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最新アルバム"Orange" Orange

1stアルバム"Red" Red

人と別れる時、何と言って別れるだろうか。
「じゃあね」「それでは」「では」「ではまた」「またね」「これにて」「さらば」─。いくつもあるが、代表的なものはやはり「さよなら」だろう。「さよなら」の由来は「左様(さよう)ならば」。「それならば」という意味だ。

別れの言葉は大きく4種類に分けられる。

・別れる意思を伝える言葉につながるものが残っているもの(さよなら系)
「帰ります」という言葉の前にあった言葉が残っているものだ。例えば「それでは帰ります」から「帰ります」を省略して「それでは」となっている。
「さよなら」は「左様ならばこれにてお暇仕る(正確な言い方かは不明」のうち「これにてお暇仕る」を省略して「左様ならば」となり、それが短く縮まっていき「さよなら」と変化したもの。言葉ってどんどん略されていきますね。

・再会を期す言葉(また系)
「またね」などまた会う意思があるあることを伝える言葉。英語だと"See you again"だ。他のパターンだと「ではまた」だろうか。あまり同様の言葉が見つからない。

・相手の体調・気持ちを気遣う言葉(ごきげんよう系)
普段使うことはほぼないが、「ごきげんよう」という言葉がある。これは「ご機嫌よくお過ごしください」という意味だ。会うときにも使える(その際は「ご機嫌よくお過ごしですか」という意)。一般的には会う時に使うイメージが強い。
意外なのは「あばよ」もこのような意味が込められていることだ。「あばよ」は「あんばいよう(按配よう)」の略である。「按配」は「体調」の意味であり、「体調よく(お過ごしください)」ということだ。ぞんざいな挨拶かと思いきや、相手のことを思いやる優しい言葉だった。英語だと"farewell"か。

・去ることを詫びる言葉(お詫び系)
「失礼します」「失敬する」など

昔から気になっていたのは「さよなら」がなぜ別れの挨拶の代表格になったのか、ということだ。日常で「さよなら」と口にする機会はどれだけあるだろう。友人・知人との別れの際に出る言葉はおそらく「じゃあ」「では」「また」などといった、発声しやすい言葉ではないだろうか。
「左様ならば」はいわゆる武家言葉だ。江戸の庶民が別れる際にそんな重苦しい言葉を使うとも考えにくいので、この言葉が一般に浸透した理由がわからない。

考えられるのは”二度と会えない”可能性が「さよなら」には込められている点だ。「じゃあ」や「またね」などその他の挨拶にはその含意はないと考えられる。この1点において「さよなら」は他の挨拶たちとは違う特別な言葉になっている。そしてその点が「さよなら」を代表格たらしめているのかもしれない。

※英語圏に「SAYONARA」が浸透して、それが逆輸入された影響もあるのかもしれない。
※一切研究などしていない素人考えです。また語源には諸説あります。

バンドTシャツは黒いものが多い。
だけど、黒いTシャツは夏着ると暑い。
だから、Tシャツが一番大活躍する季節なのに、着れない。
なので、バンドTシャツは白にしよう。
汚れが目立つ分、買い替えも促せる。

カバンの裏地も黒いものが多いが、あれも改善を希望。
黒いと中が暗くて物を探しづらい。

人のことを、地名を頭につけたり、地名そのもので呼ぶことがある。
親戚だと地名を頭につけて「木更津のおじさん」「神戸のおばさん」で呼んだり、落語家や役者も黒門町とか矢来町とか地名で呼ばれていたりする。役所や政治家を霞が関・永田町と言ったりもする。

ふだんの会話でも知人のことを指す時に地名で言うことがある。
自分もある日無意識に「●●(地名)がウンと言いますかね」と言った。
その瞬間、気がついた。
名前で言えばいいところを、なぜ地名で呼んでしまったのか。
この心理はなんなのか。

元々、いわゆる偉い人をその名前では呼ばない。
将軍だと「大樹」とか「公方」、大名は「御館様」とか。落語家も町名で呼ばれるのは大師匠だけだったようだ。
これは、偉い人の名を口にするのは無礼にあたるので、という理由があるのは想像できる。

役所や組織を、それらが設置されている場所の名で呼ぶのは、おそらく便利なんだからと思う。
「霞ケ関」といえば官僚組織全体を指せるし、「桜田門」だと警察組織のことを言える。

親戚を地名で呼ぶのは、なんだろう。
同じ地域に住んでて同じ苗字だから、というのはわかる。
しかし、個人的な経験になるが、離れて暮らしていて苗字も異なる親戚を呼ぶときも、全て「●●(地名)のおばさん(おじさん)」と呼んでいた(なので、大人になってからその親戚の苗字を知った)。

上記の、ウンと言わなそうな知人に自分が言及した際も、地名で呼ぶ必要性がない。
ただ、なにかしら「その人の名前をはっきり言いたくない」理由が感覚としてあったはず。
「ウンと言わなそう」ということからもわかるが、その知人に愉快な提案をする予定ではなかった。
だから婉曲的にその人を指し示したかったのかもしれない。だけど、それはなぜか。
婉曲的に誰かを指し示したい時に地名を使う心理、というものが存在するのだろうか。

この感覚はなんなんだろうなあ、と10年ほど思っているが答えはわからない(調べてもいないけど)。

多言語のことはよくわからないが、ニューヨークに住んでいる叔父さんのことを "Hey, New York Uncle" とはおそらく呼ばないと思う。


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