2016年01月

地方の時代?、新幹線開業を例に地方は日本の一部という枠を越えられず、エッセイ135

2016.01.08 地方の時代?、新幹線開業を例に地方は日本の一部という枠を越えられず、135

 2014年には地方創生やら地方の時代といって経済活動が地方中心になるような風潮にある。以前にもいわれたことがあったが、今回いわれている地方の時代は本物なのであろうか。よくよく見ると、そうではなく、地方も日本の一部として、経済至上価値観が最優先にあるということ、そんな枠を越えられないということなのであろう。最近、地方経済の活性化として、新幹線に寄せる期待があるだけに、そうした視点でも検討してみる。
 まず、(新幹線開業の話の前に)京都駅新駅舎について。82年に京都の政財界が京都駅舎改築発議、90年に国際コンペ実施、91年著名建築家原宏氏案採択、93年着工、97年竣工で、京都のシンボル的な駅が出来た。京都らしさを現代的に解釈したことが絶賛評価となった。しかし一方では、あれが京都らしさの表現なのかいぶかる方々も多く、彼らを代表して瓦屋根構造の案がつくりだされたが、とりあげられなかった。
 これをなんと見るか。要は京都らしさを判断する価値基準のスタンスの違いであり、京都という地方を今日的経済活動の一環として捉えるか、経済よりも住民の立場も入れることを考えるかの違いである。これはもう、地方が日本国の何をどう担うのか、担わされるのかという問題につきるといえる。
 今ひとつの例は153月営業の北陸新幹線である。北陸新幹線の駅舎は地元にとっての街の顔であり、それだけに地元の移行を反映させたいものである。地元政財界は顔問題に動いたが中央の壁が厚かった。駅舎計画については鉄道運輸機構が共通案を先に決めていて、地元には壁面の色や飾りつけをどうするか、地元名士・有識者による検討委員会にて図ることで地元対応がなったとした。これは一見地元の意向を尊重したようにみえるが、そうではなく、地元の意向を聞くと時間と金がかかりすぎるからとの理由でまったく、とりあわないという姿勢そのものであった。地元にしてみれば、悲願であった新幹線だけに、とにかく開業による経済効果が第一優先であることはいうまでもない。もちろん、新幹線開通フィーバーで地元が発展してほしいものであるが、地方の時代としての地方分権ではないということだけは認識しておいた方がよさそうである。
 もうひとつ注目したいことがある。それは新幹線開業にあわせて世直しの市民団体が動いていることである。なんとも心強い。もともと富山の特徴は立山黒部(の山岳自然)、米、魚介類であるとして、観光関係は万全の対応で開業日を待っているが、市民団体の方々は富山には最も誇れるもの世界に対しても誇れるものとして、イタイイタイ病闘争と米騒動があるという。国や自治体が如何に住民を苦しめたのか、そして事を隠蔽しようと図ったのか、それに住民が如何にノーを突きつけ運動を展開したのか。特にイ病の実状や住民運動の展開を世にもっと知って頂くことが今求められていることとしている。住民運動を恐れる側にとってはとにかく問題は決着済み、たいした事なしを連呼しているという。こうした日本の悪しき行動は事もあろうに原発および原発事故へと受け継がれてしまった。
 とにかく、富山で誇るべきことは自然もさることながら民衆のパワーである。運動が盛り上がっていくことを期待したいものである。

ps:ここでは議論として新幹線を引き合いに出した。


小説を分析する、エッセイ134

2016.01.07 小説を分析する、134
 

1.はじめに

 小説にはあまり縁がなかった、以前から友人が小説にのめりこんでいたので、なぜ、小説がそんなに面白く人をひきつけるのかにはいささか疑問をもったものである。そんなときに、当時話題になった小説「青春の門」をよんでみた。おもしろかった。だからといって、小説狂いにはならなかった。理由は、ノンフイク好きな私にはフィクションが合わなかったからである。

 そうこうしているうちに年を重ねるに従い、フィクション嫌いは影を潜め、小説そのものを科学的な視点で見たらどうであろうかと思い、「小説とは」を論じたくなって、本稿作成に筆を執った次第である。なお、本稿は小説論を展開するカズオイシグロ氏のような著名人の発言や周知の事実を自分なりに編集したものであることを断っておく。

 

2.問題提起

 「なぜ小説を書くひとがいるのか、そしてまたなぜ小説を読むのか」を考えたい。これには、なぜ小説なのかという根源的な話があるが、検討に際してフイクションとの対比や、TVや演劇との対比もおもしろい。

 

