職業人

建築実務者は今何を思い何を求めているのか、エッセイ95

2014.06.09 建築実務者は今何を思い何を求めているのか、95

建築実務者は今何を思い何を求めているのか
(日常業務を通して、一地方の実務者アンケートより)02.04記
1.はじめに
           

  著者らは次の二つの理由で実務者に着目する。第一に、研究者と技術者との綿密なコミユニケーションは建築学会(以下学会)というスペースにおいても十分に図られている(いた)のであろうか。そういえば、「研究と実務の間のギャップを如何に解消するか」といったことが未だに言われ続けている。第二に、研究や実務がお互いに十分に連携したものとなっている(いた)のであろうか。学会の活動目的である学術・芸術・技術の「発展と普及」のうち「普及」が「発展」に対し、相対的に十分バランスしていないように見える。だからこそ(研究者はいざ知らず)学会は実務者の会員を多く結集できず、また研究に従事した若い人が実務世界に出たと同時に学会を退会してしまうといった現象が生じているのではなかろうか。

 実務者に関する種々の問題はもちろん建築士会やJIAにその多くを担うことになるが、「研究と実務」や「発展と普及」ということになれば、学会がその任にあたることは言うまでもない。事実、研究側から学会主導の実務者向けの講習会を含めた啓蒙や啓発が盛んに実施されている。しかし、実務末端までの普及は如何にと問われると如何なものであろうか(末端までの必要なしの見方もあるが)。建築基準法2000年改訂のときでさえ、浸透先末端では内容の理解が伴わず形先行といったことが多々見受けられた。一部の実務者の勉強不足やモラル欠如といってみたところでも、そんなことはあってはならないことである。

  このように実務者を取り巻いて多くの問題があるにもかかわらず実務者の置かれている状況は広く十分に理解が行き渡っていないように思える。今、実務者は一体何を思い何を求めているのであろうか。「発展と普及」という観点から実務者の声を収集し、今後につなげる必要があるといいたい。

  しかしながら、実務者の声を集めることは簡単ではない。実務者は研究者と違って自己ピーアールや問題点をクリヤーする機会が少ない(そうでない人も少なからずいるが)。また、個別の断片的な声は盛り沢山ではあるが、広く体系立てて整理し公開するといったことが少ないのもこうした状況に拍車をかけている。単に実務者向けアンケートや聞き取り調査では十分なしかも辛辣な意見を求めることは困難といいたいのはそのためである。では切実な声をどうしたときに求めるのか。それはショッキングな事件が起こった直後のときであり、私たちは阪神淡路の震災に着目した。

 建築学会富山支所が1995年9月2日開催した耐震シンポにおいて開催に先立ち記述式アンケート調査を実施した。このアンケート調査結果をよく吟味してみたところ今ここに問題としている実務者の辛辣な声を収集することができた。もちろん、今となっては多少時間がたっていることに加えて富山という一地域のことではあるが、実務者の声は今の時点でもあまり色あせていないばかりか(今の声はかつての声よりも業界の活力のなさを反映してトーンダウン)、富山のように高級というかエリートといった実務者がほとんどいないいわゆる一般実務者オンリーの地域だからこそ専門分化が十分でないところに実務者の声がエネルギッシュであるといいたい。

 こうして収集した実務者の声を体系的に分析し、これをもって「研究と実務」、「発展と普及」の問題について実務者側からの検討とした。なお、本報告ではアンケートによる声を多少エキセントリックにまとめ、今日的に論評を加えた。

 

2.調査概要

 このアンケートは、富山支所の建築学会員(178人)のみならず富山県建築士会主催の危険度判定士講習会(95年7月)の参加者(約300人)に対しても協力いただき、約1割の方々(30人程、全員実務者)から回答をいただいた。アンケートの条文は以下の通りである。
(1) 耐震技術について日頃思っていること疑問なこと、今後うあるべきか、などについてご意見をご記入ください。例ばあなたの業種の立場で身近なことや阪神大震災をまのありにしてみたことでも結構ですので具体的にお書き下さい。

(2) 阪神の地震では「壊れない」ということを一つとっても住まい手・使い手が思う耐震と作り手が思う耐震とに大きなギャップがあったように思われますが、これについて作り手どのように対処すべきと思いますか、ご意見をご記入下さい。

(3) そのほか、富山支所や建築学会本会への要望がありましたらご記入下さい。例えば、現実にこんな問題で困っており、これをこのように何とかして欲しいとか、学会はこんなサービスをすべしとか、理由も含めてお願いします。

 

 設問の主旨について述べる。一番目は仕事の仕方について問うたものである。より良いものを造りたい。そのためには実務者は切磋琢磨して努力し、建築主に対してはそうした建築を理解していただくことになる。そうしたところの思いを聞いた。

 二番目は作り手と利用者のコミユニケーションが図れているか、両者の相互理解のあり方と現状について生の声を聞くものである。一般人にとって例えばひび割れは崩壊であっても専門家にはただのひび割れであるといったように、専門家と一般人との仕事に対する構図においてこうしたコミユニケーションはどの範囲のどの水準まで必要なのか、あり方が問われている。専門家からどんなアプローチが必要かをどう考えているのであろうか。聞くことにした。

