エロゲ文化私観

エロゲを今一度捉えてみよう

”夏”と言う意匠

『終夏~乙姫~』。
Skyfish『キスよりさきに、恋よりはやく』に使用されるBGMの曲名の一つである。
その音もさることながら、この曲名にゾっとする程の感動を覚えた。
因習の残る地と、盛夏を過ぎた舞台が織り成す世界に、”終夏”という単純な一言が強烈なまでの”夏”への意識を
想起させうるものであったのだ。
この”終夏”という新たなる概念こそ、キーキャラクターである”乙姫”に付された意匠そのものなのだ。
初夏でも盛夏でも晩夏でもない、夏に縛り付けられたものを解き放つ存在として。

得てして、夏を舞台にした作品の多くは夏に縛り付けられる。
【恒例】「夏のエロゲ」TL 2011-06-11
夏のエロゲ(旧世紀)
”終わらない夏””夏休み”といった存在が中心になって、”夏”の特異性が伺われる。
夏には”ループ”が存在する。
それは、rakanka氏の言う”夏はまあ、何かとSEがループ。蝉の声とか、波の音とか、夏休みのラジオ体操とか。”も強烈に意識させられる要因ではなかろうか。(波の音というのは夏特有とは限らないので賛同しかねるが)
特に”蝉の声”というのは強烈だ。
初夏に鳴き出すニイニイゼミという蝉がいる。
木肌の色に近い体色で、体長も小さい、そんな蝉が夏の始まりを告げるように”ジー”と長い音を出し続ける。

[翅を半開きにして「チー…ジー…」と繰り返し鳴く。鳴き始めは「チー」が数秒、急に音が高く大きくなって「ジー」、数秒-10秒ほどで緩やかに「チー」へ戻り、数秒後に再び「ジー」となる。]


字面では捻りの無い間延びした音のように見えてしまうが、実際には二つの音が反響を起こすかのように波打って彼らの声は聞こえてくる。それが木々に覆われた空間で何匹もの声の重なりを耳にしたら如何だろうか。
抜け出すことも適わぬような強烈な空間が発生する。
都市部で響くアブラゼミの声も、建物、路地、それらに反射し、何処より聞こえてくるのか判らなくなるような特異性があったりもする。

音だけではない、視界も歪められる。
アスファルトから立ち上る陽炎だ。
”ゆらりゆれる夏の陽炎”という、Circus『水夏』のオープニングの歌い出しが有名だろうか。
しかし、その舞台の多くは舗装路ではない。そこまで濃密な陽炎というのは”夏の静寂”には相応しいが、
非舗装の道からは立ち上ることは無い。
だだ広く、人も車も通らないような地平線すら見える舗装路こそ濃密な陽炎に相応しい。
陽光に白む視界に、前後を遮る陽炎。そこにはやはり、特異な空間が出現する。

蝉、陽炎、桜、あるいは紅葉。季節の盛りを迎える世界が放つ事象はすべからく特異な空間を生み出すと言える。
それを作品上に描き出す事で、その作品は季節の盛りを迎える世界が放つ事象の特異性を色濃く受け継ぎ、
あたかもループを見せるかのような所感を構築するのではないだろうか。
その上で、ループがあるとすれば、それはその濃密な世界から受けた所感を具に現した結果とも言える。

舞台を強烈に描き出すというものの弊害、とでも言おうか、そうした作品には多く、
”その舞台がその色に染まる情景以外を想像出来ない”という観念が付きまとう事がある。
例えば、『グリーングリーン』シリーズなどその典型ではなかろうか。
『恋のスペシャルサマー』『ダイナティック』、どちらも全寮制という学園を活かした”夏”の舞台である。
しかし、『ハローグッバイ』は、一転、季節を秋へと変え、それまで築き上げてきた”鐘ノ音”という舞台への別れと共に”想像しえなかった舞台”を演出する。
永遠に続くとも思われた山奥の学園は”秋”を以って終わらせる事しか出来なかったのだ。

