2016年07月

大伴家持の和歌、エッセイ144

2016.07.07 大伴家持の和歌、144

1 家持概要

 家持の家は大和朝廷以来の部門の家系であり、高級官吏の家系でもある。和歌を専門とし、万葉集の編纂にかかわる歌人として有名である。
 家持は平安時代746年の夏に越中国司に赴任した(29)。その後748年春には出挙(財物の利息付き貸付)のため越中国内を巡行し、各地で歌を詠んだという。家持はとくに西の方に拠点を置き、お気に入りの場所は次の三箇所である。
   二上山(上は神のことのよう。奈良にもある)、
   布施の海(今の氷見市十二町潟)、
   立山(遠景として)

ただし、富山の雪にはうんざりしており、また海越しの立山には興味を示さなかったといわれている。氷見から見る立山は氷見の海岸、富山湾、立山連峰という実にすばらしい光景が気にいらなかったのはなぜであろうか、今も分からないという。



2 立山の和歌

立山について詠まれた歌は以下の通りである。

・立山に降り置ける雪を常夏に 見れども飽かず神からならし

・片貝の川の瀬清く行く水の 絶ゆることなくあり通ひ見む

・たち山の雪しくらしもはひつきの 河のわたり瀬あふみつかすも



3 その後

 家持は越中国司として足掛け6年勤務し、751年の夏に都に戻っていった。越中暮らしは本人には相当楽しかったようであり、帰任してからは都では、越中にいた時ほどには和歌を詠んではいない。万葉集の編纂のためかもしれないが。



4.万葉集

万葉集は、複数の編者によって身分の高い低いを問わず読まれた歌を4500首集め、全21巻にまとめた、日本古来の物語の源を形成する文学作品である。編纂は、万葉集は7世紀後半から8世紀後にかけてとされており、家持が最終段階でかかわり771(54)頃に完成させたともいわれている。


 


 


 

富山県の歴史、アイデンテイテイと興味の郷土史、エッセイ143

2016.07.06 富山県の歴史、アイデンテイテイと興味の郷土史、143

1.                 はじめに

 富山県に住んでいる我らにとっては、富山の歴史については、日本の歴史とは違って何となく身近に感ずるためか、何でもかんでも何となく知ってみたいという気持ちになる。郷土の歴史とはそんなものなのであり、大なり小なりいろんな方々がかかわれるのが一番の魅力といえる。しかも、何かこだわりをもってピンポイントで迫っても歴史に何か新しさを感じ、興味がわいてくる。

 そう思っていると、自分の好きなポイントの歴史を地域におけるアイデンテイテイと捉えることにして、郷土史を自分にとってもっと身近なものにしたくなった。また、全国歴史そのものについては念頭には置くが、富山という地域で特徴的なことが即、アイデンテイテイにつながっていることを実感したくもなった。

そこで、こうした思いを叶えるために県域の変遷史として富山の歴史を書いてみることにした。また、全国に先駆けて富山を有名にした米騒動とイ病(イタイイタイ病)をも扱いますので、お付き合いをお願いいたします。

 

 

2.個人周辺から郷土へ、自分中心史から郷土史へ

 歴史については、むしろ身近な自分の街で小学校が新しくなったとか、ショッピングセンターができたとかいった事が何といっても自分らの歴史である。郷土史は、多分にそんな自分たちの歴史の臭いのする歴史なのであろう。そうなると、ますます自分も郷土史に参加したいという気になるものである。

 では、その源に何があるのであろうか。それは行動圏・生活圏における生活の営みであることはいうまでもない。身の回りの皆さんの思いが積み重なって、総体として地域圏あるいは大きなコミユニテイが時間という奥みをもって形成されていく。その全貌が結果としての郷土の歴史を育み刻んでいくのである。

 

3.具体的展開

 富山の自然は立山ということができる。では富山の歴史はといわれると、すかさず真っ先に佐々成政や前田の殿様が上げられる。これは、関心や興味の歴史として、源平期、戦国乱世の佐々成政、近世の前田加賀藩時代が思い浮ぶからである。

 一方、民衆の歴史として、立山信仰、越中米騒動、イ病があり、文化の歴史として大伴家持がある。

 古代から中世・近代の順に展望していこう。

 

2.1 古代 7-8世紀

<a> 県域

 まずは、富山が歴史的にいつ登場するのか。これは律令制の時代になって初めてではなかろうか。都人にとっては、北陸は北の果てであり、立山連峰が果ての象徴であったのである。そんな時代から展望したい。

 大化の改新(645年)の頃、高志(こし)の国といわれていた北陸一帯は、いまでいう福井敦賀から石川、富山、新潟、山形庄内地方までの領域である。当時は陸路よりも海路が盛んであり、このため北陸の北限については弥彦山あたりとすることもあるという。また、高志のいわれについては、都からみると北にある(高志の)山々を畏敬の念でもって高志としたのではなかろうか。

8世紀以降には、高志の国は、越前、越中、能登、越後に分割され、高志の国が越の国と書かれるようになった。(呼び方は「こし」のくに) なぜ越なのか。分国においても分国境界の山を越え越の国があるという意味で、高志が越になったようにも思う。

