2014年10月

子どもの自然体験と教育、親側について雑感、エッセイ121

2014.10.22、子どもの自然体験と教育、親側について雑感、121

1.    はじめに 

 こどもを取り囲む環境がすこぶる悪くなっている。子どもへの管理強化、子どものいじめや引きこもり、家庭の貧困、など問題が深刻化しているといっても過言ではない。ここでは、環境改善に向けて、子どもの遊びから、自然体験や教育のあり方など、広範囲にわたって、現状と問題点を指摘しながら解決の方向を検討することにした。具体的には、子どもの自然体験と教育とについて焦点を当てて論述することとした。


2.自然体験 自然と人間が一体という自然観を身近に!

 最近、子どもを里山で遊ばせたり、学習させたり、農業体験させたりするいわゆる自然体験のサークル活動が花盛りである。全国どこでもあちこちの里山を拠点にして、多種多様な方々が体験活動をオルグしている。この種の活動が当たり前になりつつあることを大いに評価したい。
 しかしながら、それと裏腹に活動そのものの根源的な役割が十分論議されず、あまり確立されていないようにみえる。ここでは、サークル活動の広がり、地元の役割、自然体験の包括的な意味、自然観の育みについて検討したい。


(1)活動の広がりとは誰にとっても身近な存在そのもの
 自然体験サークルの多くの方々は、体験される親子の数をもっと増やし、自然の良さを体験していって欲しいという。確かにその通りなのであるが、具体的や考えが己らのサークルの中だけの話に閉じてしまっている。自分らのサークルを含めて多くのサークルでは、希望する親子がどこででも自然体験をしたいという本質的なニーズがまったくおざなりにされている。
 今大事なのは、いつでもどこでも誰でもが自然体験をできるようにすべきことである。このため、全国各地における自然体験サークルが例え連携しなくても、「皆様、お近くのサークルへどうぞ」といった考えが少しでもでてくるべきである。ところがそうはならない。理由は、自分らがやっている活動が一番であり、自分らが一番面白い体験メニューを持っていると自負しているからである。
 本来活動の自負とは、自分らだけが一番という考えを変えて自分たちと同じような方がいるという認識に立っことではなかろうか。要は、サークルが差別化されて洗練されることを考えるのではなく(実際にはそこまでもいっていないが、)身近な存在を己一人ではなく皆と共に実現させていくべきである。
 それにもうひとつ。関係方々の交流がもっとあってもいい。どういうわけか、他のところに出向いて見学ということはほとんど聞かない。見学というのは必ずしも、ヒントをもらったり、やり方を教わったり、といったことだけではなく、むしろ見学先の方々の心意気と笑顔をみることかと思う。これが目に見えない一つの仲間意識ともなろうに。


(2)地元とのつながりとは自然環境の意味の理解そのもの
 いつも思うことがある。サークルでは自ら楽しむことを当然第一としているのはいいが、地元を無視するかのように勝手に遊んで「はいさようなら」といった傍若無人に近い様相がままあるということも気がかりである。他サークルと交流せずはいいとしても、地元との関係はいま少し考えた方が良い。なぜなら、里山を手入れし守っているのは地元だからである。
 ではなぜ地元軽視の発想になるのであろうか考えてみたい。思うには、世の中の自然観が(一部には)間違って認識されているのではなかろうか。
 古来日本では自然と人間は一体である。自然という大空間の中で人間が生活を営んでいる。日本人の自然観はそうしたところから自然に育まれてきたのである。自然体験をするとは、自然空間とそれと一体となっている地元民の心意気との交流そのものである。そのことを理解しない方が自然体験と言っても、それは木を見て森を見ずといった目先にある薄っぺらな体験としかいいようがない。子どもにはもっともっと大きな自然体験をさせるべきである。それが本当の意味の自然体験である。具体的な取り組みはそれこそ、皆さんで考えるべしといいたい。


(3)結集(目に見えない連携も含めて)、そして世直しへ
 子ども環境を改善するためには何か横の連絡が必要である。なぜ連絡かといえば、勉強のため、教えをこうため、情報交換のためなど即物的な良さばかりだけではなく、自分たちの活動の相対化が出来ることが一番のメリットである。とかくこの種の活動は自分たちでなし得ていると捉えることにより(お山の大将として頑張っていることにより)、後の発展を鈍らせることもままあるので、活動の相対化を皆さんに勧めている。
 今私たちが目指しているのは子ども環境を種々の面から健全化することにある。その意味で私たちは、遊び団体、自然体験団体、冒険遊び、スポーツ、福祉、子育て、幼保教育、建築のあらゆる面から行動するといういわば世直し運動として、全国津々浦々から種々の活動を支援していくことしている。だからといって、各団体に連携を必ずしも求めるのではなく、全国の皆さんがそれぞれ固有に頑張っていることを互いに認識しておけば良いというスタンスでいる。もちろんそこに連携があってもいいが、活動には相対化を図り、自分たちの活動に誇りと自負を自然と醸成されたいものである。またこの種の運動で全国をうめつくしたいものである。


(4) まとめとして
 いいたいことは、・子どもに心底自然に触れさせて欲しいこと、・大人がそれに向けてシステムを整備すること、・そして自然環境を人間として堪能していくことである。
 また、体験行為については、・人間が自然と一体となっていること、・自然の中には地元民と共に来訪者がいるということを念頭に置くことである。特に地元民の存在を忘れてはならない。地元民はたゆまぬ努力で自然を守り、地域固有に生活の営みを形づくっているのである。彼らによって初めて、自然体験が自然と人との大空間の中での体験となりうるのである。今後はそうした活動により、体験の場が地域個性を生かして全国津々浦々当たり前のように身近になることを期待している。子どもの楽園となるように。


3.教育  子ども視点の教育のあり方!

