2008年12月28日

中国歴史街道の旅ー知音の会2008 (11)

26b205b7.JPG11) 王陵区、ユウ里城、岳飛廟

朝一番の大興奮見学が終わったら、再びバスに乗り込み、今度は殷墟の反対側に向かいます。
ここは殷墟の「王陵区」になります。昨日見た「宮殿区」から5劼阿蕕のイ譴討い襪修Δ福F口も全然別になっています。
ここは、中国最大の鼎である「司母戌鼎」が出土した場所です。
王陵区は、商の代々の王が葬られていたところですが、昔から有名だったため、ほとんどすべて盗掘されていたそうです。
それも、戦国時代にはすでに盗掘されていた・・・と聞いてびっくりです。せ、戦国時代ってめっちゃ古代じゃないですか〜〜〜(^_^;)

今はだだっぴろい公園になっていて、いくつかの王墓を公開しています。司母戌の方鼎のレプリカがこちらにも鎮座しています。
あちこち見たかったのですが、時間節約のため最短コースで、目的地の王墓へ向かいます。
何故かここには孔雀がおりました。
ほとんどの王墓は、十字型の形をした穴なのですが、「M1567」だけは未完成でした。これには墓室がなかったので、最後の王=紂王が使う予定だったものではないかとも言われているそうです。祭祀場もあります。祭祀場で、小さな穴がたくさん空いているのは、殉死した犬や牛などが埋められていた穴だそうです

現在公開されているのは「M260」という王墓です。深い穴に、殉死者の骨もあります。たしか商の時代は人狩りをして、殉死もさせてたんですよね・・・。ここには独特の雰囲気があって、誰も写真を撮っていませんでした。

車馬の展示館などもあったのですが、とばして次の目的地へ向かいます。
今日も予定がずれこんで来ていますからね(^_^;)


次の観光地は「ユウ里城跡」です。安陽の郊外で、あまり遠くはありません。周囲は青々とした麦畑です。
これは太公望の話で有名な場所です。周の君主であった姫昌さんが、商(殷)の紂王に捕らわれていた牢獄です。いわゆる奴隷収容所ですね。中国で最古の牢獄とも言われています。
地下の部屋に7年間閉じこめられて、足が腐りかけたという話ですが、当時はどんなのだったのでしょう。ここで、息子のスープを飲まされた姫昌さんは、その怨みを忘れず、解放された後に反旗を翻し、ついに商王朝を倒すことになったわけです。
またここは、人狩りで捕らえてきた奴隷達も働かされていたところなんですよね。

来てみると、立派な門が出迎えてくれました。明の時代に修復されたそうです。遺跡を発掘すると殷の時代のものも、それ以前の龍山遺跡の物も出ているそうです。
牛さんによると、1993年に初めて来た時は、こんなに立派ではなく古い石碑しかなかったそうです。しかし、今はすごく立派な石碑もあります。
「周易」といった文字が躍ります。ここは「易」の発祥の地とも言われていて、そちらの方が有名なのかもしれません。

入口には周の文王の巨大石像が堂々と立っておられます。やかで賢そうな表情の姫昌さんですが、十二等身(?)ぐらいある巨大なお姿です。写真スポットですね。
それから、珍妙な形の文字の石碑がありました。くねくねしていて金文に近いようですが、少し漢字っぽいような・・・専門じゃないのでわかりませんでした。(写真は後日アップします)

お堂に進むと、手前の建物の中に変な生き物の像があります。角の生えてる亀さんですが、玄武なんでしょうか。その横には囲碁のような易の白黒石を配した盤があります。
反対側には、ええっと・・・なんでしょう??普通は朱雀かと思う赤い姿ですが、馬みたいな像が・・・・・・麒麟??良くわからなかったです。
そして周文王をまつるお堂の壁には、周の文王の壁画シリーズがありました。ユウ里城で捕らわれている時に、1人で「易」を発明した話や、炮烙の刑や、「周の文王が太公望に会う」や、商(殷)の紂王を倒す、や、最後には中国の賢人たちが勢揃いの壁画がありました。諸葛亮さんまでおられましたよ。何でもありですね。

また、敷地内には小屋があって土壁が保存されています。これは龍山文化遺址だそうです。
龍山文化と言えば、黄河文明の1つ、新石器時代の遺跡ですね!黒陶が出ているので黒陶文化とも言われています。
だいたい紀元前3000〜2000年ぐらいのものだそうです。
山東省だけじゃなく、河南省にもあったんですね。で、その出土層が保存されているということだそうです。現場の説明板には、「7メートルの厚さ」とか「商周に至る文化」とか書かれていました。
屋根と手すりがあるのですが、見たところ、ちょっと穴のあいた土壁でした。土器とか陶器とか見えていたら面白かったのですが。
さらに、下の方に最近作られた観光施設があるようでしたが、牛さんに言わせると「見る価値はありません」そうなので、そちらには行きませんでした。
とても綺麗に整備されていて、古代の陰惨な雰囲気は全く感じられませんでした。


ユウ里城を離れ、次に行ったのは岳飛廟です。私は、今年の1月に杭州へ行った時に、西湖ほとりの立派な岳飛廟を見てきたのですが、こちらにもあるとは知りませんでした。
ここ安陽郊外の湯陰県は、岳飛の出身地なのだそうです。観光地なので、周囲はとても賑やかです。
ちなみに安陽育ちの牛さんは、子どもの頃にご家族とここへ来て、写真を撮ったことがあるそうです。
こちらの門内にも、入ったところに秦檜(しんかい)夫妻などが後ろでに縛られて座っている銅像がありました。岳飛に無実の罪を着せて殺した裏切り者と言われているからですが、杭州ではいまだにこの秦檜達の像に唾をはきかける人がいます。しかし、ここの像は汚れておらず綺麗でした。

杭州の岳飛廟ほど大きくはありませんが、さすがに国民の英雄です。有名な書家の扁額や石碑やなんやかんやもあります。お堂の中には、お母さんが岳飛の背中に「尽(精)忠報国」の入れ墨をしている姿などが置いてありました。
岳飛の書と言えば、有名なのが「出師の表」ですね。孔明先生の銘文を、闊達な筆致で書いたものですが、私は書に詳しいわけではないので、それが本当に岳飛の筆なのかどうか存じません。ただ、この拓本を持っていまして、とても好きです。
また、この近くには岳飛の故居跡が残っているそうです。
古来からの英雄とあって、お堂の中には、書がたくさん飾ってあります。書道をされる方には楽しいのではないでしょうか。続きを読む

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2008年12月18日

中国歴史街道の旅ー知音の会2008 (10)

0ca36c98.JPG4日目 商から大梁へ
(10)安陽の考古学研究所

4日目の観光は、殷墟の続きからです。本来の予定表では、3日目に見学するはずでしたが、予定がずれこんでおります。
バスに乗り込んで、小屯村へ向かいます。安陽市殷墟区にある小屯村は小さな農村だったのですが、昔から漢方薬の「龍骨」が出るというので知られていたそうです。出ていたのは龍の骨ではなくて、古代の殷の遺物でした。そして殷墟の発掘で一気に有名な場所になったそうです。

今朝一番に向かうのは、殷墟の敷地の端っこに位置する、「中国社会科学院 考古研究所 安陽工作站」です。つまり、ここは国の研究施設で、職員さんは北京から派遣されて来られているのだそうです。
当然ながら、一般観光客向けに開放している所ではありません。今回の見学は牛さんによる特別見学の手配のたまものです。

朝の8時過ぎ、バスから降りて研究所の前に立つと、冷気が身に染みました。気温は5℃前後でしょうか。
門の前の道路の脇には、コンテナのような四方を板で囲まれた箱のような家のようなものがごろごろ。畑の物だろうと気にも留めてなかったのですが、牛さんが指さして言いました。
「あれは(殷墟で)発掘されたものですよ。整理できないので、ああいう風に土ごと置いてあるんです」
えええ!?いや、一見浮浪者の家のような、ビニールハウスのような小屋にしか見えないんですけど。畑の前にごろごろ置いてあるだけ、という大胆さというかおおらかさ、いかにも中国らしいです。