 三番目は種々のリクエストは個人のレベルでは収まらず、実務者の声を聞いて政策を実行してくれる団体(ここでは学会や行政)にリクエストをいただくものである。

 

3.結果

 質問の内容は上述にあるように奥の深い次元を念頭においたものであり、答えやすいように構造工学に関する技術的な問題とそれに関するポリシーの問題としての様相をまとっていたが、いざ蓋を空けてみるとそうした問題のものに加えて当方の狙いを越え自分自身の仕事の取り組み方や一般人に対しての仕事の進め方などについても種々の想いが寄せられた。こうした声はやはり常識的な声でもあった。これをどう見るのか、常識的な声が少ない?大方はそうではないといったこともある? 

 ここでは、実務者の意識の健全さが声に表れているとして、これより声の奥にある背景をも探ることにして多少声の取捨選択を行いながら、

・建築をとりまく状況、   ・設計と施工の関連、

・設計のなかでの意匠と構造、・構造の中での耐震

というように問題を整理することにした。具体的には、質問事項に対応した回答を一括して、視点を社会的次元から建築の次元、設計の次元、耐震工学の次元というように分けて項目を次のように設定した。

  ・実務者の意識 ・設計 ・構造設計 ・基準 ・施工  

  ・経済性    ・一般の方への理解 ・防災 ・既存建物

  ・行政への要望 ・学会への要望   ・富山において

 以下に主な項目毎、アンケート結果としての声をまとめてみる。

 

(1).実務者の意識

 仕事への姿勢は、基準強化といったような外から強制されるものではなく、実務者側の良識に求められるところであり、その意味で責任がついてまわる。しかしコストを考えるとそうとばかりもいえないといった現状もある。実務者の意識の向上や地位の向上がそうした問題を解決していくであろうから、自信と責任をもつことが必要といったことが伺い知ること出来る。

(2).設計

 設計では、現場との意志疎通について十分ではないこともあり監理の権限強化が欲しい。また建築主に対してもしっかり意見を述べ、構造と住みやすさ(意匠)の兼ね合いをどう図るのか。設計が特殊であることをピーアールしすぎて安全性を損ねるようなこともみられる。日頃の勉強も必要といった精神的なものも伺い知ることが出来る。

(3).構造設計

 構造関連については意匠設計の段階から検討し、構造家をも交えてデザインが必要である。現状では、構造実務者が十分育っていないので意匠と構造のコミユニケーションが図られず、結果として建物のデザインをつまらなくさせている。構造実務者の数が少なく日頃の勉強が出来ていない。これにより基本計画段階から構造センスを生かせず。またピロテイや混合構造さらにデザイン的な面から偏心せざるを得ない場合などのケースに対応できないこともある。デザイン先行しての構造計画について無理がある。耐震性向上で鉄筋とか耐震壁増設といったことでない新しい方法を考えたいとか、構造物には耐力に余裕をもたせるべきで過小設計は設計者の良識に関わるとの指摘もあった。

(4).基準

 基準をミニマムエッセンスととるかマキシマムエッセンスととるか設計者の見識・博識・良識にかかわっている。基準が難しいという人や基準が自由な設計を奪っていることもあるという人もいる。また基準をもっと合理的にとして、重要度係数や建物毎の係数の導入に加えて、(何々地震に対応して)入力をGalで行うといった基準が欲しいという。と同時に、こうした基準を一般の方に如何に理解いただくかも大きな問題となる。特に性能表示の基準がいるといった要求があった。なお、阪神以後、設計は仕様設計から性能設計へと姿が変った。

(5).施工

 手抜き工事をしないとか、下請けに仕事をさせて元請けが段取りばかりに気を取られ本来の技術を発揮しにくいという声がある。こうした状況が、設計と施工の間に意志の疎通を欠くことになり、設計の要求する技術が施工で十分反映されないことにもなる。提案として、特に設計と施工のコミユニケーション媒介の図面について、性能表示を設計図書に求めたり、計算書を殆ど読まない風潮を考慮して図面に表示すべきである。

(6).経済性

 経済性を抜きにしてはありえないが、あまりにも経済性の追求に設計はのせられている。経済性に見合った安全性や施工性にみあった経済性といった観点も必要である。安全性とコストのバランスに苦慮する実務者の奮戦ぶりが伺うことができる。

(7).一般の方への理解

 一般人(建築主)には、まず設計というものを、次いで要求性能を理解して頂く。特に耐震設計については理解が必要であり、専門家のいう安全と一般人のいう安全とに大きなギャップがある。こうしたところに一般人にわかるような言葉でのコミユニケーションが不足している。使い手側・建築主側は補強した建物も受け入れるよう意識が阪神以降変わってきているので、一般人に対して設計条件や基準について説明が必要であり、この種のアカンタビリテイが欠けていたことが伺い知ることが出来る。

