エロゲ文化私観

エロゲを今一度捉えてみよう

エロゲ大学

formalismの為の一考察/『失われた膜を求めて(仮)』

formalismの自己言及性において、その同時の表現を確立するためのform下のcontentを考察してみよう。

第一に、ADV/NVLにおける文章構造の独自性が形成される形態を仮定する。
・選択肢による物語の選択性
選択肢が存在することにより、複数の物語を内包する事が可能なのがADV/NVLにおける独自性の一つになる。
プレイヤーは恣意的にテキストを選択し、その選択に沿って読み進めることになる。

・ループ構造
仮にテキストの構造が[1-2-3]という順序で表象されているとする。
[3]においてループの起点が用意されていれば、テキストの位置は[1]へと戻る事になる。
しかし、そこで表象される[1]は構造上において[1']で無ければならず、なんらかの変化を含むものとなる。
書籍・小説において言えば、構造上は[1']であっても、そのテキスト自体は[4]という番号が振られていなければならない。
ADV/NVLにおいてはその表現が構造上の[1']テキスト上の[1]という表現が可能になる。

また、ループという構造において、[3]のループの起点に置かれる”ループされるものの対象”の問題が存在する。
およそその対象は、”時間・空間””記憶・認識”の二つになる。
”時間・空間”においては、そのループはタイムリープと同様の意味を持つことになる。
このループにおいては、[3]までの事象・事物への影響全てがループする事になる。その時、その対象として”記憶・認識”を含むか含まないかという選択もする事が出来る。
”記憶・認識”を含まないループの多くが、ループの起点において起きた事への回復・改善の為のループとなる場合が多い。
含まれる場合は、何らかの鍵によって”認識・記憶”を取り戻すか、あるいはループする事で変化するもの、そこに上乗せされた狂気や崩壊などが描かれる。
対象が”記憶・認識”に限定された場合、人物の記憶や認識、意識上の時間や事象がループし、[3]までの事象・事物への影響はその時空間の中ではループしない事になる。
この場合に描かれるのは認識や意識、仮想現実、集団洗脳などの要素となり得る。


ADV/NVLのformalism的な独自表現への追求はこれらが鍵となると言える。
(Nitro+『アザナエル』が為した先進的構造については別記事を用意したい)

さて、ここに”エロゲ”という概念を上から被せてみよう。
エロゲの多くがADV/NVLという形態を取っている、つまり前述のformを持った上で、さらに”エロゲ”という概念が付いてくる事になる。すると、そこに現れるのは既にADV/NVLのformを取り込んだ、概念表象的な”エロゲ”の姿となる。
「性的表現の含まれるADV/NVL」という姿だ。
これが所謂”コンセプチュアルなエロゲ”というもので、その形態における自己言及性から逃れた上で存在するものとなる。
http://twitter.com/#!/wrydread/status/17934619483570177
現在、"コンセプチュアルなエロゲ”の姿は当たり前の物となっていて、ましてそれが悪性のものであると言う事は全く無い。
さて、ではこの土壌の上でその意識がformalismへと向かうとしたら何が出来るのか、今回の思弁はその方法の考察である。

『失われた膜を求めて(仮)』
ニコ生のえろげ大学美学科の講義によって提示した”エロゲ”のコンセプチュアルな面を回避する”性的描写の必然性”を形態に仮定したものである。
その概要はありふれた学園モノの姿を取らせておく。
プレイヤーは一周目、なんの変哲も無い学園モノADVを味わう。
登場ヒロインが3人いたとして、その内2人はごく普通に結ばれエンディングまで辿り着く。
問題は残り一人。この残った一人のルートに一つ仕掛けを用意する。
それは、そのヒロインの会話や反応から推測でき得る”処女性”を用意し、実際のHシーンにおいて”非処女”を描写する。
その際、破瓜の痛みなどが無い事を様々に理由を付けて誤魔化しを入れ、ルートはエンディングへと向かう。
エンディングの後、タイトル画面あるいはスタートすることで変化を齎し、ループの描写を開始する。
ループの対象は前述における”記憶・認識”にあり、描写された”本来初めてであるはずのHシーン”は”記憶・認識”のループにより、幾度も起こったであろう事象の一つとして捉えさせる。
形態下におけるテキストの中に、同一の表現が許され、綿密な性的描写が必要となる、エロゲにおける独自性を生み出すことが可能となる。
更に、”記憶・認識”へのアプローチのいくつかを、変成した後の物語の各ヒロインへと割り当てる事も、グランドエンディングを用意し収束させる事も出来る。
実作が可能となれば構成が困難ながらかなりの表現を内包することが可能になるだろう。

