2006年09月27日

くれないの塔

b92bef0f.jpg■「くれないの塔」で慰霊

奄美大島青年会議所(JC、西川雄一理事長)と自衛隊奄美市名瀬隊友会(宮重太郎支部長)は三日、合同で奄美市名瀬矢之脇町のらんかん山にある「くれないの塔」周辺の清掃作業をした。両団体合同の清掃作業は初めて。清掃後に慰霊祭を行い、献花し、参加者全員で黙とうをささげて四十四年前の自衛隊機墜落事故で犠牲となった十三人のめい福を祈った。

 一九六二年(昭和三十七年)九月三日、輸血用血液を空輸中の海上自衛隊鹿屋航空基地所属のP2V対潜哨戒機がらんかん山に墜落、炎上して乗っていた隊員十二人全員と市民一人が犠牲となった。六三年にJCが中心となって建立実行委員会を組織して「くれないの塔」を建立した。三十三回忌終了以降、旧名瀬市は命日の九月三日を「献血の日」と定めた。
 
 この日の清掃作業には家族連れを含め約三十五人が参加した。塔までの急なコンクリート坂道の落ち葉を集めてごみ袋に入れ、草刈り機で塔周辺の雑草を刈り取った。

 慰霊祭で喜元健一郎JC副理事長、井上旭男自衛隊奄美大島駐在員事務所長があいさつした後、経過説明をした楠田豊春JC顧問は「多くの市民の賛同を得て慰霊の塔を建立した。(当時の人々の)心の象徴であるこの場所を今後とも守ってほしい」などと述べた。
 JCは、らんかん山入り口に「案内板」設置を計画している。

----21世紀の奄美の島々を結ぶ郷土紙 南海日日新聞社 2006.9.3の記事より
http://www.nankainn.com/kiji/back06-0902-0908.htm

■ 献血; 9月3日は、奄美市の「献血の日」です。

昭和37年9月3日に、救急用血液を搬送中の自衛隊機が、奄美市名瀬のらんかん山に墜落し、13人もの尊い犠牲者をだしました。

昭和37年9月3日を忘れないため、また、人命救助のため尊い命を捧げた人々の崇高な行為を永遠にかたり継ぐためにも、奄美市では平成7年から9月3日を「献血の日」と定めております。

この主旨を尊び、市民の皆様の暖かい「愛の献血」をお願いいたします。

---- 奄美市公式サイトより
http://www.city.amami.lg.jp/amami07/amami31.asp

達人(タツト)の「願い」のサビ "NEGAI"bridge by TATSUTO
http://jp.youtube.com/watch?v=a2RP7XBOfRI&eurl=http://blog.tatsuto.net/




■自衛隊機事故から43年、遺族らが「くれないの塔」を参拝

 「あの日のことは忘れられない。やすらかにお眠りください」―。一九六二年(昭和三十七年)九月、輸血用血液を搬送中の自衛隊機が名瀬市矢之脇町のらんかん山に墜落、炎上して搭乗していた自衛隊員十二人全員と市民一人の計十三人が犠牲となった。その日から四十三年が経過し、犠牲となった自衛隊員の一人、小田実さん=当時(30)、広島県出身=の遺族七人が十三日、らんかん山の「くれないの塔」を訪れて参拝し、犠牲者のめい福を祈った。

小田実さんは九人きょうだいの四男。参拝に訪れたのは鹿屋市に住む妻の小田和子さん(70)、広島県在住の兄の小田積さん(77)、圭三さん(75)、弟の耕作さん(68)、繁樹さん(65)ら遺族七人。
 
 参拝した午前中は風雨が強く、遺族は雨具を着け、傘を差してらんかん山の急なコンクリート坂を上った。「くれないの塔」で献花し、線香やろうそくに火をつけ、全員でお経を読んで四十三年前の悲劇の犠牲者のめい福を祈った。遺族は犠牲者名が刻まれた石碑を感慨深く眺めていた。
 