越中は、757年に魚沼や頚城が越後に移され、今のスマートな越中におさまった。
 ところで今でも、福井、石川、富山、新潟がなぜ北陸ですかとよく聞かれる。昔は、北に及ぶ権力域は高志の国までであったので、都からすると、そこらの地は北の果てとして北陸といわれたという解釈を今でも使わさせていただいている。

         

<b> 立山開山

 佐伯有頼が立山を702年に開山したという。開山には諸説あり、実存した親の有若ではないのか、佐伯一族ではないのかともいわれている。

 それはさておき、県内ではもちろん有頼が歴史上の重要人物として立山信仰の創始者として祭り上げられている。また、立山信仰の布教で、曼荼羅絵の果たした役割は大きい。

 

<c> 大伴家持

 古代の著名人といえば大伴家持であり、富山の文化性を持ち上げるには一役でも二役でもかっている。

 歌人大伴家持は746(平安時代)に越中国司として国府(今の高岡市伏木)に赴任し5年ほど越中に居していた。在任中、家持にはお気に入りの場所が

    ・二上山(高岡の山。奈良にもある)、

・布施の海(氷見平野、当時は海であった)、

・立山

の三か所であり、これらの場所にて越中の和歌を多数(223首)詠んだ。特に、立山を詠んだ歌が有名である。ただし、富山の雪にはうんざりしていて、そのせか、海越しの立山には興味示さないばかりか、立山の懐近く県東部には足を踏み入れなかったという。県東部での歌は旅人から東部の様子を聞いて詠んだともいわれている。

 立山の和歌については、以下に列挙する。

  立山に ふり置ける雪を 常夏[とこなつ]に

      見れども飽かず 神[かむ]からならし

  片貝の川の瀬清く行く水の

          絶ゆることなくあり通ひ見む

  たち山の雪しくらしもはひつきの

          河のわたり瀬あふみつかすも

 

2.2 木曽義仲

 木曽義仲は倶利伽羅峠で平家軍を敗退させたということで有名であるが、県内ではさほど義仲云々は語られてはいない。理由は簡単である。越中にはまったく住んでいなかった人であり、県西部域にある主戦場「倶利伽羅」において源平が勝手に戦をしただけということが義仲の評価である。

そのためか、県内では、義仲が行軍したルートが人知れず伝聞として残っている(にすぎない)。

 弓の清水の伝聞地では、義仲の軍が越中西部を行軍していたとき、兵士がのどの渇きを訴えたので、義仲が地面に弓をひいて矢を射ったところ、水が湧いたという。どういう訳か、この地が史跡に指定されている。最近、地元の研究者により、そのような場所を義仲が行軍していないことが実証されたが、高岡市はかたくなに史跡解除を拒んでいるという。理由は、「真実はどうでもよく、観光資源が減る」ということのようである。

 

2.3 佐々成政の時期1580-1585

 近世では、越中は一向一揆の時代や上杉統治の時代を経て、織田政権の武将として佐々成政が越中に入り、上杉勢を退けて領国経営にのりだした。とにかく、県内初の戦国大名として越中に居を構えて住み、越中に尽くしたことが評価されている。また、地道な統治の成果として治水事業が有名であり、神通川の佐々堤を築いたことが後世に伝えられている。このことからしても、県内では佐々の人気は前田の殿様よりも結構高いといえる。

 なお、佐々は秀吉に攻められたとき、厳寒期に浜松の徳川に援軍要請のために、北アルプスさらさら峠を越えたことが一層名前を県民の記憶に残したといえる。 

 

2.4 前田の富山藩、1585-1871

 佐々成政以降、越中は前田の領国となり、1639年には、射水郡と新川郡の一部が富山藩となった。前田利次が初代藩主に就任し、新田開発もすすめ加賀藩を支えていた。富山県域にあたる領域(富山藩、射水、砺波、新川)では、40万石は越中といわれている。

 江戸時代、県西部は加賀藩であったので、加賀の武家文化が県西部では華やいでいた。しかし、県東部は、加賀藩でありながら、文化とは無縁の世界であった。理由はおそらく、加賀の文化が富山藩に遠慮して県東部越をしなかったためと、県東部が文化でなく米蔵であれば十分とされたためであろう。このため、富山県西部にある高岡、伏木、射水、岩瀬、砺波では絢爛豪華なお祭りが多いのに、県東部では華やか祭りは全くないのである。

 富山藩はそんな貧乏所帯の藩であり、上述のように文化の香りのないことが特徴的であった。なぜそうなったのか。なぜ、富山藩が神通川と常願寺川の間だけの領域であったのか。本来なら新川を含めて神通川以東すべてを富山藩にすべきと思われる。推測であるが、分藩に際しては

・幕府の手前、分藩ということであれば、ある程度藩としての体裁が必要であったこと。

・分家筋には、母屋は割合冷たく対応した。

・新川域の米生産は魅力であったので、母屋は新川を手放さなかった。

といったことにより、富山藩はこじんまりと富山中心に限定された狭い領域になったのであろう。

しかしながら、富山藩は、諸産業として薬産業に目をつけ、これを奨励し、とりわけ全国に商う売薬を制度化させた。今日、富山が県の中心(県庁所在地)になっているのも、富山に何の産業もなかったからこそ、産業振興に目を向けることができたのである。そのような富山が高岡を押しのけて県庁所在地になってからは、富山の発展ぶりはそれこそ特筆すべきことである。