(1)教育制度から 

 近年、過疎化対策や中心地空洞化対策に名を借りた学校統廃合が加速すると共に、コンパクトシティの名を借りた効率優先の施設作りが始められようとしている。このような動きは街そのもののコミュニテイを崩壊させるものであることはいうまでもない。そこで、新たな考えとしてコミュニティを守ることを制度面からアプローチしたいものである。最近、制度を6・3・3・4制から4・4・4・4制にとの声もあるが、私は小学校の前半部を地域に預けるというシステムを提案したい。


(2)子どもの育ちについて

 子どもの育ちについては、親の子どもに対する姿勢に左右されるだけあって、問題の論述には、親の考えが家庭作りや行動にどう反映されているかということを中心に添えることにする。対象とした家庭(実際には親のことではあるが)については、自然系のもとでの家庭(いわば自由闊達な家庭)とそうでない一般の家庭とに分けてみることにした。


a. 自由闊達に子どもを遊ばせ育む家庭の場合

自由闊達な家庭の親は子どもの将来について自然の成り行きで対処している(そのようにみる)。この場合、子どもの意向を聞いて時には学校に行かないことを受け入れる事も良しとし、結果として一つに公教育を否定し、二つに自由な生活圏という社会を謳歌することになる。このことを、子ども自身の教育を受ける権利と対比すると教育の本質が浮かび上がってくる。

第一の公教育については、文科省管理でロボット育成のように見えることもあるが、教育本来の運営が実際に携わる方々や受け手側の多くの方々の頑張りによってなされて(支えられて)いることは高く評価したいものである。

第二の社会については、自然の営みの中で作られる狭い社会であっても、それは日常の営みそのものであり、家庭を核にした生活圏において、子どもはまことに愛情あふれる家庭環境で育まれている。また、自然体験の日常的積み重ねは自然を愛し、生命をいつくしむもっとも崇高な人間性を充実させている。これにより子どもの自立を含めた育ちや自然な精神性が醸成されているといえる。

ここでもうひとつ問題を提起しておく。このケースでは、子ども自身が子どもの将来を決めるという判断力が備わっていない時期に親の介入はいかがなものか、として疑問を呈される方が多い。これについては、成り行きで対処という言葉を本節冒頭に使ったように、当該家庭の子どもは早くに自由闊達な価値観を持つようになり、その結果、親が成り行きに任せて行動しただけである。これがひとつの多様性と捉えることができ、また社会に対しては家庭の社会的評価の検討を投げかけたともとれる。


b. ごく普通の一般的な家庭の場合 

 経済優先・効率優先の社会システムの中で家庭の今について二点指摘したい。第一は、家庭が分業化・効率化の波に洗われていることである。第二は、社会の拡大化が社会のあらゆるものに多様性もたらして一見いいことのようにみえるということである。ただしこれには、多様性についての恩恵は社会へのかかわり方すなわち生活圏の広さに応じていることに注意したい。


c. 生活圏と子どもの活動 

 子どもは子どもらしい心身の活動体験を蓄積して育つ。これには、子どもの環境・生活圏の適正な広がりが必要であることはいうまでもない。ではどのくらいかといえば、行動を制限させることの無いことが条件となる。一般に、現代社会では生活圏を広いのにもかかわらず狭くしがちであり、このような環境下では子ども環境をいびつにさせ、本来学ぶべき・体験すべきことの蓄積が乏しくなる。そんな家庭では自由闊達な家庭のあり方や遊び方・自然体験について大いに見習うべきである。

 一方、自由闊達な家庭の場合では、子供期における成長過程の充実をどう図るかが大事な問題である。これについては、子どもは通常狭い範囲内の交流をどう考えるかにかかっており、二つに面で一般家庭とは違った対応がある。ひとつには親とその同志の来訪者という大人の交流や、二つには莫大な自然体験が狭い交流範囲を奥深いものに仕上げていることである。これによって、子供は割合早くに大人になる面はあるものの特長あるひとつの子供時代を作っているといえる。ただし、間違えてならないことは自由闊達ならすべて良しということではない。不断の努力を怠ると、子ども期の生活体験を薄いものにしてしまい、子どもの成長が偏ってしまう。


. 親のかまいすぎ 

 親が子どもに対してかまいすぎや押し付けがよく問題となっている。これらについては、親の子どもへの無理解が生んだ結果といえる。かまいすぎではなく無理解といった方がいいように思う。以下に三つの観点をあげてみる。

 第一に、子ども期の存在が忘れがちな無理解を考える。これには自由闊達な親を引き合いに出す。この種の親は、子ども時代をたっぷりと過ごして大人になってから自由闊達さを選んでいる。子ども時代が本人の素養の下地になっていることはいうまでもないが、親は案外このことに気づかずに子どもに対応するので、下地の無い子供は人間的な下地を作れないまま(いびつに)育ってしまう。早めの気づきがあれば何て事はない。

第二に、子どもの欲することを親の若い時期の思いとダブらせる無理解を考える。これは、親が子ども時代に不自由したことや夢への挫折が子どもへの期待となって押し付けることを意味する。

第三に、社会の狭さから来る無理解を考える。これは、社会の豊かさが地域社会の助けを必要としなくなり、個人コミユニティが成立したかのようになった家庭で、家族同士の尊重が成立しにくくなったことを意味している。その結果、かまいすぎが当然のように生じてきたといえる。しかも、親の高学歴化が歪んだ社会では差別化と不信感蔓延をもたらし、他者との関係希薄化が個人主義を過度の利己主義へと変質させる。これが自己側において防御感を高じさせ、他者への攻撃性を増すことへとつながる。すなわち、かまいすぎからくる攻撃姿勢への転化はそうしたプロセスを経たものではなかろうか。


(3)教育の効用

a. リテラシー能力 

 読み書きの能力は日常生活における親子の対話を源にしている。その後に公教育において磨きがかかっていく。

 一方、数についても読み書きと同様である。この場合は、訓練的な要素が大きいだけに公教育での持続したボュームが必要である。いまはそれが少ないだけに、弊害が数字嫌いを通り超えて理詰め志向の拒絶へとつながって現れている。


. 批判能力や創造能力 

 批判能力や創造性能力は基礎能力の上に積み重ねられるものである。これらの能力は思考の多様性に基づくものと考えられるので、生活における多様的な認識を積み重ねることが素養の源になる。このため、生活圏の多様さが必要不可欠となる。

これには広い世界が必須であるが、仮に狭い生活圏であれば奥を極めればよいとも考える。自由闊達家庭系では、生活圏がすばらしいだけに、広さを超える密実度が要求されるともいえる。なぜなら、リテラシー能力があっても環境の多様さから学び育まれる精神性の能力には多様な認識が必要だからである。それがないと、グローバルに世界が見えなくなることに加えて批判精神、独創性、感性の育みに黄信号がともることになる。


4.おわりに 

 子どもの成長に欠かせない遊び・学び体験の蓄積という観点から家庭のあり方や自然体験や教育のあり方を論じ、子ども環境の充実やそれに連動する各種能力の磨きについて論考した。検討結果の各分野への反映は今後としたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山村における古民家と情景の堪能、エッセイ120

