
2014北海道への旅20日目です
昨日の日没前に見た
「遠音別川」の河口のサケの遡上
今日は朝の6時に
道の駅「ウトロしりえとく」を出発して
見にいくことにしました。
心配された天候も
午前中は晴れ間ものぞくということで
大丈夫そう
道沿いの駐車場は
早朝にもかかわらず釣り客の車で満車
私は釣りをしないので
河口の少し上流へ
この日も川は、サケやマスでいっぱい!

魚たちがここに集まっているのは

この段差を乗り越えるためです

河口のすぐ近くのこの場所は

この段差を乗り越えるべく
チャレンジ待ちをするサケやマスが

ずらーっと、連なっているのです

体の下半分が白いのはカラフトマス

長い旅を終え
最後の一仕事をしようとしています

彼らにとってこの旅は

死への旅でもあり

生への旅でもあるのでしょう
この段差、
そう高くはないのですが

魚たちにとっては
高いハードルのようで

トライしたものの
押し返されてしまう魚もたくさんいました

昨日の日没前に見た
「遠音別川」の河口のサケの遡上
今日は朝の6時に
道の駅「ウトロしりえとく」を出発して
見にいくことにしました。
心配された天候も
午前中は晴れ間ものぞくということで
大丈夫そう
道沿いの駐車場は
早朝にもかかわらず釣り客の車で満車
私は釣りをしないので
河口の少し上流へ
この日も川は、サケやマスでいっぱい!

魚たちがここに集まっているのは


河口のすぐ近くのこの場所は

この段差を乗り越えるべく
チャレンジ待ちをするサケやマスが

ずらーっと、連なっているのです

体の下半分が白いのはカラフトマス

長い旅を終え
最後の一仕事をしようとしています

彼らにとってこの旅は

死への旅でもあり

生への旅でもあるのでしょう

そう高くはないのですが

魚たちにとっては
高いハードルのようで

トライしたものの
押し返されてしまう魚もたくさんいました

しかしここを越えても
次には、更なる難関が・・

でも
この上に人工孵化の施設があるようで
いずれにしても魚たちは捕らえられることになるようです

朝早いのですが
観光客もボチボチと

河口へ行ってみようと思います

その途中で駐車場に寄ると
ちょうど釣りを終えたオッチャンがおられたので
写真を撮らせていただきました
立派なサケです
すでにハラワタは出されて
塩づけにされています

塩焼きにされるのでしょう
新鮮で美味しいでしょうね
この方は、室蘭の方から来られたそうです
河口から見た遠音別橋

橋の横にはこのような看板

海面のみ、期間と区域が限定で釣りが認められていますが、
川は一年中禁止されているようです

海岸では今日も釣り客が

みなさん解禁を楽しみにされていたことでしょう

ルアーで狙っているのでしょうか

大物を釣り上げ、
帰路につく釣り人たち

遠音別橋の上から
魚たちの撮影にいきます

橋の上からは
カラフトマスの姿が多く見かけられました

体高が高くなっているのは雄です

よく、このように反転していました

1匹のメスに

2匹の雄

カラフトマスはサケに比べると
流れの早い浅瀬で産卵をするそうなので

これらは
雌のパートナーを決めるための
雄同士の争いなのでしょう

産卵も
この浅瀬で行うのかもしれません

ところで人間は、
女をめぐっての男同士の争いより
男をめぐっての女同士の争いの方が
最近は、多くないですか?
・・どうでもいいのですが
お腹の白は模様ですが
背中が白くなっているのは

