演劇の育て方(演劇ぶっく2012年2月号No.155)掲載
山崎彬(悪い芝居)インタビュー ロングバージョン
京都を拠点に活動を続ける劇団悪い芝居。2011年11月、東京・王子小劇場で『駄々の塊』の公演を観た演劇ぶっく編集長が、作・演出・出演をつとめた山崎彬にインタビュー。演劇ぶっく本誌では字数の関係で、掲載しきれなかった作品のこと、演劇観、来年の抱負、詳しいところまで掲載します!

悪い芝居『駄々の塊です』
作・演出・出演◇山崎彬
出演◇池川貴清 大川原瑞穂 植田順平 呉城久美 宮下絵馬 畑中華香 森井めぐみ 仲里玲央 大原渉平
2011/11/2~9◎ART COMPLEX 1928、11/17〜21◎王子小劇場
――公演をみせていただいた感想としては、おもしろくなかったけどおもしろかったです(笑)。おもしろくなかったというのは言い過ぎですね、心に響きました。観てる間ずっとおもしろいわけではないのですが、でもそれはもしかしたら山崎さんが意図として盛り込まれている部分なのかなと思いました。最初の部分とか、音が大きくて喋ってても全部が聞き取れないようにつくられている。わかってやっているわけですね。でも最初に観てるときは「聞こえないな、聞きたいな」という気持ちから始まる。お芝居が進んでいく中で、ひとつひとつのエピソードがブツブツ途切れて、普通のお芝居の感じで観ていたらちょっとイラつく部分がたくさんある。それは全部が成功しているかどうかはわからないですが、意図的なんだなと思いました。ラストシーンで大きな音で音楽が入って登場人物達が暴れ回るのを見て、自分なりに腑に落ちた感じがしました。フリージャズを聴くような感覚でした。前説が長くてすみません。公演が終わりましたが、いかがでしたか。
京都と東京でもやらせてもらって、もちろんいつものように公演をひとつ終えたなという感覚は変わらないです。京都公演のときはいつもみたいに「もうちょっとこうやったらお客さん入ったかな」とか「もっとこうできたな」という普通の反省と、でもいっぱいお客さんが入って楽しんでくれる人もいてという達成感で終わったんです。東京公演は前回より集客は減ったんですけど、やはり反応の仕方が聞いてはいたんですが変わった感じはすごくありました。いわゆる震災とかがあってそれと絡めてとらはるというか。予想はしてたんですけど全然違いましたね、感想が。反応。作品としてより、その向こう側にあるものみたいなのを観る人が増えたというか。発信するほうもそういう人たちが多いのかもしれませんが。3月11日以降からとくに、当事者じゃない感覚ってけっこう多くの人が実はもっているはずなんですけど、なぜか当時者としていなければいけないというのがあるなあと思っていて。そのあと気付いたら日本の出来事にどんどん広がっていく。それは東京も影響したからだと思うんですけど。そのとき京都にいる僕たちもそれなりにニュースを見て傷ついてはいるんですけど、「でも西の人たちにはわからないよ」という変なムードをすごく感じてまして。それを今回はそのまま作品としてつくったものがもしかしたら東京の人たちからしたら今ない感覚として見てもらえたのかなと思っています。

――もう少し具体的にお話ししていただけますか。
やはり絡めますよね。ツイッターやアンケート、直接話したことで言うと、「あの舞台は福島第一原発に見えました」とか。「動物がいなくなるというのが地震のメタファーなんじゃないか」とか。京都には全然地震を思い出した人はいないんですよ。この作品で僕がやりたかったのは、実際に僕たちが住んでるところは揺れてないけれども、同じような感覚にも強い意味はあるはずだ。だけど、「今はあなたたちはわからないでしょう」とつぶされる感じの気持ち悪さをそのまま表現したんです。今までの公演も、そのとき思うことや感じることを乗せてたんですけど。驚きました。そこまで地震を絡めるんだなと。思ってた以上に大きいことだったのかもしれないですし、そういうとっかかりだと書きやすいから書かはるんかもしれないけど。関西に一人だけ、東京でもともとライターだったという人が来てはって、その人も「たぶん東京でやったら地震を絡めたりする感覚で見られたりするかもしれないですね」と言ってました。京都ではゼロでしたけどね。
――影響があるのは観るほうもやるほうもですけど。私はもっと普通に、枠にはまらない山崎さんや悪い芝居の方たちの作品づくりに惹かれました。12回目の本公演も迎えられたし、演劇のルールもわかるし、おもしろいものもたくさんご覧になってると思いますが、そこから外れていく、ルールを一回チャラにして自分たちの作品づくりをしているという姿勢にすごく惹かれました。
