言葉にすると陳腐になる。
形にすると別の意味を帯びる。
けれど、言葉にしないと伝わらない。
形にしないと伝わらない。

だからこそ、言葉や仕事の精度はあげる必要があり、感受性の解像度もあげる必要がある。そして、それらの価値を高めるには行動することしかできない。届かない恐怖を乗り越えながら有言実行していくことのみが、吐いた言葉に対しての投資だ。

悲しいかな基本的に、思いは届かない。
言葉も届かない。1/3どころか1/10も。
そして10回告げるといよいよ陳腐になる。
そんな風にできている。

そういう伝達のギャップを、意思の不疎通を乗り越えるためにまた、言葉を磨いたり、行動に踏み出したり、その作業が終わらないでいる。

目の前の人を笑わせたいときに、それが叶うのは、開花のように尊い。
性器の呼称や便の呼称だって連呼するし、変な声や顔も出し惜しみしない。
必要とあらば。

言葉にすると陳腐になる。
形にすると別の意味を帯びる。
通り過ぎていく事象や光景を同じ言葉で咀嚼できたら、その瞬間はあれだ。
陳腐にいうなればしあわせというやつだ。