『ライト化と学問的方法論』:エロゲ文化概論01 補足

学問から見るエロゲ。
解釈のライト化を超えて、要素を理解し、作品の魅力を深める事、これが趣旨の一つ。

講義内で少し紹介した、XANADU『ひめしょ』サキサカサキ考を例に。
”地球を捨て宇宙へ展開した”サキサカの姫といして登場するが、問題となるのは、
身体の8割を機械化していると言う点だ。
その中で本来、機械化した体を持つという概念が当てはまる”サイボーグ”または”義体”という言葉は使われない。
トワノアキヒトが彼女を呼ぶとき、そして子供たちが彼女を呼ぶとき”ロボ”という言葉を使う。
勿論、そこに”変形”や”自爆”という行動をさせる為の既定付けとも取れるが、それ以外の意味も込められている。

さて、講義で取り上げたのは呼称の問題以上に、身体の機械化に付きまとう諸概念の存在だ。

”・・視覚、聴覚、嗅覚、触覚・・全て機械化しているけど、味覚だけは生身、つまりアナログセンサーのままなのよ・・。
(中略)生身の感覚を面白がっているだけよ・・。まぁ、趣味・・と言うのが、一番近いかしら”


まずは、この台詞。
さて、この”味覚”、そしてそれを趣味と言い換えている。
さて、シナリオライターの藤崎竜太氏がカントによる観念論美学を存じていたかまでは知れないが、
この、味覚=趣味という展開はまさに、その観念論の所産である。
当時の植民地の拡大により、ヨーロッパには数多くの新しい味覚が入り込んできた。
その中で、高級品となるそうした新しい味覚をもたらすもの、それを手に入れられるのは貴族階級に
限られていた。
そうすると、貴族間で新しい味覚を多く知るもの、そうした人を、”味覚ある人”と言い、
見地のある人として扱われた。
その下地があり、所謂低級感覚として貶められていた”味覚”という概念が観念論の中で地位を上げてきた。
さて、それが芸術と結びついたのは、ブリア・サヴァラン『美味礼賛』との関係である。
サヴァランによれば、舌が味を判別するには水や油といった液媒が必要になると言う。
そうした媒質を経て、味覚と言う”質料性”が現出する。
さても絵画では、顔料を水や油で溶くという行為がある。絵画において、色彩は質料性に与るものである。
この二つが結び付けられて、フランス語では絵具を作ることをCuisson(料理)と言う。
またアトリエをCuisine(キッチン)と言ったりもした。
味覚と言うものが質料性の判断に与る、色彩的芸術における美的判断の感覚として評価されたのだ。

さて、当のサキサカサキがこうした”趣味の人”であるのかどうか、と言うことだ。
この後彼女は「感情すらも電気信号」と言う。実態としての感情の動きそのものは確かに電気信号であるのだが、
それを認識するという点において彼女は異なる視点を持っている。
彼女は性欲の発散はどうするのか?という質問に対し、脳に直接刺激を与え性欲を発散させると言う。
性欲は情動にならず、信号として発散されるのである。
前述の場面で彼女は”味覚ある人”という既定を仄めかしながら、口にしているのは菓子パンや惣菜パンといった、
安価な食品を大量に採っているのだ。
しかも、それがいつもだと言い、また、摂取は何でもいい、そして、量によって”人間ではない”異常性を出す為だとしている。
味覚という感覚を生身として趣味判断と結びつけた後、恣意的に乖離させているのだ。