傷のようです
もうボロボロ・・

そして力尽きる・・
命をかけて子孫を残そうとする感動的な行動
しばし見とれる・・
なんだかんだで3時間以上は見ていたようです

橋の上から写真を撮っていると
「どっからきたんや?」
という声
横を見ると、
先程駐車場でサケを見せてくれたオッチャンの姿
少しお話をうかがってみました

「年々数が少なくなっている。温度が高くなってきているので
北の海流にのって樺太周りでこっちに来るのがおそく、
むこうでロシア船に獲られてしまってるんではないか。」
「釣った魚は刺身では食べたこと無いなあ。
雌は卵だけとってイクラにする。
イクラはなんぼでも水分を吸うから、醤油漬けでほっておくと
ピンポン球くらいになってしまう。」
「サケとカラフトマスの釣り方は同じ。
ルアーでも釣れる。」
「釣り禁止区域や期間を違反したら
釣り道具の没収と多額の罰金を取られる。」
「海の投げ釣りは、場所取りがひどい。
何本も竿を並べて、ロープまで張って場所取りをしてる。
他から来た釣り好きの者が入れなくなっている。」
「雄のカラフトマスは、河口近くにやって来て
真水にふれると体高が高くなる」
などなど、いろいろ教えてくれました。
それにしても
ピンポン球くらいのイクラを乗せた寿司があったら
驚きますね

北海道では、このようなサケの遡上が多くの川で見られるそうで、
この日も、何本かの川をのぞいてみましたが
やはりサケの姿が見られました。
昔は日本全国各地で
こういう風景が普通に見られたのでしょう。
その頃の日本の風景は
自然豊かで、本当に美しかったことでしょう

気候の変化などで数が減っているとかあるかもしれませんが、
遡上できなくなった一番の原因は、人間による自然破壊に尽きる!
というのは、間違いのない事実です
この日の知床方面は
天気予報によるとあまりよくありません
羅臼方面へ行くことも考えたのですが
できるだけ雨というのを避けたかったのと
紅葉もまだ早そう
というので
いったん知床を離れることにしました。
そこで
少し前に屈斜路湖の近くのレストランに置いてあった鉄道雑誌で見た
旧国鉄の根北線(こんぽくせん)の橋梁跡を見にいくことにしました。
先に、その途中にある
斜里町の長い道へ
この道は
「天に続く道」や「天に通じる道」
などと呼ばれて有名な所だそうです

初めて見た時は
本当に驚きました。
まさに北海道!
という感じですね
この道の途中のピークに展望台があります

そこからの風景

でも

この道のすごさを堪能するには

全貌が見える一番東端まで行かないと
ダメです
ちょうど直角に曲がる所です

この日は、大学生くらいの4〜5人の男ばかりのグループが
感動のあまり、ここで大はしゃぎ

また日を改めて来ようと思います
そして向かったのは根北線の橋梁跡
「第一幾品川橋梁」

ここは「越川橋梁」とも
呼ばれているそうです。
「根北(こんぽく)線」のその名は、
根室本線の厚床駅から標津線の根室標津駅 、
そして釧網本線 の斜里駅を結ぼうという
大きな計画の名残りのようです。

昭和7年からあがったこの計画は、
厚床〜中標津(標津線:昭和8〜9)、
標茶〜根室標津(計根別線:昭和11〜12)が
それぞれ開業し標津線となっています。

斜里駅側からの工事も昭和12年に着手されたものの
戦争で中断
その後再開され、昭和32年11月に
斜里〜越川間が部分開業。

しかし
その後、越川から先は実現することはなく
昭和45年12月に廃止となり
わずか13年で消えることとなりました。

その背景には
過疎、バスの発展、自家用車の普及などがあったようです。

名前は根北線ですが
根北峠を越えることは無く
斜里駅〜越川駅までのわずか12.8kmの路線

今回見にいった橋梁は、その越川駅から先の部分です
つまり
1度も線路が敷かれることが無く、
そして使われることの無かった橋梁
ということになります。

根北線が姿を消そうという頃の当時の様子が
昭和45年のNHKの新日本紀行
「ある廃線 ー北海道・根北線ー 」 というタイトルで
放送されています。
大変貴重な記録です。
そのナレーションから、当時の様子がよくわかります。
番組からの抜粋でご紹介します。

