農業

農業本流の今後を念頭に農業の現状を語る、エッセイ126

2015.08.23 農業本流の今後を念頭に農業の現状を語る、126

1.はじめに  150803に書く

 農は文化であり生活の基本であるだけに、農の安心・安全、味、などの面で、皆さん関心が高い。一方、農の議論については、自然体験、農林体験、農業体験として結構な取り組みが各地でなされているにもかかわらず、一般の方を交えた討論が極めて少ないのが現状である。

 これをどう見るのか。産業としての農業について、一般の方が問題として意識する事が少ないためか、関心のなさが目立つようにとれる。農業は趣味の次元であればとっつきやすく、職業となるとそうでないということなのかもしれない。

 そんな状況のもとで、農の安全安心を如何に確保していくのか、大きな問題に我らは今直面している。

 ここでは、主に米作に焦点を当て、農の実状を概観し、どこにどんな問題があるかを整理することにした。もちろん今後に向けての方向性をも織り交ぜて述べることにした。これをもって、農の問題を市民とともに解決するための糧としたい。

 

2.市民の農への関心

 人が集まれば、多様的でいい意見が必ず出るものである。農についてのある会合では、以下のような声が出た。「食の安全、ビオトープ、農によるコミユニテイ再生、自分での栽培が一番、農がどうなる」などである。これらの声を少し理屈っぽく整理すると以下のような三つのカテゴリーに分けられる。一つ目が生産から販売まで、二つ目が本来の農業とは、三つ目が安心安全。

 以降は、このわけ方を念頭において議論を構成したい。

 

3.米の消費

 我らは、どのくらい米を食べているのであろうか。米の消費について、成人1人が1日3合(ご飯茶碗2杯で1合(180ミリリットル、150g))の米を1年間(333)食べるとして、1000合。これが二俵半であり一石(180リットル、150kg)である。たが、今ではその半分の量だという。

確かに、食生活が米中心から多様に変わった。食事では、米よりもパンやうどんなどの麦が主になりつつあり、加えて穀物主食が副食中心へとかわってきている。いわれてみれば、朝はパン、昼はうどんやそばにハンバーガなど。夜だけは米食という、そんな日常である。

 ところで、市民側の出費をみよう。安い米であれば、10kg3000円、昔のように1石を平らげれば4.5万円。最近は、米を食べなくなってきているから、2万円ほどか。これに合わせるがごとく、生産者米価下落し、今では1石2.5万円ほどという(後述)。

 

4.農業政策の変遷

 農家の現状、国の農政の変遷を見る。

(1)農業の現状、耕地面積と収入

 耕地面積でいえば、大きい農家といえば1ha(100a,1町)の農地であり、小さい農家は10-50a(-5反)である。なお、1haの数値は戦後の農地改革で制定された地主の耕地面積である。

 次に収益をみよう。生産者米価は下落していて、今まで一俵(0.4)23万円が今では1万円ほどである。また、米の生産量は10アール(1反)当たり平均600kg(場所によっては500kg程も)であり、米価にして8万円程度である。

 耕地面積2反の農家では、米価収入は16万円である。耕地面積1町の農家でも80万円のオーダーである。これに、農薬や農業機械のリース料を支払えば、純益はおして知るべしである。1町の耕地面積でも食ってはいけない時代が続いている。

 

(2)農業経営強化

 日本の農業をもっと強力にするためにということで数々の政策が実行された。60年代前半には耕地整理(小さな水田を寄せ集め50aほどにして一枚の水田にし、しかも水田道路も直線)が行われ、10年代前半から、事業主体が共同化して営農組合と言う企業体に変わった。いまでは、大規模農業を目指して、かつてない程の効率化を図っている。

(3) しかしながらいかんせん米離れが進む一方、外米が入ってきて、米余りはかつてないほど著しく、生産調整では対処することができなくなってきた。併せて、国は工業優先政策を進めており、農業にも市場原理主義を当てはめようとしている。その暫定的な期間として農家救済として補助金支給があり、これで曲がりなりにもやってこられた。しかし、h27年度には、これが打ちきりとなり、(国は)辞めたい人は辞め、作りたい人は勝手にどんどん作り、市場経済で勝手に生き残ってくださいという。

