2012年05月

地方でレールウエイとともに奏でる我ら生活の様相、エッセイ27

 

地方でレールウエイとともに奏でる我ら生活の様相 2012.01.16、エッセイ27


今も10年前もはたまた50年前も、あまり変化のない世界として、田舎で生活を送っている。そんななかで、動くものといえば、車と電車。特に電車には通勤や買い物で長くお世話になっている。電車は、決められたところを黙々と数十年間走り続けている。そんな電車もまた田舎の風物として息づいている。我らの生活にもそうした風物が営みとして風情あるものにしている。田舎はいいもんだとつくづく思っている。

ここでは、鉄道を介した人間模様を、おもしろおかしく述べることにしたい。

 まず、地方鉄道の特徴をいくつか列挙する。

・運転時間帯について、終電が早い。

・運転時間間隔が割合長い。私どもの地域では30分から1時間ほどであり、割と便利ではあるが。

・単線運行のため、駅にて列車交換のため、停車時間が長めである。

・乗客はそんなに多くはない。(減少傾向)

次に、そんな特徴が生活とどうかかわっているのか、また生活がどんな様相になるか、以下に話しをする。


1.            電車通勤をしていた頃

 電車通勤をしていると、出勤と帰宅の時間が明確となる。この時間の電車に乗らなくては(乗り過ごすと1時間待たなければならない)、との思いで仕事をかたづけ、生活にメリハリが生まれる。

車通勤の時には、いつでも気が向いた時に帰れるので、勤務先で少しでも疲れたりすると、ダラダラしながらの帰宅となる。これは、便利さが気力をそいでいる、ともとれる。


2.マナーは混乱を避けるためのもの

 田舎では、乗る人がすんでからおもむろに降りる人がいる。停車時間が長いので、あわてて降りなくてもいいのである。

一方、都会の方ではそんなことは許されない。マナー(いやルール)がないと都会は大混乱となってしまう。

もちろん、マナーの否定ではないが、田舎はいかにものんびりとしており、それで間に合うというのも、面白く思う次第である。


3.一部の常連の客達が、乗車客の少なさをいいことに座敷のつもりで席を陣取る。知人がのってくると座敷に招き入れ、しかも自宅にいるかのような感覚でうるさくしゃべりまくる。まあ、携帯でゲームやメールにあけくれている方々よりはずっと良いかあ。


4.田舎ではちょっと歩いたり走ったりすると街を突き抜けてしまう。突き抜けたところから、振り返って街を見ると、街とそのバックの山が連とそびえたっており、そこに我らの電車が走ってくると風景がぐっと息づくように感ずることしばしばである。これは、私()にとってごく普通の風景であり、なれ親しんでいる風景でもある。そんな感覚だから、東京に行ったりすると、とにかく風景を感じたことはほとんどなく、なんとなくトコロテンになったかのように動いているのか動かされているのか、そんな思いを持ったことがある。


5.地方の鉄道は車両の近代化はあっても、ターミナル駅を除けば駅舎やホームは戦前のまんま。時代の流れを感ずることはなく、急にタイムスリップしたかのように、しかも自分自身が若年になったかのように、過去に浸ることがままある。不思議なものである。


結構気ままに書いた、富山にいる人でも、私のように思う方がどれだけおられるかはわからないが、地域での生活の営みを実感することだけは確かなのではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

街づくりを日常生活の視点から考える、エッセイ26

2012.05.29 街づくりを日常生活の点から考える。2011.10.7、エッセイ26


 街づくりについては、もとをただせば、文化的価値のある建造物群の保存として始まったものが、地域環境の破壊から環境を守ろうという住民運動的なものや、町おこしや村おこしとしての地域活性化のものなど多岐にわたっている。したがって、街づくりは多岐にわたった目的に対して、目的に応じて関係各分野がこれに取組んでおり、例えば、商工関係では産業としての賑わいに絞って取り組み、一次産業分野では農山村の活力を農業・林業に求め生業の発展を扱い、建築分野では建物を介した美観やコミユニテイづくりを扱っている。


しかしながら、これだけではないことは言うまでもない。最近、食育を健全にしようとか、スポーツ振興を地域レベルで取り組みたいといって、地域の問題として扱うようになり始めている。とくに食育問題は、各家庭だけで解決が難しく社会全体の問題であるだけに、改善として地域コミユニテイの観点から着手しょうとするのも当然である。