門内に入ったものの、担当者さんはまだ出勤されてませんでした。土曜日なのですが、職員さんお仕事なのでしょうか。
門内の中庭にも、また四角いコンテナや、丸い篭がいっぱい山積みしてありますが、これも発掘品(土ごと)だそうです。収穫したジャガ芋を入れてる篭にしか見えないよ〜〜〜(^_^;)
そうこうしているうちに、担当の方が来られて、中に入れてもらえる事になりました。建物内は写真撮影禁止です。

入口を入って階段を上ると・・・・・・ええっと、入口の脇にも、階段の横にも、段ボール箱が無造作にあちこちに置いてあります。土が入って、にょきにょきと甲骨片が突き出たままの段ボールが、ごみのように雑然と。
それ。数千年前の牛の肩甲骨ですよね〜〜?すごいお宝じゃないんですか?いくら屋内だからって、無造作過ぎやしませんか??そもそも、室内ですらないのですが・・・。
まぁ、15万個以上も出ていたら、そんなものかも知れません。要は発掘品が多すぎて調査しきれないってことなんですね(^_^;)
中庭の篭も、道路の外に置いてある木箱コンテナも、いつか時間が出来たらちゃんと掘り出して整理する、というものなのだそうです。

さて、案内していただいたのは、2階のだだっぴろい作業室でした。工作教室みたいです。手前のテーブルでは、何人かの女性達が土器類の修復作業をしておられます。
そこで、副所長さんという方からお話を伺いました。この研究では日本とも繋がりが深くて、日本の研究者の方も良くこられるとのこと。また副所長さんは奈良にも来られたことがあるとのことでした。おお!、橿原考古学研究所のことかしら〜〜。余程、私は奈良から来たんですーって言おうかと思いましたが、『奈良』という字の発音を忘れたので言いませんでした。(奈良=ないりあん、nai4liang2と読みます。)
ここでやっている仕事の話をざっと聞いて、それから質問タイムです。誰かが土器の使用法について、どうして用途がわかるのか?と聞いところ、紐をかけた跡と思われるとか、同じような形の物が時代を下って発見されてるとか、そんな答を、身振り手振りを交えてお話して下さいました。
しかし、写真もビデオも撮れなかったので、記憶がかなりあいまいです・・・(^_^;)

そんな中で、遺物の修復作業をお仕事にされている貴子さんが、作業中の方の周りを興味深げに密着して観察しておられました。さすがご同業です!!
牛さんが「彼女はこれと同じ仕事をしています」と言ったら、その作業されてた女性達もぱっと顔をあげて、きらりーんと目を光らせていました。
後で貴子さんが言われる事には、あの道具であれをやるのか、日本ではもっとなんとかを使う、とかなんとかかんとか・・・ははは、わかんないけど面白いっす。


部屋を出ると、別の棟の2階、謎の部屋に案内されました。ソファとテレビしか無い部屋でしばらく待っていると、別の部屋に来るように呼ばれました。
別室は、広い木製の教室のような部屋で、30年前の小学校のようです。部屋の中央にいくつか木製のテーブルがならんでいます。
ああ、この既視感っ。これから何が起こるのかわかってきました。7年前の候馬でもこんなことがありましたよ〜!!

職員の方が何人か箱を抱えて部屋に入ってくると、机の上で10個ほどの箱を並べてくれました。蓋をあけると、中には、甲骨片と卜甲片が。
どひゃ〜〜〜〜、生の甲骨片だ!!!
わーわーわー、ガラスケースじゃなくって、生ものですよ!!ちゃんと読み取れる甲骨文字が書いてあるよ〜〜!!
触らないよう言われたけど、間近まで顔を近づけて見ても大丈夫です。さらに隣のテーブルには、箱もなにもない、青銅器を4つ持ってきてくれました。
わわわ、これも生の青銅器だ〜〜(笑)大興奮の私達です。
それにしても取り扱い、結構無造作でしたね(^_^;)

青銅器は、三角屋根の付いた四角い「方彝(ほうい)」、お尻しもぶくれの「鬲(れき)」、鬲の上に鍋が付いたような「ゲン」、お尻がぷっくりしている「鼎(てい)」の4つでした。青く錆びていますが、ぷっくりした形の鼎には、きれいなトウテツ紋が出ています。
甲骨片&卜甲片はは写真はダメとのことでしたが、青銅器は写真撮っても良いとのこと。この青銅器はすでに書籍として発表したから、甲骨片はまだこれから発表するものだから、とのことでした。撮れるものだけ、激写!!です。

副所長さんが、分厚い立派な本を持ってきて、「これは、この本に載ってます」と説明してくれました。
「殷墟新出土青銅器」という本で、副所長さんが著者として書かれたそうです。10月に出版されたばかりの本で、欲しければ販売します、著者2割引の580元で・・・とのことでした(笑)日本円だと1万円弱ぐらいです。
そこで迷わず購入する小林様、素晴らしい!!
私も欲しかったのですが、あまりにも本が大きくて重かったのでびびってしまいました。だって1キロぐらいありそうだし、百科事典ぐらい大きいし。最終日だったら買ってたかもしれません。

興奮さめやらぬまま、研究所の建物を後にしました。
建物を出てくると、中庭に可愛い犬がいました。首輪に鈴付けてもらって、走る姿の可愛いのなんのって!!
「Ni hao!」と挨拶して、写真を撮ったら、つつつつ〜〜と後を付いてきて、私のズボンの匂いをくんくんかいでいました。外国では犬に触らないのが鉄則なのですが、思わず手袋したまま、頭をなでてしまいましたね〜(^^)

研究所を後にしながら、牛さんが言いました。
「今回この研究所の特別見学を予定に組み込んだのは、7年前の件があったからです。」
そう、7年前の旅行時には、候馬(こうば)の研究所で、「玉に刻まれた春秋時代の銘書」を特別に見せていただきました。あの時も、研究所の一室で、箱入りお宝を持ってきて、見せてもらったんですね。どんなに我々が興奮したか!今回も本当に大喜びでした。
ちなみに、ここの所長さんは、安陽のご出身なのだそうです。北京へ行って考古研究所に入ったが、故郷の殷墟の発掘にかかわりたくてこちらに赴任されたのだそうです。牛さんは鄭州の旅行会社ですが、同じ安陽出身ということもあり、親しくされているのだそうです。
正直言って、この特別見学の事は全く分かっていなかったので、牛さんの手配りにはひたすら感謝感謝でした。続きを読む

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2008年12月13日

中国歴史街道の旅ー知音の会2008 (9)殷墟

a6657c32.JPG(9)殷墟

邯鄲から安陽までは約80キロです。趙の城壁跡を出発したのが15時なので、安陽の殷墟へ着いたのは16時半近くになっていました。

安陽の町に入ると、町の中心を流れるコウ(サンズイ+亘)水があります。
我らが牛さんは、なんと安陽のご出身で、昔この川沿いに住んでおられらそうです。現在は省都の鄭州にお住まいですが、今でもご両親は安陽にいらっしゃるそうな。
川沿いにさかのぼると、いよいよ殷墟公園が見えてきます。さすが世界遺産だけあって綺麗に整えられています。ちょっと見た目は平城京跡みたいですね〜〜。(←奈良人の発想)
川の南岸にあるのが殷墟の「宮殿区」で、はるか数キロ先の川の北岸にあるのが、王族のお墓である「王陵区」になります。

世界遺産の「殷墟」は、中国古代の「商王朝」の遺跡です。
商王朝(殷)は、紀元前1600年から1046年まで、約550年間も続いた長い王朝ですが、紂王が太公望&周の武王に倒されて滅亡しました。
最初の都は鄭州の近くにあったそうですが、紀元前1300年頃から滅亡まで、約250年間に都であった「大邑商」が、この「殷墟」です。今から3千年〜3千3百年ぐらい前の話ですね・・・。

ここが有名なのは、大量の甲骨文字の記された亀の骨(卜甲)や、牛の肩甲骨などが発掘されたからです。漢字の原点とも言える甲骨文字ですね〜〜。わくわくします!!

