というわけで
「2016 石川県・秋の白峰山中を走る! 1の②」です!

前回は白山市白峰の「堂ノ森」までお伝えしました。
で、次は
7年ほど前に見た「出作り」集落の分校
「河内谷分校」に行ってみることにしました。
白峰小学校の分校で、昭和41年の閉校です。
雪深い地なので
今も健在なのか、とても気になるところです。
また、そこまでのアプローチである大杉谷林道も
通行止めになっていることが多いようです。

とりあえず、林道起点まで行ってみることに・・
その前に
「出作り」について少しだけ・・
下の写真は
「石川県立白山ろく民俗資料館」で野外展示されている
再現された「出作り」家屋です。

この「白山ろく民俗資料館」は
「出作り」に関する資料が大変豊富で、
それに関した催しなどもよく開催されていて
大変参考になります。
で、
「出作り」を簡単に言うなら
「本来の籍のある村(母村)を離れて山中深く入り
そこで居を構え、
わずかな平地に拓いた常畑の他、焼畑
養蚕、製炭などに従事して営む山村の生活形態。
季節だけ山中に入る季節型と
年間を通して山中で暮らす永住型の
2つの形がある。」
ということになるでしょうか。
江戸の頃から昭和30〜50年頃まで
白峰だけではなく、
周辺地域でも広く行われていました。
下の写真は昭和30年代に撮影された、出作り小屋です。

白峰周辺の地域で
「出作り」という形態が盛んに行われていた背景には
この地域の厳しい自然環境や
地理的条件があったことは間違いないでしょう。
母村が
多くの人が暮らせる豊かな土地であるなら、
出ていく必要は無く
そこで十分生活できるはずです。
しかし
より生活条件の悪い山深い地に
あえて出ていかなければならないところに、
当時のこの地域の厳しい生活環境が
表れているように思います。
江戸期の白峰では
なんと8割が、出作りを行っていたのです。
中には、生活するのに条件が良く
やがて定住という形で定着していく所もありました。
下の写真は福井県大野市で定着した集落のものです。

小さな子どもたちが
鍬で作業をしているのがわかります。
そして、ブランコで遊ぶ子どもたち。
お父さんに作ってもらったのでしょうね。

出作りは、家族単位で山中に入って生活を営むので
そこには当然、子どもたちもいます。
深い山の中とはいえ
その子どもたちのための教育の場は必要。
それが、出作り分校
中宮あたり(旧・吉野谷村)の出作り分校については
昨年の「2015 富山の県境周辺を行く」の
このページでもご紹介しています。

※「白山ろく民俗資料館」企画展「「山の中の小さな学校」(2009年)より
旧・白峰村には、以下のように
全部で7つの分校がありました。
■白峰校区(5校)■
「大道谷(おおみったん)」「風嵐(かざらし:冬季)」
「明谷(みょうだん)」「河内谷(こうちだん)」「赤岩」
■桑島校区(2校)■
「下田原(しもたわら)」「赤谷(あかだん)」
しかし、その大半はもう姿は無く、
これから訪れる「河内谷分校」は
今でもその姿を見ることができる
貴重なものなのです。
その河内谷分校があるのは
手取川右岸の山の斜面
林道を通ると、近くまで行くことができます。
県道33号線から橋を渡り少し走ると
大杉谷林道の入り口が見えてきます。

この日は幸い通行止めの表示が無く
そのまま林道へ
ところが前回の記憶がきわめて曖昧で
どのあたりに分校があったのかが思い出せません・・
まあ走りながら思い出そうということで
それらしい所で下りて探してみるものの
見つからない!
違うなぁ・・
ここも違うか・・
と、どんどん進んでいくうちに
こんな風景に出合いました