3.小説の特徴 以下のことはいうまでもなかろう。 

・感情や情景を記録できる。

・自分の構想に応じて舞台設定や時代設定を行うことができる。

・現実とは異なる世界を作り出せる。(現実世界から想像)

・自分が必要とする世界や行ってみたい世界を求めれる。

 

4.小説と人(読者)

 小説はなぜ人を魅するのか。それは、小説には感情伝達ができるからといわれている。すなわち、心情を伝える事や思いを伝える事が可能であり、その源には人間としての感情を分かち合いたいという願望という本能があるのではなかろうか。

 これは、フイクションだからであり、状況を伝えるのはフイクションではできないことである。だから、ノンフィクションンではものたりなくなってフィクションを必要とするのであろう。

 なお、小説には何らかの真実があるという方もおられる。彼によると、小説の真実とは、物ことの事実ではなく、人の感情がおりなすものというべきものであり、作者から読者への感情伝達の感情を真実として捉えるのである

 

5.各側にとって小説表現の形式とは

 作者は自分自身の記憶で自由に時間や空間を越えて描くことができる。これはなんともいえない醍醐味といわれている。抽象画を描くに似ていると言う方もおられるくらいである。

 小説は、筋書きを時系列で追うのではなく関係性を記憶でつなげていくものである。また記憶には信頼が置けないから逆にまたかえっておもしろさが増し、とんでもない世界をつくることができる。

 

6.読むとは

 登場人物の内面をしっかりと読み取って、当人の行動を理解する。

 人は本心を明かさずに飾ることが多い。だから、人は読み取る力が必要である。読者とはフィクションの世界で人の一部始終を読み取っているのである。作者はそれに見合う素材とプレゼンを提供することにより、読者は物語に夢中になって関係性を楽しんだあとに関係性を味わって考えるといえる。

 

7.おわりに

 小説青年にはならなかった私であるが、年をとってから人間の思いがことのほか響きとして感じるようになってからは、人間ドラマである小説には面白さを感じるようになった。と同時に、何ゆえに面白いのか、あるいは意味づけがしてみたくなり、小説を分析するといったスタンスで小説の構成をかいまみた。と理屈をつけてみたが、小説について、理屈もさることながら自然に受け入れていくというのが一番いいのかもしれない。そんな思いを持ってまとめにかえたい。

子どもの挑戦力アップとその実際、富山での取り組み、エッセイ133

2016.01.06 子どもの挑戦力アップとその実際、富山での取り組み、133

◆ 子どものより良き環境づくりとして、地域の社会づくりに子どもがどのように参画するかが大きな問題であり、とりわけ社会活動にむけて子どもの挑戦力を磨き鍛えることが急務とされている。そこでここでは、この種の問題に関する富山の取り組みについて分析するとともに今後の発展を論述することにした。

対象とした取り組みは、自己の能力・感受性・協調性を高める企画「子ども立山登山」や子どもの挑戦力を社会に向ける企画「14歳の挑戦」に加えて、伝統文化の継承を子どもの頃から人間形成としてリンクさせ伝統舞踊「おわら」のである。

これらの企画を分析すると、子ども参画に地域の関わり方について三点を指摘することが出来る。第一は地域単位に大人と子ども関係性が育まれていること、第二は自然環境、社会環境、文化・歴史・風土環境のもとで子どものやる気が育まれていること、第三は世代をつないで地域にひとつの文化を構成し今日に至っていることである。

以上のことは、子どもの挑戦力と地域の力について場所性や時間性についての展開と仕方と捉えることができる。この観点で、各取り組みについて、詳細を記すことにする。なお、こうした検討は今後の環境づくりの糧になると考えている。

 

◆ 1.立山登山

 立山登山は、県下の小学5-6年生全員を対象として学校単位で夏に実施されており、富山人気質形成の源となっている。

もともとのルーツは江戸中期(明治維新の説もあり)まで遡り、立山の一般開放により山岳信仰の文化を受け継いで越中国男子16歳にて一人前の証として立山登山が定着していった。時代が下るに従い立山登山は、精神鍛錬としての意味合いもこめて教育と結びついて、(旧制)中学生登山が盛んになり、その後、小学生登山へと変わり、子どもにとって登頂にむけてのチャレンジ精神や人間性の育成につながっている。

ここで問題となるのは、立山登山そもそもの意義や登山風土が子どものチャレンジをどう育んできたのかということである。これについて、第一には取り組みは親と子のきずなや自然への感性の育みとしていること、第二には登山体験の子どもやその親の方々とともに体験が世代に受け継がれていることである。こうして、立山登山はゆるぎない文化となっている。

 