更にその後の場面、

”ある日、貴方がデパートでエレベーターに乗ろうとして、ボタンを押してドアが開いた時、中に・・ザックリと切り落とされた人間の手首があったらどう思う?(中略)手首ではなく、腕が一本丸ごと落ちていたら?その腕と一緒に、足が・・そうね、付け根から丸々一本落ちていたら?(中略)エレベーターの中の首は、人間部品?それとも死体?人間は、どこまで体を欠損すると死体と呼ばれるの?”


事故に巻き込まれた子供を救出する為に自らを欠損させてしまった彼女を修理するシーン、
そして彼女とのHシーンの後に、この中々に練りこまれた台詞が展開される。
「エレベーターの中の手首」というシュルレアリスム的文脈、その中において、何処までが”人間”となるのかを問うている。
これが客観性においては、彼女をどこまで”人間”と認識するか、そして主観性においては、どこまでが自己の体であるかという認識、
ジャック・ラカンの”鏡像段階”における自己同一性の議論にも関わる。
彼女自身はさして”人間”という面を強調したい訳ではない、その事も、”僅かばかり残った人間としての部品の存在を理由に、人間ですよと言い張っている人形”という言葉から知ることが出来る。
ここに”サイボーグ”という言葉を使わない意義がある。
サイバネティクスの創設者であるノーバート・ウィーナーの論文にに
”サイバネティクスの領域は、物理学・生理学・技術的システムに限られ、”人間”という側面は当初より強調されていた。”という記述がある。
人間でないことへの強調は、このサイバネティクスとかけ離れているのである。
更に言えば、彼女の対立存在として登場する双子の妹、サキサカシキが、人間の弱点の補強を重視し、出来るだけ生身のパーツを残すという、言うなればこの”サイバネティクスの理念”に合致した存在として描かれる。
尤も、この言葉にはもう一つの意味も込められているのだが…。

さて、さらに読み込もう。
前述、性欲の発散についてが提示されていた。サキとのHシーンにおいて、彼女は絶頂する。
それは信号としての発散ではなく、情動としての発散という事になる。
ここで持ち出されるのは、ピュグマリオン・コンプレクスの概念である。
象牙のアフロディテ像に恋し、ウェヌスの神に祈り希い、像にそっくりな、まさに理想としての女性を手に入れるという伝承だ。
さて、問題は、この伝承に関わる解釈の一つとなる『百科全書』「ピュグマリオン」項、(シュヴァリエ・ド・ジョクール著項)
”この王が誰か石像のような冷たさをもった美女を感じさせる手段を見出した物だとも考えられよう”
に示されるよう、一種、女性の不感症的性質からの回復とも取れる部分にある。
『感覚論』において、エティエンヌ・ボンノ・ド・コンディヤックは、大理石の立像を仮定し、それに五感を与えてゆくことによる精神能力の感覚への帰着を証明しようとした。
五感、そのうちの4つを奪った訳ではないが、所謂デジタルセンサー化し、味覚も処理の段階において信号として処理する乖離、つまり、
この段階においてサキサカサキは間違いなく”ロボ”であり、彼女が言う”人形”なのである。
さて、絶頂を迎えた彼女はその刺激が”強すぎ”た事により、機構がEMCと誤認、一時的な機能停止に陥る。
この段階において、ロボ(人形)→人間→ロボ(人形)という変化を起こしているのだ。
その上で彼女自身が自覚したように”人間と言い張っている人形”と言うのである。
彼女が人間と人形という境界を漂う存在とされている、するとさらに別の概念が出現する。
切断、そして人形とすれば、それは人体、ハンス・ベルメールにしてみれば女性身体を恣意的に区切る、
誇張する、分離する、そうして作られる"人形愛”である。
ピュグマリオン・コンプレクスと逆位置に存在する概念である。
人間を人形のように押し込めて愛情を持つということだ。所謂”お人形さんみたい”という言葉にそれは集約されるが、
サキサカサキは切断、それも宇宙環境対応テストとしての恣意的な機械化という事を持ち出し、自らを”人形化”する。
だからこそ彼女は主人公に向かって”人間扱いすることで愛するのはやめてほしいわ・・ある日突然・・私がロボであることを思い出して・・
急に冷めてしまうような愛情なら要らないのよ・・”
と言うのだ。
あくまで彼女は自らを”人形”として愛することを提示している。
さて、主人公はそれでも彼女を”人間”としてみようとし続ける。そこへサキサカシキという”人間”を強調した存在が登場しても、である。
だからこそ、最後には決別が用意されているのである。
主人公は”手首だけでも生き続けることが出来る、成長することが出来るならば、それは人間だと思う”として、答えを出す。
そして”出来るだけ、目玉の一つ、舌の一枚、でも構わないから、出来るだけ多くサキサカサキを残してほしい”と言う。
主人公は最初から、この点において規定を間違っているのである。その事が明かされENDとなるのだが…、これは果たして、
HAPPY ENDなのかという疑問を残したまま閉じられる。

