日本軍

皇軍と右翼の結びつき

自衛隊と右翼(思想)の親密さが話題だが、旧日本軍も右翼ととても仲が良かった。あるいは軍人自身が右翼だった。

神戸新聞 1932.7.16 (昭和7)
軍部を中堅とする大ファッショ陣成る
愈よ国民指導の立場を獲得すべく近く綱領を発表、具体運動へ

世界的に捲き起ったファッショの嵐は我国においても対外硬化、農村問題、政党腐敗、財閥の不正行為、テロリズム等の問題を引っくるめて物凄く展開されて来たので既成右翼団体は素より全右翼大衆に呼びかける新ファッショ団体が右翼無産陣営中からさえ展開されるに至った、然るにこれが決定的中堅勢力をなしていると認められるいわゆる『軍部』方面においては却って鳴を鎮めている状態であったがその実この方面における潜行運動は驚くべき進展を見たものの如く、遂に表面化し尖端的にファッショの旗印を掲げて国民の指導的立場を獲得すべく愈よ運動を起すことに決定し実際の陣容を完成するに至った、この全日本大衆に呼びかける軍部方面の大ファッショ運動の出発こそ政界、財界、思想界に一大センセーションを捲き起すであろう

田中大将を中心に全国的に活動網
神戸にも支部設立準備進行
軍部首脳部も承認済

軍部関係方面から国民大衆に提唱せんとするファッショの陣容を見るに総帥としてその運動の中心をなすものに予備陸軍大将田中国重氏を推し、予後備佐官級の陸海軍首脳数十名を網羅してその左右に配置し、総本部を東京に置き大阪京都、神戸、名古屋、横浜、福岡広島、金沢、仙台、小樽の十ヶ所に大支部を設け更に他の主要都市に小支部を、町村には各班を配することになっている、右のうち東京の総本部はもちろん神戸その他の四ヶ所にも目下潜行的に設立準備を急いでいる、これら支部の組織は実に堅実を極めその附近における軍部関係者中で前途有為な府県市会議員を支部員とし、その他における在郷軍人団の中堅をこれに配して統一的に活動を行う仕組みである
田中国重大将はこの挙国的非常時に臨み時局匡救のため当然投げかけられるであろう世間の毀挙褒貶の責を一身に負う覚悟をもって毅然としてファッショ運動の旗印を以て全国民に呼びかける決意の下にすでに軍部首脳部の諒解を求むべく先般来両三回の交渉の結果軍部首脳部においては在郷軍人を中心とする愛国運動の熱意を承認するに至ったのでこの運動に着手したものである(写真は田中大将) [写真あり 省略]

三大綱領 議会政治を否認せず=既成政党打破=農民労働者救出 既に実行期に入る
この数日来その首脳部と指導部は荒木陸相、小磯次官と頻繁に往来して運動は既に実行の範囲に入り今日まで潜行的だったのが近く本格的に宣言綱領等の発表を見るはずでその三大綱領は左の如くである
一、議会を否認せず
一、既成政党打破
一、農民労働者の救出
右によると議会政治を否認するものではないが党弊百出の既成政党に対してはあくまで打破をもって進む方針であるから既成政党内はこれによって動揺を来し在郷軍人たるものはもとよりであるが可なりの脱党者を見るであろうと観測されている、またその綱領である農民労働者の生活救済はそのファッショ運動が在郷の将兵をもって根強く建設されることを物語るものでこの運動の大衆性に大きな期待がかけられている

石原産業社長も有力なる支持者
既成政党に大動揺か
この新運動が新日本の大衆に如何に反映するかは今後の進展に俟たねばならぬが予後備軍人らの共鳴はもちろんこれが新武士道精神によるので右翼思想団体を初め既成政党中の右翼派の参加は確実と見られ、既成政党の大動揺を免れざるものの如く運動にとって最も肝腎とされている財界方面においても海外にあって皇軍の庇護に感泣している在外事業家を初め内地の財的有力家にしてこの運動を援助するもの少からず神戸市海外通に本社を有つ石原産業海運株式会社社長石原広一郎氏の如きはその一人で氏は既に田中大将らとともに幹部の一人として陸軍首脳部と折衝を重ねあくまで之を援助するといわれている(写真石原広一郎氏) [写真あり 省略]

本部としては何等関知せず
帝国在郷軍人会 佐藤忍氏談
帝国在郷軍人会本部主軍佐藤忍氏は語る 在郷軍人がファッショ運動を起しているというようなことについては本部としては何等関知せずまた在郷軍人会の有志間に憂国の至情迸るところ世相不安一掃のため何等かの相談をしているかどうかと云うことも言明の限りでない、しかしこれだけは云える、在郷軍人はつねに国家社会の中堅をもって任じ国難に一身を挺するだけの覚悟と決心を十二分に有している、又一部の間には既成政党との関係をいかにも清算するかの如く考えているが要するに在郷軍人は出でては国家の干城であり、入りては忠良なる臣民として国家の御役にたつことを寸時も忘却しておらないことを断言する
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神戸新聞 1936.9.6 (昭和11)
現役軍人を中心に右翼大合同計画
注目される橋本大佐の活躍
建川中将らも支持す

去る二日社会大衆党が、条件附門戸開放を声明して以来、多年分裂抗争を続けて来たわが国の農民戦線も、社大系の全国農民組合を中心として全国的大合同を図り所謂人民戦線を強化して反ファッショ勢力の糾合を図りつつあるが、これに対抗して退役軍人による右翼の大合同が企図せられ、人民戦線に対する国民戦線の結成が急速に進展せんとする形勢にあることは注目に値する
右の国民戦線強化運動は八月の陸軍定期異動において待命となった前三島野戦重砲兵第二連隊長橋本欣五郎大佐が中心となって活躍し同大佐等は最近内務次官湯沢三千男氏及び社大党の亀井、麻生両氏を始め在郷軍人会方面の主要人物と屡々会見してこれが実現を企図しつつあり、橋本大佐と同時に待命となった前第二師団長建川美次中将等も右の運動を支援して居る模様である
この国民戦線の強化運動は労農協会及び全国農民組合等による人民戦線に対抗するを目的とせるは勿論であるが、従来五・一五および二・二六の両事件に於て現役軍人が国家改造運動の中枢として活動せることが独り軍秩を紊すのみならず、却って当初の目的に反するが如き結果となるに鑑み、合同せる右翼の大勢力を以て国家革新の実を挙げようと言うのがその主眼である 然し乍ら右運動の成果については成否二様の観察が下されて居り、成功すべしと見る方面に於ては、資金関係の整備と、中心人物たる橋本大佐が、三月事件並に十月事件の幕僚ファッショの中枢として大勢力を糾合し得た力量を挙げて居り、これに反してその成功を疑う方面に於ては、現在退役軍人を中心とする右翼団体には明倫会あり、皇道会あり、三六倶楽部があり、その他荒木大将、秦中将の一派があってその派別的対立は退役後極めて猛烈なものがあるのでこれ等の諸勢力を民間の右翼団体と共に合同せしむるとの困難さを挙げて居る
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報知新聞 1936.9.24 (昭和11)
昭和維新を目標に青年学生を糾合
全国で五十名を検挙

二十二日早暁を期して行った右翼の一斉大検挙は東京では神兵隊の獄外被告三十名、大アジア青年連盟、帝大七生社等より学生、青年等十数名、大阪で七名、茨城、群馬、長野、山梨の各県で各一名宛合計五十余名に上る全国的検挙で、中心の警視庁では特高第二課の係主任警部八名で直に取調べを開始したが、一斉大検挙の動因たる神兵隊獄外被告を中心とした前田虎雄、安田鉄之助中佐、影山正治、鈴木善一の諸氏が神兵隊蹶起の意志を継続し、あくまで昭和維新断行を目標に多数の青年、学生を非合法的に糾合したことに端を発していた、影山正治氏は麹町区飯田町に修養国体青年道場『維新寮』を設置、毎月五の日に二十数名の青年を集めて五の日会の催しをなし、その模様は厳粛のうちに神前礼拝と神兵隊の軍律綱領を朗読、次で神兵隊の幹部である安田中佐、鈴木善一の諸氏を講師に『生命奉還論』の訓話を聞くという物々しさ、ここに集まる青年学徒は二・二六事件で処刑された山口元大尉の主宰していたアジア青年連盟の青年と拓大、明大、中大等の学生で組織している大アジア学生連盟の学生で、一方日本橋浜町の神兵隊の寄宿舎には鈴木善一氏を中心に地方の青年を糾合していた、ここでは神兵隊検挙の行われた昭和七年八月十一日を記念して十一日会を組織し、毎月十一日集合してここでも昭和維新断行の『生命奉還論』論を論議していた、この二ヶ所へ集合する青年学徒のメンバーは、本年八月明徳会で開催した千葉県勝浦町の林間講習会に臨み、ここでも『生命奉還論』の訓話をきき二・二六事件処刑者の慰霊祭を行うなど当時から既に今回検挙の危機をはらんでいた、なお地方の検挙は既報の通り大阪の七名と茨城小池銀次郎(神兵隊被告)群馬未詳、長野吉川澄(神兵隊被告)山梨橋爪宗治(神兵隊被告)の十名であるが、この中修成寮の主宰者で元新日本国民同盟の水島完之氏を原宿署に留置したが老人で健康上釈放される筈http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10064724&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

件名
日本国粋大衆党首笹川良一氏に伊国陸軍大臣宛「メッセーヂ」托送の件
(大臣、次官等の押印有)

陸軍大臣より伊太利国陸軍大臣宛(軍務課経由)
書翰を以て啓上致候
日本国粋大衆党首笹川良一氏貴国訪問に際し同氏に托し本官の閣下に対する深甚なる敬意を表するを光栄の至に存候
笹川氏の本親善飛行は貴国訪問を目的とするものにして日本民間企ての嚆矢なることを特に強調致候
茲に本官は日伊両国並日伊両国陸軍の友好関係の益々緊密ならんことを希念し重ねて閣下に対し衷心より敬意を表し奉候
敬具
昭和十四年十二月二十三日
日本帝国陸軍大臣
陸軍大将 畑俊六
伊太利国陸軍大臣
ベニト、ムッソリーニ閣下
昭和十余年十二月二十一日(「野口」印)

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盾津陸軍飛行場敷地及建物無償使用許可に関する件伺
昭和十五年九月十六日 大阪師団経理部長 桂巽
陸軍大臣 東条英機殿

昭和十三年二月七日陸普第六五七号指令に基き首題の敷地及建物を国粋義勇飛行隊長笹川良一に無償使用許可しある所本年九月三十日を以て期間満了引続き向ふ三年六ケ月間使用方願出ありたるに付前回同一条件を臥し許可し差支なきや指示相成度
 追て本件に関しては留守師団長に於ても同意に付申添ふ

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※盾津飛行場について
1933年(昭和8年)に国粋大衆党(笹川良一総裁)の組織する「国粋義勇飛行隊」によって[1]民間人搭乗員養成用の「(財団法人)大阪防空飛行場」(発起人:笹川良一、藤本忠兵衛)として建設開始。1934年(昭和9年)2月に起工、9月に完成。同時に陸軍省・陸軍に寄贈され大阪陸軍飛行場として開業。盾津飛行場と呼ばれた[2]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%BE%E6%B4%A5%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4


皇道挺身隊兵営宿泊状況に関する件報告
昭和拾年五月拾九日 第八師団長中村孝太郎
陸軍大臣林銑十郎殿
首題の件に関し憲兵隊より左記要旨の通報に接し師団に於て調査せし事項並処置別紙の通報告す

左記
一、管内右翼分子に依り結成せられたる皇道挺身隊は「石川観農社青年修養会」名義を以て兵営宿泊を計画し四月二十六日正午より二十八日迄二泊三日間歩兵第十七連隊に宿泊せり
二、此間軍事教練の外皇道挺身隊員の座談会を催したるが座談会中矯激なる言動ありて注意を要すべきものあり

別紙
皇道挺身隊歩兵第十七連隊兵営宿泊に冠する件報告
一、皇道挺身隊に就て
皇道挺身隊は「石川観農社青年修養会」の別名にして川原挺進隊の名称より本団体名を採りしものの如く其趣意書並守則付録第一、第二の如し
該団隊体は結成後日尚浅く其真状を観察すること能はざるも会員営内宿泊時の一般状態より観察せば善良真摯にして尚思想的団体と認め得ざるものあり
二、兵営宿泊の状況
付録第三の計画に基き石川観農社(秋田県の篤農家たりし故石川力之助の設立せる農事研究を主とせるもの)を中心として各地方代表青年を集め兵営宿泊を実施せんとし出願せしを以て連隊に於ては之を許可し将校二名、下士官、兵若干名を指導官として任命せり。而して四月二十六日午前十一時半幹部以下百十三名秋田駅前に集合し入隊したるが其大部は青年団、青訓服を著用したるも中には四十歳に過(?)ぎ農民、地方農会義手在郷軍人等を含有し何れも熱心に指導に従ひ四月二十八日正午過解散退営せり。
訓練事項は行事予定の如く第一日夜は乃木将軍の映画を視覧せしめ第二日午後の講演は友部国民高等学校長加藤完治の日本農民道に関する講演を連隊将校以下と共に聴講し又第二日夜は下士官集会所に於て座談会を開催せり。
兵営内に於ては毎朝勅諭奉読、遥拝、楠公の壁文暗誦等を真面目に実施して精神修養に努め又指導に従ひ軍事教練を熱心に実施し其効果相当大なるものありたるが如し。
三、座談会の状況に就て
座談会は県下各地方より集合し未だ相互一面識もなきもの多きを以て兵営宿泊の機会を利用し会員相互に意志の疎通を図り且指導を目的とし許可を得て富永中佐監督の下に実施せり。従ひて懇談は講話を主とし指導的に実施し併せて各自の意見を述べしめたるに席上稍々矯激なる意見を発表せしものありしも富永中佐は団員の心底を洞察する好機なりと認め某程度迄之を吐露せしめたる後之が誤れるを正し皇軍の本義を説示し之を指導せり。
座談会席上配布せる書類左の如し
書名  部数  作成者
核心(昭九、一一号)  一  核心社
皇道挺身隊守則  一  鈴木真洲雄
熟(解説書)  一  鈴木真洲雄
皇道挺身隊趣意書  一  鈴木真洲雄
連絡委員表  一  鈴木真洲雄
●●  一
改造対内案  一  不明
日本産業等の非常監察  一  富永良男
創生  一  創生会本部
大亜細亜青年  一  大亜細亜日本青年同盟
四、 地方に及ぼしたる反響に就て
1、会員の兵営宿泊に関し富永中佐は県知事、経済部長等を訪問し連絡せるに知事、部長等は会の精神及兵営宿泊に依る軍隊の指導誘掖と会員修養に関し賛意を表し経済部長は第二日午後の講演者加藤完治を兵営に伴ひ来り県農民の更生の為本団体の発展を冀望する旨述ぶるありたり。
然れ共県特高課等は本団体を右翼団体として密に内査を進めあるが如し。
2、地方民心に対しては好影響を与へたるものの如く爾後団員其他のものより兵営宿泊に関し幾多の感謝状を連隊に送り来れり。又各地に漸次修養団体として結成せられんとする趨勢に在るものの如し。
五、処置
1、此種地方団体の営内宿泊並営内に於ける会合の際の指導に関しては将来特に注意を周到ならしむ
2、旅団長並連隊長の報告に依れば富永中佐は思想的に注意を要すべきものを認めざるも将来思想上の容疑ある団体及人物との交渉等に関しては特に慎重ならしむる如く注意す。

付録第一、
皇道挺身隊趣意書
満洲事変以後の国際関係はまさしく非常時の雲行を見せてゐる。だが翻って国内を見れば生民は憔悴し菜色あり政党政治の信頼地を払ひ思想混沌として帰する所を知らない。
不幸にして此のまゝ外難至らばその結果や恐るべきである。今日の状態は恰も尊王倒幕、廃藩置県を断行し外難を突破せる明治維新の前●にも似まさしく歴史的瞬間を包蔵せり。
我等は此の危機に際し一刻の猶予なく内昭和維新を断行し国内を整備するにあらずんば外難に当ること能はずと信ずるものなり。
それ故に我等は真剣なる研究によりて日本更生の正道を発見しこれを唱道せざるべからず。
されども天下の大事は先づ己より始め己より治めよ。
我等同志の団結同行を画策し我等の住む町だけでも村だけでも正しく歩ましめんとす。
この主旨に従って自ら相集りたるもの即ち皇道挺身隊なり。
付録第二
皇道挺身隊員守則
(以下略)

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皇軍実態集 兵は消耗品、武器や馬の方が大事



内閣情報部「写真週報」351号 1944年12月13日

「御紋章と小銃・・・自己の身命を顧みず小銃を尊重擁護する至高の精神もまたこゝに発するのであって」(p7)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2006070616411057931
DN_HkotVwAAcXdE

私達の重機関銃隊には馬が十頭所属しており、雪の中での馬の手入れや飼育は大変な仕事で、古兵からは「貴様達より馬が大切だ」と叱られながらの手入れでした。(p438)野田

S分隊士 学徒出陣で来たB大出身中尉。「飛行機一機作るには七万円もかかる。貴様たちのような者を訓練しなくても一銭五厘でもっと優秀な奴がいくらでも集まる」と一銭五厘の価値も無い奴らだとののしる。兵の命は鳥の毛よりも軽い奴らだとののしる。兵の命は鳥の毛よりも軽かった。(p117)杉浦http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_113_1.pdf

班長の訓示では「お前達は消耗品である。一銭五厘(郵便葉書の値段)で幾らでも入ってくる。また、日に乾ききった桶である。これもみっちり締めなければ水が漏れる、水が漏れぬよう締め上げてやるから覚悟するように」と言われた。(p417)仁平
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_416_1.pdf

昭和十六(一九四一)年四月、徴兵検査を受け、甲種合格で、現役兵として、昭和十六年十二月十二日、朝鮮歩兵第七十六連隊に入隊、第一機関銃中隊自動車班に編入されました。同年十二月二十二日、洪儀に着き、直ちに国境の警備に就きました。 昭和十七年一月八日は陸軍記念日に当たり、夜、兵団長閣下の閲兵、訓示がありました。訓示では「君たちは消耗品である。不足すれば一銭五厘のはがきを出せば、いくらでも兵を集められる。日本国は物資が乏しいため兵器と被服を大切に、ことがあれば一週間でウラジオストックを攻撃する」と言明された。(p88・89) 荒明

師団長は訓示の中で「ソ連と始まれば、ウラジオを一週間で陥落させる」「兵隊は消耗品」などと言っていました。(p373)荒明
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_373_1.pdf

 そして呉軍港に碇泊している輸送船に乗船を完了した。ただちに出航である。客船ではなく貨物船である。設備はお粗末なもので、牛、豚並みである。この輸送船で思ったことは、静岡の第三十四連隊では、「お前達は一銭五厘並みだ、歩兵銃の弾丸は消耗品でもお前達より高価である。一発の弾丸でも貴重だ」と言われたことを思い出し、なるほど荷物並みで人間扱いではない、これが戦争かなと思った。(p114)竹内http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_108_1.pdf

 私の入隊した部隊は、輓馬の重砲隊であった。班には三十頭近くの馬がいたと記憶している。馬部隊では、馬をとても大切にした。「お前たちは一銭五厘でいくらでも来るが、馬はそういうわけにはいかない」とよく言われたものだ。兵隊は一銭五厘の切手を貼った手紙で集められるが、馬を集めるには沢山のお金がかかる。実際馬部隊では、馬に故障が起これば行動は出来ないのである。(p140)松井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_137_1.pdf

 初年兵教育は満州でした。一月十六日に広島練兵場に集合させられ、一路満州国ハルビンまで連れていかれました。独立歩兵第一七四部隊に入隊し、星一つの新兵教育が始まりました。「お前たちは一銭五厘の葉書でいくらでも集まるのだ」という言葉と理不尽なビンタに泣いたことは今でも忘れられません。(p211)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_211_1.pdf

そして上官は他の者に向かって「よーし下りろ、みんなようく聞け、お前達はこれから言うことを聞かないとバッターで思う存分打ってやる。一人二人たたき殺しても一銭五厘のハガキ一枚で来ているんだ。言う事を聞かないとたたき殺すぞ」と威嚇した。あとでそのバッターを見ると「海軍精神注入棒」と書かれていた。(p445)渡部
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_443_1.pdf

 同年十月、神戸軍管区の人は神戸山手小学校において壮丁検査を受ける。私は甲種合格になる。
 同年十二月一日付で西部第五十一部隊、姫路第十師団野砲兵連隊・第四中隊四班(中隊長片山中尉)に入隊。一〇センチ榴弾砲の挽馬部隊であった。
 「初年兵の心得五カ条」
第一 早めし、早がけ、早ぐそ
第二 要領を旨とすべし、員数の確保
第三 地方弁を使うな、そして大きな声
第四 軍馬は兵器、陛下からの預かりもの。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だ
第五 軍隊は、メンコの数(食事の事)。
右五カ条を旨とすべし、だった。・・・(p473・474)

 軍隊では馬は大切な兵器である。何事にもまずお馬様が優先である。各中隊には専属の厩があり、馬当番がそれぞれ一頭ずつ割り当てられる。生き物であるだけに管理が難しい。特に馬は腸が細く長いので飲食のチェックが大切である。水すい嗽そうと称して、一日に二回以上水飲み場へ連れ出し、一口・二口・三口と喉を鳴らしながら飲むのを確かめ、何回飲んだかを当番下士官に報告、記録して健康の管理をするのである。
 朝は兵科の者より三十分早く起床し、厩でまず馬糞の回収、寝草干し、金櫛による馬体の手入れ、蹄蹉の手入れ、そして飼葉(岩塩を充分いれる)を与える。すべて終了後に、兵隊の朝食になる。何事でも朝飯前の一仕事と云うが軍馬に関しては重労働だった。
 また廊下不寝番ともなれば、徹夜で自隊の馬の管理を二人で担当するのだ。当番士官の巡察があるので怠けることはできない。初年兵を体験して、つくづく人間に生まれたのを情けなく思うのであった。(p474・475)柏井

令状は臨時召集令状で「昭和十三年八月二十日、宇都宮野砲第二十連隊に入隊せよ」でした。・・・
 入隊、即、教育係将校と下士官教育係助手の上等兵が全員を整列させて、第一声「貴様等達は一銭五厘の兵隊だ。只今から各任務教育に就くが充分に心して国家国民のために活躍せよ」でした。・・・
 野砲隊は砲手班と弾列班とに分かれますが、共に軍馬が原動力です。馬の手入れや運動が一番大切で、少しの休養も無く苦労しました。前述の如く兵隊は令状一本(一銭五厘)ですが、軍馬は「天皇陛下から預かる宝物である」といって、たて髪、尻尾の先、脚の蹄にいたるまで丹念に手入れを命ぜられ大変苦しい思いをしました。(p242・243)乙川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_241_1.pdf

 私は昭和十八(一九四三)年徴集兵で、甲種合格となり、昭和十八年十二月初旬に久留米の第十八師団(菊)山砲兵第十八連隊に入隊しました。(p410)
 馬を使う部隊では人より馬が尊重されます。たまたま馬の扱いが悪く負傷でもさせたら「貴様ら兵隊は一銭五厘でいくらでも補充できるが、馬様はそんなわけにいかないんだ、この野郎!」と悪口雑言の上、目から火の出るビンタを見舞われました。心の中では「弾は前からだけではないぞ」と憤懣を吐き出したものです。(p411)田中

特に馬の手入れは人間より先にやらねばなりません。人間は一銭五厘の葉書で召集出来るが、馬は兵器だとよく言われて、絞られたものです。(p24)中嶋

 馬の取り扱いは古兵から「お前ら兵隊は一銭五厘だが馬は生きた兵器だ」とやかましく言われながら仕込まれました。特に水飼いが大切で朝昼晩と毎日馬が飲んだ水の量を記録して報告せねばなりません。それから消化状態を調べるため、湯気の出る馬糞を絞って水分を抜き、広げて麦が何粒残っているかを調べねばなりません。
 隊の馬は十二歳から十五歳で人間の四倍が馬齢ですから相当老馬でした。しかし人間を見るのは達者で、私ら新兵を馬鹿にして言うことを聞きませんが、古兵下士官を見ると途端におとなしく、言うことを聞くので腹が立ち、上官のいないことを確かめて馬小屋掃除用のほうきで思い切りブン殴ってやりました。(p246)斉藤

 迫撃砲の部隊は軍馬に迫撃砲を分解して乗せて行動するので、軍馬は大事な兵器で、兵隊より大切にされた。その当時は、兵隊は二銭の葉書一枚で召集できるが、馬は高価であった。(p43)村井

当日は秋田第十七部隊第二大隊長笠原中佐宅に一泊(笠原大隊長は戦
死した姉の夫の上官で、夫の生前から親族同様のお付き合いさせていただいていたので、奥様のご好意でお世話になる)しました。
 翌八月一日朝、第十七部隊の門をくぐると衛兵から祝いと激励の言葉を頂き身の締まる思いがしました。・・・
 同日第二大隊行李班に編入されました。・・・
先輩から「馬は銃砲同様兵器である。自身の世話より先ず馬の餌付け、手入れをし馬の健康管理に当るよう」と言われました。(p307)
 とくに前述の通り、馬は輜重隊の貴重な兵器ですので毎日朝夕の世話は欠かせません。要領の悪い者、動作の鈍い者は、自分の洗面、食事も落ち着いて出来ないほどの地獄社会で、私も入隊前は馬とは一切縁が無かったのですが、先輩の親切な指導を受け、何とか先輩並みにこなせるようになりました。(p307・308)山内(松川)
 
 昭和十八(一九四三)年四月十日、熊本市西部第二十一部隊野砲隊に現役入隊しました。第四中隊に編入され、中隊長は北森鶴雄中尉、第一内務班長野田一二三軍曹、寝台列長・塚原敬造兵長でした。(p231)
もし疝痛でも起こしたら当番に当った初年兵は夜も眠らず藁で腹を擦り続けなければなりません。もし一頭の馬を死なせたら、野砲隊に取っては大変なことで、「貴様達はハガキ一枚出せばすぐ補充出来るが、馬は一年間の調教が必要だ」と、古兵より何度か聞かされたことを覚えています。(p233)猪俣

連隊の中の桜が咲き始めた頃、私達は移動を命ぜられました。行く先は北満の満州第一〇八部隊、大村連隊の主力があります石門子の本部と聴きました。(p318)
大隊には約百頭の馬がおりますので馬の手入れも大変でした。厩の中の馬糞の片付け作業、蹄の馬糞のえぐり作業、馬への食糧の与え方、水の与え方、馴れるまでの苦労は大変でした。古年兵からは口を揃えて「馬は大切な兵器だぞ、貴様達は一銭五厘で何ぼでも補充できるが、馬はそうゆう訳にはいかんのだぞ」と叱られました。
 たしかに食べ物、水のやり方で「疝痛」になる恐れがありますので、皆が注意しました。私は石川子に二年近くおりましたが、外出は一回もしませんでした。理由は馬が心配でした。万一馬が「疝痛」にかかったら班全部が心配するからでした。天皇陛下から頂いた大切な兵器を一頭でも死亡させてはならないと言う心配が一日たりとも頭から離れませんでした。(p319)田浦
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_317_1.pdf

 一期の検閲も終った頃、歩兵第六十九連隊に動員が下り保健隊は解散し原隊に戻った。しかし保健隊にいた者は留守部隊に遺される、とのこと。何の面目あって家郷にまみえんとばかり准尉殿に泣きすがり、ようやく野戦隊に編入され、指揮班要員となる。・・・
 軍隊生活中、失せ物の員数合わせには苦労した。また兵器は歩兵の生命、いや命よりも大切なものとして扱われる。「兵隊は一銭五厘の葉書一枚で集まるが、兵器は天皇陛下よりお預かりしたものである。絶対に損傷してはならない。ましてや紛失するがごときは最大の不忠と心得よ」と。(p242)畠嶋

この時は、野砲に配属になりましたが、馬を大切にするため、「兵隊は一銭五厘、馬は二〇〇円」と言っていたし、「弾は前ばかりではないぞ、後ろからも来るぞ!」などとおどかしたので、野砲の将校は、配属されている我々に対し、あまりやかましく言わなくなりました。我々が逆におどかしたのは、自分の身を守るために言ったのですが、効果があったわけです。(p266)松崎http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_264_1.pdf

独立歩兵第六十大隊の第三中隊(安徴四河口)に入隊した。そして軽機関銃班に編成され地獄の初年兵教育が始まった。・・・半年か一年先輩の古年兵が「上官の命は天皇陛下の命だ」と言っては、何とか理屈を付けてビンタをくらわせ、「お前らは消耗品だ死んでも一銭五厘(ハガキ代)でいくらでも代わりが来る」と言う。(p31)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_029_1.pdf

 入隊して一カ月余りが過ぎ、気力も体力もヘトヘトで、限界である。まだあと二カ月足らずある。体力が持つかと思い、うとうとしておると、カツカツと長靴の音、週番将校の巡察である。銃の点検でカチンと音がする。しまった誰かが銃の装填落しを忘れた
 全員起床、ベット〔ママ〕の前に整列、一八〇センチもあるような将校が仁王立ちになり、「貴様ら、良く聞け。お前達は一銭五厘のはがきで、いくらでも集められる。兵器は国民の税金で造られる大変高価な物である。その兵器を休ませず、お前達だけ休んで良いのか。この馬鹿者。上等兵の初年兵訓練がなっておらん。たるんでおる」と言い捨てて出て行った。それからが大変である。(p133)森川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_132_1.pdf

 初年兵の頃、古参兵はよくこんなことを言ったものです。「お前たち兵隊は一銭五厘(郵便葉書の値段)で集められるが、馬は一頭百何十円もするのだ」と、軍隊という所は、人の生命より馬の生命の方が一万倍以上もするのだということで、「価値の高い馬を大切にしろ」と言うことを強調したのでしょう。(p284)山地
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_280_1.pdf

入隊当日はいろんな手続き等、古兵が優しくしてくれた。軍隊とはこんなものかと思いきや、「お前達は今日から陸軍船舶二等兵である。お前達の身に着けている軍装品は皆、恐れ多くも陛下がお貸しくだされた物である。絶対に粗末にすることは相ならん」と厳しい訓示である。(p126)米重
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_124_1.pdf

 消灯ラッパが鳴り響いてきます。「シンペイサンハカワイソウダネー マタネテナクノカヨー」「何をいつまでモタモタしているんだ。早く寝ろッ」と怒鳴られる。休む間もなく働き通しのうえ、怒鳴られ叱られ殴られて一日が終わります。
 カチッと音がします。「第二班の初年兵!起きろッ」やっと疲れた体を横にしての寝入りばな、整列した自分たちを不寝番の古参兵が睨みつける。「貴様たちは、よくものうのうと寝られるもんだな。この銃は畏くも天皇陛下から授けられたものである。その銃の撃鉄が起きていた、ということはこの鉄はまだ今まで働いていたんだ。鉄を手入れした貴様たちの全員の責任だ。鉄に、あなたを働かせて自分は寝ていて申し訳ありませんでした、と謝れ」(p78)河村http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_065_1.pdf

編み上げ靴のことを軍隊では「へんじょうか」といいます。編上靴の手入れで春夏秋はさほどではありませんが、冬は本当に泣かされます。零下三〇度以下にもなる兵舎の外で手入れをしなければなりません。
 ご承知かと思いますが、靴底には滑らないように鉄の鋲が沢山打ち付けてあります。冬ともなりますと鋲と鋲との間に雪と泥が詰まり、それがカンカンに凍ってちっとやそっとではとれません。それを取り除くのに竹を尖らせた「竹へら」で取れというのです。しかし竹へらではとても取れるものではありません。そこでナイフでつついて取り除くのです。そこを見つかりますと、「こらッ!初年兵、貴様たちはこの靴を何だと思っておるのか、畏くも天皇陛下から戴いた大切なものだ。ナイフで革に傷をつけたら天皇陛下に申し訳がたたん。竹へらでやれッ!」というのです。「天皇陛下」と言う者もこの時は不動の姿勢をとらなければなりません。
 息を吹きかけたり、こすり合わせたりして手の感覚を甦らせてやるのです。古参兵がいなくなるとナイフでつついて取りますが時間がかかりますし、多少は革底にも傷が付きます。古参兵たちも初年兵のときはナイフを使ったと思い、恨めしくも思ったものです。
 泥を取ると今度は保革油を塗るのですがこれは手指で塗らなければなりません。油ですから手入れを終わった後にセッケンでよく洗わなければなりませんが、そんな暇はありません。いきおい手はアカギレと霜焼けになります。アカギレのところから血を流しながら寒さに震えて手入れをするのです。(p72・73)河村http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_072_1.pdf

 消灯ラッパが静かに鳴りひびく。夢の床に就くや、コツコツ週番下士官が巡回しつつ銃の引金点検である。次々と引く。俺は何番目…「よかった」と思う。「カチン」と鳴ると「OO出てこい」で捧げ銃をして「三八式歩兵銃殿、長々と……致しまして申し訳ありません」である。軍隊は馬鹿にならないと勤まらない。(p113・114)持山

すべて天皇陛下よりの御下賜品である、手袋、靴下に至るまで大切に使用せよとの厳しい教育でした。(p202)

 ・・・自分も上官や古兵の銃器を手入れした後に自分の三八式歩兵銃の手入れをして銃架に掛けておきました。突然班長が「ただいまから兵器検査を行う」と抜き打ち検査です。
 その時に自分の銃の床尾板のねじの溝に黄色い泥が入っていました。班長は烈火のごとく怒り「この銃は誰のか」でした。自分が名乗り出ると「馬鹿者」一言いって銃を持って下士官室へ引き返しました。数日前から班長は自分を「いじめ」ていました。西垣少尉(小隊長)は陸軍士官学校出身で、実に立派な陸軍将校です。その彼に私は実に良く可愛がられ「オイ小林ちょっと来てくれ」と何かについて指名されていたのです。それを憎んでの小銃引き上げ事件になったのです。
 班長室へ行って土下座して「天皇陛下より賜りし大切な三八式歩兵銃の手入れが悪く、心よりお詫び申し上げます」といったのですが、班長は知らぬ顔で他方を眺めながら煙草を吹かしていました。私は涙を流しながら一心不乱に、床に頭をつけて「お許し下さい」と一生懸命に懇願しました。
  最後には、どうしてよいか判断を失い、刑法懲罰でも、営倉(ブタ箱)でも軍法会議でもよい。この憎い班長を殺して自分も自決してやろうか、と物騒なことを、瞬間頭に思い描きました。隣の班長の計らいで「今回の不始末は許すが、以後絶対、兵器・武具を大切にせよ」となりました。このことは中隊全員に知れわたり、以後、小銃事件として語られていました。自分はこの苦い体験で「軍隊は運隊だ」ということを確信しました。(p205・206)小林
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_200_1.pdf

 勇名轟く脇坂部隊の原隊で訓練は猛烈、内務も厳正。「お前らは補充兵、一銭五厘の消耗品じゃ」と、ハッキリ引導を渡され、徹底的にしごかれ錬えぬかれた。(p133)權田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_132_1.pdf

 夜の点呼が終わって消灯、床に入れどもおちおち眠れない。週番上等兵が巡視に回ってくる。銃架の銃の引き金を点検する。もし「カチッと」音がすれば、その兵は叩き起され、きつい制裁を受ける。「銃が休んでおらぬのに貴様よくも眠れるか」と。(p251)岩崎

軍人の魂として、自分の体よりも大切にし日夜手入れしてきた武器は、単なる物としてすべて衛兵所の脇に積み重ねられた。(p278)酒井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_270_1.pdf

実は、その当時、このことが分かれば確実に死刑にされる菊の御紋章のある銃の木質部を焚いて暖をとり、それで私共は生き延びましたが、それができない多くの戦友達は、この四一〇〇メートルの山頂で凍死してしまいました。(p432)岡田

皇軍実態集 私的制裁(part3)

皇軍実態集 私的制裁(part1)
皇軍実態集 私的制裁(part2)


 一選抜で進級したとはいうものの、決して生易しく喜んでいる場合ではなかった。古年次兵からは特別の目で見られいつも注目の的にされた。中でも先の万年
一等兵からは何かにつけて洗脳としごきの制裁を受け、おまけに「ありがとうございました」と不動の姿勢で敬礼。欠礼でもしょうものなら上級者(私)に向かってびんたの連打は常の例。この悪戦苦闘以上の苦さはわが身体に染み込み、永久に忘れることはない。どこの隊でもこのような豪傑が軍律に矛盾した行動をとり、自己のうっ憤晴らしをしていたが、初年兵はただ耐えるのみで、内務班の規律はすごく厳しかった。(P33)山下
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_032_1.pdf

私が町長さんはじめ町の名士、並びに近所の方々や小学生の生徒さんたちに、日の丸の小旗を振り歓呼の声で送られて鹿児島海軍航空隊に入隊したのは、昭和十九年六月一日、海軍二等飛行兵になったのは十六歳と五ヵ月であった。・・・
 海軍ではすべての行動が全体責任であり、誰か一人の訓練生がヘマをすると、夜十時過ぎの巡検後に、廊下へ全員整列が掛かり、ビンタは常時、ときどき精神注入棒(野球のバット)で尻を力いっぱいぶん殴られ紫色に尻が腫れるのである。風呂に入った時など誰が何発殴られたかすぐ分かるし、お互いに痛かった話などしたものだ。寝る時など上を向いて寝られず、横を向いて寝た夜も幾晩かあった。S(p432)柴田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_432_1.pdf

 昭和十六年九月一日午前八時、これは忘れることのできない私の入営への旅立ちの日時である。近親者や近所の方々の見送りを受け、小雨降る中簡単な挨拶をして、一路千葉県柏の第四航空教育隊へと向かった。第三中隊永野隊鈴木班で、二、三日はお客様扱いであったが、班長の訓示では「お前達は消耗品である。一銭五厘(郵便葉書の値段)で幾らでも入ってくる。また、日に乾ききった桶である。これもみっちり締めなければ水が漏れる、水が漏れぬよう締め上げてやるから覚悟するように」と言われた。これから、いよいよ、徹底的に締め上げられる軍隊生活と訓練が始まったのである。それは聞きしに勝る苛酷なものであった。
 私は一般訓練のほか、特技訓練としてラッパの教育を受けたが、最初は音が出ず、一ヵ月後にようやく吹けるようになった。内務班に帰れば、古兵の怒鳴る声、ビンタの音を聞かぬ日はない、まさに監獄より苦しい所であった。一期の検閲を終え、一等兵の階級章をつけた頃出動命令が出た。(p416・417)仁平
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_416_1.pdf

 昭和十七年になると同級生の多くは現役兵として入隊し、私に召集令状が来たのは十月でした。入隊は十二月一日で、三重斎宮の第五航空通信隊でした。初年兵教育は三ヵ月で終了しましたが、私は体が少々弱かったためか練成中隊に入れられ、二ヵ月で一等兵に進級しました。・・・
 内務班に古参兵は一〜二人と少なく、初年兵が多かったのですが、一個班三〇人ぐらい、随分と気合がかかっていて、ビンタは毎日でした。少しでも敷布が汚れていれば、赤いチョークで金魚の絵が書かれていたり、枕カバーを頭に被せられ、食器袋を口にくわえて他の班を回らされました。各班の古参兵からのビンタもあり、頬がパンパンにはれてしまった人もいました。また、革の上靴(上ばき)で叩かれ顔の形が変形してしまう者もいました。やる人もやられる人も常習犯がいて、いつも決まった人達でした。(p400・401)秋田http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_400_1.pdf

 昭和十六年十二月二十七日、繰り上げ現役兵として姫路第五十四部隊(輜重連隊)に入隊しました。・・・
 教育訓練はなかなか厳しく、助教の上官たちに信号用手旗でピンピン打ち込まれての訓練が続く毎日でした。班内の日常起居の躾の教育も厳しく、勝手の異なった軍隊生活はなかなか馴染めませんでしたが、幸いに班内暴力は比較的に少ない方でした。(p396・397)

 十一月の末、北京西苑にある北支軍下士官教育隊に、徐州教育隊から我々四人が選抜され派遣されました。この教育隊は北支軍の騎兵、輜重、砲兵等各兵科の自動車使用部隊の合同の下士官教育隊でした。教育訓練は厳しく、教官に竹刀で叩かれることも再三ありましたが、これも自分が立派な国軍の幹部になるためとありがたく頂戴して訓練に励みました。(p398)尾崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_396_1.pdf

 呉で改めて検査を受け、甲種ということになり、徳島航空隊へ転属、三ヵ月の新兵生活を送ったのです。海軍の新兵の教育は誰でも知るように極めて厳しいものでした。そうしなければ誇りある帝国海軍の水兵にはなれぬからでしょう。バットで尻のアザが消えることはなく、海軍軍人としての基礎を徹底的に仕込まれた三ヵ月でした。(p391)保木http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_391_1.pdf

 舞鶴海兵団に入団して四ヵ月間新兵教育を受けました。この教育期間中の海軍魂涵養のため、海軍の伝統であり、名物とも言うべき罰ちょくをほとんど毎晩のように受けました。「甲板に整列」との号令がかかると、私達新兵は「また、やられるか!」と悲壮な覚悟で整列しました。軍人精神注入棒という樫の棒(長さ約一・五メートル、直径五〜六センチ)で尻を思いきり叩かれます。まれには棒が二つに折れ飛んだこともありました。されるままに奥歯をぐっと嚙み締めて、無抵抗で耐えなければなりません。班長さんは京都弁で怒鳴りながら叩き続けます。尻は内出血で黒く変色し痛いこと。現在の言い方にすると、まさに暴行のし放題でしょうか。海軍の伝統となれば致し方ありません。
 他の隊のことを噂で聞きました。「若い新兵が尻の上の腰椎を叩かれて骨折し、下半身不随で兵役免除になって一生不遇な生活に苦しみ泣いた」とか。この罰ちょくは四ヵ月の新兵教育が終わってからも受けました。あの精神注入棒のことを忘れることが出来ないのは、私一人のことではないでしょう。・・・
 次は普通科運用術学校入校です。学校は舞鶴にあり、入校期間は四ヵ月でした。運用術とは、常に甲板上にあって、錨の出し入れ、舵取り等を司る任務でした。この在校期間中も精神注入棒は健在で、私達も再び苦しめられましたが、どうにか卒業出来ました。(p379)

 昭和十八年四月、飛行機でスラバヤよりシンガポールヘ。ようやく「名取」がいました。ドック入りをして敵にやられた個所の応急修理中でした。修理を終えて舞鶴へ帰り本修理をするとのことで、やっと「名取」に乗れました。ドック入り中だから勤務というものはないのですが、そこで「お前等はたるんでいる。ちょっと気合を入れてやる。艦橋のところへ整列!」ときます。注入棒ではなくビンタです。これは大したことなく助かりました。(p381)

 不穏な相談がありました。新兵教育に引き続き、ずーっと私達に精神注入を行ってきた班長がちょうど同じ艇に乗り合わせていました。私達の恨みは深く、「あの野郎め。ただではおかぬ。報復してやれ」との同年兵の気運が醸し出され気持ちが一致しました。夜間航行の勤務中に皆でよってたかって奴をつかまえ、海へ放り込めと衆議一決。しかしなんとなく実現しませんでした。悪運の強い奴と思わざるを得ません。(p382)矢萩
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_378_1.pdf

 海軍水兵として舞鶴海兵団へ入団で、自分のように年のいった者まで必要あるとは、戦況も非常に悪化している証拠だと思い、生きて帰ることは出来ないだろうと覚悟をしていました。・・・
 食事以外に飲む水はなく、手洗い場で水を飲むのを見られると大変で罰せられました。その時は自分一人だけでなく班の者全員が制裁を受けます。同期兵以外の兵に見られぬ間に水を飲みましたが、暑い日が続くので、水と食い物には飢餓のようでした。そのため身体は日増しにやせこけていきました。・・・
 短期間の訓練兵ですから、次から次と習うことが多く、海に出てボートを漕ぐ練習に行き、生まれて初めて海を見た人も大勢いました。ボート一隻に十二人ぐらいで両方に並び、櫂で水をかき、ボートを漕ぎます。数十隻で競うこともあり、一番ビリの組は、その日の昼食が欠食となるので皆必死にボートを漕いだものです。
 また、武装して早く整列する訓練もやりました。各班競争で、負けた班は罰として上司の訓示を聞かなくてはなりません。「お前等は、娑婆のことを思っているのか、立派な軍人になっていないとは恥ずかしいことだ!残してきた親や子供、妻もいるだろうが、気合が抜けているからだ……今、気合を入れてやるから歯を食いしばれ」と言われます。歯を食いしばらないと口が切れるからです。並んだ順に頬を殴りつけられるのですが、身体が動くと再び殴られます。このようなことが、二〜三日に一度必ず実行されるので、誰もが両頬がはれあがっていました。頬が赤黒くなった者、耳が黒くなった者がいます。まるで畜生同様に扱われ情け容赦は絶対ありません。「命令だ」ばかりですので、「全員死ね」と言われたときの死の覚悟ができていきました。・・・
 青森から函館の旅館で一泊、次の日は「白洋丸」という軍用船に乗るのです。何百人か判りませんが大勢の軍人でごったがえしていました。船中では訓練はありませんが、精神面の訓練があり、軍人勅諭等も暗記させられました。時々整列の号令がかかり「お前達は、この頃気合が抜けているぞ! 気合と活を入れてやるから両手を高く上げろ! 足を開いておれ!」と丸太ん棒で叩かれます。それは痛いこと痛いこと、頭の上までジーンとなります。そのために尻から足の後ろ下半身は真っ黒になりました。そんなことをすれば全員倒れてしまうと思いますが、当時は皆精神が統一されていたから、一人として倒れる者はいませんでした。
 軍隊では、一日でも早く入隊した者が上級者ですから、訓練をつけるのは若僧で、二十歳前の小僧が私のような三十八歳の兵隊を制裁するのです。上官の命令は「朕の命令」、即ち「天皇の命令だ」と言ってビシビシと叩くのです。何事も仕方なしでした。
 一週間が過ぎ、水平線に島のようなものが浮かんできました。「目的地に着いたぞ!」と言われました。きました。「目的地に着いたぞ!」と言われました。千島列島の北端、占守島に上陸しました。
 我々の部隊名は〝第五十二警備隊〞であり上風陸戦隊、第二分隊速射砲隊で、速射砲一門。隊長は村山兵曹で次に保坂水兵長、蛸井兵長でした。二人ともキスカ島の生き残りで気性は荒く、下の者達は皆困っていました。我々は本当に苦しめられました。年齢は十六歳でしたから私とは親子ほどの差がありましたが、いつも鬼を見る思いで、今でも兵隊の当時のことが目に浮かんできます。・・・
 晩には、必ず整列の声が掛かり「お前等は気合が抜けている! 気合を入れてやる」からと、頬を殴られたり、尻を打たれました。お尻から下股の方まで真っ黒になり、なにしろ、入団以来毎晩のことですから、お風呂に入ると戦友同士で黒くなっている程度をお互い見せ合っていました。叩かれて倒れる者がいたら再び打ち直され、不動の姿勢が出来るまでやらされました。上司でも各人の気性で情け深い人もおられ、その人には今でも感謝しています。・・・
 このような時、一人の同年兵が銃弾一発を紛失し、班長にビシビシ打たれる体罰が加えられました。そのためか四日目の朝死亡しました。私はお経が読めたので戦友と二人で荼毘に付しましたが他の人は誰も知りませんでした。私は、万が一生きて帰ったら遺族の人に話してあげようと思いつつ、一生懸命読経しました。(p359~364)松島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_358_1.pdf

 私は大正十一年三月二十七日、愛媛県上浮穴郡久万町の生まれで、昭和十八年八月十七日佐世保へ入団(現役)しました。・・・
 佐世保では、私一人汽缶の方へ、他の二人は水兵ということで別れ別れです。海兵団の新兵教育は三ヵ月間。毎夜整列してお尻へ精神棒をたたき込まれます。一人でも悪いと団体責任でやられます。お尻が黒くなって、入浴の場合はタオルを巻いて隠したものです。(p353)

・・・そのうち、私なりに考えて、船の底の汽缶は駄目だと決めて、班長さんが沖縄出身の方でしたが申し出て、横須賀の工機学校を希望し許可され、昭和十九年一月二十七日横須賀目指して佐世保から新兵二十人同行出発しました。・・・
 従軍の全期間を通じて、工機学校の三ヵ月が最も苦しかったと思います。毎夜の精神棒は勿論、実習中に不都合があると上の人からその場にあるスパナとかハンマーとかで頭を打たれ、時として不運な学生は頭部裂傷も出る始末。とにかく地獄でした。
 昭和十九年四月やっとのことで卒業出来ました。ところが学校を出ても乗る船が無く、待機しているうちに、五月七日長崎県大村航空隊へ仮入隊と決定。大村には一ヵ月いました。
 大村では電気とカマ(汽缶)に分けられました。私はカマは嫌いだったので電気に入れられました。広い大きな配電室に沢山の配電盤その他計器類がズラリと並んでいます。「これから説明をする。よく聞いておけ。今夜から配電盤の当直だ」と言って説明が始まります。新兵ではあるし、十人ぐらいの同年兵が全員目を白黒。とにかく当直に立つ、すぐ完全に任務が出来ない。毎晩整列。精神棒。普通に立っていると棒の力で吹っ飛ばされるので、壁に向かって両手で体を支えて棒を受ける。現在の若者は辛抱出来るでしょうか。海軍魂の気合入れ。経験した者でないと判りません。(p354)清水
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_353_1.pdf

 翌年一月十日に呉海兵団に入団せよと通知がきました。私は海で泳いだことがないのに、海軍とは大変なことになったと思いました。・・・陸軍との差異は海軍には軍人精神打ち込み棒というものがあり、ちょうど野球のバットを大きくしたような木製の棒で、一人の失敗は全員の責任だと言って、連帯責任を負わされることでした。そのような事故、失敗者、守務違反者が出た時は全員の尻が精神打ち込み棒の洗礼を受けました。三打罰・五打罰といって力いっぱい叩かれました。尻の皮が腫れ上がって便所へ行っても屈むのに涙が出る程痛かったものです。個人的な私的制裁はなく、自分は青年学校を卒業していたから他の戦友より何かについて有利なことが多かったのですが、全隊責任の罰は致し方なく同罪でした。(p341・342)
・・・自分達の乗船(艦)は最新鋭の航空母艦「瑞鶴」(五万七千トン)で、これに便乗しての出陣でした。艦隊勤務の厳格さは、海兵団にいた時以上に激しいものでした。精神打ち込み棒が一日に何回も風を切って尻に飛んできました。歩行困難なほどに腫れ上がりました。(p342)片桐
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_340_1.pdf

・・・その後私は大阪の被服廠へ徴用となったが、勤務は予想外に厳しく、点呼で対抗ビンタを取られることもあったので、進んで兵役の志願をした。
 昭和十七年十二月一日、歩兵第二三四連隊要員として歩兵第一一二連隊補充隊第二中隊へ入営。十二月十七日、転属のため丸亀を出発。以後下関、新義州で朝鮮へ入り、山海関を通過し、北支那より南下し中支へと輸送された。
 その輸送中の出来事であるが、浦口より南京へと揚子江を渡り、兵站宿舎で二日間を過ごした。同年兵戦友と三人で景色の良い所へ行ったら、歩哨に捕まり衛兵所へ連行され、衛兵司令より気合を入れられて、顔は腫れ上がり、口の中は切れて出血。ほうほうの態で宿舎へ帰り上官(兵長)に報告。兵長殿は「よし!その衛兵所へ俺を連れて行け」と新兵三人を同行して衛兵所で「前線の第一線要員として輸送中の大事な兵を、些細なことで傷つけるとはどういうことか。南京あたりの後方で楽に警備しているお前等とは大違いの大事な兵だ。何故殴ったか? 理由次第では承知せん。上級の隊長と談判する。返事は?」と恐ろしい剣幕で抗議した。同じ兵長の衛兵司令も最後には陳謝して事はすんだ。私等三人は「頼りになる兵長殿!」と信頼を高めた。(p326)高橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_326_1.pdf

・・・私の入隊通知が八月十五日に来て、翌月の九月五日に山形連隊(北部第十八連隊)に入隊することになりました。・・・
 内務班は生死・苦労を共にする軍人の家庭ですが、あら探しの名人の万年一等兵と言われる程度の低い古年兵が一人いて、万事文句を言っては、ビンタも手で殴られるのは良い方で帯革ビンタの雨、初年兵同士での対抗ビンタもやらされました。(p282)今田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_281_1.pdf

 私達は槍部隊(独立混成旅団)の独立歩兵第一〇五大隊で第二中隊は杭州より自動車で所要時間約三時間離れた余杭を警備していました。
 私達初年兵はこの部隊初めての現役兵で大歓迎を受けました。翌日より班長、初年兵係による猛訓練が始まりました。毎晩、初年兵と背嚢は叩けば叩く程良くなると言って叩かれて、昼間の訓練、夜の内務と昼夜一寸の油断も許されない猛鍛錬が続きました。(p274)山本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_273_1.pdf

 私は、徴兵検査を受けた昭和十五年の暮れに召集令状がきて、鳥取の歩兵第四十連隊に入りましたから、甲種合格になった人より早く軍隊の飯を喰ったことになります。・・・
 しかし演習の終わりで兵器の手入れの段になると、小銃の中に入った砂の除去に大変泣かされました。一小銃の中に入った砂の除去に大変泣かされました。一粒でも砂が見付かれば「手入れ不充分」でビンタか捧げ銃などが待っていました。そのころの印象は強烈に私の脳裏に残っているのか、あれから六十年を経た今でも夢を見ます。小銃を紛失した夢を見て、どうしようともがいて、目が覚めて夢で良かったと、ほっとするのです。(p262・263)

 少しは軍隊生活に慣れてきたかなあと思い始めた昭和十六年三月十六日に宇品を出航して北支の塘沽に上陸、天津、保定を経て石家荘に着き、トラックで約一時間余り東南に向け走り、威県という小さな町に着きました。ここに私の所属する第百十師団第百四十連隊第四中隊の本部がありました。・・・
 最初、軽機手を命ぜられましたが、貧弱な体格の私では軽機が重くて走ることもできず、動作も鈍いので途中で交替してくれと文句を言ったらビンタをもらいました。戦後、伍長に会った時「あんたにビンタをもらいましたなあー」と言ってやったら変な顔をして黙っていました。(p263)田中
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_262_1.pdf

 六月一日、幹部候補試験に合格し集合教育を受ける。いよいよ将校生徒としての教育で、その責任の重を身をもって感じた。十一月三十日、集合教育終了、十二月一日付、陸軍軍曹となり北支保定陸軍予備士官学校に入校した。将来の将校としての、観測、通信、専門の指揮班の教育を受けたのである。・・・
 また、もう一つの忘れ得ぬ思い出は、消灯後、隣の戦友と笑いながら話をしていたら、そこに週番士官の巡察があり、戦友と二人週番士官室に連行され、「消灯後に話をしているとは軍規に違反する」と、下着のままコンクリートの防火用水槽に五分間首まで入れられた。何分にも厳寒二月の冬の夜であった。このように、将校生徒としての見せしめのための厳罰である。これは一生忘れられない体験であった。(p227)青山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_225_1.pdf

昭和十七年
四月  一日 召集で姫路中部四六部隊応召
・・・旗の波と大合唱に送られて列車で姫路へ出発、無事入隊し新兵教育に励みました。周知の通り毎日の朝夕ビンタを喰らい、内務班教育の厳しさを体に叩き込まれました。・・・
 服装検査、兵器検査、軍装検査とまた気合の掛けられ通しで、在郷では味わえない苦痛に満ちた新兵期間を涙を流し歯をくいしばり、故郷を出る時の家族、友人、町民の激励を思い起し、これも御国のためと頑張ったことでした。(p216・217)寺川http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_216_1.pdf

 私達の栄光に輝くべき大学の卒業式はまた、戦争への門出でもあった、昭和十七(一九四二)年十月一日、仙台東部第二十二部隊歩兵連隊に陸軍二等兵として入隊。いわゆる初年兵の始まりであり、まさに激動の我が青春の始まりでもあった。(p463)
 毎日の演習のつらさ、規律の厳しさ、汚れた下着を着ていると早速ビンタのお見舞、といって洗濯する時間もなく、揚げ句に上官の下着まで洗濯しなければならない。食事の用意、食後の後始末、掃除、雑用は皆初年兵の肩にかかっている。少しでも手を抜くと「セミの鳴き声」といって柱に登り、自分の鼻をおさえてセミの鳴き声をまねる。あるいは「ウグイスの谷渡り」と称してベッドの下にもぐり、隣のベッドとの間から顔を出し、またもぐって次のベッドとの間から顔を出す。こんな罰則がすぐ適用される。(p464)
・・・そして前橋陸軍予備士官学校入校になったのである。・・・学校での生活を一部取り上げてみると

1、起床ラッパが鳴り、起きて服を着、毛布をシワ一つないようにたたみ、枕を一線に揃え、窓ガラスをど真ん中に開け、靴を履いて校庭に出て全員整列完了まで五分間、校舎の出口に下士官が剣道で使う竹刀を振り上げて待ち構えており、五分を経過した者は竹刀でいきなり頭を殴られる
2、校舎から一歩でも校庭に出たら駆け足、歩いているのが見つかると営倉(学校の留置所)一日の罰。
3、集合時間一分遅れたために一分間の時間の誤差があると戦闘機なら何キロ飛んで行くし、騎兵隊なら何キロ進行する。作戦に大きな誤差が生ずるということで、罰として校庭を三周六キロの全力疾走。
4、敵襲があったと仮定して夜中に突然起こされ、武装して整列するという「非常呼集」と称されることが一晩に十三回。寝る時間全く無し。
5、慶応卒業の男爵の息子ともう一人が、敬礼の仕方を間違えたために、「将校生徒たる者が間違えるとは何事か」と言うことで全員集合。百五十人の前でカシの木刀で尻を十回たたかれ、内出血で陸軍病院に入院してしまった。(p465・466)森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_463_1.pdf

私は茨城県友部の筑波海軍航空隊に約百六十人の学生とともに赴任した。(p448)
私を含め一一〇人の者は戦闘機教程に所属が決まり、それぞれの教育練習航空隊に転出していった。私は大分航空隊に行くことになった。
 その晩、集会所に集合させられ、「娑婆っ気を抜いて、海軍精神を入れてやるから有り難いと思え」と海兵を卒業した飛行学生達が理由もなく、一人少なくても十発ぐらい、中には卒倒する者が出るくらいの鉄拳の洗礼を受けた。(p449)加美山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_447_1.pdf

 佐世保海兵団に入団し第四十六分隊であり、・・・教育中のバッタ(堅い棒で尻を叩く)を私は一度だけしか食わなかったのですが、団体としてはやられました。(p430・434)近藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_430_1.pdf

 私は、昭和十七年志願兵として、九月一日、大竹海兵団(呉海兵団は満杯のため)に入団した。・・・少しでも過失があれば、連帯責任で、樫の棒(バット)で臀を古参兵に叩かれる。従って初年兵の我々の臀にはいつも紫色の「あざ」が消えることがない。(p389)池田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_388_1.pdf

・・・昭和十七年九月一日、呉海軍病院第四十九期普通科看護術練習生として入隊することになりました。・・・
 入隊後三ヵ月の教育訓練は兵科の区別はありません、一般水兵の教育訓練で終始します。起床と同時のハンモックの片付け作業は背の低い私は毎日ビリで、罰として便所掃除に回されました。特に辛かったのが毎晩の精神修養棒による制裁です。連帯責任と称して誰か何かあれば、皆で整列して、太さ六センチぐらいの六角形の樫木棒で尻を、腫れ上がり紫色に変色するほど殴られるのです。時にはブッ倒れないように初めから物に結び付けブッ叩き続ける悪質な制裁もあり、上司からは禁止されていたらしいのですが、分隊上等の不在時をねらって制裁行事が毎晩続けられ、新兵達には全く生き地獄の三ヵ月でした。(p385・386)安井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_385_1.pdf

 満州国牡丹江省東寧駅下車、初めて踏む大陸の地、満州大平原を軍靴の音も高らかに大城子の満州第二一二部隊(野砲兵第二十四連隊)に入隊したのが十一月二十五日でした。
 満州編
 第八中隊に配属され、内地での石橋忠幸曹長の予言通り石橋登中尉の中隊でした。・・・
 消灯ラッパが鳴ると藁布団の中に入りますが、消灯で廊下の灯りだけで薄暗くなると進級遅れの二等兵が二、三人小声で「初年兵、集合」と。初年兵は素早く食台横に整列、補充兵も一緒です。「貴様等タルンどる。足を踏んばれ」と一メートルぐらいの精神棒で小突きながら二言三言言った途端、帯剱用の革ベルトが頬に空を切ってくる。革スリッパが顔へ……。翌朝は洗面は水で濡らすのみで、朝食は口が腫れて嚙むことが出来ず、味噌汁で流し込むのです。
 関東軍の私的制裁はさすがに凄いものでした。(p366・367)馬場
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_365_1.pdf

 私は昭和十四年三月二日、大阪に集合、朝鮮の清津に上陸、軍用列車で豆満江の国境を通過、九日琿春に到着、琿春駐屯隊歩兵第八十八連隊第一歩兵砲中隊に入隊しました。・・・
 関東軍名物のビンタは当然猛烈で、軍靴や上靴ビンタの嵐は初年兵を見舞いましたが、私は幸いにも戦友に恵まれ、内務班の先任上等兵が当たりましたので、夜の点呼後古年兵が「初年兵、整列!」と気合をかけると、戦友の先任上等兵が「郡司! これを洗面所で洗ってこい」とわざと私を逃がしてくれたので助かりました。
 洗濯が終わって班内に戻ると、他の初年兵は皆顔を赤くはらしていました。内務班長の小松沢軍曹も私を可愛がってくれ、当番にしてくれたので助かりました。私が初年兵の中で一番助かったと思っています。(p287・288)郡司
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_287_1.pdf

 前述のとおり、昭和十四年八月、山形連隊へ応召入隊、初年兵教育の基本は「軍人勅諭」を忠実に勉強し訓練に励むことでした。また入隊と同時に「誓文書」を書かされて中隊長に提出しました。班内へ入ると例の私的制裁がありました。初年兵が全員横一列に並ばされて、親にも殴られたことがないのに、数回力まかせに殴られました。この悪い思い出は一生忘れません。一般家庭や社会では行われない蛮行ですが、軍隊という特殊社会では、教育鍛錬の一助として広く実施れていました。(p276・277)寒河江
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_276_1.pdf

・・・二月二十三日朝鮮羅津に上陸、直ちに貨車に乗せられ、二、三日後、満州東安省虎林に到着、歩兵第七一二部隊に無事入隊をする。・・・
やがて消灯ラッパが鳴ってベッドに入ったかと思うと、教育係に起こされて精神訓話であり、班内の誰か一人がへまなことをすると、班内全員の責任だと言ってビンタが飛んで来る。軍隊という所は絶対に言い訳がきかないところである。その当時は人生の苦しみを一年間で味わったと思った。(p271)越智
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_270_1.pdf

・・・三月になったというのに満州は寒く、目的地勃利に着いのは三月六日と記憶しています。・・・
 いよいよ、独立守備隊第三十四連隊第一中隊入隊です。初年兵教育は、小銃、軽機関銃、擲弾筒、馬が五頭、乗馬と駄馬で、馬は十五頭ぐらいで飼育の世話をせよとのことです。
 初年兵教育の時、中隊には古参兵で癖が悪く進級しない万年一等兵が数人いて、二年兵からそばへ寄るなと教えてもらい助かりました。初年兵時代は古兵や上級者からビンタ(罰として頬などを叩る)をもらいましたが、私は少ない方でした。特に、鈴木部隊長が大変良い人で、今まであっ「私的制裁を禁止する」とたやかましく言われ、中隊内でのビンタは少なくなってきました。軍隊での初年兵時代の教育訓練は当然厳しいものですが、それより辛いのは内務班での私的制裁です。一期の検閲も終了し、やっと一人前の兵隊になり、満州の気候にも慣れて、二年兵になってから私は自分の体験から、可愛想だから下級者にビンタはとりませんでした。(p233)寺本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_231_1.pdf

 翌昭和十五年四月、十五年徴集の初年兵が入隊して来たので、初年兵係を命ぜられ、三ヵ月間の教育を行う。自分達が味わった初年兵当時の苦しい内務班教育、そして演習、特に、誰しもが味わった教育時のビンタは、あのようなつらい思いは、出来るだけやりたくないと思った。しかし、どうしても教育上やむを得ず、二度ビンタをくれたことがあったが、復員後その者達と戦友会等で会った時、心から謝罪の念にかられたものだった。(p224)熊田

私の入隊先は支那の高射砲第十五連隊第五中隊(甲一四〇九部隊梁田隊)、場所は北京とのこと。・・・
 当然ビンタは覚悟していましたが、一般によく言われるシゴキは覚えがありません。五回か、六回くらいしかビンタの覚えがありません。その点助かったと思います。(p165・166)山内
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_165_1.pdf

 四月十日、徳島歩兵連隊通信中隊に入隊し、軍人勅諭に基づく三ヵ月間の厳しい教育訓練を終了。。一期検閲を受けるため岡山の日本原へ移動しました。
 私は兵隊検査で第一乙種となった時から、「やがては必ず入隊の日が来る。それまでに一日も早く軍人勅諭を丸暗記しなくては」と、在郷軍人会の先輩からの指導もあり、毎日努力を重ね、入隊時には楽に大声ですらすらと朗詠できました。そのためか新兵教育の期間中は模範兵として取り扱われ、いろいろと楽をさせてもらいました。・・・
 また、中隊の小隊長さんの一人が野戦帰りで片足が悪く常に自転車を使用していましたが、私はその自転車も整備点検し、軽やかでピカピカに仕上げて、小隊長の将校さんよりお礼を言われたようなこともあり、対抗ビンタや、きつい苦しい制裁とかは、予め適当な理由で隊から外れて楽をさせて、もらったりしました。(p160・161)
・・・武昌に上陸。鉄路南下。横江橋に駐屯する第四十師団第二三五連隊通信中隊に配属となりました。
ここでは初めの三ヵ月間は主としてモールス信号、五号無線機の操作の教育を受けました。この三ヵ月の間、初年兵三人で消灯後、チャン酎を飲んで深酔いしました。折悪しくその夜「初年兵集合」がかかり、三人は酩酊です。平素より要注意の○○新兵が首謀者と分かり、私もビンタの二〜三発やられましたが、○○君は徹底的にやられ、数日間は班内で臥床の状態でした。半殺しにされました。(p162)池田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_160_1.pdf

小野武夫「戦後農村の実態と再建の諸問題 啓明会研究報告」

第三、絶対服従の強要
  軍隊に於ては上官の命令は絶対的なものであって、これに服さない場合には抗命の罪として処罰せられるのである、命令に対しては命令以外の行動も以内の行動も許されない、命令せられたゞけのことをやればよいのである。其の間に自己の意志や判断を交へた行動は絶対に禁止せられてゐたのである。命令の絶対服従は個人意志の抹殺である。批判や意志の働きを持たない命令のまにまにに動く兵隊が模範兵である。例へば中隊の玄関の掃除を命ぜられた兵隊が、ついでに営庭まで掃除することは余計な行動として叱責せられる。しかも其の際一言の抗弁も許されないのである。正当の理由ある言い訳と雖も『それは文句だ』との一言のもとにはねつけられる。軍隊に於ては道理は常に上級者にあり、そこでは常に意志なき人間が養成されつゝあるのである。従って長い軍隊生活を送ったものは積極的行動の意図と批判的精神とを喪失してしまふ。最近軍関係の学校から一般学校に転入学した生徒に就て見ても判るやうに、彼等は命令せられたことだけは忠実にやるが、それ以外のことを自主的に積極的に行ふことが出来ないのも、此の間の事情を物語るものである。かゝるところに進歩があり得る筈がなく、独善と保守とが全軍隊を支配するのであった。

第四、敬礼の強制
  軍隊に入って先づ第一に教へられるのは敬礼の仕方である。軍人勅諭にも、『軍人は礼儀を正しくすべし』との一項があげられてゐる。人間社会に於て礼儀が尊重さるべきことは言ふ迄もない。週番の任務につく士官と下士官はきまった様に敬礼の厳正を説く。それ程迄に敬礼がやかましく注意せられるのは、其の反面に於て敬礼がなかなか励行せられないことを意味する。軍隊に於ては敬礼は上級者に対する服従心の現れであると教へてゐる。従って欠礼することは不服従を意味することになる、下に記する欠礼に関する一兵長の挿話は此の間の事情をよく語ってゐる。ある日、彼のゐた兵営で、下士官の引率する部隊が帰営の途中営門近くにさしかゝった際、師管区司令官の乗ってゐる自動車に出遭った。そこで下士官は『歩調取れ、頭右』の号令をかけたが、最後尾にゐた兵長はそれが聞えなかったゝために欠礼して通り過ぎ、其のまゝ営門内に入ってしまった。これを認めた司令官は自動車を疾駆して其の跡を追って営内に入り来り、自動車から降りるや否や、該兵長を捕へてなぐった後、重営倉二十日を言ひ渡して引上げた。欠礼によって彼等の威厳が毀損せられたと感ずることの如何に大であるかゞ此の一事によっても窺へよう。軍隊に於ては敬礼は上下垂直の階級制度を維持する手段として最厳格に行使せられてゐたのである。

第五、階級的差別の行き過ぎ
  軍隊に於ける階級的差別の厳格さは他の社会に於て其の比を見ない程はげしいものであった。将校と下士官と兵との間には越すべからざる限界があり、いかに打解けた時と雖も対等の言葉で話をすることは許されない。便所の如きも将校用、下士官用、兵用と判然と区別せられてゐる。同じ兵の間に於ても星一つ違へば、主人と使用人の如き差異が存ずる。一等兵から二等兵に対しては『おい貴様』と呼ぶが、二等兵から一等兵に対しては『古兵殿』としていとも叮重なる言葉遣ひが要求せられる。食事に於ても古兵から先に盛りつける、其の盛り方も二等兵よりはずっと多く盛らなければならない慣習になってゐる、所が演習其の他の使役で実際に腹のすいてゐるのは二等兵であるが、二等兵は自分の空腹を抑へても古兵に沢山の飯を盛るのである、そして二等兵は御飯もよく咬まないでそこそこにかき込んで古兵等が食事の終るのを待ち構へ、其の食器を我先きに取り下げて洗滌しなければならない、古兵が食べ終っても尚食べてゐようものなら、早速お小言が飛ぶのである。二等兵は食事すら落着いて食べられないのである。
  古兵に対してすら此の様であるから、下士官の飯の盛付に就てはおこげとか、御飯の上つ面になって固くなったところの入らない様、又香物の入方も三切は縁起が悪いから四切入れろと云ふやうな点にまで注意をくばり、下士官室に御膳を運ぶには呼気のかゝらない様にとマスクを掛け、膳を目の高さに持って行かなければならない。マスクもかけず、口より低く御膳を持って行くと、こんなきたない飯は食べられぬと突き返されるのが常である。
  食事以外に於ても古兵の兵器の手入、身の廻りの世話は二等兵の義務とせられてゐた。演習から帰ってきても古年兵は煙草をふかして無駄話をしてゐるが、二等兵は疲れた体を休ませる暇もなく、自分ののと共に古兵の銃や帯剣の手入、泥靴の手入をしなければならない。兵器の検査が行はれる際でも、古兵の兵器の手入が悪いとの注意を検閲官から受けると、古兵か其の後で必ず二等兵の手入が悪いからだと激しい私的制裁が加へられる。かうして軍隊に於てはすべての責任が部下の者に負はされるのである。従って長い間軍隊生活を送ってゐると、自分のことを自分でする二等兵時代のよい習慣すらもいつしか忘れ果てゝ、自分のことを人に命じて平然として怪しまない悪い習慣を身につけて家庭に帰るのである。
  日常生活に於て右の如くであるが、営外の作業に於ても実際に働くのは上等兵以下の兵卒であって、兵長以上は指揮監督者である。陣頭指揮は文字通り指揮であって陣頭に立って兵と共に十字鍬をとり、円匙を持って働くのではない。之は終戦後に於て目撃したことであるが、米国進駐軍が或作業に於て兵下士官は勿論、将校すら一緒に作業に従事してゐるのを見て感心した。日本の軍隊にはついぞそんな和やかな共働的光景に接したことがなかった。軍の一致団結が強調せられながら、其の成績の挙らないのは上下の階級的差別が余りにも厳格に過ぎるところにある。日本の軍隊では将校と兵とが打解けて話すといふことは特殊な私的関係のない限り存在しない。いつも裃をつけて接してゐるので、其の間に人間的な親しみといふものは涌いて来ない、そこに真の団結心の起らない原因がある。

第六、私的制裁の公認
  戦時中の連合軍俘虜虐待者が戦争犯罪者として裁かれつゝあるが、其の判廷で挙げられてゐる虐待と同じ行為が平素軍隊内で同胞軍人に対して加へられ、しかもそれが当然のことゝして何等怪しまれてゐなかったといふことを、私は証言し得るのである。些細な過失に対してもビンタは当然の報酬と考へられてゐた。軍隊では気合ひを入れるといふ言葉が使はれてゐるが、上級者によく仕へないものは、何かのきっかけをつかまへて思ふ存分の制裁が加へられる。例へば帯剣のバンドの金具のついた方で顔をなぐるとか、裏に金を打ってある革のスリッパで顔をひっぱたくとか、野蛮極まる方法が行はれ、其のため耳の鼓膜を破られたり、歯を折られたりした兵も尠くなかった。ある二等兵が炊事場へ茶をもらひに行った処、其の態度がよくないと言ふので、炊事当番の兵隊が、いきなり煮え湯を其の二等兵にひっかけ、それが二等兵の眼にひっかゝって両眼失明するに至った。大分問題になった様であるが、有耶無耶の裡に終ってしまった。上級者に対して絶対服従の軍隊に於てはかゝる蛮的行為に対しても殆ど一言の抗議すらも許されない。従って蛮的行為に堪へ切れずして逃亡する兵も尠くなかった。逃亡者が多くなると軍の威信に関するので、上官は逃亡者の続出を防止しようとして、私的制裁を禁ずる方針に移りつゝあったが、このやうな弊風は容易に抜け難いものであった。腕力を以て威嚇せねば自分の思ふ様に動かせない指揮官は、最も低劣な指揮官と云はねばならない。

結び
  以上項を分って述べ来ったところによっても分る如く、日本の軍隊に於ては兵隊は全く其の人格を認められていない。人格の認められない兵隊は如何程兵技に長じてゐても、立派な兵隊とは言ひ得ない。軍規厳正を誇る日本軍隊の南京に於ける、或はマニラに於ける数々の蛮行が、世界の人々から指弾せられてゐるが、其の根本的原因はかうした兵営内の誤れる兵隊指導に存在してゐたのである。(p53~59)

フィリピンが特攻隊を称賛、の真偽

フィリピンは戦中戦後反日感情が強かったせいか、右翼本右翼サイトでフィリピンへの言及は少ない。ただ最近こういう記事が出て来ている。

「親日」の印象が薄いフィリピンが神風特攻隊を賞賛する理由 2017.11.26 07:00

世界は日本をどう見ているか。ジャーナリストの井上和彦氏は以前紹介した親日国・台湾とは違い、日本に対し決して良い感情を抱いているとは思えぬフィリピンを訪れ、衝撃を受ける。・・・驚くべきことに、フィリピンで神風特別攻撃隊が称賛され、尊敬を集めていたのである。
https://www.news-postseven.com/archives/20171126_629286.html

2017.7.14 13:49
【マーライオンの目】 この夏、特攻隊員の像が立つ「カミカゼ神社」に行ってみては

フィリピン北部ルソン島に「カミカゼ神社」があると聞き訪ねた。マニラから車で3時間。パンパンガ州の高速道に近い幹線道路沿いに、コンクリート製の鳥居を見つけ、目的地だと分かった。旭日旗とフィリピン国旗のモニュメントの前に、特攻隊員の像がすくっと立っていた。
http://www.sankei.com/column/news/170714/clm1707140006-n1.html

この特攻隊碑は以前からたまに紹介されていたものではあるが、そろそろ本格的に右翼の宣伝材料になりつつあるのかもしれない。
ところで、この碑について、海外の新聞記事があったので以下紹介する。

Reading Eagle紙2005年8月14日付の記事全文
〔訳〕
フィリピンのカミカゼ碑は昔の敵についての分裂を反映
日本の降伏から60年、アジア人たちはーいくらかの例外はあるがー日本帝国の侵略と暴力的占領の時代について相反する感情をもつ

AP通信フィリピン・マバラカットー
 60年経った今でも、それは印象的な光景である。すなわち元米空軍基地の隣に日本軍神風特攻隊パイロットの等身大の像がある。
 フィリピン人や他の東アジアの人々が1945年8月15日の日本の降伏を思い起こす一方で、最初の特攻隊員を記念するこの像は、日本の帝国主義時代の侵略と苛酷な占領にまつわる彼等の葛藤を表しているように見える。
10ヶ月前に像が立って以来、このガラス繊維製の像に抗議する人々もいたが、その他の人々は像に許しの意味を見出している。
 ただそれは円という通貨の力を考慮することでもある。日本人観光客たちはこの飛行場に詰めかけ、第二次大戦博物館を見学し、米海軍の進攻に抵抗するためここから片道切符の任務に飛び立ったパイロットたちを称えている。
 日本は世界第二の経済大国としてこの地域に大きな影響を与えている。日本の対アジア貿易額は合計1兆ドルになる。昨年には中国がアメリカに代り最大の貿易相手国となった。
 日本はフィリピンにとって最大の輸出相手国であり、現在両国は自由貿易協定を交渉中である。
 こういう状況では、60年以上前に起きたことは重要性を失いがちになる。
 「日本人はフィリピン人に対してとても凶暴で、とても敵意を抱いていた。」そう語る歯の無いFaustino Arceo氏68歳は植木職人で、ゴーグルとヘルメットを身に着けた飛行士像の周りの植え込みを手入れしている。
「以前は私は怒っていた、しかし今ではどうにもならない。過去のことだ」
 侵略戦争の矢面に立った中国と韓国では、東京が戦時中の行動を決して十分に償っていないという認識に刺激され反日感情が定期的に爆発する。今年は、日本の学校教科書が戦時中の残虐行為をごまかすものだとして抗議する群衆が街に出た。
 それと同時に多くのアジアの国は、東アジアの主要な米軍基地がある日本を、中国の上昇しつつある軍事力経済力への対抗勢力として見ている。
 ここマバラカットは、フィリピン北部の元クラーク空軍基地に隣接するが、市の観光課係長 Edgar Hilberoはこの像について多くの批判があったと述べ、歴史だけでなく観光狙いの動機に突き動かされて像の建設を決定したことを認めた。
 毎年10月には、数百人の日本人観光客や元兵士、学生や仏教の僧侶がここまで旅行し、カミカゼを称え、花と線香と祈りを捧げる。
 日本は1942年フィリピンを占領し、最初のカミカゼが離陸したのがクラーク飛行場だった。日本の鹿屋航空基地史料館によると、1944年10月から1945年8月の間に、2526人の自殺飛行士によって618隻の連合軍艦艇が損傷または沈没させられた。カミカゼの数を5000とみる歴史家もいる。
 アメリカは1945年フィリピンを奪回し、1年後に完全な独立を与えた、しかし1991年までこの地に基地を置き続けた。クラーク基地はその後商業空港やホテル、ゴルフ場を備えた観光地区に改造された。
 Hilbero係長は、(カミカゼ像だけでなく)真珠湾攻撃の3日後にクラーク基地で墜落したB17爆撃機のColin Kelly Jr.大尉の記念碑を立てるためにも同様に活動していると述べた。日本の戦艦を爆撃したという理由で、Kelly大尉は第二次大戦で最初の米軍人受勲者となった。
 「我々はどちらかに味方しているのではない」Hilberoは述べた「我々は国際的な親善、友情そしてより緊密な関係を促進するために戦争の歴史を利用している・・・誰かを賛美するためではない。カミカゼもそうだ。戦争は悪だが、戦争を戦った人々が悪なのではない、それが我々のメッセージだ。」
 同様のメッセージは日本軍が10万もの中国系住民を殺害したシンガポールに住む95歳のElizabeth Choyからも聞かれた。
 国家的なヒロインとして学校教科書で大きく扱われる彼女は、金銭や食料、薬そしてラジオの部品を約7万5千人の捕虜と民間人が収容されていた抑留所内に密輸する事を助け、日本の秘密警察による200日に渡る投獄と拷問で苦痛を受けた。
 Choyは、現代の日本人に対する悪感情は全く無いと述べた。「彼らは常によく働き野心的で国のために頑張っている。」
 「私が憎むのは日本人でなく戦争そのものだ。」彼女は付け加えた。
 日本が侵略した地域の多くは西側列強により統治されていた。シンガポールとマレー半島は英国人、インドシナ半島はフランス人、フィリピンはアメリカ人、インドネシアはオランダ人。そして東京は侵略行為を解放と表現した。
 しかしシンガポールもやはり戦争を観光に利用しているのだが、ただしその旅行企画はイギリスやオーストラリア、そしてニュージーランドの元兵士や捕虜たちに向けて作られている。
 オーストラリアの農業の町カウラでは、元兵士たちが、1944年8月5日に収容所の有刺鉄線へ自殺的な殺到(脱走)を行なった231人の日本人捕虜の墓を手入れしている。1979年に12エーカーの記念公園が作られ観光施設とった。
 フィリピンのカミカゼ碑推進の裏にいたのは一人の地元の歴史家である。Daniel Dizonは、人生の多くを自殺部隊の調査に費やし彼の自宅に博物館をつくり錆びた銃や銃剣、旧い写真や日本軍の制服を展示した。
 「(フィリピンの)人々は非常に日本人を憎んでいたので、とても苦しいものでした」「日本人について公開するというのは激しい敵意と怒りにさらされたし、誰も話を聞こうとはしなかった」彼は述べた。
 Dizonが15歳の頃、現在ではマバラカットに隣接するアンへレス市はカミカゼパイロットで一杯だった。Dizonは彼らの決意と愛国心に魅了された。
 1970年代の初めにDizonが発見したマバラカットの家は、彼曰く大西瀧治郎中将と側近たちが1944年10月20日に会合を開き、それが最初のカミカゼ部隊23人の誕生につながったという所だ。
 何年もの間、彼は家の所有者たちに対して、これといった特徴も無い平屋の家の塀に小さい標識を付けることを認めてくれるよう説得した。他にほとんど魅力の無い内陸の田舎で金儲けするよい機会をそこに見出した地元のビジネスマンの協力を得て、ようやく所有者たちは彼に折れた。
 日本人観光客が続々とやって来るのを見て、市はDizonに他のカミカゼスポットを見つけ標識を付けるように促した。
 現在75歳になるDizonは、自殺飛行士たちは日本の侵略や虐殺と同一視されるべきではないと信じている。「なぜならカミカゼは自衛で行動したからだ」
 他のフィリピン人はそれほど融和的ではない。
 Rechilda Extremaduraはアジアのいくつかの国で日本軍売春施設で奴隷状態に置かれた数千の女性たちのうち100名以上の女性たちの広報担当である。その女性たちはカミカゼ像について州知事(?)に抗議した、と彼女は述べた。
 「なぜあの戦争を称える記念碑を我々が持たなければならないのか?我々は犠牲になったのだ」彼女は述べた。「私は、日本が彼らの軍隊を称えるのは構わない、しかし私達のような国では別だ。日本人に破壊され略奪された。不適切だ。」
 マニラでは、作家のFrancisco Sionil Joseが広島と長崎の原爆投下を称賛する。
「私の気持ちは変わらない。私は80歳だ。」彼は述べた。「日本軍の占領中にここにいたなら、私がどう思うか理解できるだろう。そしてそれがまさに問題なのだ。つまり多くのフィリピン人はその占領を直に体験しておらず、無関心だったり、寛大だったりする。
 しかし我々はそうではない。我々はそれを生き延びたのだ。」

以下元記事
Philippines kamikaze statue reflects split over old enemy
Sixty years after Japan's surrender, Asians - with Some exceptions-are ambivalent about the imperial era of aggression and brutal occupation.