◆ 2.14歳の挑戦

 1999年から始まったこの取り組みは、子どもに社会参画をさせる目的で、主に夏休み前の一週間、県下の中学校二年生全員が学校近隣の企業や団体で職場体験するものである。

 特徴としては、第一は子どもの地域における社会教育として企業や団体側が子どもに対処していること、第二は15年の間に子ども時代のチャレンジ体験を通して成長した大人がそれなりの精神的役割を果たしていることがあげられる。

 今では、15年の実績に裏打ちされるかのように地域教育の視点が確立し、県あげての取り組みとして今日的役割が評価されている。さらにいえば、子ども環境の視点から地域とのかかわりでの検証がこれから必要ともいえる。なお、この取り組みも、企画体験の子どもとかつて体験の大人との対話もなされるようになり、体験スピリットが世代に受け継がれていることは驚きである。


◆ 3.八尾おわら

 一般に、伝統芸能の盛んなどの地域においては有志の方々が核になって保存会が組織され、後継者の育成を含めて技が磨かれている。しかしながら、その運動はなかなか広がらず、特に伝統継承として子どものモチベーションを十分に引き出していないのが実状である。

 この問題については、子どもについて単に芸能の担い手としてだけでなく地域が育む申し子として位置づけて成功しているケースがある。それは八尾町の伝統芸能「おわら」である。八尾では地域が子どもに挑戦力を育ませ、八尾人を形成していくのであり、いわば地域が地域を育てるということがいえる。

 すなわち、八尾における「おわら」の理念と子どものやる気醸成が地域の情熱とプライドになり、伝統芸能の真髄の伝承にかかわる人と地域を作っているということができる。

立山信仰の今、こぼれ話、エッセイ132

2016.01.05 立山信仰の今、こぼれ話、132
 こぼれ話として、和歌、神社、神道、Q&Aなどを記すことにする。 


1.
大伴家持の和歌

1.1 家持概要

 平安時代の越中国司に赴任した。家持お気に入りの場所は次の三箇所である。

   二上山(奈良にもある)、布施の海、立山

ただし、富山の雪にはうんざりしており、また海越しの立山には興味を示さなかった。氷見から見る立山は氷見の海岸、富山湾、立山連峰という実にすばらしい光景が気にいらなかったのはなぜかは分からないという。


1.2
 立山の和歌

 立山について詠まれた歌は以下の通りである。

・立山に降り置ける雪を常夏に

          見れども飽かず神からならし

・片貝の川の瀬清く行く水の

絶ゆることなくあり通ひ見む

・たち山の雪しくらしもはひつきの

河のわたり瀬あふみつかすも


2.雄山神社 

2.1 建物と敷地

雄山神社は. 立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿 ・岩峅前立社壇(まえだてしゃだん). 三社殿からなっている。また、本社は、その昔には岩峅と芦峅の神社が相対立していたため、岩峅や芦峅ではなく山頂に峰本社として置いた。今は、宮司はひとりであり、芦峅中宮祈願殿に詰めておられる。

雄山神社管轄域は大変広く、立山一帯(剣、大日、三山、薬師)にわたっている。雄山山頂は雄山神社所有の土地であるが、山頂社務所は国有地である。

参考までに、富士山では、頂上は浅間神社のものか国有地かでもめている。山梨県は神社側に、国には静岡県がそれぞれついて争っている。


2.2
 ご神体

 ご神体は霊峰立山であり、立山の神は伊邪那岐神(いさなぎのかみ、神仏分離前までは立山権現雄山神・本地阿弥陀如来も)・天手力雄神(あめのたぢからおのかみ、神仏分離前までは太刀尾天神剱岳神・本地不動明王も)の二神である。雄山神社は神仏習合時代でも修験道として仏教色の強い神社であったが、寺院ではなかったが特徴である。ちなみに、岩峅や芦峅の峅には神が降り立つ場所という意味があるという。


3.神道

3.1 神社建築

 我らにとって年に一回の初詣で神社はなじみ深いとはいえ、よく考えると分からないことだらけと思う。ここでは、神社建築の特徴をまず列挙したい。本文と重複のところもあり。