では、こうした問題をどう実効あるもので解決していくのか。それには、総合化と連携の二点が必要と思っている。すなわち、各分野ばらばらに行動するのではなく、一緒に総合するならそれこそ1+1が2にも3にもなると考えられる。

今街づくりで、何が問題となっているのかというと、担い手である市民子供を中心にしてそれで終わっている点にあり、子供に比較して青年や成人のかかわりが少ないことにある。これの打開には日常生活の視点を持つことから始め、食の問題、スポーツの問題など個人レベルから地域レベルまで持ち上げていくことが肝要かと思う。

以下に、食育とスポーツ振興、さらに農山村の問題に言及してこの種の問題の解決に向けての筋道を作ることにする。ただし、まちづくりで、土産屋観光として食の提供などが考えられているが、むろんこうしたものと本題が掲げるものとは当然次元が違っている。



<1>スポーツからの街づくり

スポーツも街づくりの視点で考えてみたい。スポーツを親しみ楽しむには、小さいときからのコミユニケーション環境の成熟度にかかっているように思うので、スポーツに親しみ楽しむ環境づくりは、まさに子供の環境ひいては家庭環境から始まると考えられる。大人がスポーツを楽しむ場合においても、家庭環境の成熟があってのものであり、単に個人で勝手にスポーツをやっているように見える場合でも、そうしたところにしっかりと関連付けがあるものである。よって、大人と子供の専用スポーツ施設も大事ではあるが、家庭環境いや地域環境の面からもスポーツ視点で整備していくべきである。

ではどんなことをするのか。いつでも・どこでも・だれでもが街においてスポーツのスポットを作り、スポーツを楽しむことではなかろうか。公園も単に作られた遊具の設置ではなく、遊びがスポーツに転化するような多少なりとも広さのあるものであったり、文字通りスポーツ談義に花を咲かせるスポットであったり、何の変哲も無いスペースでスポーツたむろするといったところであろう。また、住まいでも庭にそんなスポットの様相があれば良いし、庭なし住居でも部屋がそんな機能を持ち、そこで楽しめば良いのではなかろうか。そうすることによって、体を動かし、コミユニケーションを楽しみ、感動を共有するといった、いわゆるスポーツ本来の効用がスポーツの親しみと楽しみを醸成することにつながるはずである。

さすれば、地域コミユニテイもより一層育まれ、スポーツの健全な愛好が自然とすすむ。また、スポーツが社会から翻弄(運動会競技で順位をつけないといった平等主義強要)されそうになっても、地域や家庭から跳ね除けることもできよう。こうしたところのアプローチはその専門の方にお任せして、とにかく街中で外遊び的なスポーツスポットをどう作り、そこでどうスポーツを楽しんでいくのかを、皆さんと共に考えたいものである。親しむスポーツはとにかく身近から。街中にてスポーツを楽しむ光景が当たり前になるようにしたいものである。「とにかく皆さん、体を動かしに外に出ましょう」として、意識改革とはいわないまでも、そんな「のり」ももうちょっとで定着するのではないか。



<2>食からの街づくり

 食の問題について、健康の面や教育・文化の面からその重要性が指摘され、種々改善の方策が講じられている。最近は、社会に閉塞感が漂うのも、しっかりとした食生活が営まれていないからといった指摘もある。

そうした議論の背景には、周知のようにしっかりとした生活の営むことが出来難くなっているようにみえ、これが食の簡素化を生み出し、ひいては、家庭のコミユニテイをも希薄にしつつあるようにも思える。例えば、「何で全員で食さないといけないのか」とか、「家庭料理の暖かさはコンビニの電子レンジでも同じ暖かさだ」、といった声などびっくりするような声が若年層の一部にはある。



このような家庭生活の簡素化の現実を知れば知るほど、このままでいいのか、と思わざるを得ない。ではどうするのか。多くの方はもちろん問題点をしっかりと把握しているのであるが、その次がなかなか踏み出せないでいる。これは、理屈ではなく、人間らしいごく自然体で向き合うことになうと思っている。特に、大人の行動が大変重要であり、大人が子供に対して背中をみせなくてはならない。

