September 25, 2005

若者の右傾化について

若い世代が右傾化しているという議論があり、それは気分として共有されつつあると香山リカはいうが、はたしてそれらの論議それ自体が実は気分でかたられていはしないか?ここでは「右傾」といわれる言説の内容を分析し、形式的な側面についてみていく。

AERAの2004年8月の記事に20代が現実主義的なナショナリズムに傾きつつあることが指摘されているが、その内実をみてみたい。問題は「右傾化」の内容だが、憲法や戦争などから見られるのは左派の擁護する価値に対して反対する若者が右傾化しているということだ。つまりここでの「右傾化」は「反左化」を指す。つまり「右傾化」があいまいな印象に基づいた議論だということだ。

そもそもモデルとしての左派・右派は再分配政策を支持するか否かの対立である。つまり「性別役割分業」下のシステムで、個人に対し不利な状況を、国家がサポートすべきであると考えるのが左派、家族などの伝統的互助を要求するのが右派である。その観点から若者を分析すると、世界青少年意識調査の2003年データは72.6%が「自国人であることに誇りをも」ち、過去25年ほとんど変動がない。また日本青少年研究所は2005年の調査で、国家に対して64.6%、国旗に関して56.5%の高校生が「なんとも感じない」と回答。このようなデータは若者の「右傾化」と直接的に結びついていない。では若者の「ニッポン」へのコミットメントはどう説明されるべきか。

北田暁大は、ナショナリスティックに見える振る舞いの背後には、マスメディアに対するシニカルな目線を向ける「アイロニー」という形式の果てに登場する「ロマン主義」であるという。2ちゃんねるなどに見られる右派的な主張は、マスコミが言わない真実をさがしもとめるロマンチックな志向だというのだ。インターネットでは、すべてのコミュニケーションが、他者とのつながりのためのネタとして消費されるような態度の前景化に求められる。ネタによって接続される祭りが「右傾化」の本質である。しかしではなぜ「右寄り」とみなされるネタが好まれるのか。祭りの内容である。

まず、なぜ反左的議論が中心的な主張のようにみえるのか。2つの人質問題に関連した自己責任論の発端は2ちゃんねるや個人BLOGでささやかれた自作自演説である。イラク派兵の正当性をめぐる問題のなか、脅迫ビデオに対し「日本語が聞こえる」「映像を作成した機器が高価なものであるようにおもえる」などの疑問点をあげ、事件の不信感が高まり、また迷惑をかけたとかの議論に終始し人質や家族に対してバッシングが行われた。この流れを幾人かの知識人が、日本における同調圧力の強さ、若者とインターネットの右傾化をその原因として私的した。また、北朝鮮拉致被害者家族が日朝首脳会談から帰国したさい、家族会に対してのバッシングがおき、批判の矛先はあたかも逆方向を向いたようで、お上に対する批判を許さない風潮が蔓延しているとする主張にきりかわった。

この両者に共通する契機はなにか。それは「お上への権利要求に対する批判」である。国家に対して権利要求をせず、個人の責任で問題解決に当たれという立場は、サッチャー政権などの新自由主義政策に近い。しかし、大切なことはこれがネットを通して意識として、一般の個人に対するバッシングー私刑として顕現したことだ。

ネット上の個人攻撃はCBSのダン・ラーザーやCNNのイーソン・ジョーダンの例がある。日本の場合、権力対抗型の祭りよいうより個人が個人をたたく祭りが多く見受けられる。これでは単なる弱者たたきだ。事の真相や正当性は関係なく、問題はネット上において「私人が己の正義感に従い私人を裁く」ことが可能である点だ。ここではその内容に価値的な判定を下そうとしているのではなく、そのコミュニケーションの形式的な水準についてだ。なぜ、私人による私刑が関係ない人たちに共有され、拡大していくのか。

アメリカの憲法学者キャス・サンスティーンはインターネットには「集団分極化」の傾向が強く見られるという。つまりAを主張するグループが、反Aの主張に耳を傾けることなく「異常さ」を誇張し、結果として中絶反対論をより強固にしていくという現象だ。さらに集団分極化は「サイバー・カスケード」(人々の意見が、なだれのように一様な方向へと向けられる現象)に接続されがちであるという。つまりネット私刑をめぐった現象も、ある種の正義感を共有する人々がサイバーカスケード(祭り)に乗じて、自身の価値を現出させた結果生じたものだとみなせる。これは個人にだけでなく、「反中」などの公的な範囲にもむけられることもある。

重要なのはこれが「私的な感情から発露された公的なオピニオン」だという点だ。これはnew movementに代表される、私的な意見の集約が公共性を帯びるという事態だ。しかし、ここではその形式に注目されるべきだ。つまり、「糾弾ー謝罪要求」という左派のパターンがこの原動力になっているのではないか。

次に不寛容が生じる要因について。「リスク論」、すなわりリスクを賭した選択が要求される社会の台頭において発生した個人化の肥大化が他者への不寛容へとつながる回路を生成しているという点だ。国家に対する権利要求が批判の対象となる背景には、他者とのリスクをシェアすることに同意しない人々による、国家の責任、社会の責任を問う人々に対する嫌悪感が影響しているのではないか。

まとめとして、事の本質はむしろ、リスク社会における、「ゆがんだ左派の自画像」にある。このように左派的な形式による反左的主張が実際に右傾と呼びうる帰結を導くかは、これからの課題である。

鈴木謙介 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員助手
世界 7月号 若者は「右傾化」しているか の要約  
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September 21, 2005

中国の非対称外交

中国において、政府代表者やシンクタンクの論客、それに大学研究者たちが使う「安定」の意味を理解するには、常に変化し続けるこの国の現状という文脈において考える必要がある。それは、硬直を意味しない。

孔泉報道局長は「中国は、安定した、発展に繋がる近隣関係の促進を望んでいる」と説明、復旦大学の核問題の専門家沈丁立教授も安定をいう言葉を頻繁に使う。ちなみに、彼の考える不安定のもとは石油輸入先の中東。

沈教授のいう「現状維持外交」とは、中国政府にとって、経済成長計画と世界的野心(中国に与えられてしかるべき地位)を妨げかねない混乱よりも、アメリカ中心の既成秩序のほうがまだしもという考えに基づいている。

中国外交の動力は経済や原料、穀物の確保だけに基づいていない。中国にとって経済は中国が世界の中で思い描く大きな自己像の一部である。強い経済力がなくては主張さえ不可能だ。

中国の歴史は、三期にわけて考察できる。第一期は、天安門事件に関連し、反体制的な政治活動を禁じた。ただし、知識人にとっては、逆に活動の自由が広がった。外国向けに支払った代償は大きく、一例として西側諸国による対中禁輸がある。アメリカとの関係も悪化し、アメリカは日本との関係を強化した。

二つ目の重要事件は、ソ連崩壊だ。中国外交筋は、世界が二つの陣営にわかれていたことにより多大な出費を引き起こしたと見る。孔局長はアメリカ一極世界においてアフリカやラテンアメリカの国々との関係の重要性を強調し、「我々は多くの発展途上国とともに、国際機関の民主化という問題意識を持っており、発展のわかちあいが好ましく、また問題は制度にしばられず交渉の精神で解決されねばならぬ。」と述べている。

中国政府の意図は、多極世界の構築の中で第一級の影響力を行使することである。実際、中国は11世紀から17世紀の歴史上、ヨーロッパが支配により民族・文明の滅亡を繰り返したのとは逆に、それなしに栄華を極めた。

三つ目の重要な出来事は、90年代のアジア金融危機をうまく利用したことだ。国際通貨基金からの圧力をはねつけ中国は発展の機会を失わなかった。さらに、人民元の相場がドル固定だったため、アジア地域の安定回復に低率の融資や援助などの一定の役割を果たした。

胡錦濤主席の提唱する「4つのノー」、「覇権主義にノー、力ずく政治にノー、ブロック政治にノー、軍拡競争にノー」という自らの弱点を意識する中国政府は「非対称外交」と呼べるような外交を展開している。それは二国間関係を重んじつつ地域の国際機関への積極的参加、全方位的に経済関係を強化しつつ過去の領土問題を縮小するという、機動的な外交である。

ロシア・インド・朝鮮半島

中国政府はロシアとは、2005年6月2日にウラジオストックで、東部国境に関する協定に調印、2005年4月11日、インドのシン首相と中国の温家宝首相が、1962年以来対立の種となってきた国境問題の解決に向けた議定書に署名し、双方との公式な外交を築きあげている。
また人口大国インドとの間の自由貿易圏の提唱をとおし、印パの紛争に対しても中立的になったと楊保ユン教授は断言している。平和的台頭の兆候はこのほかにも、北朝鮮とアメリカの間の危機への介入や、六者協議の発案者としてみられる。
北朝鮮に関してはさまざまな意見があるが、積極的な外交を展開するため同盟政策を修正する心得もあることをみせつけた。

日本との関係の悪化

楊教授は過去30年の間にこれほど両国関係が悪化したことはなかったという。歴史教科書問題や靖国参拝は、中国人の占領下でおこったトラウマを挑発するには十分だ。

また尖閣の領土問題、米日の軍事協力強化への批判もある。大阪大学の坂元一哉教授は、日本はアメリカの保安官代理としてオーストラリアにとってかわろうとし、21世紀におけるアメリカ国防構造の柱の一本になったと考える。日本国憲法の見直し、イラクへの部隊派遣、米陸軍第1軍団司令部(太平洋とインド洋における軍事作戦を担当)のアメリカ西海岸から東京南郊のキャンプ座間への移転などが論拠となっている。

さらに、中国は直ちに拒絶したが、アメリカは日本の国連安全保障理事会の常任理事国入りを支持している。中国政府は、インド、アフリカ諸国を味方につけ、勝負に勝てると考えている。

決定的なのは、台湾が日米安保条約の対象に明記されたことだ。中国の対応は防御的なものだが、反撃を示唆する発言もある。2008年のオリンピック開催直前に、台湾が独立宣言するのを恐れている。中国の指導部は、対中投資を行なった8000人ほどの台湾人企業家が台北に圧力をかけている。一方ブッシュ政権はこの同盟相手の独立気運を抑えにかかり、日本も動きを控えるようになった。

中国の前途

あるもと外交官は、中国と日本の力関係は逆転するが、アメリカとの関係において、銀行家の役割から降りてドルを売ると脅したとしても、日本がドル防衛のために介入すると述べる。

日本がアジアの政治大国になろうとすれば、中国は多国間期間に活動の場を広げている。(2001年WTO加盟やASEANの足場固め)また2001年の上海協力機構も設立時に比べ政治性を帯びてきた。

アメリカの研究者デヴィッド・シャンボーがいうように、大半の国が中国を良き隣人、建設的なパートナー、話を聴いてくれる相手、恐怖感を与えない地域大国とみているが、新しい発展モデルとして、外交問題評議会(アメリカ)と外交政策センター(イギリス)のメンバーであるジョシュア・クーパー・ラモが示唆するような「北京コンセンサス」は存在するのか。この国の輸出の3分の2は外国企業によって占められているのである。

中国は外国の研究所を有利、企業を買収し高級商品にシフトしようと躍起だが、目下、脆弱な金融制度のために不安定であり、生産・輸出とも他大国・アセアンに依存している。

周辺的には、ヨーロッパの仏独関係のような中日関係を夢見る専門家もいるが、アメリカは地域の権力の委譲を進めても、地域大国の出現を日本であれ、中国であれ受け入れそうにはない。

中国がさらに前進するには、何らかの魅力的な文化がなければ影響力を行使できないとする人もいる。そのためには西洋のコピーではない価値観を作る必要がある。そのような公共の議論の場をつくり、政治的な自由を作らなければ、中国は自らを封じることになると考える人もいる。

マルティーヌ・ビュラール特派員(Martine Bulard)
中国が展開する非対称外交 ル・モンド・ディプロマティーク編集部
訳・岡林祐子
2005年8月

の要約  
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September 19, 2005

中国・反日デモに関する視点

上智大学比較社会学のジェームス・フェラーは、デモに参加した後まとめたレポートにおいて、デモに参加したグループには4つの異なる政治的主張が含まれていたと報告した。それらは、日本人に対する侮辱的な表現をするものから歴史問題をめぐる穏健な国際的連帯を求めるものまでであり、過激派は決して大多数ではなかったという。

6月号の中央公論で、岡本行夫は「愛国教育によって培われた集合的な反日感情が、臨界点をこえた」と述べているが、この正当性は疑わしい。たとえば、2003年のアジアバロメーターでは、中国国民に対する質問で日本の影響に関して、「よい」「どちらかといえばよい」と回答しているのは29.7%で「悪い」「どちらかといえば悪い」と回答しているものが39.8%、「どちらともいえない」が30.4%と、全体的に悪い影響を指摘する声が多いが、20歳代に限定すると、数値が27.2%, 26.5%, 26.5%と、好悪の判断が逆転する。これは岡本の主張を弱める。
また2004年の中国で対日イメージ調査を実施した志明(中国社会科学院新聞)によると「好き」「どちらかといえば好き」と回答した割合は28.5%と2001年の調査に比べて10ポイント以上高く、これも岡本の主張をいっそう弱めている。
明らかなことは中国の若者が年配者に比べ反日感情が弱い、ということである。
日本人の誤った意識は、日本が攻撃されているという印象を、メディアが繰り返し強調したからであろう。

次に、中国における新しい中華意識に関してである。10年ほどの間に中国で急速に経済発展が進むなか、「アノミー*1」が生じている。改革・解放以前は、階級史観に基づくイデオロギーが支配し、共産党の統治を可能にし、社会主義の「先進性」が、問題をイシューにしにくい心理的構造をつくりあげていた。また、敵意・憎悪の念を表出することができなかった。このような要因が1972年の日中国交回復を可能にしたといえる。
ところが、小平の南巡講話以降の経済成長が、伝統的な考え方をかえ、価値観の多様化が起こり、新たなイデオロギーが必要になってきた。
他方で、「中華世界の統一」「振興中華」の考え方、江沢民・前共産党総書記の愛国主義が、市場経済化で急速な変化をとげる人々の倫理となっている。フェラーは「現在の中国で愛国主義に反対することは、イランでイスラム教に反対するようなものだ」と述べた。