・建物:拝殿・幣殿・本殿の三棟からなる。

   本殿はご神体が安置されているところ、拝殿は参拝するところ、幣殿は神に奉納するところである。

・屋根:瓦ではなく木肌葺き(後年檜葺き)である。仏教と抗するためという。

・立地場所:神社は氏子を守るように村の外れかつ標高の高いところに設置される。

・社の方向:神社正面は村の中央に向く。

    山岳神社についても人の住んでいる方向という説と、太陽をつねに向くとして南に向くという説もある。

・社殿と祠:参拝者がぬれないように屋根があるのが社殿、ないのが祠。

・神:神は自然物の場合、本殿はなく拝殿だけがある。

ご神体が鏡のように安置できる場合には本殿が神の住まいとなる。ただし、もともと神は出雲におられ、お祭りの際に神輿にのってやってくる。祭りが終われば神は出雲に戻る。

・寺の山号:寺には山号がある。例えば比叡山延暦寺といったように。立山の場合、神道中心であり、寺院は建立されなかった。なお、ふもとの寺院として例えば上市では大岩山日石寺がある。


3.2
 神道

・本地垂迹説(ほんじすいじゃく)は神仏習合のひとつの考えで、仏様イコール神様、大日如来は天照大見の神というもの。これに対抗して神本仏迹説は、神道を仏教と一線を画すために、神仏習合はすれども、神が主で仏が従という考えである。今の神道はまさにそれである。

・修験道 奈良時代に役小角が創始し、平安時代に盛んとなったといわれている。もともと山岳信仰と密教が結びついて、厳しい修行を中心とした信仰が根付いて修験道となったといわれている。立山の場合も、修験道が中心であったようであり、これが江戸時代に入って、真言宗か天台宗のいずれかに属さねばならなくなり、本文では、参拝のルートが芦峅ルートと大岩ルートの二つがあったのである。明治に入り、修験道は禁止されたが、仏教色を廃して神道に移ったものもある。立山信仰はこれではなかろうか。

・磨崖物の岩はもともと神道ではご神体である。ご神体の岩を彫刻して仏像とする。これも神仏習合あってのなせることである。

・神道は明治に入って制度化され、国教となり、全国各地に神社が建立(一集落一神社)された。

・神仏分離 1868年に明治政府が神仏判然例を発布して、神仏分離がなった。岩峅にあった立山寺(岩峅寺ともいい、平安初期建立、源頼朝が修復・再建)と芦峅にあった中宮寺(芦峅寺ともいい平安初期建立であろう)が完全に消滅し、今の雄山神社を形成している。もともと神仏分離は仏教の目に余る横暴で地域民が苦しめられたことにより、廃仏毀釈をすすめていった。

立山の仏教系では、立山権現は廃され、布橋灌頂会や大権現布教が禁止となった。

・岩峅と芦峅の神社がその昔対立していた。このため、本社は岩峅や芦峅におかず、山頂に峰本社として置いた。今は岩峅と芦峅の社を一人の宮司が運営している。 

・参拝は社に向かって行う。社正面は南向き(太陽に向く)であるので、結果として北に向かって参拝となっている。参道も正面から直線状に南北に走る。

・雄山の峰本社の背が剣を向いているといわれているが、これは間違い。本社が南に向いているので結果的に、背が北方向の揺るぎだけになっただけである。


3.3
 布教と売薬

・越中の薬売りは、芦峅寺の立山信仰の信徒が、「一山会」という独特の組織を形成し、16世紀以降(江戸時代から)諸国を配札檀那廻りし、立山の縁起図や立山牛王紙、薬草や薬粉などを配置し、翌年代金を受け取っていた。これが売薬の始まりであった。


4.こぼればなし

・立山三山

われらは雄山、大汝、富士の折立の三つとしているが、信仰では、浄土、雄山、別山の三つとのこと。浄土は過去、雄山は現世、別山は未来、とのこと。

・雄山はどうも御山ではなかろうか。神話では山には男性、女性の神々がおられたという。山に男(雄)の意味をもたせることはないようにおもう。

・仏教が入ってから前人未到の険しい山が針の山とか地獄の山と称されるようになった。

・アルペンルートは交通公社の命名。発案の(芦峅宮司の系統)佐伯宗義さんは人を大量に呼び寄せることを嫌っていた。

・布橋灌頂会で使われる目隠しは前も足元も見えるようになっている。参加費は12万円(5万円から値下げ)。

・昔の登山道は山の水脈を切らないように分水嶺に敷かれている(美女平から室堂まで)。今は分水嶺を無視して道がつくられており、生態系にかなり悪い影響を与えている。


 


<Q&A>

立山に上ってみるといくつか疑問を持つ。以下に疑問を列挙する。答えについては本文中に記しておいたが、後ろ2点は現在検討中である。

・立山が仏教で開山といっても、立山には寺はない

し、山頂もすべて神社ではないか。

・佐伯有頼一人の人間で開山ができるのか。

・なぜ阿弥陀如来に矢を射ったのか。武器がでてこなくていいのでは。

・立山山頂では剣岳に向かって参拝するとされているが、どうしてそんな考えが定着したのか。

・立山はなぜ女人禁制をまじめにやったのか。

・布教に際し、後年、売薬が本当に関わっていたのか。

・芦倉寺と岩倉寺との諍いはなぜなくなったのか。

・後立山連峰は富山側の見方。しかし、後立山が北アルプスとして栄えている。東京に近いだけでこうも違いが出るものか。

 