そしてさらに、街づくりや地域づくりとしてのコミユニテイづくりの重要性が叫ばれている昨今、家庭コミユニテイを充実させる機運はあるとみている。家庭コミユニテイあっての住まい作りであり、街づくりへと、生活の営みが発展していくことであろう。ことの重要性が認知されていくものと思っている。



以前にこんな話があった。ある中小企業団体の懇親会に呼ばれたとき、中小企業団体では社会貢献としてこんなことをしています、あんなことをしていますといっておられましたが、そんなことよりも「お父さんたちは早く家に帰って、家庭でご飯でも一緒に食べればいいのではないでしょうか。そうしたところから、社会貢献があるのでは」、そんなニアンスのことを言ったことがある。

いろいろな意味で間に合わせ的に食するのではなく、じっくりと食べる習慣作りが大事である。そんなことを皆さんで、知恵を出し合って、なおかつ幅の広いコミユニケーションで大いに自信を持つことから始めたいものである。あたり前のことがあたり前になることを望んでやまない。



<3>農業からの街づくり

能業も街づくり・地域づくりの観点から考えてみたい。「治山治水として林業・農業を育てよう」とか、「風景や文化は農業にあり」などの声が急速に大きくなっているが、これは、安易な経済至上主義で人間生活の空間が損なわれてはいけない、とする論調をベースにしたものである。最近では、国民全員に啓発する意味で、「都会と田舎の連携」が叫ばれるようになった。これは、都会の方にもっと農業を知っていただくためにとにかく田舎に着て農業体験をしようというものであり、グリーンツーリズムもそのひとつである。

私は、「農業の抜本的活性化は市民が身をもって理解を深めるところにあり」と考え、「都会と田舎の連携を地道に実らそう」と思っている。それだけに、そうした連携をもっと促進する意味で、田舎から都会へのアプローチを提唱したい。確かに都会の方が田舎に来て種々体験して気も心も自然体になって帰っていくのはいいが、それで終わるということは如何にももったいない。そこに何らかなるケアーがあればと思う。またもうひとつ。田舎から都会に出かけ、田舎のいいものを都会に植えつけることである。都会にビオトープを持ち込むのもあり、小さな菜園を持ちこむのもありだが、もっと何かを持ち込みたいものである。

私は、田舎人の気質に着目したい。とにかく、閉塞感漂うこのご時勢では、生命が軽んじられ、自然の恵みが軽んじられているように思えてならない。このようなところから、人間の絆もなかなか育まれようがないではないか。最近、まちづくりとしてコミユニテイを大事にするようにはなって来てはいるが、肝心の家庭のコミユニテイが育っているとはなかなか思えない。家庭には食生活が日常習慣化されて健全なものになっているのか、大いに疑わしいだけに、そうしたところに田舎人の気質が伝播し、ひいては農業の根幹が大いに理解され実践されるものと思っている。

目の前で植物が育ち、恵みを授かることこそ、人間の営みの根源である。こうしたところから、文化が生まれ、風景もまた文化の素養を兼ね備えていくのである。そして、地域全体が人づくりの場として醸成されていく。このように考えている。


 


 


 


 


 


  

すてきな富山、エッセイ25

すてきな富山 2012.02.09、エッセイ25


たまたま富山の魅力や特徴を400字でまとめる機会があった。

 「富山の風土」は、自然環境は当然のこと富山人が構成するコミユニテイをも含めたものである。とりわけ、富山人については、富山という大自然のもとで我ら育まれ精神性が磨かれるとともに、広からず狭からずの富山生活圏の広さが人間性に全県下で一体感を生み出している。


これより、まじめな方、寡黙な方、個性的な方、面白い方、多才かつ多彩な心意気が富山という一つ屋根の下に満ちているばかりでなく、大自然を前にして「富山人の心に立山あり」といったようにお互いにメンタルな面で繋がっているといえる。


自然とのつながり、人とのつながりにより、人は勤勉でおおらかに育つとともに、精神活動や種々営みでは人とのつながりが「広く浅く」の面で大いに力を発揮して「狭く深く」の面と協調し富山らしい面白さが展開されている。