これが、講義内で少しだけ触れたサキサカサキ考の全体である。
美学的問題、そして文芸的問題にも切り込みながらそれらを解釈するという事である。
今回において、テキストが主体ではあるが、その対象が音声や背景、演出であってもいい。
現に、TRUMPLE『失われた未来を求めて』を進めている中で、音声による言語学的意匠に気付く事が出来ている。
こうした解釈を希求するというのが本項の趣旨である。

エロゲ大学講義資料01:エロゲ文化概論『ライト化と学問的方法論』

本記事は「エロゲ大学 文学部美学科」の講義資料です。
学部コミュニティ:http://live.nicovideo.jp/watch/co529768

第一回講義資料『ライト化と学問的方法論』
・ライト化は常に行われている

文学も芸術もすべからくライト化する。
サン・テグジュペリ『人間の土地』という書
[民間郵便飛行の最中、砂漠に不時着。その最中から「私を探し不安に駆られる人々を、私が助けてやる」という極限と生を見せ付ける]
この、彼の”勇気”と解説される部分と、飛行を持って得られた彼の人間観や自然観が描かれる。
さて、これがライト化すると『星の王子さま』(le petit prince)になるのである。
『人間の土地』で見られる彼の目にした自然の有様が、ぼくと小さな王子を通して語られる。
彼が”子供のころのレオン・ウェルトへ”とした、この事こそライト化の一種だろう。

cf.ライト化の対義語とは…?
『本格派』…所謂カジュアルに対する意味があるが、その中で「気軽に楽しめる本格派」という背反を持ったような宣伝文句も用意される。

芸術においても、ライト化という動きが為されている。
芸術の主軸をパリからニューヨークへ移そうとする最中、興隆を見せたポップアートの世界だ。
大衆・生活の中に見出されるその表象を芸術へと転化したものだ。
その姿はやがて、その網膜的な芸術的志向を加速させ、ミニマルアートなどの分野を起こして行く。
モダニズムがもたらした芸術の自己撞着が、自己反復という形で現れた。
資本主義・産業革命以降、市民階級の財力や利権の上昇で、ターゲットと言うものがシフトしたからこそ起きた事にも結び付く。