 

 

 

立山信仰の昨今、立山で今ひとつの楽しみを、エッセイ131

2016.01.04 立山信仰の昨今、立山で今ひとつの楽しみを
、131

 我らは山に自然と足が向き理屈抜きに登る。仮に理屈をつければ、山のすばらしさを堪能しに、あるいは山にあこがれて、というところであろう。さらに理屈を求めるならば、それは歴史ロマンであり、ついこの間までは信仰の対象であった人間の精神活動のあれこれ(歴史)である。

 我らは、そんな理屈のもとに山登について大自然の雄大さを求めるとともに山岳信仰という結晶化した山の文化を垣間みることにより、登頂達成感に加えて自然と人間の営みを楽しむことができ、また山に入り込んだそのときから不思議な感情に浸りきることができる。

 理屈の前置きはこのくらいにして、我らの立山について語ろう。なぜ立山かというと、著者が富山人であり、こよなく立山を愛しているからである。当然のことながら、我らの立山登山についても、文化と自然の両面での楽しみを満喫するということになる。しかも、我らだけでなく皆さんとともに、立山のことをもっともっと知り楽しむことにしたい。

そこでここでは、(大自然は別稿で準備するとして)立山の文化性としての立山信仰について、立山一帯が宗教の大空間を彷彿させることを述べ、皆様がもつ歴史ロマンをかきたてることにしたい。おつきあいください。

 参考までに、立山の歴史を記しておく。

   ・・  狩人の時代    

   702年 佐伯有頼による開山

747年 大伴家持の立山の和歌

19世紀後半 女人禁制解除

20世紀前半 青年立山登山  

20世紀後半 登山の大衆化



<1>  立山信仰

1.信仰

 山の秀麗さや気品さが我らに山への畏敬の念を持たせ、その念は神への信仰へと変わっていく。山は、天空への入り口として、いや天空として、神が住んでいるところとされるようになったことは容易に想像がつく。もともとの山岳信仰とはまさにそうしたところから自然にでてきたものであり、仏教とあいまって進化したといえよう。

さて立山の場合、霊峰が極楽浄土であり、火山噴気孔や湧き出し温泉が地獄であり、天国と地獄が隣接しているのが特徴である。こうしたシチュエーションは山岳信仰にはうってつけであり、後年の布教とあいまって、立山信仰が一大勢力をもったものといえる。

立山信仰の基本は「立山に登れば生まれかわれる。頂上に上ると生きながらにして生まれ変わる」といった信仰である。とくに、疑死再生という考えは「山に入ると死に、拝んで生まれる」のことであり、山に登ることが信仰の形態となったのである。なお、俗説では「立山に上ると地獄に落ちない」という明快な教えもある。



2.立山一帯が仏法の世界

a.立山一帯を構成するいくつもの山があり、地獄もある。これが仏界を構成している。まずは、霊峰を極楽浄土としており、これには

     「浄土山(過去の世界)、雄山(現世の世界)、別山(未来の世界)」

の山がある。

 次に、地獄については、火山噴気孔や湧き出しのあるところを地獄谷と称している。そこには、

「賽の河原、血の地獄。冷水の地獄、

湯の地獄」

がある。また、地獄には、針の山として剣岳がある。



b.立山一帯の山々

当地には、大汝山、富士の折立、大日岳、室堂山、薬師岳、鬼岳、獅子岳の山々に加え、弥陀ヶ原、室堂、弘法、称名滝がある。これらは、仏界のロケーションを構成するので、仏法にちなんだ名称となっている。



3.山に登るという信仰

 立山三山といえば雄山、大汝、富士折立の三つの山をさすが、立山信仰では雄山、浄土山、別山のことであり、仏界として現世、過去、未来をそれぞれ対応させている。

 立山信仰では次のような登り方により信仰を極めることになる。すなわち、室堂からまずは現世の雄山に上る。次に過去の世界である浄土山に登る。続いて現世の雄山に戻った後に未来の世界の別山を上る。そして現世の雄山に戻り、室堂に帰還する。