そのほかに重要なポイントとして、対外的な強国に対する愛憎二重心理の存在がある。中国は世界大戦の戦勝国として常任入りを果たしたが、日本に勝ったという高揚感はおろか、賠償を得ておらず、文化革命により経済的に遅れている。結果として日本からの「より高い精神的補償とより高い道徳的な期待」を求めている。一方日本は敗戦をアメリカへの敗北と考え中国に負けたという実感に乏しいうえに、中国に対する被害者意識も薄く、謝罪を繰り返しおこなうことにたいする心理的抵抗がある。この悪循環は、90年代の中国の経済発展と日本の「失われた10年」において、両者のメンタリティーに微妙な影をおとしている。つまり共産党による反日デモ弾圧が一時的に奏功したとしても、歴史問題が存在し続ける限り、再発の可能性が高いことを示唆している。

最後のポイントとして、徳治主義について。上海でのデモ参加を呼びかける電子メールのビラには愛国主義的心情に訴えつつ、広州や北京に匹敵するデモ活動を期待する心情が述べられている。文化革命の研究者S・シャークは、運動に参加した学生たちが自らの「道徳的正しさ」を競って表明しようとし、それを個人の栄達に繋がると考えていたことをつきとめ、それを徳治主義(virtuocracy)と表現している。これが、「才徳兼備」を掲げた共産党政府が正面きって反論しにくくしている原因と考えられる。文革に比べ今回の動員数ははるかに低い。価値の多様化のなかでは、大量の動員は難しい。

現在の中国で完全に自由なデモができない状態であることから、政治的パトロネージがあったと考えるものもいる。実際、胡錦涛はデモを奨励し、曽慶紅がこれに反対するなど、政治局常務委員会の中で対立があったという報道もあり政治的背景は否定できない。しかしこのデモの場合、デモの最中に市民によって携帯電話や電子メールでも参加呼びかけがなされ、規模が膨れ上がっていたことにユニークさがある。インターネット人口の増加に伴い、言説空間は広がったが、監視を通り抜けた過激な言語が横断幕に現れた。これにより「チャイナリスク」を感じる日本人は増えたが、それは、中国政府の統治能力に対する懐疑と、強い取締りに対する待望を生み、中国において自由な言論空間を抑圧する危険性をもつことは、指摘されるべきである。中西輝政は、アジアの平和にとって一番有効な言葉は「中国の民主化」「言論の自由、人権の尊重」であると指摘する。日本人は、今回の行動に新たな目をむけ、これからの世界を一緒に考えようとせねばならぬのではないか。

ナショナリズム・ゲームは過激化するほど互いの正当性を強調していく。日本は、過激なナショナリズムの台頭をいさめ、日中共同で行うプロジェクトを積極的に推進すべきだ。他方で中国も、違法行為の再発に勤めるとともに、レイシズム的発言をすることの道徳的誤りを強調すべきだ。


*1 アノミー:社会学の概念で、旧来の社会規範や価値観が動揺・崩壊することによって生じる行為や欲求の無規制状態

以上、世界7月号に載った園田茂人(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)『「ナショナリズム・ゲーム」から抜け出よ』の要約
  
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September 18, 2005

Mr. Mrs. Smiths

アンジェリーナ・ジョリーとブラット・ピット。ハリウッド映画特有のセクシーとアクションがついてくるのは期待通り、でも二人が拳で殴りあうさまは見ていて画面がぴりぴりいうほど気持ちよい。夫婦のブラックなウイットが、少し意外性のあるストーリーに乗って、切れのよいさっぱりした後味。

2005年

お勧め度
★★★☆☆  
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September 13, 2005

春暁ガス田開発問題

東シナ海の春暁ガス田の開発問題には二つの争点がある。ひとつは、日中領国の大陸棚の境界線として、中間線を採用するとした場合、鉱床が海底地下に中間線をまたがって広がっている可能性であり、一方の開発により、他方の資源が吸い取られる形で開発されることである。二つ目の問題点は、日中韓の大陸棚の定義をめぐる主張が食い違っていることである。
国際法上では、アメリカのトルーマン大統領の大陸棚開発をきっかけに、1958年に海洋法会議で大陸棚条約を採択し、これを水深200メートルまでの海底、それを超えたら開発可能なところまでの海底と定義した。
この法の秩序は、長続きしない。問題点に、新たに独立した発展途上諸国かたの批判、そして、海洋開発技術の発達があげられる。
1982年に新たな海洋秩序が採択される。国連海洋法条約は、領海の幅を12海里、その外側に排他的経済水域(EEZ)を200海里を認めた。EEZには、管轄権行使の権限と、生物資源の保存措置の義務を課している。
この条約の大陸棚の定義において「領土の自然の延長」という概念がある。それは大陸棚の外縁が大陸縁辺部の終わるところであるという意味である。これが中国側の主張の根拠である。
では中国側に正当性があるのかというと一概にはいえない。そもそも国連海洋法条約は、境界画定は国際法にもとづき合意により行うとされている。

国際司法裁判所の事例には以下のようなものがある。
チュニジア・リビア大陸棚事件
カナダ・アメリカ メイン湾海域画定事件
リビア・マルタ大陸棚事件
ヤン・マイエン海洋境界画定事件
カタール・バーレン海洋境界事件

これらからいえることは、境界画定の基準はあらかじめ特定されているわけではなく、個々の事例の事情が具体的に考慮されている、ということである。
なお、大陸棚の境界線をまたがって存在する鉱床の問題は、先例があり、判例としては2国間協定の締結がある。これは主に、効率的な開発と得られる収益の配分について合意に到達することを約束する内容であり、具体例としては、1965年のイギリス・ノルウェー、同年のオランダ・イギリス間の協定などがある。

以上は田中則夫氏(龍谷大学ロースクール教授)が世界8月号に載せた記事を要約  
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August 29, 2005

The Island (2005)

パールハーバーやアルマゲドンの監督マイケル・ベイの作品。Lost in translationで日本人にも人気のスカーレット・ヨハンソンやどことなく知的で若い表情のイワン・マクレガーが出演。基本的には よくあるアクションムービーであり、現代生物テクノロジーに対するシニシズムもほんのり見られる。ストーリーは典型的だが、まあまあ面白いので、休日などにゆっくりみにいくのもよいとおもう。


お勧め度
★★★☆☆  
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November 25, 2004

ある身近な人の手記

香田君を忘れない

香田証生君が武装勢力に拉致され、残忍極まる蛮行の中で殺害された。絶望的な恐怖と、抱いたに違いない深い後悔の念。その辛さは安全圏にいる者の想像をはるかに超えたものだったろう。

小泉首相の「テロには屈しない、自衛隊は撤退しない」との即座の反応は、およそ文明的なものではなく、逆に武装勢力を挑発するものだった。そこには、占領軍によって日々殺害されているイラク人への配慮もない。 

同じように、武装勢力に拉致され軍隊の撤去を要求されたフィリピン政府は、苦渋の末に、人質の救出こそが国益を守ることだと判断。男性は解放された。

二者択一を迫られた中で日本政府は、自衛隊の駐留継続か、香田君の救出最優先か、日本の国益を守る道はどちらなのか。両者を同等に対立させ、まじめに検討した経過が無い。自衛隊の撤退がなぜテロに屈することになるのか、即座の説明もない。

香田君の殺害を多くのイラク人は心を痛めているという。イラクの無辜の子どもたちを日々殺害している米軍に協力するため、自国民を犠牲にした日本政府の姿勢に対する驚きの感情に包まれているという。

イラク・ファルージャでの米軍の見境のない総攻撃で、2,000人ものイラク人が犠牲になったという情報がある。後ろには大変な数の負傷者がいるのだ。この米軍の攻撃を小泉首相は、「成功させないといけない」と発言した。

日本と世界の平和を願う国民にとって、撤退させたいのは自衛隊ばかりではない。<11月18日>

この方はあの事件に同じように心を痛めて、手記を書いてくださいました。この手記は別の紙面で公開されましたが、わたしのBLOGでも紹介させていただきました。  
Posted by eloundamigio at 20:54Comments(0)TrackBack(2)日本のこと

November 21, 2004

KRASI

krasi19歳の夏休みブルガリアの友人宅に数週間滞在した。クラシーは舞台女優の母と大統領の同僚の父をもつ友人マリアの乳母で、当時は50平方M程度の小さなアパートにアンとデヴィの娘二人と住んでいた。クラシーとは美しいという意味らしく、当時40半ばの彼女の昔の写真を引き出してきて「見て!とてもきれいだったのよ」と20前半の娘たち。彼女のベッドは1M四方の小さな小さな台所に置いたベンチ。数年前乳がんを患っており片方の胸がなかったし、髪の毛も生えていなかったから、ウィッグを使用していた。みたことがないくらい貧しくて、惨めで、最初初めてマリアに連れられてお邪魔したときは、怖くて、居心地が悪くて、何話しているのかもわからなくて、マリアに「クラブいこうよ・・」って囁いた。それで終わってしまえば、この女性を知ることはまずなかっただろうし、思い出に深く残ることもなかった。今でも彼女らに対してステレオタイプ持ち続けていたかもしれない。
クラシーはきっとそんな私の困惑の顔をはっきりと見たに違いない。微笑んでわたしの頬にキスしたあと、手を引っ張って中に入れてスープはいかが、と聞いてきた。おなかは空いていたんだけど、中りたくなかったから、必死で断ったのだけど、みんながクラシーのスープは世界一と自慢するので断りきれず頂いた。どうだったか、ときかれれば、もちろんあたらなかったし、うわさ通りで今でもまたあのスープ飲みたいのだけど・・。
クラシーとわたしは全く共通の言語がなかったけれど、マリアが肝心なところは通訳してくれたり、自分も4,5日もすると、単語を拾えるようになってきていた。何よりも明記すべきは、クラシーの英語の上達振りだった。クラシーにとって、わたしは見たこともいったこともない異国のストレンジャーであったに違いないのに、意思疎通したい、という気持ちが想像できないほど強かったのかと今改めて思う。彼女の英語は日進月歩の勢いで上達し2週間もたつとマリアなしで意思疎通できていた。当時私は、意味がわからないとわかろうとする前に、は?と怪訝な顔をしてしまう傾向があって、そういうときクラシーはにこにこっとして腕をつかんで力強くさすってくれた。そのクラシーの心、想像するに・・。毎回帰るときは、もうちょっといなさいと、腕をぎっりしつかまえて、マリアが反対側の腕を引っ張ってふたりでまた明日も必ずくるから、と約束してようやく離してもらえた。階段の下の闇に消えてみえなくなるまで「チャオチャオ、明日ねみうちゃん」と見送ってくれたその姿。ダンスを教えてもらったり、特別にあなたのためにスープつくったのとご馳走してくれたり、大きなタペストリーを数日間で作ってくれたり、彼女のそのときの心想像するや・・。
数週間後、イギリスに向かう前にお別れの挨拶に行った。大きなタペストリーや彼女手作りのテーブルクロスを渡して、絶対にまたブルガリアに戻ってきてくれと号泣して、しっかりと抱き合ってお別れを言った。また会えると思って。でもクラシーは知っていたのだろう。
アメリカに帰ってから彼女の内臓が癌におかされていることをマリアからきいた。医者はあと2ヶ月の命と伝え、アンとデヴィのもとに帰ってきたという。キャンパスにクラシーから勉学に対する励ましの言葉や将来に期待しているという、長い手紙が届いた。ノート3枚に青いペンで力強い筆圧で書いてある。マリアと二人で電話で話したその数日後、クラシーはアンの膝の上で全身の激痛の苦しみの中で死にたい、死にたいと叫びながら息をひきとった。
無名のクラシー。今は亡き、貧しいクラシー。深い心のクラシー。わたしはとんでもない人にあってしまった。彼女を忘れることはできない。  
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ベネルクスの極右と移民

移民問題はヨーロッパ人一般の間で感情的論理が展開されている面がある。ベルギーでは、移民排除を高らかに掲げて、活動してきたフラムス・ブロックは、いまや野党第一党として政府批判票を集めたといわれ、去年6月の地方選では全体の4分の1を集めている。驚くべきことは、580万人の全フランダース人のうち、100万人近い人がフラムス・ブロックに投票したという事実だ。つまり、投票が義務であるベルギーにおいては、成人の4分の1がフラムス・ブロックを支持しているということである。彼らは選挙のたびに伸びている。

フラムス・ブロックは拠点であるアントワープを皮切りに、都市部で強い。これは移民が主に都市部に集中することと関連がある。わたしは極右に寄せる心を支えているものは、恐怖であるとおもう。バンダリズムや道でたむろするギャングたちに対して、政府が十分な施策をとらないままであったり、アラブ系移民が集団でコミュニティーをつくって経済的力を蓄えてきていることに対しての反発的な票が極右に流れているのではないか。極右政党は、移民の排除を感情にうったえるために、様々なことをいう。社会保険を無駄遣いしているとか、雇用への影響、治安悪化との単純な結びつけ。問題だと思うのは、バンダリズムを見聞きした、不信に駆られた人々の一部は、冷静な見方を失って、単純な極論に耳を傾けてしまう、ということだ。

ベルギーが法的政策を見習ってきたオランダにおいて状況はもっとひどい。極右政治家のピム・フォルタインが2002年に左翼系白人のオランダ人によって暗殺された事件やコーランを全身に書いたアラブ女性を映画で描いたヴィンセント・ヴァン・ゴッホの子孫であるテオ・ヴァン・ゴッホが過激派イスラムによって暗殺された事件が象徴的な事件として取り上げられている。驚くべきことは、今年行われた、オランダ全史における一番印象にのこる人物にフォルタインが選ばれている。一部の過激派の異常な行動が、批判のやり先におかれ、群集がモスクを焼いたり、反社会的な行動を行っており、そのことにより一般の間にも移民たちに対する不信は高まっている。

