2005年08月05日
内田樹氏のブログを読んで、思いついたことのメモ(というか勝手な「拾い読み」「抜き出し」)。
チョット長いけれど、引用します。
>親子関係の葛藤を描いたもっとも古いヨーロッパの文典というと旧約聖書の「イサクの燔祭」である。
ここでアブラハムは一人息子のイサクを生け贄に捧げることを命じられる。
だが、『創世記』のその箇所を読むと、アブラハムが「悩んだ」とか「ためらった」とかいう記述はない。
アブラハムは「全焼のいけにえとしてイサクをわたしに捧げなさい」と言われると、別に期日の指定があったわけでもないのに、いそいそと翌朝早起きしてモリヤの丘までイサクを連れて行く。
そして、イサクとともに祭壇を整えたあと「自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀をとって自分の子をほふろうとした」のである。
モリヤの丘の出来事にかかわる聖書の箇所を読んで驚くのはアブラハムの流れるような手際の良さである。
私たちはアブラハムは主の命に従うべきか親の情に従うべきか、恐るべき葛藤を経験したはずだと考える(キェルケゴオルもそう考えた)。
でも、ほんとうにそんな葛藤があったと言えるのだろうか(だって、何も書いてないんですよ)。
>私たちはアブラハムは主の命に従うべきか親の情に従うべきか、恐るべき葛藤を経験したはずだと考える(キェルケゴオルもそう考えた)。
私も幼い頃、このように教えられていたが、自分の意志で聖書を読むとぜんぜんちがったように読んでしまったことを思い出す。やっぱり、「テキスト」なんですねぇ。
まあ、でも葛藤を描写していないので、葛藤があったかなかったかを確定することはできません。(でも、そう読まれてきたし、そう読むことを強いられてきた!)
私が自分の関心をよりどころにこの箇所を改めて読んだときに感じたのは、あまりにも無意識なアブラハムの行動に、アブラハム自身が驚いているということでした。(確か、「はっと我に返った」という意味のことが書いてあったんじゃなかったかな-----これについては確認してみます)
ようするに、自分の心に響いてくる声に対してあまりにも従順すぎて、思慮に欠けているアブラハムの姿が思い浮かんだのです。似たようなことは聖書に散見されます。ノアだったかアブラハムだったかこれも記憶があいまいですが、酔っ払って(恍惚状態になって)幕屋内で裸でいるところを息子に見られたなどと書いてあるのです。後で息子を厳しく叱ったという話だが、まったく滑稽なことだ。モーセにも似たような話がある。(この話は「割礼」と関連があると私は思っている)
ようするに、「神の声」を聞いたなどと書かれている箇所は、後の出来事・展開によって判断されているふしがあり、なんの関連もみいだされない「神が入った状態」は単に「気がふれた」こととか、「魔が差した」としてさらっと記述されているのです。まあ、それは当然のことでしょう。
アブラハムは、神に従うか否かの葛藤を体験したという見方もありますが、私はむしろ、「子供を大切にすべきである」ということを彼自身が気づいたというエピソードなのだとして読むこともできると思います。後のソドムとゴモラを滅ぼす話では、アブラハムは、神のその意志に対してハッキリと「難色」を示しています。すなわち、「神の声」に対して無思慮にしたがうのではなく、対話すること、思慮深くあること(まさに「契約的」ですね)が目指されているということではないでしょうか?
チョット長いけれど、引用します。
>親子関係の葛藤を描いたもっとも古いヨーロッパの文典というと旧約聖書の「イサクの燔祭」である。
ここでアブラハムは一人息子のイサクを生け贄に捧げることを命じられる。
だが、『創世記』のその箇所を読むと、アブラハムが「悩んだ」とか「ためらった」とかいう記述はない。
アブラハムは「全焼のいけにえとしてイサクをわたしに捧げなさい」と言われると、別に期日の指定があったわけでもないのに、いそいそと翌朝早起きしてモリヤの丘までイサクを連れて行く。
そして、イサクとともに祭壇を整えたあと「自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀をとって自分の子をほふろうとした」のである。
モリヤの丘の出来事にかかわる聖書の箇所を読んで驚くのはアブラハムの流れるような手際の良さである。
私たちはアブラハムは主の命に従うべきか親の情に従うべきか、恐るべき葛藤を経験したはずだと考える(キェルケゴオルもそう考えた)。
でも、ほんとうにそんな葛藤があったと言えるのだろうか(だって、何も書いてないんですよ)。
>私たちはアブラハムは主の命に従うべきか親の情に従うべきか、恐るべき葛藤を経験したはずだと考える(キェルケゴオルもそう考えた)。
私も幼い頃、このように教えられていたが、自分の意志で聖書を読むとぜんぜんちがったように読んでしまったことを思い出す。やっぱり、「テキスト」なんですねぇ。
まあ、でも葛藤を描写していないので、葛藤があったかなかったかを確定することはできません。(でも、そう読まれてきたし、そう読むことを強いられてきた!)
私が自分の関心をよりどころにこの箇所を改めて読んだときに感じたのは、あまりにも無意識なアブラハムの行動に、アブラハム自身が驚いているということでした。(確か、「はっと我に返った」という意味のことが書いてあったんじゃなかったかな-----これについては確認してみます)
ようするに、自分の心に響いてくる声に対してあまりにも従順すぎて、思慮に欠けているアブラハムの姿が思い浮かんだのです。似たようなことは聖書に散見されます。ノアだったかアブラハムだったかこれも記憶があいまいですが、酔っ払って(恍惚状態になって)幕屋内で裸でいるところを息子に見られたなどと書いてあるのです。後で息子を厳しく叱ったという話だが、まったく滑稽なことだ。モーセにも似たような話がある。(この話は「割礼」と関連があると私は思っている)
ようするに、「神の声」を聞いたなどと書かれている箇所は、後の出来事・展開によって判断されているふしがあり、なんの関連もみいだされない「神が入った状態」は単に「気がふれた」こととか、「魔が差した」としてさらっと記述されているのです。まあ、それは当然のことでしょう。
アブラハムは、神に従うか否かの葛藤を体験したという見方もありますが、私はむしろ、「子供を大切にすべきである」ということを彼自身が気づいたというエピソードなのだとして読むこともできると思います。後のソドムとゴモラを滅ぼす話では、アブラハムは、神のその意志に対してハッキリと「難色」を示しています。すなわち、「神の声」に対して無思慮にしたがうのではなく、対話すること、思慮深くあること(まさに「契約的」ですね)が目指されているということではないでしょうか?
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