 なお、参考までに加賀藩の石高について記しておく。関ケ原後1639年までは、加賀は120万石であり、能登23.3万石 越中55.3万石、北加賀26.6万石、加賀西部12.5万石となっていた。1639年には、大聖寺藩7万石、富山藩10万石が独立して、加賀藩本体は103万石となった。

 

2.4 米騒動 1918

 富山県では、明治期、米商人が富山の安いコメを買い占め、県外で高く売って巨利を得ていた。1918年(大正7年)政府のシベリア出兵を機にコメの投機的買い占めが始まり、米価が高騰した。日頃の米価高騰に苦しめられていた魚津の主婦たちが港に停泊の米運搬船へのコメ積み出しを阻止した。これがたちまちのうちに全国に知れわたり、各地で民衆が蜂起したが、軍隊によりすべての騒動が鎮圧された。

 民衆の大抗議運動として特筆すべきこの騒動は、県内ではあまり触れられてはいない。単なる一事件という捉え方しかされていない。

 

2.5 イタイイタイ病(イ病) 1910-1970

(1) イ病

 イ病は、神通川下流域の富山市婦中町で1910年から1970年まで、特に女性に発症した公害病である。症状は、骨がもろくなって折れるものであり、想像を絶する痛みを伴う。患者数は、200-400人くらいといわれているが、過去からも含めて実数は不明という。

イ病の原因は神通川上流にある三井金属神岡精錬所から出る亜鉛精錬の未処理排水に含まれているカドミウムである。これが農業用水や飲用水として使っていた農民の体に取り込まれ蓄積することにより腎臓障害を引き起こし、体内の骨量が減少するのである。

 イ病について、原因が判明し、患者救済や再発防止へと世の中が動き出したのは、1955年からである。すなわち、1955年に地元の萩野医師がイ病を発表し、1957年に鉱毒病として指摘して以来、問題解決に向けて運動が始まった。初めのころは栄養失調とか、風土病とかでカドミウム原因をなんとかうやむやにしようという勢力もあったが、1966年にはイタイイタイ病対策協議会が発足し、粘り強い調査研究・運動もあって、1968年には厚生省は「イタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動によって排出されたもの

である」と断定した。

 その後、すぐに文芸春秋誌をつかった反キャンペーンが繰り返され、長い裁判闘争がくりひろげられた。詳しくのその関係の文献を参考にしていただきたい。  

最終的には、201312月に全面解決として合意書を原告と被告の間で取り交わした。ただし、これですべてが終わったわけではなく、行政はいまだに公害病認定にハードルを上げており、三井金属はいまだに神岡鉱山に残留する廃棄物を未処理のままにしていることなど、問題はいまなお多く残っている。

 

(2) 汚染地域対策

 住民側のパワーが力を増してきて、汚染地域は行政側で土地改良によって汚染程度を低下させることになった。県は、1974年から農用地汚染防止法により農地区域863haを対象として土壌改良を検討し、1979年の本格工事を開始し(33年かけて)2012年にやっと完了した。総費用は407億円であり、これを三井金属、国、県が分担した。

(3) 今

イ病への対応について富山県は、上記土地改良工事の推進と後世に負の遺産として伝えるイ病記念館をオープンさせたが、問題は今なお残っている。ひとつには、改良工事は一応終わったことになってはいるが、未改良地域は大ショッピングセンターや公園として今なお手をつけず残しており、ここにも行政が工事費を浮かせようと思案した名残を見ることができる。第二には、資料館において県が鉱毒説を否定し、患者を著しく危険にさらしたことを少しも展示していない。行政が誰の味方であるかが如実に見て取れるしだいである。といった指摘を含めて、イ病を語り継ぐ会は、いまもなお行政には真摯な対応を求めている。

 

3.富山県域の変遷

 富山県は東西南の三方向で山に囲まれており、県域は自然と地形に沿ったものになるはずではあったが、政治の力関係で、石川域と富山域とで境界線が何回も線引きしなおされた。1876年には、富山域を含めて石川県の領域が定まった。しかし、石川側と富山側とでは行政の主事業が異なっており、石川の道路整備に対して富山の治水事業を優先していたので、富山側の独立が強く叫ばれ、1883年に富山県が石川県から分離して(富山県が誕生し)今日に至っている。

 1889(明治22)には、市制・町村制が実施され、富山町と高岡町が市となり、2市31238村となった。

戦後(1945年)にはいってからは、戦災復興院告示第一号により都市計画事業がすすめられた。その後、市町村については、昭和の大合併で9市18町8村(総計35市町村)となった。

2004年(平成16年)には砺波地方に2つの市が誕生し、1013町4村(27市町村)となった。

 

4.まとめ

 郷土に関心があって、何となく自分でストーリを構成したくなり、富山県の歴史としてまとめてみた。このため、本稿は一般の歴史書とはかなり違って特徴的な様相となった。列挙すると;

(1)    県全体の通史ではなく、県民の歴史人気と住民の苦難について書き記すことができた。

(2)    県民の関心を自然と発掘したおかげで、興味がさらなる興味を引き出すようなイメージを作り出すことができた。

(3)    (一部の事象だけだが)県民の関心はやはり歴史上の人物そのもの。読者が人物と重なると、しらないうちにアイデンテイテイを堪能したことになると考える。

 