移民問題には同化についての議論がある。ベルギー・フランダースでは移民たちに対し、言語教育(オランダ語)を熱心に行っている。例えば、オランダ語をマスターするための授業は各市で無料で受けられる。それにも関わらず、一世、そしてベルギーで生まれたジュニアの代に及んでも、まともにホスト国の言語を読み書きできない移民が多い。そのようなことでは当然、学校でもよい成績が取れるわけがないから、テクニカルコースに通って中退してしまったり、或いは外で時間をつぶすようなことになってしまう。ホスト国の言語を全く、或いはきちんと話せない移民たちがそのことについてどう考えているのか、わからない。これを個人的な責任だけになすりつけるのは浅いし、実際構造的な問題、政府・地域・学校・家族に言及して議論され必要はある。しかし例えもし移民たちが経済格差などに基づいた自分たちの権利を主張したとしても、現地に長らく住んできた人々を感情的に刺激しては、理解を取り付けるのは難しい。移民にとって、新しい土地は第二の故郷なのである。

先日、ベルギーの最高裁は、フラムス・ブロックの党規約の一部を人種差別<レイシズム>な表記を含んでいる為違法と判断した。同党は全ての外国人の排斥を掲げる内容から、同化すればよい、と柔軟なものに変化し、党の名前もフラムス・ブロックからフラムス・ブラン(フランダースの利益)に変更した。しかし、党の顔ぶれは同じであり、基本的な思想の変化があったと考えるのは間違いで、この表向きの柔軟化がかえって彼らの更なる進出に寄与したとするコラムがいくつか書かれている。最高裁で、フラムス・ブロックは言論の自由を盾に主張したが、それが受け入れられなかったことに怒りをあらわにし、街頭で口周りに赤い布を巻きつけ抗議している。彼らが自由に言論を行うことについて、権力が圧力をかけたのは事実である。しかしそれでも、人種差別的思想を含んだ発言が、おおやけに広くレイシズムである、と認められたことは大きな意味がある。

一部の過激な行動に引導され、お互いを知る機会をみすみす逃し、一般人の不信は募っている。異なる価値観、異なる文化、異なる風貌、異なる言語、このような違いを乗り越えるためには、やつらを排除するしかない、そんな過激な思想が小さな恐怖に基づいた反発として多くのオランダ人やフランダース人の有権者の心を捕らえてしまっていることに憂慮している。自分の心の中にある、ほんの少しの不信が社会に与えている影響について、ひとりひとりよく考えてみなければいけない、と思う。  
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November 11, 2004

戦争と平和の狭間

人質殺害の事件から10日、まだ考え続けていることに対して、自分でもわたしはどうかしてしまったのではないか、と思ってしまう。長時間考えるうちに、そんなに頑丈な体ではないから身体的に辛くなってしまって、へろへろになって脱力感を味わう。森林が見渡せる一番日当たりがよくて暖かい場所にピアノをおいて奏でてみたり、具をたっぷり入れてお寿司を作ってみたり、背中の真ん中まであった長い髪をばっさりと切ってみたり、髪の色を少し明るくしてみたり、レノンのイマジンを聞いてみたり、様々な手を尽くしてとにかくこの事件から一時遠ざかりたいと思うのだけど、あのときから、あの悲痛な動悸が、胸のあたりでどくどくなって止まない。エッセーがあるのだから一時でも解放しないとという強制に似た言い聞かせも、あの事件以来わたしの体を縛り付けている縄を断ち切ることができない。

この事件を通し、わたしは今の日本社会に蔓延する、自己責任と叫ぶあの空気を深刻に受け止めなくてはいけないのではないか、と思うようになった。遠ざけるにしては、あまりに大きくてあらわすぎた。そしてあまりに冷酷になりすぎてしまった。

わたしは、一般人の世界の狭さに驚くことが昔からしばしばあった。イラク戦争直後「世界人口が増えすぎたから戦争は仕方ないんだよね」と話す50代の男性。「アメリカは馬鹿だからね〜、小泉はブッシュのプードル」と口癖のように言う10代の女性。彼らの判断の基準となる情報は、あまりにも少なすぎて、単純すぎる。或いは沢山インプットしたのかもしれないけど、うまくアウトプットできてない。

また、ひとりひとりが立場を明確にし、その発言に責任を持たせていないと思うときもあった。ちょっと小難しそうなことを言っても、やはり考えつくしてなくて、穴が開いてしまう。中途半端で、あとは感情にものを言わせてしまう。戦争反対という人の意見、戦争で解決しても仕方がないと言う人の意見、両方精通しないと議論できないし、互いを理解していくうえで法や歴史の知識を無視してはやはり足りないだろう。未熟なわたしに偉そうなことをいわせるのは気が引けるけど、問題だと思うから、言う。わたしは多分知識もそんなにないけど、少なくとも意見を述べるときは細心の注意を払わねばと考えている。同じせりふを万人の前でも繰り返せるように。例え、その意見が全く想定していなかったどこかで負に働いてしまったとしても、きちんと説明できるように。

わたしの立場と言えば、わたしは多分いろいろな意味で恵まれている。消費税を20%にしたところで生活苦に陥るような損害を受けることもないだろうし、自衛隊がどこにいって戦争に巻き込まれようが、自分の家族や友人が死ぬわけではないし、都庁の展望台にカジノを作ればそれなりに楽しめるだろうし、男女差別をする教育から逃げることもやりたければ可能だろうし、そういう意味では自分の欲望を基準に意見することも、しないことも容易にできる。しかし、同時に地球規模で貧富の差が広がりつつあるという事実、日本人外国人関係なく戦争で誰かが死に誰かが一生悔やんで暮らす事実、環境問題が表面化している事実、それらを事実として知り、自分が生きている間に、彼らが生きている間に、少しでも緩和することに貢献する立場を貫きたい、人権を尊重したいと思う欲望がある。それがわたしの発言の原動力となっている。

そういう自分と他人への理解を前提に踏まえながら、自己責任を口にした日本の人間をどうしても理解することができないでいる。人はここまで単純になれるのか、ここまで透明人間のような、神のような存在になれるのか、と。

もはや理解する自信はゼロに近いのだけど、彼らのことを考えずにいられない。

全体的に一般的な日本人は香田さんのような人間を理解できないのかな、とも思う。日本の大人社会では、純粋な好奇心みたいなのは、価値が見出されにくいかなとも思う。マネーや、ものや、良い学歴や、身体美や、権力に価値を置きがちでいると、香田さんのあのようなリスクをとるのは到底理解できないだろうし、リスクをとってしまって殺害されたものを見て、とんだお馬鹿のお話ということになる。もし、無知な自分の憶測が少しでも当てはまっていたら、日本社会で狭い門を通り抜けて「勝ち組」になったという人たちも、「負け」て自己否定の過程を通った人たちも、狭い価値観に固執して、身内ないで排除しあうのかな、とその自滅的発想にかなしくなってしまう。

あるいは、想像力の低下。大江健三郎が、原爆の子の千羽鶴が若者によって焼かれた事件に言及して、想像力の枯渇を指摘している。先日毎日新聞でちらりと読んだのだが、香田さんの殺害シーンをみて怒りを感じ残虐性を繰り替えしてはいけないというような短い記事があった。全体の趣旨には共感できたのだが、わたしは驚いた。殺害シーンを見たと、筆頭で触れたことに。この方は、映像を掲げているわけではない。内容を描写しているわけでもない。でもわたしは、実際に人を殺さないと死を理解できない子供たち、首切りシーンをみて残虐さを再度認識する大人たち。何か共通するものを感じてしまう。(殺害シーンをみる動機の根底には、恐ろしいもの、醜いもの、非日常的で超現実的なものをみたいという好奇心のみがある。犯人特定の必要があった人間以外がそういうものをみる動機というのは好奇心でしかない。)人の残虐な側面は、今に始まったことではない。人にそういうシーンを見たい欲求があることは否めない。その欲求を利用してグロイ写真を集めて広告費を稼ごうとか、小銭を稼ごうなんていう人が出てくるのも、そういうことが可能な社会である以上、わたしには何もいう権利がないし言いたいとも思わない。ただ、日本人のジャーナリストが、日本人青年の殺害シーンをみた、と公言することに、わたしは香田さんの味わった屈辱やご両親の身もさけるような痛みを想像してしまって、あまりに鈍感でないか、とおもってしまう。心から香田さんのことを愛していたご家族やご友人、そしてそれを自分のことのように想像できる人だったら、絶対に、絶対に見ることができないだろう、犯人が撮った殺害シーンビデオである。

香田さんの行動に関しては、わたしは彼に非常に同情的だし、情報を全て把握しているわけでもないから、なんとも言いがたい。ただ、今の時期にイラクに行けると考えたことは、判断を誤ったと思うし、同じバスルートを使用した前例もあったようで、大丈夫と思う気持ちがあったのも、残念ながら安易だったと思う。自分の命の大切さを真剣に受け止めたうえで最悪のケースを常に忘れてほしくなかった。それだけである。・・・こんな話はもうなんの意味も持たない。

しかし、何度も主張したけど、あえてもう一度言えば、香田さんの動機と人質事件とは一切関係ない話である。今回の人質事件のメインアクターは、ザルカウィ率いるテロ集団と日本政府であった。このふたつのものの間に偶然日本人青年が政治的要求を通す為の人質として拉致されたのであり、原因把握に人質の出る幕は一切ない。ザルカウィは、日本政府は自国の青年の命に価値をおいているという想定に基づき、人質というスタイルに持ち込めたのだし、彼が日本人でなければ、自衛隊撤退要求はお門違いであるから、どこか別の政府にしてください、となる。イラクでは、テロリストたちが外国人人質の首を切る殺害がもはや日常のような状態になっており、その傾向はイラクの国境をこえて広がっている。イラクでは、MSF(国境のない医師団)も全面的に引き上げてしまうほど、治安が非常に悪化していること、そしてそれは米軍の手にも負えず、英国もブラックウォッチの投入を要請された事実(死者もでている)・・・3月のあの日以来、平和時計の針が止まってしまったイラク戦争の渦のなかに、日本の人質事件も位置づけていかなければならない。そうでなければ、香田さんの血が乾くことはない。

わたしは、思っている。自己責任論は、香田さんの命の価値を、彼だけの責任を追及することによって奪い、隠れて戦争している日本の痛みを和らげ、政府の責任を隠すためにつくりだされたのだ、と。平和な社会に生きている国民は、それを容易に受け入れることができた。「人質を殺しても日本は怯まない、そもそも、あの日本人青年は日本の決まりごとを破った人間なのだから。」大きな政治目標達成の渦のなかで個人の命が巻き込まれ犠牲になることは、珍しくない。そんなときだって、政治指導者は自国の犠牲者に弔意を示しすのが人間らしさであるし、指導者として犠牲者の死に対して説明義務を負うはずだ。しかし、今の戦争の指導者たちは、事件の渦のなか、披露宴に数時間出席したり、一切説明らしい説明をしたことがない。

わたしには、どうしても理解することができない。なぜ、日本人はそれを受け入れてしまったのか?日本政府は戦争に参加している。第2、第3の事件がおきたら更にもっと日本人の命は軽くなるだろう。わたしはそのことを危惧して、胸の痛みが続くのだ。
  
Posted by eloundamigio at 06:35Comments(21)TrackBack(5)日本のこと

November 03, 2004

終わらない追悼

香田さんの死はあまりにも苦しくて、悲しくて、早く立ち直りたいと思って遠藤周作を読んでとにかく頭を少し落ち着かせようとしてたのだけど、読んでしまった。FAIRNESSさんのコメント。無理に縫い合わせて閉じようとした傷口が開かれて、そのあたりをまたあの熱くて重くてもやもやとして硬いものがどんどんと突く。痛い。苦しい。なんだか、吐きそう。でも薄々わかってる。この痛みは、痛み続けなくてはいけないものだってこと。心から笑えるときを求めて、本当はそんなものほとんどの人が待たずして死に時間を奪われてしまうのだろうけど、それでも、いつか、そんな日が実現する夢を見る為にわたしは死ぬまで生きていくのだろうと。

心を動かされたこと、傷つけられたこと、悩まされたこと・・・関わりあったこと全てはただ偶然にすれ違ったものではなく、自分が人生において負うべきものを再確認するためのメッセージなのかもしれない。心はこの事件でぼろぼろだけど、内心の出血を癒しの言葉で処理してはいけない。葛藤に自分勝手な終止符を打ってはいけない。香田さんの悔しさや無念さや悲しさやご家族のどん底の思いや心あるものの苦しみを再び繰り返さないための、辛抱強い努力の源泉としなくてはいけない。この苦しみに自分を包容させて一歩先へ踏みださなければいけない。

他人を裁かない心。人生の先輩の個人憲法に書かれている言葉で、わたしの心にも響く。香田さんを無知、軽率とよび自業自得で亡くなったといっている人たちは法律違反しているわけじゃない。それはきっと彼らの生き方なのであろうし、そういう厳しさを持ちあわせていることは人それぞれだとおもう。ただし、その身からでる言葉が自己に帰ってくるとき、果たしてどれだけの人がその自らに課した自己責任という任務を遂行するのだろう。自己責任を遂行できるだけの責任を持ち合わせていなくたって、見捨てられていい人間なんてこの世に一人もいないのに!・・・ごめんなさい。わたしの他人を裁かない心はくたくたになりそう。だって、彼らも香田さんと同じ、日本の外に一歩でたら、一邦人になり、香田さんとなにも変わらぬ立場なのに、彼らは裁いている。自らの手で、自国の、同じ立場の先立った若い青年のことを。自らの手で自らの自由を奪っていることも知らずに。