「列車は、ホームに人がいれば停車し、
いなければ通り過ぎていきます」
「少しくらいの時間なら待ってくれる根北線、
地元の人は親切列車と呼んでいます。」
「1日2便の根北線、
100円の収入を挙げるのに2313円の経費がかかり、
国鉄全線の中で第2の赤字線です。」
「利用者は1日約100人、
車掌さんとはみな顔なじみばかりです。」
「開拓者が待ちこがれた根北線が開通したのは昭和32年のことでした。
しかし皮肉なことに
その頃から沿線の過疎化が進んでいたのです。」
「越川駅、開通後わずか3年足らずで無人駅となりました。」
「10年程前、越川駅周辺には10戸余りの開拓農家がありました。
しかし今は2戸だけです」
「赤字の根北線は、真っ先に廃止されることになったのです。」
「(さよなら列車には)550人の乗客、3両編成の列車、
いずれも根北線始まって以来のことです。」

このナレーションの中に
消えていった時代が見えるような気がします

それにしても
「親切列車」って、いい呼び名ですね

こうして背景を知ることで
この橋梁から、また違った多くのものが
見えてくるような気がします

この橋梁跡から少し戻った所にあったのが
これです
「越川駅逓所(こしかわえきていしょ)記念碑」

最初は越川駅関係の碑かな
と思ったのですが
調べてみるとそうではありませんでした。
※画像をクリックすると拡大表示します
「駅逓所(えきていしょ)」というのは
鉄道などができる前に、
開拓にやってくる人や旅をする人などに対して人足や馬を用意したり
宿を用意したりする所だったそうです。
郵便や貨物の運送などの取り扱いもあったようです。

碑文によると
明治27年12月に斜里山道の開削に伴い開設が認可され
昭和16年3月に廃止されるまで、宿、人馬継立、郵便など
明治・大正・昭和の三代に及ぶ開発拠点としての役割を果たした。
とあります。
また根室への護送囚人が泊まったりもしたそうです。
そして、この碑自体は
開道百年、斜里町開基90年、町制施行30年を記念して
昭和43年10月に建てられたもののようです。

この碑の横にひっそりと咲く花

きれいですね。
この時期、あちこちで見ることができました。
ということで
この日はこの後、網走まで行って
コインランドリーで洗濯
そして
道の駅「流氷街道網走」で車泊
網走川の河口、網走港の横にあるこの道の駅は
とても清潔感のある所で
快眠!
ということで
20日目終了!
※画像をクリックすると拡大表示します
次には、更なる難関が・・

でも
この上に人工孵化の施設があるようで
いずれにしても魚たちは捕らえられることになるようです

朝早いのですが
観光客もボチボチと

河口へ行ってみようと思います

その途中で駐車場に寄ると
ちょうど釣りを終えたオッチャンがおられたので
写真を撮らせていただきました
立派なサケです
すでにハラワタは出されて
塩づけにされています

塩焼きにされるのでしょう
新鮮で美味しいでしょうね
この方は、室蘭の方から来られたそうです
河口から見た遠音別橋

橋の横にはこのような看板

海面のみ、期間と区域が限定で釣りが認められていますが、
川は一年中禁止されているようです

海岸では今日も釣り客が

みなさん解禁を楽しみにされていたことでしょう

ルアーで狙っているのでしょうか

大物を釣り上げ、
帰路につく釣り人たち

遠音別橋の上から
魚たちの撮影にいきます

橋の上からは
カラフトマスの姿が多く見かけられました

体高が高くなっているのは雄です

よく、このように反転していました

1匹のメスに

2匹の雄

カラフトマスはサケに比べると
流れの早い浅瀬で産卵をするそうなので

これらは
雌のパートナーを決めるための
雄同士の争いなのでしょう

産卵も
この浅瀬で行うのかもしれません

ところで人間は、
女をめぐっての男同士の争いより
男をめぐっての女同士の争いの方が
最近は、多くないですか?
・・どうでもいいのですが
お腹の白は模様ですが
背中が白くなっているのは