(8).防災

 被害予測の実施や構造物およびその周辺環境を考慮して防災を考えること。トータルな防災を行政および市民とともに考えること。強度の議論より被災者への対応が課題であるという声があった。

(9).既存建物

 木造(の多く)は経験だけで建設している。既存建物には耐震診断し耐震改修すべきであるので建築士の役割は大きい。しかし、耐震診断の方法は複雑でむずかしいのでもっと簡単にできないかという声もあった。

(10).行政への要望

 基準作成も良いがそれが守られているか検討が必要。行政と民間との間で定期的会議を持ち種々意見交換を。役所は基準指導ばかりでなく、施工に対しても具体的技術指導を行い、施工監理や建物審査にも第三者を入れる制度づくりを。

 耐震診断・改修の講習会が各機関ばらばら。危険度判定士の名称や養成方法、受講資格等が各県ばらばら。危険度判定後の責任や権限、身分保証等、全国統一化すべき。といった行政指導の本質をつく声があった。

(11).学会への要望

 技術者の社会的地位向上に取り組み、建物の質の向上についてリーダーシップをとって、実務者と研究者のコミユニケーションを。実務者によくわかるように最高水準の研究成果の普及をして欲しい。また、行政、士会、学会で安全管理システムの構築をして欲しい。建築士会、学会等の建築の団体がバラバラに活動し十分機能していないようだからお互いにネットワーク化を。といったリクエストがあった。

 

4.考察

4.1 考察の視点

 アンケートの質問の背景を今一度列挙する。

  (1)日頃の業務で技術についての対応や技術への要望、

  (2)専門家と一般人の技術に対しての受けとめ方の相違。

これを何ととるのか。一般人に対して仕事を理解頂くには。

  (3)学会支所や学会本会への要望

 項目(1)(2)は技術を幹にしているものの、答える側の受けとめ方としては仕事への取り組み姿勢として勉強や意欲など内面的なことと、今一つは一般人への仕事の理解であり、専門家の役割と一般人の支持という外面的なことがあげられる。そこで、上記項目を少し分かりやすく次のようにして項目を設定し、アンケートの声をもとに現在いわれている常識を盛り込みながら検討し論述する。

  (A)自己の技量の向上、

  (B)建築主への仕事の内容の合意(および理解)、

  (C)自分たちで解決できないので上位団体へ期待

 

4.2 建築主に対しての仕事の理解

 一般人に対して仕事を(正しく)理解頂く要素には、仕事というコミユニケーションの存在と効用がある。仮に(本当は現実にあることだが)一般人への理解が得られない時にはそれにみあう経済的な原理で物事が動き、作り手もまたその動きに対処することも多く、同時に技術水準も落ちてくる。こうしたことは、(よくいわれているように)無理なデザインや構造無視といった様相で多々現れ、施工や設計においても「分かっていてもまあいい」とか「分からないからやってしまおう」といったことも時折みられ、無知からくるモラル低下は阪神大震災ではからずも実証されたとおりである。

 一方、仕事を遂行する側では請負制度と上記の事が関わり合って、例えば下請け・孫受け制度による相対的な技術低下が耐震設計と施工の品質とに格差を拡げており、住まい手・使い手の要求を十分受け止められない作り手の存在もみうけられ無視できない問題となっている。

 

4.3 自己研讃

 今回のアンケートでは最終的に自己の技量の向上が一番のように見える。例えば、実務者が建築主に理解を願うときには「わかりやすく、合理的に」がポイントであるので、耐震設計に際して耐震技術を如何にしっかりと相手に説明するのか。そのためには、粘り強い説得に加えて技術をよく理解しておくことが必要である。しかしながら、技術や基準は本当に実務者に理解しやすいものになっているか。体系を作る側の問題とそれを学ぶ側の問題とが同時にある。ややもすると、もっと簡単にということと楽をするということが混在し兼ねない。体系の方も、真に使う立場での構成になっているのか、簡潔さを追求しなければならない。まだまだ、体系作りと技術運用のギャップが埋まっているとはいい難い。折しも2001年の建築学会大会の時に耐震基準に関するパネルデイスカッションにおいて、本当に煩雑になった設計基準をとくと説明(解説)しているときに、聴衆から「実務者に真に使って欲しいと思っているのか」という鋭い質問を投げかけられて、パネラーの諸先生方がタジタジであった。たった2分の質問に20分の回答を要したことがそのウロタエぶりを表していた。

 

4.4 教育として

 勉強の必要性はどこにあるのか。実務者の声を聞いてみると、仕事をより良いものにするために自分自身の勉強とともに、そうした仕事を建築主やさらに枠を拡げて一般社会に対して理解を頂くように仕事を通したいわば教育がある。また仕事の価値を高めることが先決として建築従事者の地位向上、コスト的問題の解決といったことが続く。

(1).継続教育について。(自分自身の努力は当然のことだが)社会全体でそうした教育制度があれば適切な勉強が可能となり、勉強意欲の向上にもつながることであろう。現在、継続教育ということで種々の学会がシステムづくりに取り組んでいる。