(4) 農政の一般人への啓発が(あまり)なかった。一般人には農政がしっかりと説明されてはいなかった。食管制度についても、なぜそれが必要なのかを説明を十分にせずに制度を廃止した。そのときは、消費者に安い米が食べられますと国は説明をし続けた。

 その後、農作物の(輸出入)自由化や米の輸入についても、(国は)農家つぶしを念頭においてとにかく安く食せますとして説明していた。そして今度は(国は)TPPを利用して農業をいよいよつぶしにかかっている。

 こうした姿勢は、補助金についてもいやらしく現れている。農業の補助金について、都会の方から「俺らも一生懸命働いているにもかかわらず補助金はもらっていない。なぜ農家がもらえるのか。」という声が湧き出るようにして、国は労働者と農業人の間で足を引っ張り合わせ、農業つぶしを図っているとしか思えないのである。

 

5.米について 

(1) 米作に適す日本

もともとは湿地帯にて生育する熱帯の植物である米は、湿地帯の作付け可能な上に、割合生育が早く、大量に生産できるとあって、(全国)各地で根付いた。しかも、品種改良によって、寒い地域にも作付けができるとあって、高温多湿の夏をもつ日本ではうってつけの穀物である。

 ちなみに、米作に対して畑作は、乾燥した土地が必要である。しじゅう水のある土壌では畑作作物が腐ってしまうからである。

(2) 特定銘柄の生育

市場で売る銘柄はコシヒカリやササニシキと呼ばれる銘柄である。味が良く、穂に実をたわわにつけるとあって、商品価値が高い。

これは、品種改良あっての成果である。一度、これらの銘柄が全国を席巻すると、今度は雑種の排除に余念がない。すなわち、水田では特定銘柄一種類のみを育て、雑種が入らないように、純種をまもって商品価値を保持しているという。

我らは稲なら特定銘柄しか育たないと思うくらい単純に生育を考えているが、農業人は上流にある水田から下流に向かう流れに乗ってくる雑種をもチェックするという。

 

6.農薬と除草剤

 今の農業で問題は、農薬と肥料にありといえる。

A.農薬

 昔は雑草を機械的に土内部に押し込んでいたが、この作業を省くために、除草剤散布にかわってきた。その後、食の安全の立場から農薬を必要以上に使用していることが大いに問題となった(今でも問題である)。これまでは、作物に含まれる残留農薬が米ぬかになって、精米のときに除去できるとされていた。もちろん、精製した後にも残ることはいうまでもない。要は依然として危険な状態にある。そうであっても、収穫量を増やすためにやっていることである。

以前に、オイルショックのときだったろうか、諸物価高騰を受けて農協が農薬の散布回数を減らす指導をしたところ、確かにウンカが増え、家のなかにも入ってきたが、それでも収穫量は以前と変わらなかったという。ということはこれまでは必要以上に農薬を使っていたということである。

 その後は、また散布回数を元に戻して、ウンカのいない田舎になってしまった。理由は、水田に草が生えるとその分だけ稲の収穫量が減り、味にも影響されるからという、あくまでも生産量確保のためである。

 ちなみに、外国から輸入している農産物は、防腐のために農薬付けにしていることを述べておく。こんなことで、国民の安全をまもれるのか、無策に近い国の農政を憂うばかりである。

 

B.肥料

 もともと、肥料は農作物にとって栄養補給の意味がある。作物を育てていくと、土地がやせていくので、栄養分を補給するのであり、昔は人糞や堆肥をふんだんに供給していた。

時代が下り、手間隙をかけられない世の中になってくると、当然人工肥料が代役となって、いまは農作物について如何に成長を早めかつおいしさ(糖度)を向上させるかを念頭において人工肥料万能時代に入っている。 

 さすが技術はすごい。そこでも手間隙かけない方法を考え、これまでは人工肥料といえども、補給は成長に合わせて何段階にも分けていた。ところが今では、肥料はカプセル状になっていて、肥料散布を一回にして、第一段階に効くもの、第二段階に効くように、時期が来るとカプセルが溶け出すようになっている。まさに省力化に技術が貢献しているのである。