2014.10.21、山村における古民家と情景の堪能、120

1.
はじめに 

 12年にアニメ「おおかみこどもの雨と雪」が大ヒットした。これは、大自然のもとで親の愛情を一身に受け子どもが成長し自立していくものであり、イメージ舞台となった場所(富山県大岩)には連日多くの方々が訪れ、対象古民家と自然の織り成す風景が情景として堪能されている。これを受けて、当地を聖地として永く堪能の場としたいグループ(サポーターズ)が発足し、彼らは来訪者の堪能をおもてなしで支えている。

 サポーターズのいいところは、県内外の市民の方々で構成されていることにある。しかし、不思議なことに建築の方はほとんどいない。なぜか。建築の方には情念といったカテゴリーが縁遠くなっているのであろうか。

そこで、私は「それならば」として、彼らの心意気をどう建築的に支援していくかを次の三点で考えることにした。ひとつには古民家の保存活用であり、二つには周辺風景の保存であり、三つには生活の確保である。

この種の問題はすぐに古民家保存技術あるいは観光資源開発と捉えられがちであるが、ここでは若干視点を変えて、大地に根ざした人間の営みとしての情景を来訪者とともに練り上げ・堪能する一連の様相を幅広く論述することにした。


2.アニメの堪能

2.1 アニメ舞台 アニメにおいて、イメージ舞台を設定してストーリーを組んでいる作品は少なく、宮崎駿01年アニメ「千と千尋の神隠し」の舞台に道後温泉(本館)がモデルとなっているくらいである。その点、細田守アニメの場合には現実の建物や風景が地域にそのままあり、いつでも来訪できるメリットがある。


2.2 堪能  アニメに出てくるシーンは監督が実際に大判で写生し、それをスキャナーで取り込んでアニメにしたものである。このため、アニメシーンはすべて現実にある光景そのものであり、一度アニメを見た方は当該地に来てもそのまま情景に入っていける。古民家と風景は特別に仕立て上げられたものではなく、何の変哲もないありのままのものである。そこに、ストーリーが時間的にも空間的にも充満している。

 そうした時空間に身をゆだねることがそもそもの堪能であり、ゆったりとした時間と生命あふれる自然空間のなかで居することができる。

 では堪能の意義とは何か。それは、人間本来の性状を人間らしく奏でることができるということではなかろうか。アニメがこうしたことをやり易くしてくれただけに、そこにアニメの意義があるといえる。

 なぜ、アニメにこだわったかといえば、まさにそうした人間性を復権させたいがためである。だからこそ、古民家を単に保存とかいった次元には留まらせることなく、人間の営みの精神構造までをも建築的にアプローチすべきと思いたったからである。

若干補足したい。アニメは、自然のもとで愛と育ちと自立をテーマにした初めての作品である。ストーリーは、母と子ども2人が住みにくくなった都会を離れ、田舎の山里にきて農業を営みながら、自然の中で子どもが母の愛のもとたくましくすくすくと育っていくという代物である。


3.具体的な情景の構成要素

 古民家の情景はあのロケーションにある。まず当該の山村風景としては、大岩は立山の前座に位置する霊峰群のひとつ大日岳が見える谷筋にあり、当然霊場として山岳密教寺院日石寺が神秘的な雰囲気をかもし出している。古民家はそんな山の奥にあり、70年前には村には20数軒あった家が今では2軒しか残っておらず、自然の良さと人の営みの寂しさが感じられる。

 古民家についてはいわゆる田の字型プランであり、メインが大広間となっている。母屋からの下屋が縁側として内と外をつないでいる。中から縁側を通してみる外の光景は逆に縁側をいやが上にも盛り上げてくれる。縁側に腰を下ろしてぼんやりと外を眺める方々が大変多いのもうなずける。また、部屋のムード作りとして、アニメと同じように蚊帳あり、木造湯船あり、花壇あり、インテリアありである。


4.来訪者の居し方

古民家への来訪者がどのような居し方をしているか、様相として述べる。

・見学として、あたりをくまなく見てまわる。時にはくつろぎ。会話してお茶を飲み。時には寝そべり。囲炉裏の部屋では、ストーブの天端利用の焼き食物で生活感を満喫している。

・子どもは、あたかもアニメの世界に入り込んだかのように、庭で遊んだり、絵を描いたり、しまいに家の中を走り回るというごく自然な光景がある。また、子どもが親に「おおかみこども」の絵本を読んでもらっているうちに、絵本に描かれた親子の愛情に感極まって親も子も泣きだし、まわりにいた方々ももらい泣きするということもある。


5.なぜ感動か

 アニメを見て古民家にこられた方々は、アニメの感動をそのままここに再現されておられた。インタビューすると、なぜ感動ですかについては「母と子のきずなや子育て」、「子どもの自立」、「なかなかうまくいえない」などが多く、また古民家をどう思いますについては「匂い、澄んだ空気、落ち着く」といった感覚的なことに加えて「古民家とその中に住む方々に魅せられ感動した」との声も少なからずあった。やはり、感動の核心は人間ドラマそのものであり、これをアニメの舞台(で演じられるドラマを)堪能するのである。以下に具体的にみていこう。

(1) 情景に内在する物語

・情景が現実とアニメの世界を去来する。

アニメの情景が内在。

・小さな子どもがとくにそう。

・そして親や周りの方も。

(2) 古民家そのものの魅力

・風景とマッチ ・何か魅力 ・人を感じる 

・匂い、空気、風、光も、植生

(3) 訪問者の様相

・建築専門家の多くは古民家のディテールをみて終わり。

(4) 古民家での日常性の堪能

・子ども達が大人達とともに古民家を息づかす。

・皆さんと出会えて会話が可能。

・山も古民家も素晴らしい。ここにいる皆さん 

  はもっと素晴らしい。

・都会から離れた非日常の世界。

日常そのものの。

  スペーススリップのよう。
・皆さんにとって古民家は自分の家のよう。
・自分の家にこられたお客としてごく普通のおも てなしと会話。
 

6.情景を楽しみは感性的にも人間性にも

6.1 堪能を可能にする条件

アニメドラマをそのまま古民家で堪能

できるのは、実写アニメで時空をよりリ

アルにしたからである。そこにおいては、

時間、空間、人間は次のように捉えられる。

  時間:子供の成育にあわせた時間の感じ方

  空間:富山東部の自然環境を集約させた

大パノラマ空間、(大岩と立山が直結)

