2013.02.02 学術や史実の解釈が意図的にねじ曲がること有り―――富山の立山カルデラと常願寺川について 2012.11.23、エッセイ46


学術や史実の世界においては、地元に関する物事になると地元ひいきの解釈が定説となり、内容が意図的に改ざんされる(された)ことが少なからずある。ここでは、自然の地形や地誌について、本質を意図的に捻じ曲げた改ざんとして、富山県にある「立山カルデラ」と「急流河川の常願寺川」を題材に述べることにする。

<1>立山カルデラ

立山カルデラは北アルプス立山連峰の主峰立山の南東にある大規模な窪地のことであり、阿蘇と同じような形態であるので火山性のカルデラと何の疑いもなくいわれていた。

もともと、カルデラはなべ底という意味であり、周辺山に囲まれた広く平らになっている地形のことである。これには火山性のものもあれば、侵食のものもある。立山カルデラはまさに後者のものである。

かつて富山大学相馬教授は現地調査により、当該地では火山性堆積物があまりにも少ないことにより火山性ではないと結論した。当時は、立山カルデラが火山性であるといわれていたことにより、相馬教授はあちこちから総スカンをくらった。その後十数年経過して、相馬教授の指摘が次第に受け入れられ、(カルデラ展示を専門とする)立山カルデラ博物館でも学術を尊重して展示には「火山性ではない」と一言が明記されるようになった。

しかしながら、いったん一般社会にて定着した「カルデライコール火山」は覆ることなく今もまったく変わっていない。カルデラのボランテイア解説員までが阿蘇のようなカルデラという表現を多用している有様である。

市民にとっては、学術側からの正しい情報にふれることが少なく、今もなお一般社会(富山)には事実誤認がまかり通っており、正しい情報の説明努力が観光や何やらの勢力にあたかも力負けという現実が寒々として感じられてくる。

 

<2>常願寺川

「これは川ではなく滝である」という文言がある。これは(富山にある常願寺川の)治水事業で明治期に来日していたオランダ人技師ドレイケ氏の発言とされており、日本の河川が急流であることの比喩として世に広く知られている。

しかしながら、発言のそもそもの実像がまったくといっていいほど知られていない。ある学芸員の調査によれば、ドレイケ氏に関して現存するすべての資料の中には当該発言記録がまったくないことが分かった。いまでは立山カルデラ博物館の展示物にも事の仔細が明記されている。

ではなぜ発言が事実としてまかり通ったのか。それは、富山県の技師が砂防予算を獲得するために申請の際に誇張した表現としてドレイケ発言を捏造したといわれている。(予算獲得のための偽装行為は今も変わらない?)

その後、ドレイケ発言をもっともらしく解説する方が現れ、「オランダ人は平地の国ゆえに滝を見たことがないから日本の滝を見てびっくりした」と推論レベルで創作した。

これについてはかなり時代が下ってから、反論が次のようになされ、現在では定説となっている。すなわち、世界的な技師である彼がヨーロッパアルプスに一度も行ったことなく、滝も見たことがないということはありえない。ドレイケ氏は常願寺川に(落差日本一の)称名滝があったということを認識していただけのはずである、と。

こうした経緯をみていると、予算獲得のために(一部の方のフライングとはいえ)行政は外国人技師を都合よく偏狭な技術人に仕立て上げ、しかも(一部の方の都合による)事実の捻じ曲げをいとも簡単に行い、それを一般社会に定着させたことが結果的にありありと伺うことが出来る。(呆れを超えて感心。)

それにしても、技術者が根拠のない話を真実のように誇張することは今も昔も変わらない。例えば、ひところ(1995兵庫県南部地震以前の話だが)一部の地震学者が「地震が起こるぞ」といいながら(研究費獲得のために国民を不安にさせて)資金獲得に奔走されていた。まあ、そんなものであろう。

 

<3>事実誤認を認めない風潮

上記二点のことについて、残念なことに今でも教育や事業の方々が講演会やシンポにて「カルデラは火山。常願寺川は滝」といって一般人を教育し、各種コミユニケーション紙にでも堂々と主張する有様である。事実や真実を世に伝える気概がなくとも、せめて自分から正しいことを正しいと認識くらいはして欲しいものである。

このような話は歴史の分野でも歴史認識のねじ曲げを含めてまったく同じようにみられる。特に郷土にある歴史的な史跡を含めた歴史文化財の史実認定については、史実が伝承によりゆがめられことが多々ある。もちろん伝承そのものには史実でないにしても長く伝わったという価値があるが。

ひどい例をひとつ紹介する。平家の落ち武者の話。富山県東南部に有峰といって相当に深い谷を持つ山奥の村があり、平家の落人が開いたという。ところが、よく調べてみると縄文時代から住みついていたという。まあ、そんなものであろう。でも、なぜ平家の落人をダシにして伝説が創られ残ったのか、かえって解明への興味は尽きない。

以上のように述べてみると、専門家が罪作りにかなり加担しているといえる。間違ったことを間違いとは認めず、一般の方に(間違いを)教育しようとは、良識を疑うばかりである。なかには、事実事実というよりもかえってロマンがあっていいじゃないかという人もいる。科学技術に生きる人間が、間違ったことをロマンというのも片腹痛い。科学や技術のロマンとは、(歴史の分野も含めて)人間の夢をかなえる努力の総称といえるものであるのに。(なお、良識ある専門家も多いことを付記しておく)