2016.04.02 雄山神社について、141

 富山には、ご神体を立山とする雄山神社がある。立山は県民の精神的なよりどころとなっているので、初もうでの時とは別にして、少なからず雄山神社が県民に対して影響を与えている。そこで、こうしたことを念頭に置いて神社について述べることにする。

1.神社概要

 神道ではご神体が山や岩や樹木などの自然物であり、参拝はご神体に向かって行うものである。時代が下るに従い、神様とのご対面の場所を社(拝殿)という建物を造るようになった。ご神体が自然物でなければ当然、社(本殿)に特別に安置設置され、そのうち神に奉納する場所(幣殿)が拝殿と本殿の間に設けて三棟として、神社は今にある形態となった。

 神社の設置場所について、ご神体と氏子とを結ぶことがポイントとなる。村の鎮守様の場合には、村のはずれの標高の高いところ(洪水を避けるため)が立地場所であり、拝殿は氏子のいる方向すなわち村の中心に向けている。これは神が氏子を見守ると考えるのであり、ご神体が木や岩の場合であればそのことがよくイメージできる。

 これに対して、山がご神体である場合も同様、拝殿正面が氏子のいる方向に向くことになるが、山頂に位置する社については(太陽光を常に受ける方向として)南側を向いている。これは多分に太陽神を意識していると考える。よく社屋背面が北を向いているから、不動の方向(北極星の方向)が意味を持つといわれているが、そうではない。

 立山一帯における社について、社の向きを原則南にしているが、山頂部敷地の状況に応じて建設しやすいように方向が設定されている。

2.神社建築

2.1 建物と敷地

雄山神社は. 立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿 ・岩峅前立社壇(まえだてしゃだん). 三社殿からなっている。

また、本社は、その昔には岩峅と芦峅の神社が相対立していたため、岩峅や芦峅ではなく山頂に峰本社として置いた。今は、宮司はひとりであり、芦峅中宮祈願殿に詰めておられる。

雄山神社管轄域は大変広く、立山一帯(剱、大日、三山、薬師)にわたっている。雄山山頂は雄山神社所有の土地であるが、山頂社務所は国有地である。

参考までに、富士山では、頂上は浅間神社のものか国有地かでもめている。山梨県は神社側に、国には静岡県がそれぞれついて争っている。

2.2 ご神体

 ご神体は霊峰立山であり、立山の神は伊邪那岐神いさなぎのかみ、神仏分離前までは立山権現雄山神・本地阿弥陀如来も)・天手力雄神あめのたぢからおのかみ、神仏分離前までは太刀尾天神剱岳神・本地不動明王も)の二神である。雄山神社は神仏習合時代でも修験道として仏教色の強い神社であったが、寺院ではなかったが特徴である。