私に言わせれば、技術者や一部の農業人にそれで越にいって大丈夫ですかといいたい。とにかく、手間隙掛けない風潮がすすんでいる。いきつく先は、農作物の工場生産になるのではと。本来、農は大地のもと自然の恵みを一身に受けて、農業人と自然との交流にあるのに、技術者は分かっていないと思う次第である。

 

6.本来、農業は手間隙掛けて

農業には、土と水があり、そこに太陽があり、そして毎日手間隙をかけて育てる姿勢が必要である。しかし、今の日本では専業農家は極めて少なく、後は兼業農家である。このため、農業は爺さんばあさんの仕事ということになる。よしんば若い方の出番となっても農作業は週末のみであり、やる気のある若い農業人でも「天気のいい日、何で一日中田んぼにいるのかって思いますし、早く家に帰りたいという気持ちもあります。」と語るくらいに苦悩が続いているのである。

 

7.昔ながらは時代遅れなのか

 昔ながらの米作として、二点、指摘したい。一点は、はさ掛け(田んぼで架構を組んで刈り取った稲を逆さにして天日で乾すこと)の米はおいしい。茎にある養分が米粒に集まるからである。今のコンバインで穂先を刈り取るのではおしさはいまいちである。

 第二点は、乾燥も天日が一番。電気乾燥も遠赤外線を使ったりしているが、いわば米を痛めつけてることには変わりはない。

 とにかく、昔ながらの米がおいいしいのは、手間隙かけるからといえる。それを人工でカバーする必要はない。とはいえ、大量生産するにはどうすべきか、問題は残る。そこに機械力や効率優先に頼らない自然を愛好する英知を期待したいものである。

 

8.農家

 農業では、作る人、加工する人、販売する人、と分業している。つくる人はどちらかといいうと職人気質であり、作ることが何よりも楽しんでいる。

 そんな農の世界にもかかわらず、国からは農家は経営センスを持ち市場経済に参入せよ迫られている。他方、そんなことを横目に農の経済的なところにはブローカーが入ってきている。作物を商品化して市場経済で売りさばき、利益を追求ということである。彼らは、それが農業のためというが、果たしてそうであろうか。市場経済の農業を落とし込めての利潤追求に農業の将来展望など語れる訳がないように思える。

 

9.有機農業について

人工肥料、農薬、除草剤を一切使わない農業である。手間隙かけて育てることにより食の安全性を確保し、味を提供するので、すこぶる人気が高い。しかし、人工的大量生産に比べて収穫量は一般に半分程度しかなく、しかも一般の販路では小売りにはならない。そこで販路を開拓して、食の安心安全をもとに、消費者を募るのである。有機の皆さん、結構楽しくがんばっておられる。

 ちなみに、穀倉地域でも、農家全体の1パーセント程度の方が有機農家である。

 

10.自然農業について

 自然農業は自然のままに栽培しようというものである。雑草も無理して除去しない。雑草と共存する米を作るのである。収穫量が落ちても自然の過程での生育であるから、自然の味が楽しめ、しかも安心安全である。

 

11.消費者にとって

(1) 安心安全な作物について、自然農業や有機ならいざ知らず、安心安全を担保した食をとるならば、自分で作るのが一番である。農業人は家庭菜園でやられるのを奨めておられる。

都会でも、多くの農愛好家が郊外に家庭菜園を持って週末農業を楽しみ、収穫作物の味わっておられる。

(2) 消費者が作物を購入する場合、消費者は何を考えて購入するであろうか。まずは価格(安い)が前提であり、次に、一番が形、二番が味にこだわるという。ここでは、価格は別の機会にして、形について考える。

形については、形が悪ければ規格品外の扱いとなってしまう。売れないからである。例えばきゅうりが少し曲がっていて何が困るのであろうか、消費者教育の必要があるといえる。また、そんな雰囲気を作り出している社会常識を変えていくことも検討すべきであろう。

 

12.ほか

 私は市民の方、農業人と議論している。いくつかの面白い話を紹介したい。

・病院では、食の安全を一番傷かっているように思うが、実際にはどのくらい関心をもってしているのであろうか、気になる。逆に言えば、偽ブランド米など偽証の製品が出回っていることが多いこの世の中、偽りにひっかからないで欲しいということである。