The Associated Press MAPALACAT, Philippines -
 Even now, 60 year's later, it's an arresting sight: a life-size statue of a Japanese kamikaze pilot next to a former U.S. Air Force base.
 Yet as the Philippines and the rest of east Asia remember the Japanese surrender on Aug.15,1945, the statue commemorating the first suicide pilots seems to sum up their ambivalence toward Japan's imperial era of aggression and brutal occupation.
 Some have protested about the fiberglass statue since it went up 10 months ago, while others see in it an act of forgiveness.
 But it's also a recognition of the power of the yen. Japanese tourists flock to the airfield to See the World War II museum and honor the pilots who took off from here on their one-way missions against the advancing U.S. Nawy.
 Japan, the world's second biggest economy, has a gigantic economic footprint in the region. Trade with other east Asian countries totaled $1 trillion for the year ending in March. Last year China replaced the United States as its biggest trading partner.
 Japan is the biggest buyer of Philippine exports, and the two states are negotiating a freetrade agreement.
 In that context, what happened 60 or more years ago tends to lose relevance.
 "The Japanese were very brutal, very hostile to Filipinos," said toothless Faustino Arceo, 68, the gardener who tends the shrubbery around the statue of the goggled, helmeted flier. "Before, I was angry, But now, I can't do anything. It's the past."
 In China and South Korea, which bore the brunt of wartime aggression, anti-Japanese sentiment erupts periodically, stoked by perceptions that Tokyo has never fully atoned for its wartime conduct. This year the issue that sent protesting crowds into the streets was Japanese school textbooks which they said whitewash atrocities.
 At the same time, many Asian countries look to Japan, home of the main U.S. force in east Asia, to serve as a counterweight to China's rising economic and military might.
 Here in Mabalacat, next to forner Clark Air Base in the northern Philippines, city tourism chief Edgar Hilbero said there was a lot of criticism of the statue, and conceded the decision to put it up was driven by tourism as much as by history.
 Every October, hundreds of Japanese tourists, war veterans, students and Buddhist monks travel here to honor the kamikaze with flowers, incense and prayers.
 Japan captured the Philippines in 1942, and it was from the airfield at Clark that the sirst kamikazes took off. From October 1944 to August 1945, 618 Allied ships were damaged or sunk by 2,526 suicide pilots, according to Japan's Kanoya Air Base History Museum. Some historians put the number of kamikaze at 5,000.
 The Americans recaptured the Philippines in 1945 and gave it full independence a year later, but kept their bases here until 1991. Clark has since been transformed into a tourism Zone, with a commercial airport, hotels and golf courses.
 Hilbero said he is also working on putting up a memorial to U.S. Capt. Colin Kelly Jr., who died when his B-17 bomber crashed at Clark three days after the attack on Pearl Harbor.
 For bombing a Japanese warship, Kelly became the first U.S. serviceman decorated in World War II.
 "We are not taking sides." Hilbero said. "We are using war history to promote good will, friendship and closer relationship between nations ...not to glorify anybody, not even kamikaze. War is evil. It's not the people who fought the war, That is our message." A similar message comes from 95-year-old Elizabeth Choy in Singapore, where Japanese troops killed as many as 100,000 ethnic Chinese.
 A national heroine, she features prominently in school textbooks for her 200-day ordeal of imprisonment and torture by the Japanese secret police for helping to smuggle money, food, medicine and radio parts into the prison that held some 75,000 Allied POWs and civilians.
 Choy said she has no hard feelings toward today's Japanese. "They've always been a very hardworking and ambitious people and they want the best for their nation."
 "What I detest is not the Japanese, but war itself," she added.
 Many of the territories Japan invaded were ruled by Western powers - Singapore and the Malayan peninsula by the British, Indochina by the French, the Philippines by the Americans, Indonesia by the Dutch - and Tokyo presented its invasions as acts of national liberation.
 But Singapore, is also cashing in on war tourism, though its travel packages are tailored for veterans and former POWs from Britain, Australia and New Zealand. In Australia, war veterans in the farming town of Cowra tend the graves of 231 Japanese POWs machine-gunned as they launched a suicidal stampede for their camp's barbed wire fences on Aug. 5, 1944. In 1979 a 12-acre memorial garden opened and has become a tourist attraction. The Filipino behind the kamikaze initiative is a local historian. Daniel Dizon, who spent much of his life studying the suicide squadrons and built a museum in his house with rusty guns, bayonets, old photos and Japanese uniforms.
 "It was very agonizing because people hated Japanese so much," he said, "Anything that you bring about in public regarding the Japanese was met with intense hostility and anger, and nobody wanted to listen," he said.  Dizon was 15 when Angeles city, which now encompasses Mabalacat, was full of kamikaze pilots. He said he was fascinated by their determination and patriotism.
 In the early 1970s, Dizon tracked down what he said was the house in Mabalacat where Japanese Vice Adm. Takijiro Ohnishi and his staff had the meeting on Oct. 20, 1944, that led to the birth of the first 23man kamikaze squad.
 For years, he struggled to persuade the owners to allow him to put up a small marker on the fence around the nondescript, single-story house. They relented only after Dizon enlisted the help of a local businessman, who saw a chance to make money in a landlocked province with few other attractions.
 When it saw Japanese tourists starting to pour in, he said, the city prodded him to find and mark other kamikaze spots.
 Now 75. Dizon believes the suicide pilots should not be equated with Japanese aggression and atrocities, "because the kamikaze acted in self-defense."
 Other Filipinos are less conciliatory.
 Rechilda Extremadura is a spokeswoman for more than 100 women among the thousands enslaved in Japanese military brothels in several Asian countries. She said the women protested to the provincial governor about the kamikaze statue.
 "Why should we have a monument to glorify that war? We were victimized," she said. "It's OK for me for Japan to glorify their troops, but not for a country like us, who were pillaged and destroyed by the Japanese. It's not proper."
 In Manila, writer Francisco Sionil Jose applauds the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki.
 "I haven't changed my feelings, and I am 80 years old," he said. "If you were here during the Japanese Occupation, you would understand how I feel.  And this is precisely the problem - that many Filipino don't have a living experience of that occupation, so they can afford to be very blase, very for giving. "But not those of us. Who lived through it."
https://news.google.com/newspapers?nid=1955&dat=20050814&id=fQkwAAAAIBAJ&sjid=AKMFAAAAIBAJ&pg=1036,5778259

イギリスのテレグラフ紙2005年9月5日付記事の抜粋
Tino Arceo氏69歳は像の管理人で、日本占領時代はまだ子どもだったがよく覚えている。「彼らの大部分は本当に無礼で無作法だった。一部の日本人は、美しい女性を見かけると、例え夫や子どもと一緒であってもさらってレイプしようとした。
「私は当時起きたことについて日本人に怒っている、しかし彼らを罰するのは神に委ねている。私に関する限り、これ(像の管理)はただの仕事だ。私は金を稼ぎ生計を立て家族を養うために働いている。」
他の人々はより憂鬱そうである。像が建って以来の数ヶ月で訪問者の大多数は日本人だった。Arceo氏は彼らを「誇らしげで幸せそうだ」と形容するが、しかしあるフィリピン人訪問者は来客帳にこう記した「この碑はフィリピン人元兵士に対する非道と侮辱である。これは建前の意図とは反対に戦争を賛美している。実に不快だ。」

Tino Arceo, 69, its caretaker, was only a child during the occupation but he remembers it well. "The majority of them were really rude and ill-mannered. Some Japanese, when they saw a beautiful-looking girl, tried to snatch her and rape her, even if she was with her husband and children.
"I'm angry with the Japanese for what happened but I leave it up to the Lord to make the punishment for them. As far as I'm concerned this is just a job. I'm working to earn money to make a living to provide for the family."
Others are less sanguine. The vast majority of visitors in the months since the statue was installed have been Japanese. Mr Arceo described them as "proud and happy", but one Filipino visitor wrote in the visitors' book: "This memorial is an outrage and insults the memory of Filipino veterans. It glorifies war, contrary to its stated intentions. It is revolting."
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/philippines/1497691/Philippines-kamikaze-statue-lures-the-tourists.html

フィリピンの反日感情(2)戦後編


フィリピンの反日感情(1)戦中編 の続き

- 衆 - 予算委員会 -  
昭和25年02月03日
○吉田国務大臣(吉田茂)
お話のうちでもつてパキスタン、インド関係は対日感情は悪くないことは事実でありますが、相当悪い国もあります。たとえばマレーなどは日本の船を寄せてくれないかという話をしましたところが、日本の船を寄せた場合にはクリーが働かない、まだ対日感情は決してよくなつておらないから、もう少し待たなければならぬという当局者の話もあります。シヤムはよいそうであります。けれどもインドネシアは私は相当悪いのじやないかと思います。フィリピンが悪いそうです、仏印もあまりよくないように開いております。

- 衆 - 大蔵委員会 -  
昭和25年12月08日
○川島委員(川島金次)
さらにもう一、二点お伺いしておきたいのですが、これも私最近まわつて来て非常に痛感しておることなんです。・・・アジア地域ことにフイリピンですが、このフィリピンにおける対日感情というものは、われわれの感じて参りましたところでは今日でも非常に險悪であります。・・・依然として戰争以来の対日感情が非常に険悪をきわめておつて、日本人が行きましても、夜分などマニラの市街は見物などができないというようなほどに悪い。・・・これはフイリピンだけでなくして、ここにも非常に重要な市場として掲げておりますところのインドネシア、インド支那、こういう方面にもフイリピンと同じように、対日感情の芳ばしからざる面が相当あるわけであります。

○池田国務大臣(池田勇人)
 川島君の言われるようなことを私は他の人からも聞いたのであります。太平洋戰争中にわれわれの同胞の犯した罪に対しまして非常に憎悪の念を持ち、それがだんだんよくなりつつはありますが、まだわれわれの想像以上に憎悪の念が残つておるということを聞いておるのであります。政府といたしましてはできるだけそういう気持が早く消えることに努力をいたしておるのでありますが、これはやはり日本国民が、ほんとうに日本国民は平和を望む国民であるということを、事実をもつて示すよりほかにないと思います。国民感情をよくするということは非常にむずかしい問題でございまするが、貿易振興その他から申しましても非常に重要な問題でございますので、政府としてどういうふうにしたらいいかということは、お互いの頭の中で考えておることであります。

- 参 - 外務委員会 - 
昭和26年02月15日
○国務大臣(吉田茂君)
・・・濠洲その他については、先ほど申した通りでありまするが、お話の通りにフイリピンは甚だ厄介だと思います。というのは、あそこにおつた日本の軍隊その他の行動に、いろいろその土地の人の恨みを買うようなひどいこともあつたようです。この間佐藤議長がフィリピンにフリーメーソンの関係で行かれるというときにも、治安状態がどうであるか、その懸念に関して行くことをやめられたというようなことも聞いておるのでありますが、又あの土地を通過した人から言つて見ても、市中の散歩もできないというようなことでかなり日本に対する空気は今なお険悪だろうというふうに聞いております。又タイ、フイリピン関係の人から、その他いろいろなことを聞いておりますが、併しこれも日本が悪いことばかりしておるのではない、いいこともしておりますし、それから又駐屯しておつた軍隊その他の行動も、直接に国民にいい感じを与えておる部落と言いますか、地方もあるらしいのでございまして、一概に悪いとは言えないようですが、少くともマニラの状態、空気は甚だ悪くて、今なお危険な空気もあるというようなことは、これは事実であろうと思います。そこでこの関係を元の関係に直すのには相当の時間がかかるのみならず、我々として更に努めなければならんと思いますが、仕合せに村田省蔵君などというような人は友人も持ち、又いい関係も作つておるようでありますから、こういう人の講和後においての努力によつて、フィリピンとの間の関係がよく行くことに相当努むべきであり、努めなければいけないと思います。併しそれにしても、なお相当時間がかかると思います。マニラが一番憂慮すべき関係にあるように思われます。

- 参 - 法務委員会戦争犯罪人に… -  
昭和26年12月12日
○参考人(吉村又三郎君)
・・・現在のフイリピンの現状をちよつと参考までに申しますと、私の知る限りにおいて、最近二世のアメリカ人がフィリピンの酒場で、勿論二世ですから英語で喋つていたのでしよう。ところが途中で日本語になつたら間もなく殺されてしまつた。だから日本人だとすればとにかく遮二無二やつつけてしまうというくらいの空気が非常に強い。それから曾つて私と相当親しく連絡しておりましたフィリピンの某氏のごときは、あなたにフイリピンに来てもらいたいのだけれども、遺憾ながらあなたが日本人であるから生命の安全の保障はできない状態であるから、ここ数年待つてもらいたいということを言つておる。まあこういうふうな状態にあるのでありまして、・・・

 - 衆 - 法務委員会 -  
昭和27年02月14日
○黒田参考人(黒田重徳)
私黒田であります。本席でいろいろな戰犯にすることを述べさせていただくことは、私のたいへん仕合せに感ずる次第でございます。私は開戰戰当時は東京にある陸軍の教育総監部の本部長をしておりました。翌年の七月にシンガポールが落ちたあとに南方総軍の寺内さんの総参謀長になつて、その幕僚長で参りました。それから十八年の五月にフィリピンの軍司令官に参りまして、十九年の九月に交代、十月に内地に帰りまして、十二月に陸軍をしりぞきました。終戰後九月に米軍に監禁されまして、四七年十月にフィリピンに連れて行かれまして、裁判を受けて、四九年の七月に終身刑を受けてただいままでおりました。昨年の十月二十三日に大統領の特赦をもらつて帰つた次第でございます。
・・・比国人の対日感情というものは、なかなかまだ納まりそうにはないと思います。しかしこれはやはり時日が来なければなかなか簡單に行かぬのではないかと思います。

 - 参 - 厚生委員会 - 
昭和27年02月14日
○証人(赤津勇一君)
 私は昭和十九年に比島に参りまして、昨年の四月に帰つて参りました。・・・
 抑留邦人の状況ということになつておりますが、私一人でおつたのでほかのことは全然知りません。ただ向うの人が私に対して与えてくれた取扱のとについてちよつと申上げますと、大変親切であります。・・・ただ一般住民から大分反感を買つていたので、成るたけ外には出ないようにということで、キヤンプの中で自由に往来しておりました。ときどきマニラに行きますと、マニラの住民は相当に感情が悪いようでありました。

- 衆 - 海外同胞引揚及び遺家族… -
昭和27年03月12日
○神保参考人(神保信彦)
 私先般フイリピンに参りましたが、日本人として個人として、初めて行つたような関係であります。そこで今日の議題にありますフィリピン在留日本人の状況をお話します前に、御理解になる前提としましてフィリピンの情勢を簡單に申し上げたいと思います。 
 私が行きました目的は、ロハス元大統領夫人並びにキリノ大統領の招請で、お墓参りということと、それともう一つは、ロハス氏の物語りを書くので、資料編纂というのが目的でありまして、その間に皆さんとお会いして旧情をあたためるという人道的な目的であつたのであります。ところが御承知のようにフイリピンに入国するということは、今非常にむつかしいのであります。これはあとで説明申し上げますが、何といいますか、一種の鎖国政策のようなものではないかと思うのです。それで嚴密な委員会がありまして、資格を吟味いたしまして、やはりなかなか入れないようです。そうして閣議で決定するようです。そういう関係ですから、よくフイリピンの情勢がわからずにわれわれおつたのですが、行くようになりまして、一月の中ころにルパング島に日本兵が四、五名残つておるということが確認されたわけです。それからミンドロ島、ミンダナオ島及びルソン島にも残つておるという情報がだんだんと私の心によみがえりまして、残留日本人の様子を調べて来たわけであります。 
 フィリピンに行きまして気のつきますことが二つあります。それはフィリピンの対日感情が予想以上に悪いということです。これは端的に言つていいか悪いかわかりませんが、実際に悪いです。われわれは非常に甘く考えまして、政治家のある程度の政策上の問題だろうと思いましたが、実際に悪いです。たとえばパーティをやつたり、あるいはレストランなんかに行きましてボーイや何か、日本人だとわかれば必ず言います。私のおやじが殺されたの、兄弟が殺されたの、家が焼かれた。これは戦争中日本人がやつた。日本人ジヤツプジャツプと今でも言います。それからたとえば自動車に乗つて、日本人だとわかれば、運転手が言いますし、宴会などで女、ばあさんは、まだなかなか敵愾心が残つております。この民族感情が、このように熾烈にずつと根強くありますので、フィリピンの政治家としましても、この民族感情の上に外交、政治をとらざるを得ないのだろうと思います。・・・私は政治の問題はよくわかりませんが、そこでこれはどうしても対日感情が悪いということを前提に置いて、海外同胞引揚げといういろいろの政策も、交渉も進めて行かねばならぬと思います。 
 それからフィリピンで気つきますことは、たとえばマニラの町のまん中にフオート・サンチャゴという要塞があります。昔スペイン時代の要塞です。そこなどにガイド、歩哨が案内してくれますが、そうするとやはり日本が占領当時――終戦のときだと思いますが、昭和二十年ごろ、憲兵隊に留置した者を拷問をやつた部屋とか、虐殺をやつた部屋をそのまま歴然と残しておぐのです。そうして五百メートルぐらいの広い牢屋ですが、穴が掘つてありまして、ここでつるし上げて、日本人がフイリピン人を殺してそうしてここへ死骸を積んでここに埋めた。そのお墓はここなんだとよく説明します。そうしてやはり昔の残虐的なところを日本人に理解させようとするわけです。また半面に、山の中におつたゲリラも、これもやはりフィリピンでは抗日の英雄というようなぐあいになつておりますので、やはり初めは抗日的な政策をとつたのだろうと思います。その薬があまりきき過ぎて、現在のようになつたのではないかと思います。そこで日比の関係が、われわれが考えるように、いくさが終つてお互いに理解の手を差延べておるという状況でないということを前提にして研究されることを希望いたします。
 ・・・そこで大体五百名の日本人をどうするかという問題ですが、出発前に私のところにも、いろいろ手紙なり、慰問品、医療品のようなもの、それから投降するものを託されまして、荷物になりましたので船で送つておいたのですが、そうしてモーンテンルパとか、そういうところに届けるものは届け終つてしまつたのです。たとえば、私の夫がレイテ島でなくなつたから、レイテ島に行つて手紙を埋めてくれとか、あるいは北部ルソンで戦死しておるから、そこにある土を持つて来てくれとか、あるいはミンダナオのどこでなくなつたはずであるから、その死骸を探して来てくれとか、それから室中から紙をまいてくれ、水をまいてくれ、そういうことを依頼されるのですが、これはまことに情においては切々たるもので、人間のとうとい感情でありますが、これは冒頭に申し上げましたように、フィリピンの対日感情と、治安の状況をまだ御理解にならぬからだろうと思います。大体においてマニラの町も、日本人であるということがわかつたならばめんどうです。いわんや、そこから外に出るということは、日本人としてはきわめて危険で、だれも行つた者はない。いわんやレイテ島、北部ルソン島なんかの古職場にはとても行けません。それからまた日本人の無名戰士の墓というものもありません。山下、本間さんのお墓も掘られて内地に運ばれておるという話です。曹洞宗の管長さんからも、日本の仏教徒のために、経文のりつぱなのを届けられて、これをマニラの町に埋めて、そうして四十七万の英霊のかわりにマニラの土を持つて来てくれという話もありましたが、それをいろいろ外務省やマニラの市長と相談してみますと、やはり感情としては、まるで受付けないのです。まだそういうことをやるほどに日比の空気が溶け合つておりません。もしそういうことを作為的にやつた場合には、フィリピン人は墓を掘り返したり、墓地をこわしたりするという危険があるから、それはしばらく時期を待つてくれというのであります。

○神保参考人
 賠償の問題に対するフイリピン人の感じは、政府の自由党と在野のナシヨナリスタ党を通じて、やはりともに強硬だと思いました。これは民族感情として強く出るのだろうと思います。それでだんだん交渉した結果八十億というような数字は世界の情勢に合わないのだということは、民衆もその後だんだんわかりかけて来たのだろうと思います。そこで今交渉を進行中でないかと思います。

- 参 - 外務委員会 -  
昭和32年02月19日
○国務大臣(岸信介君)
・・・今回新聞に出ております、参議院議員の小西英雄君が団長となって十数名の者がいわゆる親善使節、親善使節と申しますけれども、これは言うまでもなく政府の別に公的な親善使節ではなしに、民間的なものでありましてこれはマニラの副市長ロセス氏の招聘に基いて、経費の全額を向うで保証するという形で招待によって渡航がなされたものでありますが、そのうちに一人元憲兵であった柳瀬氏が加わっておりましてこれが向うで新聞に取り上げられ、その他のことで問題を起したわけであります。御承知のように今日の旅券の発給する場合におきまして申請書には軍歴を書くということの何がございませんので、柳瀬氏も軍歴のことは一つも書いてありませんで、従って外務省がこの旅券を出すときには、柳瀬氏がそういう元憲兵であったという事実は実は知らなかったわけなのであります。しかしこの一行が向うへ参りまして、柳瀬氏が憲兵であったということが新聞に掲げられ、また一部に取り上げられまして、相当に問題が起った。もっとも柳瀬氏は今の上院議長のロドリゲス氏とは特別の関係が個人的にある人であります。いろいろこれらの人々が仲介に立って柳瀬氏を日本へ早く帰したらよかろうということで、柳瀬君は一行よりも先に帰って参りました。それから最近に小西参議院議員も帰って参りまして、当時の事情を私は小西議員からも聞いたわけでありますが、日本の新聞に報ぜられたほど現地では大きく取り上げられたわけではなかったようであります。しかし戦争の当時の日本憲兵に対するフィリピンの大衆の国民感情というものは、まだ全然拭い去られたというわけではございませんので、このことが国民の大衆の一部に当時の忌まわしい記憶を呼び起したりして、せっかく日比の間の感情がそういうふうに好転していっている際に、こういうたとえ小さいことであっても起ったということは私遺憾であると思います。


Ⅱ桑港編
8 7日午前 第6回全体会議
 シリア・サウジアラビヤ・ヴェネズエラ・ウルグァイ、ホンデュラス・ニカラガ・カナダ・インドネシア・フィリピン・ルクセンブルグ・イラン・ペルー・ブラジル・グァテマラ14国代表の意見開陳が行なわれた。なべて条約案を支持した。・・・
 フィリピン代表は、抽象的な原則論に走らず平和の具体的な困難な問題と取りくまねばならぬ。フィリピンは日本の占領から言語に絶する損害をうけた。が、フィリピンはあわれみを求めるのでなく Justice を求める。フィリピンの対日態度は感情に影響されるところないとは申さぬが objective な態度をとるよう努力してきた。フィリピンの戦後の対日政策は、(1)日本が将来フィリピンその他の諸国に対して脅威とならないこと、(2)日本がフィリピンその他の国に公正な賠償を支払うこと、(3)民主的・非軍国主義的日本と平和維持のため協力することの三つである。この政策からみてフィリピン政府は条約がある点では公正にして必要をつくしていないことを指摘せざるをえない。戦争状態の終了だけを目的とするならこれでよいかもしれないが日本のような大人口をよううし長い歴史と伝統をもち産業・軍事の潜在力をもつ国と平和条約を結ぶのは重大な政治的行動である。フィリピン政府は日本の民主化を継続―日本の民主化が完成したとは信じられない、次代の日本人に期待をかけなければならない―するため日本を援助する措置が講じられるよう希望した。条約にはそういう規定が設けられていないが、日本が自由世界との接触を拡大してその民主的制度を発展させるよう希望する。日本の再軍備にたい制限を設けない条約は平和条約として唯一の例外であろう。また、憲法で軍備を放棄した日本に自己防衛のため軍備をもたせようとしているのは歴史のアイロニーである。現情勢のもとでは已むをえないが、そうでなければフィリピンは断じてこれを認めないであろう。条約は日本とフィリピンがともに参加する集団的安全保障取極めを予想しているので、フィリピンの懸念は安心させられる。最近結ばれた米比相互防衛条約は日本からの攻撃にたいし共同行動にでることを規定している。この二つがあるので、条約の安全保障に関する規程を受諾する。フィリピンは条約第14条(a)の賠償条項に満足しない。同条が連合国に与えている利益は大国だけが享受できるもので日本の占領から損害を受けた小国―賠償請求国―はなんの利益もえない性質のものである。条約は小国の請求権については寛大な条約であり大国の請求権については懲罰的条約と評してよからおう。故意による損害の賠償の原則は個人間におけると同よう国家間においても放棄するわけにはいかない。フィリピンは懲罰的賠償を請求しない。しかし、日本の賠償を役務に限定することには賛成できない。日本の経済は逐年伸張しつつある。賠償を役務賠償に限ると往時のように他のアジア諸国は経済的に日本に従属せざるをえなくなる恐れがある。フィリピンは第14条(a)に規定された以外の方法による賠償の交渉を行う権利を留保する。条約はフィリピンにとって完全に受諾しうるものではないが会議招請国の支援と日本の協力とによって条約の欠陥を軽少に合理的な補足措置によって条約規定をより衡平・正義に適うものたらしめるよう希望する。アジアは、今、自由と集団的安全保障にむかって動きつつある。日本はアジアの覇主たらんと志してアジアと世界の自由の意思の前についえた。日本がこの条約の提供する機会を利用して自由の道を歩むならば、その野望をすててアジアおよび世界で成就さるべき事業に加担するならば、この条約に盛られた希望は達成されることになるとのべ「日本国民にフィリピン国民に代ってこう申あげたい。あなたがたはわたくしどもに重大な損害を与えられた。言葉でそれを償うことはできないしあなたがたのもっておられる金や富をもってしてもこれを償うことはできない。しかし運命はわたくしどもに隣人としていっしょに生きねばならない、また隣人として平和に生きねばならないと命じた。アジアには天の下に人類は同胞という諺がある。しかし同胞とは心の問題であって開花するにはまず心が清純でなければならない。相互の間に憎悪のきばが永遠に追放されるよう希望するが、それがためにはわれわれが許しと友情の手をさしのべる前にあなたがたから精神的悔悟と再生の証拠を示してもらわねばならない」と結んだ(注)
(注)ロムロ代表の演説はその内容といいその態度といいフィリピンの対日怨恨と不信の深さをまざまざ感じさせるもので会議を通じ日本人に一番深刻な痛味を感じさしたものであった

日本外交文書デジタルアーカイブ 平和条約の締結に関する調書 第4冊
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/sk-4.html

付録39
9月4日総理・ロムロ比代表会談録
昭和26年9月4日
松井秘書官

 吉田総理大臣よりまず「今次戦争中においてフィリピンに対して与えた被害はまことに遺憾であり、日本政府としてはできるだけフィリピンのクレームを満足させたいと考えている。ただ日本経済は連合国の援助によってようやく復興の途上にあるがなお前途は長く賠償問題は容易ではない。しかし日本としては条約第14条の義務は忠実にこれを履行する用意がある。」と述べたところ、ロムロ外相は「実はフィリピンにおいては賠償問題は非常にやかましい問題となっている、国民も今次条約の賠償条項はきわめて不満足である。反対党は遂に平和条約の全権団に全権を送ることを拒否するに至った。昨日の入電によればマニラ市において『条約反対』『米英のかいらいとなるな』『国民的名誉と自尊心をすみやかに回復すべし』等のポスターを立ててパレードが行われた旨の情報が入っている。自分は此の平和条約は調印すべしとの議論をしているが自分の立場の困難なことは御推察に難くないであろう。正直に申し上げれば、自分は戦争中、マックアーサー元帥とともにバターン、コレギドールを経て米国に逃れた。マニラの私宅は焼失し、家族は苦難の道を歩んだ、その自分が国民の意思に反してこの条約を支持せんとしているのである。自分の立場は解してくれるであろう。貴大臣も日本国民の声を代表しておられるであろう。私もフィリピン国民の声を代表せざるを得ない。そこでおたずね致し度いのはいつワシントンに出発せられるか、ワシントンに出発される前に米国を交えず直接に会見し、賠償支払の意思のある旨の確約を得たい。」と述べた。吉田総理大臣は「自分は条約調印後、直ちに日本に帰りたい。しかし条約第14条に基く会談は直ちに、又どこの場所においても開始する用意がある。東京でも良い。貴国においてでも良い。」と答えた。
 続いてロムロ外相は「ダレス特使との会談も全部賠償の問題についてであった。マッカーサー元帥も日本人は賠償を支払う意思がある。日比間に必ず満足の行くような双務協定ができることを信ずる旨の発言があった。どうか日本政府の誠意を示し直ちに階段を開始するようにしてほしい。」と述べた。
(備考)この会談はインドネシアの場合に比しロムロ代表の発言きわめてアグレシーヴであり賠償に対する関心の度合の強烈さを痛感した。しかし条約の調印をする意思は明瞭にしていたことは特筆するに値しよう。

日本外交文書デジタルアーカイブ 平和条約の締結に関する調書 第4冊
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/sk-4.html

以下は佐々木靖「コルディリェラの日系人」(帝京大学短期大学紀要第32号 2012年)より
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tandai32-02.pdf

アルツーロ・ハギオ(萩尾行利)のケース6
 ユキトシは、熊本県出身の父と北ダバオ出身の母により1926年にダバオ州で生まれた。・・・やがて米比軍の捕虜になり日本人強制収用所に入れられ、敗戦を迎える。収容所では日比混血児であることからあまり警戒心を持たれなかったようで、9月のある日、米兵の目を盗んで脱走した。2か月間ジャングルに潜伏したのち自宅に帰ろうとする途中、親しいフィリピン人に出会った。この友人は、ユキトシの2人の弟がゲリラに射殺され、母もそれがショックで翌日亡くなったことを告げ、今自宅に帰ったら弟たちと同じように殺されると教えてくれた。悲しみとともに身の危険を悟ったユキトシはダバオ湾に浮かぶサマル島に逃げた。この島で彼は日系人であることを隠し、タオスグ族の漁師の家で養子のような形で家業を手伝った。この漁師の夫妻には子どもがなかった。この時に用いた名前が「アルツーロ・ハギオ」である。ここで土着のサマル族の女性と結婚した。やがて可愛がってくれた漁師夫妻が亡くなり、8年後の1953年に妻をともないダバオに戻った。しかし故郷には帰ることができず、隣町に住むことにした。ハギオ夫妻は4人の子どもを持ったが、子どもには母方の姓を名乗らせることにした。日本や日本人とまったく無縁の生活を送っていたアルツールがその後日本人と接触するのは1970年代になってからである。(p15・16)

サルバシオン・モレノ(川上美保子)のケース7
 ビサヤ諸島パナイ島のイロイロ市に住むサルバシオン・モレノは、日本人の両親を持つ残留孤児である。・・・美保子と妹は地元のビダル・モレノという農夫に拾われた。ビダルは「サルバシオン」という名を美保子に与え、2人を養子にした。名前は変えていてもサルバシオンが日本人孤児であることは知れ渡っており、地元の小学校に進学後、「お前はフィリピン人じゃない」「日本に帰れ」「ハポン(日本人)、ハポン」と罵声を浴びせられたが、耐えた。別のフィリピン人農夫に拾われた兄は、この罵声に我慢がならず、小学校を2年で中退した。兄と美保子は拾われた後に再会した。初めは、日本名で呼び合っていたが、周囲の反日感情に出会うなかで、フィリピン名のニックネームで呼び合うようになったという。妹は14歳で病死した。美保子はその後、大学に進学し卒業している。(p16・17)

北ルソンの日系人
ジャニー・ダビット(長岡良男)のケース9
 ヨシオの父は福岡県出身の「ベンゲット移民」10であった。・・・キアンガンで防空壕に隠れ住んでいたとき、ゲリラ2人がこの防空壕に入ってきた。家族は全員がイロカノ語を話せたのでいったんそのゲリラは立ち去った。しかし翌朝、その防空壕目がけて砲弾が飛んできた。父と姉妹4人は直撃弾を浴びて即死、母も3日後に死亡した。生後8か月だった末の妹は無傷だったが、やがて栄養失調状態で死亡した。同行の家族7人、つまり全員を一度に失ったのである。自身も大けがをした14歳のヨシオは、負傷した右足を引きずりながら逃げた。途中でゲリラに遭遇したが、イロカノ語とタガログ語で日系人であることを隠し通した。ヨシオは母親の姓を使い、ジャニー・ダビットと名乗ることで一命を取り留め、バヨンボンで米軍病院に運ばれた。その後2年間闘病生活を送った。退院後は生きるためにできることは何でもやったという。靴磨き、ホテルのボーイ、大工の見習い。やがて車の免許を取りジープニーの運転手になったジャニーは1960年に結婚したが、妻にも自分の日本人名はおろか日系人であることすら明かさなかった。ゲリラに「ジャニー・ダビット」と名乗ってからは日本語を口にすること、日系人であることを封じてきたのである。ジャニーが妻に自らの名を「ヨシオ・ナガオカ」と名乗り、日系人であることを明かしたのはシスター海野に出会った翌年の1973年になってからである。戦前、進学のため日本に帰っていた長兄から手紙が届いたのである。兄が親からもらった名前で生きていることが分かったのを機に、ジャニーはヨシオ・ナガオカに戻った。(p18・19)

ジュリエッタ・ロカノ(東地初子)のケース11
 ハツコの父は和歌山出身である。母はフィリピン人で、1941年4月に生まれた。・・・
 終戦後、家に帰ってくると壁は破壊され、土地は没収され、他の場所に移動せざるをえなかった。ハツコの悲劇はここから始まる。次兄が現地召集され模範的な通訳として憲兵隊に仕えていたのである。次兄は、46年2月に戦犯として山下大将とともにラグナ州・ロスバニョスで処刑された。ハツコは日本人の子どもで、悪名高い「ケンペイタイ」の妹であったのである。
 周囲からは、「兄が憲兵隊で人殺しをした。お前は、その妹だ!」と罵られ、「学校では同級生と遊んでもらえず、家に帰っても周囲の大人からも、人殺しの妹だ、と軽蔑され、敵視されました。一緒に遊んでくれる友達は、誰もいませんでした。いつも目立たないように片隅でおびえながら小さくなっている」といったいじめを受ける。いじめは小学校時代が特にひどく、母方の姓を名乗り、別の場所に引っ越さざるを得なかった。(p19・20)

シスター海野12
・・・マニラで活動していたシスターは1972年に静養のため避暑地バギオへ向かう。偶然にこの地に日本人の子孫がいることを知ったシスターは、彼らを探し出すことを心に決めバギオやその周辺のあちこちを歩き回ったのであるが、日系人を知る者はほとんどいなかった。最初の日系人に出会うまでに3か月を要したという。日系人たちはその姿を隠していたのである。しかしながら、シスターの献身的な働きによって、翌73年に28人の日系2世がバギオで終戦後初めて集まった。(p21)

カタリナ・プーカイ(大久保さだえ)のケース13
 サダエの父は1894年に広島県に生まれた。・・・地元生まれの母は子どもたちに「いじめられても逃げたりしないで。まっすぐに歩きなさい」と教えた。終戦時に15歳であったサダエは「オオクボ」の姓を使い続けていたが、そのために誹謗の対象になった。周囲からは軽蔑の意味をこめて「ハポン(日本人)!ハポン!」といじめられた。「家に石が投げ込まれたりしたこともあります。ドアや窓を閉めたまま、外へも行かずじっと家の中に隠れたりもしました。妹もただ黙って泣いていました」(p22)

ハマダ兄弟のケース14
 北ルソン・バギオのハマダ兄弟は成功した兄弟である。鹿児島出身の父親はベンゲット・ロードの工事に従事し、工事終了後もバギオに残った。製材所で働いていた1912年に労災事故に遭い32歳で死亡した。この時バギオのイバロイ族の母親のもとに残されたのが1歳の長男オセオと生後1か月の二男シナイである。当然のことながら、父親の記憶もないし日本語を習ったこともない。戦争が始まっても、日本語ができなかったため日本軍に徴用されることはなかった。兄弟はフィリピンの公立学校で教育を受けたため、自分はフィリピン人であると考え、対日協力の意思はなかったという。しかし戦後、日系人であるという理由でマニラのモンテンルパ強制収容所に6か月間収容された。その後バギオに戻って来るのであるが、「当時もし日本語ができていたら、今ごろ首はなかっただろう」と言う。

6天野洋一『ダバオ国クオの末裔たち:フィリピン日系棄民』1990、風媒社及び大野俊『ハポン:フィリピン日系人の長い戦後』1991、第三書館(pp.12-27)
7大野俊『ハポン』(pp.122-130)
9大野俊『ハポン』(pp.75-78)及び鴨野守『バギオの虹:シスター海野とフィリピン日系人の100年』2003、アートヴィレッジ(pp.51-58)11鴨野守『バギオの虹』(pp.58-68)
12大野俊『ハポン』(pp.78-87)、鴨野守『バギオの虹』(第3章)及び“MEMORIAL:TheJapaneseintheConstructionofKennonRoad”1983,PublicationCommitteeFilipinoJapaneseFriendshipAssociationofNorthernLuzon(pp.58-60)
13鴨野守『バギオの虹』(pp.86-90)
14大野俊『ハポン』(pp.215-222)及び“MEMORIAL”(pp.22-25)

東京財団研究報告書 2005-6
「フィリピン日系人の法的・社会的地位向上に向けた 政策のあり方に関する研究」より抜粋

終戦後、投降した日本軍人は米軍の収容所に収容された。8月15日の敗戦後の投降者はルソン島6100人ミンダナオ・ビサヤ地区5万2,910人、計11万4,010人といわれる24)。山下奉文大将とマッカーサーの間で交わされた停戦協定文中で、一般邦人は軍人軍属と同様に取り扱われることが明記され、一般邦人も軍人と前後して米軍の収容所に収容された。収容所はフィリピン全土に19箇所(ルソン島17、ミンダナオ島1、レイテ島1)あった。最大規模は、ラグナ湖周辺のカンルバン収容所(最大収容人員5万人)、次いでミンダナオのダリアオン収容所(同4万人)、レイテ島のタクロバン収容所(3万人)であった。このほか仮収容所が全国に34箇所(ルソン島18、ミンダナオ島8、ビサヤ諸島8)あった。収容所では1000人以上の日本人が死亡したと伝えられる。収容所における処遇の基準は次の通りであった。24)①日本人移民および日本人を両親とする子どもたちは全員強制送還②フィリピン人を母とする15歳以上の男子は父親とともに強制送還③フィリピン人を母とする15歳以上の女子は日本に行くこともフィリピンに残ることも選択可④フィリピン人を母とする15歳未満の子は全員フィリピンに残る(日本人父が連れて帰る場合は別)(p31)

戦後、日本人の財産はフィリピン政府に没収された。残留した2世は、フィリピン人の日本人に対する憎悪を一身に受け、迫害、差別の対象となった。天野洋一『ダバオ国の末裔たちフィリピン日系棄民』(風媒社、1990年)には、「お前、日本人だろう、日本人のくせになぜ日本に帰らない。ここはお前なんかのいるところではない」と銃でこづかれた、あるいは惨敗兵(略奪を業とする元抗日ゲリラ)に襲われ、「合いの子」であることをひたすら訴えて命拾いしたなどの残留2世の体験談が紹介されている。年頃の混血2世女性は、フィリピン人や中国人と結婚することで迫害をまぬがれ、生活手段を得た。夫を失った1世の妻の多くが、生活のため、フィリピン人男性と再婚した。2世は、日本人父の姓を、母の姓または母の再婚相手(継父)の姓にかえ、ファーストネームもフィリピン名(多くは洗礼名)にかえて育てられた。戦中生まれで日本人父の記憶のない2世の場合、父親が日本人であることを知らずに、継父を本当の父と思って大きくなったケースもあった。継父については「よくしてくれた」というケースと、「いじめられた」いうケースがほぼ半々であった。後者は「継父は自分と他の子(母親と継父との間に生まれた弟妹)とを区別し、自分だけにつらくあたった/学校に行かせてもらえなかった」などである。学校に通うことができた2世は、級友から「ハポンハポン」「ハポンパタイ」(ハポンは日本人、パタイは死ねの意)など、いじめられたり、からかわれたりした経験を持つ者が多い。(p32・33)

8)フクダハツエ―1944年(昭和19年)生まれダバオ在住
・・・私は1944年に生まれましたが、その後すぐに、父はいなくなってしまいました。戦争が終わった頃です。父はいなくなる前に、自分はもうフィリピンにいられなくなった、と母に言い、私を一緒に連れて行くと言ったそうです。母はそれに賛成しましたが、祖母が反対しました。その後、父は再度私を連れて行こうとしましたが、祖母の反対で連れて行けなかったそうです。近所には私のほかに日本人の子はいませんでした。「ハポン、ハポン」と皆に呼ばれ、私は意味がわからず、そのたびに泣いていました。私は、母の最初の夫の姓を使っていました。日本人の姓を使うのは、当時危険だったからだそうです。私が8歳のとき、近所の人が日本人の子はどれかと聞き、母は、私がそうだと言いました。そのとき初めて私は自分が日本人の子であることを認識しました。(p41・42)

10)トウゲエミコ―1934年(昭和9年)生まれマニラ在住
日本軍が降伏したと聞き、私たちは山から降りました。両親ともに亡くした私たち4人はそれぞれ別々に、私たちをかわいそうに思った近所の人にひきとられました。私はデグスマンという夫婦にひきとられ、すぐにルソン島北のヌエバエシハに行きました。異母姉も一緒でした。その夫妻が「フィリピン人は日本人に対して怒っているので日本人の姓は使わないほうがいい。そうすればあなたの目はあまりつりあがっていないのでわからない」というので私はFernandesという姓を使うことにしました。(p43・44)

13)ハマカワヒコイチ―1942年(昭和17年)生まれリサール州在住
・・・私はイロイロ市では爆撃の音を聞いたことを覚えています。私たち家族は父とわかれた後、イロイロ市から、母の実家のあるミヤグアオのアグダム村に行き、戦争が終わるまでそこにいて、戦後もそこに住み着きました。そこには母方の親戚全員がいました。私はミヤグアオのフィリピン小学校にあがりました。学校では日本名は使っていなかったので、学校にあがる前に母が私たちをカトリックの洗礼を受けさせたのだと思います。私は近所の子どもや学校の他の子どもたちから「日本人の子だ」といわれてからかわれました。私は泣きました。(p48)

14)フジカワニカノール―1927年(昭和2年)生まれダバオ在住
・・・私は戦後もフジカワという姓をずっと使ってきました。危険だから変えたほうがいい、と言われましたが、変えませんでした。私の子供の出生証明書の父の氏名欄はニカノールフジカワです(p49・50)

船尾修「フィリピン残留日本人」 より抜粋

長岡理三さんを父に持つ2世の良男さんは山中での逃避行の際、両親と乳飲み子を含む妹5人を相次いで亡くした。埋葬もできず遺体をそのままにして逃げたのが一生の悔いと いう。戦後は日本人に対する迫害から身を守るためにダビッド・ジャニーという母方のフィリピン名に名前を変えて生き延びた。 バギオ(ベンゲット州)ルソン島 /2010(p8)

高血圧で寝たきりのエメテリア・ファビアン・ゴンザレスさんは戦前の1934年生まれであるが、残留日本人2世ではなく3世である。祖父は大工をしていた神奈川県出身の加藤関蔵でバギオ大聖堂の建設にも携わったという。エメテリアさんの叔父は戦後になってから、日本人の子孫だという理由で殺害された。 ラ・トリニダッド(ベンゲット州)ルソン島 /2010(p10)

1936年生まれの2世ゲルマン・オオウチ・ベルンさんはこれま で一度も日本語を使ったことがない。福島県出身の父オオウチ・ イクオは家の中でも日本語は話さなかったからだ。そのせいか あまり日本人だという自覚はない。戦後は反日感情がすさまじ く、日本人であることがバレたら命の保証はなかったので、自分 の祖先は中国人だと偽って暮らしていた。 ナガ(南カマリネ州)ルソン島 /2014(p12)

永井均「フィリピンと東京裁判―代表検事の検察活動を中心として―」
(史苑第57巻第2号 1997年3月)

・・・(1945年)一一月一七日にフィリピン弁護士会全国評議会議長のアントニオ・アラネタがハリー・トルーマン米大統領に以下の書き出しで始まる書簡を送付したのである。
 フィリピン国民は、日本国天皇ならびにその共犯者の多くが戦争犯罪人として裁判および処罰に付されることから依然として免れていることにつき、重大な関心をもってこれを見まもっています。フィリピン国民は、山下泰文一味だけでなく、日本の侵略行動にかかわった他のすべての指導者を処罰しなければならないと考えています。これを行なわないならば、これらの犯罪者は、引きつづき極東の平和、ひいては世界の平和にとって脅威となるでしょう。
 このようにアラネタは日本の戦争指導者の処罰に対する国内の関心の高さと処罰の必要性を訴えた。とりわけ裕仁天皇については、その裁可によって戦争が遂行されたことを大日本帝国憲法の各条文を引用しながら例証し、「たとえ政府の最高位者としての天皇の地位を根拠とするにせよ、免罪の嘆願をだすことを約束するわけにはいきません」として、地位を理由とする免訴を拒否した。(p44・45)

(東京裁判の検事である)ペドロ・ロペスは一九〇六年一月一八日にセブ市に生れた。(p47)
一九四六年二月末、ロペスはUP記者に対して、東京での検察活動に加わること、来週にもワシントン経由で同地に向かう予定であることを打ち明け、さらに次の如く心境を披瀝した。
 日本の戦争犯罪人を起訴する検事の一人に自分が指名されたことは、フィリピンの被害が認知された証拠である。・・・私はたいへん怒りを感じている。とういうのも、フィリピンで日本人が罪のない一般市民に対しておこなった恐ろしい犯罪の数々を個人的に目撃したからである。(p49)

ところで、ロペス自身はこの(天皇訴追)問題についてどのような見解を有していたのだろうか。ここでは『マニラ・タイムズ』の記事に着目したい。・・・記事は『ロペス検事はマッカーサー元帥に対し、天皇を起訴するための証拠は十分揃っていると伝えたことを公表した」と紹介している。ここから、ロペスが―時期については不明であるが―マッカーサーに天皇を被告リストに加えるよう働きかけていたこと、そしてその試みが挫折したことが確認できる。(p52)

判決当時、フィリピンの国民は東京裁判をどのように見て居ただろうか。判決に関するニュースは新聞各紙によってフィリピン国民にももたらされた。『マニラ・タイムズ』は一一月一三日付記事のように判決内容と量刑、そして日本人の反応を淡々と報じる新聞がある一方で、突っ込んだ論評を加える報道もあった。
 たとえば『マニラ・クロニクル』一三日付の社説は東京裁判が「商社の裁き」であるという東条の主張に同意しながらも、「勝者は米国でもロシアでも中国でもない。勝者は自由であり、正義であり、人類である」と付け加え、裁判の正当性を主張した。また一二日付「マニラ・ブレティン』は社説で次のように主張していた。
 東条は彼が犯した罪は戦争に負けたことだけにあると考えている、そして彼はそのために後悔しているのだ、しかし日本人は彼と同じような考え方をしているのだろうか、戦争を計画し実行することは真に極刑に値するということが裁判の背後にある思想だということが人々の心に印象づけられるにはまだ徹底を欠くうらみがある。
 一三日付『イヴニング・クロニクル』の社説は以下のようなものである。
 ヒトラー、ムッソリーニが死に東条が処刑されても他のものが彼らに代ってその地位にすわらないとの保障にはならない。侵略戦争を行う能力は一国の指導者にあるよりもその国の国民性と彼らが住む環境の中に発見されるものだ。
 一五日付『バゴン・ブハイ』紙でも、日本は本質的に軍国主義的な国家であり、将来、再び小国、あるいは弱小国を犠牲にして拡張をはかるだろうとの危惧が表明されている。
 この他、判決よりも厳罰を要求し、あるいは裁判に内在する矛盾点を指摘する報道も見受けられた。フィリピン代表のデルフィン・ハラニーニャ判事は判決とは別に「同意意見書 Concurring Opinion」を作成、裁判所に提出し、一部の被告らの量刑が「余りに寛大すぎる」と判決を批判していたが、この意見書は『マニラ・クロニクル』紙のコラムニスト、オラシオ・ボロメオによって取り上げられるところとなった。ボロメオはハラニーニャの見解に賛意を表するとともに、すべての被告は「二度」絞首刑に処せられるべきだと強硬に主張した。さらに続けて、裁判は「表向きの頭首のために開かれたちゃちな替え玉裁判」であり、裕仁天皇も被告リストに加えられるべきだった、との不満も述べた(一一月一三日付)。(p59・60)

いまや執行は時間の問題となった。こうした状況下、広田弘毅と土肥原賢二の二人の死刑囚を含む七人の被告の弁護人は、二九日に画集国連邦最高裁判所に訴願を提出した。この動きに対してフィリピンでは、三〇日の『イヴニング・クロニクル』社説が「土肥原・広田の両戦犯は即刻処刑すべきである」と論じたように、即座に反対論が出た。さらに一二月六日に連邦最高裁が訴願を受理すると、マニラ市内の各紙は一斉にこれに反発した。反論の口火を切ったのはほかならぬロペス検事であった。翌日の『マニラ・タイムズ』はいち早くロペス検事の見解を報じている。ロペスは「国際法廷は一国の裁判所によって再審されるべきものではない」と不快感を隠さなかった。他の各紙もロペス同様、連邦最高裁の判断に疑問を呈した。
 一二月二〇日に連邦最高裁が弁護団の訴願を却下すると、フィリピンの各紙は「さぁ彼らを絞首刑にせよ」(『マニラ・ブレティン』一二月二二日)、「いまこそ彼らは死ななければならない」(『マニラ・クロニクル』一二月二二日)など死刑執行を促す見解を表明した。(p60・61)

そして裁判を終えたいま、ロペスは改めて次のように振り返るのである。
 東条、武藤、そして日本のすべての戦争犯罪人をたとえ一千回絞首刑に処したとしても、死亡した我が国民はもはや生き返らないし、無惨に捩じれてしまった生活は真っすぐにならない、徹底的に破壊された家屋さえも元通りになりはしないのである。・・・彼らの犯した過ちは決して取り消されることはない。・・・だが、もし東京裁判が打ち立てた歴史的な先例が、将来、戦争仕掛人の動機を躊躇さえる要因になれば、我々が参加したすべての時間は意味を持つことになるだろう。
 ロペスは、判決は寛大であり、「すべての被告らは極刑に処されるべきだった」とさえ考えていた。(p61)
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1427&file_id=18&file_no=1

 山岳地帯を通り抜けて平坦部にかかると、現地人の姿が見え出しました。何か大声で叫んでいます。四、五十人の多人数です。近づくにつれて群衆から石が飛んできましたが、軍使は一切の抵抗をするなとの注意を繰り返しました。
 ある地点に来て武装解除の指示をうけ、その後は手を頭に乗せて黙々と歩くだけで、もちろん何の抵抗もできません。いや、そんな気力すら失っていたのでしょう。投石や罵倒を浴びせる現地人の気持ちも分かりますが、戦争に負け、多くの戦友を失い、しかも捕虜となっている我が身が無性に情けなく涙がこぼれました。(p141)猪俣http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_136_1.pdf

 空より終戦のビラがまかれ、軍使が出て、「米軍との交渉の結果、抵抗を止め投降」との命が本部より来る。・・・山岳地帯を通り抜けて平坦部にかかると、現地人の姿が見えだした。大声で叫んでいる。大人数である。米軍もいる。やがて石が飛んできたが、軍使より「抵抗するな」との注意があった。
 頭に手をやり、黙々と歩いた。米軍は見て見ぬふりである。けがをして立ちすくむ者もあり、行進が止まりかけると、米軍はフィリピン人に大声で制止したのである。フィリピン人の気持ちも分からないこともないが、情けないのは我々である。戦争に負け、多くの戦友を失い、我が身は捕虜となる。無念の至りであった。
 しかし、フィリピン人も石を投げたぐらいでは、胸は納まりはしないことだろう。親、兄弟、肉親を殺され、田畑の食糧は食いつぶされたのである……。やっと危険区域を脱し、鉄条網の区域に入った。(p76・77)井上

 収容所に向かう途中では、現地人が我々に「日本のバカヤロー!」と石を投げるのです。私はマラリアの熱が出ている中で歩いているのですが、少しずつ隊列から後退し、ビリになって石を余計投げられたという訳です。(p123・124)酒本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_120_1.pdf

第二回の捜索隊に捕まりました時、アメリカ兵が六人、日本人捕虜二人(説得役)、フィリピン兵が十人ぐらい、道案内の原住民が数人の編成の捜索隊でした。・・・途中山の中を警備兵は威嚇射撃をしながら下山しますので、不思議に思っておりましたところ、威嚇射撃の目的は、私達敗残兵を狙撃する者から守るためだと聞いて有難く思いました。収容所に連行され、九月下旬頃と思いますが武装解除されました。そしてもう逃げ回る心配もなくなった、 原住民の家に食料品の盗みにも行かずにすむと「ほっ」としました。(p625・626)永木

 昭和二十一年十一月、復員が出来るとのことで、月末にマニラ港に送られました。汽車(無蓋車)が市内を通過中に徐行した時、ゴミや残飯を投げ入れられましたが、その時は護衛兵が拳銃を向けるとこの嫌がらせは止まりました。(p474・475)古屋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_471_1.pdf

 放送に従うために全陣地を整理してバニオ街に集結し、武装解除され、指揮官に指示を受け、マニラに行くためトロッコを大きくしたような屋根のない車に乗せられ駅を出発しました。途中で住民の反抗により石、木材等を投げつけられて大変危険でした。時間が経過してマニラに到着、下車して比島軍の引率で徒歩で現地に到着しました。(p122)田沢
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_118_1.pdf

「山を下りてからは無蓋車でマニラに運ばれました。戦争中の日本軍は、フィリピン人をかなり痛めつけたんですが、その仕返しが、戦争に敗れて捕虜となり収容所に運ばれるわたしたちにも向けられましてねえ。汽車が街の中にさしかかると、『日本ドロボウ、日本ドロボウ』と叫びながら、大きな石を汽車めがけて投げつけるんです。それに当たって死ぬ人は、敗戦のショックも重なって発狂する人もおりました。汽車を停めると住民に襲われるおそれがあるので走りっぱなしです。水は飲めないし、便所がないので排泄は貨車の隅のほうでしました。四隅に憲兵が立って見ているけど、仕方がない。
(広田和子「証言記録 従軍慰安婦・看護婦」p215・216)

 昭和二十年十一月、「ダバオに向いて行進せよ」とのことで、トラックに乗ったときもありましたが、徒歩行進では、現住民の「襲撃」が要注意でした。今も忘れぬ罵倒の声「裕仁パタイ」「山下パタイ」と天皇陛下や山下奉文大将の首切りの真似をします。そして各人に対しては「泥棒!」の罵声を女子や子供までが叫んでいました。(p283)北島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_279_1.pdf

 昭和二十年九月二十五日、ルソン島北部のアバリに上陸しました。そして仮収容所に向かって行軍中、原住民から「バカヤロウ」「ドロボー」と罵られ、さらに石なども投げ込まれ、敗戦者の惨めさと日本軍のルソン島での行動が思い浮びました。(p472)大森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_463_1.pdf
 
昭和二十一年十二月、待望の帰国ニュース。万歳。無蓋車でマニラの港へ行進中、現地人の心ない人が我々に石を投げ「馬鹿野郎! 馬鹿野郎!」とののしっていました。すべて隠忍自重。堪え難きを堪えて無事佐世保港へ帰国、上陸復員しました。(p312)松本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_307_1.pdf

それから丸裸で一キロ程の所にある捕虜収容所に入ると背中の所にPWの文字の書かれた服を渡された。・・・荷物の積み上げ、積み替え作業をさせられた。途中自動車で往復する度に現地人に石を投げられ、近付くと危害を加えられたりすることもあった。それでも、何一つ抵抗することが出来ないのだから惨めである。戦争に負けるということはこのようなことかと、つくづく思ったがアメリカの兵は優しくて、現地人を追い払ってくれた。(p424)仁平
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_416_1.pdf



八紘一宇・大東亜共栄圏とは



帝国議会貴族院予算委員会議事速記録第八号 昭和15年2月29日

○国務大臣(米内光政君)
八紘一宇の大精神に関しましては、過半本会議に於きまして建部博士に御答へ致した通りでございます、・・・之を対外的に考へまするならば、此の八紘一宇の御精神と云ふものが少しも侵略の意味を持って居りませぬ、徳を以て天下を化する、併しながら是が絶対の平和主義かと云ふとさうでもないと考へるのであります、「兵苟も義なれば戦ふも亦可なり」大理想に反するやうな悪逆のことをやる者があるならばそれは討たなければいかぬ、総て此の御精神に依りまして、今日迄日本と他国との間に於て戦争も致し、又戦争は致しますけれども是は一つの手段でありまして、此の大理想を実現する為に手段として使ったのでありまして、終局の望みと云ふものは世界の平和に寄与しなければいかぬと云ふことで参ったのであります、
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/075/0080/0750008000810229.html
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/075/0080/main.html

桑原晋「大東亜新経済と欧州新経済」1942年

第三章 大東亜新秩序建設とヒットラーの「欧羅巴新秩序」との比較
第五節 東亜新秩序経済とヒットラーの欧羅巴新経済秩序
第一項 「八紘一宇」の精神とヒットラーの「闘争」論との根本的差異
 東亜共栄圏は、「八紘一宇」の顕現である。億兆一人として其の処を得ざるなき様しろしめし給ふ大御心は、共栄圏内国家は一国として其の処を得ざるなき様しろしめし給ふ。覇道に非ず、王道に非ず、皇道のみ。日本人の理想であるのみならず、人類の理想でなければならぬ。天皇を中心とした家族的共同体以外に真に日本人の生きる道はない。この道はそのまゝに東亜に推して以て喜を頒たなければならぬ。あやからせねばならぬ。延いては全世界にゆきわたらせる必要がある。そのとき世界は永遠の平和を有ちうるであらう。
 しかるに悲しい哉、輝かしき此の事を理解しえない迷盲の国があまたある。我が日本の真意を体得しうる能力をもたぬ低度の民族が数々ある。それかあらぬか、あられもなき逆宣伝に躍起となれる指導者が諸国にある。或は排日と呼び、侮日と名づける。しかしながら、孰れも我が国を恐れ、怖れ畏るゝところに生ずる虚勢と見るの外はない。大義明〔ママ〕分に則とれる帝国の不動の方針と気魄とに圧迫を感ずるゆゑの焦燥以外の何物でもない。逆説的に言へば、日本の真意と「よさ」とを十二分に知りすぎた上での警戒と見る方が正しいであらう。
 しかしながら、敢へて日本は権力を以て怖れしめず、只管、権威を以て畏れらるゝのみ。欧米は権力の国々である。ヒットラーの「新秩序」も権力による建設である。日本の敢へて採らざる態度である。又、さうなければならぬ。東亜新秩序経済とヒットラーのヨーロッパ新経済秩序との根本的相違は茲に在る。そして又、ヒットラーの「新秩序」は「ドイツのため」の秩序であって、ヨーロッパ全体乃至は征服国全体のための秩序でないことは、上述せる如くである。之に反して、「東亜共栄圏」は単に「日本のため」に非ず、「支那のため」に非ず、「満洲のため」のみにあらず、東亜諸国の文字通りの「共存共栄」の秩序である。如斯、新秩序の理念において本来的意味を異にしてゐる。
 「我が闘争」から生れ出でし「新秩序」は何処までも「力」による建設であり、御稜威日本の建設せむとする「共栄圏」は、云ふまでもなく、「威」によるを本質とし、「大和」を建前とする。「征服、被征服」の言葉を必要とせず、「支配、被支配」の関係のあらう筈もない、共存共栄の実あるのみ。・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459408/67

高島米峰「同じ方向へ」1937年

三 八紘一宇の思想
 支那の日本を軽侮し、蔑視すること、誠に言語に絶す。曾ては、彼と対等なるを得て、満足したる日本も、今は寧ろ、彼をして、永遠に日本の庇護なくしては、独立の体面を保ち得ざることを痛感せしめ、無限の信頼と絶対の従順とを捧げしめなければならない。これ実に、東洋永遠の繁栄の保証であり、世界恒久の平和の確保となるのであって、やがてそれが日本建国の理想の実現となるのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1227702/45

小倉鏗爾「日本の全体主義」1938年

 この八紘一宇の大理想を、別の言葉でいへば、天皇様の御稜威(即ち皇威・皇風)、天皇様の御聖徳の感化(即ち皇化)を、全世界に洽からしめ、宣布することであります。又た別の言葉でいへば、天皇様の道(即ち皇道)を世界に宣揚することであります。皇威・皇化を全世界に洽からしめることが、即ち、八紘一宇となるのであります
 一口にいへば、皇道は、八紘一宇の道であるともいへます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257167/60

宮崎正義「東亜連盟論」1938年

斯くして王道は、連盟各国家を形成せる自覚ある民衆の理性と良心とに従へる、最高価値への信頼と服従への関係を律する思想であり、我国の内治と外治との対立的観念を総合統一する理念であり、更にまた個人と民族の自由と尊厳とを容認しつゝ、而も新らしい東洋的全体主義を顕現する大東洋社会建設の指導原理である。斯る指導原理の確立と其の実践とは畢竟八紘一宇の大使命の遵奉であり、其顕現に外ならない。而して、斯る八紘一宇の中心に位し給ふは、最高絶対価値としての天皇にあらせられる。王道主義とは、まさに斯る最高絶対価値の流露し給ふ万邦協和精神の発揚であり、その政治的表現に他ならないのである。(p114・115)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278350/68

藤沢親雄「日本民族の政治哲学」昭和12年8月23日発行 ※1937年

「三月の辛酉の朔丁卯の日令を下して曰く我れ東を征ちしよりこゝに六年になりぬ。以て皇天の威に頼りて凶徒就戮されぬ辺の土末だ清らず、余妖尚梗しといへども中洲の地また風塵無し。誠に皇都を恢廓め」云々と述べ給へる後に於て、更に御言葉を強められて、「上は則ち乾霊の国を授け給ふの徳に答へ、下は則ち皇孫正を養ひ給ふの心を弘めむ。然る後に六合を兼ねて以て都を開き。八紘を掩ひて宇とせむこと亦可からずや」とのたまはせられてゐる。
 此の詔は所謂天業恢弘、即ち世界の精神的総括整理の聖業が、日本民族のまさに遂行すべき一定の進路であることを明らかにせられたものである。而して今日の日本は既にこの雄大なる理想が具体的に現実化せらるる多くの契機によりて恵まれてゐる。満州国の出現しかりである。近時多くの問題によりて曝露せられたる大英帝国の衰兆しかりである。日本の眼ざすものは実に世界に於ける理想と現実とを結ぶべき新たなる天孫降臨に外ならぬ。現在に於けるが如き株式会社的世界機構を打破し、日本精神文化を以て他の諸民族を極めて自然に感化し融合し我が天皇を精神的中心となす全人類大家族的国際社会を現出せしめることが、我等大和民族の理想である。(p498)

 我が国に於ける外交原理は文武一体であるから、皇道の世界光被即ち天業恢弘の為には、武の実力を用ひる場合のあることは神武不殺の意味に於て許容せられねばならぬ。日本の世界的使命遂行によって実現せられるべき国際正義の貫徹擁護に当っては、兵を用ひ武を振ふべき場合あることは之を予想せねばならぬ。・・・日本の戦争は天皇に「まつろはぬ者」を「まつろはす」ことである。即ち天皇の行はせられる絶対創造愛の聖業に反抗し敵愾するものを転向せしめ教化して、天業恢弘を翼賛せしめるのが「まつろはぬ」ものを「まつろはせる」といふ事である。「まつろふ」とは「祭る」「奉る」と同じく信仰に於て一体となり、心から順ふの意である。即ち戦争によって却って真の平和が実現されるのである。・・・日本は文武不岐一体の外交の範を示さねばならぬ。その妙用によって、日本民族を中枢とする権威によって秩序付けられた世界大家族社会を創造せねばならぬ。(p501・502)

・・・即ち神の直接の御延長として絶対的道徳権威を有せらるる万世一系の天皇をいたゞく日本が、現実的に世界の中枢となり、極めて自然に各民族が其の御稜威の下に相親和して、一大家族的国際社会を構成し得る暁に於て、初めて移民問題も、天然資源開発問題も、門戸開放の問題も、機会均等の問題も、人種平等の問題も、軍備縮小の問題も解決せられ、其の結果国際正義を保護する真の世界平和が現出することゝなるであらう。かくて百姓昭明、万邦協和の深き意義を包蔵する昭和日本の世界的使命が如実に達成せらるゝのである。
 以上本章を通じて究明したる如く、皇道の外に真に普遍的なる国際政治原理は存在しない。皇道に比肩するに足る他の現実的な世界指導精神も存在しないと思ふ。且又日本民族を措いて世界絶対平和を実現し得る王者的民族は存在しないと信ずる。・・・我々は近きより遠きに及ぶ政治原理に基き、先づ何よりも支那をして王道国家たらしむるやう補導し、東亜に於ける日満支三邦を皇道に依って一致協和せしめ、此処に三邦の行動国際原理による外交の美を修めるならば、遠き欧米亦之を模して皇道に和順し、八紘一宇万邦協和の世界が次第次第に顕現されることとなるであらう。(p506・507)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876365/257

金子鷹之助「大東亜経済の推進」1945年

最近の新聞写真によると、昭南神社が建設されたが、あの清流に神橋が架せられ、静な森の中に、石のある庭、簡素幽玄なる木造神殿が造営せられたる風景は、大東亜諸民族の魂の底にある、悠久遠古の生活の記憶を喚び起すに相違ない。而して之は北方諸地方には既に凡ゆる処に建設されたが、南方でも独り昭南島に限らず、すべての処に造営され、諸民族の礼拝の中心とせねばならない
諾冉二神は大東亜の国生み、神生みの祖神であらせられ、天照大神は大東亜に君臨し給ふ、日子の神の祖神であらせらるゝと共に、社会と五穀に光を恵み給ふ大母神であらせられる。我国の神話こそは、欧米の如く科学的合理思想の為に抹殺もされず、又後進諸民族の如く、アニマティズムやアニミズム、や、マジックやタブーや、その他あらゆる呪術教的堕落にも陥らずして、炳乎として数千年を光耀き、幾度びかの国家的・社会的危機を救ひ、今や大東亜に解放と繁栄を齎さんとする、聖化され政治化されたる、社会思想となった。それは哲学でもあり、宗教でもある。
 但しこれを難解高邁なる概念を以て、諸民族に説教することは当分不可能である。先づ日本人が挙って日曜毎に参拝することである。従来の如く七日に一度エホバの神の為に、休息するといふことは無意味である。大東亜の大神にこそ参拝すべきである。諸民族はこれを以て「かゝる大神に帰依すればこそ、日本人は強く且つ情けがあるのだ」と悟るやうになるであらう。そして程なく伴いて来るであらう。又、神前の神楽は、彼等のガムラン舞楽の聖化したものとして、了解して来るであらう。支那ですら治者階級(士大夫)の、概念的政治的倫理たる儒教や西洋思想の翻訳たる三民主義の外に、農民の中に、自然的に発生したる社会道徳たる道教があり、それは福禄寿の神々を祭るのである。
 独り日曜だけでなく、大祭日を設けて参拝を重ねゝばならぬ。又、雨乞ひの龍神祭や豊年祈願の稲荷祭や盆踊りの如きも、諸民族一丸となって、楽しく賑々しくやるべしだ。山車や御輿も一緒になって引いたりもんだりすべきである。彼等の現在の宗教生活が、無害なる限り之に急劇なる禁圧を加ふることは、最も危険であるから、むしろ正しい文化・宗教を高く掲げて、自然に心の通ふやうにした方が良い。
 いふ迄もなく、八紘一宇の家族社会は、文化や思想だけでは建設されず、之と並んで経済的な福祉を与へねばならぬが、此の事は別の機会に屡説したので、茲には省くことゝする。(一七・一〇・一七)

補説一 八紘一宇思想の具現方途
 八紘一宇の思想とは、畏くも皇統を現御神ならびに大御親と仰ぎ奉り、人民はすべて兄弟なり、と考へる家族国家思想であるが、之を大東亜に具体的に表現するには、経済的、社会的、文化的等種々の方途がある。その経済的方途としては、キニーネの施薬、水力発電による治水、灌漑、電気化学(肥料、油脂等)、電気精錬(アルミニューム、鉄、錫)等科学技術や、経済的恩恵によって盟主たるの実を挙ぐべきことは筆者もしばしば他の機会に論じた。
 社会的文化的方途は、先づ神社の造営が第一であらう。過日新聞に昭南神社の写真が出てゐたが、水源から引かれた清流に神橋が架せられ、之を渡れば小高き丘の森林中にいとも清楚、崇厳なる神殿あり、といふ風景が拝せられた。
 この神殿の風景や神殿の構築様式は、特に南方民族の原始宗教内容と相通ずるものがある筈であり彼等は今でこそ印度教や仏教や回教やキリスト教に教化せられてゐても、その古い民族的記憶を潜在意識の奥底より呼び覚まして、われわれと同祖同族の自覚を確立するに相違ない。況んや神前に奏せられる神楽と舞を見て、彼等のガムラン舞楽の荘厳なる発展の極致を発見するであらう―大東亜に於ける舞楽は、神に捧げたものであり、欧米に於けるが如く、人間の享楽の為のものではない。能楽の冴えを見て日本精神を悟るところまでは、仲々時間を要するであらうが、神楽を見て、彼等の芸術と物語を向上せしめることは、容易であらう。
 現地に於ける日本人は、祭日休日の参拝はもとより、私人の冠婚葬祭も一切、この神前に於て行ふべきである。何よりもかゝ神様を信奉すればこそ、日本人は強いのだ―彼等が数百年間、神とも鬼とも恐れて来た米英国人を、一撃の下に彼等の面前に調伏したのだ―といふことを考へて、いつとはなしに彼等も、日本人の後について参拝するやうになるであらう。やがて日本人が強い許りでなく、情があることも、知るやうになるだらう。
 かゝる神社は既に、台湾、満、鮮、蒙、支至る所に造営せられてゐる大陸に於ても、少くとも原住民族は、日本民族及び南方民族と、同祖同族だった筈であるから、やがては太古の記憶を覚醒し、神社参拝を理解し得るに至るであらう。(p133~137)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1065646/85

武政太郎「国民教育の心理」昭和15年12月20日発行 ※1940年

四、八紘一宇、東亜新秩序の理念
  そしてわが国は、なりませる宇宙神たる神の御心によって生れ出で給ひし皇祖天照皇大神の神勅によって肇められたる国であり、その神意によって神武天皇は、天下の民を同胞一家として弥栄えに栄えしめたまはんとて、皇国を建て給うたのである。これこそ八紘一宇の理念である。
  万物をして洽くその恵沢に浴せしめ、各々そのあるべきところに安んじて生を楽まして給はんとの大御心はまた皇祖天照皇大神の大御心であらせられるのである。この皇祖皇宗の神意を吾々国民が奉体して隣国諸民族の上に平和と光栄とをもたらさんとすることが、我が日本民族の一大使命である。満州国において建国神廟を造営され、わが皇祖の神霊を礼拝して一億一心の実を挙げんとされたことも、わが神皇国の発展の結果であると考へられる。蒙疆、北支、中南支援、否、南洋諸民族においても、わが皇祖天照皇大神の徳をたゝへ、真に吾々人間が「ひと」(日徒又は霊徒)であり、「ひこ」(日子又は霊子)であり、「ひめ」(日女又は霊女)であることを会得信奉せんことを祈るものである。これは、今日わが国では、仏教徒、キリスト教徒の間に仏の教といひゴットの教といふも、すべてわが固有の思想たる神ながらの道即ち天照皇大神の道に帰一せざるべからずとして新体制運動が生じてゐることと思想的には一脈相通じてゐるのである。平安鎌倉時代に本地垂迹説の生れたのと同じ気運にあるのである。
  わが国では、天照皇大神は、神霊であらせられると共に祖霊であらせられる。日本人の信仰は、神人一体にある。これは神人を別とするキリスト教思想と全く異るところである。かやうな国民的信仰を盛んにし、外地にこの日の神の道をひろめ、信仰を等しくする運動を起すことは、またわが国民教育における一つの任務であると私は信ずるのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461696/129

井上哲次郎「日本精神の本質」昭和16年7月20日修正増補第一版発行 ※1941年

平和は功利を超越した道義心に由るより外は無い。苟も理性ある人間であるならば、道義に反対することは出来ない筈である。その道義に反対することの出来ない崇高遠大な精神に縁って永久の平和を実現するより外道は無いのである。
  今我が日本の如き道徳を主とする国と英・米の如き利益を主とする国との摩擦・軋轢・闘争を根底より一掃するのには何によるかと云へば、矢張り理想主義・精神主義によるより外は無い。換言すれば、総ての人類を融合調和するに足るような道徳主義を以てするより外は無いであらう。此の精神を以て基調となして我が日本は世界を統一しなければならぬ。世界を統一すると云っても、固よりそれは侵略的の意味ではない。さういふ大事業を成し遂げようといふのには忽ち起って忽ち滅びるやうな国では駄目である。万古を貫いて変らぬところの国体を有する我が日本の如きものでなければ、此の大任を果すことは不可能であることは余り明瞭である。是に於いてか「天壌無窮・八紘一宇」の大理想を掲げて之れが実現を目的として世界的に発展する我が日本の大使命が何うして看過し得られようか。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212715/220

洪火会文教部編「時局と洪火会を語る」昭和16年1月25日発行 ※1941年

『大東亜共栄圏の指導原理についてお伺ひしたいのでありますが…………』
『要約して言ふと、それは今にも言った通り、肇国の大精神即ち八紘一宇の精神換言すれば皇道主義でなければならぬ。だから大東亜圏結成に当っても力を以てこれを強制すべきでなくて東亜各国各民族が真に心から協同できるやうに日本が指導扶援しなければならぬ。だから、大東亜圏の確立は日本を盟主とする搾取なき大東亜安定圏を意味するものだ』(p6・7)

『新体制と八紘一宇と言ふ標題の下に近来到る処で論議されてゐますが、我々としては、此の際真の新体制と八紘一宇なるものを観念付けることを必要と思ひますが、これについて御話を御願いし将来の心得と致したいのですが……』
『支那事変の経過、激化せる欧州動乱による国際情勢に直面してをる日本としては所謂新体制も真剣に考へなければならないと思ふ。
 過去何十年かに渉って日本の思想界乃至経済機構は英米のデモクラシイ的思想の影響を受けることが少なく無く、その結果真の日本の国家観念からいくらか逸脱した状態を呈し国家精神の萎靡国民思想の混濁を来たし幾多憂ふべき諸相を露呈し続けてゐたが満州事変の勃発によって警鐘は乱打され更らに支那事変の発生によって愈々血みどろの試練に際会するに至った。
 最早や従来のような放縦な弛緩した状態を以て国運を推進することは出来なくなったのである。即ち先づ内に於て自由主義、個人主義、功利主義的思想を除去し真に日本精神に基づく国民思想を復興高揚し士気を振作して一億一体大政翼賛の大義に邁進するの外難局を突破し皇国百年の大計を樹立するの道はないのだ。かゝる意味に於いて革新の声は随所に起り旧体制を打破是正して新体制を組織しなければならないと言ふことは今は最も真剣な国民的要望である。・・・」
『八紘一宇とは現在到る処で唱へられてゐますが多少その内容に関する説明が異なってゐるやうに感ずる場合も尠くないのですが、八紘一宇の真意義は一体どこにあるのでせうか』
『これは元来古事記や日本書紀に明文として示されてゐます。神武天皇の御詔勅の一節に基いて唱道されてゐるものでありまして、その字句の意義は一言に申しますと天下を掩ふて一家にしようと言ふことである。本来我が国は、古来華族制度を以て国家形成の単位とされてをり、皇室を中宗とする大家族主義的形態を以て形成されてをるのであります。神武天皇の大御心は天下万民を以て赤子とみそなはし、父母仁愛の情に基いて、民草を愛撫しこの一事を以て世の根源とせられようとするにあるかと拝察いたします』
『世界には多くの国があり、人種民族も到底列挙しきれぬ位沢山あるのですが、これらの他国他民族多人種に対し八紘一宇と言ふことを普及徹底せしめることが、出来るでせうか。言葉の上ならば兎も角、実際に於いてどうでせうか』
『尤もな質問です。それは一つの重大な問題です。世界を掩ふて一つの家にすると言ってもそれは遠い将来は別問題として、現実の問題としては、先づ不可能なことかと思へます。たゞ一家の如き親しみと誠とを以て、他国他民族に接するの外ないのである。然かし、他国他民族が、日本の正義と理想とを諒解し得ない場合は、なんとも致し方がないのである。誠を尽し、実践に示してこれを諒解せしめるの外はない。元来八紘一宇の意義は同じく神武天皇の御詔勅にある天業を恢弘し天下に光宅せんと言ふ御言葉と関連してこれを拝誦し解釈し奉戴するの外ないのであります。決してデモクラシイ的国際主義的な内容をもつものではありません
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1455098

藤沢親雄「皇道世界経綸の理念」1941年

  八紘一宇はかくて、まつろはぬものをまつろはしめ、世界をして宇宙の中心生命としての天皇に帰一し、その大御心を仰ぎかしこみつかへまつらしむることによりて達成されるのであって、これ肇国の精神である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033175/14

徳冨猪一郎「皇国日本の大道」1941年
  八紘一宇は我が皇道を光被するものであって、所謂る内に於ては政治を倫理化し、外に向っては国際を道義化するものである。我等は何を以て国内政治を倫理化するかと云へば、飽くまで皇室中心主義の大旆の下に、総国民が一致戮協し、皇国の為に一切の自我を擲ち去って奉仕することに外ならない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267273/140

加藤一夫「八紘一宇史の発足」1942年

  斯くの如く神々しい御心をもって、先づこの御用意をもって、国内を鎮められ、都を開き●も八紘を掩ひて、即ち世界全体を、一宇としよう、可いではないか、と云ふ御法悦を述べられてゐる。
  何と云ふ大きな御理想であるか。啻(?)に日本の君としてではなく、八紘を一宇としようとされる全世界の君である。前にも云ったやうに、今までは、日本の国力、日本の文化、日本の富、はまだ、全世界を神の国として一宇たらしむべき段階には入って居なかった。が、それは必ず来るべきであり、日本の天皇が、その全世界の君となり給ふことは、日本の確信である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042308/100

小牧実繁「日本地政学」1942年

  日本では古来、四季の清明とか、四季の巡行が正しいとかいふことが尊まれて来たのであるが、これは決して四季が共に温暖で住み易いといふことを意味したおんではなく、それは全く字義通りに、春はのどかに秋は爽かにといふことだけでなく夏は暑熱甚だしく冬は寒気酷烈であることをも意味してゐたと解釈しなければならないのである。而してこれこそ皇国日本が天地創生の祖神より賜はった大いなるたまはりものであったと考へなければならないのである。
  東京で畳の上に坐ってをりながら一年に一度必ず熱帯の気候を、同様に一年に一度は必ず寒帯の気候を経験させて頂くといふ皇国日本んほど有り難い国は世界の何処にも存在しないのである。何故かと言へば、それは日本民族といふものが南方の経営に対しても、また同時に北方の経営に対しても、往くとして可ならざるなき素質をそなへてゐるといふことを意味するからである。
  独逸の地政学者たちは結局将来の世界を支配するものは南方の熱帯地方、特に彼等が「死の十字路」と呼ぶ、アジアの南方、大東亜海地域の熱帯を支配しなければならないと考へてゐる訳であるが、併し日本民族といふ優秀な、而も気候に対する馴化能力の最も大である民族が存在する限り、ヨーロッパの勢力による南海の制覇といふことは絶対に不可能なのである。南方の、真に正しい意味における経営といふことは、日本民族による以外には、決して実現せられ得ないのである。・・・八紘一宇の大理想は大御稜威のもと、日本民族によってのみ実現せられると確信せられるのである
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275962/148