 これをもって、生まれ変わりをなしえたとするのである。

  室堂 →雄山→浄土→雄山→別山→雄山→ 室堂

       現世 過去 現世 未来 現世



4.曼荼羅

 平安時代にさかのぼる立山信仰について、なぜ全国的に知られるようになったのであろうか。それは、芦峅の信徒が布教のための会を組織して、立山信仰の教えを可視化した曼荼羅という絵を用い全国各地を回って活動した努力の結果である。なお、越中売薬については、彼らが布教の傍ら薬を販売したことがルーツといわれている。

曼荼羅の絵には、天界と地獄を阿弥陀如来・閻魔大王などとともに描かれ、また人の一生を誕生・成長・老化・死の過程でも捉えて描かれている。

なお、曼荼羅絵は絵鏡ともいわれ、自分の心が写るとされており、その意味では神様・仏様とのコミユニケーションツールともいえる。



<2> 立山開山

1.山の神、開山とは

1.1 山の神

 山はキコリや猟師の生業の場としたところであり、同時に上の住む場所でもあった。神は熊や鷹に姿を変え、山の生活を支えていたのである。そんなところに、修験者が山に入って修行鍛錬の場としたのは、やはり仏教が入ってきてからであろう。

ではどうして、立山信仰として多くの信者が集まるようになったのか。逆に言えば、だれが立山信仰への道を切り開いたのか。これは立山開山の話として興味深い。

1.2 開山とは

 宗教施設を山のなかに作ることをいう。このため、まずは登山道を整備し、開けた土地に社殿を建設する。次いで仏様を安置する。この一連の行為が開山である。立山では、ふもとの岩峅寺・芦峅寺から始まり室堂を経て雄山山頂までの登山道を整備したものと思われる。



2.佐伯有頼伝説

 702年には佐伯有頼が立山を開山したという伝説がある。平安期の頃、佐伯有若(実在人物)が越中国司のときのことである。有若の息子有頼は、父愛用の逃げた鷹を追いかけ山に入ったところ熊に出会い熊に手傷を追わせ、奥山へと逃げる熊を追い室堂の洞穴に到達した。そこには血を流している阿弥陀如来(熊が変身)と不動明王(鷹が変身)が立っていて、阿弥陀如来からは有頼に「立山を開山するように」と告げられたという。これが有頼伝説である。



3.立山開山伝説の検証

3.1 和歌

 有頼の後年、越中国司に赴任した大伴家持が越中国にて748年、立山を題材に読んだ歌には次のものがある。

   立山に ふり置ける雪を 常夏[とこなつ]に
   見れども飽かず 神[かむ]からならし

この歌には山(立山)は依然として神の山と言っている。

 これをどう捉えるのか。有頼以降46年経過して、仏教と神道はどうバランスしていたのか。開山とはいっても仏教ではなく、神道が中心だったということなのであろうか。まだまだ開山が道半ばなのか。神仏習合の観点から考えてみよう。



3.2 神仏混合

 仏教伝来の後、587年には物部氏と蘇我氏とで仏教の受け入れをめぐって権力争いがあった。この争いの後115年経過した佐伯有頼の時代においても、地方で仏教がすんなりと受け入れられたのであろうか、考えたい。

肯定説としては、中央権力の介在もあって神道側が積極的に仏教に寄り添ったというものである。(そうしないと神道が立ちゆかなかったといわれている)

他方否定説としては、地方では八百万神が農耕社会に入り込んでいたために、仏教進出に際し争いがあったというものであり、神道の神である熊が矢で射られたというのも、混乱を象徴しているように思える。

立山の場合、いずれにしても神仏習合で神道が仏教と一線を画したことにより、仏教側で開山がすすめられたにもかかわらず寺院の建立はなく、神道が仏教の教えを活用した、ということができる。平安の家持の時代でも立山を神の住まいとみていたといえる。



3.3 誰が開山か

佐伯有頼が立山開山したといわれているが、1人の人間で果たして開山が可能だったのか。そう考えるのではなく、都から関係の方々がやってきて開山したのでは。佐伯有頼を持ち出したのは地元の支援を得るためなのではなかろうか。事実、立山のふもとにある芦峅寺の地域では佐伯姓がほとんどであることを考えると、推量ではあるが都からの指示という説が浮上してくる。

佐伯有頼については、記録上の人物でないだけに、実存したのか、あるいは他の方ではといった憶測もある。なかでも、片貝川の流域に住んでいた方ではとの説もある。ただし、これには立山へのアプローチが常願寺川系に比して難コースであるという難点がある。



<3>各種施設 

1.社殿

 神道ではご神体が山や岩や樹木などの自然物であり、参拝はご神体に向かって行うものである。時代が下るに従い、神様とのご対面の場所を社(拝殿)という建物を造るようになった。ご神体が自然物でなければ当然、社(本殿)に特別に安置設置され、そのうち神に奉納する場所(幣殿)が拝殿と本殿の間に設けて三棟として、神社は今にある形態となった。