なぜ4月のあの事件以降イラク戦争から撤退できなかったのか、なぜ香田さんが人質になったときに自国の人命を尊重して復興支援から一時手を引くっていえなかったのか。テロに屈することになるってわたしも以前思っていたけど、間違いだった。人の命を守ることは、少なくとも人の命を守る努力を全身全霊ですることは、暴力に屈しないという言葉よりも強いこと。大切なこと。この事件ではっきりわかった。でも、もう遅い。もう、遅い。

遺体搬送費は家族が負担するようだ。そういう卑劣なテロ集団とは一切かかわっていない、と政府は交渉の余地どころか、接触しようとしたことも拒否したこと、自らはっきり言っている。一貫してる、根底に流れる自己責任論。わたしは思考停止してはいけない。恐怖から自らを入り口の狭い壺に押し込んで目を閉じてはいけない。暴力に屈しないと口にする以上の強さを、知を、わたし自身のために探さなくてはならない。あの人の判断がわたしの生死に深く関わっているのに、あの人は責任をとらないから。あの人は自らの権力を放棄しないまま、自らの責任を放棄してしまって、事態を引き起こしてしまったときは薄っぺらい言葉の影に隠れてるだけだから。

押しあふれる悔しさを怒りに変えてはいけない。怒りは長くは続かないものだから。この悔しさは国境、人種、宗教、文化を越えて人の命を尊重する気持ちや問題の平和的解決のために使わなければならない。・・・でも、犠牲は大きすぎた。日本が遠い。わたしの心はぼろぼろ。あの地に、再び帰れる場所は残っているのだろうか。

香田さんと同年代の、海外に住む一邦人の独り言。miu  
Posted by eloundamigio at 20:56Comments(2349)TrackBack(6)日本のこと

November 02, 2004

テロの恐怖とわたし

スペインの首都マドリードで3月11日に起きた列車同時爆弾テロ。
3月12日の日記から

「・・・お昼少し前、教授が授業を中断して一階のホールに集まるように言いました。テロの犠牲者とその家族に黙祷をささげる為です。正午にパリの中心部でサイレンがなり私は目を閉じて昨日FRANCE2でフランソワーズとみたひどい光景を思い出していました。・・・黙祷は7,8分続いたので何人かは気が散っていました。・・・」

黙祷で遺族の悲しみを共有してから数日後、スペインの列車テロでアルカイダが関与しているとの報道があった。わたしの生活上の変化といえば、学校の持ち物検査が非常に厳しくなったことだ。カルチェ・ラタンのその大学は以前から観光客の出入りを禁止し、IDカードを所有する者だけが黒人のガードが二人立つ入り口から入れるのだが、そこで持ち物検査が始まった。バッグの中身を全て見せ、ガードの手がバッグの底のほうを探ることもあったらしい。

また数日後おかしいと思うことがあった。私は初めの時期一度だけバッグの中身を見せただけで実質的にはIDだけで建物に入っていたのに、ラテンアメリカ系とアラブ系の友人は毎日必ずしかも念入りにチェックされたという。ガードが勝手な判断でそうしたのか、それとも学校管理側からそのような支持があったのかは定かではない。どちらにせよ問題である。アラブ系学生は、不満げだった。学問を学ぶ生徒が集まる学校でこのような人権侵害的なことが行われるのは心外だったがそれに差別が加わるのはもっと心外だ。わたしは苦汁を飲まされてる気分だったが、受け入れなければいけない雰囲気があった。

テロが起こるとまず公共の建物や人が集まるところの規制が始まる。今まで普通に生活してきた場所で新たな制約が加わり、恐怖感が芽生え、セキュリティーへの関心が高まっていく。バッグの中身を見せるようなプライバシーの侵害がだんだん日課になってしまう。それとともに、自分と異なる国籍や宗教に対する恐怖も芽生えてくる。

ところがテロというのはそこまで日課的に起きているわけではない。以前BBCのドキュメンタリーで見たが、アメリカの中西部の片隅の田舎町において、テロに対する危機感が充満しているらしい。BBCはこれを滑稽に描いている。人々はガスマスクを購入したり、どんな爆撃にでも耐える公衆トイレほどの建物に興味を示しはじめる。その「建物」のコマーシャルの文句が「あなただけは生き残る」ようなものだったと思う。客観的には、周囲数百キロメートル四方をとうもろこし畑に囲まれたわずか700人足らずの町で、テロが起こる可能性自体が非常に低いと考えるだろう。わたしは、そこの住民はまるで自らを恐怖心で駆っているようだと感じた。自ら、鳥かごに閉じ込もって実態のない蛇に脅かされてる。もしアメリカ政府がターゲットにしている国際テロがその町を襲ったとしたらひとたまりもないだろうし、襲わなくても恐怖は常にそこにあるのだ。なんという自由な町。

わたしは以前パリ地下鉄を利用していたが、スペイン列車テロ以後特に警戒が厳しくなり、地面に届きそうな大きな銃を持った兵士が数人うろうろしていたのを覚えている。乗客の数は兵士の数なんかよりも断然多いから、もし何かあったときは武器を持たない市民の被害は多いだろう。しかし一市民の自分はその恐怖がどこに存在しているかしるよしもない。よって何の対策も講じることができないのだ。地下鉄を使わなければ、といったって情報がないのだから想像力が作り出した恐怖は年中どこにいてもつきまとう。それだったらどうしてテロの恐怖を感じる必要があるであろうか。オセチアの学校占拠は新学期の始業式だったのであるし、911テロは普通の変哲のない火曜日の朝だったのである。

わたしは国際テロに対する武力的解決を否定してはいない。しかし、「テロとの戦い」という都合のよい文句を国民の自由を剥奪する理由にすることに疑問を感じている。テロリストの定義は曖昧であるし、わたしたちが自由な社会に生きる限り、テロリズムの活動を全て抑止することは不可能なわけであるから、そういい続けている限り、政府は行動範囲を拡大することができるのである。

テロから自分を守り、暴力に巻き込まれない為にはどうしたらよいのか。わたしは、政府と市民の、ありとあらゆる人ー国境、人種、宗教、文化を越えてーを含む人の命を尊重する気持ちと民主主義による問題の平和的解決が不可欠であると思う。テロと同次元で暴力を押収しあうやり方のさきにあるものは暴力の連鎖である。わたしたちはテロリストたちよりも一歩進んだ理論展開によってテロを根本から断絶する努力をしなければいけないのではないか。  
Posted by eloundamigio at 18:56Comments(2)TrackBack(2)国際的なこと

October 31, 2004

深い悲しみとともに

29日にティクリットで、30日にバスラでアジア人の若い男性の死体が発見されたというニュースは誤報だった。しかし、正しく訂正されるまでに半日ほどかかっており、その間に外務省は香田さんのご両親に「イラクで遺体確認をしたいか、日本に輸送してほしいか」と電話で確認しているという。その後ご両親は倒れて寝込んでしまったというが、結局確認された死体は香田さんのものではなかった。まるで人質の死を望んでいるように「もしかしたら途中で遺体が取り違われたのかもしれない」という記事もニュースになっている。

この誤報を聞いて、人質の解放を心から願っていたものであったら、強く疑問に思うことがあるはずである。小泉首相は国際テロリズム緊急展開班を隣国首都のアンマンに派遣したらしいのだが、彼らの仕事は、自らが調査を展開するのではなく米軍にアジア人の遺体を探されることだったのか、ということだ。展開班はイラクにいっていない。人質の解放の為に四方八方働きかけた様子もなく、隣国首都のアンマンの安全地帯に滞って米軍が死体を見つけるのを待っていたのである。この点は、大問題である。さらに、米軍が見つけてきた死体を2度にもわたり「香田さんの死体発見」情報としてたれ流している。

31日に香田さんの首が切断された死体が発見されたが、香田さんの体は星条旗に巻かれていたという。香田さんはさぞかし悔しい辛い思いをしたに違いない。自国から人格攻撃を受け、政府も香田さんの死を戦争の犠牲として位置づけるよりも自業自得でなくなったとしている。せめてアルジャジーラで放映された母親の姿を見ることができたのかな、と私のなかでこみ上げる虚しさがそう思い聞かせようとする。わたしは市民のひとりひとりがこの犠牲を軽んじてはいけない、と思う。わたしたち国民ひとりひとりの命・人権をたいせつにできる政治を作れるのは、権力ではなく、わたしたちひとりひとりの努力であるのだから。  
Posted by eloundamigio at 23:12Comments(4)TrackBack(3)日本のこと

October 29, 2004

人質事件・日本政府・国民

アイルランドから帰ってきてニュースを一週間ぶりにみたら、人質事件の見出しがある。初めは4月に起きた人質事件の関連ニュースかと思ったが、読んでみると福岡出身の24歳の男性が拉致されたらしい。
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政府に発信されたメッセージの対処法は、人の命がかかっているにも関わらず、以前同様冷血だ。まず、小泉首相は人質解放の唯一の条件を飲む可能性を直ちにすぱりと否定している。このような事態に断定は避けるべきだと思うのだが、あくまで行うならその必要性とメリットは何なのか知りたい。しかし彼らは米英加担に関して絶対にこの類の「なぜ」への質問には答えていない。

日本に住む方から聞いた話だが、NHKはこのニュース控えめに報道しているという。助かる見込みが低いと踏んでの行動だったら、恐ろしい策略だ。

イギリスの人質が殺される前、英外務大臣のストロー氏は、身内の葬式があったにも関わらず、すぐにアナン事務総長との話し合いの場を設け、人質問題に関して言及している。一部は結果論として「無意味な行動」と捉えるのかもしれないが、救出のために最善を尽くす努力をしたことに犠牲者の家族は感謝している。
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小泉首相の早急な人質解放条件切捨てが国民の個人的感情を助長させているような気がする。感情が国際情勢を理解する基準だとしたらお粗末な思考だ。以前のエントリーでも書いたとおり、今年春におきた一連の邦人人質のときも、被害者に同情できない事件などと書き、バッシングに走り、誹謗中傷する人間が多くいた。人間として他人の生死について気軽にコメントするその姿勢には、心の底から吐き気がする。しかもほとんどが匿名でなされているという。

自由に意思伝達できない一人質の名誉と尊厳を傷つける子供じみた行為に対して、意見したい。人質の人格や行動を矛先にあげて、匿名で「愚か」「馬鹿」「自己責任」「自殺しにいった」と叫び、だから「死ぬべきだ」とか「死んでも仕方がない」という論理がネット上で繰り返されている。これは大変な人権問題である。「死んでも仕方ない」などの変態じみた言論を掲示板やBLOGで繰り返し、心あるものを傷つけている人間は、名誉毀損で訴えられてもおかしくない。そのような発言は許されるべきものではないが残念ながら今の状況で何だかの罪になる可能性も低い。私個人の怒りが特に酷く醜い内容が書きつられてあるものをここに書き記しておくことを許してほしい。(読みたくない場合は、スキップしてね。)

livedoorの共通テーマ「イラクで日本人人質」で読んだBLOG
抜粋始め:
まあいろいろな意見があるのでしょうが…… 何というか…… ぶっちゃけ、死んでしまえと思ったのは私だけですか? 私だけですか。そうですか。いや、前のイラク3バカ(+2)の時も、「構わないから殺っちゃって下さい犯人の皆さん!」と思っていたものですが…

でも私は、新潟で生き埋めになった母子は助かるべきで、イラクの何とかさんは死ぬべきだと思うんです。ボクサーになりたくて高校中退して、ボクシングも途中で諦めて、職に就いてもすぐ辞めて、語学留学しても途中でヘタれて、挙げ句に物見遊山で制止も聞かずにフラフライラクに入って拘束でしょ? 生きててもしょうがないですって。

生きて帰ってきても社会的には死んだも同然だし。
だったら、惜しまれて死んだほうが当人のためですよ。きっと。

まあ確かに、「シャブ中で有言不実行の年増」「オウム信者みたいな目をした18歳」「自衛隊脱走兵のアナーキスト」など、むしろ積極的に死ぬべきだった前回の人たちよりはマシなんですけどね(家族の態度が)。家族の沈痛な表情を見てるといたたまれませんが、それでもやっぱり彼は死ぬべきです。身代金で生きながらえたとしても、その時はその金が新たなテロを招きますし。

というわけで人質の人は、今回の高い勉強料を魂に刻んで、来世で立派な人になってください。
すぐに転生出来るように神様(デンデとか)に祈ってます。そんなことはどうでもいいから、PSPでTOEが早くやりてえ。(引用終わり)
BLOG名:愛の国・癌堕亜羅の中心で戯言を叫ぶ(中の人も大変だ)

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イラク行きの動機にしても、イラク入りの少し前に話した日本人との会話にしか証拠はあらず、それも会話というほどのものでもなかったようだから、彼の決心がどれだけ重かったのかということは推測でしか判断できない。短い会話でしかも赤の他人にすべてを吐露するようなことは、普通しないだろう。推測に基づいた情報に固執して騒ぎすぎである。

むしろ私が疑問なのは、彼はイラク入国前に人と接してイラク入りを告げているにも関わらず、行かせてしまったことである。本気で留める気持ちがあったら、すぐに大使館に通報して実力行使でも留めることができたのではないだろうか。もし本気で説得しても断念しなかったのであれば、かなり強い意志をもっていったということになる。ただ「イラクは危険だから行かないほうがよいよ」程度の情報では彼の強い気持ちを納得させるには弱かったということだろう。
       * * *
そもそも人質事件の問題と彼の人格・イラク入りの動機は全く関係がない。テロリストが彼を拉致した理由は、彼が不純な動機で入国したことや彼の軽率さにないからだ。そういう好奇な質問は本人が帰ってきたときに時間があれば直接聞くべきであり、また本人は国民の前で答える義務があるわけでもない。逆に国民に対して答える義務があるのは日本政府である。しかし彼らは答えない。