  人間:そのなかで古民家とその周辺での

人間模様、(農作業)

アニメを見たことの無い方は来訪してみてストーリーを自身が発見し堪能することになる。それは、穏やかな時間の流れと静寂な自然空間の中で、あるいは自然空間と人との一体化により、ありのままをありのままに堪能していることに他ならない。


6.2 堪能を保持するための条件

アニメの情景の構成条件としては、自然のまま、人工物の傍若無人が無いこと、ヒューマンコミュニテイの保持がある。これを具体的に書き下すと;

・許容量を超えない。

・車に頼らず徒歩を勧める。

・アニメ情景を超える便利さを求めない。

(緊急電話はあるが、一般携帯電話は不可) 

・自販機や飲食レストランはなし。
・宿泊はなし。
(家のご主人のおもてなし飲食あり)

6.3 検討

 情景の保全・健全さを保つための主な検討は、おもてなしをどう図るのかと観光モードをどう捉えるかの二点である。そのために、単なる薄っぺらな観光モードのさりげない排除は当然にして、多数客への対応(便所、混雑による弊害)をキャパシティとの兼ね合いで設定を必要としている。なお、徒歩によるアクセスは周辺の自然を堪能するに必要と捉えている。


7.活用の一般論

当該地を観光資源として整備し、当該地一帯を含む広い地域で観光を活性化させたいという動きがある。サポーターズでは、あくまでも聖地としての巡礼は歓迎であるが、不特定多数で都会の論理の持込みとなる観光は遠慮したいという。ここで、活用としてこれまでの取り組みおよび今後の取り組みについて概説する。なお、商業主義的な方策もあえて列挙しておく。参考までに一日来訪者数は休日100-150人、平日10-20人である。

●県東部域で

・おおかみの行動園が県東部という設定であるので、(立山にある)見くりが池、室堂、称名滝、大岩を拠点として自然観察し、スタンプラリーも。

・場合によっては、主人公が大岩に来る前に住んでいた国立市との連携も。例えば、一橋大学、白十字屋。

●少し範囲を広げて

・大岩参拝・観光の延長として古民家まで出向き、文化とは異なって情景を楽しみ、宿泊は大岩とする。スタンプラリーも実施。

・大岩修験コースとして大岩→古民家→大日岳→立山を整備しておく。これは健脚向き。

・ハイカーに対しては、周辺の山(城ケ平山)を核にして大岩から山に行き古民家(花の家)で休み大岩に下る。

●古民家そのもの 

・構造体見学として屋根裏見学ツアーも実施。

●イベントとして

・イベント:今年8月に遠吠えコンテストを行い、声の大きさと継続時間に芸術性を点数化して競った。子供から大人まで20数人参加。

・ジャガイモ農作業:アニメで農作業があり、ジャガイモ作付けを体験。8月に畑を耕しておいて種芋を植え込み、10月ころに収穫。

来訪者は二度当地に出向き農作業を十分に楽しむ。20数人が参加。

・スタンプラリー:アニメにでてくる場所を探し当てて、そこでスタンプを押して記念とする。畑のシーンや大黒柱での背比べしシーン、など。

●特産品 アニメにでていた品々と新規創作のものとを特産品として販売。

・メロンソーダー、白十字屋クッキー、ペナント、バッジ、下敷き、建物図面、

●以下のことは当地においてまったくの論外。理由は、情景が損なわれてしまうから。 

・飲食サービスをする。宿泊サービス。

・道路拡幅。駐車場整備。冬場の除雪(オールシーズン化)。誘導灯(夜間営業のため)。

・エアコン対応。掃除しやすいよう除草剤散布。IT対応。殺虫剤散布。


8.集落として

 当該地は、前述のように当該古民家を除けば住家が2軒しかなく、集落としての体はなしていない散落というべきものである。それでも2軒は立派に営んでいるので、その意味では1軒でも集落(散落)と捉えたい。また、そのようなところでの生活圏は山のふもとまで広がっており、いってみれば広がった地域での散在住家というべきかもしれない。呼び方は別にしてもそうした様相でしっかりと居住がなされている以上、散落もまた集落そのものといえる。

 一方、古民家は来訪者を介して来訪者の世界とつながっており、その意味で広範囲の交流圏を持っているともいえる。これはいわゆる観光も含めて堪能めぐりの業といってもよい。いずれにせよ、交流圏はまさに古民家のコミュニテイを支えているものであり、これの保持こそが散落の生きている証であるといえる。

なお、建築からの支援として、情景を保持したままの修復や日常のメンテナンスをどう行うかも検討している。


9.おわりに 

 アニメ舞台の古民家および周辺の情景の堪能について論じた。また情景については空間と時間における人間のかかわり模様として検討した。これにより過疎の集落(散落)のあり方が浮き彫りにされたと思っている。

末筆ながら、NPO「おおかみこどもの花の家」の皆さん聞いたお話でまとめました。皆様方にお世話になりました。記して謝意を表します。

 

 

 

 

 

 

 

 

住民が街づくりに寄せる意識と思い、エッセイ119

2014.10.18、住民が街づくりに寄せる意識と思い
、119
 

1.はじめに  

 街づくりについては、住民の意向が十分反映されていることはいうまでもなく、その意味で進め方は住民主導である。しかしながら、どの街でも住民側には温度差があるのも事実であり、このため街づくりの理念や方針が住民にどの程度共有されているかという観点に立てば問題ありということにもなろう。これは、住民のかかわり方が街づくりのシステムによって密にもなれば疎にもなることに起因しているように思える。事実、街づくりを進める側が住民よりも先行しているとそのようなことが少なからず見られる。

ここでは、住民がどのように街づくりにかかわるかを概観し、事例を交えながら検討することにした。とくに、問題にしたいのは関心を持つ人がいるにもかかわらず街づくりに入っていけないケースである。


2.市民の意識

2.1 市民と街 

 議論を進める上で、市民を住民+来訪者とし、また街を中心商業地や伝統建築群の街とは必ずしも限定せずとする。まず街について一般人のイメージは;

・観光地では観光関係の方に対して住民の存在が感じられない。この場合は街づくりイコール観光である。

・非観光地では、住民の存在比重は当然増すがそれだけであることが多い。
住民側では、必ずしも意識の高い人ばかりではない。


2.2 現状 

 経済的な問題は別にして、(認識に関して)街や住まい文化の相対的低下があり、これが生活の劣悪化、住環境の悪化をもたらしている。また、近所づきあいを含むコミユニテイの形骸化も懸念され、いわゆる人間関係の希薄化がとりざたされている。