(2).一般社会に対し建築の理解の向上を図る。実務者にとっては、実務は仕事を通して建築主に建築の理解を頂く行為でもある。また社会全体に対しては、学協会が中心となって価値の理解を一般人に働きかける。こうした二面性からアプローチがあって初めて、実務者の地位向上とともに住む人や利用者の理解が生ずるものといえる。このとき一番の問題は「建築の価値」は何かを明確にすべきであろう。これはこと建築に限らないが専門家と一般の方がどう向き合いコミユニケーションするかということにつながり、仕事の価値へと発展していく。

 

4.5 研究テーマとして

 実務者からは次のようなことで困っている。研究側で何とかならないものかとのリクエストがあった。

(1)耐震性向上の方策:耐震性を向上するために耐震壁やブレースなどによらない方法を開発して欲しい。これは、実際には耐震とは別に制震や免震の技術のことを意味しているのではなく、耐震の範ちゅうで何か他に方法があるのではないかということである。

(2)設計力の評価:設計標準層剪断力C0=0.2をもとにして地域計数を乗算していく方法とは別に入力地震動をガル表示で行う方法があれば、既往の地震と対比して耐震性が論じられる。

(3)偏心性の強い建物の耐震性を増すにはどうするのか。

(4)混合構造の耐震性:混合構造はどんどん進化している割には耐震性については未だ研究段階にある。特に鋼管コンクリート系では壁の問題を早く解決して欲しい。

(5)設計におけるいわゆるバラツキを考慮した基準ができないものか。(材料の強度や係数のバラツキ)

 

4.6 学会に対して

 一般人や現業畑の人にとっては、学会も士会も一緒の次元にあり、例えば防災関係であれば当然連携して何かして欲しいとか何でもやれるはずといったことを思うことも自然の理である。 

 学会に対して何とかして欲しいという直接的なリクエストがないのも学会が雲の上や無関係の存在だからである(学会員は何とも思っていないが)。だからこそ、自己啓発や価値啓発をオピニオンリーダーとして推進していく役目は知的サービスとして学会が担う他ないといえよう。また仕事を遂行していく上でより良いものに関する技術的学術的サポートとして、例えば各種研究やそれに基づく基準などをどしどし整備して欲しいということになるであろう。

 

5.まとめ

 実務者の声としてアンケートを集約すると、そこには実務を遂行していく上で苦労や要望・要求が多く盛り込まれ、実務者各自の奮戦ぶりが伺えた。また、アンケートが技術的視点での問いかけであったにもかかわらず、そこには各自が日常業務を遂行していく上で理念や意欲の次元が大いに関与している様も伺い知ることができ、実務者精神をも垣間見る事が出来た。こうした実務者の声を三つのカテゴリーに分けてアンケートの声の奥に秘めたるものを引き出してまとめてみる。

 第一に技術者自身の問題としては、

   (1)自己の技量の向上、(2)設計の建築主への理解

が浮かび上がってきており、項目(1)(2)が経済的な因子と関わって建築というものの評価を不本意に下げたりすることにもつながっている。こうしたところに個人や企業で対処できるものと、そうでないものとがあり、後者のものが行政や学会へのそうした意味での期待につながっている。

 第二に技術の問題としては実際に仕事を遂行するにあたり「特に安全性をどう確保するか」が大きな関心事であり、実務者に分かりやすい技術体系が必要であるとの指摘や、実務者の視点から研究者への注文(今回は構造部門だけだったが)が寄せられた。体系を作る側にとっては、学術・芸術・技術の「発展と普及」のうち「普及」の担い手として実務者の役割を再認識することにつながる。

 第三に学会は(富山に限らず)あいもかわらず雲の上あるいはまったく無関係・無関心の存在であるが、それでも何らかの期待を背負わされているといえる。技術者個人ではどうにもならないことについて行政をも含めて何とかして欲しい旨の声は熱いものである。学会には、知的サービスの提供やオピニオンリーダーとしての役割が見えてくる。

 以上、行き着く先は個人であるものの個人を取り巻く環境の重要性は再認識させられる。実務者は厳しい環境や状況下であっても毎日悶々として業務に励んでいると同時に実務を通して一般人に対し建築の啓発という仕事も担っていることが明確となった。

 なお、今回は富山という一地域の事例にすぎないが、全国のものとあまり何ら変わることがないと思っている。変わるところがあるとすれば、意匠分野を最初の切り口にしなかったこと、技術の分化分業の次元で細かく扱わなかったこと、高級というかエリートといった技術者と研究者の存在にふれなかったことである。

 

追記:当時学会支所長(現富山県建築士会会長)の稲葉を筆頭に若手面々によって、阪神淡路大震災に関するシンポジウムを二回(1995年)にわたり富山で実施した。そのとき収集した実務者の声に日の目を見させたいとの思いでまとめたものが本報告である。本報告の纏めに際して討議いただいた富山県庁の小林英俊氏に感謝致します。またこの報告を富山県建築士会改革検討委員会答申(2002年)にも役立てて頂いた。士会の関係部会会長の今村彰宏氏に感謝致します。さらに種々世話になりました物理学フリー研究家の中堀弘康氏に感謝致します。