傷のようです
もうボロボロ・・

そして力尽きる・・

しばし見とれる・・
なんだかんだで3時間以上は見ていたようです

橋の上から写真を撮っていると
「どっからきたんや?」
という声
横を見ると、
先程駐車場でサケを見せてくれたオッチャンの姿
少しお話をうかがってみました

「年々数が少なくなっている。温度が高くなってきているので
北の海流にのって樺太周りでこっちに来るのがおそく、
むこうでロシア船に獲られてしまってるんではないか。」
「釣った魚は刺身では食べたこと無いなあ。
雌は卵だけとってイクラにする。
イクラはなんぼでも水分を吸うから、醤油漬けでほっておくと
ピンポン球くらいになってしまう。」
「サケとカラフトマスの釣り方は同じ。
ルアーでも釣れる。」
「釣り禁止区域や期間を違反したら
釣り道具の没収と多額の罰金を取られる。」
「海の投げ釣りは、場所取りがひどい。
何本も竿を並べて、ロープまで張って場所取りをしてる。
他から来た釣り好きの者が入れなくなっている。」
「雄のカラフトマスは、河口近くにやって来て
真水にふれると体高が高くなる」
などなど、いろいろ教えてくれました。
それにしても
ピンポン球くらいのイクラを乗せた寿司があったら
驚きますね

北海道では、このようなサケの遡上が多くの川で見られるそうで、
この日も、何本かの川をのぞいてみましたが
やはりサケの姿が見られました。
昔は日本全国各地で
こういう風景が普通に見られたのでしょう。
その頃の日本の風景は
自然豊かで、本当に美しかったことでしょう

気候の変化などで数が減っているとかあるかもしれませんが、
遡上できなくなった一番の原因は、人間による自然破壊に尽きる!
というのは、間違いのない事実です
この日の知床方面は
天気予報によるとあまりよくありません
羅臼方面へ行くことも考えたのですが
できるだけ雨というのを避けたかったのと
紅葉もまだ早そう
というので
いったん知床を離れることにしました。
そこで
少し前に屈斜路湖の近くのレストランに置いてあった鉄道雑誌で見た
旧国鉄の根北線(こんぽくせん)の橋梁跡を見にいくことにしました。
先に、その途中にある
斜里町の長い道へ
この道は
「天に続く道」や「天に通じる道」
などと呼ばれて有名な所だそうです

初めて見た時は
本当に驚きました。
まさに北海道!
という感じですね


そこからの風景

でも

この道のすごさを堪能するには

全貌が見える一番東端まで行かないと
ダメです
ちょうど直角に曲がる所です

この日は、大学生くらいの4〜5人の男ばかりのグループが
感動のあまり、ここで大はしゃぎ

しまいには
ブーメランを飛ばすなど
訳のわからないことをし始めたので

早めに退散
ブーメランを飛ばすなど
訳のわからないことをし始めたので

早めに退散
そして向かったのは根北線の橋梁跡
「第一幾品川橋梁」

ここは「越川橋梁」とも
呼ばれているそうです。
「根北(こんぽく)線」のその名は、
根室本線の厚床駅から標津線の根室標津駅 、
そして釧網本線 の斜里駅を結ぼうという
大きな計画の名残りのようです。

昭和7年からあがったこの計画は、
厚床〜中標津(標津線:昭和8〜9)、
標茶〜根室標津(計根別線:昭和11〜12)が
それぞれ開業し標津線となっています。

斜里駅側からの工事も昭和12年に着手されたものの
戦争で中断
その後再開され、昭和32年11月に
斜里〜越川間が部分開業。

しかし
その後、越川から先は実現することはなく
昭和45年12月に廃止となり
わずか13年で消えることとなりました。

その背景には
過疎、バスの発展、自家用車の普及などがあったようです。

名前は根北線ですが
根北峠を越えることは無く
斜里駅〜越川駅までのわずか12.8kmの路線

今回見にいった橋梁は、その越川駅から先の部分です
つまり
1度も線路が敷かれることが無く、
そして使われることの無かった橋梁
ということになります。

根北線が姿を消そうという頃の当時の様子が
昭和45年のNHKの新日本紀行
「ある廃線 ー北海道・根北線ー 」 というタイトルで
放送されています。
大変貴重な記録です。
そのナレーションから、当時の様子がよくわかります。
番組からの抜粋でご紹介します。