2.3 街づくり、そもそもの目的はどう理解か  街衆の生活を幸せにするものが街。街づくりの意義としては、生活改善として(世直しを含め)街の健全化とともに、自ら住まうとして街衆の生活の充実があげられよう。具体的には;

・街を少しでも住みやすいい街に ・住みやすい、定住、ありのままに ・生業の確保

・孫の代までもと考える。

では、そのためには自分たちの問題としてこれにどう関わっていくか、問題はそこにある。


3.そもそも参加とは 市民参加の様相

街づくりには、行政主導、専門家主導、住民主導がある。後者二つにも行政は関わるが、最初の段階では行政を入れない方が良い。街づくりの構想が深まるにつれ各種方々との共同を進めれば良しといえる。ただし、種々方々の参入があっても街づくりの根本は市民にとっての粋に住まうことであり、楽しさの満喫からと愛着へという意識構図は変わらない。


4.住民の参加の仕方

4.1 一般論 

 全員参加の場合は町内会に結集が多い。全員参加としてメリットが享受できる。これに対して意識の高い方が街づくりの会を主催すると、参加者層に偏りが出てくることがある。特に極一部の方で推進する場合には街づくりはまずは広がらないし、多くの方々は蚊帳の外に出され、時折賦役や寄付金の要求先となるのがおちである。


4.2 街づくりの会における住民の扱われ方

 住民主導においては、「住民+パートナ」 の構図が望ましい姿とみている。住民のみとか専門家のみでは大きな力が生じないことをよく目にしている。特に、(ごく一部であるが)特定の建築家主導の場合には住民と共にではなく住民を利用している(ただ巻き込んでいる)だけの感がある。


5.参加して何をする

5.1 話し合いから 

 話し合い項目は;将来の街のイメージ作り、

       自分たちの街をどうしていくか、いつまで何をどのくらい。

活動→アミュズメント、まちづくり活動  

頻度→時折、多少長めの連続性、日常的

参加→支援(手伝い、寄付)、主体的活動  

将来→今の延長、孫の世代まで、さらに。

展望→何をどうするのか、        

範囲→特定の場所のみ、市街地全体

話合:理念と戦略、構想練り、合意形成、

組織化、WS、勉強会(見学も)、プラン作り、

付帯条件:身の丈に合う、無理する、少しずつ。


5.2 組織種類 

 住民がかかわる組織は以下の通りである。

・町内会:I町では町民全員(全世帯)が参加 

・行政後押しの委員会や協議会:O町では住民主導の協働 

・行政主導(専門家は下支え):Y町は商工会や観光課が前面。T市は文化財課が。

・特定の方のみが主体の会、個人所有、N市も多少これのよう。 

・専門家主体:時折住民が参集

・研究会:町内会を指導、先駆的活動、T市もこれ。途中で失速。


5.3 住民主導以外のケース 

 行政や専門家の主導がそれである。彼らは、支援、連携、協働、協力、共同と種々言葉を並べているが、ポーズだけに終わることも少なくない。

・行政側:支援=財政、法制上利点提供で対応。手柄の独り占めもあり。行政の実力不足のためにコンサルに丸投げ。

 いい面では(当然であるが)協働として;条例制定、補助金で支援、種々指定。

・専門家側:支援=専門を生かしたアドバイス

や運営。業績主義:論文のネタにも

 業務遂行:他の地域の計画のコピペ多し。

 姿勢:居丈高多し、

パートナに徹するが望ましい姿


6.ひとつの方法として

街づくりを世直しと考えた場合、経済活動のシステムを変えるとあらば地域内循環として主に総量規制が核となろう。システムの大量化対応(大規模観光化など)が効率優先と暴走化につながるので、地域内循環かつ少量化対応を念頭に置いた活動が求められ専門家とともに実践すべきというところである。

地域循環型の経済活動としては、里山資本主義の考えがある。里山を生活圏とする経済システムである。最近、どこの山村地域でも平地の街でも言い出し始めている。

地域内循環が及ぼすメンタル性については、アイデンテイテイやプライドの醸成がある。すなわち、風景・風土・歴史からは静かなるアイデンテイテイが、また活力ある動きとしてプライドがそれぞれつくりあげられよう。もちろんこれらは、長く住んでいるからこそ磨きあげられていくものである。


7.おわりに 

 市民側にたって街づくりを検討して、教育や市民サイドで求められることが整理できた。なお、本稿執筆のきっかけは、開明的でない一部の方々や一部の教育系の方々がいう街づくりには、推進側と市民との間に超えられない距離があると感じたことにある。

 最後に、コンサルや行政でも開明的に頑張っているところもあることを付記しておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

被災地での対話と後方域での防災力向上について、エッセイ118

2014.10.17、被災地での対話と後方域での防災力向上について
、118

1.はじめに

 震災復興支援については、私は国や県市町村レベルのものに加えて小さな事業体や街の範囲内といういわば身近なレベルのものとに分けて考え、後者について被災地への支援を行うと共に、後方域の防災力向上として自分の地元で出来ることに取り組んでいる。

ここでは、取り組みの様相を二段階に分けて報告する。第一は被災地において復興に頑張っている方々との意見交換や街や事業体で今も求められている良質なコメント提供および子ども遊び支援について、第二は後方として地元における防災教育・研究による防災ポテンシャル向上についての報告である。支援に向けての一助としたい。

 

2.取り組み概要

 復興支援については、1278月 13712月、141月に、対象域を福島・仙台から三陸田老までとして何回もまわった。また後方の活動として地元で市民世論喚起のための勉強会や提言の取り組みも11年以降実施している。

 

3.復興支援として街づくりに期待されることは 現地の方との意見交換より

3.1 被災者団体への参加  被災地では、被災直後から開明的な頑張り屋が立ち上がり、被災者団体が結成され、行政に対して被災者の窓口となって被災者による住まいに関する要求運動やまちづくりの活動が進められている。 彼らは専門家の参加という支援をいつも要求している。例えば住民集会については、行政は住民対行政の枠組みに恐れをなして参加を渋るが、ここに第三者として専門家が入ると、住民にとっては専門家が心強い味方となる上に、行政にとっても住民とのワンクッションにより態度がやわらぐという。その意味で、専門家として専門的立場で参加することは支援そのものであるといえる。

 