 我らはそうした風土のもとにいる。風土は我らを育て、我らは風土を作っていく。そんな富山をこよなく愛している。






 


 

ドラマと建築----市民の建築認識について、エッセイ24

ドラマと建築----市民の建築認識について、エッセイ24


1.はじめに

1.1 目的

 著者は、建築に関する市民教育について種々議論を通して、市民生活におけるより良き建築のあり方を探りとともに、市民生活をより充実させるには建築からどのような支援が必要かをこれまで検討してきた。

 ここでは、市民が建築をどのようにとらえ建築とどのようにかかわっているかを扱うことにして、(TV、映画)ドラマに着目しアプローチすることにした。理由は、市民の建築観の育成について、ドラマによるものが大きいと考えたからである。

ただし、本論では建築をアプローチの視点とした 。

1.2 具体的関心事

ドラマを対象として建築側からみた関心事を挙げる

・市民が建築をどう見ているのか。(建築、建築人など)

・若者が建築に興味を持つときの要件とは

・市民の生活観がどう影響を受けあるいは反映されているのか

・市民が室内空間をどう認識しているのか

・建築はドラマをつくるというが、どんなことか

1.3 ドラマに着目した理由

・「建築はドラマをつくる」とか、「建築空間の認識はドラマ仕立てである」といったことがいわれているなら、建築からもっとドラマついて論ずべきである。建築設計もドラマ制作と(プロセスや理念で)相通ずるなら、なおのことと考える。

・生活の様相はドラマからも影響を受けている。戦後以降、ライフスタイルに米国ホームドラマの果たした役割を思いだす。

・ドラマ観賞により情景認識や空間認識の体験が積み重ねられていく。これは、ドラマの世界における建築認識ともとれる。

・ドラマにおける建築がより正しく認識されているのか、常にチェックしたい。業界のこと、設計のこと、などについて、大きな誤りはないにしても気になる。

 

2.      ドラマについて

2.1 ドラマとは

ドラマとは、限られた時間や空間の中で劇的な局面を構成し展開させて見る人の心に感動を与えるものである。すなわち、時間と空間で人間の営みをドラマチックに展開させたものであり、演じられる事柄は人間や人間関係である。これより、当然のことながら、ドラマの真髄は人間ドラマそのものとなる。

ドラマの展開は、人間模様を時系列的に描くことに対応する。いってみれば、街、住まい、部屋といった空間を時系列で物語にしていくものである。そこには、世相反映あり、社会通念あり、社会構成がある。

なお、ドラマに合理性を与えるには考証が必要である。考証の対象は、時代や社会構成、民族、地方、文化などである。

2.2 ドラマの主張

 作者の意図を盛り込む。意図をストーリや雰囲気・情景に盛り込み、また主人公や識者、市民に語らせたりもする。

 

3.      ドラマの設計(脚本構成)

3.1  ドラマの構成

 作者の主張や意向を盛り込んで、人が感動するようにストーリが構成され、それを情景のもとで人が演ずる。演技では、人の描き、人の周りの環境(自然、社会)の描き、社会とのかかわり、人とのかかわりが中心となる。また人の行動には、世相が反映され、社会が反映されている。

こうして作られるドラマについて市民のかかわり方が人と情景ともに描かれている。また人の演技が最も効果的となるように、情景は適切に選ばれあるいはつくられたりしている。

3.2 シチュエーションとしての情景

 ストーリの中で情景の扱われ方を考える。

(1)人と情景

 人はその周辺環境とワンセットともとれる。人にとっての身近な空間は体の一部となるかのようである。人の動作、コミユニケーション動作も上記の空間におけるものである。

(2)ドラマにおける情景としての建築

情景は、人、自然(生物、地形、空など)、環境(建築、街など)、などからなる。

建築としては、情景としての建築の役割があり、ストーリのステータスの表現としても役割があることもある。

(3)情景の表現

 雰囲気の設定として、街全体および建物全体が対象となることが多い。このため、情景として建築をどこまで精度よく表現しドラマに添えるのか、機能をどう持たせるのか、を考える。また表現するものは、まち全体のイメージ、地域のイメージ、住まいのイメージ、などがある。ステータスイメージもある。