実務における知的余裕の育成と評価、建築学会特別研究委員会設置申請(1)、エッセイ68

2014.05.10 実務における知的余裕の育成と評価建築学会特別研究委員会設置申請(1)、68



2003年度開始 2002年度作成

テーマ:生活次元の視点で主に実務における知的余裕の育成と評価について

委員会名;新視点からの社会的貢献に関する基礎的研究と実践の委員会

1.研究目的

  今の世の中、ハイテクやビッグプロジエクトや際立った数理合理・論理が高度技術社会をつくり、学会がそれに大きく貢献してきた。こうした動きについては、地方では中央志向、中央では外国志向といったような状況がグローバルスタンバードの波のもとで加速しているかのようでもある。しかしその一方では、忘れられたり置き去りにされたりしたものもあるのではないだろうか。すなわち、第一に研究にならないものはテーマとしてふさわしくないとか、技術者のこまごました工夫はあくまでも工夫であり学術的価値を見出さなくてもよいとか、古いものには歴史価値としてしか価値を与えなくていいとか、といったことがあるのもそうしたためであろう。また、第二に専門分化が進むにつれて主体的担い手の人間の輪が広がらずといういわば主体的参加が出来なくなってきた階層の人間の存在がある。こうした状況は学会の理念である「社会的貢献」というお題目のもとでも身内の会員にすらなかなか参画意識が育っていないことにもつながり、何よりも会員減少という現象にすぐに跳ね返ってきているではないか。

 では何が問題か。技術や研究の視点が専門化や特化し過ぎているというスタンスの問題にあるのではないか。たとえ市民や社会という題目を唱えても技術水準は満足しても何か物足りなさを感じざるを得ないことも事実である。もともと専門化や特化のあおりを受けて(一般の多くの)実務者や(多くの)学生に種々支障を露呈している。だからこそ、地域で重要なことが見落とされたり、当たり前のことを当たり前にしていることが低い評価であったり、小さなことが小さいとして軽視されたりしていることが、一般の実務者や市民に対して学会に敷居の高さや別世界の印象を与え、学会がいくら社会に「貢献」とか「活性化」とかいっても大きな力にならないともいえる。

 そこで、いわゆる生活次元に立ち戻って、生活者や実務者にスポットを当て、当たり前のことをもっと評価し、小さな事も価値あるところを見出すといういってみれば草の根的なスタンスで会員に対してはもちろんのこと市民をも巻きこんで建築をキーワードに活動ができる場とチャンスを与えるシステムを作り、そこにおいて基礎的研究とパイロット的な実践を試み、成果を学術的に蓄積させることにする。

 ここでは、生活次元として大きく三つの問題に絞る。一つは生活者が建築という媒体のからみでの感性についてであり、二つは実務における極普通のことから大いに学術的価値を取りだすことであり、三つにはそうしたことを文化的遺産として蓄積することである。アプローチは、上記三点のものを実務中心の次元で行う。これをもって、実務における知的余裕の創出とし、われらは知的余裕を大いに育み楽しみ、併せて会員や市民に対して社会的貢献としたい。



2.委員会設置理由

 もともと会員減少に歯止めをかけるため支部の委員会で種々アイデアをだしあってこれまでにない取り組みが必要として本提案を考えついたが、こうした考えを当たり前と思っておられる方々が全国各地に少なからずおられ、また心待ちにされている方々も潜在的には多いと思っている。だからこそ、こうした動きに全国ネットとしてひとつのアドバルーンが必要であり、そこに結集することが肝心であると考える。既往の委員会は専門分化した特化したものである(総合的視野のものは委員会として存在せず)がゆえに、新たなしかも広範囲を被うものとして特別委員会が必要となる。上記アドバルーンが、委員会に直接参加するしないにかかわらず、参加意識を醸成させるものと思っている。

学会本部の役割は、われらのアドバルーンあげを支援すべきかと考える。発芽的な委員会活動が今後定着するならば、学会の各種専門委員会も多様的な幅の広がりを持ちながら、本提案委員会を吸収することも可能となる。(ぜひそうして欲しい。) 個人提案としたのは、いままさに個人のレベルから声高に新しい動きをつくりたかったからである。また提案が今の時期としたのは、誰かがやるまで待っていては機会を逸してしまうと考えたからである。



3.研究項目

小さな事から始めて多くの人を結集したい。情報収集とか情報交換といったことではなく、顔のみえるコミユニケーションをしたく、そこから数々の問題を出し合い,また今やっていることを紹介しあい、お互いの奥を深めるとともにレクチャーや研究が可能となる。出来ることから始めることが参画する方々の英知を集めやすいものといえる。今考えているテーマは以下の四つである。