3.2 質のよいコメントや計画の提供 

 被災地域では、震災復興のための諸施設の建設が進められている。ところが、参入しているコンサルや業者の種々提案では、住民のことが十分に考慮されることのない一方的なものが多いという(一部の)。これに対して開明的な方々の提案は住民主体の計画として好評を得ているという。しかしながら、審議会などの段になると、住民が委員として入っているにもかかわらず、(一部の)コンサルの提案が浮上し、そのコンサル提案にそって審議が進むために、住民はますます阻害されていくかのようであるという。開明的な方々の猛チャージを期待する。

 

4.復興支援として身近なことに期待されることは

三陸や福島・仙台において復興支援として意見交換およびコンサルテイングを行っている。もちろん、良質なコメント提供も行っている。

4.1 子ども環境づくりにて

 子ども関係の諸施設では、震災で新たな問題が発生したというよりも、元から抱えている問題がますます深刻になったとみている。現場当事者が目の前のことで汲々としているので、専門家は震災後だけの様相に限定することなく問題の根源を捉え、現場の期待に応えなければならない。それが支援というものである。

 子どもの問題で、一番気がかりなのは子どもが外遊びしないことである。これは何も今に始まったことではなく、最近の傾向として専門家の間では問題視されていたことであり、現場指導者が子どもを外で遊ばせる仕方を知らないために子どもと一緒に遊ばないし遊べない事が原因である。これは現場指導者を養成する側の問題であり、事実、養成課程の教育カリキュラムには自然遊びなどが入っていない。まずそこから正すべきである。ここでの支援とは現状の教育システムを変えることといいたい。

 

4.2 放射能汚染 

 現地の方は、放射能汚染の問題が実情ほど深刻ではなく、除染がかなり功を奏しているというが、一抹の不安は隠しようがないのも事実である。確かに、何をもって安全かは誰にも分からないことに加えて国の結論ありきの「健康には害は無い」という情報は気休めにもならないということである。よって、被災地では良識ある専門家から良質な情報提供が継続して欲しいといったところではないか。関係する専門家の頑張りに期待したいものである。

 放射能汚染で目に見えてクローズアップされた問題に子どもの肥満がある。特に福島では統計を取るまでもなく皆さん感じている。原因は子どもが外に出られなくなったことによる運動不足と葉物野菜の摂取の大幅幅によることという。野外の除染は当然のこととして、運動不足解消のために遊び場を確保していかねばならない。

 

4.3 仮設住宅 

 阪神大震災のときに指摘された仮設の居住環境の劣悪さはいまだ改善されず。被災地では、結露問題や遮音問題など居住環境の劣悪に加えて、隣家に気遣う生活や遊び場なしが子どもの行動を日常的に束縛しており、子どもの発育に黄色信号がともっている。また、地域コミユニテイが育たず、(一部の方々以外に)人間関係も希薄状態が続いている。自治会では生活改善は行政にさせるしかなく、その意味でも要求運動を強力に進めていくこととなる。この点からも学術的な支援もまた必要といったところである。

 

4.4 専門家の役割としては 

 行政は何かがないと動かないし動けない。専門家からの提言により行政を動かすことが望まれている。また良質情報の情報も待ち望まれている。専門家による適切な情報や行政を動かす提言が支援そのもの、と現地では受け取られている。

 

5.遊び支援

私と協力者によるボランテイアとして、紙風船を各仮設に住む皆さんに配っている。陸前高田第一中学校、気仙沼では面瀬中学校、釜石の仮設大団地など。どこへ行っても、面白い、もっと欲しいとか、隣の家の方にあげたいのでその分もとか。実際に風船を膨らませてポンポンとついていた皆さん、(大人も含めて)子供の笑顔が大変印象的であった。

 

6.後方としての地域での取り組み

 ソフト面で地域の防災力向上を図るために考えられることは、世論喚起、勉強会、行政への異議申し立て、行政後押し、行政との懇談、県審議会への参加である。このうち、某県地震防災研究会という専門家向けの勉強会について記す。

 

◎ 教育・研究者、技術者、芸術家、行政、報道の方々総勢20数名。個人の連合という集合体。3年前に発足。月一回開催。地域防災について勉強と提言を目的。内容は、建築・土木、哲学・倫理・歴史まで及ぶ広範囲なもの。地域における種々分野の専門家が力をつけ、防災に関して世の中に提言、という。

・行政との懇談;技術背景の論議や提言説明など。

・行政への異議申し立て;行政の不合理運営を指摘し改善を求める。

・行政の各種審議会や委員会に委員として参加し専門家として議論。

 

◎ 会として三点をまず問題:

・原子力災害の各自治体版マニアルには何ら検討の跡が見えず、単なる上部団体からの複写と指摘。

・県境隣接県側にある大断層をノーマークとしていることに見直しを要求。

・河川敷を地震災害避難拠点としているが、そこが水没危険ありを指摘。

 

8.おわりに 

 被災地および自分らの地域において専門家の役割を検討した。今後は復興支援の後ろだてとなってソフトの面で防災ポテンシャル向上を目指したい。

教育のあり方とその効用――ワイルドな方々の生活を見ての雑感、エッセイ117

2014.10.09、教育のあり方とその効用――ワイルドな方々の生活を見ての雑感、117

       本論の末尾には友人からの批評メッセージあり。

 はじめに

ワイルドな生活をしている家族の方々が田舎に結構おられる。彼らの「ワイルドな生活」そのものが身の丈にあったものであるにもかかわらず、一般人には「脱社会システム」とか、狭い交流の世界といった様相でとられがちである。特に、一般人との認識の相違の結果として、地域と一線を画すことや子どもが学校に通っていないことが少なからずある。このうち学校の否定については、管理社会に間に合う人間を育てる機能しかない学校は自分らに必要なしというワイルドな生活からは当然至極の結果となっても不思議ではない。

 確かに、日本の学校(公教育)は、歴史を振り返ってみれば富国強兵殖産興業で必要な人材を大量に育成するためのものであった。戦後には教育制度も民主化されたが、教育の機能は現代資本主義社会の人材育成として画一化された人間の大量育成として変わってはいない。

 彼らの指摘は極自然な生活の営みにもとづいて、教育に対し結果的には根源的な問いかけともなっており、また彼らの存在が現行社会システムに対して極自然な異議を有形無形に唱えていることにもつながっている。

ここでは、閉塞感漂う現代社会を打開するひとつのアプローチとして、ワイルド系から浮かび上がる異議を真摯に受け止め、論及することが必要と考えた。そこで、当該異議を以下の三点に集約する。

