
6月23日(日)雨
こんばんわ、エロビスです。
先日、関東在住の叔母さんから母に西本願寺に行きたいとのお誘いがありました。何故かエロビス氏と京都在住の親戚も召集される事になり、昨日から1泊2日で京都まで西本願寺説法ツアーに行ってきました(笑)
始発の電車と新幹線でAM9時前には京都駅に到着。さすが京都、インバウンド全開でございましたw

さっそく京都駅で合流した一族郎党は西本願寺に向かいました。

西本願寺唐門

エロビス氏が一度拝観したいと思っている西本願寺飛雲閣。

秀吉の聚楽第の遺構とも言われている建物なのですが、年に数回しか一般公開していませんorz
で、有難い御説法を聞かせて頂き

使命は果たしました(`・ω・´)
満足そうに、関東への帰路につく叔母さん。えっ、もう帰っちゃうの?
という訳で、もう用件は終わった訳ですが、せっかく京都まで来たのですから、観光しないと勿体ないですよね(笑)
母親と従兄弟の嫁さんは買い物すると仰せなので、従兄弟と二人で観光しました。もう長いこと京都に在住してる従兄弟ですから、

さぁ、どこに行こうというのかね?
と、ナビする気満々だった訳ですが、金閣寺とか清水寺とかメジャーな観光地は、アウトオブ眼中のエロビス氏。まさか、そんなマニアックな場所に行きたいと言うなんて思いもしなかったのです。
宇治の近くにあるJR木幡駅。いつも通勤で通ってるらしい従兄弟は、こんなトコに観光地があるのか?といった表情でした(笑)

宇治陵
宇治陵1号(総遥拝所)

JR木幡駅近くの住宅街に宇治陵1号と呼ばれる史跡があります。ここは墓所の入口。
この史跡後ろに地蔵山という墓山があったのですが、宅地開発に伴って住宅街になってます。この住宅街の一角に36もの墳墓があります。墓山なんて昔はあちこちにあったのですが、ここの被葬者は、藤原摂関家と藤原氏から入内した皇后という高貴な方々です。

皇族の縁者という事で、宮内庁により管理されてます。
こんな住宅街の至るところに墳墓が点在しています。

全部はコンプリートできず行ったトコだけ撮ってみましたが、こんな閑静な住宅地を二人で徘徊していると、
不審者に間違われないか心配でした(笑)

















36もの宇治陵には墓石はもちろん、なんの説明書きもないので(そもそも観光地ではない)、殆どの宇治陵に誰が埋葬されているのか分かりません。たぶん宮内庁も知らないと思います。そして、そんな宇治陵で1番行ってみたかったトコに到着しました。
宇治陵32号 関白藤原道長墓(かも)

大河ドラマ「光る君へ」のファンであるミーハーなエロビス氏は、どうしても行ってみたかったのですw
なぜ32号が藤原道長の墓と分かるのかと申しますと、はっきり断定はできないのですが、平安貴族の日記に道長の墓所についての記載があり、そこに書いてある位置を探っていくと、この32号が一番合致するのです。
それにしても、こんなトコにあるだけに、近くの住民もこれが藤原道長の墓とは知らないのでは?

「この世をば我が世とぞ思ふ望月の・・・」
藤原摂関家の絶頂期を築いた天下人藤原道長。その100年前、政争に敗れ太宰府に左遷されて不遇の最期を迎えた菅原道真。このひっそりとした墳墓と菅原道真の墓所でもある太宰府天満宮の繁栄ぶりを鑑みると、1,000年後の勝者はどちらだったのかとか?
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。
平家物語を朗読する怪しいエロビス氏でした・・・('д` ;)
宇治陵の散策を終えた御一行様は、汗だらけになってコンビニでビールを買って乾杯(笑)、母親と従兄弟の嫁さんが車で迎えに来て下さり次に向かいます。
醍醐寺

豊臣秀吉晩年の醍醐の花見で有名な醍醐寺も散策しましたよ。



平安時代から戦国時代、そして江戸時代と目まぐるしく移り変わります(笑)
岩屋寺


忠臣蔵で有名な大石内蔵助が、松之廊下刃傷事件で赤穂藩が改易された後に一時住んでたトコらしいです。ここで密かに仲間と会い、仇討ちの計画を練っていたのかも知れませんね。


