に変わり、飯盒のみが腰にぶら下がっていた。疲れ果てた兵達に一番恐ろしい敵はマラリヤ、赤痢等南国特有の病魔であった。猛獣、毒蛇の住むジャングルに、険しい山路、病魔の餌食となり次々に倒れていった戦友達の死臭にも馴れて、屍の隣で露営の夢を見ることもしばしばであった。
 非人同様の姿で山をさまよい、赤錆の銃も菊のご紋章があるが故に離さず、数発の銃弾と一個の手榴弾のみが日本兵たることを証明していた。(p19・20)田中
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_017_1.pdf

この三八式を肩から落としただけで、兵隊は、どれほど酷しい制裁を甘受して来たことか。兵器はすべて、上御一人からの御下賜によるものであった。(p56)猪瀬
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_054_1.pdf

私達の重機関銃隊には馬が十頭所属しており、雪の中での馬の手入れや飼育は大変な仕事で、古兵からは「貴様達より馬が大切だ」と叱られながらの手入れでした。(p438)野田

S分隊士 学徒出陣で来たB大出身中尉。「飛行機一機作るには七万円もかかる。貴様たちのような者を訓練しなくても一銭五厘でもっと優秀な奴がいくらでも集まる」と一銭五厘の価値も無い奴らだとののしる。兵の命は鳥の毛よりも軽い奴らだとののしる。兵の命は鳥の毛よりも軽かった。(p117)杉浦http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_113_1.pdf

班長の訓示では「お前達は消耗品である。一銭五厘(郵便葉書の値段)で幾らでも入ってくる。また、日に乾ききった桶である。これもみっちり締めなければ水が漏れる、水が漏れぬよう締め上げてやるから覚悟するように」と言われた。(p417)仁平
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_416_1.pdf

 二年余りの馬との生活。人間より馬の方が大切に取り扱われていました。普段、馬の手入れや扱いをするとき、古兵から言われる言葉に「兵隊は一銭五厘の葉書で集められるが、馬は百円もする。人間より馬が大切だ」とあります。したがって馬の生死に関する疝痛を起こすと大変でした。(p230)酒井

 その後、憲兵隊に自動車の運転を教育しました。憲兵は民間では教育できない。軍の自動車運転者教育のため、関東各地の軍隊を出張して回りました。当時、私はまだ一等兵でしたから、教わる者は皆上級者か上官ですから、気を遣って教育しました。教育内容は野外訓練とか、分解した車の結合、組み立てて元通りにする。エンジンがかかった自動車を途中から運転するとか、途中でエンストすれば自分で修理する訓練とか、何しろ自動車は天皇から預かった兵器だから大切にしなければならない。人間は一銭五厘の葉書で召集できるが、自動車は大金だから、などと教育にあります。(p277)村本

昭和十六(一九四一)年四月、徴兵検査を受け、甲種合格で、現役兵として、昭和十六年十二月十二日、朝鮮歩兵第七十六連隊に入隊、第一機関銃中隊自動車班に編入されました。同年十二月二十二日、洪儀に着き、直ちに国境の警備に就きました。 昭和十七年一月八日は陸軍記念日に当たり、夜、兵団長閣下の閲兵、訓示がありました。訓示では「君たちは消耗品である。不足すれば一銭五厘のはがきを出せば、いくらでも兵を集められる。日本国は物資が乏しいため兵器と被服を大切に、ことがあれば一週間でウラジオストックを攻撃する」と言明された。(p88・89) 荒明

師団長は訓示の中で「ソ連と始まれば、ウラジオを一週間で陥落させる」「兵隊は消耗品」などと言っていました。(p373)荒明
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_373_1.pdf

 そして呉軍港に碇泊している輸送船に乗船を完了した。ただちに出航である。客船ではなく貨物船である。設備はお粗末なもので、牛、豚並みである。この輸送船で思ったことは、静岡の第三十四連隊では、「お前達は一銭五厘並みだ、歩兵銃の弾丸は消耗品でもお前達より高価である。一発の弾丸でも貴重だ」と言われたことを思い出し、なるほど荷物並みで人間扱いではない、これが戦争かなと思った。(p114)竹内http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_108_1.pdf

 私の入隊した部隊は、輓馬の重砲隊であった。班には三十頭近くの馬がいたと記憶している。馬部隊では、馬をとても大切にした。「お前たちは一銭五厘でいくらでも来るが、馬はそういうわけにはいかない」とよく言われたものだ。兵隊は一銭五厘の切手を貼った手紙で集められるが、馬を集めるには沢山のお金がかかる。実際馬部隊では、馬に故障が起これば行動は出来ないのである。(p140)松井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_137_1.pdf

 初年兵教育は満州でした。一月十六日に広島練兵場に集合させられ、一路満州国ハルビンまで連れていかれました。独立歩兵第一七四部隊に入隊し、星一つの新兵教育が始まりました。「お前たちは一銭五厘の葉書でいくらでも集まるのだ」という言葉と理不尽なビンタに泣いたことは今でも忘れられません。(p211)舟山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_211_1.pdf

そして上官は他の者に向かって「よーし下りろ、みんなようく聞け、お前達はこれから言うことを聞かないとバッターで思う存分打ってやる。一人二人たたき殺しても一銭五厘のハガキ一枚で来ているんだ。言う事を聞かないとたたき殺すぞ」と威嚇した。あとでそのバッターを見ると「海軍精神注入棒」と書かれていた。(p445)渡部
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_443_1.pdf

 同年十月、神戸軍管区の人は神戸山手小学校において壮丁検査を受ける。私は甲種合格になる。
 同年十二月一日付で西部第五十一部隊、姫路第十師団野砲兵連隊・第四中隊四班(中隊長片山中尉)に入隊。一〇センチ榴弾砲の挽馬部隊であった。
 「初年兵の心得五カ条」
第一 早めし、早がけ、早ぐそ
第二 要領を旨とすべし、員数の確保
第三 地方弁を使うな、そして大きな声
第四 軍馬は兵器、陛下からの預かりもの。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だ
第五 軍隊は、メンコの数(食事の事)。
右五カ条を旨とすべし、だった。・・・(p473・474)

 軍隊では馬は大切な兵器である。何事にもまずお馬様が優先である。各中隊には専属の厩があり、馬当番がそれぞれ一頭ずつ割り当てられる。生き物であるだけに管理が難しい。特に馬は腸が細く長いので飲食のチェックが大切である。水すい嗽そうと称して、一日に二回以上水飲み場へ連れ出し、一口・二口・三口と喉を鳴らしながら飲むのを確かめ、何回飲んだかを当番下士官に報告、記録して健康の管理をするのである。
 朝は兵科の者より三十分早く起床し、厩でまず馬糞の回収、寝草干し、金櫛による馬体の手入れ、蹄蹉の手入れ、そして飼葉(岩塩を充分いれる)を与える。すべて終了後に、兵隊の朝食になる。何事でも朝飯前の一仕事と云うが軍馬に関しては重労働だった。
 また廊下不寝番ともなれば、徹夜で自隊の馬の管理を二人で担当するのだ。当番士官の巡察があるので怠けることはできない。初年兵を体験して、つくづく人間に生まれたのを情けなく思うのであった。(p474・475)柏井

令状は臨時召集令状で「昭和十三年八月二十日、宇都宮野砲第二十連隊に入隊せよ」でした。・・・
 入隊、即、教育係将校と下士官教育係助手の上等兵が全員を整列させて、第一声「貴様等達は一銭五厘の兵隊だ。只今から各任務教育に就くが充分に心して国家国民のために活躍せよ」でした。・・・
 野砲隊は砲手班と弾列班とに分かれますが、共に軍馬が原動力です。馬の手入れや運動が一番大切で、少しの休養も無く苦労しました。前述の如く兵隊は令状一本(一銭五厘)ですが、軍馬は「天皇陛下から預かる宝物である」といって、たて髪、尻尾の先、脚の蹄にいたるまで丹念に手入れを命ぜられ大変苦しい思いをしました。(p242・243)乙川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_241_1.pdf

 私は昭和十八(一九四三)年徴集兵で、甲種合格となり、昭和十八年十二月初旬に久留米の第十八師団(菊)山砲兵第十八連隊に入隊しました。(p410)
 馬を使う部隊では人より馬が尊重されます。たまたま馬の扱いが悪く負傷でもさせたら「貴様ら兵隊は一銭五厘でいくらでも補充できるが、馬様はそんなわけにいかないんだ、この野郎!」と悪口雑言の上、目から火の出るビンタを見舞われました。心の中では「弾は前からだけではないぞ」と憤懣を吐き出したものです。(p411)田中

特に馬の手入れは人間より先にやらねばなりません。人間は一銭五厘の葉書で召集出来るが、馬は兵器だとよく言われて、絞られたものです。(p24)中嶋

 馬の取り扱いは古兵から「お前ら兵隊は一銭五厘だが馬は生きた兵器だ」とやかましく言われながら仕込まれました。特に水飼いが大切で朝昼晩と毎日馬が飲んだ水の量を記録して報告せねばなりません。それから消化状態を調べるため、湯気の出る馬糞を絞って水分を抜き、広げて麦が何粒残っているかを調べねばなりません。
 隊の馬は十二歳から十五歳で人間の四倍が馬齢ですから相当老馬でした。しかし人間を見るのは達者で、私ら新兵を馬鹿にして言うことを聞きませんが、古兵下士官を見ると途端におとなしく、言うことを聞くので腹が立ち、上官のいないことを確かめて馬小屋掃除用のほうきで思い切りブン殴ってやりました。(p246)斉藤

 迫撃砲の部隊は軍馬に迫撃砲を分解して乗せて行動するので、軍馬は大事な兵器で、兵隊より大切にされた。その当時は、兵隊は二銭の葉書一枚で召集できるが、馬は高価であった。(p43)村井

馬は兵器、兵隊は一銭五厘(当時の葉書代金ですが―実際は召集礼〔ママ〕状は葉書ではない)で集められるが、馬は大切と言われる。(p306)山口
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_303_1.pdf

 一週間たったら満州第一三一三一部隊(第一一二師団工兵隊)に転属となり、・・・新兵を迎えて、お客様扱いも二日間だけ、そのあとは事あるごとに「貴様らは一銭五厘でいくらでも補充がくるが、馬の方が貴様らよりも大切なんだ」と怒鳴られてビンタの嵐で鍛えられましたよ。(p265・266)森重http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_265_1.pdf

当日は秋田第十七部隊第二大隊長笠原中佐宅に一泊(笠原大隊長は戦
死した姉の夫の上官で、夫の生前から親族同様のお付き合いさせていただいていたので、奥様のご好意でお世話になる)しました。
 翌八月一日朝、第十七部隊の門をくぐると衛兵から祝いと激励の言葉を頂き身の締まる思いがしました。・・・
 同日第二大隊行李班に編入されました。・・・
先輩から「馬は銃砲同様兵器である。自身の世話より先ず馬の餌付け、手入れをし馬の健康管理に当るよう」と言われました。(p307)
 とくに前述の通り、馬は輜重隊の貴重な兵器ですので毎日朝夕の世話は欠かせません。要領の悪い者、動作の鈍い者は、自分の洗面、食事も落ち着いて出来ないほどの地獄社会で、私も入隊前は馬とは一切縁が無かったのですが、先輩の親切な指導を受け、何とか先輩並みにこなせるようになりました。(p307・308)山内(松川)
 
 昭和十八(一九四三)年四月十日、熊本市西部第二十一部隊野砲隊に現役入隊しました。第四中隊に編入され、中隊長は北森鶴雄中尉、第一内務班長野田一二三軍曹、寝台列長・塚原敬造兵長でした。(p231)
もし疝痛でも起こしたら当番に当った初年兵は夜も眠らず藁で腹を擦り続けなければなりません。もし一頭の馬を死なせたら、野砲隊に取っては大変なことで、「貴様達はハガキ一枚出せばすぐ補充出来るが、馬は一年間の調教が必要だ」と、古兵より何度か聞かされたことを覚えています。(p233)猪俣

我々は火砲を持っているので山越えの時日本馬は大きいので崖から落ちたりした。大きな音がするので、見ると同年兵が手綱を持ったまま馬と一緒に落ちて行く。離せば助かるのに戦死してしまった。(p384)藤尾http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_384_1.pdf

 大隊砲であったから、馬がいて、その扱いにはほどほど閉口しました。子供のころ馬車挽きの馬や、農耕馬を見ていたはずであるが、馬がこんなに大きいものであったかと改めて驚きました。「お前たちは一銭五厘で来るが、馬はそうはいかないんだ。大切な兵器なんだぞ」馬の取り扱いを指導された時の最初の言葉であり、説教の度に聞かされ、出てくる言葉でありました。(p321・322)

馬の手入れには本当に泣かされました。私達は一銭五厘、馬は何百円です。何といっても馬がいないことには訓練も移動もできません。(p394)青木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_394_1.pdf

 馬といえば現在は競馬、乗馬クラブ、映画やテレビの撮影用としてしか用途が考えられないが、昔は労役、交通輸送用として、人間生活に欠くことの出来ない重要な存在であった。とくに軍隊にあっては、兵隊よりも尊重されたものである。
お前たちは一銭五厘でなんにんでもひっぱってこられるが、馬はなん百円という大金がいるんだ」と耳にたこの出来るほど聞かされた。事実、当時の軍隊には馬は不可欠のものだった。今ならヘリコプターだが、作戦になると車両の使えぬ悪路難路や、山岳地帯の輸送連絡には馬による以外にすべはなかった。活兵器といわれたゆえんである。(p174・175)金子
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_174_1.pdf

連隊の中の桜が咲き始めた頃、私達は移動を命ぜられました。行く先は北満の満州第一〇八部隊、大村連隊の主力があります石門子の本部と聴きました。(p318)
大隊には約百頭の馬がおりますので馬の手入れも大変でした。厩の中の馬糞の片付け作業、蹄の馬糞のえぐり作業、馬への食糧の与え方、水の与え方、馴れるまでの苦労は大変でした。古年兵からは口を揃えて「馬は大切な兵器だぞ、貴様達は一銭五厘で何ぼでも補充できるが、馬はそうゆう訳にはいかんのだぞ」と叱られました。
 たしかに食べ物、水のやり方で「疝痛」になる恐れがありますので、皆が注意しました。私は石川子に二年近くおりましたが、外出は一回もしませんでした。理由は馬が心配でした。万一馬が「疝痛」にかかったら班全部が心配するからでした。天皇陛下から頂いた大切な兵器を一頭でも死亡させてはならないと言う心配が一日たりとも頭から離れませんでした。(p319)田浦
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_317_1.pdf

山砲隊は二個中隊が車両隊、我が中隊だけは以前と変わらぬ馬中隊である。馬は人間より大切にして、一寸の外傷でもしようものなら大目玉。新兵の時「お前等は消耗品だ、馬は兵器だ」と古兵から怒鳴られた。(p408)冨田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_407_1.pdf

そのような時に空襲を受けるようなことがあると、我々騎兵にとってはまことにみじめである。近くに林でもあれば馬をとばせてかくれるすべもあるが、はげ山の頂点ではただくつわをもって、じっと待つよりしかたがない。馬は活兵器である。これを手から放して自分だけ物陰にかくれることなど絶対に出来ないのだ。敵機の退散を待つばかりである。(p164)小林
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_161_1.pdf

 昭和十九年七月、国境の饒河へ一個中隊二百名ぐらい移駐した。兵隊一人に馬一頭の割の編成です。ハバロフスクに近いウスリー江の河岸の山の陰に兵舎があり、そこで訓練です。その辺は湿地帯があり、木を切って組んで渡るが、馬が落ちると沈んでいく、もがきながら扇状の跡を残して沈んでいく。兵隊も一緒の時もある。兵は直ぐ降りればと思うが、馬は人命より大切とさえいわれている軍隊故、そうはいかない。(p272・273)角野

 一期の検閲も終った頃、歩兵第六十九連隊に動員が下り保健隊は解散し原隊に戻った。しかし保健隊にいた者は留守部隊に遺される、とのこと。何の面目あって家郷にまみえんとばかり准尉殿に泣きすがり、ようやく野戦隊に編入され、指揮班要員となる。・・・
 軍隊生活中、失せ物の員数合わせには苦労した。また兵器は歩兵の生命、いや命よりも大切なものとして扱われる。「兵隊は一銭五厘の葉書一枚で集まるが、兵器は天皇陛下よりお預かりしたものである。絶対に損傷してはならない。ましてや紛失するがごときは最大の不忠と心得よ」と。(p242)畠嶋

この時は、野砲に配属になりましたが、馬を大切にするため、「兵隊は一銭五厘、馬は二〇〇円」と言っていたし、「弾は前ばかりではないぞ、後ろからも来るぞ!」などとおどかしたので、野砲の将校は、配属されている我々に対し、あまりやかましく言わなくなりました。我々が逆におどかしたのは、自分の身を守るために言ったのですが、効果があったわけです。(p266)松崎http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_264_1.pdf

独立歩兵第六十大隊の第三中隊(安徴四河口)に入隊した。そして軽機関銃班に編成され地獄の初年兵教育が始まった。・・・半年か一年先輩の古年兵が「上官の命は天皇陛下の命だ」と言っては、何とか理屈を付けてビンタをくらわせ、「お前らは消耗品だ死んでも一銭五厘(ハガキ代)でいくらでも代わりが来る」と言う。(p31)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_029_1.pdf

 満二十歳、甲種合格、北支派遣百十師団百十連隊に現地入隊した。昭和十七年十月一日連隊本部のある河北省易県城内で連隊長・黒須源助大佐は、千百人の現役初年兵に大きな声で馬上から「諸子の入隊を歓迎する。しかし予はここでは諸子の命をもらう。男子のほまれをまっとうして、皆の軍旗のもとで死んでくれ。連隊長は諸子の玉砕を期待するものである。」この訓示はまさに死刑の宣告でありました。(p121)河原

お前たちは一銭五厘で幾らでも代わりがあるが、馬は陛下よりの兵器だ。十分注意せよ」と常々戒められる。(p245)金子
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_243_1.pdf

 入隊して一カ月余りが過ぎ、気力も体力もヘトヘトで、限界である。まだあと二カ月足らずある。体力が持つかと思い、うとうとしておると、カツカツと長靴の音、週番将校の巡察である。銃の点検でカチンと音がする。しまった誰かが銃の装填落しを忘れた
 全員起床、ベット〔ママ〕の前に整列、一八〇センチもあるような将校が仁王立ちになり、「貴様ら、良く聞け。お前達は一銭五厘のはがきで、いくらでも集められる。兵器は国民の税金で造られる大変高価な物である。その兵器を休ませず、お前達だけ休んで良いのか。この馬鹿者。上等兵の初年兵訓練がなっておらん。たるんでおる」と言い捨てて出て行った。それからが大変である。(p133)森川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_132_1.pdf

 初年兵の頃、古参兵はよくこんなことを言ったものです。「お前たち兵隊は一銭五厘(郵便葉書の値段)で集められるが、馬は一頭百何十円もするのだ」と、軍隊という所は、人の生命より馬の生命の方が一万倍以上もするのだということで、「価値の高い馬を大切にしろ」と言うことを強調したのでしょう。(p284)山地
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_280_1.pdf

入隊当日はいろんな手続き等、古兵が優しくしてくれた。軍隊とはこんなものかと思いきや、「お前達は今日から陸軍船舶二等兵である。お前達の身に着けている軍装品は皆、恐れ多くも陛下がお貸しくだされた物である。絶対に粗末にすることは相ならん」と厳しい訓示である。(p126)米重
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_124_1.pdf

 消灯ラッパが鳴り響いてきます。「シンペイサンハカワイソウダネー マタネテナクノカヨー」「何をいつまでモタモタしているんだ。早く寝ろッ」と怒鳴られる。休む間もなく働き通しのうえ、怒鳴られ叱られ殴られて一日が終わります。
 カチッと音がします。「第二班の初年兵!起きろッ」やっと疲れた体を横にしての寝入りばな、整列した自分たちを不寝番の古参兵が睨みつける。「貴様たちは、よくものうのうと寝られるもんだな。この銃は畏くも天皇陛下から授けられたものである。その銃の撃鉄が起きていた、ということはこの鉄はまだ今まで働いていたんだ。鉄を手入れした貴様たちの全員の責任だ。鉄に、あなたを働かせて自分は寝ていて申し訳ありませんでした、と謝れ」(p78)河村http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_065_1.pdf

編み上げ靴のことを軍隊では「へんじょうか」といいます。編上靴の手入れで春夏秋はさほどではありませんが、冬は本当に泣かされます。零下三〇度以下にもなる兵舎の外で手入れをしなければなりません。
 ご承知かと思いますが、靴底には滑らないように鉄の鋲が沢山打ち付けてあります。冬ともなりますと鋲と鋲との間に雪と泥が詰まり、それがカンカンに凍ってちっとやそっとではとれません。それを取り除くのに竹を尖らせた「竹へら」で取れというのです。しかし竹へらではとても取れるものではありません。そこでナイフでつついて取り除くのです。そこを見つかりますと、「こらッ!初年兵、貴様たちはこの靴を何だと思っておるのか、畏くも天皇陛下から戴いた大切なものだ。ナイフで革に傷をつけたら天皇陛下に申し訳がたたん。竹へらでやれッ!」というのです。「天皇陛下」と言う者もこの時は不動の姿勢をとらなければなりません。
 息を吹きかけたり、こすり合わせたりして手の感覚を甦らせてやるのです。古参兵がいなくなるとナイフでつついて取りますが時間がかかりますし、多少は革底にも傷が付きます。古参兵たちも初年兵のときはナイフを使ったと思い、恨めしくも思ったものです。
 泥を取ると今度は保革油を塗るのですがこれは手指で塗らなければなりません。油ですから手入れを終わった後にセッケンでよく洗わなければなりませんが、そんな暇はありません。いきおい手はアカギレと霜焼けになります。アカギレのところから血を流しながら寒さに震えて手入れをするのです。(p72・73)河村http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_072_1.pdf

 消灯ラッパが静かに鳴りひびく。夢の床に就くや、コツコツ週番下士官が巡回しつつ銃の引金点検である。次々と引く。俺は何番目…「よかった」と思う。「カチン」と鳴ると「OO出てこい」で捧げ銃をして「三八式歩兵銃殿、長々と……致しまして申し訳ありません」である。軍隊は馬鹿にならないと勤まらない。(p113・114)持山

 銃の手入れが悪いものは、三八式歩兵銃に着剣して「捧げ銃」をさせて膝をなかばまげと号令します。そして「三八式歩兵銃殿、自分は大行山脈の風にふかれてモサーットしていて、あなたの手入れをおこたりました。許してください」と十遍、五十遍といわないともとにしてくれません。(p122)河原

すべて天皇陛下よりの御下賜品である、手袋、靴下に至るまで大切に使用せよとの厳しい教育でした。(p202)

 ・・・自分も上官や古兵の銃器を手入れした後に自分の三八式歩兵銃の手入れをして銃架に掛けておきました。突然班長が「ただいまから兵器検査を行う」と抜き打ち検査です。
 その時に自分の銃の床尾板のねじの溝に黄色い泥が入っていました。班長は烈火のごとく怒り「この銃は誰のか」でした。自分が名乗り出ると「馬鹿者」一言いって銃を持って下士官室へ引き返しました。数日前から班長は自分を「いじめ」ていました。西垣少尉(小隊長)は陸軍士官学校出身で、実に立派な陸軍将校です。その彼に私は実に良く可愛がられ「オイ小林ちょっと来てくれ」と何かについて指名されていたのです。それを憎んでの小銃引き上げ事件になったのです。
 班長室へ行って土下座して「天皇陛下より賜りし大切な三八式歩兵銃の手入れが悪く、心よりお詫び申し上げます」といったのですが、班長は知らぬ顔で他方を眺めながら煙草を吹かしていました。私は涙を流しながら一心不乱に、床に頭をつけて「お許し下さい」と一生懸命に懇願しました。
  最後には、どうしてよいか判断を失い、刑法懲罰でも、営倉(ブタ箱)でも軍法会議でもよい。この憎い班長を殺して自分も自決してやろうか、と物騒なことを、瞬間頭に思い描きました。隣の班長の計らいで「今回の不始末は許すが、以後絶対、兵器・武具を大切にせよ」となりました。このことは中隊全員に知れわたり、以後、小銃事件として語られていました。自分はこの苦い体験で「軍隊は運隊だ」ということを確信しました。(p205・206)小林
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_200_1.pdf

 勇名轟く脇坂部隊の原隊で訓練は猛烈、内務も厳正。「お前らは補充兵、一銭五厘の消耗品じゃ」と、ハッキリ引導を渡され、徹底的にしごかれ錬えぬかれた。(p133)權田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_132_1.pdf

 夜の点呼が終わって消灯、床に入れどもおちおち眠れない。週番上等兵が巡視に回ってくる。銃架の銃の引き金を点検する。もし「カチッと」音がすれば、その兵は叩き起され、きつい制裁を受ける。「銃が休んでおらぬのに貴様よくも眠れるか」と。(p251)岩崎

軍人の魂として、自分の体よりも大切にし日夜手入れしてきた武器は、単なる物としてすべて衛兵所の脇に積み重ねられた。(p278)酒井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_270_1.pdf

実は、その当時、このことが分かれば確実に死刑にされる菊の御紋章のある銃の木質部を焚いて暖をとり、それで私共は生き延びましたが、それができない多くの戦友達は、この四一〇〇メートルの山頂で凍死してしまいました。(p432)岡田

 野砲や山砲、その他大砲を持っている砲兵隊ですから軍馬は絶対必要です。兵隊の命より軍馬の方が大切でした。(p254)大塚
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_252_1.pdf

 岳州に着いて中隊長以下全員戦死されたと聞いて茫然とした。あの時自爆すべきだったかと自問自答したが俺にはできなかったのだと自分に言い聞かせた。自分のように死に切れなかった者が、あとで何人か帰って来た。「戦死した戦友に申し訳ないが、お互い命があって良かった」と抱き合った。数日して軍法会議にかけると言われて事の重大さに改めて驚愕した。「菊の紋章の入った三八式歩兵銃を捨ててきた」というのが理由であった
 影珠山に置き去りにしてきた山崎隊長はじめすべての戦友の遺体。せめて指一本でも持ち帰るのが戦場の習わしであるのに何一つできず、みんなうっちゃってきたのだ。大隊砲、重機、軽機、擲弾筒、小銃、夥しい武器全部置いて来たのである。軍法会議にはかけられなかったが、影珠山の死闘は、その後の私の人生に暗い蔭を今でも落としている。(p271)山田

 また、どの連隊にも同様の話があるが、三八式歩兵銃の手入れを完了して、安全装置をしたまま(必ず引き金を引いてバネを戻して伸ばしておく)銃架に収めておくと、私どもが夜の床に就いた内務班を週番下士官が巡回して、その銃架の銃のコーカンをサラサラ撫でていく。「カチッ」とコーカンが戻り部屋中にその音が響くと、上等兵、古参兵が頭を持ち上げる。
 「この銃は誰の銃ぞ」と週番下士官が、その番号を声大きく呼び上げる。その間の初年兵の顔面のひきつり、けいれん。「ハッ!それは私の銃であります」と、その持ち主が飛び上がって下士官の前に立つと、「貴様、陛下から賜った銃に仕事させながら、自分は大きな顔をして寝とるのか」。「気を付け」の命令でその銃を「立て銃」にした兵に「捧げ銃」の命、そして「銃様におわびのご挨拶をしろ」、「ハイ、三八式歩兵銃殿、私が悪いばかりにアナタに御迷惑おかけいたしました。以後かようなことは致しません。何卒お許し下さいませ」と、そのまま「捧げ銃」。見ている私どもまで冷や汗が出てきた。
 目もくらみそうなしびれを感じ出したころ、他班も見て回ってまた入ってきた下士官が「よし立て銃、以後気をつけろ」と帰るが、その後がまた大変「○○上等兵、よくもわしの内務班にキズをつけたな」と上等・古兵の制裁を受ける。
私は小銃も持ち、当時の十一年式軽機関銃も持っており、両機の手入れだったので本当に辛かったが、こ「捧げ銃」は免れた。銃剣の溝の挨、銃孔の挨なども厳しく検せられ、それによって兵の姿勢も大いに上達し、「これで日本軍人だ」との感もまた恐ろしさも感じた。(p297)森本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_294_1.pdf

包囲されたとき、背嚢は捨てろと言うのだが、初年兵は天皇陛下からの品物だからの思いが強く捨て切れず、重い背嚢を背負っているから動きが鈍く、撃たれて負傷する者が多かったですね。死体の首を標識布に包んで背負って来ましたが、ゴロゴロして背負いづらく、また重いのに驚きました。(p334)木下
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_329_1.pdf

 シュウーと数秒間の照明弾はパッと消えた。その瞬間、すぐ頭の上数メートルも離れていなかった。ワサワサ敵の話声が聞こえてきた。何を言っているのか不明であるが我等の存在を察知したものと思われた。もう駄目じゃ、その刹那そうきらめいた。菊のご紋章の入っている軽機関銃を私は持っている。それは陛下からおあずかりの兵器である。この身は死んでもいとわねど菊のご紋章の入っている兵器を敵に取られるということは軍人最大の恥辱である。陛下に対して申し訳がない。軍隊ではそのように教育されていた。しかも自分は負傷している。(p110)川戸http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_104_1.pdf

山浦瑞洲「一兵卒乃告白」1912年

 其の上夜間演習にて最も注意すべきは、携帯せる武器に傷を付けぬことなり。「武器は己の生命より大切にせよ」とは常々云はるゝこと、例へ銃の床尾板に鳥渡の擦り傷を造りたる位にても忽ちお目玉也。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/31

多賀宗之「家庭軍事談」1901年

古への武士は腰に差したる大小を己れが魂として、何かと云うふと直ぐに、刀の手前に対しても済まぬなど言ふたので、又刀に無礼を加へる者があれば、死を以て之を争ふたのである、今日の軍人は己れの所持せる武器に向って如何なる心持で居るかと云ふと、砲兵であれば大砲、他兵であれば小銃又は軍刀を、矢張昔日武士の如く己れの魂として居る、夫れであるから武器に少しでも塵が付着したり錆が付たりすると、其人の精神も錆て居るので、乃ち武器を大切にしない、軍事に不熱心だと云ふ事が解る軍人が軍事に不熱心であったならば戦闘に勝つ事は出来ない、何も武器を清潔に為さへすれば戦に勝つと云ではないが、武器を大切に為る心が乃ち戦に勝つので、つまり武器を大切にする兵は、軍事に熱心であるから大切にするのである、兵卒が始めて入営すると、軍曹が兵に試問をする、乃ち「汝の命と銃と何(どちら)が大切であるか」と、新兵は此試問を受けて如何にも不審の顔をする、軍隊外にありては七珍八宝も命には代へられない、此貴き命を銃一挺と比較するとは、問の奇なるにも程があると言はぬ許の顔付で、暫くは兎角の答も出ないが、軍隊では問はれて無言で居ると云ふ事は大禁物であるから、勇を鼓して正直に「銃よりは命が大切だ」と答へて、他の兵からも笑はれるので、当人には此問が不審で堪らない、けれ共此兵の頭に漸く軍事思想が入って来ると、成程と手を拍て銃の大切な事が解る、何故なれば、歩兵は遠戦に接戦に一に銃に依頼せなければならない、夫れ故戦闘中若し歩兵に銃が無かったら、戦闘する事は出来ない、縦ひ命があったからと云ふても役に立たぬ、銃ありてこそ始めて己れの命も役に立ち、歩兵の任務を盡せるのである、さうすると銃と云ふものは、命よりも大切である、七珍八宝は有っても無くても宜いもので、人の仕事の上には影響しないが、銃は少時もなければならない、夫れ故銃は七珍八宝とは性質が丸で異ふのであると云ふ事を悟る、他兵種でも同じ事で、砲兵の大砲は命よりも貴く夫れ故我国の砲兵は死力を以て砲門を護って居る、騎兵に於ても、工兵に於ても、輜重兵に於ても皆斯様で、つまり軍人は武器を以て己れの魂として居る、魂として居るから命より大切である、夫れであるから兵卒が己れの武器を愛するは恰も愛児の如く、兵営内にあっても、朝起床号音で床を離れると、先づ第一に銃の手入を為るので、又練兵が済めば直ぐに銃の手入である、縦ひ如何なる私用があらふが、銃の手入の済まない内は決して私用を便する事はしない、行軍などにて非常に疲労せる時でも、宿舎に就いたら何は兎も角、第一に銃の手入である、兵営内では毎週土曜日には必ず検査がある、其検査は単に舎内の清潔を検査する事もあれば、兵の官給品の整否保存を検査する事もあれば、又武器を検査する事もあるが、如何なる場合でも銃を検査されない時はない、若し銃に一点の錆でもあらふ者なれば、忽ち翌日の休暇には外出する事は出来ない之れは又兵卒の非常な不名誉である、練兵や野外演習の時も余程銃を大切にするが、誤って何かに衝突して爪疵程の傷でも出来れば、直ぐに軍曹の手を経て士官の検査を受けるので、疵の場所や大小に由りては、損傷の理由を始末書として中隊長に差出し、己れが不注意を謝せねばならない、夫れ故銃には一挺毎に銃の履歴書があって、之れには銃の何れの点に長さ幾何巾幾何の打傷とか、擦り傷があるとか、綿密に記載されてあって、中隊長は一々之れに実印を捺してある、故に軍人は銃の大切な事は肝に銘って居るので、仮令ば練兵中駆歩などする時に、誤って転倒する事があるも、己れの身体は疵が付ても決して銃に疵を付けさせないで、必ずしっかり握って居る、若し転倒の際に銃を二三尺前方に投出した者があれば、之れには必らず軍事教育の程度低き新兵である。
諸氏は屡々軍隊が行軍の途中、路傍に叉銃して休憩して居るを見るであらふが、此時若し他の通行人が誤って叉銃に手か足を触れて銃に疵を付けるか、又は叉銃を倒す等の事があったならば、今迄無邪気に他念なく笑談しつヽ休憩せる兵卒も、怫然として怒り、此隊付の士官も屹然として鋭き眼光を其方に向けるであらふ、軍事思想なき人は之を見て、却て此兵の激怒を粗暴と嘲り、傲慢と謗るであらふが、七珍八宝の如き無用物さへ、之れを破壊せば我を忘れて怒るは人情なるに、彌(まし)て己れの生命に等しき武器を損傷するに、之れを冷笑看過視し得べきか、昔なれば武士の刀に無礼を加へたと云ふて手打になるのであるが、今日に於ては単に軍人の一喝に止まる、之れでも矢張兵士の怒るのは粗暴であるか、傲慢であるか、諸子は茲に首肯する所があるであらふ、夫れ故此叉銃線は其隊の将校兵さへ之を跨いで線を横ぎり出づる事を許さない、彌て常人は、此叉銃線は横切ってはならない、夫れなれば一町も二町も叉銃してあれば、之を横過する事が出来ぬ様だが軍隊が叉銃するには、必ず通路として各小隊時として、分隊毎に叉銃の間を通行の出来る様に稍々広く明けてあるが、常人には一寸見ては解らぬ故、若し叉銃を横(よこぎ)らねばならぬ時は、其処に休憩せる兵に問ふて通過するのが緊要である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/842856/170

富永三郎「兵営訓」1903年 ※明治36年

 二四 武器の尊重
 軍人は戦に臨み敵に当るには、必ず武器を使用せざるべからず、故に封建時代の武士は寸時も帯刀を離す事なく、名刀は金銭を惜まず之を購ひ、家に秘蔵して有事の日に備へ、之を以て晴れの戦場に勇しく出陣するを常とせり。苟も帯刀に錆の生ずる如き事あらば武士の恥辱となし、手入ヲサヲサ怠りなかりしは吾等が古老の言に屡々聞く所なり、封建武士の帯刀は、実に今の軍人の銃器に相当し、歩兵戦斗唯一の武器にして、銃器なき歩兵は例へば翼なき鳥の如く、手足なき人間の如し、故に銃器は軍人の最も尊重すべきものなれば、其手入取扱ひは叮重に叮重を加へて之を愛用せざるべからず、若し之を破損するか或は錆痕を生ずる如き事あれば恰も古武士が其帯刀に錆を帯ばしむる如きものにして、恥辱之れより甚しきはなく、以て軍人精神の有無を察知する事を得べし。殊に現今使用の三十年式銃の如きに至りては、精鋭世界に比類なき良器にして、従て其構造も精巧を極むるが故に、其取扱に関しては大に精密の注意を要す。元来銃器は他の被服其他材料の如く、戦用として別に貯ひ置く者にあらず、平戦両時を通じて兼用するのみならず子々孫々に至る迄永く保持せざるべからざるものなれば、其心して叮重に取扱ふべし。
 吾人は戦場に臨み身を犠牲にして職責を尽すには、此の銃器の力を借らざるべからず、国家を泰山の安きに置くは銃器の賜ものなり、国威を海外に輝かすは亦此の銃器の威力なり。人は剛勇世界に比なく、銃器は精鋭万国に稀なり、如何なる敵か攻めて破れざる者あらんや。吾人は唯古武士が鋭利世界に比なき日本刀を愛せし如く之を尊重し邦家事ある時に備ふ可きなり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843224/53

皇軍実態集 体罰・私的制裁(3)

皇軍実態集 体罰・私的制裁(1)
皇軍実態集 体罰・私的制裁(2)
皇軍実態集 体罰・私的制裁(4)

 そのため第一乙種の私に、本人の思惑に関係なく現役兵徴集の通知があって、翌年二月、予想もしなかった金沢市の山砲兵第九連隊に入隊するよう通報があり驚きました。私は兵種の持つ意味の深さは知らなかったが、軍隊経歴を有する父は非力な私が山砲隊入営の羽目になったことでショックを受け、私の前途を危倶してか、涙を流していたことが今でも思い浮びます。・・・
 こうして兵力増強の過渡期に徴兵された私の初年兵時代は、実に悽愴でした。
一、体力的な劣り
分解した砲身(代用)が両腕で持上がらず罰として昼食が抜かされることがしばしばあり。
二、大和魂の欠除
やればやるほど、疲れて砲身上げは駄目、「大和魂が入っていない。」と、どなられ。「魂だけなら誰にも負けません」と、いったら目から火玉が出るほど、撲られた。(p190・191)

 だが泊りがけの演習の野営地で古兵に呼ばれ「二・三年兵の神様、仏様(古兵のこと)が徒歩で馬を挽いているのに、ド新兵のキ様が馬上で居眠りをしていた」と、気合を入れられ、口元が裂け血がほとばしるほど叩かれた。これは初年兵の私が馬に乗っていることに対する「いやがらせ」の最たるリンチだったと思う。
 こうして、何かというと「天皇に代って…」を口実に、苛責なき私的リンチを加えられた私達初年兵も、一期の検閲を終え、・・・(p191・192)新田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_189_1.pdf

行先は熱河省承徳の第九独立守備隊の歩兵第十三大隊で、関東軍で唯一の実戦部隊で八路軍相手だと教えられ武者震いした。・・・漸く興隆に着いた。各中隊から初年兵係が新兵受取りに来ていた。夕食後、いろいろ注意や指示があった。目を閉じて聞いていると突然「眼鏡の兵隊眠っているな」「いいえ眠っていません目をつぶっているだけです」これがいけなかった。「貴様、文句があるか」ビンビン往復ビンタ第一号のお見舞いだ。軍隊生活で何百発と受けたビンタの始まりだった。・・・落後第一号でビンタ第一号の私は特に目標にされ、何かにつけ先ずビンタである。平手ビンタ、ゲンコツビンタ、上靴ビンタ、帯革ビンタ等ビンタオンパレードである。口の中は裂け、唇は分厚く腫れ上がって治るひまがない。歯はガタガタになり顔は腫れて変形した。
 射撃の成績が悪かった罰として「踵を上げ、膝を半ば曲げ、棒け銃をして腕を前に伸ばせ」をやらされた時が一番こたえた。一分間も過ぎると油汗が出て膝がガクガク体全体が震え出して悔し涙が流れ出す。腕が疲れて下がると上等兵が待ち構えて撲る蹴飛ばす。兵長はそれを見てせせら笑って上等兵に「モットやれ」とけしかける。入隊前に抱いた愛国心。帝国軍人の誇りとあこがれは無残にも打ち砕かれ新兵は哀れ私刑に戦く奴隷に過ぎなかった。(p168・169)椎原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_167_1.pdf

私は二十一歳、臨時召集。一片の赤紙にて昭和十七年四月一日鳥取中部四十七部隊に入隊、連隊長沢貫一大佐、中隊長山根光夫中尉である。・・・
初年兵は飯上げ、兵器の手入れ、古兵の身の廻りの世話などで大変である。生水を飲み下痢が続き、皆困り、入院兵も出る始末である。私は水を飲まず、煮沸湯を飲み、何とか倒れずにすんだ。戦闘教練には毎日気合が入り、厳しさが増し、毎日のごとくビンタがとぶ。兵隊と背嚢は叩けば叩くほど良くなると言い、教育された。(p87)小林http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_086_1.pdf

甲種合格で、昭和十七年二月十日関東軍要員として西部三十三部隊(徳島)に入営の日を待ちました。・・・
 十日午前九時入隊、第二機関銃中隊福見隊に編入され陸軍二等兵となる。いよいよ兵隊としてのすべての基本教育が始まりました。銃器の分解、組み立て操作、内務行事などに秒を争う毎日で一日の日の長さ。十日も過ぎる頃には整列ビンタもそこここに始まる。
 四月、一期の検閲を終え、満州百六十六部隊二十大隊一中隊に轉属のため、思い出深き徳島三十三部隊を後にする。時に四月二十八日。五月五日前記中隊藤隊)に編入された。三年兵石川県、二年兵山形県、初年兵愛媛県という編成の中、同郡同町の者等おらず、愛媛県東宇和郡では私ただ一人という有様で、現役ばかりの部隊(独歩)でありました。
 編入の記念写真を撮り、中隊全員の会食となり、終って気長く一服しておりましたところ、急に古年兵の悪さが始まり、「初年兵さんよ南国四国から来て南方ぼけするなよ」との口上と共に食器もろとも机がヒックリ返され、内地よりまだまだ酷い仕打ちを受ける。(p66・67)
中川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_065_1.pdf

 私が入隊したのは、昭和十八年十二月一日。水戸東部第三十七部隊第三機関銃中隊であるが、私は、十五名の者と共に、大隊砲教育班であった。ここでの初年兵教育は想像以上に過酷なもので、教練はもとより、内務班では、禁ぜられているはずの私的制裁が堂々と罷り通っていた。後で判ったが、私達はいわゆる学徒出陣組がほとんどで、幹部候補生要員だったために、「貴様等は半年もすれば見習士官になって帰って来て対面するんだ。焼きを入れるのは今のうちだ。」という。
 上等兵や古年次兵の羨望のような感情が、憎しみになっていたようである。中隊長の精神訓話の時間に、居眠りをしたという廉で、一月中旬の、十センチ位も氷が張り詰め、背丈以上も深い防火用水槽へ飛び込まされたようなこともあったが、とにも角にも苦しかった一期検閲も終わった。
 翌十九年五月一日、一装用の上衣の襟に、伍長の階級章と座金をつけ、甲種幹部候補生として、豊橋第一予備士官学校に入校した。歩兵砲中隊、大隊砲第四区隊である。『鬼の天伯、涙の高師』といわれた練兵場での訓練は、初年兵教育にも増して酷しくはあり、時として、対向ビンタを課せられたりはしたが、同列同級であるので、私的制裁は全く無いので、水戸の部隊よりは、遙かに気が楽であった。(p62)猪瀬
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_061_1.pdf

 昭和十六年五月勤務地(旧満州国撫順市)での徴兵検査で甲種合格の言い渡しがあり、同年十二月十日朝鮮第四十三部隊に入隊した(北朝鮮咸興市)。
 演習を終え、ひとたび内務班に帰ると、精神教育と称し、古参兵の初年兵いじめにあった。些細な過失、失敗(①銃の手入れ不充分、②班内の掃除不良、③動作の緩慢等)でも初年兵の連帯責任として全員が罰をうけ(対向ビンタ、長時間の腕立て伏せ等)精神的肉体的な苦痛を味わった。(p35)上田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_035_1.pdf

 入隊は丹波篠山の旧歩兵第七十連隊の跡で、中部第一六八部隊だった。教育は六ヵ月程だった。当時は私的制裁撲滅運動中だったが、昔から篠山連隊は健脚部隊として訓練の厳しい所だったので私的制裁も厳しかった。容赦なくビシビシやられたため、兵役免除になった者もいた。中でも私の第一機関銃中隊長は松実中尉といって、士官学校出身の現役バリバリで、特に教育は厳しかった。(p386)後藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_385_1.pdf

 昭和十八年一月十日、第四十五次補充員として第十三師団第六十五連隊第二大隊第七中隊(鏡六八〇五部隊)
連隊長   桜井 徳太郎
中隊長   熊谷 健弥
教官    越智 慎吾
の隊へ配属され、武功輝く伝統を誇る白虎部隊の健児となりました。・・・
 戦地において初年兵の教育を受け、一期の検閲も無事終わり、その間、各地の作戦に出動した部隊を転々と追及して沙市、涴市、老城等へと移動しました。第一小隊分哨一三名全員戦死、その他小さい損害も区々に生じたが、間もなく一選抜上等兵に入るという幸運に恵まれ、希望に燃えて毎日の軍務に精励しました。
 ところが好事魔多しとか、思いもかけず悪性の下痢病と熱帯熱に冒されて、その上、古年兵から前歯を折る等の暴行制裁を受け、苦しく悲しく辛い地獄の日夜を送り、遂には自殺を思いたつこと二回に及びました。(p334・335)若林http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_333_1.pdf

 その間に、若い補充兵が入って来て、私は擲弾筒分隊員となっていた。補充兵に対して古参兵は随分厳しくしていました。「食事後の飯盒などの洗い方が悪い」などと言って、我々に「補充兵を叩け」という。私は叩くのはいやなので、いやいやながら叩く。古兵は今度は私たち同年兵に「そんな生半可な弱い叩き方では駄目だ、こう叩くんだ」と逆に叩かれたこともある。(p286)

 ある陣地で警備していた時、後方から食料が補給されないので、民家から米や鶏・家鴨・黒豚などを徴発する。しかし野菜が全然ないので栄養が偏り、私も顔が浮腫んでお多福のようになり、眼も見えなくなり陣地を降ろされた。その時、また古参兵に怒られ帯革で叩かれた。経験者でないと判らないが痛いですね、とにかく帯剣や弾薬盒を通す太い帯革ですから。特に体が弱っている上にマラリアにも患っているのだから本当に辛かった。(p286・287)岡田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_283_1.pdf

 一週間たったら満州第一三一三一部隊(第一一二師団工兵隊)に転属となり、・・・新兵を迎えて、お客様扱いも二日間だけ、そのあとは事あるごとに「貴様らは一銭五厘でいくらでも補充がくるが、馬の方が貴様らよりも大切なんだ」と怒鳴られてビンタの嵐で鍛えられましたよ。・・・
この部隊は沖縄に転用された部隊の残留者を基幹に最近編成されたものらしく、あちこちの寄せ集めの兵隊ですから気合の点では今一つでしたが、何といっても関東軍の気合は未だ残っていましたからビンタは凄かったですね。私は入隊する時は眼鏡の予備共に三ッ持って出たんですが、酷寒零下二〇度の琿春ですからセルロイド製の眼鏡枠が凍って折れ易くなっている所へビンタですから、たちまち一つだけになってしまいました。(p265・266)森重http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_265_1.pdf

 昭和十九年十月一日、やっとのことで陸軍雇員(判任官待遇)、営外居住となった。三年余に及ぶ外地勤務者への軍のせめてもの罪滅ぼしといった感じである。しかし、それは僅か十日間で終わり、惨めな初年兵教育が待っていた。十月十日、今までは扱いは最下級でもメンコの数で威張っていた私達も、初年兵となってはどうにもならない。なまじ同じ部隊であることが気持ちの切り替えに災いし、何と哀れなことかという思いばかりが先に立った。
 教官は歩兵予備士官学校で島嶼守備隊長になるための特訓を受けた見習士官で、いざ南方に来てみたら、守備すべき島は既になく、思いもかけず気象隊に配属になり、書いたことなど無い天気図を書かされ、雇員に笑われていた矢先、オハコの軍事教練の教育である。班付は(全員ではなく中には大変人間味溢れる人もいたが)軍隊大好きの下士候上がり上等兵は、こんな民間人の集団のような部隊は快く思っていない。皆んな水を得た魚のように張り切ってシゴいてくれた。蝉(柱にしがみついてミーンミーンという)、鶯の谷渡り(長椅子間の腕立て伏せ)、各班回り(どうして気合を入れられているのか大きな声で申告して回る)等一通りの教育はして貰った。救いは、そんな教育が僅か二十日そこそこで済んだことである。(p247)森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_237_1.pdf

正式に申せば、横須賀海軍通信学校第六十二期普通科電信術練習生として入校したのである。・・・
 練習生入校中で忘れられないのは、同県出身者の先輩に世話になったこと。辻堂演習で民家に宿泊し、江の島までの追撃戦で走り、足を痛めたこと。通信演習中一月の寒中で富士の裾野に雪が降り続く夜、教員の洗濯物が紛失して取調べられ、全員褌一つの裸になり木刀で尻を存分に殴られたこと、連帯責任での制裁である。尻の皮が紫色にはれ上がりやがて黒くなって行く、軍人精神注入棒で徹底的に叩き込まれる。
 学校より実施部隊の方がまだまだひどいと聞かされる。先任兵長が整列をかけ説教のあと古い兵隊より順次に殴られる。これは海軍の伝統的な制裁であり総ての者がこの制裁を受け耐えてきている。(p207~209)

 内地を出て五十日の長旅であったが、心配された敵潜水艦の攻撃もなくて無事六月二十八日、第六十二警備隊に入隊する。所在地は、ヤルート環礁内のイメージ島である。・・・
 初当直は放送電報受信と、電報取次ぎである。取次ぎの仕事は受信した電報を暗号室にて翻訳したものを司令以下各科長に届ける仕事である。当直者以外は各種訓練、整備作業、陣地構築等の毎日であり、夜の巡検後は毎晩のように先任兵長による整列がかけられ、説教のあと精神棒(バッター)をくらう。古い兵隊より順次に行われ若い兵隊になるに従って数が増す。これは海軍の伝統的なしきたりというものであり、それも入隊後の平穏な時期のみであった。(p212・213)根津
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_204_1.pdf

昭和十八年五月十七日、待望のダバオ入港。ダバオは緑の中にある街だ。日本人も二万人ぐらいいてマニラ麻の栽培やラワン材の切り出しなどやっていて小学校も幾つかあった。市街の北方二〇キロのテブンコ小学校に着き、そこを兵舎として厳しい初年兵教育が始まった。・・・
 答えがまずかったり態度が悪いと、厳しく気合をいれられる。軍隊はとくに機敏な動作が要求されるので、のろいとビシビシとビンタを食らう。起床から消灯まで息つくまもなくしごかれる。(p121・122)大矢
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_118_1.pdf

 十二月一日、西部第三十二部隊に入隊し、歩兵砲中隊に編入され(中支那派遣軍要員)、・・・寒風吹き荒れる丸亀練兵場で、敬礼に始まる徒手訓練は緊張の連続、おまけに慣れぬ軍服に編上靴に巻脚絆、まるで田舎の蓮根畠に足を突っ込んだ感じで、友も同じだろうが身の動きままならずで歯がゆく、特に丸亀一周早駈けは顎を出し、教官の見えない裏側で呼吸を整え、示し合わせて走った。並んで走る駈け足では遅れたり私語を発する者には遠慮無く教官の鉄拳が飛んだ。(p60・61)

 行軍中は休憩時よく「ボテ」た兵を見る。ビンタを張られる兵(主に同年)を見て涙が出る。(p65)大原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_057_1.pdf

この列車の中で初めて我々の行先が北支大原電信第九連隊であることを知らされた。・・・内務班での生活は、話では聞いていたが、人間的な扱いはほとんどされず、僅か一年先に入隊した者が教育の名のもとに、僅かな間違いでもいろいろな方法で傷めつけ、全く人絹〔ママ〕を無視した行為を楽しみのようにして行っていた。
 こんな行為を見て見ぬ振りをしていた、将校、下士官、こんな行為が真に軍人精神向上に役立っていたのであろうか。・・・
 昭和十八年六月末頃、一期検閲も終わり、星二つの一等兵となったが、初年兵の標識は引き続き剥がされることなく、内務班での生活は相変わらずではあるが、多少要領も覚え、使役の合間を縫って鉄拳より逃げる方法を考え、夕食後は内務班に残らないようにした。(p374・375)長谷川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_374_1.pdf

 五月十日に久留米第一陸軍予備士官学校へ入学しました。・・・短期間に、多くの大切な兵の命を預かる隊長に仕上げねばならぬ。教官側としては、訓練にも自然と熱が入り、我々はよく殴られましたがよく耐えて、昭和十八年十二月、同校卒業の日を迎え、晴れの帯刀姿の見習士官になりました。(p371)河村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_370_1.pdf

・・・徴兵を待たないで海軍に志願し、昭和十八年四月二十日大竹海兵団に入団しました。
 海兵団の訓練は当然厳しかったが、皆新兵でしたので水兵としては、銃剣術などの戦闘基礎教練など一般的な教育は約三か月で、内務では精神注入棒で叩かれたのは当然でした。(p357)末宗
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_357_1.pdf

軍隊は昭和十五年徴集で、昭和十六年一月十日徴集兵(後に志願兵)として、舞鶴海兵団に入団したのです。
 入団して海軍四等水兵となり、昭和十六年三月十日、横須賀の通信学校へ入校しました。・・・
 私は青年学校に籍を置いていたが、海軍のことは九九%ほとんど教育を受けなかった。だから、海軍についてはまるっきり判らない。海軍用語は独特なので、陸軍の用語を使うと上級者から叱られる。
陸軍では「○○殿」、海軍では呼び捨て、陸軍では「○○閣下」というが、海軍は「○○艦長」と呼び捨てだった。そのようにあらゆることが、狭い艦内で生活するので簡単にしてある。敬礼でも、顔近くに掌を着けてやる。陸軍式に肘を張ってすると叱られる。私は子供の時から陸軍を見ていたので、中々矯正出来ませんでした。
 体罰では、精神注入棒という「バッタ」というので叩かれると歩けなくなる。しかし、叩く方が上手に叩く。こつがあって、無茶苦茶に叩くと内出血をおこす。ビンタは必ず拳骨、平手でやると鼓膜を破ることがあるから。
 しかし、ビンタを徹底的にやられると食事も出来ない。海軍は徹底的に鍛える。毎晩のように制裁の時間帯がある。就寝前約三十分ぐらい、烏の鳴かぬ日はあっても制裁をやられない日は無かった。(p348・349)井沢
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_348_1.pdf

 昭和十三年の徴集兵、四月の検査で甲種合格、入営は昭和十四年五月一日、歩兵第四連隊留守隊(仙台)へ入営し、一期検閲は七月末でした。八月上旬、同年兵の主力は中支の歩兵第一〇四連隊(第十三師団)に転属したが、私は原隊に残りました。
 原隊での初年兵教育は厳しかった。飯が食えない程でした。古参兵は満州帰りの歩兵第四連隊の人、朝鮮の羅南、関東軍帰り及び後備兵と何段階もいた。内務班は辛い、毎晩ビンタは消燈後で、何処かの班で始まると「あの音聞いたか」と、ビンタが始まる。その時はまだ私的制裁が多かったです。(p330・331)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_330_1.pdf

召集令状には「東部第六十七部隊(新潟県高田)入隊」とありました。
 当日、高田連隊から軍曹が一人見附駅まで迎えに来てくれ、部隊入隊は十一時過ぎであり、見附町からは二名でした。私は第五中隊(潮田隊)配属で第三班に入ったが、お昼に班付兵長から「今日お前たちの入隊日であるから赤飯と尾頭付のご馳走でお祝いする」と言われた。夕食時に初年兵がマゴマゴしていると、古兵の目が光り「何時迄お客でない、夕食からお前達初年兵の番だ」と言われた。
 翌日から古兵の目が光り、ビンタが始まった。当時私は初年兵の中で一番年輩者だった。また、班内には連隊一番の質の悪い一等兵の古兵がいたので、初年兵には毎日ビンタが飛び、辛い毎日であった。(p320)

 私達初年兵は、十二月二十四日午後営庭に集合させられた。部隊長より「教育召集を解除し、同日臨時召集、同日附東部第六十四部隊(千葉県佐倉)に転属」の命令が出た。・・・我々初年兵は「今日からは原隊と違ってビンタ無しで眠れる」と思ったら相変らず、佐倉の週番上等兵にビンタを貰って眠るということで、軍隊という所は何処へ行ってもビンタが付いて廻ると思った。(p321)

 南京から漢口の部隊本部までは中国の大きな船で揚子江を遡航し、三日ぐらいで到着した。・・・我々は対岸の武昌で一か月位の現地教育を受けることになった。・・・翌日から教育が始まったが、内地と違い気も荒い、下士官も古兵も野戦経験者であるから張り切っている。特に古山兵長は厳しかった。ビンタは力一杯、また軍靴の底で顔を捻る。軍隊生活ではどうしようもない。(p322)

 昭和十九年九月、高山茂中尉以下初年兵が入って来たので、私たちは一か年の初年兵生活を終わって、古兵になったので大変楽になった。しかし、今度の初年兵は三十過ぎの年配者が多かった。私は自分の一年間の初年兵時代を思い、初年兵の面倒を見てやろうと決意した。同年兵の中には「申送りだ」とビンタを毎日とる者もいた。私は仲に入り初年兵を何度も助けたので感謝された。私は班内でビンタをやったことは一度もない。(p323)長谷川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_319_1.pdf

 七月一日、天津、保定、聞喜を経て安邑(運城の東)着、歩兵第二二六連隊(第三十七師団―冬兵団)に着いたのです。・・・
 安邑には連隊本部があり、教育は黄河の方へ移動しての訓練でした。私の中隊は暑い盛り、風の無い畑ですから相当厳しいものでした。私は軽機関銃班でしたし、戦闘に行く前の訓練故、夜間を想定して、黒い眼鏡をかけさせられ、軽機関銃の部品を放り出し、それを捜させる。捜せないとビンタを張られ、夕飯を食べさせられない。軍隊の訓練は厳しいことは知っていても、理屈なくてもやられる。無茶苦茶だ。(p302)伊藤http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_302_1.pdf

 「重機には力の強い兵隊だけだ」と十一月中旬河北省南部、深県第二大隊第七中隊に配属になりました。現地教育ですから毎日が緊張の連続で、心身共に疲れました。
 昭和十九年一月十五日付にて大隊本部勤務を命ぜられました。この時点で中隊内における私的制裁(殴る)である上級者が下級者に対する暴力行為から開放され「ヤレヤレ」でした。(p291)清水http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_289_1.pdf

 転属先は春二部隊第四中隊(北支派遣 独立混成第八旅団独歩第三二大隊第四中隊)であります。・・・初年兵教育の掟として、曹長は「兵は叩いて鍛えよ」との方針で、もう徹底的に鉄拳制裁を受け、一日に何十回も殴られた。今思えばよく耐え忍んだものとぞっとする(次年度兵より制裁禁止となった)。こうして毎日毎日叩かれ叩かれて自殺を何回も考えた程苦しみつつ、初年兵教育を受けました。(p281)

 ちょうど黄砂に出会って帰隊、上級者の分を先にやり、その後自分の兵器等の手入れを終わった際でした。突然班長が来られて、班員の銃の検査を始めました。運悪く私の銃の黄砂が一部拭き残っているのが発見され、銃を班長室へ取り上げて私に返して呉れません。私はもう大変なことになり心からお詫びをしましたが、班長は一向に聞き入れてくれません。上等兵、古兵から気合を入れられたことは申すまでもなく、私は到頭泣きながら謝ったことです。でも聞き入れて呉れません。
 二日間食事もとらず、一生懸命に謝り続けました。しまいにはもう、どうしてよいか判らず、自殺も考え始めました。憎い班長を殺して自分も死んでやろう。物騒な考えです。また短い人生の生活の一駒一駒がとくに入営時の家族の、町長の、会杜の上役の激励の様子等が走馬灯のように頭をよぎります。食事もとっていないので、もう瀕死の状態で正常な判断力もない時点でした。
 お隣の班長の仲介でやっと許して貰いました。私の軍隊生活で忘れることの出来ない辛い辛い思い出です。(p282・283)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_280_1.pdf

衛生兵の勤務について話をしてみるが、歩哨、不寝番、使役などの一般勤務は無い。点呼の時は、週番士官、下士官の後について兵隊の健康状態を見る。一日の業務内容を衛生日誌につけて中隊長、人事係准尉に提出する。それが私の日課である。その間、兵隊で弱い人、頭の弱い兵隊にかさにかかっていじめる古兵もいた。緊張したり、叩かれたりすると小便を漏らす者もいた。(p264)西岡

 私は昭和十七年四月十日、福知山歩兵第一三五連隊歩兵砲中隊に教育召集の目的のために入隊しました。大正十年五月七日名古屋で生れたのですから、入隊は現役とほとんど一緒でした。
 厳しい訓練が毎日続き、夜は夜で野戦帰りの古兵が、なんらかの理由を付けて「弛んでいる」と総ビンタ、対抗ビンタなどいろいろやらされました。また、鴬の谷渡りなど、寝台の手摺りにつかまり、次の寝台へ渡る。体重を腕で支えての連続で「ホーホケキョ」など鳴き声までして、家の人には見せられぬ姿でした。
 これが軍人魂を鍛える方法とか言われておりましたが、古兵の人によって違い、教育のための人と、個人的なものと、あるいは家に帰れない腹いせや、自己顕示したいのもいたのです。しかし、その後の苦しい戦場での経験、終戦直後の物資の乏しい生活において、耐えることができたのは、この初年兵時代の屈辱に耐え得た試練克服のお陰ではないかと思っております。(p221)奥村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_221_1.pdf

 昭和十七年五月十七日付で私も教育召集を受け、善通寺の輜重連隊、騎馬隊に入隊し、馬の扱い方を教えられました。・・・
 初めての日曜日に舎内休暇があり、分隊長は午前八時過ぎ外出しました。班内は兵隊だけ三十一名いたが、誰となく煙草を喫い出しました。午後五時前、分隊長が帰り、班内に入るなり「誰がこんなに煙草を喫ったか、全員廊下に整列」という。皆向かい合いになって並ぶ、右側一番の兵のビンタを叩き「軍隊のビンタはこういう要領だ。ビンタ始め」と言っておいて私は分隊長に呼ばれました。
 班内に入ると「原田、何故皆が煙草を喫うのを止めさせなかったか」といわれましたが「私には止める権限はありません」とはっきりいいました。分隊長は「よろしい」と言い、全員夕食を食べることを許され、全員班内に入り、分隊長に謝りました。全員、美味そうに煙草を喫っていました。(p20)原田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_018_1.pdf

(陸軍兵器学校を)卒業が間近になった昭和十九年二月、開通して間もない関門トンネルを往復して佐賀市の北にある通信連隊で五日間、内務班で一般の兵隊と起居を共にした実習が行われた。軍隊の内務班の実態はこういうものなのだとの実習である。教練には参加しなかったが実習中に雪が降り、広い営庭が真っ白になる大雪だったとのことでした。
 軍隊では殴られると聞いていたが、その実態を見て、なるほど別世界だと感じました。夕食が終わると古参兵が、何かと理由をつけて殴る。素手ならまだしも、木銃で殴る。けがをしないかと心配しました。これが毎晩あるわけです。一番奥の窓際にも古参兵がいました。この兵長は現役の外、二度も召集されて弾丸の飛び交う実戦の場を何回も体験した歴戦の兵隊で、教練はすべて相済みだと、日中でも班内にいました。
 私たちとその兵長だけで懇談しました。いろいろの話の中で、毎晩だれかが殴られていることに質問しま「古参兵が毎晩だれかを殴っている。昨夜殴られた者には殴られるほどの理由がなかったと思うのに、最古参兵の貴方は見て見ぬ振りをして止めようとしない。何故か」と「叩き上げた兵隊でないと、弾丸の飛び交う戦場で使いものにならない。おとなしく教えただけでは撃ち合いの戦場で腰が抜け、犬死にしてしまう。国のためにも、本人のためにも、度胸のすわった、戦場で立派に役立つ兵隊に仕上げるために叩くのを止めないのだ」と言う。「戦場は殺すか殺されるか、勝つか負けるか、命がけの戦場であるぞ」と戦闘の模様を話された。年配兵長の風格からも、この説明を納得したのである。軍隊は一般社会とは違う別世界であります。(p423・424)飯野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_420_1.pdf

 昭和十九年十月十五日、沖縄守備軍である第三十二軍、與那原の重砲兵第七連隊(球四一五二部隊)に入営しました。・・・初年兵のうち十二人が選ばれ、連れて行かれた部隊が重砲連隊でした。将校は北村少尉で大変かわいがられた。初年兵が古参兵に制裁をされるとき、私は通信室勤務に行かされた。通信室は秘密で、部隊長・通信将校・下士官しか入れない。制裁しようと古参兵が追い掛けてきても室には入れない。(p403・404)島袋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_403_1.pdf

 入営は昭和十八年九月一日、九州太刀洗の第五航空教育隊でした。・・・
 教育は一般の兵科も一週間に二回ぐらいやるのですが、その他は主に航空写真機の修理の教育です。第五班だけが特殊技術の教育で、鎗(やすり)の使い方から教育を受けます。私は鉄工場で既に修得していて、内務班でも技術は右翼(上位)でしたし、班長の受けも良く、下士官当番でした。
 そのため厠(便所)当番や食事当番もやらずに恵まれました。これがかえって古参兵の意地悪というか、私的制裁には随分あいました。「急降下爆撃」というのは、足の爪先を整頓棚に載せて頭は下に下げる。そのため頭に血が下がって、五分もしたら目眩みがする。連帯責任で戦友と対抗ビンタをやらされる。戦友の頬をこちらが打つ、戦友が私の頬を打つ、戦友同志だから手加減すると、古いのや先輩が「こうやるのだ」と、力一杯叩かれるのである。古参兵は案外やらぬが、半年前に教育を受けた前期の者から消灯後やられました。私的制裁に対しては部隊長はやかましかったし、中隊長も温和で、禁止になっているのですが、陰ではやられたのです
(将校は営外居住で、週番士官しかいない)。(p381・382)

 (病院での)食事はお粥茶碗一杯に梅干二個で二食、他の副食は何もなし、私の軍隊生活では一番苦しかったのです。そのとき、班長が病室まで来て「貴様たるんでいる」と私的制裁のビンタを随分くいました。(p384)澤田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_380_1.pdf

 昭和十六年徴集、兵隊検査では第一乙種合格、十七年一月に現役兵として呉海軍兵学校へ入団しました。・・・
 入団は海軍工作兵とし四等水兵でした。海軍の訓練は厳しいことと覚悟していましたが、初年兵のときはえらかった。苦しみました。毎日のように精神緊張棒というバットで尻を叩かれる。自分はなんぼ良くても、戦友との連帯責任だから毎日叩かれるのです

 私は昭和十八年八月七日佐世保第二海兵団へ、現役兵として入隊しました(甲種合格)。・・・軍人生活最初の苦しい思い出は短艇漕ぎ訓練です。・・・先ず第一に手に豆ができる。オールがバラバラで揃ってないと気合を入れられて叩かれる。・・・そうして入隊五カ月余りして今度は横須賀の海軍航海学校へ入校を命ぜられて横須賀へ移りました。通信教育です。・・・双眼鏡で相手の信号を読みとる。文章にして報告する。間違っていると上官から叩かれる。(p359・360)石川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_359_1.pdf

 昭和十八年六月一日、新発田の歩兵第十六連隊に入隊、下関から朝鮮にわたり、貨物列車に乗せられて着いたのが上海近郊の浦口県城駐屯の中支派遣軍原第七九三六部隊第三中隊(小野大尉)です。古年兵は長野、群馬、栃木出身の現役兵で二十二歳、こちらは新兵だが三十一歳の召集兵、軍隊でもの言うのは飯の数ですから、イヤーやられましたね。酷かったですよ。一期の検閲まで毎日毎日演習で、着弾筒扱いの教育ですが、途中で足を負傷して小銃班に変わりました。演習が終われば銃剣術の練習で絞られました。
 内務はピンタの連続、苦痛の連続ですが、強い兵隊になるためだと自分に言い聞かせて辛抱しました。(p349)渡邉http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_348_1.pdf

「中支派遣第二十二師団第八十四連隊よりお前たちを引率する○○曹長だ。今後は班付佐々木上等兵の指導を受ける、よいな」と言い残して班内より去って行きました。・・・
 日が経つにつれ兵営の生活にも忙しさとともに馴れてきて、毎日実戦を想定しての厳しい訓練が続く。夕食後の学科は毎日のようにビンタ、くどくどと班付の文句、その後はビンタ。ようやく床に就いたころ、週番上等兵が木銃を持って班内を見回る。整頓棚の整頓が悪い、編上靴の手入れが悪い、兵器の手入れが悪い、毎日何人かがビンタの材料になる。二カ月、三カ月ころには「今晩もビンタか」と諦めの状態が毎日続く。(p325)千葉
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_323_1.pdf

昭和十三年四月、徴兵検査で甲種合格となり、昭和十四年一月十日に横須賀重砲連隊第二大隊第三中隊第六班に入隊しました。・・・誠に過酷な訓練で、疲労困値の極に達し、隊に帰る毎日でした。夜は古参兵の精神訓話とびんたを食う明け暮れでした。
 また、横須賀地区の「米が浜」砲台では、二十八センチ榴弾砲の操法及び海岸より侵入する敵艦艇の射撃を想定して、観測法一点図解の測定法の訓練です。班長に頭を叩かれ生傷が絶えないほどの厳しい訓練を受けたものです。(p217・218)川島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_217_1.pdf