・米が余っているのにもかかわらず、なぜ農家は米を作るのかって、いう人が多い。農家は、米を作り続けるしか生きる道が用意されていないのである。

・工業製品を売って農業作物を輸入に頼ればいいと言う方が依然多い。なぜ、自国の安心安全な食料を食すことを考えないのであろうか。

・TVドラマで限界集落株式会社があったが、ああいう話は身につまされたどこにでもある話である。ドラマ制作では、状況考査は当然されているとのことであるが、デイレクターが脚色することもあり、所詮は、TVドラマということのようである。

・最近、農業の起死回生の一発として、観光農園と直販所をセットにして、テーマパークのような要素も取り入れている。結構、多くの方が来場している。例えば、石川県河北潟の大規模農地では、観光農園と直販所を設け、ひとつの農のあり方を実践している。

・農についての新しい取り組みは、大いにやるべきである。しかし、農に関する文化を守り育てることを忘れてはならない。得てして、新しい土地組は市場原理を受け入れて、農の根本を変えることにもつながるからである。

 

13.おわりに

農業について、これまでの農業が時代に対応しなくなってきているといった政財界からの圧力により、本来の農業がかなり危機的状況にある。こうしたなかで、新しい農業の取り組みとして、農業体験の場や直販所、ネット販売、都会での直送販売などが実践されて、それなりに成果を上げている。しかしながら、これらは、どちらかといえば個人ベースのものであり、少し規模を大きくして営農組合レベルとしても観光と即売だけでは、本来の農業を支えるものではないことは言うまでもない。

そこで、農業に関する種々アイデアの実践といった次元ではなく、日本国全体の農業について抜本的な対応が必要であるとして、ここでは問題提起の意味を含めて農業の実状ならびに問題点を列挙して農業全体として解決の糸口を模索してみた。ここでの議論が今後の展開にむけて大きな糧になればとの思いである。

なお、本稿は多くの農業人との語りを自分流に構成し、私見をちりばめたものである。今後への展開も考えたい。

最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

 

農業のあり方、農業技術や体験の取り組みについて雑感、エッセイ125

2015.05.04、農業のあり方、農業技術や体験の取り組みについて雑感、125

  まえがき

最近、中山間の農村を守るためと称して農林行政やボランテイア団体などが著名人を招いての講演会や農業従事者による実践報告会が結構頻繁に開催され、関係各位の参加で多いに賑わっています。しかしながら、そうした企画が目白押しの割には、世の中へは今ひとつ伝わってはいません。農村の方々が農業体験の企画をしたり、グリーンツーリズムの方が頑張っていたりしていても、です。どうしてそうなるのでしょうか、ここでは農の問題をもっと大きな社会全体の視点で捉えて検討することにします。

◆ アプローチ

 農に従事する皆さまの活動を知れば知るほど、有識者がいうように「行政との連携・都会との連携」や「活動の応援・支援」といった枠を超えた取り組みの必要性を感じます。私は、活動の応援や支援については、NPOや市民団体の活動の活発化を期待するとともに、専門家及び専門分野の役割と生活における意識を問題にしたいと思っております。(ただし、行政との連携や都会との連携には問題多しという意見があることを付記しておきます。)

◆ 展開

ここでは専門分野として農業技術分野と教育分野をあげ、農の問題について述べます。

(1)農業技術分野 

 農業の技術分野(教育・研究をも含む)では、遺伝子組み換えや水栽培の技術開発が盛んです。特に水栽培は作物の工場生産に道を今以上に開くとのことです。しかし気になることもあります。それは農業技術が脱土壌を目指していることであり、社会に対しては土との無縁化を結果的に進めることにつながる可能性があることです。

 これに対して農業技術者は肥料や農薬開発さらに農業土木的支援もやっているではないかという声も聞こえます。それはそれで結構ですが、技術がもっと今の農業の良さを支援するようになればとの思いを持っています。例えば素人的考えですが、(糖度アップの技術は目を見張りますが)農作物にどれだけ栄養価や安全性の面からアプローチがあってもいいように思います。また開明的な専門家がもっと増えることを期待したいです。あくまでも素人考えです。