山本英輔「天皇帰一の生活」1942年

八紘一宇
人類救済の指導理念
  八紘一宇といふのは、何も武力をもって、世界を征服しようといふのではない。武力をもってしたのでは、一時的に平和になっても、何年かの後には、また平和がこはされる。決して永つゞきがしない。永久の平和は、あらゆるものが、日本天皇の大御心を奉戴して、天皇を中心にまつろひ奉ることによってのみ、招来されるといふのであって、私が八紘一宇連盟を主唱するおは、一はこれによって、国内一億国民に、日本精神をしっかりと把握させ、所謂一億一心となって国難を突破させる。そして、次には、その立派な精神によって、世界人類を救済させようといふに外ならないのである。
  そこで、私は昨年の四月、この八紘一宇連盟の案を、私の友人の英語のうまい人に翻訳して貰ひ、之を外人に見せたところ、非常に穏健なことを書いてあるといふので、はじめて私に会ひたいといって来た。一番先に来たのが、英国大使館の情報部長、それから陸海軍武官、書記等であた。その時、いろいろ議論や意見を闘はした後、私は彼等に向っていった。
(中略)
『私は、世界永遠の平和を招来するために、この主張をやってゐる。今度の戦争で、勝った奴が負けた奴を押へ、またあのベルサイユ条約のやうなことをやったら、何年かの後には、再び戦争を繰り返さなければならない。結局八紘一宇の精神で、世界が融和帰一しなければ、真に世界の平和は来ないのである』と。
『では、国際警察はどうか』
といふから、
『それは、日本の国体に反するからいけない』
『さうすると、一体日本は世界を指導するつもりか』
『いや、自分の研究したところでは、日本精神が一番いゝと思ふからだ、万一あなたの方に、これにまさるいゝ指導精神があるなら出し給へ。ほんとうにいゝものなら、いつでも賛成する」
『ほう、さうすると、結局あなたの考へは、非常に穏健ではないか』
『さうだ、日本の本当の精神は平和である。世界中に日本ほど平和を愛する国民はない。それを、あなた方が誤解して圧迫して来るから、われわれもそれを撥ね返さなければならないのだ。・・・」
  私は、この八紘一宇といふことは、各国が、俺が俺がといってゐる間はできない。もう少し弱るところまで行かなければならない。そして、その時、中心になる日本が、ほんたうにしっかりしてゐなければ、基礎の鞏固なものにすることはできないと思ってゐる。私の主宰する八光会は前述の八紘一宇連盟案の変化したものである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033087/66

宮崎県教育会 編「神代の日向」1942年

我国は、神代以来八紘一宇の大理想を以て国是
とし、今日の国運を見るに至ったのでありますが、此の八紘一宇の御精神は忝なくも我が祖国日向に発源したものと思はれます。(p97)

迷へる隣邦の眼をさまし、世界を喰ひ物にせんとする暴虐なる国国をしりぞけて、美しい理想の世界を造ることは神の国日本に与へられた尊き使命であり、光栄ある責任であります。此の重大なる使命は我が国、肇国の大理想に基づくものでありまして、今こそ神武天皇の尊い大御心を世界に実現(あらは)すべき機会が与へられたのであります、(p103)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1057119


石原莞爾「昭和維新宣言」1942年

数十年後に近迫し来れる世界最終戦争により、八紘一宇はいよいよ実現の第一歩に入ることを信ずる我等は、八紘一宇を単なる美しき観念とは考へてゐない。正に我々の眼前に髣髴として望見する気持がするのである。(p8)

結局最終戦争は、道義の最高護持者であらせられる天皇が世界の天皇とならせらるゝか、力によって人類に幸福なる生活を与へようとする欧米の大統領の類が世界の指導者となるかを決定する人類歴史の最も重要なる時期といはねばならない。(p15・16)

既に述べたやうに最終戦争は王道と覇道の決勝戦であって、これによって世界の絶対平和、八紘一宇の第一歩に入ることが出来るのである。(p16)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272536

今泉定助「御国体の実相」1942年

24八紘一宇
  大国とか強国とか云ふものも若し本当に日本がさう云ふものであると云ふことが分りましたならば、彼等は一体どう進退する。又印度の如き国はどう思ふでありませうか。真に八紘一宇の御境地から足りない所を保護して、世界平和の為に、日本天皇が天業を御施しになるのであると云ふことがハッキリ致しましたならば、小国、弱国が靡いて参りましたならば、大国強国と云ふものはどうなるでありませう。是は何時かは大天皇の統一の下に、世界の平和幸福の高峰に到達する時代が来るものと、私共は日本の古典の上から確信するのであります。さもなければ、日本独り神の天皇を戴くと云ふことは、神に私ありといふことになる。日本の天皇の大使命は、結論と致しまして、私は深く信じて疑はない。将来必ず何百年か何千年の後か固よりわかりませぬけれども、今日以後は割合に早く進んで、世界統一の天津日嗣の使命を御果しになる機会が来るのであらうと考へるのであります。(p40・41)

【問】八紘一宇につき御教示を乞ふ。
【答】八紘一宇なる語は近時漸く世人の注意を惹くに至った如くであるが、その出典は遠く神武天皇の建都即位の大詔にして、八紘は『あめのした』宇は『いへ』であるから、世界一家即ち皇道精神の世界光被を意味することになる。
然るに世は往々にしてこれを武力征服と誤解する者がある。若しそれが自己の功利的世界観より脱し得ぬ欧米人の見解なら兎も角、日本人、しかも識者を以て自ら任ずるものでさへさうあるから、吾人が古典を説き、皇道精神を叫ばざるを得ぬのである。
試みに日本書紀を繙き右の大詔の前後を一読するならば、それが武力征服とは全然異なるものなることが明瞭となるであらう。即ち八紘一宇は神武天皇が天業恢弘の為め東征遊ばされ国内が平定せられたので、建都即位の上、更に進んで全世界をも和気靄然たる一家の如からしめんとの大御心を現はせるものである。しかも此の実現は『鋒刃の威を仮らず、座ながらにして』行はせられることを理想とせられたことは幾多の例証を挙げ得る。
斯くの如く八紘一宇なる語は神武天皇の大詔の中に拝されるのであるが、その根本精神は遠く修理固成の神勅に由来する天皇の御使命と、八神殿、大嘗祭による天皇の御本質の当然の結果にして、それ故にひとり神武天皇のみには止らず御歴代の天皇の大御心でもあるのである。天皇は八神殿、大嘗祭の行事によって生成化育の本源とならせられ、宇宙万有を各あるべき処にあらしめ給ふ。八紘一宇はこの一つの表はれに外ならない。世界の各国家、各民族は斯くして始めて自性を発揮しつゝ全人類の生成発展に貢献し得るのである。天皇は独り日本のみの天皇ではなく、世界の天皇であり、宇宙の天皇であられるとは斯かる意味にて申上げるのである。此の度の事変も、まつろはぬ支那を言向け平和し相提携して、八紘一宇の精神を実現んせんとするにある。国民各自は須らく此の意義を正しく認識し、各々の立場に於て天業翼賛の実を挙ぐると共に、外務省などに於ても徒らに当面の問題のみに捉はるゝことなく、積極的に我が根本精神を闡明して皇道宣布省たるの実を発揮すべきである。(p44~46)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094651

東亜連盟同志会「昭和維新の指導原理」1944年

 皇国日本の国体は世界の霊妙不思議として悠久の古より厳乎として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道即ち王道は、畏くも歴代祖宗によって厳として御伝持あそばされ、歴世相承けて今日に至った。
  八紘一宇とはこの日本国体が世界大に拡大する姿をいふのである。即ち御稜威の下道義を以て世界が統一せられることであって、換言すれば天皇が世界の天皇と仰がせられ給ふことに外ならない。・・・真に天皇を信仰し、皇運扶翼に全力を捧げるものは、民族、国家の如何を問はず、すべて天皇の赤子であり、我等の同胞である。(p3)

かくの如き昭和維新完成のためには、民族間の新しき道徳の創造を必要とする。恰も明治維新に於て各藩侯に対する忠誠を天皇に対し奉る忠義に復帰せしめた如く、天皇の忠良なる臣民たるために東亜諸民族の大同し得る新しき時代の道徳を確立し、民族闘争より民族協和に飛躍せしめねばならない。(p12・13)

天皇を戴く日本国は連盟の中核的存在とならなければならぬ。・・・
悠久の古より東方道義の道統を御伝持遊ばされた天皇は、世界唯一天成の王者であらせられる。天皇が東亜連盟の盟主として仰がるゝときは、即ち東亜連盟の完成せる日である。東亜諸民族がこの信仰に到達すべき自然の心境を攪乱してゐるのは、日本民族の不当なる優越感であることを猛省し、速かにこの大不忠の行為を改めねばならぬ。 (p16)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459114/17

下中弥三郎「思想戦の本義」1943年

皇戦は、普通に考へらるゝ戦ではなく皇稜威の世界光被の戦である。・・・皇国にありては、戦争はすべて皇戦である。大義を宇内に布く、これが皇国独自の戦争意義である。ことむけやはす、即ち服ふものは哺み育て、服はざるものは討ち懲らす、斯ういふ戦の原義に基いて為されてゐる戦である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1436976/4

内閣・内務省・文部省編「国民精神総動員資料.第四輯 日本精神の発揚 八紘一宇の精神」1937年

八紘一宇の精神
  大日本は万世一系の、天皇皇祖の神勅を奉じて永遠に之を統治し給ふ。これが我が万古不易の国体である。この尊厳なる国体を永遠の指標とする我が国民の精神は、時運を貫き隆々と栄えて窮るところがない。併し乍ら我が国と雖も現実世界の裡(うち)に在り、各国家・各民族と共存して居る以上は、独りこの世界史的問題に関係がないといふことはあり得ない。否、我が日本こそ諸国家・諸民族に率先し、万死をも辞せざる不退転の覚悟を以て、世界を闘争と破滅とより救済する為にこの難局に当らねばならぬ。然らば何故に我が国が率先してこの難局に当らねばならぬか。それは宇宙の大生命を国の心とし、之を以て漂へる世界を永遠に修理固成(つくりかため)なして、生成発展せしめる我が天壌無窮の国体が、正に全世界を光被すべき秋(とき)に際会して居るが為である。流転の世界に不易の道を知らしめ、漂へる国家・民族に不動の依拠を与へて、国家・民族を基体とする一大家族世界を肇造(ちゅうぞう)する使命と実力とを有するのは、世界広しと雖も我が日本を措いては他に絶対にないのである。茲(ここ)に我が国体の尊厳と我が国家の不滅との深き根拠がある。されば我が国体と国家とに対する自覚と体認とは、我々国民が現在直面せる支那事変の時艱を克服し、天壌無窮の宏謨を翼賛し奉り、以て世界救済の歴史的使命を果す最深最大の原動力である。
  抑々(そもそも)我が国は他の外国とその根基・成立・精神・歴史等を本質的に異(こと)にして居る。それは、強者が多数の弱者を征服して自ら君主となって打建てた権力国家でもなく、或は又多数の民衆が自己の利益の為に相互に契約し、一人の代表者にその統治権を委任して成立せる約制国家でもない。我が国はかゝる人意の国にあらずして、神命に基き自然の理法に随って生成せられた国であって、彼の北畠親房が「大日本は神国なり」と述べし如く神の国である。今これを我が神代の語事(かたりごと)に徴(ちょう)し見んか、神国の面目躍如たるものがある。天地開闢の神霊、宇宙生成の原力は霊動生成して伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)に至り、二尊(にそん)は天神(あまつかみ)諸々(もろもろ)の命(みこと)もちて「この漂へる国を修理固成(つくりかため)」なして国生み神生みの大御業をなし、終に天(あめ)の下(した)の主(きみ)たるべき天照大神を生み給うた。
と道破したのは、独り生成発展の国体の本義、一切万生を育ていつくしみ給ふ皇祖の大御心を体得したのみならず、この皇祖天皇を戴(いただ)く我々国民が、国家の常時と非常時とを問はず、万世不易の国体に対する不動の信念を示したものである。惟(おも)うて茲に至るとき、皇祖の神籌は、天地と共に宏(ひろ)く富嶽と共に高く、三千年の国史を貫いて今日に存する。この宏謨の光被するところ、その国家・民族に廃墜なく、世界の流転の裡にあって而もその奥底に脈々たる不易一貫の道を堅持し、この国体の一貫するところ、この国民精神に萎靡なく時勢の変遷の裡にあって而も昏迷せず、向ふところ常に皇運扶翼の一路があるのみである。この一路こそ我が国をしてこの時艱を踏破して無窮に生成発展せしめ、同時に全世界あらゆる国家をして各々その処を得、その分を竭(つく)さしめ、万邦大和(ばんほうたいわ)、真正なる世界平和を実現せしめる所以である。是実に神武天皇が皇祖の神籌に之を享(う)けて、天(あま)つ日嗣(ひつぎ)の弥嗣々(いやつぎつぎ)に万世に伝へ給へる「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」と詔(のり)給うた「八紘一宇」の大精神である。
  「八紘」は「八荒」ともいひ、前者は八方の隅、後者は八方の遠い涯(はて)といふ字義であって、共に「世界の涯」とか「天(あめ)の下」といふ意味である。「一宇」は「一家」といふ字義で、全体として統一と秩序とを有する親和的共同体といふ意味である。従って「八紘一宇」とは、皇化にまつろはぬ一切の禍を払ひ、日本は勿論のこと、各国家・各民族をして夫々その処を得、その志を伸(のば)さしめ、かくして各国家・各民族は自立自存しつゝも、相倚(よ)り相扶(たす)けて、全体として靄然たる一家をなし、以て生成発展してやまないといふ意味に外ならない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266412/5

大阪朝日新聞 1942.3.12-1942.3.15(昭和17)
蘭院覆滅の素因 (上・中・下)
石橋五郎

吾人は過去における蘭印為政者の失敗に省みて、蘭領の統治には出来るだけ多くの邦人をここに送って各地方を平等に開拓し、到る所に邦人の集団地を作り、これをまた軍事上の基地となすと共に、土着人に対しては一視同仁の政を布き、土着人をして心より邦人を信頼せしめ、彼等が現在我が外地人の如く日本国民たることを誇りとするようにせねばならぬ。これは我が聖戦の目標たる八紘一宇の大精神にそうものでもある。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00503599&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


 

皇軍実態集 私的制裁(part2)

皇軍実態集 私的制裁(part1)
皇軍実態集 私的制裁(part3)

 昭和十八年一月十日、千葉市の鉄道第一連隊(東部第八十六部隊)に関東軍要員として入隊し、材料廠中隊(特科隊)に配属であった。・・・初めに軍隊生活の一応の説明があって、夕食からは厳しい内務班の生活が始まった。我々初年兵はただうろうろするばかり、時々ビンタが飛んでくる。(p204・205)熊谷
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_204_1.pdf

 昭和十八年四月十日、現役兵として広島第五部隊第二中隊(戦車隊)へ入隊しました。・・・
 ある夜、酒に酔った曹長が突然「整列」と号令をかけて初年兵を営庭へ引っ張り出し戦車に乗り組ませ、練兵場へ行き前進行動中戦車壕へ車の前部を突っ込み、バックしても壕より脱出できず、隊へ連絡して下士官、古兵の応援によりやっとのことで正常な状態になりましたが、新兵はビンタのお叱りでした。初年兵係の教官、助教、助手をさしおいて、しかも夜間飲酒しての暴挙であり、制裁されるのは曹長であるべきはず、逆に新兵に当たるとはと軍の不合理を考えさせられる悪い思い出もありました。(p166~168)竹田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_166_1.pdf

 私は昭和十五年徴集の現役兵である。岡山備前長船町で徴兵検査を受け、徴兵官から「光延一徳、第一乙種合格」と宣言された。当時は第一乙種合格は即甲種合格に編入されて、翌年一月十日に姫路五十四部隊へ入営した。軍装を整えると十日ほど後に満州に出動した。
 何も解らずに引率され、朝鮮から、図們を通過して満州国佳木斯に到着した。満州第一二四部隊だった。第一中隊、第二中隊は輓馬中隊、私は第三中隊の新設自動車隊である。隊には古参の二年・三年兵がいた。彼らは野戦下番といって、支那事変に従軍し、昭和十四年に一度姫路に凱旋している連中だから、気が荒く一にも二にも私的制裁が横行していた(p149)光延
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_148_1.pdf

 昭和十七年九月一日、佐世保、相の浦の第二海兵団に入団、教育は相当厳しかった。年上の徴兵の人(大正十年生まれが多い)と一緒に教育を受けた。・・・
 同年十一月三十一日に佐世保を掃海艇で出発。二十人ぐらいの同年兵と一緒に、翌十二月一日任地朝鮮鎮海着、鎮海鎮守府に入って通話業務の学科講習から始まった。「トツー」のモールス信号から、受送信も一分間に四十五字受けられて、卒業である。私は九州生まれであるから、新兵の時は寒い所で大変苦労した。鎮海は内地と違って寒い。甲板に水をこぼしたらそれが凍り、翌春まで解けないとのことで、全部削り取らされた。外出中広い道路の反対側を通る上官に欠礼したら叩かれたこともあった。
 また、海軍は一蓮托生、一人の過失で全艦が沈む、従って一人の過失も許されない。そのため連帯責任で叩かれ、臀はバットで叩かれるから紫色に変わってしまう。しかし、このようにして海軍は鍛え上げられるのである。(p144)

・・・スラバヤへは昭和十九年十月、第二十一海軍通信隊へ着いた。スラバヤは平穏で通信隊はオランダ人の家であった。現地人が雇われていて、掃除・食事の用意などは私等通信隊員が直接することはなかった。
 そんな生活も三ヵ月で、私は第二分遣隊勤務となり山の中に入ったのだが、・・・第二分遣隊で一度だけ空襲があったが、非番で眠っていて記憶がなかったため、上官から皆への見せしめのため、ひどく叩かれたことがあり、一週間ぐらい体が動けぬほどであった。もし、本隊だったら進級停止というところであったであろう。(p146・147)渡辺
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_143_1.pdf

 鮮満国境―満州―山海関―北京―包頭への鉄道(京綏線)で、張家口に我々の入隊する自動車第二十三連隊がありました。・・・張家口には連隊本部と材料廠と私の入隊した第二中隊、宣化には第三中隊が駐屯していました。初年兵教育は各中隊毎に行われました。・・・
 こうして初年兵教育が終了して、中隊の班内に復帰と同時に初年兵いじめが始まりました。制裁が始まると「洗面器を持って集まれ!」と命ぜらます。鼻血を受け止めるための洗面器です。営内靴、帯革、そこらの手当たり次第の物で殴られました。駈け足が命ぜられ、力いっぱい走らないと、遅れた者は「もう一度走って来い」と命ぜられます。(p146)永瀬
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_145_1.pdf

 古兵達は上官の制止も聞かず、アメリカ兵が来る前にサッサと帰ってしまった。今までは絶対服従でいたが、昨日まで思う存分我々を痛めつけ人間扱いしていないので我々が恐かったのだ。我々は血の気の多い兵ばかりで今までのお礼をさせてもらおうと、相談したものだ。(p129)米重http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_124_1.pdf

橋本中尉 タタキ上げの分隊長。「お前たちが一生懸命やっているのを見ると後光がさしているように見える」。下士官達が棍棒で殴るのを見かねてのことと思う。この後しばらくの間、棍棒を振るわれることはなかった。(p117)

召集で来ていた一等兵(三十七歳) 「ゆうべは十八位の上等兵に、棍棒で十発ずつ殴られた。これでも家に帰れば、一家の主人ですよ」召集で来た人達が若い兵に殴られるのを見るのはつらかった。(p117)

召集で来た下士官(四十歳ぐらい) 舟で移動中、船酔いで吐いてしまった。たるんでいると殴られるかと思ったら「俺の息子も予科練に行っている」と言って背中を撫でてくれ、大変気持ちがよかった。(p117)

S練習生兵長(十六歳) 病室を覗いたら尻に包帯を巻いて寝ていた。膿が滲みでている。どうしたのかと聞くと、「外出した時、農家に立ち寄りアラレをもらって来たのを見つかって、S分隊士に八十六発殴られたが気絶してしまった。後いくつやられたか分からない」。S分隊士は常にステッキを持ち歩き、練習生のアラを探しては殴っていた。士官の中で練習生を殴る人を他に知らない。(p117・118)

Y先任教員上等兵曹 夕食準備中、突然棍棒を持ってきて「I練習生(十七歳)、出てこい」とどなり「貴様ら、飯のおかずがまずかろう。班長は人を殴るのは飯よりも好きだ。これをおかずにして飯を食え。軍人精神五箇条を言え」と怒鳴る。一箇条を言うと一発殴る、五発で済むと思いきや十八発もやられて倒れてしまった。倒れた者をなおも殴り続ける。その度にぴょんぴょん跳ね上がる。死んだようになった者を振り向きもせず、教員室へ帰ってしまった。皆しーんとなってしまい、ものも言わずに食事を始めた。こんなまずい食事は初めてだった。(p118)

個人的にやられたことはなかったが、「総員バッター」は時々やられた。昭和二十年三月頃、夜中に「総員起こし」で飛び起きるとなんだかんだと文句を言われて「総員バッター」が始まった。皆見つからないように腹巻を尻の方まで下げる。私は股引きだったので、そのままやられてしまった。後で腫れているかと思い、そっと撫でてみたらへこんでいたのでびっくりした。一度やられると十日ぐらい経たないと元通りに治らない。幸い治らないうちにやられたことはなかった。
 舞鶴の定員分隊では毎晩のようにバッターの音が聞こえてきた。中学三年生ぐらいの少年兵がいたが、かわいそうで仕方なかった。(p118)杉浦
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_113_1.pdf

 私は中学時代に軍隊宿泊五日ほどで見聞したが、軍隊の私的制裁がはげしく、ために不具になったり、甚だしきは自殺する者や逃亡者も出るとあった。私は学業も芳しくなく学校教練もお情けで合格させてもらい、幸いにも現役を逃れ召集忌避で軍属を志願してきたのであるから、軍人社会の矛盾や凄絶さを論ずる資格はないと思っている。(p106・107)矢野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_101_1.pdf

・・・同じ町内から三人が歩兵第四十八連隊(久留米)に入隊。所属は第四中隊第四班に定まった。・・・
 入隊後一週間経過した日、私は物干し場監視の任に当たって、来合わせた同年兵と談笑していたのを古兵に見られて、同年兵の一人がいきなりビンタを食ってブッ倒れたので吃驚した。軍隊はすべてが全体責任である。私達も歯を食いしばり足を開いて姿勢を取ると同時にポカリと殴られた。倒れはしなかったが目から火が出るとは本当のことである。
 教育中誰かがごく小さな銃の部品をなくした。初年兵一同十数人が横一列に並び、四つん這いとなり、自分の視野四〇センチ幅を凝視して前進して遂にこの小さい部品を発見することが出来た。教育二ヵ月目に入って、私が入隊以前に機械工であったためか兵器修理の教育を受けることとなった。中隊からは私達二人が選ばれた。朝食が終わると食器洗いもせず班内から出て昼食に班内に戻ってまた教育に出向いた。
 修理と言っても困難な修理でなく、時には編上靴などの修理もあった。二班に行った時「松尾二等兵入ります」の声が小さいと古兵に叱られ自転車乗りを命ぜられた。自転車乗りはテーブル間に両手で足を浮かせペダルを踏む要領をせねばならない。右上官と言われれば右手を上げて挙手の敬礼をせねばならぬ。当然足が床に着く、そうすると古兵から叱られる。元の姿勢に戻ってペダルを踏み続けなければならぬ。十分間も続けると参ってしまう辛い制裁であった。
 ある雨の日、私は兵器修理のため班を出て行った。他の初年兵は雨のため班内に残って兵器の手入れをやっていた。私の小銃も誰かが手入れしてくれたのである。消灯後古兵が私の銃口蓋がついていないのに気付き起床を命ぜられた。前に述べたように全体責任であり、初年兵全員上靴でビンタを取られた。上靴のビンタは痛さがひどい。銃口蓋は古兵が拾っていた。私は皆に対し気の毒でならなかった。
ある日消灯後、古兵が銃の引き金を調べていたところ、カチッと引き金が鳴って、初年兵一同起床「腕立て伏せ」を長時間にわたり実施され涙を流したこともある。
 私の班では結婚していた初年兵が私ともう一人いた。この初年兵の奥さんが六歳年上であったので古兵から結婚生活についてよく試問が繰り返された。
 たたかれることでは木銃の銃尾の太い方で尻を強打される時の痛さ、また銃の薬室掃除棒の大きい方で頭をたたかれることもあった。いずれも全体責任のためであり、時には何のためたたかれているのか不明のままたたかれた時もあった。(p67・68)
 六月からは夏の服と交換であり、冬物の袴下を返納するため洗濯して、監視つきの物干しに干しておいたがいつの間にか盗まれていた。さあ大変、服の交換日まで幾日もない、報告すればビンタぐらいでは済むまい。兵器修理の帰り道、他の中隊の物干し場で監視兵にでも見付かった場合どうなっていただろうと思うと縮む思いであった。(p69)松尾
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_067_1.pdf

 豊橋駅で両君と別れ、篠田の大塚賢一君及び小坂井町三人、蒲郡町二人と一緒になり、名古屋駅にて県出身者全員集合して出発。加古川駅にて乗り換えて部隊近くの民家に一泊し、十日に中部第四十九部隊(戦車第六連隊教育隊)に入隊した。大塚君は即日帰郷とのこと。
 翌日から初年兵としての訓練を受けた。歩兵銃の実弾射撃にてその初年兵教育は終わり、次いで戦車教育に移る。他の者が戦車操縦訓練中、青野ヶ原の松一本を倒したので、晩に教育上等兵より陸軍地図に記入してある松だから注意せよと叱られた。また、朝点呼の集合が遅いと総ビンタを受けた時もあるが、教育隊なるが故にあまりなかった。(p58)日比
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_058_1.pdf

 八月○日、東山の本部より西村の野戦倉庫に配属となり、訓練と作業に精を出すことになった。
 ある日、古参兵殿より、いきなりビンタを取られ驚かされた。また「初年兵、集合!」の声で営外に整列、二列横隊で前列は一歩前へ回れ右、向き合った者同士の右と左からの対抗試合だとのこと。また内務班では隣にいた古参兵殿から、夜中にはよく鼻をつままれた。いびきが高くて寝られないと。(p51)成守
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_047_1.pdf

軍隊履歴
昭和十(一九三五)年十二月一日
現役兵として歩兵第三十三連隊入隊(p1)

軍隊経験のある人なら、誰でもご承知のことであるが、入営後一番鍛えられるのは、一期の検閲前の三ヵ月である。そして鍛えられるのは、野外で行われる訓練だけではない。内務実施と言って、兵室内での起居動作全体が訓練の対象となる。しかも営外居住者の将校達がいなくなった朝晩と夜間に集中して行われる。この時間は、伍長や新米の軍曹が中隊の殿様で、下士官室に君臨しており、内務班の兵室は、柄の悪い二年兵の天下である。新兵にとって、一番待ち遠しい消灯ラッパが「兵隊さんは可哀想だなあー、また寝て泣くのかよー」と夜の兵営内に響き渡って、皆寝台にもぐり込み、班内が一斉に暗くなると、彼等悪魔たちが行動を開始する。
 「第一内務班の初年兵、起床!」初年兵は、飛び起きて襦袢袴下の寝ていたままの姿で、各自の寝台の前で不動の姿勢をとる。「山崎二等兵、貴様は銃の手入れを行ったか」「やりました」「ここへ来い。引鉄の用心金の裏に埃がついている」「手入れしました」「文句はいらん」パン、パーン。両ほほのビンタが始まる
 「軍靴の裏に土がついている」「たんつぼの掃除が不十分だ」「今日の行軍で落伍した奴がいる」悪魔たちの目から見れば初年兵をしぼる種はいくらでもある。「今年の初年兵は、気合が抜けているぞ」「初年兵全員二列に整列。前列回れ右」「対抗演習始め」。対抗演習というのは、向かいあった者同士が、相手のほほを交互に殴りあう懲罰動作である。営内での私的制裁は、正式には禁じられていたようだが、このようなことが毎晩繰り返されて、初年兵の動作もだんだんと機敏になる。(p3)山崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_001_1.pdf

・・・昭和十八年十月一日付で松山海軍航空隊へ入隊となりました。(p576)
 このようにして松山航空隊に入り、最初からバットをどれだけいただいたろうか、数え切れないほどでした。陸軍は殴ることですが、海軍は外国との交流もあるということで、外から見えるところはあまりたたかない、見えないところをたたく。海軍ではバットより少し大きい棒で尻をたたくのです。まだ松山航空隊では本当の基本訓練でしたが、それでもだいぶやられました。
 そのような基本訓練を終わり、入隊した三〇〇〇人のうち一二〇〇人が搭乗員で、あとの一八〇〇人が偵察員、その搭乗員一二〇〇人のうち一八〇人が台中航空隊へ転勤を命ぜられたのが昭和十九年五月十八日でした。・・・
 訓練は、初めは離着陸訓練をしながら、さらには編隊飛行、特殊飛行、夜間飛行、計器飛行などでした。戦局がだんだんきびしくなって、台湾も第一線基地になろうとしていた時期で、私は台南の航空隊に転勤を命じられました。その飛行隊では、さらに苛酷な訓練をしたのですが、それこそ毎日バットをいただきました
 一機に対して六人が専属でその飛行機を使うのですが、一人でもへまをすると六人が連帯でたたかれ、本当に苦労しました。(p577)小峠http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_575_1.pdf

 私が入隊したのは新京航空第十五連隊第二整備隊でした。すぐにチチハル教育隊に移ることになりました。教育隊は百人ほどの初年兵でした。
 教育内容は徒手教練や体操、拳銃操作等でしたが、耐寒気合入れのためかよく叩き殴られました。それも個々にやられることなく集団ビンタが多かった。おかげで寒さを感じる暇がなかったと思います。(p565)陶山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_564_1.pdf

 昭和十四年十一月一日、卒団と同時に、軍艦「長鯨」(潜水母艦)に配属されました。生まれて初めての大艦生活で、艦内で迷うこともありました。乗艦すれば最下位の兵で、指導は半年古参の三等兵で、二等兵以上とは会話もできない程の階級差でした。機関当直勤務の他に、食事当番や先任者の見回り〔ママ〕品の世話や洗濯等で、新兵は朝洗顔するのは贅沢だと言われる程に追いまくられました。
 停泊中は十時の消灯後、釣床より起こされ、艦底の機械室へ呼び出され、「貴様等は気のゆるみがある」と、一人の失敗も団体責任で全員が、海軍独特の軍人精神注入棒(樫の棒で野球バットのようなもの)で数回殴られ、尻が紫色になることもしばしばありました。特に厳しいのは半年間だと我慢で通しました。しかし上陸した際一人が絶〔ママ〕えられず帰艦しませんでしたが、その行方は不明でしたが可哀想な同年兵でした。
 八カ月後の翌年に、横須賀海軍工機学校(電機科)を受験し入校しました。名に負う厳格な学校とは聞かされておりましたが、まさにその通りでした。入校時、貴重品は全部預けるよう指示がありましたが、翌日一人が五円玉〔ママ〕一枚を所持しているのを見つけられ、規律違反と、分隊総員の前で軍人精神注入棒を受け、その場に倒れるとバケツで水をかけ、立ち上がると再度の制裁、見せしめであろうが、余りにも極端な仕置きであることを感じました。
 勉強(学業)の方も同様で、休日の外出時も下宿で自習を強いられ、テストの成績によっては覚悟すべきでありました。(p530)今泉http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_529_1.pdf

 海兵団で三ヵ月間の訓練教育を終え、現地入隊は朝鮮鎮海海軍航空隊でした。毎日、烹炊事作業に精を出すが、農家―製缶―旋盤工という体験・職種の私にとり、料理の割烹、包丁や煮炊きのことなど、まったくの無経験、無知識ですから、毎日のように先任者に叩かれる。耳の鼓膜も破られ、毎晩、バットという樫の棒で尾底骨を叩かれ、しりは青紫になってしまう。軍医には「コケた」と言わなければならない。「叩かれました」など、本当のことを言ったら、腕立て伏せの上に六〇キロの「かます」を乗せられる。一人でも悪いことをすると連帯責任、「気合いが抜けている」と言って軍人精神を叩き込まれる。例の樫のバットで叩かれるのである
(p509)志坪
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_507_1.pdf

 私の入営は、昭和十八年三月一日でした。丸亀の西部第三十二部隊でしたが、実は第五十五師団第一一二(壮八四一五部隊、在ビルマ)補充の要員でした。約三ヵ月後の六月二十日、丸亀を出発して門司港へ向かい、ビルマの母隊を追及するため、外征の途につきました。内地の丸亀在隊中噂に聞いていた、内務「気合入れ」は私的制裁の禁止ということで影をひそめていましたが、初年兵同士の対抗ビンタは盛んで、これには閉口し弱った思い出があります。(p492)玉地http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_491_1.pdf

 十二日、零下十余度の満州牡丹江省寧安県愛河の満第五七三部隊戦車第五連隊着、第一中隊第一班に配属されました。・・・
 内務班は二、三年兵が約半分いて、ノモンハンの生き残りですから気合が入っていて、少しでもマゴマゴするとすぐビンタが飛んできました。(p439)
 古兵のシゴキはけた外れで、例えば軍靴の手入れでも紐を通す鳩目の回りをつまようじで擦り、先に付いた黒いゴミを種にビンタをする。また小銃の床尾板と木部の境の隙間につまようじを入れて擦る、先についたゴミを初年兵の目の前に示して叩くなど、それは並外れのシゴキでした。(p440)石橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_437_1.pdf

 昭和十四年五月に十四年徴集兵として徴兵検査を受け、甲種合格となり、昭和十四年十二月十日、現役兵として鳥取歩兵第四十連隊第二中隊に入隊と決まりました。当時は陸海軍共に多くの人に見送られ、元気よく衛門をくぐりました。
 どこの連隊でも同じようなことをやっていたようで、入隊して十日間は、お客様扱いで何事も親切に教えられ、十日が過ぎ第一回の給金が支給されると「お前等は、これで一人前の二等兵だ。教練はこれからだが、内務班の事はすべて教えた。今まで教えられた事を良く守り切磋琢磨し共に助け合い、一人の落伍者もないように。一人でも間違えば皆の責任だ」と言われました。このことが後々の苦労の種でした。
 昭和十四年十二月二十日から翌十五年三月十六日まで、第一期の教育が完了するまで、初年兵は一人として「今日は殴られずにすんだ」という日はありませんでした。木銃が折れるぐらい殴り、重傷を負わせたために軍医が怒り、重謹慎の罰を受けた事件がありました
 同じ第四十連隊でも昭和二年兵は一度も殴ったり殴られたこともないとのことで、こんな時代もあったのかと夢のような話もあります。(p388・389) 衣川http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_387_1.pdf

・・・翌十日、鳥取中部第四十七部隊第二機関銃中隊へ入隊しました。
さて昨日までの娑婆とは別世界の「人の嫌がる地獄の軍隊」へ。入隊以前から町内の先輩から種々と聞いていたが、予想を越える苦労の連続でした。内地部隊での新兵教育の、就中内務教育の厳しさ、残酷さ、非道さは、既に多くの口伝や文書で語り尽くされているので、本文での重複は省略するが、そのなかでも二つのひどい仕打ちについて述べます。
 その一つは、営内で夕食後のこと。若い下士候の伍長が新兵に、「機関銃は兵器。軍衣袴は被服。兵舎は?」との質問に対し新兵は誰一人として答えられる者がないと言うことで、一晩中一睡もせず立ち通しの罰。途中で週番下士官が来たが見て見ぬふりで立ち去った。
 その二は、午後の演習から帰営して内務班へ帰ると室内に綱を張って旗のように軍衣袴、襦袢その他の被服も吊り並べて、整頓棚はひっくり返してある。中村上等兵が「貴様等! 何度言っても整頓をやらん。今日はその罰でこのようにした。○○と××と□□と◇◇と△△はここへ来て一列に並べ!」と。私もその中の一人で横に並ぶと上靴の踵でビンタ。顔が紫色になるまで続いて叩き殴る。そのため歯が折れて口から出血する。それでもやめない。最後に他の上等兵が注意して止めた。軍隊内には歯科医はないので、町の歯医者へ行った。「これは顔の紫色といい、歯の骨折といい、叩き殴られた傷である」との診断書を隊内へ提出。ようやく残酷非道の私的制裁が明るみに出た。中村上等兵は取調べのうえ、営倉入りとか。とにかくひどいことでした。(p384)守本http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_383_1.pdf

昭和十五年
二月二十一日 現役兵として独立工兵第二十二連隊入営のため広島市内へ集合(p377)
 満州時代の最も嫌な思い出はビンタでした。夕食後、手でなく上靴(上履き)で叩かれます。今思いだしてもゾッとするくらい。なんのための制裁か?目的も意味も無かったように思いました。あまりの苦しさ、嫌さのためか冬期夜間に逃亡者が出ました。営舎の外は一面の荒野、凍死があるだけです。結局は舎の近くに隠れているのを捕らえられて営倉とか、お隣の中隊でした。助教、助手、古参兵までおしかりがあった由です。(p379)本窪 http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_377_1.pdf

 昭和十八年八月二十三日、この日に、私・田中菊治という、三十二歳の背の低い初年兵が誕生したのです。・・・そして、命によって「重砲兵第三連隊、満州第一二一五部隊」に転属となりました。・・・
 私は、現役兵より十年遅れて入隊した体格も丙種という、身長の低い召集の未教育の初年兵でした。しかし、軍隊は、そのような差別もしない、容赦もない厳しい教育訓練をします。しかも、昼の訓練で疲れ果てていても、夜は夜で内務班の訓練が繰り返される。それは、学科の勉強ばかりでなく、古参兵からの厳しい内務の「しつけ制裁?」も繰り返され、初年兵時代の辛さや苦労を誰でもなめ尽くしていました。(p367・368)田中http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_365_1.pdf

我々は、中支軍(第十一軍―呂集団)の独立山砲第五十二大隊の要員であるため、武漢大学にある兵舎に入隊しました。当時、本隊は常徳作戦参戦中で、留守部隊でした。当時、本隊は常徳作戦参戦中で、留守部隊でした。常徳作戦は十一月二日から十二月二十九日まででしたので、私達、初年兵は、正月、部隊が帰って来た一月五日に正式に入隊しました。(p354)
 私達の教育は、青年学校だけで、山砲の教育は初めてでした。初年兵は各隊の内務班に編入させられました。班内での私的制裁のため凍傷になっていました私は、今でも右手の付け根の所に跡があります。(p355)福島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_353_1.pdf

 兗州で、冬服に防寒具をもらい、野砲兵第三十二連隊へ転属ということで申告、青木部隊長の訓示も夢中で、すぐに山東省の新郷に行き第二中隊小池隊に入りましたが、同年兵八十余人が六個班に分けられ、私は第二班でした。
 入隊してから十一日間、日本を離れてからわずか四日間、中国大陸での軍隊生活が始まるのですから覚悟はしていても、不安と緊張の初年兵第一日目が始まるわけです。初年兵に対するお客様扱いは初日のみ、二日目からは腰など掛けていられない。次から次へと動き回るだけ、慣れないので、何から何をしていいのか分からない。また、夜は夜で悩みの一つ、点呼後、馬の手入れの状況や日常の動作に、何やかんやといちゃもんをつけ、初年兵を並ばせて整列ビンタ。平手はまだいい方で、はなはだしい時、平手では音が出るからと言って、げんこつとなる。一つの班が始めると、隣の班もビンタが始まる。
 聞きしにまさる内務班での制裁である。数年後には私的制裁は禁止されましたが、私の初年兵当時は、まだまだ盛んに行われていました。しかし、この制裁も反面では体で覚えさせる、痛められた経験を忘れさせないための一手段であるとも言われておりましたが、直接被害を受ける初年兵にとっては、肉体的にも、精神的にも苦痛でした。気の弱い者の一部には自殺や、逃亡を考えた体験を持ったと言っていました。
 我々の野砲兵隊は、砲は馬に引かせて作戦に出る。馬こそが機動の主体であるため、馬に慣れないというより、馬に触ったこともない都会育ちの人は一番可哀想でした。馬扱いの者は、朝食前に馬の手入れをするのだが、まず寝藁乾場に広げて、天日に当てて乾かさねば、小便臭さが抜けない。誰一人でも手を抜いたらば、古兵さんに「お前等は一銭五厘(葉書一枚の値段)で来るが、お馬は、百円以上出さねば来ないのだ」と怒鳴られる。
 私は農家の出身だから馬の扱いはできたし、隣部落の人が被服係下士官であったので何かと助かりました。新しい服に交換してもらって班内に帰ると、古兵に取り替えられるが、制裁のある時は、「用事があるから」と下士官室へ行って、甘味品をもらって来ました。班内では、同年兵同志の対抗ビンタが一番いやでした。加減をして叩くと古兵に「こうやって殴るのだ」と殴られる。(p316・317)
 昭和十九年になり、やっと初年兵が来ましたが、その頃になると私的制裁は禁止ではあるし、自分の体験からしても、初年兵を殴るようなことはしませんでした。北支の戦場へ来た初年兵の心情や立場を考えると、私的感情で殴ることはできませんでした。(p319)佐久間
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_315_1.pdf

 行先は、朝鮮平壌に駐屯の第二十師団歩兵第七十七連隊(朝鮮第四十四部隊)第一大隊(半島出身の伯少佐)第一中隊で、初年兵受領の下士官が来ていました。た。神戸出港、釜山上陸、ニンニクの臭いが鼻につきました。汽車で北上、平壌に着き部隊に入りましたが、本隊は北支に出動中で留守隊で教育係しかおりません。軍曹が班長で伍長勤務上等兵と上等兵が初年兵の教育係でした。
 初年兵は名古屋、岐阜その他全国からの寄せ集めで一期の六ヵ月間にわたる教育が始まりました。生まれて初めての北鮮は零下二十度の寒さがこたえました。「兵隊と背のうは叩かなきゃ直らん」のたとえがあるそうで、何かにつけてビンタが飛んできました。古年兵が居なかったのが、せめてもの救いでした。(p286)嶋田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_286_1.pdf

 工兵の道具では円匙(シャベル)、十字鍬があるが、作業後、少しでも泥が付いていたら大変です。ビンタを食らうのは当然、大切な工具だからです。(p268)
 工兵は土工が多いので、以前の職業から入れ墨をした者が多い。その者には、「親からもらった大事な体に彫り物をするとは何事ぞ」と叩かれます。しかし軍隊で教育されますと、まじめ人間となって帰って行きました。(p269)松崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_264_1.pdf

 昭和十八年十二月二十日、現役兵として独歩第二十大隊歩兵第一一五連隊(高崎市)第七中隊に入営しました。翌年一月七日、屯営を出発、博多港より出港、釜山、鮮満国境、山海関を通過し、原隊の駐屯地である山東省諸域に到着、追及しました。
 中隊は第四中隊と定まり、中隊の中に一個分隊だけ機関銃が所属された編成であったので、私はその機関銃隊員と定まりました。・・・
 特に機関銃隊は一丁の機関銃を中心に十数人の隊員が運命を共にする集団である点が強要され、一心同体の精神涵養のため、叱責は分隊全員で受けることが通常であった。時には素裸でふんどし一つになって帯革で力いっぱい叩かれたこともあった。(p249・250)小林http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_249_1.pdf

昭和十八年九月十五日、海軍第二百十八設営隊は新井少佐を部隊長として呉軍港を出発したが、・・・「宇洋丸」の中の隊員達はすごい船酔いに苦しんだ。甲板へ上がる事は禁じられて、舟底の隊員達は前後左右に転がされて半病人になってしまった。たまりかねた私は密かに甲板へ上がりマストの陰で風を受けていた所、監視員に見つかり吹っ飛ぶほどはり飛ばされ、何日も顔がゆがんでいた。(p152)中矢http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_151_1.pdf

 私の隊は朝鮮第二十三部隊(第七十九連隊)第六中隊(高橋隊)第三班(麻田班長)。(p139・140)
 新兵生活の中で困ったのは歯を磨く時間さえないことである。起床から就寝まで、上等兵の声に追いまくられて、そんな事をしていたら、びんたで頬が歪むほど打たれるに決まっている。(p141)上津原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_137_1.pdf

・・・広東駅で下車して広東市内を通過して、鳳兵団の所在地へ向かった。師団司令部で現地到着の申告を済ませ仏山の第四野戦病院への配属を命ぜられる。・・・広三鉄道の仏山駅で下車、部隊に到着、営庭に整列、村上部隊長に着任の申告、教育隊の宿舎割り当てを受けて入所する。(p115)
 我々同期の桜は年令の差こそあれ初年兵としてすべて平等である。班長の指導で「同期の兵の会」を結成することになり、互選で会長の選任が行われ、私が選ばれたが反対も出来ずやむなく同意、大役を引き受けることになったが、何かスッキリとせず嫌な予感がした。引き受けるのではなかったと思ったがあとの祭りだ。多数の初年兵の中には失敗も多い。予感のとおりで、ほんの些細なことでも、同期兵の代表で古兵の内務班にお呼び出しである。とくに行李(輜重兵)の班が多かった。大なり小なり毎日、私的制裁の連続である
 「初年兵諸君よ、しっかりしてくれよ」と言いたくもなる。革スリッパで頬を、時には銃の尾板で体をたたかれ、よく顔や体が変形しなかったと不思議な気がした。考えれば本当に悪い回り合わせかと思い、自分だけがなぜこのように殴られなければならないのか、殴られ役の会長なら「もうご免だ」と思った。しかしこれが部隊のルールならば致し方ないし、誰かが当たらなければならないならば、何事も運命だとあきらめることにした。(p116・117) 
 作戦は終了し、動員兵力は仏山の本隊へ帰還し、私は居残りとなり常時の状態に戻り、静かになる。古参兵あるいは上官は初年兵と交代し内地帰還である。目の上の瘤がいなくなってホッとした途端に、一発ガンと食らった。古参の一等兵に殴られてしまった。「貴様、古参兵が満期しても、まだまだ上があるんだ、た るんでおるぞ」とまた一発。すごく強い鉄拳で目がくらむ。(p118) 
 ・・・私も折れて現役志願のみを辞退して納得、広東陸軍病院の下士官教育に行くことになった。西南における自分の私物も整理できず直行である。
 しかし、きつい教育であった。体力を鍛えるのか、足を鍛えるのか知らないが、毎朝点呼前に往復八キロの行程を駆け足である。営庭に整列、点呼時に行動について反省させられ、竹刀でたたかれるのは嫌なことである。一番嫌に思ったのは、看護婦に欠礼した時、婦長に直立不動で叱責されたことである。これも軍隊かと従うことにした。(p121・122)竹内
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_108_1.pdf

 金華には師団司令部、工兵隊、そして第三大隊の第十中隊及び第十二中隊が警備駐留していた。連隊本部は遠く道盧という第一線の街にいた。自分は第十中隊の軽機班第一班に配属され、初年兵教育を受けた。・・・演習は午前三時間ぐらい、帰隊して昼食、午後の演習と毎日繰り返しであった。何と言っても演習に出ている時が我々初年兵にとっては一番の憩いの場であった。演習から帰ると班長、助手の巻脚半を取ってやり、靴下または下着の洗濯などをしてやらねばならない。へまをすれば全員の責任とされ、たちまち回りビンタである。責任を他人になすりつけたりすると青竹でたたかれ、その丸い竹も割れるほどたたかれたものだ。軍隊生活の中で忘れられないのが、この内務班のしごきであった。今思えば人間扱いではなく動物扱いの仕ぐさであった。(p103・104)大竹

 一期の教育が終了し、人事係の准尉さんに勧められて下士官候補教育隊へ進むことを承知したが、入隊してみると教育は小銃教育ばかりで、砲隊出身者はお呼びでなく最低の成績だと思った。だから班長や助手に痛めつけられ悩んだ。考えてみれば、当たり前の結果だ。砲教育中には全々触れない軽機関銃や、擲弾筒の分解、結合等で、出来る訳が無いのだった。砲隊員は三八小銃すら持たないのだから。(p75)稲垣http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_074_1.pdf

 昭和十九年六月二日、私は高知市朝倉の西部第三十四部隊第二中隊第三班へ入隊を余儀なくされ、以来終戦、復員まで私は軍隊の消耗品となった。・・・
 入隊翌日から、六時起床に始まり、班内掃除、点呼、飯上げ等で、我々初年兵は「早駆け」で少しでもモタモタすると二・三年の古兵殿より過分なる手厚いおもてなしをたくさん頂いた。私は当時二十一・二歳だったので幾分は良いものの、三十余歳の戦友は大変な苦労だった。(p65・66)大西

 歩兵の基本訓練はそこそこに、通信兵の基本ともいえるモールスの特訓が開始された。・・・
 先生は通信学校出の色白の下士官であった。この訓練は体が楽なだけに、眠くてどうにもならない。コクリとやると、すぐ剣道の竹刀が飛んでくる。隣の仲間がカチンとやられても、一分ももたないうちに今度は自分がコクリとくる。(p51)大森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_047_1.pdf

 私は昭和十七(一九四二)年二月に新潟県高田市の歩兵第三十連隊に入隊しました。部隊長は後にアッツ島で玉砕された山崎保代大佐でした。  
 班内には満州から内地へ帰還された古年次兵が同居しており、この古年兵が夜になると我々陸軍二等兵の両頬に強く刺激を与える役を勤めており、まるで暴力団の事務所にでも連れ込まれたようなものでした。(p38)舞嶽
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_037_1.pdf

一月十日に各務ヶ原の航空教育隊へ入り、隊には第一中隊、第二中隊とありまして、私は第二中隊の第八班というところへ入らせてもらいました。(p569)
ところが、私らの第二中隊の方は良かったのですが、第一中隊の方は何をしているのか初年兵ですから分かりません。大体のことをいいますと自動車の運転とかが第一中隊の関係でした。後で分かったのですが、飛行場大隊というのがございまして、設営とかその方面の人たちは第一中隊で、第二中隊は無線だとか技術関係でした。第一中隊の方では同期の兵が逃げたという噂がありました。よっぽど辛かったのでしょう。私らの方は良かったのですが、第一中隊の方はビンタが多かったので逃げたということでした。(p570)藤原http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_566_1.pdf
 
 昭和十七年の一月末、呉鎮守府より、「五月一日、広島大竹海兵団に入団せよ」との、待ちに待った令状を受け取った。・・・このように新兵教育も一つ一つ覚え、一、二カ月と過ぎていったが、カッター訓練は特に厳し く、少しでも力を抜けばバッタで叩かれる。 (p555・560) 
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_554_1.pdf


 昭和十八(一九四三)年一月末、岩国空において予科練の教程を卒業した私たち水上機選抜の六十人は、水上機の練習航空隊である茨城航空隊に移動をした。・・・
 私達が衣納袋をデッキに下ろすや否や、早速「練習生整列!」の声が掛った。三人ほどの教員は「海軍精神注入棒」と書かれたバッターを持って私達の整列を待っていた。
 「当直」と書かれた腕章の教員はいわく「ここは地獄の一丁目。二丁目のない飛練である。貴様達がお世話になるのはこのバッター棒である。よく礼拝しておけ」と。
 早速、一人に三本ずつバッターの洗礼があった。この時の尻の痛みは仲々消えなかった。(p537)
 十日間位は瞬く間に過ぎていった。徐々に訓練には馴れたが、相変わらず飛べば怒鳴られ、降りれば罰直の駈け足、デッキでは常時バッターが、釣り床競技という地獄の毎日。夜間は練習室で教員より「飛行機操縦教科書」により、操縦操作の講義も勉強となった。「頭で覚えようとするな、体で知るのだ。殴られて痛ければ、体自身が覚えてくれる」と、意味不明な教訓もよく言われた。こうして、毎日が必死の飛行作業であった。(p542)
 一方、飛行訓練も終わり夕食が済む頃になって当直教員より「練習生、全員がよく聞いておれ」その日の連絡事項についてよく話があった。
 だが時折「練習生全員集合」の号令一下、練習生全員は廊下に並ばされる。「貴様らの最近の動作は何だ、弛んでいる証拠だ」と理由をつけては、バッターで尻をブッ叩く、罰直を楽しみにしている若い教員が何人かいた。罰直の苛烈さにおいて伝説的なK教員には驚いた。この罰直の語源は定かではないが、肉体的苦痛を与える海軍用語であるそうな。
 罰直には個人の場合と連帯責任とがある。個人の場合は規則違反などであり、この種の罰直は多くない。むしろ全員を対象にした罰直の方が多かった。よく何らかの理由をつけては全員集合。そして、ただバッターを振るう。そんな感じのする罰直であった。
 結局、このようにお尻に痛い教育を受けながら、大いに気合の入った練習生ができ上がっていく。これが猛訓練という海軍軍人としての型に塡め込むための試練でもあった。いずれにしろ、面白半分にやる罰直も数えきれない位あった。
 その後、特定教員による制裁は分隊長によって止めさせられた。「罰直や制裁を止めよとは言わないが、練習生に怪我をさせるようなことは好ましくない」との注意があったそうである。陸軍においても、私的制裁は厳しく、改善されていったと聞いているが、私情を挟んだ行動が公に許されることはあってはならないし、その制裁が軍の団結を破る結果となったこともあった。(p544)榊原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_537_1.pdf

 昭和十七年一月十日、広島第六連隊野砲兵隊に入隊、三月二十日、一期の検閲(満州行きのため間に合わせの検閲)を終え、三月二十七日宇品出港、釜山から北上し満州国に入り、牡丹江から虎頭に到着、第四国境守備隊(第八七五部隊)第七中隊(隊長・斉藤中尉)に初年兵四十三人が配属され、四月七日入隊式を終え、一期の検閲に向けて訓練を始めました。・・・ 
 内務班は初年兵、二年兵、三年兵の混合で、召集兵も若干いました。二年兵は大阪出身者、三年兵は愛媛県出身者が多かったのですが、どの隊でも初年兵のうちは何かにつけて叱られることばかりで、毎晩ビンタの無い日は正月と二月十一日の紀元節だけだったと思います。靴の手入れが悪いとか掃除の仕方が悪いとか、整列ビンタは年中行事の一つでした。いま振り返ってみますと、あの苦しい初年兵の体験は六〇年経った今でも懐かしく思われる貴重な体験だったと思います。
 現在の青年にあの体験の三分の一でも良いから体験させることが大切で必要だと思います。とくに斉藤中隊長の訓示は「人間はまっすぐな道を歩め」「他人には絶対迷惑を掛けるな」の二つを教育方針として、兵隊に常々教えられたせいか、理不尽な私的制裁はなかったと思います。(p536・537) 渕崎http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_536_1.pdf
 
 我々の海軍の管区は舞鶴で、区内は山形・新潟・富山・石川・福井・滋賀・京都でしたから、海兵団は舞鶴であります。入団は、昭和十七年五月一日、松任出発は四月三十日で、数人の者が入団するので、海軍の人事部の方から引率者 (下士官)が来ました。その時から、もう気合をかけられましたし、入団の晩から臀を叩かれました。その棒には「軍人精神注入棒」と書かれ、樫の棒でバッタと言うのでした。
 入団してから、一五センチ平射砲を射つ練習(空砲 砲は八門)がありました。ある新兵が放屁をしたら、一個班十六人が、湾に入って泳いで「丸を拾って来い」と言われ、約二時間泳がされました。班長はカッター (ボート)に乗っている。放屁のガスが水の中に有るわけが無いのだから拾えるはずがない。「何でこんなことをするのか」と思ったのですが、これが、海 軍の教育だと思いました。 (p530)

また、海軍占領のキスカ島の第三十二防空隊に編入され・・・一個小隊、三十数人、我々は二等水兵ですから、どこへ行っても一番下の新兵、下がいないのです。下が入らなければ万年新兵ですが、その反面、海軍の給与は最高でした。それでも毎日、毎晩のバッタに変わりなく苦労の連続でありました。(p531・532)

 大湊では進級して上等水兵になったので、初年兵当時より幾分楽になりました。それからは、バットで叩かれなくなりました。あの痛いバットは教育の手段であったわけです。それだから、これからは、バットを振る立場になったのでした。
 石川県の人間の一般は、バットを振る者が多かったのですが、私は、下の者に対しバットを振らず、言って聞かせるようにしたので、「石川県の人でも、優しい人もいる」と、下の者から言われました。 (p533) 伊藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_528_1.pdf
 
 「臨時召集令状 部隊名日時
 松江西部六十四部隊 昭和十七年三月二十五日午前八時ニ同部隊ニ入隊スベシ 松江連隊区司令部」(p486) 
 昭和十七年春頃、満州より満期で帰って来た兵隊が居ましたが、彼らは気が荒く、誰彼かまわず暴力を振るい、私的制裁を行い「興安嶺嵐を見せたろか」と怒鳴ってた。思えば哀れな先輩達だった。(p488)藤原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_484_1.pdf

昭和十八(一九四三)年一月十日、臨時召集で西部第五十二部隊第三中隊に入隊したのです。部隊は、支那事変で有名となった「爆弾三勇士」の出身隊、久留米の工隊であります。・・・
 初年兵教育は三カ月間、星一つでも、一日でも早く入隊すれば先輩であり、上級者、古兵、先輩たちに毎晩叩かれる。同年兵の一人は、一人の上等兵から三カ月間に一〇〇〇回叩かれたと言いますが、彼は毎晩手帳に「正」の字を書いて記帳していたのでした。私は叩かれない方でしたが、一〇〇回は叩かれました。(p467)久世
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_467_1.pdf

所属は近衛歩兵第二連隊(富永恭次大佐)第三大隊 (吉田嘉久少佐)機関銃中隊(新井隆夫大尉)で・・・「近衛は皇軍の模範たれ、名誉を傷つけることなかれ」をモットーに、ビンタは強い兵隊を作るために必要だと言われました。(p302)原http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_301_1.pdf

・・・昭和十九年九月五日、山形東部第五十九部 の検閲を無事に終了しました。
 回顧すれば、入営前在郷時代さんざん隊内の内務班の生活のきびしさ、制裁の苦しさを予備知識として耳にたこの出る程聞かされていましたが、私共は入隊の以前より個人制裁の禁止が厳重に叫ばれていて、私共はその恩恵を蒙り大変ラッキーでした。とは言え、全然皆無ではなく伝統の足を開け、眼鏡を外せ、歯を食いしばれ、その上痛烈な鉄拳制裁、初年兵同士の対抗ビンタ等は数回受けました。でも時代の移り変わりか、我慢できる程度でまあまあ、やれやれでした。(p257)鈴木http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_256_1.pdf

その日の内に、新潟県高田市にある第七錬成飛行隊第一中隊第一班に配属され、翌日からしごかれた。一般の人は青年団で各個教練をしてきていたのですが、私は電気専門学校ですので、演習に行ってもいつも一人だけ叩かれ顔が腫れ上がっていた。また夜になると航空隊だから急降下をやれと、時々内務班の壁に向かって逆立ちをさせられた。しかし演習は僅かだった。 (p176)小野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_174_1.pdf

十一月二日、横須賀海軍通信学校第六十三期生として入隊した。・・・「皆聞け、あれほど言ってあるのに遅刻した奴がおる。気合いを入れてやるから出てこい。両足を開き両手を挙げ、拳を握り歯を喰いしばれ」とバットが飛んだ。幾つかで倒れる。兵舎の隅に空気乾燥防止のために桶水がある。 「水持ってこい」と水をぶっかけ、気付き、立ち上がればまた叩く。と「あと気を付けろ。元の位置、解散」。教員の瞼がうるんでいた。このような時でも休業とか入院とか聞いたことがない。 
 夏の一日、各分隊長交替で久里浜海岸へ水泳に出た。私らの尻が皆、紫色に血がにじんでいた。終わって校庭に教員整列があった。約七百人、校長から「あまり手荒なことをしないように」と注意があったが、変わらなかった。(p171)  
 ・・・ある朝、朝礼に大喝一声「佐世保の海兵団はちよっと違うぞ。見とけ……出てこい」と善行章二線の上等兵曹が壇上へ、横に将校三十人ぐらいが居並ぶ。「兵隊を指導すべき立場にありながら……」と言うなりバット一つ二つ三つ……厳しいと聞いていたことを見た。 (p172)武村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_165_1.pdf 

役場から入隊せよとの通知が届いたが、それには「昭和十七年四月十日午前十時、福井県鯖江歩兵第百三十六連隊連隊砲中隊」と記してあった。・・・日が経つにつれて古兵達の一品検査と、それに伴う私的制裁が度を増して来た。入隊前より先輩から聞いていた勇猛果敢な第百三十六連隊の内務班の教育は、毎日私物検査、整理整頓で、班員の一人の不始末による全員整列ビンタと相手同士の叩き合いと聞いていた。(p127)

職業は蹄鉄、鞍工、炊事、喇叺、衛生その他である。衛生を希望し中隊の人事係准尉に申し出た。連隊からは各中隊より一人で十五人が朝八時に医務室に集合し陸軍病院へ通学、連隊と病院合わせて三十 五人の教育が始まった。・・・私は夜の点呼が終わると薄暗い厠に入り、股木の所に新聞紙を敷き、暗い電灯の下で毎夜十一時過ぎまで予習や復習をした。病院は看護婦が共に勤務しているため、女性厳禁の病院では脇見をしたと因縁を付けられ、連隊の者はどれだけ叩かれたか分かりませんが、頑張った甲斐あって卒業は三番で、連隊の医務室では事務室勤務となった。 (p128)

「松塚塚衛生兵、実は廊下の片隅で一人が頭から血を流し顔面を両手で覆いながらしゃがんでいるから見てくれ」とのこと。早速跳んで行くと、両手を真っ赤に血で染めていた。・・・原因は夕食後お風呂から帰り道、古兵から「貴様は態度が悪い」と言われ、突然木銃で前頭部を叩かれ五センチ近く割れたとのこと。その日は患者の事が頭に浮かんでなかなか眠れなかった。(p129)松塚
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_126_1.pdf

 私は満州一一八部隊内の第十二中隊に属し、初年兵の一等兵。クラスノヤルスク収容所では何組もの作業班に編成された。(p81)
 入隊当初、鈴木伍長に「清田、前へ出ろ」とスリッパで往復ビンタ。口の中は傷だらけ「貴様のような奴がおるから皆が悪くなる。皆の代表だ。今日はこれで良し」と。これで「天皇陛下万歳」と笑って死ねるか……。ああおれは非国民か……。何のお世辞も言えず口下手な俺。だが最初の戦闘で弾の来る中、鈴木伍長が「清田、しっかりしろ。上等兵候補だぞ」と励ましてくれた時、万年一等兵と覚悟していた私はこれが軍隊か、よしやるぞと戦った。ここで別れ別れになったが一番会いたい人だった。帰って最初の戦友会でシベリアで亡くなったことを初めて聞いた。(p82)清田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_080_1.pdf

 中部二十二部隊(元歩兵第八連隊)に入隊。(p69)
 この大阪の二十二部隊におること十一日間。昨日「明日は原隊のある満州に出発する」と知らされた。原隊名は「満州第一九三部隊」という。(p70)
 病院で、岐阜県郡上八幡出身の二年兵で高垣一等兵に出会った。気安く話しかけたというので初めて気合(ビンタ)を入れられました。(p73)

 点呼・体操・うがいをする。その後班長が、歩兵操典の中からの質問をする。これに答えられないと竹刀でポカリとくる。(p74)

 食事が終わり食缶を洗って、週番上等兵に引率されて炊事場に返納に行きます。出入口に食缶をおいて帰りかけますと「コラッ!第一中隊マテーッ!」。きれいに洗ったつもりの食缶に一粒の飯がついていた「貴様ら、これでも洗ってきたか、みんな並んで尻を出せ」とくる。そもそも炊事係という者は、中隊で嫌われ者の荒くれ者がなっています。大きな釜から土掘り用のスコップで飯をすくいますが、そのスコップを持って二、三人の炊事係が駆けてきて、力いっぱいひっぱたきます。痛いこと、頭のてっぺんまでピーンと響き、くらくらします。炊事場は鬼門でした。(p75)
 寝ている古参兵たちに煩がられるから、不寝番も押し殺した声で怒ります。拳骨で頬に一発ずつもらって解放されます。(p77)

 ・・・夕方点呼のとき、我が班長の鬼軍曹殿は、墨黒々と「軍人精神涵養」と書いた木刀をもって来る。週番士官の点呼が終わると、班長が今日の教練成果について話すが、成果が悪いとただでさえ赤い顔が、ゆで蛸のように真っ赤になって怒る。教科についての質問をする。答えられないと木刀で頭にたちまちコブができる。質問はほとんど初年兵が対象とされるのです。
 教練等は厳しいのですが、休憩時などは大きな声を出して駄酒落を言い、愉快で思いやりのある班長でしたから、班長を悪く言う兵隊は一人としておらなかった。班長が「解散!」を宣言して下士官室に引き上げると、初年兵係上等兵殿が「初年兵待てッ!貴様らは班長を困らせるのは、貴様たちがたるんどる証拠だ。足を開け、歯をくいしばれ」でサザエのような拳骨で片っ端からほっぺたを思いきり殴るのです。その痛いこと、眼から火花がピカピカと光り散ります。「よしッ!作業にかかれ!」と言います。(p77・78)
 それぞれの部隊で違っていたでしょうが、私は入隊する前に「関東軍は軍律が厳しいぞ」と聞いていたのですが、一挙手、一投足いちいち文句をつけられていました。消灯後、幾度となく毛布を被って悔し涙を流したことか、今では、辛かったなあと懐かしく思い出されます。(p79)河村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_065_1.pdf

 私はどうも酒の上の失敗が多いようである。ある外出日、帰隊時刻も来たので、一升瓶を肩に小唄を唄いながらの帰り道、前方より年若い少尉が来たので敬礼をしたところ、態度が悪いとかで一発くらったので、私も何気なく持っていた一升瓶で殴ってしまった。少尉は「上官暴行で、憲兵隊に訴える」と怒った。私も負けずに「私的制裁が禁じられている今日、訴えられるものなら訴えて見よ、初年兵のくせに生意気だ」と反論して帰隊してしまった。酔いがさめてから、自分の軽率な行動を反省したものであったが、どういうことか何事もなく、いまだに不思議に思っていることの一つである。(p42)竹内
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_038_1.pdf

 私の父は群馬県前橋市で建築請負業をやっていましたが失敗して、大阪の港区に引っ越しましたので、兵隊検査は群馬県前橋市で受け、昭和十八(一九四三)年二月十日、群馬県高崎市の第十四師団歩兵第十五連隊の大隊砲小隊に入隊しました。・・・(p481)
 一期の検閲が終わると、それぞれが特業教育に就くのですが、私は人事係准尉から衛生兵教育を受けるように言われ、チチハル陸軍病院で衛生兵教育を受け、中隊付き衛生兵となりました。・・・(p482)
 衛生兵は進級が早いといわれた通り、私も一選抜の上等兵になれましたが、前に申した通り補充がなく、あとが入ってこないので、内務班では一等兵の古年兵から「上等兵になったと思ってデカイ態度とるな!」とビンタとられる始末でした。(p484)和久井http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_481_1.pdf

 昭和十八年四月一日、福井県敦賀市の歩兵第百十九連隊へ現役兵として入営しました。・・・
 その日は名古屋市内で一泊して勢揃いし、翌日、敦賀ヘ出発、入営を致しました。第二中隊第二班へ編入された。今まで生活していた娑婆とは一別し、今日よりは軍隊という新しい社会生活に切り替えた。入隊前に聞いていた非道、陰険、残虐に制裁は一先ず無く、我々新しい初年兵も少しは安堵した様子でした。が、四月一日入営、四月十日の軍旗祭が終わると、それまでの様子は一変して鬼の内務班と化した。ここ敦賀は福井県、我々初年兵は愛知県人。言葉が違う。愛知の我々は継子扱いされて、手荒な仕打ちを繰り返し受けた。こうして軍人精神、何くそ、攻撃精神、内務の規律が確立されていった。一人前の軍人が錬成されて行く。(p438・439)横井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_438_1.pdf

顔もゆがみ、歩くのもやっとの態でもあった幹部候補生受験の前夜の試練、いわれなきビンタの横行、嘲笑や憎悪、偏見と屈辱にも耐えさすことが、はじめて「軍人精神」の神髄を体得させ得るものかは疑問である。(p49)田中http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_048_1.pdf

 翌十日朝、西部第八十四部隊の営庭は新入隊者の群で埋っていた。・・・
 第六中隊第五内務班は、歩兵・衛生兵の初年兵が約二十人、古兵は兵長殿はじめ二十五人位、合計四十五人程であった。朝礼、点呼、銃剣術、朝食、食缶返納、掃除、銃剣手入れ、通修整列、つまり、早飯、早糞、早走り、他の者より一秒でも早い者が勝ちである。朝食当番が飯・汁をつぎ終わり、週番上等兵殿が「よし」と合図がなければ食器に手をふれられないし、盛付けの多いのを注目している。
 そのすきに、雑巾七枚のうち一枚を素早く軍衣の下にかくしおき、合図と同時に飯に汁をかけ一気に呑み込んだ。直ちに廊下を駈け足で雑巾がけ、折り返している時、二番手が五班を出発している。私は、五班到着と同時に「よーし、中島交替せよ」の掛け声で、ドロドロの雑巾を次の戦友に渡す。ホウキかバケツ、塵取り、何でも握っている者はよいが、手ぶらな者は古兵殿よりビンタが飛ぶ
 銃剣術の間、稽古も、木銃は充分あるが防具が七組だけで、防具取りの争奪戦はすさまじい。半分防具を付けていると、古兵より直突き一本でひっくり返され、起き上がれない程痛い目に会う。
 ちょっとでよいから足りない防具を貸してもらい、型の訓練をしなければならない。ゆっくり着ていると、一人も居なくなり整列点呼が始まっている。このような行動により、機敏で、困苦に耐える兵隊が仕上がっていく。軍隊へ入った殆どの者が体験するのである。(p564・565)

部隊長殿よりのお呼び出し
 一期の検閲前の頃、ある日、班長殿が「中島、部隊長殿がお呼びだぞ」「直ぐに本部へ行け」と言われ本部まで急ぎ行った。「衛生兵、中島富夫参りました」部隊長殿は「以前馬より落ちて腰が痛い、治るか」「ハイ、治るであります。寝台に伏臥して下さい」と、腰背部を触診して軽く按摩を施した。「できれば鍼治療をしたらよいと思います」部隊長殿のお顔を真っ直には見られない神様級の方の腰痛治療を頼まれて光栄である。鍼灸師の免許は本当に有り難く貴重な資格であった。
 「では鍼をせよ」である。「鍼灸治療具を取りに佐賀へ行きます」と答え、公用腕章と外泊許可証が用意してあった。班内の古兵は勿論のこと中隊事務室の係官まで「中島用件は何か、単なる按摩のみでない。何かがある。あるいは部隊長殿の親類か」「鍼治療具を取りに参ります」。何回説明しても聞いてくれないが、個人的な制裁のゲンコツが班全体激減した。
 その後も部隊長室を再三訪問した。ある日、班長が私に静かに近づき「中島、今日もお部屋へ行くか、今直ぐ行け」とのこと、今日部隊長殿は出張不在を私は知っていたが、班長殿の声が、何かあると、サッと班を出て便所に一時間以上も入っていた。やっと臭い所から解放され内務班に戻ったら、嵐の跡であった。古兵一同から、初年兵全員往復ビンタの後は、手箱、整頓棚は木銃でひっくり返され、班全員、沈黙の真っ只中の時、「只今、中島帰りました」シーンとしている。腫れ上がった顔を部隊長殿に見られては内務班の恥、気合を入れるのに内務班のしきたりであるが、班長殿の私に対する思いやりであったと感じた。部隊の規則には「私的制裁の禁止」と大書きされているだけである。(p567・568)中島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_559_1.pdf

 私は昭和十七(一九四二)年二月一日、中部第六部隊騎兵隊に現役兵として入隊しました。名古屋で育った私には、騎兵隊などと言った馬のお世話をしなければならないなどとは、不安でなりませんでした。ここ中部第六部隊にいたのは入隊後約十日間位で、二月十一日には第一線要員として名古屋駅を出発、門司港より朝鮮釜山に上陸、さらに鮮満国境を通過し、北支の平地泉と言う所へ向かいました。北支のこの地方の二月頃の気温と言えば零下三〇度、用便をすると終わらないうちからツララとなってしまう程の寒さでした。内地では到底考えも及ばぬ光景でした。列車から下車した私達は隊伍を整え、原隊のある平地泉へ、歩いて約一時間で駐屯している部隊に到着しました。直ちに編成となり、私は第二大隊第三中隊第一班に編成されました。
・・・ある時、演習より帰隊し、銃の手入れをして、銃口を研く放槍口の差し入れ方向が間違って差し込んだままにして銃架に立てて置いたことがあります。明朝演習に出て、「休暇」「組め銃」となったのですが、放槍口がないので、我が分隊だけが「組め銃」ができない。教官から「一分隊、どうした」と言われました。助手の方は「ハイ엊放槍口が悪いので修理に出しました」と言って、その場は教官も察して「了解」となったのですが、演習が終わって帰隊したら早速全員訓示となり、点検と言う事を忘れた罪でビンタのお見舞をもらったのでした。(p209・210)和田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_209_1.pdf

 明けて昭和十七年一月十日、兵隊として関東軍の一員となった。現地入営との事で待っていた。戦車兵なので隣のあの部隊ではないかと思ってい たら、入隊地変更で千葉の習志野戦車部隊入隊とのことだった。・・・
 千葉では一カ月で満州に派遣となり、満州はどこだろうと思っていると、なんと宝清の部隊だった。こんな事なら開拓地から入隊すればよいのにと思った。いつも開拓団員としてこの戦車部隊の前を通っていたのに、見ると入るとは段違い、朝から晩まですごい訓練であった。夜は夜でビンタの嵐、良くても悪くてもビンタの連続。特にノモンハン帰りと初年兵が恐ろしがっていた万年一等兵が朝から晩まで睨みつける。特に二階は神様(古年兵)が両側におり、初年兵は下で朝から晩まで睨まれ通しである。・・・
 目の前で殴られるのを見て止める事もできない。血だらけになって、それでもまだ止めない。可哀想だが手を出せばやられる。神様や兵長、上等兵は見ているだけ、伍長も万年一等兵には歯が立たない(年功が古い)、伍長にも手を上げる事もある。そんな中で初年兵は「良し、今に見てろ、除隊までに必ず仇を取ってやる」と、私も思っているので、皆も思っているに違いない。(p77・78)菅野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_068_1.pdf

この日から、私の嵐第六二一二部隊歩兵砲中隊(第百十六師団歩兵第百二十連隊歩兵砲中隊)での戦務が始まった。・・・ここで初年兵教育が始まった。演習教育担当者の西村弥寿男軍曹は体格抜群の人で、演習中標悍で頭を叩かれた兵隊は沢山いる筈である。(p30・31)柏谷
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_030_1.pdf

霞ヶ浦航空隊に入隊してからは、約一年間霞ヶ浦で実戦訓練を受けました。その時は若い志願兵の上等兵から腕立伏せをやらされたり、尻を叩かれたり、それはそれは大変な苦労でしたが、これはすべが訓練であり頑張りました。(p644)藤原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_644_1.pdf

・・・横須賀第二海兵団に入団する者は五人で、多くの方々に見送られて「万歳!万歳」で出発しました。
 海軍の訓練は厳しいぞと、話には聞いていましたが、入団して三カ月間の教育訓練中は、海軍魂を叩き込んでやると、古年兵達が棒で尻を殴るなどの厳しい訓練に、時には涙を流すこともありました。(p603)佐藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_602_1.pdf

私は熊本市にある歩兵第十三連隊歩兵砲中隊でした。・・・ある時、戦友が許可なく売店(酒保)に行って饅頭を食ったと言って上等兵から全員呼び出され、木銃で叩かれ、立ち上がれないほどでした。全員震え上がった思い出があります。(p87)坂井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_086_1.pdf

第一海兵団の日課は戦争中にもかかわらず平穏な毎日でした。・・・佐世保は軍港の町でどこへ行っても海軍軍人の先輩ばかり、敬礼することを怠っては欠礼をして罰が与えられた。特に巡邏は厳しかった。(p503)塩 田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_502_1.pdf

久留米第四十八連隊は戦争に強い歩兵連隊として有名だと先輩から聞かされておりました。・・・私は第一大隊第二中隊に配属され機関銃班に所属しました。そして三カ月間の一期の検閲が済むまでの内務班教育と訓練は予想を上回る激しく厳しい毎日でした。・・・厳しい訓練に昼食、午後の訓練でくたくたになって夕食の準備と後片付け、古兵の手伝いと身の回りの整理、点呼の時の軍人勅諭の暗誦。古兵の叱声とびんたで目から火が出るような思いでした。貴様達は「たるんどる前支えだ」と初年兵一同「前支え」をさせられ油汗が出ました。(p437・438)野田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_437_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年四月一日、広島県福山市の歩兵第一四一連隊補充隊第三中隊第一班へ入営しました。(p335)
 入営第一日目はまあお客さん待遇で、すべて古参の人を見習って、内務班教育や躾のあり方を見聞して兵の第一歩を踏み出しました。
 二日目からはもう新兵としてミッチリと仕込まれ鍛えられます。歩いていることはない。皆走っている。その間にビンタがとぶ。対抗ビンタも初めて経験しました。とにかく軍隊とは敵と戦争をして勝たねばならぬ。無駄、隙、漫然、冗長等一切やめて、正確に最短時間に、他人よりも優秀な成果を挙げなくては、生存競争の烈しさは言葉では言えない位だ。しかしその中にも戦友愛という暖かい感情、連帯感、かばい合い等のプラスの面も芽生えてくる。それが時間、歳月の経過と共に、精鋭な部隊に仕上がって行くのです。
 一方、野外の訓練は、芦田川の河川敷を練兵場代わりにして行われました。とにかくきつかった。班長殿は「悟りが悪い。一度言ったら悟らにゃいかん」とビンタも時々ある
 軍人勅諭の暗記の時、詰まって言えぬと即ビンタ。とにかくビンタは多かった。(p336・337)谷本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_335_1.pdf

 十九日、広島駅に到着、指定の宿屋に集合しました。山形県出身者が四十三人、宮城県出身者が七人で、合計五十人が集合しました。行先は満州ハイラルの第三二一部隊で、正式名は関東軍ハイラル第一陸軍病院でありました。(p346)
 初年兵は古年兵の身の廻りの世話もしなければなりません。古年兵は九州出身者が多く、気の荒い人が多いのでビンタを相当もらいました。(p347)島貫
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_346_1.pdf

 部隊は満州国黒河省第六国境守備隊第二中隊(中川隊)に入隊。私は速射砲隊に配属され、砲の口径は一七〇ミリ、五人で一門で三人で牽引する。時に馬で引く場合もある。ノモンハン事件で「ソ軍」の戦車に苦しめられたことから、速射砲隊を設けたようです。
 内務班の生活は朝六時起床、点呼、三十分の銃剣術の稽古、教練、演習、各種当番等で、午後九時に消灯である。ビンタは時には喰らったが予想していたより少なく、と言っても要領の悪い初年兵は度々やられた。やられる者は決まっている。(p349・350)小林
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_349_1.pdf

 大阪で身体検査を終わり、服を着ながら我々の仲間の一人が小さな音で口笛を吹いたのを居合わせた憲兵兵長に聞き咎められて、いきなり殴られ、上官の憲兵軍曹に「犯罪を構成しますか」と問うと、その下士官が勿体ぶった物腰で「態度不遜なりと認める」とやりとりしているのを見て驚きました。はじめて家族と離れ、どこへ連れて行かれるか不安な初年兵に、どうしてもっと軍隊の先輩らしく注意してやれないのだろう、と思いました。(p2)川村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_001_1.pdf

 昭和十四年八月頃、徴兵検査を石家荘で受け、甲種合格しました。どこへ入営するのかと案じておりましたら、金沢騎兵第九連隊へ、昭和十五年一月十日入営すべしとの通知を受け取りました。(p310)
 騎兵へ入営する二人は金沢駅で下車して十一屋町で一泊して騎兵隊の門前で父と別れ入営しました。
 あっけない別れとなりました。その晩は赤飯で祝ってくれました。次の朝より古兵達に毎日のように打たれ、初年兵のつらさを初めて知りました。(p311)渡邉
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_309_1.pdf

 昭和十八年四月一日、舞鶴海軍防備対勤務を命ぜられました。・・・そして舞鶴湾の喉口に当る博奕衛所で二十四時間体制の聴音所勤務に就きました。・・・
 同年兵同志の学校生活と異なり、階級の厳しい実施部隊の明け暮れ、日常作業態度が悪いと先輩による夜の罰直が待っています。覚悟はしていたものの殴られる尻の痛みはまた格別でした。(p133)

 よく先輩から「潜水学校は殺される目に会〔ママ〕う所」とその厳しさを冗談話しでおどかされましたが、正に入校第一日目から難問に会ったのです。入校してくる者を二十人ぐらいを一くくりにして当直教員の説明があります。「一種軍装を事業服に着替え、衣嚢に入れ、衣嚢を棚に納める、テーブルに並べてあるハンモックをビームにかけ、ほどいて内部を点検、再度くくり直して元に戻す。以上三分以内に終った者から中央通路に整列。かかれ!」ピーの号笛一声あり、必死に旅装を解き事業服に、衣嚢を棚に納めてハンモックの調整にかかる。中々網がもつれたりして気が焦れど思うように進まない。夢中で最後の網をくくりつけて終了、パッと中央通路に飛び出す。トップ整列。
 瞬間を置いて次の者は何と舞防から共に入校した山形出身同年兵の梅津雄三君ではないか、「はい、これまで!」と時計を手にしている当直教員の声がある。以下の者は全員時間切れで後に厳しい罰直が待っています。自分のハンモックを担いで駈足、校庭一周です。青息吐息で戻るとさらにそこには鉄拳制裁の二、三発が待っていました
 そして最後には教員の訓示が「いいか!潜水学校は出来ないことをせよとの難題は言わぬ。現に二人の合格者がいる。今後覚悟して校風に従うよう努力せよ」との話があり、(p133・134)小川(米持)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_131_1.pdf