そこで少し休憩
紅葉をほんのりと味わいながら
朝、南条SAで買ってきたパンで昼食をとります

食べながら
「前回はこんな風景見てないな・・」
「通り過ぎてしまったのかもしれない・・」
など考えたものの
もう少し進んでみることに

やっぱり違う

どんどんイメージから遠ざかる・・
ということで分岐点に出ました
一方は上に、一方は下に

「これはもう絶対に違う。行き過ぎてる・・」
と、ここで確信し、引き返すことに決定!
「ちゃんと調べてこいよ」と、いつも思うのですが、
こういうのも、知らない風景に出合えたりなど
なかなか楽しいものなのです。
そういえば、
林道内では1枚も写真を撮っていないと気づき
写真撮影しながら引き返すことに

後から地図で確かめると
どうやら、
起点から5kmあたりで引き返していたみたいです。

大杉谷林道自体は、まだまだ続くのですが
この日は河内谷分校がメイン!
そちらに集中します。
大杉谷林道は道幅も十分で
広葉樹が多く、爽やかで明るい雰囲気

紅葉にはまだ早かったのは残念ですが
タイミングが合うと
とてもきれいな紅葉が見られるのではないでしょうか。
こうした出作り地跡では
時々このような建物を目にします。

かつてそこに住まわれていた方が
後になって建てられたものもあるようです。
などしていると
それっぽい場所で林業関係の方がおられたので
うかがってみました。

すると
「そこにあるよ。」
と驚きのことば。
そして
「今、道は現場で通れないけど、そっちから行けるよ」
という、嬉しいことば。
以前来た時に
道を少し入った記憶があったので
その道らしきものを探して走っていたのですが
そこが工事というか車両が入っていたので
気づかなかったようです。
何はともあれ見つかったので
薮をかき分け入っていきます。
少し歩くと見えてきた木造校舎

閉校後は金沢工大の施設として使われているようですが
傷み具合や雑草の多さを思うと
今は、ほとんど使用されていないようにも見えます。

でも
閉校して40年も過ぎているのに、こうして健在なのは
再利用されていたからに他なりません。
下から見る限り
屋根もかなり傷んでいるようです。

校舎前の広場は、こうして雑草が高く伸びて
とても入っていく雰囲気ではなく


これは9年前の、校舎前広場の写真

草刈りもされていたようで
スッキリとした感じでした。
その時出会ったのが、こんな動物

静かなる森の住人!
カモシカは、出会うと
じっとこちらを見ていることが多いです。
可愛いですね
昭和30年代初め頃の河内谷分校です

屋根が茅葺きというのがすごいですね。
校舎は昭和37年に改築されていますが、
その時に今のような屋根になったのでしょう。
分校には
河内谷地区の子どもたちが通っていたわけですが、
出作り集落といっても
一カ所に集まって家屋があったわけではなく
かなりの広範囲に出作り家屋が散在していました。
遠い所は
学校から4kmほども歩かなくては
ならなかったようです。
こうした山道の中の登下校、大変だったことでしょう。
下の写真は昭和35年頃の河内谷分校です

※「白山ろく民俗資料館」企画展「「山の中の小さな学校」(2009年)より
ここは豪雪地域
冬になると大変な量の積雪があり
子どもたちは通学できなくなります。
ですので
高学年の子どもたちは学校に泊まり込み、
低学年の子どもについては
先生が家まで行って巡回指導をされていました。
ここに写っている子どもや先生方の中に
当時の記憶はどのようなものとして
残っているのでしょうか、
うかがってみたいものです。

『白峰村史』には
河内谷地区には、季節、永住あわせて
24軒の家屋があったことが記されています。
村史が昭和34年刊行なので
昭和30年代初めの頃の数字なのでしょう。
今は静かで
山仕事のチェーンソーの音が遠くに聞こえるだけですが
この山深い所にも
たくさんの生活があったんですね。
大杉谷林道を出た後は
せっかくなので周辺をウロウロ。

紅葉はまだまだで
緑色の中に少しだけ色づいた葉が見えるくらい

でも、こんなものに出合いました

多肉植物?!
名前はわかりません
よく見るとシジミチョウも!

