それが人でれ境遇であれ経験であれ「アイヌ」は存在する。
しかし忘れてはならないのは「民族」という概念自体が近代の産物であることだ。
「民族」などという概念が発明・流布されるはるか以前から「アイヌ」は存在した。

同時に忘れてはならないのは「民族」とは、強者が勝手に「観察」することによって強化されたきた側面もあることだ。
現在流布されている「アイヌ」にまつわるメディアイメージ、学術研究のほとんどは、アイヌが求めた・堀り下げたアイヌ像ではない。

これは同様に、メディア上で(ネトウヨ諸氏含む)流布されたり、海外から逆輸入されたり、あるいは「民俗学者」が研究する「日本人像」と現実の日本人像との距離感が、
アイヌのそれと、はたしてどれほど違うか、という意味である。
日本のメディア上の「日本人像」も虚像である。
しかしその虚像には、かなりの部分、日本人が形成したものも含まれるが、
アイヌの場合はアイヌが形成に関与しているとは言いにくい。

アイヌも、日本人同様に自分達のメディアで「アイヌ像」を形成する権利や必要性が(たとえ虚像であったとしても)、あるのかもしれない。
しかし、私がここで話題にしたいのは、その部分とは異なる。

かつて、アイヌを「民族」と呼称することに違和感を覚えるアイヌが複数居たことを、私は覚えている。
私は、それをもって「アイヌは民族ではない」ことの証拠だといいたいのではない。
それは日本「民族」と、改めて主張することに違和感を覚える「日本人」を探すのは、さほど難しくないのと、同様の現象ともいえるだろうか?

かつてアイヌの多くは、学校でも家庭でも、時には血縁集団の中ですら、アイヌは和人の中に同化して消えていくことが正しいとされる世界で生きていた。
アイヌという現実は存在しても、それを「民族と呼んでもよい」ことを、たんに知らなかっただけである、と説明することも出来るのではないだろうか?

しかしながら、アイヌを「民族」と呼称することに違和感を覚えた、アイヌのその感情の中には、
「日本人(この場合より正確には和人とすべきか?)」が、日本人を民族と呼称することに違和感を覚えるそれとは、随分と異なる要素が含まれていたのであろうことは、想像に難くない。

「アイヌ」がいかなる境界と広がりを持ったものであるか、支配者である和人が理解していないのは当然として、アイヌ自身も、十分に分かっているとは言いがたいのが現実である。

もちろん、分かっている人には分かっている。
しかし、その知識や蓄積は「アイヌ」と名指されうる多くの人に、行き渡っているといえるだろうか?

アイヌが「民族」かどうか(あるいは「日本人」が民族かどうか)などは、実のところ、どうでもいい話とも思える。
そもそも曖昧で恣意的な概念である「民族」という概念に、ある集団が適合するかどうかを議論すること自体、成立し得ない。
民族という概念に明確な基準がない以上、どこかの集団が民族かどうかも、決めようがない。

いま必要なのは、アイヌが民族かどうか、などという乱暴な話ではなく、
「アイヌという現象」とは何だったのか、そして、いまどうなのか、ということではないだろうか?

(「アイヌという現象」とは、必要に応じて和人の植民地支配とも換言出来るが、これは説明的でありすぎるし、なにしろ手触りが違う)



無論、ハナから話を聞く気のない相手には、何を話しても無駄なのも確かなのだが。
なにごとも、他者に説明する能力がなければ、説得力も生まれないよなぁ。