 回顧すれば昭和十八(一九四三)年十二月、現役兵として朝鮮第八五〇六部隊に入隊を命ぜられ、歓呼の声に送られて、会津坂下の駅をあとに、我が親愛なる友は南方方面へ、あるいは北方へと。その日は、大粒の綿雪が降る日だった。・・・(p171)
 零下二二度を下がると演習は中止となり、内務班において学科です。軍人勅諭の説明、「真綿に首」という言葉の通り教育され、実行されて行きました。自分の意志など述べることできず、実行しなければならず、少々のことでもビンタを取られ、平手打ちならまだしも、スリッパまたは帯革ビンタです。口腔粘膜が切れ三日間も味噌汁が吸えないこともありました。このように私的制裁が一般的に行われており、入隊前より話は聴いておりましたが、これが新兵教育かと思いました。
  肉体制裁に加えて精神的苦しみも、またひどく、疲労と睡眠不足で、学科中に手に持っている教科書が、あちらこちらで落ちる音、はっとして顔を上げ、自分も握り直す。ここでまたビンタが飛ぶ。このような毎日なので私の班からもこの精神的苦痛によって、昨日まで一生懸命やっていた同年兵が、夢遊病者のようになってしまい、その監視をさせられた事もありました。気の弱い者は、そのようになるのかと思いました。忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え、一億奉公に務めざるを得ませんでした。
  部隊長の検閲があり、一人一人を巡視されて「お前、その顔の傷はどうした」と言われても、「私的暴行をうけました」とは申せませんで、「夜は灯火管制で、舎内は暗かったので机に当たりました」と言っておりました。初年兵の哀れな姿です。疲れて演習から帰って来ると、自分の整理棚の物品、衣服等が散乱しており、古年兵が「今日は地震があったぞ」とそしらぬ顔です。また敷布の上には赤いチョークで大きな金魚が書かれており「金魚が水を呑みたいと言っていたぞ」、何をされてもそむくことができませんでした。(p172・173)
  戦地に赴く戦友と二日の間、酒保で懇親の宴が催され、戦友は「俺達、南方に行くんだ」と話しており、前日には実弾が渡されたようでありました。その時は中隊長も同席して「本日は無礼講だ」「何でも話をしろ」と言われました。
  今まで何事も上官に対して、物申す事などできませんでした。恨み骨髄に徹すると言う言葉がありますが、一人の初年兵が立ち上がり「自分は今まで奴隷のように使われ、私的制裁を受け、脱走まで考えて参りました。弾は前よりばかり来ないのだ」と皆の前で話しました。皆「しーん」となり、私的制裁のひどかった事が一気に爆発したという状況でした。鬼班長と言われていた伍長が、皆の前に正座して「誠に悪かった。私は皆を強い兵隊に育てたい思いで行った訳であった。しかし度を越してしまった、悪かった」と、両手を付いて幾度もお詫びをしました。その姿はあわれそのものでした。中隊長も「誠に申し訳ありませんでした」と詫びられ、その初年兵も納得して戦地に向かったことと思います。(p174)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_171_1.pdf

 さて揚子に上陸して行軍する。中支は雨が少なく、半年も雨らしい雨が降らない。土が軽く地埃は黄塵万丈、天に沖す。内地では想像もできない大陸である。一週間位、行軍して一月九日、沙洋鎮と言う大きな町に到着した。ここで鏡第六八〇五部隊熊谷隊に入隊する。一カ月も入浴しないため虱が自然発生し初年兵全員が虱だらけの兵士である。入隊式も終わり、大隊本部の在る十カ城を経て、第七中隊は五カ城に到着。まず入浴する。(p36)
  さあ三日目から始まったものは何?言わずと知れたビンタの連続である。明治以来の変わらざる軍隊教育まさに筆舌に尽くし難きビンタビンタの明け暮れに耐える。戦後出版された「聞けわだつみの声」「人間の条件」等が映画化されたり、現代のドラマ「おしん」の名場面は世界中の人々に深い魅了をあたえかつ大いなる感動をもたらしたもの、軍隊教育と全く同じなり。軍隊のみならず一般人も「人間の条件」以上の中に在り、某県では娘を売ったと言う事実もあった。
  娑婆にある人間関係の諸々と何ら変わらず軍隊には軍隊の風紀があり、下級兵は絶対服従であるべし。これまた筆舌に尽くし得ぬ初年兵の「運命」、惨めなものである。早く言えば古参兵の「玩具」と言うも過言ではなかった。例を上げるのも今更口惜しいが柱に抱き着いて蝉の鳴き真似をせよ、汚れた軍足を喰えてオットセイのように分隊全員して各班を廻って来い等々、それを楽しむ気悪な先輩もいた。(p36)

  全快、原隊復帰への喜びはほんの束の間、数日後に待っていたものとは思い出す毎に、当時の悪夢のごとく、私を待ち構えていた物とは、分隊長の命令。「若林来い」。ビンタビンタ、またビンタの仕打ちの連続。何発やられた事だろう、理由もないままに。分隊長の平手が痛くなったのか、拳骨で殴るは、殴るは、鼻血は出るは、前歯がぐらぐらになって歯茎からの鮮血がしたたる。今度は鉄鋲スリッパで叩かれ、その中、失神状態の狭間の中ふと脳裏をよぎったものは両親の顔、顔、こんなことを両親に見られたくない。
  見せたくない。兄弟、姉妹の顔が目の裏を掠める。親が見たらどんな思いに悲しむだろうと――。地獄絵図のヒーローさながらの思い。全く身に覚えなきこの仕打ちが判明したものとは。――同年兵のいわき出身の船員に、特に悪質な兵がいた。
  彼も入院し一足早く帰隊したらしい。当時そんな事は全く知る由もない私、会った事もない兵なのに一選抜上等兵の決まる直前である私を誹謗中傷の結果と知った。その内容は、若林の野郎は病院の神様になり、病院に長くいる事を喜び、後送されることを望んでいる、云々と。これを中隊中に悪宣伝したのを小隊長はじめ分隊長も、それを信じ、不心得者にされ、半殺しにあったのである。軍隊とはこんなものと泣き寝入りせねばならなかった。(p37・38)

  中支揚子江の中流、宛市という小さな町の事だ。この地で敵襲は三回位あった。初年兵のT君は分哨勤務中の立哨時に居眠りをしたことが見つかり、またまたビンタビンタの繰り返し、あげくの果てに一晩中(明朝)の立哨の命を受けた。他の兵は三十分おきにTを監視する事になった。同郷の会津坂下町出身の戦友が見に行った時は、手榴弾の安全ピンを抜いて自決しようと思ったが思い止まり、元に戻すのにどうしても針穴のように小さな穴に安全ピンが戻らないので、一晩中骨折ったと語っていたという。
  夜明け方「ビューン!」という爆発音がした。それ敵だとばかり歩哨の位置を見る。揚子江堤防の下の廃屋の瓦が散乱している窪地でT戦友はのた打ち廻っていた。腹に抱けば一発で自決できるのだが、足元に投げたので破片が無数に軀にめり込んだため半狂乱の態だった。自分の分隊長を呼び捨てにし「星伍長、早くタンカを持って来い」とどなっていた。夜は明けた、タンカで五里位後方下流の大隊本部に輸送した。軍医は大隊に一人いるだけである。輸送または手当の甲斐も空しく命果てたと後で知った。(p39)

  いわき市出身のM君は私より半年遅く遅く入隊し、年令は三十歳、未教育補充兵で妻子もあったとか。炎天下の南支の行軍、進軍中に赤痢に冒され、小便一丁、糞八丁、と追い着くには時間を要する。彼は軍袴に包んだまま進軍した(湘桂作戦中)。草木も眠る真夜中十二時頃に大休止(三十分〜一時間)。その時悪臭がする、「誰だ!」と分隊長の大喝一声にM君はさすがに「自分であります」と言えなかった。「全員軍袴を解き、下げろ」と後に廻って臭いを嗅ぐ。「貴様!」と怒鳴って、M君の下顎を銃把で一撃、赤痢患者であるその上に下顎複雑骨折で食事できぬまま、あれこれと苦しんだ結果に亡くなった。私は半殺しから復帰したがM君は殺されたと言う、この事実は悲しさ苦しさの中に私が証人となり証言するのである。コレラ、チフス、赤痢等々の病を救う薬剤もないのが戦場なのである。
  続いてまたまた三人目の半殺しの事実を。広西省の奥深く潜入した峠の分哨に、福島市駅前近くの常連寺という寺の住職、T氏。彼はM君と同年兵である。同じく分哨についた時、顔面ひょっとこ面のごとく腫れ、歪み、蒼白疵だらけにされた。彼は動作が緩慢だと、それのみの理由にての半殺し同様。体は小さく、所詮はお坊さんであり兵隊の勤務に馴れるまでは少々無理だったのかも知れないが、一生懸命に人並みな兵隊になろうと努力しているにもかかわらず、毎日がビンタビンタの明け暮れにつぶやいた言葉は「これでは、教育とは言わないよ」と。
  分隊長入院が報じられた。私も半殺しにされたが一度病院に見舞った時は兵隊をいためつけた時の面影はどこへ、見る影もなくやつれて哀れ至極だった。戦後の戦友会にも一度の参加もなく消息不明である。(p40)若林

 寒いために飯盒の飯は凍っており、口の中でざくざく音を立てて食べることもあり、飯の味はまったくない食事をしたこともありました。班対抗で負けると「貴様達に食べさせる飯はないぞ」と飯盒を豚小屋に投げ込んで、食事はお預け、で食べないこともありました。
 このように余りにも私的制裁が厳しいので、制裁を注意する命令が出たこともありました。一期の検閲までの三カ月間は大変な苦労で、その厳しい訓練は今でも忘れ得ません。苗陽で訓練を受け検閲は陽泉の本隊で実施されました。(p154)富安
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_151_1.pdf

 私の軍歴は、昭和十九(一九四四)年三月十五日、補充兵として教育召集で会津若松の歩兵連隊東部第二十四部隊へ入隊しました。二十八歳でした。・・・
  さて、若松の歩兵部隊へ入隊した私が、最初に苦しめられたのは、対抗ビンタでした。軍隊へ入るまでの私は、およそ犬畜生でもない人間がホウベタを無抵抗で連打されるなんて言う事は想像もしていなかった。しかも新兵同士、相手に多少の遠慮をして力を加減していると、横で監視している古年兵が「メガネを外せ、歯をくいしばれ、脚を肩幅に開いてふんばれ」と要求し、それこそ力いっぱいになぐりつける。新兵はそれを見習って叱られないようにする。こんな野蛮な制裁が横行するなんて忌まわしい限りでありました。しかも手で殴るより帯剣のベルトでやられるともう地獄でした。流血。歯の折損。口腔内の挫傷。耳の鼓膜の破損等々。まれには兵営外の地方専門医の治療を受けた悪例もありました。今思い出してもおぞましい限りです。しかも同じ会津地方の郷土部隊内でのこと。
  ビンタとともに新兵が苦しめられたのは下痢でした。新兵は御承知の通り分秒を惜しんで動かされます。食事もゆっくり噛んでなんて駄目。おまけに精米も不十分な玄米に近いもの悪い条件が重なり合っての下痢でした。数も多かったようです。
  朝の中隊の舎前での点呼のとき、下痢が続いて体力の弱い者が何かとのことで、「一歩前へ!営庭カケ足○周!」は苦しい。汗をかく。ところが全身ビッショリの汗かきで、これで下痢が治ったと。とにかく苦しみの連続で毎日の日が暮れて終わるまで日が長いこと。三カ月の教育召集は長かったです。(p235・236)鈴木
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 昭和十四(一九三九)年十二月十日、世田谷野砲第一連隊における一カ月間の軍隊教育が終わり、東京の戸山町にあった第一陸軍病院に衛生兵として復帰した。
 昭和十五年一月十二日、私達同年兵百三十五人には、これから三月三十日までに衛生兵となるための教育が始まった。この教育は、軍隊の訓練・教育と違い、衛生教科書、エンピツ等を持って講堂に集まる。そして午前の教育は朝八時三十分から十一時まで、昼休み後は午後一時より四時三十分までである。
 そして毎日は起床五時三十分、保健、体操、朝食につづいて班内整頓と目が廻るような忙しさである。そして夕食後は班内で班付上等兵の講堂での教育の繰り返し、その日の教育の復習で、ちょっとでも違うとビンタが来る。私達にとっては長い二カ月間だった。(p180)福原
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 私は大正十二(一九二三)年三月一日早朝、西村山郡大井沢村で一農民の三男として誕生しました。(p242)
 父は平和時の軍人でしたので外地勤務は無く、現役除隊し、また召集もありませんでしたが子供のころよく軍隊生活について聞かされました。その内容は理由の分からぬ私的制裁のことでした。
 拳を握っての往復ビンタの真似、ベッドの下に潜っての「鴬の谷渡り(ベッドはないので座机の下で)」柱へ昇っての蝉の鳴くまね、満水のバケツを両手に持って不動の姿勢等、自分で実際まねして家族を笑わせていました

 そしてその後、このような私的制裁で涙を流した夜が多くあったが、自分たちはこのような制裁を受ける何ら理由は考えられないのになぜだろう。軍隊特有の先輩からの申し送りだろうか、それとも自分たちが受けた仕返しだろうかと思う。その反面、しかし全く理由のないはずがない。初年兵同士で欠点探しをしたが見出せない。ちょっとしたことでも話せば分かるのに、言葉が体罰に転化したものと考え、二年兵になるまで我慢また我慢で耐える気になり、決して先輩を恨んだり、また変な顔つきもしなかったと聞かされ、お前らも大きくなって軍隊に入ったら必ずあることだから参考までに話しておくという父の言葉でした。(p243・244)
 五月一日付けで陸軍兵長に進級すると同時に召集兵の教育係助手を命ぜられましたので、私なりの内務班教育をすることにし、同年兵にも協力をお願いしました。それは私的制裁のことです。このことについては入隊前に父からよく聞かされたことで、前述のとおりですが、父の言葉通り、否それ以上の制裁を、盛岡、満州での初年兵当時に受けました。しかし私は痛さ辛さに耐えるよう努力しました。
 軍隊は戦争に勝つために教育する言わば軍人養成学校であるのになぜ、殴る蹴るをしなければならないのか。私はじめ皆同じ意見だと思いましたので、このことを先輩にもお願いしたところ、先輩曰く「私的制裁は日本軍人の明治時代からの申し送りだ、弛んでいる者には幾ら言葉で言っても駄目だ。お前は今直ぐ任官する。もしフニャフニャした軟弱な兵隊にしたら、必ず日本が負ける。生意気なこというな」と怒鳴り声が返ってきました。
 これに対して私は「世代が違います、今の人間は話せば分かります。どうか私に任せて下さい。もし先輩が心配されるような気配が見えたら考え直しますから」と懇々とお願いしますと、「この馬鹿者、好きなようにやれ」と言い去りました。このことは班長の了解も得ると共に、逆に激励の言葉をいただきました。
 次の日、夜の点呼が終っても初年兵と召集兵がベットに入ろうとしない。床についても毎晩恒例の「起床!」と怒鳴る声に起床させられ、説教と同時にビンタ等の私的制裁を予期してのことだろうと思いました。そこで「今晩からは点呼が終って、班長からの伝達等が無い限り、直ぐベットに潜り込むように」と話したら皆妙な顔して就寝しました。翌日からの点呼では、今まで縮みこんで整列していた彼らは伸び伸びとし、しかも笑顔がみられ安心しました。(p248・249)阿部(渋谷)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_242_1.pdf

 徴兵検査は昭和十七年で、甲種合格となり、翌十八年四月十日に大分の歩兵連隊第七中隊に入隊、その後、西部第十七部隊に転属となりました。 (p319・320)
 またある日の「飯上げ」の時、空腹に耐えかねて盗み食いしたことが見つかり、炊事場の上官から、炊事場の大きなシャモジで散々殴られたことが今でも忘れられません。
 さらに初年兵の務めでもありました先輩の靴磨きに因縁をつけられ、靴を首にぶら下げて各内務班巡りをさせられ、万年一等兵にこっぴどく悪態や罵声を浴びたことがありました。(p320・321)広瀬
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_319_1.pdf

 「味噌汁を沸騰させる奴があるか!」と殴り飛ばされ、「切り身の魚に水をかける奴があるか!」と張り飛ばされる、というように、いつとはなしに海兵団で、うろ覚えではあるが教育されていた料理の基本のようなものを思い出していました。(p341)藤井
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 私は海軍機雷学校を志望して第十期普通科水測術練習生として八カ月間の教育を受け、特に電波探知機による電波信号教育の訓練を受けた。少しでも信号が間違ったりすると、「海軍精神注入棒」で、全員の尻が真赤になるまでやられるのであった。このような厳しい訓練を昭和十九年一月下旬まで続け、卒業することができた。(p357・358)阿部
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_357_1.pdf

 ある日短艇訓練で私たちの分隊はビリになった。教班長に「第一教班長、食事用意よろしい」と報告したのですが、他教班は食事をしているのに私たちの教班長は食事にこないのです。「ビリになったので飯を食わせんのと違うか」とこそこそ話していると、教班長がしかめ面でやって来て、「短艇がビリだから夕飯抜きだ」といって帰ってしまった。他の教班長はニコニコしながらこちらを見ている。腹はグウグウ、しかし夕食でよかったと思いました。(p389)
 夜になり玄界灘は大時化となり、右にゴロリ、左にゴロリ。翌日はおだやかになり、揚子江を上がって一月三十日上陸、上海海軍特別陸戦隊に入って現地教育を受けました。気候は、三寒四温で寒い朝は弱りましたが、訓練は学校の教練の時間に習ったことばかりで、陸軍と同じで苦にはならなかったのですが、対抗ビンタや風呂場からの匍匐前進などもさせられ、四月十五日で新兵教育は終わりました。(p390)谷口
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_389_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年五月一日、横須賀第二海兵団へ海軍二等整備兵として入団しました。・・・
 国家のためと気負い込んで、また憧れての入団でしたが、翌日からの新兵教育の厳しさには驚きました。どこまでが教育で、どこからが私的制裁か区別無く殴られながらの毎日でした。・・・
 九月二十二日、第二十四期普通科兵器整備術練習生として千葉県館山の近くにある州崎海軍航空隊に転属を命ぜられました。・・・こちらへ入隊しても、また殴る蹴るの制裁がひどくなりました。(p440・441)中村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_440_1.pdf

 中部第四十九部隊の留守部隊で、兵庫県青野ケ原にある「戦車部隊」でした。入隊翌日に全員に任務部署が割り当てられました。そして第一番に戦車搭乗員が選出され、自分は自動車免許証所持者でしたので一番先に指名されました。次いで自動車要員(歩兵訓練)及び後方段列(弾薬・糧秣輸送)等々でした。
 戦車搭乗者教育を受けることになり、あの鉄の箱の中で、身動きひとつできない状態での訓練は、大変厳しいものでした。自動車組も大変厳重な教育で、夜間内務班にて涙を流している戦友もいました。それは古年次兵の私的制裁によるものでした。その点、自分のように戦車乗りには比較的寛大(依贔屓)だったと思われました。三カ月の教育期間だけだ、「辛抱」して帰るのだと戦友達で話し、一生懸命訓練に精励しました。(p295)藤田

 部隊名は満州第九四四部隊で、部隊長は高森大佐、中隊長は堀中尉、私の内務班長は徳永軍曹で、五十人は五人ずつそれぞれの内務班に配属されました。・・・(p310)
 寝台に坐らされた私達に、内務班勤務の上等兵から班長殿はじめ古兵の紹介があり、種々の注意や説明が行われました。こうしていよいよ軍隊生活が始まりました。この日から炊事当番、不寝番、昼間の軍事訓練、夜は軍人勅諭の朗読、暗誦が始まり、間違えればびしゃり、返事の声が小さいとまた殴られ、古兵の怒鳴る声、八時からの点呼の時間の厳しさが毎夜続きました。私は青年学校で訓練を受けておりましたので仲間の人より叩かれることも少なくてすみました。私達は三カ月間山砲の特別訓練を受けました。
 軍隊の厳しさは覚悟して来ましたが、訓練の厳しさと古兵の厳しいしつけには、男涙を流すことも度々ありました。(p311)八山

 大村の歩兵第四十六連隊は、日露戦争時代から今日まで、歩兵部隊として、その精鋭さは評判の名門部隊でした。
 昭和十一年には満州東部国境に移駐し、関東軍の最強歩兵部隊として名声を博した部隊だから、訓練は厳しいぞと先輩から聴いてはおりましたが、入隊翌日から一月の寒い中、広々とした練兵場での教練は実に厳格でした。内務班での初年兵の大きな声での返事。一回、一回の申告。軍人勅諭の朗読。「馬鹿者!」と古年兵の叫ぶ声。次にはパンパンと叩く音、まさに男の世界でした。覚悟はして入隊はしましたが、その厳しさは予想以上でした。(p318)田浦

 馬舎より二百メートル位を早駆けで、点呼に間に合ったと思ったら服装検査、最後に軍靴の点検です。馬舎の作業後なので靴底に馬糞の付着しているのが見付かり、その軍靴を首に吊り下げ、各班を廻って申告してこいと命令で、三個班を廻って報告することもありました。
 食事当番は飯を盛り付けをする。下士官、班長、古年兵の順に盛り付けてゆくと初年兵の分が少なくなり、朝から腹ペコです。そして食事後はすぐ初年兵集合の命令が来るなど、これが毎日の繰り返しでした。(p370)三浦

 昭和十八(一九四三)年四月十日、戦争が激しくなる中で、福岡市の旧福岡城跡にあります歩兵第一一三連隊の補充隊に召集され入隊致しました。当時は南方作戦の激化の中でありましたために一期の検閲は三カ月期間が普通でしたが、私達は二カ月に短縮されました。それだけに訓練も厳しく、毎日二列に向かい合っての対抗ビンタで叩き合いました。入隊する時から覚悟して来ましたが、軍隊生活の厳格さは予想以上でした。叩かれ、男涙を流し、二カ月はあっと云う間に過ぎました。(p384)末吉
 
 自分は元の第三十一連隊であった北部第十六部隊第二中隊第五班に配属された。中隊長は金野中尉であった。新兵教育は翌日からであった。・・・
 三発を射った後何の指示もなかったので残りの二発をすぐさま撃った。撃ち方終わりと立つと「ビンタ」を二つ喰らった。往復ビンタである。突然のことで驚いた。五人が全員終了していない。自分が終了したら良いということは許されないと注意される。連帯行動が重視されるのが軍隊であると知った。しかし話より先にビンタとはこれも教練の一方法であると理解する以外になかった。(p436~438)熊谷

 私が軍隊に入ったのは、昭和十八(一九四三)年四月十日、久留米の野砲兵連隊へ初年兵として入営を致しました。(p416)
 次は内務班のことです。巷間伝えられるような苛酷な制裁、いじめはなかったが、内地にいる約三カ月の間、数回の対抗ビンタと称する初年兵が横一列に並んで向かい合い、前の者のビンタを取り合う悪い習慣を経験した。隣町出身の二年先輩の人で、中隊長の当番をしている、私を大事に可愛がってくれた人が、「ちょっとこい。あれを手伝え、これをせよ」と適当に隊内から外へ出してくれて、制裁、体罰、しごき等から外してくれて大変助かりました。何しろ、中隊長の当番が庇ってくれるので、誰も文句のつけようがない。(p417)久富

続私的制裁
 前に私的制裁を書きましたが、ビンタについては簡単でしたから少し詳しく書いてみます。まずビンタは手ばかりではありません。上靴ビンタ・帯たい革かくビンタ・編上靴ビンタ・銃じゅう床しょうビンタと、よくもまあ考え出したと思うくらいビンタの種類がありました。
 平手ビンタは頬がヒリヒリするくらいで軽いもの、ほとんどありませんでした。
 鉄拳(拳骨)ビンタ「足を開き、歯を喰いしばれ」と言われるとまずこれです。目から星が飛び散るほど痛かったです。ひどいと口の中が切れ血がでます。数あるビンタの中で一番多くいただきました。
 上靴ビンタ、上履きで叩かれるのですが、これが革でできていますから、頭がクラクラッとくるほど痛いです。
 帯革ビンタ、これは鉄拳ビンタ・上靴ビンタの上をゆくものです。上着の上に絞める厚い皮でできたバンドで叩かれますが、帯革の端が頬に当たると全身に激しい痛みが走り、頬はたちまち真っ赤に腫れ上がります。
 編上靴ビンタ、これはビンタの王様ですね。私は殴られたことはなかったが、気の毒で見ていられないほどです。体が横に飛ばされ、頬には靴底の鉄鋲(十三個)でへこみ、大抵口の中が切れ出血します。酷いと歯が折れます。
 銃床ビンタ、これはやられた同年兵から聞きましたが、銃の床尾板でゴツゴツとこづかれるそうです。勢いがつくと額が破れて血がタラタラと流れます。これは酷いと厳禁されました。
 対抗ビンタ、初年兵が二列横隊で向かいあい、お互い相手と殴りあうのです。寝食を共にし苦楽も共にしている相手ですから、自然に殴るのに力が入りません。すると監視している古参兵が「コラッ?きさまたち、お姫様やお嬢様のような殴り方をしやがって、殴ると言うことはこうするんだ」と、そばの初年兵を目の玉が飛び出るほど殴って見せます。そこで自分たちはお互い相手に「すまぬ」と心の中で謝りながら、力いっぱい殴るのです。対抗ビンタは精神的にも残酷なものと思っていました。
 とにかく私的制裁といってもこうして鍛えられて、一人前の兵隊になってゆくのです。古参兵たちも同じ道を経てきたものですから、苛めを主とした制裁は少なく、早く「やる気」を起こさせようとしてのことですから、相手の体に傷をつけないよう気を配っているように自分は思っていました。
 実は、自分はたった一度だけ鉄拳制裁をしたことがあります。部隊から九カ月間の通信関係の教育を受けるため派遣され、終了後部隊に帰ってきました。教育を受けているときは厳しい中にものんびりしたところがありました。自分の隣には初年兵がおり洗濯や掃除などをやってくれ、自分の初年兵のころを懐かしくも思っていました。
 班内は、のろまな初年兵に初年兵係上等兵が怒鳴り散らす。召集兵のおっさんがうろうろする。まったく騒々しい。その中で自分より半年後に入ってきた補充兵が上等兵になっていて、怒鳴り、殴るを毎日繰り返している。自分の隣の初年兵が殴られている姿を見てから、我慢の緒が切れ、わざと初年兵や召集兵が多くいる前で「おい、上田上等兵ちょっと来い」と呼び付けました。同じ上等兵でも自分が先任ですから威張ったものです。最初はおとなしい声で「おい上田、おまえな、ちょっとやり過ぎじゃないのか、見ちゃおれんぞ」といいましたら、「いやぁ、このくらいせんと如何んのですわ」との返事に、自分は声を荒げ「俺は見るに見かねて言っているんだ生意気言うな」と拳骨で往復ビンタを喰わせました。それから彼はおとなしくなりました。そのただ一度だけ。(p74~76)

 自分たち初年兵の衣服や手箱の整理整頓は特に厳しく、教練に出た後、週番下士官が銃剣術の木銃で、棚に整頓してある衣服や手箱をひっくり返していきます。そしてなお、敷布が少しでも汚れていると赤いチョークで大きな金魚の絵が書かれています。(金魚が水を飲みたい、つまり汚れているから洗濯せよの意味)こんなときは、もう大変です。ただでさえ忙しいのに余分な仕事が増えます。就寝して、しばらくしてからそっと起き出し、敷布をもって洗濯場に行きます。井戸からつるべで水を汲み上げ洗面器に入れて洗うのです。厳寒期の二、三月は鼻水をたらしながら洗うのですが、揉んでいるところ以外の水はたちまち薄氷が張って来ます。
 手は冷たさで、ちぎれるように痛み、アカギレの指からは血が噴き出して来ます。一分位するとたまらなくなり、股に濡れた手を挾んで強く揉み暖めます。それを繰り返しながら洗うのですが、やっと洗いは済んでも乾かす所がありませんから、寝台の藁布団と毛布の間に入れて、自分自身の体温で乾かすのです。寝られたものではありません。物乾場で干したものを盗まれて、員数合わせに泣かされたりで、どうしてこんな苦労をしなけりゃならぬかと、悔しい思いをしたことでしょうか。(p77・78)

 初年兵は時々、伝達ゲーム(当時は伝令といっていた)をさせられました。「本日我が軍は夜間、敵陣地に向かって切り込み突撃を敢行する」と一列に並んだ初年兵の小声で最初の者に言う。それを次々と伝えて行くのです。最後の者が大きな声で報告するのです。しかし最初の言葉とは全く違った意味の言葉になっていたり、違う言葉になっていたりで、対抗ビンタということになります。何回しても、きちんと報告できませんでした。(p79・80)河村

 私は、十七歳になったばかりの時に松山海軍航空隊第一期生に入りました。
 私の行った予科練、甲飛では、かなり叩かれ、かなり気合いを入れられております。予科練に入って還ってくるまでに三四〇~三五〇発、尻っぺたを叩かれております。それは海軍に行った人はよく分かると思います。ちょうど今の野球のバットと同じような棒が当たっております。ところが腰が脱臼したり、骨が折れたりしますか、と云うと、人間は気分が入ったら、それはしないのです。十六~十七歳の若者は、そういう訓練をしております。(p166・167)寺田

 南京から三千トン級の船に乗せられ、三日間で武昌へ着き、待っていた初年兵受領の下士官につれられ武昌からエツ漢線で汀泗橋に到着、鯨第二百三十四連隊第一大隊第四中隊に入隊致しました。正確には、第四十師団(鯨)歩兵第二百三十四連隊(連隊長戸田義直大佐)第一大隊(大隊長山崎幸吉少佐)第四中隊(中隊長山出政樹中尉)でした。・・・
 内地で受領した新品の被服は全部脱がされ、古いよれよれの物と取り替えられ、編上靴もピカピカの新品は取り上げられ、代わりに支給されたのは皮のザラザラの靴の中に釘が出ている古い靴でした。そこで毎日釘を叩いて、ひっこめて演習に参加していましたが、二週間位たつと左足の平と腿が腫れて痛くなり、大隊本部の医務室へ二週間の入室となって、漸く痛みもとれ退室して中隊へ帰りました。早速、班長から「気合が抜けている」とビンタの嵐でした。(p233・234)
 たまたま連隊本部から試験官が来て大隊から十五人の候補者が試験で選ばれ、さらにその中から五人の選抜の中に選ばれ、華容で二カ月の教育を受けることになりました。
 暗号教育の始まりです。いよいよ師団司令部へ出発するという前夜、申告をする段になり擲弾筒分隊長から注意を受けたことを私の小銃班長が怒り、イヤというほど地下タビでビンタをはられ、口惜しくてその夜は眠れませんでした。普段からビンタつりで有名な小銃班長でしたけれどあんなに叩かなくてもと腹が立ちました。(p235)菅野

 私は、大正八(一九一九)年、厚木市戸室に生まれ、昭和十四(一九三九)年十二月、甲府第四一九連隊第九中隊入隊しました。直ちに同年十二月二十三日、北支派遣により二十九日塘港上陸、河南省陽武にて初年兵教育を受けました。以降、冀南討伐作戦等に参加しました。(p284)
 六カ月の教育の間、同年兵にはいろんな人がおりました。博打ちもいるし沖の仲仕の人もいますが、これらの人とはすべて同列で、中で一人でも悪いことをすると全体責任として十三人全員が殴られる。それで気をつけないといかんということは、いつも心の中にあった訳です。ところが十三人の内務班の中で、班付上等兵が一人、班長が一人います。私の班の班長は、山形の魚屋さんで召集兵で、班付は一年先輩の上等兵、この二人が班についています。その二人の内一人は非常に育ちが良く温厚な方でしたが、ほかの一人、原田という上等兵は、地見屋をしていた人でした。
 殴るのはいいのですが、本人は笑いながらの教育をして、つい釣られて笑ったこともあるのですが、するとピンタが飛んで来る。酷い時には鋲付軍靴をスリッパにしたもので殴る。だから軍隊へ入るのだから歯を治しておかなくてはと治して軍隊に入って来た人も、ピンタで歯が飛び出したこともあると聞いていました。(p288)安藤
 
 昭和十五年六月二十五日、兵庫県加古川町の高射砲第三連隊に応召、入隊しました。・・・入隊前に噂に聞いた内務班の厳しさはそのままに健在で、私共新兵は苦難の毎日でした。当時はノモンハンの戦場帰りの古兵が威張っていて、毎晩上靴のカカト部分を握ってのビンタです。また洗濯物を干している間によく盗まれることがあり「よし!取り返してこい」と叱られるので、洗濯干場で盗みかえしたところを隣の班の見張りに見付けられて大失態。あっちで怒られこっちで叱られもう散々でした。本当にもう無茶苦茶な世界に入ったものだ。「とにかく辛抱辛抱。これを乗り越えること。一人前の兵隊になるのには並大抵ではない」と戦友同士いたわり合ったことを思い出します。(p420・421)吉川

 下関、釜山、山海関、杭州を経由して船や鉄道を乗り継いで中国浙江省金華に駐屯している第二十二師団歩兵第八十五連隊第三大隊第十一中隊清水隊に入隊しました。内地を出てから一週間目の一月十三日です。(p425)
 軍隊につきもののビンタは相当もらいました。初年兵で入った時には内務班には四年兵の一等兵がたくさん居りましたからシゴキは相当なものでした。学科の教育で軍人勅諭や各種操典の暗誦のできない者に対する罰は多種多様で目を覆う程でした。戦場における一致団結の精神を涵養する一方法だとの説もありますが相当疑問のある教育方法だったと思います。対戦車肉攻、対空射撃演習でも激しく鍛えられました。竹竿の先に凝製の手榴弾を縛り付け、古兵が天幕で造った戦車の模型に向かって砂利道に伏せて待ち伏せ、近づくと飛び起きて突っ込むのですが、タイミングが悪いと古兵に軍靴で蹴られる事もしばしばでした。(p427)長谷川

 私は山林業を主とした農家で八人家族の長男、徴兵検査官から「お前は泳げるか?」と聞かれたときに「浮かぶ位はできます」「そうか」と言われたので、あるいは海軍かなと予感した通りになりました。そして当時としては珍しく、大竹海兵団が創立されたばかりの時で、その大竹海兵団の第一期生として、まだ兵舎の壁が半乾きでした兵舎に入団しました。親父から入団前に軍人勅諭を覚えるよう言われましたが、海軍は五カ条の御誓文をたまに言わせられた程度で、陸軍とは全く違いました。
 一教班十八人が十教班で一分隊となります。新兵だけが教練を受ける三カ月間は想像以上にきびしく、特にカッター訓練は掌と尻に肉ま刺めができてつぶれるまでやらねば海軍精神注入棒が遠慮なく見舞ってきました
 海兵団の対岸にある宮島までのカッター競漕は一位になった班だけが食事にありつけるもので、他の九班には欠食という罰が待ち受けていました。それで月一回のカッター競漕は恐怖の的になりました。精神注入棒の他にロープを海水に浸したやつで尻を叩かれると棒以上に痛くて、愛知から来ていたお寺の息子は、そのロープで叩かれ、動けなくなって病院に入院してしまいました。「歯を喰いしばっれ!いくぞ!」の声と共に叩かれ、終われば「有難うございました」を言わねばまた叩かれる。風呂では青黒く腫れた尻の陳列で異様な光景でした。(p494)梶本

 私は、昭和三(一九二八)年一月五日、香川県さぬき市津田町津田で生まれました。海軍少年兵に志願して、昭和十八年七月一日、佐世保の「相の浦海兵団」へ入団しました。当時十五歳でした。そして十カ月間、特別教育を受けました。
 海軍の軍隊生活は予想以上に厳しい毎日の連続でした。何と言っても朝早く起こされるのが一番つらかった。叩かれることは挨拶と一緒で叩かれました。海軍はバッタでやられました。「軍人精神注入棒」で皆さん一緒だと思います。苦しい毎日を生き抜いて、一人前の軍人になれると信じて懸命に頑張りました。(p452)風呂
 
 昭和十九年五月十五日、多勢の見送りの人々に見守られながら、「御国の為に頑張って参ります」と勇ましく郷土を出発し、相浦海兵団に入団した。
 入団前から海軍の規律の厳しさと言うものは先輩の方からも聞かされていた。何事も絶対服従だと、びくびくせずに腹をきめて入団第一夜を過ごした。第二日目の昼頃だった。一人の兵隊が「ガラス」を破ってしまった。この者は「自分が破りました」と素直に言わなかったため上官の気分をそこね、そこにいた兵隊八人に「ビームにぶら下がれ」と言われた。「ビーム」とは吊り床を吊る鉄の鍵である。
  ぶら下がっている者の中で腕の弱い兵士が一番先に落ちた。「貴様はたるんでいる」と言いながらバッターを取り出し、「向こうをむけ!」「両手を上げろ!」と命じて、バッターを持って尻を二回程打った。打たれた兵士は、うなるような声を出して痛そうであった。そして上官は他の者に向かって「よーし下りろ、みんなようく聞け、お前達はこれから言うことを聞かないとバッターで思う存分打ってやる。一人二人たたき殺しても一銭五厘のハガキ一枚で来ているんだ。言う事を聞かないとたたき殺すぞ」と威嚇した。あとでそのバッターを見ると「海軍精神注入棒」と書かれていた。(p445)渡部

 同年十二月一日付で西部第五十一部隊、姫路第十師団野砲兵連隊・第四中隊四班(中隊長片山中尉)に入隊。一〇センチ榴弾砲の挽馬部隊であった。・・・
  内務班教育は舎外訓練以上に初年兵には厳しい。自分の身の廻りは勿論、二年兵(モサ)の世話、銃器の手入れ、班内の整理整頓、何一つ欠けても古兵殿の「イビリの対象」となる。それを軍隊では「気合を入れる」といって幾通りもの「ペナルティーの手法」がある。「ミンミン」「自転車」「寄っていらっしゃい」「三八式歩兵銃殿」「対抗ビンタ」と名称が付いていて、二年兵のリードで毎晩各班で競って行われるのである。
  一番矛盾を感じたのは「対抗ビンタ」だ、初年兵同士が向かい合って頬べたを張り合うが、二年兵が監視していて、良い加減にはできず、段々と真剣に殴り合いになる。奥歯を嚙み締めて眼をつむりながら(心の中では共に赦せると)まるで喜劇であり、かつまた悲劇そのものだった。脱落者のほとんどは、これらの制裁によるもので、我が中隊でも、一人放馬(営内から脱走)、一人自殺者が出たのである。(p476)柏井

 昭和十七(一九四二)年四月、私は現役兵として福井県鯖江歩兵第百三十六連隊砲中隊に入隊しました。鯖江歩兵第百三十六連隊と言えば、古くは日清・日露の戦争でも日本国に鯖江第百三十六連隊有りと名を轟かせた強力な連隊です。その平素の訓練教育の厳しさは入隊しなければ分からない。
 初めて経験するその無情の私的制裁、それは個人の失敗が結果的に全員の責任となり、思わぬビンタが飛んでくる。そして二、三カ月は一体何が原因で叩かれるのか悔しくて、床に入っては何度も泣き腹が立ちましたが、ただ我慢また我慢でした。(p116)松塚

  昭和十五年一月十日、京都深草の第十六師団の野砲兵第二十二連隊(現在、跡地は警察学校になっています)第十中隊に入隊しました。
  当時の師団長は有名な石原莞爾中将でした。私的制裁については特にきびしく禁止するよう命ぜられていました。
  三カ月後の一期の検閲めざして教練が開始されると同時に、内務のきびしい「しつけ」が始まりました。古年兵は奈良、兵庫出身が三年兵、三重、滋賀、奈良出身が二年兵でした。石原師団長の私的制裁禁止も表向きで、初年兵は教育という「しつけ」に泣かされる毎日でした。「鶯の谷渡り」「対抗ビンタ」「軍人勅諭の暗誦」「戦陣訓の暗誦」等々でした
  ある日の朝食を前に、二年兵が「ちょっと待て!」と二人で食卓を持ち上げて引っ繰り返し、私たち初年兵は欠食の上、跡片付け掃除をやらされ、食缶返納を駈け足でやり、教練整列の上、空腹抱えての早駈けには全く参りました。
  また食事当番で、炊事場前で食缶返納のための食缶洗いの最中に、残飯を手ですくって食べた初年兵が見付かり、炊事兵(万年一等兵がいた)にビンタをとられた事もありました。
  一番困った事は古年兵の洗濯物を洗って、乾かし場に乾かしていた洗濯物が誰かに盗まれた時は本当に困りました。古年兵に「盗まれました」と報告すると、ビンタを五、六発喰らったあと「盗られたら盗り返してこい」とどやされました。散々いじめられた末に員数外の物で補充してくれましたが、軍隊の不思議な一面を思い知らされたものです。
  また、ある日、陣営具倉庫(兵営生活上の用具を格納する)の掃除の使役に出ましたが、掃除の仕方が悪いと係の上等兵が怒り出し、初年兵を並べて台の上に立ってホーキの柄が裂けるまで兵の頭を叩くのです。台の上から叩くので兵の後頭部に当たり、その痛さに悲鳴が出るほどでした。洗濯物乾し場で盗られますと員数が不足で内務検査が通りませんので、他から盗んでこなければなりませんが、盗むところを見付かったらそれこそまた大変なことになります。初年兵では何とも策がありません、死ぬ程叩かれて勘弁してもらう以外ありませんでした。
  酒保には甘味品等が売ってありますが、そこは古年兵が占拠していて、初年兵が入っても売り切れで買う物がありませんでした。(p353・354)西村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_352_1.pdf

 入隊先は満州国の新京(長春)にある部隊で、固有名は関東軍第十二特殊無線隊で、秘匿名は満州第四九四部隊でありました。大連経由で新京に到着、南嶺にある部隊に着きました。
 部隊長は松岡隆少佐で工兵出身の方でした。部隊は二個中隊編成で、兵隊は三年兵が九州の炭坑夫上がりが主で、ノモンハン帰りの兵隊もおり、筆舌につくせない私的制裁に泣かされました。同年兵は皆、高等学校卒以上で理工科や通信技術者がほとんどでした。(p334)平野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_333_1.pdf

 父は福島県郡山駅まで見送るとのことで同乗しましたが、これまで二人共働きづくめで、旅に出ることも無かったので、父と別れてからどのようにして乗り継ぐのか分からなかったのですが、多少の予備知識が役立ち、「指令」通りに東部第五十二部隊(第九連隊)第三中隊(隊長小林貞治大尉)に無事入隊、陸軍二等兵となりました。
 体格が貧弱でしたから通信、駄馬隊の教育ではほめられたり叱られたりで、ビンタを喰うのが日常茶飯時のことでした。(p279)松川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_278_1.pdf

  十二月十二日、山海関通過、途中、班長から気合をかけられました。南京浦口から揚子江(長江)を遡航、船中で下士官ばかりの部隊と同乗しましたが、欠礼したとかで初年兵が下士官からビンタの洗礼を受けました。班長から「内地から来たばかりの新兵で、敬礼の仕方も教わってない状態なので何とぞ勘弁して欲しい」と謝ってもらい、一件落着したこともありました。(p274・275)上野

  昭和十七年十月十日、広島から中国呉松に上陸、十一月中旬、湖南省京山県に駐屯する迫撃第一大隊(永田部隊)に到着しました。・・・
  過去を振り返ってみて兵隊の時代に一番苦労というか切なかった事と言えば、私が一選抜の上等兵になって間もなく熱帯熱マラリアになり、四〇度の熱が出たので班長に「清水上等兵、熱発のため診察をお願いします」と頼んだところ、班長が「清水!貴様一ペンでも俺の所へ食事を運んだことがあるか!洗濯をした事があるか!」とビンタを喰わされました。勿論診察の申請は却下されました。余りの口惜しさに便所に駆け込んで泣きました。
  実は同年兵の一人が、班長への点数を上げようとして、班長の世話を独占していたので、他の兵隊は「班長の世話はあいつにまかせておけ」という状態になっていたのでした。私の診察はそういうことで班長には断わられましたが、衛生兵(六年兵)が申請してくれたので、そのお陰で診察を受けられ、入院し、大事に至らず治りました。班長は「えこひいき」が激しいので評判は悪く皆から敬遠されていました。(p234・235)清水

 翌年の昭和十九(一九四四)年六月十三日、群馬県の沼田の迫撃砲第一連隊に「入隊すべし」と教育召集令状を受け取った。・・・
 新兵の教育係は優しくて理知的な人だったが、軍隊のしきたりがあり、時には注意して殴ったり、またこんなこともあった。班内の防火用水に煙草の吸い殻が捨ててあり、初年兵を集めて「誰が捨てたか名乗り出よ」ときつく言われたが、誰も返事をしない。そのうち一人が「私が捨てました」と申し出た。「よし、お前は列外に出よ」と言い、残った全員に「歯を喰いしばれ」と、革のスリッパでビンタを取られ(殴られ)たこともあった。(p267)村井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_266_1.pdf

 武山海兵団より静岡県新居市の浜名海兵団にて新兵教育を終了しました。私共の教班長が人柄が良かった人で、大変助かりました。噂に聞いた数々の無情な苦痛を伴う制裁や躾は行われず、今から考えても苦労の種は無く、有難い事と感謝をするばかりです。
 勿論、海軍特有の精神修養棒はありましたが、直径が大きく、尻に当たった時の衝撃も緩和され助かりました。(p500)小檜山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_500_1.pdf


皇軍実戦における日本刀の能力記録

百人斬り事件に関連して、「日本刀は二、三人切ったら使い物にならなくなる」といった類の説があるが、本当だろうか。
以下、海軍大佐小泉久雄「 日本刀の近代的研究」昭和8年3月10日発行 の付録p23~26より抜粋するが、日本刀は物にもよるがそれなりに切れる、あるいは二、三人切った位では大丈夫なものがある、といえそうだ。


左に今回の上海事変に於ける我海軍陸戦隊将士の軍刀実用の成果並に之が改善意見を添記する。(本資料は剣友海軍砲術学校教官工藤海軍中佐より与へられたるもの)
一、軍刀実用の成果(表)
日本刀の近代的研究
   


兼定
長さ
尺寸
二―三―〇
反り 二、三分





切りし数


個所
肩一、 切れ味
突撃の瞬時二た太刀にて袈裟掛に切る、敵綿入を着用せしと片手打なりし為、完斬とは云ひ難かりしも間も無く死す。
首一、 切れ味
即死せしも完刎に至らず。
刀身の故障及其の原因 (一)物打辺より上方僅に湾曲せる如し。
(二)物打付込に長さ約一寸に亘り極めて浅き刃こぼれ。
(三)中央より少しく上方に深き刃こぼれ一個所。
(四)中央棟より鎬地にかけ敵の銃剣による切込み疵一個所。
所見及記事 制式軍刀の柄を、両手握りに足る程度に普通より長くせり。
深き刃こぼれは、敵兵の装具又は銃器等の金具に切り付けたるものならん。


兼正
長さ 二―三―〇
反り 六分



切りし数
個所
切れ味
極めて良。
刀身の故障及其の原因 なし。
所見及記事 夢中にて明瞭には記憶せざるも、手ごたえなく良く切れたり。
制式軍刀の柄にて稍短かく感ぜり。


兼利
長さ 二―三―〇
反り 二、三分







切りし数




個所
頭蓋骨一、 切れ味
抜打にて即死。
首三、 切れ味
一、は完刎。
二、は首ぶら下る。
肩二、 二た太刀にて絶息。
不明二、
刀身の故障及其の原因 横手下に大なる刃こぼれ一個所。
物打の下方約三寸計りに亘り刃こぼれ数個所。
所見及記事 刃こぼれは頭を斬りしとき出来たるものならん。
日本刀の拵の儘なりし為、活動中の敵なりしも、斬りたる後刀身に曲りを生ぜず。
一尺八寸位の刀が使ひよし。 

軍刀
兼勝
長さ 二―一―〇
反り 七分




刃味
切りし数



個所
左袈裟一、 切れ味
・右乳下迄達せり。

刀身の故障及其の原因
・袈裟掛は頭より手ごたえ無し。
左こめかみより右斜に頭一 刀身の故障及其の原因
・此のとき中央より稍上部に刃こぼれ一個所出来たり。
所見及記事 日本刀拵の儘使用す、後中心を検せしに鎺付近にて少しく曲れるを発見せり。

軍刀
和泉守
来金道
長さ 二―四―〇
反り 五分



刃味
切りし数

個所
右袈裟二、 切れ味
・極めて良好。
首一、 一刀にて見事に完刎。
刀身の故障及其の原因 袈裟切のとき少しく刃こぼれを生ぜるも、其の後切れ味変らず、極めて良好。
所見及記事 日本刀拵の儘使用し、突撃時にて手元多少狂ひし為、二人目の袈裟切にて刃少しく曲る。

軍刀
大永裏銘、
備前盛光
長さ 一―八―〇
反り 七分半

刃味
切りし数
個所 切れ味
・片手にて首四分の三斬る、刃味至極良し。
刀身の故障及其の原因 異状なし。
所見及記事 日本刀拵の儘。

軍刀 無銘備前高平折紙あり
長さ 二―一―八
反り 四、九分

刃味
切りし数
個所 切れ味
・切れ味至極良好にして首約四尺飛ぶ。
刀身の故障及其の原因 異状なし。
所見及記事 制式軍刀拵。

軍刀 備前長船
長さ 二―四―五
反り 不明

刃味
切りし数
個所 切れ味
・切れ味相当。
刀身の故障及其の原因 異状なし。
所見及記事 日本刀拵の儘。

軍刀 備前、長船佑定
長さ 二―一―〇
反り 不明








刃味
切りし数






個所
左肩より袈裟一、 切れ味
・右乳の処迄。
腕一、 切れ味
・完切。
右脚上部一、 切れ味
・斜に完切。
首三、 切れ味
・見事に完刎。
腰車一、 切れ味
・約三分の一切る。
刀身の故障及其の原因 何等異状なし。
所見及記事 想像以上に日本刀の切れ味良きに感心せり。
人体に骨ある如き手ごたえを覚えず。

軍刀 相模守国綱
長さ 二―三―〇
反り 一分


刃味
切りし数
個所
切れ味
・首殆んど切れ約五分厚位残る。
刀身の故障及其の原因 物打の四、五寸下より約一尺計の間に刃こぼれを生ぜり。
所見及記事 日本刀拵の儘使用。

軍刀 綱広
長さ 二―四―〇
反り 五分


刃味
切りし数
個所
切れ味
・何れも手ごたえ無き程度に完刎。
刀身の故障及其の原因 物打付近に少しく刃こぼれ生ぜり。
所見及記事 日本刀拵の儘使用。
切れ味予想以上なり。

軍刀 村正
長さ 二―三―五
反り 五分


刃味
切りし数

個所
首より肩にかけ二、
腹部刺突二、
切れ味
・切れ味予想以上。
刀身の故障及其の原因 異状なし。
所見及記事 制式軍刀。

軍刀 河内大掾正広
長さ 二―四―五
反り 五分


刃味
切りし数
個所
後頭部横斜め 切れ味
・約三分の一横に切込めり。
刀身の故障及其の原因 切先より刀身の約三分の一及同三分二の処に横に折れ目を生じ使用不可能となれり。
所見及記事 本刀身は表裏に樋ありし為強味足らざりし為ならん。
(寛文三年裏銘あり)

軍刀 肥前吉国
長さ 二―四―〇
反り 五分半


刃味
切りし数 四二

個所
後頭部横斜め主として首其の他各部 切れ味
・切れ味至極。
刀身の故障及其の原因 何等異状なしと雖、骨を切りしときの痕かと思はれ刀身の物打の部に白らけて見ゆる部あり、
所見及記事 数本の日本刀による切れ味に比し極めて良好なり。

軍刀 吉宗
長さ 二―二―〇
反り 不明

刃味
切りし数
個所
切れ味
・肉一寸位残る。
刀身の故障及其の原因 刀身中程より上部約二寸位の間刃こぼれを生ず。
所見及記事 新刀元禄頃のものか。

軍刀 加州 清光
長さ 一―七―九
反り 三、八分

刃味
切りし数 数人
個所
頭部、首を斜めに 切れ味
・切れ味極めて良好。
刀身の故障及其の原因 鋒より五寸位の処に刃こぼれを生ぜり。
所見及記事 白鞘の柄に糸を巻き使用に便す。

軍刀 源 良近
長さ 二―二―六
反り 六分半



刃味
切りし数


個所
首一 切れ味
・皮一枚残り頭前に落つ。
首前より抜打 切れ味
・半分切れたり。
刀身の故障及其の原因 抜打ちの際、物打二ケ所ふくら一ケ所、鋒先端一ケ所刃こぼれを生ず。
所見及記事 制式軍刀の柄に木綿裂を二重に巻く。
刃こぼれを生ぜしは突嗟の場合切り方不如意による。

軍刀 無銘
長さ 二―五―一
反り 五分


刃味
切りし数
個所 後頭部 切れ味
・約三分一切れたり。
刀身の故障及其の原因 切先より約五寸の間に無数の刃こぼれを生ぜり。
所見及記事 日本刀拵の儘。

軍刀 無銘
長さ 一―九―〇
反り 不明


刃味
切りし数

個所
首三
外袈裟掛
唐竹割等。
切れ味
・切味相当。
刀身の故障及其の原因 鋒より四寸位の処深さ最大一分最小二厘位の刃こぼれ数ケ所に生ぜり。
所見及記事 日本刀拵の儘。
充分直さゞれば其儘にては実用覚束なし。

軍刀 無銘
長さ 二―三―〇
反り 六分



刃味
切りし数


個所
首一 切れ味
・十分の九切れ下る。
同一 切れ味
・完刎約三尺飛上る。
刀身の故障及其の原因 中央部刃二三個所刃こぼれを生ず。
所見及記事 日本刀拵の儘。

軍刀 新村田刀
長さ 二―二―〇
反り 五分

刃味
切りし数
個所 首斜上方より切下ぐ 切れ味
・日本刀殊に前記清光に比し切れ味不良。
刀身の故障及其の原因 鋒下三寸位より刃の方に曲り、後直して鞘に納めたり。
所見及記事 日本刀に比し刀味、丈夫さ劣ること大なり。

軍刀 新村田刀
長さ 二―三―〇
反り 不明


刃味
切りし数
個所 首二
袈裟一、
唐竹割一、
切れ味
・何れも切れ味割合に良し。
刀身の故障及其の原因 切先より六寸位の所に深さ八厘位の刃こぼれ、唐竹割のとき鋒より五、六寸の処に刃こぼれ及刃部にまくれたる処四ヶ所を生ぜり。
所見及記事

軍刀 新村田刀
長さ 二―二―五
反り 四分

刃味
切りし数
個所 切れ味
・良好
刀身の故障及其の原因 鋒より七寸位の処にて曲りを生ぜり。
四人位迄は刃味変わらず。
鎺元曲る。
所見及記事 鎺元曲れる為護拳がたがたとなり後端はずれ使用上甚不便なりき。

軍刀 新村田刀
長さ 二―一―〇
反り 五分



刃味
切りし数


個所
首一、 切れ味
・気味良く切る。
頭蓋骨一、 切れ味
・相当の手ごたえあり。
刀身の故障及其の原因 二個所に多数の刃こぼれを生じ、頭蓋骨を切りたるとき刃の方に曲れり。
所見及記事 曲りたる為鞘に納まらず。

特攻隊は志願・指名(命令)どっちだったのか

以下、志願ではなかったと読める証言例

 その年の七月、福岡の自動車試験場で運転免許を取得する。さあこれからバスの運転手だと、大喜びしたのも束の間、十日も経たないのに一銭五厘のハガキで入営通知が来た。腹が立つやら情けないやらで夜も寝られず、残酷極まりないと、歯ぎしりしたが仕方がないと思い、これも御国のため、滅死奉公だと考え、その三日後、熊本県水俣の暁第一六七六〇部隊に入隊した。
 入隊当日はいろんな手続き等、古兵が優しくしてくれた。軍隊とはこんなものかと思いきや、「お前達は今日から陸軍船舶二等兵である。お前達の身に着けいる軍装品は皆、恐れ多くも陛下がお貸しくだされた物である。絶対に粗末にすることは相ならん」と厳しい訓示である。翌日から起床と同時に左右の古兵六人の世話、食事、演習、教練、手旗信号、海上訓練と日々休む間もない猛訓練の明け暮れであった。
 三ヵ月の訓練、検閲を終え、陸軍一等兵に昇進、間もなく、我が部隊も南太平洋方面に出動する命令を受けた。日本海、東シナ海を南下することは分かっていたがどこへ行くのか見当がつかない。ダイハツ舟艇(上陸用)には七隻の舟艇を積んでいて、その舟艇は二人乗り組みで舟の先端に爆雷を抱え、敵艦へ全速八〇マイルで近づき、前方五〇〇メートルでエンジンストップ、その惰力によって敵艦にぶち当たり沈没せしめる。言うなれば人間爆雷艇である。戦況は著しく我が方に不利、元々海軍の仕事であるが海軍に任しておれぬと、陸軍が肩代わりした部隊である。戦艦「大和」が沈没し、いよいよ我々の出番になった。
 着いた所は南西諸島の与論島であった。(p126・127)

 帰った途端、懇ろにいたわってくれるどころか、「お前らは死に場所の戦場に行きながらみすみす死に損ないである、本日より食事当番を命ずる」と、帰ったのが不足そうに言われる始末。(p128)米重
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_124_1.pdf

 こうした教育期間のある夜、区隊長から喚問がありました。何事かと案じて伺ったところ「手銭候補生は次男となっているが?」との問いに対し、私は「戸籍上は次男となっていますが、長男は夭逝して実質上は長男です」と答えました。区隊長のお話によると挺進特攻隊要員の選考中だとのことでした。挺進特攻隊は四船艇で敵の艦船に近迫し、爆雷攻撃が目的の特攻隊であり、中隊から十人ほど選考され、私は除外されました。この特攻隊は沖縄、比島戦で実施されましたが、敵艦船に近迫するまでに撃沈され成功例は少なく、後は斬込隊に変わった者が多くいました。(p31) 手銭http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_028_1.pdf

 それからも飛行機訓練を続けておりましたところ、ちょうど昭和二十年二月二十日頃、内地が危なくなったので貴様らは全て特攻隊要員として内地へ帰れという命令が出たのです。私らは台南からフィリピン方面へ転勤すると思っていたのですが、ここで内地へ帰れいう命令でした。(p578)小峠http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_575_1.pdf

  数日後、豊橋海軍航空隊に配属となり、豊橋基地にて勤務をしておりました。同年七月、再び横須賀海軍水雷学校に転勤になりました。ここでは海軍第一震洋隊特別攻撃隊、父島方面特別根拠地隊、大蝶部隊が編制されておりました。総勢一八〇人で、北は樺太、南は沖縄まで、各県よりの集まりの部隊です。お互いに言葉が良く分かりませんので苦労致しました。
  第一震洋隊とはどんな攻撃隊か知りませんでしたが、夜になると毎日のように軍港で出撃訓練です。よくよく見ればベニヤ板の小さな舟でした。舟の長さ五メートル、幅が二メートル位で、前部に二五〇キロの爆弾を搭載して、敵艦に体当たりするとは、何とも理に合わないことだと、私は心の中でつぶやきました。それでも国のためと皆頑張っておりました。この小さな舟は◯四艇と名付けられておりました。(p187)菊地
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_186_1.pdf
 
  昭和十九年一月、「神雷部隊」第七二一海軍航空隊が開隊された。この部隊は、戦局を挽回する作戦部隊で、人間ロケット爆弾「桜花」を主戦兵器とした特別攻撃の専門部隊であった。全国の練習航空隊の教員や戦地実戦部隊より「桜花」搭乗員を集めたもので、詫間空からは、甲飛第十二期の吉田稔君と私が行くこととなり、別れに司令より短冊を貰った。
  その短冊には、惜別の詩が書いてあった。
『神のます琴平山の松風に声うちそぶる空の神兵』
とあった。
  横浜まで二式大艇で送られるという破格の待遇であった。特攻隊員を出さざるを得ない苦衷の配慮だったと思う。保田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_162_1.pdf

  過日、航空本部の高級将校が来て、B29最初の来襲に際し、体当たり戦闘隊募集に「熱望」と書いた我々は残り、「希望せず」と書いた者が先に行かされました
 その後昭和二十年二月末、壬生教育隊は閉鎖され、最後まで残った教官十人のうち我々五人は、仙台霞の目飛行場に転勤させられました。そして数日後、特攻隊の募集があり、今度は再び「熱望」 と書いた私と大塚少尉の二人が隊長室に呼ばれま した。
 そして「現在教育中の部下から操縦成績優秀な者を四人選び、六人編成で二隊編成せよ、追加の将校二人は後日指名する」とのことで、霞の目基地最初の特攻隊として翌日から凄絶な特攻訓練が 開始されました。
 私の隊と大塚少尉の隊が仙台市霞の目基地最初の特攻隊として編成されたのです。約二週間後、 今度は希望を聞くことも無く、指名で後続の六隊が六人編成で組織され、八隊四十二人が残留し、 主力の約百人は北海道八雲基地に移駐しました。 残留特攻部隊は足立大尉を隊長として連日、日夜を問わず猛烈な急降下体当たり訓練が続行されました。(p586・587)中丸
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_582_1.pdf

その後、南方方面の搭乗員は全員特攻要員とな りました。そのうちボツボツと内地帰還命令が出 て帰国しだしました。つまり本土決戦のために特攻要員として帰るのです。(p560)小林 
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_557_1.pdf

  機付長もいなくなって一カ月近く過ぎていたが、 整備隊長、機付長から何等の命令もなく、機付兵 の任務を田中君と二人で全うしていた。沖縄本島が玉砕したとの報を本部通信兵の上島兵長より聞 き、いよいよ本土決戦が近いことが身近に聞こえ てくる。」操縦士は総て特別攻撃隊に編成され(待 機特別攻撃隊・振武一七五~一七八隊)に編成さ れていることを知ったのは八月初め頃だったと思う。(p279)佐野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_275_1.pdf

三月初めには特攻隊の話が出ました。三月十日、特攻隊の編成が始まり、私も特攻隊員に任命されました。藤川大尉が隊長で「藤川特攻隊」が編成される。来るべきものが来たという気持ちで特に考えることもありませんでした。同期の鈴木と同じペアで戦えることも良かった、と思いつつも特攻隊員となっても何も変る事もなく訓練に励みました。一人でいると特攻のことを考えるので熱中できる事を、いろいろ考えます。酒もタバコも自由でした。(p421・422)浅野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_420_1.pdf

  ここで、次のような諫早の司令の訓示、「沖縄戦は終決し、いよいよ決戦はここ九州になる可能性が大である。ところで貴様達は本来所属すべき隊はここではなく、東京航空隊であるべきで、ここ九州の守りの部隊は間に合っているので来る六月三日をもって東京航空隊に転隊を命ず」と言い渡しがありました。・・・
  霞ケ浦分遣隊に到着後、私は中間練習機で特攻隊に編入されました。「中練特攻」これが私が特別攻撃隊になった時の乗るべき機種でした。・・・
  着いて翌日、一人一人中練機の前席に乗り慣熟飛行テストがあり、其の結果、私を含め二十五人が中錬特攻要員として飛行場の反対側にある朝日村に行くことになりました。(p162・163)安藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_150_1.pdf
同一人物の別の証言
  大村海軍航空隊諫早分遣隊から東京航空隊霞ケ浦分遣隊に転勤を命ぜられ、諫早に十五人(うち一人病死)を残して百五十人の者が隊門を出た。   ・・・
   「中練特攻」これが私が特別攻撃隊になった時の乗るべき機種で、台湾で散々乗り尽くした九三中練のことである。着いて翌日、全員飛行場に集まり飛行服を着せられて、一人一人順番に中練機の前席に乗り慣熟飛行テストがあった。その結果、私を含め二十五人が中練特攻要員として選ばれ、他の者はこれから開発される機種のために待機することになり、飛行場の反対側の朝日村に行くことになった。
  特別攻撃訓練は当初、昼間から始まり、薄暮となり払暁となった。霞ケ浦の飛行場は中央に指揮所と格納庫があり、周囲が草っ原でどこに向っても飛び上れる飛行場であった。(p125・126)安藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_125_1.pdf

 戦局はいよいよ南に北に厳しくなり、我が軍の不利が伝わるころ、水上警備隊の基地では斬り込み隊用の軍刀が製作されていました。乗艦する艦もなく、そこで二十五歳以下の独身者で特攻隊が編成されたのです。 名前は 「南天特別海軍攻撃隊」と命名されました。長さ六メートルの内火艇に二トンの爆弾を積んで暗夜に乗じて敵艦に襲撃を加えるのです。当時でも電波機器など優秀な兵器がある中で、まことに粗末な攻撃手段と思いつつも、統帥部の命ならばと頑張りました。(p101)畑
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_098_1.pdf

当時、村役場の兵事係であった父の命令で、私は進学を変更し予科練甲飛十三期として三保海軍航空隊(昭和十八年十月第一期生千百人)に入隊した。
 基礎過〔ママ〕程十カ月を終え、操縦専攻三十九期(峯山航空隊)として練習機で搭乗訓練、編隊飛行や宙返り等をマスターし単独飛行もOK(二十年八月)、次の実用機課程へ進学の運びとなっていた。
 時の戦局は米軍が比島を奪回し沖縄に迫りつつあり、連日、神風特攻隊の死闘が繰り返される状況となっていた。我々予科練生とほとんど同時期に入隊した予備学生十三期の多くは、基礎教育を短期で終了し、既に実戦部隊として特攻作戦に参加していた。
 相次ぐ飛行機の消耗戦の続くなか、軍部は遂に低性能の九三式練習機の参加を企画、我々がこの作戦に加えられることになった。 (p166)矢部
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_165_1.pdf 
同一人物の別の証言
戦局が切迫しつつあるので、すべての練習を止め、全航空戦力を特攻作戦に展開せよということである。
 峰空保有の飛行機にあわせて、特別攻撃隊員九十人が第一次選考された。・・・
 第二次編成の私達三十人は、山形県神町基地に着任した。直ちに特別攻撃態勢継続の通達があった。一部の者はロケット特攻機「秋水」要員に抜擢され「桜花部隊」へ転出した。(p502・503)矢部
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_499_1.pdf

私も昭和十九年七月、予科練の試験を見事合格、九月四日、岐阜垂井の美濃一宮南宮神社で武運長久のお守札を頂き、滋賀県大津市滋賀里の予科練、滋賀海軍航空隊に入隊しました。ここで昭和十九年九月から二十年三月までの六カ月間の基礎訓練を受けました。・・・(p647)

 昭和二十年三月、六カ月間の教育が修了し、全員の適性検査が有り、「操縦」と「偵察」に分けられて、それぞれ八個分隊に編成されました。「操縦」は操縦桿を握るだけ、「偵察」は通信連絡と爆弾投下等が任務で、私は「操縦」でしたが訓練用の飛行機は一機も有りませんでした。
 昭和二十年四月、宮津市の海軍航空廠水上飛行機修理工場に研修に行きました。ここで初めて飛行機に触れることができました。潮風にさらされ たプロペラを拭くくらいでしたが、整備に行った他の連中は電気系統や油圧系統等の重要部位の修理に当りました。それでも三カ月でしたが飛行機 に触れただけでも幸運でした。
 宮津の研修が終わり、七月横須賀の特攻隊、第七十一嵐部隊伏竜隊に配属されました。七月二十七日、滋賀里発、東海道線で大船で乗り換え、横 須賀久里浜の久里浜工作学校に着きました。本部は工作学校にあって、そこに寝泊まりして訓練を受けました。赴任の途中汽車の中から、一宮や名 古屋等、沿線の焼野原を見て空襲を知りました。「伏竜特攻隊」とはどんな隊だろう、選ばれた誇りと不安が入り交じった複雑な心境で、久里浜の 隊に行きました
 ここには憧れの特攻機も、船も無く、予想に反して潜水服を着て海に潜る訓練でした。海底工事に従事する人達が着用する潜水服姿です。海中は 冷えるので分厚いメリヤスの肌着を着て、ゴム製の潜水服、頭は鉄火面の様なヘルメットをかぶり、鉛の板草履に胸に鉛の錘を付けて、水深五~十メートルの「海底で伏したる竜の如く」待機し、攻めてくる敵上陸舟艇目掛けて竿に付けた爆薬を突き上げる。
 一人良く百殺、自分自身が秘密兵器「伏竜」であるわけです。海中で前後左右に、自由に行動するまでには大変な訓練が必要で、器具の使用法や 呼吸方法を誤ると死んでしまいます。訓練中にも多数の犠牲者が出ました。今思えば全く漫画的ですが、何の疑いも無く必勝を信じて訓練に励みました。毎日が死と隣合わせの訓練でした。(p650・651)川合
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_647_1.pdf

 それから私は旧国鉄の小倉工場の工機部旋盤の職場に配属されていたが、当時国が公募していた「陸軍船舶特別幹部候補生」を受験した。
 最年少の志願兵として、ひたすら純粋に国のためにと応募したものである。そして合格、中学三年生、十五歳の時であった。その日は寒風と共に雪が降りしきる冷たい朝であった。
 上陸した港は、『二十四の瞳』で今はすっかり有名になった観光地の小豆島土庄港、そこには我々若者を待つ、その名も若潮部隊があった。昭和二十年二月のことである。
 入隊式の食事に赤飯が支給されたと思ったら「こうりゃん」入りの飯であった。陸上訓練は当然ながら船舶兵科必須の手旗信号、機関学、気象 学、船舶舟艇の訓練などが寒風を突いて行われ、精神修養も合わせてなされた。
 やがて原爆の地、広島の沖合にある江田島の幸の浦の特攻教育隊に転属し、明日への生命も知れぬ特攻隊隊員として教育訓練を叩き込まれました
 私達の艇は「甲四型肉迫攻撃艇」と言い、船体はベニア板、エンジンは自動車用であった。これに爆雷を搭載し夜間敵の停泊地に侵入し、艦船に体当たり撃沈するという戦法である。
 軍秘上、連絡艇の頭文字をとって、「マルレ㋹」と呼んでいた。一通りの訓練を終え、本土決戦に備え、海上挺進戦隊として各地に展開していった。(p472・473)角谷
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_472_1.pdf

 昭和二十年三月、硫黄島、それから沖縄へ米軍上陸。私は下志津へ帰隊し、百式Ⅲ型に搭乗する。この時点で、第十飛行師団の全搭乗員は特別攻撃隊員となる。「神鷲隊」は沖縄特攻、「振武隊」は関東防衛である。「神鷲隊」の連中は、下志津で連日特攻訓練に徹す。訓練が終わった攻撃隊は六機編成で当隊から誘導機に先導されて、目的地に向かうこととなった。
 出陣が決定した隊員は個室を与えられ、出入口には御幣を張って、生き神様として処遇されたのである。私も出陣式に立ち合ったが、出撃に際し、特攻隊員は飛行場で別れの宴を張る。我が師団からの初めての出陣式には賀陽宮殿下、片倉飛行師団長も出席され、恩賜の酒と煙草が配られ、一人一人と挨拶を交わされ激励をされたが、その場の雰囲気はさほどの緊迫した悲壮感は無かったと記憶しています。(p480)柏井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_472_1.pdf

 そして「香港島へ上陸」との命令で上陸した時には上等下士官より、機関兵は「人間魚雷艇に乗るんだ」と命令されました。私の知っている方で、上等兵曹の田畠さんという方が、敵の軍艦に体当たりしました。敵艦は平気で沈みませんでしたが、田畠さんは戦死してしまいました。
 私は命令を受け人間魚雷に乗り込むべく待機して覚悟をして順番を待っていましたが、魚雷艇を積んだ輸送船が途中で沈没し、乗るべき魚雷艇が到着せず、待機待ちで終わった次第です。人の幸・不幸と生死は、このようにして変化したのでした。
 私も真珠湾攻撃した方と同じく特攻隊の一員です。・・・(p548・549)石川http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_546_1.pdf

 六月中旬、先任教員より突然「総員整列!」の号令が発せられた。一日の作業終了時を狙っての鶴の一声である。
 掘っている穴の上の台地の平らな所に集合。「誰かミスをしたのかな、久しくなかった罰直でも始まるのかな」と思いながら、指示通りの横一線に並んだ。今から何が始まるのか不安と緊張感が入り交った一刻が過ぎ、総員がそろったのを見届けた先任教員は、「内科で入室以上の診断を受けたことのある者は、帰ってよろしい」と口を切った。これで何人かは帰途についた。
 次にどんな言葉が出てくるのか、まだまだ緊張が続く。ついで「一万メートルを泳ぐ自信のある者は、一歩前に出ろ」。 こう言ってジロリと一瞥。常日ごろの鋭い眼差しが、今日は更に鋭さが増して見える。
 先任教員が、あまりにも唐突に、(一万メートルを泳ぐ自信)と言い出したので、私自信も咄嗟の判断に迷った。(この山の中で、泳ぐとは何事だ。一万メートルは泳いだ経験はないが、泳いで泳げんこともないだろう。それに、この山の中で 今すぐテストをする訳でもないだろう。海軍に入る前に、近くの海でタップリ遠泳したこともあるので、何とかなるだろう)こう断定しながら一歩前に出た。時間にして十秒ぐらいだったと思う。この問いかけに一万メートルを泳ぐ自信ありと、一歩前に出た者は十人余りだった。
 先任教員は、一歩前に出た者の顔を確認して、「前に出なかった者は、帰ってよろしい」と令を下した。「ワァッー」と歓声を上げ、一斉に山を下りて行った。残ってもろくなことのないのが、今までの通例であった。(あとはバッタか、前支え)の罰直しか残っていないからだ。まして鬼の先任教員の前から逃れるのだから、歓声を上げる嬉しさも理解できる。 「お前たちはよく残ってくれた。この中から特攻隊行きを選抜するから、後ほど教員室に来るように」と、手短に告げ解散を命じ、総員整列から解放された。(p119・120)中村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_111_1.pdf

 坂伍長を書いたので特攻に触れてみたい。これは戦争体験者にとっては避けて通れない命題なのである。
 坂伍長が我々の教育隊からただ一人特攻隊員に指名されたのには、次のような学校幹部の思いがあった。
 「栄誉ある最初の特攻隊員を拝命する者は、当校の最優秀候補生でなければならない」 (p193)

水野芳衛大尉(飛行第五十四戦隊所属、戦後航空自衛隊操縦教官)の述懐。
 「勇躍志願した者も、志願せざるを得なかった人も、生きて帰ってくる事のできない特攻という行為に、皆苦しんだに違いありません。・・・(p194)平野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_189_1.pdf


皇軍実態集 私的制裁(part1)

皇軍実態集 私的制裁(part2)
皇軍実態集 私的制裁(part3)

 約一週間して、姫路の野砲第五十一部隊より、朝鮮平壤の野砲兵第四十七部隊へ転属になりました。(p364)
 昭和十九年七月より昭和二十年一月までが新兵教育の期間でした。話によく出るビンタの件については、衆知の通りで、私も新兵相応の仕打ちを受けました。でもよく考えると、私の場合は皆の者より少ないと思って居ます。良い先輩に恵まれたお陰のようでした。知り合いの班長や将校がいるとの理由だったようです。馬の世話、ビンタと運のよい状態に恵まれて本当に幸運であったと感謝しております。(p365・366)樋口
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_364_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年徴兵検査を受け、第一乙種合格。昭和十九年四月一日、兵庫県丹波の篠山の中部第一一〇部隊へ現役入営しました。(p386)
 内務の方では、私達の同年兵に、Kと言う者がいました。ちょっと動作がノロいので一等兵のワル三人組の攻撃目標となり、可哀想に地下足袋の裏で叩かれて、頬が真っ赤に腫れ上がり見るも無残なことでした。軍隊はよく運隊とも言われます。K君は運悪く、運の弱い方になって気の毒でした。朝夕の点呼もあったのに、将校や下士官は一体何をしていたのかと他人の事ながら義憤を洩らす戦友も多くいました。ちょっとしたミスが出ると分隊全体のミスと認定され、ビンタ、対抗ビンタは始終のこと。まあそれ位なら辛抱せにゃ。(p387)西谷
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_386_1.pdf

 四月一日、我が町から五人が豊後森駅を出発し、佐世保海兵団に向かいました。海兵団での三カ月間の訓練は厳しいそのものでした。顔を叩かれ尻を叩かれ、口惜し涙を流すことも度々でしたが、志願して来た以上なんのくそと唇を噛みしめ頑張りました。(p439)武藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_438_1.pdf

・・・俺は九州男児、薩摩健児だぞと胸に刻み、新田原の西部第一〇一部隊の営門をくぐりました。
 私は第八中隊に配属されました。中隊長は森山中尉殿で、私の班は第二班で班長は原軍曹殿でした。説明を聞いて分かりましたのは、この部隊には第一中隊から第八中隊まであり、歩兵、自動車そして私の属する航空班と分かれて訓練されるとのことでした。歩兵が三個中隊、自動車隊が三個中隊、航空隊が二個中隊あり、入隊者が多かった理由が分かりました。
 入隊翌日から厳しい訓練が始まりました。九州男子の多い部隊だけに、気合が入り大きな声で叱り、叩かれるビンタの音、内務班での軍人勅諭の暗誦、訓練は九七式重爆撃機の巨大な整備訓練、話には聞いておりましたが、教育の厳しさは大変でした。敏速な行動、大きな声での発声と返答。男の世界の厳しさについて行くのに一生懸命でした。
 日曜日に面会に来た母は、私の手のひび割れを見て「こんなに手が荒れて」とやさしく撫でてくれました。「皆同じだよ」と答えました。自分の家では何一つ水仕事をさせられたことがなかっただけに、びっくりした顔でした。持参してくれた餅は、毎日腹をすかしている私には何よりも嬉しい贈り物でした。ここで食べると分けてやらねばならないので、私はお礼を言ってそっと食べるそのおいしさ、食べながら母の温かい親心に感謝しました。
 毎日叱られ叩かれ三カ月の教育訓練はあっと言う間に過ぎました。(p455)

十八日には、アメリカ軍がさあーっと飛行機で飛んで来ました。流石に早い。上官との話し合い が始まり、私達は身の廻り品を持って近所のお寺に移動しました。この寺に兵役解除の十月三十一日まで待機させられました。その間残務整理として使役に使われましたが、敗残の心の傷跡は、私達の作業にも現れ、伍長殿から「足を踏ん張れ」と言うやいなやバチリと顔を殴られました。「初年兵兵長、伍長殿に殴られて」と笑われましたが、今も忘れることはできません。(p461・462)倉野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_453_1.pdf

 昭和十八年四月十日の第四十七連隊入営は、第九中隊第三班の軽機関銃班でした。
 六月の中旬、宮崎県の都城の西部第十七部隊へ移る。九月の終わり頃一期の検閲でした。やっとどうにか兵隊らしく成長しかかっていました。
 下士官候補者の試験に合格。西部軍教育隊へ入隊。下士官候補者として、物凄い猛訓練を受けました。私独りであったなら余りの厳しさに落伍敗退したでしょうが、沢山の同年兵がお互いに励まし合い、切磋琢磨し、何くそっの闘魂を燃やして頑張り合い耐え抜きました。訓練の外に平手打ちのビンタを受けた回数も、もう目茶苦茶に多くて、いかなる目的でビンタをとるのか意味不明でした。またあまりの苦しさのため疲労昏睡して、入院の末死亡した不運な戦友も数人いました。まさに地獄そのものでした。
 この非常な試練を克服した経験は現在八十二歳と老齢化した私の人生航路における最高最善の収穫であったと信じています。現在の若い世代の人、昔のあの「人の嫌がる軍隊生活」の体験のない若い人達に諺にいう「艱難汝を玉にする」をよくよく噛み締めて考えて貰いたいと切望します。教育隊の所在地は熊本黒石原でした。(p470)広瀬
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_469_1.pdf

昭和十八年徴兵の現役兵が入隊した三カ月後の夏頃「昭和十八年七月十五日入隊。所属部隊、船舶工兵第三連隊。場所、台南市安平」と記載され た召集令状が届けられました。・・・入隊先は船舶工兵連隊の独立第三連隊第三中隊五所班でした。班長は五所と言う人で大分県生まれの柔道三段の猛者で、階級は伍長で、私より二歳位上であったと記憶しております。班には、外に上等兵二人と一等兵(通称古兵)二人が配属されておりました。
 我が班の悩みは、上等兵二人が班長より軍隊歴即ち飯の数が多いので、班長が遠慮しているのをいいことに教育係と称して「しごき」にかかる。やれ「声が低い」「整理整頓が悪い」「上級者の靴の手入れが悪い」等々。その都度全員に連帯責任と称してビンタが加えられました
 他の班に負けると、時にはスリッパでの制裁が加えられ、目から火の出ることもある。上級者は都合が悪くなると「天皇陛下……」と言って直立不動の姿勢をとらせて威圧する。当時の軍隊は戦争という雰囲気の中で、各班の対抗意識が厳しい状況を常に醸し出すのが絶対必要な世界だけに我々はなじめなかった。この被害を最小限にとどめるには、先輩に教えられた「要領を本分とすべし」を心掛けることだと実感しました。
 こうして毎日が叱られ叩かれの厳しい訓練が繰り返され、服従と忍耐の毎日でした。訓練は、午前中船舶工兵としての訓練があり、その後、指名により船舶関連の専門分野の訓練が引き続き行われました。訓練は短期教育をめざしているので、時には鉄拳制裁があり、初年兵は必死で覚える努力をしました。(p482~484)竹下
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_481_1.pdf