こういう自然とすぐに出合えるなんて
本当にうらやましく感じます。
そして次は
これも出作り跡地のある、赤谷林道へ!
時刻はもう夕方なのですが
下見という感じで
少し寄ってみることにしました。
が
赤谷林道入り口には、通行止めの表示!

少しだけ行ってみます

すると碑が立っていたので降りてみました。

林道開通記念の碑のようですが
「赤谷林道開通記念
平成24年10月吉日
赤谷生産森林組合
古里をしのぶ集いの会」
と記されています。
出作りの集落「赤谷」を故郷とする人たちによって
建てられたもののようです。
この先もぜひ訪れてみたいのですが
工期中では無理でしょう。
それでは、裏技を・・
など
いろいろ考えながら
今日はこのまま車泊地へ向かいます。
宿泊地は「道の駅・瀬女」
駐車場も広く、大変清潔な感じの所です。

道の駅で夕食を食べようと思ったものの
時刻が遅く、すべて閉まっていました。
仕方がないのでコンビニへ
でも
コンビニは近くには無く、
ナビで探して7〜8km走りましたが
そこはすでに営業をしていないようで、
結局
「白山比咩神社」近くまで下りて
そこで夕食と明日の食事のパンを購入。
そして
再び20km弱の道のりを走り
車泊地「道の駅・瀬女」へ
10月の終わりといえ今年は暖か
夜も、そんなに寒くありませんでした。
敷き毛布をしいたマットの上で
毛布を1枚掛けただけで十分暖かく
快適に眠ることができました。
「道の駅・瀬女」、静かでとてもいい所です。
明日は紅葉を見に行ってみるつもりでいます。
ということで
「2016 石川県・秋の白峰山中を走る! 1の②」終了!
※国土地理院ホームページからのデーターを加工
画像をクリックすると拡大表示します
で
旅の1日目が終了!





















昭和30年頃のセピア色の写真を見ると、まるで自分が写っているかのようです。父にバリカンで刈ってもらった丸刈り頭、だぼだぼの薄汚れた服、無邪気な表情で突っ立っている子どもに、かつての自分を見るようです。
山の暮らしは、自給自足のようなものでした。何も無いから、欲しいものもありません。外の暮らしを知らないから、こんな所は嫌だとも思いません。子どもだから、将来を考えることがありません。
当時、子どもが大勢いました。学校で、放課後は地域で、身体を動かし仲間遊びに明け暮れて、一日が過ぎて行きました。
その後、燃料革命でガスが普及して薪炭が売れなくなり、木材輸入自由化の国策により林業が崩壊。山の暮らしが危うくなり出した頃、私は高校生になっており、精神的に「山」から出ていました。
あれから半世紀が経ちましたが、近頃何故か 昔の暮らしを思い出す機会が増えています。もっぱら家族のこと、母は早くに病死したので記憶になく、祖母と父のことです。
思い返すと、祖母も父も子供たちのためにずいぶん頑張ってくれた。(私が死んで、あの世で出会うことがあれば、しっかりと感謝の気持ちを伝えたい。)
誰もがお金が無かった。家族で助け合うしか生きられなかったのが当時です。
ところで白峰へは、私も3年前 紅葉の季節に訪れました。ダム湖のほとりのホテルに泊まったが、ヌルヌルの温泉・おいしい炉端焼き・感じの良い若女将と、印象の良い宿でした。地産地消の食材や障がい者の方の雇用と、経営の姿勢に感銘しました。
このブログで、谷トンネルの周辺に歴史があることを知り、また白峰を訪ねたい気持ちになりました。雪だるままつりの頃に・・・。
「出作り」、先日のNHK番組“資本主義”から考えると、フロンティアを求めた人々の行動だったのでしょうか?
それから、時代が流れました。