2009年01月12日
頑張ったね、おじいちゃん。
ちょっと日にちが前にもどりますが。
1月3日のこと。
朝から携帯が鳴る。
入院していたおじいちゃんの具合が良くないとのこと。
家族で支度をして病院へ向かう。
私たちが着いた頃には少し安定していました。
2日に広島から帰って来た私たちは新年の挨拶をしていなかったので、おじいちゃんに向かって挨拶をしたり、がっちゃんも『おっきいじぃじ、がんばれ〜よしよし!』と頭を撫でたりしていました。
風邪気味ながっちゃんだったので、あんまり病院にいさせるわけにも行かず、少ししてから帰りました。
もう、長くないおじいちゃんの側にいたかったので、私はがっちゃんが寝たあと、再び病院に行って、付き添っていたまーこおばちゃんと交代して、夜の12時まで付き添いました。
一晩付き添いたかったけど、がっちゃんがまだ夜中に起きるので・・・。
そして1月4日。
相変わらずのおじいちゃん。
この日は私たちは初詣に行きました。
神頼みでもなんでもいい。
おじいちゃんが少しでも長く生きていますように、とお願いしました。
そして1月5日。
この日から仕事はじめ。
有休であらかじめ休みの職員もいるし、私が休むわけにも行かず。
『なにかあったらすぐに職場に連絡してね』と言い、仕事に行きました。
子どもたちがお昼寝をしているお昼過ぎ。
職場に旦那さまから電話。
『おじいちゃんの心拍などが落ちて来ているらしい。今すぐどうってことではないらしいけど、いつどうなるかもわからないらしいよ。』
仕事を切り上げてすぐにでも行きたかったけど、そう言いつつ、いつも持ち直してくれていたおじいちゃんなので、仕事を続行することを決意。
仕事が終わるまで、再び電話がなることはなく、ホッとして仕事を終えました。
すぐに母上に電話する。
『おじいちゃんどう?』
『とりあえずモニターの数値は悪いけど、一旦家に帰るように言われたから帰って たよ。マーコだけが付き添ってる』
『そうなんだ、よかった。』
『なにかあったらまたすぐに電話するから、とりあえずアナタも家に帰って、がっちゃんのゴハンをちゃんとしてあげなさい』
『うん・・・。わかった・・・。』
そういう会話をして電話を切り、がっちゃんのお迎えをしてくれた旦那さまと合流して帰宅。
帰宅後すぐに夜ゴハンの支度に取りかかる。
支度をしていたら、携帯が鳴る。
母上からだった。
『おじいちゃんが危ない。すぐに来なさい。』
それだけの言葉だった。
本当に危ないんだと、わかった。
すぐにみんなで病院へ駆けつける。
旦那さまはレーサーかっていうくらいのドライビングテクニックだったことだけは覚えています。
たまたまおばあちゃん、母上、父上の一行とエレベーターで会う。
みんなでエレベーターに乗り、病室へ急ぐ。
病室に向かっていると、頭を下げる看護師。
心臓がバクバクしていました。
そして病室へ入ると・・・・。
『お姉ちゃん、間に合わなかったよぉ〜』
と私の母上にしがみついて泣き崩れるマーコおばちゃん。
その先には、つい先ほど息を引き取ったおじいちゃんが安らかに眠っていました。
電話があったのが18時22分。
息を引き取ったのが18時28分。
本当にあっという間に逝きました。
旦那さまのドライビングテクニックを持っても、間に合いませんでした。
病院の先生は、『このお年なのに何度も持ち直して、すごい生命力でした。頭が下がります。』と言ってくださいました。
89歳の生涯でした。
来月で満90歳でした。
人は『大往生だったね』と言ってくれます。
私もそうだと思います。
戦争を経て、生きて無事に帰り、3人の子どもに恵まれ、仕事と家庭と大変なこともあったかと思います。
晩年は好きなことをして過ごし、本当にシアワセだったと思います。
でも私は、大往生だろうが何だろうが、1年でも、1週間でも、1日でも、1時間でも、1秒でも生きて欲しかったです。
大好きなおじいちゃん。
1月5日月曜日。
18時28分。
89歳で永眠です。
100歳まで生きると言っていたおじいちゃん。
私も100歳なんて当たり前だと思っていました。
だって、本当に元気だったから(笑)
でも肺がんには勝てなかったようです。
おじいちゃんにはがん宣告しなかったので、知らないまま逝きました。
入院中は痛かったことも、悔しかったもあったと思います。
本当に本当によくがんばったね、おじいちゃん。

ひ孫も抱っこできたし、ちょっとはおじいちゃん孝行できたかな?