 昭和十七年徴集の現役兵として昭和十八年四月に各務原の飛行師団第一航空隊に入隊しました。・・・入隊後間もなく加古川の第二航空教育隊整備中隊に転属。ここで九月まで初年兵教育を受けました。教育内容は一般歩兵の初年兵教育と共に整備兵としての教育も加わりなかなか大変でした。
 また内務班の扱き(しごき)の厳しさは並大抵なものでなく、ビンタは第一日目から始まり、編み上げ靴で顔面殴打で顔面変容するすさまじさです。およそ内務教育の範疇を超えた仕業で、古参兵の日々の気分次第で扱き内容も日々変化がつけられました。
 編み上げ靴が損じたため修理に出した際、「貴様は新しい靴欲しさにわざと靴をこんなに壊してしまったのだ。そんな奴は営倉行きだ」と激しく叱責され、「そんなことはありません」と最後まで主張を曲げず頑張りました。お陰で身上調書に「強情者」と記入され、除隊まで軍隊生活の終始、この身上調書が私と行いを共にしました。(p359・360)大野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_359_1.pdf

 昭和十四年四月、現役兵で和歌山の歩兵第六一連隊補充隊歩兵砲中隊に入隊、昭和十八年十月に宇品からスマトラに向け出発、スマトラ島の警備に従事し、終戦の年の一月タイに移動しました。・・・
 今の若い人には想像もつかないでしょうが、往復ビンタ、対面ビンタ、長時間の腕立て伏せ、鴬の谷渡りなどなど想像を絶するような体罰がありました。(p260)西畑
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_260_1.pdf

 昭和十八年徴集兵としては一番最後の三月二十日、現役兵とし東満州の東安省半載河、第三国境守備隊第五十部隊入営のため連隊区司令部の指示で集合、入隊手続をし、広島駅より軍用列車の鎧戸を下ろしたまま博多に向かいました。・・・内務班での教育も精神教育を通り越した初年兵泣かせの所でもありました。古年兵の洗濯や食事の世話なども義務付けられていました。私的制裁の禁止は強く指導されておったのですが、実際には、戦友同志の対抗ビンタ、帯革、上靴(革スリッパ)などで殴られることは始終ありました。(p199・200)辻原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_199_1.pdf

・・・年明け後、現役兵現役兵(徴兵検査は昭和十七年兵)として昭和十八年九月十日入隊、千葉県柏第四教育隊(航空兵整備兵)として教育を受けました。・・・
 初年兵教育は内務班生活など、今思うとまるで毎日毎日が地獄、話のしようもなく、二年半も後の新兵が続かず、毎日よくぞ殴られたなと、よくぞ生き延びたと思います。(p155)唐津
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_155_1.pdf

 鏡第十三師団山砲兵第十九連隊の初年兵現地教育が始まった。・・・
 ビンタと言ってよく頬を殴られたが、奥歯を噛み締めているので、痛いと言うよりも痺れるが、頬の色が充血したり、唇が切れての後遺症が恐い。普通は往復ビンタである。・・・
山砲兵は本科、観測、通信の三部門で私は通信兵となった。電話線の架設、敷設、埋設と電線の結び方と解き方、トツートツーのモールス信号と、イロハの手旗信号などの基礎訓練で、少しでも違えばビンタである。(p93)

 路口の土地塘に滞在中、命令受領の戦友が連隊本部の様子では、日本は降伏したらしいと、秘情報を聞いた。秘密情報が次々と波紋となって、小隊長の耳に入ったのである。すぐ呼び出されて殴る蹴るの暴行で、瀕死の状態となり入院した。神国日本は負けるなど絶対に有り得ないと言う。(p95)佐藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_092_1.pdf

 私も家は貧乏農家であったので昭和九年、満州事変中に軍隊志願、「数え歳十八歳」まだ子供だったと思うが図らずも合格し、昭和九年十二月一日、満州独立守備歩兵第一大隊第二中隊に入隊。所在地は奉天と新京の中間で開原というのみです。
 だが入隊して見ますと軍隊という所は大変なところだと思いました。先輩から聞いてはいましたが、これ程のところとは思いませんでした。夜になるとアチコチでビンタの音、何と申しても満州事変の二、三年兵がいたから私なども二年兵の罠にかかり、帯皮でたたかれ、鼻から血を出しました。「軍隊」は「運隊」と聞いていましたが、本当にそうだと思いました。(p59)梶原http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_059_1.pdf

 私は三九・九一度、名古屋気象台開設以来の猛暑だと言われた昭和十七年七月二十五日に中部第二部隊(歩兵第六連隊)に応召、第三中隊に入隊した。連日の酷暑の中、日中は猛訓練、夜は「ビンタ」教育三カ月半の後、名古屋市郊外本地ケ原陸軍演習場での七日間で第一期の検閲を終えることができた。(p7)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_007_1.pdf

 昭和十七年七月、現役兵として宮城県玉浦の東部第一一一部隊に入営しました。そこで初年兵教育を五カ月間受けました。この部隊は飛行部隊の整備大隊であって、整備関係の学術科が午前中の訓練であり、午後が一般の歩兵の訓練に充当されていました。
 起居は内務班で、どこの隊とも同様に厳しいビンタの繰り返しと、所持品の員数合わせに頭を痛める毎日であり、現在の若い世代の方々の想像もつかない苦難を重ねる毎日でした。(p399・400)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_399_1.pdf

 その時、一〇二期の練習生に決まっていて、神奈川第二相模野航空隊に入りました。詰め込み教育でエンジンの構造、修理を徹底的に仕込まれました。・・・一〇二期の同期生には上等兵も兵長もいました。私の階級はその下の一等兵でしたから、上級者の上等兵や兵長に随分叩かれました。(p368)山本http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_367_1.pdf

 昭和十三年九月十五日に第一補充兵召集で豊橋歩兵第十八連隊の補充隊に入隊しました。一カ月間歩兵としての基礎訓練を受けた後、衛生兵要員として一年間の陸軍病院における衛生兵教育を受けたのです。(p329)

 病院での教育は軍隊ですから厳しかったですね。朝八時から夜五時までの教育でしっかりしごかれました。んか、疲れてコックリでもしようものなら同じ二つ星の先輩から鋲つきの上履きでビンタをはられ、頬が一週間くらい腫れ上がり、飯も満足に食べられなかった時は同じ階級の者にやられただけに癪にさわったね。

 出征間近になったころ、連隊演習が行われました。防毒面着装で夜間から翌朝まで走らされました。一時間もすると汗が防毒面のアゴのところにシッカリ溜るんですね。息は苦しくなり、たまらずアゴを浮かすと汗がドッと抜けて息が少し楽になるんですが、伴走している古兵がすぐゴツンと叩く、全く苦しかったですね。
 翌朝、隊長の講評があったんですが、その途中バタバタ倒れる者が続出し、一八〇名の中隊で、三分の一の六〇名が倒れる始末でした。私は直ちに背嚢を外して手当をしましたが、水を頭からぶっかけたのが一番ききました。体格の良い幹部候補生でも訓練が厳しいせいか胸膜炎になる者が多かったですね。(p330・331)木下
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_329_1.pdf

昭和十七年徴集兵で甲種合格となり、朝鮮平壤の高射砲隊へ入営しました。(p308)

 平壤での初年兵教育は、内地の部隊同様内務班では当然バリバリやられました。内務班は六個班あり、先任の助教や班長が厳しい所は余計やられる。ビンタはほとんど毎日で、食事台の上に乗った古参兵が、上靴で頭を叩く。(p309)石井http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_308_1.pdf

昭和十八年五月二十九日、三島九部隊に入隊しました。・・・それから間もなく、朝鮮の釜山港へ上陸、貨物列車に乗って、どんどん奥へ。下車したところが満州。整列、行軍して着いたところが九二九部隊輓馬十五榴でした。

ある日、少年兵の馬が蹄鉄を落としてしまった。班長は自分の靴下を脱ぎ、馬の足にはかせて、靴だけをはいて馬屋へ帰った。そこで皆、制裁をくわされました。そんな日々の繰り返しでした。
 あるとき、自分は夜食をすませて入浴に行く時間だったが、行く振りだけをして、酒保へ入ってうどんを食い、タオルだけを濡らして帰りました。「自分は入浴に行ってきました」と言うと、「お前は入浴にはこなんだ」と上等兵に言われ、ビンタをもらいました。「お前はそんなに腹がへるのか?」と聞かれ、「はい、自分はひもじい」と言いました。そうしたら、次の日から戦友が自分の飯は減らして私にくれました。その時は涙が出るほど嬉しかった。(p257・258)桂川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_257_1.pdf

 昭和十六年徴集兵で甲種合格、入営は昭和十七年一月十日、久留米の歩兵第四八連隊留守隊でした。本隊は満州の城子溝(牡丹江省東寧県)にあったので、初年兵教育は久留米の留守隊で行ったのです。・・・
 内務班ではノモンハン帰りの古兵がいるのであまり叩かれない。しかし、馬の飼いつけのとき、古兵が初年兵を連れて行き、帰りの凹地へ来ると叩かれる。手ではない、地下足袋の底だけので叩くのです。昭和十八年兵あたりになると体力がなく、召集兵は弱兵だから、我々現役兵と違って叩かれ方は少なくなりました。我々が三つ叩かれるのが一つくらいになりました。(p251・252)

 馬部隊は、歩兵砲(後に連射砲も)、機関銃(大隊砲を含む)三個中隊、行季、通信隊などである。城子溝は傾斜の高原で、厩の行き帰りで凹地の他から見えない所である。動作が鈍い、馬糧のやり方が遅いなどと叩かれる。口で言われるより「こんな動作では一線に行かれぬ」と気合を入れられる。いざという時、このような厳しい訓練をした兵や隊の方が早かった。馬部隊は連帯責任ですから。(p253)

 次に冬期演習のことですが、ウラジオストック近くの山の鞍部の下の谷間に戦車壕を掘ります。ソ連側から見えないように幅四メートル、深さ二メートルで長さ五〇メートルのものを各隊受持ち、一カ月間の訓練期間で大体完成する。どんなにつらくても、ノルマはやりとげなければなりません。兵隊は交代・交代で作業する。交代しないと軍手、毛糸手袋三枚でも凍傷になってしまいます。
 この作業も期間と作業が決められてあるので、各隊競争ですから一番気をもむのが分隊長クラスです。したがって、兵隊は気合が入らぬと叩かれる。結果的には叩くことが必要になる。叩くことは鍛えることで、それで強い兵隊ができた。特に我々九州の人は気性が激しい、「九州の兵隊は強い」とだれからも言われていました。(p254)白川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_251_1.pdf

 昭和十六年徴集兵で甲種合格、昭和十七年一月、現役兵として、兵庫県の篠山連隊に入営しました。・・・関西の人とは言「関東のボンクライ」などと言われたり、内務班は厳しい、毎日ビンタを食らっていました。やはり県民性の違いもあり仕方がないのかもしれません。(p239・240)

 初年兵のとき「背嚢と初年兵は叩けば叩くほど良くなる」と叩かれました。演習から帰ると、枕に赤いチョークで金魚が書いてある(金魚は水が欲しい=枕カバーを洗えという意味)し、整頓棚の衣類が木銃で落とされていたときが度々ありました。軍隊は階級ではなく、メンコ(食事の数、年数)の数です。したがって古い兵隊に言われれば、初年兵を叩きたくなくても叩かねばならぬときもあります。しかし、私は初年兵教育を何回かしましたが、叩いたのは三回だけでした。軽機関銃の部品が紛失して、演習場を一列になって這って探させられた経験がありました。これも教育の一つの方法だったのです。(p241)

当時は伍長で責任者になっていましたが、中隊長は候補生の時叩いた人でした。その時は候補生が返納した衣服にシラミが付いたままだったからです。(p242)手塚
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_239_1.pdf

 下関から関釜連絡船に乗船。釜山より列車で朝鮮半島を北上、平壤、新義州、鮮満国境を越え、満州国東満総省東寧の満州第二九二部隊に転属となりました。・・・
 初年兵の心境は経験者でなければ分からない。勤務、演習ばかりか、軍隊の家庭ともいう内務班の生活、私的制裁は禁止されてはいても、人間性を欠如した、私情にかられビンタを取る古参兵や上級者もいます。教育、鍛錬の名を借りて、暴行する者もいます。特に満州はひどかったと、戦後述懐している者も多いのです。
 あるとき、冬の凍てつくような零下三〇度の異国の夜、同年兵がいじめに耐えきれず逃亡、外庭の鉄棒にタオルを巻きつけ、首をつって死んでいた。終戦後もそのご両親には本当のことは言えぬ悲劇もありました。(p229)酒井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_227_1.pdf

 昭和十七年一月十日、現役兵として、香川県善通寺の西部第三十七部隊へ入営です。・・・善通寺では工兵連隊第一中隊第一班へ編入されました。・・・新兵も大工、鳶職、土方、漁師たちが大部分です。(p217・218)

 内務班内では古兵が新兵にゴボウ剣を投げつけてくる。危険この上ない。とかく工兵とはやくざと暴れん坊の集団と知らされる。スリッパ(上靴と呼ぶ)の踵の部分でビンタをはられる。十五回くらいまで分かっているのですが、それ以上になると倒れて意識も不明になります。もう死んだほうがましじゃと戦友同志慰める言葉もなく涙を流すのです。もちろん口の中は切れて腫れて食事もできない。初年兵のあの頃の辛さ、きつさを思えば、人生何一つ恐れるものはない。一生涯生き続けて行く上の尊い試練であったと思います。それでないと気持ちの納めようがありません。
 虎林では教育訓練のみで、作戦討伐はなかったのです。警備というが実戦はなく、それだけに演習も内務もきつかったのでしょう。
 また、同年兵の戦友に私が金を貸したという誤りの事件が発生、私は班長、古兵に半殺しにされるほど叱られましたが、最後まで黙って耐え忍び、後で事の真相が判明して私の無実の罪がはれました。(p222)福井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_217_1.pdf

「昭和十八年一月十日、佐世保相ノ浦海兵団に入隊すべし」との命令書を受け取りました。(p169)

私たちは佐世保の兵隊でありながら横須賀の部隊に混合されたので、借りてきた猫のようにしていないと恐ろしいという。所轄が違うと犬と猫のように仲が悪い。階級が下だと直ちにバッター制裁。何か悪いことをしたとか理由があるなら仕方ないが、気合が抜けているからと言って叩かれていては哀れというしかありません。ですから目的地など聞くことはできないのです。(p171・172)

ここはラバウルの本島より少し離れているので飲料水に不自由するので大型トラックで水をドラム缶輸送です。そのため時間給水だが意地の悪い下士官がいて、時間外に「水をもらって来い」という。行けば主計科の先任兵長に大きなシャモジでいやと言うほど叩かれることは分かっています。ですからだれ一人として行く者はいない。下士官は立腹して、全員に「前ささえ」を命じられました。焼けた玉石の上に手の平で体を支える。痛さと熱さで汗は流れる。下士官に対し随分憤りを感じたのですが、当時は階級の差は如何ともなりません。ある兵長が代わりにあやまってくれて、やっと立てることができました。(p179)佐々木http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_169_1.pdf

  三、N君の脱走
 某大の文学部卒のN君は、全く軍隊には不向きの性格であった。のろい動作、言語の不明瞭、内向で女性的な気合のなさ等々で、教育隊のなかで常に最後尾の存在で、気の毒なほど古参兵のいじめの目標にされていた。軍隊は嫌だ、不向きだと口癖のように漏らしていたようだ。
 ある夜その彼の姿が消えていった。兵営の外はすべて敵地である。その後彼の姿はついぞだれも見ることはできず、話題にすることすら許されなかったが、重なるつらさに耐え切れず脱走したのではないかと囁かれていた。
 彼こそは帰営しても命の保証はないし、敵中に迷い込んでも救いがあったかどうか、振り返る余裕のない軍務の中、時折彼の運命を思い起こしながら殺伐たる兵舎の眠りにつくことがあった。
 中支に向かう輸送船が支那海にさしかかったばかりの敵情の極めて悪い海路の船中で、学徒兵それぞれ望郷の念止む難き心情のとき、突如、船内スピーカーで、「対米和睦交渉が成立した、軍は速やかに戦線を撤収すべし」の命令下達の放送が流れた。みんな一様に我が耳を疑って聞き入ったが、伝達が相違なきものだと確認ができるや、船内のあちこちから、どよめきが起こり、やがて一つの歓声となって船内に轟き渡った。
 「平和になった。みんな帰れる」の喜びが若者たちの頬を紅潮させていった。しかし次の瞬間、「ただ今の放送はデマ放送であった。大御心の期待を受けた諸君学徒兵の戦意の覚悟を試した所だ、残念ながら諸君の本心は見届けることができた。ただ今から入魂の鉄槌を加えるから覚悟を決めるように」と。
 二列に向い合っての対抗ビンタの無制限の懲罰が続き、何人かが失神した。N君はおそらくこの時も失神組に入って真っ暗な心で泣いていたのではないだろうか。(p71)土網
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_069_1.pdf

 いよいよ軍隊へ入隊です。元来、私は愛媛県人ですから松山か四国の他の部隊かとの予想に反して、台湾へ、しかも愛媛県人は私ただ一人です。心細さでいっぱいでした。思えば貧乏くじを引いたもの。松山は江戸時代は、徳川の親藩、松平(久松)家でした。台湾歩兵第一連隊には薩摩とか肥後とか九州人が多い。同じ愛媛県でも宇和島の伊達、高知の山内家は皆勤皇派だが、私は松山の親藩で佐幕派(賊軍)ということです。
 はるか昔の幕末、明治維新当時の勤皇、佐幕の対立を根に持って「伊予の人間の通った跡は草も生えぬ」と、そんな極端なことまで言われ、こんな無茶苦茶なことでこっ酷い目に遭い、殴られ続けました。失敗や不都合もないと思うのに制裁を受けました。つらい、苦しい、情けないの毎日でした。
 郷里を出るときの村長さん以下皆さんの激励の言葉を思い起こして頑張りました。
 軍隊の消灯ラッパは
  新兵さんは かわいやなー
   また寝て泣くのかよー(節をつける)
歌の文句が事実を何よりも雄弁に証明しています。次のようなこともありました。
 内務班で新兵は全員横一列にならび、順次ビンタを張られます。私の隣に土佐の高知出身者がおりました。土佐人は殴らず、と私を殴ります。ひどい差別です。日曜日は外出もなく、朝から古兵の肌着、揮まで洗濯します。やれやれと思う間もなく集合です。営庭に台湾松があります。その木に地上二メートルくらいの高さまで上って、ミーン、ミーンと声をあげて蝉のなく真似をさせられます。私は声がちょっと甲高いので、「和田!もっと鳴け」と長々とやらされました。それを古兵たちは煙草を吸いながら笑って見物していました
 この嫌なつらい古兵の制裁は台湾から南支へ移ってからも、上等兵になってからも続きました。昔の軍隊の初年兵の一期の検閲までのひどい苦労は、現在の若者には到底辛抱叶わぬこと。私のみでなく、軍隊生活をした者は皆同じ思いでしょう。「玉磨かざれば光なし」。
 教育訓練演習についても思い出は尽きません。広い土地に草いっぱいの練兵場での夜間演習のとき、初年兵の一人が薬葵を一個落としました。全員横一列になって長い時間捜したが発見できず、その兵は帰隊後、歯が折られ、面相が変わるほど殴られました。
 また規則を破り、便所内で喫煙しているのを、週番上等兵に見つかり、隊内に「火災呼集」がかけられてバケツで水を浴びせられ、その上、口いっぱいに二〇本くらいの煙草をくわえさせられ全部に火をつけ、煙草の火で上下の唇を火傷して、泣いて謝ったこともあり、大変厳しかった。

・・・以後、班長は深く感謝してくれて、何でもかんでも「和田!和田!」と声をかけてくれ大事にしてくれました。一選抜もその所為かも。ところが禍福はあざなえる縄のごとしとか。私の栄誉ある一選別入りもまた災いのもと。隊内に私より先任の上等兵一人、昭和十二年兵の一等兵
(営倉入りの経歴ある古参兵)が一人、二人揃って私には意地悪この上ない私的制裁です。隊内では階級もさることながら、最後の決め手はメンコの数です。私より二年も古参の性悪一等兵、同じ上等兵でも先任古参の上等兵、どちらにも頭が上がりません。週番上等兵勤務中もあれこれと私用の強制、果ては殴る蹴るの暴行。作戦行軍中に豚の片足の重いやつを背中に乗せられ、その重さと南支の暑さにはもう苦しくて、落伍寸前の苦しみも数多く、つくづくと軍隊がイヤになり呪わしく思ったものでした。
 それを救ってくれたのは、南方特有のスコールでした。雨に打たれると萎れた植物が蘇生するように、私の身も息を吹き返し元気を取り戻しました。また古参の一等兵は炎天下の行軍中自分の三八式小銃を私の肩へ乗せて、自分は手ぶらです。私は十一年式軽機を担いでふうふうと汗を流しているのに、自分の小銃を手から離す歩兵が信じられますか。とにかくひどいものでした。この期間の私の部隊は第四十八師団でした。
 以上のような状況で私もホトホト軍隊がイヤになり、将来を考えヤケになり、自殺でもと考えました。この苦況を救ってくれたのは米満班長です。私の様子にどうも合点がいかぬので一夜私を呼び、じっくりと心境
を聞いてくれました。じゅんじゅんと私の心の弱さを説き、「頑張るのだ!攻撃は最大の防御であることを忘れず軍人精神を充実せい!」と指導してくれました。(p428~p430)和田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_427_1.pdf

昭和十六年十二月二十五日に長崎の公会堂で海軍志願兵の採用試験があって、翌十七年二月に合格通知がきて、九月一日に佐世保第二海兵団に入団するようになっていました。・・・
 海兵団の教育は精神棒で尻を叩かれました。理由が分からんのに叩かれるのです。太い棒は意外に痛くはないのですが、細い方が痛いのです。特に痛かったのはストッパーと言われたロープを水につけたやつでやられると、体に巻きつきますから余計に痛かった。
 班長は滅多に叩かないのですが、短艇競争で他班に負けたら大変でした。食事の用意が終わって、いざ食べようとしたテーブルを引っくり返して食べさせないのです。そのまま教練の継続ですから腹が減って、ふらふらでした。班長は外出して食事するのですから、ひどかった。
 巡検後、寝てるところを叩き起こされて制裁を加えられました。入団して一年半くらいたって水兵長になると今度は自分が叩く立場になるが、それまでは叩かれることを覚悟せねばなりませんでした。(p414・415)酒井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_413_1.pdf

・・・甘い新婚生活も夢のうち、翌昭和十九年一月の正月気分もまださめやらぬある日、和木村役場の兵事係が「二月一日、呉海兵団ニ入団スベシ」との海軍の召集令状を持ってきた。(p408)

  海軍生活について
「スマートで目先がきいて几帳面、負けじ魂これぞ船のり」とは海軍伝統の言葉ですが、どれを取ってみても私に当てはまらんことばかりで、スマートとは縁遠く、ひょろひょろで青白く、動作はボヤボヤ、マゴマゴしてルーズで諦めが早く、いつも甲板整列には自慢じゃないが一番先に直心棒を食ったもんです。あの痛さは今も忘れられません。
 訓練は厳しかった。釣床訓練、手旗、カッター、駆け足、陸戦、銃剣術、寒い冬の最中でも汗をかかない科目はなかった。
 やがて四月になり、海軍式シゴキのバッタ、ビンタ、前に支え、毎日鍛えられて、ビンタの一発や二発を食らうのは屁のカッパになったころ、分隊長に呼ばれて「横須賀の海軍通信学校へ入校するように」と言われた。どうして私が選ばれたのか今もって分からない。

  海軍通信学校
桜花らんまんの昭和十九年四月、横須賀通信学校「横通」に入校、電波探知機を取り扱う電測術講習生となりました。海軍最新兵器だと仲間は喜んだけれど今考えるとアメリカのレーダーに比べるとチャチなものだった。やたらと真空管ばかりならんでいて、それ「Tの三一一」など符号をつけて呼んでいた。入隊前に多少知識はつけていたので学科は難しくなかった
が、相変わらず古年兵にはシゴかれた。抵抗できない下の者を一方的に殴りつけて、これが日本海軍の大和魂だと、こんな馬鹿な野蛮なことがあるもんかと憤慨したことも何度かありました。(p409)野村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_408_1.pdf

 私は昭和十二年度徴集兵です。私の軍人としての略歴は大略次のとおりです。
 昭和十四年五月十日第一補充兵で善通寺輔重兵第十一連隊へ入隊、六月十日召集解除。
 昭和十四年十一月三日再び善通寺へ応召し、十一月十四日香川県坂出港より乗船、中支派遣軍へ出征。・・・(p371)

 新兵はとにかく用事が多く忙しく競争である。整列も後尾の方になるとまた別の制裁がある。以上のような日常生活に男の魂が負けて脱走兵が出る。新兵を除く全連隊の人員総動員で探す。他の中隊の者に見付け出されない内に、脱走兵の出た中隊で発見しようと懸命である。捕らえるともう、まともに見ていられないくらいの制裁で、その上、営倉入り。この悲しい経歴は一生涯ついて回る。(p372)野田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_371_1.pdf

第一乙種合格、幹部候補生要員として鯖江第三十六連隊歩兵砲中隊(藤岡隊)に入隊し、同期新入隊員は五〇名くらいだった。・・・
 昭和十七年七月、鯖江駅を出発、広島経由、宇品港を輸送船で中支安慶に向け出港した。・・・
 私に対する不可解なリンチは船倉へのデッキ上で再び出くわした。氏名不祥の某下士官軍曹だった。「この注意人物」とデッキ上の上がり下がりのすれ違いにおいて私の顔面を痛打した、唇を血で染めたがその後、上陸してからは会うことはなかった。恐らく初年兵一行を第一二〇連隊へ届けるための随伴要員の一人でなかったかと思われるが判然としない。現在、福井の町でそれらしき風貌の人と出会うとき、その節のことを思い出すのが常である。

  鯖江の原隊で
 幹候要員一期の演習中、班付き上等兵から鉄棒で背後からやられ頭を割られて負傷した。彼は自分の誤りを上司には私の誤りとして隠していたので、彼は営倉入りを免れ、助けられた。「お前の顔は陸軍大将の顔だ、どうみても」など訳の分からぬことで制裁を掛けた古兵ども。彼らの不当制裁に反発して翌日の私への古兵どもの集団制裁は原隊・藤岡隊内でも問題になり、表面化の寸前ともなった。(p360)粕谷
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_359_1.pdf

 蕪湖は本部所在地であり、部隊は鶏第三〇六四部隊―歩兵第一五七連隊である。われわれ初年兵の集合教育は蕪湖の本部で、教官は梶上少尉で、九月まで教育を受け、十月に第九中隊に配属となった。その間、だいぶ絞られ、ビンタもだいぶ食らった。(p355)本吉
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_354_1.pdf

 昭和十二年一月十日、新潟県新発田の歩兵第十六連隊第二大隊第七中隊第六班、軽機関銃班への入営でした。私は生来、機械物の修理が好きだったので軽機関銃の分解、組立てなどは早く覚えることができました。しかし、一期の教育中の内務班は苦しいものでした。軍隊は団体行動であるので、一人悪いと連帯責任となる。折角寝たというのに「起きろ」という。毛布の中に入っても安閑としてはおられない。いつ、起こされるか分からないのだが、疲れているからいつの間にか眠っているのです。
 私は、私的制裁であっても、教育的なものであっても、自分の落ち度はなくとも、指導的な目的のためならいいが、どこか落ち度はないかと見付けて叩かれる。これは厳し過ぎるのではないかと心の中では思っていました。
 食缶当番で、冬は飯べらが凍ってしまう。それを洗い方が悪いと起こされる。週番上等兵は備付け物品や衛生管理を見、何か落ち度を見付けて自分の威厳を表わそうとする。しかし、上等兵の個人差もあるし、人情のある人もある。(p297・298)茂岡
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_297_1.pdf

 大正九年生まれは、昭和十五年徴集ですから、十五年に入営なのですが、私は十三年徴集者と一緒に昭和十四年一月十日、姫路の第十師団輜重兵第十連隊で、初の自動車隊に入営しました。私は、長い剣を下げ、馬に乗るのかと思っていましたが期待外れでした。
 自動車のことなど何も知らぬので、大部殴られました。父が面会に来たとき、叩かれた瘤を見せたくないので帽子を深く被り、まともに父の顔を見ることができませんでした。(p276)村本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_276_1.pdf

 入営は昭和十五年二月、北海道旭川連隊であった。・・・旭川から乗った兵員はほとんど初年兵で、満州第八〇三部隊から受領に来られた軍曹に引率され、羅津から列車輸送で鮮満国境を越え東安省密山へ着いた。(p268)
 我々の兵舎は苦力小屋に等しい十坪にも満たぬ小さな建物で、その中に一個班二十人くらいが入っている。そのうち半分は古参兵だから、初年兵は毎日ビンタをとられるから顔の皮も厚くなるぐらいである。(p269)大川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_267_1.pdf

・・・その上風呂当番となると水槽を牛車に積んで、ガタガタの坂道を運び、毎日降るスコールに濡れた根枝を拾い集めて風呂を焚きます。時間までに沸かないと週番下士官などに気合を入れられるなど、今思い出せば懐かしく、二度とないよい人生勉強になったと思います。召集兵の仲間では私が一番年上だったので整列ビンタは必ずもらっていましたが、私個人のビンタは一度もなかったことは大げさに言えば、天運か神助のお陰と思っています。(p252・253)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_248_1.pdf

 昭和十六年三月一日、東部第五二部隊(金沢の特科隊)で、山砲隊は四、五、六の三個中隊、野砲は第一、二中隊、第三中隊は一〇センチ榴弾砲であった。・・・班の中では、砲を扱う者も通信も区別はないが、砲本科の古兵や上等兵は、我々通信や観測は「弛んでいる」と、ビンタも結構やられる。ビンタはスリッパでやられることもある。砲扱いの者は労働が激しく、キビキビやらねばならぬから、通信や観測は、弛んでいるように見えるのかもしれない。人数的にいっても砲の方が多い。(p240・241)水口
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_239_1.pdf

演習整列前の忙しい中、炊事場への食器返納と整列がほとんど同時で、すべて駆け足の連続でありました。一日の日課、訓練が終了すれば直ちに内務班の掃除整頓をしなければならない。これが終われば日夕点呼の時間になり、整列、作戦要務令、歩兵操典、陸軍礼式令(近衛は特に厳しい)、直属上官の官位、職氏名の暗唱。質問に答えられなければビンタである。(p214)千野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_214_1.pdf

 私は昭和十九年六月十五日、仙台市東部第二十二部隊(第二師団歩兵第四連隊留守部隊)へ入隊しました。臨時召集です。(p150)

 入隊後五カ月間、隊内で教育訓練されましたが、この間は徹底的にきつい、いやな新兵教育でした。正に歌の文句通り、「人のいやがる軍隊」でした。毎日毎日ヒッパタカレました。特に私は人の倍以上やられました。その理由は「お前はタルンデオルとのこと」でした。新兵同士の対向ビンタのとき、相手が新兵同士の戦友というので、自然と手加減をしてブツことにな「なんだこのハタキは!」と上等兵が「このようにやれ」と力いっぱいブチ直す。新兵は教えられたとおりにやらぬと、今度は自分がより一層叱られてハタカレルから、強くブチ直すことになる。それでも新兵同士のブチ合いでは気分も楽だ。上等兵は毎日同じように小さい細かい事に目を光らせて文句をつける。最後はいつもおきまりのビンタで終わる。話に聞くと、軍隊では昔から古兵が新兵を鍛えると、その新兵が次の新兵には順送りとして鍛えるという。
 鍛えるとは耳当たりがいいが、訳の分からぬ私的制裁も多い。編上靴の上部を切り取り踵の鉄鋲を除いたやつ(上靴)を逆手に持って、頬を力いっぱいハタク、勿論、眼鏡は外せ、歯をくいしばれとの注意をしておいてやる。我ながら情けなく、よく辛抱したと自分を褒めてやりたいくらいである。
 新兵さんは消灯後、毎夜枕をぬらして泣くとの話もある。また年齢的にもわれわれ召集兵は大半は年配者で、私のように妻子あるものが多い。それが一つ星であるために、年下の若い二つ星、三つ星からコッピドクハタカレルとは!、軍隊たるゆえんである。現在の若者には合点ゆかぬし、また辛抱もできないで脱走しかねないと思う。(p151)
 こんなこともありました。私たち野戦へ出征する直前のこと。その日も例により、上ばき靴で思いきりハタカレた。顔がはれて歯がグラグラしてた。そこへ面会が衛門へ来ているとのこと。急いで駆けつける。電柱の上にほの暗い電灯がついている。私の顔を見て、「よーく肥えてきたの」だなんて。夜間のことで肥えているのか、腫れているのか暗くて分からないのだ。(p152)尾形
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・・・その日のうちに釜山上陸、入営先は京城府竜山の歩兵第二十二連隊である。私は第二大隊、第二機関銃中隊である。(p137)

昭和十九年五月まで、朝鮮で初年兵教育をしたが、宮崎県の初年兵に気合を入れ、頭をぶち割るほどの厳しい教育をしたものである。厳しくなければ戦地では生きら
れないからだと思ったので心を鬼にしての教育だった。(p138)
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 昭和十九年一月十日、私は満州の新京に駐屯しておりました満州第二六八七部隊(高射砲隊)の通信兵として入隊しました。この部隊は九州の下関重砲兵隊、佐世保重砲兵隊、厳原要塞重砲兵隊員によって編成されておりましたので、とても気合の入った部隊でした。
 真っ白い銀世界の雪の中で、零下十度くらいのときでも、雪にまみれて訓練が続けられ、毎晩毎晩、目から火が出るように叩かれ鍛えられました。軍隊の厳しさは話には聞いておりましたが、予想外でした。現役兵の私たちはまだ若いし、少々叩かれても蹴られても辛抱できましたが、気の毒なのは召集兵の人たちでした。
 三十五歳くらいの人たちが軍人勅諭を暗誦していないからと、若い二十二歳くらいの一等兵、上等兵から皮のスリッパで殴り倒され、涙を流しておられる姿を見るにつけかわいそうでなりませんでした。次は連帯責任だ、横一列に並べと、並ばされ、「足を横に開け」と開かされ、「貴様たちはみんなたるんでおるぞ」と、皮のスリッパで両頬を殴られるし、向かい合い同士で殴り合いをさせる。まさに格子なき牢獄でした。
 消灯ラッパが鳴り、五尺の寝台兼布団にもぐり込むと、だれだかわかりませんが、すすり泣きが聞こえてくることも度々ありました。(p129)元島
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・・・朝鮮を鉄道で北上、鮮満国境通過し満州のチチハル着。そこは第十四師団司令部等があり、私は歩兵第五十九連隊へ入隊し、四月から正式な初年兵教育が開始されました。・・・内務班は内地より満州部隊の方が厳しいのですが、古参兵の戦友は、私的制裁がある時は私に用事を言いつけ外へ出してくれました。私の留守中に対抗ビンタなどが行われ、私が帰って来た時はもう制裁は終わっていました。(p397・398)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_397_1.pdf

間もなく鎮守府から本採用通知書が届き、五月一日、舞鶴海兵団に入団、兵科は水兵と記されていました。・・・
 いよいよ入団して三ヵ月間の新兵教育でしごかれ、ビンタ、精神棒をしこたまもらいましたが覚悟の上であり、生命は国に捧げるつもりだったので少しも後悔する気はありませんでした。(p364・365)山中
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_364_1.pdf

 昭和十八年一月四日、佐世保海兵団へ入団ということになりましたから、昭和十二年入社から十七年暮れまで朝鮮鉄道で一人前の運転、機関士として勤務したことになります。・・・海兵団機関科の同年兵は約三〇〇人の教育が終了し、私は昭和十八年四月、機関士であったので一等駆逐艦「涼月」に乗員を命ぜられました。・・・
 しかし、艦内では、朝晩、古兵や上司から樫の棒(バット)で尻を叩かれます。自分の責任でなくとも連帯責任でやられるのです。初年兵同士はお互いに紫色になった尻のあざを見せあったものです。夕食を食べた後、寝るまで叩かれます。同年兵は、機械、汽罐(かま)、電気、保機とあり、各一人の初年兵で、五人は同罪です。艦は一人の過ちでも艦全体が沈む、一蓮托生ですから、初年兵の時から徹底的にしごかれ、体全体で覚えさせるのだとは判っていても、辛い毎日でありました。言い訳はしない海軍魂は、日と共に養成されていくのであり、このようなことが、戦闘に入るまで毎日続きました。(p353)牧
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_352_1.pdf

 昭和十九年五月二十日、十九年前期の水兵として舞鶴海兵団へ志願兵として入団しました。・・・
 私は幸いというか、教班長係を命ぜられていたのでバットによる制裁は受けずに済みました。毎日叩かれるので尻には紫色のアザが絶えず、お互いに見せあって教育の厳しさを語り合っていました。(p347・348)江目
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 呉鎮守府の管轄が中国、近畿両地方の南部、東海の一部となっているので私は呉鎮の大竹海兵団にようやく入団できました。早速、兵種の決定で、号」「水測」の三つの中から一つ選べといわれ、訳が判らぬままに「水測」を希望しました。直ちに神奈川県三浦半島久里浜にある海軍機雷学校へ向けて汽車で出発しました。ここで三ヵ月間の新兵教育が始まりました。
 内務班は陸軍と異なって、新兵だけ三十人で一個班を作り二曹が班長で教員と呼ばれていました。新兵だけの内務班ですから、古い兵隊に対する気遣いは要らない代わりに、教員に「たるんどる!」「やる気がない!」と、杉や桧では折れるので、桜や樫の棒でバンバン尻を叩かれ徹底的に絞られました。・・・
 ご存知の海軍独特の精神注入棒を使っての尻叩きは全員揃って喰らいました。私的制裁はありませんでしたから、現在思い出しても恨みに思うことはありません。叩くには叩くだけの理由があるんだと納得できましたから痛かったが我慢できました。(p341・342)

 鎌倉への行軍、冬の兵舎を何回も駆け足で走らされ遅れると「もう一回」と走らされたこと。整列ビンタでも上曹ビンタは順番に下級ビンタに移り、何回もビンタをはられたこと等々、当時の辛さは今では懐かしくなっています。現在の若い者にもあの団体生活は一度体験させたらよいと思います。(p347)衣川
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 私が入隊しましたのは、福岡県小倉市北方にあった歩兵第一二三連隊でありました。毎日激しい訓練が行われました。叩かれ殴られ、大きな声で叱られ、これで戦争ができるかと、それはそれは死に物狂いの訓練でした。そのうち南方に行くらしいという噂がたちはじめました。(p327)宮崎
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 昭和十五年五月一日、第十一師団松山歩兵第二十二連隊第九中隊に陸軍歩兵二等兵として入営。・・・
 入営日十日目に、今日は上等兵殿、古兵殿の態度が少し異なっているとの気配のあった夕方の点呼前に、上等兵殿が「皆聞け、お前たちは本日恐れ多くも陛下より軍人としての俸給を賜れることになった。だが貴様たちの気のゆるみはどうだ、己の気合を受けてから俸給を頂け」と一兵ずつ、前で拳を振り上げての頬打ち、一瞬目が光り歯がうずく。「まだ足らんな」と、今度は二年兵殿に、両側に立ち並びお互いの頬を打ち合う「対抗ビンタ」を命ぜられた。
 まず「やってみろ」と列の端の二人が命ぜられたが、同年兵はお互いの遠慮もあって少し弱かったと見るや、二年兵殿は「手ぬるい、こうやるのだ」と後ろへふった拳でその両人の頬を大きくバシッバシッと殴り、たちまち両人の目から涙が溢れ出た。「さあ、皆もこのようにやれ」との命令でお互いに心で許し合いながらの対抗ビンタ。やっと私の在職中の日給の一日分に相応する一円五十銭の十日分としての俸給を頂くことができ、以後俸給支給の十日目ごとにこの状態であった
 その夜、消燈ラッパ。隣に臥せていた巡査出身の召集兵がシクシクとむせび泣いていた。いくら軍の内務の厳しさを在郷時耳にしていても「こうして鍛えられて一人前の兵になるのだな」と自覚しながらの眠れない一日であった。よく「貴様らの一人二人が耐えられずに死んだとて、一銭五厘出したら、いくらでも替わりがいるのじゃ」との言葉も、どの連隊でも皆同じだなぁと後日人から聞いた。(p295・296)

 また、どの連隊にも同様の話があるが、三八式歩兵銃の手入れを完了して、安全装置をしたまま(必ず引き金を引いてバネを戻して伸ばしておく)銃架に収めておくと、私どもが夜の床に就いた内務班を週番下士官が巡回して、その銃架の銃のコーカンをサラサラ撫でていく。「カチッ」とコーカンが戻り部屋中にその音が響くと、上等兵、古参兵が頭を持ち上げる。
 「この銃は誰の銃ぞ」と週番下士官が、その番号を声大きく呼び上げる。その間の初年兵の顔面のひきつり、けいれん。「ハッ!それは私の銃であります」と、その持ち主が飛び上がって下士官の前に立つと、「貴様、陛下から賜った銃に仕事させながら、自分は大きな顔をして寝とるのか」。「気を付け」の命令でその銃を「立て銃」にした兵に「捧げ銃」の命、そして「銃様におわびのご挨拶をしろ」、「ハイ、三八式歩兵銃殿、私が悪いばかりにアナタに御迷惑おかけいたしました。以後かようなことは致しません。何卒お許し下さいませ」と、そのまま「捧げ銃」。見ている私どもまで冷や汗が出てきた。
 目もくらみそうなしびれを感じ出したころ、他班も見て回ってまた入ってきた下士官が「よし立て銃、以後気をつけろ」と帰るが、その後がまた大変「○○上等兵、よくもわしの内務班にキズをつけたな」と上等・古兵の制裁を受ける。
私は小銃も持ち、当時の十一年式軽機関銃も持っており、両機の手入れだったので本当に辛かったが、こ「捧げ銃」は免れた。銃剣の溝の挨、銃孔の挨なども厳しく検せられ、それによって兵の姿勢も大いに上達し、「これで日本軍人だ」との感もまた恐ろしさも感じた。(p297)

 内務班の教育というか、私的制裁をも含めた日々は、大の男が寝台の毛布を被り消燈就寝後、声を殺して泣いていた。この苦難に耐えることも一人前の兵隊になる前提でもあったかもしれない。(p298)森本
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 昭和十六年一月に東京世田谷の東部自動車隊に召集になりましたが、その時二十七歳でした。中隊長は伊藤大尉で第一中隊の班長は吉野新太郎軍曹でした。四月に召集解除となりました。三ヵ月の教育召集でも初年兵同士の往復ビンタが絶えず、古兵が後方でけしかける始末。今考えると、あの私的制裁が初年兵に忍耐と反抗心と敵愾心を育てたと思います。(p288・289)長坂
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 私は昭和十八年四月の徴兵検査で甲種合格となり、歩兵十八番と書いた紙の札をもらいました。入隊は八ヵ月後の十二月二十日です。入隊先は新潟県の新発田市東部第二十三部隊(第四十二師団歩兵第一五八連隊第三中隊)でした。・・・私ら三百人は第六十八師団独立歩兵第一一五大隊に転属となり、残り六百人は第十三師団歩兵第一一六連隊に行きました。(p272)
 新兵当時ビンタは喰ったけれども、私はすぐ鼻血が出るたちだったので、古年兵が驚いて叩くのを止めたので他の者にくらべると叩かれるのは少なかったと思います。(p275・276)朝倉
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_271_1.pdf

 このように十七歳から十二年間、製糸工場にいたが、二十六、七歳になるまで十年以上も皆勤し、昭和十三年四月自宅へ帰った。ところが昭和十四年八月、召集令が来て金沢の第九師団輜重連隊へ入隊した(ノモンハン要員)。
 初年兵の時は物凄いビンタを張られたことがある。他班の下士官が来られた時、誰かが間違ってかその人の営内靴を履いたので、帰る時靴が無い。私が見付け届けたところ「お前が履いたのか」と、廊下の端から端まで両頬にビンタを張られた。見付けた者が責任をとらされたのだから、他人の手落ちでずいぶんひどい目にあったことになる。
 また、私ではないが、厩当番が古兵に馬の鐙で殴られたり、長い手綱で叩かれ、綱が首に巻きついてしまうのを見たが、鐙の時は兵隊にけがをさせたので古兵で罰になった者もいた。(p246・247)榎坂
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 翌十一日は中隊全員(初年兵ばかり)で久留米市内にある高良神社に参拝。そうしてその翌日十二日に入隊式があった。
 西部軍司令官 藤江恵輔陸軍中将
 西部第四十九部隊(戦車隊)長 川島修陸軍中佐
 中隊長 泰 十郎陸軍大尉
それぞれの訓話があった。(p220)

 二月一日、第二次初年兵入隊で、この中隊でも多数が配属になった。
 この日の夜であった。班長の指示で内務班で戦友同士のビンタ張り(対抗ビンタ)、これには参った。罪科もない隣の戦友と向かいあって殴りあい、はじめは遠慮がちだがしまいには思いきりブン殴る始末。班長はやめよとはいわなかった。なかにはぶっ倒れるものもいた。男同士の殴りあい、理由も恨みもないのによくやったものだ。平手打ちが拳固に変わりかけた頃、班長は「やめろ!」と怒鳴った。互いに顔は真っ赤となりあざがところどころできていた。(p222)伊藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_219_1.pdf

 昭和十七年六月十二日、教育召集令状が届けられ西部第五三部隊へ入隊したら、無線通信隊だった。従って一般歩兵教育はほとんどなく、銃剣術は防具を付けて「前へ、後へ」とのほんの初歩だけ。射撃は実弾五発射っただけ。使役もなく、ひたすらに無線の技術だけで、通信を受ける、打つだけ。それを打つのは一分間に八〇字、受けるのは一〇〇字を出せるように猛訓練された。肉体的な教練はないのだが、暑い最中、講堂に約一二〇人がいて教育を受けました。暑いので眠くはなるし、汗はダラダラ顔から垂れるから、通信紙へ書いた数字がベロベロになり、教官から椅子で頭を叩かれる
 内務班に帰れば古兵から「お前達は昼間楽をしているから」と叩かれる。自分では納得出来ない、連帯責任だと叩かれる。しかし、可愛想に思ってくれる古兵もいて、内緒で菓子を食わせてくれた時は、本当に嬉しく今でも忘れられません。きつくされた兵隊、優しくしてくれた兵隊、ともに忘れられない。・・・他の者との連帯責任で、食事当番に間違ったら古兵ばかりでなく班長にもやられる。
 これは先任兵長が軍曹に呼ばれ、食事当番全員が内務班に集められ、全員モップで叩かれた。私は兵長の隣にいたので、軽く叩かれ、「お前はどこそこへ行け」と用事を作って逃がしてくれたこともあった。寝てから「兵長殿ありがとうございました」と小声で言うと「いいよ」と一言言ってくれたので心の中で感謝していた。しかし、寝床の中に入って泣いたことが何回もあった。・・・
 昭和十八年六月、再度の召集となり、西部第五三部隊の橋本隊へまた入ることとなった。また通信隊勤務となったのだが、昭和十八年十二月、船舶通信、暁第二九五五部隊に転属となり広島へ移った。召集の六月一日付で上等兵に進級した。
 教えられた私が、今度は初年兵の教育をしたり、乙種幹部候補生の教育助手として、通信だけでなく、一般歩兵の教育もした。その頃、幹部候補生が出るので、「被服を洗濯しろ」と言ったのに、襦袢一枚を洗濯していない者がいたので、げんこつで叩いたらその候補生の歯が折れてしまった。私が衛生勤務している時、その生徒が営外へ歯の治療に出て行った。それを見て、と許してくれた(制裁で怪我をさせたわけだが)。それ以来、私はビンタをとったことがない。(p211・212)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_211_1.pdf

 一選抜で進級したとはいうものの、決して生易しく喜んでいる場合ではなかった。古年次兵からは特別の目で見られいつも注目の的にされた。中でも先の万年一等兵からは何かにつけて洗脳としごきの制裁を受け、おまけに「ありがとうございました」と不動の姿勢で敬礼。欠礼でもしょうものなら上級者(私)に向かってびんたの連打は常の例。この悪戦苦闘以上の苦さはわが身体に染み込み、永久に忘れることはない。どこの隊でもこのような豪傑が軍律に矛盾した行動をとり、自己のうっ憤晴らしをしていたが、初年兵はただ耐えるのみで、内務班の規律はすごく厳しかった。(P33)山下
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_032_1.pdf

私が町長さんはじめ町の名士、並びに近所の方々や小学生の生徒さんたちに、日の丸の小旗を振り歓呼の声で送られて鹿児島海軍航空隊に入隊したのは、昭和十九年六月一日、海軍二等飛行兵になったのは十六歳と五ヵ月であった。・・・
 海軍ではすべての行動が全体責任であり、誰か一人の訓練生がヘマをすると、夜十時過ぎの巡検後に、廊下へ全員整列が掛かり、ビンタは常時、ときどき精神注入棒(野球のバット)で尻を力いっぱいぶん殴られ紫色に尻が腫れるのである。風呂に入った時など誰が何発殴られたかすぐ分かるし、お互いに痛かった話などしたものだ。寝る時など上を向いて寝られず、横を向いて寝た夜も幾晩かあった。S(p432)柴田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_432_1.pdf

 昭和十六年九月一日午前八時、これは忘れることのできない私の入営への旅立ちの日時である。近親者や近所の方々の見送りを受け、小雨降る中簡単な挨拶をして、一路千葉県柏の第四航空教育隊へと向かった。第三中隊永野隊鈴木班で、二、三日はお客様扱いであったが、班長の訓示では「お前達は消耗品である。一銭五厘(郵便葉書の値段)で幾らでも入ってくる。また、日に乾ききった桶である。これもみっちり締めなければ水が漏れる、水が漏れぬよう締め上げてやるから覚悟するように」と言われた。これから、いよいよ、徹底的に締め上げられる軍隊生活と訓練が始まったのである。それは聞きしに勝る苛酷なものであった。
 私は一般訓練のほか、特技訓練としてラッパの教育を受けたが、最初は音が出ず、一ヵ月後にようやく吹けるようになった。内務班に帰れば、古兵の怒鳴る声、ビンタの音を聞かぬ日はない、まさに監獄より苦しい所であった。一期の検閲を終え、一等兵の階級章をつけた頃出動命令が出た。(p416・417)仁平
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_416_1.pdf

 昭和十七年になると同級生の多くは現役兵として入隊し、私に召集令状が来たのは十月でした。入隊は十二月一日で、三重斎宮の第五航空通信隊でした。初年兵教育は三ヵ月で終了しましたが、私は体が少々弱かったためか練成中隊に入れられ、二ヵ月で一等兵に進級しました。・・・
 内務班に古参兵は一〜二人と少なく、初年兵が多かったのですが、一個班三〇人ぐらい、随分と気合がかかっていて、ビンタは毎日でした。少しでも敷布が汚れていれば、赤いチョークで金魚の絵が書かれていたり、枕カバーを頭に被せられ、食器袋を口にくわえて他の班を回らされました。各班の古参兵からのビンタもあり、頬がパンパンにはれてしまった人もいました。また、革の上靴(上ばき)で叩かれ顔の形が変形してしまう者もいました。やる人もやられる人も常習犯がいて、いつも決まった人達でした。(p400・401)秋田http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_400_1.pdf

 昭和十六年十二月二十七日、繰り上げ現役兵として姫路第五十四部隊(輜重連隊)に入隊しました。・・・
 教育訓練はなかなか厳しく、助教の上官たちに信号用手旗でピンピン打ち込まれての訓練が続く毎日でした。班内の日常起居の躾の教育も厳しく、勝手の異なった軍隊生活はなかなか馴染めませんでしたが、幸いに班内暴力は比較的に少ない方でした。(p396・397)

 十一月の末、北京西苑にある北支軍下士官教育隊に、徐州教育隊から我々四人が選抜され派遣されました。この教育隊は北支軍の騎兵、輜重、砲兵等各兵科の自動車使用部隊の合同の下士官教育隊でした。教育訓練は厳しく、教官に竹刀で叩かれることも再三ありましたが、これも自分が立派な国軍の幹部になるためとありがたく頂戴して訓練に励みました。(p398)尾崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_396_1.pdf

 呉で改めて検査を受け、甲種ということになり、徳島航空隊へ転属、三ヵ月の新兵生活を送ったのです。海軍の新兵の教育は誰でも知るように極めて厳しいものでした。そうしなければ誇りある帝国海軍の水兵にはなれぬからでしょう。バットで尻のアザが消えることはなく、海軍軍人としての基礎を徹底的に仕込まれた三ヵ月でした。(p391)保木http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_391_1.pdf

 舞鶴海兵団に入団して四ヵ月間新兵教育を受けました。この教育期間中の海軍魂涵養のため、海軍の伝統であり、名物とも言うべき罰ちょくをほとんど毎晩のように受けました。「甲板に整列」との号令がかかると、私達新兵は「また、やられるか!」と悲壮な覚悟で整列しました。軍人精神注入棒という樫の棒(長さ約一・五メートル、直径五〜六センチ)で尻を思いきり叩かれます。まれには棒が二つに折れ飛んだこともありました。されるままに奥歯をぐっと嚙み締めて、無抵抗で耐えなければなりません。班長さんは京都弁で怒鳴りながら叩き続けます。尻は内出血で黒く変色し痛いこと。現在の言い方にすると、まさに暴行のし放題でしょうか。海軍の伝統となれば致し方ありません。
 他の隊のことを噂で聞きました。「若い新兵が尻の上の腰椎を叩かれて骨折し、下半身不随で兵役免除になって一生不遇な生活に苦しみ泣いた」とか。この罰ちょくは四ヵ月の新兵教育が終わってからも受けました。あの精神注入棒のことを忘れることが出来ないのは、私一人のことではないでしょう。・・・
 次は普通科運用術学校入校です。学校は舞鶴にあり、入校期間は四ヵ月でした。運用術とは、常に甲板上にあって、錨の出し入れ、舵取り等を司る任務でした。この在校期間中も精神注入棒は健在で、私達も再び苦しめられましたが、どうにか卒業出来ました。(p379)

 昭和十八年四月、飛行機でスラバヤよりシンガポールヘ。ようやく「名取」がいました。ドック入りをして敵にやられた個所の応急修理中でした。修理を終えて舞鶴へ帰り本修理をするとのことで、やっと「名取」に乗れました。ドック入り中だから勤務というものはないのですが、そこで「お前等はたるんでいる。ちょっと気合を入れてやる。艦橋のところへ整列!」ときます。注入棒ではなくビンタです。これは大したことなく助かりました。(p381)

 不穏な相談がありました。新兵教育に引き続き、ずーっと私達に精神注入を行ってきた班長がちょうど同じ艇に乗り合わせていました。私達の恨みは深く、「あの野郎め。ただではおかぬ。報復してやれ」との同年兵の気運が醸し出され気持ちが一致しました。夜間航行の勤務中に皆でよってたかって奴をつかまえ、海へ放り込めと衆議一決。しかしなんとなく実現しませんでした。悪運の強い奴と思わざるを得ません。(p382)矢萩
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_378_1.pdf

 海軍水兵として舞鶴海兵団へ入団で、自分のように年のいった者まで必要あるとは、戦況も非常に悪化している証拠だと思い、生きて帰ることは出来ないだろうと覚悟をしていました。・・・
 食事以外に飲む水はなく、手洗い場で水を飲むのを見られると大変で罰せられました。その時は自分一人だけでなく班の者全員が制裁を受けます。同期兵以外の兵に見られぬ間に水を飲みましたが、暑い日が続くので、水と食い物には飢餓のようでした。そのため身体は日増しにやせこけていきました。・・・
 短期間の訓練兵ですから、次から次と習うことが多く、海に出てボートを漕ぐ練習に行き、生まれて初めて海を見た人も大勢いました。ボート一隻に十二人ぐらいで両方に並び、櫂で水をかき、ボートを漕ぎます。数十隻で競うこともあり、一番ビリの組は、その日の昼食が欠食となるので皆必死にボートを漕いだものです。
 また、武装して早く整列する訓練もやりました。各班競争で、負けた班は罰として上司の訓示を聞かなくてはなりません。「お前等は、娑婆のことを思っているのか、立派な軍人になっていないとは恥ずかしいことだ!残してきた親や子供、妻もいるだろうが、気合が抜けているからだ……今、気合を入れてやるから歯を食いしばれ」と言われます。歯を食いしばらないと口が切れるからです。並んだ順に頬を殴りつけられるのですが、身体が動くと再び殴られます。このようなことが、二〜三日に一度必ず実行されるので、誰もが両頬がはれあがっていました。頬が赤黒くなった者、耳が黒くなった者がいます。まるで畜生同様に扱われ情け容赦は絶対ありません。「命令だ」ばかりですので、「全員死ね」と言われたときの死の覚悟ができていきました。・・・
 青森から函館の旅館で一泊、次の日は「白洋丸」という軍用船に乗るのです。何百人か判りませんが大勢の軍人でごったがえしていました。船中では訓練はありませんが、精神面の訓練があり、軍人勅諭等も暗記させられました。時々整列の号令がかかり「お前達は、この頃気合が抜けているぞ! 気合と活を入れてやるから両手を高く上げろ! 足を開いておれ!」と丸太ん棒で叩かれます。それは痛いこと痛いこと、頭の上までジーンとなります。そのために尻から足の後ろ下半身は真っ黒になりました。そんなことをすれば全員倒れてしまうと思いますが、当時は皆精神が統一されていたから、一人として倒れる者はいませんでした。
 軍隊では、一日でも早く入隊した者が上級者ですから、訓練をつけるのは若僧で、二十歳前の小僧が私のような三十八歳の兵隊を制裁するのです。上官の命令は「朕の命令」、即ち「天皇の命令だ」と言ってビシビシと叩くのです。何事も仕方なしでした。
 一週間が過ぎ、水平線に島のようなものが浮かんできました。「目的地に着いたぞ!」と言われました。きました。「目的地に着いたぞ!」と言われました。千島列島の北端、占守島に上陸しました。
 我々の部隊名は〝第五十二警備隊〞であり上風陸戦隊、第二分隊速射砲隊で、速射砲一門。隊長は村山兵曹で次に保坂水兵長、蛸井兵長でした。二人ともキスカ島の生き残りで気性は荒く、下の者達は皆困っていました。我々は本当に苦しめられました。年齢は十六歳でしたから私とは親子ほどの差がありましたが、いつも鬼を見る思いで、今でも兵隊の当時のことが目に浮かんできます。・・・
 晩には、必ず整列の声が掛かり「お前等は気合が抜けている! 気合を入れてやる」からと、頬を殴られたり、尻を打たれました。お尻から下股の方まで真っ黒になり、なにしろ、入団以来毎晩のことですから、お風呂に入ると戦友同士で黒くなっている程度をお互い見せ合っていました。叩かれて倒れる者がいたら再び打ち直され、不動の姿勢が出来るまでやらされました。上司でも各人の気性で情け深い人もおられ、その人には今でも感謝しています。・・・
 このような時、一人の同年兵が銃弾一発を紛失し、班長にビシビシ打たれる体罰が加えられました。そのためか四日目の朝死亡しました。私はお経が読めたので戦友と二人で荼毘に付しましたが他の人は誰も知りませんでした。私は、万が一生きて帰ったら遺族の人に話してあげようと思いつつ、一生懸命読経しました。(p359~364)松島
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 私は大正十一年三月二十七日、愛媛県上浮穴郡久万町の生まれで、昭和十八年八月十七日佐世保へ入団(現役)しました。・・・
 佐世保では、私一人汽缶の方へ、他の二人は水兵ということで別れ別れです。海兵団の新兵教育は三ヵ月間。毎夜整列してお尻へ精神棒をたたき込まれます。一人でも悪いと団体責任でやられます。お尻が黒くなって、入浴の場合はタオルを巻いて隠したものです。(p353)

・・・そのうち、私なりに考えて、船の底の汽缶は駄目だと決めて、班長さんが沖縄出身の方でしたが申し出て、横須賀の工機学校を希望し許可され、昭和十九年一月二十七日横須賀目指して佐世保から新兵二十人同行出発しました。・・・
 従軍の全期間を通じて、工機学校の三ヵ月が最も苦しかったと思います。毎夜の精神棒は勿論、実習中に不都合があると上の人からその場にあるスパナとかハンマーとかで頭を打たれ、時として不運な学生は頭部裂傷も出る始末。とにかく地獄でした。
 昭和十九年四月やっとのことで卒業出来ました。ところが学校を出ても乗る船が無く、待機しているうちに、五月七日長崎県大村航空隊へ仮入隊と決定。大村には一ヵ月いました。
 大村では電気とカマ(汽缶)に分けられました。私はカマは嫌いだったので電気に入れられました。広い大きな配電室に沢山の配電盤その他計器類がズラリと並んでいます。「これから説明をする。よく聞いておけ。今夜から配電盤の当直だ」と言って説明が始まります。新兵ではあるし、十人ぐらいの同年兵が全員目を白黒。とにかく当直に立つ、すぐ完全に任務が出来ない。毎晩整列。精神棒。普通に立っていると棒の力で吹っ飛ばされるので、壁に向かって両手で体を支えて棒を受ける。現在の若者は辛抱出来るでしょうか。海軍魂の気合入れ。経験した者でないと判りません。(p354)清水
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 翌年一月十日に呉海兵団に入団せよと通知がきました。私は海で泳いだことがないのに、海軍とは大変なことになったと思いました。・・・陸軍との差異は海軍には軍人精神打ち込み棒というものがあり、ちょうど野球のバットを大きくしたような木製の棒で、一人の失敗は全員の責任だと言って、連帯責任を負わされることでした。そのような事故、失敗者、守務違反者が出た時は全員の尻が精神打ち込み棒の洗礼を受けました。三打罰・五打罰といって力いっぱい叩かれました。尻の皮が腫れ上がって便所へ行っても屈むのに涙が出る程痛かったものです。個人的な私的制裁はなく、自分は青年学校を卒業していたから他の戦友より何かについて有利なことが多かったのですが、全隊責任の罰は致し方なく同罪でした。(p341・342)
・・・自分達の乗船(艦)は最新鋭の航空母艦「瑞鶴」(五万七千トン)で、これに便乗しての出陣でした。艦隊勤務の厳格さは、海兵団にいた時以上に激しいものでした。精神打ち込み棒が一日に何回も風を切って尻に飛んできました。歩行困難なほどに腫れ上がりました。(p342)片桐
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・・・その後私は大阪の被服廠へ徴用となったが、勤務は予想外に厳しく、点呼で対抗ビンタを取られることもあったので、進んで兵役の志願をした。
 昭和十七年十二月一日、歩兵第二三四連隊要員として歩兵第一一二連隊補充隊第二中隊へ入営。十二月十七日、転属のため丸亀を出発。以後下関、新義州で朝鮮へ入り、山海関を通過し、北支那より南下し中支へと輸送された。
 その輸送中の出来事であるが、浦口より南京へと揚子江を渡り、兵站宿舎で二日間を過ごした。同年兵戦友と三人で景色の良い所へ行ったら、歩哨に捕まり衛兵所へ連行され、衛兵司令より気合を入れられて、顔は腫れ上がり、口の中は切れて出血。ほうほうの態で宿舎へ帰り上官(兵長)に報告。兵長殿は「よし!その衛兵所へ俺を連れて行け」と新兵三人を同行して衛兵所で「前線の第一線要員として輸送中の大事な兵を、些細なことで傷つけるとはどういうことか。南京あたりの後方で楽に警備しているお前等とは大違いの大事な兵だ。何故殴ったか? 理由次第では承知せん。上級の隊長と談判する。返事は?」と恐ろしい剣幕で抗議した。同じ兵長の衛兵司令も最後には陳謝して事はすんだ。私等三人は「頼りになる兵長殿!」と信頼を高めた。(p326)高橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_326_1.pdf

・・・私の入隊通知が八月十五日に来て、翌月の九月五日に山形連隊(北部第十八連隊)に入隊することになりました。・・・
 内務班は生死・苦労を共にする軍人の家庭ですが、あら探しの名人の万年一等兵と言われる程度の低い古年兵が一人いて、万事文句を言っては、ビンタも手で殴られるのは良い方で帯革ビンタの雨、初年兵同士での対抗ビンタもやらされました。(p282)今田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_281_1.pdf

 私達は槍部隊(独立混成旅団)の独立歩兵第一〇五大隊で第二中隊は杭州より自動車で所要時間約三時間離れた余杭を警備していました。
 私達初年兵はこの部隊初めての現役兵で大歓迎を受けました。翌日より班長、初年兵係による猛訓練が始まりました。毎晩、初年兵と背嚢は叩けば叩く程良くなると言って叩かれて、昼間の訓練、夜の内務と昼夜一寸の油断も許されない猛鍛錬が続きました。(p274)山本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_273_1.pdf

 私は、徴兵検査を受けた昭和十五年の暮れに召集令状がきて、鳥取の歩兵第四十連隊に入りましたから、甲種合格になった人より早く軍隊の飯を喰ったことになります。・・・
 しかし演習の終わりで兵器の手入れの段になると、小銃の中に入った砂の除去に大変泣かされました。一小銃の中に入った砂の除去に大変泣かされました。一粒でも砂が見付かれば「手入れ不充分」でビンタか捧げ銃などが待っていました。そのころの印象は強烈に私の脳裏に残っているのか、あれから六十年を経た今でも夢を見ます。小銃を紛失した夢を見て、どうしようともがいて、目が覚めて夢で良かったと、ほっとするのです。(p262・263)

 少しは軍隊生活に慣れてきたかなあと思い始めた昭和十六年三月十六日に宇品を出航して北支の塘沽に上陸、天津、保定を経て石家荘に着き、トラックで約一時間余り東南に向け走り、威県という小さな町に着きました。ここに私の所属する第百十師団第百四十連隊第四中隊の本部がありました。・・・
 最初、軽機手を命ぜられましたが、貧弱な体格の私では軽機が重くて走ることもできず、動作も鈍いので途中で交替してくれと文句を言ったらビンタをもらいました。戦後、伍長に会った時「あんたにビンタをもらいましたなあー」と言ってやったら変な顔をして黙っていました。(p263)田中
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_262_1.pdf

 六月一日、幹部候補試験に合格し集合教育を受ける。いよいよ将校生徒としての教育で、その責任の重を身をもって感じた。十一月三十日、集合教育終了、十二月一日付、陸軍軍曹となり北支保定陸軍予備士官学校に入校した。将来の将校としての、観測、通信、専門の指揮班の教育を受けたのである。・・・
 また、もう一つの忘れ得ぬ思い出は、消灯後、隣の戦友と笑いながら話をしていたら、そこに週番士官の巡察があり、戦友と二人週番士官室に連行され、「消灯後に話をしているとは軍規に違反する」と、下着のままコンクリートの防火用水槽に五分間首まで入れられた。何分にも厳寒二月の冬の夜であった。このように、将校生徒としての見せしめのための厳罰である。これは一生忘れられない体験であった。(p227)青山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_225_1.pdf

昭和十七年
四月  一日 召集で姫路中部四六部隊応召
・・・旗の波と大合唱に送られて列車で姫路へ出発、無事入隊し新兵教育に励みました。周知の通り毎日の朝夕ビンタを喰らい、内務班教育の厳しさを体に叩き込まれました。・・・
 服装検査、兵器検査、軍装検査とまた気合の掛けられ通しで、在郷では味わえない苦痛に満ちた新兵期間を涙を流し歯をくいしばり、故郷を出る時の家族、友人、町民の激励を思い起し、これも御国のためと頑張ったことでした。(p216・217)寺川http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_216_1.pdf

 私達の栄光に輝くべき大学の卒業式はまた、戦争への門出でもあった、昭和十七(一九四二)年十月一日、仙台東部第二十二部隊歩兵連隊に陸軍二等兵として入隊。いわゆる初年兵の始まりであり、まさに激動の我が青春の始まりでもあった。(p463)
 毎日の演習のつらさ、規律の厳しさ、汚れた下着を着ていると早速ビンタのお見舞、といって洗濯する時間もなく、揚げ句に上官の下着まで洗濯しなければならない。食事の用意、食後の後始末、掃除、雑用は皆初年兵の肩にかかっている。少しでも手を抜くと「セミの鳴き声」といって柱に登り、自分の鼻をおさえてセミの鳴き声をまねる。あるいは「ウグイスの谷渡り」と称してベッドの下にもぐり、隣のベッドとの間から顔を出し、またもぐって次のベッドとの間から顔を出す。こんな罰則がすぐ適用される。(p464)
・・・そして前橋陸軍予備士官学校入校になったのである。・・・学校での生活を一部取り上げてみると

1、起床ラッパが鳴り、起きて服を着、毛布をシワ一つないようにたたみ、枕を一線に揃え、窓ガラスをど真ん中に開け、靴を履いて校庭に出て全員整列完了まで五分間、校舎の出口に下士官が剣道で使う竹刀を振り上げて待ち構えており、五分を経過した者は竹刀でいきなり頭を殴られる
2、校舎から一歩でも校庭に出たら駆け足、歩いているのが見つかると営倉(学校の留置所)一日の罰。
3、集合時間一分遅れたために一分間の時間の誤差があると戦闘機なら何キロ飛んで行くし、騎兵隊なら何キロ進行する。作戦に大きな誤差が生ずるということで、罰として校庭を三周六キロの全力疾走。
4、敵襲があったと仮定して夜中に突然起こされ、武装して整列するという「非常呼集」と称されることが一晩に十三回。寝る時間全く無し。
5、慶応卒業の男爵の息子ともう一人が、敬礼の仕方を間違えたために、「将校生徒たる者が間違えるとは何事か」と言うことで全員集合。百五十人の前でカシの木刀で尻を十回たたかれ、内出血で陸軍病院に入院してしまった。(p465・466)森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_463_1.pdf