 妻の和子さんは「長女はまだ二歳九カ月、二女が十一カ月だった。その当日のことは今でも忘れられない。(夫が亡くなったとは)信じられなくて足が立たなかった」と当時を振り返り、兄の積さんら兄弟は「親族七人で来たのは初めて。参拝できて少しホッとした」と話した。

 事故は一九六二年九月三日午後四時五十五分ごろ発生。海上自衛隊鹿屋基地のP2V対潜哨戒機は、輸血用の血液を搭載して名瀬市の上空に飛来し、血液投下地点の名瀬港中央ふ頭へ旋回しようとした際、らんかん山の立ち木に接触して墜落、炎上した。機体は山の下の矢之脇町に落ちたため三十二世帯が焼け、重軽傷者が出た。

 翌年に奄美大島青年会議所などが中心となって「くれないの塔」を建立。名瀬市は三十三回忌に当たった一九九四年に最後の慰霊祭を行い、事故を語り継ぐ記念誌「くれないの塔」を発行した。

----南海日日新聞社 2006.1.14の記事より
http://www.nankainn.com/kiji/back06-0114-0120.htm

■母

 そんな父は僕が生まれて1月後、昭和37年9月3日に他界しました。奄美大島に急遽血清を届けなければならず、出動。奄美上空は霧で視界が悪く、低空時らんかん山に激突したのです。乗っていた全員と、落ちた先の民間人1名が亡くなりました。

 母は当然悲しみのどん底に落とされたでしょう。しかし僕も姉も幼かった。1週間だけ僕を加治木の祖父祖母のところに預けたそうです。僕はその時毎日泣いて泣いて泣き止まなかったそうです。多分その間に、その後の準備をしていたのでしょう。母は自衛隊の事務員として働き始めます。すぐそばに子供のいないおば(母のお姉さん)夫婦がいたので、母が仕事の間はよく面倒をみてもらいました。

 姉が2年生、ぼくが年長ぐらいの時だったと思いますが、ちょっと離れた西原町に、母はなんと家を建てました。すごい!そこから僕は姉とバス通園。小学校は家から歩いて3分のところにあったので、そこに通いました。姉も同時に転校しました。

----tatsuto official blogより
http://blog.tatsuto.net/?search=%A4%E9%A4%F3%A4%AB%A4%F3%BB%B3

【参考】 達人 tatsuto 公式ホームページ

《2006年2月1日 デビュー曲発売 》
 包み隠さないストレートな詞で、『我が子』『我が母』への思いを歌い上げる。
達人(タツト)のデビューシングル『ネガイ』が発売。

 純粋に子を想う父の心情を歌い上げた力作。我が子への深い愛情が伝わってくる詩を是非お聞き下さい。
 現在、3児の父親として、家族を守りながら夢をあきらめずに挑戦し続けた<達人(タツト)>。

念願のデビュー曲<願い(ネガイ)>を是非お聞き下さい。

BWCA-1089
販売:コロムビアミュージックエンターテイメント株式会社
制作:ボーンプロジェクト
発売:株式会社ブロー・ウィンド・レコード
http://www.tatsuto.net/

(参考:tatsuto 関連)http://mc-sunao.seesaa.net/article/20873238.html


■その他「くれないの塔」を取り上げたサイト》

・《vagabondの徒然なるままにinネリヤカナヤ》----「くれないの塔」の写真も掲載

1962年9月3日午後4時55分,その事故は起きた。
南国の奄美大島といえど,この時期のこの時刻は,黄昏時が近付いていただろう。
 一人の女性救急患者の生命を救うため,海上自衛隊鹿屋第一航空群のP2V対潜哨戒機は,輸血用の血液を搭載して奄美市名瀬の上空に飛来した。
奄美市名瀬には,飛行場はない。
今でこそ,輸血用の緊急血液はヘリコプターで空輸しているのだろうが,その当時,輸血用血液は,名瀬港中央ふ頭へ投下させていたようだ。
哨戒機は,輸血用血液をできるだけ確実に投下するため超低空飛行をしていたが,名瀬港中央ふ頭上空を旋回しようとしたそのとき,名瀬港近くにそびえる「らんかん山」の立ち木に接触してしまった。
哨戒機は,墜落,炎上。
機体は「らんかん山」の麓に落下し,32世帯が焼失。
搭乗していた自衛隊員12人全員と市民1人の合計13人が犠牲となった…