第一は、社会システムにおける役割。

第二は、教育のあり方。

第三は、(公教育から外れたという意味で)自己流教育による子どもの育ち。

論述に際しては、著者の考える筋にワイルド系の意見をのせることにして、ワイルド系をアンチテーゼとして来るべきジンテーゼをどう作っていくかを検討することにした。


 社会システムにおけるワイルド系の役割

 ワイルド系の方々が社会システムに組み込まれたくないとしてワイルドな方向を目指していると見て差し支えないであろう。これが果たして脱社会システムとなっているかといえば、そうではないことは自明である。例えば、彼らもまた貨幣経済の中で生きているし、医療システムの恩恵を設けている。

では、なぜ脱社会のイメージで捉えられるのか。それは、彼らの生活圏が社会本流(主流)とかけ離れていること、逆に言えば社会本流が彼らとどんどんかけ離れていくということだけに過ぎない。このように彼らの支流が本流と明確に離れているということになるが、社会システムとは本流もいかなる支流もすべて取り込んだものであり、その意味では例えていうとすべてが釈迦の掌に乗っているということである。

支流の果たす役割とは、大衆操作社会という本流を浮き上がらせるとともに、相対的な位置関係を気付かせてくれるものである。すなわち、支流の存在そのものにアンチテーゼとしての価値があるといえる。


 教育のあり方、教育制度から

 教育については権力側も、どのように人材育成について持続可能性を検討しており、自分らの都合のいい範囲内の個性と創造性を磨き、批判精神を骨抜きにして学力を蓄積させるという教育体制を強化し維持し続けている。

 また、権力側はこのままでは立ち行かないことを自覚しているためか、教育制度の問題を相変わらず本質を避けながら民活といった経済主導や行政管理強化にすり替えて、単に制度疲労の改善として新しい教育のイメージを定着させようとしている。

もちろん、国民も黙ってはいない。生きていくのは国民自身であり、自身の幸せを願った教育のあり方を、どんなシステムの中でも模索し、少しでもいい方向に改善で努力している。教育の本来のあり方に立ち返って、民主的運営をかちとっていくこともまた制度改革として行動にしていかねばならない。

最近は、街づくりの面からも、学校統廃合が街そのもののコミユニテイを崩壊させるとして反対運動が続いている。これをうけて、開明的な多くのグループからは、教育の国家管理からの脱却は当然として、まずは小学校の前半部は地域に預けることでシステムを整備することも主張している。


 子どもの育ちについて

 ワイルドな世界では、親が子どもの将来について自然の成り行きで対処していても、外部社会からは一方的に決めているとみられている。これをどう捉えるか。これは、子どもの教育を受ける是非には子どもよりも親の判断が優先されているともとれ、また生活の営みの中では管理教育の場を必要としないともとれる。すなわち、一つに公教育の否定があり、二つに社会性の固有な捉え方がある。公教育は前節で教育制度としてのべたので、問題としては後者の社会性を対象として自然の成り行きとの関係でみていきたい。

 自然の成り行きとは何か。それは日常の営みそのものであり、ワイルドな生活では家庭を核にした生活圏において、子どもはまことに愛情あふれる家庭環境で育まれている。また、自然体験の日常的積み重ねは自然を愛し、生命をいつくしむもっとも崇高な人間性を充実させている。これによって、子どもの自立を含めた育ちやワイルドな精神性が醸成される。よってこの場合の社会性とは、ワイルドな生活圏において捉えることができ、主流社会では家庭のあり方や自然体験について大いに見習いたいものである。

 では、対峙する主流社会の社会性についてどう考えるか。社会は権力側の意向にもとづいて経済優先・効率優先で運営されており、その結果、二つの面で功罪が生じている。ひとつは、基本単位としての社会性の育みの場である家庭が分業化・効率化の波に洗われていることである。二つには社会の拡大化が社会のあらゆるものに多様性もたらすことはいいが、多様性についての恩恵は社会へのかかわり方すなわち生活圏の広さに応じていることである。

 そこで、生活圏と社会性を子ども環境において今一度考えてみよう。一般に、生活圏の狭さは子どもの交流圏を狭くさせがちであり、このような環境下では子どもは子どもらしい心身の活動を蓄積させられない。結局、社会性の希薄さが育ちや自立を含めて子ども環境をいびつにさせている。

では、どんなときが希薄ということになるのであろうか。ワイルドな社会では、その成り立ちから何となく希薄が前提となるように思えるが、そうではなく、自分ら自らが奥深いものにしている。問題を起こすのはワイルドには素人な方であり、彼の未熟ゆえの希薄さがある。それよりむしろ問題なのは主流社会であり、一見広がりがあるように思えるが、その広がりを自分らが直視しているわけではないので、中身の薄い場合が多々生ずることにもなる。

 ここで、ワイルド系にも子ども関連で注意したいことを記す。実は、子供期における成長過程の充実をどう図るかも大事な問題である。これについては、子どもは子ども同士の(やや狭いかもしれないが)交流に加えて親や志を同じくする来訪者という大人の交流があるので、割合早くに大人になるとして評価が高いとされている。それとともに、自然体験の密実さがひとつの子供時代を作っているといえる。これを間違えてワイルドならすべて良しとして不断の努力を怠ると、子ども期の生活体験を薄いものにしてしまい、子どもの成長が偏ってしまう。

 いまひとつ注意したいことがある。それは親の生育過程にある。すなわち、親が社会システムの中で子ども時代をたっぷりと過ごし、大人になってから脱システムとしてワイルドを選んで先駆的に実践しているが、子ども時代のことが本人の素養の下地になっていることに気付いておかねばならない。これがワイルド系からのジンテーゼの視点になると考える。

 節末尾となったが、社会性について補足を述べたい。現代文明を支える社会の能力としてはそれに関する社会性は欠かせない。しかしながら、その社会性とは多様な中でのものであって、万人に共通するものである必要は無い。むしろ大事なのは、社会全体をどう作っていくのか、そしてそれに見合う社会性のグレードと多様性を如何に考えるかということである。


 教育の効用 公教育を受けさせない自己流教育で育った子どもの動向を見ることにより、教育の効用が逆に明らかとなる。

 まず、読み書きのリテラシー能力について、日常生活の面で親子の対話がリテラシー能力の育みの源になっていることはいうまでもない。しかし、積み重ね能力ということになると、自己流教育側には、例えば算数では親が対処しても成果がなかなか上がらないという。数的処理の向上は、訓練的な要素が大きいだけに、リテラシーの次元での訓練の継続したボリュームが必要といえる。いまはそれが少ないだけに、主流社会でも同じことが起こり、数字嫌いを通り越して理詰め志向の拒絶へとつながっている。

