2006年02月21日

休止いたします。

とりあえず、このブログを休止いたします。
いつ、復帰するかは未定です。
一年ちょっとありがとうございました。  
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2005年12月18日

ライフ・イズ・ビューティフルを鑑賞1

ライフ・イズ・ビューティフル


ある方のブログで『この映画はベッソンの「Leon」を抜いて私の最も好きな映画かもしれない。』ということで前から気になっていたが今回見ることができた。
僕としては、ニュー・シネマ・パラダイス、イル・ポスティーノのようなものを想像していたが全然違った。
まず内容の前に言葉がうるさいし、明る過ぎる。(音楽のメリハリはあるのだが・・・)
内容としてはユダヤ迫害というシリアスな部分で、こんな明るく表現できるのはイタリア人特有のものか?

あと収容所に送られたユダヤ人の父親が幼い息子を生きながらえさせるためにとった意外な作戦。
これも明る過ぎる。もう少し陰の部分があって良いのでは・・・・

ところでニュー・シネマ・パラダイス、イル・ポスティーノはイタリア、フランス合作である。
それが作品として明るすぎず,暗くすぎず、ちょうど良いものにしているかもしれない。

あと後半部の詰めが甘い。時間的問題でカットした部分があるかもしれない。

しかし,セットや背景の色の合わせ方は。さすがイタリア!
日本人には中々できない色の合わせ方をしてくる。

結論をいうと残念ながら期待はずれだった。

これをブログに書いていた方は、バグダッド・カフェ(1987)、ナイト・オン・ザ・プラネット(1991)、パリ空港の人々(1993)など素晴らしい映画を僕におしえてくれた。

今思っても凄いと思う。

あの感覚は、今でも健在なのだろうか。



  
Posted by emac at 15:38Comments(0)TrackBack(0)映画 | 映画

2005年12月16日

私のジャズ史8

1988年6月に富樫雅彦、スティーブ・レイシー、ジャンジャック・アベヌル3人のツアーがあった。

菅平、東京、大阪、名古屋の四カ所。
富樫氏の場合、連日コンサートを開くことができない。
車いすで,お尻に負担がかかるからだ。だからそれを踏まえたツァーではないと成り立たない。どうしても経費が掛かり普通の
ミュージシャンより高くなってしまう。プロモーターも大変だったと思う。

さて、このツアーの時初めてスティーブ・レイシーを生で見た。温和な方でジェントルマン。当時55歳位、なのに驚いたことは練習を絶対欠かさないのだ。ホテルの部屋からソプラノサックスの音が約2時間位いつも聞こえてくる。世界レベルは凄い!
 
そしてコンサート本番。初めて聞いたレイシーのサウンドは全然わからなかった。(笑)
フレーズ、タイミング、リズム全て初めての体験だった。
それが時間が経つと、心地よいものとなっていく。
この音を聞けばレイシーとわかるのだ。これが個性なのだと思った。

昨今の日本ジャズプレイヤーでそのような個性的な方は殆どいない。日本で評価されても世界では難しいだろう。まあ外国人の方から見たらまね事としかとらえないだろう。だから髪の毛たてたり、奇抜なことをやって評価されない限り難しい。(方法論が違うんじゃない?まあ才能がないからね、、、)

世界で通用するには、自分のサウンドカラーを築き上げない限りだめなことを痛切に感じた。

残念ながらスティーブ・レイシーは2004年6月亡くなってしまった。日本公演数日前に、、、
偉大なアーティストがまた一人いなくなった。

おまけ
これも富樫氏から聞いた話。
アメリカにスタンゲッツのように上手なサックスがいた。
しかし、あまりにもスタンゲッツに似ていて評価されなかった。
外国では二番煎じはだめなのである。  
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2005年12月14日