私は茨城県友部の筑波海軍航空隊に約百六十人の学生とともに赴任した。(p448)
私を含め一一〇人の者は戦闘機教程に所属が決まり、それぞれの教育練習航空隊に転出していった。私は大分航空隊に行くことになった。
 その晩、集会所に集合させられ、「娑婆っ気を抜いて、海軍精神を入れてやるから有り難いと思え」と海兵を卒業した飛行学生達が理由もなく、一人少なくても十発ぐらい、中には卒倒する者が出るくらいの鉄拳の洗礼を受けた。(p449)加美山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_447_1.pdf

 佐世保海兵団に入団し第四十六分隊であり、・・・教育中のバッタ(堅い棒で尻を叩く)を私は一度だけしか食わなかったのですが、団体としてはやられました。(p430・434)近藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_430_1.pdf

 私は、昭和十七年志願兵として、九月一日、大竹海兵団(呉海兵団は満杯のため)に入団した。・・・少しでも過失があれば、連帯責任で、樫の棒(バット)で臀を古参兵に叩かれる。従って初年兵の我々の臀にはいつも紫色の「あざ」が消えることがない。(p389)池田
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・・・昭和十七年九月一日、呉海軍病院第四十九期普通科看護術練習生として入隊することになりました。・・・
 入隊後三ヵ月の教育訓練は兵科の区別はありません、一般水兵の教育訓練で終始します。起床と同時のハンモックの片付け作業は背の低い私は毎日ビリで、罰として便所掃除に回されました。特に辛かったのが毎晩の精神修養棒による制裁です。連帯責任と称して誰か何かあれば、皆で整列して、太さ六センチぐらいの六角形の樫木棒で尻を、腫れ上がり紫色に変色するほど殴られるのです。時にはブッ倒れないように初めから物に結び付けブッ叩き続ける悪質な制裁もあり、上司からは禁止されていたらしいのですが、分隊上等の不在時をねらって制裁行事が毎晩続けられ、新兵達には全く生き地獄の三ヵ月でした。(p385・386)安井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_385_1.pdf

 満州国牡丹江省東寧駅下車、初めて踏む大陸の地、満州大平原を軍靴の音も高らかに大城子の満州第二一二部隊(野砲兵第二十四連隊)に入隊したのが十一月二十五日でした。
 満州編
 第八中隊に配属され、内地での石橋忠幸曹長の予言通り石橋登中尉の中隊でした。・・・
 消灯ラッパが鳴ると藁布団の中に入りますが、消灯で廊下の灯りだけで薄暗くなると進級遅れの二等兵が二、三人小声で「初年兵、集合」と。初年兵は素早く食台横に整列、補充兵も一緒です。「貴様等タルンどる。足を踏んばれ」と一メートルぐらいの精神棒で小突きながら二言三言言った途端、帯剱用の革ベルトが頬に空を切ってくる。革スリッパが顔へ……。翌朝は洗面は水で濡らすのみで、朝食は口が腫れて嚙むことが出来ず、味噌汁で流し込むのです。
 関東軍の私的制裁はさすがに凄いものでした。(p366・367)馬場
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_365_1.pdf

 私は昭和十四年三月二日、大阪に集合、朝鮮の清津に上陸、軍用列車で豆満江の国境を通過、九日琿春に到着、琿春駐屯隊歩兵第八十八連隊第一歩兵砲中隊に入隊しました。・・・
 関東軍名物のビンタは当然猛烈で、軍靴や上靴ビンタの嵐は初年兵を見舞いましたが、私は幸いにも戦友に恵まれ、内務班の先任上等兵が当たりましたので、夜の点呼後古年兵が「初年兵、整列!」と気合をかけると、戦友の先任上等兵が「郡司! これを洗面所で洗ってこい」とわざと私を逃がしてくれたので助かりました。
 洗濯が終わって班内に戻ると、他の初年兵は皆顔を赤くはらしていました。内務班長の小松沢軍曹も私を可愛がってくれ、当番にしてくれたので助かりました。私が初年兵の中で一番助かったと思っています。(p287・288)郡司
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_287_1.pdf

 前述のとおり、昭和十四年八月、山形連隊へ応召入隊、初年兵教育の基本は「軍人勅諭」を忠実に勉強し訓練に励むことでした。また入隊と同時に「誓文書」を書かされて中隊長に提出しました。班内へ入ると例の私的制裁がありました。初年兵が全員横一列に並ばされて、親にも殴られたことがないのに、数回力まかせに殴られました。この悪い思い出は一生忘れません。一般家庭や社会では行われない蛮行ですが、軍隊という特殊社会では、教育鍛錬の一助として広く実施れていました。(p276・277)寒河江
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_276_1.pdf

・・・二月二十三日朝鮮羅津に上陸、直ちに貨車に乗せられ、二、三日後、満州東安省虎林に到着、歩兵第七一二部隊に無事入隊をする。・・・
やがて消灯ラッパが鳴ってベッドに入ったかと思うと、教育係に起こされて精神訓話であり、班内の誰か一人がへまなことをすると、班内全員の責任だと言ってビンタが飛んで来る。軍隊という所は絶対に言い訳がきかないところである。その当時は人生の苦しみを一年間で味わったと思った。(p271)越智
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・・・三月になったというのに満州は寒く、目的地勃利に着いのは三月六日と記憶しています。・・・
 いよいよ、独立守備隊第三十四連隊第一中隊入隊です。初年兵教育は、小銃、軽機関銃、擲弾筒、馬が五頭、乗馬と駄馬で、馬は十五頭ぐらいで飼育の世話をせよとのことです。
 初年兵教育の時、中隊には古参兵で癖が悪く進級しない万年一等兵が数人いて、二年兵からそばへ寄るなと教えてもらい助かりました。初年兵時代は古兵や上級者からビンタ(罰として頬などを叩る)をもらいましたが、私は少ない方でした。特に、鈴木部隊長が大変良い人で、今まであっ「私的制裁を禁止する」とたやかましく言われ、中隊内でのビンタは少なくなってきました。軍隊での初年兵時代の教育訓練は当然厳しいものですが、それより辛いのは内務班での私的制裁です。一期の検閲も終了し、やっと一人前の兵隊になり、満州の気候にも慣れて、二年兵になってから私は自分の体験から、可愛想だから下級者にビンタはとりませんでした。(p233)寺本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_231_1.pdf

 翌昭和十五年四月、十五年徴集の初年兵が入隊して来たので、初年兵係を命ぜられ、三ヵ月間の教育を行う。自分達が味わった初年兵当時の苦しい内務班教育、そして演習、特に、誰しもが味わった教育時のビンタは、あのようなつらい思いは、出来るだけやりたくないと思った。しかし、どうしても教育上やむを得ず、二度ビンタをくれたことがあったが、復員後その者達と戦友会等で会った時、心から謝罪の念にかられたものだった。(p224)熊田

私の入隊先は支那の高射砲第十五連隊第五中隊(甲一四〇九部隊梁田隊)、場所は北京とのこと。・・・
 当然ビンタは覚悟していましたが、一般によく言われるシゴキは覚えがありません。五回か、六回くらいしかビンタの覚えがありません。その点助かったと思います。(p165・166)山内
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_165_1.pdf

 四月十日、徳島歩兵連隊通信中隊に入隊し、軍人勅諭に基づく三ヵ月間の厳しい教育訓練を終了。。一期検閲を受けるため岡山の日本原へ移動しました。
 私は兵隊検査で第一乙種となった時から、「やがては必ず入隊の日が来る。それまでに一日も早く軍人勅諭を丸暗記しなくては」と、在郷軍人会の先輩からの指導もあり、毎日努力を重ね、入隊時には楽に大声ですらすらと朗詠できました。そのためか新兵教育の期間中は模範兵として取り扱われ、いろいろと楽をさせてもらいました。・・・
 また、中隊の小隊長さんの一人が野戦帰りで片足が悪く常に自転車を使用していましたが、私はその自転車も整備点検し、軽やかでピカピカに仕上げて、小隊長の将校さんよりお礼を言われたようなこともあり、対抗ビンタや、きつい苦しい制裁とかは、予め適当な理由で隊から外れて楽をさせて、もらったりしました。(p160・161)
・・・武昌に上陸。鉄路南下。横江橋に駐屯する第四十師団第二三五連隊通信中隊に配属となりました。
ここでは初めの三ヵ月間は主としてモールス信号、五号無線機の操作の教育を受けました。この三ヵ月の間、初年兵三人で消灯後、チャン酎を飲んで深酔いしました。折悪しくその夜「初年兵集合」がかかり、三人は酩酊です。平素より要注意の○○新兵が首謀者と分かり、私もビンタの二〜三発やられましたが、○○君は徹底的にやられ、数日間は班内で臥床の状態でした。半殺しにされました。(p162)池田
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小野武夫「戦後農村の実態と再建の諸問題 啓明会研究報告」

第三、絶対服従の強要
  軍隊に於ては上官の命令は絶対的なものであって、これに服さない場合には抗命の罪として処罰せられるのである、命令に対しては命令以外の行動も以内の行動も許されない、命令せられたゞけのことをやればよいのである。其の間に自己の意志や判断を交へた行動は絶対に禁止せられてゐたのである。命令の絶対服従は個人意志の抹殺である。批判や意志の働きを持たない命令のまにまにに動く兵隊が模範兵である。例へば中隊の玄関の掃除を命ぜられた兵隊が、ついでに営庭まで掃除することは余計な行動として叱責せられる。しかも其の際一言の抗弁も許されないのである。正当の理由ある言い訳と雖も『それは文句だ』との一言のもとにはねつけられる。軍隊に於ては道理は常に上級者にあり、そこでは常に意志なき人間が養成されつゝあるのである。従って長い軍隊生活を送ったものは積極的行動の意図と批判的精神とを喪失してしまふ。最近軍関係の学校から一般学校に転入学した生徒に就て見ても判るやうに、彼等は命令せられたことだけは忠実にやるが、それ以外のことを自主的に積極的に行ふことが出来ないのも、此の間の事情を物語るものである。かゝるところに進歩があり得る筈がなく、独善と保守とが全軍隊を支配するのであった。

第四、敬礼の強制
  軍隊に入って先づ第一に教へられるのは敬礼の仕方である。軍人勅諭にも、『軍人は礼儀を正しくすべし』との一項があげられてゐる。人間社会に於て礼儀が尊重さるべきことは言ふ迄もない。週番の任務につく士官と下士官はきまった様に敬礼の厳正を説く。それ程迄に敬礼がやかましく注意せられるのは、其の反面に於て敬礼がなかなか励行せられないことを意味する。軍隊に於ては敬礼は上級者に対する服従心の現れであると教へてゐる。従って欠礼することは不服従を意味することになる、下に記する欠礼に関する一兵長の挿話は此の間の事情をよく語ってゐる。ある日、彼のゐた兵営で、下士官の引率する部隊が帰営の途中営門近くにさしかゝった際、師管区司令官の乗ってゐる自動車に出遭った。そこで下士官は『歩調取れ、頭右』の号令をかけたが、最後尾にゐた兵長はそれが聞えなかったゝために欠礼して通り過ぎ、其のまゝ営門内に入ってしまった。これを認めた司令官は自動車を疾駆して其の跡を追って営内に入り来り、自動車から降りるや否や、該兵長を捕へてなぐった後、重営倉二十日を言ひ渡して引上げた。欠礼によって彼等の威厳が毀損せられたと感ずることの如何に大であるかゞ此の一事によっても窺へよう。軍隊に於ては敬礼は上下垂直の階級制度を維持する手段として最厳格に行使せられてゐたのである。

第五、階級的差別の行き過ぎ
  軍隊に於ける階級的差別の厳格さは他の社会に於て其の比を見ない程はげしいものであった。将校と下士官と兵との間には越すべからざる限界があり、いかに打解けた時と雖も対等の言葉で話をすることは許されない。便所の如きも将校用、下士官用、兵用と判然と区別せられてゐる。同じ兵の間に於ても星一つ違へば、主人と使用人の如き差異が存ずる。一等兵から二等兵に対しては『おい貴様』と呼ぶが、二等兵から一等兵に対しては『古兵殿』としていとも叮重なる言葉遣ひが要求せられる。食事に於ても古兵から先に盛りつける、其の盛り方も二等兵よりはずっと多く盛らなければならない慣習になってゐる、所が演習其の他の使役で実際に腹のすいてゐるのは二等兵であるが、二等兵は自分の空腹を抑へても古兵に沢山の飯を盛るのである、そして二等兵は御飯もよく咬まないでそこそこにかき込んで古兵等が食事の終るのを待ち構へ、其の食器を我先きに取り下げて洗滌しなければならない、古兵が食べ終っても尚食べてゐようものなら、早速お小言が飛ぶのである。二等兵は食事すら落着いて食べられないのである。
  古兵に対してすら此の様であるから、下士官の飯の盛付に就てはおこげとか、御飯の上つ面になって固くなったところの入らない様、又香物の入方も三切は縁起が悪いから四切入れろと云ふやうな点にまで注意をくばり、下士官室に御膳を運ぶには呼気のかゝらない様にとマスクを掛け、膳を目の高さに持って行かなければならない。マスクもかけず、口より低く御膳を持って行くと、こんなきたない飯は食べられぬと突き返されるのが常である。
  食事以外に於ても古兵の兵器の手入、身の廻りの世話は二等兵の義務とせられてゐた。演習から帰ってきても古年兵は煙草をふかして無駄話をしてゐるが、二等兵は疲れた体を休ませる暇もなく、自分ののと共に古兵の銃や帯剣の手入、泥靴の手入をしなければならない。兵器の検査が行はれる際でも、古兵の兵器の手入が悪いとの注意を検閲官から受けると、古兵か其の後で必ず二等兵の手入が悪いからだと激しい私的制裁が加へられる。かうして軍隊に於てはすべての責任が部下の者に負はされるのである。従って長い間軍隊生活を送ってゐると、自分のことを自分でする二等兵時代のよい習慣すらもいつしか忘れ果てゝ、自分のことを人に命じて平然として怪しまない悪い習慣を身につけて家庭に帰るのである。
  日常生活に於て右の如くであるが、営外の作業に於ても実際に働くのは上等兵以下の兵卒であって、兵長以上は指揮監督者である。陣頭指揮は文字通り指揮であって陣頭に立って兵と共に十字鍬をとり、円匙を持って働くのではない。之は終戦後に於て目撃したことであるが、米国進駐軍が或作業に於て兵下士官は勿論、将校すら一緒に作業に従事してゐるのを見て感心した。日本の軍隊にはついぞそんな和やかな共働的光景に接したことがなかった。軍の一致団結が強調せられながら、其の成績の挙らないのは上下の階級的差別が余りにも厳格に過ぎるところにある。日本の軍隊では将校と兵とが打解けて話すといふことは特殊な私的関係のない限り存在しない。いつも裃をつけて接してゐるので、其の間に人間的な親しみといふものは涌いて来ない、そこに真の団結心の起らない原因がある。

第六、私的制裁の公認
  戦時中の連合軍俘虜虐待者が戦争犯罪者として裁かれつゝあるが、其の判廷で挙げられてゐる虐待と同じ行為が平素軍隊内で同胞軍人に対して加へられ、しかもそれが当然のことゝして何等怪しまれてゐなかったといふことを、私は証言し得るのである。些細な過失に対してもビンタは当然の報酬と考へられてゐた。軍隊では気合ひを入れるといふ言葉が使はれてゐるが、上級者によく仕へないものは、何かのきっかけをつかまへて思ふ存分の制裁が加へられる。例へば帯剣のバンドの金具のついた方で顔をなぐるとか、裏に金を打ってある革のスリッパで顔をひっぱたくとか、野蛮極まる方法が行はれ、其のため耳の鼓膜を破られたり、歯を折られたりした兵も尠くなかった。ある二等兵が炊事場へ茶をもらひに行った処、其の態度がよくないと言ふので、炊事当番の兵隊が、いきなり煮え湯を其の二等兵にひっかけ、それが二等兵の眼にひっかゝって両眼失明するに至った。大分問題になった様であるが、有耶無耶の裡に終ってしまった。上級者に対して絶対服従の軍隊に於てはかゝる蛮的行為に対しても殆ど一言の抗議すらも許されない。従って蛮的行為に堪へ切れずして逃亡する兵も尠くなかった。逃亡者が多くなると軍の威信に関するので、上官は逃亡者の続出を防止しようとして、私的制裁を禁ずる方針に移りつゝあったが、このやうな弊風は容易に抜け難いものであった。腕力を以て威嚇せねば自分の思ふ様に動かせない指揮官は、最も低劣な指揮官と云はねばならない。

結び
  以上項を分って述べ来ったところによっても分る如く、日本の軍隊に於ては兵隊は全く其の人格を認められていない。人格の認められない兵隊は如何程兵技に長じてゐても、立派な兵隊とは言ひ得ない。軍規厳正を誇る日本軍隊の南京に於ける、或はマニラに於ける数々の蛮行が、世界の人々から指弾せられてゐるが、其の根本的原因はかうした兵営内の誤れる兵隊指導に存在してゐたのである。(p53~59)

フィリピンが特攻隊を称賛、の真偽

フィリピンは戦中戦後反日感情が強かったせいか、右翼本右翼サイトでフィリピンへの言及は少ない。ただ最近こういう記事が出て来ている。

「親日」の印象が薄いフィリピンが神風特攻隊を賞賛する理由 2017.11.26 07:00

世界は日本をどう見ているか。ジャーナリストの井上和彦氏は以前紹介した親日国・台湾とは違い、日本に対し決して良い感情を抱いているとは思えぬフィリピンを訪れ、衝撃を受ける。・・・驚くべきことに、フィリピンで神風特別攻撃隊が称賛され、尊敬を集めていたのである。
https://www.news-postseven.com/archives/20171126_629286.html

2017.7.14 13:49
【マーライオンの目】 この夏、特攻隊員の像が立つ「カミカゼ神社」に行ってみては

フィリピン北部ルソン島に「カミカゼ神社」があると聞き訪ねた。マニラから車で3時間。パンパンガ州の高速道に近い幹線道路沿いに、コンクリート製の鳥居を見つけ、目的地だと分かった。旭日旗とフィリピン国旗のモニュメントの前に、特攻隊員の像がすくっと立っていた。
http://www.sankei.com/column/news/170714/clm1707140006-n1.html

この特攻隊碑は以前からたまに紹介されていたものではあるが、そろそろ本格的に右翼の宣伝材料になりつつあるのかもしれない。
ところで、この碑について、海外の新聞記事があったので以下紹介する。

Reading Eagle紙2005年8月14日付の記事全文
〔訳〕
フィリピンのカミカゼ碑は昔の敵についての分裂を反映
日本の降伏から60年、アジア人たちはーいくらかの例外はあるがー日本帝国の侵略と暴力的占領の時代について相反する感情をもつ

AP通信フィリピン・マバラカットー
 60年経った今でも、それは印象的な光景である。すなわち元米空軍基地の隣に日本軍神風特攻隊パイロットの等身大の像がある。
 フィリピン人や他の東アジアの人々が1945年8月15日の日本の降伏を思い起こす一方で、最初の特攻隊員を記念するこの像は、日本の帝国主義時代の侵略と苛酷な占領にまつわる彼等の葛藤を表しているように見える。
10ヶ月前に像が立って以来、このガラス繊維製の像に抗議する人々もいたが、その他の人々は像に許しの意味を見出している。
 ただそれは円という通貨の力を考慮することでもある。日本人観光客たちはこの飛行場に詰めかけ、第二次大戦博物館を見学し、米海軍の進攻に抵抗するためここから片道切符の任務に飛び立ったパイロットたちを称えている。
 日本は世界第二の経済大国としてこの地域に大きな影響を与えている。日本の対アジア貿易額は合計1兆ドルになる。昨年には中国がアメリカに代り最大の貿易相手国となった。
 日本はフィリピンにとって最大の輸出相手国であり、現在両国は自由貿易協定を交渉中である。
 こういう状況では、60年以上前に起きたことは重要性を失いがちになる。
 「日本人はフィリピン人に対してとても凶暴で、とても敵意を抱いていた。」そう語る歯の無いFaustino Arceo氏68歳は植木職人で、ゴーグルとヘルメットを身に着けた飛行士像の周りの植え込みを手入れしている。
「以前は私は怒っていた、しかし今ではどうにもならない。過去のことだ」
 侵略戦争の矢面に立った中国と韓国では、東京が戦時中の行動を決して十分に償っていないという認識に刺激され反日感情が定期的に爆発する。今年は、日本の学校教科書が戦時中の残虐行為をごまかすものだとして抗議する群衆が街に出た。
 それと同時に多くのアジアの国は、東アジアの主要な米軍基地がある日本を、中国の上昇しつつある軍事力経済力への対抗勢力として見ている。
 ここマバラカットは、フィリピン北部の元クラーク空軍基地に隣接するが、市の観光課係長 Edgar Hilberoはこの像について多くの批判があったと述べ、歴史だけでなく観光狙いの動機に突き動かされて像の建設を決定したことを認めた。
 毎年10月には、数百人の日本人観光客や元兵士、学生や仏教の僧侶がここまで旅行し、カミカゼを称え、花と線香と祈りを捧げる。
 日本は1942年フィリピンを占領し、最初のカミカゼが離陸したのがクラーク飛行場だった。日本の鹿屋航空基地史料館によると、1944年10月から1945年8月の間に、2526人の自殺飛行士によって618隻の連合軍艦艇が損傷または沈没させられた。カミカゼの数を5000とみる歴史家もいる。
 アメリカは1945年フィリピンを奪回し、1年後に完全な独立を与えた、しかし1991年までこの地に基地を置き続けた。クラーク基地はその後商業空港やホテル、ゴルフ場を備えた観光地区に改造された。
 Hilbero係長は、(カミカゼ像だけでなく)真珠湾攻撃の3日後にクラーク基地で墜落したB17爆撃機のColin Kelly Jr.大尉の記念碑を立てるためにも同様に活動していると述べた。日本の戦艦を爆撃したという理由で、Kelly大尉は第二次大戦で最初の米軍人受勲者となった。
 「我々はどちらかに味方しているのではない」Hilberoは述べた「我々は国際的な親善、友情そしてより緊密な関係を促進するために戦争の歴史を利用している・・・誰かを賛美するためではない。カミカゼもそうだ。戦争は悪だが、戦争を戦った人々が悪なのではない、それが我々のメッセージだ。」
 同様のメッセージは日本軍が10万もの中国系住民を殺害したシンガポールに住む95歳のElizabeth Choyからも聞かれた。
 国家的なヒロインとして学校教科書で大きく扱われる彼女は、金銭や食料、薬そしてラジオの部品を約7万5千人の捕虜と民間人が収容されていた抑留所内に密輸する事を助け、日本の秘密警察による200日に渡る投獄と拷問で苦痛を受けた。
 Choyは、現代の日本人に対する悪感情は全く無いと述べた。「彼らは常によく働き野心的で国のために頑張っている。」
 「私が憎むのは日本人でなく戦争そのものだ。」彼女は付け加えた。
 日本が侵略した地域の多くは西側列強により統治されていた。シンガポールとマレー半島は英国人、インドシナ半島はフランス人、フィリピンはアメリカ人、インドネシアはオランダ人。そして東京は侵略行為を解放と表現した。
 しかしシンガポールもやはり戦争を観光に利用しているのだが、ただしその旅行企画はイギリスやオーストラリア、そしてニュージーランドの元兵士や捕虜たちに向けて作られている。
 オーストラリアの農業の町カウラでは、元兵士たちが、1944年8月5日に収容所の有刺鉄線へ自殺的な殺到(脱走)を行なった231人の日本人捕虜の墓を手入れしている。1979年に12エーカーの記念公園が作られ観光施設とった。
 フィリピンのカミカゼ碑推進の裏にいたのは一人の地元の歴史家である。Daniel Dizonは、人生の多くを自殺部隊の調査に費やし彼の自宅に博物館をつくり錆びた銃や銃剣、旧い写真や日本軍の制服を展示した。
 「(フィリピンの)人々は非常に日本人を憎んでいたので、とても苦しいものでした」「日本人について公開するというのは激しい敵意と怒りにさらされたし、誰も話を聞こうとはしなかった」彼は述べた。
 Dizonが15歳の頃、現在ではマバラカットに隣接するアンへレス市はカミカゼパイロットで一杯だった。Dizonは彼らの決意と愛国心に魅了された。
 1970年代の初めにDizonが発見したマバラカットの家は、彼曰く大西瀧治郎中将と側近たちが1944年10月20日に会合を開き、それが最初のカミカゼ部隊23人の誕生につながったという所だ。
 何年もの間、彼は家の所有者たちに対して、これといった特徴も無い平屋の家の塀に小さい標識を付けることを認めてくれるよう説得した。他にほとんど魅力の無い内陸の田舎で金儲けするよい機会をそこに見出した地元のビジネスマンの協力を得て、ようやく所有者たちは彼に折れた。
 日本人観光客が続々とやって来るのを見て、市はDizonに他のカミカゼスポットを見つけ標識を付けるように促した。
 現在75歳になるDizonは、自殺飛行士たちは日本の侵略や虐殺と同一視されるべきではないと信じている。「なぜならカミカゼは自衛で行動したからだ」
 他のフィリピン人はそれほど融和的ではない。
 Rechilda Extremaduraはアジアのいくつかの国で日本軍売春施設で奴隷状態に置かれた数千の女性たちのうち100名以上の女性たちの広報担当である。その女性たちはカミカゼ像について州知事(?)に抗議した、と彼女は述べた。
 「なぜあの戦争を称える記念碑を我々が持たなければならないのか?我々は犠牲になったのだ」彼女は述べた。「私は、日本が彼らの軍隊を称えるのは構わない、しかし私達のような国では別だ。日本人に破壊され略奪された。不適切だ。」
 マニラでは、作家のFrancisco Sionil Joseが広島と長崎の原爆投下を称賛する。
「私の気持ちは変わらない。私は80歳だ。」彼は述べた。「日本軍の占領中にここにいたなら、私がどう思うか理解できるだろう。そしてそれがまさに問題なのだ。つまり多くのフィリピン人はその占領を直に体験しておらず、無関心だったり、寛大だったりする。
 しかし我々はそうではない。我々はそれを生き延びたのだ。」

以下元記事
Philippines kamikaze statue reflects split over old enemy
Sixty years after Japan's surrender, Asians - with Some exceptions-are ambivalent about the imperial era of aggression and brutal occupation.

The Associated Press MAPALACAT, Philippines -
 Even now, 60 year's later, it's an arresting sight: a life-size statue of a Japanese kamikaze pilot next to a former U.S. Air Force base.
 Yet as the Philippines and the rest of east Asia remember the Japanese surrender on Aug.15,1945, the statue commemorating the first suicide pilots seems to sum up their ambivalence toward Japan's imperial era of aggression and brutal occupation.
 Some have protested about the fiberglass statue since it went up 10 months ago, while others see in it an act of forgiveness.
 But it's also a recognition of the power of the yen. Japanese tourists flock to the airfield to See the World War II museum and honor the pilots who took off from here on their one-way missions against the advancing U.S. Nawy.
 Japan, the world's second biggest economy, has a gigantic economic footprint in the region. Trade with other east Asian countries totaled $1 trillion for the year ending in March. Last year China replaced the United States as its biggest trading partner.
 Japan is the biggest buyer of Philippine exports, and the two states are negotiating a freetrade agreement.
 In that context, what happened 60 or more years ago tends to lose relevance.
 "The Japanese were very brutal, very hostile to Filipinos," said toothless Faustino Arceo, 68, the gardener who tends the shrubbery around the statue of the goggled, helmeted flier. "Before, I was angry, But now, I can't do anything. It's the past."
 In China and South Korea, which bore the brunt of wartime aggression, anti-Japanese sentiment erupts periodically, stoked by perceptions that Tokyo has never fully atoned for its wartime conduct. This year the issue that sent protesting crowds into the streets was Japanese school textbooks which they said whitewash atrocities.
 At the same time, many Asian countries look to Japan, home of the main U.S. force in east Asia, to serve as a counterweight to China's rising economic and military might.
 Here in Mabalacat, next to forner Clark Air Base in the northern Philippines, city tourism chief Edgar Hilbero said there was a lot of criticism of the statue, and conceded the decision to put it up was driven by tourism as much as by history.
 Every October, hundreds of Japanese tourists, war veterans, students and Buddhist monks travel here to honor the kamikaze with flowers, incense and prayers.
 Japan captured the Philippines in 1942, and it was from the airfield at Clark that the sirst kamikazes took off. From October 1944 to August 1945, 618 Allied ships were damaged or sunk by 2,526 suicide pilots, according to Japan's Kanoya Air Base History Museum. Some historians put the number of kamikaze at 5,000.
 The Americans recaptured the Philippines in 1945 and gave it full independence a year later, but kept their bases here until 1991. Clark has since been transformed into a tourism Zone, with a commercial airport, hotels and golf courses.
 Hilbero said he is also working on putting up a memorial to U.S. Capt. Colin Kelly Jr., who died when his B-17 bomber crashed at Clark three days after the attack on Pearl Harbor.
 For bombing a Japanese warship, Kelly became the first U.S. serviceman decorated in World War II.
 "We are not taking sides." Hilbero said. "We are using war history to promote good will, friendship and closer relationship between nations ...not to glorify anybody, not even kamikaze. War is evil. It's not the people who fought the war, That is our message." A similar message comes from 95-year-old Elizabeth Choy in Singapore, where Japanese troops killed as many as 100,000 ethnic Chinese.
 A national heroine, she features prominently in school textbooks for her 200-day ordeal of imprisonment and torture by the Japanese secret police for helping to smuggle money, food, medicine and radio parts into the prison that held some 75,000 Allied POWs and civilians.
 Choy said she has no hard feelings toward today's Japanese. "They've always been a very hardworking and ambitious people and they want the best for their nation."
 "What I detest is not the Japanese, but war itself," she added.
 Many of the territories Japan invaded were ruled by Western powers - Singapore and the Malayan peninsula by the British, Indochina by the French, the Philippines by the Americans, Indonesia by the Dutch - and Tokyo presented its invasions as acts of national liberation.
 But Singapore, is also cashing in on war tourism, though its travel packages are tailored for veterans and former POWs from Britain, Australia and New Zealand. In Australia, war veterans in the farming town of Cowra tend the graves of 231 Japanese POWs machine-gunned as they launched a suicidal stampede for their camp's barbed wire fences on Aug. 5, 1944. In 1979 a 12-acre memorial garden opened and has become a tourist attraction. The Filipino behind the kamikaze initiative is a local historian. Daniel Dizon, who spent much of his life studying the suicide squadrons and built a museum in his house with rusty guns, bayonets, old photos and Japanese uniforms.
 "It was very agonizing because people hated Japanese so much," he said, "Anything that you bring about in public regarding the Japanese was met with intense hostility and anger, and nobody wanted to listen," he said.  Dizon was 15 when Angeles city, which now encompasses Mabalacat, was full of kamikaze pilots. He said he was fascinated by their determination and patriotism.
 In the early 1970s, Dizon tracked down what he said was the house in Mabalacat where Japanese Vice Adm. Takijiro Ohnishi and his staff had the meeting on Oct. 20, 1944, that led to the birth of the first 23man kamikaze squad.
 For years, he struggled to persuade the owners to allow him to put up a small marker on the fence around the nondescript, single-story house. They relented only after Dizon enlisted the help of a local businessman, who saw a chance to make money in a landlocked province with few other attractions.
 When it saw Japanese tourists starting to pour in, he said, the city prodded him to find and mark other kamikaze spots.
 Now 75. Dizon believes the suicide pilots should not be equated with Japanese aggression and atrocities, "because the kamikaze acted in self-defense."
 Other Filipinos are less conciliatory.
 Rechilda Extremadura is a spokeswoman for more than 100 women among the thousands enslaved in Japanese military brothels in several Asian countries. She said the women protested to the provincial governor about the kamikaze statue.
 "Why should we have a monument to glorify that war? We were victimized," she said. "It's OK for me for Japan to glorify their troops, but not for a country like us, who were pillaged and destroyed by the Japanese. It's not proper."
 In Manila, writer Francisco Sionil Jose applauds the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki.
 "I haven't changed my feelings, and I am 80 years old," he said. "If you were here during the Japanese Occupation, you would understand how I feel.  And this is precisely the problem - that many Filipino don't have a living experience of that occupation, so they can afford to be very blase, very for giving. "But not those of us. Who lived through it."
https://news.google.com/newspapers?nid=1955&dat=20050814&id=fQkwAAAAIBAJ&sjid=AKMFAAAAIBAJ&pg=1036,5778259

イギリスのテレグラフ紙2005年9月5日付記事の抜粋
Tino Arceo氏69歳は像の管理人で、日本占領時代はまだ子どもだったがよく覚えている。「彼らの大部分は本当に無礼で無作法だった。一部の日本人は、美しい女性を見かけると、例え夫や子どもと一緒であってもさらってレイプしようとした。
「私は当時起きたことについて日本人に怒っている、しかし彼らを罰するのは神に委ねている。私に関する限り、これ(像の管理)はただの仕事だ。私は金を稼ぎ生計を立て家族を養うために働いている。」
他の人々はより憂鬱そうである。像が建って以来の数ヶ月で訪問者の大多数は日本人だった。Arceo氏は彼らを「誇らしげで幸せそうだ」と形容するが、しかしあるフィリピン人訪問者は来客帳にこう記した「この碑はフィリピン人元兵士に対する非道と侮辱である。これは建前の意図とは反対に戦争を賛美している。実に不快だ。」

Tino Arceo, 69, its caretaker, was only a child during the occupation but he remembers it well. "The majority of them were really rude and ill-mannered. Some Japanese, when they saw a beautiful-looking girl, tried to snatch her and rape her, even if she was with her husband and children.
"I'm angry with the Japanese for what happened but I leave it up to the Lord to make the punishment for them. As far as I'm concerned this is just a job. I'm working to earn money to make a living to provide for the family."
Others are less sanguine. The vast majority of visitors in the months since the statue was installed have been Japanese. Mr Arceo described them as "proud and happy", but one Filipino visitor wrote in the visitors' book: "This memorial is an outrage and insults the memory of Filipino veterans. It glorifies war, contrary to its stated intentions. It is revolting."
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/philippines/1497691/Philippines-kamikaze-statue-lures-the-tourists.html

フィリピンの反日感情(2)戦後編


フィリピンの反日感情(1)戦中編 の続き

- 衆 - 予算委員会 -  
昭和25年02月03日
○吉田国務大臣(吉田茂)
お話のうちでもつてパキスタン、インド関係は対日感情は悪くないことは事実でありますが、相当悪い国もあります。たとえばマレーなどは日本の船を寄せてくれないかという話をしましたところが、日本の船を寄せた場合にはクリーが働かない、まだ対日感情は決してよくなつておらないから、もう少し待たなければならぬという当局者の話もあります。シヤムはよいそうであります。けれどもインドネシアは私は相当悪いのじやないかと思います。フィリピンが悪いそうです、仏印もあまりよくないように開いております。

- 衆 - 大蔵委員会 -  
昭和25年12月08日
○川島委員(川島金次)
さらにもう一、二点お伺いしておきたいのですが、これも私最近まわつて来て非常に痛感しておることなんです。・・・アジア地域ことにフイリピンですが、このフィリピンにおける対日感情というものは、われわれの感じて参りましたところでは今日でも非常に險悪であります。・・・依然として戰争以来の対日感情が非常に険悪をきわめておつて、日本人が行きましても、夜分などマニラの市街は見物などができないというようなほどに悪い。・・・これはフイリピンだけでなくして、ここにも非常に重要な市場として掲げておりますところのインドネシア、インド支那、こういう方面にもフイリピンと同じように、対日感情の芳ばしからざる面が相当あるわけであります。

○池田国務大臣(池田勇人)
 川島君の言われるようなことを私は他の人からも聞いたのであります。太平洋戰争中にわれわれの同胞の犯した罪に対しまして非常に憎悪の念を持ち、それがだんだんよくなりつつはありますが、まだわれわれの想像以上に憎悪の念が残つておるということを聞いておるのであります。政府といたしましてはできるだけそういう気持が早く消えることに努力をいたしておるのでありますが、これはやはり日本国民が、ほんとうに日本国民は平和を望む国民であるということを、事実をもつて示すよりほかにないと思います。国民感情をよくするということは非常にむずかしい問題でございまするが、貿易振興その他から申しましても非常に重要な問題でございますので、政府としてどういうふうにしたらいいかということは、お互いの頭の中で考えておることであります。

- 参 - 外務委員会 - 
昭和26年02月15日
○国務大臣(吉田茂君)
・・・濠洲その他については、先ほど申した通りでありまするが、お話の通りにフイリピンは甚だ厄介だと思います。というのは、あそこにおつた日本の軍隊その他の行動に、いろいろその土地の人の恨みを買うようなひどいこともあつたようです。この間佐藤議長がフィリピンにフリーメーソンの関係で行かれるというときにも、治安状態がどうであるか、その懸念に関して行くことをやめられたというようなことも聞いておるのでありますが、又あの土地を通過した人から言つて見ても、市中の散歩もできないというようなことでかなり日本に対する空気は今なお険悪だろうというふうに聞いております。又タイ、フイリピン関係の人から、その他いろいろなことを聞いておりますが、併しこれも日本が悪いことばかりしておるのではない、いいこともしておりますし、それから又駐屯しておつた軍隊その他の行動も、直接に国民にいい感じを与えておる部落と言いますか、地方もあるらしいのでございまして、一概に悪いとは言えないようですが、少くともマニラの状態、空気は甚だ悪くて、今なお危険な空気もあるというようなことは、これは事実であろうと思います。そこでこの関係を元の関係に直すのには相当の時間がかかるのみならず、我々として更に努めなければならんと思いますが、仕合せに村田省蔵君などというような人は友人も持ち、又いい関係も作つておるようでありますから、こういう人の講和後においての努力によつて、フィリピンとの間の関係がよく行くことに相当努むべきであり、努めなければいけないと思います。併しそれにしても、なお相当時間がかかると思います。マニラが一番憂慮すべき関係にあるように思われます。

- 参 - 法務委員会戦争犯罪人に… -  
昭和26年12月12日
○参考人(吉村又三郎君)
・・・現在のフイリピンの現状をちよつと参考までに申しますと、私の知る限りにおいて、最近二世のアメリカ人がフィリピンの酒場で、勿論二世ですから英語で喋つていたのでしよう。ところが途中で日本語になつたら間もなく殺されてしまつた。だから日本人だとすればとにかく遮二無二やつつけてしまうというくらいの空気が非常に強い。それから曾つて私と相当親しく連絡しておりましたフィリピンの某氏のごときは、あなたにフイリピンに来てもらいたいのだけれども、遺憾ながらあなたが日本人であるから生命の安全の保障はできない状態であるから、ここ数年待つてもらいたいということを言つておる。まあこういうふうな状態にあるのでありまして、・・・

 - 衆 - 法務委員会 -  
昭和27年02月14日
○黒田参考人(黒田重徳)
私黒田であります。本席でいろいろな戰犯にすることを述べさせていただくことは、私のたいへん仕合せに感ずる次第でございます。私は開戰戰当時は東京にある陸軍の教育総監部の本部長をしておりました。翌年の七月にシンガポールが落ちたあとに南方総軍の寺内さんの総参謀長になつて、その幕僚長で参りました。それから十八年の五月にフィリピンの軍司令官に参りまして、十九年の九月に交代、十月に内地に帰りまして、十二月に陸軍をしりぞきました。終戰後九月に米軍に監禁されまして、四七年十月にフィリピンに連れて行かれまして、裁判を受けて、四九年の七月に終身刑を受けてただいままでおりました。昨年の十月二十三日に大統領の特赦をもらつて帰つた次第でございます。
・・・比国人の対日感情というものは、なかなかまだ納まりそうにはないと思います。しかしこれはやはり時日が来なければなかなか簡單に行かぬのではないかと思います。

 - 参 - 厚生委員会 - 
昭和27年02月14日
○証人(赤津勇一君)
 私は昭和十九年に比島に参りまして、昨年の四月に帰つて参りました。・・・
 抑留邦人の状況ということになつておりますが、私一人でおつたのでほかのことは全然知りません。ただ向うの人が私に対して与えてくれた取扱のとについてちよつと申上げますと、大変親切であります。・・・ただ一般住民から大分反感を買つていたので、成るたけ外には出ないようにということで、キヤンプの中で自由に往来しておりました。ときどきマニラに行きますと、マニラの住民は相当に感情が悪いようでありました。

- 衆 - 海外同胞引揚及び遺家族… -
昭和27年03月12日
○神保参考人(神保信彦)
 私先般フイリピンに参りましたが、日本人として個人として、初めて行つたような関係であります。そこで今日の議題にありますフィリピン在留日本人の状況をお話します前に、御理解になる前提としましてフィリピンの情勢を簡單に申し上げたいと思います。 
 私が行きました目的は、ロハス元大統領夫人並びにキリノ大統領の招請で、お墓参りということと、それともう一つは、ロハス氏の物語りを書くので、資料編纂というのが目的でありまして、その間に皆さんとお会いして旧情をあたためるという人道的な目的であつたのであります。ところが御承知のようにフイリピンに入国するということは、今非常にむつかしいのであります。これはあとで説明申し上げますが、何といいますか、一種の鎖国政策のようなものではないかと思うのです。それで嚴密な委員会がありまして、資格を吟味いたしまして、やはりなかなか入れないようです。そうして閣議で決定するようです。そういう関係ですから、よくフイリピンの情勢がわからずにわれわれおつたのですが、行くようになりまして、一月の中ころにルパング島に日本兵が四、五名残つておるということが確認されたわけです。それからミンドロ島、ミンダナオ島及びルソン島にも残つておるという情報がだんだんと私の心によみがえりまして、残留日本人の様子を調べて来たわけであります。 
 フィリピンに行きまして気のつきますことが二つあります。それはフィリピンの対日感情が予想以上に悪いということです。これは端的に言つていいか悪いかわかりませんが、実際に悪いです。われわれは非常に甘く考えまして、政治家のある程度の政策上の問題だろうと思いましたが、実際に悪いです。たとえばパーティをやつたり、あるいはレストランなんかに行きましてボーイや何か、日本人だとわかれば必ず言います。私のおやじが殺されたの、兄弟が殺されたの、家が焼かれた。これは戦争中日本人がやつた。日本人ジヤツプジャツプと今でも言います。それからたとえば自動車に乗つて、日本人だとわかれば、運転手が言いますし、宴会などで女、ばあさんは、まだなかなか敵愾心が残つております。この民族感情が、このように熾烈にずつと根強くありますので、フィリピンの政治家としましても、この民族感情の上に外交、政治をとらざるを得ないのだろうと思います。・・・私は政治の問題はよくわかりませんが、そこでこれはどうしても対日感情が悪いということを前提に置いて、海外同胞引揚げといういろいろの政策も、交渉も進めて行かねばならぬと思います。 
 それからフィリピンで気つきますことは、たとえばマニラの町のまん中にフオート・サンチャゴという要塞があります。昔スペイン時代の要塞です。そこなどにガイド、歩哨が案内してくれますが、そうするとやはり日本が占領当時――終戦のときだと思いますが、昭和二十年ごろ、憲兵隊に留置した者を拷問をやつた部屋とか、虐殺をやつた部屋をそのまま歴然と残しておぐのです。そうして五百メートルぐらいの広い牢屋ですが、穴が掘つてありまして、ここでつるし上げて、日本人がフイリピン人を殺してそうしてここへ死骸を積んでここに埋めた。そのお墓はここなんだとよく説明します。そうしてやはり昔の残虐的なところを日本人に理解させようとするわけです。また半面に、山の中におつたゲリラも、これもやはりフィリピンでは抗日の英雄というようなぐあいになつておりますので、やはり初めは抗日的な政策をとつたのだろうと思います。その薬があまりきき過ぎて、現在のようになつたのではないかと思います。そこで日比の関係が、われわれが考えるように、いくさが終つてお互いに理解の手を差延べておるという状況でないということを前提にして研究されることを希望いたします。
 ・・・そこで大体五百名の日本人をどうするかという問題ですが、出発前に私のところにも、いろいろ手紙なり、慰問品、医療品のようなもの、それから投降するものを託されまして、荷物になりましたので船で送つておいたのですが、そうしてモーンテンルパとか、そういうところに届けるものは届け終つてしまつたのです。たとえば、私の夫がレイテ島でなくなつたから、レイテ島に行つて手紙を埋めてくれとか、あるいは北部ルソンで戦死しておるから、そこにある土を持つて来てくれとか、あるいはミンダナオのどこでなくなつたはずであるから、その死骸を探して来てくれとか、それから室中から紙をまいてくれ、水をまいてくれ、そういうことを依頼されるのですが、これはまことに情においては切々たるもので、人間のとうとい感情でありますが、これは冒頭に申し上げましたように、フィリピンの対日感情と、治安の状況をまだ御理解にならぬからだろうと思います。大体においてマニラの町も、日本人であるということがわかつたならばめんどうです。いわんや、そこから外に出るということは、日本人としてはきわめて危険で、だれも行つた者はない。いわんやレイテ島、北部ルソン島なんかの古職場にはとても行けません。それからまた日本人の無名戰士の墓というものもありません。山下、本間さんのお墓も掘られて内地に運ばれておるという話です。曹洞宗の管長さんからも、日本の仏教徒のために、経文のりつぱなのを届けられて、これをマニラの町に埋めて、そうして四十七万の英霊のかわりにマニラの土を持つて来てくれという話もありましたが、それをいろいろ外務省やマニラの市長と相談してみますと、やはり感情としては、まるで受付けないのです。まだそういうことをやるほどに日比の空気が溶け合つておりません。もしそういうことを作為的にやつた場合には、フィリピン人は墓を掘り返したり、墓地をこわしたりするという危険があるから、それはしばらく時期を待つてくれというのであります。

○神保参考人
 賠償の問題に対するフイリピン人の感じは、政府の自由党と在野のナシヨナリスタ党を通じて、やはりともに強硬だと思いました。これは民族感情として強く出るのだろうと思います。それでだんだん交渉した結果八十億というような数字は世界の情勢に合わないのだということは、民衆もその後だんだんわかりかけて来たのだろうと思います。そこで今交渉を進行中でないかと思います。

- 参 - 外務委員会 -  
昭和32年02月19日
○国務大臣(岸信介君)
・・・今回新聞に出ております、参議院議員の小西英雄君が団長となって十数名の者がいわゆる親善使節、親善使節と申しますけれども、これは言うまでもなく政府の別に公的な親善使節ではなしに、民間的なものでありましてこれはマニラの副市長ロセス氏の招聘に基いて、経費の全額を向うで保証するという形で招待によって渡航がなされたものでありますが、そのうちに一人元憲兵であった柳瀬氏が加わっておりましてこれが向うで新聞に取り上げられ、その他のことで問題を起したわけであります。御承知のように今日の旅券の発給する場合におきまして申請書には軍歴を書くということの何がございませんので、柳瀬氏も軍歴のことは一つも書いてありませんで、従って外務省がこの旅券を出すときには、柳瀬氏がそういう元憲兵であったという事実は実は知らなかったわけなのであります。しかしこの一行が向うへ参りまして、柳瀬氏が憲兵であったということが新聞に掲げられ、また一部に取り上げられまして、相当に問題が起った。もっとも柳瀬氏は今の上院議長のロドリゲス氏とは特別の関係が個人的にある人であります。いろいろこれらの人々が仲介に立って柳瀬氏を日本へ早く帰したらよかろうということで、柳瀬君は一行よりも先に帰って参りました。それから最近に小西参議院議員も帰って参りまして、当時の事情を私は小西議員からも聞いたわけでありますが、日本の新聞に報ぜられたほど現地では大きく取り上げられたわけではなかったようであります。しかし戦争の当時の日本憲兵に対するフィリピンの大衆の国民感情というものは、まだ全然拭い去られたというわけではございませんので、このことが国民の大衆の一部に当時の忌まわしい記憶を呼び起したりして、せっかく日比の間の感情がそういうふうに好転していっている際に、こういうたとえ小さいことであっても起ったということは私遺憾であると思います。


Ⅱ桑港編
8 7日午前 第6回全体会議
 シリア・サウジアラビヤ・ヴェネズエラ・ウルグァイ、ホンデュラス・ニカラガ・カナダ・インドネシア・フィリピン・ルクセンブルグ・イラン・ペルー・ブラジル・グァテマラ14国代表の意見開陳が行なわれた。なべて条約案を支持した。・・・
 フィリピン代表は、抽象的な原則論に走らず平和の具体的な困難な問題と取りくまねばならぬ。フィリピンは日本の占領から言語に絶する損害をうけた。が、フィリピンはあわれみを求めるのでなく Justice を求める。フィリピンの対日態度は感情に影響されるところないとは申さぬが objective な態度をとるよう努力してきた。フィリピンの戦後の対日政策は、(1)日本が将来フィリピンその他の諸国に対して脅威とならないこと、(2)日本がフィリピンその他の国に公正な賠償を支払うこと、(3)民主的・非軍国主義的日本と平和維持のため協力することの三つである。この政策からみてフィリピン政府は条約がある点では公正にして必要をつくしていないことを指摘せざるをえない。戦争状態の終了だけを目的とするならこれでよいかもしれないが日本のような大人口をよううし長い歴史と伝統をもち産業・軍事の潜在力をもつ国と平和条約を結ぶのは重大な政治的行動である。フィリピン政府は日本の民主化を継続―日本の民主化が完成したとは信じられない、次代の日本人に期待をかけなければならない―するため日本を援助する措置が講じられるよう希望した。条約にはそういう規定が設けられていないが、日本が自由世界との接触を拡大してその民主的制度を発展させるよう希望する。日本の再軍備にたい制限を設けない条約は平和条約として唯一の例外であろう。また、憲法で軍備を放棄した日本に自己防衛のため軍備をもたせようとしているのは歴史のアイロニーである。現情勢のもとでは已むをえないが、そうでなければフィリピンは断じてこれを認めないであろう。条約は日本とフィリピンがともに参加する集団的安全保障取極めを予想しているので、フィリピンの懸念は安心させられる。最近結ばれた米比相互防衛条約は日本からの攻撃にたいし共同行動にでることを規定している。この二つがあるので、条約の安全保障に関する規程を受諾する。フィリピンは条約第14条(a)の賠償条項に満足しない。同条が連合国に与えている利益は大国だけが享受できるもので日本の占領から損害を受けた小国―賠償請求国―はなんの利益もえない性質のものである。条約は小国の請求権については寛大な条約であり大国の請求権については懲罰的条約と評してよからおう。故意による損害の賠償の原則は個人間におけると同よう国家間においても放棄するわけにはいかない。フィリピンは懲罰的賠償を請求しない。しかし、日本の賠償を役務に限定することには賛成できない。日本の経済は逐年伸張しつつある。賠償を役務賠償に限ると往時のように他のアジア諸国は経済的に日本に従属せざるをえなくなる恐れがある。フィリピンは第14条(a)に規定された以外の方法による賠償の交渉を行う権利を留保する。条約はフィリピンにとって完全に受諾しうるものではないが会議招請国の支援と日本の協力とによって条約の欠陥を軽少に合理的な補足措置によって条約規定をより衡平・正義に適うものたらしめるよう希望する。アジアは、今、自由と集団的安全保障にむかって動きつつある。日本はアジアの覇主たらんと志してアジアと世界の自由の意思の前についえた。日本がこの条約の提供する機会を利用して自由の道を歩むならば、その野望をすててアジアおよび世界で成就さるべき事業に加担するならば、この条約に盛られた希望は達成されることになるとのべ「日本国民にフィリピン国民に代ってこう申あげたい。あなたがたはわたくしどもに重大な損害を与えられた。言葉でそれを償うことはできないしあなたがたのもっておられる金や富をもってしてもこれを償うことはできない。しかし運命はわたくしどもに隣人としていっしょに生きねばならない、また隣人として平和に生きねばならないと命じた。アジアには天の下に人類は同胞という諺がある。しかし同胞とは心の問題であって開花するにはまず心が清純でなければならない。相互の間に憎悪のきばが永遠に追放されるよう希望するが、それがためにはわれわれが許しと友情の手をさしのべる前にあなたがたから精神的悔悟と再生の証拠を示してもらわねばならない」と結んだ(注)
(注)ロムロ代表の演説はその内容といいその態度といいフィリピンの対日怨恨と不信の深さをまざまざ感じさせるもので会議を通じ日本人に一番深刻な痛味を感じさしたものであった

日本外交文書デジタルアーカイブ 平和条約の締結に関する調書 第4冊
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/sk-4.html

付録39
9月4日総理・ロムロ比代表会談録
昭和26年9月4日
松井秘書官

 吉田総理大臣よりまず「今次戦争中においてフィリピンに対して与えた被害はまことに遺憾であり、日本政府としてはできるだけフィリピンのクレームを満足させたいと考えている。ただ日本経済は連合国の援助によってようやく復興の途上にあるがなお前途は長く賠償問題は容易ではない。しかし日本としては条約第14条の義務は忠実にこれを履行する用意がある。」と述べたところ、ロムロ外相は「実はフィリピンにおいては賠償問題は非常にやかましい問題となっている、国民も今次条約の賠償条項はきわめて不満足である。反対党は遂に平和条約の全権団に全権を送ることを拒否するに至った。昨日の入電によればマニラ市において『条約反対』『米英のかいらいとなるな』『国民的名誉と自尊心をすみやかに回復すべし』等のポスターを立ててパレードが行われた旨の情報が入っている。自分は此の平和条約は調印すべしとの議論をしているが自分の立場の困難なことは御推察に難くないであろう。正直に申し上げれば、自分は戦争中、マックアーサー元帥とともにバターン、コレギドールを経て米国に逃れた。マニラの私宅は焼失し、家族は苦難の道を歩んだ、その自分が国民の意思に反してこの条約を支持せんとしているのである。自分の立場は解してくれるであろう。貴大臣も日本国民の声を代表しておられるであろう。私もフィリピン国民の声を代表せざるを得ない。そこでおたずね致し度いのはいつワシントンに出発せられるか、ワシントンに出発される前に米国を交えず直接に会見し、賠償支払の意思のある旨の確約を得たい。」と述べた。吉田総理大臣は「自分は条約調印後、直ちに日本に帰りたい。しかし条約第14条に基く会談は直ちに、又どこの場所においても開始する用意がある。東京でも良い。貴国においてでも良い。」と答えた。
 続いてロムロ外相は「ダレス特使との会談も全部賠償の問題についてであった。マッカーサー元帥も日本人は賠償を支払う意思がある。日比間に必ず満足の行くような双務協定ができることを信ずる旨の発言があった。どうか日本政府の誠意を示し直ちに階段を開始するようにしてほしい。」と述べた。
(備考)この会談はインドネシアの場合に比しロムロ代表の発言きわめてアグレシーヴであり賠償に対する関心の度合の強烈さを痛感した。しかし条約の調印をする意思は明瞭にしていたことは特筆するに値しよう。

日本外交文書デジタルアーカイブ 平和条約の締結に関する調書 第4冊
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/sk-4.html

以下は佐々木靖「コルディリェラの日系人」(帝京大学短期大学紀要第32号 2012年)より
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tandai32-02.pdf

アルツーロ・ハギオ(萩尾行利)のケース6
 ユキトシは、熊本県出身の父と北ダバオ出身の母により1926年にダバオ州で生まれた。・・・やがて米比軍の捕虜になり日本人強制収用所に入れられ、敗戦を迎える。収容所では日比混血児であることからあまり警戒心を持たれなかったようで、9月のある日、米兵の目を盗んで脱走した。2か月間ジャングルに潜伏したのち自宅に帰ろうとする途中、親しいフィリピン人に出会った。この友人は、ユキトシの2人の弟がゲリラに射殺され、母もそれがショックで翌日亡くなったことを告げ、今自宅に帰ったら弟たちと同じように殺されると教えてくれた。悲しみとともに身の危険を悟ったユキトシはダバオ湾に浮かぶサマル島に逃げた。この島で彼は日系人であることを隠し、タオスグ族の漁師の家で養子のような形で家業を手伝った。この漁師の夫妻には子どもがなかった。この時に用いた名前が「アルツーロ・ハギオ」である。ここで土着のサマル族の女性と結婚した。やがて可愛がってくれた漁師夫妻が亡くなり、8年後の1953年に妻をともないダバオに戻った。しかし故郷には帰ることができず、隣町に住むことにした。ハギオ夫妻は4人の子どもを持ったが、子どもには母方の姓を名乗らせることにした。日本や日本人とまったく無縁の生活を送っていたアルツールがその後日本人と接触するのは1970年代になってからである。(p15・16)

サルバシオン・モレノ(川上美保子)のケース7
 ビサヤ諸島パナイ島のイロイロ市に住むサルバシオン・モレノは、日本人の両親を持つ残留孤児である。・・・美保子と妹は地元のビダル・モレノという農夫に拾われた。ビダルは「サルバシオン」という名を美保子に与え、2人を養子にした。名前は変えていてもサルバシオンが日本人孤児であることは知れ渡っており、地元の小学校に進学後、「お前はフィリピン人じゃない」「日本に帰れ」「ハポン(日本人)、ハポン」と罵声を浴びせられたが、耐えた。別のフィリピン人農夫に拾われた兄は、この罵声に我慢がならず、小学校を2年で中退した。兄と美保子は拾われた後に再会した。初めは、日本名で呼び合っていたが、周囲の反日感情に出会うなかで、フィリピン名のニックネームで呼び合うようになったという。妹は14歳で病死した。美保子はその後、大学に進学し卒業している。(p16・17)

北ルソンの日系人
ジャニー・ダビット(長岡良男)のケース9
 ヨシオの父は福岡県出身の「ベンゲット移民」10であった。・・・キアンガンで防空壕に隠れ住んでいたとき、ゲリラ2人がこの防空壕に入ってきた。家族は全員がイロカノ語を話せたのでいったんそのゲリラは立ち去った。しかし翌朝、その防空壕目がけて砲弾が飛んできた。父と姉妹4人は直撃弾を浴びて即死、母も3日後に死亡した。生後8か月だった末の妹は無傷だったが、やがて栄養失調状態で死亡した。同行の家族7人、つまり全員を一度に失ったのである。自身も大けがをした14歳のヨシオは、負傷した右足を引きずりながら逃げた。途中でゲリラに遭遇したが、イロカノ語とタガログ語で日系人であることを隠し通した。ヨシオは母親の姓を使い、ジャニー・ダビットと名乗ることで一命を取り留め、バヨンボンで米軍病院に運ばれた。その後2年間闘病生活を送った。退院後は生きるためにできることは何でもやったという。靴磨き、ホテルのボーイ、大工の見習い。やがて車の免許を取りジープニーの運転手になったジャニーは1960年に結婚したが、妻にも自分の日本人名はおろか日系人であることすら明かさなかった。ゲリラに「ジャニー・ダビット」と名乗ってからは日本語を口にすること、日系人であることを封じてきたのである。ジャニーが妻に自らの名を「ヨシオ・ナガオカ」と名乗り、日系人であることを明かしたのはシスター海野に出会った翌年の1973年になってからである。戦前、進学のため日本に帰っていた長兄から手紙が届いたのである。兄が親からもらった名前で生きていることが分かったのを機に、ジャニーはヨシオ・ナガオカに戻った。(p18・19)

ジュリエッタ・ロカノ(東地初子)のケース11
 ハツコの父は和歌山出身である。母はフィリピン人で、1941年4月に生まれた。・・・
 終戦後、家に帰ってくると壁は破壊され、土地は没収され、他の場所に移動せざるをえなかった。ハツコの悲劇はここから始まる。次兄が現地召集され模範的な通訳として憲兵隊に仕えていたのである。次兄は、46年2月に戦犯として山下大将とともにラグナ州・ロスバニョスで処刑された。ハツコは日本人の子どもで、悪名高い「ケンペイタイ」の妹であったのである。
 周囲からは、「兄が憲兵隊で人殺しをした。お前は、その妹だ!」と罵られ、「学校では同級生と遊んでもらえず、家に帰っても周囲の大人からも、人殺しの妹だ、と軽蔑され、敵視されました。一緒に遊んでくれる友達は、誰もいませんでした。いつも目立たないように片隅でおびえながら小さくなっている」といったいじめを受ける。いじめは小学校時代が特にひどく、母方の姓を名乗り、別の場所に引っ越さざるを得なかった。(p19・20)

シスター海野12
・・・マニラで活動していたシスターは1972年に静養のため避暑地バギオへ向かう。偶然にこの地に日本人の子孫がいることを知ったシスターは、彼らを探し出すことを心に決めバギオやその周辺のあちこちを歩き回ったのであるが、日系人を知る者はほとんどいなかった。最初の日系人に出会うまでに3か月を要したという。日系人たちはその姿を隠していたのである。しかしながら、シスターの献身的な働きによって、翌73年に28人の日系2世がバギオで終戦後初めて集まった。(p21)

カタリナ・プーカイ(大久保さだえ)のケース13
 サダエの父は1894年に広島県に生まれた。・・・地元生まれの母は子どもたちに「いじめられても逃げたりしないで。まっすぐに歩きなさい」と教えた。終戦時に15歳であったサダエは「オオクボ」の姓を使い続けていたが、そのために誹謗の対象になった。周囲からは軽蔑の意味をこめて「ハポン(日本人)!ハポン!」といじめられた。「家に石が投げ込まれたりしたこともあります。ドアや窓を閉めたまま、外へも行かずじっと家の中に隠れたりもしました。妹もただ黙って泣いていました」(p22)

ハマダ兄弟のケース14
 北ルソン・バギオのハマダ兄弟は成功した兄弟である。鹿児島出身の父親はベンゲット・ロードの工事に従事し、工事終了後もバギオに残った。製材所で働いていた1912年に労災事故に遭い32歳で死亡した。この時バギオのイバロイ族の母親のもとに残されたのが1歳の長男オセオと生後1か月の二男シナイである。当然のことながら、父親の記憶もないし日本語を習ったこともない。戦争が始まっても、日本語ができなかったため日本軍に徴用されることはなかった。兄弟はフィリピンの公立学校で教育を受けたため、自分はフィリピン人であると考え、対日協力の意思はなかったという。しかし戦後、日系人であるという理由でマニラのモンテンルパ強制収容所に6か月間収容された。その後バギオに戻って来るのであるが、「当時もし日本語ができていたら、今ごろ首はなかっただろう」と言う。

6天野洋一『ダバオ国クオの末裔たち:フィリピン日系棄民』1990、風媒社及び大野俊『ハポン:フィリピン日系人の長い戦後』1991、第三書館(pp.12-27)
7大野俊『ハポン』(pp.122-130)
9大野俊『ハポン』(pp.75-78)及び鴨野守『バギオの虹:シスター海野とフィリピン日系人の100年』2003、アートヴィレッジ(pp.51-58)11鴨野守『バギオの虹』(pp.58-68)
12大野俊『ハポン』(pp.78-87)、鴨野守『バギオの虹』(第3章)及び“MEMORIAL:TheJapaneseintheConstructionofKennonRoad”1983,PublicationCommitteeFilipinoJapaneseFriendshipAssociationofNorthernLuzon(pp.58-60)
13鴨野守『バギオの虹』(pp.86-90)
14大野俊『ハポン』(pp.215-222)及び“MEMORIAL”(pp.22-25)

東京財団研究報告書 2005-6
「フィリピン日系人の法的・社会的地位向上に向けた 政策のあり方に関する研究」より抜粋

終戦後、投降した日本軍人は米軍の収容所に収容された。8月15日の敗戦後の投降者はルソン島6100人ミンダナオ・ビサヤ地区5万2,910人、計11万4,010人といわれる24)。山下奉文大将とマッカーサーの間で交わされた停戦協定文中で、一般邦人は軍人軍属と同様に取り扱われることが明記され、一般邦人も軍人と前後して米軍の収容所に収容された。収容所はフィリピン全土に19箇所(ルソン島17、ミンダナオ島1、レイテ島1)あった。最大規模は、ラグナ湖周辺のカンルバン収容所(最大収容人員5万人)、次いでミンダナオのダリアオン収容所(同4万人)、レイテ島のタクロバン収容所(3万人)であった。このほか仮収容所が全国に34箇所(ルソン島18、ミンダナオ島8、ビサヤ諸島8)あった。収容所では1000人以上の日本人が死亡したと伝えられる。収容所における処遇の基準は次の通りであった。24)①日本人移民および日本人を両親とする子どもたちは全員強制送還②フィリピン人を母とする15歳以上の男子は父親とともに強制送還③フィリピン人を母とする15歳以上の女子は日本に行くこともフィリピンに残ることも選択可④フィリピン人を母とする15歳未満の子は全員フィリピンに残る(日本人父が連れて帰る場合は別)(p31)

戦後、日本人の財産はフィリピン政府に没収された。残留した2世は、フィリピン人の日本人に対する憎悪を一身に受け、迫害、差別の対象となった。天野洋一『ダバオ国の末裔たちフィリピン日系棄民』(風媒社、1990年)には、「お前、日本人だろう、日本人のくせになぜ日本に帰らない。ここはお前なんかのいるところではない」と銃でこづかれた、あるいは惨敗兵(略奪を業とする元抗日ゲリラ)に襲われ、「合いの子」であることをひたすら訴えて命拾いしたなどの残留2世の体験談が紹介されている。年頃の混血2世女性は、フィリピン人や中国人と結婚することで迫害をまぬがれ、生活手段を得た。夫を失った1世の妻の多くが、生活のため、フィリピン人男性と再婚した。2世は、日本人父の姓を、母の姓または母の再婚相手(継父)の姓にかえ、ファーストネームもフィリピン名(多くは洗礼名)にかえて育てられた。戦中生まれで日本人父の記憶のない2世の場合、父親が日本人であることを知らずに、継父を本当の父と思って大きくなったケースもあった。継父については「よくしてくれた」というケースと、「いじめられた」いうケースがほぼ半々であった。後者は「継父は自分と他の子(母親と継父との間に生まれた弟妹)とを区別し、自分だけにつらくあたった/学校に行かせてもらえなかった」などである。学校に通うことができた2世は、級友から「ハポンハポン」「ハポンパタイ」(ハポンは日本人、パタイは死ねの意)など、いじめられたり、からかわれたりした経験を持つ者が多い。(p32・33)

8)フクダハツエ―1944年(昭和19年)生まれダバオ在住
・・・私は1944年に生まれましたが、その後すぐに、父はいなくなってしまいました。戦争が終わった頃です。父はいなくなる前に、自分はもうフィリピンにいられなくなった、と母に言い、私を一緒に連れて行くと言ったそうです。母はそれに賛成しましたが、祖母が反対しました。その後、父は再度私を連れて行こうとしましたが、祖母の反対で連れて行けなかったそうです。近所には私のほかに日本人の子はいませんでした。「ハポン、ハポン」と皆に呼ばれ、私は意味がわからず、そのたびに泣いていました。私は、母の最初の夫の姓を使っていました。日本人の姓を使うのは、当時危険だったからだそうです。私が8歳のとき、近所の人が日本人の子はどれかと聞き、母は、私がそうだと言いました。そのとき初めて私は自分が日本人の子であることを認識しました。(p41・42)

10)トウゲエミコ―1934年(昭和9年)生まれマニラ在住
日本軍が降伏したと聞き、私たちは山から降りました。両親ともに亡くした私たち4人はそれぞれ別々に、私たちをかわいそうに思った近所の人にひきとられました。私はデグスマンという夫婦にひきとられ、すぐにルソン島北のヌエバエシハに行きました。異母姉も一緒でした。その夫妻が「フィリピン人は日本人に対して怒っているので日本人の姓は使わないほうがいい。そうすればあなたの目はあまりつりあがっていないのでわからない」というので私はFernandesという姓を使うことにしました。(p43・44)

13)ハマカワヒコイチ―1942年(昭和17年)生まれリサール州在住
・・・私はイロイロ市では爆撃の音を聞いたことを覚えています。私たち家族は父とわかれた後、イロイロ市から、母の実家のあるミヤグアオのアグダム村に行き、戦争が終わるまでそこにいて、戦後もそこに住み着きました。そこには母方の親戚全員がいました。私はミヤグアオのフィリピン小学校にあがりました。学校では日本名は使っていなかったので、学校にあがる前に母が私たちをカトリックの洗礼を受けさせたのだと思います。私は近所の子どもや学校の他の子どもたちから「日本人の子だ」といわれてからかわれました。私は泣きました。(p48)

14)フジカワニカノール―1927年(昭和2年)生まれダバオ在住
・・・私は戦後もフジカワという姓をずっと使ってきました。危険だから変えたほうがいい、と言われましたが、変えませんでした。私の子供の出生証明書の父の氏名欄はニカノールフジカワです(p49・50)

船尾修「フィリピン残留日本人」 より抜粋

長岡理三さんを父に持つ2世の良男さんは山中での逃避行の際、両親と乳飲み子を含む妹5人を相次いで亡くした。埋葬もできず遺体をそのままにして逃げたのが一生の悔いと いう。戦後は日本人に対する迫害から身を守るためにダビッド・ジャニーという母方のフィリピン名に名前を変えて生き延びた。 バギオ(ベンゲット州)ルソン島 /2010(p8)

高血圧で寝たきりのエメテリア・ファビアン・ゴンザレスさんは戦前の1934年生まれであるが、残留日本人2世ではなく3世である。祖父は大工をしていた神奈川県出身の加藤関蔵でバギオ大聖堂の建設にも携わったという。エメテリアさんの叔父は戦後になってから、日本人の子孫だという理由で殺害された。 ラ・トリニダッド(ベンゲット州)ルソン島 /2010(p10)

1936年生まれの2世ゲルマン・オオウチ・ベルンさんはこれま で一度も日本語を使ったことがない。福島県出身の父オオウチ・ イクオは家の中でも日本語は話さなかったからだ。そのせいか あまり日本人だという自覚はない。戦後は反日感情がすさまじ く、日本人であることがバレたら命の保証はなかったので、自分 の祖先は中国人だと偽って暮らしていた。 ナガ(南カマリネ州)ルソン島 /2014(p12)