 一方、建物でも部屋でも街でも、全体の中でどの部分を切り取ってリアルに映し出すこともある。例えば、建物のみなら入り口だけとか、街、ストーリーのみなら、ファサードのみとか、一角のみとか、1軒のみとか、ということにもなる。

 

4.      建築のかかわりについて

4.1 さりげない建築

 もともと建築には種々空間の構成による物語が込められているので、この想いの実現として設計や施工が行われている。それゆえ、建築は物語というドラマを演じているといってもいいのである。(設計者は物語を建築に与えようと努力している)

一方、ドラマにおいては、建築の本来的なストーリが描かれることが少ないように見えるので、視聴者にとっても建築は理解されにくいものといえる。もし、建築が映し出されるのを見てドラマを感じることがあるとするなら、建築そのものにスポットがあたっているときではなかろうか。

ただそこまでいかないにしても、建築のイメージをある程度は無意識でもいいので伝われば良いとは思いたい。そんなとき、では建築を理解するためにどのようなシーンをどのくらい必要としているか、ということが問題になろう。これはドラマの中での空間設定をしていることに他ならなし、市民による建築の捉え方についての一断面ともいえる。

4.2 営み描写について

 建築は生活の営みの器であるので、ドラマは建築を介した営みの描写といえる。このことは、ドラマが建築の魅力を代弁しているともとれる。もちろん、人間描写としての営みの描写である。

 ここで、建築を介した二点をピックアップしたい。

(1)建築に対しての視聴者の反応:こうした種類の反応はあまりないようではあるが、それでも、きれい、しゃれている、といったレベルの反応が視聴者の中にある。それゆえ、センスの育成に少なくとも害を与えないように、建築をしっかりと扱ってほしいものである。

(2)建築やまち:特別にドラマが何かをするということではなくても、ドラマで建築や街が映し出されれば、見る人はそれなりの影響を気づかないうちにさりげなく受けていることになる。建築や街が映し出される場合には、結果として少しでも良い影響(刷り込みか)に期待したいものである。

4.3 空間把握、ストーリ把握

人間の空間認識プロセスは、小領域の視野をあちこちとずらしながら視覚情報を連続的につなげて全体像をきめ細かくつくりあげるものである。一度、全体像を認識すると、あとは部分的情報で全体詳細像を更新していくことになる。

ドラマでは空間も人間模様も同一次元で描かれているので、人間関係の描写についても部分と全体といった認識プロセスを踏むことになる。すなわち、人間模様を空間においてもコミユニケーションにおいても部分や全体の両面でストーリが組み立てられることになる。

 

5.建築からの具体的問題

5.1 建築を志す若者について

青年期において若者の建築への思いはどうであろうか。高度成長時代には建築士が主人公のドラマがあって、かっこよさに惹かれたという若い方も多くいた。かなり前には(木村卓也1996主演の)設計士のドラマが結構若者に受けていた。

 若者に、何がどうインパクトとなるのか。それは、かっこよさ、シャープさ、ロマン、美意識、といったところであろう。最近は、現実的要素(収入、ステータス、人気)が多くなっているようにみえる。しかし、依然としてかっこよさがもてはやされており、最近特にかっこいい建物が魅力的となり、これにたずさわる頭脳的仕事の設計士にあこがれが生まれているかのようである。

5.2 建築の認識

各シーンを重ねて全体像(全体空間)を把握するには、なんといってもつなぎが重要である。これには経験がつなぎの認識を補完する。例えば、建築のいくつもの部屋を認識する際には、それぞれの部屋の認識に加えて、部屋と部屋のつながりあるいは廊下の位置との関係をおさえる。いってみればいくつもの部分の連続で全体を見ているといえる。

5.3 情景作り、(建築の理屈として)

 ドラマのストーリーにリアリテイをもたせるには情景のリアリテイは欠かせない。ところが、ドラマでは粗末に扱われていることも多々ある。デイレクターは建築の方を考証の役割でタイアップしてほしいと思う。建築をテーマにするなら、建築の方がドラマの考証にはいることで役割は果たされることになる。もちろん、デイレクターは案外建築を勘でとらえているので、情景設定は一般にまずまずとは思ってはいるが。