さて本日の観光は、殷墟の宮殿区です。
殷墟に着いたのは、すでに日が傾むき閉館時間も迫っておりましたが、夕暮れ観光団の我々は気にせず入場します(^_^;)
入口を入るとだだっぴろい敷地が広がっています。
真正面には、シンボルマークの「司母戌方鼎」のレプリカが建っています。これは中国で発見された最大の鼎だそうです。重さが875キロ・・・って、とんでもないですね。実物は国家博物館へ持っていっちゃったそうな。
宮殿の建物跡は53ヶ所発掘されて、そのうち幾つかを再建しています。建築様式は、周時代のものを参考に作ったそうです。

私達は、牛さんの指示で、まずは右手にある博物館へ向かいました。
入口は地下にあるのですが、スロープに沿って現代→過去へさかのぼる長さの年表が示されています。清あり、明あり、宋もあり、唐もあり、漢あり、戦国時代、春秋時代、西周時代、そして商代・・・に辿り着いたところで、入口です。「歴史回廊」と言うのだそうです。
降りた所には「主題水園」という池があります。テーマの池庭園という感じでしょうか。池の中には、亀の骨(卜甲)をかたどった黒い石があり、色鮮やかな鯉たちが泳いでいます。この亀型石に刻まれている文字はパンフレットによると「日在林中初入暮、風来水上自成文」という甲骨文字学者さんの詩の一部なのだそうです。甲骨文字なので読めませんでしたが、水がゆらゆら煌めいて、いい感じです♪

博物館の中には、「大邑商」コーナー、「青銅器」コーナー、「玉器」コーナー、「文字」コーナーがあります。ミニ売店もあります。ちなみに博物館の中は写真撮影OK(フラッシュ禁止)でした。

「大邑商」コーナーでは、土器や、埴輪のような土人形、人の首を煮た青銅器などがありました。
「青銅器」コーナーは、いろいろな種類の青銅器があります。殷墟は中国で最も多く青銅器が発掘されており、まだ整理されてないのが山ほどあるんですよね・・・。量には圧倒されます。爵などあちこちで目にする祭器などの他に、何やら不明な動物あり、兎ちゃんあり、角の生えたなめくじみたいなものが・・・これは酒器の蓋なのだそうです(笑)
他にも、頭に武器が刺さったままの頭蓋骨などもありました・・・。
「玉器」コーナーは、これまた多種多様な玉がいっぱい。玉ソウあり、玉壁あり、装身具あり、鳥あり・・・
「文字」コーナーは、この殷墟博物館の白眉でしょう。甲骨文字の刻まれた骨片は15万以上発見されているそうです。
亀の腹骨(卜甲)に文字が刻まれたもの、牛の肩甲骨に文字が刻まれた有名なものが展示してあります。これが安陽のシンボルになっているそうです。生で見ると、つやつやしてすごく綺麗です!!三千年前の物とは思えないな〜〜〜〜。
殷(商)は宗教国家だったので、占いでなんでも決めており、牛の肩甲骨に火箸をあてて、そのひび割れ具合によって結果を読み取っていました。亀の骨は、火にあぶっていたそうです。ところで、亀の骨は、甲羅だと思っていた方もおられたようですが、背中の甲羅は平らではありません。腹の骨なんです!!

また、国外に流出した青銅器の事も展示場に記載されていました。
なんだか見たことのある・・・と思ったら、SAKAMOTOコレクションと。これは我が奈良の国立博物館にある坂本コレクション(青銅器)の事ですね。http://www.narahaku.go.jp/exhib/2002hei/seidoki-1.htm
日本で青銅器コレクションが有名な所は何ヶ所かありますが、奈良国立博物館のもなかなか良いです。京都の古美術商だった坂本氏が数年前に寄贈されたもので、旧館の方に2部屋もらって展示されています。ご興味ある方はぜひどうぞ。

博物館の出口近くには、小さな売店がありました。しかし時間もなく店員さんが1人だけだったのでゆっくり見るのは断念。しかし、牛さんが図録をまとめて購入して下さいました♪そして我々は外に出て、殷墟に沈みつつある夕陽を見たのでした・・・。

夕陽が沈んでも、まだ観光は終わりません。
次は公園内の反対側に向かってぞろぞろと「婦好(ふこう)墓」へ向かいます。
どど〜んと立つ、凛々しい美形の婦好像は、右手に斧、頭には兜をかぶっていますが、女性だけあって優美な顔立ちをしておられます。婦好は、中国最古の女性将軍と言われており、商王武丁(しょうおうぶてい)の正妻の1人とされています。大変寵愛されていましたが、33才で亡くなったそうです。
婦好のお墓は全く盗掘を受けていなかったので、すごい量の副葬品が出てきました。この方は墓地のある王陵区ではなく、宮殿区内に葬られていたからですね。

石像のすぐ脇に、婦好墓の地下へもぐる入口があります。
階段を下りると、墓室を上から見ることが出来ます。観光客もたくさんいますが、室内にはおどろおどろしい陰気さがただよっています。殉死した人の骨もありますが、墓室の上の方にある骨は、犬の骨だそうです。犬も殉死していたのね・・・。
これが婦好の墓だと分かったのは、有名な「婦好」という文字が出ているからです。人が踊っているような不思議な甲骨文字です。伝説の中の人物が、世に姿を現したのですね・・・。

さて婦好墓から出たら、次は車馬坑館です。閉館時間を過ぎてるので従業員さんが電気を消そう・・・としたところに、無理矢理入れてもらっちゃいました。
車馬が埋められた跡で、2馬、1人、1車がそのまま発掘されたものです。見事と言えば見事なのですが、日が暮れてから見ると陰気が強いです。馬車の幅が意外と広いことに驚きました。そして私達が外に出ると、従業員さんは電気を消して扉を閉めていったのでした。

車馬坑館を出ると、外はもう暗くなってますが、我々はずんずん奥に向かって歩きます。暗くてあまり見えないのですが、地面に不気味な穴ぼことガラスドームのような物がいっぱいあります。
横から除いてみると、白い骨が・・・!!!
「きゃあああ!」
こ、こ、これは!!
「あ、その穴は本物ですが、骨は石膏です。犬とか人のとかありますよ」
そ、そうですか、夕闇の中で出会うにはあまり嬉しくないです。本物じゃなくて良かったです。
さらに進んで、四角い広場にやってきました。ここが宮殿の跡です。いくつかあるそうですが「乙8基」というのを見学しました。礎石が153個残っているそうです。
なんとも感慨深いですが、ほとんど見えない・・・(^_^;)

さて本日の観光はこれで終了。帰り際、左手に碑林がありますが・・・・・・・・このとっぷり日が暮れた暗闇の中では、墓石にしか見えない・・・。というか、殷墟そのものが殉死者などもある墓地でもあるわけなのですが!!!
ここに限らず、夕闇の中で撮った写真(墓地ばかり)は良く分からない光がいつもたくさん映っていたのですが、どうも私だけじゃなかったようです(笑)

とっぷり日が暮れた後、安陽賓館というホテルへ向かいました。夕食はホテルの中のレストランだったので、帰る時間を心配しなくても良いのです。
夕食のメニューは・・・ええっと、昼食の時に書いた「香菜の杏仁和え」はここで出たものでした・・・すいません。
その他は、お豆さんの盛り合わせ、鳥の姿焼き?(とさか付き)、鶏肉、干し棗と柿、豆腐と白菜のスープ、茶碗蒸し、包子、インゲンとキノコと唐辛子の炒め物、トマトと卵の炒め物(定番)、セロリ炒め、盛り合わせ・・・これは、茹でた殻付きピーナツ、コーリャンで作った三角帽子のような饅頭的なもの、黒い餃子状のもの、黒い餅米蒸しものの4点セットです。それから、小麦粉で作った焼き餅状のもの、う〜ん、凸凹して焼き目が付いてて、辛い味噌を付けて食べるものです。ワッフルに一番近いかも。それから辛い炒め麺、汁麺、お肉の炒め物と白飯でした。地方によって毎回違うメニューが出るのが面白いです。