1月3日のこと。
朝から携帯が鳴る。
入院していたおじいちゃんの具合が良くないとのこと。
家族で支度をして病院へ向かう。
私たちが着いた頃には少し安定していました。
2日に広島から帰って来た私たちは新年の挨拶をしていなかったので、おじいちゃんに向かって挨拶をしたり、がっちゃんも『おっきいじぃじ、がんばれ〜よしよし!』と頭を撫でたりしていました。
風邪気味ながっちゃんだったので、あんまり病院にいさせるわけにも行かず、少ししてから帰りました。
もう、長くないおじいちゃんの側にいたかったので、私はがっちゃんが寝たあと、再び病院に行って、付き添っていたまーこおばちゃんと交代して、夜の12時まで付き添いました。
一晩付き添いたかったけど、がっちゃんがまだ夜中に起きるので・・・。
そして1月4日。
相変わらずのおじいちゃん。
この日は私たちは初詣に行きました。
神頼みでもなんでもいい。
おじいちゃんが少しでも長く生きていますように、とお願いしました。
そして1月5日。
この日から仕事はじめ。
有休であらかじめ休みの職員もいるし、私が休むわけにも行かず。
『なにかあったらすぐに職場に連絡してね』と言い、仕事に行きました。
子どもたちがお昼寝をしているお昼過ぎ。
職場に旦那さまから電話。
『おじいちゃんの心拍などが落ちて来ているらしい。今すぐどうってことではないらしいけど、いつどうなるかもわからないらしいよ。』
仕事を切り上げてすぐにでも行きたかったけど、そう言いつつ、いつも持ち直してくれていたおじいちゃんなので、仕事を続行することを決意。
仕事が終わるまで、再び電話がなることはなく、ホッとして仕事を終えました。
すぐに母上に電話する。
『おじいちゃんどう?』
『とりあえずモニターの数値は悪いけど、一旦家に帰るように言われたから帰って たよ。マーコだけが付き添ってる』
『そうなんだ、よかった。』
『なにかあったらまたすぐに電話するから、とりあえずアナタも家に帰って、がっちゃんのゴハンをちゃんとしてあげなさい』
『うん・・・。わかった・・・。』
そういう会話をして電話を切り、がっちゃんのお迎えをしてくれた旦那さまと合流して帰宅。
帰宅後すぐに夜ゴハンの支度に取りかかる。
支度をしていたら、携帯が鳴る。
母上からだった。
『おじいちゃんが危ない。すぐに来なさい。』
それだけの言葉だった。
本当に危ないんだと、わかった。
すぐにみんなで病院へ駆けつける。
旦那さまはレーサーかっていうくらいのドライビングテクニックだったことだけは覚えています。
たまたまおばあちゃん、母上、父上の一行とエレベーターで会う。
みんなでエレベーターに乗り、病室へ急ぐ。
病室に向かっていると、頭を下げる看護師。
心臓がバクバクしていました。
そして病室へ入ると・・・・。
『お姉ちゃん、間に合わなかったよぉ〜』
と私の母上にしがみついて泣き崩れるマーコおばちゃん。
その先には、つい先ほど息を引き取ったおじいちゃんが安らかに眠っていました。
電話があったのが18時22分。
息を引き取ったのが18時28分。
本当にあっという間に逝きました。
旦那さまのドライビングテクニックを持っても、間に合いませんでした。
病院の先生は、『このお年なのに何度も持ち直して、すごい生命力でした。頭が下がります。』と言ってくださいました。
89歳の生涯でした。
来月で満90歳でした。
人は『大往生だったね』と言ってくれます。
私もそうだと思います。
戦争を経て、生きて無事に帰り、3人の子どもに恵まれ、仕事と家庭と大変なこともあったかと思います。
晩年は好きなことをして過ごし、本当にシアワセだったと思います。
でも私は、大往生だろうが何だろうが、1年でも、1週間でも、1日でも、1時間でも、1秒でも生きて欲しかったです。
大好きなおじいちゃん。
1月5日月曜日。
18時28分。
89歳で永眠です。
100歳まで生きると言っていたおじいちゃん。
私も100歳なんて当たり前だと思っていました。
だって、本当に元気だったから(笑)
でも肺がんには勝てなかったようです。
おじいちゃんにはがん宣告しなかったので、知らないまま逝きました。
入院中は痛かったことも、悔しかったもあったと思います。
本当に本当によくがんばったね、おじいちゃん。
ひ孫も抱っこできたし、ちょっとはおじいちゃん孝行できたかな?