2008年05月26日
名古屋の複雑な区境
名古屋の中心部も、区境が入り組んでいるようです。
なるほど、確かに・・・(^^;
記事によると、戦前の背割り下水の名残りなんでしょうね。
私も、会社員時代に3年半ほどここで暮らしましたが、
当時はそんなこと全く無関心でした。
今なら、
「分断されたビルの建物図面が面倒くせぇなぁ・・・」って。(^^;
とにかく、数少ない歴史の生き証人です。
後世へ記録を残していきたいですね。
【旧町に沿って設定 名古屋市中区に複雑な区境】
名古屋市中区に変わった区の境界線がある−。泊まり勤務の時、先輩記者が不思議がっていた。地図で調べると、確かに栄近くで、中区と東区の境界線が建物をぬうように入り組んでいる。一般的に区や町の境といえば道路や川を想像するもの。どうして複雑になっているのか、「ジグザグ区境」の謎を追った。
この区境は、地下鉄栄駅付近から東へ二キロにわたって続く。広小路通と、その北で平行に延びる錦通とで挟まれた地域を、区境はビルを分断したり、錦通へはみ出したりと、実に不規則に走る。
東新町交差点近くのビル一階で、二十年近くブティックを営む男性も「このビルも、道向かいの家も中区なのに、道路だけは東区なんですよ」と話す。
謎解きのため、まずは区境変更も所管する市の区政課へ。小杉保隆課長は「区境がいつできたかは定かでないですが、古い町の境界線に沿っていることは確かですね」と、終戦直後の資料を示しながら解説してくれた。
名古屋市の区制はいくつもの変遷をたどり、中区と東区が現在のような区域割りとなったのは一九四五(昭和二十)年。資料は当時、市議会へ区境を確定する議案を提出する際に添えた地図だ。これによると宮出町や七曲町など、今はない旧町の境に沿って、区域が設定されていることが分かる。
となると旧町の様子が、ギザギザ区境と関連しているようだ。東区東桜で長年、不動産業を営み、地籍にも詳しい林正男さん(80)に聞くと、「広小路通に面した建物は昔から中区で、そのすぐ北側が区境だった。通り沿いで一つの町をつくっていた影響があるのでは」と指摘する。
今なお通称で残る長者町通や本町通など、かつて住所は、通りの両側を一つの町として扱うことが多かった。加えて林さんによると戦前、広小路通に面した建物の裏手には下水用の溝が掘られており、この溝に沿って旧町の境ができていたという。ゆえに建物区画の大きさの違いにより、町の境がジグザグになっていたのではないかと推測される。
では、なぜジグザグのまま残っているのか。再び区政課の話。「一般的に区の境界線を変えるのは登記や学区、商売などにも影響するので、非常に大変。それに、地元の皆さんの思いもあるし、こういう形で残ったのでは」
戦災で焼け野原になった栄や広小路通の周辺。錦通の整備やビル開発が進み、街並みが大きく変わっただけに、昔の姿をとどめる境界線の方が、今日では不思議に映るのだろう。
(5月26日 中日新聞)
土地家屋調査士 大阪 和田清人
なるほど、確かに・・・(^^;
記事によると、戦前の背割り下水の名残りなんでしょうね。
私も、会社員時代に3年半ほどここで暮らしましたが、
当時はそんなこと全く無関心でした。
今なら、
「分断されたビルの建物図面が面倒くせぇなぁ・・・」って。(^^;
とにかく、数少ない歴史の生き証人です。
後世へ記録を残していきたいですね。
【旧町に沿って設定 名古屋市中区に複雑な区境】
名古屋市中区に変わった区の境界線がある−。泊まり勤務の時、先輩記者が不思議がっていた。地図で調べると、確かに栄近くで、中区と東区の境界線が建物をぬうように入り組んでいる。一般的に区や町の境といえば道路や川を想像するもの。どうして複雑になっているのか、「ジグザグ区境」の謎を追った。
この区境は、地下鉄栄駅付近から東へ二キロにわたって続く。広小路通と、その北で平行に延びる錦通とで挟まれた地域を、区境はビルを分断したり、錦通へはみ出したりと、実に不規則に走る。
東新町交差点近くのビル一階で、二十年近くブティックを営む男性も「このビルも、道向かいの家も中区なのに、道路だけは東区なんですよ」と話す。
謎解きのため、まずは区境変更も所管する市の区政課へ。小杉保隆課長は「区境がいつできたかは定かでないですが、古い町の境界線に沿っていることは確かですね」と、終戦直後の資料を示しながら解説してくれた。
名古屋市の区制はいくつもの変遷をたどり、中区と東区が現在のような区域割りとなったのは一九四五(昭和二十)年。資料は当時、市議会へ区境を確定する議案を提出する際に添えた地図だ。これによると宮出町や七曲町など、今はない旧町の境に沿って、区域が設定されていることが分かる。
となると旧町の様子が、ギザギザ区境と関連しているようだ。東区東桜で長年、不動産業を営み、地籍にも詳しい林正男さん(80)に聞くと、「広小路通に面した建物は昔から中区で、そのすぐ北側が区境だった。通り沿いで一つの町をつくっていた影響があるのでは」と指摘する。
今なお通称で残る長者町通や本町通など、かつて住所は、通りの両側を一つの町として扱うことが多かった。加えて林さんによると戦前、広小路通に面した建物の裏手には下水用の溝が掘られており、この溝に沿って旧町の境ができていたという。ゆえに建物区画の大きさの違いにより、町の境がジグザグになっていたのではないかと推測される。
では、なぜジグザグのまま残っているのか。再び区政課の話。「一般的に区の境界線を変えるのは登記や学区、商売などにも影響するので、非常に大変。それに、地元の皆さんの思いもあるし、こういう形で残ったのでは」
戦災で焼け野原になった栄や広小路通の周辺。錦通の整備やビル開発が進み、街並みが大きく変わっただけに、昔の姿をとどめる境界線の方が、今日では不思議に映るのだろう。
(5月26日 中日新聞)
土地家屋調査士 大阪 和田清人
esouzoku at 06:44│Comments(1)│土地家屋調査士
この記事へのコメント
1. Posted by 大納言 2018年08月15日 01:28
もっと凄い市境が群馬県にありますよ。