心おきなくゆっくり食事をとり、ホテルの売店で安陽らしいお土産を購入してみました。
牛さんだけでなく、運転手の牛さんも心なしかリラックスされているようです。やはり本拠地河南省ですからね。
牛さんと言えば、故郷に戻っても、我々のデジカメのSDカードを買いに行ってくださったり、紹興酒を買って足してくれたり、本当に気を遣っていただきました。
うちのメンバー達は、牛さんに、ご実家のご両親のところへ帰るように出すように言ったぐらいです。彼と同じぐらいの年の子どもさんがいらっしゃる方達ばかりですので・・・。

良いホテルでしたが、うちの部屋では風呂の栓が閉まりませんでした(^_^;)まあ、長い旅の中で1回ぐらいはしょうがないです(笑)
ひねっても動かないし、手で押しても、手を放すとぽんっ!と戻ってしまうので、浴槽に座ったままシャワーを浴びました。旅も中盤に差しかかった3日目の夜のことでした。続きを読む

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2008年12月07日

中国歴史街道の旅ー知音の会2008 (8)

93ff7937.JPG(邯鄲続き)

次に行ったのは、同じく市街地にある「学歩橋」です。
戦国時代、燕の国から若者が、邯鄲にやってきました。趙の都・邯鄲の人は歩き方が優雅だと知られていて、歩き方を学ぶために来たのです。しかし、真似をしてみても上手くいかず、しまいには自分本来の歩き方まで忘れてしまって、とほほの程で自国に帰っていったそうな。
その「学歩橋」の前には、みょうちきりんな石像があります。颯爽とした貴族らしき男性、しゃなりしゃなりと歩く貴族らしき女性、その後ろにペンギンのような格好の若者の3人セットです。橋そのものは、意外と普通の橋でした(笑)

さらにその近くにあったのが「回車巷(かいしゃこう)」。
趙国の恵文王の臣下であった蘭相如(りんしょうじょ)は、筋の通った硬骨漢でした。
文官ですが、秦の脅しに屈せず、「完璧」や「刎頸(ふんけい)の交わり」と言った言葉で知られています。。
ここは蘭相如(りんしょうじょ)が、廉頗(れんぱ)将軍と出会って、顔を会わせないために車を返した場所だと言われています。
国のためなら、メンツも捨てる硬骨漢・蘭相如の逸話の1つで、廉頗将軍と「刎頸の交わり」を交わす事になった有名な話です。ここで引用するのは大変なので、興味のある方は調べてみて下さいね。
ちなみにここは、蘭相如の屋敷跡だったとも言われているそうです。
しかし、この由来が書かれている石碑、傷が酷くてぼろぼろでした。すぐ裏にガラス屋があったからそのせいかもしれませんが、もったいないことです。人通りの多いややこしい場所で、観光客が群がると、ちょっと変な感じでした。

さて昼食は、邯鄲市内でいただきました。「煌都大酒店」というすごい名前のお店です。お店に着いてすぐにトイレに行ったのですが、なんと店員さんが迎えに来てくれたんですね〜。お客が迷わないように誘導してくれるんです。こんなお店はここだけでした。すごくサービスが良かったです。
昼食は、辛い白菜(激辛唐辛子入り)、小魚南蛮漬けみたいの、ピーナツ胡麻揚げ、ブロッコリー、セロリの千切り、ミミガーみたいなの、青梗菜炒め、海老唐揚げ(頭と胴)、野菜巻き餃子?、ふわふわ団子、白身のお魚煮込み、チャーハン、南京フライ、肉炒めなどなど。邯鄲名物料理は白菜とお肉の煮込みだそうです。そうそう、「香菜(しゃんつあい)の杏仁和え」が美味でした。生の香菜にお酢とごま油を掛けて、スライスした杏仁と混ざっているのですが、とても美味しかったです。全体的にちょっと辛めでした。

昼食後は、邯鄲市の、高速道路料金所を出てすぐのところで、車を脇に止めてもらいました。車を降りてどこに行くの?と思ったらそのまま、道路脇の畑にずんずんすすんでいきます。日本の高速道路は、なぜか高架の道路が多いですが、外国ではそうではありません。スペインでもイタリアでも、高速は普通の地面の高さの道路でしたし、中国でも立体交差以外ではそうでした。
茨の生い茂る土手を越えて、さらに奥へ・・・ジャガ芋畑までやってきました。その奥に小高い土手が見えます。
「これが趙国の城壁跡です。」
「!!!」
い、言われなきゃわかんないよ〜〜〜!!!小山にしか見えないよ〜〜!!!
別に保護されてるわけでもありません。ただの小高い丘にしか見えません。そして畑仕事をしてる人が「なんじゃあいつら?」という不審な目で見ております。
しかし、私達の心は古代に飛んでいるのです。ここは、趙が秦軍を防いだ城壁なのです。
牛さんが「哀兵必勝」という言葉を教えてくれました。
秦が中国を統一する直前のこと。秦の将軍・白起は、長平の戦いで趙に大勝し、趙兵40万人を生き埋めにました。現代人の我々ですら、本当に40万人も生き埋め??と思うショッキング事件ですが、どうやら事実らしいです。
40万人も兵士を殺された趙はガタガタになっており、さらに秦軍が都の邯鄲に迫り、もう駄目かと思われたのですが、趙の民衆は死力を尽くして秦軍を撃退しました。この城壁あたりがまさにその死力を尽くして守った場所だろうとのこと。
もちろん魏や韓の援軍もあったのですが、悲しみを秘めた兵士の死力は、数倍の敵にまさる、という意味だそうです。
この時は秦軍を撃退したものの、結局約30年後に趙は秦に滅ぼされてしまうことになるわけですが・・・。
遠い古代の風景に思いをはせたあとは、道無き道を踏み越えて、またバスの所まで戻って来ました。

これで邯鄲市の観光も終わり、ガイドの劉さんとお別れしました。
バスは、次の目的地である河南省の安陽に向かいます。邯鄲と安陽は省は違いますが、距離は近いです。
河南省では、本拠地の牛さん自身がガイドして下さるそうです(^^)

安陽には、今回の旅のメインのひとつである「殷墟」があります。殷墟の発見は、中国歴史上の大きな事件で、今は世界遺産に登録されています。
今回の旅行は、私達がマイナーな所ばかり行ってたように思われるかも知れませんが、実は世界遺産を3つも回ったのです!!
しかし、最初から最後まで、日本人観光客にはただの1人も会いませんでした。空港以外では、日本人全く見かけなかったです。日本からの観光客は減ってるそうですが、なんだか情けない気がするのは私だけでしょうか。
ちなみに、日本では中国産食品に神経質な人が増えていますね。絶対食べないって人もおらるれようですが、私達が中国で食べた食事は当然ながらみんな中国産食品でした。何の問題もなく美味しくいただきました。
今、日本では大量の食品を輸入しておりますが、中国産の食品違反率が際だって高いということはありません。中国産の食品が総量として最も多いので、違反食品の量が最も多いのは事実です。しかし、違反率が他国製品より特に高いわけではありません。統計を見ればすぐ分かることなのですが、マスコミは敢えてそういう報道はしないのですね。
中国の食品に怪しげな物が多いのは事実ですが、食品全体の割合から見れば、ほとんどは問題が無いのです。実際に中国の人達みんな普通に生活していますから。
マスコミはもっと、無責任に必要以上に過大に隣国に対する危機感を煽っている事を自覚するべきだと思います。メラミン混入事件のように、中国で食品に対して安全よりも金と選ぶ人がいるのは事実ですが、日本でも事故米を食用に転売して儲けるような人もいるのですから。

話が脱線してしまいました(^_^;) 本業がからむとつい・・・(^_^;)続きを読む

emano at 21:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!旅行記 

2008年12月05日

中国歴史街道の旅ー知音の会2008 (7)

a3e2962c.JPG3日目 邯鄲は成語の宝庫

旅行中の朝食は、ホテルのバイキングです。
外に行っても良いでしょうが、毎朝7:45にスーツケース持って降りなければなりませんので、時間的な余裕もないし、毎日お昼と夕食がお腹一杯なので、朝軽く済ませる方が多かったです。
私も朝食はずっとお粥を食べていました。中国の朝食は、パンもどれも美味しいですけど、お粥が美味しいので好きです。

