2018.06.25 災害報道におけるジャーナリズムについて雑感、172 

1.はじめに

災害の報道では技術的クオリテイを高めることが必要として報道側と技術側のタイアップ必要といわれ、その地域でも両者合同の勉強会が催されている。いいことではあるが、報道の根源的な使命も貫徹していただきたい思いもある。そこで、両者のタイアップは如何にあるべきか、報道側の姿勢を中心に技術サイドから論じてみることにした。なお、討議の場は、建築系の災害研究のグループが開設する場とし、専門家側は開明的な方々とする。ただし、文中、ジャナリスムとマスコミをチャンポンに記した。

 

2.富山の民衆運動について

民衆運動のパイオニアとして富山の2ケースについて、以下 に論究する。

ジャーナリズムが民衆運動を支援する特徴的な民衆運動として、富山においては越中米騒動とイタイイタイ病 (以後、イ病)の公害病闘争がある。これらについては、すでに終わったのではなく、いまなお粘り強く運動が進められていて、ジャーナリズムが積極的に運動を取り上げており、ここに、最近の取り上げの二点を紹介する。

第一は、201869日に開催された米騒動100 年記念である。フォラムではどのマスコミも米騒動は世の中の不正をただす住民の直接行動として、民主主義の原点と評価していた。

第二は、2018 6 17 日には BS 日テレで 11:00-11:30 に放映されたNNNドキュメント’18「清と濁 イタイイタイ病――記者たちの50年」の番組である。大企業、権力(自治体を含む)側の患者切り捨て行為や 問題の矮小化行為については、(原発の問題にも通じており)ジャーナリズムの役割が説かれていた。

上記二点の本質を繰り返し言えば、「米騒動とイ病」については、富山が先駆的な役割を担っており、ジャナリズムが権力に対し果敢に支援してきたことがつまびらかにされていた。

 

3.ジャーナリズムの在り方

ジャーナリズムは、原発の時と同じように反原発のノリで災害についても切り込むことができるか考える。たとえ災害時でなく平常時でも、社会問題として、超ローコスト競争を容認する社会、価値観の多様化というなかばごまかしの価値観画一化、中立不偏をかかげる問題逃避、などがある。

 ジャーナリズムは災害報道をどう考えているのであろうか。より正確に本質をつかんで報道は当然であるので、そこに専門家の知識を生かすということで、技術とジャーナリズムの意思疎通を図るのももっともなことである。

しかしながら、項目1でも述べたように技術的な分野にのめりこんで市民の立場を忘れてはいけないことは言うまでもない。とくに、災害の人為的な問題(市民の安全性を二の次にする姿勢などを含む)においては、例えば原発事故のような場合にもあるように、明確な市民姿勢が貫けるかどうかが問われている。種々の事に気兼ねして市民側に「なれとあきらめ」をさりげなく強いるようでは大変こまるのである。原発でも、反原発を主張した新聞は(系列社を含めた)1 社のみで あり、他はやむなしの論調となっている。こうしたことが真剣に問われていないならば、所詮ジャーナリズムは単なる映像屋やビラ屋さんではなかろうか、といった論調も耳にする。この点をもっと考えていきたいものである。

 

4.専門系との交流

専門家側は何も社会変革を求めている訳けではない。いまの社会状況のもとで改善をどう図っていくかが考えられており、まずは百家争鳴でいいのではと考えられ、実際にいくつかのグループがそうした行動をとっている。例えば、3.11の話がいつしか9.11の話になったりしても、 間口は広く、奥行きも広さをあるべしということである。

ジャーナリズムの使命は、「権力を監視し、権力から国民を守る」と開明人は言う。ならば、その延長線上で、技術との交流には技術各論の話に加えて本質的な議論を社会問題としてやってほしい。ジャーナリズムはそん な専門家グループと交流を図ってほしいものである。

 

5.市民サイドではこんなこと知りたい

5.1 社会において

市民にとっては、この世の中はどういうプロセスで変わるのか、教育は如何に役割を担うのか、日常の生活の営みはどんなところで意義深くなっているのか、結構知りたいことである。著者もいち市民として以下に思いつくままに少し項目を挙げてみる。

(1)  社会変革のプロセス:

 ・専門体系からの変革行為はもちろんあり。

 ・教育、市民行動等によるものもあり。

 ・ジャーナリズムによる市民への真実伝達

  →社会がそれによって変革

   例として横浜の杭事件等。 国民の社会的行動として力を持つことのよう。

(2)社会問題としての論議の必要性 技術界では、たとえば騒音問題を数値の問題に置き換えてしまうと、数値の論議で終わってしまうことが多い。本来は、騒音は騒音であり、何とかすべきの論議が必要なのに。結局は、数値の問題に置き換え、すぐに金の問題に置き換えてしまうのは、原発のみならず、 どの問題でも同じことのようにみえる。

(3)行政の姿勢:

 ・政治への忖度として、市民軽視、改ざん、隠蔽は当 たり前か。

 ・経済界や地元に気遣う行政。

   文化行政での一部例→  間違った史跡認定を撤回しない行政。

      これに追随する多くのマスコミ。

(4)学協会の姿勢

・中立を決め込む学協会 →問題を避けたがる

   原発問題を例 →原発問題を避ける多くの団体。

          →原発の問題を学協会から分析し

 質の高い知識の提供。

   公害問題  →当該企業はいまだに本質を避ける姿勢。

 追随する自治体。

(5)マスコミの姿勢

・自主規制  →最近気になるのは不偏不党を標榜した自主規制。

    (ごく一部の問題やごく一部の人の事)

 ・市民へは刷り込み役    なれとあきらめの浸透も一部あり。

    教育とあいまって。

 

5.2 災害では

災害要因には、法律の規制緩和、特別措置などあり。これらは、何のための誰のためのものなのか。都市部の容積率緩和は過密都市形成の原因。特別措置はそこそこの被害が発生には目をつぶって経済が回ることを優先か。建築主の安全よりも経済性志向が問題。特にマンション転売では売れることを先決として後は知りませんの考え。何とかしたいものである。

 

6.おわりに

今、ジャーナリズムに求められているのは、報道の具合論よりも基本姿勢ではなかろうか。専門分野におけるジャーナリズムのあり方としては、報道の正確さは当然であるが、社会的な期待としてはやはり国民を守ることである(いうまでもないが)。しかし、専門とのタイアップでその姿勢がかすむようでは困るので、専門家たちの前にも筋を通して欲しいと思う次第である。災害報道に限らず、政治報道についても、真髄を発揮して欲しいも のである。