わたしは人質拉致・殺害は、イラク戦争の経過として歴史に刻まれていくと思う。以前拉致されて断首された被害者たちは、イラク戦争の被害者である。そして米英によるイラク戦争の”正義”が完全に破壊されたいまもなお、米統治のイラクで起きている一連のことは彼らの責任である。

テロリストグループが今までやってきたことは最悪であり、彼らの罪は必ず裁かれるべきである。しかしそれは、米英のイラク戦争という悪行に大しても同じである。
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一市民として不思議なことは、テロリストとの戦いと銘打ち、多額な資金が費やされ、すでにこれだけの市民がその戦争の犠牲になっているのに、いまだ米英軍はテロリズムに関して打つ手立てがないことである。米軍は英軍の任務を重くして少しずつ撤退していくような様相も見せている。米軍はイラクで何をやっているのか?採るものだけとって片付けは他国・他機関におしつけようとしている様子の中、日本政府はいったい何を考えているのだろう。

もうひとつ不思議に思うことは、日本政府は自衛隊の目的は復興支援であり、イラクの国民を助けていると言っているのなら、自国の国民の命を見捨ててまで、そんなことをしなくてはいけないのかということである。日本人にとって、他国で水の配給に努めるより、自国の青年の命を助けることのほうが大切ではないのか。
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人質事件や日米の関係をみてわかるのは、日本は完全にイラク戦争に巻き込まれているということである。ブッシュ大統領は、「戦時の大統領だ」ということによって政府の権力を強め、行動範囲を広げたが、小泉首相は黙々と戦争するタイプらしい。そんな政府の行動を黙々と受け入れ、国民も次第に戦争に自分を慣らしていくのか。
  
Posted by eloundamigio at 23:45Comments(9)TrackBack(4)日本のこと

October 18, 2004

ハワード政権について雑感

先週メルボロン大学の友人が総選挙の話を少ししていたので、アメリカの選挙も近いこともあり、ブッシュ、ブレアーとともにイラク戦争に参戦しながら、大勝したハワード政権に関する記事をぱらぱら読んでいた。

私自身はオーストラリアにそれほどの関心も抱いたことがなく、一番小さい大陸、日本とは政治、文化、経済とも友好的な関係にあるくらいの事実より先に目を向けていなかったのだが、最近のハワード政権の勢いには興味をそそられる。話が多少ずれるが、大陸に対する考え方にはヨーロッパ大陸に住む一部の人間とは違いがあるようで、彼らは世界7大陸を適用しており、オーストラリア大陸をオセアニア全体(ミクロネシアとオーストラリア大陸)と広義に捉えている。この考え方でいくと日本もユーラシア大陸の一部だというから、島国で生まれた私には非常に大雑把で不正確に感じる。しかし、オーストラリアを南に孤立した小大陸とみがちだった私が、欧州の定義に会いオーストラリア大陸をミクロネシアも含んだひとつの大きな地域という見方を覚えると、地域内でオーストラリアが唯一のキリスト教白人社会であり、英語圏であるということが鮮明に浮き立って見える。そのオーストラリアが南太平洋地域でアメリカ型覇権主義を展開しているとなればこの地域の他の文化が危機を感じることは不自然ではない。

内政は政権の性格をみる格好の材料である。ハワード政権は、アボリジニー文化に対する保障と維持努力は万全で手厚く保護されてきたので、今こそ白人文化が築いた功績に注目するべきだといっているという。しかし、たいていのオーストラリアの歴史学者は、ハワード首相のアボリジニーに対する主張は間違っていると言っている。白人の優先意識が単に国内のアボリジニーにだけ向けられているのであるなら、私たちの関心は薄いかもしれない。しかし、ハワード首相のこの発言は、白人文化に当てはまらない隣接した社会や世界中のマイノリティー民族に間接的な脅威を与えることを考えるとそう無関心でもいられなくなる。脅威は実際もっと緊迫しているのかもしれない。ハワード政権はアメリカ型テロ対策やそれに伴う南太平洋地域における軍隊の駐留を積極的に進めているからだ。

ハワード首相の外交に関する発言は時々BBCで見るが、アメリカに追従している諸国のなかでも特に目立つ。ひとつは先制攻撃である。四期目のハワード政権は従来の対米追従路線とテロ対策をさらに強めテロ対策のためには他国内への先制攻撃も辞さないといっている。現在のオーストラリアの視野はアメリカほど世界的ではないと思うが、だからといって違法でないわけはなく、戦後の国際協調の流れに逆らう動きの一端を担っている。法を無視する態度はアメリカのような大国もしていることを視野にいれ、百歩譲って先制攻撃を許したとしても、それがテロ対策に有効でベストな手段であるかはある程度明白な答えが出ていると思う。最近の例ではイラク戦争だが,テロリストの活動は沈静化されている様子はない。

もうひとつは国連についての発言である。ブッシュ大統領はイラク戦争の正当性を強調し、「イラク戦争は国連憲章上違法だ」とのアナン国連事務総長の発言に反論したが、ハワード首相は、米国に同調するだけでなく自らも、重大な危機に対して行動できない「まひした」組織だと国連を非難している。ここでいう重大な危機というのはイラクの大量化学兵器のことだと思うが、その脅威はブッシュ政権と取り巻きによって作られたものだった。また国連がまひしているというのは米国やオーストラリアの思い通りに操れないということを意味しているのならそのとおりだが、それは当然である。そもそも国連は200近い主権国家の代表が集まり集団的に平和と世界の安全を維持することが目的でありこれらの一部の国の思惑に左右される必要はない。また、安保理については、常任理事国でないオーストラリアが云々しても実質的に権力はない。またオーストラリアにとっては米国無しに安保理を非難し無視することの意味は大きい。

勿論国連を無視して、有志連合の勢いとともにオーストラリアを発展させていこうという考え方もあると思う。実際ハワード首相は勝利の演説にてシドニーで、「連合に対する信任の表明に、粛々とした気持ちだであり、この国は新しい時代の入り口に立っている。希望に向けて努力すれば何でも実現できる、偉大な時代が目の前にある」とオーストラリアの発展を約束する内容の発言をしたという。しかし、市民の間でイラク戦争におけるアメリカの一連の政策を失敗と見る人は多数派であるし、数万人のデモがシドニーなどで起こったことや、テロを武力で押さえつけることが多大なコストを要求すること、その上テロの標的となりやすくなることなど、リスクも高い。またそれらのハードルをオーストラリア市民が乗り越えたとしても、彼らの社会の発展が近隣諸国にとって何を意味するのかは興味深い。

今週はバリで200人の犠牲者を出した爆破テロからちょうど2周年だが、最近の調査では「イラク戦争への関与でオーストラリアでテロがいっそう起きやすくなった」とする人が65%に上り、「変化なし」は30%だったそうだ。またニューズポールと全国紙のオーストラリアンが発表した世論調査によると、イラク撤兵を求める労働党の支持率がこの三年間で最高の46%となり、ハワード氏がひく自由党を5ポイント上回ったそうだ。このような中で選挙にハワード首相が大勝するという事実には沢山の疑問がわいてくる。

ヨーロッパの一般市民はオーストラリア人は「田舎者」で「農民」であり、ひどいときには「犯罪者の子孫」呼ばわりをするが、私はそのようなものの見方は何も解決しないどころか、オーストラリアへの関心や重要性を薄めるのでよくないと思っている。ハワード政策の犠牲になっている市民に目を向けにくくすることは、同じ市民として愚かである。

どちらにせよハワード政権の外交の重要性は、ブッシュ政権の存続と深く関わっているものと思う。一市民として望むことは一部の人間のパワーポリティクスを追求の結果一般市民の命が奪われないことである。  
Posted by eloundamigio at 21:13Comments(2)TrackBack(0)国際的なこと

October 09, 2004

都教委のジェンダーフリー排除について

前回に引き続き、ジェンダーのことについて。Sankei Webの記事から引用。

男女の性差までも否定する過激な教育だとして、東京都教委は「ジェンダーフリー」という用語を排除。学校での「男女混合名簿」の作成も、禁止。「ジェンダーフリー」は、その意味や定義が多様で、単純な生物上の区別や「男らしさ」「女らしさ」といった観念まで否定する極端な解釈もされている。

 男女混合名簿については、都は平成十四年、「全校での実施を推進する」などと定めたが、都教委は「男女の性差を否定するような思想に基づき男女混合名簿を作成しようとする動きが見られる」として、作成を禁止する方向で検討している。
(要約:miu)

ジェンダーフリーの定義の問題性から入っているようだが、東京都教委がどのような定義をしているのかは興味があるのだが、自らの見解を述べないのは解せない。しかし、産経の記事を読む限り、『単純な生物上の区別や「男らしさ」「女らしさ」といった観念まで否定する極端な解釈』を排除したい、ということがわかる。東京都教委は、男女間には「単純な生物上の区別が存在」し、「男らしさ」「女らしさ」という社会的に構築された観念は肯定されるべきだ、と考えていると読めるが、その議論で男女混合名簿の廃止を主張するのは、イロジカルで極端なイデオロギー政策であるとさえ思っている。

様々な解釈がなされている背景には、ジェンダーフリーという英語をそのままカタカナ語にしたところに問題があると言う人もいるらしい。英語ではジェンダーとセックスの定義がはっきり分かれているが、ジェンダーを表現できる日本語は、存在しないからわかりにくいというのだろう。言葉がないということは、コンセプトがないということだから、それが混乱をきたしているとしたら、ジェンダーフリーを推進する人たちがもっと戦略的にならなくてはいけないところではないかとおもう。ジェンダーという英語をそのまま使用するのではなく、日本語のジェンダーに相当するターミノロジーを生み出す、とかだ。ただ、そもそもカタカナ語はあふれているし、日本語にない言葉だから英語をそのまま使用するというのは特殊なケースではない。ターミノロジーに関する問題点がもしあるとしたら戦略上のことのみだろう。

また、教育の場で定義について混乱があるのなら、自治体の教育委員会が独自でジェンダーフリーの定義を一般にもわかりやすい言葉で説明する必要があると思う。極端な解釈というレッテルを貼って用語を排除するのは、偏見の助長であり教育的ではない。

ジェンダーフリーという用語の定義づけが多岐にわたるというのは、ジェンダーとセックスの解釈の違いからだと思う。社会的文化的に作られた男女差を乗り越えた教育方針を推進していくのか、あるいは生物学的な男女の性差というのも社会によって定義されたものだと、教育の場で教えていくのか、ということあたりだと思う。

これは議論として非常に面白いと思うのだが、教育委員会の決定は、このフリーダムのコンセプトは伝統的な男女関係、強いては社会を壊すものであるから、市民に広めたくない、と頭から否定している。私は、このような強行策が一教育委員会の独自の判断であるとは思っていない。近年の一連のナショナリズム的動向を載せた大きなメカニズムの一コマだと考えている。同メンバーによる歴史の事実を偏って解釈していると内外批判を受けている「新しい歴史教科書」を採択も一コマである。メディアや政府などの構造支配者たちから市民に向けられた、「日本の将来に新しい、平等で市民一人一人を男女の柵を越えて尊重する考え方は不必要である」というメッセージである。

用語の使用を禁止するという強行に留まらず、広く受け入れられてきた男女混合名簿を突如2学期から、伝統的な男子優先名簿に戻すという行動は権力的だ。このようなやり方を市民が受け入れて先例を作ることは、排他的な感情で教育を統制し、またそのような方針の受容を意味するメッセージを送り返すことになるのではと恐れている。ジェンダーフリー推進派の主張がメディアからなかなか伝わってこないところも悲しいが、だからといって市民が自主性を放棄してしまうのはもっと悲しい。

standpoint1989さんの「非妥協的な争点」という記事で、日本では非妥協的な対立意見について理念的な議論が行われず技術的解決に終始することが特徴的だと書かれているが、なるほどと思う。私はジェンダーフリーの問題に関して、市民が技術的に構造支配側に働きかけることができる要素はほとんどなく、関連する議論ー例えば脳差の問題などーに個々が向き合うことに打開の道があると思う。そのようなぐずぐずとした議論みたいのが必要なのだ。大人が、「ジェンダーフリーって都教委が排除したからあまり言わないほうがよいかも」などという態度を見せていては、日本は議論も出来ない国になってしまう。そもそも伝統的なジェンダーの考え方を発展的に解決しようとするときに、伝統的解決方法に身を任せているのも矛盾的だ。そしてそのような態度が自分たちの首を絞めていることに気付かないのは滑稽である。

前回男女の脳差の研究についてという題目でポストしたのだが、まとまりのないものだったので自主的に削除した。今回は産経の記事から読み取れる東京都教育委員会の決定についてのコメントのみに控えた。ジェンダーフリー議論の内容も章を改めて書いてみたい。  
Posted by eloundamigio at 16:56Comments(112)TrackBack(1)GENDER

September 27, 2004

オトコとオンナの違い

小さいころ、試験か何かで自分の性別を丸で囲むところがあったのだが、隣の男の子がふざけて男・女と書いてある横に「おかま」と自分で書き足して丸で囲んでいたのを覚えている。当然あとで書き直しさせられていた。話は変なところから始まってしまったが、性の問題全般に対する一疑問の発端。どうして「おかま」って書いちゃいけないの?