朝、石家荘のホテルを出ると、再び南に向かいます。今日はこれから河北省の南にある邯鄲市へ行き、それから河南省北部にある安陽市へ向かいます。移動距離もやや少なめ(約160キロ)です(^_^;)

河北省の省都は元は保定市でしたが、戦乱を避けるため石家荘に移転したそうです。石家荘はまだ歴史の新しい町とのこと。
そして石家荘と言えば、最近有名な事件がありました。そう、牛乳メーカー・三鹿集団によるメラミン混入牛乳事件です!
日本のインターネットで「石家荘」と検索すると、牛乳事件、メラミン事件の記事ばかり(^_^;)
さらに、冷凍餃子事件があった「天洋食品」も河北省のメーカーでした。メラミン事件の影響で、石家荘市の幹部はほとんど首がすげ替わったそうで・・・なんともあまり嬉しくない日本との縁がある都市なのでした。

今回の旅の前半は、楽穀の旅でもありました。
この石家荘は、まさに楽穀の出身国であった「中山国」にあります。中山国の都であった「霊寿」は石家荘の少し北西にある町です。
楽穀の小説中に出てくる、楽穀が趙軍と死闘を繰り広げた「井ケイ(こざとへん+據法廚論于帆颪寮召砲△蠅泙后
牛さんが、北京空港で買った詳しい地図のページをコピーして配ってくれたのですが、「霊寿」と「井ケイ」には○印が付いていて、霊寿よりさらに西にある「西柏坡」には△印が付いています。えーーっと、共産党の聖地、革命の聖地として有名だという説明でしたっけ。
小説で、中山国が最後の時を迎える「呼陀(こた)」は呼陀川(現在のコの字はサンズイの難しい字)沿いのどこかですが、牛さんは霊寿の南にある「黄壁」ではないかと言っておられたのではないかと思います。

さて、燕→中山と来て、次は趙ですね!

バスが邯鄲市に近づくと、牛さんが邯鄲市の地図を配ってくれました。
邯鄲市のガイド・劉さんが(牛さんの依頼かも)用意してくれたものだと思います。日本語は出来ない男性の方でしたが、市内を案内してくれました。
我々知音の会のメンバーは、皆様、結構な地図好きです。まじまじと見て、遺跡跡など場所を確かめます。こういう細かい資料って、日本では手に入らないんですよね〜〜。
石家荘のホテルの部屋にあった地図もみんな欲しがって購入したりしておりましたが、私も他の方から譲っていただきました。帰国してからも眺めています。
邯鄲の地図を見ると、趙の王城跡がいまでも広い面積で公園として残っているそうです。

市内に入ると、さっそくロータリーの中心部に立派な騎馬姿の石像が・・・おお〜「胡服騎射」をとりいれた趙の武霊王ですね!!
邯鄲市は、現在は河北省の南端に近い一地方都市なのですが、今でも都であった誇りを保っていて、古都らしい文化の香りがぷんぷんします。こっちの方が省都じゃないの??って錯覚するぐらいです。大通りの雰囲気は、ちょっと洛陽に似ている気がします。

邯鄲と言えば成語の宝庫と言われており、邯鄲由来の故事や四字成語がたくさんあるそうです。
3日目最初に行ったのは、「邯鄲の夢」という故事で有名な「黄梁夢 呂仙祠(こうりょうむ りょせんし)」という道教のお寺でした。廬生(ろしょう)さんという人を祀っています。
この廬生さん、科挙に落ちて邯鄲の宿で黄梁(大粟)を炊いていたところ、仙人の呂洞賓に出会って、栄華を極めた一生を送ります。しかしそれはただの夢で、人生の虚しさを悟った廬生は、仙人になったということです。
お寺の中には、この廬生さんが寝ている姿の銅像があります。周囲には劇画調のカラフルな壁画が・・・。邯鄲の名所ということで観光客も多く、道教関係の参拝者も多いそうです。

さてさて次は、市内の従台区へやってきました。目抜き通り、公園の前でバスを降りて、邯鄲市博物館へ向かう・・・はずでした。
が!遠目に見ても博物館の入口には人気がありません。扉も閉まっているようです。
なんと閉館だったのです・・・・・・隣の青少年図書館は人がいっぱいいたのに。がっくり。思えば、河北省博物館も改装工事中とのことで、見る予定に入れられなかったんですよね。
しかし、昨日陳さんが用意してくれた河北省博物館の絵はがき「満場漢墓」セットをいただき、さらに「中山王墓の遺物」セットは人数分なかったので、牛さんがくじ引きを作ってくれました。運よくゲットできて満足です♪

ともかく博物館は諦めて、まっすぐお向かいの従台へ向かうことになりました。
元々旅行予定には入っていなかったのですが、牛さんが「やはり、武霊王の野望の台へ行ってみましょう」と言われたので、我々も大喜びで行くことになりました。結果的にこれは大正解でした!!

武霊王の野望の台は、中国語で「従台(つぉんだい)」と呼ばれています。つまり「ここから見た台だ」という意味でしょう。
従台公園は典型的な中国の市民公園で、観光客や市民がたくさん訪れています。
中には城郭とお堀があって、一段と高い楼閣(據勝亭)がそびえ立っています。階段を上りきったところにあるのが従台です。

「従台」は「趙の武霊王が、中山国を望見した」場所と言われています。望見、というのは単純に眺めたのではなく、あそこを征服するぞ、という呪いをかけたような呪術的な意味です。実際、この何年か後に武霊王は、中山国を攻めて滅亡させてしまうのでした。
しかし本当は邯鄲市内ではなく、恒山から望見したようです。現在の「従台」は、明代に建てられたものらしいです。

私達も意気揚々と楼閣に登り、中山方面を眺めてみます。が、現代の町にはいろんな建物が多すぎてほとんど山が見えません。
「その煉瓦に登ったらかすかに見えますよ、その建物の左側に」
牛さんに言われて、次々と煉瓦の上に立上がります。
「おお〜、見えました〜〜!!かすかに山が見えます〜〜」
「あの建物邪魔よねー」
「もうこれ以上高い建物建てないで欲しいね」
ちょっと古代の王の気分を味わい、勝手な事を言って盛り上がる私達でした(^_^;)

そして、城内にある資料館へ行きました。ここでは趙の武霊王関係の資料がいくつかあって、趙や斉の貨幣などが展示されています。「胡服騎射」やの説明などもありました。。石家荘と中山国の位置図もあり、沙丘の石碑写真がありました。
沙丘の乱と言えば、引退した武霊王が、息子の恵文王に餓死させられた場所ですね・・・。うーん、小説では読みましたが、本当にあるんだなぁ。

資料館の外では、邯鄲の成語トランプなど売っていて、思わず買ってしまいました。それも2種類も(笑)裏面には「邯鄲武霊従台」と書いてあって、やはり邯鄲は「武霊王」がシンボルなんでしょうね〜〜〜。続きを読む

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2008年12月02日

ひとやすみ(笑)

e56e4a55.JPG旅行記を書いていると、どうも良くわからない事が出てきて、ただいま「楽穀」を再読中です。
3日目の途中まで書いているのですが、確認し直してからアップすることにしま〜〜す(^_^;)

では、写真一枚だけアップしておきます♪
これは世界遺産・殷墟の門です。訪れたのは3日目の夕方でした。


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2008年11月30日

中国歴史街道の旅ー知音の会2008 (6)

さて再びバスに乗り、高速道路を南に下ります。
今夜の宿は、河北省の省都・石家荘市なのですが、そこに行くまでにもう1ヶ所行くところがあります。
それは保定市の郊外にある「満城漢墓」。これは前漢の時代のお墓です。(中国では西漢と呼びます。)戦国時代とはちょっと違うのですが、とても有名なお墓で観光地になっています。
お墓の主は、前漢の武帝の異母兄、中山王であった劉勝とその皇后です。戦国時代の中山国とは違います。劉備が、自分は中山王の子孫だって言ってたその中山王の方です。
そういえば、劉備の出身地タク州とわりと近いですね。