 神社の設置場所について、ご神体と氏子とを結ぶことがポイントとなる。村の鎮守様の場合には、村のはずれの標高の高いところ(洪水を避けるため)が立地場所であり、拝殿は氏子のいる方向すなわち村の中心に向けている。これは神が氏子を見守ると考えるのであり、ご神体が木や岩の場合であればそのことがよくイメージできる。

 これに対して、山がご神体である場合も同様、拝殿正面が氏子のいる方向に向くことになるが、山頂にある社については(太陽光を常に受ける方向として)南側を向いている。これは多分に太陽神を意識していると考える。よく社屋背面が北を向いているから、不動の方向(北極星の方向)が意味を持つといわれているが、そうではない。

 立山一帯における社について、社の向きを原則南にしているが、山頂部敷地の状況に応じて建設しやすいように方向が設定されている。以下には、飯田肇氏(富山県立山カルデラ砂防博物館)の調査結果を記す。

a.剱岳の祠背面の向き

 落雷で数年前に祠が燃えたので再建された。

旧 北西向き(早月川河口方向) 

新 南西向き(鍬崎山方向)

b.別山の祠背面の向き

 今までなかったようだが最近作られた。

新 西向き(屋根の向きは雄山方向だが、

祈る向きは西向きになっている)

c.雄山

 山頂の社は峰本社とよばれている。社背面の向きは北向き(剱岳方向)



2.石仏

a.石仏

 立山を水源とする常願寺川の扇頂部となる岩峅寺から立山室堂までの直線にして30km程の立山街道・立山登山道において、33箇所に石仏が配置されている。スタートは岩峅寺の熊の神社であり、最後は室堂山荘の付近である。その昔、参拝者が地蔵に見守られながら登っていたのである。



b.一の越から頂上までの石仏

 石仏は、一の越から頂上までの各地点にも祠付で設置されている。これは以下のように意味をもたせている。すなわち、阿弥陀如来の体の各部が石物として祭られている。

   一の越 スタート   二の越 足、拝みは西

   三の越 腰      四の越 肩

   五の越 首      頂上  



<4>.女人禁制

 女人は神聖なところには入れない。根拠がいくつかある。

  ・男性修行僧が性欲に惑わされる。

  ・神通力が失われる。

  ・体外に出た血は穢れそのもの(男女とも)。

・山の神は女性であるので女性入山により女神が嫉妬する(災害が起こる)

からともいう。

 こうした伝統は鎌倉期に出来上がったとされている。法然や日蓮などは禁制に反対したという。経典に無いことをもっともらしく行動規範にすることに異議を唱えたものといわれている。

 女人禁制の実際はどうであったのか。地域によって事情は異なっていた。

 まず、富士山では観光客は大事な客であり、女性の入山も禁制ではなく商業の一環でウエルカムとなった。ただし、江戸など各地では、表向きは女性のために庭に富士山を模した丘を作り富士登山を実感するといった仕掛けが多く設けられた。

 一方、立山では禁制まで厳格に守り通していた。しかしながら、その昔に禁制をしいたことは実際には登っていた人がいたという裏返しを意味している。禁制は後から取ってつけたことであり、法然が言うように女性を山から締め出す口実ということなのであろう。

 時代が下り、富士山は江戸後期、立山、白山は明治初期(1872年)には禁制解除となった。しかし、出羽三山は1997年になってやっと解禁となったが、いまだに禁制を続けているところがある。理由は、禁制という伝統を守るためである。とにかく、禁制の伝統も長く続けば立派な文化であるということのようである。



4.2 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)

 立山の場合、富士山の場合と同じように女性用に立山登山をさせるのではなく、生まれ変わるという信仰をふもと(芦峅)で再現する仕掛けが作られた。布橋灌頂会と呼ばれるものである。赤い橋に白布を引き、その上を目隠しした女人が渡るのである。現世にやましいことをした方は橋から落ちてしまうとされている。

無事渡り終えた方は真っ暗な姥堂に入り、時を見て姥堂の東側扉を一気に開けて与四兵衛山(立山山麓雷鳥バレースキー場北隣で常願寺川左岸に位置)を背景にした極楽浄土が再現されるのである。この行事は江戸時代後期から始まり、明治時代に途絶えたが今(2011)では観光用に復活した。



<5> 立山へのルート

立山信仰は立山の見えるふもとからから始まる。信仰の基点位置は富山と滑川であり、そこから立山を見ながら接近するようにルートがある。以下に列挙すると;