永井均「フィリピンと東京裁判―代表検事の検察活動を中心として―」
(史苑第57巻第2号 1997年3月)

・・・(1945年)一一月一七日にフィリピン弁護士会全国評議会議長のアントニオ・アラネタがハリー・トルーマン米大統領に以下の書き出しで始まる書簡を送付したのである。
 フィリピン国民は、日本国天皇ならびにその共犯者の多くが戦争犯罪人として裁判および処罰に付されることから依然として免れていることにつき、重大な関心をもってこれを見まもっています。フィリピン国民は、山下泰文一味だけでなく、日本の侵略行動にかかわった他のすべての指導者を処罰しなければならないと考えています。これを行なわないならば、これらの犯罪者は、引きつづき極東の平和、ひいては世界の平和にとって脅威となるでしょう。
 このようにアラネタは日本の戦争指導者の処罰に対する国内の関心の高さと処罰の必要性を訴えた。とりわけ裕仁天皇については、その裁可によって戦争が遂行されたことを大日本帝国憲法の各条文を引用しながら例証し、「たとえ政府の最高位者としての天皇の地位を根拠とするにせよ、免罪の嘆願をだすことを約束するわけにはいきません」として、地位を理由とする免訴を拒否した。(p44・45)

(東京裁判の検事である)ペドロ・ロペスは一九〇六年一月一八日にセブ市に生れた。(p47)
一九四六年二月末、ロペスはUP記者に対して、東京での検察活動に加わること、来週にもワシントン経由で同地に向かう予定であることを打ち明け、さらに次の如く心境を披瀝した。
 日本の戦争犯罪人を起訴する検事の一人に自分が指名されたことは、フィリピンの被害が認知された証拠である。・・・私はたいへん怒りを感じている。とういうのも、フィリピンで日本人が罪のない一般市民に対しておこなった恐ろしい犯罪の数々を個人的に目撃したからである。(p49)

ところで、ロペス自身はこの(天皇訴追)問題についてどのような見解を有していたのだろうか。ここでは『マニラ・タイムズ』の記事に着目したい。・・・記事は『ロペス検事はマッカーサー元帥に対し、天皇を起訴するための証拠は十分揃っていると伝えたことを公表した」と紹介している。ここから、ロペスが―時期については不明であるが―マッカーサーに天皇を被告リストに加えるよう働きかけていたこと、そしてその試みが挫折したことが確認できる。(p52)

判決当時、フィリピンの国民は東京裁判をどのように見て居ただろうか。判決に関するニュースは新聞各紙によってフィリピン国民にももたらされた。『マニラ・タイムズ』は一一月一三日付記事のように判決内容と量刑、そして日本人の反応を淡々と報じる新聞がある一方で、突っ込んだ論評を加える報道もあった。
 たとえば『マニラ・クロニクル』一三日付の社説は東京裁判が「商社の裁き」であるという東条の主張に同意しながらも、「勝者は米国でもロシアでも中国でもない。勝者は自由であり、正義であり、人類である」と付け加え、裁判の正当性を主張した。また一二日付「マニラ・ブレティン』は社説で次のように主張していた。
 東条は彼が犯した罪は戦争に負けたことだけにあると考えている、そして彼はそのために後悔しているのだ、しかし日本人は彼と同じような考え方をしているのだろうか、戦争を計画し実行することは真に極刑に値するということが裁判の背後にある思想だということが人々の心に印象づけられるにはまだ徹底を欠くうらみがある。
 一三日付『イヴニング・クロニクル』の社説は以下のようなものである。
 ヒトラー、ムッソリーニが死に東条が処刑されても他のものが彼らに代ってその地位にすわらないとの保障にはならない。侵略戦争を行う能力は一国の指導者にあるよりもその国の国民性と彼らが住む環境の中に発見されるものだ。
 一五日付『バゴン・ブハイ』紙でも、日本は本質的に軍国主義的な国家であり、将来、再び小国、あるいは弱小国を犠牲にして拡張をはかるだろうとの危惧が表明されている。
 この他、判決よりも厳罰を要求し、あるいは裁判に内在する矛盾点を指摘する報道も見受けられた。フィリピン代表のデルフィン・ハラニーニャ判事は判決とは別に「同意意見書 Concurring Opinion」を作成、裁判所に提出し、一部の被告らの量刑が「余りに寛大すぎる」と判決を批判していたが、この意見書は『マニラ・クロニクル』紙のコラムニスト、オラシオ・ボロメオによって取り上げられるところとなった。ボロメオはハラニーニャの見解に賛意を表するとともに、すべての被告は「二度」絞首刑に処せられるべきだと強硬に主張した。さらに続けて、裁判は「表向きの頭首のために開かれたちゃちな替え玉裁判」であり、裕仁天皇も被告リストに加えられるべきだった、との不満も述べた(一一月一三日付)。(p59・60)

いまや執行は時間の問題となった。こうした状況下、広田弘毅と土肥原賢二の二人の死刑囚を含む七人の被告の弁護人は、二九日に画集国連邦最高裁判所に訴願を提出した。この動きに対してフィリピンでは、三〇日の『イヴニング・クロニクル』社説が「土肥原・広田の両戦犯は即刻処刑すべきである」と論じたように、即座に反対論が出た。さらに一二月六日に連邦最高裁が訴願を受理すると、マニラ市内の各紙は一斉にこれに反発した。反論の口火を切ったのはほかならぬロペス検事であった。翌日の『マニラ・タイムズ』はいち早くロペス検事の見解を報じている。ロペスは「国際法廷は一国の裁判所によって再審されるべきものではない」と不快感を隠さなかった。他の各紙もロペス同様、連邦最高裁の判断に疑問を呈した。
 一二月二〇日に連邦最高裁が弁護団の訴願を却下すると、フィリピンの各紙は「さぁ彼らを絞首刑にせよ」(『マニラ・ブレティン』一二月二二日)、「いまこそ彼らは死ななければならない」(『マニラ・クロニクル』一二月二二日)など死刑執行を促す見解を表明した。(p60・61)

そして裁判を終えたいま、ロペスは改めて次のように振り返るのである。
 東条、武藤、そして日本のすべての戦争犯罪人をたとえ一千回絞首刑に処したとしても、死亡した我が国民はもはや生き返らないし、無惨に捩じれてしまった生活は真っすぐにならない、徹底的に破壊された家屋さえも元通りになりはしないのである。・・・彼らの犯した過ちは決して取り消されることはない。・・・だが、もし東京裁判が打ち立てた歴史的な先例が、将来、戦争仕掛人の動機を躊躇さえる要因になれば、我々が参加したすべての時間は意味を持つことになるだろう。
 ロペスは、判決は寛大であり、「すべての被告らは極刑に処されるべきだった」とさえ考えていた。(p61)
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1427&file_id=18&file_no=1

 山岳地帯を通り抜けて平坦部にかかると、現地人の姿が見え出しました。何か大声で叫んでいます。四、五十人の多人数です。近づくにつれて群衆から石が飛んできましたが、軍使は一切の抵抗をするなとの注意を繰り返しました。
 ある地点に来て武装解除の指示をうけ、その後は手を頭に乗せて黙々と歩くだけで、もちろん何の抵抗もできません。いや、そんな気力すら失っていたのでしょう。投石や罵倒を浴びせる現地人の気持ちも分かりますが、戦争に負け、多くの戦友を失い、しかも捕虜となっている我が身が無性に情けなく涙がこぼれました。(p141)猪俣http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_136_1.pdf

 空より終戦のビラがまかれ、軍使が出て、「米軍との交渉の結果、抵抗を止め投降」との命が本部より来る。・・・山岳地帯を通り抜けて平坦部にかかると、現地人の姿が見えだした。大声で叫んでいる。大人数である。米軍もいる。やがて石が飛んできたが、軍使より「抵抗するな」との注意があった。
 頭に手をやり、黙々と歩いた。米軍は見て見ぬふりである。けがをして立ちすくむ者もあり、行進が止まりかけると、米軍はフィリピン人に大声で制止したのである。フィリピン人の気持ちも分からないこともないが、情けないのは我々である。戦争に負け、多くの戦友を失い、我が身は捕虜となる。無念の至りであった。
 しかし、フィリピン人も石を投げたぐらいでは、胸は納まりはしないことだろう。親、兄弟、肉親を殺され、田畑の食糧は食いつぶされたのである……。やっと危険区域を脱し、鉄条網の区域に入った。(p76・77)井上

 収容所に向かう途中では、現地人が我々に「日本のバカヤロー!」と石を投げるのです。私はマラリアの熱が出ている中で歩いているのですが、少しずつ隊列から後退し、ビリになって石を余計投げられたという訳です。(p123・124)酒本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_120_1.pdf

第二回の捜索隊に捕まりました時、アメリカ兵が六人、日本人捕虜二人(説得役)、フィリピン兵が十人ぐらい、道案内の原住民が数人の編成の捜索隊でした。・・・途中山の中を警備兵は威嚇射撃をしながら下山しますので、不思議に思っておりましたところ、威嚇射撃の目的は、私達敗残兵を狙撃する者から守るためだと聞いて有難く思いました。収容所に連行され、九月下旬頃と思いますが武装解除されました。そしてもう逃げ回る心配もなくなった、 原住民の家に食料品の盗みにも行かずにすむと「ほっ」としました。(p625・626)永木

 昭和二十一年十一月、復員が出来るとのことで、月末にマニラ港に送られました。汽車(無蓋車)が市内を通過中に徐行した時、ゴミや残飯を投げ入れられましたが、その時は護衛兵が拳銃を向けるとこの嫌がらせは止まりました。(p474・475)古屋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_471_1.pdf

 放送に従うために全陣地を整理してバニオ街に集結し、武装解除され、指揮官に指示を受け、マニラに行くためトロッコを大きくしたような屋根のない車に乗せられ駅を出発しました。途中で住民の反抗により石、木材等を投げつけられて大変危険でした。時間が経過してマニラに到着、下車して比島軍の引率で徒歩で現地に到着しました。(p122)田沢
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_118_1.pdf

「山を下りてからは無蓋車でマニラに運ばれました。戦争中の日本軍は、フィリピン人をかなり痛めつけたんですが、その仕返しが、戦争に敗れて捕虜となり収容所に運ばれるわたしたちにも向けられましてねえ。汽車が街の中にさしかかると、『日本ドロボウ、日本ドロボウ』と叫びながら、大きな石を汽車めがけて投げつけるんです。それに当たって死ぬ人は、敗戦のショックも重なって発狂する人もおりました。汽車を停めると住民に襲われるおそれがあるので走りっぱなしです。水は飲めないし、便所がないので排泄は貨車の隅のほうでしました。四隅に憲兵が立って見ているけど、仕方がない。
(広田和子「証言記録 従軍慰安婦・看護婦」p215・216)

 昭和二十年十一月、「ダバオに向いて行進せよ」とのことで、トラックに乗ったときもありましたが、徒歩行進では、現住民の「襲撃」が要注意でした。今も忘れぬ罵倒の声「裕仁パタイ」「山下パタイ」と天皇陛下や山下奉文大将の首切りの真似をします。そして各人に対しては「泥棒!」の罵声を女子や子供までが叫んでいました。(p283)北島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_279_1.pdf

 昭和二十年九月二十五日、ルソン島北部のアバリに上陸しました。そして仮収容所に向かって行軍中、原住民から「バカヤロウ」「ドロボー」と罵られ、さらに石なども投げ込まれ、敗戦者の惨めさと日本軍のルソン島での行動が思い浮びました。(p472)大森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_463_1.pdf
 
昭和二十一年十二月、待望の帰国ニュース。万歳。無蓋車でマニラの港へ行進中、現地人の心ない人が我々に石を投げ「馬鹿野郎! 馬鹿野郎!」とののしっていました。すべて隠忍自重。堪え難きを堪えて無事佐世保港へ帰国、上陸復員しました。(p312)松本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_307_1.pdf

それから丸裸で一キロ程の所にある捕虜収容所に入ると背中の所にPWの文字の書かれた服を渡された。・・・荷物の積み上げ、積み替え作業をさせられた。途中自動車で往復する度に現地人に石を投げられ、近付くと危害を加えられたりすることもあった。それでも、何一つ抵抗することが出来ないのだから惨めである。戦争に負けるということはこのようなことかと、つくづく思ったがアメリカの兵は優しくて、現地人を追い払ってくれた。(p424)仁平
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_416_1.pdf

 最初の労役は、マニラ市内の戦後の跡片付けを毎日やらされました。米軍兵が自動小銃を突き付けて監視の目を光らせる。フィリピン人は石を投げる。「お前たちは明日死ぬのだから」と怒鳴り喚く毎日でした。しかし、米軍は親切でした。(p184・185)丸山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_179_1.pdf

道路に米軍のトラックが待っていて、日本兵を武装解除してサンフェルナンドまで送られ、その後は無蓋貨車に乗せられてマニラへ連れていかれました。その間に比島人から石をぶつけられたが、米兵は怪我をしないよう守ってくれた。(p186)鈴木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_181_1.pdf

 我々は半信半疑で最初は信用しなかったが、旅団本部から連絡将校が来て初めて終戦の事実を知らされたのである。
 部隊はマニラに集結することとなり行軍を続けたが、途中住民から石を投げ付けられたり、牛の糞をぶつけられたりする中を、病人はタンカに乗せて運びました。(p406)大坪
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_405_1.pdf

九月十八日、午前一時予定が変更され「トラック」にて出発する。途中故障「サンホセ」に到着、十二時我々は途中現地人より投石、また「生卵」を投げられる。罵声をあびせられる。これに耐えながら思うのは祖国のことばかり。今夕は収容所に一泊の予定となる。給与は米軍携行糧秣(レーション)を支給される。珍しさにひとときの花が咲く。・・・九月二十二日、現住民が早速「フェンス」ごしに食べ物をみせびらかしてさかんに手まねきする。九月二十三日、今日も故郷の名物、みやげものの自慢話ばかりである。九月二十四日、柵ごしの現地人が目にあまるので米兵が威嚇、時には発砲することもあった。(p31・32)

十一月七日、早朝仮収容所出発。鉄道貨車に分乗する。目的地不明のため不安がさきばしる。途中無蓋車のため現地人の投石、放水罵声にあう。私も生卵をなげつけられた。あわれというもおろかなことである。望郷に思いをよせ、ひたすら忍の一字あるのみ、ただ日本に帰りたい。(p34)藤川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_024_1.pdf

 一週間後、上陸用舟艇がはいってきた。十月十日頃だったと思う。サンフェルナンド港から米軍に収容されたが、フィリピン人が「日本バカヤロー、泥棒」などと叫んでいる。船から降りられない。植民地を解放したのだが、戦場となった国民には迷惑をかけたことになる。正直、当時複雑な気持で、現地人の罵声を聞きながら、日本内地の状況や、将来への不安を抱きながら、戦友の骨が埋められている戦場をあとにした。(p278)弓衣
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_270_1.pdf

八紘一宇・大東亜共栄圏とは



帝国議会貴族院予算委員会議事速記録第八号 昭和15年2月29日

○国務大臣(米内光政君)
八紘一宇の大精神に関しましては、過半本会議に於きまして建部博士に御答へ致した通りでございます、・・・之を対外的に考へまするならば、此の八紘一宇の御精神と云ふものが少しも侵略の意味を持って居りませぬ、徳を以て天下を化する、併しながら是が絶対の平和主義かと云ふとさうでもないと考へるのであります、「兵苟も義なれば戦ふも亦可なり」大理想に反するやうな悪逆のことをやる者があるならばそれは討たなければいかぬ、総て此の御精神に依りまして、今日迄日本と他国との間に於て戦争も致し、又戦争は致しますけれども是は一つの手段でありまして、此の大理想を実現する為に手段として使ったのでありまして、終局の望みと云ふものは世界の平和に寄与しなければいかぬと云ふことで参ったのであります、
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/075/0080/0750008000810229.html
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/075/0080/main.html

桑原晋「大東亜新経済と欧州新経済」1942年

第三章 大東亜新秩序建設とヒットラーの「欧羅巴新秩序」との比較
第五節 東亜新秩序経済とヒットラーの欧羅巴新経済秩序
第一項 「八紘一宇」の精神とヒットラーの「闘争」論との根本的差異
 東亜共栄圏は、「八紘一宇」の顕現である。億兆一人として其の処を得ざるなき様しろしめし給ふ大御心は、共栄圏内国家は一国として其の処を得ざるなき様しろしめし給ふ。覇道に非ず、王道に非ず、皇道のみ。日本人の理想であるのみならず、人類の理想でなければならぬ。天皇を中心とした家族的共同体以外に真に日本人の生きる道はない。この道はそのまゝに東亜に推して以て喜を頒たなければならぬ。あやからせねばならぬ。延いては全世界にゆきわたらせる必要がある。そのとき世界は永遠の平和を有ちうるであらう。
 しかるに悲しい哉、輝かしき此の事を理解しえない迷盲の国があまたある。我が日本の真意を体得しうる能力をもたぬ低度の民族が数々ある。それかあらぬか、あられもなき逆宣伝に躍起となれる指導者が諸国にある。或は排日と呼び、侮日と名づける。しかしながら、孰れも我が国を恐れ、怖れ畏るゝところに生ずる虚勢と見るの外はない。大義明〔ママ〕分に則とれる帝国の不動の方針と気魄とに圧迫を感ずるゆゑの焦燥以外の何物でもない。逆説的に言へば、日本の真意と「よさ」とを十二分に知りすぎた上での警戒と見る方が正しいであらう。
 しかしながら、敢へて日本は権力を以て怖れしめず、只管、権威を以て畏れらるゝのみ。欧米は権力の国々である。ヒットラーの「新秩序」も権力による建設である。日本の敢へて採らざる態度である。又、さうなければならぬ。東亜新秩序経済とヒットラーのヨーロッパ新経済秩序との根本的相違は茲に在る。そして又、ヒットラーの「新秩序」は「ドイツのため」の秩序であって、ヨーロッパ全体乃至は征服国全体のための秩序でないことは、上述せる如くである。之に反して、「東亜共栄圏」は単に「日本のため」に非ず、「支那のため」に非ず、「満洲のため」のみにあらず、東亜諸国の文字通りの「共存共栄」の秩序である。如斯、新秩序の理念において本来的意味を異にしてゐる。
 「我が闘争」から生れ出でし「新秩序」は何処までも「力」による建設であり、御稜威日本の建設せむとする「共栄圏」は、云ふまでもなく、「威」によるを本質とし、「大和」を建前とする。「征服、被征服」の言葉を必要とせず、「支配、被支配」の関係のあらう筈もない、共存共栄の実あるのみ。・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459408/67

高島米峰「同じ方向へ」1937年

三 八紘一宇の思想
 支那の日本を軽侮し、蔑視すること、誠に言語に絶す。曾ては、彼と対等なるを得て、満足したる日本も、今は寧ろ、彼をして、永遠に日本の庇護なくしては、独立の体面を保ち得ざることを痛感せしめ、無限の信頼と絶対の従順とを捧げしめなければならない。これ実に、東洋永遠の繁栄の保証であり、世界恒久の平和の確保となるのであって、やがてそれが日本建国の理想の実現となるのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1227702/45

小倉鏗爾「日本の全体主義」1938年

 この八紘一宇の大理想を、別の言葉でいへば、天皇様の御稜威(即ち皇威・皇風)、天皇様の御聖徳の感化(即ち皇化)を、全世界に洽からしめ、宣布することであります。又た別の言葉でいへば、天皇様の道(即ち皇道)を世界に宣揚することであります。皇威・皇化を全世界に洽からしめることが、即ち、八紘一宇となるのであります
 一口にいへば、皇道は、八紘一宇の道であるともいへます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257167/60

宮崎正義「東亜連盟論」1938年

斯くして王道は、連盟各国家を形成せる自覚ある民衆の理性と良心とに従へる、最高価値への信頼と服従への関係を律する思想であり、我国の内治と外治との対立的観念を総合統一する理念であり、更にまた個人と民族の自由と尊厳とを容認しつゝ、而も新らしい東洋的全体主義を顕現する大東洋社会建設の指導原理である。斯る指導原理の確立と其の実践とは畢竟八紘一宇の大使命の遵奉であり、其顕現に外ならない。而して、斯る八紘一宇の中心に位し給ふは、最高絶対価値としての天皇にあらせられる。王道主義とは、まさに斯る最高絶対価値の流露し給ふ万邦協和精神の発揚であり、その政治的表現に他ならないのである。(p114・115)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278350/68

藤沢親雄「日本民族の政治哲学」昭和12年8月23日発行 ※1937年

「三月の辛酉の朔丁卯の日令を下して曰く我れ東を征ちしよりこゝに六年になりぬ。以て皇天の威に頼りて凶徒就戮されぬ辺の土末だ清らず、余妖尚梗しといへども中洲の地また風塵無し。誠に皇都を恢廓め」云々と述べ給へる後に於て、更に御言葉を強められて、「上は則ち乾霊の国を授け給ふの徳に答へ、下は則ち皇孫正を養ひ給ふの心を弘めむ。然る後に六合を兼ねて以て都を開き。八紘を掩ひて宇とせむこと亦可からずや」とのたまはせられてゐる。
 此の詔は所謂天業恢弘、即ち世界の精神的総括整理の聖業が、日本民族のまさに遂行すべき一定の進路であることを明らかにせられたものである。而して今日の日本は既にこの雄大なる理想が具体的に現実化せらるる多くの契機によりて恵まれてゐる。満州国の出現しかりである。近時多くの問題によりて曝露せられたる大英帝国の衰兆しかりである。日本の眼ざすものは実に世界に於ける理想と現実とを結ぶべき新たなる天孫降臨に外ならぬ。現在に於けるが如き株式会社的世界機構を打破し、日本精神文化を以て他の諸民族を極めて自然に感化し融合し我が天皇を精神的中心となす全人類大家族的国際社会を現出せしめることが、我等大和民族の理想である。(p498)

 我が国に於ける外交原理は文武一体であるから、皇道の世界光被即ち天業恢弘の為には、武の実力を用ひる場合のあることは神武不殺の意味に於て許容せられねばならぬ。日本の世界的使命遂行によって実現せられるべき国際正義の貫徹擁護に当っては、兵を用ひ武を振ふべき場合あることは之を予想せねばならぬ。・・・日本の戦争は天皇に「まつろはぬ者」を「まつろはす」ことである。即ち天皇の行はせられる絶対創造愛の聖業に反抗し敵愾するものを転向せしめ教化して、天業恢弘を翼賛せしめるのが「まつろはぬ」ものを「まつろはせる」といふ事である。「まつろふ」とは「祭る」「奉る」と同じく信仰に於て一体となり、心から順ふの意である。即ち戦争によって却って真の平和が実現されるのである。・・・日本は文武不岐一体の外交の範を示さねばならぬ。その妙用によって、日本民族を中枢とする権威によって秩序付けられた世界大家族社会を創造せねばならぬ。(p501・502)

・・・即ち神の直接の御延長として絶対的道徳権威を有せらるる万世一系の天皇をいたゞく日本が、現実的に世界の中枢となり、極めて自然に各民族が其の御稜威の下に相親和して、一大家族的国際社会を構成し得る暁に於て、初めて移民問題も、天然資源開発問題も、門戸開放の問題も、機会均等の問題も、人種平等の問題も、軍備縮小の問題も解決せられ、其の結果国際正義を保護する真の世界平和が現出することゝなるであらう。かくて百姓昭明、万邦協和の深き意義を包蔵する昭和日本の世界的使命が如実に達成せらるゝのである。
 以上本章を通じて究明したる如く、皇道の外に真に普遍的なる国際政治原理は存在しない。皇道に比肩するに足る他の現実的な世界指導精神も存在しないと思ふ。且又日本民族を措いて世界絶対平和を実現し得る王者的民族は存在しないと信ずる。・・・我々は近きより遠きに及ぶ政治原理に基き、先づ何よりも支那をして王道国家たらしむるやう補導し、東亜に於ける日満支三邦を皇道に依って一致協和せしめ、此処に三邦の行動国際原理による外交の美を修めるならば、遠き欧米亦之を模して皇道に和順し、八紘一宇万邦協和の世界が次第次第に顕現されることとなるであらう。(p506・507)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876365/257

金子鷹之助「大東亜経済の推進」1945年

最近の新聞写真によると、昭南神社が建設されたが、あの清流に神橋が架せられ、静な森の中に、石のある庭、簡素幽玄なる木造神殿が造営せられたる風景は、大東亜諸民族の魂の底にある、悠久遠古の生活の記憶を喚び起すに相違ない。而して之は北方諸地方には既に凡ゆる処に建設されたが、南方でも独り昭南島に限らず、すべての処に造営され、諸民族の礼拝の中心とせねばならない
諾冉二神は大東亜の国生み、神生みの祖神であらせられ、天照大神は大東亜に君臨し給ふ、日子の神の祖神であらせらるゝと共に、社会と五穀に光を恵み給ふ大母神であらせられる。我国の神話こそは、欧米の如く科学的合理思想の為に抹殺もされず、又後進諸民族の如く、アニマティズムやアニミズム、や、マジックやタブーや、その他あらゆる呪術教的堕落にも陥らずして、炳乎として数千年を光耀き、幾度びかの国家的・社会的危機を救ひ、今や大東亜に解放と繁栄を齎さんとする、聖化され政治化されたる、社会思想となった。それは哲学でもあり、宗教でもある。
 但しこれを難解高邁なる概念を以て、諸民族に説教することは当分不可能である。先づ日本人が挙って日曜毎に参拝することである。従来の如く七日に一度エホバの神の為に、休息するといふことは無意味である。大東亜の大神にこそ参拝すべきである。諸民族はこれを以て「かゝる大神に帰依すればこそ、日本人は強く且つ情けがあるのだ」と悟るやうになるであらう。そして程なく伴いて来るであらう。又、神前の神楽は、彼等のガムラン舞楽の聖化したものとして、了解して来るであらう。支那ですら治者階級(士大夫)の、概念的政治的倫理たる儒教や西洋思想の翻訳たる三民主義の外に、農民の中に、自然的に発生したる社会道徳たる道教があり、それは福禄寿の神々を祭るのである。
 独り日曜だけでなく、大祭日を設けて参拝を重ねゝばならぬ。又、雨乞ひの龍神祭や豊年祈願の稲荷祭や盆踊りの如きも、諸民族一丸となって、楽しく賑々しくやるべしだ。山車や御輿も一緒になって引いたりもんだりすべきである。彼等の現在の宗教生活が、無害なる限り之に急劇なる禁圧を加ふることは、最も危険であるから、むしろ正しい文化・宗教を高く掲げて、自然に心の通ふやうにした方が良い。
 いふ迄もなく、八紘一宇の家族社会は、文化や思想だけでは建設されず、之と並んで経済的な福祉を与へねばならぬが、此の事は別の機会に屡説したので、茲には省くことゝする。(一七・一〇・一七)

補説一 八紘一宇思想の具現方途
 八紘一宇の思想とは、畏くも皇統を現御神ならびに大御親と仰ぎ奉り、人民はすべて兄弟なり、と考へる家族国家思想であるが、之を大東亜に具体的に表現するには、経済的、社会的、文化的等種々の方途がある。その経済的方途としては、キニーネの施薬、水力発電による治水、灌漑、電気化学(肥料、油脂等)、電気精錬(アルミニューム、鉄、錫)等科学技術や、経済的恩恵によって盟主たるの実を挙ぐべきことは筆者もしばしば他の機会に論じた。
 社会的文化的方途は、先づ神社の造営が第一であらう。過日新聞に昭南神社の写真が出てゐたが、水源から引かれた清流に神橋が架せられ、之を渡れば小高き丘の森林中にいとも清楚、崇厳なる神殿あり、といふ風景が拝せられた。
 この神殿の風景や神殿の構築様式は、特に南方民族の原始宗教内容と相通ずるものがある筈であり彼等は今でこそ印度教や仏教や回教やキリスト教に教化せられてゐても、その古い民族的記憶を潜在意識の奥底より呼び覚まして、われわれと同祖同族の自覚を確立するに相違ない。況んや神前に奏せられる神楽と舞を見て、彼等のガムラン舞楽の荘厳なる発展の極致を発見するであらう―大東亜に於ける舞楽は、神に捧げたものであり、欧米に於けるが如く、人間の享楽の為のものではない。能楽の冴えを見て日本精神を悟るところまでは、仲々時間を要するであらうが、神楽を見て、彼等の芸術と物語を向上せしめることは、容易であらう。
 現地に於ける日本人は、祭日休日の参拝はもとより、私人の冠婚葬祭も一切、この神前に於て行ふべきである。何よりもかゝ神様を信奉すればこそ、日本人は強いのだ―彼等が数百年間、神とも鬼とも恐れて来た米英国人を、一撃の下に彼等の面前に調伏したのだ―といふことを考へて、いつとはなしに彼等も、日本人の後について参拝するやうになるであらう。やがて日本人が強い許りでなく、情があることも、知るやうになるだらう。
 かゝる神社は既に、台湾、満、鮮、蒙、支至る所に造営せられてゐる大陸に於ても、少くとも原住民族は、日本民族及び南方民族と、同祖同族だった筈であるから、やがては太古の記憶を覚醒し、神社参拝を理解し得るに至るであらう。(p133~137)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1065646/85

武政太郎「国民教育の心理」昭和15年12月20日発行 ※1940年

四、八紘一宇、東亜新秩序の理念
  そしてわが国は、なりませる宇宙神たる神の御心によって生れ出で給ひし皇祖天照皇大神の神勅によって肇められたる国であり、その神意によって神武天皇は、天下の民を同胞一家として弥栄えに栄えしめたまはんとて、皇国を建て給うたのである。これこそ八紘一宇の理念である。
  万物をして洽くその恵沢に浴せしめ、各々そのあるべきところに安んじて生を楽まして給はんとの大御心はまた皇祖天照皇大神の大御心であらせられるのである。この皇祖皇宗の神意を吾々国民が奉体して隣国諸民族の上に平和と光栄とをもたらさんとすることが、我が日本民族の一大使命である。満州国において建国神廟を造営され、わが皇祖の神霊を礼拝して一億一心の実を挙げんとされたことも、わが神皇国の発展の結果であると考へられる。蒙疆、北支、中南支援、否、南洋諸民族においても、わが皇祖天照皇大神の徳をたゝへ、真に吾々人間が「ひと」(日徒又は霊徒)であり、「ひこ」(日子又は霊子)であり、「ひめ」(日女又は霊女)であることを会得信奉せんことを祈るものである。これは、今日わが国では、仏教徒、キリスト教徒の間に仏の教といひゴットの教といふも、すべてわが固有の思想たる神ながらの道即ち天照皇大神の道に帰一せざるべからずとして新体制運動が生じてゐることと思想的には一脈相通じてゐるのである。平安鎌倉時代に本地垂迹説の生れたのと同じ気運にあるのである。
  わが国では、天照皇大神は、神霊であらせられると共に祖霊であらせられる。日本人の信仰は、神人一体にある。これは神人を別とするキリスト教思想と全く異るところである。かやうな国民的信仰を盛んにし、外地にこの日の神の道をひろめ、信仰を等しくする運動を起すことは、またわが国民教育における一つの任務であると私は信ずるのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461696/129

井上哲次郎「日本精神の本質」昭和16年7月20日修正増補第一版発行 ※1941年

平和は功利を超越した道義心に由るより外は無い。苟も理性ある人間であるならば、道義に反対することは出来ない筈である。その道義に反対することの出来ない崇高遠大な精神に縁って永久の平和を実現するより外道は無いのである。
  今我が日本の如き道徳を主とする国と英・米の如き利益を主とする国との摩擦・軋轢・闘争を根底より一掃するのには何によるかと云へば、矢張り理想主義・精神主義によるより外は無い。換言すれば、総ての人類を融合調和するに足るような道徳主義を以てするより外は無いであらう。此の精神を以て基調となして我が日本は世界を統一しなければならぬ。世界を統一すると云っても、固よりそれは侵略的の意味ではない。さういふ大事業を成し遂げようといふのには忽ち起って忽ち滅びるやうな国では駄目である。万古を貫いて変らぬところの国体を有する我が日本の如きものでなければ、此の大任を果すことは不可能であることは余り明瞭である。是に於いてか「天壌無窮・八紘一宇」の大理想を掲げて之れが実現を目的として世界的に発展する我が日本の大使命が何うして看過し得られようか。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212715/220

洪火会文教部編「時局と洪火会を語る」昭和16年1月25日発行 ※1941年

『大東亜共栄圏の指導原理についてお伺ひしたいのでありますが…………』
『要約して言ふと、それは今にも言った通り、肇国の大精神即ち八紘一宇の精神換言すれば皇道主義でなければならぬ。だから大東亜圏結成に当っても力を以てこれを強制すべきでなくて東亜各国各民族が真に心から協同できるやうに日本が指導扶援しなければならぬ。だから、大東亜圏の確立は日本を盟主とする搾取なき大東亜安定圏を意味するものだ』(p6・7)

『新体制と八紘一宇と言ふ標題の下に近来到る処で論議されてゐますが、我々としては、此の際真の新体制と八紘一宇なるものを観念付けることを必要と思ひますが、これについて御話を御願いし将来の心得と致したいのですが……』
『支那事変の経過、激化せる欧州動乱による国際情勢に直面してをる日本としては所謂新体制も真剣に考へなければならないと思ふ。
 過去何十年かに渉って日本の思想界乃至経済機構は英米のデモクラシイ的思想の影響を受けることが少なく無く、その結果真の日本の国家観念からいくらか逸脱した状態を呈し国家精神の萎靡国民思想の混濁を来たし幾多憂ふべき諸相を露呈し続けてゐたが満州事変の勃発によって警鐘は乱打され更らに支那事変の発生によって愈々血みどろの試練に際会するに至った。
 最早や従来のような放縦な弛緩した状態を以て国運を推進することは出来なくなったのである。即ち先づ内に於て自由主義、個人主義、功利主義的思想を除去し真に日本精神に基づく国民思想を復興高揚し士気を振作して一億一体大政翼賛の大義に邁進するの外難局を突破し皇国百年の大計を樹立するの道はないのだ。かゝる意味に於いて革新の声は随所に起り旧体制を打破是正して新体制を組織しなければならないと言ふことは今は最も真剣な国民的要望である。・・・」
『八紘一宇とは現在到る処で唱へられてゐますが多少その内容に関する説明が異なってゐるやうに感ずる場合も尠くないのですが、八紘一宇の真意義は一体どこにあるのでせうか』
『これは元来古事記や日本書紀に明文として示されてゐます。神武天皇の御詔勅の一節に基いて唱道されてゐるものでありまして、その字句の意義は一言に申しますと天下を掩ふて一家にしようと言ふことである。本来我が国は、古来華族制度を以て国家形成の単位とされてをり、皇室を中宗とする大家族主義的形態を以て形成されてをるのであります。神武天皇の大御心は天下万民を以て赤子とみそなはし、父母仁愛の情に基いて、民草を愛撫しこの一事を以て世の根源とせられようとするにあるかと拝察いたします』
『世界には多くの国があり、人種民族も到底列挙しきれぬ位沢山あるのですが、これらの他国他民族多人種に対し八紘一宇と言ふことを普及徹底せしめることが、出来るでせうか。言葉の上ならば兎も角、実際に於いてどうでせうか』
『尤もな質問です。それは一つの重大な問題です。世界を掩ふて一つの家にすると言ってもそれは遠い将来は別問題として、現実の問題としては、先づ不可能なことかと思へます。たゞ一家の如き親しみと誠とを以て、他国他民族に接するの外ないのである。然かし、他国他民族が、日本の正義と理想とを諒解し得ない場合は、なんとも致し方がないのである。誠を尽し、実践に示してこれを諒解せしめるの外はない。元来八紘一宇の意義は同じく神武天皇の御詔勅にある天業を恢弘し天下に光宅せんと言ふ御言葉と関連してこれを拝誦し解釈し奉戴するの外ないのであります。決してデモクラシイ的国際主義的な内容をもつものではありません
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1455098

藤沢親雄「皇道世界経綸の理念」1941年

  八紘一宇はかくて、まつろはぬものをまつろはしめ、世界をして宇宙の中心生命としての天皇に帰一し、その大御心を仰ぎかしこみつかへまつらしむることによりて達成されるのであって、これ肇国の精神である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033175/14

徳冨猪一郎「皇国日本の大道」1941年
  八紘一宇は我が皇道を光被するものであって、所謂る内に於ては政治を倫理化し、外に向っては国際を道義化するものである。我等は何を以て国内政治を倫理化するかと云へば、飽くまで皇室中心主義の大旆の下に、総国民が一致戮協し、皇国の為に一切の自我を擲ち去って奉仕することに外ならない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267273/140

加藤一夫「八紘一宇史の発足」1942年

  斯くの如く神々しい御心をもって、先づこの御用意をもって、国内を鎮められ、都を開き●も八紘を掩ひて、即ち世界全体を、一宇としよう、可いではないか、と云ふ御法悦を述べられてゐる。
  何と云ふ大きな御理想であるか。啻(?)に日本の君としてではなく、八紘を一宇としようとされる全世界の君である。前にも云ったやうに、今までは、日本の国力、日本の文化、日本の富、はまだ、全世界を神の国として一宇たらしむべき段階には入って居なかった。が、それは必ず来るべきであり、日本の天皇が、その全世界の君となり給ふことは、日本の確信である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042308/100

小牧実繁「日本地政学」1942年

  日本では古来、四季の清明とか、四季の巡行が正しいとかいふことが尊まれて来たのであるが、これは決して四季が共に温暖で住み易いといふことを意味したおんではなく、それは全く字義通りに、春はのどかに秋は爽かにといふことだけでなく夏は暑熱甚だしく冬は寒気酷烈であることをも意味してゐたと解釈しなければならないのである。而してこれこそ皇国日本が天地創生の祖神より賜はった大いなるたまはりものであったと考へなければならないのである。
  東京で畳の上に坐ってをりながら一年に一度必ず熱帯の気候を、同様に一年に一度は必ず寒帯の気候を経験させて頂くといふ皇国日本んほど有り難い国は世界の何処にも存在しないのである。何故かと言へば、それは日本民族といふものが南方の経営に対しても、また同時に北方の経営に対しても、往くとして可ならざるなき素質をそなへてゐるといふことを意味するからである。
  独逸の地政学者たちは結局将来の世界を支配するものは南方の熱帯地方、特に彼等が「死の十字路」と呼ぶ、アジアの南方、大東亜海地域の熱帯を支配しなければならないと考へてゐる訳であるが、併し日本民族といふ優秀な、而も気候に対する馴化能力の最も大である民族が存在する限り、ヨーロッパの勢力による南海の制覇といふことは絶対に不可能なのである。南方の、真に正しい意味における経営といふことは、日本民族による以外には、決して実現せられ得ないのである。・・・八紘一宇の大理想は大御稜威のもと、日本民族によってのみ実現せられると確信せられるのである
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275962/148

山本英輔「天皇帰一の生活」1942年

八紘一宇
人類救済の指導理念
  八紘一宇といふのは、何も武力をもって、世界を征服しようといふのではない。武力をもってしたのでは、一時的に平和になっても、何年かの後には、また平和がこはされる。決して永つゞきがしない。永久の平和は、あらゆるものが、日本天皇の大御心を奉戴して、天皇を中心にまつろひ奉ることによってのみ、招来されるといふのであって、私が八紘一宇連盟を主唱するおは、一はこれによって、国内一億国民に、日本精神をしっかりと把握させ、所謂一億一心となって国難を突破させる。そして、次には、その立派な精神によって、世界人類を救済させようといふに外ならないのである。
  そこで、私は昨年の四月、この八紘一宇連盟の案を、私の友人の英語のうまい人に翻訳して貰ひ、之を外人に見せたところ、非常に穏健なことを書いてあるといふので、はじめて私に会ひたいといって来た。一番先に来たのが、英国大使館の情報部長、それから陸海軍武官、書記等であた。その時、いろいろ議論や意見を闘はした後、私は彼等に向っていった。
(中略)
『私は、世界永遠の平和を招来するために、この主張をやってゐる。今度の戦争で、勝った奴が負けた奴を押へ、またあのベルサイユ条約のやうなことをやったら、何年かの後には、再び戦争を繰り返さなければならない。結局八紘一宇の精神で、世界が融和帰一しなければ、真に世界の平和は来ないのである』と。
『では、国際警察はどうか』
といふから、
『それは、日本の国体に反するからいけない』
『さうすると、一体日本は世界を指導するつもりか』
『いや、自分の研究したところでは、日本精神が一番いゝと思ふからだ、万一あなたの方に、これにまさるいゝ指導精神があるなら出し給へ。ほんとうにいゝものなら、いつでも賛成する」
『ほう、さうすると、結局あなたの考へは、非常に穏健ではないか』
『さうだ、日本の本当の精神は平和である。世界中に日本ほど平和を愛する国民はない。それを、あなた方が誤解して圧迫して来るから、われわれもそれを撥ね返さなければならないのだ。・・・」
  私は、この八紘一宇といふことは、各国が、俺が俺がといってゐる間はできない。もう少し弱るところまで行かなければならない。そして、その時、中心になる日本が、ほんたうにしっかりしてゐなければ、基礎の鞏固なものにすることはできないと思ってゐる。私の主宰する八光会は前述の八紘一宇連盟案の変化したものである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033087/66

宮崎県教育会 編「神代の日向」1942年

我国は、神代以来八紘一宇の大理想を以て国是
とし、今日の国運を見るに至ったのでありますが、此の八紘一宇の御精神は忝なくも我が祖国日向に発源したものと思はれます。(p97)

迷へる隣邦の眼をさまし、世界を喰ひ物にせんとする暴虐なる国国をしりぞけて、美しい理想の世界を造ることは神の国日本に与へられた尊き使命であり、光栄ある責任であります。此の重大なる使命は我が国、肇国の大理想に基づくものでありまして、今こそ神武天皇の尊い大御心を世界に実現(あらは)すべき機会が与へられたのであります、(p103)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1057119


石原莞爾「昭和維新宣言」1942年

数十年後に近迫し来れる世界最終戦争により、八紘一宇はいよいよ実現の第一歩に入ることを信ずる我等は、八紘一宇を単なる美しき観念とは考へてゐない。正に我々の眼前に髣髴として望見する気持がするのである。(p8)

結局最終戦争は、道義の最高護持者であらせられる天皇が世界の天皇とならせらるゝか、力によって人類に幸福なる生活を与へようとする欧米の大統領の類が世界の指導者となるかを決定する人類歴史の最も重要なる時期といはねばならない。(p15・16)

既に述べたやうに最終戦争は王道と覇道の決勝戦であって、これによって世界の絶対平和、八紘一宇の第一歩に入ることが出来るのである。(p16)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272536

今泉定助「御国体の実相」1942年

24八紘一宇
  大国とか強国とか云ふものも若し本当に日本がさう云ふものであると云ふことが分りましたならば、彼等は一体どう進退する。又印度の如き国はどう思ふでありませうか。真に八紘一宇の御境地から足りない所を保護して、世界平和の為に、日本天皇が天業を御施しになるのであると云ふことがハッキリ致しましたならば、小国、弱国が靡いて参りましたならば、大国強国と云ふものはどうなるでありませう。是は何時かは大天皇の統一の下に、世界の平和幸福の高峰に到達する時代が来るものと、私共は日本の古典の上から確信するのであります。さもなければ、日本独り神の天皇を戴くと云ふことは、神に私ありといふことになる。日本の天皇の大使命は、結論と致しまして、私は深く信じて疑はない。将来必ず何百年か何千年の後か固よりわかりませぬけれども、今日以後は割合に早く進んで、世界統一の天津日嗣の使命を御果しになる機会が来るのであらうと考へるのであります。(p40・41)

【問】八紘一宇につき御教示を乞ふ。
【答】八紘一宇なる語は近時漸く世人の注意を惹くに至った如くであるが、その出典は遠く神武天皇の建都即位の大詔にして、八紘は『あめのした』宇は『いへ』であるから、世界一家即ち皇道精神の世界光被を意味することになる。
然るに世は往々にしてこれを武力征服と誤解する者がある。若しそれが自己の功利的世界観より脱し得ぬ欧米人の見解なら兎も角、日本人、しかも識者を以て自ら任ずるものでさへさうあるから、吾人が古典を説き、皇道精神を叫ばざるを得ぬのである。
試みに日本書紀を繙き右の大詔の前後を一読するならば、それが武力征服とは全然異なるものなることが明瞭となるであらう。即ち八紘一宇は神武天皇が天業恢弘の為め東征遊ばされ国内が平定せられたので、建都即位の上、更に進んで全世界をも和気靄然たる一家の如からしめんとの大御心を現はせるものである。しかも此の実現は『鋒刃の威を仮らず、座ながらにして』行はせられることを理想とせられたことは幾多の例証を挙げ得る。
斯くの如く八紘一宇なる語は神武天皇の大詔の中に拝されるのであるが、その根本精神は遠く修理固成の神勅に由来する天皇の御使命と、八神殿、大嘗祭による天皇の御本質の当然の結果にして、それ故にひとり神武天皇のみには止らず御歴代の天皇の大御心でもあるのである。天皇は八神殿、大嘗祭の行事によって生成化育の本源とならせられ、宇宙万有を各あるべき処にあらしめ給ふ。八紘一宇はこの一つの表はれに外ならない。世界の各国家、各民族は斯くして始めて自性を発揮しつゝ全人類の生成発展に貢献し得るのである。天皇は独り日本のみの天皇ではなく、世界の天皇であり、宇宙の天皇であられるとは斯かる意味にて申上げるのである。此の度の事変も、まつろはぬ支那を言向け平和し相提携して、八紘一宇の精神を実現んせんとするにある。国民各自は須らく此の意義を正しく認識し、各々の立場に於て天業翼賛の実を挙ぐると共に、外務省などに於ても徒らに当面の問題のみに捉はるゝことなく、積極的に我が根本精神を闡明して皇道宣布省たるの実を発揮すべきである。(p44~46)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094651

東亜連盟同志会「昭和維新の指導原理」1944年

 皇国日本の国体は世界の霊妙不思議として悠久の古より厳乎として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道即ち王道は、畏くも歴代祖宗によって厳として御伝持あそばされ、歴世相承けて今日に至った。
  八紘一宇とはこの日本国体が世界大に拡大する姿をいふのである。即ち御稜威の下道義を以て世界が統一せられることであって、換言すれば天皇が世界の天皇と仰がせられ給ふことに外ならない。・・・真に天皇を信仰し、皇運扶翼に全力を捧げるものは、民族、国家の如何を問はず、すべて天皇の赤子であり、我等の同胞である。(p3)

かくの如き昭和維新完成のためには、民族間の新しき道徳の創造を必要とする。恰も明治維新に於て各藩侯に対する忠誠を天皇に対し奉る忠義に復帰せしめた如く、天皇の忠良なる臣民たるために東亜諸民族の大同し得る新しき時代の道徳を確立し、民族闘争より民族協和に飛躍せしめねばならない。(p12・13)

天皇を戴く日本国は連盟の中核的存在とならなければならぬ。・・・
悠久の古より東方道義の道統を御伝持遊ばされた天皇は、世界唯一天成の王者であらせられる。天皇が東亜連盟の盟主として仰がるゝときは、即ち東亜連盟の完成せる日である。東亜諸民族がこの信仰に到達すべき自然の心境を攪乱してゐるのは、日本民族の不当なる優越感であることを猛省し、速かにこの大不忠の行為を改めねばならぬ。 (p16)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459114/17

下中弥三郎「思想戦の本義」1943年

皇戦は、普通に考へらるゝ戦ではなく皇稜威の世界光被の戦である。・・・皇国にありては、戦争はすべて皇戦である。大義を宇内に布く、これが皇国独自の戦争意義である。ことむけやはす、即ち服ふものは哺み育て、服はざるものは討ち懲らす、斯ういふ戦の原義に基いて為されてゐる戦である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1436976/4

内閣・内務省・文部省編「国民精神総動員資料.第四輯 日本精神の発揚 八紘一宇の精神」1937年

八紘一宇の精神
  大日本は万世一系の、天皇皇祖の神勅を奉じて永遠に之を統治し給ふ。これが我が万古不易の国体である。この尊厳なる国体を永遠の指標とする我が国民の精神は、時運を貫き隆々と栄えて窮るところがない。併し乍ら我が国と雖も現実世界の裡(うち)に在り、各国家・各民族と共存して居る以上は、独りこの世界史的問題に関係がないといふことはあり得ない。否、我が日本こそ諸国家・諸民族に率先し、万死をも辞せざる不退転の覚悟を以て、世界を闘争と破滅とより救済する為にこの難局に当らねばならぬ。然らば何故に我が国が率先してこの難局に当らねばならぬか。それは宇宙の大生命を国の心とし、之を以て漂へる世界を永遠に修理固成(つくりかため)なして、生成発展せしめる我が天壌無窮の国体が、正に全世界を光被すべき秋(とき)に際会して居るが為である。流転の世界に不易の道を知らしめ、漂へる国家・民族に不動の依拠を与へて、国家・民族を基体とする一大家族世界を肇造(ちゅうぞう)する使命と実力とを有するのは、世界広しと雖も我が日本を措いては他に絶対にないのである。茲(ここ)に我が国体の尊厳と我が国家の不滅との深き根拠がある。されば我が国体と国家とに対する自覚と体認とは、我々国民が現在直面せる支那事変の時艱を克服し、天壌無窮の宏謨を翼賛し奉り、以て世界救済の歴史的使命を果す最深最大の原動力である。
  抑々(そもそも)我が国は他の外国とその根基・成立・精神・歴史等を本質的に異(こと)にして居る。それは、強者が多数の弱者を征服して自ら君主となって打建てた権力国家でもなく、或は又多数の民衆が自己の利益の為に相互に契約し、一人の代表者にその統治権を委任して成立せる約制国家でもない。我が国はかゝる人意の国にあらずして、神命に基き自然の理法に随って生成せられた国であって、彼の北畠親房が「大日本は神国なり」と述べし如く神の国である。今これを我が神代の語事(かたりごと)に徴(ちょう)し見んか、神国の面目躍如たるものがある。天地開闢の神霊、宇宙生成の原力は霊動生成して伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)に至り、二尊(にそん)は天神(あまつかみ)諸々(もろもろ)の命(みこと)もちて「この漂へる国を修理固成(つくりかため)」なして国生み神生みの大御業をなし、終に天(あめ)の下(した)の主(きみ)たるべき天照大神を生み給うた。
と道破したのは、独り生成発展の国体の本義、一切万生を育ていつくしみ給ふ皇祖の大御心を体得したのみならず、この皇祖天皇を戴(いただ)く我々国民が、国家の常時と非常時とを問はず、万世不易の国体に対する不動の信念を示したものである。惟(おも)うて茲に至るとき、皇祖の神籌は、天地と共に宏(ひろ)く富嶽と共に高く、三千年の国史を貫いて今日に存する。この宏謨の光被するところ、その国家・民族に廃墜なく、世界の流転の裡にあって而もその奥底に脈々たる不易一貫の道を堅持し、この国体の一貫するところ、この国民精神に萎靡なく時勢の変遷の裡にあって而も昏迷せず、向ふところ常に皇運扶翼の一路があるのみである。この一路こそ我が国をしてこの時艱を踏破して無窮に生成発展せしめ、同時に全世界あらゆる国家をして各々その処を得、その分を竭(つく)さしめ、万邦大和(ばんほうたいわ)、真正なる世界平和を実現せしめる所以である。是実に神武天皇が皇祖の神籌に之を享(う)けて、天(あま)つ日嗣(ひつぎ)の弥嗣々(いやつぎつぎ)に万世に伝へ給へる「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」と詔(のり)給うた「八紘一宇」の大精神である。
  「八紘」は「八荒」ともいひ、前者は八方の隅、後者は八方の遠い涯(はて)といふ字義であって、共に「世界の涯」とか「天(あめ)の下」といふ意味である。「一宇」は「一家」といふ字義で、全体として統一と秩序とを有する親和的共同体といふ意味である。従って「八紘一宇」とは、皇化にまつろはぬ一切の禍を払ひ、日本は勿論のこと、各国家・各民族をして夫々その処を得、その志を伸(のば)さしめ、かくして各国家・各民族は自立自存しつゝも、相倚(よ)り相扶(たす)けて、全体として靄然たる一家をなし、以て生成発展してやまないといふ意味に外ならない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266412/5

大阪朝日新聞 1942.3.12-1942.3.15(昭和17)
蘭院覆滅の素因 (上・中・下)
石橋五郎

吾人は過去における蘭印為政者の失敗に省みて、蘭領の統治には出来るだけ多くの邦人をここに送って各地方を平等に開拓し、到る所に邦人の集団地を作り、これをまた軍事上の基地となすと共に、土着人に対しては一視同仁の政を布き、土着人をして心より邦人を信頼せしめ、彼等が現在我が外地人の如く日本国民たることを誇りとするようにせねばならぬ。これは我が聖戦の目標たる八紘一宇の大精神にそうものでもある。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00503599&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


 

皇軍実態集 体罰・私的制裁(2)

皇軍実態集 体罰・私的制裁(1)
皇軍実態集 体罰・私的制裁(3)
皇軍実態集 体罰・私的制裁(4)

 昭和十八年一月十日、千葉市の鉄道第一連隊(東部第八十六部隊)に関東軍要員として入隊し、材料廠中隊(特科隊)に配属であった。・・・初めに軍隊生活の一応の説明があって、夕食からは厳しい内務班の生活が始まった。我々初年兵はただうろうろするばかり、時々ビンタが飛んでくる。(p204・205)熊谷
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_204_1.pdf

 昭和十八年四月十日、現役兵として広島第五部隊第二中隊(戦車隊)へ入隊しました。・・・
 ある夜、酒に酔った曹長が突然「整列」と号令をかけて初年兵を営庭へ引っ張り出し戦車に乗り組ませ、練兵場へ行き前進行動中戦車壕へ車の前部を突っ込み、バックしても壕より脱出できず、隊へ連絡して下士官、古兵の応援によりやっとのことで正常な状態になりましたが、新兵はビンタのお叱りでした。初年兵係の教官、助教、助手をさしおいて、しかも夜間飲酒しての暴挙であり、制裁されるのは曹長であるべきはず、逆に新兵に当たるとはと軍の不合理を考えさせられる悪い思い出もありました。(p166~168)竹田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_166_1.pdf

 私は昭和十五年徴集の現役兵である。岡山備前長船町で徴兵検査を受け、徴兵官から「光延一徳、第一乙種合格」と宣言された。当時は第一乙種合格は即甲種合格に編入されて、翌年一月十日に姫路五十四部隊へ入営した。軍装を整えると十日ほど後に満州に出動した。
 何も解らずに引率され、朝鮮から、図們を通過して満州国佳木斯に到着した。満州第一二四部隊だった。第一中隊、第二中隊は輓馬中隊、私は第三中隊の新設自動車隊である。隊には古参の二年・三年兵がいた。彼らは野戦下番といって、支那事変に従軍し、昭和十四年に一度姫路に凱旋している連中だから、気が荒く一にも二にも私的制裁が横行していた(p149)光延
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_148_1.pdf

 昭和十七年九月一日、佐世保、相の浦の第二海兵団に入団、教育は相当厳しかった。年上の徴兵の人(大正十年生まれが多い)と一緒に教育を受けた。・・・
 同年十一月三十一日に佐世保を掃海艇で出発。二十人ぐらいの同年兵と一緒に、翌十二月一日任地朝鮮鎮海着、鎮海鎮守府に入って通話業務の学科講習から始まった。「トツー」のモールス信号から、受送信も一分間に四十五字受けられて、卒業である。私は九州生まれであるから、新兵の時は寒い所で大変苦労した。鎮海は内地と違って寒い。甲板に水をこぼしたらそれが凍り、翌春まで解けないとのことで、全部削り取らされた。外出中広い道路の反対側を通る上官に欠礼したら叩かれたこともあった。
 また、海軍は一蓮托生、一人の過失で全艦が沈む、従って一人の過失も許されない。そのため連帯責任で叩かれ、臀はバットで叩かれるから紫色に変わってしまう。しかし、このようにして海軍は鍛え上げられるのである。(p144)

・・・スラバヤへは昭和十九年十月、第二十一海軍通信隊へ着いた。スラバヤは平穏で通信隊はオランダ人の家であった。現地人が雇われていて、掃除・食事の用意などは私等通信隊員が直接することはなかった。
 そんな生活も三ヵ月で、私は第二分遣隊勤務となり山の中に入ったのだが、・・・第二分遣隊で一度だけ空襲があったが、非番で眠っていて記憶がなかったため、上官から皆への見せしめのため、ひどく叩かれたことがあり、一週間ぐらい体が動けぬほどであった。もし、本隊だったら進級停止というところであったであろう。(p146・147)渡辺
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_143_1.pdf

 鮮満国境―満州―山海関―北京―包頭への鉄道(京綏線)で、張家口に我々の入隊する自動車第二十三連隊がありました。・・・張家口には連隊本部と材料廠と私の入隊した第二中隊、宣化には第三中隊が駐屯していました。初年兵教育は各中隊毎に行われました。・・・
 こうして初年兵教育が終了して、中隊の班内に復帰と同時に初年兵いじめが始まりました。制裁が始まると「洗面器を持って集まれ!」と命ぜらます。鼻血を受け止めるための洗面器です。営内靴、帯革、そこらの手当たり次第の物で殴られました。駈け足が命ぜられ、力いっぱい走らないと、遅れた者は「もう一度走って来い」と命ぜられます。(p146)永瀬
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_145_1.pdf

 古兵達は上官の制止も聞かず、アメリカ兵が来る前にサッサと帰ってしまった。今までは絶対服従でいたが、昨日まで思う存分我々を痛めつけ人間扱いしていないので我々が恐かったのだ。我々は血の気の多い兵ばかりで今までのお礼をさせてもらおうと、相談したものだ。(p129)米重http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_124_1.pdf

橋本中尉 タタキ上げの分隊長。「お前たちが一生懸命やっているのを見ると後光がさしているように見える」。下士官達が棍棒で殴るのを見かねてのことと思う。この後しばらくの間、棍棒を振るわれることはなかった。(p117)

召集で来ていた一等兵(三十七歳) 「ゆうべは十八位の上等兵に、棍棒で十発ずつ殴られた。これでも家に帰れば、一家の主人ですよ」召集で来た人達が若い兵に殴られるのを見るのはつらかった。(p117)

召集で来た下士官(四十歳ぐらい) 舟で移動中、船酔いで吐いてしまった。たるんでいると殴られるかと思ったら「俺の息子も予科練に行っている」と言って背中を撫でてくれ、大変気持ちがよかった。(p117)

S練習生兵長(十六歳) 病室を覗いたら尻に包帯を巻いて寝ていた。膿が滲みでている。どうしたのかと聞くと、「外出した時、農家に立ち寄りアラレをもらって来たのを見つかって、S分隊士に八十六発殴られたが気絶してしまった。後いくつやられたか分からない」。S分隊士は常にステッキを持ち歩き、練習生のアラを探しては殴っていた。士官の中で練習生を殴る人を他に知らない。(p117・118)

Y先任教員上等兵曹 夕食準備中、突然棍棒を持ってきて「I練習生(十七歳)、出てこい」とどなり「貴様ら、飯のおかずがまずかろう。班長は人を殴るのは飯よりも好きだ。これをおかずにして飯を食え。軍人精神五箇条を言え」と怒鳴る。一箇条を言うと一発殴る、五発で済むと思いきや十八発もやられて倒れてしまった。倒れた者をなおも殴り続ける。その度にぴょんぴょん跳ね上がる。死んだようになった者を振り向きもせず、教員室へ帰ってしまった。皆しーんとなってしまい、ものも言わずに食事を始めた。こんなまずい食事は初めてだった。(p118)

個人的にやられたことはなかったが、「総員バッター」は時々やられた。昭和二十年三月頃、夜中に「総員起こし」で飛び起きるとなんだかんだと文句を言われて「総員バッター」が始まった。皆見つからないように腹巻を尻の方まで下げる。私は股引きだったので、そのままやられてしまった。後で腫れているかと思い、そっと撫でてみたらへこんでいたのでびっくりした。一度やられると十日ぐらい経たないと元通りに治らない。幸い治らないうちにやられたことはなかった。
 舞鶴の定員分隊では毎晩のようにバッターの音が聞こえてきた。中学三年生ぐらいの少年兵がいたが、かわいそうで仕方なかった。(p118)杉浦
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_113_1.pdf

 私は中学時代に軍隊宿泊五日ほどで見聞したが、軍隊の私的制裁がはげしく、ために不具になったり、甚だしきは自殺する者や逃亡者も出るとあった。私は学業も芳しくなく学校教練もお情けで合格させてもらい、幸いにも現役を逃れ召集忌避で軍属を志願してきたのであるから、軍人社会の矛盾や凄絶さを論ずる資格はないと思っている。(p106・107)矢野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_101_1.pdf

・・・同じ町内から三人が歩兵第四十八連隊(久留米)に入隊。所属は第四中隊第四班に定まった。・・・
 入隊後一週間経過した日、私は物干し場監視の任に当たって、来合わせた同年兵と談笑していたのを古兵に見られて、同年兵の一人がいきなりビンタを食ってブッ倒れたので吃驚した。軍隊はすべてが全体責任である。私達も歯を食いしばり足を開いて姿勢を取ると同時にポカリと殴られた。倒れはしなかったが目から火が出るとは本当のことである。
 教育中誰かがごく小さな銃の部品をなくした。初年兵一同十数人が横一列に並び、四つん這いとなり、自分の視野四〇センチ幅を凝視して前進して遂にこの小さい部品を発見することが出来た。教育二ヵ月目に入って、私が入隊以前に機械工であったためか兵器修理の教育を受けることとなった。中隊からは私達二人が選ばれた。朝食が終わると食器洗いもせず班内から出て昼食に班内に戻ってまた教育に出向いた。
 修理と言っても困難な修理でなく、時には編上靴などの修理もあった。二班に行った時「松尾二等兵入ります」の声が小さいと古兵に叱られ自転車乗りを命ぜられた。自転車乗りはテーブル間に両手で足を浮かせペダルを踏む要領をせねばならない。右上官と言われれば右手を上げて挙手の敬礼をせねばならぬ。当然足が床に着く、そうすると古兵から叱られる。元の姿勢に戻ってペダルを踏み続けなければならぬ。十分間も続けると参ってしまう辛い制裁であった。
 ある雨の日、私は兵器修理のため班を出て行った。他の初年兵は雨のため班内に残って兵器の手入れをやっていた。私の小銃も誰かが手入れしてくれたのである。消灯後古兵が私の銃口蓋がついていないのに気付き起床を命ぜられた。前に述べたように全体責任であり、初年兵全員上靴でビンタを取られた。上靴のビンタは痛さがひどい。銃口蓋は古兵が拾っていた。私は皆に対し気の毒でならなかった。
ある日消灯後、古兵が銃の引き金を調べていたところ、カチッと引き金が鳴って、初年兵一同起床「腕立て伏せ」を長時間にわたり実施され涙を流したこともある。
 私の班では結婚していた初年兵が私ともう一人いた。この初年兵の奥さんが六歳年上であったので古兵から結婚生活についてよく試問が繰り返された。
 たたかれることでは木銃の銃尾の太い方で尻を強打される時の痛さ、また銃の薬室掃除棒の大きい方で頭をたたかれることもあった。いずれも全体責任のためであり、時には何のためたたかれているのか不明のままたたかれた時もあった。(p67・68)
 六月からは夏の服と交換であり、冬物の袴下を返納するため洗濯して、監視つきの物干しに干しておいたがいつの間にか盗まれていた。さあ大変、服の交換日まで幾日もない、報告すればビンタぐらいでは済むまい。兵器修理の帰り道、他の中隊の物干し場で監視兵にでも見付かった場合どうなっていただろうと思うと縮む思いであった。(p69)松尾
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_067_1.pdf

 豊橋駅で両君と別れ、篠田の大塚賢一君及び小坂井町三人、蒲郡町二人と一緒になり、名古屋駅にて県出身者全員集合して出発。加古川駅にて乗り換えて部隊近くの民家に一泊し、十日に中部第四十九部隊(戦車第六連隊教育隊)に入隊した。大塚君は即日帰郷とのこと。
 翌日から初年兵としての訓練を受けた。歩兵銃の実弾射撃にてその初年兵教育は終わり、次いで戦車教育に移る。他の者が戦車操縦訓練中、青野ヶ原の松一本を倒したので、晩に教育上等兵より陸軍地図に記入してある松だから注意せよと叱られた。また、朝点呼の集合が遅いと総ビンタを受けた時もあるが、教育隊なるが故にあまりなかった。(p58)日比
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_058_1.pdf

 八月○日、東山の本部より西村の野戦倉庫に配属となり、訓練と作業に精を出すことになった。
 ある日、古参兵殿より、いきなりビンタを取られ驚かされた。また「初年兵、集合!」の声で営外に整列、二列横隊で前列は一歩前へ回れ右、向き合った者同士の右と左からの対抗試合だとのこと。また内務班では隣にいた古参兵殿から、夜中にはよく鼻をつままれた。いびきが高くて寝られないと。(p51)成守
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_047_1.pdf

軍隊履歴
昭和十(一九三五)年十二月一日
現役兵として歩兵第三十三連隊入隊(p1)

軍隊経験のある人なら、誰でもご承知のことであるが、入営後一番鍛えられるのは、一期の検閲前の三ヵ月である。そして鍛えられるのは、野外で行われる訓練だけではない。内務実施と言って、兵室内での起居動作全体が訓練の対象となる。しかも営外居住者の将校達がいなくなった朝晩と夜間に集中して行われる。この時間は、伍長や新米の軍曹が中隊の殿様で、下士官室に君臨しており、内務班の兵室は、柄の悪い二年兵の天下である。新兵にとって、一番待ち遠しい消灯ラッパが「兵隊さんは可哀想だなあー、また寝て泣くのかよー」と夜の兵営内に響き渡って、皆寝台にもぐり込み、班内が一斉に暗くなると、彼等悪魔たちが行動を開始する。
 「第一内務班の初年兵、起床!」初年兵は、飛び起きて襦袢袴下の寝ていたままの姿で、各自の寝台の前で不動の姿勢をとる。「山崎二等兵、貴様は銃の手入れを行ったか」「やりました」「ここへ来い。引鉄の用心金の裏に埃がついている」「手入れしました」「文句はいらん」パン、パーン。両ほほのビンタが始まる
 「軍靴の裏に土がついている」「たんつぼの掃除が不十分だ」「今日の行軍で落伍した奴がいる」悪魔たちの目から見れば初年兵をしぼる種はいくらでもある。「今年の初年兵は、気合が抜けているぞ」「初年兵全員二列に整列。前列回れ右」「対抗演習始め」。対抗演習というのは、向かいあった者同士が、相手のほほを交互に殴りあう懲罰動作である。営内での私的制裁は、正式には禁じられていたようだが、このようなことが毎晩繰り返されて、初年兵の動作もだんだんと機敏になる。(p3)山崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_001_1.pdf

・・・昭和十八年十月一日付で松山海軍航空隊へ入隊となりました。(p576)
 このようにして松山航空隊に入り、最初からバットをどれだけいただいたろうか、数え切れないほどでした。陸軍は殴ることですが、海軍は外国との交流もあるということで、外から見えるところはあまりたたかない、見えないところをたたく。海軍ではバットより少し大きい棒で尻をたたくのです。まだ松山航空隊では本当の基本訓練でしたが、それでもだいぶやられました。
 そのような基本訓練を終わり、入隊した三〇〇〇人のうち一二〇〇人が搭乗員で、あとの一八〇〇人が偵察員、その搭乗員一二〇〇人のうち一八〇人が台中航空隊へ転勤を命ぜられたのが昭和十九年五月十八日でした。・・・
 訓練は、初めは離着陸訓練をしながら、さらには編隊飛行、特殊飛行、夜間飛行、計器飛行などでした。戦局がだんだんきびしくなって、台湾も第一線基地になろうとしていた時期で、私は台南の航空隊に転勤を命じられました。その飛行隊では、さらに苛酷な訓練をしたのですが、それこそ毎日バットをいただきました
 一機に対して六人が専属でその飛行機を使うのですが、一人でもへまをすると六人が連帯でたたかれ、本当に苦労しました。(p577)小峠http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_575_1.pdf

 私が入隊したのは新京航空第十五連隊第二整備隊でした。すぐにチチハル教育隊に移ることになりました。教育隊は百人ほどの初年兵でした。
 教育内容は徒手教練や体操、拳銃操作等でしたが、耐寒気合入れのためかよく叩き殴られました。それも個々にやられることなく集団ビンタが多かった。おかげで寒さを感じる暇がなかったと思います。(p565)陶山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_564_1.pdf

 昭和十四年十一月一日、卒団と同時に、軍艦「長鯨」(潜水母艦)に配属されました。生まれて初めての大艦生活で、艦内で迷うこともありました。乗艦すれば最下位の兵で、指導は半年古参の三等兵で、二等兵以上とは会話もできない程の階級差でした。機関当直勤務の他に、食事当番や先任者の見回り〔ママ〕品の世話や洗濯等で、新兵は朝洗顔するのは贅沢だと言われる程に追いまくられました。
 停泊中は十時の消灯後、釣床より起こされ、艦底の機械室へ呼び出され、「貴様等は気のゆるみがある」と、一人の失敗も団体責任で全員が、海軍独特の軍人精神注入棒(樫の棒で野球バットのようなもの)で数回殴られ、尻が紫色になることもしばしばありました。特に厳しいのは半年間だと我慢で通しました。しかし上陸した際一人が絶〔ママ〕えられず帰艦しませんでしたが、その行方は不明でしたが可哀想な同年兵でした。
 八カ月後の翌年に、横須賀海軍工機学校(電機科)を受験し入校しました。名に負う厳格な学校とは聞かされておりましたが、まさにその通りでした。入校時、貴重品は全部預けるよう指示がありましたが、翌日一人が五円玉〔ママ〕一枚を所持しているのを見つけられ、規律違反と、分隊総員の前で軍人精神注入棒を受け、その場に倒れるとバケツで水をかけ、立ち上がると再度の制裁、見せしめであろうが、余りにも極端な仕置きであることを感じました。
 勉強(学業)の方も同様で、休日の外出時も下宿で自習を強いられ、テストの成績によっては覚悟すべきでありました。(p530)今泉http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_529_1.pdf