犠牲者を偲び,翌年に奄美大島青年会議所などが中心となって建てたのが上の写真の「くれないの塔」。
奄美大島では,常時の献血は行われていない。
ただ,尊い犠牲のことを忘れないようにと,奄美市では,1995年からこの日をメモリアルデーとして指定し,今でも,毎年9月3日には,献血を実施している。
http://blog.goo.ne.jp/vagabond67/e/747889fb2f9a24d484b797654949ef34

・事故目撃の「詩」の作者:「あざやかに反転するその風景が・・・」
http://www1.odn.ne.jp/n-unasaka/azayakani.htm
http://www1.odn.ne.jp/n-unasaka/impre15.htm

・奄美大島の金久には「らんかん山」という小高い山があるそうですが、「らんかん」は「蘭館」、すなわち外国人屋敷のこと。幕末期、この山の天辺に外国人屋敷があったので蘭館山の名がついたそうです。この山の麓には、オランダ人が作った白糖工場があったと土地の人たちは言っています。
http://www.murocho.com/aji/shoyu/shoyu22.html

・名瀬小学校のサイトより

最新ニュース
○新しい1年生が 84名入学しました。
○遠足がありました。4年生はあやまる岬と奄美パークに行きました。
○2年生は校区探検がありました。らんかん山公園に行きました。

注:事故後名瀬小学校の先生が作詞・作曲した「くれないの塔」の唄を、児童が器楽伴奏で合唱したテープを遺族に贈りました。

・2006年1月 3日 (火) 奄美一人旅日記 其の三(くれないの塔のよく分かる写真あり:ただし2006年9月30日にサイトを閉鎖するとありました)

そこで見たもの。天に向かって堂々とそそり立つ3本の柱。手前にあった石版には、「くれないの塔に捧ぐ」という書き出しで、この塔の説明が書かれていた。以下、ちょっと長いが、その石版の文字を書き写したものである。

「くれないの塔に捧ぐ
昭和三十七年九月三日午後四時五十五分一婦人の生命を救うべく急患用血液を輸送してきた海上自衛隊鹿屋第一航空群のP2V機が突如この地に接触し大破炎上するという一大惨事が発生いたしこの事故で十二人の搭乗員と一人の市民が尊い犠牲者となりました
善意に満ちた愛の飛行が不測の災難へと変り人の世の運命とはいえ誠にいたましい限りです
この美しい人道的行為を永遠に讃え異郷の地に果てた十二柱の隊員と一柱の市民の霊を慰めるために全国の心ある人々の愛情と良識を寄せてこのゆかりの地に記念塔を建立し此れをくれないの塔と名づけました
この地に眠る十三柱の魂は奄美の平和と幸福の守り子となり離島苦を解消するさきがけとして世の光となりましょう・・・(以下略)
http://badmusic.cocolog-nifty.com/ilovehiphop/2006/01/post_a482.html

《おわりに》

事前に断わりなく転載させていただきました各サイトの皆様に厚くお礼申し上げます。

《追記》
このBlogを見た故人の甥[しんちゃん]からメールが来ましたので、一部を掲載させていただきました。

■くれないの塔、一度訪れたいと思ってます。

僕は小学校に上がる前で 、けんちゃんは「そのうち飛行機乗せたるからね」と言っていたのを覚えています。
事故はニュースでも見て子供ながらに大変なことが起きたと感じました。
スキーの ジャンプをやっていたとか、北大のことなど、けんちゃんの話を良く聞かされ 、あこがれて僕も北大に行きました。

■Y.Oさんのメール

2000/12/01

○○さん、こんにちは!