つまり、ADVにおいての夏の意匠の観点は、夏自体の特異性というよりは、舞台に選んだ場が舞台になる季節以外を想像出来ないという部分に多く関わるのではなかろうか。
前述の”鐘ノ音”しかり、例えばねこねこソフトの『ラムネ』、『そらいろ』、あの街が夏色に染まる他の情景を想像出来ないのだ。
”描かれていないから”と言ってしまえば元も子もないが、それを”描かないこと”が舞台を強烈に映すことでもあろう。
秋の失われた『きっと、澄みわたる朝色よりも、』などは、秋が現出する事で”環”が現れる。
強烈な季節の出現は、その盛りを維持せんかの如く力を持つ。
だからこそ、その力を突破するだけの強力な”言葉”が必要になるのである。
まさに”終夏”のような。

樹木と鬼―樹の下に舞う少女達

発端は、Frontwing『グリザイアの果実』における、風見一姫の”鬼”発言からである。

彼女が理性を失い、交わり人を食らう人となった存在を差し”鬼”と呼ぶ場面がある。
やあ、果たして、それは”鬼”だろうか?と疑問をいだかざるを得ないものだったのだ。

作中で、あれだけの智恵を発露させていた一姫が”鬼”という言葉を安易に使うとは思えない。
その背景には、その数シーン前の会話が踏襲されているのだろう。
専門用語や難解な問答を繰り出す一姫に対し天音が辟易する会話があった。
急場に際して、一姫は単純で判り易く、逃げる必要があるものとして、”鬼”という言葉を使ったのであろう事が推測出来る。

さて、本題は『グリザイアの果実』における”鬼”の問題ではなく、文芸的意匠の”鬼”という概念である。

現在使われる、”鬼”という言葉には、実に多くの文化的概念が関わっている。
一般的にイメージされる童話世界の鬼は、仏教文化の”羅刹”の姿に相当する。
”悪鬼羅刹”という言葉が示すように、その実態は恐るるものとして、凶悪な力を持つ者としての概念だ。
次に、フランス語の”Ogre”(オーガ)の訳語としての”鬼”。
巨体と強烈な力を持ち、人を食らう怪物である”Ogre”を日本語へと変換しようとした時、何より妥当であったのが”鬼”という存在に他ならなかった。
注目したいのは、ある種の”神”あるいは精霊的存在としての立ち位置を得ている、本来的な日本語文化における”鬼”の概念だ。
その実、”鬼”と書いて”かみ”と読ませる事例も多く、単に悪性の存在してのみ描かれるものではなかった。童話世界の中では、どうにも人間味に溢れる、あるいはコミカルな”鬼”の姿が描かれる事もしばしある。

”鬼”の語源の中に”隠”(おぬ)という言葉があり、そこから、鬼とは本来見えざる存在であるという説もある。
これに関しては、”見鬼”という言葉が何よりそれを示している。
キャラメルBOX『とっぱら〜ざしきわらしのはなし〜』では、主人公がこの”見鬼”を持つ存在であり、その前提で物語が描かれる。
同作では、殊にこの”見鬼”という現象に対して様々な見地からその解釈を描いている事も興味深い。
この”見鬼”という力は、その字の如く”鬼が見える力”である。
登場するのは”鬼”ではなく”妖怪”なのだが、つまるところ、そうした存在を一括りにでき得る言葉として”鬼”が用いられているのだ。
”妖怪”という言葉を持ち出せば、その存在の広さは伺い知れる。

そうした中で”鬼”が登場する作品とは、”鬼”がなんらかの目的、あるいはなんらかの思惑を抱え、敢えて姿を見せる作品であるという事だ。

以前の記事である『文学的系統樹上の桜』における、その桜の抱く美観、その根底に渦巻くどろどろとしたもの、おぞましいものが、姿を現すとすれば、それは間違いなく”鬼”であろう。