 次に、批判能力や創造能力の磨きについて考える。批判能力とは思考の多様性に基づくものと考えられるので、生活における多様的な認識を積み重ねることが素養の源になる。このため、生活圏の多様さが必要不可欠となる。

これには広い世界が必須であるが、たとえ狭い生活圏であっても奥を極めればよいと考える。ワイルド系では、生活圏がすばらしいだけに、広さを超える密実度が要求されるともいえる。なぜなら、リテラシー能力があっても環境の多様さから学び育まれる精神性の能力には多様な認識が必要だからである。それがないと、グローバルに世界が見えなくなることに加えて批判精神、独創性、感性の育みに黄信号がともってしまう。それを乗り越えるという試練を与えていただいたという意味ではまたすごいパワーが育つことももちろんある。


ジンテーゼに向けて

 ではどうジンテーゼを作っていくのか。これにはワイルド系を含めて主流社会の大人がかつての子ども時代の重要さに気付けばそれで十分といえる。それにワイルドはワイルドで結構であるが、いま少し社会性に個人も世の中も気づくべきであるし、主流社会はワイルド系の主張に耳を傾けるということでもある。そういうように考えると、ワイルド系がもっと成長するなら、今の大衆操作社会に対しての一極となって、社会システムにワイルドな人間性を取り戻す潮流を作ることが出来ると考える。

すなわち、ワイルドをよりワイルドにして欲しい。これは、ワイルドを良く知っているからこその思いと受け止めていただきたいものである。もし仮に、ワイルド系の方がワイルドを一極にさせられないなら、ワイルドからの地味な発信を大衆操作社会に向けて翻訳・増幅していくべきである。そんな方も出てくると思っている。どちらにしても、こうした現象は高度文明社会において出てきた必然の流れであるので、社会的な対応がジンテーゼとしてつくられていくものと思っている。

◆おわりに 本稿では小難しく論及となりましたけれども、「皆さんもうちょっと外にも向いて気付くってことおありますね」ってことを主張したいだけのことです。本文章を最後まで読んで頂きましてありがとうございました。



■■ 私の友人から私のエッセイについてコメントをいただきました。紹介します。14.10.06

◆ 「ワイルド」な生活環境、価値観が現代社会から発生したものであり、また、そこが現代社会を再考する鏡になることは、著者も認めるところと思います。問題は、なぜ、そのような行動に出たのか、どこにその発端があるのかということだと思います。

1つは今の貨幣経済(僕らが必要とする物量に見合った貨幣の量は、今世界中で動いているマネーの数十分の1であると言われています)の矛盾であろうと思います。これについては今の社会の本質なので、話が長くなるので別な機会に。

2つ目は、人間の成長、教育、あるいは一人前、成人とは何かというようなことについて。これが本題と思います。

◆ 今の日本の教育システム(6334制とかではなく、子供をどういうプロセス、方向で育てていくかという問題)は、明治の時から、一貫して(あるいはその前の次代の藩校にしても)体制にとって役に立つ(=都合の良い)人間の育成です。これは、社会(ある体制)がそのシステムを作るのですから、仕方ないでしょう。

では、そのシステムが、現時点で妥当なものなのか、それをこのまま続けていって良いのか(=今の社会制度が将来も妥当なものなのか)ということになります。優秀な(=将来に希望が持てる)健全な社会ならば、現時点で見つかっている様々な問題点を解決する方向で人材育成が行われ、そのためのシステム、社会投資が行われるはずです。

今の、大学を頂点とする教育システムは、社会の永続性を前提としていません。ホリエモンや、慶大生の発言に端的に表れていると思いますが、「今のまま進めば、戦争にもなるでしょう。徴兵制も引かれるかもしれない。その時は、僕は逃げます。逃げられない人はしょうがないですねぇ。」というものです。

◆ 人間は一人では生きられない。これは「ワイルド」な生活をしている人も(尚更かもしれない)持っている感覚と思います。「一人では生きられない」とはどういうことですか?「ワイルド」な生活をしている方の考えは、おそらく、協力しあわなければ押しつぶされてしまう、という実感でしょう。それはおそらく、そこにいる子どもたちも持っているものでしょう。

◆ 子供が育つ時、この間ラジオで聴いた話では、就学前の「感性」、義務教育時代の社会の「基礎知識」、高校からの「専門知識」が大事だと言っていました。同意します。

ところが、今、特に都会では、例えば「お受験」に見られるような、傾向と対策的お勉強ばかりで、小さい子供の時から、感性(=発見、感激、驚き・・)もなく、狭い範囲の型にはまった知識の獲得が中心で、事の真実を見抜くという経験が殆ど無い、と言われています。

面白いのは、教育にはタイミングが大事で、20才を過ぎて、感性教育、発見はありえませんし、3歳時に専門教育は無意味です。

この、子供の成長に見合った教育システムとそうして育った子どもたちの適切な評価が行われていない、というところに最大の問題があるように思います。そして、傾向と対策で効率よく育てられた人たちにとっては、それが最高の教育であり、それ以外の営みは無駄(犬やネコ、それ以上にアフリカ奥地の関係ない野生動物の世界)にしか見えないのだろうと思います。

成人とは、どこかの金のなる木(組織)にしがみつき、できるだけ多くの甘い汁を吸える状況にある人というのが、例えば、小和田氏(=雅子妃)を見ていると思えるのですが、本来はその木(森、山、川、・・宇宙)のために何かできる人という意味ではないでしょうか?

◆ 原発事故以降、皆、近代の歩みがどれほど一面的で、未来を否定するものであったかを実感していると思うのですが、方向転換ができないということは、それほど強い、そして狭い世界観・価値観に縛られているということでしょう。

◆ 先日、新国立競技場について、学会でシンポジウムがあったそうで、その際に審査員を務めた内藤某というどこかの大学の名誉教授だかが、自分はいいと思わないけど、計画案には賛成で、それを今後も進める云々の発言をしたようです。これほどのバカが、建築界のトップに居るのだとしたら、救いようが無いですね。

 御嶽山の噴火予知に関しても同じようなことを思いました。

 accountabilityという言葉を「説明責任」とかにすり替えた言語専門家は極刑ものですね。



 


 


 

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