「列車は、ホームに人がいれば停車し、
いなければ通り過ぎていきます」
「少しくらいの時間なら待ってくれる根北線、
地元の人は親切列車と呼んでいます。」
「1日2便の根北線、
100円の収入を挙げるのに2313円の経費がかかり、
国鉄全線の中で第2の赤字線です。」
「利用者は1日約100人、
車掌さんとはみな顔なじみばかりです。」
「開拓者が待ちこがれた根北線が開通したのは昭和32年のことでした。
しかし皮肉なことに
その頃から沿線の過疎化が進んでいたのです。」
「越川駅、開通後わずか3年足らずで無人駅となりました。」
「10年程前、越川駅周辺には10戸余りの開拓農家がありました。
しかし今は2戸だけです」
「赤字の根北線は、真っ先に廃止されることになったのです。」
「(さよなら列車には)550人の乗客、3両編成の列車、
いずれも根北線始まって以来のことです。」
「来年の雪どけにはレールが取り外され、
根北線は元の原野にかえります。」
「しかしその原野の中に、
人々はたゆむことの無い開拓の情熱を注ぐのです。」
根北線は元の原野にかえります。」
「しかしその原野の中に、
人々はたゆむことの無い開拓の情熱を注ぐのです。」
※青字は、ナレーションからの抜粋

このナレーションの中に
消えていった時代が見えるような気がします

それにしても
「親切列車」って、いい呼び名ですね

こうして背景を知ることで
この橋梁から、また違った多くのものが
見えてくるような気がします

この橋梁跡から少し戻った所にあったのが
これです

最初は越川駅関係の碑かな
と思ったのですが
調べてみるとそうではありませんでした。
※画像をクリックすると拡大表示します
「駅逓所(えきていしょ)」というのは
鉄道などができる前に、
開拓にやってくる人や旅をする人などに対して人足や馬を用意したり
宿を用意したりする所だったそうです。
郵便や貨物の運送などの取り扱いもあったようです。

碑文によると
明治27年12月に斜里山道の開削に伴い開設が認可され
昭和16年3月に廃止されるまで、宿、人馬継立、郵便など
明治・大正・昭和の三代に及ぶ開発拠点としての役割を果たした。
とあります。
また根室への護送囚人が泊まったりもしたそうです。
そして、この碑自体は
開道百年、斜里町開基90年、町制施行30年を記念して
昭和43年10月に建てられたもののようです。

この碑の横にひっそりと咲く花

きれいですね。
この時期、あちこちで見ることができました。
ということで
この日はこの後、網走まで行って
コインランドリーで洗濯
そして
道の駅「流氷街道網走」で車泊
網走川の河口、網走港の横にあるこの道の駅は
とても清潔感のある所で
快眠!
ということで
20日目終了!
※画像をクリックすると拡大表示します
すんません、「アルコール沸騰」ではなく、「アンコール・ワット」の現状を言いたいのだと思うんですが・・・越川橋梁はつるみんが全く興味のない「土木遺産」の中では結構面白いものだそうです。戦前は鉄筋が手に入りにくかったので、「竹筋」を代用に使った構造物(宮原線のアーチ橋とか)がいくつか造られたそうですが、ここのアーチはそれすら使ってない(竹は北海道にはない)純然たるコンクリートのみの構造物かつ未だに倒壊していない・・・。当時の土木建築技術の高さを示すものとして価値があるそうです。もっとも、列車を走らせたら、振動とかで耐えられないかも・・・ですが。・・・はじめっち
1970年に国道拡張で部分取り壊ししたけど、そのときには出なかった。でもあるかもしれないのが、「人柱」。斜里の博物館の冊子では、その事実は記されてはないけど・・・真相はわからないのだ。・・・ゆたか