5.4 建築ドラマ

ドラマは当然人間中心で構成されている。各人間の内面を鋭くえぐるとした人間ドラマについて、建築がどこまで入り込んでいけるのか。イメージの世界において、自然はインパクト強く入り込むが、人工環境の都市や建築はそのような訳にもいかず、さりげなく環境を作って役割を果たすといったところである。とはいえ、建築にドラマを演じさせることもできる。建築内部や周辺に人がいなくても、あたかもいるがごとく、ドラマ展開が可能である。建築は、設計によりつくられた室内にて人間ドラマを演じさせてくれるからである。また、劇的な人間ドラマを奏でる建築空間の働きが大きいからである。事実、これまでのドラマを見ると、歴史的建築の登場が多い。またトレンデイな場合については、有名建築家の作品のものが多い。

 

6.おわりに

市民の建築へのかかわり方は様々である。ここでは、ドラマに着目し、ドラマが市民の建築観形成にどのように影響しているかを議論した。その結果、情景としての建築を検討することにより、人の空間認識プロセスや感動プロセスについてとっかかりを得ると共に、市民生活観さらに建築観の育成を垣間見ることが出来た。これをもって、ドラマ世界で感情移入させた建築空間における認識の検討とした。

 

 

参考文献 1)高橋康夫、伊東豊雄;対談、ドラマと建築のリアリテイ、建築雑誌、1989.8,pp16-23

2)五十嵐太郎;映画的建築/建築的映画、春秋社、2009

3)升村丞、ASH;ロケ地ガイド、http://loca.ash.jp/index 

 膨大な数のドラマについて調査されている。

4)うらのブログ;ドラマと建築、htttp:/www.tvdrama-db.com 最近のドラマ20本に登場の建築

5)戸梶亜紀彦;感情体験の効果について、広島大学紀要


総合化と専門分化の考――人間視点による技術体系活用に関する検討、エッセイ23

2012.05.21 総合化と専門分化の考――人間視点による技術体系活用に関する検討、エッセイ23



第1章 はじめに

 市民社会の成熟とともに、工学の各種の問題を各分野個別に対応するのではなく、総合化として連携により事にあたるようになってきた。しかしながら、連携については、市民との連携、他分野の連携など、ひところに比して盛んにはなってきているが、現実には総合化の視点とリンクした活動のものとは違うのではなかろうか。特に肝心の総合化については、掛け声倒れに近いように見受けられることもある。

ではどうすればいいのか。掛け声を実効あるものにするには、抜本的に体系構築とは何かを念頭に置いて事にあたるべきと思う。そのために、総合化についてなぜ実効しなかったのかを探り、どう実行していくかを考えたい。そこで、専門分化(分業)と総合化を対比させて、視点や方向性の問題として、人間性の視点による細分化系の関連づけをどのように図っていくか検討することにした。

 なお、扱う対象は建築全般であり、各分野の詳細部までは立ち入らないことにする。



第2章 問題の背景

(1).社会的背景

効率化・専門分化の功罪が取りざたされている。なぜ今の時期に分業化・専門分化が問題となったのか。それは、専門分化が人間生活を(物質的にも)豊かにしてきたからこそ、人間的に重大なものを失いかけていることに我らが気づき、今現れている種々の弊害に対処しなくてはならなくなったからである。

(2).弊害の数々

今の社会の(種々の分野における)弊害をかいつまんでいえば、分野にこりかたまって専門分化を急ぎ過ぎたことによる破たんがあるのではないか。例えば、建築では人間性や社会資本等追求が効率優先の前でいまひとつ活力不足として現れている。

こうしたことが、市民に潜在的な不満を募らせており、市民側からは人間が疎外されていることにつながっていったのではと思える。

このような動きを推進させているのが専門分化である。専門分化が効率を向上させ、多くの成果を生み出してきたが、複数専門にまたがる問題に対して対応が十分でないことがめだってきている。    