これはたいてい簡単に「おかま」という性別はないから、と切り捨てられてしまう。世界中全ての人々が例外なく書類上、男か女に分けられ、それは世界を旅する為に必ず必要なビザやパスポートにも黒字インクでしっかりと示されている。これだけ見ただけでも男か女かということは大切で世界的なアイデンティティーのひとつであるのだ。

ではそのアイデンティティーは自分勝手に選ぶことが出来るのかといえばそうではない。生まれたときに、自分の範囲が及ばないところで決められる。そもそもどのように性が決められるのか、いつ性が決められるのかということは興味深い。私が好きなイギリスのドラマにローワン・アトキンソンの「BLACKADDER」があるのだが、その中のひとつに面白いフレーズがある。

メルシェット卿がエリザベス女王にBLACKADDER卿は若い男の子としか遊ばないのです、という返答に、女王「私がもし男の子だったら彼はもっと私と時間を過ごすかしら」と問いかけているシーンである。すると女王の世話人の太ったナーシーがウィッティーに答える。「あなたはもう少しで男の子だったんですよ。ママさんのお腹から飛び出たとき、みんな男の子だ男の子だ、といいました。でも誰かが、この男の子はwinkleを持っていないぞ、っていったんです。サー・トーマスがwinkleのない男の子は女の子だって言いました。それでみんな本当にがっかりしたんです。」

イギリスのジョークだが、男と女の違いというものはwinkleの有無で判断されていたのだ、ということが伝わってくる。しかし、これは本当に個人の性を定義する上で十分なものなのだろうか。例えば、両性の身体的特徴を備えている人をどう判断するのだろう。

他に考えられるのは遺伝子の証拠を用いることである。XとYの染色体である。一般的にはXを二つ持つ人は身体的には女として成長し、XYをひとつずつ持っている人は男として成長するようである。しかし、このやり方も十分なものとはいえないようである。XXとXYの遺伝子以外を持ち合わせている人も存在するからだ。

このように考えてみるとどうもバイオロジーというものは明確な男女の区別を示してくれないようである。でもやはり男と女というカテゴリーが重要な書類などでははっきり分かれていることを見れば、それはもっと社会的構造なものなのだと思う。

日本では出生届けに書かれた性がその個体が死ぬまで貫かれる性だと思うのだが、それを誰がどのように決めているのかはよく知らない。推測で物を言ってしまうのだが、たいてい入院先の病院の専門家の先生が決めているのだと思う。イギリスでも出生証明は医者によって書かれるようだが、それは勿論独断ではなく先に述べたような身体的特徴を元に決めているのだろう。しかし、その身体的特徴が生物的には明確ではないのだったら、どうして社会的構造としての性は二つしかないのだろうか。それこそこの多様な性を包容する構造があってもよいはずである。そもそもおとことおんなというのは身体的特徴を見ている限り、違いよりも近似のほうが多いとも思えるのである。

男女のアイデンティティーの根拠がこのようなあやふやなところから始まっているのであるのだったらアイデンティティーとはいったい何?という疑問になる。前回のエントリーでも書いたのだが、それは社会的に作られた自己と他者の違いから生まれるものであり、東大の藤原先生のいう、我々とやつら(アメリカがテロの定義をしたときの論理だと指摘している・・うる覚えなので間違っていたら指摘してください)という違いから発生するカテゴリー化なのかと思う。人間は単純に違いを列挙するだけには留まらず、優劣をつける。自分が属しているカテゴリーの外にいるものを排除する動きにつながるのではないかと思う。性の問題でいえば、例えばおとことおんな、’ノーマル’と’アブノーマル’などである。男はこうするべきだとか女はこうあるべきであるとか同性愛は普通じゃないなどという固定観念から出た違いを振り払えば、もっと自由な発想で性にまつわる諸処の議論に望めるのかもしれない。
  
Posted by eloundamigio at 02:12Comments(1)TrackBack(1)GENDER

September 25, 2004

買い物とアイデンティティー 

周りの10代後半から20代前半の友人たちをみていると感心することがある。とにかく消費するのだ。お金が手に入ったとたんに消費してしまう人もいる。何を買っているのかなと不思議に思うと、服・ガジェット・服・バッグ ガジェット 53 53 53・・・。同じような服を持っているのを見たことがあるし、ましてや現代テクノロジー満載のガジェットなんてそうそう買い換えなくても十分用を足してくれるし、極端に言ってしまうと携帯電話みたいな通信手段が本当に必要で所有しなくてはいけないひとは全国民の数パーセントだと思う。しかし彼・彼女らは消費し続けるのだ。

そしてこの現象は社会一般にある程度当然のこととして浸透しているように思う。浪費家たちのこの行動は逆に美徳としてとられることもあるようである。これはいわゆる「太っ腹」。また美徳までとは行かずとも例えば「余裕があっていいわね」などと皮肉交じりの評価をする人もいるが、それはそれで個人のお金なんだからどう使おうとその人の自由であり勝手であるからいいんじゃないの、ということであろう。逆に極端な倹約家は嫌われる傾向にあるらしいが実は浪費家と共通性があって彼らは自分の欲求のコントロールを金の浪費・倹約によってしているだけにすぎない。

最近Jean Baudrillard(以下ボードリアール)のConsumer society(1988)を読んでいたら面白いフレーズに出会った。少し引用してみたいと思う。

"What is sociologically significant for us, and what marks out era under the sign of consumption, is precisely the generalized re-organization of this primary level in a system of signs which appears to be... the specific mode of our era."

ボードリアールが指摘していることはポストモダニズムにおける生産システムにより作り出された消費者の「必要性」を追求するシステムの支配だろう。消費者は購入することが「必要」だと思わされていることによってこのシステムが成り立っているという意味だろう。更に彼が強調しているのは、このシステムは物質的な商品への欲求なのではなくて「違い」と「meaning-価値・意義」への欲求、である。ボードリアールがいっていることは物質的な商品はもうすでに大半の人が所有しており巷にあふれているので、それに変わってシンボルとそれに伴うイメージに強調をおく消費の仕方の台頭を指摘しているのだと思う。私はこのmeaningの必要を想像・維持しているのは消費者というよりも、メディアや広告にその役割を任せていると思うのだ。

日本のルイ・ヴィトンをはじめとする高級ブランド品の人気は高いというのは内外よく知られている。勉強不足なので推測の域をでることができないのだが、これはボードリアールがいうシンボルとそれについてまわるイメージと意味を購入している典型的な例ではないかと思うのだ。ここでいうシンボルとはメーカーのマークやバッグやアパレルの最新のデザイン、そしてそれが意味するものは社会階級であったり、女らしさや男らしさやそれに追随するさまざまな特徴のイメージなのだとおもう。しかし、実際もし彼らがそれを購入することにより社会的ステータスやそのようなイメージを手に入れたとしても、それについてくるものはそれらへの単純な願望の現われに見えることもあるのだ。更にそのような高級ブランド品でも今の多くの日本人の経済レベルでは無理をすれば購入できない値段ではないことを考えるとそれに追随するmeaningはマイナス的なものを帯びてくる指摘も否定しきれない。meaningやイメージを手に入れるために、消費し、シンボルやメーカーのロゴやイメージを身に着けて歩くのは、販売する側にとっては、イメージを売るための宣伝広告と大量生産した商品に支出して、その上消費者にも街頭宣伝をしてもらうという、消費者にとってはなんとも虚しい構図が浮かび上がってくるように思わずにはいられない。社会一般にこのシンボルやイメージの大量消費の現象が当然のこととして受け入れられているように思うのも、実はメディアや企業にそう思わされているのだと思ってしまう。

個人のアイデンティティーが買い物によって形成される、何を買うか、何を買わないかで他人との差別化をはかり自分と社会を結びつけ自分のアイデンティティーを形成しようとする。そしてその購入したイメージ商品を売る側はそれによって巨大な利益を得、さらなるイメージを作り出し消費者に片時の喜びを与えてくれている。I think, therefore I amではなく I shop, therefore I am である。

  
Posted by eloundamigio at 06:34Comments(6)TrackBack(0)日本のこと

September 18, 2004

多文化の新知識

以前アメリカ中西部に住んでいたことがある。私はその当時を境に積極的に無宗教になったのだが、それがポジティブに働いて貴重な方々と知り合い人生を分かち合うことが出来た反面、災いとなって数々の迷宮的な議論に陥ってつらい思いをしたこともある。最近スタンフォード大学の数学者Devlin氏の'Where Darwin is a dirty word'「’ダーウィン’が禁句な国」(1999)という記事を偶然読んで、当時の思い出がよみがえった。

記事を読み進めると具体的な数字や情報が書かれているので少し紹介したい。Devlin氏によると44%のアメリカ人が聖書のジェネシス(創世記)を絶対的に真実だと信じているという。ほぼ半分の人口が宇宙の始まりとされるビック・バン理論や自然選択説による進化論を明確に拒絶しているという。調査がどのような過程で行われたのか知らないが、米国全土の裕福な家庭からきた生徒が集った私立大学でも、創世神話を真実として授業中に堂々と発言していた生徒もいたくらい、雰囲気的には信頼できる数字である。これが科学的発見やテクノロジーの発達をリードする国の別の側面だ。米国人の半分の人々にとって、ダーウィンの進化論はひとつのオピニオンであり、人類の起源や地球の歴史については論拠をどんなに挙げたところでいずれにせよひとつの「信仰」なのだ。

当時科学が信仰ではないということを説明する為に古今東西例を引っ張ってきて論じていたが、絶対に勝てない戦争をしている気分だった。Devlin氏は神の存在の有無とか、約一万年前にアダムとイブという人類が生まれたなどの内容や論拠への信仰を否定するわけではないが、その信仰が科学的論拠を受け入れる必要性を欠いている危険性を指摘している。実験的方法やその結果が理論や仮定を有効にするという考え方自体の欠如であろう。

西欧社会で宗教が権力を失っていった経緯は社会構造の脱宗教化だと思っていたが、その論拠をめぐってはさまざまな意見があるようである。宗教を客観的な数字を元にみるか、それとも個人が内面を考慮に入れてみるかでは状況の判断に少し違いが出てくるようだ。英国のサーベイBruceによると1850年にはイングランドとウエールズでは50%の人口が、スコットランドでは60%超が教会に通っていたにもかかわらず、1950年代にはそれぞれ20%と30%まで下がり、その後も割合は減り続けている。ところが、英国ではいまだ75%の人が超越した存在を信じており、基督の神に対する信仰心は下がったが、霊的あるいは生命的なものが人生をコントロールする力を信じているという人は増えているのである。これはオーソドックスから抜け出して宗教というものにも幅が出てきて多様になってきたことの表れのようにも見える。

一方、北アイルランドを見てみると「神が本当に存在することを知っていて、そのことに一寸の疑いもない」とする回答が57%を占めている。英国では23%だから、開きは大きい。この二つの違いは何なのかと独り考えてみたが、宗教的な考え方と文化的社会的立場の関わりを持たせ、一種の集団的なアイデンティティーに関連させているのかもしれないと思った。米国も規模は違うが似たような状況なのではないのかと思う。次々に入国してくる移民たちの中で、一国家のまとまりの大きな聖なる屋根役をしているのがこの妄信的な宗教なのかもしれない。驚くのは米国のような近代国家でも、宗教はまだ個人・集団に対してその機能的役割を果たすことが出来るということだ。しかし、近代国家の聖なる屋根はさまざまな文化を包容する能力が必要な時代になっているのではないか。

米国で受けた宗教の授業は、部外者として聞くのも議論もとても興味深かった。しかしその実、その宗教がDevlin氏のいうように科学的論拠を必要としないでよいと思う教育であり、そのような知識の裏で誰かが意図的に文化的社会的立場と関わりを持たせそれを利用していたとしたら、米国の宗教者はそのことについて議論できる下地を作っているのかは疑問である。

21世紀初頭は多様性と不安定の時代だと思っている。宗教的な知識もそうだが、科学的知識もさまざまな情報が飛び交い、情報戦争とか情報社会などと言われる情報が利益を生む時代において、それら専門家に対する信用は以前よりも低くなったのではないか。そのような伝統的知識に市民が自由に疑問を抱き、或いは理解を深め、それぞれの社会的なコンテクストの中で、自分たちの為のための知識を生産していく時代になったのかと、BLOGを書きながらぼんやりと思っている。  
Posted by eloundamigio at 08:54Comments(3)TrackBack(1)国際的なこと

September 13, 2004

環境問題と国家主権

環境問題はグローバル化しているといわれているようだが、素人の目から見ても頷ける理由はいくつかある。国境を越えた原因や被害ー酸性雨や原発など、国家間の環境問題に対する相互依存ー貧困、人口問題、リソース問題、地球温暖化など、そして共有物である大気圏や海洋の汚染、などである。これは地球上に住む人々が国家、人種、宗教、そして習慣の違いを超えて平等に被害を被るといういみで環境問題をグローバルな問題と位置づけるのは妥当だと思う。この問題について国連は持続可能な開発というスローガンを掲げ対策しているが国家主権の壁は厚いように思われている。

政治の政策決定は主権国家に委ねられている。そして、これら主権国家や、それに納税をし、ある一定の生活水準を保たれている国民は超国家的な主体に権限をもたせることを嫌う意見や見方と出会うことがある。超国家的な主体に対して納税をしたり、その主体から制約を受けたり、国際的な公益を提供したり、所得の再分配を強要されたりするということに極端に懐疑的なのだ。

環境問題が超国家的な形をとる中で、超国家的な主体の規則や制約なしにどのように問題に対応していかなければならないのであろう。

環境問題において主権国家レベルでの解決、ということはつまり一国家の経済活動によってなんらかの環境問題が発生したとき、一主権国家が他の主権国家の経済活動を阻害している、という事実を解決するということだろう。主権国家はどのような対策ができるのだろうか。例えば、チェルノブイリの原発事故ではウクライナ(旧ソ連)の起こした事故の影響で放射能を含んだ雲が欧州各国まで流れている。もし、欧州各国の被害がウクライナの安い原発エネルギーの利益よりも大きかったら、そしてもし汚染が欧州の安全基準以内だったら、ウクライナと事業提携することによって双国家が利益を得る可能性もあるのかもしれない。しかし、このような予想は主権国家がお互いに自己の利益追求のために情報の開示を拒んだり、ましてやこれが2カ国以上の交渉になったりすると割ってはいる仲介者などがもたらす影響で複雑化し難しい。