これが表現によるライト化の必然性となる。
門戸・入り口を広げる為、ターゲティングの移行故のライト化だ。

ライト化の効用は受容者の増加による解釈の多様化だが、同時に大衆への迎合による、
流行のフィードバックも受けることになる、また、流行そのものをターゲットにする。

ミニマルアートがその単純な構成から流行したとして、その作品の数々に惹かれる人々が居たとする。しかし、その系譜や歴史、どのような発展をどのような文化・価値観の中で育まれて来たか、という点において、美術史や芸術学へのアクセスを持っていないと中々触れることもなく、そして目の当たりにしたとして尻込みするのである。

ちょっと判りやすく・・・
たとえば”料理”に関する専門店があったとする
1Fには誰しもが使う、包丁、まな板、さしすせその調味料、小さいスーパーにもありそうな調理器具や調味料が安価で置いてある。
レジ前のスペースには「毎日のお弁当」とかそんな具合のいわゆる簡単な料理の本が置いてあるのもいい。
2Fには少し踏み込んで、特定の方面の料理でしか使わないような調味料、スパイスやハーブ、醤など、それから普段は中々使わない調理器具。
寸胴、中華包丁、せいろ、などなど…、
3Fになると今度は業務用キッチンシステムの展示や各地料理に関する理論書籍。それこそ、酒類醸造の専門書籍や文化背景から考察した味と文化・気候などとの関係の論述書、サヴァランの『美味礼賛』『味覚の生理学』なんかもあってもいいかもしれない。

つまり踏み込む、という事。
1Fでは日常的に買い物できるだろう。
すこし料理に懲りだすと2Fに足を運ぶようになるかもしれない。
でも3Fにそのまま行ってみて、そのフロアの内容にすごすごと退散をすることになる。
そのまま踏み込んで書籍の1冊や2冊を目に留めたりする猛者もいるにはいるのだけれど…。

普段楽しんだりする分には1Fの領域でも何の問題も無い、
しかし、理論化したり事由を求めると3Fの領域からのアプローチが必要になる。
尤も、キッチンにおいては業務用と家庭用では系列が異なるのだけれども・・・
近年のシステムキッチンは意外と店舗内設置用の動線を意識したのもあるとかないとか

1Fの段階で1Fで扱っている器具・調味料の事由を探る、もしくは2Fも踏み込んだ上でソレを為すとして、
いわゆる実践的経験に基づくもの、また生活上の知恵としての解釈という段階にとどまる。
つまり、エロゲ上でこれを為すと、エロゲ的方法論上での帰結は導き出せる。
あの作品はこうだった、この作品もこうだ。

つまり、解釈自体がライト化するのである。
そう、芸術学の概念でこれを説明すると”図像学の第二段階:伝習的主題”の段階に留まる。
学問的方法論を用いると言うことは図像解釈学の第三段階「内的意味・内容」を為すことにあたる。
Kunstwollenを読み取るということなのだ。

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cf.図像学・図像解釈学
第一段階的・自然的主題 primary or natural subject matter
事物及び表現。描かれた対象や色彩など、目に見えるもののレベル。(例)母親らしき女性と子供を描いた絵であることや、穏やかな表現であるといった認識。

第二段階的・伝習的主題 secondary or conventional subject matter
絵画作品の表すイメージや物語、寓意のレベル。パノフスキーによれば、このレベルが図像学の範疇になる。(例)聖母子を表していることの理解(キリスト教美術の知識がない者には、それが聖母子を表していることは全く理解不能である)。

「内的意味・内容」intrinsic meaning or content
作品の奥底にある歴史意識、精神、文化などのレベル。(例)中世とルネサンスの聖母子像を比較し、背後にある宗教観、世界観の変遷を跡付けること。
作品を「内的意味・内容」から把握することがイコノロジーの最終的な目標である
(『Wikipedia』)
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Kunstwollenとは”芸術意思”、その作品の表現したいもの、その作品の思索の及ぶべき事象、まさに内的意味、図像解釈学における到達点という事だ。
もちろん、この文脈で出してきたということはソレが図像解釈学だけの領分に与るわけではないというのは察することが出来るはずだ。