読者の皆さん、いかがでしたでしょうか。本稿から県民の様々な声が聴けたのでは、と思う次第です。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

 

A.あとがき

 富山の歴史を扱った本は、本当に沢山出版されている。それだけに、歴史に寄せる思いは皆さん、強いということができる。

 かくいう自分も歴史ファンである。かなり知識がたまってきたので、何か書きたくなってきた。しかしながら、単に富山の歴史というのでは、いかにも歴史を勉強してまとめましたってことになるもので、おもしろくない、

 そこで考えたのが、「歴史は何のために歴史か」という視点でもって歴史を語ることにした。皆さん、歴史を何のために知るかといえば、郷土のアイデンテイテイを知るためとか、人間の営みの積み重ねを知るためということである。(時には負の歴史も)

 本稿はそうしてまとめたものである。単なる歴史書とは違って、一味も二味もあること間違いないといいたいのである。

 歴史は、そんな観点に立てば、いろんな対象で歴史を語ることができる。誰でもが語れる、それが歴史なのである。

 

追記

最後に、なぜ執筆か、今一度理屈を述べたい。

世の中に多くの本が出ていても、自分で歴史を勉強していくと、何となく(歴史を通して参加したくなり)まとめてみたくもなる。実際にまとめだすと、何か自分らしさを出しながら編集したくなってくるから不思議なものである。そんな思いをもって執筆した。

 

追記2 感想

 本冊子を何人かの友人にお見せしたところ、感想をいただいたので、ここに紹介する。

・越の国はなぜ越なのかの議論について;おもしろい。(朝鮮から)海を越えての越ではないのか。

これを聞いて編者の見解として、当時、海路が主でしたから、これまた敦賀の方から海を越えての感覚があったのかもしれない。

・歴史「history」を「his-story」としてではなく「my-story」として。編者はこれにうなずきました。なるほど。

 

生活実態の変遷史、エッセイ142

2016.07.05 生活実態の変遷史、142


1.はじめに

 歴史といえば一般には支配層の政治史をさすためか、一般人にとって歴史はつまらないものという捉え方が多い。しかしながら、郷土の歴史となると話は別で、自分らの歴史としての捉え方が自然と湧き上がってくる。例えば、街のアイデンテイテイは歴史そのものであるとか、歴史ドラマは過去へのタイムスリップとかで楽しまれている。

 ここでは、上述の観点で「楽しむための歴史」を生活の面から検証したいと思う。具体的には、生活実態の昨今ということで歴史を捉えることにしたい。なお、構成は以下のとおりである。

・歴史の意味    ・富山県の県域と経済力

・米基準の生活評価 ・貨幣価値

・近世の生活    ・大名の資産

・人口       ・生活史、土地 

・生活実感     ・人物史

 

 

2. 歴史の意味

 我ら、歴史といったときに歴史をどう捉えるのであろうか。いわゆる歴史、街の歴史、ドラマで描かれる歴史といった観点から、我らの歴史観をまずおさえておく。以下に、歴史の接し方についての思いをいくつか述べることにする。

 

<1> 歴史とは、政治主体で支配層の歴史がイコール歴史と常にいわれている。また、庶民にとってはそんな支配のもとで生活の営みであれば、当然歴史は支配層中心の歴史となってしまう。しかしながら、例えば食や住まいなどの歴史的起源や変遷といったことは民衆には歴史と捉えることができ、生活環境の身近な点から民衆は歴史を大いに支えていることになる。

 

<2> 歴史が大事といった場合、何が大事かと聞かれるとハタと困るのが一般的である。何がどうなって、だから「こうだって」ということはなかなか言えないのではなかろうか。その点、街のアイデンテイテイや個性は歴史である、というのは比較的容易に言える。しかも、街の変化も歴史という捉え方が我らにとって一番しっくりもくる。例えば、身近な自分の街で小学校が新しくなったとか、ショッピングセンターができたとかいった事が何といっても自分の自分たちに街の歴史である。

<3> 歴史ドラマの鑑賞では、自覚しようがしまいが当時の生活を自分らの生活をダブらせてドラマを見ている。例えば、お蕎麦屋さんで蕎麦をすすれば何文か、今でいえば何円かといったように、生活環境をもとに時代に浸っている。そんな時、生活環境の昨今について、明確な対比データがあればとか、人の意識構造も変わるのかどうか、などと考えだすと、歴史というものがより一層身近に感じられてくる。

 また自分の周辺についても歴史を感じる時がある。これは多分に自分史といえるものでもある。多くの方々の自分史が郷土全体で集積するなら、結果は郷土史ともいえる。歴史とは、多分にそんな自分たちの歴史の匂いのする個々の歴史なのである。

 

<4> 地元富山の歴史について

富山県の歴史については、日本の歴史とは違って何となく身近に感ずるので、何となく知ってみたいという気持ちになる。郷土史とはそんなものなのであり、大なり小なり、いろんな方々が関われるのが一番の魅力といえる。しかも、何かこだわりをもってピンポイントで迫っても、何か新しさを感ずる。そんな観点で、私は自分の好きなポイントの歴史として富山の歴史に対面している。