フリージャズの話は稽古場でもしてたんです。つまらないものを乗せてるというのは、意識はしてまして。各シーンはつまらない・帰りたいというギリギリの時間にはしてあるんです。僕は退屈感・倦怠感エンターテインメントと呼んでるんですけど。常に明るい、陽の空気、ピュアや子ども、家族が出てくる、「みんなで食卓囲もう」というようなシーンに僕は気持ち悪さを感じるほうなんです。全然いいんですけど。どっちかというと、そこにある暴力みたいなものを僕はすごく感じてしまうんです。僕がひねくれてるだけかもしれないんですけど。きれいな世界にあこがれるという楽しみ方もあると思うんですけど、もうちょっと僕たちは思惑がいろいろあって、それが交錯しながら「このあたりで」と置いてるのがこの世界だと思って、そこにおもしろさを感じていて。事件に対して彼らはテンションが上がってないですし、それを解決していくというのが王道のお話だとしたら、別に解決できないからしないですし。でもふつふつとたまってきた物語と登場人物の状態を、今回は最後のシーンで舞台を回し続けるというのを僕は始めから決めていて、そこに放り込んで、ト書きとかも1行「殴り続ける」として後は俳優に任せて。回っている舞台の上で暴れているとお酒飲んだときとか、やったことないですけどクスリとかの感覚、光もファーッとなって目の前にお客さんがいてもなんでもよくなってくるんですよ。客席入っていって殴ってくださいという気分ぐらいにもなるんです。今回はラストに、フィクションですけど、自分たちの役とか物語とか組み上げたものをミキサーにぶち込んで回して、あとは俳優に任せて。まさにフリーでやってもらいました。

――一見乱暴に見えるつくり、ストーリー作りや俳優の演技も含めて、デティールにこだわっている。俳優の出入りとか照明にしても、ものすごくこだわりを感じました。それはお芝居の今までのルールではない、逆に言えばピュアな気持ち、物語の出来事の表面がピュアといううのではなくて、作品作りがピュア、俳優さんがそこにいること、この人たちはピュアな気持ちでここに立ってるんだなと思い、そこに共感しました。自分もここにいてよかったと。人と違うことをやろうとすると、乱雑になったり乱暴になったり勢いをつけないとできないことが多いけれども、山崎さんが考えている芝居作りはちょっと違う道筋を通っている。丁寧ですよね。たとえば照明ひとつにしてもものすごく贅沢なセッティングですよね。
照明さんがああいうことが大好きな人で。彼は普段はいわゆる関西系とイメージされるような、音楽がバンバン鳴ってオーバーアクションな芝居の照明をしている人で。僕らがやっている作品は全然違うんですけど、今回はとりあえず全部入れてくださいとお願いしました。
――それは山崎さんの考えとは違う部分もありつつ、ということですか?
役者もそうですけど、僕はあまり「このセリフをこう言って」とか「照明がここで変わって」とか、全部を設計するようにきっちりこだわるというよりも、自分がまあまあ出るというのもありますが、「この作品でやりたいことはこれなんです」というのを徹底的に伝えて一緒に考えてもらうようにしてるので。こだわり方としてはそっちなんです。作品を理解してもらう。全部、綿密に打ち合わせたとかではないです。
――役者さんたちと稽古しているときもそういう感覚なんですか?
脚本とか演出が前面に出てくるものが、あまり好きじゃないんです。僕はどっちかというと俳優が前にいて、でもそのために惜しみなく装置も美術も音楽も押し出すみたいな。なくして目立たせるんではなくて、押し出して役者を前に行かせるというふうにつくるんです。押し出されたときにそこで役者が自由に生きれるためには、きっちり決める部分ももちろんありますが、「なんで今ここにいるのか」は徹底的にこだわりますね。なんで今そこにいて、何をしたいのか。それをこだわるんですけど。今年は新人が入る年でもあったので、一回の公演では限界があるので、5月はずっと家の中でお客さん12人限定で公演をやったんです。ライブハウスで普通のバンドのライブをやったり。10月に無声劇をやったんですけど、全部本公演のために人前に立たせて実感させてきたんですよ。そういうのが実を結んだ部分がこの本公演の本番ではあるのかなと。人前にいるときにも成立する状態を演出してつけるというよりも、公演を踏ませて、京都でじっくり3公演経てやったというのはよかったのかもしれないです。フリーでもやれる。それは劇団の強みだと思います。
――共通の認識がある程度あるところからスタートできるから、理解が早いことはありますね。では稽古のときにあまり怒ったりはしない?