昨日(三十日)東京で海上自衛隊六期幹候の忘年会が催されたので、泊まりがけで出席しました。
その際に昭和三十七年の事故当時、鹿屋の第一航空隊で P2V-7 の機長として勤務していた同期の柄崎(からさき)一尉(当時)から事故当時の状況を聞くことができました。

忘年会にはお兄様を知る者が他にも出席していましたが、異口同音に故人の人柄も、パイロットとしての能力も申し分のない立派な方だったと褒めており、惜しい人が殉職したと、今でも残念に思っているそうです。

事故当日の事情について、あるいはご存じかもしれませんが、お兄様は当時石川機長(旧予科練出身)のクルーでした。

当日、短いフライトを終えて戻った直後に血清輸送の出動命令が出たため、柄崎一尉のクルーが代わりに飛ぶつもりで飛行服に着替えフライトの準備をしたところ、第一航空隊司令の松井二佐が READY CREW (緊急出動に備えてスタンバイするクルー)を飛ばすように指示したために、たまたま当日の READY CREW であった石川機長のクルーが再度飛ぶことになり、事故に遭ったわけです。

もし当初の計画どおり柄崎機長のクルーが飛べば、お兄様は事故に遭わなかったはずです。

人生すべてが自分の力では予想できない運命(運、不運)により支配されるものですが、殉職されたお兄様のご冥福を心からお祈りして、報告致します。 Y.O

《2007.1.8 追記:参考》自衛隊の災害派遣について知ることのできるページ blog版

くれないの塔-昭和37年奄美大島におけるP2V4628号機墜落事の故慰霊塔-
<< 作成日時 : 2007/01/07 22:52

昭和37年9月3日 奄美大島に輸血用血液を輸送中のP2V対潜哨戒機が墜落し隊員12名と地元住民1名がなくなるほか、30世帯116人が罹災するという事故があった。おそらくは災害派遣史上最悪の事故であろう。
なお、当時は着陸せずパラシュートにより投下する方法で輸送。投下のため高度を下げたとき霧のため視認できなかった蘭館(らんかん)山に衝突し墜落したもの。

http://saigaihaken.at.webry.info/200701/article_3.html

《参考》『海上自衛隊50年史 資料編』平成15年3月より

■昭和37年(1962)9月3日 海自第1航空隊災害派遣中の事故により12名殉職 住民1名死亡(鹿児島県名瀬市 現奄美市)
P2V-7型航空機 カ-4628 名瀬市蘭館山に衝突、12名殉職(『海上自衛隊50年史 資料編』平成15年3月p343)

石川昭義3佐、鈴木健司1尉、高本雄二1尉、清瀬正義1尉、永井三郎3尉、緒方尹生3尉、小田実3尉、上田益也1曹、大町訓史1曹、藤原康晃1曹、鍋島英雄2曹、上村士長(『海上自衛隊50年史 資料編』平成15年3月p455)

♪願い by tatsuto  《くれないの塔》続編 

http://blog.livedoor.jp/enethan_fan/archives/50845178.html

■映画『紅の翼』(1958)は鹿屋基地のP-2Vも別の水性塗料で塗装されて登場する。

葬儀で鹿屋を訪れたとき、先輩隊員がロケのエピソードなどを語ってくれました。
当時の鹿屋基地が映っていると良いのですが・・・

石原裕次郎が今度は民間航空のパイロットに扮するもので、新潮所載の菊村到の同名小説を、中平康・松尾昭典が共同で脚色、「四季の愛欲」の中平康が監督した。撮影は「明日を賭ける男」の山崎善弘。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26028/index.html