 海兵団で三ヵ月間の訓練教育を終え、現地入隊は朝鮮鎮海海軍航空隊でした。毎日、烹炊事作業に精を出すが、農家―製缶―旋盤工という体験・職種の私にとり、料理の割烹、包丁や煮炊きのことなど、まったくの無経験、無知識ですから、毎日のように先任者に叩かれる。耳の鼓膜も破られ、毎晩、バットという樫の棒で尾底骨を叩かれ、しりは青紫になってしまう。軍医には「コケた」と言わなければならない。「叩かれました」など、本当のことを言ったら、腕立て伏せの上に六〇キロの「かます」を乗せられる。一人でも悪いことをすると連帯責任、「気合いが抜けている」と言って軍人精神を叩き込まれる。例の樫のバットで叩かれるのである
(p509)志坪
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_507_1.pdf

 私の入営は、昭和十八年三月一日でした。丸亀の西部第三十二部隊でしたが、実は第五十五師団第一一二(壮八四一五部隊、在ビルマ)補充の要員でした。約三ヵ月後の六月二十日、丸亀を出発して門司港へ向かい、ビルマの母隊を追及するため、外征の途につきました。内地の丸亀在隊中噂に聞いていた、内務「気合入れ」は私的制裁の禁止ということで影をひそめていましたが、初年兵同士の対抗ビンタは盛んで、これには閉口し弱った思い出があります。(p492)玉地http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_491_1.pdf

 十二日、零下十余度の満州牡丹江省寧安県愛河の満第五七三部隊戦車第五連隊着、第一中隊第一班に配属されました。・・・
 内務班は二、三年兵が約半分いて、ノモンハンの生き残りですから気合が入っていて、少しでもマゴマゴするとすぐビンタが飛んできました。(p439)
 古兵のシゴキはけた外れで、例えば軍靴の手入れでも紐を通す鳩目の回りをつまようじで擦り、先に付いた黒いゴミを種にビンタをする。また小銃の床尾板と木部の境の隙間につまようじを入れて擦る、先についたゴミを初年兵の目の前に示して叩くなど、それは並外れのシゴキでした。(p440)石橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_437_1.pdf

 昭和十四年五月に十四年徴集兵として徴兵検査を受け、甲種合格となり、昭和十四年十二月十日、現役兵として鳥取歩兵第四十連隊第二中隊に入隊と決まりました。当時は陸海軍共に多くの人に見送られ、元気よく衛門をくぐりました。
 どこの連隊でも同じようなことをやっていたようで、入隊して十日間は、お客様扱いで何事も親切に教えられ、十日が過ぎ第一回の給金が支給されると「お前等は、これで一人前の二等兵だ。教練はこれからだが、内務班の事はすべて教えた。今まで教えられた事を良く守り切磋琢磨し共に助け合い、一人の落伍者もないように。一人でも間違えば皆の責任だ」と言われました。このことが後々の苦労の種でした。
 昭和十四年十二月二十日から翌十五年三月十六日まで、第一期の教育が完了するまで、初年兵は一人として「今日は殴られずにすんだ」という日はありませんでした。木銃が折れるぐらい殴り、重傷を負わせたために軍医が怒り、重謹慎の罰を受けた事件がありました
 同じ第四十連隊でも昭和二年兵は一度も殴ったり殴られたこともないとのことで、こんな時代もあったのかと夢のような話もあります。(p388・389) 衣川http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_387_1.pdf

・・・翌十日、鳥取中部第四十七部隊第二機関銃中隊へ入隊しました。
さて昨日までの娑婆とは別世界の「人の嫌がる地獄の軍隊」へ。入隊以前から町内の先輩から種々と聞いていたが、予想を越える苦労の連続でした。内地部隊での新兵教育の、就中内務教育の厳しさ、残酷さ、非道さは、既に多くの口伝や文書で語り尽くされているので、本文での重複は省略するが、そのなかでも二つのひどい仕打ちについて述べます。
 その一つは、営内で夕食後のこと。若い下士候の伍長が新兵に、「機関銃は兵器。軍衣袴は被服。兵舎は?」との質問に対し新兵は誰一人として答えられる者がないと言うことで、一晩中一睡もせず立ち通しの罰。途中で週番下士官が来たが見て見ぬふりで立ち去った。
 その二は、午後の演習から帰営して内務班へ帰ると室内に綱を張って旗のように軍衣袴、襦袢その他の被服も吊り並べて、整頓棚はひっくり返してある。中村上等兵が「貴様等! 何度言っても整頓をやらん。今日はその罰でこのようにした。○○と××と□□と◇◇と△△はここへ来て一列に並べ!」と。私もその中の一人で横に並ぶと上靴の踵でビンタ。顔が紫色になるまで続いて叩き殴る。そのため歯が折れて口から出血する。それでもやめない。最後に他の上等兵が注意して止めた。軍隊内には歯科医はないので、町の歯医者へ行った。「これは顔の紫色といい、歯の骨折といい、叩き殴られた傷である」との診断書を隊内へ提出。ようやく残酷非道の私的制裁が明るみに出た。中村上等兵は取調べのうえ、営倉入りとか。とにかくひどいことでした。(p384)守本http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_383_1.pdf

昭和十五年
二月二十一日 現役兵として独立工兵第二十二連隊入営のため広島市内へ集合(p377)
 満州時代の最も嫌な思い出はビンタでした。夕食後、手でなく上靴(上履き)で叩かれます。今思いだしてもゾッとするくらい。なんのための制裁か?目的も意味も無かったように思いました。あまりの苦しさ、嫌さのためか冬期夜間に逃亡者が出ました。営舎の外は一面の荒野、凍死があるだけです。結局は舎の近くに隠れているのを捕らえられて営倉とか、お隣の中隊でした。助教、助手、古参兵までおしかりがあった由です。(p379)本窪 http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_377_1.pdf

 昭和十八年八月二十三日、この日に、私・田中菊治という、三十二歳の背の低い初年兵が誕生したのです。・・・そして、命によって「重砲兵第三連隊、満州第一二一五部隊」に転属となりました。・・・
 私は、現役兵より十年遅れて入隊した体格も丙種という、身長の低い召集の未教育の初年兵でした。しかし、軍隊は、そのような差別もしない、容赦もない厳しい教育訓練をします。しかも、昼の訓練で疲れ果てていても、夜は夜で内務班の訓練が繰り返される。それは、学科の勉強ばかりでなく、古参兵からの厳しい内務の「しつけ制裁?」も繰り返され、初年兵時代の辛さや苦労を誰でもなめ尽くしていました。(p367・368)田中http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_365_1.pdf

我々は、中支軍(第十一軍―呂集団)の独立山砲第五十二大隊の要員であるため、武漢大学にある兵舎に入隊しました。当時、本隊は常徳作戦参戦中で、留守部隊でした。当時、本隊は常徳作戦参戦中で、留守部隊でした。常徳作戦は十一月二日から十二月二十九日まででしたので、私達、初年兵は、正月、部隊が帰って来た一月五日に正式に入隊しました。(p354)
 私達の教育は、青年学校だけで、山砲の教育は初めてでした。初年兵は各隊の内務班に編入させられました。班内での私的制裁のため凍傷になっていました私は、今でも右手の付け根の所に跡があります。(p355)福島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_353_1.pdf

 兗州で、冬服に防寒具をもらい、野砲兵第三十二連隊へ転属ということで申告、青木部隊長の訓示も夢中で、すぐに山東省の新郷に行き第二中隊小池隊に入りましたが、同年兵八十余人が六個班に分けられ、私は第二班でした。
 入隊してから十一日間、日本を離れてからわずか四日間、中国大陸での軍隊生活が始まるのですから覚悟はしていても、不安と緊張の初年兵第一日目が始まるわけです。初年兵に対するお客様扱いは初日のみ、二日目からは腰など掛けていられない。次から次へと動き回るだけ、慣れないので、何から何をしていいのか分からない。また、夜は夜で悩みの一つ、点呼後、馬の手入れの状況や日常の動作に、何やかんやといちゃもんをつけ、初年兵を並ばせて整列ビンタ。平手はまだいい方で、はなはだしい時、平手では音が出るからと言って、げんこつとなる。一つの班が始めると、隣の班もビンタが始まる。
 聞きしにまさる内務班での制裁である。数年後には私的制裁は禁止されましたが、私の初年兵当時は、まだまだ盛んに行われていました。しかし、この制裁も反面では体で覚えさせる、痛められた経験を忘れさせないための一手段であるとも言われておりましたが、直接被害を受ける初年兵にとっては、肉体的にも、精神的にも苦痛でした。気の弱い者の一部には自殺や、逃亡を考えた体験を持ったと言っていました。
 我々の野砲兵隊は、砲は馬に引かせて作戦に出る。馬こそが機動の主体であるため、馬に慣れないというより、馬に触ったこともない都会育ちの人は一番可哀想でした。馬扱いの者は、朝食前に馬の手入れをするのだが、まず寝藁乾場に広げて、天日に当てて乾かさねば、小便臭さが抜けない。誰一人でも手を抜いたらば、古兵さんに「お前等は一銭五厘(葉書一枚の値段)で来るが、お馬は、百円以上出さねば来ないのだ」と怒鳴られる。
 私は農家の出身だから馬の扱いはできたし、隣部落の人が被服係下士官であったので何かと助かりました。新しい服に交換してもらって班内に帰ると、古兵に取り替えられるが、制裁のある時は、「用事があるから」と下士官室へ行って、甘味品をもらって来ました。班内では、同年兵同志の対抗ビンタが一番いやでした。加減をして叩くと古兵に「こうやって殴るのだ」と殴られる。(p316・317)
 昭和十九年になり、やっと初年兵が来ましたが、その頃になると私的制裁は禁止ではあるし、自分の体験からしても、初年兵を殴るようなことはしませんでした。北支の戦場へ来た初年兵の心情や立場を考えると、私的感情で殴ることはできませんでした。(p319)佐久間
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_315_1.pdf

 行先は、朝鮮平壌に駐屯の第二十師団歩兵第七十七連隊(朝鮮第四十四部隊)第一大隊(半島出身の伯少佐)第一中隊で、初年兵受領の下士官が来ていました。た。神戸出港、釜山上陸、ニンニクの臭いが鼻につきました。汽車で北上、平壌に着き部隊に入りましたが、本隊は北支に出動中で留守隊で教育係しかおりません。軍曹が班長で伍長勤務上等兵と上等兵が初年兵の教育係でした。
 初年兵は名古屋、岐阜その他全国からの寄せ集めで一期の六ヵ月間にわたる教育が始まりました。生まれて初めての北鮮は零下二十度の寒さがこたえました。「兵隊と背のうは叩かなきゃ直らん」のたとえがあるそうで、何かにつけてビンタが飛んできました。古年兵が居なかったのが、せめてもの救いでした。(p286)嶋田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_286_1.pdf

 工兵の道具では円匙(シャベル)、十字鍬があるが、作業後、少しでも泥が付いていたら大変です。ビンタを食らうのは当然、大切な工具だからです。(p268)
 工兵は土工が多いので、以前の職業から入れ墨をした者が多い。その者には、「親からもらった大事な体に彫り物をするとは何事ぞ」と叩かれます。しかし軍隊で教育されますと、まじめ人間となって帰って行きました。(p269)松崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_264_1.pdf

 昭和十八年十二月二十日、現役兵として独歩第二十大隊歩兵第一一五連隊(高崎市)第七中隊に入営しました。翌年一月七日、屯営を出発、博多港より出港、釜山、鮮満国境、山海関を通過し、原隊の駐屯地である山東省諸域に到着、追及しました。
 中隊は第四中隊と定まり、中隊の中に一個分隊だけ機関銃が所属された編成であったので、私はその機関銃隊員と定まりました。・・・
 特に機関銃隊は一丁の機関銃を中心に十数人の隊員が運命を共にする集団である点が強要され、一心同体の精神涵養のため、叱責は分隊全員で受けることが通常であった。時には素裸でふんどし一つになって帯革で力いっぱい叩かれたこともあった。(p249・250)小林http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_249_1.pdf

昭和十八年九月十五日、海軍第二百十八設営隊は新井少佐を部隊長として呉軍港を出発したが、・・・「宇洋丸」の中の隊員達はすごい船酔いに苦しんだ。甲板へ上がる事は禁じられて、舟底の隊員達は前後左右に転がされて半病人になってしまった。たまりかねた私は密かに甲板へ上がりマストの陰で風を受けていた所、監視員に見つかり吹っ飛ぶほどはり飛ばされ、何日も顔がゆがんでいた。(p152)中矢http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_151_1.pdf

 私の隊は朝鮮第二十三部隊(第七十九連隊)第六中隊(高橋隊)第三班(麻田班長)。(p139・140)
 新兵生活の中で困ったのは歯を磨く時間さえないことである。起床から就寝まで、上等兵の声に追いまくられて、そんな事をしていたら、びんたで頬が歪むほど打たれるに決まっている。(p141)上津原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_137_1.pdf

・・・広東駅で下車して広東市内を通過して、鳳兵団の所在地へ向かった。師団司令部で現地到着の申告を済ませ仏山の第四野戦病院への配属を命ぜられる。・・・広三鉄道の仏山駅で下車、部隊に到着、営庭に整列、村上部隊長に着任の申告、教育隊の宿舎割り当てを受けて入所する。(p115)
 我々同期の桜は年令の差こそあれ初年兵としてすべて平等である。班長の指導で「同期の兵の会」を結成することになり、互選で会長の選任が行われ、私が選ばれたが反対も出来ずやむなく同意、大役を引き受けることになったが、何かスッキリとせず嫌な予感がした。引き受けるのではなかったと思ったがあとの祭りだ。多数の初年兵の中には失敗も多い。予感のとおりで、ほんの些細なことでも、同期兵の代表で古兵の内務班にお呼び出しである。とくに行李(輜重兵)の班が多かった。大なり小なり毎日、私的制裁の連続である
 「初年兵諸君よ、しっかりしてくれよ」と言いたくもなる。革スリッパで頬を、時には銃の尾板で体をたたかれ、よく顔や体が変形しなかったと不思議な気がした。考えれば本当に悪い回り合わせかと思い、自分だけがなぜこのように殴られなければならないのか、殴られ役の会長なら「もうご免だ」と思った。しかしこれが部隊のルールならば致し方ないし、誰かが当たらなければならないならば、何事も運命だとあきらめることにした。(p116・117) 
 作戦は終了し、動員兵力は仏山の本隊へ帰還し、私は居残りとなり常時の状態に戻り、静かになる。古参兵あるいは上官は初年兵と交代し内地帰還である。目の上の瘤がいなくなってホッとした途端に、一発ガンと食らった。古参の一等兵に殴られてしまった。「貴様、古参兵が満期しても、まだまだ上があるんだ、た るんでおるぞ」とまた一発。すごく強い鉄拳で目がくらむ。(p118) 
 ・・・私も折れて現役志願のみを辞退して納得、広東陸軍病院の下士官教育に行くことになった。西南における自分の私物も整理できず直行である。
 しかし、きつい教育であった。体力を鍛えるのか、足を鍛えるのか知らないが、毎朝点呼前に往復八キロの行程を駆け足である。営庭に整列、点呼時に行動について反省させられ、竹刀でたたかれるのは嫌なことである。一番嫌に思ったのは、看護婦に欠礼した時、婦長に直立不動で叱責されたことである。これも軍隊かと従うことにした。(p121・122)竹内
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_108_1.pdf

 金華には師団司令部、工兵隊、そして第三大隊の第十中隊及び第十二中隊が警備駐留していた。連隊本部は遠く道盧という第一線の街にいた。自分は第十中隊の軽機班第一班に配属され、初年兵教育を受けた。・・・演習は午前三時間ぐらい、帰隊して昼食、午後の演習と毎日繰り返しであった。何と言っても演習に出ている時が我々初年兵にとっては一番の憩いの場であった。演習から帰ると班長、助手の巻脚半を取ってやり、靴下または下着の洗濯などをしてやらねばならない。へまをすれば全員の責任とされ、たちまち回りビンタである。責任を他人になすりつけたりすると青竹でたたかれ、その丸い竹も割れるほどたたかれたものだ。軍隊生活の中で忘れられないのが、この内務班のしごきであった。今思えば人間扱いではなく動物扱いの仕ぐさであった。(p103・104)大竹

 一期の教育が終了し、人事係の准尉さんに勧められて下士官候補教育隊へ進むことを承知したが、入隊してみると教育は小銃教育ばかりで、砲隊出身者はお呼びでなく最低の成績だと思った。だから班長や助手に痛めつけられ悩んだ。考えてみれば、当たり前の結果だ。砲教育中には全々触れない軽機関銃や、擲弾筒の分解、結合等で、出来る訳が無いのだった。砲隊員は三八小銃すら持たないのだから。(p75)稲垣http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_074_1.pdf

 昭和十九年六月二日、私は高知市朝倉の西部第三十四部隊第二中隊第三班へ入隊を余儀なくされ、以来終戦、復員まで私は軍隊の消耗品となった。・・・
 入隊翌日から、六時起床に始まり、班内掃除、点呼、飯上げ等で、我々初年兵は「早駆け」で少しでもモタモタすると二・三年の古兵殿より過分なる手厚いおもてなしをたくさん頂いた。私は当時二十一・二歳だったので幾分は良いものの、三十余歳の戦友は大変な苦労だった。(p65・66)大西

 歩兵の基本訓練はそこそこに、通信兵の基本ともいえるモールスの特訓が開始された。・・・
 先生は通信学校出の色白の下士官であった。この訓練は体が楽なだけに、眠くてどうにもならない。コクリとやると、すぐ剣道の竹刀が飛んでくる。隣の仲間がカチンとやられても、一分ももたないうちに今度は自分がコクリとくる。(p51)大森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_047_1.pdf

 私は昭和十七(一九四二)年二月に新潟県高田市の歩兵第三十連隊に入隊しました。部隊長は後にアッツ島で玉砕された山崎保代大佐でした。  
 班内には満州から内地へ帰還された古年次兵が同居しており、この古年兵が夜になると我々陸軍二等兵の両頬に強く刺激を与える役を勤めており、まるで暴力団の事務所にでも連れ込まれたようなものでした。(p38)舞嶽
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_037_1.pdf

一月十日に各務ヶ原の航空教育隊へ入り、隊には第一中隊、第二中隊とありまして、私は第二中隊の第八班というところへ入らせてもらいました。(p569)
ところが、私らの第二中隊の方は良かったのですが、第一中隊の方は何をしているのか初年兵ですから分かりません。大体のことをいいますと自動車の運転とかが第一中隊の関係でした。後で分かったのですが、飛行場大隊というのがございまして、設営とかその方面の人たちは第一中隊で、第二中隊は無線だとか技術関係でした。第一中隊の方では同期の兵が逃げたという噂がありました。よっぽど辛かったのでしょう。私らの方は良かったのですが、第一中隊の方はビンタが多かったので逃げたということでした。(p570)藤原http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_566_1.pdf
 
 昭和十七年の一月末、呉鎮守府より、「五月一日、広島大竹海兵団に入団せよ」との、待ちに待った令状を受け取った。・・・このように新兵教育も一つ一つ覚え、一、二カ月と過ぎていったが、カッター訓練は特に厳し く、少しでも力を抜けばバッタで叩かれる。 (p555・560) 
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_554_1.pdf


 昭和十八(一九四三)年一月末、岩国空において予科練の教程を卒業した私たち水上機選抜の六十人は、水上機の練習航空隊である茨城航空隊に移動をした。・・・
 私達が衣納袋をデッキに下ろすや否や、早速「練習生整列!」の声が掛った。三人ほどの教員は「海軍精神注入棒」と書かれたバッターを持って私達の整列を待っていた。
 「当直」と書かれた腕章の教員はいわく「ここは地獄の一丁目。二丁目のない飛練である。貴様達がお世話になるのはこのバッター棒である。よく礼拝しておけ」と。
 早速、一人に三本ずつバッターの洗礼があった。この時の尻の痛みは仲々消えなかった。(p537)
 十日間位は瞬く間に過ぎていった。徐々に訓練には馴れたが、相変わらず飛べば怒鳴られ、降りれば罰直の駈け足、デッキでは常時バッターが、釣り床競技という地獄の毎日。夜間は練習室で教員より「飛行機操縦教科書」により、操縦操作の講義も勉強となった。「頭で覚えようとするな、体で知るのだ。殴られて痛ければ、体自身が覚えてくれる」と、意味不明な教訓もよく言われた。こうして、毎日が必死の飛行作業であった。(p542)
 一方、飛行訓練も終わり夕食が済む頃になって当直教員より「練習生、全員がよく聞いておれ」その日の連絡事項についてよく話があった。
 だが時折「練習生全員集合」の号令一下、練習生全員は廊下に並ばされる。「貴様らの最近の動作は何だ、弛んでいる証拠だ」と理由をつけては、バッターで尻をブッ叩く、罰直を楽しみにしている若い教員が何人かいた。罰直の苛烈さにおいて伝説的なK教員には驚いた。この罰直の語源は定かではないが、肉体的苦痛を与える海軍用語であるそうな。
 罰直には個人の場合と連帯責任とがある。個人の場合は規則違反などであり、この種の罰直は多くない。むしろ全員を対象にした罰直の方が多かった。よく何らかの理由をつけては全員集合。そして、ただバッターを振るう。そんな感じのする罰直であった。
 結局、このようにお尻に痛い教育を受けながら、大いに気合の入った練習生ができ上がっていく。これが猛訓練という海軍軍人としての型に塡め込むための試練でもあった。いずれにしろ、面白半分にやる罰直も数えきれない位あった。
 その後、特定教員による制裁は分隊長によって止めさせられた。「罰直や制裁を止めよとは言わないが、練習生に怪我をさせるようなことは好ましくない」との注意があったそうである。陸軍においても、私的制裁は厳しく、改善されていったと聞いているが、私情を挟んだ行動が公に許されることはあってはならないし、その制裁が軍の団結を破る結果となったこともあった。(p544)榊原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_537_1.pdf

 昭和十七年一月十日、広島第六連隊野砲兵隊に入隊、三月二十日、一期の検閲(満州行きのため間に合わせの検閲)を終え、三月二十七日宇品出港、釜山から北上し満州国に入り、牡丹江から虎頭に到着、第四国境守備隊(第八七五部隊)第七中隊(隊長・斉藤中尉)に初年兵四十三人が配属され、四月七日入隊式を終え、一期の検閲に向けて訓練を始めました。・・・ 
 内務班は初年兵、二年兵、三年兵の混合で、召集兵も若干いました。二年兵は大阪出身者、三年兵は愛媛県出身者が多かったのですが、どの隊でも初年兵のうちは何かにつけて叱られることばかりで、毎晩ビンタの無い日は正月と二月十一日の紀元節だけだったと思います。靴の手入れが悪いとか掃除の仕方が悪いとか、整列ビンタは年中行事の一つでした。いま振り返ってみますと、あの苦しい初年兵の体験は六〇年経った今でも懐かしく思われる貴重な体験だったと思います。
 現在の青年にあの体験の三分の一でも良いから体験させることが大切で必要だと思います。とくに斉藤中隊長の訓示は「人間はまっすぐな道を歩め」「他人には絶対迷惑を掛けるな」の二つを教育方針として、兵隊に常々教えられたせいか、理不尽な私的制裁はなかったと思います。(p536・537) 渕崎http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_536_1.pdf
 
 我々の海軍の管区は舞鶴で、区内は山形・新潟・富山・石川・福井・滋賀・京都でしたから、海兵団は舞鶴であります。入団は、昭和十七年五月一日、松任出発は四月三十日で、数人の者が入団するので、海軍の人事部の方から引率者 (下士官)が来ました。その時から、もう気合をかけられましたし、入団の晩から臀を叩かれました。その棒には「軍人精神注入棒」と書かれ、樫の棒でバッタと言うのでした。
 入団してから、一五センチ平射砲を射つ練習(空砲 砲は八門)がありました。ある新兵が放屁をしたら、一個班十六人が、湾に入って泳いで「丸を拾って来い」と言われ、約二時間泳がされました。班長はカッター (ボート)に乗っている。放屁のガスが水の中に有るわけが無いのだから拾えるはずがない。「何でこんなことをするのか」と思ったのですが、これが、海 軍の教育だと思いました。 (p530)

また、海軍占領のキスカ島の第三十二防空隊に編入され・・・一個小隊、三十数人、我々は二等水兵ですから、どこへ行っても一番下の新兵、下がいないのです。下が入らなければ万年新兵ですが、その反面、海軍の給与は最高でした。それでも毎日、毎晩のバッタに変わりなく苦労の連続でありました。(p531・532)

 大湊では進級して上等水兵になったので、初年兵当時より幾分楽になりました。それからは、バットで叩かれなくなりました。あの痛いバットは教育の手段であったわけです。それだから、これからは、バットを振る立場になったのでした。
 石川県の人間の一般は、バットを振る者が多かったのですが、私は、下の者に対しバットを振らず、言って聞かせるようにしたので、「石川県の人でも、優しい人もいる」と、下の者から言われました。 (p533) 伊藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_528_1.pdf
 
 「臨時召集令状 部隊名日時
 松江西部六十四部隊 昭和十七年三月二十五日午前八時ニ同部隊ニ入隊スベシ 松江連隊区司令部」(p486) 
 昭和十七年春頃、満州より満期で帰って来た兵隊が居ましたが、彼らは気が荒く、誰彼かまわず暴力を振るい、私的制裁を行い「興安嶺嵐を見せたろか」と怒鳴ってた。思えば哀れな先輩達だった。(p488)藤原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_484_1.pdf

昭和十八(一九四三)年一月十日、臨時召集で西部第五十二部隊第三中隊に入隊したのです。部隊は、支那事変で有名となった「爆弾三勇士」の出身隊、久留米の工隊であります。・・・
 初年兵教育は三カ月間、星一つでも、一日でも早く入隊すれば先輩であり、上級者、古兵、先輩たちに毎晩叩かれる。同年兵の一人は、一人の上等兵から三カ月間に一〇〇〇回叩かれたと言いますが、彼は毎晩手帳に「正」の字を書いて記帳していたのでした。私は叩かれない方でしたが、一〇〇回は叩かれました。(p467)久世
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_467_1.pdf

所属は近衛歩兵第二連隊(富永恭次大佐)第三大隊 (吉田嘉久少佐)機関銃中隊(新井隆夫大尉)で・・・「近衛は皇軍の模範たれ、名誉を傷つけることなかれ」をモットーに、ビンタは強い兵隊を作るために必要だと言われました。(p302)原http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_301_1.pdf

・・・昭和十九年九月五日、山形東部第五十九部 の検閲を無事に終了しました。
 回顧すれば、入営前在郷時代さんざん隊内の内務班の生活のきびしさ、制裁の苦しさを予備知識として耳にたこの出る程聞かされていましたが、私共は入隊の以前より個人制裁の禁止が厳重に叫ばれていて、私共はその恩恵を蒙り大変ラッキーでした。とは言え、全然皆無ではなく伝統の足を開け、眼鏡を外せ、歯を食いしばれ、その上痛烈な鉄拳制裁、初年兵同士の対抗ビンタ等は数回受けました。でも時代の移り変わりか、我慢できる程度でまあまあ、やれやれでした。(p257)鈴木http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_256_1.pdf

その日の内に、新潟県高田市にある第七錬成飛行隊第一中隊第一班に配属され、翌日からしごかれた。一般の人は青年団で各個教練をしてきていたのですが、私は電気専門学校ですので、演習に行ってもいつも一人だけ叩かれ顔が腫れ上がっていた。また夜になると航空隊だから急降下をやれと、時々内務班の壁に向かって逆立ちをさせられた。しかし演習は僅かだった。 (p176)小野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_174_1.pdf

十一月二日、横須賀海軍通信学校第六十三期生として入隊した。・・・「皆聞け、あれほど言ってあるのに遅刻した奴がおる。気合いを入れてやるから出てこい。両足を開き両手を挙げ、拳を握り歯を喰いしばれ」とバットが飛んだ。幾つかで倒れる。兵舎の隅に空気乾燥防止のために桶水がある。 「水持ってこい」と水をぶっかけ、気付き、立ち上がればまた叩く。と「あと気を付けろ。元の位置、解散」。教員の瞼がうるんでいた。このような時でも休業とか入院とか聞いたことがない。 
 夏の一日、各分隊長交替で久里浜海岸へ水泳に出た。私らの尻が皆、紫色に血がにじんでいた。終わって校庭に教員整列があった。約七百人、校長から「あまり手荒なことをしないように」と注意があったが、変わらなかった。(p171)  
 ・・・ある朝、朝礼に大喝一声「佐世保の海兵団はちよっと違うぞ。見とけ……出てこい」と善行章二線の上等兵曹が壇上へ、横に将校三十人ぐらいが居並ぶ。「兵隊を指導すべき立場にありながら……」と言うなりバット一つ二つ三つ……厳しいと聞いていたことを見た。 (p172)武村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_165_1.pdf 

 お客様扱いも三日までで天下に名高い鯖江連隊の内務班教育が始まった。毎日の私物検査と整理整頓、班員の一人の不始末は直ちに全員整列ビンタ、対抗ビンタの連続である。(p204)松塚
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_204_1.pdf

役場から入隊せよとの通知が届いたが、それには「昭和十七年四月十日午前十時、福井県鯖江歩兵第百三十六連隊連隊砲中隊」と記してあった。・・・日が経つにつれて古兵達の一品検査と、それに伴う私的制裁が度を増して来た。入隊前より先輩から聞いていた勇猛果敢な第百三十六連隊の内務班の教育は、毎日私物検査、整理整頓で、班員の一人の不始末による全員整列ビンタと相手同士の叩き合いと聞いていた。(p127)

職業は蹄鉄、鞍工、炊事、喇叺、衛生その他である。衛生を希望し中隊の人事係准尉に申し出た。連隊からは各中隊より一人で十五人が朝八時に医務室に集合し陸軍病院へ通学、連隊と病院合わせて三十 五人の教育が始まった。・・・私は夜の点呼が終わると薄暗い厠に入り、股木の所に新聞紙を敷き、暗い電灯の下で毎夜十一時過ぎまで予習や復習をした。病院は看護婦が共に勤務しているため、女性厳禁の病院では脇見をしたと因縁を付けられ、連隊の者はどれだけ叩かれたか分かりませんが、頑張った甲斐あって卒業は三番で、連隊の医務室では事務室勤務となった。 (p128)

「松塚衛生兵、実は廊下の片隅で一人が頭から血を流し顔面を両手で覆いながらしゃがんでいるから見てくれ」とのこと。早速跳んで行くと、両手を真っ赤に血で染めていた。・・・原因は夕食後お風呂から帰り道、古兵から「貴様は態度が悪い」と言われ、突然木銃で前頭部を叩かれ五センチ近く割れたとのこと。その日は患者の事が頭に浮かんでなかなか眠れなかった。(p129)松塚
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_126_1.pdf

 私は満州一一八部隊内の第十二中隊に属し、初年兵の一等兵。クラスノヤルスク収容所では何組もの作業班に編成された。(p81)
 入隊当初、鈴木伍長に「清田、前へ出ろ」とスリッパで往復ビンタ。口の中は傷だらけ「貴様のような奴がおるから皆が悪くなる。皆の代表だ。今日はこれで良し」と。これで「天皇陛下万歳」と笑って死ねるか……。ああおれは非国民か……。何のお世辞も言えず口下手な俺。だが最初の戦闘で弾の来る中、鈴木伍長が「清田、しっかりしろ。上等兵候補だぞ」と励ましてくれた時、万年一等兵と覚悟していた私はこれが軍隊か、よしやるぞと戦った。ここで別れ別れになったが一番会いたい人だった。帰って最初の戦友会でシベリアで亡くなったことを初めて聞いた。(p82)清田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_080_1.pdf

 中部二十二部隊(元歩兵第八連隊)に入隊。(p69)
 この大阪の二十二部隊におること十一日間。昨日「明日は原隊のある満州に出発する」と知らされた。原隊名は「満州第一九三部隊」という。(p70)
 病院で、岐阜県郡上八幡出身の二年兵で高垣一等兵に出会った。気安く話しかけたというので初めて気合(ビンタ)を入れられました。(p73)

 点呼・体操・うがいをする。その後班長が、歩兵操典の中からの質問をする。これに答えられないと竹刀でポカリとくる。(p74)

 食事が終わり食缶を洗って、週番上等兵に引率されて炊事場に返納に行きます。出入口に食缶をおいて帰りかけますと「コラッ!第一中隊マテーッ!」。きれいに洗ったつもりの食缶に一粒の飯がついていた「貴様ら、これでも洗ってきたか、みんな並んで尻を出せ」とくる。そもそも炊事係という者は、中隊で嫌われ者の荒くれ者がなっています。大きな釜から土掘り用のスコップで飯をすくいますが、そのスコップを持って二、三人の炊事係が駆けてきて、力いっぱいひっぱたきます。痛いこと、頭のてっぺんまでピーンと響き、くらくらします。炊事場は鬼門でした。(p75)
 寝ている古参兵たちに煩がられるから、不寝番も押し殺した声で怒ります。拳骨で頬に一発ずつもらって解放されます。(p77)

 ・・・夕方点呼のとき、我が班長の鬼軍曹殿は、墨黒々と「軍人精神涵養」と書いた木刀をもって来る。週番士官の点呼が終わると、班長が今日の教練成果について話すが、成果が悪いとただでさえ赤い顔が、ゆで蛸のように真っ赤になって怒る。教科についての質問をする。答えられないと木刀で頭にたちまちコブができる。質問はほとんど初年兵が対象とされるのです。
 教練等は厳しいのですが、休憩時などは大きな声を出して駄酒落を言い、愉快で思いやりのある班長でしたから、班長を悪く言う兵隊は一人としておらなかった。班長が「解散!」を宣言して下士官室に引き上げると、初年兵係上等兵殿が「初年兵待てッ!貴様らは班長を困らせるのは、貴様たちがたるんどる証拠だ。足を開け、歯をくいしばれ」でサザエのような拳骨で片っ端からほっぺたを思いきり殴るのです。その痛いこと、眼から火花がピカピカと光り散ります。「よしッ!作業にかかれ!」と言います。(p77・78)
 それぞれの部隊で違っていたでしょうが、私は入隊する前に「関東軍は軍律が厳しいぞ」と聞いていたのですが、一挙手、一投足いちいち文句をつけられていました。消灯後、幾度となく毛布を被って悔し涙を流したことか、今では、辛かったなあと懐かしく思い出されます。(p79)河村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_065_1.pdf

 私はどうも酒の上の失敗が多いようである。ある外出日、帰隊時刻も来たので、一升瓶を肩に小唄を唄いながらの帰り道、前方より年若い少尉が来たので敬礼をしたところ、態度が悪いとかで一発くらったので、私も何気なく持っていた一升瓶で殴ってしまった。少尉は「上官暴行で、憲兵隊に訴える」と怒った。私も負けずに「私的制裁が禁じられている今日、訴えられるものなら訴えて見よ、初年兵のくせに生意気だ」と反論して帰隊してしまった。酔いがさめてから、自分の軽率な行動を反省したものであったが、どういうことか何事もなく、いまだに不思議に思っていることの一つである。(p42)竹内
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_038_1.pdf

 私の父は群馬県前橋市で建築請負業をやっていましたが失敗して、大阪の港区に引っ越しましたので、兵隊検査は群馬県前橋市で受け、昭和十八(一九四三)年二月十日、群馬県高崎市の第十四師団歩兵第十五連隊の大隊砲小隊に入隊しました。・・・(p481)
 一期の検閲が終わると、それぞれが特業教育に就くのですが、私は人事係准尉から衛生兵教育を受けるように言われ、チチハル陸軍病院で衛生兵教育を受け、中隊付き衛生兵となりました。・・・(p482)
 衛生兵は進級が早いといわれた通り、私も一選抜の上等兵になれましたが、前に申した通り補充がなく、あとが入ってこないので、内務班では一等兵の古年兵から「上等兵になったと思ってデカイ態度とるな!」とビンタとられる始末でした。(p484)和久井http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_481_1.pdf

 昭和十八年四月一日、福井県敦賀市の歩兵第百十九連隊へ現役兵として入営しました。・・・
 その日は名古屋市内で一泊して勢揃いし、翌日、敦賀ヘ出発、入営を致しました。第二中隊第二班へ編入された。今まで生活していた娑婆とは一別し、今日よりは軍隊という新しい社会生活に切り替えた。入隊前に聞いていた非道、陰険、残虐に制裁は一先ず無く、我々新しい初年兵も少しは安堵した様子でした。が、四月一日入営、四月十日の軍旗祭が終わると、それまでの様子は一変して鬼の内務班と化した。ここ敦賀は福井県、我々初年兵は愛知県人。言葉が違う。愛知の我々は継子扱いされて、手荒な仕打ちを繰り返し受けた。こうして軍人精神、何くそ、攻撃精神、内務の規律が確立されていった。一人前の軍人が錬成されて行く。(p438・439)横井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_438_1.pdf

顔もゆがみ、歩くのもやっとの態でもあった幹部候補生受験の前夜の試練、いわれなきビンタの横行、嘲笑や憎悪、偏見と屈辱にも耐えさすことが、はじめて「軍人精神」の神髄を体得させ得るものかは疑問である。(p49)田中http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_048_1.pdf

 翌十日朝、西部第八十四部隊の営庭は新入隊者の群で埋っていた。・・・
 第六中隊第五内務班は、歩兵・衛生兵の初年兵が約二十人、古兵は兵長殿はじめ二十五人位、合計四十五人程であった。朝礼、点呼、銃剣術、朝食、食缶返納、掃除、銃剣手入れ、通修整列、つまり、早飯、早糞、早走り、他の者より一秒でも早い者が勝ちである。朝食当番が飯・汁をつぎ終わり、週番上等兵殿が「よし」と合図がなければ食器に手をふれられないし、盛付けの多いのを注目している。
 そのすきに、雑巾七枚のうち一枚を素早く軍衣の下にかくしおき、合図と同時に飯に汁をかけ一気に呑み込んだ。直ちに廊下を駈け足で雑巾がけ、折り返している時、二番手が五班を出発している。私は、五班到着と同時に「よーし、中島交替せよ」の掛け声で、ドロドロの雑巾を次の戦友に渡す。ホウキかバケツ、塵取り、何でも握っている者はよいが、手ぶらな者は古兵殿よりビンタが飛ぶ
 銃剣術の間、稽古も、木銃は充分あるが防具が七組だけで、防具取りの争奪戦はすさまじい。半分防具を付けていると、古兵より直突き一本でひっくり返され、起き上がれない程痛い目に会う。
 ちょっとでよいから足りない防具を貸してもらい、型の訓練をしなければならない。ゆっくり着ていると、一人も居なくなり整列点呼が始まっている。このような行動により、機敏で、困苦に耐える兵隊が仕上がっていく。軍隊へ入った殆どの者が体験するのである。(p564・565)

部隊長殿よりのお呼び出し
 一期の検閲前の頃、ある日、班長殿が「中島、部隊長殿がお呼びだぞ」「直ぐに本部へ行け」と言われ本部まで急ぎ行った。「衛生兵、中島富夫参りました」部隊長殿は「以前馬より落ちて腰が痛い、治るか」「ハイ、治るであります。寝台に伏臥して下さい」と、腰背部を触診して軽く按摩を施した。「できれば鍼治療をしたらよいと思います」部隊長殿のお顔を真っ直には見られない神様級の方の腰痛治療を頼まれて光栄である。鍼灸師の免許は本当に有り難く貴重な資格であった。
 「では鍼をせよ」である。「鍼灸治療具を取りに佐賀へ行きます」と答え、公用腕章と外泊許可証が用意してあった。班内の古兵は勿論のこと中隊事務室の係官まで「中島用件は何か、単なる按摩のみでない。何かがある。あるいは部隊長殿の親類か」「鍼治療具を取りに参ります」。何回説明しても聞いてくれないが、個人的な制裁のゲンコツが班全体激減した。
 その後も部隊長室を再三訪問した。ある日、班長が私に静かに近づき「中島、今日もお部屋へ行くか、今直ぐ行け」とのこと、今日部隊長殿は出張不在を私は知っていたが、班長殿の声が、何かあると、サッと班を出て便所に一時間以上も入っていた。やっと臭い所から解放され内務班に戻ったら、嵐の跡であった。古兵一同から、初年兵全員往復ビンタの後は、手箱、整頓棚は木銃でひっくり返され、班全員、沈黙の真っ只中の時、「只今、中島帰りました」シーンとしている。腫れ上がった顔を部隊長殿に見られては内務班の恥、気合を入れるのに内務班のしきたりであるが、班長殿の私に対する思いやりであったと感じた。部隊の規則には「私的制裁の禁止」と大書きされているだけである。(p567・568)中島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_559_1.pdf

 私は昭和十七(一九四二)年二月一日、中部第六部隊騎兵隊に現役兵として入隊しました。名古屋で育った私には、騎兵隊などと言った馬のお世話をしなければならないなどとは、不安でなりませんでした。ここ中部第六部隊にいたのは入隊後約十日間位で、二月十一日には第一線要員として名古屋駅を出発、門司港より朝鮮釜山に上陸、さらに鮮満国境を通過し、北支の平地泉と言う所へ向かいました。北支のこの地方の二月頃の気温と言えば零下三〇度、用便をすると終わらないうちからツララとなってしまう程の寒さでした。内地では到底考えも及ばぬ光景でした。列車から下車した私達は隊伍を整え、原隊のある平地泉へ、歩いて約一時間で駐屯している部隊に到着しました。直ちに編成となり、私は第二大隊第三中隊第一班に編成されました。
・・・ある時、演習より帰隊し、銃の手入れをして、銃口を研く放槍口の差し入れ方向が間違って差し込んだままにして銃架に立てて置いたことがあります。明朝演習に出て、「休暇」「組め銃」となったのですが、放槍口がないので、我が分隊だけが「組め銃」ができない。教官から「一分隊、どうした」と言われました。助手の方は「ハイ엊放槍口が悪いので修理に出しました」と言って、その場は教官も察して「了解」となったのですが、演習が終わって帰隊したら早速全員訓示となり、点検と言う事を忘れた罪でビンタのお見舞をもらったのでした。(p209・210)和田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_209_1.pdf

 明けて昭和十七年一月十日、兵隊として関東軍の一員となった。現地入営との事で待っていた。戦車兵なので隣のあの部隊ではないかと思ってい たら、入隊地変更で千葉の習志野戦車部隊入隊とのことだった。・・・
 千葉では一カ月で満州に派遣となり、満州はどこだろうと思っていると、なんと宝清の部隊だった。こんな事なら開拓地から入隊すればよいのにと思った。いつも開拓団員としてこの戦車部隊の前を通っていたのに、見ると入るとは段違い、朝から晩まですごい訓練であった。夜は夜でビンタの嵐、良くても悪くてもビンタの連続。特にノモンハン帰りと初年兵が恐ろしがっていた万年一等兵が朝から晩まで睨みつける。特に二階は神様(古年兵)が両側におり、初年兵は下で朝から晩まで睨まれ通しである。・・・
 目の前で殴られるのを見て止める事もできない。血だらけになって、それでもまだ止めない。可哀想だが手を出せばやられる。神様や兵長、上等兵は見ているだけ、伍長も万年一等兵には歯が立たない(年功が古い)、伍長にも手を上げる事もある。そんな中で初年兵は「良し、今に見てろ、除隊までに必ず仇を取ってやる」と、私も思っているので、皆も思っているに違いない。(p77・78)菅野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_068_1.pdf

この日から、私の嵐第六二一二部隊歩兵砲中隊(第百十六師団歩兵第百二十連隊歩兵砲中隊)での戦務が始まった。・・・ここで初年兵教育が始まった。演習教育担当者の西村弥寿男軍曹は体格抜群の人で、演習中標悍で頭を叩かれた兵隊は沢山いる筈である。(p30・31)柏谷
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_030_1.pdf

霞ヶ浦航空隊に入隊してからは、約一年間霞ヶ浦で実戦訓練を受けました。その時は若い志願兵の上等兵から腕立伏せをやらされたり、尻を叩かれたり、それはそれは大変な苦労でしたが、これはすべが訓練であり頑張りました。(p644)藤原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_644_1.pdf

・・・横須賀第二海兵団に入団する者は五人で、多くの方々に見送られて「万歳!万歳」で出発しました。
 海軍の訓練は厳しいぞと、話には聞いていましたが、入団して三カ月間の教育訓練中は、海軍魂を叩き込んでやると、古年兵達が棒で尻を殴るなどの厳しい訓練に、時には涙を流すこともありました。(p603)佐藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_602_1.pdf

私は熊本市にある歩兵第十三連隊歩兵砲中隊でした。・・・ある時、戦友が許可なく売店(酒保)に行って饅頭を食ったと言って上等兵から全員呼び出され、木銃で叩かれ、立ち上がれないほどでした。全員震え上がった思い出があります。(p87)坂井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_086_1.pdf

第一海兵団の日課は戦争中にもかかわらず平穏な毎日でした。・・・佐世保は軍港の町でどこへ行っても海軍軍人の先輩ばかり、敬礼することを怠っては欠礼をして罰が与えられた。特に巡邏は厳しかった。(p503)塩 田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_502_1.pdf

久留米第四十八連隊は戦争に強い歩兵連隊として有名だと先輩から聞かされておりました。・・・私は第一大隊第二中隊に配属され機関銃班に所属しました。そして三カ月間の一期の検閲が済むまでの内務班教育と訓練は予想を上回る激しく厳しい毎日でした。・・・厳しい訓練に昼食、午後の訓練でくたくたになって夕食の準備と後片付け、古兵の手伝いと身の回りの整理、点呼の時の軍人勅諭の暗誦。古兵の叱声とびんたで目から火が出るような思いでした。貴様達は「たるんどる前支えだ」と初年兵一同「前支え」をさせられ油汗が出ました。(p437・438)野田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_437_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年四月一日、広島県福山市の歩兵第一四一連隊補充隊第三中隊第一班へ入営しました。(p335)
 入営第一日目はまあお客さん待遇で、すべて古参の人を見習って、内務班教育や躾のあり方を見聞して兵の第一歩を踏み出しました。
 二日目からはもう新兵としてミッチリと仕込まれ鍛えられます。歩いていることはない。皆走っている。その間にビンタがとぶ。対抗ビンタも初めて経験しました。とにかく軍隊とは敵と戦争をして勝たねばならぬ。無駄、隙、漫然、冗長等一切やめて、正確に最短時間に、他人よりも優秀な成果を挙げなくては、生存競争の烈しさは言葉では言えない位だ。しかしその中にも戦友愛という暖かい感情、連帯感、かばい合い等のプラスの面も芽生えてくる。それが時間、歳月の経過と共に、精鋭な部隊に仕上がって行くのです。
 一方、野外の訓練は、芦田川の河川敷を練兵場代わりにして行われました。とにかくきつかった。班長殿は「悟りが悪い。一度言ったら悟らにゃいかん」とビンタも時々ある
 軍人勅諭の暗記の時、詰まって言えぬと即ビンタ。とにかくビンタは多かった。(p336・337)谷本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_335_1.pdf

 十九日、広島駅に到着、指定の宿屋に集合しました。山形県出身者が四十三人、宮城県出身者が七人で、合計五十人が集合しました。行先は満州ハイラルの第三二一部隊で、正式名は関東軍ハイラル第一陸軍病院でありました。(p346)
 初年兵は古年兵の身の廻りの世話もしなければなりません。古年兵は九州出身者が多く、気の荒い人が多いのでビンタを相当もらいました。(p347)島貫
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_346_1.pdf

 部隊は満州国黒河省第六国境守備隊第二中隊(中川隊)に入隊。私は速射砲隊に配属され、砲の口径は一七〇ミリ、五人で一門で三人で牽引する。時に馬で引く場合もある。ノモンハン事件で「ソ軍」の戦車に苦しめられたことから、速射砲隊を設けたようです。
 内務班の生活は朝六時起床、点呼、三十分の銃剣術の稽古、教練、演習、各種当番等で、午後九時に消灯である。ビンタは時には喰らったが予想していたより少なく、と言っても要領の悪い初年兵は度々やられた。やられる者は決まっている。(p349・350)小林
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 大阪で身体検査を終わり、服を着ながら我々の仲間の一人が小さな音で口笛を吹いたのを居合わせた憲兵兵長に聞き咎められて、いきなり殴られ、上官の憲兵軍曹に「犯罪を構成しますか」と問うと、その下士官が勿体ぶった物腰で「態度不遜なりと認める」とやりとりしているのを見て驚きました。はじめて家族と離れ、どこへ連れて行かれるか不安な初年兵に、どうしてもっと軍隊の先輩らしく注意してやれないのだろう、と思いました。(p2)川村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_001_1.pdf

 昭和十四年八月頃、徴兵検査を石家荘で受け、甲種合格しました。どこへ入営するのかと案じておりましたら、金沢騎兵第九連隊へ、昭和十五年一月十日入営すべしとの通知を受け取りました。(p310)
 騎兵へ入営する二人は金沢駅で下車して十一屋町で一泊して騎兵隊の門前で父と別れ入営しました。
 あっけない別れとなりました。その晩は赤飯で祝ってくれました。次の朝より古兵達に毎日のように打たれ、初年兵のつらさを初めて知りました。(p311)渡邉
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 昭和十八年四月一日、舞鶴海軍防備対勤務を命ぜられました。・・・そして舞鶴湾の喉口に当る博奕衛所で二十四時間体制の聴音所勤務に就きました。・・・
 同年兵同志の学校生活と異なり、階級の厳しい実施部隊の明け暮れ、日常作業態度が悪いと先輩による夜の罰直が待っています。覚悟はしていたものの殴られる尻の痛みはまた格別でした。(p133)

 よく先輩から「潜水学校は殺される目に会〔ママ〕う所」とその厳しさを冗談話しでおどかされましたが、正に入校第一日目から難問に会ったのです。入校してくる者を二十人ぐらいを一くくりにして当直教員の説明があります。「一種軍装を事業服に着替え、衣嚢に入れ、衣嚢を棚に納める、テーブルに並べてあるハンモックをビームにかけ、ほどいて内部を点検、再度くくり直して元に戻す。以上三分以内に終った者から中央通路に整列。かかれ!」ピーの号笛一声あり、必死に旅装を解き事業服に、衣嚢を棚に納めてハンモックの調整にかかる。中々網がもつれたりして気が焦れど思うように進まない。夢中で最後の網をくくりつけて終了、パッと中央通路に飛び出す。トップ整列。
 瞬間を置いて次の者は何と舞防から共に入校した山形出身同年兵の梅津雄三君ではないか、「はい、これまで!」と時計を手にしている当直教員の声がある。以下の者は全員時間切れで後に厳しい罰直が待っています。自分のハンモックを担いで駈足、校庭一周です。青息吐息で戻るとさらにそこには鉄拳制裁の二、三発が待っていました
 そして最後には教員の訓示が「いいか!潜水学校は出来ないことをせよとの難題は言わぬ。現に二人の合格者がいる。今後覚悟して校風に従うよう努力せよ」との話があり、(p133・134)小川(米持)
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 回顧すれば昭和十八(一九四三)年十二月、現役兵として朝鮮第八五〇六部隊に入隊を命ぜられ、歓呼の声に送られて、会津坂下の駅をあとに、我が親愛なる友は南方方面へ、あるいは北方へと。その日は、大粒の綿雪が降る日だった。・・・(p171)
 零下二二度を下がると演習は中止となり、内務班において学科です。軍人勅諭の説明、「真綿に首」という言葉の通り教育され、実行されて行きました。自分の意志など述べることできず、実行しなければならず、少々のことでもビンタを取られ、平手打ちならまだしも、スリッパまたは帯革ビンタです。口腔粘膜が切れ三日間も味噌汁が吸えないこともありました。このように私的制裁が一般的に行われており、入隊前より話は聴いておりましたが、これが新兵教育かと思いました。
  肉体制裁に加えて精神的苦しみも、またひどく、疲労と睡眠不足で、学科中に手に持っている教科書が、あちらこちらで落ちる音、はっとして顔を上げ、自分も握り直す。ここでまたビンタが飛ぶ。このような毎日なので私の班からもこの精神的苦痛によって、昨日まで一生懸命やっていた同年兵が、夢遊病者のようになってしまい、その監視をさせられた事もありました。気の弱い者は、そのようになるのかと思いました。忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え、一億奉公に務めざるを得ませんでした。
  部隊長の検閲があり、一人一人を巡視されて「お前、その顔の傷はどうした」と言われても、「私的暴行をうけました」とは申せませんで、「夜は灯火管制で、舎内は暗かったので机に当たりました」と言っておりました。初年兵の哀れな姿です。疲れて演習から帰って来ると、自分の整理棚の物品、衣服等が散乱しており、古年兵が「今日は地震があったぞ」とそしらぬ顔です。また敷布の上には赤いチョークで大きな金魚が書かれており「金魚が水を呑みたいと言っていたぞ」、何をされてもそむくことができませんでした。(p172・173)
  戦地に赴く戦友と二日の間、酒保で懇親の宴が催され、戦友は「俺達、南方に行くんだ」と話しており、前日には実弾が渡されたようでありました。その時は中隊長も同席して「本日は無礼講だ」「何でも話をしろ」と言われました。
  今まで何事も上官に対して、物申す事などできませんでした。恨み骨髄に徹すると言う言葉がありますが、一人の初年兵が立ち上がり「自分は今まで奴隷のように使われ、私的制裁を受け、脱走まで考えて参りました。弾は前よりばかり来ないのだ」と皆の前で話しました。皆「しーん」となり、私的制裁のひどかった事が一気に爆発したという状況でした。鬼班長と言われていた伍長が、皆の前に正座して「誠に悪かった。私は皆を強い兵隊に育てたい思いで行った訳であった。しかし度を越してしまった、悪かった」と、両手を付いて幾度もお詫びをしました。その姿はあわれそのものでした。中隊長も「誠に申し訳ありませんでした」と詫びられ、その初年兵も納得して戦地に向かったことと思います。(p174)加藤
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 さて揚子に上陸して行軍する。中支は雨が少なく、半年も雨らしい雨が降らない。土が軽く地埃は黄塵万丈、天に沖す。内地では想像もできない大陸である。一週間位、行軍して一月九日、沙洋鎮と言う大きな町に到着した。ここで鏡第六八〇五部隊熊谷隊に入隊する。一カ月も入浴しないため虱が自然発生し初年兵全員が虱だらけの兵士である。入隊式も終わり、大隊本部の在る十カ城を経て、第七中隊は五カ城に到着。まず入浴する。(p36)
  さあ三日目から始まったものは何?言わずと知れたビンタの連続である。明治以来の変わらざる軍隊教育まさに筆舌に尽くし難きビンタビンタの明け暮れに耐える。戦後出版された「聞けわだつみの声」「人間の条件」等が映画化されたり、現代のドラマ「おしん」の名場面は世界中の人々に深い魅了をあたえかつ大いなる感動をもたらしたもの、軍隊教育と全く同じなり。軍隊のみならず一般人も「人間の条件」以上の中に在り、某県では娘を売ったと言う事実もあった。
  娑婆にある人間関係の諸々と何ら変わらず軍隊には軍隊の風紀があり、下級兵は絶対服従であるべし。これまた筆舌に尽くし得ぬ初年兵の「運命」、惨めなものである。早く言えば古参兵の「玩具」と言うも過言ではなかった。例を上げるのも今更口惜しいが柱に抱き着いて蝉の鳴き真似をせよ、汚れた軍足を喰えてオットセイのように分隊全員して各班を廻って来い等々、それを楽しむ気悪な先輩もいた。(p36)

  全快、原隊復帰への喜びはほんの束の間、数日後に待っていたものとは思い出す毎に、当時の悪夢のごとく、私を待ち構えていた物とは、分隊長の命令。「若林来い」。ビンタビンタ、またビンタの仕打ちの連続。何発やられた事だろう、理由もないままに。分隊長の平手が痛くなったのか、拳骨で殴るは、殴るは、鼻血は出るは、前歯がぐらぐらになって歯茎からの鮮血がしたたる。今度は鉄鋲スリッパで叩かれ、その中、失神状態の狭間の中ふと脳裏をよぎったものは両親の顔、顔、こんなことを両親に見られたくない。
  見せたくない。兄弟、姉妹の顔が目の裏を掠める。親が見たらどんな思いに悲しむだろうと――。地獄絵図のヒーローさながらの思い。全く身に覚えなきこの仕打ちが判明したものとは。――同年兵のいわき出身の船員に、特に悪質な兵がいた。
  彼も入院し一足早く帰隊したらしい。当時そんな事は全く知る由もない私、会った事もない兵なのに一選抜上等兵の決まる直前である私を誹謗中傷の結果と知った。その内容は、若林の野郎は病院の神様になり、病院に長くいる事を喜び、後送されることを望んでいる、云々と。これを中隊中に悪宣伝したのを小隊長はじめ分隊長も、それを信じ、不心得者にされ、半殺しにあったのである。軍隊とはこんなものと泣き寝入りせねばならなかった。(p37・38)

  中支揚子江の中流、宛市という小さな町の事だ。この地で敵襲は三回位あった。初年兵のT君は分哨勤務中の立哨時に居眠りをしたことが見つかり、またまたビンタビンタの繰り返し、あげくの果てに一晩中(明朝)の立哨の命を受けた。他の兵は三十分おきにTを監視する事になった。同郷の会津坂下町出身の戦友が見に行った時は、手榴弾の安全ピンを抜いて自決しようと思ったが思い止まり、元に戻すのにどうしても針穴のように小さな穴に安全ピンが戻らないので、一晩中骨折ったと語っていたという。
  夜明け方「ビューン!」という爆発音がした。それ敵だとばかり歩哨の位置を見る。揚子江堤防の下の廃屋の瓦が散乱している窪地でT戦友はのた打ち廻っていた。腹に抱けば一発で自決できるのだが、足元に投げたので破片が無数に軀にめり込んだため半狂乱の態だった。自分の分隊長を呼び捨てにし「星伍長、早くタンカを持って来い」とどなっていた。夜は明けた、タンカで五里位後方下流の大隊本部に輸送した。軍医は大隊に一人いるだけである。輸送または手当の甲斐も空しく命果てたと後で知った。(p39)

  いわき市出身のM君は私より半年遅く遅く入隊し、年令は三十歳、未教育補充兵で妻子もあったとか。炎天下の南支の行軍、進軍中に赤痢に冒され、小便一丁、糞八丁、と追い着くには時間を要する。彼は軍袴に包んだまま進軍した(湘桂作戦中)。草木も眠る真夜中十二時頃に大休止(三十分〜一時間)。その時悪臭がする、「誰だ!」と分隊長の大喝一声にM君はさすがに「自分であります」と言えなかった。「全員軍袴を解き、下げろ」と後に廻って臭いを嗅ぐ。「貴様!」と怒鳴って、M君の下顎を銃把で一撃、赤痢患者であるその上に下顎複雑骨折で食事できぬまま、あれこれと苦しんだ結果に亡くなった。私は半殺しから復帰したがM君は殺されたと言う、この事実は悲しさ苦しさの中に私が証人となり証言するのである。コレラ、チフス、赤痢等々の病を救う薬剤もないのが戦場なのである。
  続いてまたまた三人目の半殺しの事実を。広西省の奥深く潜入した峠の分哨に、福島市駅前近くの常連寺という寺の住職、T氏。彼はM君と同年兵である。同じく分哨についた時、顔面ひょっとこ面のごとく腫れ、歪み、蒼白疵だらけにされた。彼は動作が緩慢だと、それのみの理由にての半殺し同様。体は小さく、所詮はお坊さんであり兵隊の勤務に馴れるまでは少々無理だったのかも知れないが、一生懸命に人並みな兵隊になろうと努力しているにもかかわらず、毎日がビンタビンタの明け暮れにつぶやいた言葉は「これでは、教育とは言わないよ」と。
  分隊長入院が報じられた。私も半殺しにされたが一度病院に見舞った時は兵隊をいためつけた時の面影はどこへ、見る影もなくやつれて哀れ至極だった。戦後の戦友会にも一度の参加もなく消息不明である。(p40)若林

 寒いために飯盒の飯は凍っており、口の中でざくざく音を立てて食べることもあり、飯の味はまったくない食事をしたこともありました。班対抗で負けると「貴様達に食べさせる飯はないぞ」と飯盒を豚小屋に投げ込んで、食事はお預け、で食べないこともありました。
 このように余りにも私的制裁が厳しいので、制裁を注意する命令が出たこともありました。一期の検閲までの三カ月間は大変な苦労で、その厳しい訓練は今でも忘れ得ません。苗陽で訓練を受け検閲は陽泉の本隊で実施されました。(p154)富安
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_151_1.pdf

 私の軍歴は、昭和十九(一九四四)年三月十五日、補充兵として教育召集で会津若松の歩兵連隊東部第二十四部隊へ入隊しました。二十八歳でした。・・・
  さて、若松の歩兵部隊へ入隊した私が、最初に苦しめられたのは、対抗ビンタでした。軍隊へ入るまでの私は、およそ犬畜生でもない人間がホウベタを無抵抗で連打されるなんて言う事は想像もしていなかった。しかも新兵同士、相手に多少の遠慮をして力を加減していると、横で監視している古年兵が「メガネを外せ、歯をくいしばれ、脚を肩幅に開いてふんばれ」と要求し、それこそ力いっぱいになぐりつける。新兵はそれを見習って叱られないようにする。こんな野蛮な制裁が横行するなんて忌まわしい限りでありました。しかも手で殴るより帯剣のベルトでやられるともう地獄でした。流血。歯の折損。口腔内の挫傷。耳の鼓膜の破損等々。まれには兵営外の地方専門医の治療を受けた悪例もありました。今思い出してもおぞましい限りです。しかも同じ会津地方の郷土部隊内でのこと。
  ビンタとともに新兵が苦しめられたのは下痢でした。新兵は御承知の通り分秒を惜しんで動かされます。食事もゆっくり噛んでなんて駄目。おまけに精米も不十分な玄米に近いもの悪い条件が重なり合っての下痢でした。数も多かったようです。
  朝の中隊の舎前での点呼のとき、下痢が続いて体力の弱い者が何かとのことで、「一歩前へ!営庭カケ足○周!」は苦しい。汗をかく。ところが全身ビッショリの汗かきで、これで下痢が治ったと。とにかく苦しみの連続で毎日の日が暮れて終わるまで日が長いこと。三カ月の教育召集は長かったです。(p235・236)鈴木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_235_1.pdf

 昭和十四(一九三九)年十二月十日、世田谷野砲第一連隊における一カ月間の軍隊教育が終わり、東京の戸山町にあった第一陸軍病院に衛生兵として復帰した。
 昭和十五年一月十二日、私達同年兵百三十五人には、これから三月三十日までに衛生兵となるための教育が始まった。この教育は、軍隊の訓練・教育と違い、衛生教科書、エンピツ等を持って講堂に集まる。そして午前の教育は朝八時三十分から十一時まで、昼休み後は午後一時より四時三十分までである。
 そして毎日は起床五時三十分、保健、体操、朝食につづいて班内整頓と目が廻るような忙しさである。そして夕食後は班内で班付上等兵の講堂での教育の繰り返し、その日の教育の復習で、ちょっとでも違うとビンタが来る。私達にとっては長い二カ月間だった。(p180)福原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_180_1.pdf

 私は大正十二(一九二三)年三月一日早朝、西村山郡大井沢村で一農民の三男として誕生しました。(p242)
 父は平和時の軍人でしたので外地勤務は無く、現役除隊し、また召集もありませんでしたが子供のころよく軍隊生活について聞かされました。その内容は理由の分からぬ私的制裁のことでした。
 拳を握っての往復ビンタの真似、ベッドの下に潜っての「鴬の谷渡り(ベッドはないので座机の下で)」柱へ昇っての蝉の鳴くまね、満水のバケツを両手に持って不動の姿勢等、自分で実際まねして家族を笑わせていました

 そしてその後、このような私的制裁で涙を流した夜が多くあったが、自分たちはこのような制裁を受ける何ら理由は考えられないのになぜだろう。軍隊特有の先輩からの申し送りだろうか、それとも自分たちが受けた仕返しだろうかと思う。その反面、しかし全く理由のないはずがない。初年兵同士で欠点探しをしたが見出せない。ちょっとしたことでも話せば分かるのに、言葉が体罰に転化したものと考え、二年兵になるまで我慢また我慢で耐える気になり、決して先輩を恨んだり、また変な顔つきもしなかったと聞かされ、お前らも大きくなって軍隊に入ったら必ずあることだから参考までに話しておくという父の言葉でした。(p243・244)
 五月一日付けで陸軍兵長に進級すると同時に召集兵の教育係助手を命ぜられましたので、私なりの内務班教育をすることにし、同年兵にも協力をお願いしました。それは私的制裁のことです。このことについては入隊前に父からよく聞かされたことで、前述のとおりですが、父の言葉通り、否それ以上の制裁を、盛岡、満州での初年兵当時に受けました。しかし私は痛さ辛さに耐えるよう努力しました。
 軍隊は戦争に勝つために教育する言わば軍人養成学校であるのになぜ、殴る蹴るをしなければならないのか。私はじめ皆同じ意見だと思いましたので、このことを先輩にもお願いしたところ、先輩曰く「私的制裁は日本軍人の明治時代からの申し送りだ、弛んでいる者には幾ら言葉で言っても駄目だ。お前は今直ぐ任官する。もしフニャフニャした軟弱な兵隊にしたら、必ず日本が負ける。生意気なこというな」と怒鳴り声が返ってきました。
 これに対して私は「世代が違います、今の人間は話せば分かります。どうか私に任せて下さい。もし先輩が心配されるような気配が見えたら考え直しますから」と懇々とお願いしますと、「この馬鹿者、好きなようにやれ」と言い去りました。このことは班長の了解も得ると共に、逆に激励の言葉をいただきました。
 次の日、夜の点呼が終っても初年兵と召集兵がベットに入ろうとしない。床についても毎晩恒例の「起床!」と怒鳴る声に起床させられ、説教と同時にビンタ等の私的制裁を予期してのことだろうと思いました。そこで「今晩からは点呼が終って、班長からの伝達等が無い限り、直ぐベットに潜り込むように」と話したら皆妙な顔して就寝しました。翌日からの点呼では、今まで縮みこんで整列していた彼らは伸び伸びとし、しかも笑顔がみられ安心しました。(p248・249)阿部(渋谷)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_242_1.pdf

 徴兵検査は昭和十七年で、甲種合格となり、翌十八年四月十日に大分の歩兵連隊第七中隊に入隊、その後、西部第十七部隊に転属となりました。 (p319・320)
 またある日の「飯上げ」の時、空腹に耐えかねて盗み食いしたことが見つかり、炊事場の上官から、炊事場の大きなシャモジで散々殴られたことが今でも忘れられません。
 さらに初年兵の務めでもありました先輩の靴磨きに因縁をつけられ、靴を首にぶら下げて各内務班巡りをさせられ、万年一等兵にこっぴどく悪態や罵声を浴びたことがありました。(p320・321)広瀬
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_319_1.pdf

 「味噌汁を沸騰させる奴があるか!」と殴り飛ばされ、「切り身の魚に水をかける奴があるか!」と張り飛ばされる、というように、いつとはなしに海兵団で、うろ覚えではあるが教育されていた料理の基本のようなものを思い出していました。(p341)藤井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_340_1.pdf

 私は海軍機雷学校を志望して第十期普通科水測術練習生として八カ月間の教育を受け、特に電波探知機による電波信号教育の訓練を受けた。少しでも信号が間違ったりすると、「海軍精神注入棒」で、全員の尻が真赤になるまでやられるのであった。このような厳しい訓練を昭和十九年一月下旬まで続け、卒業することができた。(p357・358)阿部
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_357_1.pdf

 ある日短艇訓練で私たちの分隊はビリになった。教班長に「第一教班長、食事用意よろしい」と報告したのですが、他教班は食事をしているのに私たちの教班長は食事にこないのです。「ビリになったので飯を食わせんのと違うか」とこそこそ話していると、教班長がしかめ面でやって来て、「短艇がビリだから夕飯抜きだ」といって帰ってしまった。他の教班長はニコニコしながらこちらを見ている。腹はグウグウ、しかし夕食でよかったと思いました。(p389)
 夜になり玄界灘は大時化となり、右にゴロリ、左にゴロリ。翌日はおだやかになり、揚子江を上がって一月三十日上陸、上海海軍特別陸戦隊に入って現地教育を受けました。気候は、三寒四温で寒い朝は弱りましたが、訓練は学校の教練の時間に習ったことばかりで、陸軍と同じで苦にはならなかったのですが、対抗ビンタや風呂場からの匍匐前進などもさせられ、四月十五日で新兵教育は終わりました。(p390)谷口
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_389_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年五月一日、横須賀第二海兵団へ海軍二等整備兵として入団しました。・・・
 国家のためと気負い込んで、また憧れての入団でしたが、翌日からの新兵教育の厳しさには驚きました。どこまでが教育で、どこからが私的制裁か区別無く殴られながらの毎日でした。・・・
 九月二十二日、第二十四期普通科兵器整備術練習生として千葉県館山の近くにある州崎海軍航空隊に転属を命ぜられました。・・・こちらへ入隊しても、また殴る蹴るの制裁がひどくなりました。(p440・441)中村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_440_1.pdf