(2)教育分野

 農の方は多くの方々に自然体験・農業体験されることを希望しておられます。私も、学生さんに自然体験・農業体験をしていただくことには大賛成です。そして、そこに教育系の大学人や学生もぜひとも加えて欲しいものです。私の目からはどうみても彼らが自然体験や農業体験に理解を示しているとは思えず、(幼保を含めた)教員・指導者の養成教育では、自然体験等がカリキュラムに盛り込まれないことが多く、そこを通過して世に出る若い方々はまるでダメというのが実情です。そんな方々が幼児園や小中学校で教育に当たるのですから、自然を理解や親しむ子どもが日常的にも育たないのは当たり前となります。事実、幼保施設を視察しても、自然との戯れや土との接触はきわめて少ないです。

 また、こうした傾向は行政にもみられます。例えば、某県の子ども遊びの関連施設では室内砂場をつくり、そこにコーテイングした外国産砂を入れて、砂が手に付着しないし水を使わず整形できるとあって、管理者はしきりに汚れない砂場を誇っていました。自然について勘違いもはなはだしい事この上なしです。

 以上、自然の無理解や意味の取り違えの方が増えないよう、農からのアプローチに期待したいところです。

(3)専門分野としてあえていえば生活分野という枠組みかと思います。生活の視点でこの問題を考えてみます。

 農村と都会の連携や、子どもの自然体験・農業体験も大賛成です。しかしながら、農業体験の目玉であるグリーンツーリズムが「ままごと遊び」とたまに揶揄されるように体験活動がまだまだこれからという感がしてなりません。これは、ひとえに、体験後のケアーが視野に入っていないからでしょう。確かに、外部からの訪問者にとっては、農村での体験を非日常のイベントとして楽しんでおりますが、実はそれで終わっているのです。(これは街づくりでも一緒のことです。) 本来はそこでの体験が訪問者各自の自宅や自分たちの地域で生かされて始めて意味をなすと考えます。すなわち、都市生活の中に農の生活が入り込み日常化するということです。

 ではどうするか。都会に自然や農のファンが増えるだけでも御の字ですが、最近あちこちで見かけるようになった街中農園もさることながら、都市生活の中で土と戯れる場を自宅でも地域の公園でも確保し営むようにすることです。具体的には皆さんの知恵に期待したいです。なぜなら皆さんの自然発生的な自然発想を大事にしたいからです。

 ちなみに私は、砂場とともに土場あるいは泥こね場があるべきかと思っております。土イコール農という図式で、農が息づくかと。それにもうひとつ、農村の方が都会に作物を持って行くなら是非土も一緒に持っていって欲しいものです。泥のついた野菜を(子どもが)みれば、野菜は店屋で金を出して買うものということではなく土あっての作物という認識にかわっていくかと思います。そしてなにより農と土の匂いを都会に届けることにより、生活環境がより自然になって行くかと存じます。

◆ おわりに

 以上のように専門分野の役割、専門家の役割を垣間見ました。その背後には、「人類文化の源は農であること、それは土が支えていること」を今の高度技術文明社会だからこそ社会が再認識する必要があるのかもしれません。そこまで立ち入らないと、専門家が問題の根幹に入っていけないのかもしれません。そういえば、いろいろな専門分野でも文化という言葉がでるようになってきました。ならば、専門家にもう少し踏み出して、と声援を送る次第です。

 末筆になりましたが、農の現場について一言。方々には頭が下がるばかりです。皆さんの活力が農の応援・支援の世論を今以上に喚起することを望んでおります。皆さんの活動がもっともっと広まっていくことを願って、終わりといたします。

 ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。

 

 

 

 

 