 

 

3.富山県の県域と経済力

3.1 県域 (図は省略)

 富山県は東西南の三方向で山に囲まれており、県域は自然と地形に沿ったものになるはずではあったが、明治時代、政治の力関係で、石川域と富山域とで境界線が何回も線引きしなおされた。1876年には、富山域を含んで石川県の域が定まった。しかし、石川域と富山域とでは行政の主事業が異なっており、石川の道路整備に対して富山の治水事業を優先していたことにより、富山域では分離独立運動が起こり、1883年に富山県が石川県から分離して今日に至っている。(富山県が1883年に誕生)

 1889(明治22)には、市制・町村制が実施され、富山町と高岡町が市となり、2市31238村となった。

戦後(1945年)にはいってからは、戦災復興院告示第一号により都市計画事業がすすめられた。その後、市町村については、昭和の大合併で9市18町8村(総計35市町村)となった。

2004年(平成16年)には砺波地方に2つの市が誕生し、1013町4村(27市町村)となった。

 

3.2 富山県と全国を比較による1/100ルール

 富山県の県域や人口は、16統計によれば

人口:106.3万人

  面積:4,247km2 

    (東西80km、南北30-70km

であり、何事にもまとまっている。県域としては広からず狭からず。人口も多からず少なからず。地の利としても、東京圏、京都大阪圏、名古屋圏、どこにも3-4時間でアクセスが可能である(飛行機では三地域は近すぎるくらい)。

 富山の人口や面積を本全体のものと比較してみる。全国データは2015年統計によれば

     総人口 12700万人 (約1億人)

     総面積 377,900km2 (約40km2

である。富山のデータは偶然にも全国データの1/100の量である。これを全国に対して「富山100分の1ルール」と称して、何かにつけて使っている。県の経済力の評価や資産のバックグランドの算定の時にも、利用範囲はすこぶる広く重宝されている。

 

 

4.米基準の生活評価

 戦国時代の何万石、何貫、何両は、今のお金にするとどのくらいか、いつも気になっていた。そこで、中世の経済を支配していた米に着目し、米の価値の検証や貨幣価値について主に述べることにしたい。まずは、米について述べる。

 

4.1 米による生活

 中世の経済価値は米の量で計っていた。当時は、人間の米消費量の容積として「石」(こくと称する)という単位を使っていた。

 まず、農地の広さについて述べる。

       (町:ちょう、反:たん、坪:つぼ)

1町=10反=ほぼ1ヘクタール、 

1反=300坪=ほぼ10アール、  

1坪=3.3m2        
次に容積について述べる。

 (俵:ひょう、斗:とう、升:しょう、合:ごう)

1俵=4=60kg (江戸時代は3.5斗という)

1石=10=2.5俵=150kg

1斗=10=15kg

1升=10合=1.5kg1.8リットル 

1合=茶碗2杯=150g0.18リットル

 石の定義を述べる。

  1石 = 1人が1年間食べるコメの量

        360日×3/日=約1000

              (10.4kg

        米の重量150kg

        1石=2.5

=農地1反で収穫できる米の量

(1石=1)

 

4.2 現代との比較

 最近、米を購入する場合、単位は升や合ではなくkgであり、ス-パ-では5㎏米とか10㎏米といったように重量で販売されている。しかし、炊飯器はあいかわらず、「合」の目盛りだが。

ここで例として、10㎏の米はどのくらいの容積かをみることにする。試算によれば;

10kg6.6升=66合=

12リットル=(30cm*40cm*10cm

   13合食すなら20日間もつ。

最近は、米の消費は11-1.5合程である。

 

4.3 米の価値

収穫量について、現代と比較してみよう。中世では、1反の米量は1石=150kgであったが、現代では3.5倍程に生産性能が上がり、(米の収穫量は)1反=3.5石=8.8俵=530kgである。

米の1人当たり1年間の消費量は、中世では1石150kgであったが、近代では二俵(0.8)120kgであったものの、平成に入ってからはさらに減って1俵60kg程度となっている。今の生活を見ると、朝にパン、昼にうんどん、夜にやっとご飯、という食生活なら、米消費は一人一日1合くらいであり、確かに中世の1/3程度となっている。

 米の値段については、平成初期のころまでは、一俵 23万円が、最近は1万円にも低下している。生産量が上がっているうえに、消費量が落ちているため、値崩れとなっている。ここでは値崩れ前のレートを念頭において、米の値段を記すことにする。

 1石=6.3万円、1俵=2.5万円

 

4.4 俸給

 俸給として、知行取俸給と蔵米取俸給がある。

蔵米取俸給については、例えば三十俵二人扶持などのような表記がある。これは本人の取り分が30俵であり、家来が二人いるという意味である。家来の給金は一人5俵である。よって上記の数字は主人宅のお給金は主人のみの取り分30俵に加えて家臣の取り分5俵掛ける二人として10俵とを加えて蔵取40俵となる。

知行取俸給は、例えば10石の水田では10石の米がとれるが、これは税率にもよるが46民ならば農民が6石、領主が4石の取り分である。加賀120万石でも実際には加賀藩武士全体では50万石しかもらっていなかったのである。