言うときは言いますけど。もともと僕も役者から始めてるので、追い込むというよりはおだてつつ。おだてると目標も高くなってくるから、それは行けないと悔しさも出てきますから。その悔しさをわざとつつくということはありますけど。間違ったことに対しては怒りますけど。そうじゃないときは一緒に考えるというスタンスではあります。
山崎彬(悪い芝居)インタビュー ロングバージョン
京都を拠点に活動を続ける劇団悪い芝居。2011年11月、東京・王子小劇場で『駄々の塊』の公演を観た演劇ぶっく編集長が、作・演出・出演をつとめた山崎彬にインタビュー。演劇ぶっく本誌では字数の関係で、掲載しきれなかった作品のこと、演劇観、来年の抱負、詳しいところまで掲載します!

悪い芝居『駄々の塊です』
作・演出・出演◇山崎彬
出演◇池川貴清 大川原瑞穂 植田順平 呉城久美 宮下絵馬 畑中華香 森井めぐみ 仲里玲央 大原渉平
2011/11/2~9◎ART COMPLEX 1928、11/17〜21◎王子小劇場
――公演をみせていただいた感想としては、おもしろくなかったけどおもしろかったです(笑)。おもしろくなかったというのは言い過ぎですね、心に響きました。観てる間ずっとおもしろいわけではないのですが、でもそれはもしかしたら山崎さんが意図として盛り込まれている部分なのかなと思いました。最初の部分とか、音が大きくて喋ってても全部が聞き取れないようにつくられている。わかってやっているわけですね。でも最初に観てるときは「聞こえないな、聞きたいな」という気持ちから始まる。お芝居が進んでいく中で、ひとつひとつのエピソードがブツブツ途切れて、普通のお芝居の感じで観ていたらちょっとイラつく部分がたくさんある。それは全部が成功しているかどうかはわからないですが、意図的なんだなと思いました。ラストシーンで大きな音で音楽が入って登場人物達が暴れ回るのを見て、自分なりに腑に落ちた感じがしました。フリージャズを聴くような感覚でした。前説が長くてすみません。公演が終わりましたが、いかがでしたか。
京都と東京でもやらせてもらって、もちろんいつものように公演をひとつ終えたなという感覚は変わらないです。京都公演のときはいつもみたいに「もうちょっとこうやったらお客さん入ったかな」とか「もっとこうできたな」という普通の反省と、でもいっぱいお客さんが入って楽しんでくれる人もいてという達成感で終わったんです。東京公演は前回より集客は減ったんですけど、やはり反応の仕方が聞いてはいたんですが変わった感じはすごくありました。いわゆる震災とかがあってそれと絡めてとらはるというか。予想はしてたんですけど全然違いましたね、感想が。反応。作品としてより、その向こう側にあるものみたいなのを観る人が増えたというか。発信するほうもそういう人たちが多いのかもしれませんが。3月11日以降からとくに、当事者じゃない感覚ってけっこう多くの人が実はもっているはずなんですけど、なぜか当時者としていなければいけないというのがあるなあと思っていて。そのあと気付いたら日本の出来事にどんどん広がっていく。それは東京も影響したからだと思うんですけど。そのとき京都にいる僕たちもそれなりにニュースを見て傷ついてはいるんですけど、「でも西の人たちにはわからないよ」という変なムードをすごく感じてまして。それを今回はそのまま作品としてつくったものがもしかしたら東京の人たちからしたら今ない感覚として見てもらえたのかなと思っています。

――もう少し具体的にお話ししていただけますか。
やはり絡めますよね。ツイッターやアンケート、直接話したことで言うと、「あの舞台は福島第一原発に見えました」とか。「動物がいなくなるというのが地震のメタファーなんじゃないか」とか。京都には全然地震を思い出した人はいないんですよ。この作品で僕がやりたかったのは、実際に僕たちが住んでるところは揺れてないけれども、同じような感覚にも強い意味はあるはずだ。だけど、「今はあなたたちはわからないでしょう」とつぶされる感じの気持ち悪さをそのまま表現したんです。今までの公演も、そのとき思うことや感じることを乗せてたんですけど。驚きました。そこまで地震を絡めるんだなと。思ってた以上に大きいことだったのかもしれないですし、そういうとっかかりだと書きやすいから書かはるんかもしれないけど。関西に一人だけ、東京でもともとライターだったという人が来てはって、その人も「たぶん東京でやったら地震を絡めたりする感覚で見られたりするかもしれないですね」と言ってました。京都ではゼロでしたけどね。
――影響があるのは観るほうもやるほうもですけど。私はもっと普通に、枠にはまらない山崎さんや悪い芝居の方たちの作品づくりに惹かれました。12回目の本公演も迎えられたし、演劇のルールもわかるし、おもしろいものもたくさんご覧になってると思いますが、そこから外れていく、ルールを一回チャラにして自分たちの作品づくりをしているという姿勢にすごく惹かれました。