ちなみに、岩峅や芦峅の峅には神が降り立つ場所という意味があるという。

2.3 宮司

・岩峅と芦峅の神社がその昔対立していた。このため、本社は岩峅や芦峅におかず、山頂に峰本社として置いた。今は岩峅と芦峅の社を一人の宮司が運営している。 

・昔、宮司と権宮司の二者がおり、輪番交代していた。岩峅が宮司なら芦峅が権宮司、芦峅が宮司のときは岩峅倉が権宮司となる。明治以降は、権宮司は廃された。

2.4 参拝

・参拝は社に向かって行う。社正面は南向き(太陽に向く)であるので、結果として北に向かって参拝となっている。参道も正面から直線状に南北に走る。

・雄山の峰本社の背が剣を向いているといわれているが、これは間違い。本社が南に向いているので結果的に、背が北方向の揺るぎだけになっただけである。

3.神道
3.1
 神社建築
 我らにとって年に一回の初詣で神社はなじみ深いとはいえ、よく考えると分からないことだらけと思う。ここでは、神社建築の特徴をまず列挙したい。本文と重複のところもあり。
・建物:拝殿・幣殿・本殿の三棟からなる。
   本殿はご神体が安置されているところ、拝殿は参拝するところ、幣殿は神に奉納するところである。
・屋根:瓦ではなく木肌葺き(後年檜葺き)である。仏教と抗するためという。
・立地場所:神社は氏子を守るように村の外れかつ標高の高いところに設置される。
・社の方向:神社正面は村の中央に向く。
    山岳神社についても人の住んでいる方向という説と、太陽をつねに向くとして南に向くという説もある。
・社殿と祠:参拝者がぬれないように屋根があるのが社殿、ないのが祠。
・神:神は自然物の場合、本殿はなく拝殿だけがある。
ご神体が鏡のように安置できる場合には本殿が神の住まいとなる。ただし、もともと神は出雲におられ、お祭りの際に神輿にのってやってくる。祭りが終われば神は出雲に戻る。
・寺の山号:寺には山号がある。例えば比叡山延暦寺といったように。立山の場合、神道中心であり、寺院は建立されなかった。なお、ふもとの寺院として例えば上市では大岩山日石寺がある。
 

3.2 神仏習合

・本地垂迹説(ほんじすいじゃく)は神仏習合のひとつの考えで、仏様イコール神様、大日如来は天照大見の神というもの。これに対抗して神本仏迹説は、神道を仏教と一線を画すために、神仏習合はすれども、神が主で仏が従という考えである。今の神道はまさにそれである。

・修験道 奈良時代に役小角が創始し、平安時代に盛んとなったといわれている。もともと山岳信仰と密教が結びついて、厳しい修行を中心とした信仰が根付いて修験道となったといわれている。立山の場合も、修験道が中心であったようであり、これが江戸時代に入って、真言宗か天台宗のいずれかに属さねばならなくなり、本文では、参拝のルートが芦峅ルートと大岩ルートの二つがあったのである。明治に入り、修験道は禁止されたが、仏教色を廃して神道に移ったものもある。立山信仰はこれではなかろうか。

・磨崖物の岩はもともと神道ではご神体である。ご神体の岩を彫刻して仏像とする。これも神仏習合あってのなせることである。

3.3 神仏分離

・神道は明治に入って制度化され、国教となり、全国各地に神社が建立(一集落一神社)された。

・神仏分離 1868年に明治政府が神仏判然例を発布して、神仏分離がなった。岩峅にあった立山寺(岩峅寺ともいい、平安初期建立、源頼朝が修復・再建)と芦峅にあった中宮寺(芦峅寺ともいい平安初期建立であろう)が完全に消滅し、今の雄山神社を形成している。もともと神仏分離は仏教の目に余る横暴で地域民が苦しめられたことにより、廃仏毀釈をすすめていった。

結局、立山の仏教系では、立山権現は廃され、布橋灌頂会や大権現布教が禁止となった。

3.4 布教と売薬

・越中の薬売りは、芦峅寺の立山信仰の信徒が、「一山会」という独特の組織を形成し、16世紀以降(江戸時代から)諸国を配札檀那廻りし、立山の縁起図や立山牛王紙、薬草や薬粉などを配置し、翌年代金を受け取っていた。これが売薬の始まりであった。



4.ご神体

4.1 立山のご神体とふもと

われらは雄山、大汝、富士の折立の三つとしているが、信仰では、浄土、雄山、別山の三つとのこと。浄土は過去、雄山は現世、別山は未来、とのこと。ご神体は三山とみるべきである。

三山の一つ雄山はどうも御山とよんでいたのではなかろうか。神話では山には男性、女性の神々がおられたので、山に男(雄)の意味をもたせることはないからである。女人禁制のころ御が雄になったのではなかろうか。

なお、仏教が入ってから前人未到の険しい山が針の山とか地獄の山と称されるようになった。



4.2 本殿でまつられている神々

山頂の峰本社には江戸時代までは神と仏の両方がそれぞれ二柱で祭られていた。神道ではいざなぎ、天野他事朗であり、仏教は阿弥陀如来と不動明王である。 

明治になると、廃仏毀釈でこれまで立山権現社であったものが、雄山神社となった。



4.3 ふもと

・宿  参拝者の宿として、ふもとの芦峅寺には宿坊という施設が数十軒あったという。宿坊は明治に入るとほとんど全滅し、教算坊、善道坊の二件のみが残った。

・布教 布教は芦峅寺の方々がマンダラの絵とお札を全国に持ち歩き、各地では扇子や薬などをおまけとしていたという。