 中部第四十九部隊の留守部隊で、兵庫県青野ケ原にある「戦車部隊」でした。入隊翌日に全員に任務部署が割り当てられました。そして第一番に戦車搭乗員が選出され、自分は自動車免許証所持者でしたので一番先に指名されました。次いで自動車要員(歩兵訓練)及び後方段列(弾薬・糧秣輸送)等々でした。
 戦車搭乗者教育を受けることになり、あの鉄の箱の中で、身動きひとつできない状態での訓練は、大変厳しいものでした。自動車組も大変厳重な教育で、夜間内務班にて涙を流している戦友もいました。それは古年次兵の私的制裁によるものでした。その点、自分のように戦車乗りには比較的寛大(依贔屓)だったと思われました。三カ月の教育期間だけだ、「辛抱」して帰るのだと戦友達で話し、一生懸命訓練に精励しました。(p295)藤田

 部隊名は満州第九四四部隊で、部隊長は高森大佐、中隊長は堀中尉、私の内務班長は徳永軍曹で、五十人は五人ずつそれぞれの内務班に配属されました。・・・(p310)
 寝台に坐らされた私達に、内務班勤務の上等兵から班長殿はじめ古兵の紹介があり、種々の注意や説明が行われました。こうしていよいよ軍隊生活が始まりました。この日から炊事当番、不寝番、昼間の軍事訓練、夜は軍人勅諭の朗読、暗誦が始まり、間違えればびしゃり、返事の声が小さいとまた殴られ、古兵の怒鳴る声、八時からの点呼の時間の厳しさが毎夜続きました。私は青年学校で訓練を受けておりましたので仲間の人より叩かれることも少なくてすみました。私達は三カ月間山砲の特別訓練を受けました。
 軍隊の厳しさは覚悟して来ましたが、訓練の厳しさと古兵の厳しいしつけには、男涙を流すことも度々ありました。(p311)八山

 大村の歩兵第四十六連隊は、日露戦争時代から今日まで、歩兵部隊として、その精鋭さは評判の名門部隊でした。
 昭和十一年には満州東部国境に移駐し、関東軍の最強歩兵部隊として名声を博した部隊だから、訓練は厳しいぞと先輩から聴いてはおりましたが、入隊翌日から一月の寒い中、広々とした練兵場での教練は実に厳格でした。内務班での初年兵の大きな声での返事。一回、一回の申告。軍人勅諭の朗読。「馬鹿者!」と古年兵の叫ぶ声。次にはパンパンと叩く音、まさに男の世界でした。覚悟はして入隊はしましたが、その厳しさは予想以上でした。(p318)田浦

 馬舎より二百メートル位を早駆けで、点呼に間に合ったと思ったら服装検査、最後に軍靴の点検です。馬舎の作業後なので靴底に馬糞の付着しているのが見付かり、その軍靴を首に吊り下げ、各班を廻って申告してこいと命令で、三個班を廻って報告することもありました。
 食事当番は飯を盛り付けをする。下士官、班長、古年兵の順に盛り付けてゆくと初年兵の分が少なくなり、朝から腹ペコです。そして食事後はすぐ初年兵集合の命令が来るなど、これが毎日の繰り返しでした。(p370)三浦

 昭和十八(一九四三)年四月十日、戦争が激しくなる中で、福岡市の旧福岡城跡にあります歩兵第一一三連隊の補充隊に召集され入隊致しました。当時は南方作戦の激化の中でありましたために一期の検閲は三カ月期間が普通でしたが、私達は二カ月に短縮されました。それだけに訓練も厳しく、毎日二列に向かい合っての対抗ビンタで叩き合いました。入隊する時から覚悟して来ましたが、軍隊生活の厳格さは予想以上でした。叩かれ、男涙を流し、二カ月はあっと云う間に過ぎました。(p384)末吉
 
 自分は元の第三十一連隊であった北部第十六部隊第二中隊第五班に配属された。中隊長は金野中尉であった。新兵教育は翌日からであった。・・・
 三発を射った後何の指示もなかったので残りの二発をすぐさま撃った。撃ち方終わりと立つと「ビンタ」を二つ喰らった。往復ビンタである。突然のことで驚いた。五人が全員終了していない。自分が終了したら良いということは許されないと注意される。連帯行動が重視されるのが軍隊であると知った。しかし話より先にビンタとはこれも教練の一方法であると理解する以外になかった。(p436~438)熊谷

 私が軍隊に入ったのは、昭和十八(一九四三)年四月十日、久留米の野砲兵連隊へ初年兵として入営を致しました。(p416)
 次は内務班のことです。巷間伝えられるような苛酷な制裁、いじめはなかったが、内地にいる約三カ月の間、数回の対抗ビンタと称する初年兵が横一列に並んで向かい合い、前の者のビンタを取り合う悪い習慣を経験した。隣町出身の二年先輩の人で、中隊長の当番をしている、私を大事に可愛がってくれた人が、「ちょっとこい。あれを手伝え、これをせよ」と適当に隊内から外へ出してくれて、制裁、体罰、しごき等から外してくれて大変助かりました。何しろ、中隊長の当番が庇ってくれるので、誰も文句のつけようがない。(p417)久富

続私的制裁
 前に私的制裁を書きましたが、ビンタについては簡単でしたから少し詳しく書いてみます。まずビンタは手ばかりではありません。上靴ビンタ・帯たい革かくビンタ・編上靴ビンタ・銃じゅう床しょうビンタと、よくもまあ考え出したと思うくらいビンタの種類がありました。
 平手ビンタは頬がヒリヒリするくらいで軽いもの、ほとんどありませんでした。
 鉄拳(拳骨)ビンタ「足を開き、歯を喰いしばれ」と言われるとまずこれです。目から星が飛び散るほど痛かったです。ひどいと口の中が切れ血がでます。数あるビンタの中で一番多くいただきました。
 上靴ビンタ、上履きで叩かれるのですが、これが革でできていますから、頭がクラクラッとくるほど痛いです。
 帯革ビンタ、これは鉄拳ビンタ・上靴ビンタの上をゆくものです。上着の上に絞める厚い皮でできたバンドで叩かれますが、帯革の端が頬に当たると全身に激しい痛みが走り、頬はたちまち真っ赤に腫れ上がります。
 編上靴ビンタ、これはビンタの王様ですね。私は殴られたことはなかったが、気の毒で見ていられないほどです。体が横に飛ばされ、頬には靴底の鉄鋲(十三個)でへこみ、大抵口の中が切れ出血します。酷いと歯が折れます。
 銃床ビンタ、これはやられた同年兵から聞きましたが、銃の床尾板でゴツゴツとこづかれるそうです。勢いがつくと額が破れて血がタラタラと流れます。これは酷いと厳禁されました。
 対抗ビンタ、初年兵が二列横隊で向かいあい、お互い相手と殴りあうのです。寝食を共にし苦楽も共にしている相手ですから、自然に殴るのに力が入りません。すると監視している古参兵が「コラッ?きさまたち、お姫様やお嬢様のような殴り方をしやがって、殴ると言うことはこうするんだ」と、そばの初年兵を目の玉が飛び出るほど殴って見せます。そこで自分たちはお互い相手に「すまぬ」と心の中で謝りながら、力いっぱい殴るのです。対抗ビンタは精神的にも残酷なものと思っていました。
 とにかく私的制裁といってもこうして鍛えられて、一人前の兵隊になってゆくのです。古参兵たちも同じ道を経てきたものですから、苛めを主とした制裁は少なく、早く「やる気」を起こさせようとしてのことですから、相手の体に傷をつけないよう気を配っているように自分は思っていました。
 実は、自分はたった一度だけ鉄拳制裁をしたことがあります。部隊から九カ月間の通信関係の教育を受けるため派遣され、終了後部隊に帰ってきました。教育を受けているときは厳しい中にものんびりしたところがありました。自分の隣には初年兵がおり洗濯や掃除などをやってくれ、自分の初年兵のころを懐かしくも思っていました。
 班内は、のろまな初年兵に初年兵係上等兵が怒鳴り散らす。召集兵のおっさんがうろうろする。まったく騒々しい。その中で自分より半年後に入ってきた補充兵が上等兵になっていて、怒鳴り、殴るを毎日繰り返している。自分の隣の初年兵が殴られている姿を見てから、我慢の緒が切れ、わざと初年兵や召集兵が多くいる前で「おい、上田上等兵ちょっと来い」と呼び付けました。同じ上等兵でも自分が先任ですから威張ったものです。最初はおとなしい声で「おい上田、おまえな、ちょっとやり過ぎじゃないのか、見ちゃおれんぞ」といいましたら、「いやぁ、このくらいせんと如何んのですわ」との返事に、自分は声を荒げ「俺は見るに見かねて言っているんだ生意気言うな」と拳骨で往復ビンタを喰わせました。それから彼はおとなしくなりました。そのただ一度だけ。(p74~76)

 自分たち初年兵の衣服や手箱の整理整頓は特に厳しく、教練に出た後、週番下士官が銃剣術の木銃で、棚に整頓してある衣服や手箱をひっくり返していきます。そしてなお、敷布が少しでも汚れていると赤いチョークで大きな金魚の絵が書かれています。(金魚が水を飲みたい、つまり汚れているから洗濯せよの意味)こんなときは、もう大変です。ただでさえ忙しいのに余分な仕事が増えます。就寝して、しばらくしてからそっと起き出し、敷布をもって洗濯場に行きます。井戸からつるべで水を汲み上げ洗面器に入れて洗うのです。厳寒期の二、三月は鼻水をたらしながら洗うのですが、揉んでいるところ以外の水はたちまち薄氷が張って来ます。
 手は冷たさで、ちぎれるように痛み、アカギレの指からは血が噴き出して来ます。一分位するとたまらなくなり、股に濡れた手を挾んで強く揉み暖めます。それを繰り返しながら洗うのですが、やっと洗いは済んでも乾かす所がありませんから、寝台の藁布団と毛布の間に入れて、自分自身の体温で乾かすのです。寝られたものではありません。物乾場で干したものを盗まれて、員数合わせに泣かされたりで、どうしてこんな苦労をしなけりゃならぬかと、悔しい思いをしたことでしょうか。(p77・78)

 初年兵は時々、伝達ゲーム(当時は伝令といっていた)をさせられました。「本日我が軍は夜間、敵陣地に向かって切り込み突撃を敢行する」と一列に並んだ初年兵の小声で最初の者に言う。それを次々と伝えて行くのです。最後の者が大きな声で報告するのです。しかし最初の言葉とは全く違った意味の言葉になっていたり、違う言葉になっていたりで、対抗ビンタということになります。何回しても、きちんと報告できませんでした。(p79・80)河村

 私は、十七歳になったばかりの時に松山海軍航空隊第一期生に入りました。
 私の行った予科練、甲飛では、かなり叩かれ、かなり気合いを入れられております。予科練に入って還ってくるまでに三四〇~三五〇発、尻っぺたを叩かれております。それは海軍に行った人はよく分かると思います。ちょうど今の野球のバットと同じような棒が当たっております。ところが腰が脱臼したり、骨が折れたりしますか、と云うと、人間は気分が入ったら、それはしないのです。十六~十七歳の若者は、そういう訓練をしております。(p166・167)寺田

 南京から三千トン級の船に乗せられ、三日間で武昌へ着き、待っていた初年兵受領の下士官につれられ武昌からエツ漢線で汀泗橋に到着、鯨第二百三十四連隊第一大隊第四中隊に入隊致しました。正確には、第四十師団(鯨)歩兵第二百三十四連隊(連隊長戸田義直大佐)第一大隊(大隊長山崎幸吉少佐)第四中隊(中隊長山出政樹中尉)でした。・・・
 内地で受領した新品の被服は全部脱がされ、古いよれよれの物と取り替えられ、編上靴もピカピカの新品は取り上げられ、代わりに支給されたのは皮のザラザラの靴の中に釘が出ている古い靴でした。そこで毎日釘を叩いて、ひっこめて演習に参加していましたが、二週間位たつと左足の平と腿が腫れて痛くなり、大隊本部の医務室へ二週間の入室となって、漸く痛みもとれ退室して中隊へ帰りました。早速、班長から「気合が抜けている」とビンタの嵐でした。(p233・234)
 たまたま連隊本部から試験官が来て大隊から十五人の候補者が試験で選ばれ、さらにその中から五人の選抜の中に選ばれ、華容で二カ月の教育を受けることになりました。
 暗号教育の始まりです。いよいよ師団司令部へ出発するという前夜、申告をする段になり擲弾筒分隊長から注意を受けたことを私の小銃班長が怒り、イヤというほど地下タビでビンタをはられ、口惜しくてその夜は眠れませんでした。普段からビンタつりで有名な小銃班長でしたけれどあんなに叩かなくてもと腹が立ちました。(p235)菅野

 私は、大正八(一九一九)年、厚木市戸室に生まれ、昭和十四(一九三九)年十二月、甲府第四一九連隊第九中隊入隊しました。直ちに同年十二月二十三日、北支派遣により二十九日塘港上陸、河南省陽武にて初年兵教育を受けました。以降、冀南討伐作戦等に参加しました。(p284)
 六カ月の教育の間、同年兵にはいろんな人がおりました。博打ちもいるし沖の仲仕の人もいますが、これらの人とはすべて同列で、中で一人でも悪いことをすると全体責任として十三人全員が殴られる。それで気をつけないといかんということは、いつも心の中にあった訳です。ところが十三人の内務班の中で、班付上等兵が一人、班長が一人います。私の班の班長は、山形の魚屋さんで召集兵で、班付は一年先輩の上等兵、この二人が班についています。その二人の内一人は非常に育ちが良く温厚な方でしたが、ほかの一人、原田という上等兵は、地見屋をしていた人でした。
 殴るのはいいのですが、本人は笑いながらの教育をして、つい釣られて笑ったこともあるのですが、するとピンタが飛んで来る。酷い時には鋲付軍靴をスリッパにしたもので殴る。だから軍隊へ入るのだから歯を治しておかなくてはと治して軍隊に入って来た人も、ピンタで歯が飛び出したこともあると聞いていました。(p288)安藤
 
 昭和十五年六月二十五日、兵庫県加古川町の高射砲第三連隊に応召、入隊しました。・・・入隊前に噂に聞いた内務班の厳しさはそのままに健在で、私共新兵は苦難の毎日でした。当時はノモンハンの戦場帰りの古兵が威張っていて、毎晩上靴のカカト部分を握ってのビンタです。また洗濯物を干している間によく盗まれることがあり「よし!取り返してこい」と叱られるので、洗濯干場で盗みかえしたところを隣の班の見張りに見付けられて大失態。あっちで怒られこっちで叱られもう散々でした。本当にもう無茶苦茶な世界に入ったものだ。「とにかく辛抱辛抱。これを乗り越えること。一人前の兵隊になるのには並大抵ではない」と戦友同士いたわり合ったことを思い出します。(p420・421)吉川

 下関、釜山、山海関、杭州を経由して船や鉄道を乗り継いで中国浙江省金華に駐屯している第二十二師団歩兵第八十五連隊第三大隊第十一中隊清水隊に入隊しました。内地を出てから一週間目の一月十三日です。(p425)
 軍隊につきもののビンタは相当もらいました。初年兵で入った時には内務班には四年兵の一等兵がたくさん居りましたからシゴキは相当なものでした。学科の教育で軍人勅諭や各種操典の暗誦のできない者に対する罰は多種多様で目を覆う程でした。戦場における一致団結の精神を涵養する一方法だとの説もありますが相当疑問のある教育方法だったと思います。対戦車肉攻、対空射撃演習でも激しく鍛えられました。竹竿の先に凝製の手榴弾を縛り付け、古兵が天幕で造った戦車の模型に向かって砂利道に伏せて待ち伏せ、近づくと飛び起きて突っ込むのですが、タイミングが悪いと古兵に軍靴で蹴られる事もしばしばでした。(p427)長谷川

 私は山林業を主とした農家で八人家族の長男、徴兵検査官から「お前は泳げるか?」と聞かれたときに「浮かぶ位はできます」「そうか」と言われたので、あるいは海軍かなと予感した通りになりました。そして当時としては珍しく、大竹海兵団が創立されたばかりの時で、その大竹海兵団の第一期生として、まだ兵舎の壁が半乾きでした兵舎に入団しました。親父から入団前に軍人勅諭を覚えるよう言われましたが、海軍は五カ条の御誓文をたまに言わせられた程度で、陸軍とは全く違いました。
 一教班十八人が十教班で一分隊となります。新兵だけが教練を受ける三カ月間は想像以上にきびしく、特にカッター訓練は掌と尻に肉ま刺めができてつぶれるまでやらねば海軍精神注入棒が遠慮なく見舞ってきました
 海兵団の対岸にある宮島までのカッター競漕は一位になった班だけが食事にありつけるもので、他の九班には欠食という罰が待ち受けていました。それで月一回のカッター競漕は恐怖の的になりました。精神注入棒の他にロープを海水に浸したやつで尻を叩かれると棒以上に痛くて、愛知から来ていたお寺の息子は、そのロープで叩かれ、動けなくなって病院に入院してしまいました。「歯を喰いしばっれ!いくぞ!」の声と共に叩かれ、終われば「有難うございました」を言わねばまた叩かれる。風呂では青黒く腫れた尻の陳列で異様な光景でした。(p494)梶本

 私は、昭和三(一九二八)年一月五日、香川県さぬき市津田町津田で生まれました。海軍少年兵に志願して、昭和十八年七月一日、佐世保の「相の浦海兵団」へ入団しました。当時十五歳でした。そして十カ月間、特別教育を受けました。
 海軍の軍隊生活は予想以上に厳しい毎日の連続でした。何と言っても朝早く起こされるのが一番つらかった。叩かれることは挨拶と一緒で叩かれました。海軍はバッタでやられました。「軍人精神注入棒」で皆さん一緒だと思います。苦しい毎日を生き抜いて、一人前の軍人になれると信じて懸命に頑張りました。(p452)風呂
 
 昭和十九年五月十五日、多勢の見送りの人々に見守られながら、「御国の為に頑張って参ります」と勇ましく郷土を出発し、相浦海兵団に入団した。
 入団前から海軍の規律の厳しさと言うものは先輩の方からも聞かされていた。何事も絶対服従だと、びくびくせずに腹をきめて入団第一夜を過ごした。第二日目の昼頃だった。一人の兵隊が「ガラス」を破ってしまった。この者は「自分が破りました」と素直に言わなかったため上官の気分をそこね、そこにいた兵隊八人に「ビームにぶら下がれ」と言われた。「ビーム」とは吊り床を吊る鉄の鍵である。
  ぶら下がっている者の中で腕の弱い兵士が一番先に落ちた。「貴様はたるんでいる」と言いながらバッターを取り出し、「向こうをむけ!」「両手を上げろ!」と命じて、バッターを持って尻を二回程打った。打たれた兵士は、うなるような声を出して痛そうであった。そして上官は他の者に向かって「よーし下りろ、みんなようく聞け、お前達はこれから言うことを聞かないとバッターで思う存分打ってやる。一人二人たたき殺しても一銭五厘のハガキ一枚で来ているんだ。言う事を聞かないとたたき殺すぞ」と威嚇した。あとでそのバッターを見ると「海軍精神注入棒」と書かれていた。(p445)渡部

 同年十二月一日付で西部第五十一部隊、姫路第十師団野砲兵連隊・第四中隊四班(中隊長片山中尉)に入隊。一〇センチ榴弾砲の挽馬部隊であった。・・・
  内務班教育は舎外訓練以上に初年兵には厳しい。自分の身の廻りは勿論、二年兵(モサ)の世話、銃器の手入れ、班内の整理整頓、何一つ欠けても古兵殿の「イビリの対象」となる。それを軍隊では「気合を入れる」といって幾通りもの「ペナルティーの手法」がある。「ミンミン」「自転車」「寄っていらっしゃい」「三八式歩兵銃殿」「対抗ビンタ」と名称が付いていて、二年兵のリードで毎晩各班で競って行われるのである。
  一番矛盾を感じたのは「対抗ビンタ」だ、初年兵同士が向かい合って頬べたを張り合うが、二年兵が監視していて、良い加減にはできず、段々と真剣に殴り合いになる。奥歯を嚙み締めて眼をつむりながら(心の中では共に赦せると)まるで喜劇であり、かつまた悲劇そのものだった。脱落者のほとんどは、これらの制裁によるもので、我が中隊でも、一人放馬(営内から脱走)、一人自殺者が出たのである。(p476)柏井

 昭和十七(一九四二)年四月、私は現役兵として福井県鯖江歩兵第百三十六連隊砲中隊に入隊しました。鯖江歩兵第百三十六連隊と言えば、古くは日清・日露の戦争でも日本国に鯖江第百三十六連隊有りと名を轟かせた強力な連隊です。その平素の訓練教育の厳しさは入隊しなければ分からない。
 初めて経験するその無情の私的制裁、それは個人の失敗が結果的に全員の責任となり、思わぬビンタが飛んでくる。そして二、三カ月は一体何が原因で叩かれるのか悔しくて、床に入っては何度も泣き腹が立ちましたが、ただ我慢また我慢でした。(p116)松塚

  昭和十五年一月十日、京都深草の第十六師団の野砲兵第二十二連隊(現在、跡地は警察学校になっています)第十中隊に入隊しました。
  当時の師団長は有名な石原莞爾中将でした。私的制裁については特にきびしく禁止するよう命ぜられていました。
  三カ月後の一期の検閲めざして教練が開始されると同時に、内務のきびしい「しつけ」が始まりました。古年兵は奈良、兵庫出身が三年兵、三重、滋賀、奈良出身が二年兵でした。石原師団長の私的制裁禁止も表向きで、初年兵は教育という「しつけ」に泣かされる毎日でした。「鶯の谷渡り」「対抗ビンタ」「軍人勅諭の暗誦」「戦陣訓の暗誦」等々でした
  ある日の朝食を前に、二年兵が「ちょっと待て!」と二人で食卓を持ち上げて引っ繰り返し、私たち初年兵は欠食の上、跡片付け掃除をやらされ、食缶返納を駈け足でやり、教練整列の上、空腹抱えての早駈けには全く参りました。
  また食事当番で、炊事場前で食缶返納のための食缶洗いの最中に、残飯を手ですくって食べた初年兵が見付かり、炊事兵(万年一等兵がいた)にビンタをとられた事もありました。
  一番困った事は古年兵の洗濯物を洗って、乾かし場に乾かしていた洗濯物が誰かに盗まれた時は本当に困りました。古年兵に「盗まれました」と報告すると、ビンタを五、六発喰らったあと「盗られたら盗り返してこい」とどやされました。散々いじめられた末に員数外の物で補充してくれましたが、軍隊の不思議な一面を思い知らされたものです。
  また、ある日、陣営具倉庫(兵営生活上の用具を格納する)の掃除の使役に出ましたが、掃除の仕方が悪いと係の上等兵が怒り出し、初年兵を並べて台の上に立ってホーキの柄が裂けるまで兵の頭を叩くのです。台の上から叩くので兵の後頭部に当たり、その痛さに悲鳴が出るほどでした。洗濯物乾し場で盗られますと員数が不足で内務検査が通りませんので、他から盗んでこなければなりませんが、盗むところを見付かったらそれこそまた大変なことになります。初年兵では何とも策がありません、死ぬ程叩かれて勘弁してもらう以外ありませんでした。
  酒保には甘味品等が売ってありますが、そこは古年兵が占拠していて、初年兵が入っても売り切れで買う物がありませんでした。(p353・354)西村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_352_1.pdf

 入隊先は満州国の新京(長春)にある部隊で、固有名は関東軍第十二特殊無線隊で、秘匿名は満州第四九四部隊でありました。大連経由で新京に到着、南嶺にある部隊に着きました。
 部隊長は松岡隆少佐で工兵出身の方でした。部隊は二個中隊編成で、兵隊は三年兵が九州の炭坑夫上がりが主で、ノモンハン帰りの兵隊もおり、筆舌につくせない私的制裁に泣かされました。同年兵は皆、高等学校卒以上で理工科や通信技術者がほとんどでした。(p334)平野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_333_1.pdf

 父は福島県郡山駅まで見送るとのことで同乗しましたが、これまで二人共働きづくめで、旅に出ることも無かったので、父と別れてからどのようにして乗り継ぐのか分からなかったのですが、多少の予備知識が役立ち、「指令」通りに東部第五十二部隊(第九連隊)第三中隊(隊長小林貞治大尉)に無事入隊、陸軍二等兵となりました。
 体格が貧弱でしたから通信、駄馬隊の教育ではほめられたり叱られたりで、ビンタを喰うのが日常茶飯時のことでした。(p279)松川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_278_1.pdf

  十二月十二日、山海関通過、途中、班長から気合をかけられました。南京浦口から揚子江(長江)を遡航、船中で下士官ばかりの部隊と同乗しましたが、欠礼したとかで初年兵が下士官からビンタの洗礼を受けました。班長から「内地から来たばかりの新兵で、敬礼の仕方も教わってない状態なので何とぞ勘弁して欲しい」と謝ってもらい、一件落着したこともありました。(p274・275)上野

  昭和十七年十月十日、広島から中国呉松に上陸、十一月中旬、湖南省京山県に駐屯する迫撃第一大隊(永田部隊)に到着しました。・・・
  過去を振り返ってみて兵隊の時代に一番苦労というか切なかった事と言えば、私が一選抜の上等兵になって間もなく熱帯熱マラリアになり、四〇度の熱が出たので班長に「清水上等兵、熱発のため診察をお願いします」と頼んだところ、班長が「清水!貴様一ペンでも俺の所へ食事を運んだことがあるか!洗濯をした事があるか!」とビンタを喰わされました。勿論診察の申請は却下されました。余りの口惜しさに便所に駆け込んで泣きました。
  実は同年兵の一人が、班長への点数を上げようとして、班長の世話を独占していたので、他の兵隊は「班長の世話はあいつにまかせておけ」という状態になっていたのでした。私の診察はそういうことで班長には断わられましたが、衛生兵(六年兵)が申請してくれたので、そのお陰で診察を受けられ、入院し、大事に至らず治りました。班長は「えこひいき」が激しいので評判は悪く皆から敬遠されていました。(p234・235)清水

 翌年の昭和十九(一九四四)年六月十三日、群馬県の沼田の迫撃砲第一連隊に「入隊すべし」と教育召集令状を受け取った。・・・
 新兵の教育係は優しくて理知的な人だったが、軍隊のしきたりがあり、時には注意して殴ったり、またこんなこともあった。班内の防火用水に煙草の吸い殻が捨ててあり、初年兵を集めて「誰が捨てたか名乗り出よ」ときつく言われたが、誰も返事をしない。そのうち一人が「私が捨てました」と申し出た。「よし、お前は列外に出よ」と言い、残った全員に「歯を喰いしばれ」と、革のスリッパでビンタを取られ(殴られ)たこともあった。(p267)村井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_266_1.pdf

 武山海兵団より静岡県新居市の浜名海兵団にて新兵教育を終了しました。私共の教班長が人柄が良かった人で、大変助かりました。噂に聞いた数々の無情な苦痛を伴う制裁や躾は行われず、今から考えても苦労の種は無く、有難い事と感謝をするばかりです。
 勿論、海軍特有の精神修養棒はありましたが、直径が大きく、尻に当たった時の衝撃も緩和され助かりました。(p500)小檜山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_500_1.pdf


皇軍実戦における日本刀の能力記録

百人斬り事件に関連して、「日本刀は二、三人切ったら使い物にならなくなる」といった類の説があるが、本当だろうか。
以下、海軍大佐小泉久雄「 日本刀の近代的研究」昭和8年3月10日発行 の付録p23~26より抜粋するが、日本刀は物にもよるがそれなりに切れる、あるいは二、三人切った位では大丈夫なものがある、といえそうだ。


左に今回の上海事変に於ける我海軍陸戦隊将士の軍刀実用の成果並に之が改善意見を添記する。(本資料は剣友海軍砲術学校教官工藤海軍中佐より与へられたるもの)
一、軍刀実用の成果(表)
日本刀の近代的研究
   


兼定
長さ
尺寸
二―三―〇
反り 二、三分





切りし数


個所
肩一、 切れ味
突撃の瞬時二た太刀にて袈裟掛に切る、敵綿入を着用せしと片手打なりし為、完斬とは云ひ難かりしも間も無く死す。
首一、 切れ味
即死せしも完刎に至らず。
刀身の故障及其の原因 (一)物打辺より上方僅に湾曲せる如し。
(二)物打付込に長さ約一寸に亘り極めて浅き刃こぼれ。
(三)中央より少しく上方に深き刃こぼれ一個所。
(四)中央棟より鎬地にかけ敵の銃剣による切込み疵一個所。
所見及記事 制式軍刀の柄を、両手握りに足る程度に普通より長くせり。
深き刃こぼれは、敵兵の装具又は銃器等の金具に切り付けたるものならん。


兼正
長さ 二―三―〇
反り 六分



切りし数
個所
切れ味
極めて良。
刀身の故障及其の原因 なし。
所見及記事 夢中にて明瞭には記憶せざるも、手ごたえなく良く切れたり。
制式軍刀の柄にて稍短かく感ぜり。


兼利
長さ 二―三―〇
反り 二、三分







切りし数




個所
頭蓋骨一、 切れ味
抜打にて即死。
首三、 切れ味
一、は完刎。
二、は首ぶら下る。
肩二、 二た太刀にて絶息。
不明二、
刀身の故障及其の原因 横手下に大なる刃こぼれ一個所。
物打の下方約三寸計りに亘り刃こぼれ数個所。
所見及記事 刃こぼれは頭を斬りしとき出来たるものならん。
日本刀の拵の儘なりし為、活動中の敵なりしも、斬りたる後刀身に曲りを生ぜず。
一尺八寸位の刀が使ひよし。 

軍刀
兼勝
長さ 二―一―〇
反り 七分




刃味
切りし数



個所
左袈裟一、 切れ味
・右乳下迄達せり。

刀身の故障及其の原因
・袈裟掛は頭より手ごたえ無し。
左こめかみより右斜に頭一 刀身の故障及其の原因
・此のとき中央より稍上部に刃こぼれ一個所出来たり。
所見及記事 日本刀拵の儘使用す、後中心を検せしに鎺付近にて少しく曲れるを発見せり。

軍刀
和泉守
来金道
長さ 二―四―〇
反り 五分



刃味
切りし数

個所
右袈裟二、 切れ味
・極めて良好。
首一、 一刀にて見事に完刎。
刀身の故障及其の原因 袈裟切のとき少しく刃こぼれを生ぜるも、其の後切れ味変らず、極めて良好。
所見及記事 日本刀拵の儘使用し、突撃時にて手元多少狂ひし為、二人目の袈裟切にて刃少しく曲る。

軍刀
大永裏銘、
備前盛光
長さ 一―八―〇
反り 七分半

刃味
切りし数
個所 切れ味
・片手にて首四分の三斬る、刃味至極良し。
刀身の故障及其の原因 異状なし。
所見及記事 日本刀拵の儘。

軍刀 無銘備前高平折紙あり
長さ 二―一―八
反り 四、九分

刃味
切りし数
個所 切れ味
・切れ味至極良好にして首約四尺飛ぶ。
刀身の故障及其の原因 異状なし。
所見及記事 制式軍刀拵。

軍刀 備前長船
長さ 二―四―五
反り 不明

刃味
切りし数
個所 切れ味
・切れ味相当。
刀身の故障及其の原因 異状なし。
所見及記事 日本刀拵の儘。

軍刀 備前、長船佑定
長さ 二―一―〇
反り 不明








刃味
切りし数






個所
左肩より袈裟一、 切れ味
・右乳の処迄。
腕一、 切れ味
・完切。
右脚上部一、 切れ味
・斜に完切。
首三、 切れ味
・見事に完刎。
腰車一、 切れ味
・約三分の一切る。
刀身の故障及其の原因 何等異状なし。
所見及記事 想像以上に日本刀の切れ味良きに感心せり。
人体に骨ある如き手ごたえを覚えず。

軍刀 相模守国綱
長さ 二―三―〇
反り 一分


刃味
切りし数
個所
切れ味
・首殆んど切れ約五分厚位残る。
刀身の故障及其の原因 物打の四、五寸下より約一尺計の間に刃こぼれを生ぜり。
所見及記事 日本刀拵の儘使用。

軍刀 綱広
長さ 二―四―〇
反り 五分


刃味
切りし数
個所
切れ味
・何れも手ごたえ無き程度に完刎。
刀身の故障及其の原因 物打付近に少しく刃こぼれ生ぜり。
所見及記事 日本刀拵の儘使用。
切れ味予想以上なり。

軍刀 村正
長さ 二―三―五
反り 五分


刃味
切りし数

個所
首より肩にかけ二、
腹部刺突二、
切れ味
・切れ味予想以上。
刀身の故障及其の原因 異状なし。
所見及記事 制式軍刀。

軍刀 河内大掾正広
長さ 二―四―五
反り 五分


刃味
切りし数
個所
後頭部横斜め 切れ味
・約三分の一横に切込めり。
刀身の故障及其の原因 切先より刀身の約三分の一及同三分二の処に横に折れ目を生じ使用不可能となれり。
所見及記事 本刀身は表裏に樋ありし為強味足らざりし為ならん。
(寛文三年裏銘あり)

軍刀 肥前吉国
長さ 二―四―〇
反り 五分半


刃味
切りし数 四二

個所
後頭部横斜め主として首其の他各部 切れ味
・切れ味至極。
刀身の故障及其の原因 何等異状なしと雖、骨を切りしときの痕かと思はれ刀身の物打の部に白らけて見ゆる部あり、
所見及記事 数本の日本刀による切れ味に比し極めて良好なり。

軍刀 吉宗
長さ 二―二―〇
反り 不明

刃味
切りし数
個所
切れ味
・肉一寸位残る。
刀身の故障及其の原因 刀身中程より上部約二寸位の間刃こぼれを生ず。
所見及記事 新刀元禄頃のものか。

軍刀 加州 清光
長さ 一―七―九
反り 三、八分

刃味
切りし数 数人
個所
頭部、首を斜めに 切れ味
・切れ味極めて良好。
刀身の故障及其の原因 鋒より五寸位の処に刃こぼれを生ぜり。
所見及記事 白鞘の柄に糸を巻き使用に便す。

軍刀 源 良近
長さ 二―二―六
反り 六分半



刃味
切りし数


個所
首一 切れ味
・皮一枚残り頭前に落つ。
首前より抜打 切れ味
・半分切れたり。
刀身の故障及其の原因 抜打ちの際、物打二ケ所ふくら一ケ所、鋒先端一ケ所刃こぼれを生ず。
所見及記事 制式軍刀の柄に木綿裂を二重に巻く。
刃こぼれを生ぜしは突嗟の場合切り方不如意による。

軍刀 無銘
長さ 二―五―一
反り 五分


刃味
切りし数
個所 後頭部 切れ味
・約三分一切れたり。
刀身の故障及其の原因 切先より約五寸の間に無数の刃こぼれを生ぜり。
所見及記事 日本刀拵の儘。

軍刀 無銘
長さ 一―九―〇
反り 不明


刃味
切りし数

個所
首三
外袈裟掛
唐竹割等。
切れ味
・切味相当。
刀身の故障及其の原因 鋒より四寸位の処深さ最大一分最小二厘位の刃こぼれ数ケ所に生ぜり。
所見及記事 日本刀拵の儘。
充分直さゞれば其儘にては実用覚束なし。

軍刀 無銘
長さ 二―三―〇
反り 六分



刃味
切りし数


個所
首一 切れ味
・十分の九切れ下る。
同一 切れ味
・完刎約三尺飛上る。
刀身の故障及其の原因 中央部刃二三個所刃こぼれを生ず。
所見及記事 日本刀拵の儘。

軍刀 新村田刀
長さ 二―二―〇
反り 五分

刃味
切りし数
個所 首斜上方より切下ぐ 切れ味
・日本刀殊に前記清光に比し切れ味不良。
刀身の故障及其の原因 鋒下三寸位より刃の方に曲り、後直して鞘に納めたり。
所見及記事 日本刀に比し刀味、丈夫さ劣ること大なり。

軍刀 新村田刀
長さ 二―三―〇
反り 不明


刃味
切りし数
個所 首二
袈裟一、
唐竹割一、
切れ味
・何れも切れ味割合に良し。
刀身の故障及其の原因 切先より六寸位の所に深さ八厘位の刃こぼれ、唐竹割のとき鋒より五、六寸の処に刃こぼれ及刃部にまくれたる処四ヶ所を生ぜり。
所見及記事

軍刀 新村田刀
長さ 二―二―五
反り 四分

刃味
切りし数
個所 切れ味
・良好
刀身の故障及其の原因 鋒より七寸位の処にて曲りを生ぜり。
四人位迄は刃味変わらず。
鎺元曲る。
所見及記事 鎺元曲れる為護拳がたがたとなり後端はずれ使用上甚不便なりき。

軍刀 新村田刀
長さ 二―一―〇
反り 五分



刃味
切りし数


個所
首一、 切れ味
・気味良く切る。
頭蓋骨一、 切れ味
・相当の手ごたえあり。
刀身の故障及其の原因 二個所に多数の刃こぼれを生じ、頭蓋骨を切りたるとき刃の方に曲れり。
所見及記事 曲りたる為鞘に納まらず。

特攻隊は志願・指名(命令)どっちだったのか

以下、志願ではなかったと読める証言例

 その年の七月、福岡の自動車試験場で運転免許を取得する。さあこれからバスの運転手だと、大喜びしたのも束の間、十日も経たないのに一銭五厘のハガキで入営通知が来た。腹が立つやら情けないやらで夜も寝られず、残酷極まりないと、歯ぎしりしたが仕方がないと思い、これも御国のため、滅死奉公だと考え、その三日後、熊本県水俣の暁第一六七六〇部隊に入隊した。
 入隊当日はいろんな手続き等、古兵が優しくしてくれた。軍隊とはこんなものかと思いきや、「お前達は今日から陸軍船舶二等兵である。お前達の身に着けいる軍装品は皆、恐れ多くも陛下がお貸しくだされた物である。絶対に粗末にすることは相ならん」と厳しい訓示である。翌日から起床と同時に左右の古兵六人の世話、食事、演習、教練、手旗信号、海上訓練と日々休む間もない猛訓練の明け暮れであった。
 三ヵ月の訓練、検閲を終え、陸軍一等兵に昇進、間もなく、我が部隊も南太平洋方面に出動する命令を受けた。日本海、東シナ海を南下することは分かっていたがどこへ行くのか見当がつかない。ダイハツ舟艇(上陸用)には七隻の舟艇を積んでいて、その舟艇は二人乗り組みで舟の先端に爆雷を抱え、敵艦へ全速八〇マイルで近づき、前方五〇〇メートルでエンジンストップ、その惰力によって敵艦にぶち当たり沈没せしめる。言うなれば人間爆雷艇である。戦況は著しく我が方に不利、元々海軍の仕事であるが海軍に任しておれぬと、陸軍が肩代わりした部隊である。戦艦「大和」が沈没し、いよいよ我々の出番になった。
 着いた所は南西諸島の与論島であった。(p126・127)

 帰った途端、懇ろにいたわってくれるどころか、「お前らは死に場所の戦場に行きながらみすみす死に損ないである、本日より食事当番を命ずる」と、帰ったのが不足そうに言われる始末。(p128)米重
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_124_1.pdf

 こうした教育期間のある夜、区隊長から喚問がありました。何事かと案じて伺ったところ「手銭候補生は次男となっているが?」との問いに対し、私は「戸籍上は次男となっていますが、長男は夭逝して実質上は長男です」と答えました。区隊長のお話によると挺進特攻隊要員の選考中だとのことでした。挺進特攻隊は四船艇で敵の艦船に近迫し、爆雷攻撃が目的の特攻隊であり、中隊から十人ほど選考され、私は除外されました。この特攻隊は沖縄、比島戦で実施されましたが、敵艦船に近迫するまでに撃沈され成功例は少なく、後は斬込隊に変わった者が多くいました。(p31) 手銭http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_028_1.pdf

 それからも飛行機訓練を続けておりましたところ、ちょうど昭和二十年二月二十日頃、内地が危なくなったので貴様らは全て特攻隊要員として内地へ帰れという命令が出たのです。私らは台南からフィリピン方面へ転勤すると思っていたのですが、ここで内地へ帰れいう命令でした。(p578)小峠http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_575_1.pdf

  数日後、豊橋海軍航空隊に配属となり、豊橋基地にて勤務をしておりました。同年七月、再び横須賀海軍水雷学校に転勤になりました。ここでは海軍第一震洋隊特別攻撃隊、父島方面特別根拠地隊、大蝶部隊が編制されておりました。総勢一八〇人で、北は樺太、南は沖縄まで、各県よりの集まりの部隊です。お互いに言葉が良く分かりませんので苦労致しました。
  第一震洋隊とはどんな攻撃隊か知りませんでしたが、夜になると毎日のように軍港で出撃訓練です。よくよく見ればベニヤ板の小さな舟でした。舟の長さ五メートル、幅が二メートル位で、前部に二五〇キロの爆弾を搭載して、敵艦に体当たりするとは、何とも理に合わないことだと、私は心の中でつぶやきました。それでも国のためと皆頑張っておりました。この小さな舟は◯四艇と名付けられておりました。(p187)菊地
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_186_1.pdf
 
  昭和十九年一月、「神雷部隊」第七二一海軍航空隊が開隊された。この部隊は、戦局を挽回する作戦部隊で、人間ロケット爆弾「桜花」を主戦兵器とした特別攻撃の専門部隊であった。全国の練習航空隊の教員や戦地実戦部隊より「桜花」搭乗員を集めたもので、詫間空からは、甲飛第十二期の吉田稔君と私が行くこととなり、別れに司令より短冊を貰った。
  その短冊には、惜別の詩が書いてあった。
『神のます琴平山の松風に声うちそぶる空の神兵』
とあった。
  横浜まで二式大艇で送られるという破格の待遇であった。特攻隊員を出さざるを得ない苦衷の配慮だったと思う。保田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_162_1.pdf

  過日、航空本部の高級将校が来て、B29最初の来襲に際し、体当たり戦闘隊募集に「熱望」と書いた我々は残り、「希望せず」と書いた者が先に行かされました
 その後昭和二十年二月末、壬生教育隊は閉鎖され、最後まで残った教官十人のうち我々五人は、仙台霞の目飛行場に転勤させられました。そして数日後、特攻隊の募集があり、今度は再び「熱望」 と書いた私と大塚少尉の二人が隊長室に呼ばれま した。
 そして「現在教育中の部下から操縦成績優秀な者を四人選び、六人編成で二隊編成せよ、追加の将校二人は後日指名する」とのことで、霞の目基地最初の特攻隊として翌日から凄絶な特攻訓練が 開始されました。
 私の隊と大塚少尉の隊が仙台市霞の目基地最初の特攻隊として編成されたのです。約二週間後、 今度は希望を聞くことも無く、指名で後続の六隊が六人編成で組織され、八隊四十二人が残留し、 主力の約百人は北海道八雲基地に移駐しました。 残留特攻部隊は足立大尉を隊長として連日、日夜を問わず猛烈な急降下体当たり訓練が続行されました。(p586・587)中丸
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_582_1.pdf

その後、南方方面の搭乗員は全員特攻要員とな りました。そのうちボツボツと内地帰還命令が出 て帰国しだしました。つまり本土決戦のために特攻要員として帰るのです。(p560)小林 
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_557_1.pdf

  機付長もいなくなって一カ月近く過ぎていたが、 整備隊長、機付長から何等の命令もなく、機付兵 の任務を田中君と二人で全うしていた。沖縄本島が玉砕したとの報を本部通信兵の上島兵長より聞 き、いよいよ本土決戦が近いことが身近に聞こえ てくる。」操縦士は総て特別攻撃隊に編成され(待 機特別攻撃隊・振武一七五~一七八隊)に編成さ れていることを知ったのは八月初め頃だったと思う。(p279)佐野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_275_1.pdf

三月初めには特攻隊の話が出ました。三月十日、特攻隊の編成が始まり、私も特攻隊員に任命されました。藤川大尉が隊長で「藤川特攻隊」が編成される。来るべきものが来たという気持ちで特に考えることもありませんでした。同期の鈴木と同じペアで戦えることも良かった、と思いつつも特攻隊員となっても何も変る事もなく訓練に励みました。一人でいると特攻のことを考えるので熱中できる事を、いろいろ考えます。酒もタバコも自由でした。(p421・422)浅野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_420_1.pdf

  ここで、次のような諫早の司令の訓示、「沖縄戦は終決し、いよいよ決戦はここ九州になる可能性が大である。ところで貴様達は本来所属すべき隊はここではなく、東京航空隊であるべきで、ここ九州の守りの部隊は間に合っているので来る六月三日をもって東京航空隊に転隊を命ず」と言い渡しがありました。・・・
  霞ケ浦分遣隊に到着後、私は中間練習機で特攻隊に編入されました。「中練特攻」これが私が特別攻撃隊になった時の乗るべき機種でした。・・・
  着いて翌日、一人一人中練機の前席に乗り慣熟飛行テストがあり、其の結果、私を含め二十五人が中錬特攻要員として飛行場の反対側にある朝日村に行くことになりました。(p162・163)安藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_150_1.pdf
同一人物の別の証言
  大村海軍航空隊諫早分遣隊から東京航空隊霞ケ浦分遣隊に転勤を命ぜられ、諫早に十五人(うち一人病死)を残して百五十人の者が隊門を出た。   ・・・
   「中練特攻」これが私が特別攻撃隊になった時の乗るべき機種で、台湾で散々乗り尽くした九三中練のことである。着いて翌日、全員飛行場に集まり飛行服を着せられて、一人一人順番に中練機の前席に乗り慣熟飛行テストがあった。その結果、私を含め二十五人が中練特攻要員として選ばれ、他の者はこれから開発される機種のために待機することになり、飛行場の反対側の朝日村に行くことになった。
  特別攻撃訓練は当初、昼間から始まり、薄暮となり払暁となった。霞ケ浦の飛行場は中央に指揮所と格納庫があり、周囲が草っ原でどこに向っても飛び上れる飛行場であった。(p125・126)安藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_125_1.pdf

 戦局はいよいよ南に北に厳しくなり、我が軍の不利が伝わるころ、水上警備隊の基地では斬り込み隊用の軍刀が製作されていました。乗艦する艦もなく、そこで二十五歳以下の独身者で特攻隊が編成されたのです。 名前は 「南天特別海軍攻撃隊」と命名されました。長さ六メートルの内火艇に二トンの爆弾を積んで暗夜に乗じて敵艦に襲撃を加えるのです。当時でも電波機器など優秀な兵器がある中で、まことに粗末な攻撃手段と思いつつも、統帥部の命ならばと頑張りました。(p101)畑
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_098_1.pdf

当時、村役場の兵事係であった父の命令で、私は進学を変更し予科練甲飛十三期として三保海軍航空隊(昭和十八年十月第一期生千百人)に入隊した。
 基礎過〔ママ〕程十カ月を終え、操縦専攻三十九期(峯山航空隊)として練習機で搭乗訓練、編隊飛行や宙返り等をマスターし単独飛行もOK(二十年八月)、次の実用機課程へ進学の運びとなっていた。
 時の戦局は米軍が比島を奪回し沖縄に迫りつつあり、連日、神風特攻隊の死闘が繰り返される状況となっていた。我々予科練生とほとんど同時期に入隊した予備学生十三期の多くは、基礎教育を短期で終了し、既に実戦部隊として特攻作戦に参加していた。
 相次ぐ飛行機の消耗戦の続くなか、軍部は遂に低性能の九三式練習機の参加を企画、我々がこの作戦に加えられることになった。 (p166)矢部
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_165_1.pdf 
同一人物の別の証言
戦局が切迫しつつあるので、すべての練習を止め、全航空戦力を特攻作戦に展開せよということである。
 峰空保有の飛行機にあわせて、特別攻撃隊員九十人が第一次選考された。・・・
 第二次編成の私達三十人は、山形県神町基地に着任した。直ちに特別攻撃態勢継続の通達があった。一部の者はロケット特攻機「秋水」要員に抜擢され「桜花部隊」へ転出した。(p502・503)矢部
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_499_1.pdf

私も昭和十九年七月、予科練の試験を見事合格、九月四日、岐阜垂井の美濃一宮南宮神社で武運長久のお守札を頂き、滋賀県大津市滋賀里の予科練、滋賀海軍航空隊に入隊しました。ここで昭和十九年九月から二十年三月までの六カ月間の基礎訓練を受けました。・・・(p647)

 昭和二十年三月、六カ月間の教育が修了し、全員の適性検査が有り、「操縦」と「偵察」に分けられて、それぞれ八個分隊に編成されました。「操縦」は操縦桿を握るだけ、「偵察」は通信連絡と爆弾投下等が任務で、私は「操縦」でしたが訓練用の飛行機は一機も有りませんでした。
 昭和二十年四月、宮津市の海軍航空廠水上飛行機修理工場に研修に行きました。ここで初めて飛行機に触れることができました。潮風にさらされ たプロペラを拭くくらいでしたが、整備に行った他の連中は電気系統や油圧系統等の重要部位の修理に当りました。それでも三カ月でしたが飛行機 に触れただけでも幸運でした。
 宮津の研修が終わり、七月横須賀の特攻隊、第七十一嵐部隊伏竜隊に配属されました。七月二十七日、滋賀里発、東海道線で大船で乗り換え、横 須賀久里浜の久里浜工作学校に着きました。本部は工作学校にあって、そこに寝泊まりして訓練を受けました。赴任の途中汽車の中から、一宮や名 古屋等、沿線の焼野原を見て空襲を知りました。「伏竜特攻隊」とはどんな隊だろう、選ばれた誇りと不安が入り交じった複雑な心境で、久里浜の 隊に行きました
 ここには憧れの特攻機も、船も無く、予想に反して潜水服を着て海に潜る訓練でした。海底工事に従事する人達が着用する潜水服姿です。海中は 冷えるので分厚いメリヤスの肌着を着て、ゴム製の潜水服、頭は鉄火面の様なヘルメットをかぶり、鉛の板草履に胸に鉛の錘を付けて、水深五~十メートルの「海底で伏したる竜の如く」待機し、攻めてくる敵上陸舟艇目掛けて竿に付けた爆薬を突き上げる。
 一人良く百殺、自分自身が秘密兵器「伏竜」であるわけです。海中で前後左右に、自由に行動するまでには大変な訓練が必要で、器具の使用法や 呼吸方法を誤ると死んでしまいます。訓練中にも多数の犠牲者が出ました。今思えば全く漫画的ですが、何の疑いも無く必勝を信じて訓練に励みました。毎日が死と隣合わせの訓練でした。(p650・651)川合
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_647_1.pdf

 それから私は旧国鉄の小倉工場の工機部旋盤の職場に配属されていたが、当時国が公募していた「陸軍船舶特別幹部候補生」を受験した。
 最年少の志願兵として、ひたすら純粋に国のためにと応募したものである。そして合格、中学三年生、十五歳の時であった。その日は寒風と共に雪が降りしきる冷たい朝であった。
 上陸した港は、『二十四の瞳』で今はすっかり有名になった観光地の小豆島土庄港、そこには我々若者を待つ、その名も若潮部隊があった。昭和二十年二月のことである。
 入隊式の食事に赤飯が支給されたと思ったら「こうりゃん」入りの飯であった。陸上訓練は当然ながら船舶兵科必須の手旗信号、機関学、気象 学、船舶舟艇の訓練などが寒風を突いて行われ、精神修養も合わせてなされた。
 やがて原爆の地、広島の沖合にある江田島の幸の浦の特攻教育隊に転属し、明日への生命も知れぬ特攻隊隊員として教育訓練を叩き込まれました
 私達の艇は「甲四型肉迫攻撃艇」と言い、船体はベニア板、エンジンは自動車用であった。これに爆雷を搭載し夜間敵の停泊地に侵入し、艦船に体当たり撃沈するという戦法である。
 軍秘上、連絡艇の頭文字をとって、「マルレ㋹」と呼んでいた。一通りの訓練を終え、本土決戦に備え、海上挺進戦隊として各地に展開していった。(p472・473)角谷
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_472_1.pdf

 昭和二十年三月、硫黄島、それから沖縄へ米軍上陸。私は下志津へ帰隊し、百式Ⅲ型に搭乗する。この時点で、第十飛行師団の全搭乗員は特別攻撃隊員となる。「神鷲隊」は沖縄特攻、「振武隊」は関東防衛である。「神鷲隊」の連中は、下志津で連日特攻訓練に徹す。訓練が終わった攻撃隊は六機編成で当隊から誘導機に先導されて、目的地に向かうこととなった。
 出陣が決定した隊員は個室を与えられ、出入口には御幣を張って、生き神様として処遇されたのである。私も出陣式に立ち合ったが、出撃に際し、特攻隊員は飛行場で別れの宴を張る。我が師団からの初めての出陣式には賀陽宮殿下、片倉飛行師団長も出席され、恩賜の酒と煙草が配られ、一人一人と挨拶を交わされ激励をされたが、その場の雰囲気はさほどの緊迫した悲壮感は無かったと記憶しています。(p480)柏井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_472_1.pdf

 そして「香港島へ上陸」との命令で上陸した時には上等下士官より、機関兵は「人間魚雷艇に乗るんだ」と命令されました。私の知っている方で、上等兵曹の田畠さんという方が、敵の軍艦に体当たりしました。敵艦は平気で沈みませんでしたが、田畠さんは戦死してしまいました。
 私は命令を受け人間魚雷に乗り込むべく待機して覚悟をして順番を待っていましたが、魚雷艇を積んだ輸送船が途中で沈没し、乗るべき魚雷艇が到着せず、待機待ちで終わった次第です。人の幸・不幸と生死は、このようにして変化したのでした。
 私も真珠湾攻撃した方と同じく特攻隊の一員です。・・・(p548・549)石川http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_546_1.pdf

 六月中旬、先任教員より突然「総員整列!」の号令が発せられた。一日の作業終了時を狙っての鶴の一声である。
 掘っている穴の上の台地の平らな所に集合。「誰かミスをしたのかな、久しくなかった罰直でも始まるのかな」と思いながら、指示通りの横一線に並んだ。今から何が始まるのか不安と緊張感が入り交った一刻が過ぎ、総員がそろったのを見届けた先任教員は、「内科で入室以上の診断を受けたことのある者は、帰ってよろしい」と口を切った。これで何人かは帰途についた。
 次にどんな言葉が出てくるのか、まだまだ緊張が続く。ついで「一万メートルを泳ぐ自信のある者は、一歩前に出ろ」。 こう言ってジロリと一瞥。常日ごろの鋭い眼差しが、今日は更に鋭さが増して見える。
 先任教員が、あまりにも唐突に、(一万メートルを泳ぐ自信)と言い出したので、私自信も咄嗟の判断に迷った。(この山の中で、泳ぐとは何事だ。一万メートルは泳いだ経験はないが、泳いで泳げんこともないだろう。それに、この山の中で 今すぐテストをする訳でもないだろう。海軍に入る前に、近くの海でタップリ遠泳したこともあるので、何とかなるだろう)こう断定しながら一歩前に出た。時間にして十秒ぐらいだったと思う。この問いかけに一万メートルを泳ぐ自信ありと、一歩前に出た者は十人余りだった。
 先任教員は、一歩前に出た者の顔を確認して、「前に出なかった者は、帰ってよろしい」と令を下した。「ワァッー」と歓声を上げ、一斉に山を下りて行った。残ってもろくなことのないのが、今までの通例であった。(あとはバッタか、前支え)の罰直しか残っていないからだ。まして鬼の先任教員の前から逃れるのだから、歓声を上げる嬉しさも理解できる。 「お前たちはよく残ってくれた。この中から特攻隊行きを選抜するから、後ほど教員室に来るように」と、手短に告げ解散を命じ、総員整列から解放された。(p119・120)中村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_111_1.pdf

 坂伍長を書いたので特攻に触れてみたい。これは戦争体験者にとっては避けて通れない命題なのである。
 坂伍長が我々の教育隊からただ一人特攻隊員に指名されたのには、次のような学校幹部の思いがあった。
 「栄誉ある最初の特攻隊員を拝命する者は、当校の最優秀候補生でなければならない」 (p193)

水野芳衛大尉(飛行第五十四戦隊所属、戦後航空自衛隊操縦教官)の述懐。
 「勇躍志願した者も、志願せざるを得なかった人も、生きて帰ってくる事のできない特攻という行為に、皆苦しんだに違いありません。・・・(p194)平野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_189_1.pdf


皇軍実態集 体罰・私的制裁(1)

皇軍実態集 体罰・私的制裁(2)
皇軍実態集 体罰・私的制裁(3)
皇軍実態集 体罰・私的制裁(4)

 約一週間して、姫路の野砲第五十一部隊より、朝鮮平壤の野砲兵第四十七部隊へ転属になりました。(p364)
 昭和十九年七月より昭和二十年一月までが新兵教育の期間でした。話によく出るビンタの件については、衆知の通りで、私も新兵相応の仕打ちを受けました。でもよく考えると、私の場合は皆の者より少ないと思って居ます。良い先輩に恵まれたお陰のようでした。知り合いの班長や将校がいるとの理由だったようです。馬の世話、ビンタと運のよい状態に恵まれて本当に幸運であったと感謝しております。(p365・366)樋口
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_364_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年徴兵検査を受け、第一乙種合格。昭和十九年四月一日、兵庫県丹波の篠山の中部第一一〇部隊へ現役入営しました。(p386)
 内務の方では、私達の同年兵に、Kと言う者がいました。ちょっと動作がノロいので一等兵のワル三人組の攻撃目標となり、可哀想に地下足袋の裏で叩かれて、頬が真っ赤に腫れ上がり見るも無残なことでした。軍隊はよく運隊とも言われます。K君は運悪く、運の弱い方になって気の毒でした。朝夕の点呼もあったのに、将校や下士官は一体何をしていたのかと他人の事ながら義憤を洩らす戦友も多くいました。ちょっとしたミスが出ると分隊全体のミスと認定され、ビンタ、対抗ビンタは始終のこと。まあそれ位なら辛抱せにゃ。(p387)西谷
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 四月一日、我が町から五人が豊後森駅を出発し、佐世保海兵団に向かいました。海兵団での三カ月間の訓練は厳しいそのものでした。顔を叩かれ尻を叩かれ、口惜し涙を流すことも度々でしたが、志願して来た以上なんのくそと唇を噛みしめ頑張りました。(p439)武藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_438_1.pdf

・・・俺は九州男児、薩摩健児だぞと胸に刻み、新田原の西部第一〇一部隊の営門をくぐりました。
 私は第八中隊に配属されました。中隊長は森山中尉殿で、私の班は第二班で班長は原軍曹殿でした。説明を聞いて分かりましたのは、この部隊には第一中隊から第八中隊まであり、歩兵、自動車そして私の属する航空班と分かれて訓練されるとのことでした。歩兵が三個中隊、自動車隊が三個中隊、航空隊が二個中隊あり、入隊者が多かった理由が分かりました。
 入隊翌日から厳しい訓練が始まりました。九州男子の多い部隊だけに、気合が入り大きな声で叱り、叩かれるビンタの音、内務班での軍人勅諭の暗誦、訓練は九七式重爆撃機の巨大な整備訓練、話には聞いておりましたが、教育の厳しさは大変でした。敏速な行動、大きな声での発声と返答。男の世界の厳しさについて行くのに一生懸命でした。
 日曜日に面会に来た母は、私の手のひび割れを見て「こんなに手が荒れて」とやさしく撫でてくれました。「皆同じだよ」と答えました。自分の家では何一つ水仕事をさせられたことがなかっただけに、びっくりした顔でした。持参してくれた餅は、毎日腹をすかしている私には何よりも嬉しい贈り物でした。ここで食べると分けてやらねばならないので、私はお礼を言ってそっと食べるそのおいしさ、食べながら母の温かい親心に感謝しました。
 毎日叱られ叩かれ三カ月の教育訓練はあっと言う間に過ぎました。(p455)

十八日には、アメリカ軍がさあーっと飛行機で飛んで来ました。流石に早い。上官との話し合い が始まり、私達は身の廻り品を持って近所のお寺に移動しました。この寺に兵役解除の十月三十一日まで待機させられました。その間残務整理として使役に使われましたが、敗残の心の傷跡は、私達の作業にも現れ、伍長殿から「足を踏ん張れ」と言うやいなやバチリと顔を殴られました。「初年兵兵長、伍長殿に殴られて」と笑われましたが、今も忘れることはできません。(p461・462)倉野
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 昭和十八年四月十日の第四十七連隊入営は、第九中隊第三班の軽機関銃班でした。
 六月の中旬、宮崎県の都城の西部第十七部隊へ移る。九月の終わり頃一期の検閲でした。やっとどうにか兵隊らしく成長しかかっていました。
 下士官候補者の試験に合格。西部軍教育隊へ入隊。下士官候補者として、物凄い猛訓練を受けました。私独りであったなら余りの厳しさに落伍敗退したでしょうが、沢山の同年兵がお互いに励まし合い、切磋琢磨し、何くそっの闘魂を燃やして頑張り合い耐え抜きました。訓練の外に平手打ちのビンタを受けた回数も、もう目茶苦茶に多くて、いかなる目的でビンタをとるのか意味不明でした。またあまりの苦しさのため疲労昏睡して、入院の末死亡した不運な戦友も数人いました。まさに地獄そのものでした。
 この非常な試練を克服した経験は現在八十二歳と老齢化した私の人生航路における最高最善の収穫であったと信じています。現在の若い世代の人、昔のあの「人の嫌がる軍隊生活」の体験のない若い人達に諺にいう「艱難汝を玉にする」をよくよく噛み締めて考えて貰いたいと切望します。教育隊の所在地は熊本黒石原でした。(p470)広瀬
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昭和十八年徴兵の現役兵が入隊した三カ月後の夏頃「昭和十八年七月十五日入隊。所属部隊、船舶工兵第三連隊。場所、台南市安平」と記載され た召集令状が届けられました。・・・入隊先は船舶工兵連隊の独立第三連隊第三中隊五所班でした。班長は五所と言う人で大分県生まれの柔道三段の猛者で、階級は伍長で、私より二歳位上であったと記憶しております。班には、外に上等兵二人と一等兵(通称古兵)二人が配属されておりました。
 我が班の悩みは、上等兵二人が班長より軍隊歴即ち飯の数が多いので、班長が遠慮しているのをいいことに教育係と称して「しごき」にかかる。やれ「声が低い」「整理整頓が悪い」「上級者の靴の手入れが悪い」等々。その都度全員に連帯責任と称してビンタが加えられました
 他の班に負けると、時にはスリッパでの制裁が加えられ、目から火の出ることもある。上級者は都合が悪くなると「天皇陛下……」と言って直立不動の姿勢をとらせて威圧する。当時の軍隊は戦争という雰囲気の中で、各班の対抗意識が厳しい状況を常に醸し出すのが絶対必要な世界だけに我々はなじめなかった。この被害を最小限にとどめるには、先輩に教えられた「要領を本分とすべし」を心掛けることだと実感しました。
 こうして毎日が叱られ叩かれの厳しい訓練が繰り返され、服従と忍耐の毎日でした。訓練は、午前中船舶工兵としての訓練があり、その後、指名により船舶関連の専門分野の訓練が引き続き行われました。訓練は短期教育をめざしているので、時には鉄拳制裁があり、初年兵は必死で覚える努力をしました。(p482~484)竹下
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 昭和十七年十月一日、滋賀県大津陸軍少年飛行兵学校へ入校し軍人生活の第一歩に入りました。私達は少年飛行兵の第十五期生で、大津学校の第一期でした。人員は一個中隊二百五十人で、四個中隊編成でした。十五歳、十六歳、十七歳と三カ年にわたる少年兵でした。学校内の躾は厳しかったです。基本教育は歩兵の新兵教育と同じ、軍事教練をみっちりと受けました。班長の愛のビンタは激しく、少年兵同志はお互いに励まし合って、「何くそ、頑張れ」と気合を入れました。(p492)
 日中、営庭へ黒板や腰掛けを出しての学科がありました。天気のよい日、ポカポカと暖かい日は最初は緊張していても、ついウトウトとします。目は次第に上瞼と下瞼がくっついてしまう。長い竹を持った古兵どのが後から頭を思いきり小突く。ハッとして目を皿のようにしてまた講義を聞くのですが、さあ大変、日中はそのままどうにか過ぎても、日夕点呼後、班長殿が下士官室へ帰られると、古兵殿が待ってましたとばかり「待て、今日の学科の時、居眠りをした者は残れ。あとは解散」。そして残された連中は、ビンタの四つ五つを見舞われました。(p495)長尾
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 柏の東部第一〇二部隊とは第四航空教育隊で、その第二中隊へ入営しました。隊の内部では整備、警備、機関砲、その他等に区別されていましたが、入営して三カ月間は新兵教育で、みんな同じく歩兵の新兵さん同様の基礎教育でした。班内に入ると例の内務班地獄です。例のビンタ!今思い出してもゾッとします。訓練では匍匐前進。軍隊生活の労苦の結晶の代表と言えましょう。(p499・500)小林
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 昭和十七年三月一日、現役兵として第六航空教育隊に入隊(確かでないが青森県八戸付近)、古年兵から笑顔で迎えられ、上げ膳、据え膳の毎日でしたが、一週間程過ぎた夜の点呼が終わって寝台にもぐりこもうとした途端、「初年兵、全員整列」と怒鳴る声がしたので、一斉に寝台の前に立ちました。「間を詰めて並べ」と体重九〇キロ以上もある凄い意地悪そうな一年上の一等兵が、何事かと思っていたら「君達の態度を一週間見ていたら皆弛んでいる。今から軍人精神を入れてやる。眼鏡をしている者は、外して全員歯を食いしばれ」と言った途端、平手で頬への往復ビンタ、終わると「今日は小指の爪程だぞ、よし、早く寝ろ」です。
 私共の中隊の教育は一般の歩兵部隊の内容と同じ教育の他、航空機の付属電気系統の点検整備となっておりますが、実際は滑走路の照明器具の点検整備、これ用の電池の点検整備、充電また爆撃機の投爆電気系統点検整備、トラック、重機等車両用電池の整備充電が主でした。
 私的制裁は日増しに酷くなり、編上靴によるビンタ、柱に昇って蝉の真似を毎度三十分、敷布がちょっとでも汚れていると赤チョークで金魚が書かれる(チョークの赤色落としに苦労しました)。編上靴の手入れが悪いと言って舐めさせられる等々筆舌になりがたしとは、この事でしょうか。(p505)庄司
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 昭和十八(一九四三)年十月一日、横須賀第一海兵団へ入団。・・・
 私の海軍生活の労苦の始まりは入団第一日目からの総員制裁です。海軍では団体の隊員の内の一人のミスや誤りを全隊員即ち総員に対して制裁があります。樫の棒で長さ約一メートル半、直径約五センチの精神修養棒で尻を叩かれる。毎日ある。
 私の場合は昭和十八年十月一日より昭和十九年一月十日まで毎日。もう話にならぬ位痛い。ひどい。じっと耐えて忍ぶのみである。痛さ、辛さ、苦しきに打ち勝つ海軍魂の養成である。難局を打開し、困苦欠乏に勝ち、最後の勝利をつかみとるために上官の愛の試練である。復員後社会に復帰し、何くそ!との負けじ魂海軍魂で成功をものにして、幸福な人生、家庭を築いた人材は多い。総員制裁は大きな勝利の生みの親であった。(p561・562)横山
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 私は二十歳に成長した昭和十八年に志願して軍務につく決心をして、徴兵検査で甲種合格となり、勇躍して海軍へ入る事となりました。そして昭和十八年五月一日、舞鶴海兵団へ入団しました。
  志願通り機関兵となりました。新兵教育が始まります。総員集合。総員制裁でビンタ、尻たたき(直径七センチ位のカシの棒)です。無抵抗、無反撃のされっぱなし。何糞と歯を食いしばり、戦友互いに励まし合い、海軍魂を発揮して頑張りました。
 あの苦痛、逆境を克服した不屈の信念と自信に支えられて、すべての困苦欠乏に堪え、私個人としましては「自分から志願したのだから、苦労は当たり前」と覚悟していました。(p548)西田
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 また、陸戦隊でも歩兵と同じく銃剣術の稽古が厳しかった。相手が倒れて起き上がれぬまで、必死の攻撃を加える残酷さであった。私も懸命に稽古をして頑張りました。それは現在六十年経って思い出しても身の毛もよだつ厳しさでした。その他新兵教育では叩かれたこともありました。
 「軍人精神注入棒」で腰や尻を叩かれたのは、もう多言を要しないことです。(p523)篠崎
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 昭和十六年五月一日から八月十五日まで、佐世保海兵団において新兵教育を受け、同日三等水兵となる。
 軍艦「千歳(水上機母艦)」乗組みを命ぜられ張り切る。八月十八日、大分県佐伯で乗艦以後、「月月火水木金金」の早朝から夜間まで連日の猛訓練に加え、港での夜は毎晩のように「整列!」がかかり、ビンタとお説教は、軽い、軽い、ほとんど軍人精神注入棒で尻をかなりの力を入れて七~八回、尻の痛さで仰向けに寝られず、何の因果で海軍に入ったと、同年兵と並んで上級者の靴を磨きながらヒソヒソと泣き言を……。
 でも最下級兵の私達には「戦争は有り難くいいものだ」と思えた、嘘のような話がある。それは開戦と共に激しく厳しかった訓練が少なくなり、艦長の命で、夜の整列もほとんどなくなり、加えて、食事の内容が良くなり、貧乏百姓育ちの私にはもったいないようなご馳走で、おまけに戦時給与の酒、ビールも時々あって、言うことなし。その上戦争と言いながら敵の姿を見たことも、銃声も聞かず、我が世の春を感じていた。けれども、それも僅か二十五日で終わり、この世の地獄を見る生活となるのである。(p510)橋本
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 昭和十八年十二月十日、館山海軍航空隊に配属され入隊しました。いよいよ実施部隊に配属になって一人前の兵隊として勤務することになったのですが、海兵団当時とは全然違い、古年兵からの指導は想像以上でした。日常の生活が共同体であること、一人に不備なことがあれば全員制裁といって鉄拳が飛ぶ。目から火が出るとは聞いていたがまさにその通り、よろける足を踏み締めながら、ぐっとこらえる。
 ある時は全員整列で「精神注入棒」というバッターが容赦なく臀部に喰い入る。「よーし、今日はこれまで解散」の号令にてホッとしてハンモックに入る。お尻が痛くて、あおむけには寝られず、うつ伏せになってもなかなか寝付かれない。こんな日が続く新兵の辛さを、よく耐えたものだと今にして思われます。(p566)猪俣
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 舞鶴で二十日間新兵教育。初めの一週間程は教育班長と教育係の二人は、やさしく教えてくれていたが、その後は一八〇度の変わりようである。汽缶室、機械室、補機電気室、舵取機室、と順次教育を受けたが、一度教育を受けたことは翌日覚えていないと、バルブのハンドルに歯形が付くまで噛まされ、気合が足りないと総員何らかの罰を受ける。(p587)
 そんな毎日が二十日程続き、筆記試験とレポート書きをやらされ、新兵教育は終了、そして各部署に配属される。機関科八人中、汽缶科二、機械三、電気一、補機一、工作一。私はどういう訳か電気の班に配属された。機関全体について一応の教育は受けたが、以後十年、電気関係の任務を続けることになる。艦首から艦尾まで、艦内すべての区割りまで張り巡らされた電路、発電機三機(タービン二機、ジーゼル一機)より送電される前後部の配電盤、主電路より分電箱を経て各兵器の駆動用電動機、照明灯、電機計器、電信、信号用の電源への給電に至る網の目のように張り巡らされた配線を、一応マスターするまで、航海当直中も非番の時も、内務に追われながら夢中で行う。船酔いでヘドを吐く時は、隠れるようにして靴下の中に吐き、海中に投棄する。「新兵の癖に酔っ払うなどゼイタク」と何度か叩かれながら半年、ようやく多少は要領と余裕ができるようになる。日本海特有の三角波と吹雪も、春の訪れと共に治まり、航海も訓練も結構やって行けるようになる。(p587・588)
 労苦といえば新兵時代のビンタ、精神修養棒、最もきつかったのは投炭法であった。(p605)佐々木
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 春の農作業が始まり田植えの準備で多忙な時期である六月五日、横須賀海軍郡山第一航空隊に入隊せよと通達されました。
 残りの作業は両親に頼み、喜多方駅より歓呼の声に送られて郡山航空隊の営門を入りました。直ちに編成となり、私は第二分隊第十三班に配属となり、分隊長は増田中尉、班長は加藤一等軍曹でした。ここで初年兵の教育を承けましたが、航空兵も歩兵の一般教育と同じく、これにまた整備兵としての教育も加わり、なかなか大変でした。
 また内務班のしごきの厳しさは並大抵なものでなく、ビンタは第一日目から始まりました。平手打ちは歯を喰いしばって我慢もできたのですが、革のスリッパ、次には編上靴での顔面殴打では顔面が変容するすさまじさです。
 あるいはウグイスの谷渡りではテーブルの下を上下にくぐっては「ホーホケキョ」と鳴かされる。蝉のまねをして柱に昇って三十分「ミーン、ミーン」と鳴かねばならぬ。まるで人間扱いではなく情けなく思ったものです。(p607)瓜生
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 行く先は知らされなかったが、山海関を通過して北上し、徐州の一つ手前の柳河と言う所に着いた。ここに駐留していた騎兵第四旅団に補充され、驚いたことに我々新兵を迎え入れるために全員整列して閲兵式が行われた。ここで臨時教育、即ち騎兵の教育を受けることになった。我々は六個中隊に分散、私は第四中隊の第三小隊に配属され、直ちに豚革だが長靴とダブルの制服、内側に革の着いた乗馬ズボンが支給されて、皆騎兵隊の立派な兵士になったと喜び合った。
 直ぐ馬の手入れに行けと言われ、一人一人日本名のついた馬の手入れに馬房へ向かった。ガヤガヤ言いながら馬屋に着いたら、髭もじゃの古参兵が出てきて「貴様等、古参兵が馬屋当番についているのに、ご苦労さんの一つも言えないのか」と言われ、皆「ご苦労さんです」と言うと「ナンダ、そんな小さな声しか出ないのか」とゲンコツで一人一人殴られた。これが最初の罰だった。・・・
 ある時、突然に銃器の手入れ作業があった。銃身を手入れする薬莢手入機の数が少ないので、作業ストップが掛かった時は、ほとんどの者が手入れ不良で、安田班内上等兵は皆を向かい合わせに二列に並ばせ、対抗ビンタをやるよう命令する。お互い顔見知りだから相手の頬を軽く撫でていたら「そんなたるい叩き方では駄目だ」と近くの兵隊を殴り倒した。そこで真剣に殴り合いとなり、取っ組み合いとなったので中止となった。(p297~299)
 行軍中一番辛かったのは馬の落鉄で、分隊にいる工務兵に新しい鉄と取り替えてもらうのだが、馬は百貫の荷物を背負っているのでなかなか足を上げない。爪の裏表面をヤスリで平らに削り、鋲を打つまでの僅かの時間であるが、その間、馬は三本足では非常に苦しいらしい。
 終わって落鉄の検査をやったのかと問われて「十分間の小休止に十八頭の水飼と落鉄の検査はできない」というと、「もっと早くやれ!この馬鹿野郎」と金槌で頭を殴られ目から火が出た
 筏井と言う初年兵と落鉄調べと水飼を交互にやっていたが、彼も数度金鎚で殴られたので、戦争が終わって日本に上陸したら、二人で岩本工務兵を殺害する約束をした。あとの話になるが不履行に終わった。(p305)石田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_296_1.pdf