(3). 市民の不満

分業化社会に対して市民の不満はまさに専門分化の市民側評価そのものといえる。市民の声を列挙する。

・(市民にとって)いろいろなことが実感できず、分からなくなっている。

・(専門家は)直ぐに市民の方が勉強していないというが、いいのがれではないのか。

・専門的な問題については専門家に頼らざるを得ないことをいいことに、(専門家は)市民の顔を見ていない。

・システム社会では無力感が漂う。行動しにくい世の中である。行動しても空回りである。政治やシステムは信用できない。

・(市民に対して)公平で質の高い情報の提供がない。専門家に対し信用していない。御用学者がなぜ幅を利かせているのか。

・(市民にとって)情報は分かりやすいことは当然であり、細かな専門的なことよりも広がったつながりのあるものがほしい。

・まとめてみると、専門家への過度の依存は専門分化分業の現れととれる。専門分化で本来問題にすべきことは問題対処の方向性に市民が関与しているかどうかである。


第3章 総合化に向けて

(2).改善策

専門分化の再検討や総合化を目指して種々対策が講じられてきた。ここでは、検討のポイントを列挙したい。

・コミユニケーション:各自の枠を越えたところでの交流。各自の分野の中でも細分化した分野どうしの交流や、もっと大きな意味での異分野交流などがある。

・連携:これには、分野どうし機関どうしのものや対社会のものがある。
連携形態については;

  学際的分野における関係分野の連携:ビッグサイエンス等

  他分野との連携:街づくり等 、細分化された各分野の連携

  関係機関の連携、地域との連携、学際的結集

  総合領域としての新専門分野:専門分野を増やして対処

連携主体については;

大学研究室単位、大学の地域センター、共同利用の諸機関、学会、行政、民間、町内会、等

(3).現状

 それでも総合化は十分に機能していない。現状をみてみよう。

(1)これまで

これまでは、専門分野を個々に学んでも自分の頭の中で総合化を図ったものである。各自の頭の内部で総合化というネットワーク化を行っていた。(今もそうした方々は少なくないが) (2))総合化のアプローチ

 実際のアプローチについて多々気になる点がある。

・総合化は「ハウツー中心の総合化」となっている。直ぐにハウツーに走るのは分業化の考えの延長といいたい。

(3)取り組みの姿勢

 専門家側の姿勢にも多々気になることがある。

・総合化といっても掛け声でおわらせている。研究対象にならない。個人レベルの意識の問題として片づけている。

・この種の問題を直ぐに教育の問題として位置づけている。すなわち教育系でこの問題に対応している。しかしながら、教育系だけでいいのか。教育ではなく全体の問題として捉えるべきであり、しかも理念的な次元での活動(取り組み)が必要と考える。


第4章 観点を広げて

専門分化の良くない点は、誰のための専門分化なのか、(専門分化の)方向性が十分検討されていなかったところにあるので、総合化には何のための誰のためのといった観点が必要となり、ここで視点として、人間性にもとづくネットワーク化といった関連づけを考えていきたい。

・総合化に際して、(問題の対象域の)枠をどの次元に設定するかが前提となる。この枠を境にして、枠の外とのつながりが関連というものである。なお、枠は小さなもの(細分化の各分野)であれば、大きなもの(統合的分野)でもあり、いわゆる相対的なものである。

・肝心なことは人間が分業化や総合化にどう対処するかである。体系を作るのも人間、体系を活用するのも人間、総合化とは体系そのものに求めるのではなく、人間(人間の頭脳)に求めたいものである。



第5章.構築
(1).骨子

体系活用と活用人間という枠組みで体系と人間との関係を探ってみよう。思いをキーフレイズを列挙すると;

人間と体系とをセットとする

体系と人間の相互関係を見直す

活用の仕方に柔軟さを求める

(2).総合化の方法

 総合化の方法として以下のものについて検討する。

・体系の再構成

各体系を一度ばらした再統合再構成が考えられる。この考えは、今までの合理的なものを否定するので現実性を欠いている。

・総合というひとつの専門分化のもとで体系の増設

総合という専門領域を作る。これは専門分化の延長戦にあり、必ずしも本来の総合化とはいえないように思える。

・関連づけといういわゆるネットワーク化

各体系をそのままにして、活用する人間側の方でネットワーク化を必要に応じて行う。これなら、現実的であり、人間性も反映される。つなげる作業こそ人間的そのものだからである。

(3).総合化に向けて

すべての分野において、ものごとを深く掘り下げるのではなくいわば横糸のように関連づけていくので、その意味では人間的視点でポリシーが論じられるべきであり、方向性に関する議論も活発にすべきである。また、こうした動きが各分野にて問題提起がなされ、議論が加速していくことになる。