自由主義的な思想で発展しているといわれるグローバル経済の枠組みで国家が自己の経済活動を規制する流れに赴くかははなはだ疑問である。また同じ主権国家間の協力で問題に取り組むとしても政治的・経済的な力の前でどこまで問題の本質に迫ることができるかは疑問である。汚染する側は基本的に利益を得る一方で、汚染された側に対する対処は資金を受けるなどしない限りやる動機はないわけで、つまり主権国家の汚染対策は、必要経費を被害者側が払うというメカニズムで動いているような気がする。これは、汚染コストは汚染者が払うべきだという一見常識に見える主張とは全く相容れないメカニズムである。ウクライナの例では、欧州各国はウクライナの原子炉の安全性の向上のために支出することが彼らが放射能のない空気をまもる方法だということになる。

自由貿易の拡大や企業の開発、発展に伴って深刻化する環境問題は、先進国のような経済的に裕福で政治的権力がある側からの根本的対策は現状を見ても難しいといわざるをえないのではないか。私は個人も国家も利己的な動機によってしか行動しないと信じているのであるが、国家の経済活動はそこに水があり、空気があり、リソースがあるという前提に行っているのだとおもう。となると環境問題は一国の経済活動にとって興味の対象となる。しかし多国籍化した環境問題での他国との利益分配の割りあいや領域、領土、領海などを考察すると一番初めに記載したさまざまな環境問題にどこまで根本的に取り組めるのか、疑問だ。

グローバル経済の発達を阻止することはできないし、非現実的である。しかし、そのような活動を国家だけでなく超国家的レベルでも制御していく必要性は環境問題の包括的な解決のために大いにあるように思える。現在190カ国以上加盟している国連などはそのようなフォーラムの代表的なものであり、民主的な意思決定が発達すれば、不公平な権力分配下の解決策よりもうまく働くのかもしれない。そのために主体である国家が献身的な態度を示すことが彼らの利益につながると思うことは大切ではないか。そんなことを想像していると、おのずと個人の国家的アイデンティティーと同時に地球市民としてのアイデンティティーも沸いてくる気分になるのである。
  
Posted by eloundamigio at 04:14Comments(2)TrackBack(0)GLOBALIZATION

September 05, 2004

一般市民の防弾チョッキ

ニューサイエンティストの記事に次のようなものを見つけた。

緊急な返答は必要ありませんが・・・。一般のピストルから発射された弾丸から身を守るにはどのくらい脂肪を蓄えなくてはいけませんか?

9mm口径の弾丸は平均的なピストルから発射された場合60センチの肉を突き抜けた後静止します。脂肪は筋肉よりも少しやわらかいので、脂肪層だけの方は少し多めにある必要があります。


この記事はサイエンティストのアドバイスの「防弾チョッキを常にまとっていることは利益を得ることもあるかもしれませんが、60センチの脂肪層を抱えることは少し健康的ではありませんね」という落ちで終わっている。

犯罪増加を書き立てるマスメディアやテロリズムや戦争報道が日常化しているようにみえる今日、危機感が増している私たちに、この記事は冗談だが皮肉的なメッセージを送っている。暴力的な世界で大きな被害を被るのは、主に身体的に弱いものー子供、女性、老人と、経済的に弱いものー安全を購入することが出来ないものではないだろうか。これは、そのような人々に向けられて書かれたメッセージであるのかもしれないが、単なる冗談で現実的には価値がない。

記事を読んだとき思い出したのは、イズラエル軍に殺されたパレスタイン少年の衝撃的な映像であった。父親のわき腹を貫通した弾丸が、後ろに震えて縮こまっていた息子を貫いた。彼はどうすれば生きることが出来たか。父親が太っていれば弾丸は一人目の体で静止したかもしれない。しかし、これはあくまでごく一般的なピストルを使用することが前提であり、核をも所有するイスラエル軍の高性能な銃から発射される9mm口径の弾丸を防ぐには相撲取りにも不可能であったかもしれない。第一相撲取りに可能であったとしても彼らのような特別な訓練を一般市民全員が享受することはできない。親子があの場に佇むまで経緯は知る由がないが、もし身近で戦闘が起こったら、一般市民があのように戦闘に巻き込まれることは、必然の成り行きであろう。

どうすれば少年は死なずにすんだのか。パレスタインの少年だけの問題でなく、一般市民はどうすれば暴力から彼らの生活を守れるのかという問題である。

名前のない小さな市民の悲惨な死はたいてい国家の利益の前で正当化されてしまう。反戦の理由のひとつに「罪のない人が死ぬから」というのがあるが、これは理由として価値がないと唱えるひともいる。長い歴史に戦争は常に存在し、それは多くの人の犠牲以上に、発展や成長を促したからだというものだ。罪のない人の死も大きな歴史の流れの中で生きて死んでいく沢山の個体の運命なのだ。確かに犠牲が個人的なものであるのに対し、発展成長は国家的であるから、そのような運命に嵌る可能性が低い人々には罪のない人の死は他人の人生であるのかもしれない。

歴史は戦争を繰り返し残虐なシーンを刻んできたが、同時に国連のような国と国の話し合いをする場所を設け、国際的裁判ができる場所をつくり、人権について学校教育することを設けるまでにもいたった。戦争やテロによる暴力的な解決ではなく理性の話し合いを重視しようという流れが悲惨な戦争を繰り返してはいけないという思いから戦後高まってきた表れではないか。

化学的に一般市民を弾丸や爆発から守る手段はない。集団の暴力を個人で防ぐのは難しい。サイエンスもそのための研究には具体的な解決を見出してはいないようだ。そのような中、暴力によって利益を得ない一般市民が他国の市民「他人の死」を見ていては、暴力に彼ら自信の運命をも任せているのと同じことではないか。
  
Posted by eloundamigio at 21:08Comments(5)TrackBack(0)国際的なこと

August 30, 2004

EUの労働者

欧州拡大で新たに東欧諸国が加盟したことにより西欧の労働市場に影響が生じている。

自動車大手ダイムラークライスラーは2006年度からドイツ国内の約3000人の管理職の給与2・79%引き下げ計画を発表した。これは割高なドイツ国内の生産、労働コストを大幅に削減する計画の一環であり役員のボーナスも、06年と07年分を10%圧縮するという。同社の労使は対立していた生産コスト削減計画で、経営側が削減を警告していた6000人超の雇用を保証する見返りに、勤務時間の延長や従業員の賃金抑制などで07年から約5億ユーロのコストを削減することで合意、期限付きでドイツ南西部のジンデルフィンゲン工場を中心に6000人超の雇用の確保を約束したようだ。労働コストが大幅に安い東欧諸国の欧州連合加盟で、コストが高いドイツ国内生産の意義が薄れる中、労使が歩み寄った。(共同)

西欧に本拠地を構える企業にとって新たに欧州連合に加盟した東欧諸国への進出は準備されていた可能性が強い。1995年に欧州連合に加盟したオーストリアは、欧州自動車産業の技術の粋を集めた開発・製造拠点、また技術リーダーとして注目されていた。オーストリア政府の外国投資促進機関であるオーストリア経済振興会社は、主要自動車関連企業が、同国で生産能力の拡大や商品開発に着手していたといっている。これらの企業は世界各地の営業統括本部をオーストリアに設立、積極的な投資計画、製造工場の拡張、多額の資金を投じ工場の生産能力増強を行ってきたようだ。オペル・オーストリア・パワートレーン社のフランツ・ロットマイヤー社長は、「オーストリアには、政治・社会の安定、公平な事業税、教育水準の高さ、熟練労働者の創造性や順応性、生産技術、サービスの質の高さ、それに欧州の新興市場の中央に位置しているということから輸送面でも優れている。」と発言した。ダイムラークライスラーもある特定の車種の生産をオーストリアで開始した。「生産拠点としてオーストリアを選ぶ決定的要因となったのは、欧州連合(EU)の加盟国であることにあわせて教育水準の高さとインフラが整備されていること、それに東欧の成長市場への近さです」と、ユーロスター工場のギャリー・キャッシュ社長は述べた。

一方で西欧の労働者の不安は増している。現在週38−40時間の労働時間の延長に関してもフレキシブルに対応しなければ、東欧の労働者に仕事を取られてしまうという雰囲気がある。週45時間まで許容できるという労働者の出現や50時間までできるか、などというアンケートなども雑誌上で行われている。彼らは自動車産業に限らずITや服飾など西欧に本拠地を置く企業が低コストを求めて海外にいずれは流れていくことに諦め的な妥協をしているようにみえる。ダイムラークライスラーの例を見ても、とりあえず交渉は落ち着いたが、数年後にはもっと辛酸な条件を飲まなければならないとの懸念もある。

東欧諸国にとっては大企業の移転の解釈は異なるのだろう。共産主義体制を抜けて15年がたつ中、EU入りを果たした東欧諸国にとっては西欧の経済基準に近づくことは念願である。国の経済水準が上がり、一般市民の生活水準が上がることは大いに歓迎されることなのである。

欧州内の労働条件はこれにより均一化されていく可能性がある。東欧の労働者にも安定した職がもたらされる可能性はある。国の経済格差も狭まるのではないか。しかしHAVE(持っている人)=グローバル企業とHAVE NOT(持っていない人)=労働者の差がこれにより縮まることはあるのだろうか。利潤追求にリードされたこの循環はうまく回るのだろうか。

欧州連合としての社会福祉の整備もされていない今、ヨーロッパの労働市場は大きな企業の利潤追求に翻弄されているように感じている人は少なくない。

  
Posted by eloundamigio at 22:57Comments(2)TrackBack(0)国際的なこと

August 28, 2004

ベルギー国際人道処罰法廃止から一年

ベルギーで「国際人道法違反処罰法」が廃止されて一年が過ぎた。ベルギー議会では一年前の暑い夏、ジェノサイドの罪など国際人道法上の重罪について、発生地と当事者国籍に関わらず国内法廷で裁けるとした独自の処罰法を廃止する法案を賛成多数で可決したのだった。これにより制定以来10年がたった同法は廃止された。ご存じない方のために少し説明すると、ベルギーの人道処罰法とは、次のようなものである。1993年に、ベルギーはルワンダにおける内戦でジェノサイドや人道に対する罪を処罰するため「1949年8月の国際ジュネーヴ諸条約と1977年6月のその追加議定書に関する法律」を制定する。そしてその法律を1999年2月に改正し、「国際人道法の重大な違反の処罰に関する法律」(以下、「人道処罰法」)と改めた。この法律は、ジェノサイド条約、ジュネーヴ諸条約と二つの追加議定書、ICC規程を柱にし、重大な戦争犯罪を処罰するものである。第7条には、普遍的管轄権を規定し、無条件の普遍主義を採用した。国際人道上の重罪を「人類全体に対する犯罪」と位置づけたのだ。

法案作成の中心人物ミシェル・フォレ前上院議員は、人道処罰法を「人道が人類全体の価値であることを示す法だ」と位置づけている。趣旨は正しいが行き過ぎではないのかという意見の中、政府に熱心に働きかけた多くの人権派弁護士と議員が、法律導入の立役者となった。フォレ前上院議員は「ICCがない現時点では、この法律で’小さな風穴’を開けることができればそれで十分だ」といったという。同法廷には告訴が相次いだ。代表的なものでは、湾岸戦争のブッシュ元米大統領やイスラエルのシャロン首相が人道に対する罪などで告訴されたり、イラク戦争においてはブッシュ米大統領、ラムズフェルド米国防長官らの戦争犯罪の告訴があった。これらは結局実際に裁かれることはなかったが、被害者や一般市民にとっては、非人道な戦争犯罪に対し泣き寝入るのでなくその被害を訴えることができる数少ない機会であった。そしてその意味においてこの法廷は「小さな風穴」の役割以上のことをしたと思う。

ラムズフェルド米国防長官は、アメリカやイスラエルの要人が次々と告訴されていくなか、同法の廃止を求め、さもなければ米国の対ベルギー関係の悪化が免れないことやブリュッセル郊外に本部を置くNATO(北大西洋条約機構)を移動する(確か東ヨーロッパに)と脅迫した。これに基づき、ベルギー政府と議会は、一連の告訴によってベルギーの対米関係、対イスラエル関係が大きく悪化したのを懸念し同法を廃止したのだ。これにより「人道が人類全体の価値」とうたわれた法律はその理念とともに過去に属してしまった。

イラク戦争が始まって一年半、ベルギー人道法が廃止されて一年。未だ有志連合軍に無差別に殺害された小さな子供の惨い遺体とそのそばで硬く丸く蹲る哀れな母親や、破壊された家の前にたち尽くし、半狂乱で「誰がこの戦争を始めたの。家族を帰して・・家を返して・・!」と泣き怒り叫ぶ人々の心は癒えていない。彼らに対する保障はあるのか。いまや超大国となった米の主導者が富と軍事を爆弾にかえて他国の市民の上に降らせ自らの富を拠出している。しかし、犠牲者の思いは彼らの政策決定に届くことはない。彼らを止めるものはもはやないのだ。ベルギーの人道処罰法は米政府の力の前にその姿を消したが、同法に関心を持っていた国家や団体も多い。ICCなどを基点に事態の進展に期待する。
  
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August 22, 2004

LIMELIGHT (1952)

7dc37cf1.jpgチャーリー・チャップリンがアメリカに渡って40年。反戦を訴えハリウッドを追われる彼のアメリカにおける最後の映画。人気がなくなって消え行くミュージックホールの老コメディアン、カルヴェロが、心身ともに落ち込み自殺未遂をはかったバレーダンサーを助けようとする。ダンサー・テリーの明るい将来とカルヴェロの落ち行く人生を並べて描く中クライマックスを迎える。ハイライトはもう一人のサイレント喜劇の巨人バスター・キートンとの共演でチャップリンの最初で最後のフィルムコメディーや繊細で可笑しいのみの芸。チャップリンは嫉妬でキートンの出演場面をカットしたなどと言われたが、後にこの映画で彼の一番親密なアシスタントであったジェリー・エステンはその著書でチャップリンは彼の場面のカットの量はキートンのそれよりもずば抜けて多かったといっている。どんなに可笑しい場面でもそれが次のコマに進む要素を失った時点でカットは必然なのだとチャップリンは答えたという。