『紅の翼』---Amazonのサイトより

「狂った果実」を世に放った中平康監督と石原裕次郎のコンビが、今度はスカイ・アクションに挑戦。裕次郎演じる民間航空会社のパイロットは、クリスマス・イヴだというのにセスナで八丈島へのフライトを請け負う。母親の墓参りに行くという男(二谷英明)の依頼だが、実は彼は殺人犯であった。またセスナは破傷風治療のための血清を積んでおり、島の少年の生命がこれにかかっていた。機内には特ダネをものにせんとする女性記者(中原早苗)も乗り込むが、正体のばれた殺人犯は、その銃口をパイロットたちに向ける。
この映画での裕次郎は、例えれば「ダイ・ハード」のジョン・マクレーン刑事だ。クリスマス・イヴに起こるトラブルに偶然巻き込まれてしまうのだが、そこは裕次郎。あくまでカッコよく、あくまで正義感。「狂った果実」とは一転。この映画の裕次郎は眩しいほどのヒューマニズムの持ち主で、屈折のみじんもない快男児ぶりは、ヒーロー裕次郎の面目躍如。全編の6割を占めるセスナ機内での、中原早苗の記者とのやりとりの楽しさ、飛行機操縦の細かな描写から、特殊撮影をも使った迫力あるビジュアル、そして佐藤勝の音楽がテンポの良い展開を盛り立てる。この映画を見ずして裕次郎は語れない。(斉藤守彦)

内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
死後19年を経てもいまなお衰えることのない人気とカリスマ性を持つ石原裕二郎の主演映画をファン投票に基づいてリリースする特集第1弾。民間航空パイロットが、病の子供を救うべく八丈島へと飛行機を飛ばす。だが、機内には殺人犯が同乗しており…。









enethan_fan at 16:39│Comments(4)TrackBack(1) ALWAYS 1960's 

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1. くれないの塔-昭和37年奄美大島におけるP2V4628号機墜落事の故慰霊塔-  [ 災害派遣について知ることのできるページblog版 ]   2007年01月07日 22:52
昭和37年9月3日 奄美大島に輸血用血液を輸送中のP2V対潜哨戒機が墜落し隊員12名と地元住民1名がなくなるほか、30世帯116人が罹災するという事故があった。おそらくは災害派遣史上最悪の事故であろう。 なお、当時は着陸せずパラシュートにより投下する方法で輸送。投下のた...

この記事へのコメント

1. Posted by vagabond67   2006年09月27日 22:37
はじめまして。
ご紹介頂きましたvagabond67と申します。

「くれないの搭」に関心をお持ちになるとは鋭い視点ですね。
ご紹介頂いたエントリー,自分としても思入れの深いエントリーだけに,ご紹介頂きとても嬉しいです。

e_fanさんはなぜ,「くれないの搭」に関心をお持ちになったのでしょうか?
もしよろしければ教えてください。

奄美大島の四季を徒然に写真で紹介していますので,よろしければ今後ともお付き合い下さい。
2. Posted by e_fan   2006年10月05日 14:24
vagabond67さま 

たいへん遅くなりましたがこのブログの過去ログに少し触れていますのでよろしく

2歳上の姉にとっては「涙そうそう」物語

■”ALWAYS”50年前 お姉ちゃんはグラビアモデル!?
http://blog.livedoor.jp/enethan_fan/archives/50507828.html
■I never forget you. くれないの塔
http://www.flickr.com/photos/pinboke/254163975/

3. Posted by 達人   2006年10月10日 16:46
御礼が遅くなりましてすいません。
コメントいただき、ありがとうございました。
また、のぞいてみれば、こちらでもあつかっていただき、感謝に耐えません。
人の為に命を使った父を尊敬しています。
僕も父として、子供に恥ずかしくない生き方をしたいと思います。
4. Posted by enethan_fan   2008年01月15日 01:12
[memo]

ALWAYS 健ちゃんの青春 1950−1954 Picasa Web Album Slideshow(このコメントのURL)
http://picasaweb.google.com/PINBOKE/ALWAYS19501954/photo#s5155189953857234834

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