京都市近郊の山科・宇治は今まであまり行った事がなかったのですが、歴史の宝庫ですね(*´Д`*)ハァハァ
征夷大将軍 坂上田村麻呂墓


翌日の今日は、午前中だけとあまり時間もありませんでしたので、駅近くを母親と二人で徘徊。
東寺




東寺も有名な観光地なのですが、エロビス氏的には、やはりこういうトコが好み(笑)
羅城門跡

平安京の正門であった羅城門。羅生門とも呼ばれ、芥川龍之介の小説でも有名ですよね。


羅城門でタイムアップ。裏道を通って京都駅に向かいました。
それにしても、京都の住宅地の密集具合は半端ありません。住宅地の面積は20坪もなく、隣の建物との隙間は30㎝もないのでは?こんなに窮屈では、将来、どうやって解体工事するのだろう・・・

最後に前日に行った、観光地?を紹介したいと思います。ここも前から行ってみたかった!
明智藪

本能寺の変後、羽柴秀吉との山崎の戦いに敗北した明智光秀は、敗走中、ここで落武者狩りに遭い非業の最期を迎えました。

ここは雰囲気が残ってて、とても良かったです。もちろん誰もいませんでしたがw
織田信長の戦いと言えば、桶狭間の戦いや長篠の戦いが有名ですが、エロビス氏が一番好きな戦いであり、明智光秀との信頼関係もにじみ出る「天王寺砦の戦い」を紹介して終わりにします。ご静聴、有難うございました(笑)
天王寺砦の戦い
天正4年。数年に渡る大坂石山本願寺との攻防に業を煮やしていた織田信長は、近くの天王寺に砦を築かせました。砦を守っていた明智光秀や佐久間信栄等は、石山本願寺に攻撃を仕掛けましたが、鉄砲隊で有名な雑賀衆を味方に付けていた本願寺勢は激しく銃撃し、動揺する織田軍に反撃、明智光秀たちは潰走して天王寺砦に逃げ込みます。15,000とも20,000ともいわれる大軍で砦を包囲する本願寺勢。
窮地に陥った明智光秀は、京都にいた織田信長に急使を派遣して援軍を要請しました。
事態を知った信長は直ちに兵を集めさせますが、他の軍勢は遠方に出張しており、急な事でもあったのでなかなか集まらず、やむを得ず、信長自らわずか100騎を引き連れて天王寺近くにある若江城に入城しました。
その後も兵を催促するもなお集まらず、ようやく3,000程度。もたもたしている内に再び光秀からの急使が来て、このままではあと数日持たないとの由。ここでむざむざと光秀達が討ち取られては無念であると信長は少ない兵力で突撃する決意を固めました。
信長自身も抜刀して本願寺勢に突撃。
雑賀衆の鉄砲隊の激しい銃撃にバタバタと倒れる織田軍将兵。信長自身も負傷しますが構わず突撃を繰り返し、遂に敵の陣中に突っ込みます。白兵戦では貧弱な雑賀衆たちを蹂躙し、たまらず敗走した本願寺勢を横目に天王寺砦への入城を果たした織田信長を見た光秀は、涙を浮かべて安堵しました。
ところが、敗走した本願寺勢、どうやら援軍で駆けつけた信長の手勢が小勢であると分かったようで、再び押し寄せてきます。
これを聞いた信長は「今、敵が間近にいるのは天が与えた好機である」と言い放ち突撃を命ずる。
「味方は小勢であり、先程の戦いで疲弊している」と家臣たちが反対するも、そんなネガティブな意見を聞く信長ではありません。自ら出撃するから、光秀たちも「殿に遅れるな!」と討って出ます。
本願寺勢も、まさか織田軍が出てくるとは思ってなかった上に、信長の檄で勇気百倍の織田軍の死に物狂いの攻撃で総崩れになり数千もの死傷者を出して潰走、城に逃げ込みました。そして、もう二度と城から討って出てくる事はありませんでした。
それからもなお数年、信長と石山本願寺の攻防は続いたのですが、最後は信長の圧力に屈して本願寺は城を明け渡し退去したのでした。
石山本願寺降伏後、信長は本願寺攻めの総司令官であった宿老・佐久間信盛を戦いに積極的では無かったという理由で折檻状を突きつけて追放してしまいました。
そして、信盛が兼任していた信長の近くにある近畿方面総司令官の後任に選ばれたのが、この戦いでも大いに活躍した明智光秀だったのです。
それまで忠義一徹だった光秀の心に野心が芽生えた瞬間でした。



















































































































































































