<>サブテーマ1:社会変化のもとでの生活次元;建築()が及ぼす人の感性育成への影響

 建築を技術オンリーで分析するのではなく、生活の中でどうかかわるのか。一般に対して感性を建築から如何に提供するのか。例えば,昔は軸組み構造ゆえに、柱や梁のかなでるデザイン的メッセージは住民につたわり、いやがうえにも住人の感性の育みに一役買っていた。今は壁構造、のっぺらなフエイスが住人に何を語りかけるのか。住宅に及ばず、都市においてもこうしたことがあるはずである。われらは、建築をデザインや安全性をいうと同じように、感性の育みにもしっかりとケアーしなくてはならない。それとともに、最近の仮想現実空間の拡大における現実空間としての建築の役割を考えなくてはならない。また心情的なもととなるローテクについても、ローテクイコール「古い」とか「心情」とかいう捉え方でなく学会らしい光を当てる。ハイテクの存在をローテクとの連続性として捉えることで「心情」が「学術的次元」とリンクさせる。これを実務者中心で研究や教育に後押しさせたい。

<>サブテーマ2:身の回りでの仕事の次元;工学的判断事例の収集と評価

a. 多くの実務遂行の方に対して、仕事をしっぱなしにするのではなく、そこから次につなげることを研究としてのぞむ。いままでの仕事を整理しまとめるということが、どれだけ本人の活力になり、どれだけ世のためになるか計り知れないはずである。実務者のこれまでの控えめな行動がいき消沈の大もとにもつながるので、実務のそうした遠慮を取り除きながら実務畑でエネルギーの掘り起こしを行う。

b.  多くの技術者による設計や施工での創意工夫事例が(大企業などのものを除いて)一般に世の中に出ることない。技術者は、技術者冥利を個人で満喫するしかない。(施工や設計の雑誌が多くあるが工事報告とか設計ピーアールといったものではなく学術的に意味のあるものが多いはず)。種々の工夫事例を収集しそれについて価値づけをする。

<>サブテーマ3:コミユニケーションの場づくり

  今の建設を取り巻く未曾有の不況により、特に市民と直接接する現場実務者が自信と誇りを失いかけてもいる。市民にとってよりよい建築を提供するためにも彼らに力を与えなくてはならない。実務者のケアーがCPDといったものばかりでなく、もっと顔の見えるコミユニケーションが必要であり,学会に対し社会貢献といった参画意識を直接持てるような雰囲気造りと実践を急務としたい。さしあたり大会にあわせて実施を考えている。

1)コミユニケーションのチャンスと場の提供 2)プレゼテーションの場の提供

3)知的サービス授受の場の提供

<>サブテーマ4:建築文化に関するデータ収集と評価(北陸支部のアイデアをもとに)

 近年、伝統的な文化についてはこれが急速に失われつつある。第一には文化的建造物の存続が危ぶまれるとともに、第二には住宅更新に伴い土蔵が取り壊され、そこに保管されていた道具や文様が散逸し消失しつつある。こうした文化的遺産を保存を含めて文化の創生と継承にも取り組むことにして、伝統的な建築文化の記録保存をはかる。具体的には、建築に関わる道具、文様、生地、歌謡(屋根葺き歌など)をデジタルデータとして保存・公開し、併せて、建築学会本会の「建築博物館」とも連携を取り、支部固有のデータを提供し、出来れば全国の支部にも共通する利用のあり方をも検討する。



4.委員構成

 委員は、研究者・教育者・実務者から分野が偏らないように公募する。(大学院生も) 委員長は公選とする。世話人は中核委員となる。最初は小人数体制としたい。敬称略。

  **(秋田大教授)、**(中部電力、技師)、**(福井の設計家)、**(東京の建築家)、**(信州大教授)

上記の方々は提案者とは「実務者中心の討議の集い」でつながっている。採択を待って委員交渉を行う。委員会会議はメール会議も併用したい。



5.期待される成果

 本研究により、市民や実務者の方々に思考幅をもたせることができるとともに、知的余裕の創生とそれの楽しみへの転換を実現できると考える。これにより、会員拡大とはいわないまでも会員減少に歯止めがかかるという、一大成果が期待できる。もちろん、そのための手立てとして集いや研究発表などのブレーンストーミング・デイスカッション・プレゼンテーションがベースとなることはいうに及ばない。以下に成果を詳しく列挙する。

(1)何よりもこうした考えのあることに市民権を与えることができる。いくら特化した技術や論理でも担い手が少なければ特化された次元のままに留まらざるをえなく、せっかくの学会理念である地域や社会貢献などといったことの果実が小さなものになってしまう。

(2)もともと専門分化によって、一面では高度な発展を勝ち得たが、他面では人心の離れを生んでいる。特に後者の問題は大きい。本研究の取り組みで本委員会に求心力が増すならば、学会のいう社会的貢献が人心の面でもおおいに期待されることになる。

(3)本企画はひとつの事始であって、多くの分野に幅広い奥の深い知的余裕を生む素地ができれば成果である。これまでややもすると古いもの小さなものは軽視といった潜在的な価値観が改善されれば、本流そのものの活性化も期待できるし、そうした視点がうまれればそれで十分といいたい。