 昭和十七年十月一日、滋賀県大津陸軍少年飛行兵学校へ入校し軍人生活の第一歩に入りました。私達は少年飛行兵の第十五期生で、大津学校の第一期でした。人員は一個中隊二百五十人で、四個中隊編成でした。十五歳、十六歳、十七歳と三カ年にわたる少年兵でした。学校内の躾は厳しかったです。基本教育は歩兵の新兵教育と同じ、軍事教練をみっちりと受けました。班長の愛のビンタは激しく、少年兵同志はお互いに励まし合って、「何くそ、頑張れ」と気合を入れました。(p492)
 日中、営庭へ黒板や腰掛けを出しての学科がありました。天気のよい日、ポカポカと暖かい日は最初は緊張していても、ついウトウトとします。目は次第に上瞼と下瞼がくっついてしまう。長い竹を持った古兵どのが後から頭を思いきり小突く。ハッとして目を皿のようにしてまた講義を聞くのですが、さあ大変、日中はそのままどうにか過ぎても、日夕点呼後、班長殿が下士官室へ帰られると、古兵殿が待ってましたとばかり「待て、今日の学科の時、居眠りをした者は残れ。あとは解散」。そして残された連中は、ビンタの四つ五つを見舞われました。(p495)長尾
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_492_1.pdf

 柏の東部第一〇二部隊とは第四航空教育隊で、その第二中隊へ入営しました。隊の内部では整備、警備、機関砲、その他等に区別されていましたが、入営して三カ月間は新兵教育で、みんな同じく歩兵の新兵さん同様の基礎教育でした。班内に入ると例の内務班地獄です。例のビンタ!今思い出してもゾッとします。訓練では匍匐前進。軍隊生活の労苦の結晶の代表と言えましょう。(p499・500)小林
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_499_1.pdf

 昭和十七年三月一日、現役兵として第六航空教育隊に入隊(確かでないが青森県八戸付近)、古年兵から笑顔で迎えられ、上げ膳、据え膳の毎日でしたが、一週間程過ぎた夜の点呼が終わって寝台にもぐりこもうとした途端、「初年兵、全員整列」と怒鳴る声がしたので、一斉に寝台の前に立ちました。「間を詰めて並べ」と体重九〇キロ以上もある凄い意地悪そうな一年上の一等兵が、何事かと思っていたら「君達の態度を一週間見ていたら皆弛んでいる。今から軍人精神を入れてやる。眼鏡をしている者は、外して全員歯を食いしばれ」と言った途端、平手で頬への往復ビンタ、終わると「今日は小指の爪程だぞ、よし、早く寝ろ」です。
 私共の中隊の教育は一般の歩兵部隊の内容と同じ教育の他、航空機の付属電気系統の点検整備となっておりますが、実際は滑走路の照明器具の点検整備、これ用の電池の点検整備、充電また爆撃機の投爆電気系統点検整備、トラック、重機等車両用電池の整備充電が主でした。
 私的制裁は日増しに酷くなり、編上靴によるビンタ、柱に昇って蝉の真似を毎度三十分、敷布がちょっとでも汚れていると赤チョークで金魚が書かれる(チョークの赤色落としに苦労しました)。編上靴の手入れが悪いと言って舐めさせられる等々筆舌になりがたしとは、この事でしょうか。(p505)庄司
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_503_1.pdf

 昭和十八(一九四三)年十月一日、横須賀第一海兵団へ入団。・・・
 私の海軍生活の労苦の始まりは入団第一日目からの総員制裁です。海軍では団体の隊員の内の一人のミスや誤りを全隊員即ち総員に対して制裁があります。樫の棒で長さ約一メートル半、直径約五センチの精神修養棒で尻を叩かれる。毎日ある。
 私の場合は昭和十八年十月一日より昭和十九年一月十日まで毎日。もう話にならぬ位痛い。ひどい。じっと耐えて忍ぶのみである。痛さ、辛さ、苦しきに打ち勝つ海軍魂の養成である。難局を打開し、困苦欠乏に勝ち、最後の勝利をつかみとるために上官の愛の試練である。復員後社会に復帰し、何くそ!との負けじ魂海軍魂で成功をものにして、幸福な人生、家庭を築いた人材は多い。総員制裁は大きな勝利の生みの親であった。(p561・562)横山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_561_1.pdf

 私は二十歳に成長した昭和十八年に志願して軍務につく決心をして、徴兵検査で甲種合格となり、勇躍して海軍へ入る事となりました。そして昭和十八年五月一日、舞鶴海兵団へ入団しました。
  志願通り機関兵となりました。新兵教育が始まります。総員集合。総員制裁でビンタ、尻たたき(直径七センチ位のカシの棒)です。無抵抗、無反撃のされっぱなし。何糞と歯を食いしばり、戦友互いに励まし合い、海軍魂を発揮して頑張りました。
 あの苦痛、逆境を克服した不屈の信念と自信に支えられて、すべての困苦欠乏に堪え、私個人としましては「自分から志願したのだから、苦労は当たり前」と覚悟していました。(p548)西田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_547_1.pdf

 また、陸戦隊でも歩兵と同じく銃剣術の稽古が厳しかった。相手が倒れて起き上がれぬまで、必死の攻撃を加える残酷さであった。私も懸命に稽古をして頑張りました。それは現在六十年経って思い出しても身の毛もよだつ厳しさでした。その他新兵教育では叩かれたこともありました。
 「軍人精神注入棒」で腰や尻を叩かれたのは、もう多言を要しないことです。(p523)篠崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_520_1.pdf

 昭和十六年五月一日から八月十五日まで、佐世保海兵団において新兵教育を受け、同日三等水兵となる。
 軍艦「千歳(水上機母艦)」乗組みを命ぜられ張り切る。八月十八日、大分県佐伯で乗艦以後、「月月火水木金金」の早朝から夜間まで連日の猛訓練に加え、港での夜は毎晩のように「整列!」がかかり、ビンタとお説教は、軽い、軽い、ほとんど軍人精神注入棒で尻をかなりの力を入れて七~八回、尻の痛さで仰向けに寝られず、何の因果で海軍に入ったと、同年兵と並んで上級者の靴を磨きながらヒソヒソと泣き言を……。
 でも最下級兵の私達には「戦争は有り難くいいものだ」と思えた、嘘のような話がある。それは開戦と共に激しく厳しかった訓練が少なくなり、艦長の命で、夜の整列もほとんどなくなり、加えて、食事の内容が良くなり、貧乏百姓育ちの私にはもったいないようなご馳走で、おまけに戦時給与の酒、ビールも時々あって、言うことなし。その上戦争と言いながら敵の姿を見たことも、銃声も聞かず、我が世の春を感じていた。けれども、それも僅か二十五日で終わり、この世の地獄を見る生活となるのである。(p510)橋本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_509_1.pdf

 昭和十八年十二月十日、館山海軍航空隊に配属され入隊しました。いよいよ実施部隊に配属になって一人前の兵隊として勤務することになったのですが、海兵団当時とは全然違い、古年兵からの指導は想像以上でした。日常の生活が共同体であること、一人に不備なことがあれば全員制裁といって鉄拳が飛ぶ。目から火が出るとは聞いていたがまさにその通り、よろける足を踏み締めながら、ぐっとこらえる。
 ある時は全員整列で「精神注入棒」というバッターが容赦なく臀部に喰い入る。「よーし、今日はこれまで解散」の号令にてホッとしてハンモックに入る。お尻が痛くて、あおむけには寝られず、うつ伏せになってもなかなか寝付かれない。こんな日が続く新兵の辛さを、よく耐えたものだと今にして思われます。(p566)猪俣
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 舞鶴で二十日間新兵教育。初めの一週間程は教育班長と教育係の二人は、やさしく教えてくれていたが、その後は一八〇度の変わりようである。汽缶室、機械室、補機電気室、舵取機室、と順次教育を受けたが、一度教育を受けたことは翌日覚えていないと、バルブのハンドルに歯形が付くまで噛まされ、気合が足りないと総員何らかの罰を受ける。(p587)
 そんな毎日が二十日程続き、筆記試験とレポート書きをやらされ、新兵教育は終了、そして各部署に配属される。機関科八人中、汽缶科二、機械三、電気一、補機一、工作一。私はどういう訳か電気の班に配属された。機関全体について一応の教育は受けたが、以後十年、電気関係の任務を続けることになる。艦首から艦尾まで、艦内すべての区割りまで張り巡らされた電路、発電機三機(タービン二機、ジーゼル一機)より送電される前後部の配電盤、主電路より分電箱を経て各兵器の駆動用電動機、照明灯、電機計器、電信、信号用の電源への給電に至る網の目のように張り巡らされた配線を、一応マスターするまで、航海当直中も非番の時も、内務に追われながら夢中で行う。船酔いでヘドを吐く時は、隠れるようにして靴下の中に吐き、海中に投棄する。「新兵の癖に酔っ払うなどゼイタク」と何度か叩かれながら半年、ようやく多少は要領と余裕ができるようになる。日本海特有の三角波と吹雪も、春の訪れと共に治まり、航海も訓練も結構やって行けるようになる。(p587・588)
 労苦といえば新兵時代のビンタ、精神修養棒、最もきつかったのは投炭法であった。(p605)佐々木
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 春の農作業が始まり田植えの準備で多忙な時期である六月五日、横須賀海軍郡山第一航空隊に入隊せよと通達されました。
 残りの作業は両親に頼み、喜多方駅より歓呼の声に送られて郡山航空隊の営門を入りました。直ちに編成となり、私は第二分隊第十三班に配属となり、分隊長は増田中尉、班長は加藤一等軍曹でした。ここで初年兵の教育を承けましたが、航空兵も歩兵の一般教育と同じく、これにまた整備兵としての教育も加わり、なかなか大変でした。
 また内務班のしごきの厳しさは並大抵なものでなく、ビンタは第一日目から始まりました。平手打ちは歯を喰いしばって我慢もできたのですが、革のスリッパ、次には編上靴での顔面殴打では顔面が変容するすさまじさです。
 あるいはウグイスの谷渡りではテーブルの下を上下にくぐっては「ホーホケキョ」と鳴かされる。蝉のまねをして柱に昇って三十分「ミーン、ミーン」と鳴かねばならぬ。まるで人間扱いではなく情けなく思ったものです。(p607)瓜生
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 行く先は知らされなかったが、山海関を通過して北上し、徐州の一つ手前の柳河と言う所に着いた。ここに駐留していた騎兵第四旅団に補充され、驚いたことに我々新兵を迎え入れるために全員整列して閲兵式が行われた。ここで臨時教育、即ち騎兵の教育を受けることになった。我々は六個中隊に分散、私は第四中隊の第三小隊に配属され、直ちに豚革だが長靴とダブルの制服、内側に革の着いた乗馬ズボンが支給されて、皆騎兵隊の立派な兵士になったと喜び合った。
 直ぐ馬の手入れに行けと言われ、一人一人日本名のついた馬の手入れに馬房へ向かった。ガヤガヤ言いながら馬屋に着いたら、髭もじゃの古参兵が出てきて「貴様等、古参兵が馬屋当番についているのに、ご苦労さんの一つも言えないのか」と言われ、皆「ご苦労さんです」と言うと「ナンダ、そんな小さな声しか出ないのか」とゲンコツで一人一人殴られた。これが最初の罰だった。・・・
 ある時、突然に銃器の手入れ作業があった。銃身を手入れする薬莢手入機の数が少ないので、作業ストップが掛かった時は、ほとんどの者が手入れ不良で、安田班内上等兵は皆を向かい合わせに二列に並ばせ、対抗ビンタをやるよう命令する。お互い顔見知りだから相手の頬を軽く撫でていたら「そんなたるい叩き方では駄目だ」と近くの兵隊を殴り倒した。そこで真剣に殴り合いとなり、取っ組み合いとなったので中止となった。(p297~299)
 行軍中一番辛かったのは馬の落鉄で、分隊にいる工務兵に新しい鉄と取り替えてもらうのだが、馬は百貫の荷物を背負っているのでなかなか足を上げない。爪の裏表面をヤスリで平らに削り、鋲を打つまでの僅かの時間であるが、その間、馬は三本足では非常に苦しいらしい。
 終わって落鉄の検査をやったのかと問われて「十分間の小休止に十八頭の水飼と落鉄の検査はできない」というと、「もっと早くやれ!この馬鹿野郎」と金槌で頭を殴られ目から火が出た
 筏井と言う初年兵と落鉄調べと水飼を交互にやっていたが、彼も数度金鎚で殴られたので、戦争が終わって日本に上陸したら、二人で岩本工務兵を殺害する約束をした。あとの話になるが不履行に終わった。(p305)石田
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 私は昭和十七年度の徴兵検査で見事、甲種合格となり、誇りある日本男子となりました。
 昭和十七年十二月一日、北部第十八部隊(山形歩兵第三十二連隊)へ雪第三五二五部隊要員として、同じ村よりの六人と共に入隊しました。(p277)
 また初年兵は、順番制で当番となり、炊事場よりの飯上げ、食缶の返納などをやります。食缶の返納で容器に飯粒等ついていると、炊事係古兵より物も言わずビンタを喰いました。(p278)
 二月、雪部隊より勝部隊へ転属した隊員は、再び壘第一四七四部隊への転属命令が出ました。
 八日、私は技術下士官候補者として河北省天津兵器廠に入校しました。ここに入校したのは北支、中支より選抜された一二〇~一三〇人と思います。私は教育隊の第二内務班へ、班長は暁部隊「静岡」より配属された佐藤軍曹で、入校した数日間は親切丁寧で、初年兵で入隊した当時とは違うものでした。その後は起床前に竹刀を持って教育隊広場に来て、隊員の整列を待ち、少しでも遅い者には遠慮なく竹刀で腰を叩きつけました。これは班長の厳しい教育でしたが、各方面から選抜されて来た隊員は一口も不平を言わず、ただ我慢を通しました。(p281)手塚
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 二月末の北支は寒さが厳しく、手が思うように動かないので、舟はだんだん流されてしまい、訓練が終わって班長からビンタを頂きました。(p243)山元
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 家の玄関には「出征兵士の家」と看板が貼られ、出立の日などには町内総出で、日の丸の小旗を片手に「万歳!万歳!」で大勢の見送りの方々が駅まで送ってくれた。現役兵として京都歩兵第九連隊に入隊しました。私は第十中隊第一班に編入され、いよいよ軍隊生活の第一歩を踏み出しました。
 起床と同時に点呼、食事の食上げ、食事が終わると食缶返上、演習整列と、目まぐるしい日課の毎日でした。また内務班の教育も厳しく、一日演習やら銃剣術等の教育が終わると、「初年兵、整列!」といわれ、古参兵からビンタの連続でした。特に私の班の古参兵に、二・二六事件に関与したというので、元曹長から上等兵に降格された人がいて、この人がいつも大暴れしていて誰も手がつけられない状態でした。
 ある日曜日のことです。外出から帰って来たら酒に酔って何が気にさわったのか、室内の真っ赤に燃えているストーブを蹴飛ばしたのです。床一面に火の粉がちらばって大騒ぎ、後の始末は我々初年兵の仕事でした。幸い火災の大事には至らなかったが、元は曹長さん、誰も手がつけられない横暴ぶりでした。しかし私達初年兵に対しては別に私的制裁等の手は出しませんでした。(p250・251)山崎
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 台湾第一七九一部隊は編成されたばかりの部隊で、小生らが初めての初年兵で古年兵殿はまだ少なかった。有線中隊と無線中隊があり、小生は有線中隊に配属される。中隊長殿は芋生大尉殿であった。(p198)
 教育が終わり内務班に帰れば内務班の仕事が待っている。上官殿や古兵殿の洗濯、軍靴の掃除、内務班の清掃、食事当番と目が廻る程忙しい。夕食が済み一息ホッとする。次は点呼だ。上等兵古兵殿が軍靴の検査をする。底の鋲に少し土が残っていると「これが掃除したとかァ」と恐ろしい罵声が飛ぶ。揚げ句の果て軍靴を首にぶらさげ各班廻りをさせられる。情けないこと限りなし。
 また誰か何かしでかすと「初年兵集合、並べ」でそしてビンタに拳が飛ぶ。今日はなんで打たれているのか解らない時が度々だ。時には班長殿が「初年兵集合、今日貴様達はこんなことを仕でかした。目をつぶり歯を喰いしばれ」バチッバチッの連続、目の前でバチッと一発痛くない「一同、目を明けろ。痛かったか」初年兵一同自分は打たれていない。班長殿は自分の手と手でバチッバチッと音をたてる人情味に豊かに溢れる班長殿もおられた。(p199)小宮
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_195_1.pdf

 七月十四日高雄港の船中でまだ見ぬ連隊の軍旗祭を盛大にやる。その後は各船単独で目的地に向かい、七月二十四日無事に南部仏印サイゴン港に入港した。宇品出港以来一カ月、二十一歳の信州健児千人が仏印への第一歩を印した。
 ここより汽車で北進四昼夜、七月三十日早朝歩兵第六十二連隊に到着した。松本へ迎えに来られた斎藤曹長殿と笠松軍曹殿に引率されて同年兵五十九人は同連隊の入り口の第五中隊に入隊した。中隊は五個の内務班に分かれ、私は四班の(軽機関銃)教育班長西川富利軍曹殿、助手辻武、東久作の各上等兵殿が待っていた。
 この人達は比島バターンの激戦の生き残りの猛者で実戦に即した教育を三〇度の炎天下で三カ月、内地の兵の倍以上の教育とビンタも五倍以上頂戴して辛い基本教育もようやく終了、十一月三日の明治節に、十月一日付けで皆一等兵に進級した。(p137・138)上原(柳沢)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_136_1.pdf

・・・私にも「四月一日、朝鮮第一〇四部隊入隊のために東公園に集合せよ」との令状が参りました。・・・
 抜き打ち一品検査があり、巻脚絆の手入れが悪ければ頭にターバンのように巻かされ、靴紐の洗い不充分では、口に食わえ「××二等兵は……のため各班廻りを命ぜられました」と
 床や頭上の衣類整理棚の整理が不揃いの時は、班長が木銃で跳飛ばし「会寧のそよ風に吹き飛ばされました」である。久々に我が家と、Sさんから慰問文が着きました。Sさんの手紙は班内発表となり、読むうちに先は何と書いてあるか不安で、少し飛ばして読み上げると、「飛ばしとろうが、読み直せ」「ハイ」である。
 誰かが「アア!やっと一日終わった!」というものの「馬鹿タレ!ここは娑婆と違うぞ」である。
 消灯ラッパが静かに鳴りひびく。夢の床に就くや、コツコツ週番下士官が巡回しつつ銃の引金点検である。次々と引く。俺は何番目…「よかった」と思う。「カチン」と鳴ると「OO出てこい」で捧げ銃をして「三八式歩兵銃殿、長々と……致しまして申し訳ありません」である。軍隊は馬鹿にならないと勤まらない。発熱すると錬兵休となり洗濯物干場の見張番である。ある洗濯場で石鹸を忘れ、横の者に「石鹸貸さんや」というと、横の者は俺の班札を見て「貴様四月兵じゃろうが、なめるな」とくる。相手は三月兵でした。(p113・114)持山
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 昭和十八(一九四三)年一月十六日、満州国の関東軍独立歩兵第一七四部隊に入隊を命ぜられ、広島練兵場に集合させられました。そこで軍装させられて広島駅から汽車に乗せられました。昼も夜も窓は鎧戸を閉めて外は見えませんでした。博多港から船で釜山港へ行き、また汽車に乗って満州国の新京(長春)へ到着して第一七四部隊に入隊しました。
 氷点下二五度から三〇度にもなる所へいきなり連れて行かれて、防寒帽を被っていても耳は痛かったのを今も覚えております。新兵は山形県から四十八人だけでした。生まれて初めての炊事、洗濯、掃除と何もかもとまどう事ばかり、少しまごまごしていると頬が焼ける程のビンタをとられ、これが軍隊なのか、命をかけて戦う準備なのかと、自分なりに納得して懸命に頑張りました。(p94)
 二期目の教育は医学の勉強でした。朝八時から夕方五時まで、毎日医学の勉強です。内科、外科、伝染病、病理、他に研磨科と言って手術などに使うメスなどの研磨を主体に勉強させられました。広い講堂に机を並べて科目ごとに内科の軍医や外科の軍医が一時間ごとに変わって教えてくれました。居眠りなどしていると、教育担当の上等兵が見廻っていて、後から竹刀で背中を力いっぱいにつつくので、その痛さは翌日までも残る程でした。
 夕食の後にまた講堂に集められ、その日習った事のテストがあって、五十点以下の人は一列に並ばされ、スリッパで思いきりビンタが飛ぶ。私はそれがいやだったので、消灯後厠に行って毎晩復習したものでした。お陰様で四十八人中の七番で三期検閲に上等兵に進級しました。たしか昭和十八年の九月末頃だったと記憶しております。医学六カ月で看護婦長までの教育だと聞かされました。(p95)舟山
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 長い行軍の後、やっと目的地の柳州である。小高い丘と平地の連なる中にある部落に、一カ月の夜行軍の末、ようやく目的の迫撃第一大隊の駐屯地に到着した。すぐ各中隊に配属が決まり、私は大隊本部中隊第一小隊に決まった。その小隊の初年兵は五・六人だったと思う。
 初年兵の教育係の兵長が訓示をしたあと、気合を入れると頬の腫れる程殴られたが、とてもいい人で優しく面倒見が良く、その後は殴ることは一度もなかった。部隊のほとんどの兵隊は、四、五年を野戦で過ごして来た人達だが、一般に人柄の良い兵隊が多かった。(p42)村井
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一、入隊期日及入隊先
ロ、三重海軍航空部隊

 右に従い当地からの同時入隊者であった庄司、富田、阿部、都倉の四君と共に歓呼の声に送られ故郷を後にしました。予科練は志願兵のみですので年令に差があり、私は最少年でした。入隊二、三日後から、起床から消灯ラッパが鳴るまで「月月火水木金金」の厳しい初年兵教育が始まりました。
 午前中は数学、理科等学科、午後は体育、魚雷の構造、航空機の構造等の実技に関する教育でした。入隊前に軍隊生活経験者から聞いて、ある程度の覚悟はしておりましたが、私的制裁の酷さには驚きました
 同年兵の中に煙草を吸う者がおり、先輩に見られたら大変「初年兵集合、一列に並んで歯をくいしばれ」「君等は二十歳未満だ。酒、煙草は禁じられていること知らんか。吸った者に注意しない。君達にも連帯責任がある」、途端に拳でのビンタが飛ぶ。よろよろすると「弛んでいる」とさらに一発、中には口から血を流す者や、二、三日食事が満足に出来ない者もおりました。
 雨天時の外出には合羽を着用しますので階級章が良く見えないため、よく先輩に欠礼することあります。欠礼したら大変、民間の方のおる前で殴る蹴るの制裁、民間の方は手で目を塞ぎ、中には涙を流しておられる方もおられました。
 兵舎内外の先輩への欠礼、軍靴の手入れが悪い、軍足が汚れている、軍服の襟布が汚れている等でビンタが飛ぶ。ハンモックにぶら下がり蝉の真似、狭い衣類箱に頭から押し込まれ、しゃがんでの長時間、練兵場円周の駆け足、海軍精神教育棒の所構わずの殴打等です
 また、初年兵は激しい教育のためによく腹を減らします。同郷の先輩もこのこと知っておりますのでパン等の差し入れがあり助かりました。毎食交替で下士官室へ食事を運びます。食事後、食器下げに行くと、残っている物はここで食べて行けと、面倒みのよい上官もおれば、隣の下士官のようにお茶で含嗽して残った食事に吐き出す意地悪い上官もおり、この上官には食事を運ぶ前に、皆で頭のフケをご飯に払い落してから運びました。この上官現在、元気かなあ。(p641・642)児島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_639_1.pdf

 十九歳の今村憲司航空整備兵は、鹿児島県出水市の第二海軍航空隊に入団しました。当日入団したのは九州各県より、百六十人ぐらいの若者達でした。・・・
 兵舎内で軍服が支給され、それに着替えると身も心も海軍軍人になったような気になりました。大切にされたのはこの日一日でした。翌日から厳しい生活が始まりました。内務教育、言葉使いから体の動かし方、一つ一つ何も分からない初年兵に、指導下さる先輩の皆様も大変ですが、教わる方も大変でした。朝六時から八時の就寝まで、叱られ叩かれ忙しいこと、何で志願して来たかと涙を流すことも何回かありました。(p631)
 ある日、四十歳ぐらいの召集兵の方が、涙を流して泣いているのを見かけ、理由を聞きますと「歳をとっているので若い者のように暗記が出来ず、二十歳ぐらいの若い現役兵から殴られるといいます。自分の子供と同じ年の若僧から殴られるのが口惜しい」と二人の老兵が泣いている姿を見て、可哀想と思いました。洋服屋さんだと聞きましたが、世が世であれば小さいながらも一店の主人公であるのに、召集令状がきたばかりに、家族を捨て海軍軍人として、毎日毎日若い者からこき使われ、挙げ句には覚えていない、態度が悪いと叩かれ、泣きたくもなるだろうと同情しました。その姿を見て以後私は叩くことはしませんでした。(p633)今村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_629_1.pdf

 九月入団は「あっ」という間に来ました。家族や近所の方々に見送られて十五歳の少年は九月一日佐世保相浦第二海兵団に仮入団しました。島原市からも七人が同時に入団しました。入団して見て先輩から云われた厳しさが初めて分かりました。
 十五歳の少年達ですから多少は考えての訓練と指導とは思いましたが、海軍魂を植え込むために叱られ叩かれての訓練でした。夜ハンモック内で両親の顔を思い浮かべ涙を流すこともありました。その度ごとに覚悟の上で志願したのではないかと、自からを慰め歯を食いしばりました。(p618)永木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_617_1.pdf

・・・十一月の末日入隊の通知が届き、十二月十日宮崎県の飛行第七連隊に入隊が決定されたのでした。
 兄も召集され、今度は自分が入隊ということで一家の家業は父と母で何とか縮小しても、続けて行くということになり、今年も暮れようとする十二月十日、飛行連隊の営門を入りました。初めての軍隊生活、それは思いもしなかった厳しいものでした。
 航空隊と言っても、三カ月間は歩兵の一般教育と共に、航空機についての精密教育、更には整備教育等の厳しい毎日の訓練でした。また内務班のしごきの厳しさは並大抵のものではありませんでした。ビンタは初日から始まり、平手やゲンコツはまだしも、皮のスリッパそして帯革、軍靴等で殴打され、顔面は変形するすさまじさです。およそ内務班教育の範疇を超越した仕草です。また古参兵は、その日々の気分次第で初年兵に対する扱いの内容も変わってきました。このような扱いの教育は一般社会では到底考えられなかったことです。(p578)丹
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_577_1.pdf

 思い出として練兵場への集合時間に遅れ、二日目に第七中隊の同期の二人が二分程度遅れました。教官は召集の遠藤中尉で双眼鏡で見ている。体罰として全員がビンタを受けました。速射砲の訓練日に練兵場より護国神社付近まで駆け足、自分は砲身係で重量感があり、若干二十一歳で若かったのでしょう。全員が一緒に戻らないとまたやられるらしい。(p567)広島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_563_1.pdf

 福岡東公園に集合しました私達は、博多港から旅客船に乗船し、二日目に台湾の基隆港に到着し、基隆港からは台北市へ列車で輸送されて、十二月九日、台北市にあります山砲第二連隊第二中隊に入隊しました。・・・
 山砲隊ですから、山砲を引く馬が付き物です。十二月と申しましても台湾は内地と違い暖かく、訓練の度ごとに汗びっしょりになりました。「軍人勅諭」「戦陣訓」兵器名称の暗記、古年兵のお世話と、六時の起床から夜八時の点呼までの忙しいこと。もたもたしていたら大声で怒鳴られる、叩かれるで、ゆっくりする暇もなく、一日があっという間に過ぎ去りました。軍隊は厳しいとは聞いておりましたが、考えていた以上の厳しさに男泣きしたこともありました。…
  山砲の砲身と車両を分離しての手入れや、搬送作業、積み卸し作業、小身の私には大変な重荷でした。幸い私は通信係に回されましたから、いくらかは楽でしたが、叱られ叩かれて一期の検閲を終了しました。(p548)竹添
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_546_1.pdf

 近衛歩兵第一連隊(別称東部第二大隊)の自分たち同期同年兵は総員百六十人、教育係将校は中隊長級の中尉一人、教育担当下士官として軍曹が各中隊一人、教育係助手は古参上等兵二人でした。四個中隊に四十人宛配分され、各小隊か分隊に五、六人の単位で配属されました。毎日の午前(前段)、午後(後段)と二回に分け同年兵集合教育でした。第一期の検閲終了まで、この集合教育とのことでした。
 自分は生来頑健だった上に青年学校教育ですべて充分体得していましたから、たえず優秀な成績でした。ただし夕食後の内務班教育は無茶苦茶な「いじめ」でした。これまで私的制裁が厳しかったために不慮の事故が多発していた結果、各地の司令官名にて教育の美名に隠れて行う「私的制裁厳禁」が出されていました。

内務班・初年兵教育・第五カ条
第一早めし・早がけ・早ぐそ
第二軍隊は「メンコの数」食事の事で、長年勤務した者が一番偉い
第三要領を旨とすべし、員数の確保
第四地方弁不使用。大声の軍隊語で話する
第五兵器、衣服は陛下からの預かり物だ。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だと心得よ

 右の五ヶ条は、初年兵の最大厳守事項でした。
夕食後は各班の初年兵はいじめやいびりの対象者として、各班(分隊)の古年次兵出来の悪いのが、悪知恵を働かせて競走でやりだしました。
 第一期の検閲後に、幹部候補生試験や下士官候補生試験を受験した者は、半年余り学校へ行き、帰って来ると見習士官や下士官勤務者になる。そのために今の間に苦しめておけと、一層激しくなったものです。一番苦しいのは「対抗ビンタ」でした。二人ずつ対面で直立させて交互に叩き合うことで、共に手加減すると「馬鹿者」と怒鳴って力一杯叩き合わせるのです。共に戦友に心で謝りながら叩き合ったもので、一番卑怯な方法でした。
 ほかにも「ミンミン」「自転車こぎ」「オイラン道中」「三八式歩兵銃殿」などがありました。(p506・507)吉田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_504_1.pdf

 この部隊は満州第八百九十四部隊で、福岡の歩兵第二十四連隊で、近くに野砲第二百十二部隊の駐屯地も在りました。立派な建物の兵舎で、舎内にはペーチカが有って温かくて助かりました。私達は衛生兵でしたから、訓練のためこの歩兵部隊に預けられたので、内務班も別で、教育隊だけの内務班でした。古兵から教えて貰いましたが、部隊の人員は召集兵とも合わせて約二千五百人の、大きな部隊とのことでした。
 初年兵の訓練も現役兵だけに厳しく毎日叩かれ叱られ、軍人勅諭、教育勅語、五ヶ条と一生懸命暗記させられました。夜の点呼の時に指名されてこれらが答えられないと「貴様」と怒鳴られると同時にピシャリと叩かれ、よろよろすると「態度が何っとらん」とまた叩かれる。夜は叩かれることを覚悟せねばならないので、みんな一生懸命、死物狂いで覚えました。(p490)本田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_488_1.pdf

 三月四日、満州第七百二十八部隊要員として出発、駐屯地はソビエトとの国境に位置する琿春に到着しました。夕食後の古年兵からの最初の言葉は、「この部隊は元独歩第一連隊、その後歩兵第八十八連隊、さらに今の部隊に変り、関東軍でも気合かかっている有名な部隊である、その内分かるはずだから歯を食いしばって頑張るように、そうでないと国境警備の任務は果たせないぞ」ということでした。私の手もよくなったので、入隊前に鍛えた心身を活かして、怪我治療中の遅れを取り戻し、誰にも負けないように努力することを心に誓い、当地での第一夜のベットに潜り込みました。私の関係する上官は、初年兵教育教官の茨城県出身の菅野少尉、中隊長は千葉県出身の土屋中尉、内務班長は小菅軍曹で、また兵は全員現役で、三年兵は長野県出身、二年兵と私共初年兵は群馬、栃木県出身でした。なお下士官で曹長、准尉は、ノモハン事変での戦争経験者で、強者ばかりでした。
 満州での軍隊生活に入ってから六カ月になる八月一日、一等兵に進級しました。毎日毎日が理由の分からないビンタの連続で、上官から私的制裁を堅く止められていたようですが、一日として殴られない日がありませんでした。今日はビンタが無かったと喜んでベットに入って眠りに就いた頃「初年兵!全員起床!」と怒鳴る二年兵の声に跳ね起きると、「貴様ら弛んでいる」「上靴が揃っていない」とビンタが飛ぶ
 たまには「二列に並べ」「前列回れ右」向い同志でビンタ始めの号令、初年兵同志ですので弱くビンタすると何だその殴り方は、見本を教えてやるからよく見れと、拳握りで強烈のビンタが飛ぶ。私は見本のビンタに合い、入れ歯が欠けて下に刺さり出血し、当分の間食事の時滲みて困りました。今でも傷跡が堅くなっています、後で分かったことですが、上靴の不揃いは初年兵が寝静まってから、意地の悪い二年兵が蹴り飛ばしているところを見たそうです。(p430・431)高橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_428_1.pdf

そして三江省勃利に在隊の機甲第二師団戦車第二捜索隊第二中隊指揮班に入隊しました。
 翌日から初年兵教育が開始されました。班員の古参兵にはノモンハンの強兵達もいたので内務班の「しごき」も厳しいものでした。毎日のビンタは軍隊精神の鍛錬とかで、どこの部隊でも常道とされていました。(p425)三小田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_423_1.pdf

部隊は関東軍直轄の「独立重砲兵」兼松部隊でした。・・・
 全般的な教育を経て重砲兵独特の訓練が連日にわたり行われて第一期検閲が終了しました。自分の所属は第一中隊・第一小隊で、小隊長は久留米出身の小在捨夫少尉殿、班長は前川伍長でした。当時は私的制裁は禁止されていましたが、夜の点呼後にはかなり古年次兵が荒れていました。自分はいつも班長の呼び出し(小隊長の声掛り)で難を免れました。(p420)杉本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_418_1.pdf

 入隊先の松本はつい二週間前には働いていた所なので少しも不安はありませんでした。松本第五十連隊の営門を入り、国家の干城としての自覚に身が引きしまりました。
 連隊の第十中隊に配属され、家から着てきた衣服を全部自宅に送り返し、軍衣袴に着替えると帝国軍人の形が整いました。二日間は班長や初年兵係の人が親切丁寧にいろいろ教えてくれました。しかし三日目になると昨日までの親が一転して鬼になりました。起床から就寝まで目の回るような忙しさにびっくりしました。三歩以上は「駆け足」、上級者(どっち向いても皆上級者)には敬礼しなければなりません。初年兵はどこを向いても上級者ばかりですから敬礼の手が上りっぱなしです。
 入隊して三カ月間は一期の検閲を受けるための猛訓練の連続で、息をつくひまが無いとはこれをいうのでしょう。気の弱い兵隊は猛訓練に加えて内務班での古年兵によるビンタで気が変になり、便所で首を吊る者が出る始末でした。自殺する兵隊の上官は罰を加えられるのが常識ですが、時局が悪化していたためか大した問題にならず「意気地なしが自殺した」位いの感覚で処理されたようでした。(p414・415)上原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_413_1.pdf

 山海関を通過して北支に入り、万里の長城の巨大さに驚きながら山西省の山地を眺めながら大原の南にある平遙(へいよう)駅で下車、それから徒歩行軍で百二十キロも西にある我らの所属部隊、第百十四師団第八十三旅団第二百大隊が駐屯する離石(リセキ)に向かいました。
 一期の検閲までの三カ月間は例の通り昼夜を問わぬ猛訓練の連続でした。初年兵の腹は乞食腹といっていくら食べても食べるそばから腹が空いて、残飯を漁り、見つかってビンタを頂戴するパターンはどこでも同様でした。(p402)和田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_401_1.pdf

 途中列車内で一泊、十二月二日午後、留守近衛師団歩兵第一連隊第二部隊に入隊しました。十二月八日、下関港出航、同日金港上陸。十二月十二日、満支国境の山海関を通過。十二月十六日、嵐県東村鎮省第六十九師団独立歩兵隊第八十五大隊第三中隊に編入され、初年兵教育を受けながら警備に当りました。
 起床から消灯まで軍人勅諭、戦陣訓、歩兵操典の教育、それに教練、飯上げ、洗濯など班内の業務に走りながらの行動です。腹が空き古兵の残飯で助かりました。入隊前に班内では暴力的制裁のあることを聞かされていて、戦地ではこれは無いだろうと思っていたのは思い違いで、襟布、靴下、軍靴の汚れ、靴下の無補修、銃の手入れ不良等に理由付けしての殴る蹴るは一発で終わるからよい方でした。
 満水の掃除用バケツ(十八リットル)を両手に持たせられ一時間の不動の姿勢、ベット一床ごとに飛び走り鴬の泣き真似の谷渡り三十分等の制裁受けながら六カ月過ぎ、一期の検閲が終わりました。(p388・389)菅原
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五月十四日、めでたく久留米の第十二師団歩兵第四十八連隊の第五中隊に入隊しました。
 当時は次から次へと新兵さんが入隊してくるので一週前に入った兵隊が先輩面して私らにビンタをするのには腹が立ちましたが、一日でも早い者が先任者である軍隊の「しきたり」ですので、仕方なく我慢するほかありませんでした。
 入隊の翌日から一期の検閲を目指して猛烈な訓練と厳しい内務班の生活が始まりました。教育助手の兵長と上等兵が遠慮なく初年兵を学科と教練でしごき上げます。教練の後に控えるのは内務班の生活です。手ぐすね引いて待ち構える古年兵の前に、初年兵は哀れな存在で、殴られ放題の毎日でした。日本軍が強いのは訓練と内務の厳しさに在りと本に書いてありましたが全くその通りでありました。(p351)中野

 昭和十五年十二月十日、村の氏神様の前で、部落全員の激励と武運長久のお祈りに、決意を述べて、長老区長をはじめ旗の波と万歳に送られて、鳥取歩兵第四十連隊第五中隊に入隊しました。初年兵教育の三カ月、一期の検閲までの苦労は、どこの部隊でも同様と思いますが大変でした。ことに内務班の規律は酷かったと思いました。内務班の古兵、下士官でも曹長にどやされたと鬱憤を晴らしに初年兵にビンタ。(p343)池野
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 横須賀海兵団武山兵団に入団し、初年兵教育のため横須賀海兵団横須賀砲術学校一般教育班に編入されました。私的制裁については入隊前から軍隊生活経験者からよく聞かされていましたが、殴る蹴るはまだよいほうで、衣服の洗濯が悪い(ちょっとしたシミ程度なのに)とのことで、十二月の寒い季節、素足でコンクリートの床を駆け足で行き、薄氷の張っている大きなコンクリート水槽にズボンを膝までまくり上げて入り、汚れが落ちにくいので長時間かかり洗濯させられた時の、その寒さ、冷たさは今でも忘れません。でも耐えれば何でも出来ることを教わりました。(p331)藤澤
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 昭和十八年三月十日、待っていた入隊の日が来ました。北支派遣「島」兵団独立混成第一旅団第七十四大隊第四中隊要員として、新潟県高田の連隊に集合し、約一週間位滞在した三月二十日夜、貨車に乗せられて下関まで行きました。下関港よりは朝鮮の釜山に上陸、馬糞のこびり付いた貨車にて北上、満支国境の山海関を通過しました。そして右手に万里の長城を見て河南省軫徳に到着しました。
 ここには大隊本部が駐屯していて、私達はこれより行軍で山岳地帯の「西刻」と言う部落に駐屯している中隊本部に到着し、直ちに編成となり、私は第四中隊第一小銃班となりました。ここ北支の山岳地帯は、まだ朝晩は冷え込んで寒かったのです。
 いよいよ現地での初年兵教育となりました。歩兵の一般教育の三カ月、幸い私は青年学校で一通りの訓練を受けましたので、さほど苦痛は感じませんでした。何んと言ってもここの連隊でも誰もが体験させられた私的制裁、ビンタは現地の教育でも変りありませんでした。(p319)県菊地
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 国際情勢はいよいよ緊迫し、昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃により太平洋戦争の勃発となりました。慌ただしいその年末の十二月二十五日、私にも教育召集令状が届き、新発田にある歩兵第七十六連隊補充隊通信中隊に入隊しました。
 昭和十七年二月二十五日、教育召集終了と同時に、臨時召集により第一機関銃隊に転属となりました。思った通りでした。この日から本格的な訓練が始まりました。軍人勅諭や五カ条の暗記から朗読、毎日びしびし鍛えられました。軍隊は厳しいと聞いていましたが毎夜点呼の時は叩かれ殴られ、特に男の世界で時には涙を流すこともありました。(p324)花井
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 昭和十八(一九四三)年四月十日、熊本市西部第二十一部隊野砲隊に現役入隊しました。第四中隊に編入され、中隊長は北森鶴雄中尉、第一内務班長野田一二三軍曹、寝台列長・塚原敬造兵長でした。入隊して一日目には軍服・帯剣・軍帽などが支給され、軍靴の文数は両方同じでは無く、被服係の古兵から「貴様の足を軍靴に合わせろ」と怒られたことを覚えています。
 二日目は馬厩の見学で、中隊には馬が四十六頭いて、その名前を一頭づつ覚えなくてはなりません。また野砲の手入れ、馬具の手入れなどの説明を受け、二日目まではお客様扱いでした。
 三日目から猛烈な訓練が始まりました。毎日「十六演習場」まで駆け足で、時には軍歌を歌いながら演習場に到着し、十分間の小休止がありましたが、午後三時頃まで猛烈な演習が続きました。汗びっしょりになった馬の全身を拭き、藁で擦り、足の泥を落し、蹄鉄油を塗り、足の爪を磨いて、やっと馬の手入れが終わるのです。それから野砲・小銃・帯剣・軍靴の手入れをします。手入れ中にもし古参兵の一等兵が通ると、手入れを止めて起立、拳手の敬礼をします。何度会ってもしなければなりません。
 わざと初年兵の手入れ中に、通る古参兵もいました。自分たちは星を一つ貰ったばかりの二等兵で、つくづく星の重さを痛感するのでした。それが終わると休む間も無く、自分の洗濯、古兵の衣類洗濯です。襦袢、袴下・軍足など少しでも汚れが残っていると、それをくわえて犬の真似をしながら、四つんばいになって班長の所に行き、班長の個室の前で、立ち上がってノックをし、「猪俣二等兵は汚れた軍足をくわえて来ました」と叫び「ヨシ入れ」と許されると直立不動、拳手の敬礼をして、印鑑を貰った後、平手で五、六回叩かれました。そうして軍足をくわえて内務班に戻ると、宮崎出身のZ伍長、幹部候補に不合格の伍長にまた四、五回叩かれるので顔や尻に黒いアザが絶えたことはありませんでした
 軍隊は叩かれるところだとは思って覚悟はして入隊をしましたが、こんなにひどく多く叩かれるとは夢にも思いませんでした。古兵達は手で叩くと自分の手が痛いので、軍靴の一部を切りとったスリッパで尻を叩くので便所にしゃがむのもやっとでした。夜は点呼後、初年兵同志を両方向き合わせ、叩き方の対抗試合をさせられます。相手が力一杯叩くと痛いので、自分は軽く叩きます。すると古兵が「そんな叩き方で貴様達は良いか」と思いきり古兵が手本を示した上で力いっぱい殴り合いをさせ、両方共顔が真赤に腫れたところで終わるのでした。どんな暴れん坊でも軍隊に入るとおとなしくなり、青菜に塩を掛けたようなものでした。
 起床は午前六時、起床ラッパの音と共にはね起きます。前夜そっと襦袢、袴下、軍足、巻脚胖を着けたまま寝る。起床は早い者の順に一列に整列です。十番以下になると二百メートルぐらいある厩の回りを三回走らされ、また軍装したまま寝ているのを見つかると半殺しにされるほど叩かれるのです。自分は要領が良かったのか、三カ月間一度も見つからず、朝の整列ではいつも十番以内に入っていました。それから作業服に着替えて厩の掃除です(p231~233)猪俣
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_230_1.pdf

㈡検閲終了、学校へ、またまた厳しい訓練を
 甲種幹候生として豊橋第一陸軍予備士官学校第十一期生の生活が始まった。(p219)
日中の訓練の後、自習室で講義を受けた時など、とても眠くて「コックリ」がポツポツと見られたが、終了後「居眠りした奴は一歩前へ」の号令には、生徒は皆進んで罰を受け、罪を受けるに躊躇した者はいない。(p220)山下
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_218_1.pdf

昭和十六年七月一日、私に臨時召集令が下り、鯖江歩兵第三十六連隊に入隊を命ぜられました。私は第二補充兵であるため、三カ月間の初年兵訓練でした。(p132)
 班に戻り古年兵の靴磨きを終え、練兵場に整列。軽機兵が集合して早速、軽機の操作の手ほどきを受ける。そうしている中、昼食の時間で早速食べる。昼休みは多少時間がある。飯台前に座り、たばこを一服する。あゝおいしい。一時の幸である。お昼の休みも終わり、午後の訓練の始まりである。
 「貴様、何をしている。何度言ったら分かるんだ」「ハイ」パシーとビンタがとぶ。また向こうでは「貴様たるんでおる」と蹴飛ばされる。そうこうしている中、一日の訓練が終わり、兵舎に戻り晩飯を済ませ、兵器の手入れをし「新兵さんよまた寝て泣くのかよ」との就寝ラッパを聞きながら床に入る。
 入隊して一カ月余りが過ぎ、気力も体力もヘトヘトで、限界である。まだあと二カ月足らずある。体力が持つかと思い、うとうとしておると、カツカツと長靴の音、週番将校の巡察である。銃の点検でカチンと音がする。しまった誰かが銃の装填落しを忘れた。
 全員起床、ベット〔ママ〕の前に整列、一八〇センチもあるような将校が仁王立ちになり、「貴様ら、良く聞け。お前達は一銭五厘のはがきで、いくらでも集められる。兵器は国民の税金で造られる大変高価な物である。その兵器を休ませず、お前達だけ休んで良いのか。この馬鹿者。上等兵の初年兵訓練がなっておらん。たるんでおる」と言い捨てて出て行った。それからが大変である。
 「装填落しを忘れた初年兵、前へ出ろ」「貴様、良くも俺に恥をかかせたな。股を開け、歯を食いしばれ」とスリッパで三発、みるみる顔が変形し紫色になり、その場で倒れてしまった。「誰か水を持ってこい」で洗面器の水をぶっかける。ようやく気が付き立ち上がる。目はうつろ、顔全体がはれてぶつぶつである。
「さてお前達にも責任がある。股を開け、歯を食いしばれ」でスリッパで二発、顔から火が出るよう。「全員早く寝よ。今夜のことは他言無用、分かったな」
「ハイ」で一同床に入る。顔が痛いと言うより、熱い涙がポロポロ出てなかなか眠れない。
 将校の暴言、上等兵の暴力、こんな教育のやり方で果して心身共に充実した日本兵が出来るのだろうか。いつのまにか眠ってしまった。そして起床ラッパで起され、再び目まぐるしい一日の始まりである。(p133・134)森川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_132_1.pdf

 海拉爾に着くと編成替えがありました。私と山口一美、中村、国武と四人は歩兵第六十四連隊に転属となりました。そして我々三人は毒瓦斯兵を命ぜられました。普通の初年兵教育のほかに毒瓦斯の教育を受けるのは大変です。防護服を着け、駈け足そして処理作業など息苦しいし、いまにも死にそうになりました。
 六カ月の初年兵の基本教育が終わると、今度は独立速射砲中隊要員となりました。今度の速射砲は、今までの馬で牽引するのではなく、自動車にて牽引すると言う、当時まだ日本には少ない重砲でした。アメリカ、ソ連等の戦車を攻撃出来る数少ない速射砲だと言っていました。
 当時、射撃については、関東軍司令部より表彰を受けたことは今でも思い出になっています。ただその教育の厳しさは言葉では表現出来ません。一人が失敗すれば、その場で全員が鞭等の制裁を受けた。一日の教育が終わり、食事を採り、夜の点呼も終わり、全員眠っていると「総員起床」である。目をこすりながら起きると「室内に塵がある、掃除が悪い」とビンタです。塵がなかったのにと全員目を丸くする。
 また鉄砲の手入れが悪いと、机の上に並べ、その上に正座させるのです。十分も座れない、膝から血が出るのです。また満州の室内には暖房用のペチカがあり、それに登れというのです。何度挑戦しても登れないのです。それを見て班長が喜んでいるのです。悪いイジメですね。今の常識では考えられないことです。(p88)坂井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_086_1.pdf

 その前日の一月九日、釜ヶ渕村民や小学校全生徒及び親族一同の歓呼の声に送られ、故郷を後に電車で出発、その日は富山市内の旅館に一泊、明けて一月十日、新雪を踏んで富山連隊に入隊しました。広場で私服と軍服に着替えが終わると昼食で、既に机に配膳してありました。班長は「食事はよくかんで、ゆっくりと食べなさい」との言葉。入隊前には食事は早く食べることと聞かされていましたが、軍隊も変わったのかと思っていました。いろいろ身の回りの整理が終わって「夕食用意」に机に配分する。班長も同じ机で「頂きます」で一口か二口食べた途端「この馬鹿者!軍隊は旅館でない」と木銃で食器等を引っくり返し「早く片付けろ、横に整列」で私的制裁の始まりです
 ほっぺたを叩かれ、腫れ上がるほどです。朝五時起床、二階への二十四段の階段を二回飛び降りろという。裸一貫で肌をタワシで赤くなる程、気合を掛けて六十余回摩擦する。・・・
 内務班では夕食、点呼、消灯まで大和魂を入れてやるといい、顔や頭、お尻などをまるで犬か猫のように叩かれる。板戸一枚隣は第六中隊の小銃隊。その隊の私の同級生の追野義光君が朝、食事を受け取りにきた時に会うと「東山、毎晩毎晩、私的制裁が恐ろしい。私機関銃でなくて助かった」と言う、この言葉通りです。(p78・79)東山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_078_1.pdf

 弱冠二十一歳を迎えた私は甲種合格となり、満州国東満総省林口県林口の山砲独立守備隊に現地入隊のため、名古屋の野砲兵第八連隊に仮入隊した。(p57)
 私が入隊した原隊の部隊は、当時、泣く子もだまると言われた関特演で鍛えられた関東軍の精鋭部隊で、特に九州、大阪出身の召集兵の古年次兵が多く、精強の猛者連中の集団部隊であった。まず営門まで隊列を組んで行進、営門をくぐるときは長旅の疲れも忘れ、緊張とやや興奮の面持ちで兵舎に入り、それぞれの内務班に配属された。(p61)
 また訓練の明け暮れが始まる。戦友が一人失敗し連帯責任を取らされ、我々初年兵が全員罰を受ける。
 「自転車変わり」「ウグイスの谷渡り」「カッポレ踊り」等の罰のほかに、時には前歯がへし折られたりもする。(p64)
 とくに私の場合、戦友のほかに班長の面倒まで仰せつかり、班長の当番兵として自分を含めて三人分を極められた時間内にやるのだからどうしてもやれないことが生ずる。そんな時に限って意地悪く検査があり、必ず槍玉にあげられ、同僚の初年兵も共々制裁を受ける。特に班長(下士官)ともなれば我々初年兵から見れば神様のような存在である。起床ラッパの鳴る前に起きて自分の毛布をたたみ、一番上の一枚だけ被って寝た振りをしている。起床ラッパと共にその一枚をたたみ、二階の戦友の毛布を、次に個室の班長を起して毛布をたたみ、急いで点呼の場に駆けつける。
 しかしこちらが急いでいるのに、なかなか起きてくれない。イライラしながら精一杯動くが、点呼の並び順が後部になりがちで、たちまち教育上等兵から「貴様!初年兵のくせに何をぐずぐずしているか」との怒声があびせられる。「ハイ、気をつけます」の一語でじっと耐え、その場はそれでおさまるが、また夜の点呼でやられる。点呼のあと必ず「初年兵集合」が掛り「貴様ら点呼の整列が遅い、気がたるんどる証拠だ!一列横隊に並べ。足を開き歯を食いしばれ」と声がかかり往復ビンタである。まあ毎夜のように、定期便のように何かないとその日は収まらないのである。
 ある日、夜の点呼の際、班長の用件で自分の編上靴の靴紐が時間的余裕がなくて洗ってなく、運悪くその日に限って編上靴の手入検査が行われた。「あゝシマッタ」と思ったがもう遅い。「加藤!前え出ろ、貴様。靴紐はなんだおかしくって出来んのか?」と嫌みたらたらの上「たるんでいる!」と一喝、とたんに一発「アゴ」に拳骨が炸裂する。余りの強烈さに一瞬、後によろめきそうになると、「何をヘナヘナさらしとる」とまた一発である。頬の内側が切れて口中血だらけであるが反抗もできない、やられっ放しである。
 それだけで済めばこの上であるがそのあとが大変である。編上靴の靴紐と靴紐とをしばり合わせ、編上靴を首に掛け、他の内務班を回るのである。その度に官姓名を名のり、靴の手入れを怠ったことの詫びの報告をしながら回るつらさ。他の内務班の教育係や古参兵に気合を入れられ、自分の内務班に帰って来ると、班の教育係上等兵から班の対〔ママ〕面を汚したと、また最後の一発である。同年兵達も一列横隊に並べられて同時制裁である。世間ではとても予想もつかぬことが平然とまかり通っている。(p64・65)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_057_1.pdf

 昭和十七(一九四二)年十二月一日、勇躍征途に着き、新発田歩兵第三十連隊に入隊しました。(p27)
 ・・・この新年は、我々の歓迎と入隊式が一緒で、派手に振る舞って頂きましたが、お客待遇も三日過ぎれば初年兵の身分となり、班内では隣の班で気合を入れる音がすると、我が班に飛火する始末でした。
 ある晩、点呼になった時、私が銃の手入れを怠っていることが発覚し「どうして手入れが出来なかったのか」と問われたので正直に答えるしかなく「班長室の掃除に行って出来ませんでした」と答えたら「お前達は共同精神に欠けている。一人分位やる気があれば出来るだろう」と、私はみんなに平謝りしてその場は納得してもらいました。そのほか事あるごとに体罰が繰り返され、鶯の谷渡りと称して机の下を腹這いになり、鶯の鳴き声を真似して通る仕業や、机の間を空けて両手で体を支え、足で自転車を踏む仕業、「それ坂道だぞ、早く漕がないと後戻りするぞ」と気合を掛けられたり、また申告と称して各班を回らされたり、そのうち城門衛兵に着いた時等は、古年兵を「交代です」と起すと足で蹴られ、已む無く三交替が二交替となったことなどがあります。これも軍隊が創立されて以来の申し送りと恨まず務めた事もありました。(p27)
 ある日のこと炊事に、飯上げに行ったら炊事係の肩章に苔が生えていると自慢していた古年兵に、持って行った飯盒で右頬を殴打され、飯盒をもう一度洗って来いと追い返されました。
 帰る途中、班長殿に会ったら「耳をどうした」と問われたが咄嗟に、炊事場の戸に当りましたと嘘をつき帰って見たら耳朶が切れていました。今でも傷が残っております。あのような古年兵には絶対なりたくないと肝に銘じました。(p30)高橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_027_1.pdf

しかし甲種合格でなく、第一乙種だからと兵役には関係ないと思っていたが、確か昭和十五年の秋頃、横浜連隊区より、「昭和十五年十二月一日、北支那派遣電信第十連隊へ入隊」との通知を受領し、同年十一月の末、近隣の方々に送られ集合地の横浜駅に向かった。(p14)
 営門を通過して広い営庭に整列、連隊長の訓示を受け中隊編成となり、私は第一中隊第四班に編入と決まる。我等初年兵は全員で九十七人、関東の出身者ばかりで、それに古参兵は関西出身者ばかりである。初めて聞く関西弁が分からない。入隊して二、三日はお客さん扱いで、わいわいと親切に教えてくれたが、四日目から突然豹変し、ビンタビンタの毎日である。夜の点呼が一番凄く、声が小さいといってはビンタ、銃の手入れが悪いと言って各班回り、タイル敷きの廊下に水を撒き褌一つになり四つん這いである。真冬の北支、何で俺がこんな目にあわなければと泣けてくる毎日が続く。
 同年兵の中にはこらえ切れず脱走する。一期の検閲までに九人に及んだ。その都度「非常呼集」で叩き起こされ、営外出動である。北支の野の酷寒が身にしみ、寒いより痛い。その上、八路軍の出没で危険この上もない。そして帰隊して待っているのはビンタの嵐。「お前等はたるんでいる。連帯責任だ」と。(p16)
 ・・・十二月十日、山崎軍曹に引率され初年兵が到着した。各県混成で関東、関西、沖縄の出身者もあり、十六年兵が入隊して我々もやっと二年兵になった。我々は自分たちが受けたビンタ教育は絶対にしてはならないと同年兵達と誓う。一週間後いよいよ教育訓練に入る。毎日充実した日が続き、それなりに楽しさがあった。
 一カ月位過ぎたある夜、点呼後突然「二年兵全員集合」がかかった。三年兵の奴等だ。初年兵達は何事かと皆緊張し我々の動きを見守っている。三年兵達は我々二年兵全員十一人を廊下に並ばせ、いきなり往復ビンタを掛ける。制裁の理由は、我々が初年兵に対し甘すぎるというのだが、初年兵の目の前で殴られた我々の面子は・・・・・・、寝床に入るも悔しくて、今に見ていろと自分に言い聞かせやっと眠りにつく。
 報復の機会は思ったより早く来た。三日後の深夜に「三年兵全員集合」の声が・・・・・・三年兵達はキョトンとした顔付きで「ナンダ、ナンダ」と怒鳴っているが、この呼集は我々同年兵の渡辺が先日の仕返しにやったと分かり、我々も黙っておれず立ち上った。だが渡辺は酒に酔って銃に実弾を込め、三年兵を一人一人銃でこずいて起し廊下に並べ立たせ、渡辺一人にまかせておけず、二年兵も全員銃を手に三年兵に向かう。三年兵達はシャツと袴下姿で震え、オロオロして「止めろ、止めろ」と青い顔をして叫ぶばかりである。
 我々は冬服に外套を着用しているので寒くないが・・・。「敬礼」と言う声で振り返ると週番副官の巡察だ。しまった・・・えらい事になった。副官は「お前ら何をしているのか。もう朝になるぞ」と言う。副官の顔を見ると何時も我々を良くしてくれる大原曹長だ。「もう許してやれ。お前達の気持ちは充分分かる。悪いようにはしないから解散しろ」とその言葉を切っ掛けに周辺を説得し解散、内務班に戻る。(p21・22)高橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_014_1.pdf

 私も昭和十九年七月、予科練の試験を見事合格、九月四日、岐阜垂井の美濃一宮南宮神社で武運長久のお守札を頂き、滋賀県大津市滋賀里の予科練、滋賀海軍航空隊に入隊しました。ここで昭和十九年九月から二十年三月までの六カ月間の基礎訓練を受けました
 ・・・私は第六班で、班長は大阪外語大卒業のN班長、二等兵曹で班長以下三十四人でした。誠に幸いだったのは、N班長は予備学生を受験してスベリ、今度は下士官志願をして下士官になった方でしたので、海軍のしきたり等何も知らないインテリ班長で、シゴキが一番少なかったのです。
 一兵卒から叩き上げられて二等兵曹になったような強者が班長でいる班は、例の「精神注入棒」で尻を叩かれたりします。「男たちの大和」と言う映画にも、このバットのしごきの場面がありますが、我々の班長は半年間にたったのバット二発だけ、隣の班などは毎晩でした。・・・
 しごきにもいろいろありましたが、カッターから始まって洗面器に水を張って頭上に上げるとか、腕立て伏せ、鶯の谷渡り、練兵場何周走れとかでした(p648・649)川合
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_647_1.pdf

 翌年一月、久留米第五十一部隊(野砲兵)へ入隊しました。(p18)
 一日の初め、この教育がすむと、毎晩の様に点呼時に行われる軍人勅諭の一人ずつの教育は、初年兵の一番の苦手な夕べでした。しかし皆カッポ(顔をたたかれること)をやられる時が多かったけれども、土曜の夕方たまに開かれる慰安の夕べは、厳しい訓練を忘れさせる楽しい一場面でした。特に歌の上手な初年兵には最高の場でした。そして訓練と「カッポ」と血の涙の出るような一日の繰り返しでした。(p19)
 そこで満州牡丹江東寧の第二一二部隊第三中隊要員となり、それぞれ内務班に分かれ、本格的な軍隊生活の始まりでした。(p20)
 それから古年兵の銃剣の手入れ、軍靴の手入れと、これこそ初年兵の泣き場のひとときでした。特に北満の赤土は軍靴にくっついて離れず、これこそ初年兵の多き案苦労の種でした。夕食後は久留米の時のように一人一人点呼で泣かされました。
 渡満して直ぐ新品で着て来た軍服はぬがされ、ボロ軍服を支給され、軍服を体に合わせろといわれ、それはとてもあわれな姿となりました。皆ズボンの破れの補修に当て布をして裁縫をしました。糸、針、ハサミは一人一人の携帯備品で、今までしたこともない初体験でした。うす暗い予備室では中々針の目が糸を通してくれませんでした。・・・
 軍馬は朝夕必ず給水の励行で、その作業は決して楽ではありませんでした。特に幹候生になり一段と内務班の先任の指導が厳しく「貴様達はいずれ上官の卵だ」からといって、カッポを激しくされ、他の初年兵以上に無理な教えばかりでした。・・・
 教練の後は久留米と同じく軍歌の練習で大変でした。初めて歌う軍隊歌は「露営の歌」「愛馬行進曲」「日本陸軍」「戦陣訓の歌」「麦と兵隊」他にまだありましたが、今でも哀愁のある「綏芬河小唄」は忘れられません。最初古年兵殿が歌って、直ぐ後を歌わせられ、何回も何回も繰り返して、大声で歌わんとこれまた気合を入れられ、覚えが悪いとカッポでした。(p21・22)堺
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_018_1.pdf

 徴兵検査は第二乙種で第一補充兵役となりました。昭和十六(一九四一)年四月十日、北部第十八部隊(山形)に入隊の召集令状がきました。(p28)
・・・剣吊ボタン掛け忘れでビンタ、眼鏡をはずさせてはビンタ、剣吊にバケツ下げさせて一班から六班まで叩きながら回って来いと、戦友は拍手して笑うほかありません。自分がしなくても誰かするだろうと、この横着な気持ちが分かると、バケツに水を入れ五分間手に持って廊下に立っていろと言われることもありました。
 宮内町から召集された二人は歩兵砲中隊に編入され、私は連隊砲の特業で、一人は速射砲でした。大砲の部品名覚え、分解、組み方、接合の時、ちょっとでもかちあう音がしますと、長さ一メートル、直径二センチの鉄棒で鉄兜の上から叩かれる。痛いが我慢して戦友に痛かったと言いますが、本当は痛くない助教官の叩き方があると思いました。助手でも良い人悪い人がおりまして、初年兵には影響甚大でありました。
 テストである程度覚えて来ますと十メートルぐらいから走らせ、「右二五一分角、あるいは一八七分角、距離三五〇〇」と言われ、砲を操作して「良し」と言うまでタイムを計られます。照準器には揚げ止めと下げ止めか〔ママ〕あり、間違うと砲身が多少動くので嘘と分かり、鉄帽の上からゴツンと叩かれます。・・・
 検閲では砲手三人、弾薬箱八人、学科質問三十五人で私は砲手で射手でした。普通、大砲は馬で引張る訳ですが、時折引き綱での駆足となりますと苦しく、汗を拭くことも出来ません。休息の時、百メートル前方の木を触って来いと駆足をさせられます。触らずに来た者は助手からビンタで、また駆足をやらされる。教官は双眼鏡で見てますが、二回目は必ず触って来ますので双眼鏡は見ません。(p29~31)清水
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_028_1.pdf

 昭和十七年五月一日、入団祝もそこそこに鹿島駅にて多数の見送り人の歓呼の声に送られて、佐世保第二海兵団相の浦分団に無事入団しました。第二十四分隊第八教班に配属されましたが、知った者は一人もいません。そして志願兵ばかりですから十七、十八歳の若者揃いでした。
 私達は兵科でしたので、寝るも起きるも、すべて「総員起床五分前」のラッパの合図で釣床降ろし、釣床納め等です。数回一番後にでもなったら平手打ちを食らうのです。(p100)山上
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 ところが計らずも合格の通知を受け取り、来る十月一日に四国松山航空隊に入隊せよと書いてありました。・・・
 入隊まであと半月、ある日、私は東京の親戚を回り今度海軍予科練習生として入隊することを報告し、(p152)
 そのころ、巡検(当直士官が当番兵を連れて各兵舎を回る。当番練習生と下士官が分隊の人数と設備装備などについて報告をする)、これが終わるとしばし我々にとって自由な時間となるはずであったが、飛練時代は罰直の時間になったのです。(p153)
 こうして松山航空隊の一期生としてすべての教程を終え、次の飛行術練習生として虎尾海軍航空隊台中分遣隊に転属することになり、(p155)
 帝香丸が基隆に接岸したのが夕方でした。西も東もわからぬ我々は衣嚢を肩にのせて上陸し、岸壁を駅に向かって歩きました。台湾は南の国と聞いていたので船内で二種軍装に着替えていた。全員百八十人が衣嚢とトランクを抱えて客車から出るには時間がかかる。そこにさっそくバッターを待〔ママ〕った教員らしき人が車内に入ってきて「こらーお前ら、早くせーい」と言いながら、バットで床をドスンと叩き我々を急がす。「たるんどる」の一声でまず台湾での初バッター一発をもらう。(p156・157)安藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_150_1.pdf

 海軍に入団して真面目に、気力を出し思いやりの精神を持てば必ず認めてくれると、隣の先輩の話でしたが、現実はそんなものではなかった。ときには個人の事でも集団罰直は日常茶飯事でした。精神注入棒で尻を叩かれ、「歯を食いしばれ」で拳骨で顎を殴られるのが、これも日常茶飯事のことでした。しかし戦況悪化の昭和十九年後半になって、だんだんとそのようそうも変化し、自分の階級が昇るとこのような罰直は少なくなったように思います。・・・
 一方陸上訓練では、早朝より片道十キロ余の福知山の長田野練習場の陸戦が行われ紅、白に分れての攻撃合戦は今思うとこの苛酷な訓練をよくも耐えたものであると思う。水筒の水が無くなり雨水の「タマリ」に手を出し吸引したこともありますが、よくぞ病気にならなかったものです。この後が大変でした。この訓練が終了し、一斉に空に向け銃を立て引金を引いた瞬間、仲間から一発の空砲が発射されたではないか、これは一大事で本人のみならず班員全員が夕飯抜きの罰直受けたことがあります。ウラミ節ではないがもう少し友が早く気が付けばな・・・・・・と思ったことでしたがすべて後の祭りでした。
 あるとき集合が掛かり行って見ると、ある先輩(水兵長)がとある女性からの恋文が分隊事務室に舞い込んだのです。さあ大変、当人が全裸になり水が満杯のオスタップ(金属製のタライ)の中へ入るよう、これが俗にいう見せしめであり、全体の規律を守る上での大切なことでもあったかな・・・・・・と思います。
 水雷学校生徒の時、とある仲間が屋上に乾かしていたパッチがなくなり、それを運悪く盗み衛兵に見つかったことがありました。大変、室に帰りバットで立ち上れないほど殴られてハンモックで三日間寝込んでいる様を見ますと、さすがに軍律の厳しさを痛感させられたものですまた防備隊勤務のおり「成生」に乗組み日本海沿岸警備のある日、とある先輩(水兵長)から呼び出され「下士官の指示で若者が少し気が抜けている、締め直せとの指示が出たので君達を呼んだ、こんな小さい船で君達に罰を加える事は忍びない。手で合図するからその時は大きな声で、返事しなさい」とのことでsた。そこで七、八回ぐらい気合を入れられている様子で「ハイッ」と言ったと思いますがあのときこのような温情あることに感謝するのみでした。
 舞鶴一分隊の勤務には衛兵、公用使、小型船での将校の送迎などありますが、西側で立番中、無〔ママ〕遊病者のごとくフラフラと動く黒い人影を見ました。そのとき、夜の消灯時刻が終ったころで直ちに近づき事の詳細を聞いたところ、脱走したくてここにやってきたとのこと。私は順々に諭し、辛いのは皆一緒、頑張るんだと励まし、衛兵伍長には内緒で帰隊させたこともありました。(p120・121)上田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_119_1.pdf

 案の定、昭和十九年七月二十日、その召集令状が届きました。海軍水兵舞鶴会兵団入団の招集で、その日は七月二十八日でありました。・・・
 海兵団の訓練期間は約一ケ月でありましらがなにぶんにも三十八歳で生れて初めての軍う隊生活でしたから大変苦労しました。節水、入浴、選択、ハンモック等々日常の躾や規律が厳しいこと、またボート、防空壕などの基礎訓練の激しさ等、短期間でありましたから次から次へと習うことが多く、その上毎晩のように気合をかけられるのです。
 何か下手をやったり、ぐずぐずしているとみんなの責任として制裁を受ける。(p141・142)松島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_141_1.pdf
  
 私は敦賀の歩兵連隊へ入営しました。(p201)
 軍隊に入って第一期の検閲を受けるまでの約三カ月間の教育は、朝も昼も夜も怒鳴られ、殴られ通しでした。一番苦しく嫌なことは、対向ビンタで、同年兵同士を二列に向かい合って起立させ、交互に頬を殴るのです。手加減して殴ると、古兵が「力不足、一生懸命力を入れて敵だと思って殴れ」と檄を飛ばし、時には「これが手本だ」といって眼から火花が飛び出すほど殴られました。自分達も戦友に心でわびながら、少し力を入れて交互に殴ったものです。またウグイスの谷渡りで「ホーホケキョ」と鳴きながら寝台と寝台の間を登り降りさせられました。
 各班には銃架があり、並んでいる三八式歩兵銃の間から手を出して「お兄さん、寄ってらっしゃい。遊んで行きなさい」という「おいらん道中」。机を二列に並べて「自転車始め」で両手で机に身体を浮かし、両足でペダル漕ぎをさせる。そして「上官だ敬礼」と命じ、足を床に着けて不動の姿勢を取り敬礼すると「自転車をなぜ降りたか」と、理不尽この上なしの無茶苦茶な苛めをさせられました。すべて天皇陛下よりの御下賜品である、手袋、靴下に至るまで大切に使用せよとの厳しい教育でした。(p201・202)
 ・・・自分も上官や古兵の銃器を手入れした後に自分の三八式歩兵銃の手入れをして銃架に掛けておきました。突然班長が「ただいまから兵器検査を行う」と抜き打ち検査です。
 その時に自分の銃の床尾板のねじの溝に黄色い泥が入っていました。班長は烈火のごとく怒り「この銃は誰のか」でした。自分が名乗り出ると「馬鹿者」一言いって銃を持って下士官室へ引き返しました。数日前から班長は自分を「いじめ」ていました。西垣少尉(小隊長)は陸軍士官学校出身で、実に立派な陸軍将校です。その彼に私は実に良く可愛がられ「オイ小林ちょっと来てくれ」と何かについて指名されていたのです。それを憎んでの小銃引き上げ事件になったのです。
 班長室へ行って土下座して「天皇陛下より賜りし大切な三八式歩兵銃の手入れが悪く、心よりお詫び申し上げます」といったのですが、班長は知らぬ顔で他方を眺めながら煙草を吹かしていました。私は涙を流しながら一心不乱に、床に頭をつけて「お許し下さい」と一生懸命に懇願しました。
 最後には、どうしてよいか判断を失い、刑法懲罰でも、営倉(ブタ箱)でも軍法会議でもよい。この憎い班長を殺して自分も自決してやろうか、と物騒なことを、瞬間頭に思い描きました。隣の班長の計らいで「今回の不始末は許すが、以後絶対、兵器・武具を大切にせよ」となりました。このことは中隊全員に知れわたり、以後、小銃事件として語られていました。自分はこの苦い体験で「軍隊は運隊だ」ということを確信しました。小林
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_200_1.pdf

 宮内駅から部隊所在地に山形駅に着き駅から徒歩で東部第五十九部隊へと急ぎました。部隊の門を通り衛兵に軽く会釈して兵舎に向った途端『コラッ、こっちへ来い』と怒鳴られ衛兵の前に行くと『上衣のボタンが外されている、掛けて敬礼して行け』と注意される。『駅ではボタンは掛けていたが、急いだため汗をかき、途中で外してしまい、失礼しました』といいますと、『文句いうな』と怒鳴られました。
 三日目からは本格的な軍人訓練が始りました。一番身にこたえた演習は、防毒マスクを装着しての匍匐前進の訓練と駆足訓練で、途中で倒れる者もおりました。二週間過ぎたころから、入隊前に聞かされていた先輩からの私的制裁が始りました
 その理由としては、銃の手入れが悪い(個人のもの内務班長並びに先輩のもの、内務班出入り時の態度が悪い、声が低い、編上靴の手入れ悪い、靴下、衿布、敷布、枕カバーが汚れている、巻脚絆の巻き方が悪い、衣服の重ね順序が違う等などです。
 そして制裁の内容としては、拳での往復ビンタ、編上靴で造ったスリッパでの往復ビンタ、編上靴の底を舐めさせる、初年兵同士での対抗往復ビンタ、満水の掃除バケツ両手に持って長時間の不動の姿勢、柱へ上がって蝉の鳴き真似、鷲〔ママ〕の谷渡り等などです。
 私は三歳若い志願兵のため「高橋、貴様はまだ未成年のぼっちゃんだから手加減してやる」と軽く済まされました。(p245)高橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_243_1.pdf

 初年兵受領のため現地より多数の将校、下士官が来ておられ、自分等はその部隊に編入した。後日判明せるに、その部隊とは北支那派遣軍独立混成第四旅団第十一大隊第二中隊、略称して北支那派遣第二五九二部隊浜岡である。(p249)
・・・照明は石油ランプ、銃の手入れ中に誤ってそのランプに当てて壊すことがある。その時は一大事、夕食が終わってちょっと一服と言う訳にはいかない。その日の反省として古年兵よりいろいろと文句があり制裁を受ける。つまりビンタが飛ぶ。それで終わればよいのだが、クドクドと長時間やられると本当にウンザリする。
 夜の点呼が終わって消灯、床に入れどもおちおち眠れない。週番上等兵が巡視に回ってくる。銃架の銃の引き金を点検する。もし「カチッと」音がすれば、その兵は叩き起され、きつい制裁を受ける。「銃が休んでおらぬのに貴様よくも眠れるか」と。(p251)岩崎
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 入隊してからの毎日は厳しい訓練でした。大村の歩兵第四十六連隊といえば全国でも有名な精鋭部隊として名が轟いておりましたので、叩かれ殴られ時には編上靴で叩かれることもありました。涙を流しながら歯をくいしばって頑張りました。余りにも厳しすぎるので制裁を禁じられるようになりました。(p262)
 ・・・そして久留米陸軍病院の二十二病棟のマラリア病専門の病室勤務となりました。
 その病棟にはガダルカナル島でマラリアに罹って入院している人がいてガダルカナル島や南方戦線での苦労も知り勉強になりました。二十一病棟は精神病病棟で鉄格子がはめられ、二十人余りが収容されていました。叩かれて気が狂ったり、厳しい訓練で精神に異状を来たした人達だと聞きました。(p263)福田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_262_1.pdf

昭和十八年二月一日、東部第六十六部隊の営門をくぐり、晴れて帝国陸軍軍人となる。
 郡山は寒かった。隣の県なのだが、こんなに寒いとは思わなかった。「どっぽ」とよく言われたが、何のことか分らなかった。私たちの教育班長、白岩軍曹にこのことを尋ねると、我々の部隊は満州国熱河省承徳の第九独立守備歩兵第十三大隊であった。これを略して「独歩」と呼んでいたのだ。(p271)
・・・二番は重機関銃を五番は弾薬箱を撤去する任務を放棄して下山してしまったのだ。
 演習は終了となり解散となった。教育助手は初年兵を整列させる。「貴様ら、それぞれに責任をはたしたか。 「……」「重機関銃はだれが撤去したか」。私は手をあげた。「弾薬箱はだれが下げた」六番以下が手をあげる。
 「前列回れ右、対向びんたはじめ」初年兵たちは手加減して前にいる戦友にびんたをやる。教育助手は「びんたとは、こんなふうにやるんだ」と片端から全員を殴った。それから仕方なく手荒く殴り合った。(p274)
 ある日、馬蘭峪から古兵たちが出てきた。その中のT古年兵(二年以上勤めて二つ星の人を呼ぶ)に呼び出され、兵舎の裏に集められた。「貴様ら、たるんでいる。気合いを入れてやる」と片端から往復びんたの連続であった。初年兵たちの顔がはれあがった
 Tは殴り終わると帰って行った。我々はなぜ殴られたのか分からない。「お前ら。その顔はどうした」内務班に帰ると柳沼兵長に問われた。初年兵は返事ができない。「だれにやられた」「T古年兵殿に殴られました」「どんな悪いことをした」「たるんでいるからと」。
 「Tを呼んでこい」一人が呼びに行き、Tは兵長の前に立った「T、初年兵を何の理由で殴った」 「・・・・・・」「理由もなく殴ったのか」「・・・・・・」Tは無言だった。すると兵長の鉄拳が飛んだ。体の大きくないTは、ふっ飛んだ。「起きてこい」Tは直立不動。「初年兵いじめをするな」ともう一発。「帰ってよろしい」。初年兵たちはうれしかった。(p274・275)酒井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_270_1.pdf

 昭和十六年七月三十一日・・・ひっそりと姉と二人で大館駅から入隊部隊所在地の秋田市へ向いました。当日は秋田第十七部隊第二大隊長笠原中佐宅(笠原大隊長は戦死した姉の夫の上官で、夫の生前から親族同様のお付き合いさせていただいていたので、奥様のご好意でお世話になる)しました。
 翌八月一日朝、第十七部隊の門をくぐると衛兵から祝いと激励の言葉を頂き身の締まる思いがしました。・・・同日第二大隊行李班に編入されました。(p306・307)
 今までの軍隊生活を振り返りますと、私的制裁は入隊前に聞かされていた通り、関東軍特有の精神注入と理由付ける、殴る、蹴る等想像以上でしたが、私の場合笠原大隊長との関係を知っているためか殴るにしても他の兵より手加減され、また被服係助手、兵器係助手、人事係助手、初年兵教育係などの事務系勤務で恵まれた兵隊であったと感謝しております。(p309・310)
 ・・・分けても我らに印象を残すのは何といっても、あの冬将軍ではなかったと思う。体感温度零下六〇度ともなれば、防寒帽、防寒覆面、防寒脚絆、防寒靴、防寒外套と「ダルマ」のごとく着込んでも寒かった。
 この寒中に何んらかの理由を付けられて夜の点呼後、野外での一~二時間の不動の姿勢、これには閉口した。(p311)山内(松川)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_306_1.pdf

 海が荒れたために出航が一日遅れましたが無事に北朝鮮の羅津港に到着、汽車で鮮満国境を通過して、満州の牡丹江の穆稜に到着したのは夜になってからでした。昭和十三年十二月一日、柏部隊第八中隊、隊長古木中尉、田中中尉の部隊でした。
 翌朝の点呼にマゴマゴしている初年兵は全員ビンタを張られてピリピリするような空気でした。それから四カ月の再教育で徹底的にしぼられることとなりました。
 中隊長に一言挨拶して隊長室に入ると、田中中尉が「昨夜、初年兵が入って来たが、まだ実戦の役に立ちそうもないから、いくらなぐっても良いが、一日も早く一人前の兵隊になるようにやってもらいたい」と命ぜられました。同じ日本の軍隊でもこんなに教育方針が違うものかと驚きました。内地では私的制裁は絶対しないように厳しく言われていた時ですから、いつ戦場になるか分からない外地だから止むを得ないのかと思ったりもしました。
 柏部隊到着二日目の朝の点呼で、後に並んだ者は全員週番下士官にビンタをもらいました。早く並ぼうと起床ラッパより早く起きるのを見つかれば、またビンタです。どっちにしてもなぐられますが、みんな馴れるにつれて動作はきびきびと早くなり、なぐられないようになります。(p320)
 ・・・関東軍の教育ではよくなぐられましたが、その関東軍第三十連隊の教育も二期目が終わって、内地の高田へ戻れることになりました。(p321)平沢
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_318_1.pdf

昭和十七年三月一日、教育召集で郡山第六十六部隊に入隊しました。(p332)
・・・次の日は九九式の軽機関銃の射撃訓練をし、完全軍装で目標地点まで駆足。直ちに三発、五発の射撃命令で、十発中一発だけの命中で教官の梅宮見習士官に頭をポカポカやられる。他の兵は一点も取れなかったほど難しい射撃だ。・・・軍隊とは面白い所で、銃の手入れの不充分な奴がいて全員ビンタ、皆で申し合わせて顔に赤チンキを塗ることにした。翌朝点呼の時、中隊長に「その顔は何だ」 と聞かれ全員虫歯の治療と報告する。後で班長は制裁がばれて訓示されたとか、それでまたビンタをとられた。(p332)安藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_332_1.pdf

 私は第一種乙種合格ですから現役兵としての入隊の義務はありませんが第一補充兵として臨時教育召集を受け、昭和十四(一九三九)年三月八日輜重兵として第十一連隊に入隊、始めて軍人生活を体験する毎日が始まりました。(p354)
 初めは基本的な徒歩教練や集団の行動等でした。朝の起床ラッパから夜の消灯ラッパまでの時間が長く感じられ、一日の時間を過ごすのも大変でした。規則正しい型にはまった毎日の教育は初めて体験することばかりです。何事も班の全員が出来なければならず、一人でも出来ない者がいると全体責任で「ビンタ」をもらいます。こんなことは度々でした。・・・
 ある日初めて兵舎外へ行くといわれて出発しました。行くうちに途中で足にまめが出来て痛くてたまりません。その豆が今度は裂け痛むのです。それでも人に遅れないように我慢して歩きました。今度は左足にも豆が出来痛むのです。それでも人に遅れないように我慢して歩きましたが遅れて、近くで指導していた上等兵に見つかって叱られました。「早く行け」とどなられてビンタを二つほどもらいました。(p354・355)
 この教育期間のことを振り返って見ますと学んだ事も多かった中でとくに感じたことは何事も何日までと時間を定められると、一生懸命に努力する。例えば「軍人勅諭」を覚えることもそうであるが、出来なければビンタでひどい目に遭うので必死の思いで頑張るとそれができる。つまり人は土俵際に追い込まれた時全力投球で全う出来ることを身を持って体験出来たことです。そしてこの一カ月間に「ビンタ」の数多くもらいました。(p354~356)八和田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_354_1.pdf