 私は昭和十七年度の徴兵検査で見事、甲種合格となり、誇りある日本男子となりました。
 昭和十七年十二月一日、北部第十八部隊(山形歩兵第三十二連隊)へ雪第三五二五部隊要員として、同じ村よりの六人と共に入隊しました。(p277)
 また初年兵は、順番制で当番となり、炊事場よりの飯上げ、食缶の返納などをやります。食缶の返納で容器に飯粒等ついていると、炊事係古兵より物も言わずビンタを喰いました。(p278)
 二月、雪部隊より勝部隊へ転属した隊員は、再び壘第一四七四部隊への転属命令が出ました。
 八日、私は技術下士官候補者として河北省天津兵器廠に入校しました。ここに入校したのは北支、中支より選抜された一二〇~一三〇人と思います。私は教育隊の第二内務班へ、班長は暁部隊「静岡」より配属された佐藤軍曹で、入校した数日間は親切丁寧で、初年兵で入隊した当時とは違うものでした。その後は起床前に竹刀を持って教育隊広場に来て、隊員の整列を待ち、少しでも遅い者には遠慮なく竹刀で腰を叩きつけました。これは班長の厳しい教育でしたが、各方面から選抜されて来た隊員は一口も不平を言わず、ただ我慢を通しました。(p281)手塚
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_276_1.pdf

 二月末の北支は寒さが厳しく、手が思うように動かないので、舟はだんだん流されてしまい、訓練が終わって班長からビンタを頂きました。(p243)山元
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_239_1.pdf

 家の玄関には「出征兵士の家」と看板が貼られ、出立の日などには町内総出で、日の丸の小旗を片手に「万歳!万歳!」で大勢の見送りの方々が駅まで送ってくれた。現役兵として京都歩兵第九連隊に入隊しました。私は第十中隊第一班に編入され、いよいよ軍隊生活の第一歩を踏み出しました。
 起床と同時に点呼、食事の食上げ、食事が終わると食缶返上、演習整列と、目まぐるしい日課の毎日でした。また内務班の教育も厳しく、一日演習やら銃剣術等の教育が終わると、「初年兵、整列!」といわれ、古参兵からビンタの連続でした。特に私の班の古参兵に、二・二六事件に関与したというので、元曹長から上等兵に降格された人がいて、この人がいつも大暴れしていて誰も手がつけられない状態でした。
 ある日曜日のことです。外出から帰って来たら酒に酔って何が気にさわったのか、室内の真っ赤に燃えているストーブを蹴飛ばしたのです。床一面に火の粉がちらばって大騒ぎ、後の始末は我々初年兵の仕事でした。幸い火災の大事には至らなかったが、元は曹長さん、誰も手がつけられない横暴ぶりでした。しかし私達初年兵に対しては別に私的制裁等の手は出しませんでした。(p250・251)山崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_250_1.pdf

 台湾第一七九一部隊は編成されたばかりの部隊で、小生らが初めての初年兵で古年兵殿はまだ少なかった。有線中隊と無線中隊があり、小生は有線中隊に配属される。中隊長殿は芋生大尉殿であった。(p198)
 教育が終わり内務班に帰れば内務班の仕事が待っている。上官殿や古兵殿の洗濯、軍靴の掃除、内務班の清掃、食事当番と目が廻る程忙しい。夕食が済み一息ホッとする。次は点呼だ。上等兵古兵殿が軍靴の検査をする。底の鋲に少し土が残っていると「これが掃除したとかァ」と恐ろしい罵声が飛ぶ。揚げ句の果て軍靴を首にぶらさげ各班廻りをさせられる。情けないこと限りなし。
 また誰か何かしでかすと「初年兵集合、並べ」でそしてビンタに拳が飛ぶ。今日はなんで打たれているのか解らない時が度々だ。時には班長殿が「初年兵集合、今日貴様達はこんなことを仕でかした。目をつぶり歯を喰いしばれ」バチッバチッの連続、目の前でバチッと一発痛くない「一同、目を明けろ。痛かったか」初年兵一同自分は打たれていない。班長殿は自分の手と手でバチッバチッと音をたてる人情味に豊かに溢れる班長殿もおられた。(p199)小宮
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_195_1.pdf

 七月十四日高雄港の船中でまだ見ぬ連隊の軍旗祭を盛大にやる。その後は各船単独で目的地に向かい、七月二十四日無事に南部仏印サイゴン港に入港した。宇品出港以来一カ月、二十一歳の信州健児千人が仏印への第一歩を印した。
 ここより汽車で北進四昼夜、七月三十日早朝歩兵第六十二連隊に到着した。松本へ迎えに来られた斎藤曹長殿と笠松軍曹殿に引率されて同年兵五十九人は同連隊の入り口の第五中隊に入隊した。中隊は五個の内務班に分かれ、私は四班の(軽機関銃)教育班長西川富利軍曹殿、助手辻武、東久作の各上等兵殿が待っていた。
 この人達は比島バターンの激戦の生き残りの猛者で実戦に即した教育を三〇度の炎天下で三カ月、内地の兵の倍以上の教育とビンタも五倍以上頂戴して辛い基本教育もようやく終了、十一月三日の明治節に、十月一日付けで皆一等兵に進級した。(p137・138)上原(柳沢)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_136_1.pdf

・・・私にも「四月一日、朝鮮第一〇四部隊入隊のために東公園に集合せよ」との令状が参りました。・・・
 抜き打ち一品検査があり、巻脚絆の手入れが悪ければ頭にターバンのように巻かされ、靴紐の洗い不充分では、口に食わえ「××二等兵は……のため各班廻りを命ぜられました」と
 床や頭上の衣類整理棚の整理が不揃いの時は、班長が木銃で跳飛ばし「会寧のそよ風に吹き飛ばされました」である。久々に我が家と、Sさんから慰問文が着きました。Sさんの手紙は班内発表となり、読むうちに先は何と書いてあるか不安で、少し飛ばして読み上げると、「飛ばしとろうが、読み直せ」「ハイ」である。
 誰かが「アア!やっと一日終わった!」というものの「馬鹿タレ!ここは娑婆と違うぞ」である。
 消灯ラッパが静かに鳴りひびく。夢の床に就くや、コツコツ週番下士官が巡回しつつ銃の引金点検である。次々と引く。俺は何番目…「よかった」と思う。「カチン」と鳴ると「OO出てこい」で捧げ銃をして「三八式歩兵銃殿、長々と……致しまして申し訳ありません」である。軍隊は馬鹿にならないと勤まらない。発熱すると錬兵休となり洗濯物干場の見張番である。ある洗濯場で石鹸を忘れ、横の者に「石鹸貸さんや」というと、横の者は俺の班札を見て「貴様四月兵じゃろうが、なめるな」とくる。相手は三月兵でした。(p113・114)持山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_110_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年一月十六日、満州国の関東軍独立歩兵第一七四部隊に入隊を命ぜられ、広島練兵場に集合させられました。そこで軍装させられて広島駅から汽車に乗せられました。昼も夜も窓は鎧戸を閉めて外は見えませんでした。博多港から船で釜山港へ行き、また汽車に乗って満州国の新京(長春)へ到着して第一七四部隊に入隊しました。
 氷点下二五度から三〇度にもなる所へいきなり連れて行かれて、防寒帽を被っていても耳は痛かったのを今も覚えております。新兵は山形県から四十八人だけでした。生まれて初めての炊事、洗濯、掃除と何もかもとまどう事ばかり、少しまごまごしていると頬が焼ける程のビンタをとられ、これが軍隊なのか、命をかけて戦う準備なのかと、自分なりに納得して懸命に頑張りました。(p94)
 二期目の教育は医学の勉強でした。朝八時から夕方五時まで、毎日医学の勉強です。内科、外科、伝染病、病理、他に研磨科と言って手術などに使うメスなどの研磨を主体に勉強させられました。広い講堂に机を並べて科目ごとに内科の軍医や外科の軍医が一時間ごとに変わって教えてくれました。居眠りなどしていると、教育担当の上等兵が見廻っていて、後から竹刀で背中を力いっぱいにつつくので、その痛さは翌日までも残る程でした。
 夕食の後にまた講堂に集められ、その日習った事のテストがあって、五十点以下の人は一列に並ばされ、スリッパで思いきりビンタが飛ぶ。私はそれがいやだったので、消灯後厠に行って毎晩復習したものでした。お陰様で四十八人中の七番で三期検閲に上等兵に進級しました。たしか昭和十八年の九月末頃だったと記憶しております。医学六カ月で看護婦長までの教育だと聞かされました。(p95)舟山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_094_1.pdf

 長い行軍の後、やっと目的地の柳州である。小高い丘と平地の連なる中にある部落に、一カ月の夜行軍の末、ようやく目的の迫撃第一大隊の駐屯地に到着した。すぐ各中隊に配属が決まり、私は大隊本部中隊第一小隊に決まった。その小隊の初年兵は五・六人だったと思う。
 初年兵の教育係の兵長が訓示をしたあと、気合を入れると頬の腫れる程殴られたが、とてもいい人で優しく面倒見が良く、その後は殴ることは一度もなかった。部隊のほとんどの兵隊は、四、五年を野戦で過ごして来た人達だが、一般に人柄の良い兵隊が多かった。(p42)村井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_042_1.pdf

一、入隊期日及入隊先
ロ、三重海軍航空部隊

 右に従い当地からの同時入隊者であった庄司、富田、阿部、都倉の四君と共に歓呼の声に送られ故郷を後にしました。予科練は志願兵のみですので年令に差があり、私は最少年でした。入隊二、三日後から、起床から消灯ラッパが鳴るまで「月月火水木金金」の厳しい初年兵教育が始まりました。
 午前中は数学、理科等学科、午後は体育、魚雷の構造、航空機の構造等の実技に関する教育でした。入隊前に軍隊生活経験者から聞いて、ある程度の覚悟はしておりましたが、私的制裁の酷さには驚きました
 同年兵の中に煙草を吸う者がおり、先輩に見られたら大変「初年兵集合、一列に並んで歯をくいしばれ」「君等は二十歳未満だ。酒、煙草は禁じられていること知らんか。吸った者に注意しない。君達にも連帯責任がある」、途端に拳でのビンタが飛ぶ。よろよろすると「弛んでいる」とさらに一発、中には口から血を流す者や、二、三日食事が満足に出来ない者もおりました。
 雨天時の外出には合羽を着用しますので階級章が良く見えないため、よく先輩に欠礼することあります。欠礼したら大変、民間の方のおる前で殴る蹴るの制裁、民間の方は手で目を塞ぎ、中には涙を流しておられる方もおられました。
 兵舎内外の先輩への欠礼、軍靴の手入れが悪い、軍足が汚れている、軍服の襟布が汚れている等でビンタが飛ぶ。ハンモックにぶら下がり蝉の真似、狭い衣類箱に頭から押し込まれ、しゃがんでの長時間、練兵場円周の駆け足、海軍精神教育棒の所構わずの殴打等です
 また、初年兵は激しい教育のためによく腹を減らします。同郷の先輩もこのこと知っておりますのでパン等の差し入れがあり助かりました。毎食交替で下士官室へ食事を運びます。食事後、食器下げに行くと、残っている物はここで食べて行けと、面倒みのよい上官もおれば、隣の下士官のようにお茶で含嗽して残った食事に吐き出す意地悪い上官もおり、この上官には食事を運ぶ前に、皆で頭のフケをご飯に払い落してから運びました。この上官現在、元気かなあ。(p641・642)児島
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 十九歳の今村憲司航空整備兵は、鹿児島県出水市の第二海軍航空隊に入団しました。当日入団したのは九州各県より、百六十人ぐらいの若者達でした。・・・
 兵舎内で軍服が支給され、それに着替えると身も心も海軍軍人になったような気になりました。大切にされたのはこの日一日でした。翌日から厳しい生活が始まりました。内務教育、言葉使いから体の動かし方、一つ一つ何も分からない初年兵に、指導下さる先輩の皆様も大変ですが、教わる方も大変でした。朝六時から八時の就寝まで、叱られ叩かれ忙しいこと、何で志願して来たかと涙を流すことも何回かありました。(p631)
 ある日、四十歳ぐらいの召集兵の方が、涙を流して泣いているのを見かけ、理由を聞きますと「歳をとっているので若い者のように暗記が出来ず、二十歳ぐらいの若い現役兵から殴られるといいます。自分の子供と同じ年の若僧から殴られるのが口惜しい」と二人の老兵が泣いている姿を見て、可哀想と思いました。洋服屋さんだと聞きましたが、世が世であれば小さいながらも一店の主人公であるのに、召集令状がきたばかりに、家族を捨て海軍軍人として、毎日毎日若い者からこき使われ、挙げ句には覚えていない、態度が悪いと叩かれ、泣きたくもなるだろうと同情しました。その姿を見て以後私は叩くことはしませんでした。(p633)今村
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 九月入団は「あっ」という間に来ました。家族や近所の方々に見送られて十五歳の少年は九月一日佐世保相浦第二海兵団に仮入団しました。島原市からも七人が同時に入団しました。入団して見て先輩から云われた厳しさが初めて分かりました。
 十五歳の少年達ですから多少は考えての訓練と指導とは思いましたが、海軍魂を植え込むために叱られ叩かれての訓練でした。夜ハンモック内で両親の顔を思い浮かべ涙を流すこともありました。その度ごとに覚悟の上で志願したのではないかと、自からを慰め歯を食いしばりました。(p618)永木
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・・・十一月の末日入隊の通知が届き、十二月十日宮崎県の飛行第七連隊に入隊が決定されたのでした。
 兄も召集され、今度は自分が入隊ということで一家の家業は父と母で何とか縮小しても、続けて行くということになり、今年も暮れようとする十二月十日、飛行連隊の営門を入りました。初めての軍隊生活、それは思いもしなかった厳しいものでした。
 航空隊と言っても、三カ月間は歩兵の一般教育と共に、航空機についての精密教育、更には整備教育等の厳しい毎日の訓練でした。また内務班のしごきの厳しさは並大抵のものではありませんでした。ビンタは初日から始まり、平手やゲンコツはまだしも、皮のスリッパそして帯革、軍靴等で殴打され、顔面は変形するすさまじさです。およそ内務班教育の範疇を超越した仕草です。また古参兵は、その日々の気分次第で初年兵に対する扱いの内容も変わってきました。このような扱いの教育は一般社会では到底考えられなかったことです。(p578)丹
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 思い出として練兵場への集合時間に遅れ、二日目に第七中隊の同期の二人が二分程度遅れました。教官は召集の遠藤中尉で双眼鏡で見ている。体罰として全員がビンタを受けました。速射砲の訓練日に練兵場より護国神社付近まで駆け足、自分は砲身係で重量感があり、若干二十一歳で若かったのでしょう。全員が一緒に戻らないとまたやられるらしい。(p567)広島
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 福岡東公園に集合しました私達は、博多港から旅客船に乗船し、二日目に台湾の基隆港に到着し、基隆港からは台北市へ列車で輸送されて、十二月九日、台北市にあります山砲第二連隊第二中隊に入隊しました。・・・
 山砲隊ですから、山砲を引く馬が付き物です。十二月と申しましても台湾は内地と違い暖かく、訓練の度ごとに汗びっしょりになりました。「軍人勅諭」「戦陣訓」兵器名称の暗記、古年兵のお世話と、六時の起床から夜八時の点呼までの忙しいこと。もたもたしていたら大声で怒鳴られる、叩かれるで、ゆっくりする暇もなく、一日があっという間に過ぎ去りました。軍隊は厳しいとは聞いておりましたが、考えていた以上の厳しさに男泣きしたこともありました。…
  山砲の砲身と車両を分離しての手入れや、搬送作業、積み卸し作業、小身の私には大変な重荷でした。幸い私は通信係に回されましたから、いくらかは楽でしたが、叱られ叩かれて一期の検閲を終了しました。(p548)竹添
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 近衛歩兵第一連隊(別称東部第二大隊)の自分たち同期同年兵は総員百六十人、教育係将校は中隊長級の中尉一人、教育担当下士官として軍曹が各中隊一人、教育係助手は古参上等兵二人でした。四個中隊に四十人宛配分され、各小隊か分隊に五、六人の単位で配属されました。毎日の午前(前段)、午後(後段)と二回に分け同年兵集合教育でした。第一期の検閲終了まで、この集合教育とのことでした。
 自分は生来頑健だった上に青年学校教育ですべて充分体得していましたから、たえず優秀な成績でした。ただし夕食後の内務班教育は無茶苦茶な「いじめ」でした。これまで私的制裁が厳しかったために不慮の事故が多発していた結果、各地の司令官名にて教育の美名に隠れて行う「私的制裁厳禁」が出されていました。

内務班・初年兵教育・第五カ条
第一早めし・早がけ・早ぐそ
第二軍隊は「メンコの数」食事の事で、長年勤務した者が一番偉い
第三要領を旨とすべし、員数の確保
第四地方弁不使用。大声の軍隊語で話する
第五兵器、衣服は陛下からの預かり物だ。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だと心得よ

 右の五ヶ条は、初年兵の最大厳守事項でした。
夕食後は各班の初年兵はいじめやいびりの対象者として、各班(分隊)の古年次兵出来の悪いのが、悪知恵を働かせて競走でやりだしました。
 第一期の検閲後に、幹部候補生試験や下士官候補生試験を受験した者は、半年余り学校へ行き、帰って来ると見習士官や下士官勤務者になる。そのために今の間に苦しめておけと、一層激しくなったものです。一番苦しいのは「対抗ビンタ」でした。二人ずつ対面で直立させて交互に叩き合うことで、共に手加減すると「馬鹿者」と怒鳴って力一杯叩き合わせるのです。共に戦友に心で謝りながら叩き合ったもので、一番卑怯な方法でした。
 ほかにも「ミンミン」「自転車こぎ」「オイラン道中」「三八式歩兵銃殿」などがありました。(p506・507)吉田
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 この部隊は満州第八百九十四部隊で、福岡の歩兵第二十四連隊で、近くに野砲第二百十二部隊の駐屯地も在りました。立派な建物の兵舎で、舎内にはペーチカが有って温かくて助かりました。私達は衛生兵でしたから、訓練のためこの歩兵部隊に預けられたので、内務班も別で、教育隊だけの内務班でした。古兵から教えて貰いましたが、部隊の人員は召集兵とも合わせて約二千五百人の、大きな部隊とのことでした。
 初年兵の訓練も現役兵だけに厳しく毎日叩かれ叱られ、軍人勅諭、教育勅語、五ヶ条と一生懸命暗記させられました。夜の点呼の時に指名されてこれらが答えられないと「貴様」と怒鳴られると同時にピシャリと叩かれ、よろよろすると「態度が何っとらん」とまた叩かれる。夜は叩かれることを覚悟せねばならないので、みんな一生懸命、死物狂いで覚えました。(p490)本田
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 三月四日、満州第七百二十八部隊要員として出発、駐屯地はソビエトとの国境に位置する琿春に到着しました。夕食後の古年兵からの最初の言葉は、「この部隊は元独歩第一連隊、その後歩兵第八十八連隊、さらに今の部隊に変り、関東軍でも気合かかっている有名な部隊である、その内分かるはずだから歯を食いしばって頑張るように、そうでないと国境警備の任務は果たせないぞ」ということでした。私の手もよくなったので、入隊前に鍛えた心身を活かして、怪我治療中の遅れを取り戻し、誰にも負けないように努力することを心に誓い、当地での第一夜のベットに潜り込みました。私の関係する上官は、初年兵教育教官の茨城県出身の菅野少尉、中隊長は千葉県出身の土屋中尉、内務班長は小菅軍曹で、また兵は全員現役で、三年兵は長野県出身、二年兵と私共初年兵は群馬、栃木県出身でした。なお下士官で曹長、准尉は、ノモハン事変での戦争経験者で、強者ばかりでした。
 満州での軍隊生活に入ってから六カ月になる八月一日、一等兵に進級しました。毎日毎日が理由の分からないビンタの連続で、上官から私的制裁を堅く止められていたようですが、一日として殴られない日がありませんでした。今日はビンタが無かったと喜んでベットに入って眠りに就いた頃「初年兵!全員起床!」と怒鳴る二年兵の声に跳ね起きると、「貴様ら弛んでいる」「上靴が揃っていない」とビンタが飛ぶ
 たまには「二列に並べ」「前列回れ右」向い同志でビンタ始めの号令、初年兵同志ですので弱くビンタすると何だその殴り方は、見本を教えてやるからよく見れと、拳握りで強烈のビンタが飛ぶ。私は見本のビンタに合い、入れ歯が欠けて下に刺さり出血し、当分の間食事の時滲みて困りました。今でも傷跡が堅くなっています、後で分かったことですが、上靴の不揃いは初年兵が寝静まってから、意地の悪い二年兵が蹴り飛ばしているところを見たそうです。(p430・431)高橋
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そして三江省勃利に在隊の機甲第二師団戦車第二捜索隊第二中隊指揮班に入隊しました。
 翌日から初年兵教育が開始されました。班員の古参兵にはノモンハンの強兵達もいたので内務班の「しごき」も厳しいものでした。毎日のビンタは軍隊精神の鍛錬とかで、どこの部隊でも常道とされていました。(p425)三小田
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部隊は関東軍直轄の「独立重砲兵」兼松部隊でした。・・・
 全般的な教育を経て重砲兵独特の訓練が連日にわたり行われて第一期検閲が終了しました。自分の所属は第一中隊・第一小隊で、小隊長は久留米出身の小在捨夫少尉殿、班長は前川伍長でした。当時は私的制裁は禁止されていましたが、夜の点呼後にはかなり古年次兵が荒れていました。自分はいつも班長の呼び出し(小隊長の声掛り)で難を免れました。(p420)杉本
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 入隊先の松本はつい二週間前には働いていた所なので少しも不安はありませんでした。松本第五十連隊の営門を入り、国家の干城としての自覚に身が引きしまりました。
 連隊の第十中隊に配属され、家から着てきた衣服を全部自宅に送り返し、軍衣袴に着替えると帝国軍人の形が整いました。二日間は班長や初年兵係の人が親切丁寧にいろいろ教えてくれました。しかし三日目になると昨日までの親が一転して鬼になりました。起床から就寝まで目の回るような忙しさにびっくりしました。三歩以上は「駆け足」、上級者(どっち向いても皆上級者)には敬礼しなければなりません。初年兵はどこを向いても上級者ばかりですから敬礼の手が上りっぱなしです。
 入隊して三カ月間は一期の検閲を受けるための猛訓練の連続で、息をつくひまが無いとはこれをいうのでしょう。気の弱い兵隊は猛訓練に加えて内務班での古年兵によるビンタで気が変になり、便所で首を吊る者が出る始末でした。自殺する兵隊の上官は罰を加えられるのが常識ですが、時局が悪化していたためか大した問題にならず「意気地なしが自殺した」位いの感覚で処理されたようでした。(p414・415)上原
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 山海関を通過して北支に入り、万里の長城の巨大さに驚きながら山西省の山地を眺めながら大原の南にある平遙(へいよう)駅で下車、それから徒歩行軍で百二十キロも西にある我らの所属部隊、第百十四師団第八十三旅団第二百大隊が駐屯する離石(リセキ)に向かいました。
 一期の検閲までの三カ月間は例の通り昼夜を問わぬ猛訓練の連続でした。初年兵の腹は乞食腹といっていくら食べても食べるそばから腹が空いて、残飯を漁り、見つかってビンタを頂戴するパターンはどこでも同様でした。(p402)和田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_401_1.pdf

 途中列車内で一泊、十二月二日午後、留守近衛師団歩兵第一連隊第二部隊に入隊しました。十二月八日、下関港出航、同日金港上陸。十二月十二日、満支国境の山海関を通過。十二月十六日、嵐県東村鎮省第六十九師団独立歩兵隊第八十五大隊第三中隊に編入され、初年兵教育を受けながら警備に当りました。
 起床から消灯まで軍人勅諭、戦陣訓、歩兵操典の教育、それに教練、飯上げ、洗濯など班内の業務に走りながらの行動です。腹が空き古兵の残飯で助かりました。入隊前に班内では暴力的制裁のあることを聞かされていて、戦地ではこれは無いだろうと思っていたのは思い違いで、襟布、靴下、軍靴の汚れ、靴下の無補修、銃の手入れ不良等に理由付けしての殴る蹴るは一発で終わるからよい方でした。
 満水の掃除用バケツ(十八リットル)を両手に持たせられ一時間の不動の姿勢、ベット一床ごとに飛び走り鴬の泣き真似の谷渡り三十分等の制裁受けながら六カ月過ぎ、一期の検閲が終わりました。(p388・389)菅原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_386_1.pdf

五月十四日、めでたく久留米の第十二師団歩兵第四十八連隊の第五中隊に入隊しました。
 当時は次から次へと新兵さんが入隊してくるので一週前に入った兵隊が先輩面して私らにビンタをするのには腹が立ちましたが、一日でも早い者が先任者である軍隊の「しきたり」ですので、仕方なく我慢するほかありませんでした。
 入隊の翌日から一期の検閲を目指して猛烈な訓練と厳しい内務班の生活が始まりました。教育助手の兵長と上等兵が遠慮なく初年兵を学科と教練でしごき上げます。教練の後に控えるのは内務班の生活です。手ぐすね引いて待ち構える古年兵の前に、初年兵は哀れな存在で、殴られ放題の毎日でした。日本軍が強いのは訓練と内務の厳しさに在りと本に書いてありましたが全くその通りでありました。(p351)中野

 昭和十五年十二月十日、村の氏神様の前で、部落全員の激励と武運長久のお祈りに、決意を述べて、長老区長をはじめ旗の波と万歳に送られて、鳥取歩兵第四十連隊第五中隊に入隊しました。初年兵教育の三カ月、一期の検閲までの苦労は、どこの部隊でも同様と思いますが大変でした。ことに内務班の規律は酷かったと思いました。内務班の古兵、下士官でも曹長にどやされたと鬱憤を晴らしに初年兵にビンタ。(p343)池野
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 横須賀海兵団武山兵団に入団し、初年兵教育のため横須賀海兵団横須賀砲術学校一般教育班に編入されました。私的制裁については入隊前から軍隊生活経験者からよく聞かされていましたが、殴る蹴るはまだよいほうで、衣服の洗濯が悪い(ちょっとしたシミ程度なのに)とのことで、十二月の寒い季節、素足でコンクリートの床を駆け足で行き、薄氷の張っている大きなコンクリート水槽にズボンを膝までまくり上げて入り、汚れが落ちにくいので長時間かかり洗濯させられた時の、その寒さ、冷たさは今でも忘れません。でも耐えれば何でも出来ることを教わりました。(p331)藤澤
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 昭和十八年三月十日、待っていた入隊の日が来ました。北支派遣「島」兵団独立混成第一旅団第七十四大隊第四中隊要員として、新潟県高田の連隊に集合し、約一週間位滞在した三月二十日夜、貨車に乗せられて下関まで行きました。下関港よりは朝鮮の釜山に上陸、馬糞のこびり付いた貨車にて北上、満支国境の山海関を通過しました。そして右手に万里の長城を見て河南省軫徳に到着しました。
 ここには大隊本部が駐屯していて、私達はこれより行軍で山岳地帯の「西刻」と言う部落に駐屯している中隊本部に到着し、直ちに編成となり、私は第四中隊第一小銃班となりました。ここ北支の山岳地帯は、まだ朝晩は冷え込んで寒かったのです。
 いよいよ現地での初年兵教育となりました。歩兵の一般教育の三カ月、幸い私は青年学校で一通りの訓練を受けましたので、さほど苦痛は感じませんでした。何んと言ってもここの連隊でも誰もが体験させられた私的制裁、ビンタは現地の教育でも変りありませんでした。(p319)県菊地
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_318_1.pdf

 国際情勢はいよいよ緊迫し、昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃により太平洋戦争の勃発となりました。慌ただしいその年末の十二月二十五日、私にも教育召集令状が届き、新発田にある歩兵第七十六連隊補充隊通信中隊に入隊しました。
 昭和十七年二月二十五日、教育召集終了と同時に、臨時召集により第一機関銃隊に転属となりました。思った通りでした。この日から本格的な訓練が始まりました。軍人勅諭や五カ条の暗記から朗読、毎日びしびし鍛えられました。軍隊は厳しいと聞いていましたが毎夜点呼の時は叩かれ殴られ、特に男の世界で時には涙を流すこともありました。(p324)花井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_323_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年四月十日、熊本市西部第二十一部隊野砲隊に現役入隊しました。第四中隊に編入され、中隊長は北森鶴雄中尉、第一内務班長野田一二三軍曹、寝台列長・塚原敬造兵長でした。入隊して一日目には軍服・帯剣・軍帽などが支給され、軍靴の文数は両方同じでは無く、被服係の古兵から「貴様の足を軍靴に合わせろ」と怒られたことを覚えています。
 二日目は馬厩の見学で、中隊には馬が四十六頭いて、その名前を一頭づつ覚えなくてはなりません。また野砲の手入れ、馬具の手入れなどの説明を受け、二日目まではお客様扱いでした。
 三日目から猛烈な訓練が始まりました。毎日「十六演習場」まで駆け足で、時には軍歌を歌いながら演習場に到着し、十分間の小休止がありましたが、午後三時頃まで猛烈な演習が続きました。汗びっしょりになった馬の全身を拭き、藁で擦り、足の泥を落し、蹄鉄油を塗り、足の爪を磨いて、やっと馬の手入れが終わるのです。それから野砲・小銃・帯剣・軍靴の手入れをします。手入れ中にもし古参兵の一等兵が通ると、手入れを止めて起立、拳手の敬礼をします。何度会ってもしなければなりません。
 わざと初年兵の手入れ中に、通る古参兵もいました。自分たちは星を一つ貰ったばかりの二等兵で、つくづく星の重さを痛感するのでした。それが終わると休む間も無く、自分の洗濯、古兵の衣類洗濯です。襦袢、袴下・軍足など少しでも汚れが残っていると、それをくわえて犬の真似をしながら、四つんばいになって班長の所に行き、班長の個室の前で、立ち上がってノックをし、「猪俣二等兵は汚れた軍足をくわえて来ました」と叫び「ヨシ入れ」と許されると直立不動、拳手の敬礼をして、印鑑を貰った後、平手で五、六回叩かれました。そうして軍足をくわえて内務班に戻ると、宮崎出身のZ伍長、幹部候補に不合格の伍長にまた四、五回叩かれるので顔や尻に黒いアザが絶えたことはありませんでした
 軍隊は叩かれるところだとは思って覚悟はして入隊をしましたが、こんなにひどく多く叩かれるとは夢にも思いませんでした。古兵達は手で叩くと自分の手が痛いので、軍靴の一部を切りとったスリッパで尻を叩くので便所にしゃがむのもやっとでした。夜は点呼後、初年兵同志を両方向き合わせ、叩き方の対抗試合をさせられます。相手が力一杯叩くと痛いので、自分は軽く叩きます。すると古兵が「そんな叩き方で貴様達は良いか」と思いきり古兵が手本を示した上で力いっぱい殴り合いをさせ、両方共顔が真赤に腫れたところで終わるのでした。どんな暴れん坊でも軍隊に入るとおとなしくなり、青菜に塩を掛けたようなものでした。
 起床は午前六時、起床ラッパの音と共にはね起きます。前夜そっと襦袢、袴下、軍足、巻脚胖を着けたまま寝る。起床は早い者の順に一列に整列です。十番以下になると二百メートルぐらいある厩の回りを三回走らされ、また軍装したまま寝ているのを見つかると半殺しにされるほど叩かれるのです。自分は要領が良かったのか、三カ月間一度も見つからず、朝の整列ではいつも十番以内に入っていました。それから作業服に着替えて厩の掃除です(p231~233)猪俣
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_230_1.pdf

㈡検閲終了、学校へ、またまた厳しい訓練を
 甲種幹候生として豊橋第一陸軍予備士官学校第十一期生の生活が始まった。(p219)
日中の訓練の後、自習室で講義を受けた時など、とても眠くて「コックリ」がポツポツと見られたが、終了後「居眠りした奴は一歩前へ」の号令には、生徒は皆進んで罰を受け、罪を受けるに躊躇した者はいない。(p220)山下
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_218_1.pdf

昭和十六年七月一日、私に臨時召集令が下り、鯖江歩兵第三十六連隊に入隊を命ぜられました。私は第二補充兵であるため、三カ月間の初年兵訓練でした。(p132)
 班に戻り古年兵の靴磨きを終え、練兵場に整列。軽機兵が集合して早速、軽機の操作の手ほどきを受ける。そうしている中、昼食の時間で早速食べる。昼休みは多少時間がある。飯台前に座り、たばこを一服する。あゝおいしい。一時の幸である。お昼の休みも終わり、午後の訓練の始まりである。
 「貴様、何をしている。何度言ったら分かるんだ」「ハイ」パシーとビンタがとぶ。また向こうでは「貴様たるんでおる」と蹴飛ばされる。そうこうしている中、一日の訓練が終わり、兵舎に戻り晩飯を済ませ、兵器の手入れをし「新兵さんよまた寝て泣くのかよ」との就寝ラッパを聞きながら床に入る。
 入隊して一カ月余りが過ぎ、気力も体力もヘトヘトで、限界である。まだあと二カ月足らずある。体力が持つかと思い、うとうとしておると、カツカツと長靴の音、週番将校の巡察である。銃の点検でカチンと音がする。しまった誰かが銃の装填落しを忘れた。
 全員起床、ベット〔ママ〕の前に整列、一八〇センチもあるような将校が仁王立ちになり、「貴様ら、良く聞け。お前達は一銭五厘のはがきで、いくらでも集められる。兵器は国民の税金で造られる大変高価な物である。その兵器を休ませず、お前達だけ休んで良いのか。この馬鹿者。上等兵の初年兵訓練がなっておらん。たるんでおる」と言い捨てて出て行った。それからが大変である。
 「装填落しを忘れた初年兵、前へ出ろ」「貴様、良くも俺に恥をかかせたな。股を開け、歯を食いしばれ」とスリッパで三発、みるみる顔が変形し紫色になり、その場で倒れてしまった。「誰か水を持ってこい」で洗面器の水をぶっかける。ようやく気が付き立ち上がる。目はうつろ、顔全体がはれてぶつぶつである。
「さてお前達にも責任がある。股を開け、歯を食いしばれ」でスリッパで二発、顔から火が出るよう。「全員早く寝よ。今夜のことは他言無用、分かったな」
「ハイ」で一同床に入る。顔が痛いと言うより、熱い涙がポロポロ出てなかなか眠れない。
 将校の暴言、上等兵の暴力、こんな教育のやり方で果して心身共に充実した日本兵が出来るのだろうか。いつのまにか眠ってしまった。そして起床ラッパで起され、再び目まぐるしい一日の始まりである。(p133・134)森川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_132_1.pdf

 海拉爾に着くと編成替えがありました。私と山口一美、中村、国武と四人は歩兵第六十四連隊に転属となりました。そして我々三人は毒瓦斯兵を命ぜられました。普通の初年兵教育のほかに毒瓦斯の教育を受けるのは大変です。防護服を着け、駈け足そして処理作業など息苦しいし、いまにも死にそうになりました。
 六カ月の初年兵の基本教育が終わると、今度は独立速射砲中隊要員となりました。今度の速射砲は、今までの馬で牽引するのではなく、自動車にて牽引すると言う、当時まだ日本には少ない重砲でした。アメリカ、ソ連等の戦車を攻撃出来る数少ない速射砲だと言っていました。
 当時、射撃については、関東軍司令部より表彰を受けたことは今でも思い出になっています。ただその教育の厳しさは言葉では表現出来ません。一人が失敗すれば、その場で全員が鞭等の制裁を受けた。一日の教育が終わり、食事を採り、夜の点呼も終わり、全員眠っていると「総員起床」である。目をこすりながら起きると「室内に塵がある、掃除が悪い」とビンタです。塵がなかったのにと全員目を丸くする。
 また鉄砲の手入れが悪いと、机の上に並べ、その上に正座させるのです。十分も座れない、膝から血が出るのです。また満州の室内には暖房用のペチカがあり、それに登れというのです。何度挑戦しても登れないのです。それを見て班長が喜んでいるのです。悪いイジメですね。今の常識では考えられないことです。(p88)坂井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_086_1.pdf

 その前日の一月九日、釜ヶ渕村民や小学校全生徒及び親族一同の歓呼の声に送られ、故郷を後に電車で出発、その日は富山市内の旅館に一泊、明けて一月十日、新雪を踏んで富山連隊に入隊しました。広場で私服と軍服に着替えが終わると昼食で、既に机に配膳してありました。班長は「食事はよくかんで、ゆっくりと食べなさい」との言葉。入隊前には食事は早く食べることと聞かされていましたが、軍隊も変わったのかと思っていました。いろいろ身の回りの整理が終わって「夕食用意」に机に配分する。班長も同じ机で「頂きます」で一口か二口食べた途端「この馬鹿者!軍隊は旅館でない」と木銃で食器等を引っくり返し「早く片付けろ、横に整列」で私的制裁の始まりです
 ほっぺたを叩かれ、腫れ上がるほどです。朝五時起床、二階への二十四段の階段を二回飛び降りろという。裸一貫で肌をタワシで赤くなる程、気合を掛けて六十余回摩擦する。・・・
 内務班では夕食、点呼、消灯まで大和魂を入れてやるといい、顔や頭、お尻などをまるで犬か猫のように叩かれる。板戸一枚隣は第六中隊の小銃隊。その隊の私の同級生の追野義光君が朝、食事を受け取りにきた時に会うと「東山、毎晩毎晩、私的制裁が恐ろしい。私機関銃でなくて助かった」と言う、この言葉通りです。(p78・79)東山
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 弱冠二十一歳を迎えた私は甲種合格となり、満州国東満総省林口県林口の山砲独立守備隊に現地入隊のため、名古屋の野砲兵第八連隊に仮入隊した。(p57)
 私が入隊した原隊の部隊は、当時、泣く子もだまると言われた関特演で鍛えられた関東軍の精鋭部隊で、特に九州、大阪出身の召集兵の古年次兵が多く、精強の猛者連中の集団部隊であった。まず営門まで隊列を組んで行進、営門をくぐるときは長旅の疲れも忘れ、緊張とやや興奮の面持ちで兵舎に入り、それぞれの内務班に配属された。(p61)
 また訓練の明け暮れが始まる。戦友が一人失敗し連帯責任を取らされ、我々初年兵が全員罰を受ける。
 「自転車変わり」「ウグイスの谷渡り」「カッポレ踊り」等の罰のほかに、時には前歯がへし折られたりもする。(p64)
 とくに私の場合、戦友のほかに班長の面倒まで仰せつかり、班長の当番兵として自分を含めて三人分を極められた時間内にやるのだからどうしてもやれないことが生ずる。そんな時に限って意地悪く検査があり、必ず槍玉にあげられ、同僚の初年兵も共々制裁を受ける。特に班長(下士官)ともなれば我々初年兵から見れば神様のような存在である。起床ラッパの鳴る前に起きて自分の毛布をたたみ、一番上の一枚だけ被って寝た振りをしている。起床ラッパと共にその一枚をたたみ、二階の戦友の毛布を、次に個室の班長を起して毛布をたたみ、急いで点呼の場に駆けつける。
 しかしこちらが急いでいるのに、なかなか起きてくれない。イライラしながら精一杯動くが、点呼の並び順が後部になりがちで、たちまち教育上等兵から「貴様!初年兵のくせに何をぐずぐずしているか」との怒声があびせられる。「ハイ、気をつけます」の一語でじっと耐え、その場はそれでおさまるが、また夜の点呼でやられる。点呼のあと必ず「初年兵集合」が掛り「貴様ら点呼の整列が遅い、気がたるんどる証拠だ!一列横隊に並べ。足を開き歯を食いしばれ」と声がかかり往復ビンタである。まあ毎夜のように、定期便のように何かないとその日は収まらないのである。
 ある日、夜の点呼の際、班長の用件で自分の編上靴の靴紐が時間的余裕がなくて洗ってなく、運悪くその日に限って編上靴の手入検査が行われた。「あゝシマッタ」と思ったがもう遅い。「加藤!前え出ろ、貴様。靴紐はなんだおかしくって出来んのか?」と嫌みたらたらの上「たるんでいる!」と一喝、とたんに一発「アゴ」に拳骨が炸裂する。余りの強烈さに一瞬、後によろめきそうになると、「何をヘナヘナさらしとる」とまた一発である。頬の内側が切れて口中血だらけであるが反抗もできない、やられっ放しである。
 それだけで済めばこの上であるがそのあとが大変である。編上靴の靴紐と靴紐とをしばり合わせ、編上靴を首に掛け、他の内務班を回るのである。その度に官姓名を名のり、靴の手入れを怠ったことの詫びの報告をしながら回るつらさ。他の内務班の教育係や古参兵に気合を入れられ、自分の内務班に帰って来ると、班の教育係上等兵から班の対〔ママ〕面を汚したと、また最後の一発である。同年兵達も一列横隊に並べられて同時制裁である。世間ではとても予想もつかぬことが平然とまかり通っている。(p64・65)加藤
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 昭和十七(一九四二)年十二月一日、勇躍征途に着き、新発田歩兵第三十連隊に入隊しました。(p27)
 ・・・この新年は、我々の歓迎と入隊式が一緒で、派手に振る舞って頂きましたが、お客待遇も三日過ぎれば初年兵の身分となり、班内では隣の班で気合を入れる音がすると、我が班に飛火する始末でした。
 ある晩、点呼になった時、私が銃の手入れを怠っていることが発覚し「どうして手入れが出来なかったのか」と問われたので正直に答えるしかなく「班長室の掃除に行って出来ませんでした」と答えたら「お前達は共同精神に欠けている。一人分位やる気があれば出来るだろう」と、私はみんなに平謝りしてその場は納得してもらいました。そのほか事あるごとに体罰が繰り返され、鶯の谷渡りと称して机の下を腹這いになり、鶯の鳴き声を真似して通る仕業や、机の間を空けて両手で体を支え、足で自転車を踏む仕業、「それ坂道だぞ、早く漕がないと後戻りするぞ」と気合を掛けられたり、また申告と称して各班を回らされたり、そのうち城門衛兵に着いた時等は、古年兵を「交代です」と起すと足で蹴られ、已む無く三交替が二交替となったことなどがあります。これも軍隊が創立されて以来の申し送りと恨まず務めた事もありました。(p27)
 ある日のこと炊事に、飯上げに行ったら炊事係の肩章に苔が生えていると自慢していた古年兵に、持って行った飯盒で右頬を殴打され、飯盒をもう一度洗って来いと追い返されました。
 帰る途中、班長殿に会ったら「耳をどうした」と問われたが咄嗟に、炊事場の戸に当りましたと嘘をつき帰って見たら耳朶が切れていました。今でも傷が残っております。あのような古年兵には絶対なりたくないと肝に銘じました。(p30)高橋
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しかし甲種合格でなく、第一乙種だからと兵役には関係ないと思っていたが、確か昭和十五年の秋頃、横浜連隊区より、「昭和十五年十二月一日、北支那派遣電信第十連隊へ入隊」との通知を受領し、同年十一月の末、近隣の方々に送られ集合地の横浜駅に向かった。(p14)
 営門を通過して広い営庭に整列、連隊長の訓示を受け中隊編成となり、私は第一中隊第四班に編入と決まる。我等初年兵は全員で九十七人、関東の出身者ばかりで、それに古参兵は関西出身者ばかりである。初めて聞く関西弁が分からない。入隊して二、三日はお客さん扱いで、わいわいと親切に教えてくれたが、四日目から突然豹変し、ビンタビンタの毎日である。夜の点呼が一番凄く、声が小さいといってはビンタ、銃の手入れが悪いと言って各班回り、タイル敷きの廊下に水を撒き褌一つになり四つん這いである。真冬の北支、何で俺がこんな目にあわなければと泣けてくる毎日が続く。
 同年兵の中にはこらえ切れず脱走する。一期の検閲までに九人に及んだ。その都度「非常呼集」で叩き起こされ、営外出動である。北支の野の酷寒が身にしみ、寒いより痛い。その上、八路軍の出没で危険この上もない。そして帰隊して待っているのはビンタの嵐。「お前等はたるんでいる。連帯責任だ」と。(p16)
 ・・・十二月十日、山崎軍曹に引率され初年兵が到着した。各県混成で関東、関西、沖縄の出身者もあり、十六年兵が入隊して我々もやっと二年兵になった。我々は自分たちが受けたビンタ教育は絶対にしてはならないと同年兵達と誓う。一週間後いよいよ教育訓練に入る。毎日充実した日が続き、それなりに楽しさがあった。
 一カ月位過ぎたある夜、点呼後突然「二年兵全員集合」がかかった。三年兵の奴等だ。初年兵達は何事かと皆緊張し我々の動きを見守っている。三年兵達は我々二年兵全員十一人を廊下に並ばせ、いきなり往復ビンタを掛ける。制裁の理由は、我々が初年兵に対し甘すぎるというのだが、初年兵の目の前で殴られた我々の面子は・・・・・・、寝床に入るも悔しくて、今に見ていろと自分に言い聞かせやっと眠りにつく。
 報復の機会は思ったより早く来た。三日後の深夜に「三年兵全員集合」の声が・・・・・・三年兵達はキョトンとした顔付きで「ナンダ、ナンダ」と怒鳴っているが、この呼集は我々同年兵の渡辺が先日の仕返しにやったと分かり、我々も黙っておれず立ち上った。だが渡辺は酒に酔って銃に実弾を込め、三年兵を一人一人銃でこずいて起し廊下に並べ立たせ、渡辺一人にまかせておけず、二年兵も全員銃を手に三年兵に向かう。三年兵達はシャツと袴下姿で震え、オロオロして「止めろ、止めろ」と青い顔をして叫ぶばかりである。
 我々は冬服に外套を着用しているので寒くないが・・・。「敬礼」と言う声で振り返ると週番副官の巡察だ。しまった・・・えらい事になった。副官は「お前ら何をしているのか。もう朝になるぞ」と言う。副官の顔を見ると何時も我々を良くしてくれる大原曹長だ。「もう許してやれ。お前達の気持ちは充分分かる。悪いようにはしないから解散しろ」とその言葉を切っ掛けに周辺を説得し解散、内務班に戻る。(p21・22)高橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_014_1.pdf

 私も昭和十九年七月、予科練の試験を見事合格、九月四日、岐阜垂井の美濃一宮南宮神社で武運長久のお守札を頂き、滋賀県大津市滋賀里の予科練、滋賀海軍航空隊に入隊しました。ここで昭和十九年九月から二十年三月までの六カ月間の基礎訓練を受けました
 ・・・私は第六班で、班長は大阪外語大卒業のN班長、二等兵曹で班長以下三十四人でした。誠に幸いだったのは、N班長は予備学生を受験してスベリ、今度は下士官志願をして下士官になった方でしたので、海軍のしきたり等何も知らないインテリ班長で、シゴキが一番少なかったのです。
 一兵卒から叩き上げられて二等兵曹になったような強者が班長でいる班は、例の「精神注入棒」で尻を叩かれたりします。「男たちの大和」と言う映画にも、このバットのしごきの場面がありますが、我々の班長は半年間にたったのバット二発だけ、隣の班などは毎晩でした。・・・
 しごきにもいろいろありましたが、カッターから始まって洗面器に水を張って頭上に上げるとか、腕立て伏せ、鶯の谷渡り、練兵場何周走れとかでした(p648・649)川合
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 翌年一月、久留米第五十一部隊(野砲兵)へ入隊しました。(p18)
 一日の初め、この教育がすむと、毎晩の様に点呼時に行われる軍人勅諭の一人ずつの教育は、初年兵の一番の苦手な夕べでした。しかし皆カッポ(顔をたたかれること)をやられる時が多かったけれども、土曜の夕方たまに開かれる慰安の夕べは、厳しい訓練を忘れさせる楽しい一場面でした。特に歌の上手な初年兵には最高の場でした。そして訓練と「カッポ」と血の涙の出るような一日の繰り返しでした。(p19)
 そこで満州牡丹江東寧の第二一二部隊第三中隊要員となり、それぞれ内務班に分かれ、本格的な軍隊生活の始まりでした。(p20)
 それから古年兵の銃剣の手入れ、軍靴の手入れと、これこそ初年兵の泣き場のひとときでした。特に北満の赤土は軍靴にくっついて離れず、これこそ初年兵の多き案苦労の種でした。夕食後は久留米の時のように一人一人点呼で泣かされました。
 渡満して直ぐ新品で着て来た軍服はぬがされ、ボロ軍服を支給され、軍服を体に合わせろといわれ、それはとてもあわれな姿となりました。皆ズボンの破れの補修に当て布をして裁縫をしました。糸、針、ハサミは一人一人の携帯備品で、今までしたこともない初体験でした。うす暗い予備室では中々針の目が糸を通してくれませんでした。・・・
 軍馬は朝夕必ず給水の励行で、その作業は決して楽ではありませんでした。特に幹候生になり一段と内務班の先任の指導が厳しく「貴様達はいずれ上官の卵だ」からといって、カッポを激しくされ、他の初年兵以上に無理な教えばかりでした。・・・
 教練の後は久留米と同じく軍歌の練習で大変でした。初めて歌う軍隊歌は「露営の歌」「愛馬行進曲」「日本陸軍」「戦陣訓の歌」「麦と兵隊」他にまだありましたが、今でも哀愁のある「綏芬河小唄」は忘れられません。最初古年兵殿が歌って、直ぐ後を歌わせられ、何回も何回も繰り返して、大声で歌わんとこれまた気合を入れられ、覚えが悪いとカッポでした。(p21・22)堺
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 徴兵検査は第二乙種で第一補充兵役となりました。昭和十六(一九四一)年四月十日、北部第十八部隊(山形)に入隊の召集令状がきました。(p28)
・・・剣吊ボタン掛け忘れでビンタ、眼鏡をはずさせてはビンタ、剣吊にバケツ下げさせて一班から六班まで叩きながら回って来いと、戦友は拍手して笑うほかありません。自分がしなくても誰かするだろうと、この横着な気持ちが分かると、バケツに水を入れ五分間手に持って廊下に立っていろと言われることもありました。
 宮内町から召集された二人は歩兵砲中隊に編入され、私は連隊砲の特業で、一人は速射砲でした。大砲の部品名覚え、分解、組み方、接合の時、ちょっとでもかちあう音がしますと、長さ一メートル、直径二センチの鉄棒で鉄兜の上から叩かれる。痛いが我慢して戦友に痛かったと言いますが、本当は痛くない助教官の叩き方があると思いました。助手でも良い人悪い人がおりまして、初年兵には影響甚大でありました。
 テストである程度覚えて来ますと十メートルぐらいから走らせ、「右二五一分角、あるいは一八七分角、距離三五〇〇」と言われ、砲を操作して「良し」と言うまでタイムを計られます。照準器には揚げ止めと下げ止めか〔ママ〕あり、間違うと砲身が多少動くので嘘と分かり、鉄帽の上からゴツンと叩かれます。・・・
 検閲では砲手三人、弾薬箱八人、学科質問三十五人で私は砲手で射手でした。普通、大砲は馬で引張る訳ですが、時折引き綱での駆足となりますと苦しく、汗を拭くことも出来ません。休息の時、百メートル前方の木を触って来いと駆足をさせられます。触らずに来た者は助手からビンタで、また駆足をやらされる。教官は双眼鏡で見てますが、二回目は必ず触って来ますので双眼鏡は見ません。(p29~31)清水
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_028_1.pdf

 昭和十七年五月一日、入団祝もそこそこに鹿島駅にて多数の見送り人の歓呼の声に送られて、佐世保第二海兵団相の浦分団に無事入団しました。第二十四分隊第八教班に配属されましたが、知った者は一人もいません。そして志願兵ばかりですから十七、十八歳の若者揃いでした。
 私達は兵科でしたので、寝るも起きるも、すべて「総員起床五分前」のラッパの合図で釣床降ろし、釣床納め等です。数回一番後にでもなったら平手打ちを食らうのです。(p100)山上
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_099_1.pdf 

 ところが計らずも合格の通知を受け取り、来る十月一日に四国松山航空隊に入隊せよと書いてありました。・・・
 入隊まであと半月、ある日、私は東京の親戚を回り今度海軍予科練習生として入隊することを報告し、(p152)
 そのころ、巡検(当直士官が当番兵を連れて各兵舎を回る。当番練習生と下士官が分隊の人数と設備装備などについて報告をする)、これが終わるとしばし我々にとって自由な時間となるはずであったが、飛練時代は罰直の時間になったのです。(p153)
 こうして松山航空隊の一期生としてすべての教程を終え、次の飛行術練習生として虎尾海軍航空隊台中分遣隊に転属することになり、(p155)
 帝香丸が基隆に接岸したのが夕方でした。西も東もわからぬ我々は衣嚢を肩にのせて上陸し、岸壁を駅に向かって歩きました。台湾は南の国と聞いていたので船内で二種軍装に着替えていた。全員百八十人が衣嚢とトランクを抱えて客車から出るには時間がかかる。そこにさっそくバッターを待〔ママ〕った教員らしき人が車内に入ってきて「こらーお前ら、早くせーい」と言いながら、バットで床をドスンと叩き我々を急がす。「たるんどる」の一声でまず台湾での初バッター一発をもらう。(p156・157)安藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_150_1.pdf

 海軍に入団して真面目に、気力を出し思いやりの精神を持てば必ず認めてくれると、隣の先輩の話でしたが、現実はそんなものではなかった。ときには個人の事でも集団罰直は日常茶飯事でした。精神注入棒で尻を叩かれ、「歯を食いしばれ」で拳骨で顎を殴られるのが、これも日常茶飯事のことでした。しかし戦況悪化の昭和十九年後半になって、だんだんとそのようそうも変化し、自分の階級が昇るとこのような罰直は少なくなったように思います。・・・
 一方陸上訓練では、早朝より片道十キロ余の福知山の長田野練習場の陸戦が行われ紅、白に分れての攻撃合戦は今思うとこの苛酷な訓練をよくも耐えたものであると思う。水筒の水が無くなり雨水の「タマリ」に手を出し吸引したこともありますが、よくぞ病気にならなかったものです。この後が大変でした。この訓練が終了し、一斉に空に向け銃を立て引金を引いた瞬間、仲間から一発の空砲が発射されたではないか、これは一大事で本人のみならず班員全員が夕飯抜きの罰直受けたことがあります。ウラミ節ではないがもう少し友が早く気が付けばな・・・・・・と思ったことでしたがすべて後の祭りでした。
 あるとき集合が掛かり行って見ると、ある先輩(水兵長)がとある女性からの恋文が分隊事務室に舞い込んだのです。さあ大変、当人が全裸になり水が満杯のオスタップ(金属製のタライ)の中へ入るよう、これが俗にいう見せしめであり、全体の規律を守る上での大切なことでもあったかな・・・・・・と思います。
 水雷学校生徒の時、とある仲間が屋上に乾かしていたパッチがなくなり、それを運悪く盗み衛兵に見つかったことがありました。大変、室に帰りバットで立ち上れないほど殴られてハンモックで三日間寝込んでいる様を見ますと、さすがに軍律の厳しさを痛感させられたものですまた防備隊勤務のおり「成生」に乗組み日本海沿岸警備のある日、とある先輩(水兵長)から呼び出され「下士官の指示で若者が少し気が抜けている、締め直せとの指示が出たので君達を呼んだ、こんな小さい船で君達に罰を加える事は忍びない。手で合図するからその時は大きな声で、返事しなさい」とのことでsた。そこで七、八回ぐらい気合を入れられている様子で「ハイッ」と言ったと思いますがあのときこのような温情あることに感謝するのみでした。
 舞鶴一分隊の勤務には衛兵、公用使、小型船での将校の送迎などありますが、西側で立番中、無〔ママ〕遊病者のごとくフラフラと動く黒い人影を見ました。そのとき、夜の消灯時刻が終ったころで直ちに近づき事の詳細を聞いたところ、脱走したくてここにやってきたとのこと。私は順々に諭し、辛いのは皆一緒、頑張るんだと励まし、衛兵伍長には内緒で帰隊させたこともありました。(p120・121)上田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_119_1.pdf

 案の定、昭和十九年七月二十日、その召集令状が届きました。海軍水兵舞鶴会兵団入団の招集で、その日は七月二十八日でありました。・・・
 海兵団の訓練期間は約一ケ月でありましらがなにぶんにも三十八歳で生れて初めての軍う隊生活でしたから大変苦労しました。節水、入浴、選択、ハンモック等々日常の躾や規律が厳しいこと、またボート、防空壕などの基礎訓練の激しさ等、短期間でありましたから次から次へと習うことが多く、その上毎晩のように気合をかけられるのです。
 何か下手をやったり、ぐずぐずしているとみんなの責任として制裁を受ける。(p141・142)松島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_141_1.pdf
  
 私は敦賀の歩兵連隊へ入営しました。(p201)
 軍隊に入って第一期の検閲を受けるまでの約三カ月間の教育は、朝も昼も夜も怒鳴られ、殴られ通しでした。一番苦しく嫌なことは、対向ビンタで、同年兵同士を二列に向かい合って起立させ、交互に頬を殴るのです。手加減して殴ると、古兵が「力不足、一生懸命力を入れて敵だと思って殴れ」と檄を飛ばし、時には「これが手本だ」といって眼から火花が飛び出すほど殴られました。自分達も戦友に心でわびながら、少し力を入れて交互に殴ったものです。またウグイスの谷渡りで「ホーホケキョ」と鳴きながら寝台と寝台の間を登り降りさせられました。
 各班には銃架があり、並んでいる三八式歩兵銃の間から手を出して「お兄さん、寄ってらっしゃい。遊んで行きなさい」という「おいらん道中」。机を二列に並べて「自転車始め」で両手で机に身体を浮かし、両足でペダル漕ぎをさせる。そして「上官だ敬礼」と命じ、足を床に着けて不動の姿勢を取り敬礼すると「自転車をなぜ降りたか」と、理不尽この上なしの無茶苦茶な苛めをさせられました。すべて天皇陛下よりの御下賜品である、手袋、靴下に至るまで大切に使用せよとの厳しい教育でした。(p201・202)
 ・・・自分も上官や古兵の銃器を手入れした後に自分の三八式歩兵銃の手入れをして銃架に掛けておきました。突然班長が「ただいまから兵器検査を行う」と抜き打ち検査です。
 その時に自分の銃の床尾板のねじの溝に黄色い泥が入っていました。班長は烈火のごとく怒り「この銃は誰のか」でした。自分が名乗り出ると「馬鹿者」一言いって銃を持って下士官室へ引き返しました。数日前から班長は自分を「いじめ」ていました。西垣少尉(小隊長)は陸軍士官学校出身で、実に立派な陸軍将校です。その彼に私は実に良く可愛がられ「オイ小林ちょっと来てくれ」と何かについて指名されていたのです。それを憎んでの小銃引き上げ事件になったのです。
 班長室へ行って土下座して「天皇陛下より賜りし大切な三八式歩兵銃の手入れが悪く、心よりお詫び申し上げます」といったのですが、班長は知らぬ顔で他方を眺めながら煙草を吹かしていました。私は涙を流しながら一心不乱に、床に頭をつけて「お許し下さい」と一生懸命に懇願しました。
 最後には、どうしてよいか判断を失い、刑法懲罰でも、営倉(ブタ箱)でも軍法会議でもよい。この憎い班長を殺して自分も自決してやろうか、と物騒なことを、瞬間頭に思い描きました。隣の班長の計らいで「今回の不始末は許すが、以後絶対、兵器・武具を大切にせよ」となりました。このことは中隊全員に知れわたり、以後、小銃事件として語られていました。自分はこの苦い体験で「軍隊は運隊だ」ということを確信しました。小林
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_200_1.pdf

 宮内駅から部隊所在地に山形駅に着き駅から徒歩で東部第五十九部隊へと急ぎました。部隊の門を通り衛兵に軽く会釈して兵舎に向った途端『コラッ、こっちへ来い』と怒鳴られ衛兵の前に行くと『上衣のボタンが外されている、掛けて敬礼して行け』と注意される。『駅ではボタンは掛けていたが、急いだため汗をかき、途中で外してしまい、失礼しました』といいますと、『文句いうな』と怒鳴られました。
 三日目からは本格的な軍人訓練が始りました。一番身にこたえた演習は、防毒マスクを装着しての匍匐前進の訓練と駆足訓練で、途中で倒れる者もおりました。二週間過ぎたころから、入隊前に聞かされていた先輩からの私的制裁が始りました
 その理由としては、銃の手入れが悪い(個人のもの内務班長並びに先輩のもの、内務班出入り時の態度が悪い、声が低い、編上靴の手入れ悪い、靴下、衿布、敷布、枕カバーが汚れている、巻脚絆の巻き方が悪い、衣服の重ね順序が違う等などです。
 そして制裁の内容としては、拳での往復ビンタ、編上靴で造ったスリッパでの往復ビンタ、編上靴の底を舐めさせる、初年兵同士での対抗往復ビンタ、満水の掃除バケツ両手に持って長時間の不動の姿勢、柱へ上がって蝉の鳴き真似、鷲〔ママ〕の谷渡り等などです。
 私は三歳若い志願兵のため「高橋、貴様はまだ未成年のぼっちゃんだから手加減してやる」と軽く済まされました。(p245)高橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_243_1.pdf

 初年兵受領のため現地より多数の将校、下士官が来ておられ、自分等はその部隊に編入した。後日判明せるに、その部隊とは北支那派遣軍独立混成第四旅団第十一大隊第二中隊、略称して北支那派遣第二五九二部隊浜岡である。(p249)
・・・照明は石油ランプ、銃の手入れ中に誤ってそのランプに当てて壊すことがある。その時は一大事、夕食が終わってちょっと一服と言う訳にはいかない。その日の反省として古年兵よりいろいろと文句があり制裁を受ける。つまりビンタが飛ぶ。それで終わればよいのだが、クドクドと長時間やられると本当にウンザリする。
 夜の点呼が終わって消灯、床に入れどもおちおち眠れない。週番上等兵が巡視に回ってくる。銃架の銃の引き金を点検する。もし「カチッと」音がすれば、その兵は叩き起され、きつい制裁を受ける。「銃が休んでおらぬのに貴様よくも眠れるか」と。(p251)岩崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_248_1.pdf

 入隊してからの毎日は厳しい訓練でした。大村の歩兵第四十六連隊といえば全国でも有名な精鋭部隊として名が轟いておりましたので、叩かれ殴られ時には編上靴で叩かれることもありました。涙を流しながら歯をくいしばって頑張りました。余りにも厳しすぎるので制裁を禁じられるようになりました。(p262)
 ・・・そして久留米陸軍病院の二十二病棟のマラリア病専門の病室勤務となりました。
 その病棟にはガダルカナル島でマラリアに罹って入院している人がいてガダルカナル島や南方戦線での苦労も知り勉強になりました。二十一病棟は精神病病棟で鉄格子がはめられ、二十人余りが収容されていました。叩かれて気が狂ったり、厳しい訓練で精神に異状を来たした人達だと聞きました。(p263)福田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_262_1.pdf

昭和十八年二月一日、東部第六十六部隊の営門をくぐり、晴れて帝国陸軍軍人となる。
 郡山は寒かった。隣の県なのだが、こんなに寒いとは思わなかった。「どっぽ」とよく言われたが、何のことか分らなかった。私たちの教育班長、白岩軍曹にこのことを尋ねると、我々の部隊は満州国熱河省承徳の第九独立守備歩兵第十三大隊であった。これを略して「独歩」と呼んでいたのだ。(p271)
・・・二番は重機関銃を五番は弾薬箱を撤去する任務を放棄して下山してしまったのだ。
 演習は終了となり解散となった。教育助手は初年兵を整列させる。「貴様ら、それぞれに責任をはたしたか。 「……」「重機関銃はだれが撤去したか」。私は手をあげた。「弾薬箱はだれが下げた」六番以下が手をあげる。
 「前列回れ右、対向びんたはじめ」初年兵たちは手加減して前にいる戦友にびんたをやる。教育助手は「びんたとは、こんなふうにやるんだ」と片端から全員を殴った。それから仕方なく手荒く殴り合った。(p274)
 ある日、馬蘭峪から古兵たちが出てきた。その中のT古年兵(二年以上勤めて二つ星の人を呼ぶ)に呼び出され、兵舎の裏に集められた。「貴様ら、たるんでいる。気合いを入れてやる」と片端から往復びんたの連続であった。初年兵たちの顔がはれあがった
 Tは殴り終わると帰って行った。我々はなぜ殴られたのか分からない。「お前ら。その顔はどうした」内務班に帰ると柳沼兵長に問われた。初年兵は返事ができない。「だれにやられた」「T古年兵殿に殴られました」「どんな悪いことをした」「たるんでいるからと」。
 「Tを呼んでこい」一人が呼びに行き、Tは兵長の前に立った「T、初年兵を何の理由で殴った」 「・・・・・・」「理由もなく殴ったのか」「・・・・・・」Tは無言だった。すると兵長の鉄拳が飛んだ。体の大きくないTは、ふっ飛んだ。「起きてこい」Tは直立不動。「初年兵いじめをするな」ともう一発。「帰ってよろしい」。初年兵たちはうれしかった。(p274・275)酒井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_270_1.pdf