実はこの陵墓、一度も盗掘されていません。
高い山上にあって洞窟は完全に封じられていたのです。発見されたのは近代です。共産党が全国農村を回っていた頃に、避難用?の洞窟を掘るために、この山に来たそうで、そこで広い洞室を掘り当てて、びっくりして調査したところ、郭沫若氏の判定で、中山王・劉勝の墓だと判明したそうな。
有名になったのは、副葬品が全部残っていただけでなく、「金縷玉衣」などが発掘されたから。これは遺体を玉の薄い板で衣のように全身覆い、金の糸で留めたものです。玉で覆うと遺体が腐らないと信じられていたそうです。展示として日本にも来たことがあるそうです。

それにしても、これはでかい。なんたって山です。
山そのものが陵墓になっていて、行くには山に登らなくてはいけないのだ。我々は「索道」ことロープーウェイに乗ります。
スキーリフトみたいなものですが、下に網が張ってるなんてこともなく、足ぶらぶらで結構怖いんですよ・・・。ロープが切れたりすると、下の森と岩場に落ちてバキバキ・・・でしょうね(^_^;)

そして陵墓に降りてゆきます。どうやら写真OKらしいのですが、遠慮してあまりとりませんでした。遺体のあった部屋の周囲には、ぐるりと巡る巡回通路があります。これは水抜き、というか水分避けのために作られたそうです。
その後、隣の皇后墓へも行きました。入ってすぐに、じめっとした湿度を感じました。王墓のように水分避けの通路がなかったからなんですね・・・。効果絶大です。
ここにはもう一つ有名な国宝がって、従者の形をした燭台なのです。灯りの方向を変えることができるそうです。実物は博物館だそうで、こちらにあるのは複製・・・という話だったと思います。

さて、王后墓から出てくると、日が暮れかけています。従業員のおっちゃんが、時間ぎりぎりになっても出てこない我々の様子を見に入ってきました(^_^;)
あわてて外に出ると、後ろから片付けた従業員さん達が帰ってゆきます。
これが「終了時間間際に、従業員さんと共に帰る」日々の始まりになろうとは!!

私達は再びロープーウェイに乗って、暗くなりつつある山を下ります。しかし、従業員のお姉ちゃん達は、そんなまどろっこしいことはしません!!
姉ちゃん達の通勤帰りは「滑道」です!!なにかっていうと、リュージュとかボブスレーみたいな滑る筒状通路を、ソリに乗って滑り降りてゆくんですね・・・・・・
もちろん観光客も有料で乗れます。もし行かれる機会があれば、度胸のある方はぜひどうぞ。私は途中で気絶しそうな気がします(^_^;)

ロープーウェイから降りたら、とっぷりと日が暮れていました。清掃をしていた人達もとうに帰宅してしまってます。
山で冷えたので、トイレに行こうとしたら、すでに扉には鍵が・・・!!トイレぐらい使わせてちょーだいよ〜〜。
嗚呼、早く日が落ちる悲しさかな。

そして暗くなった高速道路を、バスはひた走ります。
途中でSAでトイレをすませつつ(笑)、皆様さりげなくお買い物されてます。サービスエリアの売店って楽しいんですよね!
私も中国の道路地図を買いました。中国で運転するの?と聞かれたけど、そんな自信はありません(爆)

なおも暗くなった高速道路を走り、「石家荘」の看板が見えて来た頃、前方に美しい花火が見えました!!
「わーーーっ花火!花火!」
「花火?どうして?」
「きっと私達を迎えてくれてるのよ(←嘘)!」
実はこの日は「立冬」の日だったのです。立冬の日は、花火をあげることになっているのだそうです。
そして、立冬の日は餃子を食べることになっているそうで、私達は餃子で有名なお店へ夕食に連れて行っていただいたのでした。ちなみに立夏の時はうどんを食べるそうです。

メニューに「ちりめん状のもの」を甘く揚げたのがありまして、聞いてみたらジャガ芋とのことでした。大根のケンぐらいの細さだし、甘かったので思いもよりませんでした(^_^;)
それからトマトとお肉のスープ、麻婆春雨、巨大茶碗蒸し(大皿で蒸したもの)、海老のピーナツ炒め、お肉とシシトウ甘酢あんかけ、ジャガ芋スライス炒め煮、キャベツ炒め、さっぱり湯葉卵卵スープなどがありました。そうそう、もう一つわからないものがありました。聞いてみたら、きくらげを細か〜〜〜く切り刻んだ炒め物でした。歯ごたえが変わるので目新しい感じでした。

夕食の席で、今回初参加の方の簡単な自己紹介をしていただきました。
これは趣味の世界の仲間ですから、仕事や立場の事はぶっとばし、どうしてこの旅行に参加されたのか、などなどのお話をしていただきました。
それから初参加の方に対して、旧来のメンバーの自己紹介。皆様、前回より7年たっていてもほとんど変わっておりません。年を重ねても無事に旅に参加できたことは何よりです。
私は今回のメンバー内では最年少者ですが、世間的には立派に中年ですと言って、一同を大変驚かせてしまいました(^_^;)ものすごく若いと思われていたようです。
もちろん皆様のお子様ほどの年齢には違いないのですけどね〜〜。
私も皆様のように、元気に旅行を続けられるよう、素敵に年を重ねたいと思います。

夕食が始まったのは21時、食べ終わってホテルに着いたら22時半でした。この日が旅行中、一番遅い夕食だったと思います。
2日目の移動距離は270キロでした。ハードな日程に若干の疲れを覚えつつ、眠りについたのでした。続きを読む

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2008年11月28日

中国歴史街道の旅ー知音の会2008 (5)

さてバスに乗り込んで、次の目的地に向かいます。
北京市を出て、ほぼ真っ直ぐに南に走ると河北省に入ります。
河北省に入って最初の町が、タク州です。タクは、サンズイ+豕に似た字です。(ワードでは表示できる漢字ですが、ブログとmixiでは表示出来ないと思います)
ここは三国志の劉備と張飛の出身地です。そして、桃園の誓いの場所でもあります。(桃園の誓い自体はフィクションかもしれませんが・・・)今回の観光場所ではないんですが、なにか感慨深いものがありました。

さらに進むと、易州に入ります。ここは硯の産地だそうです。
そしてこの易県に、燕の下都(副都)であった「武陽」こと、「燕国下都遺跡」がありました。
農村にあるので、バスは村の中の農道を道幅一杯に走ります。ちょっと行ってそのあたりの方に道を聞き、農家の脇をむりやり直角に曲がったので、てっきり道を間違えたんだ!と思っていたら、いきなり開けた広場に着きました。

周囲はみんなトウモロコシ農家です。が、これが、河北省易県にある「燕国下都遺跡」だったのです。
いやあ、壮観です!!これは遺跡・・・というよりも、記念に作った施設だけのような・・・(^_^;)
あるのは、壮大な「黄金台」と、巨大な「燕の昭王」の石像と、説明の壁画と、いろんな書体の説明文。そして古びた塔が1つ。博物館どころか屋根もありません。(壁画の上だけは小さな屋根がありました)
今までにも、畑の中に小山があるだけの遺址を何度も見てきました。それを思えば、この黄金台と石像だけでも立派だと思います。

壁画ですが、燕にまつわる故事が、わかりやすく彩色劇画調でかかれています。燕の昭王が賢人を集める(隗から始めよ)や、楽穀が斉を征つ、や、荊珂が易水で決意を秘めて旅立つ、や、荊珂が秦の始皇帝を刺す、などなど。絵が大きいのでいいですね。

また広場の隣では、農家が屋根の上にトウモロコシサイロを積み上げております。サイロの横には立派なパラボラアンテナ。サイロは金網なので丸見えで通気性がいいんですね。雨がふったらどうするんだ、と思いましたが、あまり降らないのかも。
ちなみにそのトウモロコシ、人も食べるし、飼料にもするそうです。
そして、広場の前では、放し飼いらしき豚さんが草を食べつつ放浪しております。私達が近づいたら逃げてしまいました。足の速い俊足の豚さんでした。