兵隊検査は第一乙種合格で、昭和十九(一九四四)年二月五日、現役兵として名古屋の中部第二部隊に仮入隊しました。所属は独立歩兵第十一連隊(泉第五三一四部隊)第二大隊機関銃中隊、大隊砲小隊であります。(p455)
古年兵や教育助手の「気合いを入れてやる」は軍隊教育の決まり手ですから、やられる初年兵は観念して歯を食いしばる。(p456)長坂
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_455_1.pdf

 徴用されて一年、やっと作業になれた昭和十九年六月一日、」京都第四十二部隊通信部隊へ入隊せよとの召集令状が留守宅に届いたことが父より連絡あり、早速帰郷、入隊準備をしました。
 六月一日早朝、親戚、知人、近隣の皆様に挨拶回りをして、親兄弟と別れの杯を交わし、多くの、方々の見送りを受け、必ず元気で帰ることを誓い、鯖江駅を出発しました。午後、入隊手続を終え、三カ月前に入隊した先輩と起居を共にすることになりましたが、中に四、五人の二年兵がおり、これから一カ月ほど私的制裁を受けることとなりました。(p464)大森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_463_1.pdf

 昭和十八年四月十日、青森県八戸市の第六航空教育隊に入隊しました。青年学校で教官から指導頂いたことを忘れず、喇叭手の経験も言わずに一生懸命頑張る覚悟で初日の床に就きました。
 一週間ぐらいは先輩から上げ膳、据え膳の待遇を受けましたが、青年学校で教官から聞かされていた通り、否それ以上の、私的制裁が始まりました。「軍人精神を入れてやる」などとの訳の分からない理由を付け、左記のような理由付けしての私的制裁でした。
一 弛んでいる 
二 歩きが遅い 
三 先輩に対する言葉使い、態度が悪い
四 内務班での出入の際の申告の声が低い 
五 衿布が汚れている 
六 軍靴の手入れが悪い
七 軍足の修理が悪い 
八 銃の手入れが悪い 
などです。
私的制裁そのものは
一 往復ビンタ
二 軍靴で造ったスリッパでのビンタ 
三 満水の掃除用バケツを両手に下げて三十分ぐらい不動の姿勢で立たせられる
四 柱に上り蝉泣き
などでした。
 同年兵は後六カ月経てば初年兵が入って来る。それまでは「我慢、我慢」の合言葉で耐える約束をしていました。(p477・478)清野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_475_1.pdf

 昭和十年三月横網区役所で兵役検査を受け、第二補充兵輜重兵とのことでした。
 昭和十二年十二月十二日、東京世田谷区大蔵にあるある第二陸軍病院衛生兵として召集され、階級は陸軍二等兵、六カ月の教育訓練終了後に第二陸軍病院の薬室勤務を命ぜられ、一等兵に進級しました。冬の寒い日にも古兵の洗濯物を競って洗濯したり、靴の手入れなどで結構多忙でした。
 ある時、軍衣の第五ボタンをなくし、そのまま夜の点呼を受けましたが、上等兵殿に他のボタンを取られ、その上ビンタを五~六発もらったことを今でも覚えています。しかし一般の連隊における兵の訓練に比べると衛生兵の訓練ははるかに楽だと聞かされていましたので、衛生兵で良かったと思っていました。(p489)丸山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_489_1.pdf

 次の作戦命令がでて、我が隊は比島スピック湾のオロンガホ港に到着し、第八十一特別根拠地隊に編入され、私達電信員三人に暗号員二人が加わり、つ常塚三郎少尉指揮する陸戦隊員となりました。(p511) 
 ・・・第一〇三海軍病院で一カ月間治療後、六月中旬退院し第三十一通信隊に編入になりました。(p513))
 昭和十七年六月下旬、マニラを出発してボルネオ島のバリックパパンに到着しました。根拠地隊電信所には第五十七期の戦友十人が配属されており心強く感じましたが、二等水兵の哀しさ、毎夜整列ビンタとバッタ叩きの明け暮れに涙が出ました。食事も毎食、外米とカボチャに馬肉と同じ物で、野菜は自給栽培しましたが、それは先任水兵長や下士官に供し、私達二等水兵は食べられず、階級の厳しさを恨めしく思いました。(p513)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_508_1.pdf

 ・・・農家の長男が船になど乗ったこともないのになぜ海軍を志願したのか、七つぼたん〔ママ〕に憧れたのか、自分にも分かりませんが、志願したら甲種合格となり、昭和十九年二月五日、舞鶴海兵団に、入団致しました。
 うわさには聞いておりましたので多少の制裁は覚悟して入団したのですが 、鳴きまねから鴬の谷渡りなど、さらに肉体的苦痛を伴う制裁として精神手入れ棒と言う樫の棒で思いっきり尻を叩かれると赤く腫れて歩くのに大変苦痛でした。また尻の皮がむけて痛くて風呂に入れないことも度々でした。
 そんな苦痛の三カ月の教育期間も終わって、昭和十九年五月には西舞鶴の防備隊に一時入隊として一カ月入隊させられました。防備隊に入隊しても制裁は相変わらずでした。・・・
 三カ月の実習が終わった昭和十九年九月に航海学校を卒業して原隊の舞鶴海兵団に復帰しました。バット回収と言って、いわゆる精神手入れ棒と言う樫の棒を隠し持っている者から取り上げて集め、それを廃棄する任務を命ぜられました。そして集めたら一人で二本も三本も隠し持っている古兵もおりました。中には折れた棒まで大事に隠し持っている古兵もおりました。(p499)公平
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_498_1.pdf

 昭和十八年四月一日、十八歳で佐世保の相浦第二海兵団に入団致しました。(p518)
 さて希望に燃えて海兵団に入団しましたが、新兵教育は峻烈を極めたものでした。起床ラッパに飛び起きて、床上げ、掃除、食事、食事は班長も一緒にするので、その世話も回し当番でやります。少しでも遅れたり悪ければ大変なことになります。一個班は新兵ばかり二十人ほどでした。教班長は下士官のバリバリで班長室は別にありました。班長室、あんな恐ろしい所には入ったことはありません。
 六時起床で八時ごろ日課が始まりますが、毎日がピリピリの連続でした。精神注入棒(バット)ですが、 カッター訓練競技に負けると昼夜の食事の時、班長に卓上の食事をひっくり返されて、食事抜き、消灯後に精神注入棒で海軍魂を植え付けられました。毎晩、毎晩、何のかんのと、難癖を付けては叩かれました。班長の虫の居所が悪いと当り散らされ、さらに上官に叱られて、そのとばっちりがこちらにバットが飛ぶと言う具合でした。親が見たらどんなだったろうかと今考えても胸が熱くなります。
 私は整備兵要員ですので整備の教育をうけました。かくて苛烈な初年兵教育も終わり、七月二十五日、大村海軍航空隊に配属になり移動しました。勤務場所は違いましたが、羽田野正志さんも一緒に大村にきました。
 大村では整備隊に配属されました。各分隊に二、三人の新兵が配属されましたが、ここでは兵長クラスが一番恐ろしく困りました。毎晩、甲板整列があります。至る所に精神注入棒が備えつけてありました。ここでは棒のほかに水に浸けたロープで叩かれる制裁も受けました。ぐるりと回るので痛さが身にしみます。歯を食いしばって耐えました。機関科はもっと酷かったと聞きました。(p519・520)

・・・部隊は朝鮮釜山付近の亀裏地区に移動しました。ここで十一月三日の寒い日、鮒を取って来いと上の人が言うので取りに行きましたが、朝鮮の冬の川は凍りついていました。その時は鮒等が取れたと思います。食べたかどうかは覚えてません。上官の誰かが無理を言ったのか、嫌がらせか酷いことです。もちろんこれは明治節のお祝いの魚ではありませんでした。(p520・521)朝倉(志村)
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 昭和十九年、徴兵検査で甲種合格となり、山形連隊に入営しました。(p20)
 私たちは現地に到着前、列車の中で転属の命令があり、砲兵隊に転属となって列車から下車した者は百人ぐらいと思いますが砲兵隊の各中隊に配属されました。私は野戦重砲自動車中隊に配属されました。(p20)
 教育が始まりますと父親から聞いた軍隊の厳しさが身にしみてきました。「すべて大きな声ではっきりと」を主眼の教育でしたので、東北弁で大声で答えると間違って受け取られ、ビンタのお見舞を受ける事もしばしばでした。(p20)佐藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_019_1.pdf

 昭和十八年二月二十日、福井県鯖江の中部第六十四部隊に入隊した。兵舎で卒業以来久しぶりに旧友に会い、懐かしさでにぎやかに騒いでいたら古年兵が入って来た。「貴様ら!娑婆気が抜けておらん。今から軍人精神を叩き込んでやる」「一列横隊に並べ!」 「歯を食いしばれ!」とたちまち往復ビンタが頬に炸裂した。よろめくのを両足で踏ん張る。「目から火花が散った」。こんなにひどく殴られたのは、生まれて初めてだ。           
 入隊七日目の早朝、父母、祖母、五歳の弟が昨 日から泊りがけで面会に来てくれた。祖母が「おはぎ」を持って来てくれた。おいしかった。親父が私の腫れて変形した顔を見て、心配そうにどうしたのだと聞く。毎日、軍人精神注入のビンタをくっていると答える。親父は何も言わずに「うー」と唸ったきり。「親父!俺たち今夜どうも中支へ出発するらしい」と小声で伝えた。(p30)
 独立歩兵第六十大隊の第三中隊(安徴四河口)に入隊した。そして軽機関銃班に編成され地獄の初年兵教育が始まった。誰もが班長室に食事を運ぶ者がいないので、私が大声で「入ります!」と言って食膳を差し出したら!捧げていた食膳をいきなり足で蹴っ飛ばされた。私の顔面に味噌汁、飯がもろにかぶり、「お前の口臭が掛っている。膳は目の上まで上げて持って来い」と言われた。こんな侮辱を受けたのは初めてだ。
 初年兵たちが集まってきて、私の服を拭いてくれたり、食事を新しく揃えてくれた。「飯」の上に私の頭の「フケ」 をかき落し、味噌汁の中に 「つば」を吐き入れて、目の上より高く差し上げて持って行った。以後二度と班長室へ食事を運ばなかった。
 初年兵教育が始まって十日ぐらいしたころ、ずんぐりした背の低い頑丈な身体の池田兵長が入って来た。 「これから俺がお前たちの面倒を見ることになった。今までのように甘くはないぞ。今から挨拶がわりに気合を入れてやるから一列横隊に並べ!」「歯をくいしばって、足を開いて踏んばれ」。丸太棒のような太い腕で先頭の初年兵が一発で横にとんだ。次も次も飛ぶ。次は俺だ!頬に「ガーン」と強烈なビンタで身体が一メートルぐらい飛んだ。目から火花が散った。こんな凄いビンタは初めてだ!以後毎日のようにビンタをくうことになった
 軍隊ではビンタで肉体的に徹底的にしごいて、何が何だか分からないように思考力を無くし、いかなる難題で過酷な命令でも文句を言わせず服従させる。恐怖心を与えていれば兵隊の動作は敏捷になり、反射神経だけで動くようになる。半年か一年先輩の古年兵が「上官の命は天皇陛下の命だ」と言っては、何とか理屈を付けてビンタをくらわせ、 「お前らは消耗品だ死んでも一銭五厘(ハガキ代)でいくらでも代わりが来る」と言う。  
 どの班にも「ドジ」 な兵がいて、いつも「ヘマ」をやらかすと戦友愛が無いと言っては全員ビンタをくう。一番辛い、たまらないのが対抗ビンタである。古年兵はタバコを吸いながらこれを見て楽しんでいる。私の銃の手入れが悪いと言っては夜中に三時間も捧げ銃をさせられたり。私が眠っていると叩き起こされて軍靴の底の土を舌で舐めさせられたりする
 日曜日は訓練は無く、班内で休んでいたら、古年兵が「加藤、こっちへ来い」と古年兵の兵舎に連れて行かれ、山と積んである白い敷布を洗わされたり、歩いていたら初年兵のくせに生意気だと言っては殴られる。言い訳をしようとすると「文句があるか」とまたひどく殴られる。初年兵でも耐えることにも限界がある。いっそ死んだら楽になるだろうな!過酷な訓練もビンタも腹も減らない。何もしなくていい、天国だ。しかし死ぬより病気にでもならないだろうかと、生水(クリークの泥水を濾過)を飲むと、アミーバ・コレラになるから絶対飲むなと言われていたのを承知で、がぶがぶ飲んでみたが、腹が痛くならないし下痢もしない。  
 夕暮れ、ある初年兵が風呂敷を抱えて兵舎を出ようとするので「お前どこへ行くんだ」と聞くと「家に帰る」と行って営門の方へ歩いて行った。毎日陰惨な「いじめ」で頭がおかしくなってしまったらしい。他の中隊では初年兵の首吊り自殺があったらしい。 (p30~32)
 初年兵教育が終わって、初めて不寝番勤務に着く。「古年兵の起し」があり、いくら呼んでもぐっすり眠っていて起きないので、強く振り動かした。半身起きて「分かった、分かった」と二度も言ったので安心して次の不寝番と交代して眠った。  
 中隊全員朝の点呼時、週番士官が「昨夜の午前三時から四時までの不寝番勤務の兵隊前に出ろ」「ハイ!自分であります」と二、三歩前に出る。「昨夜古年兵の連絡兵を起こしたか」私が答えようとしたら、横から池田班長が飛び出して来て「貴様!」と言いながら強烈なビンタが顔面に炸裂、体が一メートル飛んだ。倒れている私の胸倉をつかんで立たせ右頬にビンタ、目から火花が散る。気が狂ったようにわめきながら私の顔を軍靴で踏みつける。蹴飛ばされ、殴られ、これは殺されると思った。そして神経が麻痺して殴られても痛みを感じなくなって気を失ってしまった
 気が付いたら自分の床の中であった。頭が「ガンガン」とする。顔が腫れ、顎は外れ、全身あざだらけ。どうして自分がこんな目に合わなければならないのか、さっぱり分からない。池田班長に聞きに行った。加藤が昨夜古年兵を起こさなかったために重要な連絡が出来ず、今朝古年兵が馬で飛んで行ったのだ。「自分は二度も古年兵殿を起しました」。班長は「うんー」と言った切り黙ってしまった。(p33・34) 加藤
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原隊名は満州東部第一二一部隊、連隊長は平桜大佐で、第一大隊第二中隊に所属することとなった。中隊長は稲場中尉であった。(p58) 
 内地勤務のころは、私ども新兵だけの班生活であったが、ここに来て班内には一等兵、上等兵、兵長と古参兵たちが仲間に加わり、毎日緊張の日々が続いた。
 そして数日過ぎたころから毎日のように古兵から怒鳴られビンタがある。班長からのビンタも珍しくない。鼻血がでたり頬から首すじに赤黒いアザが出来たこともしばしばあった。  
 理由は「貴様たちは近ごろタルンでるから軍人精神を叩き上げてやる」と言うことである。こうしていよいよ本格的な軍事訓練が始まった。(p59) 平野
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_056_1.pdf

 中隊長は「ただ今より、お前たちの父親となる。母代りは班長、兄代わりは古兵である。お前たちは忠節を尽くし、礼儀を重んじ、質素を旨とし、初心を忘れず、兵隊らしくやれ。なお古兵たちは、他中隊では私的制裁が行われているが、当中隊では、絶対やってはならない。肝に銘じて置け。自愛を持って接し、一日も早く、一人前の兵隊にして、有事に備えよ」とのことだった。
   入隊一、二日は、兵舎班内・その他施設の説明、軍規、内務班の状況、諸規則の説明。三日目は、三種混合の注射後は無理に寝かされ、何もせずの状態であったが四日目を過ぎると、がぜん変ってきた。
 厳しい内務規則に、戦場の状況を加え、それはそれは、厳しさを超えた厳しさであった。早飯早糞、古兵の食器洗い、編上靴の手入れ、寝床の敷き上げ等に、時間がいくらあっても足らない。中隊長の私的制裁ならぬといった事はいっただけで、隣の班、自分の班から、怒声とビンタの音が聞こえて、騒がしくなる。(p65)       
昭和十四年四月、現役兵として歩兵第四十三連隊に入隊する。同連隊は通称「錦第二四三五部隊」で第十一師団に属する。(p72)岡
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昭和十七年五月一日、土浦海軍航空隊へ、同期四百人が乙種第十八期飛行予科練習生として入隊した。・・・そして半年後、操縦分隊と偵察分隊に分かれたのであった。私の偵察分隊は、三重航空基地へ移動したのであった。そして昭和十九年三月、私たち偵察分隊は操縦分隊と別れて徳島航空隊へ入隊し、猛訓練が実施されたのであった。・・・また飛んでいる飛行機の中での前支えや、飛行後の地上で操縦教員からの鉄拳で殴られ、血が噴き出し、飛行服の前が真っ赤に染まったことなど、そのほかにも忘れられないことが多くあった。(p147)宮村

 三十分ぐらい面会の後、内務班で軍装して整列、秋田駅に向いました。午後二時、秋田駅発の臨時軍用列車に乗車、再び父と姉にも会うことができ、また互いの幸せなどを祈り合いました。  
二月二十三日 下関出港、同日釜山港に上陸
二月二十五日 鮮満国境(東安)通過
二月二十七日 北支山海関通過
二月二十九日 独立歩兵第二二八大隊教育隊に編入
三月一日 独立歩兵第二十八部隊転属
三月二日 昔陽到着、近辺の警備、重機班に配属
 また、同日より二十四人の班員に対して初年兵教育が始まりました。・・・
 また、名前は思い出せませんが、小銃分隊の初年兵が軍隊生活の厳しさに耐えかねて兵舎の向い側の倉庫の中で、自分の小銃の銃口を喉に当て、足の親指で引き金を押しつけて自殺したと聞き、日本男子にもこんな者がいるとは、残念に思いました。同じ班の初年兵の話によれば、軍事訓練の厳しさより私的制裁に耐え切れず毎日悩んでいたらしく「お前だけ制裁を受けているわけではない、皆同じだ。我慢、我慢」だと元気付けていたのにと残念がっていました。
何しろ毎日、日課のようにビンタが飛び、いろいろ公にしたくないような方法で、何にも悪いことをしていないのに制裁が行われ、先輩の言葉によればこれも申し送りとか言います。
 私も何の理由もないのに重機の手入れが悪いとか何とか理由付けられ、重機の先で殴られ頭から出血したことがありました。殴った先輩が心配して同道されて医務室に向う途中、軍医からどうしたと聞かれたら、屋根から落ちてきた瓦で傷ついたと言えと言われ、その通り軍医に申告しますと、軍医も気付いたのか「これは瓦による傷じゃない」と、先輩を睨み、「今後このような殴り方止めろ」と怒鳴りつけていました。私もしゃくに障り、先輩を睨み付けました。(p163・164)斎藤
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 昭和十九年十一月十五日、西部第四十七部隊に入隊すべしとの通知を受けた時は「やっと来たか」と喜びました。(p178)
 大村部隊に着きますと、三百人ぐらいの初年兵が入隊し(p179)
 ここで防寒服を支給された私たちは、論次から北十キロ地点に位置する東洋鎮に駐屯する第二中隊(中山隊)に派遣となりました。(p179)
私は青年学校で軍事教練などの教育を受けていましたので少しは楽でしたが、防毒マスクをかぶり走らさせられるときは苦しくて苦労しました。そして毎日叩かれ、叱られての生活には、軍隊の厳しさを身にしみて感じました。(p180) 松尾
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 集合場所の郡山駅前広場は、入隊する若者でいっぱいでした。引率の下士官が見えられ、千葉県市川国府台の東部第七十三部隊「野戦重砲留守部隊」に入隊となり、私物は家に送るように荷造りをして、代って軍服を受領し、戸惑いながらも着替えしたのを、六十年過ぎし今日でも、あの緊張感と共に思い出されます。  
 兵舎に入って、内務班の一班は十五人ほどだったと思いますが、班長、班付上等兵を紹介され、「お前たちは、行く先が分るまではお客様だから」と言われて、その気になっていますと、突然、「整列!」の命令が下り「お前ら、ここは娑婆ではないんだ」と、まだ若い班付の上等兵に猛烈なびんたをもらい、これが軍隊のびんたなのかと驚きました。(p192)小川         
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 昭和十九年の春に徴兵検査を受け、第三乙種合格となり、翌二十年五月、ソ満国境牡丹江の近くの綏南の第八四八部隊機関銃中隊歩兵班に入隊し連日猛訓練を受ける。
 入隊して四、五日たったであろうか、夕食後の自習時間に突然、隣の内務班で班長の全員ビンタが始まった。何やら大声でどなりつけ片っ端からパンパンと殴る音が聞える。それを聞いた我々の班でも班長が忘れていたかのように「ヨーシ、うちでも一度やっておこう。全員食台の前に並べ!軍隊の上靴ビンタというのを味あわせてやる!一人ずつ俺の前に来い、足を開き歯を食いしばれ!」有無を言わせず一人ずつポーンポーンと始まった。叩かれた頬はしびれ、反対の頬はポカポカホテリ、翌朝、兵隊たちの顔の半分は紫色には腫れ上がっている。とんだ隣り班からの巻き添えである。
 この上靴ビンタは、軍隊の編上靴の上部を切り取ってスリッパ状にしたもので、踵には鉄のビョウが五、六列に打ち込んでいて廊下を歩くとカタンカタンといかにも堅そうな音がする上履きである。このような痛い目に逢ったこともあったが、また、楽しくもあり、スカッーとした心地よさを感じたこともあった。(p227・228)門口
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昭和十八(一九四三)年五月一日、横須賀第二海兵団へ海軍二等整備兵として入団しました。 ・・・国家のためと気負い込んで、また憧れての入団でしたが、翌日からの新兵教育の厳しさには驚きました。どこまでが教育で、どこからが私的制裁か区別無く殴られながらの毎日でした。(p440・441)中村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_440_1.pdf

昭和十八年六月、十六歳で予科練(特乙二期生)として岩国航空隊に入隊しました。 しかし十代の青春は、厳しい軍隊生活の毎日でした。精神棒(野球のバットより太めの木棒)で尻を殴られることは毎日の日課でした。(p420)浅野
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待望の佐世保海兵団に昭和十六年一月十日入団せよとの通知が届きました。海兵団の新兵教育は三カ月間。毎夜整列してお尻へ精神棒(野球のバットの太いやつ)を叩き込まれます。一人でも悪いと団体責任でやられます。立ったままだと倒されるので壁に手を付いて支え、尻を突き出す形になって叩かれるのです。連日叩かれると尻が黒くなり便所で用を足すときの痛さに泣く思いでした。陸軍のビンタと海軍の精神棒はいづれも下級兵士の恐怖の的でした。 (p416・417) 鈴木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_416_1.pdf

一 軍人は忠節を尽くすを本分とすへし
一 軍人は礼儀を正しくすへし 
一 軍人は武勇を尚ふへし 
一 軍人は信義を重んすへし 
一 軍人は質素を旨とすへし
 当時、軍隊に入った者は、皆この軍人勅論なる「聖訓五箇条」はいつでも、教員、上官に言えと 言われれば、間違いなく言えなくては鉄拳が顎に とんでくる。気合がたるんでいるという。 
 旧兵と新兵、海軍では階級が下でも飯の数で物を言う。一教班十五人ぐらい、教班長は五年から 十年海軍に在籍したもので、新兵教育は海兵団で 
四カ月、みっちり娑婆気をなくし、半人前の海軍軍人へ育っていく。
 海軍には「バッタ」 「カシタ」 「マエササエ」がある。 「バッタ」とは両手を上にあげ両足を開き、尻を突き出し樫の棒で尻を叩く。三つぐらい叩かれ、「アリガトウゴザイマシタ」といって自分の列に帰る。(p406・407)

 それにひきかえ軍楽隊はいいな、一日中プカプカドンドン気楽でいいなあ、俺にもできるような気がする軍楽隊になりたいなと切実に願う奴も出てくる。ここで鬼軍曹に匹敵する教班長の出番がやってくる。・・・
 仁王だちになった先任教班長は、志願者たちの顔をひとまわり眺めわたし一歩前に出た。
 「この馬鹿者、海軍はそんなに甘くはない。お前ら志願して海軍軍人になり軍服を着た以上、タイコを叩いたり笛を吹いたりするちんどん屋になるなんて貴様ら気合がたるんどる。これから根性を叩き直してやる。ブッ倒れるまで気合を入れてやる。両足を開け、踏ん張って歯を食いしばれ」 。
 頭を何発くらったやら、教班長連中はいろんなシゴキを知っている。これも班長連中も新兵時代にやられてきた道で、こんなにシゴかれ、やがて一人前の軍人になって行く。 (p407~409)児玉
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_406_1.pdf

 夜になり玄界灘は大時化となり、右にゴロリ、左にゴロリ。翌日はおだやかになり、揚子江を上がって一月三十日上陸、上海海軍特別陸戦隊に入って現地教育を受けました。気候は、三寒四温で寒い朝は弱りましたが、訓練は学校の教練の時間に習ったことばかりで、陸軍と同じで苦にはならなかったのですが、対抗ビンタや風呂場からの匍匐前進などもさせられ、四月十五日で新兵教育は終わりました。(p390)谷口
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_389_1.pdf

兵役は、志願して昭和十七年九月一日に佐世保海兵団(兵籍左志機三六七六四)に入団しましたが・・・入団して、初年兵教育は多くの辛い思いもしましたが、思い出すのは、甲板掃除の際に「チェッー」とある初年兵が言ったために、全員が徹底的に教範長から痛めつけられたことでした。(p378・379)

ようやく三カ月の教育期間を終えて四等機関兵から十一月に二等機関兵となり、佐世保海軍自動車学校に入りました。入校三カ月で自動車免許を取得しました。・・・海軍自動車学校は佐世保の練兵場の中にあり、その教育隊での教育は、起居をはじめ、しつけなど、すべてに厳しく、階段の登り降りでも「遅い、遅い」と二十人全員がバッタをもらいました。遠出で佐賀県や福岡県へ行きましたが、帰還が遅いと二十人全員が並ばされ、またまたバッタの嵐を受けます。 (p379)町
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_378_1.pdf

 昭和十八年七月十日、久留米陸軍病院へ転属、下士官に引率されて、歩兵第四十八部隊に、 「さようなら」をしました。 久留米師団管下の各兵科諸部隊より選抜されてきた衛生兵要員の集合です。(p313)
 夕食後の古兵の私的制裁は誠に厳しく、二列に並ばせての「対向ビンタ」です。戦友対戦友で、少しでも加減をすると「こらー そのようなことでは駄目だ。力いっぱいだ」と言って、目の前の戦友を殴り飛ばします。互いに心でわびながらの殴り合いでしたし、古兵は得たり顔で立って眺めています。そして「腕立て伏せ、五十回だ」と、いろいろ考え出してやらせます。 (p314)野田
 
 我々初年兵を教育するのは、自称歴戦の三年兵とか、満州帰りの四年兵とかで、鼻息の荒い古強者であった。毎晩の日夕点呼の鉄拳、ビンタ、時には営内靴さえも飛んできたこともいくどかあったが、話に聞き、本で見知っていた私には別段苦痛とも思わなかった。六条志願兵は、下士官志願兵と見なされていた頃なので、我々志願兵には特にきびしかった。ふた言目には「将来の幹部がそれでよいのか」と声と共に飛んで来る鉄拳には、さすがに頭に来ることもあった。
(鈴木卓四郎「憲兵下士官」p208)
 
 三月中旬の北京の風は骨身にしみるほど冷たく、枯葉をすっかり落とした東長安街の合歓(ねむ)の並木は寒々としていた。その並木の下で中年の女をともなった三人の若者と二人の少女がたちどまって私たちの教練をながめていた。きれいな姑娘(クーニャン)だなァとうっかり見とれていた丸田二等兵の頬にいきなりビンタがとんだ。
 「こら!何をみとるんなら。今年の初年兵は態度が太い、まったくたるんどるんじゃけん」
 初年兵係の岡崎智上等兵が、岡山弁でどなった。初年兵のなかの一人がヘマをやると、共同責任だというわけで、夜の点呼後に初年兵全員がビンタをとられる。今夜がまた恐いな、と思うと、午後五時に近く教練を終えて帰営する足が重かった。(p17)
(井上源吉「戦地憲兵 中国派遣憲兵の10年間」)

 そして東京市葛飾区にあった晴第一九〇一部隊航空隊に入隊、陛下の御馬前ともいうべき宮城前で敵機を撃滅する名誉ある任務に就かさせられたのです。
 入隊したころは冬の時季で毎日の学科や訓練の教育は厳しいものでした。また内務班においても古年兵殿より日々の厳しいビンタが飛び交う毎日でしたが、自分は青年学校で四年間の軍事教育を受けていましたので少しは余裕がありました。(p306・307)三條

 昭和十八年三月三十一日、私に待ちに待った召集令状が届きました。四月十日、大村市の歩兵第四十六連隊に入隊せよとの内容でした。・・・
 翌十日十時、みんなそろって大村第四十六連隊の営門をくぐり入隊しました。私は第六中隊に配 属され、班の人員は初年兵十三人でした。
 入隊当日は古兵から歓迎され、いろいろ親切に教えてもらいましたが、二日目からは朝六時の起床から夜九時の就寝まで忙しいこと。ぐずぐずしていれば怒鳴られる。返事が悪い、質問に返事がないと叩かれる。軍人勅諭の暗唱、兵器の手入れ、古年兵の世話、朝昼夜の飯上げ、内務班の掃除、軍事教練の厳しさ、夜の点呼時には叱られ、叩かれる毎日という男同士の生活が始まりました。軍隊の厳しさは事前に聞いていたが、こんな厳しいのなら志願までして来るのではなかったと思うこともありました。一人間違えれば連帯責任だと全員が叱られ叩かれたり、対抗ビンタで向き合って叩き合うことなどいやな思いが度々しました。(p294・295)木下



日中戦争期、中国民衆の抗日手紙

まず、手紙を読んだ日本軍の感想
三、抗日的郵便物の内容(別冊 参照)
支那民衆の手紙に表現せられたる抗日意識を仔細に点検するに愛国的熱情を盛れるもの決して尠しとせず、
出征兵士を激励する父母、兄弟姉妹朋友等の態度は皇国に於けるものと類似せるものあり。
是等手紙は皇軍の直接占拠せざる地域より発せらるると共に皇軍が直接警備せる都市、鉄道沿線よりも亦発せらるもの少からざるの事実に鑑るに民衆獲得の容易の業にあらざるを認む

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC11111669200(9枚目)
方参特報綴 昭和14年1月

以下手紙
方参特報第七号 昭和十四年一月九日杉山部隊参謀部 
抗日意識を盛りたる北支民衆の通信文抜粋 

本書は憲兵隊の努力蒐集せる北支民衆の封書類中抗日意識を盛りたるものの主要なるものを抜萃せるものにして昭和十三年十、十一月の二ヶ月分のものなりとす。

[日付] 十二月十一日
[発信者] 河北省安平県西満正 張雲祥
[宛名] 河北省霊寿県陣荘 第一戦区第一遊撃隊 趙蘭欣
[本文の内容] お前は今漸く十六歳の少年に過ぎざるも抗日救国の熱情に燃へ出征してゐる事は家族中の名誉であるお前のお父さんも外部に於て救亡工作に元気で従事して居るから安心せよ

[日付] 十月二十一日
[発信者] 南和県崗上村 関凌湖
[宛名] 彰徳府六八九団三営十二連 関礼的
[本文の内容] お前の入隊を父は非常に喜んでゐる抗日救国はお前の主義であり又父も同一精神であるお前は軍隊に軍隊にあり忠を盡し以て日本に抵抗して救国さへ出来れば父は死んでも歓(?)喜する茲に頼むことはお前の徹底的抗戦である

[日付] 八月二十八日
[発信者] 父(河北省東明南五十五里身屯村)
[宛名] 郭峻堂(●《草かんむりに「宮」》県●●六〇五里●●●春堂)
[本文の内容] 我子よ隊内にありて長官の命令を良く守り其の成果を挙げよ

[日付] 十月十五日
[発信者] 河南井店鎮 蘄富礼
[宛名] 三陽鎮 陸軍三十二軍補充二団七連 蘄書延
[本文の内容] 現在中国民衆は抗日戦線に立たねばならない時機に於てお前等青年級の者は家事等顧る時でない家の事は一切父が引受てやる長官の命令に服従し殺敵に努力することを切に望む

[日付] 十月十日
[発信者] 安平県崔岑村 父母出
[宛名] 南官大屯村八路軍遊撃隊政治部 少年先鋒隊 李成群
[本文の内容] 今お前は南官の第八路軍にて訓練を受け居る由父母は此の上なき光栄と思ふ現下国内情勢はお前等青少の活動すべき時機なるを以て軍紀を守り活躍することを希望す

[日付] 九月十八日
[発信者] 沂州東十字路 候の父
[宛名] 広西省●●市 候伝●
[本文の内容] 汝の兄は在営健全なり血戦中は弾雨の中に生命を保った富貴生死は天に任す尚意気旺盛だ今こそ正しく救国の時期到来した

[日付] 九月二十六日
[発信者] 新安県崔公堤村 母
[宛名] 定興県青荘村或江村 国民革命軍陸軍第八路先進支隊 崔永芳
[本文の内容] お前は長官の命令には絶断に服従し同志に対しては敬愛を旨とし謙和を以て苦痛を忍び犠牲的精神を以て国に報ひ万々家庭の事情は考へてはいけない
「忠を盡す為に孝行が出来ない」
と云ふのが今の本当の状態なのです
国民として責を果さねばなりません家のことは村人が見て呉れますから心配は無用です

[日付] 九月二十七日
[発信者] 母(山東省●県)
[宛名] 呉龍奎(湖南長沙府砲兵十三団通信隊)
[本文の内容] 我国は当然亡国すると思ふ
日軍が引揚げれば・・・・

[日付] 十月二十日
[発信者] 河南省鎮在県栄三探庄 父
[宛名] 安徽省馬山一〇五師六〇三団 何●●
[本文の内容] 国策の為め働くお前の職は立派なものだ何時も上官の命に従ひ忍耐して倭冠〔ママ〕の不法を撃退する迄は断じて帰らぬ様に

[日付] 十月十九日
[発信者] 西安第十後方医院七号 袁栄昌
[宛名] 河南省封邱県北手●和堂 学友手
[本文の内容] 私は毎日国家のため日本鬼子駆逐の為働き負傷された勇士の看護に当って居ります此処に見る将兵の勇姿には感服致します一日も早く鬼子撲滅に邁進して下さい若し私が男子であったなら立派に奮闘するのですが女の身で残念です

[日付] 十月十二日
[発信者] 深県津南坑〔ママ〕日自衛軍第三支隊々部 王習知
[宛名] 清宛県揚●鎮第八路軍第三縦隊第八支隊第二十二大隊第二●第六連 王子珍(?)
[本文の内容] 聞けば最近第八路軍内にて働いて居る由家内一同悦んで居ります第八路軍は立派な軍隊ですからお前も抗日軍人として規則を守り固い決心を以て奉公をなせ兄も今は津南抗日自衛軍第三支隊警衛第二連に参加して居る

[日付] 十月二十一日
[発信者] 漢口 喜亭
[宛名] 張家口●●●子巷八● 傳敏●
[本文の内容] 時局未だ安定せず私の行動も如何に変化するや不明此処に遺言を記す(1)解放運動に努めよ(2)健康に留意し子供を育て国のため盡せ

[日付] 十月三十日
[発信者] 兄栄貴(河南蘭封県東六十六里王双橉
[宛名] 趙文巳(湖南衡陽県南外獄(?)屏書院
[本文の内容] 暴逆なる日本軍は中国を侵略せんとして居るも其の意の如くならず当地にも日軍は二回来るも占領能はず
軍紀を守り上官の命に従ひ国を守り民を愛するのがお前の責任なり

[日付] 十一月九日
[発信者] 楽陵県城北韓家庄 父 郭希曾
[宛名] 山東日照県石臼井自怡連軍(?)暫編第一旅独立迫撃砲隊 郭連
[本文の内容] 最も良きは即ち帰郷し何等かの抗日工作をなし国民の天職を盡す事にして再び日本軍の走狗となり偽軍となる勿れ茲に別紙の通り数枚の「ビラ」を同封するにつき汝の同志等に見せ或は暗に街上或は通行繁しき地点に貼り出されたし
(共産第八路軍の署名ある左記二種の激〔ママ〕文を同封しあり)
○日冠〔ママ〕の圧迫下の偽軍に与ふ
○日冠、銃殺せる盬(?)山偽軍長張玉●等のため偽軍に告ぐるの書

[日付] 十月三十日
[発信者] 聊城々内東口北街十六 秀容
[宛名] 臨邑城内支●街六 張●●
[本文の内容] 君等軍人は軍人としてなすべき事を努め生命を度外視して熱血を以て戦ひ帝国主義者の暴行に抵抗し国家の恥辱を雪がれたし之実に最も光栄ある事なり

[日付] 十月六日
[発信者] 山西省朔県城内節孝 水安濟(?)
[宛名] 陝西省安●●新城●立●●中学校 水安洛
[本文の内容] 昨年日軍入城後城内住民八百名程惨殺された其時父も殺された生きてゐて圧迫せられるよりも死んだ方が幸福だ長兄にも通知して将来此の仇をとる様に奨めて下さい

[日付] 十月十九日
[発信者] 山東省臨清県郵政局 施
[宛名] 河北省灤県西関●文中学
[本文の内容] 骨肉横飛する中に依然として打倒日本帝国主義を叫びあるは如何に快楽なることよ
将来我々青年の血より一個の新しき長城を築き以て数十年の恥辱を茲に雪がん

[日付] 十月二十七日
[発信者] 山東聊城文化供応社 蒋承立
[宛名] 河北省広宗県政府 玉県長
[本文の内容] 君が現在広宗県で県長になった事を聞き非常に愉快だ我等が茲に希望することは全県民衆を導き抗戦し救国の道を行くことに努力することです

[日付] 十月三十一日
[発信者] 昌楽馬朱 曹子君
[宛名] 泰安城東邱家店
[本文の内容] 国家の存亡の秋に当りて家の事情等に関って居ることも出来ません妻の事も省る余裕も持ちません
妻にも僕達の工作が完全に出来たれば将来笑て楽しく暮せる時期が来ると言って下さい

[日付] 十月二十五日
[発信者] 覇県蘇橋東楊荘 董玉志
[宛名] 河北省安国県伍二橋 董福志
[本文の内容] 父上様不肖入隊以来抗日救国に献身努力致して居ります国家無きは我家無しと同様でありますので私は身命を投げ打って殺人放火掠奪を為す日本鬼子の撲滅に専念し自由平等の生活を争取せんとして居ります

[日付] 十月十五日
[発信者] 冀県民軍二路総司令部伝令股 張文生
[宛名] 東明県馬頭集 張文生本宅
[本文の内容] 父母への不幸は已むを得ません
国歌が極度の危機に迫りたる折柄私等青年の一身上の事情は次の問題です聞けば兄が家に帰った由兄を再び出さぬ様にして下さい

[日付] 十月十六日
[発信者] 山西省炙県一六九師一〇七旅二五一団 父
[宛名] 河南省大〔ママ〕康県陳荘 陳翼雲
[本文の内容] 敵殲滅のため努力中にして若し父の戦死後はお前が此の父の抗日救国の意思を継承し永久に国に盡すべし
此の父の命は必ず守られたし

[日付] 十月二十日
[発信者] 山西省沁県王崟
[宛名] 河内省〔ママ〕永城県薜湖 王白福
[本文の内容] 小生帰家し得ざる原因は国難の最極端にある中国更生のため身命を捧げある故なりもちろん一人二人の力にては現状を如何とし得ざるも民衆も兵も皆力を尽すなれば我国も今新に世界の強国となり得る郷里の父母よ何卒中国更生の為犠牲となり国難に殉ぜられたし

[日付] 十月二十三日
[発信者] 浙川県上集 湧泉観
[宛名] 滄県西杜林荘張家口 張培益
[本文の内容] 小生三月以来河南国立中学校に入学す同校は毎日午前中軍事教練全校生徒一二〇〇名抗日英雄たらんと寧日なき猛訓をなしつつあり
日寇に対し現在の位置転(?)例さすも遠からずと希望に燃へるなり君も中国永遠の平和と自由を確保せんが為帝国主義日本侵略排撃を邁進し共に中国和平のため奮闘されんことを望む

[日付] 十月二十二日
[発信者] 清苑県中家荘 路光陸
[宛名] 粛寧県城北太高家村 高文●
[本文の内容] 吾々は再び抗日の旗幟を立て早速朱司令の処に行こう万一君が同意せざるも私だけでも行きます朱司令は本当に抗日の英雄です日本も程なく失敗して逃走する様になるでせう

[日付] 十月二十六日
[発信者] 河北浅水県 史質堂
[宛名] 山西損県陸軍第十師三十九旅五九団部 史雪堂
[本文の内容] 遊撃戦術を利用して張坊婁村六区一帯を活動して居る敵の占領せし地点は僅かに鉄道沿線及城市なり他の大都市は義勇軍の範囲なり双方は常に衝突を免れず日軍の到達する故無くして焼失殺傷掠奪姦淫が行はれ紫荊関沿線の焼失最惨たり通信所は河北県●県石亭鎮内 史質生

[日付] 十月十四日
[発信者] 臨 治原裕源棧 旭光
[宛名] 萊陽北郷朱留鎮 玉昇
[本文の内容] 現在時局緊急なり今家を出れば日軍には中国軍の密偵として捕われ中国軍には漢奸と思はれる喜で国難に赴き刀折れ力尽きる迄戦ふ私の決心は生を棄て死を以て民族生存の為国家の栄光のため戦ふ積りである

[日付] 十月二十四日
[発信者] 山西省垣曲県上坡城村 田文林
[宛名] 曲陽県城南北楊馬村 田老
[本文の内容] 現在の処帰郷は不可能であります之も皆悪鬼日本帝国主義の為であります国土は侵され父子の対面も意の如くならず私は百度転(?)んでも残酷無道なる日本鬼子を駆逐せねば止まない決心をして居ります現在我隊では補充兵訓練をやって居ります通信先は山西省垣曲県上坡城村陸軍独立第五旅六一四団々部宛

[日付] 十月二十六日
[発信者] 冀中区北上覇県工作団
[宛名] 河北省定県 西王村
[本文の内容] 不肖は五台山の軍政学校に於て訓練を受くること三ケ月爬山走歩の行を積み身体を鍛錬し軍事政治学を学び新知識を注入致しました卒業後当工作団に配置され現在に至って居ります今後は家庭の観念を捨て抗日を最大の抱負となし中華民族解放を目的とし日本鬼子と闘ふ決心であります

[日付] 十月十六日
[発信者] 中央直轄忠義救国軍第一路第一団第一営長
[宛名] 山東東昌府第六区遊撃司令部騎兵団
[本文の内容] 私は張司令の救国の英雄たるを知り張司令隊に入隊し抗日工作に従事して居ます張司令に報ゆるは唯抗日工作の完成だと思ひます

[日付] 十一月四日
[発信者] 県第六師四団九連 東高
[宛名] 曹州金堤集西街
[本文の内容] 目下支那は朝存夕亡の時にありて救国せんには必ず我等青年に俟つべきにして目下救のため活動するは家庭にて両親に孝を尽すと同様なり現在日冠の到る処殺人、放火をなし居るに我等は安居楽業をなし得るや必ず共彼等を支那より駆逐せねばならない

[日付] 九月二十八日
[発信者] 李志智
[宛名] 河間県第一分区司令部団長佩林
[本文の内容] 1 抗戦初期に於ける部分的領土の損失を以て日中戦争の運命を判断するは早計なり此の一年間の抗戦により日寇に対し相当の打撃を与へ我々は最後の勝利と抗戦継続に対する基礎的確信を得たり
2 全国の武力、人力、資本を動員し長期抗戦に対処すべし

[日付] 十月六日
[発信者] 清苑県婦女抗日救国会清苑県温仁村
[宛名] 安国県南関婦女救国会 王景雲
[本文の内容] 婦女会は二十余ケ村に組織され旧九月二十一日に婦女幹部訓練班を開始することになり一週間位の期間で人数五十人を内三分一は農民分子だが精神は非常に良好だから村の婦女救国会の領導をする様になると思ひますが九、一八記念日も中秋節もあり演劇の準備や提灯行列の準備で多忙です

[日付] 十月二十二日
[発信者] 昌村北辛 丕紳
[宛名] 四川重慶載家巷 寛仁医院
[本文の内容] 此の地方の治安は皆我国の軍隊の手で保たれて居って決して日本軍の支配は受けて居りませんから御安心下さい村の者で十八歳より十五歳迄の男子は全部軍隊教練を受けて有事に備へて居ります

[日付] 十月三十日
[発信者] 河南宝豊県軍政部一二七後方医院 呂元祖
[宛名] 浙江省陽蔡県文清金店 蔡林喜
[本文の内容] 充満せる傷兵は口々に倭奴を呪咀失地の回復を希ふ中国の現状は皆倭奴の責任にして我等は断じて此の悪魔と妥協し中国を滅亡させるに忍びず飽迄抗戦を徹底するものなり

[日付] 十月三十日
[発信者] 洛陽一六六師歩四九八旅司令部 王慶林
[宛名] 河南封邱県留光集大岸村 王茂謀
[本文の内容] 抗戦数ヶ月全く生きたる心持無く経過せり吾人は飽迄日本帝国主義の奴等を打倒し軍勢を殲滅して自由平等平和の中国を建設せざれば断じて凱旋するものにあらず

[日付] 九月二十八日
[発信者] 盬山城内 氏名不詳
[宛名] 滄県柳家荘 馬桂臣
[本文の内容] 日本軍は軍紀風紀の厳正は世界第一なりと誇張して居るが事実と雲泥の差あり中国の雑軍と大同小異なり日本兵が煙草を口にして民衆を訪問「マッチ」を要求す之は彼等の常習手段である即ち何所に好い女が居るかを物色するが目的である昼間物色して夜間侵入して人妻であらうと娘であらうと構はず強姦する

[日付] 十一月四日
[発信者] 北京安内●官●六号 彦章叩
[宛名] 鹿邑県城内石陽 梁萩江
[本文の内容] 到る処其の擾乱を受けて居ります思ふに日本軍を依頼せよと云ふも日本軍人八十人の中一、二人位しか良心を持つ者なく之では我国は滅亡の外なく到底恢復の見込はつきません

[日付] 十一月六日
[発信者] 漢口大智邊協盛客棧 幹臣
[宛名] 永城県西南三十五里●王集 刻湧泉
[本文の内容] 此の儘我国が失地を回復することが出来なかったら貧困なる民衆は只死より外はありません
我祖国が彼等に占領され一年前の如く邪好なる鬼子蹂躙される事を考へる!口惜してく〔ママ〕口惜しくて堪りません
此の苦痛を味ひつつある我等は全能を発揮して第一線の勇士を助け御国の為に努力しませう

[日付] 十一月七日
[発信者] 山西省遼県第一二九師警備第二連 封国英
[宛名] 河南省寧陵県南街 封克文
[本文の内容] 最近叫びつつある帝国主義は我中国人には誠に不合理にて何処の国にも其の国の古代本性がある中国の子孫は決して日本と交ってはならぬ又帝国主義を信ずるものは自国自滅の基である我等は速に中国より日本を撃退し我国を救護しよう云々・・・・

[日付] 十一月五日
[発信者] 北京盧(?)水春医(?)院 戴某
[宛名] 香港九龍旺角荔枝角道一三三号二楼 戴徴(女)
[本文の内容] 近日来広州陥落の報伝はり非常に不安を感じあり又一面に於て国人(国民党)の無能を痛心しあり平素は一人天下の如き言を吐く広東人も此の時に到り些かの抵抗もなさず敵人に蹂躙せられたり且喪心病に狂へるが如き一部の人は走狗となり敵人に従へり実に涙するに余りあり

北京新聞の漢口陥落状況を記せるもの封入しあり

[日付] 十一月二十四日
[発信者] 北京静生々物調査所 胡緒博士
[宛名] 香港ロビンソン路二十七号 陳夫人
[本文の内容] 漢口、広東の陥落に痛く落胆致されて居られる様ですが私をして言はしむれば吾人は最後の勝利に対し更に楽観論を持つべきである

[日付] 十一月二十二日
[発信者] 青島市膠州路七五号天賓(?)銀楼 錦棠(?)記
[宛名] 寗(?)波慈東洪塘鎮 万与蔬菜行気付洪思義内 慶棠
[本文の内容] 現在の我々は何事に依らず其日其日を敵の命令に依って生きて行かねばならない様な状態だ青島も亦十八歳から三十五歳迄の者を抽籤して青年団を組織する様になった(敵の意図に依り)然し彼等の為に召集される位なら寧ろ自分の国のために召集されて行った方が何れ丈良いか判らない敵のために働く位なら国のため死にたい

[日付] 九月十八日
[発信者] 安徽省雲和県程宅小学校 張煥南
[宛名] 前線将兵宛
[本文の内容] 今日は九、一八記念日で私達の悲憤甚しきものがあります我々人民が一般協力抗戦に努むれば最後の勝利は我々の頭上に輝きます

[日付] 十一月二十一日
[発信者] 源城内 王鳳祥
[宛名] 大同県第四区馬軍営林 李海山
[本文の内容] 近頃国難の為赴いた友達の事が思ひ出されて仕方がない異族の暴力よりなる民族的屈辱下に甘んじて居るより苦しくとも崇高なる救国の信念を抱いて行った良国、徳海等の諸友は何れ丈幸福であらう

[日付] 十月二十三日
[発信者] 甘粛省愛陽県西夅鎮 候振興
[宛名] 河南省滑県城東七十五里老安鎮西北候小 候青仁
[本文の内容] 僕は甘粛省慶陽県西夅鎮陸軍第九七師二八九旅立七七団二営四連に入隊し現に服務中である身を国に捧げた以上は決して生きて帰らない覚悟です我国が滅亡の途を辿りつつあるを見て躊躇しておる時機ではない粉骨砕身手柄を樹てるから安心せよ

[日付] 十一月十五日
[発信者] 寿県張秋鎮新開街一七軍事委員会政治部直属第三政治大隊 叔父 晨
[宛名] 河南魯山県省立商邱高等中学校 郭同●
[本文の内容] 小生等黄河渡河以後各地の霍乱病は非常に流行し敵人は多くの漢奸をして井戸中に毒薬を投入せしめたる事は常に見たる処にして漢奸の害は敵人より甚だし我等今回通過せる地点には敵の屠(?)て来れり処もあり又来たらざる地点もありたるも人民の敵を恨み居る事は各地共激しかりき

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方参特報綴 昭和14年1月

大本営政府連絡会議に見る"アジア解放"の嘘


三月十四日 自一〇、〇〇 至一二、〇〇 第九五回連絡会議

議題
一、研究問題第七「占領諸地域の帰属及統治機構」(未完)
議事
一、原案に就き山本東亜局長より説明(別冊を除く)あり
其の際左の如き捕足的説明あり
(略)
二、本問題に関する大東亜建設審議委員会の空気に就き鈴木企画院総裁及武藤軍務局長より左の如き紹介あり
(A)一般的空気と認むべきもの
(1)占領地の帰属其の他の決定は国防上の要求に最も重きを置きて決定するを要す
(2)占領地処理は躊躇又は遠慮を要せず、明快率直徹底的に断行すべし
(3)政治的、民族的、経済的に複雑なる地方に対し直接繁累に携はるは不利なり、成るべく従来の機構を活用するを可とす
(4)右に反し人口稀薄にして未開の処女地は帝国に於て強力に把握すべし
但し戦争遂行中の現情に於ては統治の容易にして而も開発に手数を要せざる地域を把握するを要す
(5)占領地域に関しては濠洲又は「ニュージーランド」を包含せよとか西は「インダス」河迄、東は「パナマ」迄占領せよとかの説あり
(6)今回掌握下に入りたる各民族は大体に於て独立の経験無きを以て独立せしむる必要は絶対的ならず
(7)蘭印は従来一組織内に在りしを以て今後も一組織として取扱ふを可とす、然らざれば帝国の手に依り凡ての組織を改編するの必要を生ずべく満洲等の経験に依るも此れは一考を要す
(8)統帥事項に触るることとなるも飛び石に利用せらるる諸島嶼は必ず我が手に収むるを要す

(B)個人的意見と認むべきもの
(1)占領地の帰属其の他の決定には先ず以て八紘一宇の理念を基礎とし細部に入るの要あり、方針を忘れて直接具体的問題に入るは不可なり
(2)占領地処理は戦争遂行に有利ならしむるを以て第一義とすべし、四、五十年の将来又必ず大戦争を惹起すべし
(3)占領諸地域に対しては軍○と外交とのみを十分把握し其他は細部に干渉すべからず
(4)大東亜建設は日満支を中心として実施すべし南方の如き遠距離の地域に重点を持て行くは不可なり、南方のみに夢中になるべからず、帝国と南方との距離は英米間の距離よりも大なり(某海軍将官)
(5)徒らに領土を拡張するのみが能にあらず、占領地域の各民族が喜んで働く様に指導するの要あり、然らざれば将来戦に於て却て指導下民族の反●を受くるに至るべし
(6)まごまごすると独逸人支那人等に良い所を全部取らるる虞あり、今より之を警戒して所要の方策を講ずるの要あり
(7)占領地域を余りに細分するは統治の複雑ならしむるを以て少数の区画に区分するを要す
「註」 以上極秘扱とすること

三、山本東亜局長の原案説明に関し未だ「別冊」統治機構問題の説明に入らざる内に左の如き論議沸騰す
「註」 外務省が説明用として準備せる帰属別地図に帝国領土は赤、独立予定地域は黄を以て色別を●しあり、「ジャバ」のみの独立が強く関心を惹きたるものの如し
(以下判読困難)

「大蔵大臣」
独立は時間●●●●●●●にするの要あり、比島の如きは間も無く独立せしめて可なるやも知れざるも「ジャバ」の如きは「ズーッ」と永く軍政を行ふを要すべし、従て主権は先づ日本に取り適当の時機に独立を与ふれば可なり
独立させると言ふも実際は独立出来ざるやも知れず
「企画院総裁」
軍政は「ズーッ」と永く施行せざるべからず、過早に蘭印に独立を約したりなどして増長我儘させてはならぬ(大蔵大臣強く同意)
独立せしむと言ふも実質的独立には非ずして相当の干渉を受くる独立ならずや、何れにせよ今より独立と決定するは過早なり
「山本局長」
高度の自治より独立に進むと言ふことも考慮し得べきも何れ独立せしむるものならば今の内に決定して置くを可とす

以上にて大体の空気は「ジャバ」のみ何故独立せしむるや、実質的に掌握して独立せしめては却て文句が起るべしとの意見強く会議を支配す

「総理」
統帥関係事項なるも海軍は根拠地設定の為何れ位の地域を確実に把握するを必要と認められありや
「軍令部次長」
先づ以て日本海を中心とし其の周辺は国防の中心たらざるべからず
次で小笠原諸島より南洋委任統治領を経て「ビスマルク」諸島に亘る線及昭南港並に「スラバヤ」を中心とする海域を確保するを要し「ニューギニヤ」東部「サラモア」付近を確保すれば濠州を制圧し得べし
対英国防の為には「ジャバ」「スマトラ」を以て第一線とし之に「アンダマン」を加へて確保するを要するも「ジャバ」「スマトラ」西南岸には良好なる基地なし、結局湘南港「スラバヤ」及「サラモア」を確保するの外なし
対英作戦の為には南支那海と「ジャバ」海とを確保すれば先づ大丈夫なり
東方に対しては小笠原諸島と「ニューギニヤ」間に若干の心配あり
此等の見地より南方占領地域は全部帝国領土とすること可能ならば申分無きも局地によりては政治的民族的各種の事情あり、其処に研究を要する問題あるべし
「総理」
然らば「ジャバ」も皆我が手に収めざるべからず何故「ジャバ」のみを残したるや
「武藤局長」
どうも全部取らねばならぬと思ふも何と無く蘭印は独立せしめざるべからず、然るに「スマトラ」は取らねばならぬ、「ボルネオ」は取らねばならぬと漸次逐ひ詰めて行けば結局「ジャバ」のみ残らざるを得ず、斯る経緯にて「ジャバ」のみ独立せしむることとなれる次第なり

斯くて依然「ジャバ」独立は今より決定してかかるの要なしとの空気となり最後には海軍大臣より『ジャバ」を独立せしめて如何なる利益ありやを研究せる者なりや』との詰問的意見もあり
「其処迄行かんでもよかろう」との仲裁もあり

四、結局本件は更に研究を要すとして未決の儘別冊の検討にも入らず散会となる

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大本営政府連絡会議議事録 其3 昭和17年1月10日~18年1月30日

「国家機密」印 20部の内第11号 「決定」印
占領地帰属腹案 昭和一八、一、一四 大本営政府連絡会議決定

一、占領地の帰属に関しては左の基準に依り之を定む
(イ)大東亜防衛の為帝国に於て確保するを必要とする要衝並に人口稀薄なる地域及独立の能力乏しき地域にして帝国領土と為すを適当と認むる地域は之を帝国領土とし其の統治方式は当該各地域の伝統民度其の他諸般の事情を勘案して之を定む
(ロ)従来の政治的経緯等に鑑み之を独立せしむることを許容するを大東亜戦争遂行並に大東亜建設上得策と認むる地域は之を独立せしむ
(ハ)独立及領土編入の時期に付ては諸般の情勢を考慮し之を決定す

二、右に基き差当り帰属腹案を決定すること別紙第一の如く其の条件を概ね別紙第二の如く予定す
三、情勢の推移に依りては本腹案を変更することあり

別紙第一
  地域     将来の帰属     備考
一、緬甸    独立国     「シャン」諸州「カレンニ」州に付ては別紙第二中一、の(二)参照
二、比律賓   独立国    「ミンダナオ」に付ては別紙第二中二、の(二)参照
三、其他
追って定む

備考
泰国の失地恢復に付ては昭和十七、五、九決定『「タイ」軍の「ビルマ」進撃に伴ふ対泰措置に関する件』に依る

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「国家機密」印
弐拾部の内第十二号
第十回御前会議 内閣総理大臣説明 (昭和十八、五、三一)
唯今より開会いたします。
御許しを得たるに依りまして、本日の議事の進行は、私が之に当ります、
(略)

六、其他の占領地域
マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は民度低くして独立の能力乏しく且大東亜防衛の為帝国に於て確保するを必要とする要域でありますので之等は帝国領土と決定し重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努むる所存であります。之等の地域に於ては当分の間依然軍政を継続致しますが原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむる方針でありまして現に政治参与を要望して居りまする「ジャワ」に対しては特に之を認める積りであります。而して本帰属決定は敵側の宣伝の資に供せらるる等の虞がありますので当分の間発表せざることと致しますが原住民の政治参与に関しましては適宜之を発表するを適当と考へて居ります。
「ニューギニヤ」等前述以外の地域の処理に就きましては既に述べましたる所に準じて追て定むることと致します。

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これはあの「大東亜政略指導大綱」と内容日付が一致
国家機密
大東亜政略指導大綱
(昭和十八年五月二十九日大本営政府連絡会議決定)
(昭和十八年五月三十一日御前会議決定)

六 其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム  
但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セス  
(イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム  
(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ應シ努メテ政治ニ参與セシム  
(ハ)ニューギニア等(イ)以外ノ地域ノ處理ニ関シテハ前二号ニ準シ追テ定ム  
(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継續ス 

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全文 
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%94%BF%E7%95%A5%E6%8C%87%E5%B0%8E%E5%A4%A7%E7%B6%B1

関連
山下奉文に見る”アジア解放”の嘘
 

戦前フィリピンの排日・恐日(途中)



大阪毎日新聞 1920.1.19(大正9)
比島の排日土地法
在留邦人の大打撃

時事新報 1935.1.17(昭和10)
比律賓政府の邦人漁夫泣かせ
二百名途方に暮れる

【館山電話】フィリピン、ダバオに進出漁業方面に活躍している邦人漁夫二百余名が昨年六月公布された同島の漁業規則改正に伴う単なる手続上のことから漁業権を没収され異境の地で極度の苦悩に喘いでいるという憂鬱なニュースが十六日館山に入港した農林省水産講習所講習船白鷹丸によってもたらされた―
ダバオはミンダナオ島の南端にある港で同地居住の邦人漁夫は大部分大分県出身で数年来同地に移住し大謀網、巾着網その他沿岸漁業に従事していたが、昨年六月フィリピン政府が日本人の勢力を駆逐する目的で漁業規則の改正を行い新たに漁業権を認めないことになったが、これ等邦人漁夫達は既得権の存続はそのまま認めるという条文に安心して昨年十一月まで何等手続をとらなかったところ十一月に至り遂に漁業権の喪失を宣告され漁網を取上げられてしまった、その後同地の日本領事館或は弁護士等に依頼して極力漁業権の復活をフィリピン政府に懇請したが同政府は頑として再認可を拒絶し其上所有の漁船を焼却せよと強硬な態度に出ているため漁業権の回復は全く絶望とされ邦人漁夫達は同地を引上げて帰国するか否かに迷っているというのである、右につき十六日館山に入港した白鷹丸乗組の安原専任教官は語る
「ダバオ港には十二月上旬寄港し三日間滞在し同地の官憲と交換し歓迎を受けたが同地居住の邦人漁夫達は漁業権を取上げられて困っていました、漁業規則が改正されても以前から漁業権を有している者には既得権を認めるという条文に安んじて邦人漁夫達がウッカリ手続を怠っていたのを理由に漁業権を剥奪されたというのですが、規則が公布されて僅か半年たつかたたぬのに没収までしなくとも何等か手心があると思われるが要するにフィリピン政府の日本人駆逐政策の犠牲となったものでしょう又濠洲領ニュープリテン島のラボールでは台湾基隆の本邦漁船が密漁の嫌疑で同地官憲に拏捕され船長以下二十三名が拘禁されているということを聞きました」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10083484&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

大阪毎日新聞 1935.9.12(昭和10)
比島ダヴァオの排日意外に深刻
邦人利権を水泡に南洋発展に大支障
土地租借の取消拡大
在留邦人解決に躍起の運動

大阪朝日新聞 1935.9.12(昭和10)
ダヴァオでまた借地権取消し
排日を目標の比島当局
邦人ら対策に腐心

大阪毎日新聞 1935.9.15(昭和10)
比島の排日に敢然起つ
邦人借地取消
言語道断
気勢を揚げた在留民大会

大阪朝日新聞 1936.4.18-1936.4.20(昭和11)
赤道直下の宝島
邦人開拓の功 漁村ダヴァオ忽ち近代都 恩を仇の土地問題

今このダヴァオ在住一万四千人の同胞に襲いかかって来て、彼らを日夜脅かしつつある土地問題とは、ダヴァオにある日本人がフィリッピン人の土地を使用耕作しているのは、フィリッピンの土地法に違反しているからその権利を認めない、日本人から一切の土地を取上げてしまえというのである。 
即ちその土地法によれば、フィリッピンの公有地を租借しうるの権利は米比人以外にはなく、従って日本人は米比人の租借したる土地を更にある契約によって請負耕作しているのであるが、この請負事業が比島土地法によって禁止しているところの再租借の条項に牴触するというのである。 
だから、日本人に土地を貸したところの地主は、政府からその土地を没収さるべきであり、同時に不法にその土地を借りてこれに栽培をしている日本人の権利も当然消滅すべきである、というのがフィリッピン政府の農務局長ロドリゲス氏の言明であるが、三十年間何らかような禁制もなく、平和に、提携今日に至ったダヴァオである。しかも事実幾多の尊い血をさえも流しまたそれにも劣らない日夜の膏血をしぼったおかげで、手のつけようもなかったほどのジャングルは、やっと近代的農園となり、ようやく文明の光を浴びるようになった今日、実際先頭に立った開発の功労者である日本人が、そうでござるかと頓首閉口、手を引けるものであろうか 
果然、不服と抗議の火の手は、全ダヴァオ州の各所に揚がり、邦人は奮起一致団結を盟い、あくまでフィリッピン政府と抗争すべくたとい一坪の土地たりとも手放すものかと悲壮な覚悟で、抗争資金を募集するやら、代表者を選出してマニラに送るやらしているのである。いかに問題が急迫し、いかに在留邦人が必死の決意を持っているかは、七万比(邦貨十三万円)近くの抗争資金が立ちどころに集まったのを見ても、容易に想像することが出来よう。(仲原営徳) 

時事新報 1936.8.23(昭和11)
比島在住邦人の居住権制限を計画
米比支間に協定進む

第七十回帝国議会衆議院
予算委員第一分科会議録 第一回 昭和十二年二月二十八日
○櫻井委員
・・・比律賓の方へ参りますと、洵に意外千万に驚くのであります、政府は固より私共日本国民として或る時期を狙って比律賓を占領しようと云ふやうなことは、もう毛頭夢にも考へた者はあるまいと思ふ、日本政府は固より日本国民もさう云ふことは夢にも考へて居らない、所が向ふへ行って見ると、さう云ふことが盛に宣伝されて居る、其由って来る所は、さう云ふことを宣伝して日本と比律賓の間を離間することに依って、或る一つの目的を達しよう、経済的の接近も遠ざけて置けば宜しいと云ふやうな考で、何か或る宣伝をするやうな方面があるやうに思はれる、私共は支那との国交も調整して、真の善隣と云ふ関係にならなければならぬと思ふと共に、比律賓が近い将来に於て真の独立国となる、完全な独立国として、東洋に於ける親善なる友邦として立って行きたいと云ふ希望を持って居ります、斯う云ふことに対しては、一つ日本の政府の―実は改めて明にすると云ふ程のこともない位な問題でありますけれども、私は誤解を一掃することに努められんことを望むと共に、経済上日比の関係に付きましても、・・・

○林国務大臣
比律賓に対して我国が政治的の希望を持つとか云ふやうなことは無論ないことは明瞭であります、主として経済的に、又文化的に両国の関係を律して行きたい、其外余念はない訳でありますが、・・・

帝国議会会議録http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/070/0098/main.html
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「秘」印
内閣情報部九・一九 情報第一号 (1939年か)
比島排日移民抛棄
―同盟内報(秘)―不発表―
マニラ十六日中屋特派員発
(八月十七日内報参照)

消息通筋の観測に依れば比島議会々期延長は日本人及支那人排斥を目的とする新比島移民法制定のためと云はれる、即ち同法案は比島入国者を一律に一国一ヶ年二千名に制限せんとするものでこれ等が通過の暁には毎年約二千五百の移民を送りつつある日本及び約五千の移民を入れつつある支那にとって大打撃となるもので却って現移民法で入国禁止となってゐる印度人の移民を許す結果となるものである。

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レファレンスコードA03024515800

 「秘」印
内閣情報部四・二四 情報第一号 (1940年か)
◎比島議会移民法審議を急ぐ
同盟内報(秘)
マニラ二十三日中屋特派員発(内報)
比島新移民法案に関して日本政府が米国政府に申入をなしたとの報道に比島議会の排日議員連は、一応日本は比島の内政に干渉する権利なしと豪語して居るが内心は大いに狼狽し同案の通過を急ぎ議会閉会期日切迫を理由に俄かに二十三日より午前及夜の二回にわたって本会議を開きおそくも二十五日までには可決せんとして居る。

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本日の新聞論調(第五百号) 内閣情報部 一五・四・二八(日)二九(祭)三〇(火)

△比島の排日法案(廿八日付報知)
比島議会が邦人移民数を従来の二千五百名から五百名に限定せんとする法案を上程し、堀内大使がハル長官に斡旋方を求めたに拘らず、同法案の通過を強行の肚と伝へられる。比島議会の反日的行動並に日本の要望を裏切る米当局の不信に憤激を禁じ得ない。比島人はわれ等と人種的系統を同一にし自ら進んで共に東亜民族の発展に資すべき筈である。これといふのも要するに反日の一路を辿る米が比島の背後に操り反日感情を燃え立たせた結果に外ならぬ。而してこの法案は米太平洋艦隊の増強、蘭印に対する感傷的身構へとも一連の関係を持つ所に重大性が潜在する。比島民の立場も不可解である。比島独立に苦闘して来たケソン大統領までも米の尻押に乗り日本の対比態度に疑惑をもち、昨今独立要求を放棄し米国依存に豹変したのは笑止である。わが当局は一般の熱意をもって邦人の比島移住は単なる平和的経済的発展以外他意なきを闡明して彼等の疑惑を解き、日比の関係を破局から救出する積極外交を働かすべきである。

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レファレンスコードA03024624600(6・7枚目)

この移民法について、外務省はこう説明している。
2 フィリピン
 本項目では,比島移民法の修正(移民割当制の創設)をめぐる日本と比島および米国当局との折衝(14~15年)に関する文書を採録しています。フィリピン政府は激増する中国移民の流入阻止のため,各国同数の割当制導入を進めました。日本は,割当制は従来制限がなかった邦人移民に多大な影響を及ぼすとして,議会への法案提出先送りや,邦人移民への割当数増大などをフィリピン当局に求めました。この移民法の修正には米国議会の承認が必要であり,本件には米側の意向が強く影響していたため,日本は米国政府へも折衝を重ねました。しかし,米側の対応には積極性が見られず,結果的には,予想(1000名)を大きく下回る500名が各国割当数となりました。そこで日本は,ケソン大統領に移民法の運用によって邦人移民数を増加するよう求めました。
 (採録文書数22文書)


中外商業新報 1936.8.7-1936.8.25(昭和11)
フィリッピンの印象
飯沢章治
 
これは驚いた!比島新聞記者の恐日病 何と宣伝下手な日本よ
満洲事件以来比島民の恐日病
フィリッピンに着いて先ず比島人から質問されることは日本は満洲を支那から奪った後に覗っているのはフィリッピンではないかということである。ダバオの土地問題にしても、一つは恐日病から来ているのだということを聞いていたが、最も国外の事情に通じていなければならぬ新聞記者までもこうした質問をする位であるから他は推して知るべきである
日本は比島の独立が実現されるのを待って南方に触手を伸ばすのであるが、その第一の槍玉に上るのがフィリッピンだ といった疑いは、満洲事件を楯に取って、排日的政治家、又支那の商人等によって飛ばされたデマにより想像以上に頭の中に泌み込んでいるようだ

宣伝下手な日本ここにも暴露
今度の旅行でどうも日本という国は宣伝が下手の国民であるということを泌み泌み感じた、極東に新に生れようとしている独立国家と、親善関係を結んで行かねばならぬ必要に迫られている時に、対手国にこんな不利な感情を持たせるということは少くとも宣伝が下手である、という一例になろう
勿論こうした質問に表はれる裏面には、アメリカに対する気兼もあろうし、事実日本人より数多くの支那人が乗込んでいるのだから、斯うした連中が、自分の利益の擁護の為め、日本人を排斥する方便として「侵略国家」の異名を冠せてその蔭で甘い汁を吸わんとする支那人一流の狡猾なやり方もあろうが、兎に角これはあらゆる機会に是正する必要がある
これは一つは言論機関の力に俟つ外はないが、邦字新聞では比島人には役に立たず、勢い英字新聞その他の外語新聞の力を藉りなければならぬ、ところがその多くが外国資本の下に立っている関係から仲々困難のことである、唯先年日本に来朝したエム・ハロラン氏の主宰するフィリッピン・ヘラルドが多少親日的傾向を帯びている位だから心細い

 

海外には説明不能だった「八紘一宇」

どう訳しても侵略美化正当化にしかならないと自覚していたのだろうか。
大阪朝日新聞 1940.2.28(昭和15)
夕刊 
「八紘一宇」の外語訳は避けてる
「精神深遠」と有田外相答う
貴院予算総会

二十七日の貴族院予算総会は十一時十六分開会 
大河内輝耕子(研究) 明年度の内地米穀増産計画および同外地増産計画および日満支の食糧ブロックに対する所見如何 
土屋農務局長 来年度の内地の増産は三百五十二万石である、ただいま審議中の予算として計上している、耕地の拡張改良による増産でその数量は四十万八千石、一段当り収量の増加による増産八十万八千余石である、そのほかは目下追加予算に計上すべく大蔵省と折衝中で説明するまでにいたっていない 
小磯拓相 朝鮮は二百三十八万石増産の見込である、台湾は十五年度二十七万石、十六年度四十九万石増産の見込であったがさらにこれに加えて各五十万石ずつの増産も見込んでいる 
島田農相 日満支を通ずる対策としては大体円ブロックに属する各国が自給自足によることを根本原則とし有無相通ずる方針をとる 
大河内子 一時的の不足の原因によって米穀増産を計画してもその結果あとになって過剰生産に困るるようなことはないか 
農相 今日の情勢において食糧について心配が生ずるという体験を得たので持込米は多々ますます弁ずるという風に考える、あとになって過剰米を生じたときは米穀自治管理法など従来出来ている法律によって善処出来るものと考える 
更に大河内子、農村の労力不足と満洲移民の調節に関する農林大臣の所見を質し 
農相 満洲の移民も国家百年の大計である、農村の労力不足の調節方法としては内地の労力を有効に使用することを考えている 
大河内子 予算編成の方針について今一度考慮する必要はないか 
桜内蔵相 今般の予算につき只今のところでは実行予算はつくるつもりはない、しかし予算の実行については慎重に経済情勢などを研究して注意してゆく 
大河内子 東亜新秩序、興亜八紘一宇、防共、これを外国語では如何に表現しているか 
有田外相 八紘一宇は深遠なる精神があるのでこれを外国語に訳することは避けている、他の三つの言葉は場合によって訳している 
中山太一氏(研究) 銃後農村に重要問題たる原料素材の輸出、農産品物価と工業品物価の関係如何 
次いで農村の教育、農村の負債整理の状況、農業と商工業産組問題などにつき意見の陳述があり、農相これに答え午後零時十四分休憩午後一時半再開 

三笠宮の戦争論


  一九三六年の春、士官学校を卒業するとすぐに、千葉県習志野の騎兵隊に勤務を命ぜられた。それまで不便きわまりないだだっぴろい「御殿」なるものにしか住んだことのなかっとぁたくしには、大久保の町はずれにあった菜の花畑にかこまれた、こじんまりとした借家がじつに快適に思われたものである、当時のことを思い出すたびに一度は書いておきたい、というよりむしろ、当時、青年将校であったわたくしの精神訓話をきかれた方がたに「ざんげ」したいことが二つある。それをここに書きとめておこう。
  一つは「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず。」という平重盛の言葉を例にひいて、この場合どうするか、という質問をよくしたことである。わたくしの原案は、そうした場合は「大義、親を滅す」で、上官の命令、つまりは大元帥陛下の命令に服従することだというにあった。なぜならば、こう割りきらなければ捨身の行動をとることがとうていできるものではないと思ったからだ。軍人は任務を達成するために死なねばならぬことがある。任務のために死んでゆく勇敢な将兵が、死と直面した瞬間、お母さんの顔を目に浮かべるという。さればこそ「大義、親を滅す」ということを強調しなければならなかった。人間というものは割りきらねば勇敢な実践はできない。しかしながら割りきればとかく誤りを生じる、というより人間の精神なり行動なりを割りきろうとすること自体が無理なのだとは、二十歳をすぎたばかりの当時、ほとんど思いおよばぬことであった。
  上官の命令が、かならずしも正しいとはきまっていない。満州事変や二・二六事件にあらわれたように、一部の軍人が「大御心」(天皇のお考え)とひとりできめて、自己の意思を部下に強制することさえあった。当時といえども、もし上官の命令が腑に落ちないときは、いちおうは意見を述べることが許され、それでもやれと命ぜられたときは、責任はその上官にあって、命令を実行した部下にはないということですべて解決された。はっきり言えば解決というより、むしろごまかしといったほうが適切であったろう。誤った命令で生命を捨てた人こそほんとうにあわれだった。こんなことをわたくしが真剣に考えだしたのはずっと後のことで、その当時はこの命令服従の関係をきわめて安易に割りきっていた。わたくし自身の苦労がたりなかったのであろうが……。
  今日ふりかえってみて、わたくしはこういうことを話した方がたには、まったくおもはゆい気がしている。もう一つは「聖戦」とか「正義の戦い」とかいう考え方であるが、これについては後にふれることにしよう。以上の二点だけは、かつて初年兵教官として、あるいは中隊長として当時の部下であった方がたに一度はおわびしたいと、しじゅう思っていることであるが、すでに戦没された方にはお伝えするすべもなく、元気な方にしても全国にちらばっていて、お話する機会もないので、この書の出版を機会に、わたくしのありのままの気持ちを記しておきたいと思ったのである(p174・175)

  そのうち参謀として南京に行くことにきまった。「軍人の本懐これにすぎず」であった。その前にも戦地に行きたいと思っていたが、なかなかやってもらえず、竹田宮が騎兵の中隊長として敵兵の中に陣頭指揮された話をきいて切歯扼腕していたときでもあったから・・・・・・。
  南京に着任してみると、とにかく警戒厳重で、司令部内で用をたしにゆくときさえ憲兵がついてくるありさまで、公務出張以外、私用で外出する気にはまったくなれなかった。一年いたあいだに中華料理を食べたのはたった二回しかなかった。まあそんなことはどうでもよいとして、わたくしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、 中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった。この失敗は軍および日本政府首脳者に真剣な反省をうながし、新たに対華新政策なるものが決定され、わたくしが南京に在住していた一年間は、司令官以下この方針の徹底に最大の努力をした。そのこと自体はまことによい変化ではあったが、すでに手遅れでもあった。ただ「焼け石に水」に過ぎなかった。
  事変当初、上海に上陸したある師団長は、「支那軍が降参しなければ四百余州を焼き払う。」と豪語したとかいううわさをきいたことがある。これはきわめて極端な例だと思っていたが、戦地を回っているうちに、ほんとうにそんな気分がみなぎっていたのには驚いた。というのは例の対華新政策が発表されるや、軍司令官はただちに「四悪」を禁止するという厳重な命令をくだした。四悪というのは略奪、暴行、放火、強姦のことである。ところで、ある第一線の大隊長のいうことがふるっていた。今までは敵のいた家は焼きはらって進んだので、自分の大隊の第一線がどの辺を行進しているかすぐ分かった。ところがこんど放火を禁ぜられてみると、第一線がどこにいるかさっぱり分からない、と。まったく笑えないナンセンスであった。
  わたくしが上海地区へ視察に行ったとき、日本軍の上海付近上陸以来ちょうど六年たっていたが、ある第一線の師団長はしみじみとつぎのように述懐しておられた。「われわれが戦っている相手の中国軍と、日本軍に協力してくれている中国軍と比較すると、相手のほうが一般民衆にたいする軍紀が厳正です。われわれは正義の戦をしているはずなのに、軍紀のゆるんでいる軍隊を助けて、軍紀のひきしまっているほうの軍隊を討伐することに、つくづくと矛盾を感じます。」と。この言葉はその当時のわたくしの心境にぴったりと合っていたので、今だに忘れられない。
  この両師団長の言葉は、事変勃発当初と終戦直前の在華日本軍の首脳部の考えかたの変化を示す一例として、ひじょうに興味がある。もっとも、日本軍人の中にもはじめから中国を理解し、国際正義を十分にわきまえていた人もけっして少なくはなかった。が、そういう人の意見は概して下積みになって、とかく勇ましい議論が軍の大勢を左右していたのであろう。わたくしは南京の参謀になるまで軍の中枢部に勤務したことがなかったので、断言はできないが、いま当時をふりかえってみると、どうもそんな気がしてならない。こうして軍の中枢部に反省がおこるまでには、満洲事変の発端から数えて、じつに十年の歳月を要したのである。長い人類の歴史を考えると十年という年月は短いといえるかもしれない。しかし、軍の首脳部のこの反省がおびただしい人命――聖戦と信じ、進んで生命を捧げた同胞と、罪なき中国の人々――の犠牲の上になされたということを、われわれは夢にも忘れてはならない。
  個人の心境の変化――宗教的にいえば回心――は比較的短期間におこりうるのにたいして、人間の社会とか特定の集団とかの心理的変化は、じつに時間のかかるもの、というより坂の上から大きな石をころがすようなものだと思える。わたくしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである。こういう考えかたを持った当初は、すこし極端かなとも思ったが、「暴戻なる支那軍」の鉄道爆破事件が、じつは一部の幹部の陰謀によるとはいえ、とにかく「暴戻なる関東軍(満州に駐在した日本軍)」のしわざであったことを知るにおよんでは、もはや極端だと思わなくなった。
  こうして聖戦にたいする信念を完全に喪失したわたくしとしては、求めるものはただ和平のみとなった。しかしこれもさきほどのべた「坂をころがる石」で、当時、南京の参謀であった辻政信氏を中心とする小人数の力ではどうすることもできず、かえってはねのけられてしまった。そして、坂の下までころがり落ちて何もかも押しつぶしたすえに、無条件降伏という形でやっと止まったのである。そして、多くの先輩やかつてのわたくしの上官がたが、あるいは戦犯として拘置所に収容され、あるいは戦争裁判の法廷に立つという悲劇のさなかに、かえってわたくしは、それまでの不自然きわまる皇室制度――もしも率直に言わしていただけるなら、「格子なき牢獄」――から解放されたのである。これまた運命の皮肉でなくてなんであろう!
(三笠宮崇仁「帝王と墓と民衆 オリエントのあけぼの 付わが思い出の記」昭和31年4月30日初版発行 p177~180)

