
2018年新ひだか町公民館でのパネル展で北海道を訪問時、松田さんや高橋さんから岡本太郎が稲田家臣子孫であり、そのことを調べて発見された静内神社の山田宮司さんが新聞で発表されていたということを聞いていたが、事実を確認できないままでいた。パネル展の準備で何とか確認できないかと川崎市岡本太郎美術館に問い合わせたらすぐに岡本太郎の祖母の名前と高祖父の名前を教えてもらえた。移住者名簿や明治5年の戸籍ぼにも名前があり、このことから岡本太郎の祖母は洲本の稲田家臣関谷辺の娘で明治4年7歳で北海道へ移住し明治19年函館で岡本可亭(書家)と結婚し太郎の父の一平を生んだことがわかる。岡本太郎は『北の零年』に淡路島から北海道へ移住した稲田家臣子孫であった。

『北王路魯山人と岡本家の人々』展図録より
岡本太郎の父、岡本一平は漫画家であり母岡本かの子は作家、祖父岡本可亭は書家という芸術一家であるが、祖父岡本可亭が函館女学校の教諭のころ結婚したのが元稲田家臣、関谷辺の長女正であった。正の父辺は洲本の商人灰屋から武士の関谷家に養子にはいいているので、明治5年の静内の戸籍には記録されているが農業での自活の道を諦め明治時代東京以北最大の都市となってゆく函館に活路を求め転住したのかもしれない。4年に静内に移住して5年の戸籍に8才となっている正は洲本生まれで7歳で稲田家臣団とともに静内に移住し一番大変な困難な状況を乗り越えた一人といえる。
また、岡本可亭・正夫婦の三女クヮウが画家の池辺鈞と結婚して、その子供が『青い山脈』などにも出演して日本映画俳優協会会長なども務め随筆家でもある池辺良で岡本太郎とはいとこにあたる。


『静内町史』より

明治5年静内郡戸籍簿より


静内町史移住者名簿より
岡本太郎の曽祖父の関谷辺は江戸時代洲本では芳崎文十郎という名前だったらしい、そして太郎の祖母正も洲本では志能だったものを正に改名したようだ。そういう北海道にいってから名前を変えた武士は多数いて三吉笑吾や岩根静一、三吉歩などもそれにあたる、三吉笑吾は名前を変えた理由を旧に復したとしているので、稲田家の家臣に仕官する時、蜂須賀家と戦った過去があり三吉姓を遠慮して使わなかったのかもしれない。先祖から伝わる元の名前を廃藩置県により、稲田家家臣でなくなると明治5年の戸籍への登録時に関谷辺も改名したものとおもわれます。ただ志能は正になぜかえられたのだろう一人娘のため跡取りとしての思いがこめられてだろうか。関谷辺は洲本では下屋敷通りに住んでいた下級家臣で北海道移住後は静内では農業はあまりせず開拓使(北海道庁の前身)に務めたが明治15年に開拓使が廃止され北海道が函館県、札幌県、根室県に分割されると函館県の役人となり函館にいたらしい、岡本可亭が函館女学校の教諭としてそのころ函館に来ていて正と出会ったようだ。北の零年の移住のメンバーに正がいなければ日本の芸術界も又ちがった風景がひろがっていたのだろうか。


芳崎家は代々稲田家臣として城下町洲本・下屋敷の下級武士として暮らしてきた。庚午事変がおこり北海道静内へ移住、名前を関谷に改名し開拓使(北海道庁の前身)の役人として静内から函館へ、そしてわずか函館に3年しかいなかった伊勢伊賀の藤堂藩の儒学者の次男、岡本可亭と巡り合い、漫画家の一平が生まれ、孫に芸術家の太郎ができた。激動期の波乱の人生は子や孫の育て方にも影響をあたえるのか。

コメント
コメント一覧 (2)
「淡路島情報館」と言うホームページを運営しております。
その中で、「淡路島出身ゆかりのページ」と言うのを作成しています。
https://awaji.kobe-ssc.com/wiki5.php
岡本太郎さん、池辺良さんが稲田家臣子孫だとはビッグニュースですね。
淡路島出身ゆかりのページに載せようと思います。
よろしくお願いします。
岡本太郎も池辺良
新ひだか町の教育長でもあった静内神社の宮司さんが発見して、何年か前に北海道の新聞で発表したことがあるらしく新ひだか町に住む稲田家臣の子孫の人は知っていましたが淡路の人は岡本太郎と池辺良のおばあちゃんが洲本生まれで映画『北の零年』のモデルだったなんて誰も知らないとおもうので教えてあげて下さい。