(4) (たとえ直接の参加が無くても)だれでもどこにいても小さな一歩でも参加できることにより知的な信頼の求心力がそこそこできる。こうしたことから、実務者に誇りと自信が持てれば何物にも代えがたい。そうした事始となる本企画によれば賛同者をまず少なからず増やせ、学会内でもこうした動きが拡散し、世論形成の源ができると思っている。こうして多くの技術者に力をあたえれば良しといいたい。くどく言えば今の技術が市民に根付き少なくとも実務者に支持され理解されれば建築が市民生活のより以上の恩恵を与えるといえよう。



6.準備状況

(1) 集い:

026月 建築学会北陸支部大会にて実務者懇談会を実施(9人参加)

028月 建築学会全国大会にて実務者の討議の集い開催(参加者26人、コメント提供での参加16人、計42)

ともに成功裡におえる。取りまとめ集を発行し関係者に配布。

(2) 報告 建築実務者の生の声を公にした。

 学会技術報告集、2002,12 「建築実務者は今何を思い何を求めているのか」



6.研究期間、予算

03年4月~05年3月、各年50万円、総額100万円



7.そのほか

 21世紀フロンテイアプロジェクトといったように明日の建築を憂う企画が種々策定されている。一方ではシステムづくりに加えて人間を如何に変えていくかが最大の問題ととらえられている。学会中心の学術・芸術・技術の推進にしても実務者という視点がこうした問題に大きく寄与すると思っている。また、論理が複雑で進化するというものに加えてそうした価値観で、なおかつ実務者次元で次への展開を考えたい。いいたいことは、「本企画は単なる技術研究にあらず」、願いは「学会の崇高な光をもっと下々に」である。

 なお、個人会員がフリーに委員会を提案し活動してひとつの流れをつくることが実績として示されれば,会員の英知がいつでもどこでもすぐに活性化して、活力有る流れが噴出すものと思っている。だからこそ、本提案をなんとか実現させたいと熱望する次第である。


 


 


 


 


 


 


 


 

建築教育に物申す「建築教育の将来にむけて」、エッセイ30

建築教育に物申す「建築教育の将来にむけて」 11.05.21 、エッセイ30

近年主張されているように「建築」の展開を社会のニーズや環境問題の面からも図って欲しいが、今ここでもっとやっておかねばならないことは市民や専門家あるいは若者が「建築」どうにかかわっていく(理解、支持、継承、発展など)べきかである。ここがあまいものだから今の教育の世界では以下に示すような問題が噴出しているとみている。列挙してみよう。



(1) 学生側の問題として:学生には独創性や個性がない。また学生はすぐに「役に立つのか」とか「何の関係があるのか」といった狭い考え方をする。これはおもしろいとか、感動や夢中になることが少ない。(そうでないかたも多くおられるが)



(2) 市民側の問題として:建築が市民にどの程度理解されているのであろうか。いや信頼されているのであろうか。建築のよさを感じる前に建築従事者に幻滅することもままある。建築や街が市民にどんな働きをしているのか。まちづくりは普段の建築行為であり、イベント的な街づくりについては時として必要であるという捉え方をしたい。



(3) 子供について:早くからの建築教育には皆さん熱心であるが、建築という枠組みでいうことではなく、生活次元でとりあげられれば、あるいは生活次元そのものでもいいのではないのか。建築の我田引水的行為も時として必要ではあるが、建築や地域への愛着までの発展は?と考えざるをえない。



 こうしたことがなぜ起こるのであろうか。それは、専門分化が進んでそこに人の介在を忘れがちになることによると思っている。専門分化が進めば進むほど、総合化という視点がかすんできており、総合化は人が介在してなしえるものだから、今の状況では人の介在があまくなる、といいたいのである。

ではどうするか。おりしも建築の学術団体の大会2010では、テーマのキーワードを「つなぐ」とした。つなぐとは、人をつなぎ、地域をつなぎ、空間をつなぎ、時間をつなぎ、分野をつなぐ、といった想いがこめられていた。教育もまさに「つなぐ」精神を発展させていきたい。手があればつながっていく、糊代があればつながっていく、ではないか。そんな観点で、問題に対処したい。



具体的な問題をいくつか挙げる。

(1) 建築を捉える一貫した考えがなぜ育たないのか。構造で言えば、上部構造物と下部構造のつなぎを考えていない。もちろん、こうした問題は何も構造に限らず、種々の分野にあるはずである。皆さんでそれらをクローズアップしたい。ちなみに、聞いた話であるが、司法の場において建築専門の多くの鑑定人にはそうした観点がないもので正しい判断がなされていないことがあるという。



(2) 日頃の姿勢を育むようにしたい。それは教える人がそのような考えを持たないと無理である。ではどんな考えでどう実践するかを皆さんで考えてみたい。立派な授業・講義と父母や産業界からのリクエストに対応することとは別ということではなく、どうプライドを持つのか持っていくのか考えたいものである。学究と人間教育は別ではないからこそ、幅広く教育ビジョンを描くことが肝要である。ただし、勘違いしないでいただきたいのは、学生に、あるいは父母や産業界にリップサービスをするということではない。