山下奉文に見る”アジア解放”の嘘

山下奉文は、マレー半島を「帝国の領土」、マレー人を「大日本帝国の臣民」と考えていた。
訓示
懸軍長躯「ジョホール」を制して新嘉坡攻略作戦を開始するや僅かに一週日にして難攻不落を誇りし堅塁を抜き英国東亜の侵略の根拠を覆滅し世界歴史を転換すべき成果を収めたるもの偏に御稜威の下各兵団の勇戦奮闘によるものと謂ふべく予は将兵の絶大なる労苦に対し深く之を多とし衷心満足する所なり
今や第一期の作戦を終り戈を転じて直ちに新作戦に邁進せんとするに方り改めて所懐を開陳し諸子の厳粛なる実行を要望せんとす
一、軍紀を振粛し皇軍の真姿を顕揚すべし
あたら戦場に勇士にして掠奪暴行に依り軍法に処断せられたる先轍を踏まざることに関しては上下深く戒心を加ふべし
二、馬来は帝国の領土たるべし
将兵一時の過失は経営百年の将来を毒すべきことを銘心し無辜を憐み不逞を制へ良民を戦禍より救ふことに努むると共に苟も敵性分子に対しては其の鑑別を誤らず徹底的に粛正し未然に禍根を芟除すべし
(三~五略) 
昭和十七年二月十五日
第二十五軍司令官 山下奉文

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歩兵第11連隊第3中隊 陣中日誌 昭和17.1.1~17.5.31
 
大阪朝日新聞 1942.4.29(昭和17)
皇民として更生
歓びの馬来、スマトラ住民

【昭南島特電二十九日発】皇軍精鋭の攻略後日ならずして治安回復したマレー半島及びスマトラ島の在住民はそのマレー人たるとインド人たると、また支那人たるとを問わず山下最高指揮官の天長の佳節における談話にもあるとおりひとしく帝国新附の民として天皇陛下の赤子として皇国の恩沢に浴することになり、かれらの今後の行くべき道はこれで明々白々となり、明朗の色全土に溢れるにいたったのである、元来マレー、スマトラの住民は多種多様の種族より成り、昭南島の如きは人種展覧会をもって稍されていたのであるが、この多種多様な種族が天皇陛下の赤子として更生し、帝国南方の護りとして永く日本民族と協力邁進するにいたったことはわが有史依頼の盛事であり、ここに大東亜戦争下初の天長節の佳き日にこのことを見たるは極めて意義深いものがある 

楽土建設へ 山下最高指揮官謹話

【昭南特電二十九日発】天長の佳節にあたり山下マレー方面最高指揮官は昭南島において次のごとき談話を発表した 
戦火の余燼ようやくおさまり建設の曙光燦然と輝かんとする今日、マレーの陣中において畏くも天長の佳節を迎うるは誠に感激の極みにして、とくにこのたび新たに大日本帝国の臣民となれるマレーの住民とともに聖寿の万歳を寿ぎ奉り得るにいたれるはこの意識極めて深遠重大にして、本職のまた衷心より欣快に堪えざるところなり 
つらつら顧るに大日本帝国の国体は真に尊厳にして万邦に冠たり、すなわち国を肇むること悠遠無窮、万世一系の天皇は天祖の神勅を体し現神として帝国を統治し給うに宏大無辺の御仁慈を示し給い、一億の臣民また赤誠をもって一天万乗の大君に仕え、ここにおいて義は君臣にして倩は父子の美わしき国体の精華を発揮し、弥栄えてその窮まるところを知らず、しかして帝国の理想とするところは万民をして各その生に安んぜしめ万邦をして各そのところを得しむるに存し、その道義的にして公明正大なるは世界にまた例を見ず顧るに十八世紀以来西洋文明の興隆はいたづらに物質に偏重して道義を忘れ弱肉強食飽くところを知らず、米英蘭の貪欲なる魔手は東洋を蚕食搾取して腹を肥やしために東洋の秩序は乱れて同胞は塗炭の苦しみに呻吟せり、ここにおいて帝国は破邪顕正の剣をとりて起ち、さきに支那を英米の魔手より救い、ついで師を南洋に進めて米英蘭の勢力を駆逐一掃し、いまや東亜の天地に新しき秩序は生れ王道楽士の建設また近き将来にあり、然りといえども建設は無為□安を貪りてなるものにあらず、産みのあるところ悩みあるは当然なり 
よろしく民衆は光輝ある帝国の新附の民たるの光栄に感激し、帝国の尊厳なる国体と大東亜戦争の真意を明識し、各その生業に励み日夜努力し、もって一時の苦悩を克服し、敢然として建設の一途に邁進し正義に立脚せる神聖にして永遠なる平和を築き、道義を基とする文化を進めざるべからず、これ天皇陛下の忠良なる臣民たるゆえんなり、今日の佳節にあたり恭しく聖寿の万歳を寿ぎ奉る 
 

 

皇軍の毒ガス使用


付表第四
第十五軍主要射耗弾一覧表

品目 ちび
南部緬甸作戦 
中、北部緬甸作戦 一一
計 一一

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緬甸作戦記録 第1期別紙付図付表

歩砲戦詳第二十三号
自、昭和十六年十二月八日
至、昭和十六年十二月二十五日
北部馬来攻略作戦戦闘行動詳報
歩兵第十一連隊歩兵砲中隊 

一、戦斗前彼我形成の概要
3、十二月一日中隊は泰国上陸直後市川少佐の指揮に入り軍直轄となり泰国軍隊に変装して一挙「ペラク」橋梁に挺進すべき連隊命令に接し全員奮躍して挺進に関する諸準備をなす、

別紙
挺進に関する細部の指示 市川挺進隊第二梯団
一、出発時「シンゴラ」
1.各車の人員は明確に調べておけ(車長は勿論戦友相互に)
2.車輌の点検「ガソリン」「オイル」油冷却水の充填は忘れず十分にやれ「ガソリン」は四百粁分を準備し勉めて予備タイヤを探せ
3.各組(後述す)の車長は十分打合せをしておけ
4.各車は牽引綱車体カバーを準備し為し得る限り地方人や女の衣粧〔ママ〕等を雑然と積込み各車一二名の偽負傷者をつくり外側に置け眼鏡使用者は内側に座れ
5.「ちび」弾の点検を十分に携行法を適切に前進間も時々点検せよ
6.弾薬車は故障者生起時所要の弾薬を捨てゝ砲を積込むものなるを以て夫れに適する如く弾薬の積込法を考へてやれ
7.泰軍福の襟は詰襟なるを以て其れに近似する如く工夫して着よ軍服なきものは襦袢をだらしなく着て可成車の内側に坐れ
8.秘密のものは一切携行せず、日章旗は腹に巻け
9、出発時大小便を忘れずしておけ

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歩兵第11連隊歩兵砲中隊 戦闘行動詳報 昭和16.12.8~17.2.15

付表第五の二
補充及射耗調査票

種別         補充数   射耗数
四一式山砲榴弾         五四四
同   あか弾   五〇〇   二八九
同   きい弾   五〇〇   三〇

九四式山砲榴弾         一、八五七
同   あか弾           二〇
同   きい弾           二九四
同   榴霰弾           二二

発射発煙弾     一〇〇   五〇
同   あか弾    二〇〇   一〇〇

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翁英作戦戦闘詳報 森川史料

自昭和十五年八月三十日至昭和十五年九月十五日
永野支隊武器弾薬損耗表

山砲三十六連隊九中隊
種類 消費 弾薬
区分 九四式山砲榴弾 262
同    榴霰弾 68
同    ア弾 62
同    キ弾 47

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 歩兵第224連隊第2大隊 晋中第1期作戦戦闘詳報 昭和15年8月23日~昭和15年9月15日
 

戦陣訓以外の自決指示


歩砲戦詳第二十三号
自、昭和十六年十二月八日
至、昭和十六年十二月二十五日
北部馬来攻略作戦戦闘行動詳報
歩兵第十一連隊歩兵砲中隊 

別紙 
挺進に関する細部の指示 市川挺進隊第二梯団
一、出発時「シンゴラ」
二、前進間
6、故障等のため分離せる車輌群は
イ、別紙要図の進路を一意ペラク橋梁に向ひ突進すべし、都市等は全速を以て通過せよ
ロ、状況に依りては敵退却車輌中に紛れ込んで進め
ハ、状況如何ともなし難きに至れば決然「ゲリラ」戦に転移するか或は付近要点を確保せよ、敵飛行場、駐止する戦車群司令部等は好目標にして特に夜間の活動に勉めよ、電線等は皆切断せよ、此の際は如何なる事あるも一兵と雖も分離する勿れ、戦死者は遺品と髪とを取りて埋めよ、死すとも捕虜たる勿れ
砲を捕らるゝ事勿れ 沖、横川両志士、空閑少佐の最後を想へよ、ねばり強く、然れ共最後迄渾身の努力を続けよ 捨鉢で死ぬのは意気地なし不忠なり駄目だと思ったら今一度五ヶ条を唱へて故国を拝せ、生るも死ぬも紙一重なり、万策尽けば砲は自爆せよ、

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レファレンスコードC14110606400(14・15枚目
歩兵第11連隊歩兵砲中隊 戦闘行動詳報 昭和16.12.8~17.2.15

そして転属五日後、師団司令部において終戦の詔勅のラジオ放送を聞くことになる。・・・そんな中にも軍刀を振り回し悲憤慷慨の下士官もいた。法務局の法務将校はめったに口を利いたことがなかったが、我々に「米軍が来たら絶対に俘虜になってはならない、自決せよ。そして女子(司令部の女子職員)は毒を服むように」と、毒物を包んで渡していた。女子職員は涙ぐみ、遂には声を上げて泣いたのである。(p146・147)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_137_1.pdf




皇軍、タイ軍に変装しマレー侵略

その他民間人のふりや「ちび弾」など盛りだくさん
歩砲戦詳第二十三号
自、昭和十六年十二月八日
至、昭和十六年十二月二十五日
北部馬来攻略作戦戦闘行動詳報
歩兵第十一連隊歩兵砲中隊 

一、戦斗前彼我形勢の概要
3、十二月一日中隊は泰国上陸直後市川少佐の指揮に入り軍直轄となり泰国軍隊に変装して一挙「ペラク」橋梁に挺進すべき連隊命令に接し全員奮躍して挺進に関する諸準備をなす、

別紙
挺進に関する細部の指示 市川挺進隊第二梯団
一、出発時「シンゴラ」
1.各車の人員は明確に調べておけ(車長は勿論戦友相互に)
2.車輌の点検「ガソリン」「オイル」油冷却水の充填は忘れず十分にやれ「ガソリン」は四百粁分を準備し勉めて予備タイヤを探せ
3.各組(後述す)の車長は十分打合せをしておけ
4.各車は牽引綱車体カバーを準備し為し得る限り地方人や女の衣粧〔ママ〕等を雑然と積込み各車一二名の偽負傷者をつくり外側に置け眼鏡使用者は内側に座れ
5.「ちび」弾の点検を十分に携行法を適切に前進間も時々点検せよ
6.弾薬車は故障者生起時所要の弾薬を捨てゝ砲を積込むものなるを以て夫れに適する如く弾薬の積込法を考へてやれ
7.泰軍服の襟は詰襟なるを以て其れに近似する如く工夫して着よ軍服なきものは襦袢をだらしなく着て可成車の内側に坐れ
8.秘密のものは一切携行せず、日章旗は腹に巻け
9、出発時大小便を忘れずしておけ

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レファレンスコードC14110606400(11枚目)
歩兵第11連隊歩兵砲中隊 戦闘行動詳報 昭和16.12.8~17.2.15

皇軍の拷問

とフィリピン人の投書に書いてある。
昭和19年度 イロイロ憲兵分隊書類綴
「パナイ」島大日本国の指導者各位 一九四四年一月二十七日 於「パナイ」島

「パナイ」島駐在の日本軍は大きな誤謬を犯かし比島民衆を(に?)激怒されているのである、同軍が吾が民衆に対する公害主張する反誼は全く問題外なり、此の民衆に与へし犯罪行為は過去及現在に於ける日比親善関係の大きな弱となり民心をして常に怨恨を呼起すべし、
斯かる犯罪行為は日軍当局で了解或は黙認されいるや、日軍の工作は破壊的行為なり、若し当局の了解なくして斯かる犯罪が為され居るのなら今後速やかに中止され度し、之れが強大なる日本軍を背景とする比島共和政府「パナイ」島に於ける最も早い治安確立なり、
日本兵に依り犯されし最も非(?)度い犯罪を左記に印す

(1)無差別の住民惨殺
(2)獣欲を満たさんが為の日本兵の婦人に対する凌辱的行為
(3)「パナイ」討伐に於ける日本兵の比人児童惨殺及殺害的行為
(4)住民に対する不正なる報復手段
(5)日本兵に依る比島民家の放火
(6)吾が比島婦人に暴行の上赤裸にし一般に曝出す言語同〔ママ〕断なる行為
(7)根拠理由なくして住民に対する拷問

斯かる行為は日本武士道に於いて許し難き悪行の数々にして、無辜なる住民を日本兵の手で血生臭い犠牲にする事は日本国家を凌辱する事であり日本政治家として決して許さる可き行為にあらず、斯かる残忍なる行為は曾て歴史になく前代未聞なり、若し日本人が東亜民族の真の共栄発展を望むのなら人道主義原則に反した行為は厳重に取締るべきなり、
(左欄外に濃い字で「●●●村長●●●記述」)
1行読解不能
比島人は反抗せり、其処で米人は人道主義●●敵意を有する比人に接近せる結果、一時焔となった比人の敵愾心は徐々に鎮まり抑へ難き比島人の反抗者は唯一の憂国の士となったのである、
比島人は独裁主義の蹂躙的虐政に対しては飽迄剛毅にして自由主義の柔軟且正当なる政治に対しては感応し易し、此の史上且て見ざる現在行われいる〔ママ〕事実に対し吾々は合流し得るや?日本人が比島人の心理を了解するまでは相当の期間と研究を要す、
前述は決して挑戦的意味でなく唯貴国の大共栄確立に先じて先ず親睦を以て吾が民衆の意図を了解させんがため勧告す、
貴民衆と吾々間の交際に於てもう少し誠意であって欲しい、若し吾民衆に対し寛仁雅量であれば其民衆を寛仁ならしめるのである、若し日本人が「光輝ある独立」と呼すのなら、貴政府にて許容されし独立に対し栄誉を与へ尊敬され度し、
平和幸福に生活する吾が無抵抗なる民衆に対し此れ以上貴軍人の残虐行為中止を要求する 、我土地には罪を正当に裁く法庭〔ママ〕あり、貴兵士の手で法を裁くな、其れは裁判権を横奪し比島共和政府を人形以上の立場にする誠に憂慮すべき行為なり、
吾々は日本兵の立派な武士道原則たる陛下へ対する忠誠正義の発揮をし吾が民衆を導かれんことを希望してやまぬ、
此の書に依り貴殿は必ず熟慮せざる●得ないと吾々は信ず、且御互ひに合理出来るやう適宜なる処置を乞ふ、
敬具 比人治安維持者 
http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_129.pdf 

日本側も拷問をやっていたと認めている
「ビサヤ」地方憲兵服務指示

・・・是が為将兵の注意すべきこと次の如し
(1)殺より利用
戦闘に於て敵味方となり殺すか殺さるるかの時は元より問題外なるも戦闘後に於て或いは検挙検索等に於て得たる抗日分子を軍律会議にかけることなくむやみに厳重処分するが如き、衆人環視の中で斬首してさらすが如き、 又はMGで掃射するが如き、拷問にて殺すが如きは最も不可にして将兵は勢いの赴く処時に斯る暴挙に出づることなしとせざるが斯様の態様にて一人の比島人を殺害する時は却って十人の抗日分子を作るものなり。・・・
 
二、憲兵の対策
2、民衆を敵とすべからず
・・・是が為憲兵は
(1)拷問を止むべし
明瞭なるを以て理由を記述せず

右指示す
昭和十七年十一月十五日
比島憲兵隊長 長濱彰

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レファレンスコードC14061256300(6枚目)
 比島>防衛>第14軍憲兵隊参考書綴 昭17.10.4~17.11.15
 
こちらの資料にも「拷問の廃止」とある。廃止とはつまりやっていたわけである
隊長「ビサヤ」地方憲兵服務指示図解
拷問
http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_122.pdf

このように見てくると、次の資料も拷問と解釈するのが妥当だろう。
 「ナカール」中佐一派討伐間の教訓
東地区警備隊

一、情報蒐集に就て
1、土民情報
(略)
2、討伐初期は
土民は殆ど一応は虚言を弄す。町村長は素より敵に通じあると関係なきとに不拘我質問に対し異口同音に「知らぬ存ぜず」と称すか価値無き遠き以前の情報を提出するのみなり。其の原因は我軍の決意を知らず大〔ママ〕風一過的に通過せると思考せると敵の報復を恐れたるものゝ如し
而して支隊本部「ピナバガン」に前進し我が異常なる決意を示すと民衆に対する〔ママ〕烈なる取調に依り漸く真意を理解し協力的態度に出ずるに致せり。・・・
4捕虜帰順者の利用に就て
捕虜より情報を得るためには取調べ俊〔ママ〕烈苛酷ならざるべからず。捕虜は一通りの訊問に依り全部の自白をなすものに非らず、須く手段を盡し寛厳機に適し或は反証を挙げて取調べ或は強問して窮地に追ひ込み或は一刀両断するが如く見せて生の執着を利用する等の方法必要なり。帰順者の取調に於ては其動機人物等に依り一様ならざるも概ね捕虜に準ずるを可とす。然れ共相当なる人物の取扱に就ては注意を要す。

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レファレンスコードC14020725200
匪首捕獲の参考 S17.12.25

これらも拷問
武昌憲兵隊
 昭和十六年三月中旬、私は武漢の地を去る事と成った。写真中真ん中の建物は、武昌憲兵隊、その後ろ小道を隔て私の勤務の場所、兵站病院レントゲン室があった。嫌でも聞こえる訊問の大声、悲鳴、水攻め、死者を甦らせよ、もう一度聞きたい事ありと私に命じる憲兵殿の語気、それは今でも私の悪夢である。この建物にはYMの三角マークと武昌基督教青年会と書いてある。
(麻生徹男「上海より上海へ」 p39)
 
最初にイバナ町長に尋問しましたが横柄な態度でなかなか口を割らないので両手を縛り天井からブラ下げました。しばらくして苦しくなったのか一切自白し、また他の百人近い逮捕者の証書でゲリラの全貌が判明しました。(p471)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_463_1.pdf
 
 山東省でも平地から一歩山の中に入ると八路軍の陣地があって、日本軍の様子を看視しており、特に農民の姿をして日本軍が少数と見ると襲いかかって来る、あの有名な便衣隊が横行して油断が出来ませんでした。あるとき、密偵が捕まって情報を自白させるため、あの手この手で責める仕打ちを見て、これも戦争のためかと顔を背けたこともありました。(p156)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_151_1.pdf
   
  事件が起ったのは、曹長に進級する直前だったから二十年の一月の末か、二月の初めであった。事件の二、三日前、警務係で県政府の幹部である「李渉外課長」を逮捕し取調べ中であると警務主任から特高主任に連絡があった。
  対中国人関係は主として特高で取扱っていたし、特に中国機関に対しては慎重を期して、たとえ職員の行動に多少の疑惑があっても、逮捕、監禁などの強硬手段は避けていた。それにもかかわらず、事もあろうに渉外関係を一手に握る李課長を逮捕したことについては、特高職員としては大きな不満があった。しかし、警務主任が班長の須賀准尉(中村隊長は本部に長期出張)の許可を得ての逮捕だから文句のつけようがなかった。
  朝礼が終った九時頃、軍服を特務服に着替え、勤務に出ようとして留置場の隣にある取調室の前を通った。其の時、取調室の中から大きな怒号の声が聞えてきた。「随分早くからやっているな。誰だろう」と軽い気分で中をのぞいた。
  私はその場を見た瞬間、「はっ」とした。我々が心配している李渉外課長の取調べを楢原伍長がやっているではないか。李課長は、乱れきった髪をふるわせて、怒りに燃える手で床をたたきながら、怒号のような声で抗弁していた。上流階級にのみ許される羊皮の長衣は破れ、過酷な取調べを物語る紫色にはれあがった傷の下からは、卑しからぬ顔がありありとのぞかれた。
  「楢原どうした、止めんか」
  倒れるようにうずくまっている李課長を抱き起して椅子に坐らせた。
  「警務主任、班長の命令で取調べをやっているのです。関係のないものは文句を言わないで下さい」
  「何に、関係がない、文句を言うなとは何事だ。遊匪や土匪ではないぞ。いやしくも県政府の高官ではないか。こんなひどい取調べをする奴があるか」
  「これがひどい取調べですか。満洲では、此のくらいは取調べの部類には入まり〔ママ〕せんよ」と私の意見を容れようとしないのみか、更に拷問の「死の十字架」(拷問中の拷問で遊土匪の取調べ以外には禁止されていた)の準備を始めようとした。
  「ここは満洲ではない。南支那だぞ。警務主任には俺から話しておくから、此れ以上の拷問をやっては駄目だ」と強く念を押したが返事はなかった。
  事務室に来たが警務主任がいなかった。若い伍長にすぐ探して来るように命ずると共に、須賀准尉に速やかに楢原伍長の取調べを中止するように要請した。しかし、須賀准尉は「警務主任の金城曹長がやらせているのだから、心配することはないだろう」と軍曹のくせに、生意気なことを言うなとばかりの言い方であった。
  「此の無能准尉、問題が起きたって俺は知らぬぞ」と口の中でつぶやきながら、自分の机に坐った。
  私の予想は三十分後に起った。あわただしく入ってきた楢原伍長の顔は真蒼であった。
  「取調べ中の李課長が今死にました」と班長に報告する声はふるえ、とぎれがちであった。・・・
  李課長の死体は、取調べ室から南向きの廊下に移されていた。手首、足首は紫色にはれあがり、麻なわで強く縛りつけられたあとが歴然としていた。更に顔から上半身にかけて、水につかったようにぬれているのは、「死の十字架」の拷問死によることを物語っていた
(鈴木卓四郎「憲兵下士官」p195~198)


 『さむぱぎいた』で記された説田の教師経験のなかで重要なものとして、フィリピン大学農学部付属農学校での抗日ゲリラ組織に対する討伐作戦を挙げることができる。この際、説田は取調べにおいて通訳をさせられる。彼には、学問の府で共に働く同僚を追及する軍の作戦に協力したことに葛藤があった。さらに、彼にとって痛恨の事態は同僚が拘束されただけではなく、拷問が行われたことである。作戦終了後に出会った農学部長は、

 顔や手を紫色にはらして、死人のような顔色でいすに掛けているというより倒れかかっているという恰好です。私がそばに寄って行くと、自ら弱々しい口を開いて、「ミスターセツダ、私のこの体を見てください。私はもう二度と顕微鏡を使うこともできない。学者としての生命は終った。私はミリタリーは大きらいだ。日本とか、アメリカとかではない。軍というものがきらいだ。」と一気に言いました。私は答える言葉を知りませんでした。農学部長の彼は数日間にわたって拷問を受けたのです。後ろ手に縛られて、梁からぶる〔ママ〕下げられて、バットようの棍棒で殴られていたのです。[説田①第三集:48]




皇軍の人質戦術


匪首捕獲の参考
昭和十七年十二月二十五日
渡集団 参謀部

本資料は奈良兵団に於て匪首捕獲に方り採用せし参考資料なり
参考の為印刷配布す


匪首捕獲の参考 其の二(「ヌエバビスカヤ」州に於ける「モーセス」「エンリキス」一味討伐)
二、情報の収集
3 成るべく多くの密偵を有意義に利用するを要す
匪首所在位置を察知せば 該方面に知●を有する密偵を獲得(?)し速かに情報の収集に着手するを要す而して討伐間急速に密偵●入るるを要するときは付近在住の有力者等を逮捕して之に●じ其の妻子近親は之を人質(●遇す)とし通匪(?)し能はざらしむる如く著意すること緊要なり

四、治安恢復の為の指導
討伐の本旨は治安恢復に在り故に各討伐隊は討伐検索間常に本趣旨に基き軍政諸機関と緊密に連絡し之が指導へ遺憾なきを要す
1 土民は利を以て誘ふ時は通常従ふものなり故に先づ部落内の有力者と目せらるる人物を買収し協力を誓はしむるを要す
2 敵兵匪等は其の罪を教へて住民に説明し有力なる土民等をして殴打若くは処断せしめ兵匪の反感を買ふ如く仕向ける要あり
之が為密かに兵匪若くは其の容疑者をして住民に対し悪事をなさしめ●に反感を誘発する如く●●するを可とすることあり

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レファレンスコードC14020723400
レファレンスコードC14020723600(5枚目)
匪首捕獲の参考 S17.12.25
人質を取るだけでなく、「密かに兵匪若くは其の容疑者をして住民に対し悪事をなさしめ●に反感を誘発する」と漫画のような卑怯な手段を使っていたことがわかる。


二、内務部関係事項

警告
治安維持に関する件
一、日本軍人若くは日本人に対し危害を加へ若くは加へんと企てたる者は射殺すべし
二、加害者若くは加害を企てたる者が発見され得ざる場合は事件発生の街道或は村及びその近隈に住む有力者十名を人質として保留すべし
三、官憲並に有力者は該警告をその市民並に村に速に伝達し自己の責任に於て前記犯罪が発生する前に之を防止すべし
四、比島人は我々の真の意図を諒解し比島に於ける治安維持の為我々と協力すべし
昭和十七年一月三日
大日本軍司令官 

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レファレンスコードC14020667100(1枚目)
軍政公報 第1号 S17.3.21

昭和一八、一、二七
各隊に移牒
俘虜等の留置場施設に関する件通牒
昭和十八年一月二十●● 垣第六五五〇部隊参謀長 河添連
西地区警備隊長 鈴木辰之助殿

各部隊に於て抑留中の俘虜、容疑者、人質にして適々其留置場設備の不備なるに乗じ逃亡せるが如き事例散発しある現況に鑑み警備隊は努めて在来施設(町役場監禁所刑務所等)を活用し垣部隊経理規定第三十条の建築担任区分に従ひ夫々少くも大隊本部以上の本部所在地には監禁(収容)所を設備し中隊等に於ても所要の施設を為し抑留者の管理に遺憾なきを期せられ度依命通牒す
 
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レファレンスコードC13071605400
歩兵第33連隊 関係資料 昭和18年1月5日~18年7月22日

情報収集に関する参考
昭和十九年二月十八日
渡集団司令部

諜者使用上の参考
一、諜者使用上の一般原則
13 出来得る限り家族を獲得人質し置き同時に家族援助に充分●慮を払ふべきこと
 
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レファレンスコードC13071366900(16枚目)
比島防衛第14軍関係情報資料綴 昭和19年


 

右翼が意外にもリットン報告書を好む理由

こういうサイトを見ると、意外にも右翼保守が好んでリットン調査団を引き合いに出すことがわかる。
http://kenjya.org/ritton.html
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/02/post-4264.html


理由は恐らくこうだろう。
リットン調査団時点では、柳条湖事件が日本軍の犯行だと判明しておらず日中双方の主張を両論併記し、「日本将校が自衛の為め行動しつつありと信じつつありたるなるべしとの仮説を排除せんとするものには非ず」としている。つまり日本にとっては(事実と異なる)有利な面があるから。右翼保守はリットン調査団の限界を利用していると考えられる。


以下調査団報告書より抜粋
第四章 
一九三一年九月十八日当日及其後に於ける満洲に於て発生せる事件の概要

事件突発直前の事態
(省略)

九月十八日夜-十九日
  九月十九日土曜日朝、奉天市民の醒むるや同市日本軍の手中に帰したるたるを発見せり。夜中砲声を聞きたるも之は別に異とするに足らず、日本軍は小銃及機関銃の猛射を含む夜間演習をなし来れることとて右の如きことは其週間連夜のことなりき。九月十八日当夜は大砲の轟き及砲弾の音の為め之を識別し得たる少数のものが恐慌を感じたるは事実なるも市民の大部分は砲声を以て単に日本軍演習の再開に過ぎずとし、恐らく平常よりやや騒々し位に考へたり。
  後述の如く殆ど全満洲の軍事的占領に導きたる運動の第一歩として本事件の頗る重大なるを認め調査団は同夜の事件に付広汎なる調査を遂げたり。日支両軍関係指揮官公式陳述の頗る重要且興味あるは勿論なり。日本側は本事件を最初に目撃せる河本中尉、北大営攻撃に当れる大隊の指揮官島本中佐及城内を占領せる平田大佐により説明せられたり。吾等は又関東軍司令官本庄中将及若干参謀将校の証言を聴取せり。支那側主張は北大営支那軍指揮官王以哲之を説明し之が捕捉として彼の参謀長並に軍事行動中現場にありたる其の他の将校の個人的談話ありたり。吾等は又張学良元帥並其の参謀長栄臻将軍の証言を聴取せり。

日本側の説明
  日本側説明によれば河本注意は兵卒六名を率ゐ九月十八日夜警戒任務を受け奉天北方の南満州鉄道線路に沿ひて防御演習を行ひつつありたり。彼等は奉天の方向に南進しつつありたるが同夜は天晴れたるも暗夜にして視野広からず。彼等が小道が線路を横断せる地点に達せる時やや後方に当りて爆発の大音響を耳にせるを以て方向を転じて走り還りたる処約二百碼行きたる地点にて下り線軌道片方側の一部分が爆破され居るを発見せり。右爆発は二軌道接合点に起れるものにして両軌道の尖端は全く引き離され之が為め線路に三十一吋の間隙を生じたり。爆発点に達するや歩哨隊は線路東側の畠地より砲撃されたるを以て河本中尉は直に部下に対し展開応戦すべきを命じたり。此処に於て約五、六名と覚ぼしき攻撃隊は射撃を止め北方に退却せり。日本歩哨隊は直に追撃を開始したるが約二百碼前進せる処にて約三四百名に達する一層有力なる部隊の為め再び射撃せられたり。河本中尉は此の優勢なる部隊に包囲せらるるの危険あるを認め部下の一名をして約千五百碼北方に於て同様夜間演習中の第三中隊長に報告せしめ同時に他の一名をして(現場付近にある電話筒により)在奉天大隊本部に救援を求めしめたり。
  此の時長春発南下列車の接近しつつあるを聞きたるが列車が破損線路に到達して破壊すべきを恐れ日本歩哨隊は交戦を停止し列車に警告を与へんが為め線路上に音響信号を設置せり。而るに列車は全速力にて進行し来り爆破地点に達するや動揺し一方に傾くを認めたるも回復し停車せずして通過し去りたり。列車は十時半奉天着の筈にて定刻通り到着せるより見れば河本中尉の初めて爆発を聞きたるは十時頃なるべしと同中尉は語りたり。
  次で戦闘再開せられたるが第三中隊を揮ゆる川島大尉は既に爆音を聞きて南下の途中河本中尉の使者と遭遇し之が案内にて現場に向ひ約十時五十分頃到着せり。一方大隊長島本中佐は電話に接するや直に奉天にありたる第一及第四中隊に現場に向ふべきを命じ又一時間半の距離にある撫順駐在の第二中隊に対し出来得る限り速に之に加はるべきを命じたり。右の二中隊は奉天より汽車にて柳條溝に至り次で徒歩にて現場に向ひ夜半過到着せり。
  川島中隊の援助を受けたる河本歩哨隊が繁茂せる高粱の葉蔭に潜む支那軍の射撃を受けつつある際右の二中隊奉天より到達せり。
  島本中佐は其兵力五百に過ぎず而して北大営支那軍一万に及ぶと信じたるに拘はらず彼の吾人に語りたるところによれば彼は「攻撃は最良の防御なり」と信じ直に営舎の攻撃を命じたり。線路、営舎間約二百五十碼の地面は水溜りの為衆団にて横断すること困難なりしが支那軍が右地面を越え撃退されつつある際野田中尉は第三中隊の一個小隊を以て彼等の退路を断つ為めに鉄道に沿ひて進出することを命ぜられたり。日本軍が煌々と点燈しつつありたりと伝へらるる北大営舎に到達するや第三中隊は攻撃を行ひ左翼隅占領に成功せり。右攻撃に対し営内支那軍は頑強に抵抗し激戦数時間に亘れり。第一中隊は右翼を第四中隊は中央部を攻撃す。午前五時、営舎南門は其の直前にある付属家屋内に支那軍の放置せる大砲より二弾に依りて破壊せられ、同六時全兵舎占領せられたるが日本側兵卒死者二名、傷者二十二名を出せり。兵舎建物中には交戦中火災を発したるものありたるが残余は十九日朝日本軍により焼き払はれたり。日本側にては支那兵三百二十名を埋葬せるが負傷者は二十名を発見せるに過ぎずと陳述せり。
  一方他の地点に於ても同様に迅速且徹底的に軍事行動実施せられたり。平田大佐は午後十時四十分頃島本中佐より南満洲鉄道線路支那軍の為め破壊されたるを以て将に敵軍攻撃に向はんとする旨の電話を受けたるが同大差は島本中佐の行動を是認し自ら城内攻撃に当るべきを決意し午後十一時三十分迄に軍隊の集合を完了し攻撃を開始せり。而して何等の抵抗をも受けず時々市街上に戦闘ありたるも主として支那警察隊との間に行はれたるものにて之が為め支那側巡警の間に死者七十五名を生じたり。午前二時十五分市の城壁を乗越し三時四十分迄之を占領せり。午前四時五十分彼は第二師団本部及第十六連隊一部午前三時三十分遼陽を出発せる旨の情報に接したるが右軍隊は午前五時直後到着せり。而して午前六時東部城壁の占領を完了し兵工廠及飛行場は七時半占領せられ、次で東大営を攻撃し午後一時戦闘を見ずして之を占領せり。之等の行動による総死傷数は日本側傷者七名支那側死者三十名なり。
  当日宛も検閲より帰来せる本庄中将は午後十一時頃新聞記者よりの電話にて初めて奉天に起りつつある事件の報道を接受せり。参謀長は奉天特務機関より午後十一時四十六分電話にて攻撃の状況につき仔細の報告を受け次で遼陽、営口、鳳城にある軍隊に対し直に奉天出動を命令せり。艦隊は旅順を出発して営口に赴くことを命ぜられ在朝鮮日本軍司令官は援軍派遣を求められたり。本庄中将は午前三時半旅順を出発し正午奉天に到着せり。

支那側の説明
  支那側の説明によれば日本軍北大営攻撃は何等挑発によるものに非ずして全然奇襲に出でたるものなり。九月十八日夜第七旅全軍約一万北大営にありたり。九月六日張学良元帥より当時の緊張せる状態に於て日本軍との衝突は一切之を避けんが為め特別の注意を為すべき旨の訓令(北平に於て調査団に示されたる電文下の如し。「日本との関係頗る機微なるものあるを以て彼等に接する際には特に慎重なるを要す、如何に彼等に於て挑戦するも吾人は特に隠忍し断じて武力に訴ふることなく以て一切の紛争を避くべし。貴官は秘密且即時全将校に命令を発し右の点に付彼等の注意を喚起すべし」を接受せるを以て兵営城門の衛兵は木小銃を携帯したるのみにて任務に服したり。而して同様の理由に依り兵営周囲土塀内の鉄道線路に導く西門は閉鎖せられ居たり。九月十四、十五、十六、十七日夜日本軍は兵営付近に於て夜間演習を行ひ十八日夜午後七時には文官屯なる一村落にて演習しつつありたり。午後九時将校劉某は通常の型の機関車を有せざる三、四輌の客車よりなる列車が同地に停車せる旨を報告せるが午後十時爆破の大音響あり、之に引続きて銃声を聞きたり。依て直に電話により参謀長より之を兵営南方六七哩鉄道線路近くの私宅にありたる司令官王以哲に報告せるが参謀長が尚電話中日本軍の兵営を攻撃しつつある旨並衛兵二名負傷せる旨の報道あり。十一時頃より兵営南西隅に対する総攻撃開始せられ十一時半日本軍は城壁の隙より侵入し来れり。攻撃開始せらるるや参謀長は消燈を命じ再度王以哲に電話にて報告せる処王は抵抗すべからざる旨を答へたり。十一時半南西及北西方向遠方よりの大砲の音を聞きたるが夜半に至り兵営内に砲弾落下し始めたり。退却中の第六百二十一団軍南門に達するや日本軍が同門を攻撃し居り守備兵撤退中なりしを以て同軍は日本軍の内部に侵入する迄塹壕土塀内に逃避し、然る後南門を経て逃るることを得午前二時頃営舎東方の二台子村落に到着せり。他軍は東門及東門外直近の空舎を経て逃れ遂に三時より四時迄の間に同村落に達するを得たり。
  唯一の抵抗は北東隅建物及夫の南方第二位建物内にありたる第六百二十団の試みたるものなり。同団長は日本軍が午前七時南門より侵入し来るや支那軍は建物より建物へと逃れ日本軍をして空虚なる建物を攻撃せしめたる旨述べ居れり。支那軍主力撤退後日本軍は東方に向ひ東方出口を占領せり。かくして第六百二十団は連絡を絶たれたるを以て自ら戦ひて活路を開くの外なきに至れり。彼等は午前五時に至り突破を始めたるが全然脱出し得たるは午前七時なりき。之営舎ないに起れる唯一の実戦にして死傷の大部分も之が為めなり本団は最後に二台子村落に到着せる部隊なり。
  支那軍は全部集合するや十九日早朝直に同村落出発東陵に向ひ次で同地より吉林近傍の一村落に至りて冬衣の支給を受け又王大佐を派し凞洽将軍より軍隊の吉林入市許可を求めたり。在吉林日本在留民は支那兵の接近に恐れを抱きたるを以て即刻長春四平街及奉天より吉林に援軍派遣せられたるが之が為め支那軍は再び奉天方面に向ふこととなれり。彼等は奉天外十三哩の地点に下車し九隊に分れ、夜間奉天を迂回行軍せり。日本軍の発見を免れんが為め王以哲自ら農民に仮装し市中を乗馬にて通過せり。朝に至り日本軍は彼等存在の報に接し飛行機を発して之を爆撃せるを以て彼等は昼間隠遁するの已むなかりしも夜間は進軍を続行し遂に京奉線の一駅に達し此処にて七列車を命じ之により十月四日山海関に達したり。

調査団の意見
  以上は所謂九月十八日事件につき両国当事者の調査団に語れるところなり。二者異り矛盾しをるは明なるが之れ其の事情に鑑み別に異とするに足らざるところなり。
  事件直前の緊張状態並興奮を考へ又利害関係者の特に夜間に起れる事件に関する陳述には必ずや相違するところあるべきを認め吾等は極東滞在中事件発生当時又は其直後奉天にありたる代表的外国人に出来得る限り多数会見せるが其の内には事件直後現地を視察し又先づ日本側の正式説明を与へられたる新聞通信員其他の人々あり。利害関係者の陳述と共に斯かる意見を充分に考慮し多数の文書資料を熟読し又接受若くは収蒐せる幾多の証蹟を慎重研究せる結果調査団は左の結論に達したり。
  日支両軍の間に緊張気分の存在したることに付ては疑ふの余地なし、調査団に明白に説明せられたるが如く日本軍が支那軍との間に於ける敵対行為起り得べきことを予想して慎重準備せられたる計画を有し居たるが九月十八日-十九日夜本計画は迅速且正確に実施せられたり。支那軍は一八七頁(文原)に言及せる訓令に基き日本軍に攻撃を加へ又は特に右の時及場所に於て日本人の生命或は財産を危険ならしむるが如き計画を有したるものに非ず。彼等は日本軍に対し連繋ある又は命令を受けたる攻撃を行ひたるものに非ずして日本軍の攻撃及其の後の行動に狼狽せるものなり。九月十八日午後十時より十時半の間に鉄道線路上若くは其付近に於て爆発ありしは疑なきも鉄道に対する損傷は若しありとするも事実長春よりの南行列車の定刻到着を妨げざりしものにて其のみにては軍事行動を正当とするものに非ず。同夜に於ける敍上日本軍の軍事行動は正当なる自衛手段と認むることを得ず。尤も之により調査団は現地に在りたる日本将校が自衛の為め行動しつつありと信じつつありたるなるべしとの仮説を排除せんとするものには非ず。尚爾後の事件につき述べざる可からず。(p79~85)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445164/45


皇軍の捕虜・住民に対する殺害指示・容認

まず身も蓋もない文書
「軍事極秘」の押印
警備会報 八月四日

一、軍隊が直接比島側政務機関に軍政上支障を来すが如き各種交渉をなすべからず 
之等交渉は順序を経て師団を通じ以て軍政部機関と連絡の上相互の業務遂行に支障を来すが如き事なき様注意するを要す
但し民心把握、情報蒐集等今迄の施策には何等変更を来すものにあらず
三、便衣を濫用すべからず
特別攻撃隊追撃隊等にして任務終了後尚便衣を着用し甚だしきは頭髪を長くせるものあり斯の如きは軍紀の破壊者にして軍隊の惰〔ママ〕落なり
幹部たる者は厳に監督すべし
四、俘虜の取扱に関しては従来と若干異なり左記の如く実施すべし
1、日本軍に対し武器を以て戦闘行為をなせるものは一応取調の後隠密裏に殺すべし
2、敵匪に強制的に加入せしめられ直接的の行動をとらざるものは訓戒所に送致すべし
3、通敵行為(情報、食糧等の提供)をなせる者は所要の教育訓戒後宣誓せしめ釈放すべし
之等の処理は各警備隊本部に於て実施するを可とし訓戒所へ送付の際は必ず調書意見書を付すべし
(以下略)

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レファレンスコードC13071869700(2枚目)
左警備隊.警備日報.会報綴 昭和17年10月~18年11月
殺害指令


次は肝心なところが伏字になってる文書。意味は同じだろう。
二月五日情報会報時に於ける
師団長注意事項
垣部隊本部昭和十九年二月八日
垣第六五五四部隊複刷

一、捕虜は戦場にて○し投降者中の悪質なるものは暗々裏に断乎○○し遺棄遺体に算入すべし

捕虜とは戦場に於て捕へたる兵匪を云ひ投降者とは討伐前投降又は帰順し来れる者を意味す。捕虜は現場に於て訊問を了し情報上更に詳細取調を要する者の外は即時○○すべし

○○に当りては警官及民間に一人の現認者なき如く周到なる着意を以てし僻地を選び将来に痕跡を残(?)さゞる如く留意すべし。

投降者中悪質なるものは暫く之を留致〔ママ〕し民心の動向を静(?)察し住民の忘れたる頃に於て秘かに闇に○り或は遠方に引致せりとして暗々裏に○○する等民心を刺戟せざる如く適当に処置すべし。其の他の投降者は訓化後比島側の保護の下に釈放すべし。比島側への投降者ありたる場合は直ちに我に連絡し比島側にて充分訓化したる後釈放する如く要求すべし。

現行犯の強盗の処分は悪質投降者に同じ
 
尚捕虜投降者乃至容疑者等を取調の為引致せし場合に於て住民の眼に触れしめざる如くし民心把握上細心留意するを要す。

比島政府は今後尚投降工作を継続する如く知事に通達しあるものゝ如し。依而警備隊は比島側工作を逆用して匪首の摘発匪団の急襲に努むべし。

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レファレンスコードC13071401900(1・5・6枚目)
第16師団(垣)情報記録綴 昭和18年度
処刑命令1処刑命令2処刑命令3

次も同じ意味だろう。
匪首捕獲の参考
昭和十七年十二月二十五日
渡集団 参謀部

本資料は奈良兵団に於て匪首捕獲に方り採用せし参考資料なり
参考の為印刷配布す

匪首捕獲の参考 其の一
(「ナカール」中佐討伐)
五、住民の協力を促す手段
1 懸賞内容を知得せしむ
  之が為布告分を配布し説明す
2 信賞必罰を説明す
  特に協力者に対しては諜報費宣撫用品等を交付し現認せしむ
3 土民は利を以て誘く時は通常従ふ者なり(買収)従って先づ部落の有力者と目せらるる人物に先づ重点を指向し宣伝買収す
4 州●官吏町村長又は有力者を利用す
  ●●為右の如き有力者は之を連行し要すれば十分の日当を与ふるを可とす
5 土民等にして頑強に否認し敵意を示す場合等は衆の面前に於て断呼処分し威力を示すを適当とすることあり
6 右の外宣撫班との協力に関し著意す

匪首捕獲の参考 其の二(「ヌエバビスカヤ」州に於ける「モーセス」「エンリキス」一味討伐)
4 匪民を速に分離し兵匪は断乎処断し良民は極力宣撫して軍に協力せしむ
最近兵匪は軍の寛大なる処置に押れ我が武威を軽視しあるの形跡あり故に抗戦せし俘虜、抗戦後投降せし兵匪は徹底的に情報を獲●したる後一刀両断すべし
住民にして軍に協力せざる者は即ち兵匪と見做すべきなり然れども然れども兵匪の威勢盛なるときは動々もすれば後難を恐れ協力を躊躇することあるを以て此の●は各種の手段を盡して真に協力する如く導くと共に要すれば厳重処断するを可とすることあり

5 討伐に方りては軍憲官民の協力一致を必要とす
官公吏巡警等には密かに兵匪(?)に通じあるもの多し従って彼等の通匪を側面より固め討伐前之を検束して泥を吐かしむると共に積極的に協力するに非ざれば断乎●断することを仄かし真に協力するの止むを得ざるに至らしむるを要す・・・

三、討伐検索
11 良民と兵匪の識別は確実ならしめざるべからず蓋し良民の処断は却って軍に反感を持たらしむるを以てなり
然れども兵匪たりや良民たりや判然し得ざる者は断乎処断するを優れりとす但し通訳少き実情に於て所謂処断には言語不通に依る過誤なき様注意を要す
其の識別の為採用すべき方法左の如し
イ 首魁幹部に対しては写真(余り頼らざること)と共に面識者を利用すること
ロ 部落民を十分に利用すること
特に町村長有力者等を利用し数名に付面識の有無住所、氏名等を調査す
部落民なりや否や疑はしき場合は子女等に尋問するを可とすることあり
ハ 兵匪か良民か不明の場合は後送して尋問するか或は連行して雑役に服せしめつつ終始監視し判別す

12 討伐検索間敵兵匪の捕獲射殺に勉むると共に兵器の蒐集獲得に努力せざるべからず
之が為注意すべき事項左の如し
イ 兵匪を捕獲せば兵器の隠匿位置を強問す
其の白状せるものは死罪を赦し兵匪なること明かにして尚白状せざる者は衆前に於て断乎処断

四、治安恢復の為の指導
討伐の本旨は治安恢復に在り故に各討伐隊は討伐検索間常に本趣旨に基き軍政諸機関と緊密に連絡し之が指導へ遺憾なきを要す
4 土民頑冥にして敵意を示す場合は其の有力者等断乎処断我に協力するに非ざれば●存し得ざることを感ぜしめたる後前項の工作を実施するを要することあり

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レファレンスコードC14020723400
C14020723500(10枚目)
レファレンスコードC14020723600(3・4・14・17枚目)
匪首捕獲の参考 S17.12.25

捕虜殺害を実行した例
十一月二日晴 バイスセントラル 最高三一・〇〇 最低二八・〇〇

三、「ドマゲテ」警備中の白井少尉は部下六十名を指揮し「ルスリヤナ」方面の討伐を実施する為〇八・〇〇「ドマゲテ」を出発す其の行動の概要別紙要図第一の如し

別紙第一
討伐行動の概要
一、討伐日時 昭和十七年十一月二日(自〇七・三〇至一七・三〇)
二、討伐区域 東ネグロス州「ルスリガヤ」付近一帯
三、使用兵力 白井少尉以下六十一名
  第一縦隊 白井少尉以下二十八名(MG一を含む)
  第二縦隊 前川少尉以下二十二名
  第三縦隊 大谷軍曹以下十一名
  外に巡査三 土民探偵四
四、行動の概要
  一、「ドマゲデ」以西六粁の本道上に於て第一障害物並其の後方に敵約二〇名を発見す
  二、部隊は要図の通り三縦隊に分れ包囲攻撃、進撃のもと「ルスガリヤ」市に入る
  三、敵は当町以西山地に退却
  四、「ルスガリヤ」市に各縦隊包囲、突入後は該町の掃蕩を実施す
  五、敵性部落に付家屋全部(約三〇粁以上)焼却
  ◎障害物の状況
  「ドマゲデ」以西六粁の地点より自動車の道路閉鎖椰子木の倒壊十数本セメント土管集結個所二ヶ所
五、結果 敵の俘虜五名刺殺処分
       我に損害なし
六、参考事項
(省略)

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レファレンスコードC13071513500(5枚目)
比島>防衛>歩兵第9連隊第1中隊 陣中日誌 昭和17年7月1日~17年12月30日

「ビサヤ」地方憲兵服務指示

・・・是が為将兵の注意すべきこと次の如し
(1)殺より利用
戦闘に於て敵味方となり殺すか殺さるるかの時は元より問題外なるも戦闘後に於て或いは検挙検索等に於て得たる抗日分子を軍律会議にかけることなくむやみに厳重処分するが如き、衆人環視の中で斬首してさらすが如き、 又はMG(※ Machine gun=機関銃)で掃射するが如き、拷問にて殺すが如きは最も不可にして将兵は勢いの赴く処時に斯る暴挙に出づることなしとせざるが斯様の態様にて一人の比島人を殺害する時は却って十人の抗日分子を作るものなり。・・・
右指示す
昭和十七年十一月十五日
比島憲兵隊長 長濱彰
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レファレンスコードC14061256300(6枚目)
比島>防衛>第14軍憲兵隊参考書綴 昭17.10.4~17.11.15
 
こういう捕虜殺害方針は、次の文書をみると軍中央も認識しかつ容認していたようだ。
昭和十二年
対支那軍戦闘の参考
参謀本部

第八、捕虜の取扱
其一、武装解除に関する注意
其二、捕虜の処置
一、捕虜は他国人に対する如く必ずしも之を後送監禁して戦局を待つを要せず。特別の場合の外現地または他地に移し適宜処置或は釈放するを可とすること多し
二、状況特に捕虜の種類に依りては之を懐柔し敵方に送りて敵側の攪乱、分裂等を図らしめ或は我が軍の威力を伝へしめ以て敵の動揺を策するを有利とすることあり

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レファレンスコードC11110829200(1枚目)、C11110831100
対支那軍戦闘の参考 昭和12年7月
参謀本部1参謀本部2参謀本部3

次の文書の「処分」も殺すという意味だろう。
渡集団作戦主任者会同に基く連絡事項
昭和十七年十月三十一日渡集団司令部に於て作戦主任者の会同を開催せられ其の内容中各隊に通報すべき事項を左に記述す。

一、軍司令官の注意事項
二、軍参謀長口演要旨
三、軍高級参謀の説明要旨
四、雑件
2、俘虜の取扱に就て
雑兵は現地に於て処分して可なるも後害を残さざる様注意し俘虜は軍迄送致するを要す

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レファレンスコードC14020509300(23枚目~)
比島>進攻>垣(第16師団)部隊 関係書類綴 昭16.12~17.12

次は仏印だが、この文書の「処断」も殺す意味が含まれるのではないか。
「軍事機密」印
南総作命甲第二十一号
南方軍命令 十二月二十九日 西貢

一、予は印度支那に於ける反軍騒擾、間諜等の禍根を芟除せんとす
二、第二野戦憲兵隊司令官は明年一月下旬、米、英、蘭、支人にして軍に対する陰謀画策、間諜行為等南方軍の任務達成を妨害せんとする懼れある者及その他の国籍人にして緊急処置を必要とする者を一斉に検挙し仏印官憲と協同し処断すべし
前項の検挙は其の決行迄仏印官憲に対し企画を秘匿すべし
処断は努めて仏印官憲をして之を行はしむべし
三、独立混成第二十一旅団長近衛歩兵団長は前項の検挙を援助すべし
四、長少将は仏印官憲との交渉に関し第二野戦憲兵隊司令官に協力すべし
五、細部に関しては相互協議決定すべし
南方軍総司令官 伯爵 寺内寿一

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC14060002500(1枚目~)
南方軍命令訓令綴 昭16.12.2~17.6.14


 

仏印進駐後、ベトナムの反日感情



昭和十五年十一月八日
西貢地方に於ける対日感情及一般情勢

西貢地方に於ける対日感情及一般情勢
西貢における反日情勢及ドゴール派の動向並に一般情況を視察の為め派遣せる仏人(註)の報告概要
印度支那産業会社

一、一般情勢
西貢地方に瀰漫せる反日感情は驚くべきものにして反日的ならざる部分なきほどである、是等の反日空気を醸成した要因は仏国の対日政策と華僑の策動によるものである、日支事変後仏国が執った親支反日の政策は日本の進攻に比例して度合を益し其手段も苛酷となった。又西貢に於ては支那人が書記、会計係、倉庫番として各商社に働いて居ない処はなく、且つ全市に散在する支那商人が反日宣伝反日空気伝波〔ママ〕の細胞となって居る、殊に本年七月の日本進出以来は、汎ゆる言論機関を動員し、各職業部門の仏人及華僑が必死に反日工作をなした、之れに対し日本側は一つの対抗工作もなさず成行委せの状態であったから現在の如く全面的反日情勢を誘致したことは当然の帰着である。・・・

四、結論
西貢に於ける対日感情の悪化は既に如何なる方法手段を以てしても牢固として打開し難きものなれば西貢の現勢力派を絶滅する以外に方法なしと思はる。現下の情勢に於て現勢力と協商をなさんとしても徒労たること瞭かなれば彼等を一掃し新人を起用して新組織を作ることに努力すべきものと考ふ。・・・

(註)
本文筆者は印支産業仏人社員にして元河内特高課の牒〔ママ〕者たりしものなり。
西貢に於ける主要人物との会談内容中中国内治安問題其他情報は省略す。

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レファレンスコードC14121110900
昭和15.6~16.6 仏印進駐関係記録(1)


 
大阪朝日新聞 1942.1.23(昭和17)
『大東亜建設宣言』に応う

わが大理想を安南人に浸透 仏印
【サイゴン本社特電二十二日発】東条首相の施政方針演説は仏印にも多大の反響を喚び二十一日の夕刊新聞のトップを飾った、すなわち東条首相は今次大東亜戦争が過去の米英のなせるが如き侵略戦争とは全く揆を異にするゆえんを明かにし、日本帝国は米英らが非難する如き人種闘争の様相をもつものでないと述べたことに注目している 
仏印千八百万の安南人が一昨年九月わが軍の仏印進駐当時日本軍の南方進出によってついに積年の欧米侵略主義排除と東亜民族解放問題が解決を与えられたものとひそかに待望しわが軍進駐当時に仏印内に燎原の火の如き安南独立運動が展開されたのは記憶に新しいところであるが、当時政府は複雑な国際情勢に鑑みて心中ひそかに期していた東亜開放の大理想を全世界に闡明することを差控えたため結局仏印内各地に蹶起した勇敢なる安南独立党の志士は弾圧に沈黙、一部安南人の間には東亜解放を目ざす日本の大理想に一抹の疑惑を持つに至ったものも少くなかったが、今や東条首相らにより議会の壇上から全世界に向って明白に闡明した大理想を知るにおよんで深い感動を受けたことはいうまでもなく、大アジヤの黎明はこの日より始まるとさえ感激している 
仏印当局も日本のこの不退転の大理想の前に反省を求められたことはいうまでもなく仏印内になお残留して甲斐なき蠢動を続けているド・ゴール派にとって東条首相のこの傲然たる宣言は最後の覚醒に一大警鐘となって響いたであろう 
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10105971&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 

【太平洋戦争】インドの反日感情


参宣資第一六二号
最近の印度情勢に関する件 昭和一九、八、一〇 「カブール」外務電
(客年八月より本年三月に至る)

一、印度に於ける政治的感情
全体的には反英、親支、一部に於ける反日より成る反日感情は回教徒及共産主義者の広範層にして又会議派党員及「ガンヂー」の政治的信念に従ふ多数印度教徒間にも浸透し居り右は会議派の長期に亘る指導に依る所大なり。反日感情は会議派に敢て反対せざる他の政治組織にも見出さる。親日宣伝は潜行的なる為其の範囲及効果は限定せらる。 

三、枢軸及英国の宣伝効果
(イ)右に付ては印度民衆は双方よりの「ラヂオ」「ニュース」を誇張されたるものとして無視する傾向ありと云ふべし。我々は欧羅巴情勢に関しては真実を知らざるに依り斯かる不安を出来得る限り利用し得ざる困難に逢着し居れり。現在行はれつつある日本軍及印度国民軍の北東国境への進撃の真の効果を評価するは時期尚早なり。印度内の反英民衆は右が英側に早急なる敗北を齎し印度に於ける長期戦の困苦を最少限たらしむることを期待し得る限りに於てのみ進入に対し興味を示せり。印度進入が良好且急速なる進展を為さざる限り印度民衆には活発に協力するの機会なかるべし。又成功的進入の可能性が次第に喪失せらるるに非ずやとの感情も漸次台頭しつつあり南西太平洋及欧羅巴の情勢は日本の長期戦に於ける勝利獲得の能力に付強き疑惑を生ぜしめたり、Tに付ては尚興味と感歎を以て注目されつつあり、然れども非革命的印度人は英勢力を印度外に駆逐すべく国民軍を率るTの能力に左程信頼を置き居らず、「アラカン」に於ける連合軍の成功と印度国民軍の失敗とは日本軍不敗と印度国民軍の愛国的熱情とへの信頼を大いに減少せしめたり、一般的感情に依れば成功的進入の時期は一九四二年八月たりしが斯かる機会は再び来たらざるが如し。

(ロ)
Tの宣伝は一部に於て効果ありたり。緬甸独立の日本側宣言(印度民衆に素晴しき効果ありたり)に引続きTの臨時政府宣言は政治に関心を有する人々には快く受け容れられたり。然れども反英的なる人々の間にも尚強き反日感情あることを了解すべきなり。斯かる反日感情は反英なると同様反枢軸たる所謂「コングレス」地下運動者の非合法出版物中にも見らる。反日感情は印度諸都市の空襲に於ては以前より恐慌は尠く爆弾は「ドック」地域に限られたりと見らるるも対人弾の使用は市民に大被害を与へ悪効果を及ぼ(?)せり。一般民衆は米英軍の劣悪なる暴力振に対し酷評せり。我「ベンガル」委員会は空襲が工場に対し続行せられざる限り工業に対する驚異的効果は殆ど非るべく然も空襲は短期間に最大回数行ふ必要ありと報じ居れり。上述より現在にては最早宣伝の困難を解決する術なかるべし。即ち公然たる「ラヂオ」宣伝が最早大効果を与へざる一段階に到達したりと謂ふべし。今後の情勢の進展に依り我が誠意を民衆に確認せしめ得る如く我地下宣伝を行ふに非れば国内の革命的地盤に依るの外我活動は極めて困難となるべし。軍隊内に於ける英側の日本軍は狂暴なりとの宣伝戦は日本の俘虜虐待物語に依り枢軸側に多少悪効果を与へたり。右は印度兵捕虜の家族に極めて悪効果を与へ居れり。英国は斯る反日宣伝を到る処にて行ひ居れり。斯る宣伝は印度国民軍は暴力を以て軍務に付かしめられ其の結果は印度人兵卒の自発的愛国的感情の結果ならずとの一般的疑惑を生ぜしめたり。欧羅巴に於ける「ソ」軍の絶えざる前進、独逸及比占領欧羅巴に対する空襲、第二戦線への期待が或る程度印度民衆をして対独逸国の欧羅巴に於ける勝利を確信せしむるに到れり。斯るが故に我革命的活動に於ては東西両方面に於て連合国は終局の勝利を得べしとする一般印度民衆の予想と信念に対し闘争(?)を継続しつつあり。

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レファレンスコードC14061238100
レガスピー憲兵分隊情報綴 昭18~19年

フィリピンの反日感情(1)戦中編


フィリピンの反日感情(2)戦後編 に続く。

「写」
渡討三三作命甲第一二一号別紙
八月以降作戦及警備に関する細部の指示

十一、軍の威容整ひ且軍紀風紀厳正なるは即ち地方官民をして益々皇軍を信頼し積極的に我に協力せしむべき捷径なると共に一面彼等従来の崇米思想を皇国依存に転換せしむべき好個の宣伝なり
然るに作戦已に久しきに亘り一面殺伐放縦の気風を生ずると共に他面惰気厭戦の悪風を馴致するの虞あり、而已ならず各部隊共極めて広範囲に兵力を分散し特に本属以外の各種部隊を包擁しある関係上之が監督指導困難なる実情あるを以て将来益々志気を振興し愈々軍紀を振作し就中掠奪強姦等非違行為の防止には格段の留意を要す
然れ共万一不祥事の発生に方りては毫末も之を握り潰すことなく厳重に之を処断し将来此の種事件の頻出を防止するを要す

昭和十七年八月六日
支隊長 永野亀一郎

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レファレンスコードC13071899800(17枚目)
比島>防衛>イロイロ憲兵分隊作命綴(部外) 昭和17年6月8日~17年11月11日

配備変更に際し兵団長要望 十月三日

二 宣伝に就て
我が担任区域内には今尚匪徒の宣伝に乗ぜられ我が真意を了解せず匪徒を援助又は之と通謀しあるもの多し。・・・
 
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レファレンスコードC14020509400(5枚目)
垣(第16師団)部隊 関係書類綴 昭16.12~17.12

最近匪情に鑑み警備上の注意 一七、一〇、一七、

最近「パンパンガ」州に於て自動車の襲撃二件(内一は憲兵隊)我が分哨近傍の役場襲撃等其の行動活発を加へつゝあり。従来地区内匪徒は日本軍に対しては専ら退避無抵抗なりしに比し右事件は全般的に「ゲリラ」攻勢企図の一徴候と察せらる。・・・

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レファレンスコードC14020509300
比島>進攻>垣(第16師団)部隊 関係書類綴 昭16.12~17.12

昭和十七年十月十九日
討伐要領
第十一独立守備隊

一四、情報蒐集の為知事町村長を利用するに当り彼等の内には表面日本側に服従し裏面に於て敵側に通じある者少からざるを以て我が企図を察知せられざる様特に注意すること
 
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レファレンスコードC14020723800(11・12枚目)
匪首捕獲の参考 S17.12.25

昭和十七年十月十九日
討伐要領 追加
第十一独立守備隊

二、積極的討伐を成さず歩哨若くは分哨の数を増加して守備のみに専念する時は敵は我が守備線の外方に自由に横行し遂に我が歩哨又は分哨の間隔より進入して民家を焼き我が部隊を狙撃するに至り我が部隊としては兵が膠着し手も足も出ざるに至るに付歩哨分哨を配置して警戒することは必要なるも受動に陥らざる様必ず積極的討伐を実施する様指導するを要す

三、我が小部隊を配置する時は敵は遠巻きに我を包囲し我をして之を射撃し弾薬を射ち盡さしめ然る後前進して我を射撃し我に大損害を与へる戦法を採る事多し此の際我が部隊は多くの場合敵の手に乗り遠距離より射撃し少しも敵に命中せざるに拘はらず直ちに弾薬を射ち盡し如何ともし難きに至りたる例最近に於て頻々たり故に今後は斯の如く敵が遠巻きに包囲したる場合には決して遠距離より射撃せず百米以内に敵が近接するに非ずんば射撃せざる様注意するを要す

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レファレンスコードC14020723900(3・4枚目)
匪首捕獲の参考 S17.12.25

渡集団作戦主任者会同に基く連絡事項
昭和十七年十月三十一日渡集団司令部に於て作戦主任者の会同を開催せられ其の内容中各隊に通報すべき事項を左に記述す。

一、軍司令官の注意事項
2、近時比島の治安は好転逆転反覆しあり甚だ遺憾とするところなり。軍の任務より考へて比島の治安は速かに安定せしむるを要す。

二、軍参謀長口演要旨
3、近時敵兵匪は誘致、掩撃、伏兵等の巧妙なる戦法を採用し我は相当の損害を蒙りつつあり
此の種企図を事前に封殺撃破すること必要なり。
4、粛清討伐の実施に当りては防諜の処置厳ならしむるを要す。
目下に於ける比島地方庁官公吏は何れも灰色的色彩を有し彼等の語るところは其の詳細に亘り敵兵匪に通ずるものなるを承知し指揮官以下相戒めて防諜観念に徹するを要す。
5、重要国防資源開発の為の人員施設及資材の直接警備並に重要物資の集貨収買等の警備に関しては既に要望しあるところなるも最近之等の人員資材等の襲撃せらるるもの尠からざるは軍隊として真に止むるを得ざる事情の存するものあらんも克(以下無し)
四、雑件
5、軍憲兵隊よりの連絡
ホ、「マニラ」市に於て検挙せる「ゲリラ」団の本部要人に付調査せるに其の「ゲリラ」隊に加入する動機は極めて単純にして左の如き事情なり。
a「バタン」陥落の際白旗を掲げあるに拘らず射撃せられ或は俘虜になりたる後日本兵に殴打せられたるを恨とし護送中逃亡して「ゲリラ」隊に加入す。
へ、比島人は一般に尚親米思想濃厚なり
十月二十六日の「サンタクルース」諸島北方洋上に於ける南太平洋海戦の戦果を比島人に話したる時彼等は一瞬悲痛なる表情を為したる後破顔巧言令色するもの相当に多し
ト、通敵行為を為せる官公吏の処分に関しては当時の環境(敵匪に囲まれ乍ら事務を執り在りし事情)と彼の意志とを検討し後害を残さざる如く処分する様憲兵を指導せられ度。

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レファレンスコードC14020509300(23枚目~)
比島>進攻>垣(第16師団)部隊 関係書類綴 昭16.12~17.12

第三 戦斗に影響を及ぼしたる気象地形及住民地の状況

三、「リザール」州は「マニラ」に近きに不拘従来より住民の思想治安状態共に悪きにして「アンチポロ」の出身なる「マルコス、アウガスチン」少佐(後中佐)之の地に拠りて「ゲリラ」隊を組織するや各町村長土民悉く彼に協力し今尚米軍の再来を信頼しある状態にしてために情報の蒐集、討伐行動共に困難なりしも後半皇軍の真意を理解するに及び協力するもの顕れたれ共積極性を欠き充分ならず

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レファレンスコードC13071541100(2・3枚目)
歩兵第20連隊 第1大隊戦闘詳報 昭和17年8月1日~17年12月31日

「ビサヤ」地方憲兵服務指示

一、異民族戦軍紀の確立を目下の急務とす
・・・然らば現地民の協力を得る手段如何
(1)排米依日心の昂揚
(2)日本人こそは比島人と手を握り相協力すべき民族なることの認識付与
は比島に於ける建設戦に於て絶対必要なる要件とす
而して第一項は屡次に亘る皇軍の戦捷により米国の到底我敵にあらざることを逐次認識しつつあるを以て追々了解し来るべきも第二項に於ける日本人と手を握る点に於ては尚幾多の難色を示しあるのみならず状況は仲々好転せず此の原因は種々あらんも隊長の考へる処にては次の二点にあり即ち
(1)日本軍は所謂無茶をやり恐ろしきものなりとなすこと
(2)日本軍の比島民族性の把握不可
第一項に就きては比島人の大部が抱きある感情にて抗日分子が抗日意識を抱くに至りし原因を探求し、郵便物の検閲を実施する際等明瞭に其の事象を把握するを得るものなり・・・

二、憲兵の対策
四、防御的心理を脱し攻撃精神及企図心を旺盛ならしむること
最近に於ける比島各地の匪情を徴するに秘かに指令して戦線統一を策し我の意表に出づる場合無しとせず(「モロ」討伐隊或は「ミンドロ」討伐隊等の事例)・・・

六、一層匪情を審かにするを要す
島内交通復活化及び各地兵匪の連携巧妙化に従ひ従来の如く局地的情報処理を許さゞるものあり・・・

九、治安を紊る原因を軍自ら作らざること
1、厳重処分の禁止
厳重処分は原則として絶対禁止するところにして交通其外真に已むを得ざる事情あり且つ本職の認可したるものと雖も其の実施に於て細心の注意を以て臨むを要す
2、焼打、暴行の厳禁
米国の比島統治初期に於て経験せる事象よりするも明瞭にして作戦上一部民家の焼却の如き場合にありても相当処置を講ぜざる可からず

一一、敵勢力圏内に行はれたる官公吏の通敵事犯処理を妥当ならしむること

・・・
右指示す
昭和十七年十一月十五日
比島憲兵隊長 長濱彰

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レファレンスコードC14061256300(2枚目~)
 比島>防衛>第14軍憲兵隊参考書綴 昭17.10.4~17.11.15
 
「軍事極秘」印
渡集参乙第一七九号
渡集団情報記録作第一〇八号(自一二、三 至一二、一〇)
(14A)昭和十七年十二月十二日 渡集団司令部

第一 敵兵匪及友軍の状況

要旨
二、敵兵匪は各部隊の積極果敢なる不断の討伐諸工作に依り各方面共逐次撃滅せられ或は投降帰順し漸次粛正せられつゝあるも一部残存敵兵匪は勢力挽回を図りつゝ「ゲリラ」行為を続行しあり。特に「ビサヤ」地方に於ては抗戦意志鞏固にして頑強に抵抗しつゝあり

各地方の状況
「マニラ」市
大東亜戦争一周年に方り米軍来援或は「ゲリラ」隊蜂起等「デマ」各所に流布せられありしも我が至厳なる警戒に依り頗る平穏に経過せり
 
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レファレンスコードC13071364200(4・26枚目)
比島>防衛>渡集団(14軍)情報記録綴 昭和17年12月3日~18年10月10日

極秘
自動車襲撃事件の教訓
昭一七・一二・一八
垣部隊本部

当兵団今次作戦の大なる教訓の一は表面治安既に良好なるが如き地区内に於てすら屡〃自動貨車乗用車の襲撃されあることなり。而して事件の顛末を仔細に調査するに、警戒心に乏しく事前の準備亦不十分にして襲撃を受くるやその処置適切ならず彼にして易々として目的を達成せしめ悠々遁走するに委せし事例多し。・・・

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レファレンスコードC14020724600(2枚目)
匪首捕獲の参考 S17.12.2

昭和十七年十二月二十日
「ラユニオン」州粛清工作の教訓
西地区警備隊 本部

第一、「ラユニオン」州対日抗戦組織の特性
「ラユニオン」州対日抗戦組織の主要なる特性左の如し
一、匪民合一
「ラユニオン」州に於ける抗戦組織の中核は「バーネット」の統率せし米比極東軍歩兵第百二十一連隊にして
1、我討伐並に宣伝宣撫の徹底を欠きしと
2、之に乗ずる敵匪が対民衆宣伝の滲透に成功せ(?)んとに依り親米思想深く透徹しありて米国心酔の迷夢覚めず皇軍の武力を過少に評価し米軍再攻を信じ州知事「カマチョ」以下各町村長を始め全州娄〔ママ〕く「バーネット」匪に加担し匪官民合一しあり
之がため情報の蒐集は極めて困難なる状況にありて陰に匪勢猖獗を極むと雖〔原文「口+虫」〕も外観極めて平穏を装へり。即「バーネット」は此の潜在性を利用して我警備兵力の減少を待ち蠢動を企図しありたり。

第三「ラユニオン州粛清状況(十月初旬以降)
其の二 各時期に於ける粛清状況
一、第一期(十月初旬)
1、討伐状況
イ、北部「ラユニオン」州討伐(自十月二日至十月五日)
ロ、南部「ラユニオン」州討伐(自十月七日至十月十二日)
ハ、右討伐は我断乎たる態度を以て極めて峻厳に実施し通匪行為者の一刀両断兵匪の家屋の焼却等を敢行し当時殆ど通匪しありし全住民をして震撼せしめ以て匪民分離の第一歩を踏み出さしめたり。

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レファレンスコードC14020725300(3・4・20枚目)
匪首捕獲の参考 S17.12.25

「軍事極秘」印
渡集参乙第一八三号
渡集団情報記録作第一〇九号(自一二、一一 至一二、二〇)
昭和十七年十二月二十二日 渡集団司令部

第一 敵匪状及友軍の状況
其の一 要旨
二、「ビサヤ」方面の敵兵匪は井上部隊の果敢なる討伐に依り各所に撃滅せられ逐次山地方面に圧迫せられつつあるも依然米軍再来を盲信し之れを基礎とし住民を強制応募せしめ勢力拡充を図りつつ「パナイ」「セブ」「ボホール」島に於て積極的に活動頑強に抵抗しあり

其の二 各地方の状況
南部呂宋地方(大場兵団)
四、「インファンタ」仮町長「フェロ、ソラド(?)」は「ストロフ」大佐に通じ「ボ」島「マルコス」中佐に至る物資輸送を幇助しあるものの如し

「ビサヤ」地方(井上部隊)
一、「ビサヤ」地方の敵兵匪は依然米軍再来を盲信し之れを基礎とし住民を強制応募せしめ勢力拡充を図りつつ「パナイ」「セブ」「ボホール」島に於て積極的に活動し頑強に抵抗しあるも我が連続果敢なる討伐に依り逐次山地方面に圧迫せられつゝあり

四、最近に於ける各島の状況左の如し
(一)「パナイ」島
警備隊の積極果敢なる討伐に依り山地方面に圧迫せられ兵器不足、食料入手愈々困難となりしものの如く稍々消極的になりつゝありと雖も依然抗戦意志鞏固にして頑強に抵抗しあり
「イロイロ」平地は殆ど敵なく住民も続々帰来しつつありて着々復興しつつあり
又「アンチケ」鉱山付近の敵は執拗に反撃しつつあるも付近要地は確実に確保しあり
(二)「ネグロス」島
「ネグロス」島は我が徹底的討伐に依り一般に消極的となり漸次安定しつつあり特に南部地方は尚若干の匪団あるも概ね安定し治安は着々確立せられつつあり然れども北部地方に於ては放火など頻発にして未だ安定しあらず
(三)「セブ」島
警備隊の飛行隊及海軍の協力に依る果敢なる討伐に依り「セブ」北方の兵匪は逐次山中に圧迫せられつつありと雖も分哨襲撃交通妨害通信線の切断等其の活動依然積極的なり
「セブ」―「ナガ」間装甲列車は十九日より運転を開始せり
(四)ボホール島
同島の兵匪は目下「ビサヤ」地方中最も積極的にして特に西部「タグビララン」周辺に於ては分哨行政府官庁の襲撃、親日比人の殺害拉致等頻繁にして益々悪化の傾向にあり
(五)「レイテ」「サマール」
本島兵匪は依然消極的にして大なる活動なきも「レイテ」島「オルモック」付近の兵匪は我が駐屯小部隊及連絡車を襲撃する等稍々活況を呈しあり

「ミンダナオ」島(生田部隊)
一、残存兵匪は警備隊の連続果敢なる討伐に依り逐次山地に遁走し一般に治安は着々確立せられつつあり
然れども残存兵匪は依然米軍来援を盲信し之を基礎とし住民を煽動勢力挽回を図り各地に小蠢動を続行しあり 特に「ラナオ」湖周辺不逞「モロ」及敗残兵匪は其の勢力及西「ミサミス」州方面の策動と相俟って侮るべからざるものあ

三、本旬に於ける各地方の状況左の如し
(三)「カガヤン」方面
当地方治安概ね安定しあるも「バリンガサク」(「カガヤン」東北地方)付近に根拠を有する匪団は稍々活発に活動しありて該匪団には「ラナオ」付近「モロ」一部進入しあると米人の煽動と相俟って逐次計画的組織的となりつつあり
(五)「ラナオ」西「ミサミス」方面
前旬に引続き大なる変化なく表面静観的なるも「ミサミス」を策動中心地となし「ラナオ」湖周辺及「コロムブガン」(「ラナオ」湖西北方)「ミサミス」付近に分散配置し爾後の活動を画策中なるものの如く其の根強き親米思想及勢力は侮るべからざるものありて守備隊は厳に監視中なり

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レファレンスコードC13071364300(4枚目~)
渡集団(14軍)情報記録」綴 昭和17年12月3日~18年10月10日

匪首捕獲及び投降工作の要領
実例並に其の教訓
昭和十七年十二月
垣部隊本部

4、案外に身近の者或ひは官吏にして通謀しあるもの多きを以て特に討伐前に於ける企図の秘匿●充分の注意を要す

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レファレンスコードC14020725000(9枚目)
匪首捕獲の参考 S17.12.25

「軍事極秘」印
昭和十七年十二月二十五日
於情報主任将校会同席上
比島憲兵隊本部 児玉中佐 発言要旨

過去一年間に於ける比島治安の跡を回顧し将来の対策に及ぶ
第一 序言
●●占領地に於ける治安対策が威武を中軸として施策さるべきは当然の事なるも比島に於けるが如く軍事的、政治的、思想的、経済的、社会的幾多複雑錯綜せる原因に依り治安の悪化を来しつつある場合に於ては之等各分野に於ける施策を合理的に調整統合する総合対策を以て臨むに非ざれば治安の恒久的安定を求むること困難なるべし。況や比島に於ける治安安定の目標が単なる
不逞分子の粛正を以て満足すべきものに非ずして今次聖戦の大乗的目的を具現すべき統治の基礎工事としての重要なる建設的意義を有するのみならず治安維持の中心たるべき武力のみに就て観るも将来情勢の変化に依りては最も威力を必要とする時機に極度に切詰めたる兵力を以て防衛の全きを期せざるべからざる困難なる情勢の到来をも一応考慮内に入るるの要あるに於ておや。

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レファレンスコードC14061179600(2枚目~)
パラワン憲兵分隊 警務書類綴 昭17.10.14~19.7.9

「軍事極秘」印
警備会報 二月六日

一、軍紀、風紀、内務及教育につきて
5、民心の把握に著意し特に独立を許可せられ喜びある現状に鑑み此の時に充分に行ふこと必要なり
之が為背信行為を絶無ならしむべし日本は信義の国なるを兵自ら自覚すると共に彼等に之を示すを要す
「パナイ」島に於ける治安悪化の原因の一も背信行為にあり又物を「ネギル」精神を捨て価値のあるものを正当に求むべし

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レファレンスコードC13071868900
左警備隊.警備日報.会報綴 昭和17年10月~18年11月

ビナロナン憲高第四九号
流言調査に関する件報告
昭和十八年八月三十日 ビナロナン憲兵分駐所長
ダグパン憲兵分隊長殿
首題の件左記報告す

左記
一、一般状況
八月中東部「パンガシナン」州に於て憲兵の知得せる流言左の如し
●米軍再来に関するもの   二件
●日本軍敗戦を伝へるもの 二件
●経済関係のもの       三件
●其の他に関するもの    一件
計八件にして先月に比し件数内容等殆ど変化なく之等流言の出所は「マニラ」方面より帰来せる者に依るもの新聞「ラヂオ」等に依る戦況「ニュース」等を臆側〔ママ〕杞憂せるもの及経済逼迫に依るものにして米軍再来、日本軍敗戦等に関するものは「マニラ」方面より帰来せるものに依るもの大多数を占めあり
詳細別紙の如し

二、流言に依る反響
特異なる反響は認めざるも米軍再来に関しては未だに其の実現の早からん事を願ふが如き言動を洩しあるものあり亦直接流言には依らざるも食糧米は各町に於て不足を告げ価格も高騰の一途を辿り現在一俵二五比-三十比(配給米に非らず)を示して下層階級住民間に相当の生活不安を与へあり

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レファレンスコードC14061263000(1枚目~)
第1野戦憲兵隊関係史料 昭17年

軍事極秘
治安月報(一月) ※1944年
第十四軍憲兵隊

治安月報(十二月)
一、要旨
○敵潜水艦により「ミンダナオ」島匪首フェルテックに対する兵器弾薬及謀略宣伝文の揚陸搬入事実の発覚は敵側謀略の活発化を証明しありて厳重警戒を要す。
ラウレル大統領の施策に対する一般の協力態度は消極的にして官公吏は亦保身に汲々としある等、吏道の刷新、政治推進力の強化を要するものあり。
○経済情勢は愈々深刻性を帯び食糧殊に米国の不足は敗匪の策動と相俟ち民心不安を不平、反感へと変移せしむるの傾向を辿り各種施策上も亦看過し得ざるものあり。
○「タラワ」「マキン」島に於ける皇軍の玉砕及南太平洋各戦線等に於ける敵反攻の熾烈化は経済生活の逼迫と結び付け米軍再来を云々盲信し或は之が希望的観測を為す等親米思想への還元を想はすものあり。
○「マニラ」市は表面平静を保ちあるも旧市外〔ママ〕地区に於ける旧「ガナップ」党員の殺害拉致事件等散髪し又不逞分子の潜入策動の徴なしとせず。依然限界を要するものあり。
○比警の職権濫用、特に収賄行為は逐次良民の反感を増大せしめつつあり。又敗匪との通謀乃至は依存するものあるが如き形跡を認めらるるは遺憾なり。
而して職務に忠実を欠き警察官としての能力乏しきもの漸く顕著なるは訓練所入所銓衡に当り質より量に重点を置くに起因するものと察知せらる。

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レファレンスコードC14061251400

鎌報第一号
宣伝工作状況に関する件報告
昭和十九年一月四日 ラグナ地区警備隊長
垣第六五五〇部隊参謀長殿
首題の件に関し別紙の通り報告す

別紙
一、(略)
二、最近「ラヂオ」の「デマニュース」を耳にする為か或は匪団の行ふ「デマ」宣伝に眩惑せられる為か密偵の報告を総合するに住民の大分は今猶米軍再来説を信じありて南方に於ける偉大なる我軍の戦果も信用せず各警備隊より配布する宣伝用ポスター新聞等も余り信ぜざるが如し
特に甚だしきに至りては米軍再来の暁現在使用中なる軍票も其の価値を失するに至るべしとの甚だしき言辞を弄しある者ある状況なり
三、「ラグナ」州一般の民情を総合するに住民は新比島建設の急務は相当承知しあるも一方には米軍の「デマニュース」も礼潜〔ママ〕し米国の悪口は衷心より決して口に出さぬ状況なり・・・

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歩兵第33連隊 (鎌田隊)発翰綴 昭和19年1月4日~19年10月11日

