2006年11月18日

サービスを超える瞬間

 前々回にも書いた92歳の現役審判員の方に
 お話を伺っていた時、取材中にもかかわらず
 たびたび声をかけてくる人があった。
 近頃、交通事故に遭ったということで、
 隣の部屋で寝込んでいた奥様である。

「私は体が悪いから、きょうは何のお構いもできませんよ」

 と初めに断られたにもかかわらず、

「ちょっと兄ちゃん。悪いけど、帰り際でいいから
 食器棚の外れたガラス、はめていって」

 とそれだけを言いに起き上がってきては、また寝込む。
 20分おきに同じことが繰り返され、同じ依頼を3回も受けた。

 そしてとうとう4回目。
「兄ちゃん。悪いけど、食器棚のガラスはめて。“いま”」
 と、末尾に新たな言葉が加わった。

 仕方なしに取材をいったん中断し、
 台所へお邪魔してガラスを戸棚にはめ込んだ。
 すこし離れて眺めてみると、指紋だらけで見映えがあまりよろしくない。

 僕は一度はめたガラスを外し、ぞうきんの在りかを聞いて
 ぴかぴかに磨き上げ、もう一度戸棚にはめ込んだ。

「まぁ、そんなことまでしてくれて……。うれしいわぁ」と、
 とても喜んでもらえた様子だった。
 その後、上機嫌になった奥様にカステラを詰めてもらい、
 帰りは僕が道のかげに隠れるまで見送っていただいた。

 審判員の方のお話もよかったが、あれから2週間がたったいま、
 僕の頭に浮かんでくるのは、あの時の奥様の嬉しそうな表情である。
 編集者もごく稀に、サービスを超える瞬間がある。

 ■致知出版社公式サイト
  http://www.chichi.co.jp/



ekomo at 11:15│Comments(0)TrackBack(0)

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