「人生に必要なのは勇気と想像力と…そして少しの金だ」「もし君さえ恐れなかったら人生を素晴らしいものにすることができる」「時間は素晴らしい作家だわ。常に完璧なエンディングをえがくもの!」(miu訳)という名台詞とともに終始奏でられるオスカー受賞音楽はチャップリン映画の中でも特に好意を抱く人は日本でも多い。

邦題:ライムライト

お勧め度 ★★★★★

  
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August 20, 2004

グローバル文化と国文化

近年盛り上がるグローバリゼーション論議。文化を中心にグローバリゼーション論議の内実について考察してみたい。「国文化はまだ重要である」というグローバリゼーションに懐疑的な懐疑論者の主張を評価検討するかたちで進めたい。足らない点もあるとおもいますので指摘してくださると幸いです。ワードフォント10で4ページ強とかなり長いです。

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グローバリゼーションは国家における政治、経済、そして社会活動が地球規模な尺度で繋がり、国家ならびにコミュニティー同士あるいは内部での深い結びつきや、国家の境界線が曖昧になるなどの現象であり、私たちの生活のあらゆる局面に帰結する問題として特徴付けられている。近年において、グローバリゼーションという言葉が大学や企業などで頻繁に使用されるようになり研究の対象になる機会が増加した。しかしその現象の定義付けに関してはグローバリゼーションの深化によって、国家は時代遅れになり、意義をもたなくするという過激論者から、これらの現象は起きていないとする懐疑論者、またグローバル化した世界においても国家の継続する重要な役割を強調する移行論者と意見の隔たりは大きい。このエッセーにおいては懐疑論者の国文化の引き続く重要性について主張と論拠を述べた後、反対勢力の主張と照らし合わせた長所と弱点を述べ、結果的には懐疑論者の主張の有効性はあるがそれは彼らの価値観のみに帰結していると締めくくる。


○懐疑論者の主張と論拠○
懐疑論者たちは、ポケモンやPS2、海外映画、ドラマや国境のないインターネット上の膨大なグローバル文化が台頭してきているといわれるこの世界で、国文化の変わらぬ重要性を主張している。代表的な代弁者であるアンソニー・スミスは、主要な国文化とそれを取り巻く主要機関、例えば政府、仕事場、家族などの役割について過去と変わらぬ継続を強調して論拠としている。また国文化の育んできた何世紀にも及ぶ歴史や、人々の意思疎通の道具として、話題として、生活の基本として継承され、国家や個人のアイデンティティーを形成してきたと主張する。一方で、冒頭に上げたようなグローバル文化の存在を否定しているわけではなく、懐疑論者たちはそれらの文化は大抵わたしたちの生活において、マージナルなものでありアイデンティティーを形成するような歴史や深い内容は持ち合わせていない、と主張する。
論拠として彼らは4つの文化媒体の昔から変わらぬ連続性を主張する。  続きを読む
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August 19, 2004

The Day the Earth Stood Still (1951)

5c61b55a.jpg戦争終了間もない1950年代の冷戦期地球に突如銀色の円盤が現れ、ワシントンD.C.のモールに着地する。人の姿をした孤独な宇宙人クラトゥが降り立つが神経過敏な兵隊に打たれ、後ろのドアから現れたロボットのゴートに助けられる。クラトゥは、地球人に戦争の殺戮兵器が宇宙をさえも滅ぼしかねないという深刻なメッセージを伝えるが誰も耳を貸さない。運ばれた先の軍人病院でもその重大さを訴えるが熱意が伝わらず、彼はこの惑星について学ぶ為そこを抜け出し、下宿人として人間の家族のなかにはいって観察をする。

現在のサイエンス・フィクション映画の全ては多かれ少なかれこの映画の影響をうけている。主テーマの反戦メッセージを中心に鑑賞するのも面白いが、元祖SF映画としての見所もたくさんある。

邦題:地球の静止する日

お勧め度 ★★★★☆
  
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August 17, 2004

最悪の選択肢は唯一の選択肢括弧ハテナ

「派遣部隊の撤退を選択しなかった政府の判断」についての見解ーコメントへの返答

取り急ぎ乱文で申し訳ございません。

日本政府の自衛隊をイラクから撤兵するか否かの判断はさまざまな議論があり、立場によりその意見は大きく異なる。撤兵反対派賛成派の意見を検討しわたしなりの結論を述べてみたい。

撤兵しなかったと思われる理由について、できるだけ確証を交えながら述べてみたい。まず第一は、イラクにおけるアメリカ主導の統治機構にかけが生ずると、その穴埋めが難しいという点だ。日本軍が500人撤兵するとしよう。その穴埋めは連合に参加している他の国が負担することになるが、連合各国内における増兵反対は多数派であり容易ではない。

第二に、元外務省勤務の天木直人氏のいうアメリカ追従外交が日本外交の唯一の路線(「さらば外務省!」講談社)だとしたら「撤兵」することは、日本外交の路線を180度方向転換する行為にも等しいのではないか。アメリカ組みから脱藩して独自の主義主張をもとに政策を組み立てていく能力は、日本には備わっていないように思われる。

第三の理由としては、「テロに屈しないこと」があげられる。アナン国連事務総長も人質事件多発後のスピーチにおいて、テロリストたちの行為を非人道的であると非難し、すぐに人質を解放を開放するように呼びかけている。犯人の要求にしたがって撤兵するということは、この非人道的なやり方に有効性を持たせるのではないのかということである。

ちなみに人質救出の確証についてだが、日本政府は普段接触を持たない外国の機関などから後々協力金を要請されたなどという情報からも、限りなくゼロに近かったと判断する。

一方、撤兵についての賛成論には次のようなものがあるのではないか。まず、そもそも米国の仕掛けた「イラク侵略」に疑問を持ち、国連総会の承認を得なかった戦争に加担する形での日本の自衛隊派兵に根本から反対だ、という意見だ。つまり、イラク戦争は不正かつ違法だという終始一貫した信念に基づいたものだ。

自衛隊撤兵の話とは少しずれるが、フィリピンのように中東地域に多くの労働者が出稼ぎに行くような国では、自国民の生命を守る義務を優先したといえるだろう。 その点日本はイラクや周辺諸国に住む邦人をほぼ国外退去しており、政府関係者は最悪の場合でも、三人の犠牲ですむと考えたのかもしれない。フィリピンのアロヨ大統領は“海外で働く人の幸福は国益”と述べている。彼は続けて「米・豪など数カ国は、撤退の決断でフィリピンが世界の敵になったと叫ぶ。しかし、大多数の国がどう感じるかも重要だ。フィリピンがイラクに派兵したのは、アロヨ氏が有志の輪に加わったからだが、この連合自体が世界の多数派を形成していないことを考えるべきだ。世界から孤立しているグループがあるとすれば、それは(有志)連合のほうだ。」と高々に述べている。

撤兵しなかったことに関する個人的意見は持ち合わせていないが、国際社会の一員としての日本の立場を考えると、一度出した駒を早々に引き上げることは自国の決断に対する責任感と他国からの信頼をかくのではないかという懸念がある。しかしながらどの国に対しての責任感や信頼をかくのかを考えたうえで、違法だとされた戦争についてこれから盛り上がってゆくであろう戦争責任などの議論を見据えると、派兵した事実は消すことのできない傷となって歴史に刻まれることを懸念するのは私だけではあるまい。イラク特措法に違反してまでも米国の顔色を伺って撤退できない可能性さえ懸念される日本政府である。そもそも撤兵するような政府ははじめから派兵していない。  
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August 15, 2004

THE PIANIST (2002)

pianist今までにナチスのホロコーストを描いた映画はいくつかあった。シンドラーズリストやGood Evening, Mr.Wallenbergなどであるが、それらは主に集団的苦しみにテーマを置いているのではないか。ピアニストの監督、ローマン・ポランスキー氏(Roman Polanski)は少し違った見方から接近していったようだ。それはホロコーストのなかの個人の苦しみである。その個人とはピアノ弾きの天才であるヴラディスラフ・スピルマン(Wladyslaw Szpilman)であり、彼のホロコーストの記憶が映画のベースとなっている。

実際のストーリーを元に製作された映画であり、主な登場人物は実在する。シュピルマンを救ったヴィルム・ホセンフェルド(Wilm Hosenfeld)というナチス将校の情報は少ないが、彼の81歳になる息子が証言を集め、近年本を出版したという話も聞いたことがある。

お勧め度 ★★★★☆


最後に:オランダ語字幕で見たので、ドイツ語で話されている部分が聞き取れなかった。いずれ字幕を作るのが好きなフランダースの少年に英語の字幕を作成してもらい再度みたい。  
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04年4月25日の手記より イラク邦人人質事件について

イラクにおける邦人人質拘束事件後、犯行声明文を宛てられた当の日本政府は、事件全体の原因を被害者3人の自己責任に言及した。事件に関してまともな説明のせず、保身のために被害者に全責任を押し付ける政府と、それを鵜呑みにしてしまう国民は、日本の将来にとって大きな問題であろう。

「自己責任」、「自演自作」説は、首相、外相を初めとする政治家や閣僚から湧き出た。外相は、今年十数回もイラクから退避勧告が出されており、被害者3人は、自分勝手に出かけたから窮地に陥ったという。都知事は、「家族と水杯あげていけ」(窮地に陥った場合には他人に迷惑をかけず自己完結せよ)と、暴言を吐いている。与党対策本部では山の遭難事故を例に、「救出のための費用を公開すべき」とか「被害者が払え」などと、何を対策していたのか疑問が残る。一方、国際社会は、連発する拉致事件を英米のイラク戦争に協力する形での軍隊派遣と、ファルージャの米の掃討作戦への地元レジスタンスによる反動だという見解を当初から示している。国連無視の無法戦争、グアンタナモの違法監禁、大量のイラク民間人犠牲者、混乱の続く米の統治、日常生活の悪化などに対する行き詰まりの中でこのような事件はおきやすくなるということだろう。事件の真相は、「被害者が勧告を無視したのが悪い」で完結するほど浅くはないのだ。日本の対策本部は、被害者の自己責任や自演自作など議論にならない議論に火をつけていたが、米英を支持し自衛隊を派遣した当の本人たちこそ、自覚と自己責任を持っていない。被害者攻撃をして自分たちへの責任追及から逃れる隠れ蓑を作るのに必死だったのだろう。

第二に一般国民の政治とメディアに対する受身な姿勢が政府のでっちあげを盛り上げたといってよい。ボランティア活動の基本は「自己責任」ということは日本国際ボランティアセンターも言明している。その上で、拘束された原因を彼らの「自己責任」とすることは、そもそもボランティア活動というものを根本から理解していない証拠ではないのか。権力に弱い人々は非政府活動がもたらしてきた国益、たとえば日本のアラブ社会におけるイメージの貢献、などにはあまり目を向けていないように思われる。政府の隠れ蓑である「被害者の自己責任論」を耳から入って脳を通らず口がらでるのは人間ではなくパペットである。パペットでいることにに甘んじてしまったら、知らぬ間に国民の自由は権力に拘束されてしまうだろう。


  
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Scarface (1983)

scarface1932年映画のリメイク。アル・パチーノ扮するトニーモンタナとスティーブン・バウ扮する親友役のマニー・レイがキューバから難民としてマイアミに到着する。キューバ人有力人物を殺したあと彼らは法的な手続きを経て国に滞在しようとするが成功せず難民キャンプを離れさまよう。やがてコカインを売るようになりトニーの勢力拡大は著しかったが、権力が高まるにつれ、彼の敵と自身のパラノイアが彼の帝国に黒い影をさし始める。

お勧め度 ★★★★★
  
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August 14, 2004

Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb (1964)

dr strangelove米空軍カーネルのジャック・リッパーが狂い、ソ連を破壊する為に彼の爆撃機を大統領の許可なく送り出す。彼はソ連の共産主義者たちがアメリカ人の貴重な魂をけがすと強く信じて止まない。米大統領がリッパーのアドバイザーと会うが、同席したソ連の大使に「もしソ連が核兵器攻撃されると地球上のありとあらゆる生物と植物を破壊することができる”ドゥームズデイ”が自動作動する」と伝えられる。スタンリー・キューブリック監督。
邦題:博士の異常な愛

お勧め度★★★★★
  
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The English Patient(1996)

english patient1930年、ハンガリーの地図製作者のアルマジーがサハラ砂漠のチャート政策に関わる。世界大戦がちかづくにつれ、アルマジーは愛の世界、そして裏切り、政治の世界に入っていくが、そのことは後に飛行機事故で大やけどをしたアルマジーの回想となって描き出されている。

アルマジーを演じているのはイギリスのセクシー男優のラルフ・フィンス。恋人役のクリスティン・トーマスのファッション(薄いエメラルドのふわりとしたワンピースに白のジャケットと大きいつばの帽子)が印象深い。鑑賞したのは数年前だが覚えている。

お勧め度★★★★☆
  
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John W. Dower

afb3f471.gif1959年アムハーストカレッジでアメリカ論の学士を取得、1972年にハーバード大学で歴史学とアジア語学で博士号を取得している。MITで教鞭をとる前はマディソン、ウィスコンシン大学(72−86)とカリフォルニア大学サンディエゴ校(86−92)で勤務した。日本史と東アジアとアメリカの関係を専門とし、特に戦争と平和、人種主義、記憶などに焦点を据えて活動している。

著書に「Empire and Aftermath:Yoshida Shigeru and the Japanese Experience (1979)」、「War Without Mercy: Race and Power in the Pacific War (1986)」、「collected essays under the title Japan in War and Peace (1994)」、「Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II (1999)」などがある。ピュ−リッツァーやバンクロフトなどの数々の賞を受賞し、日本にも多くの読者がいる。



http://web.mit.edu/sts/faculty/info/Dower_John-css.html  
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