パラワン憲高第四号
治安月報(一月) 昭和一九・一・二五 パラワン憲兵分遣隊
一、総合判決
◎軍の討伐及諸工作に依り残匪の活動消極的となりたるも各残存匪は集結統合の気運に在りて厳戒を要す
◎州内各界層に新比島確立に邁進せんとの気運に向ひつゝあるも未だ一般に独立及び党派的対立に認識不足なる為従来の悪弊たる党派的対立に随するの虞なしとせず。殊に庶民層に在りては徒に眼前の事象を云々し未だ全面的協力気運等見受けられず
◎生活必需物資不足に依る住民の生活は益々深刻化し殊に米穀の逼迫は脅威的不安を助長せしめありて治安上注目の要あり

二、一般状況
(四)政治情勢よりする治安観察
・・・一月六日州選出国会議員エニゴ・ペニヤは議会の状況等に付演説を為したる処参集人員約三〇〇名在り政府の施策及方針に就き述べたる後一般民衆に対し積極的協力を促したる処民衆は州庁幹部及施策を誹謗し動揺せり
(九)官民思想動向の推移
・・・然れ共現実の生活窮迫事態を捉へ依米思想を払拭し得ざるもの大多数にして之が為残匪の宣伝に乗ぜられ私かに手先分子として活動するものなしとせず住民思想の推移に関しては厳視の要あり
四、所見
残匪の策動は愈々巧妙となりつゝあり之に伴ふ住民の偏見的態度は稍々もすれば残匪に乗せられ反日に移行するやも計り難く且生活必需物資の逼迫に伴ふ民心の動揺は不断の警戒を要するものあり

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レファレンスコードC14061188900
パラワン憲兵分隊資料 昭19.1.8~19.9.28

軍事極秘
治安月報(一月) ※1944年
第十四軍憲兵隊

治安月報(一月)
一、要旨
(六)住民の思想は親日協日へと転換濃化啓蒙指導に努めつつあるも各種事情に禍せられ依然遅々たるものあり。又一部要人及智識階級等の親米思想の根本的払拭は容易ならざるものあるを想はしむるものあり。

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レファレンスコードC14061252300(3枚目)

パラワン州北部「ゲリラ」隊幹部会議状況 文書入手 確度甲
一月七日「パラワン」島北部「テニチアン」に於て警備隊の匪団幹部逮捕の際押収せる文書中自十二月二十日至一月二日匪団幹部十二名参集会議せる記録文書を発見せり
内容は・・・

四四年一月一日
開会午前八時三十五分、 閉会午前十一時八分
ラグラガロン大尉
既に南部からの籾の供給に就てトムバガ中尉に話してある 又自分は此処に籾を持ち来る為南部に帆船を運ぶ派遣する様に「クヨ」「アグタヤ」「カガヤンシリオ」の町長に連絡してある

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パラワン憲兵分隊資料 昭19.1.8~19.9.28

「軍事極秘」印
渡集参乙第二五六号
渡集団情報記録(乙)第一四八号(自一月二十一日至一月三一日)
昭和一九年二月一四日 
渡集団司令部

要旨
一、比国大統領布告に基く大赦令試行期間は一月二十五日を以て終了す 末期に於て相当多数の投降を見たるも兵器の供出僅少にして且主要匪団は益々勢力の拡充を策しつゝあり 又既投降者中有力者の殆ど大部は知事町長等の懇願に依り偽投降せるものと観察せらる
比島側は数万の投降者ありと発表せるも殆ど大部は良民又は採るに足らぬ雑輩なり

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レファレンスコードC13071365000(3枚目)
渡集団(14軍)情報記録(乙) 昭和18年12月20日~19年6月20日

「軍事極秘」印
謀略遊撃戦の一例
昭和十九年二月十五日
渡集団司令部 

共産匪等の行動活発なるのみならず民衆武装の組織十分且その活動活溌にして諜者及僅少兵力の行動至難なる状況下に於ては偵諜網の構成は困難なり該困難性に眩惑しつつあるときは主力を以てする偵諜開始を速かならしむることは望むべくもあらず
各中、小隊は果敢なる積極主動性を発揮し斬新卓抜なる創意の下に謀略遊撃戦を徹底的に展開し以て武装匪等をして回避遁竄せしめ民衆武装を破摧し部落民に対する威力宣伝の効果を獲得しつつ迅速に偵諜拠点を構成し整々たる秘密戦を指導するを要す

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レファレンスコードC13071367300
第14軍関係情報資料綴 昭和19年
 
「軍事極秘」印
昭和十九年二月情報(防諜)主任者会同 主任参謀口演要旨
昭和十九年二月二十日
第十四軍司令部

一、情報勤務に就て
3、鹵獲品の提出に就て
・・・特に敵潜水艦に依り新兵器搬入せられある状況に鑑み之が調査利用を迅速なる提出に努められ度

五、謀略に就て
・・・而して現に全島特に「ミンダナオ」島を中心として蠢動しある匪賊の活動は頓に激化を予察せらるゝ情勢に鑑み之が対策は…

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比島>防衛>第14軍関係情報資料綴 昭和19年

「極秘」印
パラワン憲高第一四号 昭和一九・二・二四
情報
カガヤンシリヨ諸島(パラワン州)の状況 取調状況 確度乙

二、経済情勢
該地域の生活必需物資逼迫は其の極に達しあるものゝ如く衣類及食糧は他島よりの輸入殆んど無く住民の衣類は帆船用帆及「マギ(?)」植物性繊維○より○同様のものを採取使用しあり
住民の主食は米穀僅少の為木芋(キャッサバ)玉蜀黍バナヽ等を用ひあるも之亦産出僅少にして飢餓の状態に在るものゝ如し
「註」「カガヤンシリヨ」島住民は従来専ら帆船に依る沿岸運輸を業とし生活必需物資は他島より移入しありたるものなり 

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パラワン憲兵分隊資料 昭19.1.8~19.9.28

「軍事極秘」印
防諜主任者会同席上に於ける防諜に関する参謀口演要旨
昭和十九年二月
渡集団司令部

「軍事極秘」印
防諜班長説明要旨
一、南方諸地域に於ける敵諜報謀略の特性
二 比島に於ける敵諜報謀略の特性
一、精神的支援
1 敵の諜報謀略要員は米軍再来を盲信しあり
2 敵の諜報員は残置謀者大部分を止め永年各部面に亘り親交を有す
3 最近敵潜水艦よりの物資補給を受けつゝあると共に遊撃隊又米濠島内多数無線に依り(?)対米依存大なり
4 比島要人中未だ新比島の現況に覚醒せず
徒に米の短波放送を盲信し敵側諜報員との連絡密(?)なりと判断せらるゝもの多数あり該要人に依り保護せられあり

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比島>防衛>第14軍関係情報資料綴 昭和19年

軍事極秘
治安月報(二月) ※1944年
第十四軍憲兵隊

治安月報(二月)
一、要旨
(一)軍の積極果敢なる討伐により匪団は逐次潰滅又は組織を破摧せられ治安は良好に向ひつつあるも近時南方戦局の推移と相俟ち敗匪の蠢動活発化の傾向にあり。殊に「ビサヤ」「ミンダナオ」各島敗匪の活動積極的となりつつあるは厳戒を要す。
又米人フェルテックを首魁とする各地潜伏米人の群小匪の糾合並び組織の拡充画策は愈々巧妙深刻なるものありて之等米人の速急且徹底的剔抉弾圧を要するものあり。
(二)敵潜水艦の兵器弾薬の搬入及揚陸謀者との連絡は確実なり。又最近米濠に於て教育せる比人等無線謀者の多数揚陸を判断せらるるものありて敵無線の探査撲滅潜艦寄泊地の覆滅に更に努力を要す。
(三)中部呂宋地方に於ける警察隊兵器弾薬の掠奪被害及隊員の投匪等漸増の●なしとせず。一部警察隊員の通匪事実と照合し厳視を要するものあり。
(四)政府の潰職官吏断罪法の制定等綱紀緊粛に関する態度真摯なるものあるを推知せらるるも窮通打開、自立自営の気魄に欠け要人以下の治安確立●食糧問題解決に対する態度も依然消極退嬰的にして自己保身にのみ汲々とし敗匪援助又は之等と妥協せんとするの気配あるを窺知せらるるものはるは注視を要す。
(五)経済情勢は益々深刻悪化の傾向を辿り殊に飯米の不足物価の暴騰は愈々住民生活を脅威し各種不平不満を増大せしむるのみならず反日不穏の言動に出ずるものなしとせず注視を要す。
(六)敵反攻激化に伴ふ敗匪の執拗なる「デマ」宣伝に眩惑せられ住民の思想稍々動揺せしめあるの観なしとせず。殊に政府要人以下の曖昧態度、一般住民の生活問題より発する米軍再来希求言動は注意を要す。
(七)「マニラ」市に於て退院獲得其他連絡に暗躍画策中の敗匪は三十数個に達しあり。之等敗匪は米軍再来又は空襲時の一斉蜂起を企画せるものの如く憲兵は全貌把握の上一斉検挙を目指し目下鋭意内偵中。
(八)前月末検挙せる「CIO」中佐及米人宣教師を中心とする抗日不穏文書配布犯人一味の取調により全比島諜報網の組織並に潜入米人謀者及敵潜水艦との連絡、其他政府要人、有力者に対する敵の策動状況等一部真相事実を判明暴露し来りたる等事件は逐次進展しつつありて比島防衛上之等関係政府要人並に宗教関係第三国人に対し断乎たる対策を必要とするに至れり。
本事件関係者の検挙総人員一〇四名に達し引続き捜査中なり。

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「極秘」印
比憲高第一五〇号 昭和一九、三、六
比島憲兵隊本部
(カバナツアン憲兵分隊報)
情報
時局問題に対する「カバナツアン」地方民心の動向
一、要旨
カバナツアン憲兵分隊に於ては女学校生徒二百余名に対し憲兵干与を秘匿し仝校邦人教師をして無記名にて所感文を徴せしめ対時局動向を観察せるが
米軍の再来を希求妄信しあるもの 六〇%
現実の苦難は戦争のためなりとし日本軍を呪咀〔ママ〕するが如きもの 三〇%
●日本軍の真意を理解し大東亜民族としての自覚に徹しありと認めらるゝもの 一〇%
等にして一般民情を窺知せらるゝと共に将来の施策上好個の資料たりと認めらる
 
二、主なる所感文内容
●何故東洋人が此処に来たか 彼等が来ない前は幸福であり「ゲリラ」も居なかった、日本軍が比島を独立さしたが喜んで居るものは少ない、我々は日本を期待出来ない
●黄色人種でなく我々は他の人種の来るを待っている
●日本軍は「ハイスクール」から他へ移って貰らいたい、又真に我々の事を思って呉れるなら風雨や暑さから救われるように一日も早く「ハイスクール」を開けて貰らいたい又日本人は女性を卑下する傾向がある吾々は只米軍の来ることを期待するのみ
●戦争は我々を不幸にした我々は三ヶ年も苦しみ今尚苦しんでいる何故か?住民の中には一日の食事も充分に摂って居らないものが沢山居る・・・・
物価は日一日と昂騰する何故其の様になるか?
月給取が四十円や五十円でどうして家族を養って行くことが出来るか、お前達は此の残忍悪辣なものを知っているか
●今年中に戦争が終らないと物価は益々高くなるし我々は餓死するばかりだ私も「ゲリラ」になりたい、そして日本軍と戦争したい、そうすれば日本も軈て「スペイン」の様になるだろう
●比島は日本より独立を与へられたが此の独立は永いことはないと思ふ
●戦前は自由な生活で書物等も如何なるものでも読むことが出来た戦前の生活に一日も早く帰へりたい
●日本人は女性を卑下するが比島の習慣は男女を尊敬せねばならぬ比島では一家の男子は統治者で婦人は女皇である
「スペイン」は此の習慣に反したので比人が反抗した
●日本軍は言葉が判らぬため罪なき人を殺したり又比人の顔を平手打をしたりした 日本軍は「ビール」を呑んで歩き娘に出会ふと肩に手をかけて冗談をする、日本軍ならこそ我慢をする
●日本軍は我々の校舎を奪った早く返して欲しい、そしたら協力する
●我々は現在生活上経済的に精神的に最も苦しい難関に逢着しているそれは誰のためで又どうしてか、日本人の来島に依り違った風習が比島人に与へられた悪影響は恐ろしい
●亜米利加は我々に享楽と怠惰を教へた日本は我々に勤労と大東亜民族の自覚とを教へた日本は東洋の母である
我々は始めて産業発展の重要性と勤労の尊さを知った
●日本人は生活様式及風習、歴史、舞踊等を我々に教へて貰らひたい
斯くすることに依って日比両国の間柄は益々緊密化するものと信ずる

三、其の他参考事項
1、最近の戦況及「マニラ」方面に於ける防空諸施設の整備等により近々米軍来襲せんとの臆測を有するもの大部にして日本の苦戦は軈て米国の勝利なるべしとの感を抱くもの尠からざるものあるを窺知せらる
2、中等学生中には邦人教師に対し日本の政治形態及天皇とは如何なるものなりや、自爆自刃の意義を質問する等其の都度説明しあるが一般に了解し得ざるものゝ如しと(了)

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パラワン憲兵分隊 警務書類綴 昭19年

極秘
最近に於ける比島事情
昭和十九年三月三十一日
大本営陸軍部

第一 概説
比島は独立後も尚親米(依米)思想各階級層に普く底流し牢固として抜くべからざるものあり、加ふるに近時食糧を始め、諸物資の窮乏並に物価の高騰は一般民衆をして益々不安を助成せしめ且つ敵側宣伝の激化巧緻と相俟ち昔日の自由主義的生活を憧憬せしむるに至らしめ、対日信頼協力は極めて消極的にして敵匪の活動益々活発なるものあり。軍政撤廃後に於ける比島政府の政治力の薄弱、行政技術の貧困及官公吏の義務奉仕観念の稀薄等は政治的成果向上の為大なる障碍となりつつあり。
又一千八百万の比島民は其の種族、宗教、言語極めて複雑にして剰へ華僑及混血児の特異なる存在は比島の国家的団結の強靭性を失はしめあり。
更に歴史的植民地的なる思想、文化、経済の基盤に上塗りせられたる米国的高度物質文明は比島民特に「インテリ」層をして怠惰にして窮乏に耐ふるの念なく、圧制に対し徒らに饒舌的反抗心強きものとなしありて、大東亜戦争遂行上比島の戦略的地位に鑑み大に注意を要すべきところなり。

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最近に於ける比島事情 S19.3.31

パラワン憲高第三〇号
昭和一九 四 二五
パラワン憲兵分遣隊

治安月報(自三月二十六日至る四月二十四日)
一、総合判決
●比島側の施政物資不足に伴ひ其の弱体を暴露し民心不安と敵反抗激化に伴ふ各種「デマ」宣伝に眩惑せられ曖昧なる態度に出で容易に進展せず稍々もすれば米軍再来を希求すが如き徴なしとせず注意を要す

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パラワン憲兵分隊資料 昭19.1.8~19.9.28

「軍事極秘」印渡集参乙第三四六号
渡集団情報記録(乙)第一五五号(自六月一日至六月十日)
昭和一九年六月二十一日 
渡集団司令部

要旨
三、比島警察隊の通匪行動に●しては厳に警戒中なるも●●の之が投匪工作の滲透は相当根強きものあり最近兵器携行逃走者の頻発せる傾向あるは注意を要す

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渡集団(14軍)情報記録(乙) 昭和18年12月20日~19年6月20日

軍事極秘
渡集参乙第三五四号
渡集団情報記録(乙)第一五六号(自六月十一日至六月二十日)
昭和十九年七月三日 
渡集団司令部

中南部呂宋地方(勤兵団)
一、比律賓警察隊(?)本部「ルフォ。ベルナド」中尉及「ソテロエスペロン」軍曹の●れる比島警察隊員に関する心的動向観察左の如し

1 現在警察隊士官の大部分は元「ゲリラ」隊士官にして依然親米的なり
2 士官達(?)の比律賓共和国並びに日本に対しての●力は誠実ならず
3 米軍若し比島に上陸せば大部分の●察官は日本に協力せず一時●に●避(?)し然る後米軍に再び協力せん
4 警察隊兵士の殆どは親(?)「ゲリラ」的にして「ゲリラ」との交戦(?)を●まば・・・(●者報確度乙)

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渡集団(14軍)情報記録(乙) 昭和18年12月20日~19年6月20日

「軍事極秘」印
駿参乙(情)第一号
情報記録 昭和十九年七月十一日 バギオ

第一 要旨
近時太平洋方面に於ける敵反攻の熾烈化欧州第二戦線の実現等一般情勢の急迫化に伴ひ愈々米軍再来を盲信せる管内残匪は急速なる自己地盤の拡大を凡ゆる手段を盡して匪徒の獲得に努むる一方彼等の再建工作●●隘路となりつつある兵器の獲得に関しては其目標を比島警察隊員に指向し之が襲撃拉致等其行動逐次露骨となりつつあり而して一部比島警察隊員に在りては秘かに米比軍系匪団と密絡寧ろ積極的に之が援助をなしあるもの等を散見せらるる状態にあり最近西地区方面に於て稍々多発しある敗匪の比警察襲撃事件に徴するも一部比警は何等之に抵抗することなく寧ろ妥協的に兵器を提供せる疑なしとせず又南地区方面に於ても共産匪に対しては強圧手段を以て臨み徹底的討伐を敢行しあるも米比軍系匪団に対しては稍々同情的態度に出で討伐等に方りても極力之との交戦を回避し或は暗々裡に之を逸脱せしむるが如き行動を看取せられつつありて将来之が誘掖指導上注視を要す

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レファレンスコードC14061214600(1枚目~)
ツゲガラオ憲兵分隊 情報綴 昭19.7.3~19.12.3

「極秘」印
南総報比宣伝情報速報第十三号
本情報は比島に於ける宣伝情報勤務者服務上の参考に資する為配布するものとす

「マニラ」の近況 
昭一九、八、三一 南方軍情報部

二、アメリカ軍のマリアナ諸島上陸成功に伴ひ、アメリカ軍がマニラ乃至比律賓群(?)島の一角に上陸を敢行するは今や容易なりとマニラ市民は信じてゐる

四、又到る処で非常事件勃発乃至は戦闘開始の際日本軍隊が●烈な手●に出はせぬかと市民は極めて憂慮し危惧してゐる模様である。一般市民は平穏に法規に●っていても、二、三のものが敵意を示し、或は●性行為に出でんか、無辜の市民も生命の危険に頻〔ママ〕すべしと、憂して居る、何らか不測の事件起り、日本軍が弾圧の挙に出たる際●は一人の不良分子の犯行も無辜の市民の安全に関はるであらうと懸(?)念されて居る、

五、次に地方民情であるが、地方匪賊の首魁は大抵住民の顔見知りであることは周知の事実である。匪首は所在を匿くしてゐるとか身元を一般民に秘す如き怪人物では決してない。住民たちはよく顔は分ってゐても後難を怖れて誰も地方当局へ注進したり警察へ訴へたりしない。その手下に拐帯されて殺されぬまでも危害を加へられる為に匪首のことをとかく言ふを恐れてゐる、その屡々やる掠奪行為に至っては匪団の小隊はゲリラと同●である。彼等の不法行為はゲリラに名を借りて行はれる。住民から金銭衣類その他必需品んを強奪し時には戦後支払乃至弁償を約する受領証まで渡すとの事である。

六、州知事、市長、警察署長の中には己が生命を保証する為不良分子の親玉と「球遊び」をやってゐる者があるといふ。「球遊び」とは州の官吏や巡●将校が匪賊の親分に偶然出会った時、断(?)乎峻烈の処置を為さずして却って友情的助言を与へる事を意味するらしい曖昧語である。若し官憲が法規に照して断乎処罰せんか、忽ち彼は無頼の徒の危害に瀕すべく、従而彼らは身の安全を懸念してゐるのである。

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レファレンスコードC14061238700
レガスピー憲兵分隊情報綴 昭18~19年

「極秘」印
南総報比宣伝情報速報第十七号
本情報は比島に於ける宣伝情報勤務者服務上の参考に資する為配布するものとす

北呂宋(中、西)民情の一端 
昭一九、八、三一 南方軍情報部

最近北部呂宋方面より帰来せる宣伝工作員の報告に依れば同方面の民情に関する断片情報左の如し
 
一、「ボントック」周辺の日本警備隊の訓練しあるを見たる、土人達(イゴロット及イロカノ族)は日本兵の体躯は貧弱なり、例へ日本兵三名にて向ひ来るも一名にて克く之を倒す事を得べしと豪語し、自族の優越感を誇示したり。
斯の如き土人達に対して日本軍の質的優秀性を深刻に印象付ける如く宣伝の要あり

二、最近「バギオ」上空に高度高く飛来せる標識不明の飛行機を見たる市民一般は米機来ると歓喜しありたり。 

三、市場に於て物価高き理由を試問するに商人たちは異口同音に軍票が故なりと説明しあり。

四、最近「ゲリラ」の出没活発となり、特に知事、町長等要職にあるものを脅迫しあり。為之要人は恐怖を抱き皇軍部隊の駐屯地付近に移転し、その被〔ママ〕護を受くべく希望しあり。
「ラウニオン」州知事、「バウアング」町長、「ナルバガン」町長等之なり。

五、「バギオ」に於て開催中の兵隊美術展に就て
目下「バギオ」文化会館に於て兵隊美術展を開催しあるが展覧絵画中、特に高橋兵長(文展三回入選)及原田上等兵の書きたる花鳥、風景等を主題とせる日本画は頗る評判よく、その繊細なると美麗なる点に見物人は悉く驚異の眼を見張り「果して日本兵の書きしものなるや」の疑問の声を発し、而して其の事実を納得するや賞賛を惜しまず長時間観賞を続けるの状態なり。
近時日本兵の生活貧弱なりとし、或は又日本兵の文化程度低し等住民の日本兵に対する認識極めて浅弱なる現況に於て日本兵の文化的才能を高度に発表提示せしは頗る効果あり意義大なりしものと云ふべし。而して一部に於ては感歎の余り払下げらるるものならば価格は幾何にてもよき故是非購入致し度等と希望しあるものあるが如し。

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レガスピー憲兵分隊情報綴 昭18~19年

パラワン憲高第六六号
 パラワン警察隊の状況に関する件通牒 
 昭和十九年九月二十五日 パラワン憲兵分隊長
 パラワン防衛隊長殿
 昭和十九年九月五日ビサヤ憲兵隊長依命(一九・九・五・二二飛行団依頼電第四七五号)に依り首題の件左記通牒す

左記
一、比警隊員の状況
(一)保有隊員に付て
昭和十八年三月二十日「マニラ」 より州占領後最初の警察隊要員として四級監察官サンチャゴ・ボニフエ(当二十八年)以下二六名著〔ママ〕任し以後数回の要員到着に依り遂〔ママ〕次其の兵力を増強し定員数将校以下一四九名(将校七 下士官兵一四二)を優に及べり、然共数次の討伐に依る戦死・行方不明、転籍及投匪、免官せられたる者将校以下五九明(将校三 下士官兵五六)にして現保有隊員は将校以下九〇名(将校四 下士官兵八六)なり

(二)思想動向に付て
比警隊員は元比軍「バタアン」攻略戦時の釈放俘虜を包含し主として現地に於て応募したるものにして一般に未だ従来の自由主義的旧弊を脱却し得ず最近殊に物資不足に依る給与低下に一部幹部以下に在りては常に不満を蔵し為に警察能力極めて消極的にして顰蹙〔ママ〕せる経済情勢を憶測し同性は遂〔ママ〕次対日離反に●行しあるを窺知せられ現在迄即ち保身の為投匪せる者五(下士官及兵)通匪せる者三(兵)免官せるもの二(将校)あり其の他職権利用不正行為を為すもの等散発比警隊長は其の都度処分しあるも将来の動向厳に注意を要すべきものあり

(三)戦死・転籍・投匪・通匪・免官及行方不明者の状況
月日    階級 員数 区別 摘要
18・7・13 少尉  1  戦死 「バブヤン」にて敵匪と遭遇戦死す
18・7・13 兵   9  戦死 「バブヤン」にて三名「パニテヤン」にて六名敵匪と交戦し死す
18・8・5/29 下士官 2 転籍 将校訓練所入所の為
18・9・14 兵   1  右同 転任
19・2・12 伍長  1  投匪 「アボルラン」にて素行不良にして賭博同僚の金子を窃取投匪す
19・3・30 伍長  1  戦死 「リサール」河渡河の際敵と交戦々死す
19・4・1  兵    1  投匪 「カラマイ」にて素行不良上官に不満を有し通匪投匪す
19・4・30 軍曹  1  免官 通匪敵前逃亡
  〃   兵   2  〃  訓練精神欠如
  〃   兵   2  〃  通匪
19・5・3  少尉   1  〃  指揮官としての責務放棄の為
  〃   准尉   1  〃  同右(「カラマイ」にて)
  〃   兵  33  行方不明  「カラマイ」に於て敵側に捕獲或は行方不明となる
19・5・4  兵  1  投匪  「タイタイ」日本警備隊付となり匪襲前日行方不明
19・7・3  兵  2  〃   所在匪化地に家族を有し血縁感情の為投匪す

計59名

(中略)
五、所見
叙情の如く比警の素質能力稍々向上の域に達したるを認めらるゝも今尚自由主義的意識潜在しありて之が向上は容易に期し難く戦局の推移と共に思想動向厳に監察指導の要あり(了)

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「軍事極秘」印
パラワン憲高第六九号
憲兵月報(自八月二十六日 至九月二十八日)

第一 保安に関する事項
一 一般情勢
(一)戦局逼迫に依り敵匪の活動は頓に活発化し米軍再来に呼応一斉峰〔ママ〕起を企図しあるものの如く日本軍襲撃事件の発生等厳戒の要あり
(二)本期敵潜水艦の出没は減少しあるも敵匪帆船の跳梁は益々露骨なるものあり又官民にして前比島政府希求的通信を為すもの有る等対日離反に移行しつゝありて愉安を許さゞるものあり
(三)「フエルト・プリンセサ」及飛行場付近居住官民は経済的困窮と逼迫せる戦局を察知危懼し農繁期に藉口逐次山間僻地に避難する等州事務は自然停止の已む無き状態に在り比警又服務漸次消極的となり敵匪の各種策動に乗ぜらるゝ公算大にして動向厳戒の要あり
付記「パラワン」地区防衛隊長と協議し軍飛行場及軍駐屯地周辺居住民を敵機爆撃圏外指定区域に移住せしめ州事務を続行せしむ
(四)住民の自給自足に依り目下収穫期を控へ米国不足は稍々緩和しつゝあるも生活物資不足に依る物々交換経済は益々活発化し之が為軍票価値は著しく下落せしめあり之が治安に及ぼす影響大にして注意を要するものあり

五 政治並に軍情
八月末日州知事イニゴ・ペニヤは「マニラ」中央部に出張し検事フェリキスブランコが代理として施政を統御しあり。然乍ら一般官吏は最近頓に逼迫せる戦局を察知米軍再来を憶測収穫期に籍口職務を抛擲山間僻地に避難しあり。之が為州庁事務は自然停止の状態に在り
比警又前記同様疑懼的観念を抱持其の服務益々消極的となり逐次其の動向対日離反に移行しあるを窺知せられ爾後の動向厳戒の要あり。憲兵は防衛隊と協議し住民の指定地集家工作を構〔ママ〕ずると共に比警の軍司令対策の速〔ママ〕進を図り裏面監察を厳に実施しあり。

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パラワン憲兵分隊資料 昭19.1.8~19.9.28

パラワン憲高第七二号 
「パラワン州比警の武器携帯党与投匪に関する件報告「通牒」
昭和十九年十月十三日 パラワン憲兵分隊長

●「パラワン」州警察隊「アボルラン」分屯隊長セベロ・バルデスコナ小〔ママ〕尉以下四十一名は九月二十七日武器を携帯部落有力者と共に「パラワン」島南部メーヨル匪に投匪す
●十月十一日「ミンテス」分屯警察隊長ドミンゴ・カルホネル少尉以下三十名は防衛隊「ミンテス」に行動せるを知るや武器を携帯山中に逃走せり
状況左記報告「通牒」す

一、比警の分屯状況
・・・本年四月警備隊は交代の為同地駐屯を徹〔ママ〕収したるも警察隊は依然該地に於て前任務を続行此の間「ミンテス」北方約五〇粁「カラマイ」分屯隊は本年五月二日敵匪の襲撃を受け全滅的打撃を被りたるも「ミンテス」及「アボルラン」分屯隊は現在迄数名の投匪者を観たる外大なる発生事故等無く概ね順調に服務し来たるが最近戦局の推移に伴ひ態内部は相当浮動し警察隊員の動向も遂〔ママ〕次悪化しありたり。

二、比警の投匪状況
投匪年月日
(一)「アボルラン」分屯隊 昭和十九年九月二十七日
   「ミンテス」分屯隊 昭和十九年十月十一日
(二)投匪者並携帯武器
アボルラン 少尉2 伍長6 兵33 小銃24 弾薬780 拳銃3 弾薬12
ミンテス  少尉1 軍曹1 伍長3 兵25 小銃23 弾薬1,130 拳銃2 弾薬9
計 少尉3 軍曹1 伍長9 兵58 小銃47 弾薬1,910 拳銃5 弾薬21
(三)投匪前後の状況
(一)「アボルラン」分屯隊
「アボルラン」警察分屯隊には少尉セベロバルデスコナを長とし少尉エウセビオソレタ以下四〇名(計四十一名)分屯しありたるが九月二十七日長バルデスコナ少尉は部下隊員三九名(兵器弾薬被服全部携行)及村内有力者八名と共に「パラワン島南部匪化地に逃走せるが逃走に際し同地分屯
隊少尉エウセビオソレタをして「プエルトプリンセサ」所在警察隊本部に出張分屯隊員の俸給を受領せしめ帰隊後直に追随する旨遺留書を「アボルラン」村長ドロテオソベラノに手交せり。少尉エウセビオソレタは帰隊後警察隊長より受領せる俸給六千円を携行前記「アボルラン」村長と共に十月三日南部匪化地に逃走せり。
「アボルラン」住民の言に依れば該地分屯警察隊長セベロバルデスコナ少尉は逃走時に「アボルラン」全住民に対し口頭を以て『住民は直に匪化地山中に逃避せよ。若し之に反する者あれば射殺す』と恐喝せりと。
『註』「パラワン」地区防衛隊(憲兵協力)は同地分屯警察隊徹〔ママ〕収の為十月八日「アボルラン」に出動せるも逃走しあり周辺部落を捜索するも住民を見ず。
(二)「ミンテス」分屯隊
「ミンテス」警察分屯隊には少尉ドミンゴ・カルボネル以下三三名分屯しあり。十月十日長カルボネル少尉は伍長レステトエビナ及兵ロレトマラバトを指揮し連絡並俸給受領の為「プエルトプリンセサ」所在警察隊本部に出張せるも当時「アボルラン」警察隊の投匪等より警察隊長は俸給を支給せず。翌十一日防衛隊は分屯隊徹〔ママ〕収の為カルボネル少尉を同行せしめ「ミンテスに出動したる処同地比警は防衛隊の到着を知るや北部山中に逃走し「カルボネル少尉は之が捜索の為付近部落に赴きたる儘帰来せず。『註』防衛隊は部落周辺を捜索中比警伍長ベンハミン・トトンバンガ一名を逮捕す。
三、原因と認むべき点
「ミンテス」に於て捜索中逮捕せる比警伍長ベンハミントンバンガの取調に依れば最近戦局の推移に米軍再来逼迫を敵匪宣伝に依り窮地し敵匪の活動活発化に伴ひ現在比警の立場並米軍再来時比警の運命等を臆測投匪前「アボルラン」及「ミンテス」警察分屯隊幹部に於て穏〔ママ〕密裡に投匪画策し機を窺ひ居たるものの如く之が主なる原因左の如し。
(一)現在の戦局我に不利なり
(二)米軍再来時比警の悲哀的運命
(三)比島宣戦布告に伴ふ比警の前線配置を臆測
(四)敵潜水艦揚陸兵器に依り敵匪装備の充実に脅憾
(五)警察隊長の独善主義に憤満〔ママ〕
四、其の他
比警投匪後「アボルラン」分屯警察隊庁舎内に於ける不穏落書主なるもの左の如し。
○比島の自由を得んが為起つ時は来た
○米軍近く来たる我々の任務重大なり
○ボニフエーの大馬鹿者の首を切れ
○警察隊長ボニフエーを射殺す生命惜しければ我の下に降れ
○宣戦布告はしても装備無き比島に何等戦ふ力があるものか
○我々は今日まで日本軍にだまされた
五 処置所見
(一)述(原文旁「求」)上の如く比警は敵側の対比進攻に伴ふ敵匪の活動活発化に依り現在比警の立場と将来の運命を臆測浮動しあり服務能力極めて消極的にして将来戦局の逼迫に伴ひ敵匪に通ずる公算大なるを以て速に比警を解散せしむるの要あり
(二)「パラワン」州警察隊現在員は十数名なるが之等の中に在りても通匪容疑あり目下憲兵に於て取調中なるが現在の人員並に素質等より活動能力無き為解散せしむるを可と思料す。
(三)警察隊長サンチャゴボニフェは対軍信頼感を有するも自己独善主義に依り部下に対し無関心なる為幹部以下に在りては相当反感を抱持し居たり。
四、「パラワン」地区防衛隊(大林隊)に在りては「アボルラン」及「ミンテス」比警分屯隊の投匪に依り南北敵匪に備へ「イナガワン」(プエルトプリンセサ基点南方五五粁)「バクンガン」(プエルトプリンセサ基点北方二十五粁)に各々警備兵約二ケ分隊を配置し警備に任じ憲兵は極力匪情収集に努め警備の直接援護に努めあり。(了)

報告先 抜一〇六三〇部隊長・ビサヤ憲兵隊長
通報先 威九一五〇部隊長・威一八四五〇部隊長
    威一〇六八九部隊長・威二九四四部隊

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パラワン憲高第七五号
発送先 
抜一〇六三〇部隊長 ビサヤ憲兵隊長 威九一一五部隊 威一八四五〇部隊 パラワン地区防衛隊 威九一五〇部隊 海軍九五五部隊 威二九四四部隊
昭和一九・一〇・一六 パラワン憲兵分隊

情報(原文入手確度甲)
「パラワン」州比警「ミンテス」分屯隊比警巡査フランシスコ・セラルデ(投匪未逮捕)は投匪に際し住民に依頼せる通信文(押収)の内容より得たる情報に依れば
一、最后の勝利は米軍にあり
二、米機の「プエルト・プリンセサ」空爆時一斉蜂起す
等の内容を記述せる蔑視通信文(原物訳文)を押収せり
(別紙原物訳文参照)
(了)

別紙
一九四四年十月十四日午后九時 於ミンテス比警分駐所
サルバシヨン様
親愛なる君よ
今吾々「ミンテス」に分屯して居る警察隊員全部は北部に居る吾々の同胞の米軍部隊に加入して居る。それと云ふのは最后の勝利は米軍にあるからだ。近く「パラワン」「プエルト・プリンセサ」を空爆せんとする米機の来襲を待って吾々部隊は一斉に蜂起し大挙して在「プエルト」駐留日本軍を急襲する計画になって居る。戦闘場所は「タクブロス」温泉場付近で「プエルト」基点より六粁から十二粁迄の間に於て開始せらるゝ筈なり。
今こそ吾々の平和自由比律賓建設に立つべき時が到来したのだ。諸君は此の戦禍を免れん為「プエルト」より山中に避難する様希望す
以上は日本軍に絶対秘密に頼む。そして此の文書内容を話す可き人物の選択に誤り無き様。解読後焼却のこと。
以上

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駿参乙(情)速第十五号
情報速報 昭和十九年九月二十九日(?)
比島政府宣戦布告に対する反響(「バギオ」憲兵隊報)

一、要旨
比島屡次の空襲に引続き今次ラウレル大統領の宣戦布告に対し民心は極度に動揺の兆を呈しあり
1、米軍再来は目睫に迫れりとなし一般民衆は預金の引出を為しあり
2、米軍再来の際日本軍票の無価値となるを虞土地購入食糧物資の買溜に狂奔しあり
3、食品物資の買溜偏在に基き飛躍的暴騰を為し主食品たる米は一俵三千比にて富有〔ママ〕階級者或は一部「バイアンドセル」にて金儲けせる者の所有する所となり下層階級者間にては殆ど入手し得ざる状況なり
4、今次宣戦布告に対し青壮年及既投降将校間に於ては再度徴集せらるゝに非らずやと戦々兢々としあり
5、「バギオ」市空爆或は米軍再来にあたり比島の再び戦場●せらるゝを危惧し一部の者に於ては山間に逃避しあり
6、敗匪は今次情勢に有頂点〔ママ〕となり蠢動活発化すると共に一斉蜂起準備に狂奔しあり
7、今次参戦に対し其の九十五%は反対の状況にあり

二、反対者の状況並特異なる行動
1、上層階級は戦宣〔ママ〕布告に対し悲観厭戦的言動を洩しあり
2、参戦布告に依り却って比警の如きは兵器携行逃走を刺戟せざるや其因は必ずしも米軍再来を迎合するものに非らず釈放俘虜の大半を以て占めある比警が逃走するは日軍上陸の際「バターン」半島や比島各地に於ける参戦の体験から来る恐怖の余りと思はるものがある(比警幹部四の言)
3、もう一度軍政施行されることを望む 比島政府自体に於ては此の事態は処置不能だ軍政を回復するか市或は政府の力に依って物価の高騰を取敢ず抑製〔ママ〕すべきだ(雑貨商五の言)

三、枢軸国及第三国人在「バギオ」華僑の状況
四、参戦に好感を有する一般民の状況

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ツゲガラオ憲兵分隊 情報綴 昭19.7.3~19.12.3

比島方面作戦経過の概要
昭和三十二年五月調製
引揚援護局

第一 比島の一般状況に就て
・・・比島人はスペイン統治三百年、アメリカ統治六十年の結果西欧文明就中アメリカ物質文化の影響を可成り強く受けてゐる、白人特にスペイン人とのミステーサが多く政治家、財界人等比島の有力者中その過半数は多少の差はあれ何れも白人の血を受けてゐると云って過言でない。一般に白人崇拝の念強く形式的アメリカ模倣が旺んで義務心を伴はぬ権利のみを主張する事多く其の考へは功利的で又感情が強い。

第二 比島作戦の特質
二 現地住民は終始反日抗日的であった
比島人の対白人感情に就ては既述の通りであって比島住民の大部は日本軍の比島占領以后に於ても終始反日的感情を抱懐してゐたものの様である。これが為比島に於ける米軍の諜報、謀略活動は極めて容易であって比島と比島外米軍との無線連絡は日本軍占領下に於て数次の討伐にも拘はらず絶えず行はれ、又我が方の単独若くは少数兵に対する殺害、襲撃事件等は随所に発生し車輌の運行妨害多く特に作戦末期頃においてはゲリラ活動スパイ活動は其の頂点に達し我が作戦に齟齬蹉跌を来した事は誠に甚大なものがあった。
「レイテ」島作戦兵団中に生還者の僅少なのは全くこれ等「ゲリラ」部隊の活動に依り傷病者に至る迄総て殺害せられるに至った結果に外ならない

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比島方面作戦経過の概要

別冊其の一
比島軍政の概要(素案)
史実部

四 行政
(一)民心動向
日本軍の上陸より「コレヒドール」要塞陥落に至る迄は四十年に亘る米国施政の教育に依り日本に対し一般に好意を有せず行政府要人に於ても止むを得ざる協力程度の域を脱せざるものありたり。然れども同島陥落は日本の力を現実に認識せしめたると上陸以来の日本の真意闡明は逐次浸透し対日依存及協力の態度漸次積極的となり来たれり。
 
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南方作戦に伴う占領地行政の概要 昭和21.5

フィリピン市民は、みんな敵だったんですよ。ふと振り返ると、垣根からピストルがむけられていることもありました。アメリカは占領時代に善政をしいて、道路や学校作ったんです。ところが日本は、フィリピンから毟り取ることはあっても与えることはなかったんですよ。フィリピン人は私たちにも平気で、マッカーサーは帰ってくるといっていました

住民協力は必須なのにそれまでの日本軍の統治はそういう事を考えていなかった。戦っているのは米軍でフィリピンではないはずなのに、全てが米軍の味方となっていた

大阪毎日新聞 1942.11.10-1942.11.24(昭和17)
大東亜共栄圏内指導者へ (1〜9)

精神革命運動起せ
 ヴァルガス長官、さるにても、戦争という巨大な嵐の中から建設を進め、戦ったものたちが協力して日比提携をなすことはたやすいことではありません、比島人のうちにも大東亜戦の真意義を解せず、当面の日比協力が如何にあるべきかについて認識の足らざるものも多いことと存じます、いつかも申上げたように大東亜戦は大東亜の民族解放戦であり、この目的貫徹は戦いに勝つことが先決要件であります、従って戦いに勝ち抜くことは全東亜民族の第一義務であり、このために犠牲をともにし、戦いつつある主力日本に物心両面から協力せねばなりません、なお日本を理解せざる比島人あらば、私は次のことを長官を通じて申上げたいのであります 
 比島は日本に戦を挑んだ、アメリカに踊らされたとはいえ戦を挑んだので、日本に敵対せるものは皇軍に殲滅されてもよいのである、殲滅されてもいささかの文句もいえないはずであるしかるに皇軍は比島の敵対にも拘らず、その東亜的更生と繁栄を祈念した、また俘虜を解放し職を与えるなど驚くべき寛大なる取扱いをしています、比島人は感泣すべきであると思う、日本は何故にかかることをなしたか、大東亜戦は大東亜の諸民族の東亜的更生を目ざしているからである、その前提は戦に勝つことであり、戦に勝つために一切をあげて対日協力をなすことが更生比島の大義名分なのである 
 長官はこの意義を十分理解していられるが、一般比島人にさらに徹底させて頂きたいと思います、そしてこれには比島人の精神革命が必要であります、比島の幸福は日本との協力のなかからのみ生れます、これを体得するにはアメリカ的な、浮薄な過去の比島人のサイコロジーでは困難でありましょう、新しい時代は新しい精神から生れます、比島の精神革命とそれがための大運動の展開が必要であります、長官はすでに地方遊説においてその運動に着手されたわけであります、この運動はやがて比島人がスペイン、アメリカへの隷属時代に出来た悪い諸性格の修正にもなり、西欧的な視角からでなく、自己発見の意義における真の「東海の真珠」を作りあげる基礎となりましょう 
 ヴァルガス長官、私は長官の健康と御奮闘を祈ります 
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10106672&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
 
大阪毎日新聞 1942.12.1(昭和17)
新比島建設戦譜 (1~4)
大本営陸軍報道部派遣東日政治部員 栗原広美

執拗の米側のデマ
五月六日、米比東亜総司令官ウェーンライトは投降し、その翌七日、コレヒドール島の完全攻略はなった、敗将ウェーンライトはラジオを通じて全比島米比軍に「戦争は終った」と降服を通達したのであった、ところがルソン島の山間部、ビサヤ地方などに徹底抗議を呼号して□□した米人将校がかなりあった、それに比島兵の同情者や、無知蒙昧な反日ゲリラ戦の名に魅力を感じる無頼漢、戦争による失業者などが従った、米国が敗戦しては食って行けない一部の恩給生活者なども参加したといはれている、かれらは逃亡に際して山中に少数の短無電気を携行して行った、それで濠洲の敗走将軍マッカーサーと連絡して指令を仰いだり、米国のデマ放送を聴収したりした、食糧の欠乏や、雨季明けや、米国一流のデマ宣伝などの諸条件が重なり合って、こうした敗残部隊の□動ゲリラ戦が八月下旬ごろから甚だ小規模ながら各地に現われはじめたのである、コレヒドール攻路に次ぐ各地の戡定作戦も順調に進み約三ヶ月間、無風地帯の観あった此島の治安は物凄く悪化したように感ぜられ出したのであった、しかしながらそれも所詮は小規模の旋風の如きものでしかない、神速俊敏なわが討伐作戦のため、敗残米人指揮官はつぎつぎに投降或は逮捕され、短波無電気も押えられ日毎にその勢力は痩せ細るばかりである、元来が武器、弾薬、兵員等の補給のないルンペン部隊のことだけに、実力のガタ落ちは疑うべくもないのである 
[写真(栗原派遣員)あり 省略] 
米国のデマ放送は執拗に宣伝した‐九月には比島に上陸奪還するぞ、と、次いで、十月にする、十一月にする、十二月にする、遂には明年一月の上陸説など持ち出してしきりに喚き散らすのである、敗将マッカーサーは宿舎のマニラ・ホテルを出てコレヒドール要塞に逃げ込んだとき、ホテルの支配人に「なあーに、またすぐマニラへ戻って来るよ、自分の部屋には手をつけずにそっとして置いてくれ」といったそうである、嘘か実か彼等の心中は忖度すべくもないが奇妙な宣伝がまことに巧みで軽佻浮華の嫌いのある、うそを平気でいい、政治的陰謀に興味を感じる比島人の性格に迎えられる傾向が強いようである、こんなところにも比島治安問題の秘密がひそんでいるようだ、しかしながら百、千の虚構の宣伝も、結局一つの事実の前には敵し得ないのである 

戦時下の比島民心
今度新たにやって来た日本が何をおみやげに持って来たか、彼等はそれを知りたがっている、物の判った指導者階層は新しい比島建設の精神こそ日本の最大のおみやげだと信じている 
[写真(ヴァルガス長官)あり 省略] 
しかし日本軍が比島に上陸し、米比軍を追い払った後に戦時下の不可避、必至の運命ともいうべき苛烈な経済的困難が登場して来た、戦争は峻厳にしてすべてを変貌させずには置かない、従来の生産組織と機構とはわが国の戦争遂行意思にもとづいて当然変改を加えられるべきはいうまでもない、同時に戦時下比島の経済生活は一種の鎖国経済への移行を伴う、このような戦争と経済生活の激しい相互関係を正しく理解するには比島人一般の知的水準は低いのである、他国依存主義の病根のゆえに、比島民心は総括的に見て戸惑いしている様子が窺われる 
たいした深味も根底もないのが彼等である、戸惑い足ぶみをしている比島民衆もはっきり筋金の入った不動のわが軍政の下に、□然として同調せしめるのはさして困難でないと思われる 

※「おみやげ」については以下同趣旨の記事あり
大阪朝日新聞 1942.6.21(昭和17)
徳川頼貞侯に聴く
送れ、近代日本の姿
つき纒う混血文化の暗影にメス
[写真あり 省略] 
 
【マニラにて扇谷特派員二十日発】新生比島の文化はいかに再建せねばならぬだろうか、この問題を携えて来比中の徳川頼貞侯を訪れた、爽かなスコールの晴れあがった軍政下の比島人の生活感情、文化をじっと見つめてきた徳川さんは占領地の文化工作を「私は軍政の地ならし政策だと考える、だがここでは比島に関する幾つかの問題を内地の文化人に提示するだけにとどめる」と前置きし記者の間に静かに語り始めた=写真は徳川侯 

問 比島にきた最初の印象について 
徳川侯 比島には十五年前に一度訪問、その後もフィリッピン協会長として絶えず接触していたがこんど来て見てその文化水準の上っているのに驚いているが東洋の一角に重いがけぬアングロサクソン文化、それも極めてスポイルされたアングロサクソン文化の臭いをかいでいるという気持です。 
問 なにか具体的な体験がおありですか 
徳川侯 道路、ダンス、音楽、学校ことに普通教育の徹底、これはしばらくおいて田舎に出てほんの椰子の葉で掩われたニッパ・ハウスをのぞいてみてもそこにわれわれはミシンとアルバムを見出す、そして人口六十万のマニラでは東京でもちょっと珍しい十いくつもの壮麗な映画館と十いくつもの大学、専門学校が設けられている、インテリは口を開けば独立問題を論じ 「スペインは宗教を、アメリカは道路と教育をわれわれに与えた、日本はなにを与えるか」 とはやくも求める声だ、そしてバタアンに出掛けてみると戦友が渇いているのに水筒を開けぬ比島兵であり、炎天下にカルマタの馬がたおれているのに手伝おうともしない比島市民だ、エゴイズムの発揮、この原因を私は直接にはアングロサクソン流の教育、情操教育の欠如と間接にはここの特殊な歴史、混血文化に由来すると思う 
問 小学校の歴史の本をみると比島創生史の神話から一足飛びに十六世紀のマゼランの項に移って中間の十何世紀が空白だが・・・ 
徳川侯 そこなんです、南方のどこでも固有の文化、たとえばヒンズー的文化をもっているが、比島にはスペインとアメリカとそれに原住民の混血した文化だけです 二つの体験を話しましょう、国立図書館にでかけたら館長が貴重品としてリザールの革命小説ノーメンタンジュールを見せてくれた、比島の独立に関する本が何とラテン語で書いてあるんです、マニラの商工会議所に出かけたら会則に比島人を妻とするものは会員としないという、大統領のケソンがスペイン系、副大統領オスメニヤが支那人系の混血児、世界中で比島ほど混血児が幅を利かせ尊敬されているところはない、悲しいことではないですか 
問 そのままでいいんですか 
徳川侯 だから私は民族学というものにもう少し力を入れたらどうかと思うんです、比島固有の民族タガログ、ビサヤ、イロカノ、モロそういった比島民族をわれわれはもっと深く掘り下げて見る必要がある、そしておそらく彼らの中に保有している習慣ことに 家族制度といったものの中に東洋的なものがあると思うそのよい部分を振興して行くことです 
徳川侯 人を見て法を説けということです、映画についていえば前述のごとく南方には四季がないのですから季節の細かい変化、情緒なんていうものは分らない、単に奇妙にうつるだけです 今の段階で欲しいものは 近代日本の機械化を示す日本の文化映画だ、たとえば飛行機のズラリと並んだ写真や大工場、大ビルジングの並んだ都市風景が欲しい、何しろ戦争前までマニラの方が東京より遥かに大きいと教えこまれている市民だ 
問 内地の文化人に対して・・・・・・ 
徳川侯 コレヒドール、バタアン陥落のとき聞いた話だが陸海軍にはそれぞれある一つの要塞をいかに攻撃するかということばかり三十年もジッと考え研究していた人がいたそうだ、そしてそういう人の研究と努力がこんどの花々しい戦果となって現れたのだと思う、だがわれわれ文化人の中に三十年比島の文化をいかに再建すべきかと考えて来た人は果して幾人いるだろうか、遅播きながらわれわれは比島はもちろん南方各地について今後突込んだ組織立った研究を起して行くべきではないかと思う 

大阪朝日新聞 1942.12.1-1942.12.3(昭和17)
比島軍政を現地に視る
開戦一周年を迎えて

徹底的治安粛正進む
バタアン、コレヒドールの陥落についで、ビサヤ地区(比島中央の島□地方)の戡定作戦後は、ほとんど全比島の治安は粛正され、平穏であったが、八月末ごろから投降を肯せず山中に逃避した米比軍の敗残兵がルソン、ビサヤ各島で蠢動をはじめた、またその首魁は無電で濠洲の米軍と交信し、その指令を仰ぎ、相当計画的治安の攪乱を企てているもののごとくである 
治安悪化は主として奥地深く逃亡した敗残兵が、雨季とともに食糧不足が甚だしくなったこと別に大した思想的根拠はないがゲリラという名に英雄的魅力を感じて附和雷同し易い比島人が少くないこと、戦争に□□□者の続出、従来の恩給生活乃至は米国と利益関係の多い比島人が米国への復帰を望んで、敗残兵にシンバ的行動をもって加担しているというようなことが原因とみられている 
かくの如く比島の治安は満州、支那の治安問題とは根本的に性格を異にしている、武器弾薬などの補給も全く杜絶され、□□の山中な密林中を逃げ廻っているのだからやがて食糧、マラリヤ、その他の悪疫などによって自滅する運命にあり、比島治安の粛正は時期の問題というべきである、現在警備各部隊の競争的討伐によって、徹底的粛正が行われており、討伐の方針もその首魁を殲滅して根こそぎ壊滅せしめるという方法がとられている、すでにルソン島では米比敗残兵の指揮者が続々と捕えられている一面、軍政の浸透も促進し経済的秩序も漸次回復、生活の安定と相俟って今年中には大体治安は粛正確立をみるものと期待されいてる、また主要都市はじめ各部落では、はやくも保甲制度が組織され治安確保、物資配給などに貢献している 
 
米、執拗のデマ宣伝
ただ治安上もっとも注意を要することは米国の巧妙執拗なデマ宣伝である、もともと比島人は何といっても四十年間の米国の愛撫的統治に育まれ、米国崇拝の思想は骨の随までしみ込み、米国思慕の念は一朝一夕に払拭することは不可能である、したがって米国の宣伝は百%の効果を収める好条件に恵まれ□□わけである、すでに短波受信□は禁止されているけれども、□□こからと□□□□□□□□□□□のデマ宣伝□□□□□□□□□□って治安粛正の大きな□となっている、現地軍当局は放送、映画、ポスター、印刷物などによってこれを撃破する宣伝対策を行ってはいるけれども宣伝戦の戦果はなかかな困難である 
大東亜戦局の推移が直接比島の治安に重大影響を及ぼすとはもとよりであるが、ソロモン海戦、南太平洋海戦の大戦果に引続き西南太平洋の戦局が微妙な波紋を比島人に与えていることは、注目に値する 

大阪朝日新聞 1942.12.3(昭和17)
僻陬山岳地に蠢動の比島残敵大部を●滅
わが陸軍の討伐大戦果

大本営発表(二日午後六時三十分)比島方面帝国陸軍部隊は曩に全群島を攻略したる後尚陬僻不便の山地等に拠り蠢動しありし米比敗残兵に対し引続き討伐を行いつつありしが既にその大部分を●滅せり、去る八月以降十月に至る三か月間の総合戦果中主なるもの左の如し 
(一)敵の遺棄死体三千九百四十五(二)俘虜二千九百十八(三)鹵獲品 機関砲三十三門、重軽機七十一挺、自動小銃百五挺、その他銃器七千四百五十八挺、各種弾薬約百万発、自動車四十四台

治安急速に確立す

大東亜戦争一周年記念日を前に比島における米比敗残軍の大部分が掃滅されたことが大本営発表によって明らかにされたが、短時日の間にかくも治安が急速に確立しつつあることはまさに驚異的というべく、執拗に比島内部の攪乱をはからんとする米のデマ宣伝を事実によって完封したものである
さきにわが陸軍部隊の勇戦奮闘によって比島全軍島の攻略が成った後も、頑冥なる米比敗残兵は僻陬不便の山地等に拠り蠢動をつづけ、これがため比島の治安はとかく攪乱され勝であり、この間隙に乗じてアメリカはデマ放送を行い比島建設に少なからざる障碍を与えていた
新比島建設に念願するわが陸軍部隊としてかくのごとき状態を一刻も許し得ざるに鑑み全群島の攻略を了えたわが精鋭は疲労をものともせず直ちに掃蕩に入り、酷熱□□を克服して各所に敗残兵を虱潰しに把握撃滅につとめ、その労苦がいまや結実として右の発表となったのであり、なお残存する少数の敗残兵も支那大陸などとは異なり後方連絡が絶たれ、武器、食糧の補給も後援続かぬ状態にある以上近く完全●滅にいたるは明らかである 
さきにスペインはその三百余年にわたる比島統治に終始苦杯を嘗め続け、またアメリカの比島征服に当ってもアギナルド将軍の率いる比島軍が執拗にゲリラ戦を続けた歴史を顧みても、投降せる米比東亜総司令官ウェーンライトが去る五月七日に全比島の米比軍に降伏勧告を行ってより僅か七か月足らずにして敗残兵の掃蕩がほとんど成ったという治安回復の迅速さは驚くべきである、比島は今やわが皇軍に協力してヴァルガス行政長官のもとに再出発をなしつつあるが、右のごとき治安回復の急速なる進展は軌道に乗りつつある比島建設に一段と拍車をかけるものである

本格的建設期へ 比島軍政監部総務部長談
【マニラ特電二日発】アメリカの□絆を脱し東亜共栄圏の一環にかくすべく比島再建の大業は去る一月軍政施行以来快速調をもって進捗しつつあるが、開戦一周年を前に比島軍政監部総務部長○○大佐は軍政の現段階について左のごとき談話を行いもっとも憂慮された治安も遠からず米匪の完全掃蕩をみ軍政の強力な浸透によってその目的とする重要資源の開発は急速に達せらるべき運命を力説した
一、本格的建設について 大体比島軍政は南方占領地域中でも特殊の性格をもったものであり、またその運営においても非常にむつかしいものがあろうと思う、マレー、ジャワと異って軍政監部の下部組織として比島現政府があるということは将来の政治形態についてもっとも慎重に考慮せねばならないからである、また現段階についていえばいよいよ本格的な建設に入ったといえる
一、治安の現況 現在もっとも重要な問題は治安の確立である、すべての軍政施策は治安の確立をまってはじめて実現されるものでこれに全力を挙げている次第である去る五月バタアン、コレヒドール作戦終了後各地とも大体順調に粛清向上された、地域的に見るとルソン島内にあった残匪はわが真意を悟って最近続々と投降し、約一千五百名が皇軍の恩情のもとに収容されてほぼ平静の状態にあり一時憂慮されたミンダナオのモロ族の波瀾も漸く静まり、ビサヤス地方のセブ、パナイの敗残匪に対して徹底的な武力討伐を行った、これらの敗残匪はなんら思想的の背景がなく、かつ海洋で隔絶されいてるためその間連絡も出来るし討伐は比較的容易であると信ずる
[写真(比島戡定作戦に活躍する陸軍部隊勇士(陸軍省提供)東京本社電送)あり省略]

東京新聞 1942.12.7-1942.12.8(昭和17)
比島軍政一年を顧みて
建設強力推進 各産業飛躍的増産へ マニラにて 鈴木(定)本社特派員発

しかし中部諸島ビサヤ地方へは一部の不逞敗残米人匪兵に煽動されて、日本軍政の真意を曲解している住民が残存するので十一月二十日比島派遣軍では断乎たる武力討伐を敢行、遂に全く勘定を見た、むろん一部にはアメリカの欺瞞を未だ妄信する民衆もないではないが、日本軍政の一層の躍進と、新生フィリッピンの成長と共に消えて行く儚ないものだ
ただマニラの如き都会と農村との相違の甚だしい比律賓にあって治安の回復、軍政を滲透させるに就いては一層交通機関の整備と新聞ラヂオの普及が望ましいことである
皇軍のマニラ入城と共に軍政施行の確認が行われ、次いでウァルガス氏を中心とする比島中央行政機関の設立により着々軍政の浸透が進み治安の回復に従って行政機能わ愈よ完全に働かせているのであるが、マニラ、バキオ(ルソン北部)レガスピー(ルソン南部)セブ(ビサヤ地方)タバオ(ミンダナオ地方)の五ヶ所には軍政監支部が設置されて官下数州の知事を統括し、中央の政治力を集約的に伝達下令徹底せしめる機構がとられて来た
また特別州の統合をも行う等着々新政の具体化が行われるに至ったマニラ市制も改められ十一月一日から新市制が布かれた

教育の改革
去る二月十七日比島人教育の根本方針として米英依存思想の根絶、比島文化の建設、日本語の普及、初等教育の普及、実業教育の振興、勤労精神の鼓吹等が明示され、同十八日には学校再開について方針が支持され教科書の改廃も進められている
六月一日から全島で百余校の小学校が開校され、つづいて□学校、師範学校、医科大学が続々再開された、また私立小学校の多くが宗教団体の経営で、方寄った宗教教育が健全なる児童の思想発展を阻む虞もあるため宗教教育は禁止を断行した
これは九割がカソリック教徒である比島人の宗教を否定したことではなく、宗教による宣布教育は大いに活用されているし、唯宗教によって科学的な思想の発達が児童時代から彎曲されることを解放したものである

大阪朝日新聞 1942.8.2(昭和17)
僻村の自動車修理に感服
有望なジャバ人の教育
語る人8 南方派遣軍顧問 永田秀次郎氏
土曜移動談話室

比島は東インドに比べると住民の再教育が余程難しい、それは彼らの大部分を占める青壮年層がアメリカニズムでそこなわされているからだ、多年アメリカ式の浅薄な文化を浴びてきた悪習はいま日本の治下に入って本来の東洋的教育にたちかえっても俄に脱却出来ないものがある
表面的にみるとアメリカはどしどし教育の施設を作って原住民が自由に入学出来る立派な大学まであるが、教育の根本方針が間違っているのだから優秀な子弟が出来っこないなまじ教育があるだけに比島人の方がインドネシア人より遥かに扱い難いと思う、婦人はといえばアメリカ流の男女同権主義で、女だてらに大統領選挙に乗り出しかねまじき鼻息である、東洋唯一のキリスト教国、文明国だと自惚れて来たのだから甚だ扱い難いのである

大阪朝日新聞 1943.5.12(昭和18)
比島民衆はまず大東亜精神に還れ
マニラで 青木大東亜相談

【マニラ特電十一日発】青木大東亜相はさる四月十六日東京出発以来南支をはじめ南方各地の軍政施行状況を視察、十日マニラに到着したが十一日宿舎マニラホテルにおいて日比新聞記者団と会見、左のごとく語った

一、南方各地の建設状況
南方各地とも現地民族が日本の努力に対して非常な熱意をもって協力してやっている、その熱意は満足する程度に、たとえばビルマについては戦争の最前線という感じを深くしたが民衆は戦火の中から起き上りさらに建設に奮起していることは感激に堪えない、ジャワはすでに戦火も収まり平和的な印象を受けたが現地民も挙ってわが方の政策に喜んで協力している、比島はアメリカの物資文明のため影響を受け、経済産業組織も米国本位の伝統に支配されていた、しかし行政府各長官をはじめ有識の士が米国色の残涬を捨て新しい面目に建て直すにはわが国と協力せねばならぬとの決意を固め今着々とその努力の跡が政治、経済その他あらゆる面に現れているのをみて非常に意を強くした、要するに東亜民族精神の繋がりがあるからこそ各地とも挙って共栄圏の建設が順調に進捗しているのである、経済方面も資材難を工夫創意により克服し立派にやり遂げている、戦争遂行中でなかなか期待通りやるのは難しいところもあるが現在の状況では将来に非常な希望と期待をもっている

一、新比島建設の根本目標
根本はやはり精神の建直しにあると信ずる、米国の軽薄な物質文明から堅実な大東亜精神にめざめることである、これあってこそ日本精神に従って協力出来るのである、比島の経済再建設その他もかくてこそ出来る、比島民に最も望むところは精神方面の一大転換である

大阪毎日新聞 1943.5.7(昭和18)
東条首相比島訪問の意義
社説

東条首相を迎えたマニラ市民感謝大会は、同大会の決議において「大日本帝国の任侠的指導と比島及び比島人に対する歴史上その類いなき寛仁なる政策に対し、不滅の感謝を表明するものなり」と結んでいる。それはバルガス行政長官以下良識ある比島人の信念を、率直に吐露したものと、吾等は見る。事実、右の大会において、東条首相が声明しているように「この大戦はわれわれ大東亜十億の民族が、真に道義に立脚して新しい大東亜を建設せんとする一大征戦である」のである。かかる雄偉なる構想と高邁なる理想の顕現を期し、敢て帝国がその国運を賭するということは、文字通りに史上空前の大業である。皇軍の善謀勇戦によって敵アメリカの搾取と桎梏から解放された比島及び比島人が大東亜及び大東亜民族の一環として、新たなる大東亜の建設につき、帝国に対して全面的に協力すべき使命を担っているのは、寧ろ自明の理といわなければならない。
比島および比島人が、この歴史的使命の完遂を期するには、東条首相が親しく比島民に向って指摘しているように、誤れるアメリカ主義を速かに一掃して、民族興隆の源泉である剛健進取の気風を養い、大東亜民族の真の姿に立ちかえることであって、それが着々と具現しているのは、比島及び比島民のために、更に大東亜のために慶賀に堪えない。
東条首相は昨年来既に再度に亘って、比島民が「帝国の真意を諒承し、積極的にわが施策に協力し来るときは、欣然、独立の栄誉を与う」ることを、帝国政府の名において確約している。しかして帝国が信念の実行に当って極めて勇敢であることは、進展する大東亜の建設過程が雄弁にこれを実証している。換言すれば、比島及び比島人の独立は、彼等の努力如何に懸っている。帝国の真意を諒解し、帝国の企図する大東亜建設に向って、全力的に協力するところに、比島独立の顕現が期待される。東条首相の比島訪問は、かかる事態への比島民の認識を更新し、帝国に対する協力の熱意を唆る点において、多大の効果があったであろうと吾等は確信する。

大阪毎日新聞 1943.3.27-1943.3.29(昭和18)
新生ビルマと東亜民族の興隆 (上・下)
(上) 印度よ〝示唆〟を解せよ 比島の日和見政治家反省の秋

・・・しからば、同様にインドの民衆は今回のビルマ独立を直視して虚心坦懐に新興ビルマの示唆するところを諒解しインドの独立運動に見透しをつけるべきではないか、そしてまたフィリッピンの日和見的政治家はこのビルマの新生に深く反省するところがなければならぬであろう

大阪毎日新聞 1943.1.29(昭和18)
首相の演説に応う 半年の苦闘に光
バ・モ長官、今夜感謝放送

協力の実発揮 比島
【マニラ特電二十八日発】東条首相の比島独立に関する再声明は独立の念願に燃えたちひたすら皇軍に協力しつつある比島行政機関に対する影響極めて大なるものがあった今回の東条声明が比島における敗残頑迷の徒に鉄槌を下したことは何よりも意義深いものがありマニラ・ホテルにおいて軍政監はヴァルガス長官以下首脳部に対し
日本は信頼の国である、しかして武士道の国である、一度約束したことは必ず実行して来た国だ、自国の約束を反古にする米英の背信国とは根本的に相違するのである
と喝破し比島人のより一層の努力を要望した、ヴァルガス長官以下は軍政監が要望する三点すなわち兵匪の絶滅、経済再編成への全面的協力、東洋精神の把握に向ってあらゆる努力を結集せんとする決意が現れ、かくて営々として皇軍に協力し来った比島行政機関は一ヶ年振りで再び東条首相の声明によって大なる感銘を与えられたわけである、かくてカリバピ運動 (比島奉公隊)の活動と相俟ち比島一千六百万民衆を一人残らず新比島建設に動員せしめ衷心から協力の実を挙げ比島今後の独立は全く比島人の責任にありと堅く決意したのであった

報知新聞 1942.4.28-1942.4.29(昭和17)
南のこども達
フィリピンの巻 (上・下)

違う風俗習慣 都会と田舎の子
同じフィリピンでも都会に住んでいる子供たちと田舎の子供たちでは、これが同じフィリッピン人かなと思われるほどその風俗習慣が違う都会の豊かな家庭の子供たちは洋服を着て靴をはいて帽子をかぶってランドセルを背負って通学しているから、これを遠くから初めて眺めた人は『おや』と思うであろうが、全く西洋の子供と変りなく、とりわけ米国の子供たちの風俗をしている英語で話し、洋風の家に住み、何から何までアメリカ式でただ違うのは顔の様子と体の色、これだけはどうにもこうにもアメリカ人にはなり得ないところが小学生たちの洋服はみな思い思いの洋服で帽子なども冠っている者は極く少ない、女の子の洋服も何しろ暑さが烈しい熱帯のことだから、下着を着てその上にというのでなく簡単なワンピースの一本建てであるこれをまた田舎へ行くと、何から何までがらり様子が変ってしまう、たとい金持の家でも大人は大抵裸でいる、そして子供にだけは白地のごく薄いシャツのようなものを着せ膝位まである厚地のタピス(半ズボンのようなもの)をはかせている中以下の家の子供はタピスだけはいて上は裸だったり、薄いシャツだけでタピスをはかない男の子もいる、男の子も女の子も跣足で、容易にその両性の判別はつき難いのだが、よく見るとさすがに女の子は髪飾をつけてほんのちょっぴり女らしいやさし味が現れているのである

読売新聞 1942.8.18(昭和17)
新比島の建設を現地に聴く

【マニラにて田上特派員発】アメリカの東亜根拠地であったフィリッピンは一月二日皇軍の輝く首都マニラ占領同時にその圧制を離脱共栄の理想も高らかに大東亜共栄圏の一翼たるべく我軍政下に飛躍建設過程に入っているが本社は鋭意新フィリッピン建設に挺身しつつある各方面の責任担当者に再建の現状を聴いた
軍政監和知鷹ニ少将
軍政監部財務部長小林末雄氏
軍政監部業務総務課長高橋進太郎氏
軍政監部産業部農務課長鵜崎多一氏
軍政監部総務部教育班長内山良男氏
軍政顧問村田省蔵氏
(順不同)

和知少将
従来のフィリッピンの実情からして或る者は親米的、或る者は親日的、或る者は日和見主義者であったことは当然でしかも軍政下或期間の過ぎた現在では表面は皇軍の占領という厳たる事実によって日本との協力なくしてはフィリッピンがあり得ないとは考えていても内面では未だ種々雑多な動きがあり得ることは十分に知り且つ考えている積りである

大阪朝日新聞 1942.8.16(昭和17)
学べ日本語・直せ賭博の癖アジアに還った比島新生の道
土曜移動談話室
語る人(10)T.V.T新聞社長ローセス氏

【問】東亜共栄圏の指導者の一人としての日本に期待するところは?
【答】比島の一般大衆がすでに共栄圏の真意義を認識し新秩序の建設に邁進せんとしているのに今なお一部フィリッピン人の間にはそれを諒解しな□□□があり、最近も相当多数のフィリッピン人が軍法に触れて処罰されたのは悲しむべきことである、こうしたフィリッピン人に対しては断乎たる処置のとられることを希望しているが、同時に一般には日本の理想がフィリッピン人に諒解されそれがまたフィリッピン人の理想ともなるように指導して行きたいまた日本文化の移植が行われて東洋人としてのフィリッピン人が日本文化のよい影響をうけて独自の東洋的なフィリッピン文化をつくりあげたいと思う

神戸新聞 1942.8.14(昭和17)
新比島建設の方途
治安の保甲制度徹底 棉花増産計画直ちに着手
和知軍政監初訓示

三、治安の維持確保
治安の維持はおおむね良好なる経過をたどりつつあるが局部的に未だ十分ならざるものがある推うに治安の維持確立は庶政つ遂行の基底にして瞬時もゆるがせに出来ないので諸子はよく諸般の情勢を洞察し新制度による警察力を掌握しこれが積極的活用を計らねばならない、これがためには先ず部下警察官吏を教養訓練しなければならぬ、新制度に基く警察機構を速かに整備充実し治安の維持に一段の努力を致されたい

大阪毎日新聞 1942.8.4(昭和17)
“東洋人”精神に還れ 生活革命断行が緊急
比島人に与う 本間最高指揮官のメッセージ

・・・比島は米国の一部であり、米国はこの主権にもとづき臣民たる比島民を訓練、組織し大軍を編成してわが軍に抵抗した、・・・しかるに余の降服勧告に応ぜざりし数万の比島兵は余の衷情を解することなく最後まで米軍の勝利を信じて無意味なる抵抗をつづけた、この無意味なる抵抗はかれら自身の死傷と同時に皇軍の犠牲を要求した、

余はあえて切言する、諸子が己の生命力を飩みきたったアメリカニズムに対し心髄から離脱、解放されない間比島は漸次精神的に堕落をつづけてついには民族滅亡の危機に導かるるであろう、醒めよ比島民、とくに次代の比島を担当すべき壮青少年よ、翻然として目醒めよ、比島の更生はアメリカ文化の悪影響より離脱して純乎たる東洋人に還ることによってのみ求められる

大阪朝日新聞 1942.8.2(昭和17)
先ず東洋人の自覚を
比島再建へ、本間中将語る

問 宗教対策について
答 モロ族の回教は別としてルソン島はじめ全島に確固たる勢力を占めているカトリックに対しては慎重考慮すべきだろう、アメリカ原住民の宗教対策で得たものは僅か三十万の新教徒だ、各教会は広大な領土と学校と孤児院とを持ち約千八百人の僧侶、千五百人の尼さんの三割から四割までは外国人だ、そしてこの教会系の学校が比島上層階級の子弟を収容しケソンもオスメニヤも宗教学校の出身というから宗教上に対しわれわれが何をもってアジア人たるの意識を昂揚させて行くべきか、それは、初等教育による外はないと思う、比島を顧みて自分は中年層は気力がない、青年層はアメリカ文化に浸潤されている、恃むは少年だと思う、この少年達に日本の歴史、アジア人の自覚を叩き込むのだ、このためには何といっても日本人の教員を送って貰いたい

神戸新聞 1942.5.28(昭和17)
強圧政策を強調
竹井氏を囲んで南方対策懇談会

南方民族政策、華僑対策につき懇談のため神戸商工会議所では南方圏研究所専務理事竹井十郎氏を招き二十七日正午から同所で南方対策懇談会を開催、在神貿易、海運金融関係業者二十余名が出席した竹井氏は南方民族文化の特殊性を強調して・・・と説き南方各民族の対策について
フィリピンは久しく米西両民族の悪影響を蒙って物質万能の思想が強い、彼等が果して日本にどの程度まで感謝の念を抱いているかは疑問であり、その関心するところは生活安定への期待よりないが、現在のわが国としては彼等の物質的生活を従来のまま保持せしめることは耐えられぬところでフィリピンに対しては生活程度の引下、収入の切下等思い切った対策をとらねばならぬ、

大阪毎日新聞 1942.6.2(昭和17)
新生比島の建設方策村田最高顧問に聴く
独立の自覚涵養
資源開発、農業を振興

比島人はいつ独立を許してくれるのかとかどういう形式においてかとか、独立の権利のみ主張するが自ら独立国としての力を養うことを怠っている傾きのあるのは誠に遺憾に思っている、一九四六年の独立条項から約束されている戦前の比島が果してその時が来て独立出来たであろうか、口先だけでは駄目だ、真実をもって実行に実行を重ねてあらゆる文化面から独立の資格を涵養し、東亜の一翼として相応しいような形式を備えることが望ましい、彼ら自身の手の中にこそ独立の鍵があるといいたい

大阪毎日新聞 1942.5.30(昭和17)
始末の悪い"東洋一文明国"
日本は差上げよう『自立の精神』
比島経営学
青嵐宗匠の縦横談

また前に文部大臣をやった男が「米国は教育を比島に与えたがそれは比島の青年を台なしにした、比島に米国式比島人を作るに役立っただけだ、比島人は本来の比島人に還らねばその不幸がますます大きくなる」といっておったがね、やはり比島人に対してはスペイン式でもいかぬし米国式でもいかぬ、東洋人としての比島人らしく指導して行った方が比島人の幸福になるのではないかと思ったまたある時ある日本人が来てスペインはその統治三百年間に比島にカトリックの寺院をくれた、今でも人口二千六百万のうち天主教徒が二千二百万人もいる有様で米国はその支配四十年の間に学校を沢山くれた、日本人は何をくれるかという比島人がいますがどう返事したらよいでしょう
という話、私はこれに対して日本は人から物を貰わずに自立して行く精神を比島に与えよう、と返事するとその人は共鳴していた
比島人の日本人に対する気持は今後だんだんよくなるだろう、何分アメリカの宣伝を真に受けてアメリカが世界一の文明国で東洋においては比島が第一の文明国だと思い込んでいたのだから始末が悪い、あの国際連盟での日本の毅然とした態度に満洲、支那両事変で少しずつ日本を見直してこんどの大東亜戦争となったわけである、今では日本人と間違われることを光栄とするといった気持がだんだん加わって来ている、比島のどこに行っても日本語を研究しようという気風が非常な勢力であるのは結構なことだ

大阪朝日新聞 1942.7.16-1942.7.25(昭和17)
転換途上の比島(2~4)一つの対話

比島のインテリが日本人とみると、すぐ持ち出す質問が今マニラを賑わしている、それはスペインは比島に宗教を与えた、アメリカはわれわれに教育(初等教育)を与えた、そして日本はわれわれに何を与えるかという質問である、これに対する日本インテリの名答は次の如きものとされている
 
そういう質問をしない比島人に君達を作りあげること、比との懐をたのまない自主的なアジア人に還元せしめること、これがわれわれの贈り物だ
この対話は比島人の殊に比島インテリの一つの型を象徴していてなかなか興味深い

大阪朝日新聞 1942.10.15(昭和17)
南方軍政の大躍進
三軍政顧問談

実業教育に重点 東洋精神の建設へ 比島 比島軍政最高顧問 村田省蔵氏談
・・・アメリカ化した比島人は徒に華美な洋服を着しフォードを駆ることをもって最高の文化としていたようである、したがってわれわれの課題はまずこの浮薄なるアメリカニズムの除去と東洋精神の建設にあらねばならない、

大阪朝日新聞 1942.9.12(昭和17)
欲しいのは指導者
比島婦人は絹靴下を待つ
来阪の村田最高顧問談

新生比島の再建に挺身しつつある比島方面最高軍政顧問村田省蔵氏は先月中旬半ケ年ぶりに帰国、中央当局と打合中だったが十一日午前八時五十分大阪駅着列車で西下、有田大逓局長、岡田商船社長ら財界関係者多数に迎えられて新大阪ホテルに入り、正午から同ホテルに開かれた楠本阪大総長、坂間大阪市長ら名士七十五名出席の金曜会懇談会に臨んだ、十五日まで滞阪して同夕刻神戸に立寄った上帰京するが大体来月上旬ごろ再び帰任のはずである、以下は車中住訪の記者との一問一答‐ 

問 現地では比島人の「大東亜教育」が実施されているが、さらに高等、普通教育を通じて日本人の教育家が相当数渡比する必要はないでしょうか……
答 どうしても教育が基本だ、いまいろいろ産業経済上の施設を計画的にやっているが、一方学校教育でもアメリカ色を一切払拭してやる方針を樹てている、しかし一度アメリカ色に染まった連中をすぐ東洋色に染めかえるということは相当困難な話だ、それよりはむしろ無色の児童を新しい教育によって真の東洋人に育て上げる方が容易だ、

報知新聞 1942.7.12(昭和17)
復興したキヤビテ軍港
無言の皇道垂範 比島人の悪弊を一掃

【キヤビテ軍港にて河上海軍報道班員発】わが海軍の新七曜「月月火水木金金」はひとり無敵艦船部隊の過去の猛訓練を物語るばかりでなく、開戦後の戦闘を支障なからしめる後方整備にあたる○○隊もまたこの精神を身をもって実践しつつある、その精神はキヤビテ軍港に働くフィリッピン人職工がケソン大統領の敗北的遺産八時間労働制を主張してやまぬのを無言のうちに同化させ、日比協同労力が半歳を出でずして、かつて米国アジア艦隊の基地として発揮していた能力を遥かに凌駕するまでに復興させた、今やキヤビテはわが南方の護りに一布石となって比島の一角に輝かしい更生の姿を示しているいやしくも軍事施設と見れば仮借することなく徹底的爆撃を敢行したわが海鷲によって全く廃墟と化したキヤビテ軍港がわが海軍の手に委ねられたのは去る一月であった、当時付近の敵はいまだ完全に掃蕩されず小癪にも反撃して来るのを少数の警備隊で撃推し敵機の機銃掃射爆撃も数回にわたって受けた、その中で○○隊はひたむきな軍港再建に猛進したのである、戦域の広くなるに従い現地の○○隊は同地から極めて少数の指導者が赴くのみで人力もすべて現地に求めなければならなかった、そこでキヤビテでは約○○名のフィリッピン人を使用した、そのなかには戦前からキヤビテ海軍工場に働き、一日七ペソを支給されていた熟練工も混っていたが軍政わが海軍は平均○ペソに減額使用したするとアメリカ支配時代はなんら生産的労働なく本国で生産される部分品を単に交換するだけの技術しか持たぬ職夫に手で鉋をかけるのを教え、人夫を職夫に向上させるように訓練し直すわが厚意ある取扱いを悟らず、フィリッピン人たちは目前の廉い賃金への反感を露わにアメリカが植えつけていった個人的な打算主義の一日八時間労働と日曜全休を主張、ブツブツいい出した、その時日本人工員達はこの悪弊をため直すには自らが身をもって示すより途のないのを暗黙のうちに背き合った、それはまた○○長の欲するところでもあったこんな有様で工場施設の復旧は至難の事業であった建築材料の金属製品はすべて場内製造であり、細い金属管一本でも全力運転しなければならず、残存機械とは原理は同じでも形は違えば運転方法も異り作り直しに等しい努力を要した、しかも釘一本内地から送り届けられるのを潔しとせず、すべて現地の資材を活用して工場の整備と一般常住艦船の修理を併行して成し遂げねばならなかった日本人工員たちは艦船部隊と全く同じ気持で土曜、日曜抜きの「月月火水木金金」どころか連日にわたって長い期間夜勤が続けられた、その夜勤に対してなんらの報酬さえ与えられないという事実はフィリッピン人をひどく驚かした、報酬なき献身は全く彼等の考えの外にあったのだ
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00503937&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

 当時のマニラは治安は悪く、防空演習を実施しても市外は暗くならず、吃驚しました。(p332)
 我々の飛行場へ戦隊が飛来した夜は、必ずロンボバタン山の中腹には千個以上の懐中電灯が点灯し、沖の潜水艦に連絡していましたが、これは見事で、きれいな夜の景色で感心させられました。このロンボバタン山は海抜千メートルぐらいです。ゲリラ討伐をしたいのは当然ですが、二百五十人ぐらいの中隊ではいかんともしがたく、切歯扼腕するのみでした。(p333・334)伊藤

いよいよ(フィリピン)独立ということになって、一番大きな問題は、憲法をどういうふうにつくるか、ということでした。・・・当時のことですから、お手本ということになると日本の憲法です。蠟山〔政道〕さんなんかも、そんなお考えだったようですし、・・・しかし黒田(黒田重徳フィリピン方面軍軍司令官)さんは、『・・・ともかく、アメリカはフィリピン人をいじめてはいない。善政を施しているんだから、アメリカ式の自由主義的な憲法じゃないと