さて燕の昭王の「黄金台」です。
日本人は「台」と聞いてもイメージがわかないですが、君主が仰ぎ見たり重要な儀式を行うところで、いわゆる丘のような舞台のようなものです。斉の桓公の「桓公台」や、趙の武霊王の「野望の台」などが有名なんですね。しかし、別に黄金でできてるわけじゃないです。
高さは5メートルぐらい、面積としては家2軒分ぐらいでしょうか。いずれにせよ、近年再建されたものです。台の上から見下ろすと、南の易水が見える・・・と後で聞きました。牛さん、そういう事は登ってる時に言ってくれなきゃ!!
黄金台の前には、燕の昭王の石像がでーーん、と立っております。石像はどれも彫りの深い美形が多いのですが、この昭王様はどっしり王者系でした。
無造作に建ってる唐突さが、なかなか素敵です。

そして一同は再びちょっとだけバスに乗り、またまたトウモロコシ畑のどまんなかに・・・なんと、ここに燕国の城壁跡が残っていたのでした!!
しかも、城壁の突端5メートルほどだけ、屋根が付いてる!!この中途半端さは何?
屋根のあるところだけ保護すればいいっていうのか、単に屋根をつけるお金がなかったのか。
でもね、戦国時代の二千数百年前の城壁が、今まで風雪に耐えて残ってるんですよ?今更ちょびっと屋根を付けてみたからって、何か意味があるんでしょうか?
さすが土を突き固めて作った版築作りは頑丈です。ところどころ穴が開いているのは、近在の住人が持ち去っていったためだそうな。
牛さんの説明によると、易水には、中易水と南易水があって、ここは南易水沿いの南端なのだそうです。ここが燕の国の境界だったんですねー。

昼食は、易県でいただきました。
面白かったのが・・・謎の食品が・・・。これはタコ?白菜?
ほうきのような蕎麦の束のようなものが、皿に載っております。
何??とみんなで首をかしげたのですが、食べてみると、豆腐でした。中国の豆腐は固いので有名ですが、これはしっかり味付けされた固い豆腐だったのです。酒粕を固めた感じでしょうか。(写真は後日別にアップする予定です)
じゃがいも炒めも美味しいし、キクラゲの炒め物も美味しいし、あと大学イモが大変美味しかったです。あ、ここではニガウリのおひたしが出ました!!火の通っていないニガウリです。めっちゃ苦かった・・・(^_^;)

次に行ったのは荊珂塔(けいかとう)です。
途中で、易水を渡りました。中国北部の川は、みんな水不足で枯れているそうですが、この川は水をたたえておりました。
ここで「南水北調」という国家プロジェクトの話を聞きました。
北京を初めとした北部の水不足は深刻で、南部の長江側の水を、北部へ送る運河を作っているのです。現在、途中まで出来ているそうです。
そんなに幅は広くなく、川程度のものですが、途中で何度かその運河を渡りました。
ちなみに、易水のあたりで大きなダムを作ったそうですが、これもそのプロジェクトの一環なのでしょうか。そのダムが、映画「赤壁」の「赤壁の戦い」の水軍戦闘シーンを撮った場所だそうです。ちょっと見て見たかったですね(笑)

さて、荊珂(けいか)というのは、映画「始皇帝暗殺」などで有名な刺客です。
燕の太子・丹の命で、秦の贏政こと後の始皇帝を暗殺するために秦に行った人ですね。暗殺には失敗して殺されてしまいますが、義士として尊敬を集めており、塔が昔からあったそうです。
この場所は、燕の太子・丹が荊珂を送り出した場所とのこと。「風蒼蒼として、易水寒く壮士一度去ってまた帰らず」の句で有名な場所だそうです。

ここは、現在観光地として整備途中で、今はなんとか駐車場ができたところ。料金所の建物まで出来ていたので、もうすぐ入場が有料になるかも知れません。
小高い丘になっており、その手前で手押し車のおばあちゃんが柿を売っております。(誰かが買ってた!)
ここから階段が丘の頂にむけてのぼっていて、麓には凛々しい荊珂の石像がそびえ立っております。いろんな石像を見ましたが、この荊珂は男前の部類に入ると思います。
「十二等身ぐらいあるんじゃない?」うん、そんな感じ。

登り切った上には、古い塔がひとつ。宋の時代のもの・・・と言ってたと思いますが間違ってたらごめんなさい。ともかく、ここには観光客がぼつぼつ来ており、4才の男の子が、ミニカーを振り回して愛嬌を振りまいておりました。その子を連れてたおばあさんと片言で会話する我々一行です。日本人とはわかってないかもね(^_^;)
丘を眺め渡すと、はるかに燕の国が見えたでしょう。反対側には太行山脈が見えております。秦はもっとずっとずっと西にあります。
見晴らし良いこの地で、荊珂は国を救う決意をして旅立ったのかもしれません。
見晴らしの良い丘に佇む塔、なかなか良い風景でした。続きを読む

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2008年11月23日

中国歴史街道の旅ー知音の会2008(4)

2日目 燕国南下

2日目の朝も快晴でした。
昨日の北京は18℃という温度で、予想外に暖かくてびっくりしましたが、この日からは普通の温度にもどったようで、最低気温も5℃前後になっています。
今日は、河北省のガイドさん、陳さんがご一緒です。眼鏡をかけた知性的な印象の方です。
北京市内にさよならして、河北省へ向けて南下します。

今日の最初の観光地は、「西周 瑠璃河燕国都遺址」です。
ここはまだ北京市の郊外です。瑠璃河のほとりに、立派な博物館が建っています。ここは、北京市が自らの歴史の古さを知らしめるために作った施設だそうな。
北京というのは、首都としては比較的新しいと言われていました。
しかし、戦国時代の燕国の首都「薊(けい)」が、この北京付近であることがわかったので、遺跡を整備して立派な博物館を建てたそうです。もちろんオリンピックの前に整備されたものだそうです。

朝のぴりっと冷たい空気の中、立派な博物館の中に入りました。団体のお客さんは私達だけのようです。
この博物館では、この瑠璃河地区で発掘された遺物や墓などを展示していますが、質の良い物は、みんな北京市内の博物館に持っていっちゃったそうです。

遺跡のモデルがありました。日本でもよく見る、ボタンを押すと、いろんな色のランプが表示がされるものです。学芸員さんの説明(中国語)のあとで、陳さんが訳して、牛さんが補足してくれます。
「白い表示は商代のもので、オレンジ色が周代の墓です。赤いのは王族の墓と思われます。そっちの緑の線は排水溝の遺跡です。周囲の白い線は、城壁の跡です。」
へ?商代?周代?燕の遺跡と違うん??
「商代と周代では、葬られている民族が違います。商代は、周囲から連れてこられた移民で庶民の墓ですが、周代のものは貴族のお墓です。」
う〜ん、要するにここは商〜周の時代の遺跡ってことですね。商(=殷)と言えば、異民族を人狩りして、生け贄を埋めたりしてたんですよね。きっと、太公望の羌族なども、移民の中にいたかもしれません。
しかし、燕の遺跡ってわけじゃなかったのね。そしてせっかくの表示ランプも半分以上壊れていました。建って半年で壊れた、ってそれもどうなんでしょうね〜(^_^;)

実際のところ、燕の遺跡については、北京市〜河北省にかけて何ヶ所か発掘されているそうですが、都であった「薊(けい)」の位置はまだ確定されてないそうです。
都の位置が5回も変わっていることもあってわかりにくいそうですが、だいたい北京付近だからいいか、っていうところでしょうか。
ただ、副都であった「武陽」については、少し南にある河北省易県にあることがわかっているそうです。

博物館の中には、墓室をそのまま掘り下げて展示しているところがありました。遺骨は殉死されたもののようです。身長150センチぐらいの人とか、子どもの遺体とか。
また、お馬さん4頭の骨がきれいに並んでいる車馬の墓室もありました。

また別の部屋には、中山国の王墓から出たという青銅器・・・・・・の、写真のみが展示されていました。なぜか揚子江流域で見つかって、今はアメリカにあるそうです。これは、燕から奪った青銅器を鋳造し直して、つまりリサイクルして作ったものなのだそうな。
また、別の青銅器の写真もありました。
これには、斉の将軍であった人の墓から出土したもので、「斉が燕に攻め込んだ時に、将軍が燕から奪ったものだ」と銘文が追加されているそうです。
これは、斉が燕を滅ぼしかけた戦いのことでしょう。滅亡寸前になった燕は、趙の助力で王子がたてられて「燕の昭王」になるんですね。そして、彼は賢人を集めて「楽穀」を見初め、のちのちに斉へ復讐することになるんですねーーー。