フリージャズの話は稽古場でもしてたんです。つまらないものを乗せてるというのは、意識はしてまして。各シーンはつまらない・帰りたいというギリギリの時間にはしてあるんです。僕は退屈感・倦怠感エンターテインメントと呼んでるんですけど。常に明るい、陽の空気、ピュアや子ども、家族が出てくる、「みんなで食卓囲もう」というようなシーンに僕は気持ち悪さを感じるほうなんです。全然いいんですけど。どっちかというと、そこにある暴力みたいなものを僕はすごく感じてしまうんです。僕がひねくれてるだけかもしれないんですけど。きれいな世界にあこがれるという楽しみ方もあると思うんですけど、もうちょっと僕たちは思惑がいろいろあって、それが交錯しながら「このあたりで」と置いてるのがこの世界だと思って、そこにおもしろさを感じていて。事件に対して彼らはテンションが上がってないですし、それを解決していくというのが王道のお話だとしたら、別に解決できないからしないですし。でもふつふつとたまってきた物語と登場人物の状態を、今回は最後のシーンで舞台を回し続けるというのを僕は始めから決めていて、そこに放り込んで、ト書きとかも1行「殴り続ける」として後は俳優に任せて。回っている舞台の上で暴れているとお酒飲んだときとか、やったことないですけどクスリとかの感覚、光もファーッとなって目の前にお客さんがいてもなんでもよくなってくるんですよ。客席入っていって殴ってくださいという気分ぐらいにもなるんです。今回はラストに、フィクションですけど、自分たちの役とか物語とか組み上げたものをミキサーにぶち込んで回して、あとは俳優に任せて。まさにフリーでやってもらいました。

――一見乱暴に見えるつくり、ストーリー作りや俳優の演技も含めて、デティールにこだわっている。俳優の出入りとか照明にしても、ものすごくこだわりを感じました。それはお芝居の今までのルールではない、逆に言えばピュアな気持ち、物語の出来事の表面がピュアといううのではなくて、作品作りがピュア、俳優さんがそこにいること、この人たちはピュアな気持ちでここに立ってるんだなと思い、そこに共感しました。自分もここにいてよかったと。人と違うことをやろうとすると、乱雑になったり乱暴になったり勢いをつけないとできないことが多いけれども、山崎さんが考えている芝居作りはちょっと違う道筋を通っている。丁寧ですよね。たとえば照明ひとつにしてもものすごく贅沢なセッティングですよね。
照明さんがああいうことが大好きな人で。彼は普段はいわゆる関西系とイメージされるような、音楽がバンバン鳴ってオーバーアクションな芝居の照明をしている人で。僕らがやっている作品は全然違うんですけど、今回はとりあえず全部入れてくださいとお願いしました。
――それは山崎さんの考えとは違う部分もありつつ、ということですか?
役者もそうですけど、僕はあまり「このセリフをこう言って」とか「照明がここで変わって」とか、全部を設計するようにきっちりこだわるというよりも、自分がまあまあ出るというのもありますが、「この作品でやりたいことはこれなんです」というのを徹底的に伝えて一緒に考えてもらうようにしてるので。こだわり方としてはそっちなんです。作品を理解してもらう。全部、綿密に打ち合わせたとかではないです。
――役者さんたちと稽古しているときもそういう感覚なんですか?
脚本とか演出が前面に出てくるものが、あまり好きじゃないんです。僕はどっちかというと俳優が前にいて、でもそのために惜しみなく装置も美術も音楽も押し出すみたいな。なくして目立たせるんではなくて、押し出して役者を前に行かせるというふうにつくるんです。押し出されたときにそこで役者が自由に生きれるためには、きっちり決める部分ももちろんありますが、「なんで今ここにいるのか」は徹底的にこだわりますね。なんで今そこにいて、何をしたいのか。それをこだわるんですけど。今年は新人が入る年でもあったので、一回の公演では限界があるので、5月はずっと家の中でお客さん12人限定で公演をやったんです。ライブハウスで普通のバンドのライブをやったり。10月に無声劇をやったんですけど、全部本公演のために人前に立たせて実感させてきたんですよ。そういうのが実を結んだ部分がこの本公演の本番ではあるのかなと。人前にいるときにも成立する状態を演出してつけるというよりも、公演を踏ませて、京都でじっくり3公演経てやったというのはよかったのかもしれないです。フリーでもやれる。それは劇団の強みだと思います。
――共通の認識がある程度あるところからスタートできるから、理解が早いことはありますね。では稽古のときにあまり怒ったりはしない?
言うときは言いますけど。もともと僕も役者から始めてるので、追い込むというよりはおだてつつ。おだてると目標も高くなってくるから、それは行けないと悔しさも出てきますから。その悔しさをわざとつつくということはありますけど。間違ったことに対しては怒りますけど。そうじゃないときは一緒に考えるというスタンスではあります。