私のジャズ史7

富樫氏のアシスタントをしていた時、19回レコーディングに携わった。(うち4回は、自社レーベルで発売)
このレコーディング、段取りに関しては普通のLIVEとは全然違う。
まずドラムセットの用意。大体3〜5日前から調整をし始める。
まずヘッド(ドラムの打面)の交換、チューニング、シンバル選び。
チューニングに関して楽曲により替えるので、大体2セット分のドラムを持って行く。シンバルに関しても通常の倍近く持って行くときもあった。
収録に関しては、グーループ一発録りがほとんどで、ライブのスリル感を大切にしていた。
音質についても厳しく、自然なサウンドを要求していた。

ここでこの自然なサウンドを理解できていたレコーディングエンジニアは殆どいなかった。
現代の主流の音楽はコンプレッサーばんばんかけ、今の音楽に合うように作られている。
それだからドラム独自の自然なサウンドを知らない。
(特に日本のエンジニアは低い。)

富樫氏はドラムの余韻に厳しかった。

おまけ
富樫氏がエンジニアとして安心していたのは、キングの高浪初郎さん(字あってるかなあ?)とアメリカのデヴィッド・ベイカーだけ。
高浪初郎さんのレコーディングの素晴らしさは見たのだが。
デヴィッド・ベイカーの技術は僕は見られなかった。
そしてもうデヴィッド・ベイカーの技術は見られない。
(今年没)
残念である。
  
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2005年12月09日

私のジャズ史(番外編)

af8cb0d9.jpg富樫のアシスタントをしていた時、朝倉俊博さんというカメラマンが富樫の写真を撮りにきた。

この朝倉俊博さんはモノクロ写真では超有名で、報道、舞踏の写真を撮り、そのほかにもお酒を美味しくする微弱超音波熟成法を発明し11PM(古〜い)にも出演していた天才肌の人である。

その朝倉さんに取材させてくれというオファーがくる。
え?富樫さんじゃないの?
なんと朝倉さんはその頃アサヒグラフに連載をもち、若手ミュージシャンの紹介をしていた。

タイトルは「さすらいのミュージシャン」(笑)

将来プロミュージシャンになろうとして、富樫のアシスタントをやっている心意気に共鳴して下さったのだろう。初め躊躇したが、富樫氏と相談し、御受けする事にした。

さすが、朝倉さん!かっこ良く撮ってくれた。
1988年 5/13号
載ったときは天にものぼる気分であった。20冊買い込んだ(笑)

いい思い出である。
  
Posted by emac at 15:29Comments(0)TrackBack(0)JAZZ | JAZZ

2005年12月08日

私のジャズ史6

 今までジャズの感覚を学んだのは、富樫さんが一番だった。
ジャズでもフリージャズ(後半、スタンダードジャズもやったが)をメインでやっているので、そこからは何を学んだのかと思うかもしれない。
しかし、富樫さんは自分の演奏以外、自宅などではフリーなど殆ど聞かない。何を聞いているかというと、50〜60年代の奇麗な音楽。
(多分ミュージカルが全盛期の頃のジャズ)
よく喫茶店で流れているようなムードジャズ。
それを聞きながらベースラインを歌っている。

実は富樫さんは、中学中退で松岡直也のバンドに入る前に、殆どの楽器をやっていた。それは彼の父親のダンスバンドで経験していたのである。(たぶん欠員してるところの穴埋めではないかと、、、)
だから大体の歌もの(スタンダード)はベースラインを歌えるのである。

こんな話も聞いた。

まだ歩ける頃、銀座のクラブ(50〜60年代ジャズのメッカ)をはしごして、なんとベースで飛び入りしたようだ。
当時のどんな日本人ベーシストよりジャズになっていたらしい。

当時日本に来ていたナットキングコールの弟(オルガン奏者)に相当ベースを弾いてくれと頼まれたらしい。(最後はなんでやってくれないと怒りはじめたらしい。富樫談)

これを書きながら改めて富樫さんの凄さを感じる。  
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2005年12月07日