 昭和十六年七月三十一日・・・ひっそりと姉と二人で大館駅から入隊部隊所在地の秋田市へ向いました。当日は秋田第十七部隊第二大隊長笠原中佐宅(笠原大隊長は戦死した姉の夫の上官で、夫の生前から親族同様のお付き合いさせていただいていたので、奥様のご好意でお世話になる)しました。
 翌八月一日朝、第十七部隊の門をくぐると衛兵から祝いと激励の言葉を頂き身の締まる思いがしました。・・・同日第二大隊行李班に編入されました。(p306・307)
 今までの軍隊生活を振り返りますと、私的制裁は入隊前に聞かされていた通り、関東軍特有の精神注入と理由付ける、殴る、蹴る等想像以上でしたが、私の場合笠原大隊長との関係を知っているためか殴るにしても他の兵より手加減され、また被服係助手、兵器係助手、人事係助手、初年兵教育係などの事務系勤務で恵まれた兵隊であったと感謝しております。(p309・310)
 ・・・分けても我らに印象を残すのは何といっても、あの冬将軍ではなかったと思う。体感温度零下六〇度ともなれば、防寒帽、防寒覆面、防寒脚絆、防寒靴、防寒外套と「ダルマ」のごとく着込んでも寒かった。
 この寒中に何んらかの理由を付けられて夜の点呼後、野外での一~二時間の不動の姿勢、これには閉口した。(p311)山内(松川)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_306_1.pdf

 海が荒れたために出航が一日遅れましたが無事に北朝鮮の羅津港に到着、汽車で鮮満国境を通過して、満州の牡丹江の穆稜に到着したのは夜になってからでした。昭和十三年十二月一日、柏部隊第八中隊、隊長古木中尉、田中中尉の部隊でした。
 翌朝の点呼にマゴマゴしている初年兵は全員ビンタを張られてピリピリするような空気でした。それから四カ月の再教育で徹底的にしぼられることとなりました。
 中隊長に一言挨拶して隊長室に入ると、田中中尉が「昨夜、初年兵が入って来たが、まだ実戦の役に立ちそうもないから、いくらなぐっても良いが、一日も早く一人前の兵隊になるようにやってもらいたい」と命ぜられました。同じ日本の軍隊でもこんなに教育方針が違うものかと驚きました。内地では私的制裁は絶対しないように厳しく言われていた時ですから、いつ戦場になるか分からない外地だから止むを得ないのかと思ったりもしました。
 柏部隊到着二日目の朝の点呼で、後に並んだ者は全員週番下士官にビンタをもらいました。早く並ぼうと起床ラッパより早く起きるのを見つかれば、またビンタです。どっちにしてもなぐられますが、みんな馴れるにつれて動作はきびきびと早くなり、なぐられないようになります。(p320)
 ・・・関東軍の教育ではよくなぐられましたが、その関東軍第三十連隊の教育も二期目が終わって、内地の高田へ戻れることになりました。(p321)平沢
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_318_1.pdf

昭和十七年三月一日、教育召集で郡山第六十六部隊に入隊しました。(p332)
・・・次の日は九九式の軽機関銃の射撃訓練をし、完全軍装で目標地点まで駆足。直ちに三発、五発の射撃命令で、十発中一発だけの命中で教官の梅宮見習士官に頭をポカポカやられる。他の兵は一点も取れなかったほど難しい射撃だ。・・・軍隊とは面白い所で、銃の手入れの不充分な奴がいて全員ビンタ、皆で申し合わせて顔に赤チンキを塗ることにした。翌朝点呼の時、中隊長に「その顔は何だ」 と聞かれ全員虫歯の治療と報告する。後で班長は制裁がばれて訓示されたとか、それでまたビンタをとられた。(p332)安藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_332_1.pdf

 私は第一種乙種合格ですから現役兵としての入隊の義務はありませんが第一補充兵として臨時教育召集を受け、昭和十四(一九三九)年三月八日輜重兵として第十一連隊に入隊、始めて軍人生活を体験する毎日が始まりました。(p354)
 初めは基本的な徒歩教練や集団の行動等でした。朝の起床ラッパから夜の消灯ラッパまでの時間が長く感じられ、一日の時間を過ごすのも大変でした。規則正しい型にはまった毎日の教育は初めて体験することばかりです。何事も班の全員が出来なければならず、一人でも出来ない者がいると全体責任で「ビンタ」をもらいます。こんなことは度々でした。・・・
 ある日初めて兵舎外へ行くといわれて出発しました。行くうちに途中で足にまめが出来て痛くてたまりません。その豆が今度は裂け痛むのです。それでも人に遅れないように我慢して歩きました。今度は左足にも豆が出来痛むのです。それでも人に遅れないように我慢して歩きましたが遅れて、近くで指導していた上等兵に見つかって叱られました。「早く行け」とどなられてビンタを二つほどもらいました。(p354・355)
 この教育期間のことを振り返って見ますと学んだ事も多かった中でとくに感じたことは何事も何日までと時間を定められると、一生懸命に努力する。例えば「軍人勅諭」を覚えることもそうであるが、出来なければビンタでひどい目に遭うので必死の思いで頑張るとそれができる。つまり人は土俵際に追い込まれた時全力投球で全う出来ることを身を持って体験出来たことです。そしてこの一カ月間に「ビンタ」の数多くもらいました。(p354~356)八和田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_354_1.pdf

兵隊検査は第一乙種合格で、昭和十九(一九四四)年二月五日、現役兵として名古屋の中部第二部隊に仮入隊しました。所属は独立歩兵第十一連隊(泉第五三一四部隊)第二大隊機関銃中隊、大隊砲小隊であります。(p455)
古年兵や教育助手の「気合いを入れてやる」は軍隊教育の決まり手ですから、やられる初年兵は観念して歯を食いしばる。(p456)長坂
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_455_1.pdf

 徴用されて一年、やっと作業になれた昭和十九年六月一日、」京都第四十二部隊通信部隊へ入隊せよとの召集令状が留守宅に届いたことが父より連絡あり、早速帰郷、入隊準備をしました。
 六月一日早朝、親戚、知人、近隣の皆様に挨拶回りをして、親兄弟と別れの杯を交わし、多くの、方々の見送りを受け、必ず元気で帰ることを誓い、鯖江駅を出発しました。午後、入隊手続を終え、三カ月前に入隊した先輩と起居を共にすることになりましたが、中に四、五人の二年兵がおり、これから一カ月ほど私的制裁を受けることとなりました。(p464)大森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_463_1.pdf

 昭和十八年四月十日、青森県八戸市の第六航空教育隊に入隊しました。青年学校で教官から指導頂いたことを忘れず、喇叭手の経験も言わずに一生懸命頑張る覚悟で初日の床に就きました。
 一週間ぐらいは先輩から上げ膳、据え膳の待遇を受けましたが、青年学校で教官から聞かされていた通り、否それ以上の、私的制裁が始まりました。「軍人精神を入れてやる」などとの訳の分からない理由を付け、左記のような理由付けしての私的制裁でした。
一 弛んでいる 
二 歩きが遅い 
三 先輩に対する言葉使い、態度が悪い
四 内務班での出入の際の申告の声が低い 
五 衿布が汚れている 
六 軍靴の手入れが悪い
七 軍足の修理が悪い 
八 銃の手入れが悪い 
などです。
私的制裁そのものは
一 往復ビンタ
二 軍靴で造ったスリッパでのビンタ 
三 満水の掃除用バケツを両手に下げて三十分ぐらい不動の姿勢で立たせられる
四 柱に上り蝉泣き
などでした。
 同年兵は後六カ月経てば初年兵が入って来る。それまでは「我慢、我慢」の合言葉で耐える約束をしていました。(p477・478)清野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_475_1.pdf

 昭和十年三月横網区役所で兵役検査を受け、第二補充兵輜重兵とのことでした。
 昭和十二年十二月十二日、東京世田谷区大蔵にあるある第二陸軍病院衛生兵として召集され、階級は陸軍二等兵、六カ月の教育訓練終了後に第二陸軍病院の薬室勤務を命ぜられ、一等兵に進級しました。冬の寒い日にも古兵の洗濯物を競って洗濯したり、靴の手入れなどで結構多忙でした。
 ある時、軍衣の第五ボタンをなくし、そのまま夜の点呼を受けましたが、上等兵殿に他のボタンを取られ、その上ビンタを五~六発もらったことを今でも覚えています。しかし一般の連隊における兵の訓練に比べると衛生兵の訓練ははるかに楽だと聞かされていましたので、衛生兵で良かったと思っていました。(p489)丸山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_489_1.pdf

 次の作戦命令がでて、我が隊は比島スピック湾のオロンガホ港に到着し、第八十一特別根拠地隊に編入され、私達電信員三人に暗号員二人が加わり、つ常塚三郎少尉指揮する陸戦隊員となりました。(p511) 
 ・・・第一〇三海軍病院で一カ月間治療後、六月中旬退院し第三十一通信隊に編入になりました。(p513))
 昭和十七年六月下旬、マニラを出発してボルネオ島のバリックパパンに到着しました。根拠地隊電信所には第五十七期の戦友十人が配属されており心強く感じましたが、二等水兵の哀しさ、毎夜整列ビンタとバッタ叩きの明け暮れに涙が出ました。食事も毎食、外米とカボチャに馬肉と同じ物で、野菜は自給栽培しましたが、それは先任水兵長や下士官に供し、私達二等水兵は食べられず、階級の厳しさを恨めしく思いました。(p513)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_508_1.pdf

 ・・・農家の長男が船になど乗ったこともないのになぜ海軍を志願したのか、七つぼたん〔ママ〕に憧れたのか、自分にも分かりませんが、志願したら甲種合格となり、昭和十九年二月五日、舞鶴海兵団に、入団致しました。
 うわさには聞いておりましたので多少の制裁は覚悟して入団したのですが 、鳴きまねから鴬の谷渡りなど、さらに肉体的苦痛を伴う制裁として精神手入れ棒と言う樫の棒で思いっきり尻を叩かれると赤く腫れて歩くのに大変苦痛でした。また尻の皮がむけて痛くて風呂に入れないことも度々でした。
 そんな苦痛の三カ月の教育期間も終わって、昭和十九年五月には西舞鶴の防備隊に一時入隊として一カ月入隊させられました。防備隊に入隊しても制裁は相変わらずでした。・・・
 三カ月の実習が終わった昭和十九年九月に航海学校を卒業して原隊の舞鶴海兵団に復帰しました。バット回収と言って、いわゆる精神手入れ棒と言う樫の棒を隠し持っている者から取り上げて集め、それを廃棄する任務を命ぜられました。そして集めたら一人で二本も三本も隠し持っている古兵もおりました。中には折れた棒まで大事に隠し持っている古兵もおりました。(p499)公平
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_498_1.pdf

 昭和十八年四月一日、十八歳で佐世保の相浦第二海兵団に入団致しました。(p518)
 さて希望に燃えて海兵団に入団しましたが、新兵教育は峻烈を極めたものでした。起床ラッパに飛び起きて、床上げ、掃除、食事、食事は班長も一緒にするので、その世話も回し当番でやります。少しでも遅れたり悪ければ大変なことになります。一個班は新兵ばかり二十人ほどでした。教班長は下士官のバリバリで班長室は別にありました。班長室、あんな恐ろしい所には入ったことはありません。
 六時起床で八時ごろ日課が始まりますが、毎日がピリピリの連続でした。精神注入棒(バット)ですが、 カッター訓練競技に負けると昼夜の食事の時、班長に卓上の食事をひっくり返されて、食事抜き、消灯後に精神注入棒で海軍魂を植え付けられました。毎晩、毎晩、何のかんのと、難癖を付けては叩かれました。班長の虫の居所が悪いと当り散らされ、さらに上官に叱られて、そのとばっちりがこちらにバットが飛ぶと言う具合でした。親が見たらどんなだったろうかと今考えても胸が熱くなります。
 私は整備兵要員ですので整備の教育をうけました。かくて苛烈な初年兵教育も終わり、七月二十五日、大村海軍航空隊に配属になり移動しました。勤務場所は違いましたが、羽田野正志さんも一緒に大村にきました。
 大村では整備隊に配属されました。各分隊に二、三人の新兵が配属されましたが、ここでは兵長クラスが一番恐ろしく困りました。毎晩、甲板整列があります。至る所に精神注入棒が備えつけてありました。ここでは棒のほかに水に浸けたロープで叩かれる制裁も受けました。ぐるりと回るので痛さが身にしみます。歯を食いしばって耐えました。機関科はもっと酷かったと聞きました。(p519・520)

・・・部隊は朝鮮釜山付近の亀裏地区に移動しました。ここで十一月三日の寒い日、鮒を取って来いと上の人が言うので取りに行きましたが、朝鮮の冬の川は凍りついていました。その時は鮒等が取れたと思います。食べたかどうかは覚えてません。上官の誰かが無理を言ったのか、嫌がらせか酷いことです。もちろんこれは明治節のお祝いの魚ではありませんでした。(p520・521)朝倉(志村)
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 昭和十九年、徴兵検査で甲種合格となり、山形連隊に入営しました。(p20)
 私たちは現地に到着前、列車の中で転属の命令があり、砲兵隊に転属となって列車から下車した者は百人ぐらいと思いますが砲兵隊の各中隊に配属されました。私は野戦重砲自動車中隊に配属されました。(p20)
 教育が始まりますと父親から聞いた軍隊の厳しさが身にしみてきました。「すべて大きな声ではっきりと」を主眼の教育でしたので、東北弁で大声で答えると間違って受け取られ、ビンタのお見舞を受ける事もしばしばでした。(p20)佐藤
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 昭和十八年二月二十日、福井県鯖江の中部第六十四部隊に入隊した。兵舎で卒業以来久しぶりに旧友に会い、懐かしさでにぎやかに騒いでいたら古年兵が入って来た。「貴様ら!娑婆気が抜けておらん。今から軍人精神を叩き込んでやる」「一列横隊に並べ!」 「歯を食いしばれ!」とたちまち往復ビンタが頬に炸裂した。よろめくのを両足で踏ん張る。「目から火花が散った」。こんなにひどく殴られたのは、生まれて初めてだ。           
 入隊七日目の早朝、父母、祖母、五歳の弟が昨 日から泊りがけで面会に来てくれた。祖母が「おはぎ」を持って来てくれた。おいしかった。親父が私の腫れて変形した顔を見て、心配そうにどうしたのだと聞く。毎日、軍人精神注入のビンタをくっていると答える。親父は何も言わずに「うー」と唸ったきり。「親父!俺たち今夜どうも中支へ出発するらしい」と小声で伝えた。(p30)
 独立歩兵第六十大隊の第三中隊(安徴四河口)に入隊した。そして軽機関銃班に編成され地獄の初年兵教育が始まった。誰もが班長室に食事を運ぶ者がいないので、私が大声で「入ります!」と言って食膳を差し出したら!捧げていた食膳をいきなり足で蹴っ飛ばされた。私の顔面に味噌汁、飯がもろにかぶり、「お前の口臭が掛っている。膳は目の上まで上げて持って来い」と言われた。こんな侮辱を受けたのは初めてだ。
 初年兵たちが集まってきて、私の服を拭いてくれたり、食事を新しく揃えてくれた。「飯」の上に私の頭の「フケ」 をかき落し、味噌汁の中に 「つば」を吐き入れて、目の上より高く差し上げて持って行った。以後二度と班長室へ食事を運ばなかった。
 初年兵教育が始まって十日ぐらいしたころ、ずんぐりした背の低い頑丈な身体の池田兵長が入って来た。 「これから俺がお前たちの面倒を見ることになった。今までのように甘くはないぞ。今から挨拶がわりに気合を入れてやるから一列横隊に並べ!」「歯をくいしばって、足を開いて踏んばれ」。丸太棒のような太い腕で先頭の初年兵が一発で横にとんだ。次も次も飛ぶ。次は俺だ!頬に「ガーン」と強烈なビンタで身体が一メートルぐらい飛んだ。目から火花が散った。こんな凄いビンタは初めてだ!以後毎日のようにビンタをくうことになった
 軍隊ではビンタで肉体的に徹底的にしごいて、何が何だか分からないように思考力を無くし、いかなる難題で過酷な命令でも文句を言わせず服従させる。恐怖心を与えていれば兵隊の動作は敏捷になり、反射神経だけで動くようになる。半年か一年先輩の古年兵が「上官の命は天皇陛下の命だ」と言っては、何とか理屈を付けてビンタをくらわせ、 「お前らは消耗品だ死んでも一銭五厘(ハガキ代)でいくらでも代わりが来る」と言う。  
 どの班にも「ドジ」 な兵がいて、いつも「ヘマ」をやらかすと戦友愛が無いと言っては全員ビンタをくう。一番辛い、たまらないのが対抗ビンタである。古年兵はタバコを吸いながらこれを見て楽しんでいる。私の銃の手入れが悪いと言っては夜中に三時間も捧げ銃をさせられたり。私が眠っていると叩き起こされて軍靴の底の土を舌で舐めさせられたりする
 日曜日は訓練は無く、班内で休んでいたら、古年兵が「加藤、こっちへ来い」と古年兵の兵舎に連れて行かれ、山と積んである白い敷布を洗わされたり、歩いていたら初年兵のくせに生意気だと言っては殴られる。言い訳をしようとすると「文句があるか」とまたひどく殴られる。初年兵でも耐えることにも限界がある。いっそ死んだら楽になるだろうな!過酷な訓練もビンタも腹も減らない。何もしなくていい、天国だ。しかし死ぬより病気にでもならないだろうかと、生水(クリークの泥水を濾過)を飲むと、アミーバ・コレラになるから絶対飲むなと言われていたのを承知で、がぶがぶ飲んでみたが、腹が痛くならないし下痢もしない。  
 夕暮れ、ある初年兵が風呂敷を抱えて兵舎を出ようとするので「お前どこへ行くんだ」と聞くと「家に帰る」と行って営門の方へ歩いて行った。毎日陰惨な「いじめ」で頭がおかしくなってしまったらしい。他の中隊では初年兵の首吊り自殺があったらしい。 (p30~32)
 初年兵教育が終わって、初めて不寝番勤務に着く。「古年兵の起し」があり、いくら呼んでもぐっすり眠っていて起きないので、強く振り動かした。半身起きて「分かった、分かった」と二度も言ったので安心して次の不寝番と交代して眠った。  
 中隊全員朝の点呼時、週番士官が「昨夜の午前三時から四時までの不寝番勤務の兵隊前に出ろ」「ハイ!自分であります」と二、三歩前に出る。「昨夜古年兵の連絡兵を起こしたか」私が答えようとしたら、横から池田班長が飛び出して来て「貴様!」と言いながら強烈なビンタが顔面に炸裂、体が一メートル飛んだ。倒れている私の胸倉をつかんで立たせ右頬にビンタ、目から火花が散る。気が狂ったようにわめきながら私の顔を軍靴で踏みつける。蹴飛ばされ、殴られ、これは殺されると思った。そして神経が麻痺して殴られても痛みを感じなくなって気を失ってしまった
 気が付いたら自分の床の中であった。頭が「ガンガン」とする。顔が腫れ、顎は外れ、全身あざだらけ。どうして自分がこんな目に合わなければならないのか、さっぱり分からない。池田班長に聞きに行った。加藤が昨夜古年兵を起こさなかったために重要な連絡が出来ず、今朝古年兵が馬で飛んで行ったのだ。「自分は二度も古年兵殿を起しました」。班長は「うんー」と言った切り黙ってしまった。(p33・34) 加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_029_1.pdf

原隊名は満州東部第一二一部隊、連隊長は平桜大佐で、第一大隊第二中隊に所属することとなった。中隊長は稲場中尉であった。(p58) 
 内地勤務のころは、私ども新兵だけの班生活であったが、ここに来て班内には一等兵、上等兵、兵長と古参兵たちが仲間に加わり、毎日緊張の日々が続いた。
 そして数日過ぎたころから毎日のように古兵から怒鳴られビンタがある。班長からのビンタも珍しくない。鼻血がでたり頬から首すじに赤黒いアザが出来たこともしばしばあった。  
 理由は「貴様たちは近ごろタルンでるから軍人精神を叩き上げてやる」と言うことである。こうしていよいよ本格的な軍事訓練が始まった。(p59) 平野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_056_1.pdf

 中隊長は「ただ今より、お前たちの父親となる。母代りは班長、兄代わりは古兵である。お前たちは忠節を尽くし、礼儀を重んじ、質素を旨とし、初心を忘れず、兵隊らしくやれ。なお古兵たちは、他中隊では私的制裁が行われているが、当中隊では、絶対やってはならない。肝に銘じて置け。自愛を持って接し、一日も早く、一人前の兵隊にして、有事に備えよ」とのことだった。
   入隊一、二日は、兵舎班内・その他施設の説明、軍規、内務班の状況、諸規則の説明。三日目は、三種混合の注射後は無理に寝かされ、何もせずの状態であったが四日目を過ぎると、がぜん変ってきた。
 厳しい内務規則に、戦場の状況を加え、それはそれは、厳しさを超えた厳しさであった。早飯早糞、古兵の食器洗い、編上靴の手入れ、寝床の敷き上げ等に、時間がいくらあっても足らない。中隊長の私的制裁ならぬといった事はいっただけで、隣の班、自分の班から、怒声とビンタの音が聞こえて、騒がしくなる。(p65)       
昭和十四年四月、現役兵として歩兵第四十三連隊に入隊する。同連隊は通称「錦第二四三五部隊」で第十一師団に属する。(p72)岡
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_065_1.pdf

昭和十七年五月一日、土浦海軍航空隊へ、同期四百人が乙種第十八期飛行予科練習生として入隊した。・・・そして半年後、操縦分隊と偵察分隊に分かれたのであった。私の偵察分隊は、三重航空基地へ移動したのであった。そして昭和十九年三月、私たち偵察分隊は操縦分隊と別れて徳島航空隊へ入隊し、猛訓練が実施されたのであった。・・・また飛んでいる飛行機の中での前支えや、飛行後の地上で操縦教員からの鉄拳で殴られ、血が噴き出し、飛行服の前が真っ赤に染まったことなど、そのほかにも忘れられないことが多くあった。(p147)宮村

 三十分ぐらい面会の後、内務班で軍装して整列、秋田駅に向いました。午後二時、秋田駅発の臨時軍用列車に乗車、再び父と姉にも会うことができ、また互いの幸せなどを祈り合いました。  
二月二十三日 下関出港、同日釜山港に上陸
二月二十五日 鮮満国境(東安)通過
二月二十七日 北支山海関通過
二月二十九日 独立歩兵第二二八大隊教育隊に編入
三月一日 独立歩兵第二十八部隊転属
三月二日 昔陽到着、近辺の警備、重機班に配属
 また、同日より二十四人の班員に対して初年兵教育が始まりました。・・・
 また、名前は思い出せませんが、小銃分隊の初年兵が軍隊生活の厳しさに耐えかねて兵舎の向い側の倉庫の中で、自分の小銃の銃口を喉に当て、足の親指で引き金を押しつけて自殺したと聞き、日本男子にもこんな者がいるとは、残念に思いました。同じ班の初年兵の話によれば、軍事訓練の厳しさより私的制裁に耐え切れず毎日悩んでいたらしく「お前だけ制裁を受けているわけではない、皆同じだ。我慢、我慢」だと元気付けていたのにと残念がっていました。
何しろ毎日、日課のようにビンタが飛び、いろいろ公にしたくないような方法で、何にも悪いことをしていないのに制裁が行われ、先輩の言葉によればこれも申し送りとか言います。
 私も何の理由もないのに重機の手入れが悪いとか何とか理由付けられ、重機の先で殴られ頭から出血したことがありました。殴った先輩が心配して同道されて医務室に向う途中、軍医からどうしたと聞かれたら、屋根から落ちてきた瓦で傷ついたと言えと言われ、その通り軍医に申告しますと、軍医も気付いたのか「これは瓦による傷じゃない」と、先輩を睨み、「今後このような殴り方止めろ」と怒鳴りつけていました。私もしゃくに障り、先輩を睨み付けました。(p163・164)斎藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_161_1.pdf
 
 昭和十九年十一月十五日、西部第四十七部隊に入隊すべしとの通知を受けた時は「やっと来たか」と喜びました。(p178)
 大村部隊に着きますと、三百人ぐらいの初年兵が入隊し(p179)
 ここで防寒服を支給された私たちは、論次から北十キロ地点に位置する東洋鎮に駐屯する第二中隊(中山隊)に派遣となりました。(p179)
私は青年学校で軍事教練などの教育を受けていましたので少しは楽でしたが、防毒マスクをかぶり走らさせられるときは苦しくて苦労しました。そして毎日叩かれ、叱られての生活には、軍隊の厳しさを身にしみて感じました。(p180) 松尾
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_178_1.pdf

 集合場所の郡山駅前広場は、入隊する若者でいっぱいでした。引率の下士官が見えられ、千葉県市川国府台の東部第七十三部隊「野戦重砲留守部隊」に入隊となり、私物は家に送るように荷造りをして、代って軍服を受領し、戸惑いながらも着替えしたのを、六十年過ぎし今日でも、あの緊張感と共に思い出されます。  
 兵舎に入って、内務班の一班は十五人ほどだったと思いますが、班長、班付上等兵を紹介され、「お前たちは、行く先が分るまではお客様だから」と言われて、その気になっていますと、突然、「整列!」の命令が下り「お前ら、ここは娑婆ではないんだ」と、まだ若い班付の上等兵に猛烈なびんたをもらい、これが軍隊のびんたなのかと驚きました。(p192)小川         
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_191_1.pdf

 昭和十九年の春に徴兵検査を受け、第三乙種合格となり、翌二十年五月、ソ満国境牡丹江の近くの綏南の第八四八部隊機関銃中隊歩兵班に入隊し連日猛訓練を受ける。
 入隊して四、五日たったであろうか、夕食後の自習時間に突然、隣の内務班で班長の全員ビンタが始まった。何やら大声でどなりつけ片っ端からパンパンと殴る音が聞える。それを聞いた我々の班でも班長が忘れていたかのように「ヨーシ、うちでも一度やっておこう。全員食台の前に並べ!軍隊の上靴ビンタというのを味あわせてやる!一人ずつ俺の前に来い、足を開き歯を食いしばれ!」有無を言わせず一人ずつポーンポーンと始まった。叩かれた頬はしびれ、反対の頬はポカポカホテリ、翌朝、兵隊たちの顔の半分は紫色には腫れ上がっている。とんだ隣り班からの巻き添えである。
 この上靴ビンタは、軍隊の編上靴の上部を切り取ってスリッパ状にしたもので、踵には鉄のビョウが五、六列に打ち込んでいて廊下を歩くとカタンカタンといかにも堅そうな音がする上履きである。このような痛い目に逢ったこともあったが、また、楽しくもあり、スカッーとした心地よさを感じたこともあった。(p227・228)門口
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_222_1.pdf

昭和十八(一九四三)年五月一日、横須賀第二海兵団へ海軍二等整備兵として入団しました。 ・・・国家のためと気負い込んで、また憧れての入団でしたが、翌日からの新兵教育の厳しさには驚きました。どこまでが教育で、どこからが私的制裁か区別無く殴られながらの毎日でした。(p440・441)中村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_440_1.pdf

昭和十八年六月、十六歳で予科練(特乙二期生)として岩国航空隊に入隊しました。 しかし十代の青春は、厳しい軍隊生活の毎日でした。精神棒(野球のバットより太めの木棒)で尻を殴られることは毎日の日課でした。(p420)浅野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_420_1.pdf

待望の佐世保海兵団に昭和十六年一月十日入団せよとの通知が届きました。海兵団の新兵教育は三カ月間。毎夜整列してお尻へ精神棒(野球のバットの太いやつ)を叩き込まれます。一人でも悪いと団体責任でやられます。立ったままだと倒されるので壁に手を付いて支え、尻を突き出す形になって叩かれるのです。連日叩かれると尻が黒くなり便所で用を足すときの痛さに泣く思いでした。陸軍のビンタと海軍の精神棒はいづれも下級兵士の恐怖の的でした。 (p416・417) 鈴木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_416_1.pdf

一 軍人は忠節を尽くすを本分とすへし
一 軍人は礼儀を正しくすへし 
一 軍人は武勇を尚ふへし 
一 軍人は信義を重んすへし 
一 軍人は質素を旨とすへし
 当時、軍隊に入った者は、皆この軍人勅論なる「聖訓五箇条」はいつでも、教員、上官に言えと 言われれば、間違いなく言えなくては鉄拳が顎に とんでくる。気合がたるんでいるという。 
 旧兵と新兵、海軍では階級が下でも飯の数で物を言う。一教班十五人ぐらい、教班長は五年から 十年海軍に在籍したもので、新兵教育は海兵団で 
四カ月、みっちり娑婆気をなくし、半人前の海軍軍人へ育っていく。
 海軍には「バッタ」 「カシタ」 「マエササエ」がある。 「バッタ」とは両手を上にあげ両足を開き、尻を突き出し樫の棒で尻を叩く。三つぐらい叩かれ、「アリガトウゴザイマシタ」といって自分の列に帰る。(p406・407)

 それにひきかえ軍楽隊はいいな、一日中プカプカドンドン気楽でいいなあ、俺にもできるような気がする軍楽隊になりたいなと切実に願う奴も出てくる。ここで鬼軍曹に匹敵する教班長の出番がやってくる。・・・
 仁王だちになった先任教班長は、志願者たちの顔をひとまわり眺めわたし一歩前に出た。
 「この馬鹿者、海軍はそんなに甘くはない。お前ら志願して海軍軍人になり軍服を着た以上、タイコを叩いたり笛を吹いたりするちんどん屋になるなんて貴様ら気合がたるんどる。これから根性を叩き直してやる。ブッ倒れるまで気合を入れてやる。両足を開け、踏ん張って歯を食いしばれ」 。
 頭を何発くらったやら、教班長連中はいろんなシゴキを知っている。これも班長連中も新兵時代にやられてきた道で、こんなにシゴかれ、やがて一人前の軍人になって行く。 (p407~409)児玉
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_406_1.pdf

 夜になり玄界灘は大時化となり、右にゴロリ、左にゴロリ。翌日はおだやかになり、揚子江を上がって一月三十日上陸、上海海軍特別陸戦隊に入って現地教育を受けました。気候は、三寒四温で寒い朝は弱りましたが、訓練は学校の教練の時間に習ったことばかりで、陸軍と同じで苦にはならなかったのですが、対抗ビンタや風呂場からの匍匐前進などもさせられ、四月十五日で新兵教育は終わりました。(p390)谷口
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_389_1.pdf

兵役は、志願して昭和十七年九月一日に佐世保海兵団(兵籍左志機三六七六四)に入団しましたが・・・入団して、初年兵教育は多くの辛い思いもしましたが、思い出すのは、甲板掃除の際に「チェッー」とある初年兵が言ったために、全員が徹底的に教範長から痛めつけられたことでした。(p378・379)

ようやく三カ月の教育期間を終えて四等機関兵から十一月に二等機関兵となり、佐世保海軍自動車学校に入りました。入校三カ月で自動車免許を取得しました。・・・海軍自動車学校は佐世保の練兵場の中にあり、その教育隊での教育は、起居をはじめ、しつけなど、すべてに厳しく、階段の登り降りでも「遅い、遅い」と二十人全員がバッタをもらいました。遠出で佐賀県や福岡県へ行きましたが、帰還が遅いと二十人全員が並ばされ、またまたバッタの嵐を受けます。 (p379)町
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_378_1.pdf

 昭和十八年七月十日、久留米陸軍病院へ転属、下士官に引率されて、歩兵第四十八部隊に、 「さようなら」をしました。 久留米師団管下の各兵科諸部隊より選抜されてきた衛生兵要員の集合です。(p313)
 夕食後の古兵の私的制裁は誠に厳しく、二列に並ばせての「対向ビンタ」です。戦友対戦友で、少しでも加減をすると「こらー そのようなことでは駄目だ。力いっぱいだ」と言って、目の前の戦友を殴り飛ばします。互いに心でわびながらの殴り合いでしたし、古兵は得たり顔で立って眺めています。そして「腕立て伏せ、五十回だ」と、いろいろ考え出してやらせます。 (p314)野田
 
 我々初年兵を教育するのは、自称歴戦の三年兵とか、満州帰りの四年兵とかで、鼻息の荒い古強者であった。毎晩の日夕点呼の鉄拳、ビンタ、時には営内靴さえも飛んできたこともいくどかあったが、話に聞き、本で見知っていた私には別段苦痛とも思わなかった。六条志願兵は、下士官志願兵と見なされていた頃なので、我々志願兵には特にきびしかった。ふた言目には「将来の幹部がそれでよいのか」と声と共に飛んで来る鉄拳には、さすがに頭に来ることもあった。
(鈴木卓四郎「憲兵下士官」p208)
 
 三月中旬の北京の風は骨身にしみるほど冷たく、枯葉をすっかり落とした東長安街の合歓(ねむ)の並木は寒々としていた。その並木の下で中年の女をともなった三人の若者と二人の少女がたちどまって私たちの教練をながめていた。きれいな姑娘(クーニャン)だなァとうっかり見とれていた丸田二等兵の頬にいきなりビンタがとんだ。
 「こら!何をみとるんなら。今年の初年兵は態度が太い、まったくたるんどるんじゃけん」
 初年兵係の岡崎智上等兵が、岡山弁でどなった。初年兵のなかの一人がヘマをやると、共同責任だというわけで、夜の点呼後に初年兵全員がビンタをとられる。今夜がまた恐いな、と思うと、午後五時に近く教練を終えて帰営する足が重かった。(p17)
(井上源吉「戦地憲兵 中国派遣憲兵の10年間」)

 そして東京市葛飾区にあった晴第一九〇一部隊航空隊に入隊、陛下の御馬前ともいうべき宮城前で敵機を撃滅する名誉ある任務に就かさせられたのです。
 入隊したころは冬の時季で毎日の学科や訓練の教育は厳しいものでした。また内務班においても古年兵殿より日々の厳しいビンタが飛び交う毎日でしたが、自分は青年学校で四年間の軍事教育を受けていましたので少しは余裕がありました。(p306・307)三條

 昭和十八年三月三十一日、私に待ちに待った召集令状が届きました。四月十日、大村市の歩兵第四十六連隊に入隊せよとの内容でした。・・・
 翌十日十時、みんなそろって大村第四十六連隊の営門をくぐり入隊しました。私は第六中隊に配 属され、班の人員は初年兵十三人でした。
 入隊当日は古兵から歓迎され、いろいろ親切に教えてもらいましたが、二日目からは朝六時の起床から夜九時の就寝まで忙しいこと。ぐずぐずしていれば怒鳴られる。返事が悪い、質問に返事がないと叩かれる。軍人勅諭の暗唱、兵器の手入れ、古年兵の世話、朝昼夜の飯上げ、内務班の掃除、軍事教練の厳しさ、夜の点呼時には叱られ、叩かれる毎日という男同士の生活が始まりました。軍隊の厳しさは事前に聞いていたが、こんな厳しいのなら志願までして来るのではなかったと思うこともありました。一人間違えれば連帯責任だと全員が叱られ叩かれたり、対抗ビンタで向き合って叩き合うことなどいやな思いが度々しました。(p294・295)木下



日中戦争期、中国民衆の抗日手紙

まず、手紙を読んだ日本軍の感想
三、抗日的郵便物の内容(別冊 参照)
支那民衆の手紙に表現せられたる抗日意識を仔細に点検するに愛国的熱情を盛れるもの決して尠しとせず、
出征兵士を激励する父母、兄弟姉妹朋友等の態度は皇国に於けるものと類似せるものあり。
是等手紙は皇軍の直接占拠せざる地域より発せらるると共に皇軍が直接警備せる都市、鉄道沿線よりも亦発せらるもの少からざるの事実に鑑るに民衆獲得の容易の業にあらざるを認む

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レファレンスコードC11111669200(9枚目)
方参特報綴 昭和14年1月

以下手紙
方参特報第七号 昭和十四年一月九日杉山部隊参謀部 
抗日意識を盛りたる北支民衆の通信文抜粋 

本書は憲兵隊の努力蒐集せる北支民衆の封書類中抗日意識を盛りたるものの主要なるものを抜萃せるものにして昭和十三年十、十一月の二ヶ月分のものなりとす。

[日付] 十二月十一日
[発信者] 河北省安平県西満正 張雲祥
[宛名] 河北省霊寿県陣荘 第一戦区第一遊撃隊 趙蘭欣
[本文の内容] お前は今漸く十六歳の少年に過ぎざるも抗日救国の熱情に燃へ出征してゐる事は家族中の名誉であるお前のお父さんも外部に於て救亡工作に元気で従事して居るから安心せよ

[日付] 十月二十一日
[発信者] 南和県崗上村 関凌湖
[宛名] 彰徳府六八九団三営十二連 関礼的
[本文の内容] お前の入隊を父は非常に喜んでゐる抗日救国はお前の主義であり又父も同一精神であるお前は軍隊に軍隊にあり忠を盡し以て日本に抵抗して救国さへ出来れば父は死んでも歓(?)喜する茲に頼むことはお前の徹底的抗戦である

[日付] 八月二十八日
[発信者] 父(河北省東明南五十五里身屯村)
[宛名] 郭峻堂(●《草かんむりに「宮」》県●●六〇五里●●●春堂)
[本文の内容] 我子よ隊内にありて長官の命令を良く守り其の成果を挙げよ

[日付] 十月十五日
[発信者] 河南井店鎮 蘄富礼
[宛名] 三陽鎮 陸軍三十二軍補充二団七連 蘄書延
[本文の内容] 現在中国民衆は抗日戦線に立たねばならない時機に於てお前等青年級の者は家事等顧る時でない家の事は一切父が引受てやる長官の命令に服従し殺敵に努力することを切に望む

[日付] 十月十日
[発信者] 安平県崔岑村 父母出
[宛名] 南官大屯村八路軍遊撃隊政治部 少年先鋒隊 李成群
[本文の内容] 今お前は南官の第八路軍にて訓練を受け居る由父母は此の上なき光栄と思ふ現下国内情勢はお前等青少の活動すべき時機なるを以て軍紀を守り活躍することを希望す

[日付] 九月十八日
[発信者] 沂州東十字路 候の父
[宛名] 広西省●●市 候伝●
[本文の内容] 汝の兄は在営健全なり血戦中は弾雨の中に生命を保った富貴生死は天に任す尚意気旺盛だ今こそ正しく救国の時期到来した

[日付] 九月二十六日
[発信者] 新安県崔公堤村 母
[宛名] 定興県青荘村或江村 国民革命軍陸軍第八路先進支隊 崔永芳
[本文の内容] お前は長官の命令には絶断に服従し同志に対しては敬愛を旨とし謙和を以て苦痛を忍び犠牲的精神を以て国に報ひ万々家庭の事情は考へてはいけない
「忠を盡す為に孝行が出来ない」
と云ふのが今の本当の状態なのです
国民として責を果さねばなりません家のことは村人が見て呉れますから心配は無用です

[日付] 九月二十七日
[発信者] 母(山東省●県)
[宛名] 呉龍奎(湖南長沙府砲兵十三団通信隊)
[本文の内容] 我国は当然亡国すると思ふ
日軍が引揚げれば・・・・

[日付] 十月二十日
[発信者] 河南省鎮在県栄三探庄 父
[宛名] 安徽省馬山一〇五師六〇三団 何●●
[本文の内容] 国策の為め働くお前の職は立派なものだ何時も上官の命に従ひ忍耐して倭冠〔ママ〕の不法を撃退する迄は断じて帰らぬ様に

[日付] 十月十九日
[発信者] 西安第十後方医院七号 袁栄昌
[宛名] 河南省封邱県北手●和堂 学友手
[本文の内容] 私は毎日国家のため日本鬼子駆逐の為働き負傷された勇士の看護に当って居ります此処に見る将兵の勇姿には感服致します一日も早く鬼子撲滅に邁進して下さい若し私が男子であったなら立派に奮闘するのですが女の身で残念です

[日付] 十月十二日
[発信者] 深県津南坑〔ママ〕日自衛軍第三支隊々部 王習知
[宛名] 清宛県揚●鎮第八路軍第三縦隊第八支隊第二十二大隊第二●第六連 王子珍(?)
[本文の内容] 聞けば最近第八路軍内にて働いて居る由家内一同悦んで居ります第八路軍は立派な軍隊ですからお前も抗日軍人として規則を守り固い決心を以て奉公をなせ兄も今は津南抗日自衛軍第三支隊警衛第二連に参加して居る

[日付] 十月二十一日
[発信者] 漢口 喜亭
[宛名] 張家口●●●子巷八● 傳敏●
[本文の内容] 時局未だ安定せず私の行動も如何に変化するや不明此処に遺言を記す(1)解放運動に努めよ(2)健康に留意し子供を育て国のため盡せ

[日付] 十月三十日
[発信者] 兄栄貴(河南蘭封県東六十六里王双橉
[宛名] 趙文巳(湖南衡陽県南外獄(?)屏書院
[本文の内容] 暴逆なる日本軍は中国を侵略せんとして居るも其の意の如くならず当地にも日軍は二回来るも占領能はず
軍紀を守り上官の命に従ひ国を守り民を愛するのがお前の責任なり

[日付] 十一月九日
[発信者] 楽陵県城北韓家庄 父 郭希曾
[宛名] 山東日照県石臼井自怡連軍(?)暫編第一旅独立迫撃砲隊 郭連
[本文の内容] 最も良きは即ち帰郷し何等かの抗日工作をなし国民の天職を盡す事にして再び日本軍の走狗となり偽軍となる勿れ茲に別紙の通り数枚の「ビラ」を同封するにつき汝の同志等に見せ或は暗に街上或は通行繁しき地点に貼り出されたし
(共産第八路軍の署名ある左記二種の激〔ママ〕文を同封しあり)
○日冠〔ママ〕の圧迫下の偽軍に与ふ
○日冠、銃殺せる盬(?)山偽軍長張玉●等のため偽軍に告ぐるの書

[日付] 十月三十日
[発信者] 聊城々内東口北街十六 秀容
[宛名] 臨邑城内支●街六 張●●
[本文の内容] 君等軍人は軍人としてなすべき事を努め生命を度外視して熱血を以て戦ひ帝国主義者の暴行に抵抗し国家の恥辱を雪がれたし之実に最も光栄ある事なり

[日付] 十月六日
[発信者] 山西省朔県城内節孝 水安濟(?)
[宛名] 陝西省安●●新城●立●●中学校 水安洛
[本文の内容] 昨年日軍入城後城内住民八百名程惨殺された其時父も殺された生きてゐて圧迫せられるよりも死んだ方が幸福だ長兄にも通知して将来此の仇をとる様に奨めて下さい

[日付] 十月十九日
[発信者] 山東省臨清県郵政局 施
[宛名] 河北省灤県西関●文中学
[本文の内容] 骨肉横飛する中に依然として打倒日本帝国主義を叫びあるは如何に快楽なることよ
将来我々青年の血より一個の新しき長城を築き以て数十年の恥辱を茲に雪がん

[日付] 十月二十七日
[発信者] 山東聊城文化供応社 蒋承立
[宛名] 河北省広宗県政府 玉県長
[本文の内容] 君が現在広宗県で県長になった事を聞き非常に愉快だ我等が茲に希望することは全県民衆を導き抗戦し救国の道を行くことに努力することです

[日付] 十月三十一日
[発信者] 昌楽馬朱 曹子君
[宛名] 泰安城東邱家店
[本文の内容] 国家の存亡の秋に当りて家の事情等に関って居ることも出来ません妻の事も省る余裕も持ちません
妻にも僕達の工作が完全に出来たれば将来笑て楽しく暮せる時期が来ると言って下さい

[日付] 十月二十五日
[発信者] 覇県蘇橋東楊荘 董玉志
[宛名] 河北省安国県伍二橋 董福志
[本文の内容] 父上様不肖入隊以来抗日救国に献身努力致して居ります国家無きは我家無しと同様でありますので私は身命を投げ打って殺人放火掠奪を為す日本鬼子の撲滅に専念し自由平等の生活を争取せんとして居ります

[日付] 十月十五日
[発信者] 冀県民軍二路総司令部伝令股 張文生
[宛名] 東明県馬頭集 張文生本宅
[本文の内容] 父母への不幸は已むを得ません
国歌が極度の危機に迫りたる折柄私等青年の一身上の事情は次の問題です聞けば兄が家に帰った由兄を再び出さぬ様にして下さい

[日付] 十月十六日
[発信者] 山西省炙県一六九師一〇七旅二五一団 父
[宛名] 河南省大〔ママ〕康県陳荘 陳翼雲
[本文の内容] 敵殲滅のため努力中にして若し父の戦死後はお前が此の父の抗日救国の意思を継承し永久に国に盡すべし
此の父の命は必ず守られたし

[日付] 十月二十日
[発信者] 山西省沁県王崟
[宛名] 河内省〔ママ〕永城県薜湖 王白福
[本文の内容] 小生帰家し得ざる原因は国難の最極端にある中国更生のため身命を捧げある故なりもちろん一人二人の力にては現状を如何とし得ざるも民衆も兵も皆力を尽すなれば我国も今新に世界の強国となり得る郷里の父母よ何卒中国更生の為犠牲となり国難に殉ぜられたし

[日付] 十月二十三日
[発信者] 浙川県上集 湧泉観
[宛名] 滄県西杜林荘張家口 張培益
[本文の内容] 小生三月以来河南国立中学校に入学す同校は毎日午前中軍事教練全校生徒一二〇〇名抗日英雄たらんと寧日なき猛訓をなしつつあり
日寇に対し現在の位置転(?)例さすも遠からずと希望に燃へるなり君も中国永遠の平和と自由を確保せんが為帝国主義日本侵略排撃を邁進し共に中国和平のため奮闘されんことを望む

[日付] 十月二十二日
[発信者] 清苑県中家荘 路光陸
[宛名] 粛寧県城北太高家村 高文●
[本文の内容] 吾々は再び抗日の旗幟を立て早速朱司令の処に行こう万一君が同意せざるも私だけでも行きます朱司令は本当に抗日の英雄です日本も程なく失敗して逃走する様になるでせう

[日付] 十月二十六日
[発信者] 河北浅水県 史質堂
[宛名] 山西損県陸軍第十師三十九旅五九団部 史雪堂
[本文の内容] 遊撃戦術を利用して張坊婁村六区一帯を活動して居る敵の占領せし地点は僅かに鉄道沿線及城市なり他の大都市は義勇軍の範囲なり双方は常に衝突を免れず日軍の到達する故無くして焼失殺傷掠奪姦淫が行はれ紫荊関沿線の焼失最惨たり通信所は河北県●県石亭鎮内 史質生

[日付] 十月十四日
[発信者] 臨 治原裕源棧 旭光
[宛名] 萊陽北郷朱留鎮 玉昇
[本文の内容] 現在時局緊急なり今家を出れば日軍には中国軍の密偵として捕われ中国軍には漢奸と思はれる喜で国難に赴き刀折れ力尽きる迄戦ふ私の決心は生を棄て死を以て民族生存の為国家の栄光のため戦ふ積りである

[日付] 十月二十四日
[発信者] 山西省垣曲県上坡城村 田文林
[宛名] 曲陽県城南北楊馬村 田老
[本文の内容] 現在の処帰郷は不可能であります之も皆悪鬼日本帝国主義の為であります国土は侵され父子の対面も意の如くならず私は百度転(?)んでも残酷無道なる日本鬼子を駆逐せねば止まない決心をして居ります現在我隊では補充兵訓練をやって居ります通信先は山西省垣曲県上坡城村陸軍独立第五旅六一四団々部宛

[日付] 十月二十六日
[発信者] 冀中区北上覇県工作団
[宛名] 河北省定県 西王村
[本文の内容] 不肖は五台山の軍政学校に於て訓練を受くること三ケ月爬山走歩の行を積み身体を鍛錬し軍事政治学を学び新知識を注入致しました卒業後当工作団に配置され現在に至って居ります今後は家庭の観念を捨て抗日を最大の抱負となし中華民族解放を目的とし日本鬼子と闘ふ決心であります

[日付] 十月十六日
[発信者] 中央直轄忠義救国軍第一路第一団第一営長
[宛名] 山東東昌府第六区遊撃司令部騎兵団
[本文の内容] 私は張司令の救国の英雄たるを知り張司令隊に入隊し抗日工作に従事して居ます張司令に報ゆるは唯抗日工作の完成だと思ひます

[日付] 十一月四日
[発信者] 県第六師四団九連 東高
[宛名] 曹州金堤集西街
[本文の内容] 目下支那は朝存夕亡の時にありて救国せんには必ず我等青年に俟つべきにして目下救のため活動するは家庭にて両親に孝を尽すと同様なり現在日冠の到る処殺人、放火をなし居るに我等は安居楽業をなし得るや必ず共彼等を支那より駆逐せねばならない

[日付] 九月二十八日
[発信者] 李志智
[宛名] 河間県第一分区司令部団長佩林
[本文の内容] 1 抗戦初期に於ける部分的領土の損失を以て日中戦争の運命を判断するは早計なり此の一年間の抗戦により日寇に対し相当の打撃を与へ我々は最後の勝利と抗戦継続に対する基礎的確信を得たり
2 全国の武力、人力、資本を動員し長期抗戦に対処すべし

[日付] 十月六日
[発信者] 清苑県婦女抗日救国会清苑県温仁村
[宛名] 安国県南関婦女救国会 王景雲
[本文の内容] 婦女会は二十余ケ村に組織され旧九月二十一日に婦女幹部訓練班を開始することになり一週間位の期間で人数五十人を内三分一は農民分子だが精神は非常に良好だから村の婦女救国会の領導をする様になると思ひますが九、一八記念日も中秋節もあり演劇の準備や提灯行列の準備で多忙です

[日付] 十月二十二日
[発信者] 昌村北辛 丕紳
[宛名] 四川重慶載家巷 寛仁医院
[本文の内容] 此の地方の治安は皆我国の軍隊の手で保たれて居って決して日本軍の支配は受けて居りませんから御安心下さい村の者で十八歳より十五歳迄の男子は全部軍隊教練を受けて有事に備へて居ります

[日付] 十月三十日
[発信者] 河南宝豊県軍政部一二七後方医院 呂元祖
[宛名] 浙江省陽蔡県文清金店 蔡林喜
[本文の内容] 充満せる傷兵は口々に倭奴を呪咀失地の回復を希ふ中国の現状は皆倭奴の責任にして我等は断じて此の悪魔と妥協し中国を滅亡させるに忍びず飽迄抗戦を徹底するものなり

[日付] 十月三十日
[発信者] 洛陽一六六師歩四九八旅司令部 王慶林
[宛名] 河南封邱県留光集大岸村 王茂謀
[本文の内容] 抗戦数ヶ月全く生きたる心持無く経過せり吾人は飽迄日本帝国主義の奴等を打倒し軍勢を殲滅して自由平等平和の中国を建設せざれば断じて凱旋するものにあらず

[日付] 九月二十八日
[発信者] 盬山城内 氏名不詳
[宛名] 滄県柳家荘 馬桂臣
[本文の内容] 日本軍は軍紀風紀の厳正は世界第一なりと誇張して居るが事実と雲泥の差あり中国の雑軍と大同小異なり日本兵が煙草を口にして民衆を訪問「マッチ」を要求す之は彼等の常習手段である即ち何所に好い女が居るかを物色するが目的である昼間物色して夜間侵入して人妻であらうと娘であらうと構はず強姦する

[日付] 十一月四日
[発信者] 北京安内●官●六号 彦章叩
[宛名] 鹿邑県城内石陽 梁萩江
[本文の内容] 到る処其の擾乱を受けて居ります思ふに日本軍を依頼せよと云ふも日本軍人八十人の中一、二人位しか良心を持つ者なく之では我国は滅亡の外なく到底恢復の見込はつきません

[日付] 十一月六日
[発信者] 漢口大智邊協盛客棧 幹臣
[宛名] 永城県西南三十五里●王集 刻湧泉
[本文の内容] 此の儘我国が失地を回復することが出来なかったら貧困なる民衆は只死より外はありません
我祖国が彼等に占領され一年前の如く邪好なる鬼子蹂躙される事を考へる!口惜してく〔ママ〕口惜しくて堪りません
此の苦痛を味ひつつある我等は全能を発揮して第一線の勇士を助け御国の為に努力しませう

[日付] 十一月七日
[発信者] 山西省遼県第一二九師警備第二連 封国英
[宛名] 河南省寧陵県南街 封克文
[本文の内容] 最近叫びつつある帝国主義は我中国人には誠に不合理にて何処の国にも其の国の古代本性がある中国の子孫は決して日本と交ってはならぬ又帝国主義を信ずるものは自国自滅の基である我等は速に中国より日本を撃退し我国を救護しよう云々・・・・

[日付] 十一月五日
[発信者] 北京盧(?)水春医(?)院 戴某
[宛名] 香港九龍旺角荔枝角道一三三号二楼 戴徴(女)
[本文の内容] 近日来広州陥落の報伝はり非常に不安を感じあり又一面に於て国人(国民党)の無能を痛心しあり平素は一人天下の如き言を吐く広東人も此の時に到り些かの抵抗もなさず敵人に蹂躙せられたり且喪心病に狂へるが如き一部の人は走狗となり敵人に従へり実に涙するに余りあり

北京新聞の漢口陥落状況を記せるもの封入しあり

[日付] 十一月二十四日
[発信者] 北京静生々物調査所 胡緒博士
[宛名] 香港ロビンソン路二十七号 陳夫人
[本文の内容] 漢口、広東の陥落に痛く落胆致されて居られる様ですが私をして言はしむれば吾人は最後の勝利に対し更に楽観論を持つべきである

[日付] 十一月二十二日
[発信者] 青島市膠州路七五号天賓(?)銀楼 錦棠(?)記
[宛名] 寗(?)波慈東洪塘鎮 万与蔬菜行気付洪思義内 慶棠
[本文の内容] 現在の我々は何事に依らず其日其日を敵の命令に依って生きて行かねばならない様な状態だ青島も亦十八歳から三十五歳迄の者を抽籤して青年団を組織する様になった(敵の意図に依り)然し彼等の為に召集される位なら寧ろ自分の国のために召集されて行った方が何れ丈良いか判らない敵のために働く位なら国のため死にたい

[日付] 九月十八日
[発信者] 安徽省雲和県程宅小学校 張煥南
[宛名] 前線将兵宛
[本文の内容] 今日は九、一八記念日で私達の悲憤甚しきものがあります我々人民が一般協力抗戦に努むれば最後の勝利は我々の頭上に輝きます

[日付] 十一月二十一日
[発信者] 源城内 王鳳祥
[宛名] 大同県第四区馬軍営林 李海山
[本文の内容] 近頃国難の為赴いた友達の事が思ひ出されて仕方がない異族の暴力よりなる民族的屈辱下に甘んじて居るより苦しくとも崇高なる救国の信念を抱いて行った良国、徳海等の諸友は何れ丈幸福であらう

[日付] 十月二十三日
[発信者] 甘粛省愛陽県西夅鎮 候振興
[宛名] 河南省滑県城東七十五里老安鎮西北候小 候青仁
[本文の内容] 僕は甘粛省慶陽県西夅鎮陸軍第九七師二八九旅立七七団二営四連に入隊し現に服務中である身を国に捧げた以上は決して生きて帰らない覚悟です我国が滅亡の途を辿りつつあるを見て躊躇しておる時機ではない粉骨砕身手柄を樹てるから安心せよ

[日付] 十一月十五日
[発信者] 寿県張秋鎮新開街一七軍事委員会政治部直属第三政治大隊 叔父 晨
[宛名] 河南魯山県省立商邱高等中学校 郭同●
[本文の内容] 小生等黄河渡河以後各地の霍乱病は非常に流行し敵人は多くの漢奸をして井戸中に毒薬を投入せしめたる事は常に見たる処にして漢奸の害は敵人より甚だし我等今回通過せる地点には敵の屠(?)て来れり処もあり又来たらざる地点もありたるも人民の敵を恨み居る事は各地共激しかりき

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方参特報綴 昭和14年1月

大本営政府連絡会議に見る"アジア解放"の嘘


三月十四日 自一〇、〇〇 至一二、〇〇 第九五回連絡会議

議題
一、研究問題第七「占領諸地域の帰属及統治機構」(未完)
議事
一、原案に就き山本東亜局長より説明(別冊を除く)あり
其の際左の如き捕足的説明あり
(略)
二、本問題に関する大東亜建設審議委員会の空気に就き鈴木企画院総裁及武藤軍務局長より左の如き紹介あり
(A)一般的空気と認むべきもの
(1)占領地の帰属其の他の決定は国防上の要求に最も重きを置きて決定するを要す
(2)占領地処理は躊躇又は遠慮を要せず、明快率直徹底的に断行すべし
(3)政治的、民族的、経済的に複雑なる地方に対し直接繁累に携はるは不利なり、成るべく従来の機構を活用するを可とす
(4)右に反し人口稀薄にして未開の処女地は帝国に於て強力に把握すべし
但し戦争遂行中の現情に於ては統治の容易にして而も開発に手数を要せざる地域を把握するを要す
(5)占領地域に関しては濠洲又は「ニュージーランド」を包含せよとか西は「インダス」河迄、東は「パナマ」迄占領せよとかの説あり
(6)今回掌握下に入りたる各民族は大体に於て独立の経験無きを以て独立せしむる必要は絶対的ならず
(7)蘭印は従来一組織内に在りしを以て今後も一組織として取扱ふを可とす、然らざれば帝国の手に依り凡ての組織を改編するの必要を生ずべく満洲等の経験に依るも此れは一考を要す
(8)統帥事項に触るることとなるも飛び石に利用せらるる諸島嶼は必ず我が手に収むるを要す

(B)個人的意見と認むべきもの
(1)占領地の帰属其の他の決定には先ず以て八紘一宇の理念を基礎とし細部に入るの要あり、方針を忘れて直接具体的問題に入るは不可なり
(2)占領地処理は戦争遂行に有利ならしむるを以て第一義とすべし、四、五十年の将来又必ず大戦争を惹起すべし
(3)占領諸地域に対しては軍○と外交とのみを十分把握し其他は細部に干渉すべからず
(4)大東亜建設は日満支を中心として実施すべし南方の如き遠距離の地域に重点を持て行くは不可なり、南方のみに夢中になるべからず、帝国と南方との距離は英米間の距離よりも大なり(某海軍将官)
(5)徒らに領土を拡張するのみが能にあらず、占領地域の各民族が喜んで働く様に指導するの要あり、然らざれば将来戦に於て却て指導下民族の反●を受くるに至るべし
(6)まごまごすると独逸人支那人等に良い所を全部取らるる虞あり、今より之を警戒して所要の方策を講ずるの要あり
(7)占領地域を余りに細分するは統治の複雑ならしむるを以て少数の区画に区分するを要す
「註」 以上極秘扱とすること

三、山本東亜局長の原案説明に関し未だ「別冊」統治機構問題の説明に入らざる内に左の如き論議沸騰す
「註」 外務省が説明用として準備せる帰属別地図に帝国領土は赤、独立予定地域は黄を以て色別を●しあり、「ジャバ」のみの独立が強く関心を惹きたるものの如し
(以下判読困難)

「大蔵大臣」
独立は時間●●●●●●●にするの要あり、比島の如きは間も無く独立せしめて可なるやも知れざるも「ジャバ」の如きは「ズーッ」と永く軍政を行ふを要すべし、従て主権は先づ日本に取り適当の時機に独立を与ふれば可なり
独立させると言ふも実際は独立出来ざるやも知れず
「企画院総裁」
軍政は「ズーッ」と永く施行せざるべからず、過早に蘭印に独立を約したりなどして増長我儘させてはならぬ(大蔵大臣強く同意)
独立せしむと言ふも実質的独立には非ずして相当の干渉を受くる独立ならずや、何れにせよ今より独立と決定するは過早なり
「山本局長」
高度の自治より独立に進むと言ふことも考慮し得べきも何れ独立せしむるものならば今の内に決定して置くを可とす

以上にて大体の空気は「ジャバ」のみ何故独立せしむるや、実質的に掌握して独立せしめては却て文句が起るべしとの意見強く会議を支配す

「総理」
統帥関係事項なるも海軍は根拠地設定の為何れ位の地域を確実に把握するを必要と認められありや
「軍令部次長」
先づ以て日本海を中心とし其の周辺は国防の中心たらざるべからず
次で小笠原諸島より南洋委任統治領を経て「ビスマルク」諸島に亘る線及昭南港並に「スラバヤ」を中心とする海域を確保するを要し「ニューギニヤ」東部「サラモア」付近を確保すれば濠州を制圧し得べし
対英国防の為には「ジャバ」「スマトラ」を以て第一線とし之に「アンダマン」を加へて確保するを要するも「ジャバ」「スマトラ」西南岸には良好なる基地なし、結局湘南港「スラバヤ」及「サラモア」を確保するの外なし
対英作戦の為には南支那海と「ジャバ」海とを確保すれば先づ大丈夫なり
東方に対しては小笠原諸島と「ニューギニヤ」間に若干の心配あり
此等の見地より南方占領地域は全部帝国領土とすること可能ならば申分無きも局地によりては政治的民族的各種の事情あり、其処に研究を要する問題あるべし
「総理」
然らば「ジャバ」も皆我が手に収めざるべからず何故「ジャバ」のみを残したるや
「武藤局長」
どうも全部取らねばならぬと思ふも何と無く蘭印は独立せしめざるべからず、然るに「スマトラ」は取らねばならぬ、「ボルネオ」は取らねばならぬと漸次逐ひ詰めて行けば結局「ジャバ」のみ残らざるを得ず、斯る経緯にて「ジャバ」のみ独立せしむることとなれる次第なり

斯くて依然「ジャバ」独立は今より決定してかかるの要なしとの空気となり最後には海軍大臣より『ジャバ」を独立せしめて如何なる利益ありやを研究せる者なりや』との詰問的意見もあり
「其処迄行かんでもよかろう」との仲裁もあり

四、結局本件は更に研究を要すとして未決の儘別冊の検討にも入らず散会となる

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レファレンスコードC12120259500
大本営政府連絡会議議事録 其3 昭和17年1月10日~18年1月30日

「国家機密」印 20部の内第11号 「決定」印
占領地帰属腹案 昭和一八、一、一四 大本営政府連絡会議決定

一、占領地の帰属に関しては左の基準に依り之を定む
(イ)大東亜防衛の為帝国に於て確保するを必要とする要衝並に人口稀薄なる地域及独立の能力乏しき地域にして帝国領土と為すを適当と認むる地域は之を帝国領土とし其の統治方式は当該各地域の伝統民度其の他諸般の事情を勘案して之を定む
(ロ)従来の政治的経緯等に鑑み之を独立せしむることを許容するを大東亜戦争遂行並に大東亜建設上得策と認むる地域は之を独立せしむ
(ハ)独立及領土編入の時期に付ては諸般の情勢を考慮し之を決定す

二、右に基き差当り帰属腹案を決定すること別紙第一の如く其の条件を概ね別紙第二の如く予定す
三、情勢の推移に依りては本腹案を変更することあり

別紙第一
  地域     将来の帰属     備考
一、緬甸    独立国     「シャン」諸州「カレンニ」州に付ては別紙第二中一、の(二)参照
二、比律賓   独立国    「ミンダナオ」に付ては別紙第二中二、の(二)参照
三、其他
追って定む

備考
泰国の失地恢復に付ては昭和十七、五、九決定『「タイ」軍の「ビルマ」進撃に伴ふ対泰措置に関する件』に依る

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レファレンスコードC12120153600(2枚目)

「国家機密」印
弐拾部の内第十二号
第十回御前会議 内閣総理大臣説明 (昭和十八、五、三一)
唯今より開会いたします。
御許しを得たるに依りまして、本日の議事の進行は、私が之に当ります、
(略)

六、其他の占領地域
マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は民度低くして独立の能力乏しく且大東亜防衛の為帝国に於て確保するを必要とする要域でありますので之等は帝国領土と決定し重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努むる所存であります。之等の地域に於ては当分の間依然軍政を継続致しますが原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむる方針でありまして現に政治参与を要望して居りまする「ジャワ」に対しては特に之を認める積りであります。而して本帰属決定は敵側の宣伝の資に供せらるる等の虞がありますので当分の間発表せざることと致しますが原住民の政治参与に関しましては適宜之を発表するを適当と考へて居ります。
「ニューギニヤ」等前述以外の地域の処理に就きましては既に述べましたる所に準じて追て定むることと致します。

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レファレンスコードB02032868200(12枚目)

これはあの「大東亜政略指導大綱」と内容日付が一致
国家機密
大東亜政略指導大綱
(昭和十八年五月二十九日大本営政府連絡会議決定)
(昭和十八年五月三十一日御前会議決定)

六 其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム  
但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セス  
(イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム  
(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ應シ努メテ政治ニ参與セシム  
(ハ)ニューギニア等(イ)以外ノ地域ノ處理ニ関シテハ前二号ニ準シ追テ定ム  
(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継續ス 

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レファレンスコードB02032973300

全文 
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%94%BF%E7%95%A5%E6%8C%87%E5%B0%8E%E5%A4%A7%E7%B6%B1

関連
山下奉文に見る”アジア解放”の嘘
 

戦前フィリピンの排日・恐日(途中)



大阪毎日新聞 1920.1.19(大正9)
比島の排日土地法
在留邦人の大打撃

時事新報 1935.1.17(昭和10)
比律賓政府の邦人漁夫泣かせ
二百名途方に暮れる

【館山電話】フィリピン、ダバオに進出漁業方面に活躍している邦人漁夫二百余名が昨年六月公布された同島の漁業規則改正に伴う単なる手続上のことから漁業権を没収され異境の地で極度の苦悩に喘いでいるという憂鬱なニュースが十六日館山に入港した農林省水産講習所講習船白鷹丸によってもたらされた―
ダバオはミンダナオ島の南端にある港で同地居住の邦人漁夫は大部分大分県出身で数年来同地に移住し大謀網、巾着網その他沿岸漁業に従事していたが、昨年六月フィリピン政府が日本人の勢力を駆逐する目的で漁業規則の改正を行い新たに漁業権を認めないことになったが、これ等邦人漁夫達は既得権の存続はそのまま認めるという条文に安心して昨年十一月まで何等手続をとらなかったところ十一月に至り遂に漁業権の喪失を宣告され漁網を取上げられてしまった、その後同地の日本領事館或は弁護士等に依頼して極力漁業権の復活をフィリピン政府に懇請したが同政府は頑として再認可を拒絶し其上所有の漁船を焼却せよと強硬な態度に出ているため漁業権の回復は全く絶望とされ邦人漁夫達は同地を引上げて帰国するか否かに迷っているというのである、右につき十六日館山に入港した白鷹丸乗組の安原専任教官は語る
「ダバオ港には十二月上旬寄港し三日間滞在し同地の官憲と交換し歓迎を受けたが同地居住の邦人漁夫達は漁業権を取上げられて困っていました、漁業規則が改正されても以前から漁業権を有している者には既得権を認めるという条文に安んじて邦人漁夫達がウッカリ手続を怠っていたのを理由に漁業権を剥奪されたというのですが、規則が公布されて僅か半年たつかたたぬのに没収までしなくとも何等か手心があると思われるが要するにフィリピン政府の日本人駆逐政策の犠牲となったものでしょう又濠洲領ニュープリテン島のラボールでは台湾基隆の本邦漁船が密漁の嫌疑で同地官憲に拏捕され船長以下二十三名が拘禁されているということを聞きました」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10083484&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

大阪毎日新聞 1935.9.12(昭和10)
比島ダヴァオの排日意外に深刻
邦人利権を水泡に南洋発展に大支障
土地租借の取消拡大
在留邦人解決に躍起の運動

大阪朝日新聞 1935.9.12(昭和10)
ダヴァオでまた借地権取消し
排日を目標の比島当局
邦人ら対策に腐心

大阪毎日新聞 1935.9.15(昭和10)
比島の排日に敢然起つ
邦人借地取消
言語道断
気勢を揚げた在留民大会

大阪朝日新聞 1936.4.18-1936.4.20(昭和11)
赤道直下の宝島
邦人開拓の功 漁村ダヴァオ忽ち近代都 恩を仇の土地問題

今このダヴァオ在住一万四千人の同胞に襲いかかって来て、彼らを日夜脅かしつつある土地問題とは、ダヴァオにある日本人がフィリッピン人の土地を使用耕作しているのは、フィリッピンの土地法に違反しているからその権利を認めない、日本人から一切の土地を取上げてしまえというのである。 
即ちその土地法によれば、フィリッピンの公有地を租借しうるの権利は米比人以外にはなく、従って日本人は米比人の租借したる土地を更にある契約によって請負耕作しているのであるが、この請負事業が比島土地法によって禁止しているところの再租借の条項に牴触するというのである。 
だから、日本人に土地を貸したところの地主は、政府からその土地を没収さるべきであり、同時に不法にその土地を借りてこれに栽培をしている日本人の権利も当然消滅すべきである、というのがフィリッピン政府の農務局長ロドリゲス氏の言明であるが、三十年間何らかような禁制もなく、平和に、提携今日に至ったダヴァオである。しかも事実幾多の尊い血をさえも流しまたそれにも劣らない日夜の膏血をしぼったおかげで、手のつけようもなかったほどのジャングルは、やっと近代的農園となり、ようやく文明の光を浴びるようになった今日、実際先頭に立った開発の功労者である日本人が、そうでござる