また、次に行く「武陽」の発掘地図も展示されていました。河北省ガイドの陳さんは、「北京市はお金をかけ立派な博物館を作りましたが、河北省にある遺跡の方は、みすぼらしくてがっかりするかもしれません・・・」とのことでした。

河北省は、あまり経済的に豊かな省ではないそうです。北京の周囲四方を取りまいています(というか、北京市が直轄市として独立してるんですね)が、美味しい部分はみんな持っていかれてるのか。後で、河北省についてはいろいろ聞くことになるのですが、とりあえずこの時は、ふ〜んと思って聞いていました。続きを読む

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2008年11月18日

中国歴史街道の旅ー知音の会2008(3)

いよいよ観光になります。

今回の北京観光は、オリンピック公園と、蘆溝橋のみです。
普通に観光で行く名所などは、行った事があるところばかりですし、今後の日程は、人が行かないようなマイナーな遺跡ばかりですので、新しい所も見ようということです。
しかし、新しい空港は、市内まで車でも電車でも20分程度とのこと。すごい場所にすごい物を作ったものです。こういう事ができるのは、全て国有地だからですね。
土地は住居権を買うだけですから、国家のためなら、用地強制収容も可能なんですね・・・。
それが良いかどうかは別として。

というわけで、中国国内でも人気の観光スポット、オリンピック公園です。
有名な「鳥の巣」こと「にゃおちゃお niao3qiao3」ですね!!
知らなかったのですが、スタジアムの前には、池があって水草も植えてあって、水鳥もいて、とても綺麗なのです。細長い池はもちろん人造湖ですが、数劼△辰椴兇侶舛鬚靴討い襪里世修Δ福
その横には、ウォーターキューブこと、水立方もあります。北島選手もあそこで泳いだんですねーー。
中国の新しくなった部分を見るのも、なかなか楽しいものです。
ここからずっとオリンピック施設が続いていて、選手村までは2劼△襪箸、何もかも巨大ですなー。

そして次の予定地、蘆溝橋へ向かいます。
北京市内をぐるりと巡る環状4号は、通勤ラッシュの時間にさしかかり、時間が読めないとのこと。
中国ではものすごい勢いで車が増えており、北京市内でも私用車の制限がかかっているそうな。曜日によって通行してはいけないナンバーが決まっていて、月曜日には末尾が1と6、火曜日は末尾が2と7、水曜日は3と8・・・という風に、連日20%カットしているそうです。車通勤の方も、週に1日ぐらいなら他の方法でもいいと思うかも。なかなか良いアイデアかもしれませんね。

さて蘆溝橋と言えば、我々日本人は、「蘆溝橋=日中戦争!」と連想してしまって、あまり行きたいとは思わない場所ですね。実際、現地には愛国精神豊かな抗日記念館のようなものがあって小学生が行くのだそうな。

しかし、蘆溝橋というのは、実はもっともっと昔からある北京の名所なのですね。
マルコポーロが「最も美しい橋」と絶賛したために、欧米では「マルコポーロ橋」として知られているそうです。
橋の欄干の獅子の数が、501だか502だか、数えられないことでも有名だそうで、「蘆溝橋の獅子」というと、数が数えられない例えだそうです。
観月の名所としても昔から有名で、現在残る「蘆溝橋」の石碑は、清の乾隆帝の真筆だそうです。
この橋は、北京市へ南西から入る唯一の入口だったので、南西からの(北京自体が中国の東北方向にあるので、一番多くなるでしょう)交通量がものすごく多かったとのこと。

行ってみて驚いたのは、風景の美しさと、すさまじくでこぼこな凹凸のある石畳。
もちろん現在人が通る場所は、平らにされており、中央部分に昔の石畳が残されているのです。
どーすれば、こんな固い石がここまでへこむのか、と思うぐらいべこべこです。
後で、馬車を見たりしましたが、轍に鉄がとりつけられているのを見て、納得しました。しかし、こんな凸凹を馬車で疾走したら、ものすごい揺れだったことでしょう・・・。

橋は永定川と改名された川にかかっています。なみなみと水をたたえた・・・ように見えたのは、観光用のトリックで、実は川は少し先で終わっていました。
北部の川は、みんな水が枯れて、ここだけ観光用にダムから流しているのだそうな。ため池状態といってもいいかも。
北京の水不足は深刻で、首都移転の話も出るほど危ないそうです。
そして我々は、のちに「南水北調」の話と運河プロジェクトについて、ずっと見てまわることになるのです。

時間は4時半を回りました。橋の上で見る見事な夕焼けは、絶景です。
橋の上から釣りをする人達の釣り竿も趣があります。月も見え、観月の名所というのもうなずけます。山査子飴や焼き芋を売る人までもが、どことなく趣があります。
牛さんの予定では、蘆溝橋で夕焼けを見よう、とのことでした。それはばっちり当たったのですが、まさかこの時には、今後ずっと夕暮れとの戦いになるとは思いもよりませんでした。
まさか、「毎日、黄昏時に墓地を回るツアー」になるとは、誰も予想していなかったのでした・・・(^_^;)


最初の夜は、北京料理でした。
この日だけは、牛さんには、添乗員ではなく「友人として」乾杯に参加してもらいました。
そして、今回の旅行が実現にいたった話を伺いました。

私達は、7年前に一緒に旅行しました。
それは近畿日本ツーリストの東京本社?が企画した旅行で、宮城谷氏の新聞連載「沙中の回廊」とタイアップしたものでした。
当時、現地旅行社の責任者として、又スルーガイドとして付き添って下さったのが河南旅游の牛さんでした。当時はまだ課長さんだったのではないかと思います。
旅行参加者は23人。我々のツアーは、比較的年齢の高い、さばけた庶民的なアマチュアファンの集まりでした。
年齢も立場も職業も全く違う人達ばかりなのに意気投合して、旅の終盤には、「知音の会」という有志の会まで作ってしまったほどです。

日本に帰ってからも、メンバーの多くが関東在住の方なので、一緒に旅行したりされておりました。私は関西で離れているためになかなか参加できなかったのですが、昨年、久しぶりに集まりに参加したときに、今回の旅行計画の話を聞いたのでした。

何人かの方は、ずっと中国の牛さんと連絡を保っていて、次の旅行をしましょう!とずっと希望をあげていて下さったのです。
今回の旅行は、牛さんが企画をたててくれたものに、渡部長老の要望を加えて、さらに最終調整したものです。

要望を聞きながら、なかなか実現に踏み出せなかったことについて、牛さん自身は「勇気がなかったです」とおっしゃいました。
考えてみれば、少し、わからないでもない。
今回は、大手旅行社が企画したわけでもありません。正直言って、個人旅行なんですね。
私達と、牛さんの個人的な繋がりから企画されたものです。
幹事の安藝さん清水さんも、牛さんも、最終的に13人という人数が集まるとは思ってなかったそうです。
実際のところ、参加したいけどこの日は来られない、と言っておられた方、体調がおもわしくなく断念された方、残念ながらこの7年の間に物故された方もおられます。行きたいという意志のある方は、もっともっとおられたのです。
私自身は、昨年秋にこの旅行計画を聞いてから、必ず参加すると心に決めていました。
そして、他のみんなもこの旅行の企画を待っていたという事を疑っていませんでした。

牛さんが、何故、旅行実現に向けて「勇気を出して」踏み出す気になったのかは、良くわからなかったのですが、彼には本当に感謝しています。
しかし、私達が忘れられない楽しい旅行だと思っていたように、牛さん自身もそう思ってくれていたと聞いて、どれほど嬉しかったことか・・・!

旅の初日は、再会を祝した祝杯でした。そして、これからの1週間の旅路を祈る杯でした。
13人で円卓を囲んで食べるのは、料理の数も多くて楽しいものです。
初日は、北京ダックまであって、楽しい夜を過ごしたのでした。

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