農業の問題について、地域に根ざした生活関連の諸問題(9)、エッセイ88

2014.06.02 農業の問題について、地域に根ざした生活関連の諸問題(9)88

 農業の問題として、コミユニテイから論及する。

  9.1 農業の根幹にコミュニティの理解要 11.08.31

  9.1’農業の根幹にコミュニティの理解要(一般市民向け)11.08.31 

9.1 農業の根幹にコミュニティの理解要       11.08.31

「農業は生活の営みを支える基盤として大いに市民生活に貢献すべきものである」と考えて、今日的「農業」に関する問題について、文化や教育の視点からここで議論する。

 農業をとりまく状況は、近年のグローバル化に伴って一段と厳しさを増している。「農業を犠牲にして工業を優先する」とか、「農作物は安い外国産を食せばいい」とか、「農業も近代的センスを身につけ商業として再生を」など、農業の根幹が日に日に揺るがされてきている。あたかも、農業は時代遅れといわんばかりの風潮が作られ定着しつつあるのも現実である。
 一方、そうした動きに対して、「治山治水として林業・農業を育てよう」とか、「風景や文化は農業にあり」などの声が急速に大きくなっている。これは、安易な経済至上主義で人間生活の空間が損なわれてはいけない、とする論調のものである。最近では、国民全員に啓発する意味で、「都会と田舎の連携」が叫ばれるようになった。これは、都会の方にもっと農業を知っていただくためにとにかく田舎に着て農業体験をしようというものであり、グリーンツーリズムもそのひとつである。
 私は、「農業の抜本的活性化は市民が身をもって理解を深めるところにあり」と考え、「都会と田舎の連携を地道に実らそう」と思っている。それだけに、そうした連携をもっと促進する意味で、田舎から都会へのアプローチを提唱したい。確かに都会の方が田舎に来て種々体験して気も心も自然体になって帰っていくのはいいが、それで終わるということは如何にももったいない。そこに何らかなるケアーがあればと思う。またもうひとつ。田舎から都会に出かけ、田舎のいいものを都会に植えつけることである。都会にビオトープを持ち込むのもあり、小さな菜園を持ちこむのもありだが、もっと何かを持ち込みたいものである。
 私は、加えて田舎人の気質に着目したい。とにかく、閉塞感漂うこのご時勢では、生命が軽んじられ、自然の恵みが軽んじられているように思えてならない。このようなところから、人間の絆もなかなか育まれようがないではないか。最近、まちづくりとしてコミュニティを大事にするようにはなって来てはいるが、肝心の家庭のコミュニティが育っているとはなかなか思えない。家庭には食生活が日常習慣化されて健全なものになっているのか、大いに疑わしいだけに、そうしたところに田舎人の気質が伝播し、ひいては農業の根幹が大いに理解され実践されるものと思っている。
 目の前で植物が育ち、恵みを授かることこそ、人間の営みの根源である。こうしたところから、文化が生まれ、風景もまた文化の素養を兼ね備えていくのである。そして、地域全体が人づくりの場と醸成していく。
 このような視点で農業を大いに議論し、農業を農業従事者で無い我らが積極的に見守っていくことこそ急務と考える。これを皮切りに、農業のかかえる諸問題に対して解決策を見出したいものである。

9.1’ 農業の根幹にコミュニティの理解要 (一般市民向け)
 「農業のコストが高いから外国産のものを」といった安易な選択ではなく、「なぜ農業がわれらの生活のベースとなりうるのか」を今日的に考えていきたい。
 農業について、自然を保護してしかも生活の恩恵にあずかっているのは農業である。よくいわれているように、農業の相手となる木や森、水田自然林は平地や山を守り、空気の浄化や景観までをも提供してくれる。そんな自然界の営みが市民にとって見えにくくなっているのがこの世の中であり、すぐに経済原理にのっとってコストだの何だのの議論が多い。こうした問題は、実は、われらの生活をどうするかにかかっているので、その観点からの論考が待たれているのである。
 そこで、「自然保護として農業が一番」といいたくはなりがちであるが、ここはそうでない状況を踏まえて今日的な対応を必要としているのである。
 今、グリーンツーリズムで、農業をもっと知っていただこうといった企画が多く見られる。もちろん、やらないよりは、やったほうがいいのは当然である。しかし、それで十分かというとそうではない。今、街中ではまちづくりなど多岐な運動が展開されている。これに対して、田舎や山の地域では、観光資源としてのみの扱いである。研究者によると、生活観が影響を受けるのは、最低4日間は必要という。ならばだめということか。という声がでてくるが、そうではなく、都会においても農村の雰囲気を楽しむようにすべきである。こういうと、すぐにビオトープや仮想ビオトープといった声が聞かれがちであるが、そうではなく、自分の住まい、自分の部屋、などに生き物としての植物をどしどし置けばいいのである。生命をいつくしむことによる植物からの和みは、生活をうるおわせる。ひいては、都会も田舎も一緒、植物大事の雰囲気がつくられよう。そうしたところでもっと頑張ることにより、農業の理解へとつながっていくと考える。
 


 


 


 


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