アンドレ・ジッド(Andre Gide 1869〜1951)は『背徳者』『狭き門』などを書いたフランスの作家である。ドビュッシーと同世代であるが、彼はピアノ演奏に優れていた。

アンドレ・ジッドは言う――またピアノをやりはじめた。ベートーヴェンのソナタが今これほどやすやすと弾けるのには驚く。
少なくとも、ひところ私が多いに勉強し、その後ほうり出してしまった数曲は。
しかし、それらのあまりにも感動のこもった調子がわたしをひどく疲れさせる。そして、今日もっともわたしを満足させるものはバッハであり、とりわけ「フーガの技法」のようだ。
これには厭きることがない。
そこにはもはや人間に属するものはほとんどないのだ。
それがひとのなかに目覚めさせるものは、感情とか情念とかではもはやなく、憧憬だ。
なんという静けさだろう。
人間を超えたものすべてを、なんとすなおに受入れていることだろう。
肉体をなんと軽く見ていることだろう。なんという平和だろう――

[ 『バッハ頌』 角倉一朗・渡辺健 編  白水社より]