なお、具体的な関連づけについて対象を列挙しておく。

・芸術と科学・技術、 学術と生活、 各専門内部での関連

・専門家と市民、   実務と研究・教育、    ほか

(4).総合化の効用  

総合化では、細部の体系が活性化することや、連携などがやりやすくなることだけではなく、各体系がスムーズに結びついて活用に大きな力を発することになる。

総合化の効果については、各系が変わるもよし、活性化するもよし、各系どうし連携的となるのもよし、といったことになろう。


第6章 総合化各論、建築におけるひとつのアプローチ

建築の各分野における総合化について議論する。ただし、扱いはすべてを網羅しているわけではなく、トピックス的にいくつかの問題に限定した。

(1).建築全体の問題として

 建築全体の話になると、哲学的な論点が多くなり、非常に人間くさい議論となる。これこそが総合化の姿勢を反映している。以下にいくつか列挙する。

・「建築の原点に返る」にふさわしい視点の具備と感受性の磨き

・原点なる若い時のような心意気の確保

・建築では設計者が先駆して構造系なら構造家が先行。今は意匠設計家が総合化のデイレクターをかねている。

・研究が専門分化しているからこそ研究を統合するデイレクターが必要である。

(2).計画系

 計画分野においても、建物の用途に応じて研究分野が細分化されており、総合的な視点の必要性が何回となくいわれてきた。一方実務面では、建築が総合性のものであるだけに、建築と生活が区別されることのないよう努力がなされている。最近は、まちづくり・都市づくりの問題として一貫性を持って建築全体の計画を論ずるようになってきた。ここでは、まちづくりと住まいづくりについて論じたい。

 (1)まちづくり

 最近のまちづくりでは、まちの個性として歴史や地域性を含めて哲学や宗教など広範囲な連携のもとで扱っている。

 しかしながら、まちづくりにおいて事よりも人間という観点が多少弱いだけに、当該住民に対して専門家の押しつけが目立ち、建築のかかわりが異常なこだわりにバケてしまい、地域においてトラブルが生ずることが少なからずある。

特に伝統を重んじたまちづくりでは、現代的生活様式とどう折り合いをつけるのかで、住民と建築家との間での不協和音が目立っている。

 一方では、日常生活の営みが街の形を作るとして、食、農、芸、スポーツなどの分野の方々がまちづくり・地域づくりを提唱してきている。こうした動きも取り込んで、総合的なまちづくりを目指したいものである。

(2)住まいづくり

 快適さイコール機械力に頼った環境の実現となっているが、そこにおいては、機械を使わない快適さをめざすとして、自然との共生として、あえていえば建築と自然のコラボレーションが図られるようになってきた。

(3).環境系

 人口環境の実現を目指して著しい発展を遂げたが、一方ではこれで良いのかといった声が小さいながらもある。とくに、高気密高断熱については、異論が少なからずあり、最近では伝統工法なる自然派タイプの工法ももっと研究すべしとして、実践まで出始めてきている。

(4).構造分野

建築における総合性については、この分野が一番必要としているのではなかろうか。今の構造の人にとっては、何につけ分業化の枠を出たがらない。以下にいくつかの例を記す。

・地震被害には地盤崩壊を主因(液状化、不同沈下、斜面崩壊)として上部構造物崩壊多数あるにもかかわらず、地盤は土木の範疇として避けたがるきらいがある。巷の技術者の間では特にそうである。

・構造は、弾塑性、極限設計、破壊力学、震動論、地震、風、などの分野から構成されているが、人がこれらすべてに精通するのは困難なだけに分業化は避けられない。ならばどう関連づけていくかがポイントとなる。

(5).教育

 教育ではすぐにスキルを第一としているが、もっと大事かつ基本は理念ではなかろうか。建築だからこそ総合化の一つとして哲学をもっと扱ってほしいものである。


第8章 おわりに

市民と専門家という枠組みで問題対処の方向性や人間性を検討してみた。その結果、必ずしも結論を得たわけではないが、市民参加を含めて市民と専門家をどう結びつけるかという問題に対して道を開いたと思っている。



 


 


 

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