私のジャズ史5

次に富樫氏の記憶力。
半端ではない。
大体の演奏日を西暦から記憶している。
「あの演奏は198○年の○月○日だったなあ〜」こんな感じである。

忍耐力。
彼は諦めない。徹底的に自分の音楽を突きつめる。
よくこんなことを僕に言ってくれた。
「思ったことは絶対できる。」「無理なことはない。」

さて、前回は演奏前の集中力のことを書いたが演奏後は、自分の演奏を欠かさず聞く。
演奏は確実に自分のDATで録音する。(一番バランスが良く録れるのは、グランドピアノの下。)
本当は地方に行くと打ち上げとかあるのだが、本当は早くホテル、もしくは自宅に帰って、自分の演奏を聴きたいのである。
そして納得のいくまでその録音を聞く。(途中車の中でもヘッドホンで聞くこともある。)

天才というものはこんなものなんだろう。

おまけ  

これは富樫さんに聞いたのだがロイヘインズは自分の演奏を全部覚えているそうである。自分のレコードをすべて同じように叩けるそうである。  
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2005年12月06日

私のジャズ史4

僕の場合、富樫雅彦のアシスタントをやっていたことがジャズを学ぶ上で、重要なことであった。

富樫が天才といわれる所以は、
集中力、記憶力、忍耐力この3点が挙げられえる。

まず集中力。
演奏の当日になると、無言の時間が増える。もうその日の演奏を考えているのである。車での移動時間の沈黙が気持ちいい事を覚えている。

そして演奏が始まります。そして一曲おわります。チューニングが気に入らないと、「トントン」とチューニングをしなおす。そしてチューニングを終わると次の演奏と、、、、

音に関しては今まで会ったどんなミュージシャンよりも神経質でした。  
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2005年12月05日

私のジャズ史3

54049a36.jpgもう少し富樫氏の事を紹介しよう。

富樫雅彦(トガシ・マサヒコ)

1940年3月22日東京生まれ。14歳の時に松岡直也トリオに抜擢されプロ・デビューした天才肌のドラマー。その後八木正生、渡辺貞夫、高柳昌行らのバンドで活動。不慮の事故により70年代以降は車椅子の生活を余儀なくされたが、独自のドラム・セットを考案し、独特の間を活かした演奏によって新境地を開拓した。2000年6月には渡辺貞夫、日野晧正、山下洋輔、佐藤允彦など多くの仲間に囲まれ、音楽生活45周年記念コンサートを開いた。

アシスタントになって始めての仕事は、1987年3月29日横浜新都市ホールでの山下洋輔さんでした。18年も経っているのにその時の情景は今でも鮮明です。

富樫のドラムセットは独自なため、慣れたときでも1時間30分位かかります。当時始めたばかりのときは2時間以上かかった覚えがあります。

写真を見てもらえればわかると思いますが、まずタムタムの数が尋常ではありません。
このタムタム全て正確な音程でチューニングされています。
この順番を間違えると、演奏ができないのです。(時々間違えて怒られたりしました。)

大体セッテイングが終わると、ピアノでタムタム一つずつ調整します。こんなドラマーは初めて見ました。  
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2005年11月18日

私のジャズ史2

高校を卒業して,アマチュアビッグバンドに入る。
自分の成人式はそのビッグバンドでステージに立っていた。
当時,全然弾けなく、弾いているまねをしてた。(ン〜懐かしい!)

何年経つと、豊橋グリーンホテル、ラウンジ「シャギー」で週一回演奏していた。その時はギタートリオで、今考えるとよくやらせていただけたなあと思う。正直ひどかった。もう20年前になる。(またまた懐かしい!)

でだんだん「これでいいのか?」と思っているさなか、ジャズ雑誌で富樫雅彦アシスタント募集が目に入った。

僕の記憶では、旧新宿ピットイン(紀伊国屋書店の裏)で高柳昌行氏(通称ジョジョ)とのDUOを聞いたかとがある。フリージャズはそのときに洗礼を受けた。

「これだ!」と思い、即電話。富樫宅に行く。
そこからアシスタント家業(通称ボーヤ)をやり始める。  
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