坂口安吾『桜の森の満開の下』
”八人目の女房をまた街道から亭主の着物と一緒にさらってきました。女の亭主は殺してきました。山賊は女の亭主を殺す時から、どうも変だと思っていました。いつもと勝手が違うのです。どこということは分からぬけれども、変てこで、けれども彼の心は物にこだわることに慣れませんので、そのときも格別深く心に止めませんでした。山賊は始めは男を殺す気は無かったので、身ぐるみ脱がせて、いつもするようにとっとと失せろと蹴とばしてやるつもりでしたが、女が美しすぎたので、ふと、男を斬りすてていました。”
”男は悪夢からさめたような気がしました。そして、目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。”
”女が美しすぎて、彼の魂がそれに吸いよせられていたので、胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです。なんだか、似ているようだな、と彼は思いました。似たことが、いつか、あった、それは、と彼は考えました。アア、そうだ、あれだ。気がつくと彼はびっくりしました。桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました。”
”男は満開の桜の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷たくなるようでした。彼はふと女の手が冷たくなっているのに気がつきました。俄に不安になりました。とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。突然どッという冷たい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。”


美しい女に魅入られる山賊、桜の満開の下に渦巻く不気味さと、女の美しさに吸い寄せられ波立つ不安にが同調して行くのが描かれる。

梶井基次郎『桜の樹の下には』では、その美しさを”死”と結びつけて描き出そうとする。


”お前、この爛漫と咲き乱れてゐる桜の樹のしたへ、一つ一つ屍体が埋まってゐると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしてゐたかがお前には納得が行くだらう。馬のやうな屍体、犬猫のやうな屍体、そして人間のやうな屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のやうな液をたらたらとたらしてゐる。桜の根は貪婪な蛸のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちゃくの食糸のやうな毛根を聚めて、その液体を吸つてゐる。”


屍体、それも腐爛した見る事も近寄る事も躊躇われるような屍体から抽出される水晶のような液体、多くは屍体の血を吸い上げて紅く花弁が染まっているというような解釈が流布しているが、そうではなく、盛りを迎える満開の桜が、”生き生きとした、美しさ”の裏に観念を超える存在がある事を描き出しているのである。
しかし、この”屍体の血を吸い上げて”の誤用がありながら、さも美しく描き出していたのはWitch『片翼の天使』であった。
主人公は女優の母親を持ち、自らも役者として生きたいと思いつつも迷いを抱えている。卒業を間近に控えた中で、近所の公園に爛々と咲き乱れる”呪われた桜”として噂される”紅桜”の下でいづなという少女を目にする。
この登場シーンがとにかく印象的に描かれるのだ。紅桜の下で花びらを纏いながら扇を手に舞い踊るいづなの姿はまさに観念の”鬼”であった。
パッケージ画像にはその姿が存分に描かれる。片翼が花びらへと溶け、両手を桜の根に縛られたいづなの姿は、まさに梶井の描こうとした度し難い美しさの背後を美しさのまま描いた姿のように見えてならない。
また、その名の通り”呪われた桜”として噂される紅桜には人が寄り付かず、坂口安吾が書く

”桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。”

怖しいばかりの桜の樹の下を作り出している。
しかし、その下に現れ出るのは『理想の終末と崇高』にあるように、輸入され変化したその姿を取った”鬼”となる。
幽鬼の神秘的な謎めいた美しさと、純粋な少女としての美しさを併せ持つ”鬼”として現出する。
そして、その”鬼”は桜だけに留まらず、”美しさの盛り”を備えた様々な樹木と共に描かれるようになる。
例えば、Propeller『きっと、澄みわたる朝色よりも、』における若や、ぱれっと『もしも明日が晴れならば』における千早、NOA『落ち葉の舞う頃』における鈴鹿、等が挙げられる。
彼女達は”鬼”でありながら”少女”であり、その姿は様々な姿の意味を孕む”鬼”と呼ぶに相応しい存在だろう。

formalismの為の一考察/『失われた膜を求めて(仮)』

formalismの自己言及性において、その同時の表現を確立するためのform下のcontentを考察してみよう。

第一に、ADV/NVLにおける文章構造の独自性が形成される形態を仮定する。
・選択肢による物語の選択性
選択肢が存在することにより、複数の物語を内包する事が可能なのがADV/NVLにおける独自性の一つになる。
プレイヤーは恣意的にテキストを選択し、その選択に沿って読み進めることになる。