なお、蔵米取と知行取の関係については、知行は水田の米生産量そのものであり、片や蔵米は給金として実際に受け取るコメの量の事である。両者は

知行取石数*税率=蔵米取 

である。知行取は石数で表し、蔵米は俵で表している。給金は蔵に保管の俵に入った米でもらっていたから蔵米であり、俵が単位なのである。

 

 

5.貨幣価値

5.1 中世・近世の貨幣換算

 貨幣は貫(かん)や両(りょう)という重さが使われていた。その後、重さと貨幣の価値の乖離が始まって、貫や両は貨幣の単位となっていった。

金貨の通貨単位は両である。これはもともと重さの単位である。金貨を重さで計量していたので、貨幣の単位ともなった。斤(きん)や匁(もんめ)との換算を記すと;

  1貫=100=3.75kg  1斤=16

1両=10=37.5g 

余談だが、千両箱1箱は37kgと重い。

 しかしながら、時代が下るに従い、金貨には金の量を大幅に減らしたうえに銀を混ぜるようになった。

   金1両=5匁(正規の半分の重さ)

   慶長小判=金4.4匁+銀0.8匁―手数料

4.76(重量)

 貨幣には、両のほかに分()、朱(しゅ)、文(もん)があり、換算は以下のとおりである。

1両=4分 1分=4朱 1朱=250

このほか、貫という単位もある。単に重さからいえば1両は100貫であるが、貨幣の単位で行けば、

1両=4

といわれている。これについては、資料ではまちまちの記述となっている。今後の検討としたい。

 

5.2 江戸時代の貨幣価値

 貨幣については、先に述べたとおり、当時の貨幣単位として、両、分、朱、文があり、交換レートは

  1両=4分 1分=4朱 1朱=250

である。また通貨種類は、金貨、銀貨、銅貨であり、換算は

  金貨1両=銀50-60匁=銭()4000

である。

 

<1> まず、貨幣価値の試算のために、両よりも文の単位で庶民の暮らしで実際の経済活動を評価し検討する。まず両を文に替えてみる。これも、金相場で市場変動していたとされているが、一般には1両は江戸時代を通して4000文としておくことができる。実際には時期によって以下のように変動していた。

  江戸初期では 2000文、

  江戸後期では 6500

  江戸時代全体としての概算値 4000

 

<2> ここで、日常生活を今と昔とで比較する。例えば大工の給金(日当)は銀5匁4分であり、いまは1.5-2万円程であるので、1匁(=100文)=2500円程といえる。(1文=25円)

 また、蕎麦1杯の値段は元禄時代では8文であり、今では500円相当であるので、1文=70円程ともいえる。こうしたデータにより、生活実態の昨今比較からは

1文は30円程

が無難なようである。

これより、上述の換算で1両を4000文とすると、

1両=120,000円(12万円)

となる。

 ちなみに、時代劇TVを見ていると、ナレーションで110万円、千両は1億円と言っている。番組制作者も上記と同じように試算していたのである。上記試算は、「武士の家計簿」とかいった文献を整理したHPを参考にした。

 

5.3 米の価値

<a> 両換算

米の価値を貨幣で計ってみよう。米との換算では相場変動はあったものの、下記の数値がある。

 1両=4石

 1貫=25石=3750kg

 石の単位で整理すると、

    1石=0.25両=12万円/4 =3万円

現代の1石は6万円であるから、3万円は低いとみることができるが、当時と今とでは生活水準の違いの問題もあるので、3万は妥当な数値であろう。しかし、研究者によっては、1石=1両=1万円という説もある。

<b> 貫換算

 TVでは明智光秀が信長に最初に仕えた時のギャラは2000貫(5万石)だったという。

 

5.4 明治時代の貨幣

明治初期には 1両=1円 で交換されていた。本来ならば、先に述べたように112万円として1両1円のレートにはなっていない。幕末のころはインフレで物価高騰のため、両が大幅に低く評価されたのであろう。

 公務員給金やそばの代金など生活実感から割り出された一般的なデータにより、円について価値の時代的変遷を記すと;

  明治の1円 = 2万円 

明治前期1円

=明治後期2円

=大正~戦前4円 

=昭和30年頃2,000

=現在の20,000

 

 

6.近世の生活

6.1 士農工商の各階層の取り分

 江戸時代の人口は3000万人といわれている。当時(例えば元禄)の石高は2500万石ほどといわれている。これより、1石は1人でなく1.2人までいけていたということができる。

 さて、士農工商、全国における各階層の生活を石高でわりだしてみる。

税率を四公六民とすると、武士の取り分は2500万石*0.41000万石であり、農民の取り分は1500万石である。

当時の人口構成は

士(僧侶をふくむ)=7%  =175万人
農(漁をふくむ)=8376%=80% =2000万人
工=47% =5%      125万人
商=610%=8%      =200万人

 武士一人あたりは、1000万石/175万人=5.7

 農民一人あたりは、1500万石/2000万人=0.75

 農民の場合、庄屋の取り分が多いので、小作農の農民は食うに困っていたということが数字でも理解できる。なお、1石が3万円とすると、武士の場合5人家族なら、5.7*3万円*5人=90万円という試算である。当時の消費水準が低いので、今との比較はできないが、上流階級の目安値はそんな値であろう。これに対して小作は、上流各位の1割もないので貧乏この上なかったであろう。