  <>富山基点

  ・大山街道をくだり、岩峅寺・芦峅時を経て、千寿ケ原に出て、美女平・弥陀ヶ原・室堂から、立山へ。芦峅寺ルートと称される。

  ・岩峅寺から芦峅寺を迂回するよう本宮から千寿ケ原に出て、美女平・弥陀ヶ原・室堂から、立山へ。もうひとつは、美女平を経ず、立山温泉から弥陀ヶ原にでて室堂、立山へ。

岩峅寺集落と芦峅寺集落が信者の奪い合い合戦をして、互いに犬猿であったために、岩峅寺からの本宮経由のルートが作られた。

  <>滑川基点

・上市川支流郷川からのぼり、山加積や黒川谷から護摩堂、千石城山をへて大熊山から早乙女に入り大日岳、立山へ。

・早月川をさかのぼり、馬場島を経て室堂野越から室堂、立山へ。

・上市から大岩に出て、浅生、種を経て、大辻、大日岳、立山へ。

 上記のルート群は、佐伯有頼から始まった立山信仰当初のものである。やや時代が下って当時メジャーな宗派の天台宗と真言宗が立山に参入してからは、真言宗は大岩ルートを、天台宗は芦峅寺ルートをそれぞれ分担していたが、そのうちどの宗派も芦峅寺ルートを利用するようになった。

 江戸時代にはいると、当該地を支配する加賀藩は、立山ルートを岩峅・芦峅の一本に固定化し、かつこれを奨励して他ルートを完全に寂させた。また、立山から長野に抜けるルートも立山ルート独占と防衛上の理由で禁止とした。かくして、立山信仰による(観光の)上がりは加賀藩の財政を大いに潤すことになった。



<6> そしていま

今、立山には年間100-120万人が訪れている。登山半分、観光半分といったようにもえる。このうち登山については、ハイヒールや革靴の都会客が春山でもにわかに登山する姿をしばしば目撃したが、ここ10年前くらいからは、山のマナーが周知徹底されたのか、無鉄砲なイカレがいなくなったのか、そんな客は皆無となった。

では観光客の多くは、何に期待してやってくるのであろうか。大自然をみたいとか、登山による達成感に浸りたい、など理由が挙げられ、どちらかというと立山信仰は後付で聞くといったところである。がしかし、自然鑑賞もさることながら、初詣と同じのりなのであろうか、山頂の社務所での買い物や峰本社での礼拝などの行為も目を見張るものである。

では、そののりの源は何であろうか。それは神社(仏閣も)が観光対象であるからである。江戸時代には信仰心の厚さもさることながら信仰による観光旅行が許されていたこともあって、人々にとって宗教施設観光が何よりの楽しみになっていたのである。

 立山の場合、立山信仰から立山観光にモードがかわったとはいえ、立山登山への価値付けには立山信仰が立山の歴史・文化として大いに関与している。神社が依然として観光を下支えしているということになる。かくして、立山は時代に対応するかのごとく君臨しているということができる。



<7> まとめ

 立山の歴史と文化を立山信仰の面から8世紀にさかのぼって展望したところ、山の文化はまさに立山信仰そのものを実感することができた。とくに神道と仏教を神仏習合以上の壮大な仕掛けにはおどろくばかりである。すなわち、第一には、立山一帯が仏界として、現世、過去、未来、の時間軸ともに、極楽浄土と地獄の空間軸で捉えられ、第二には、神道世界として天界イコール山と直接結びつけた古代神が脈々と流れている。こんな壮大なスペクタクルは他に例を見ない。ここに、先人たちが今風に言えば如何にロマンをもとめていたのかがわかる。そんな立山に今においてもなお不思議な畏敬の念をもつのも自然な成り行きといえよう。



<あとがき> 

 富山では、立山が一番の観光資源とされているので、観光に際し、文化・歴史の価値付けを核にした差別化施策が図られている。

 では実際に、どこまで文化の価値付けを行ったのか、行っているのか、調べていたところ、案の定、上滑りの観光として都合の良いように、歴史と文化を観光につなげていた。これは山の大衆化のなせる業であり、経済活動に即した行為でもある。しかし、これに満足しない方々も当然おられるので、私は急遽本稿を執筆した次第である。

内容については、地元の歴史家、神主さん、アルピニスト、学芸員、研究者などの方々ヘのヒアリングが主である。

末筆になりましたが、関係各位にはお世話になりました。ここに記して謝意を表します。また、皆様には最後までお付き合い下さいましてありがとうございました。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

プロフィール

essey7

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