・ループ構造
仮にテキストの構造が[1-2-3]という順序で表象されているとする。
[3]においてループの起点が用意されていれば、テキストの位置は[1]へと戻る事になる。
しかし、そこで表象される[1]は構造上において[1']で無ければならず、なんらかの変化を含むものとなる。
書籍・小説において言えば、構造上は[1']であっても、そのテキスト自体は[4]という番号が振られていなければならない。
ADV/NVLにおいてはその表現が構造上の[1']テキスト上の[1]という表現が可能になる。

また、ループという構造において、[3]のループの起点に置かれる”ループされるものの対象”の問題が存在する。
およそその対象は、”時間・空間””記憶・認識”の二つになる。
”時間・空間”においては、そのループはタイムリープと同様の意味を持つことになる。
このループにおいては、[3]までの事象・事物への影響全てがループする事になる。その時、その対象として”記憶・認識”を含むか含まないかという選択もする事が出来る。
”記憶・認識”を含まないループの多くが、ループの起点において起きた事への回復・改善の為のループとなる場合が多い。
含まれる場合は、何らかの鍵によって”認識・記憶”を取り戻すか、あるいはループする事で変化するもの、そこに上乗せされた狂気や崩壊などが描かれる。
対象が”記憶・認識”に限定された場合、人物の記憶や認識、意識上の時間や事象がループし、[3]までの事象・事物への影響はその時空間の中ではループしない事になる。
この場合に描かれるのは認識や意識、仮想現実、集団洗脳などの要素となり得る。


ADV/NVLのformalism的な独自表現への追求はこれらが鍵となると言える。
(Nitro+『アザナエル』が為した先進的構造については別記事を用意したい)

さて、ここに”エロゲ”という概念を上から被せてみよう。
エロゲの多くがADV/NVLという形態を取っている、つまり前述のformを持った上で、さらに”エロゲ”という概念が付いてくる事になる。すると、そこに現れるのは既にADV/NVLのformを取り込んだ、概念表象的な”エロゲ”の姿となる。
「性的表現の含まれるADV/NVL」という姿だ。
これが所謂”コンセプチュアルなエロゲ”というもので、その形態における自己言及性から逃れた上で存在するものとなる。
http://twitter.com/#!/wrydread/status/17934619483570177
現在、"コンセプチュアルなエロゲ”の姿は当たり前の物となっていて、ましてそれが悪性のものであると言う事は全く無い。
さて、ではこの土壌の上でその意識がformalismへと向かうとしたら何が出来るのか、今回の思弁はその方法の考察である。

『失われた膜を求めて(仮)』
ニコ生のえろげ大学美学科の講義によって提示した”エロゲ”のコンセプチュアルな面を回避する”性的描写の必然性”を形態に仮定したものである。
その概要はありふれた学園モノの姿を取らせておく。
プレイヤーは一周目、なんの変哲も無い学園モノADVを味わう。
登場ヒロインが3人いたとして、その内2人はごく普通に結ばれエンディングまで辿り着く。
問題は残り一人。この残った一人のルートに一つ仕掛けを用意する。
それは、そのヒロインの会話や反応から推測でき得る”処女性”を用意し、実際のHシーンにおいて”非処女”を描写する。
その際、破瓜の痛みなどが無い事を様々に理由を付けて誤魔化しを入れ、ルートはエンディングへと向かう。
エンディングの後、タイトル画面あるいはスタートすることで変化を齎し、ループの描写を開始する。
ループの対象は前述における”記憶・認識”にあり、描写された”本来初めてであるはずのHシーン”は”記憶・認識”のループにより、幾度も起こったであろう事象の一つとして捉えさせる。
形態下におけるテキストの中に、同一の表現が許され、綿密な性的描写が必要となる、エロゲにおける独自性を生み出すことが可能となる。
更に、”記憶・認識”へのアプローチのいくつかを、変成した後の物語の各ヒロインへと割り当てる事も、グランドエンディングを用意し収束させる事も出来る。
実作が可能となれば構成が困難ながらかなりの表現を内包することが可能になるだろう。