 

6.2 給金と家臣

 前述のように1石が1人分の年間米消費量である。1万石大名なら1万人を召し抱えるかといえばそうではない。よく戦国の世で兵士を集めるときには、1万石で200人の兵(家臣)を雇えるといわれている。一人あたりにすれば、50石となる。家臣一人には家族が6-8人とすると、食料としての米だけでも10石、米以外の食糧で10石、衣料や贅沢で20石、ということではなかろうか。なお、足軽のような家臣ならば一人5石といわれている。足軽は、家族で米を食べるだけに近い生活であったことであろう。

ここで歴史上の人物の給金を見よう。勝海舟の家は旗本の40石の給金であった。今でいえば年収40*6.3万=250万円である。確かに苦しい生活である。彼は37歳なってやっと400石取りに出世して年収2500万円の給金となった。

ところで、大名は何人の家臣を抱えているのであろうか。100万石大名ならば、1万石200人の換算で2万人ということではなく、家老やら組かしらなどの役職人間がいるから、家臣総数は1万人から5000人といったところではなかろうか。(後出)

 

 

7.大名の資産、県域の基礎力

 大名といまの地方公共団体と比較してみたくなった。そこで、石高を中心にして大名の規模を推し量ってみよう。

(1)    人口

江戸時代の初めのころ(1500万人)に比して江戸時代終わり(明治の初め)には人口は2倍になった(3000万人)といわれている。明治初期1873明治6年では、人口は

全国  3,340万人

富山県域 62万人

富山城下 3.3万人

(江戸時代1.7万人,平成合併前20万人)

金沢城下 12万人

(江戸時代13万人,平成合併前30万人)

である。江戸時代初期は明治時代の半分として、富山県域では30万人いたということになる。今の人口の3割である。

 なお、人口については石高からも次のように試算できる。富山県域では55万石であり、1石1人とすると、圏域人口は55万人であり、実数の62万人とはよく合う。

 

(2)    石高

大名の試算を算定する。1万石大名なら

1万石=2500万両=3兆円

となる。これは大名と領民との資産である。大名は税率四公六民として、3兆円*0.4 で1.2兆円となる。これを安いレートで 0.5兆円という研究者もいる。

 1万石=1.2兆円 普通のレート

    =0.5兆円 低めのレート(低すぎる)

ということもできる。

 加賀120万石について算定しよう。 

120万石= 360兆円 普通のレート

= 60兆円 低めのレート

 富山藩10万石では

    10万石=12兆円

5兆円(安すぎ)

富山県域全体ならば、

    55万石=51兆円

13兆円(安すぎ)

     (富山藩10万石、新川・砺波35万石)

であり、結構な石高である。

比較のため、現在の富山県と富山市を例に出す。2015年度決算額は

県:7,500億円オーダ  市:1,670億円オーダ

であり、県と市を合わせて1兆円ということになり、時代そのものが違うのは当然にしても、昔の藩は結構裕福な運営をしていたともいえる。

 

(3) 次の家臣数に着目する。大名に家臣がどのくらいいたかの資料が少ないようである。前述のように1万石200人の家臣が一つのレートによれば、富山県域として砺波や射水、新川と富山藩とを合算すれば、

    石高 = 55万石

    家臣数= 11,000

ということになる。しかし、一つのデータとして赤穂藩では5万石で300人+江戸詰め100人程としても400人家臣であり、1万石200人レートの1000人家臣の4割であり、しかもこれが多いとされていたという。よって、安定期の家臣レートとしては

1万石50人家臣

が妥当なところであったのかもしれない。これでもって家臣総数は

    富山県域 4,000

となる。今の富山の場合、自治体の職員数は、

県:15,000人オーダ  市:4,000オーダ

であるので、県と市を合わせれば2万人ならば、1石200人家臣のレートに近い数値となっている。

 

 

8.人口

(1) 意識の高い人の散在率

いつも気になるのが人口である。日本の人口は1億人、その1/100が富山県の人口100万人である。そのまた1/50が私の住む上市は2万人である。

富山県上市町には地区130数年の著名な山村の古民家がある。これを守るファンクラブがあるが、特に熱心なのが他府県の3名である。彼らは地元に熱心な方がいないといっていたが、熱心な方が全国1億人のうちの5人なら、地元の街では1/5000の比率(1/100*1/501万分の2)でいけば、0.0002の比率をかけて0.001人ということである。地元だから関心が増すということではなく、時間を割いて思いを入れ込むということは地元でもほとんどみられないということであり、逆に関心ある人は全国均等に散在していると考えた方が合理であるので、この種の(街おこしなどの)問題は全国展開の問題と捉えるべきなのである。

 

(2) 地域における人口

世帯数と人口について、わが町とわが県のデーターをみよう。

町では1661日現在

10,221人  女 11,141人  計 21,362

世帯数 7,905世帯

   (人口2万人、世帯数8000、 世帯1.5人)

  県では201661

   人口106.3万人、世帯数39.4万、世帯2.70

 わが町では世帯人数については高齢化のため県の平均を下回っている。世帯人数が2を割るのは一人暮らしが多いためである。この種の問題について経時変化のデーターも沢山発表されているが、いずれはどこかで扱うことにして、ここでは扱わない。

 

 

9.生活史、土地

 土地は誰のものか。原始時代では村のものであったが、律令時代に入ってからは、土地は権力者のものとなった。その後、権力者が種々変わり、近代になって土地は農民のものとなった。

 現代では、貨幣万能の時代に入り、土地が商品となり投機の対象となってからは、物価高騰の原動力にもなった。

 宅地についていえば、戦前までは、住宅は家あってのもので、土地は付属といった捉え方がされていた。しかしながら、戦後に入り、住宅難による宅地開発と投機マネーの流入が結びついて、家よりも土地に資産価値が移行し、物価が狂乱状態になったことは記憶に新しい。

 

10.生活実感

 生活を実感するのはどんな時であろう。自分がある程度、年を取っていて初めて体感する。その意味では、すべてが歴史的行為ともいえる。みていこう。

(1)    ルーツ、振り返り

 人間長く生きていると、昔をふりかえり、若いときや中堅のときを振り返り、生活を省みることがままある。地域の移り変わりは原風景の変遷として捉え、若かりし頃への回想には自分のルーツとか原点とかを見ることになる。いずれにしても、歴史を垣間見るときに、どんな思いで見ているかが歴史の関わりそのものである。これをもって生活実感が多面的に実感できたということになろう。

 

(2)    実感 

歴史というか時間の流れを感ずるのは(感じさせられるのは)やはり給料と(自分の)子供であろう。

 給料でいえば、1970年代では初任給が5-6万であったが、そのうちどんどん上がって、その時代の初任給も20万円とアップし、また70年代から働いていた人には(多くの方々には)40-800万円となっていた。その後のリーマンショック以降、給与体系は変わらず、2016年代に入っても実感は変わってはいない。といったように、歴史がもろに自分の生活に入ってくる。

 次に、子ども。これは子どもの成長とともに、時間経過を実感し、我が家の歴史は子どもによって刻まれるということである。自分が結婚して、子どもが誕生。子どもは、小学校に入り、中学校に入り、高校に入り、大学に入り、社会人となって、結婚。孫が誕生ってことである。そんな時間の流れで、リーマンショックや就職氷河期やら、といった社会歴史が割り込んでくる。わが家の歴史と現代史がダブルことを実感するしだいである。(時には翻弄されることもある。)

 

 

11.人物史

 歴史は事の歴史ではなく、人物の方が面白い。戦国時代に登場する人物は、歴史ファンでなくてもよく知られている。その一方、郷土に地味に貢献した人物はあまり知られてはいない。富山では佐々成政や前田の殿様の名前が出ても、現代の人物として、(経済人の)大谷氏、金岡氏、とかいっても知らない方ばかりである。

 なぜであろうか。要は、経済人や技術者では名が残りにくいということであり、その意味では為政者が何かにつけて知名度が高いのであろう。このため、県知事や地元の首長くらいの名前は結構知っており、選挙もあるから、その意味では主権者として為政者とはつながっているともいえる。

 

 

 

12.おわりに

 生活実態に着目すれば、歴史的に生活の実像化が可能となって、ひいては歴史と日常的認識そのものという気がしてくる。また、貨幣数量に着目して歴史の縦断的な流れを把握するなら、時代を読むことさえ可能となってくるといいたい。

TV時代劇の鑑賞を例にあげれば、過去へのタイムスリップで我ら時代を堪能していることになる。そこに、1両は今の何万円といったナレーションで当時の生活水準を把握することができれば、より昨今の社会の比較というよりも昨今社会の同時体験が可能とならば、歴史がますます身近なものになってくるものである。ここではそのうちの生活に視点を置き、歴史の面白さを郷土史の在り方について歴史を論述できた。これをもってまとめとしたい。いかがでしたでしょうか。

 

付記:執筆者はもともと歴史ファンである。繰り返して言うが、TV歴史ドラマでは、何万両は今のいくらなのか、100万石はどのくらいの大会社なのか、といったことを思いながらいつも見ている。そんな思いの下地を数量的に準備したいと思ったのが、本稿を書くきっかけである。書いてみると、なかなか奥が深い。磯田さんの「武士の家計簿」という本ではないが、当時の生活が垣間見られるから不思議である。そんな思いをもって後書きとする。

 本来は人の生活をつぶさに見たかったが、まずは米の話を第一とした。それでも、大人や子どもがどんな生活をしていたのかなあ、子供はやっぱり飴玉をしゃぶって遊んでいたのかなあ、いやいや野良仕事で多忙だったことでしょう、想像は膨らむばかりある。

 最後の一言、時代劇を10倍楽しく鑑賞しましょう。

 

追記2:この冊子を何人かの友人に見せたところ、感想を寄せていただいた。

(1)    忠臣蔵や水戸黄門といったドラマよりも、武士の家計簿のような真実の記録の方が歴史の謎を解くカギになる、って指摘しておられた。編者は力づけられた。

(2)    歴史ファンにはとてもおもしろかった。(続編で?)当時の人々の生活実史を、といっておられた。理由は、現代の生活の歪み具合を時空間から検証をすべき、社会学的人間関係構成論を検証すべき、ということのようである。編者はまたまた力づけられた。




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