(3) 今回の震災で市民のために動いてみたいとか、多くの分野の技術をもっと総合して事に当たりたい、と掛け声はかけてみたものの日頃の姿勢にそのような観点がないからできない。ということを痛切に感じ、種々の分野との連携を模索したいものである。こと建築のみにおいては、計画をトップに構造や設備が下位に位置づけられている現状は何としても変えていかねばならない。同一土俵で多様な建築分野が一堂に介する教育も模索したいものである。なお、構造や設備の一部の方には意匠と同一土俵で仕事をされていることはいうまでもない。制度として構造士うんぬんでもない。



(4) 市民のための建築とっても、どう市民に建築を理解していただくのか。住まいづくりやまちづくりのワークショップがあれば十分とはまったく思わない。どんなケースでどんな方々をどこまで教えていくのか。また建築そのものが市民にものを語るようにし、市民もまた建築に語るのであることを、我らどう受け止め考えていくのか。建築は物語でありドラマである。人間と一緒に生きていくものなのである。こうした観点で建築を介したひとづくり、人づくりの建築を考えていきたいものである。ただし、語りは音声や照明ではないことを断っておく。

なお、建築を学ぶ若者や建築の職業人にとっても、こうした積み重ねが独創性や個性といったものの情勢につながっていくものと思っている。もちろん、そうしいたアプローチがあってもよい。



 以上の問題は教育の基本構想そのものであるが、専門教育の世界においては主観的な問題としてリジェクトの対象になりがちである。皆さんの中において、心情的に理解はするが「いきなりいわれても」ということが専門教育の効率中心主義とあいいれないのである。ならば、こうした問題を将来の問題として今ここに準備をしながら進めればよいではないかと考える。よって、将来計画の範疇で扱うことによって、少しでもかかわっていくことが私の役割と思っている。




 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

我々にとって批評とは、特に専門家による批評の視点は大丈夫か、エッセイ19

我々にとって批評とは、特に専門家による批評の視点は大丈夫か(主に建築の批評をとおして) 2000.10 、2001.12.8、エッセイ19


 いわゆる批評というものは批評家や評論家でのみなされる訳ではなく、実務の専門家が実務を通して一般人に対しコメントするという批評もあり、これが世論構成にも大きな役割を担っている。こうしたときのあるべき批評を問うてみたい。加えていうならば本稿では、専門家が一般の方にあるいは同業の専門家に批評というメッセージを如何にして送るのかを問うてみたく、いってみればコミユニケーションに関する専門家の役割を問題にしたい。

 

1.ことのおこり

 たまたま、新建築家技術者集団(以後新建)富山支部の人からの依頼で2000年富山国体の施設についてコメントを当該会誌に掲載することになった。国体では、陸上競技場や体育館、水泳場、カヌー場、クライミング会場など久しぶりの大型公共施設の建設であり、富山は建設ブームに酔いしれたといっても過言ではない。言うに及ばず新建のスタッフ一同(土肥夫妻、藤本の各氏)とともに、国体開催前に多数の施設を見学し種々のコメントを用意した。しかしこの時、どんな批評するのか、国体そのものの意味無しとして批評するのか、建物の欠点を批評するのか、建設反対とするのか、おめでたい批評とするのか、どんなスタンスでコメントを掲載するかということが、一番の問題であった。

 次の問題としては、批評そのものの範囲と内容である。よく間違える方が多いのは、こうした批評の時には辛口の批評となることが多くなり、しかもはやる気持ちが論評をいきなり細部にわたって限定してしまうことである。富山では90年代に外国人著名建築家による「街の顔事業」(各市町村に1個数千万円から数億円規模のモニュメント的な建造物を街の顔として建設した富山県の街起こし事業)に対して賛否の議論があった。このとき、反対派の一部の方の論評が著しく細部にわたっており、専門家でないと理解しがたく、折角の反対が少し分かりにくくなったこともあった。自分の想いを如何に一般に伝えるかを忘れてしまい、とにかく伝えることだけが中心となってしまう専門家は多いのである(そうでない人も沢山おられることはいうまでもない)。こうしたこともまた批評の問題として扱ってみたい。

 

2.建設の是非を如何に問うのか

 (国体施設建設について思うことを例として)

 2000年国体「とやま大会」が開催された。富山県では40数年前に開催された富山国体のときの施設とは別に2000年国体のために種々の施設が続々と建設された。国体について賛否議論がつきず、これまでのどの大会でもお祭りや大イベント、さらに経済効果を期待して大々的に実施されてきている。国体施設は箱物行政そのもの、施設そのものにとっては白い目でみられることもあることも事実である。とはいえ、施設そのものや建設する技術者そのものに責任がある訳ではなく、当然のことながら是非論は必要であるが(関連するところでは必ず議論して欲しい)ここでは現実的に着眼点を替えて、少なくとも設計や施工にたずさわられている方が多くおられることや、今後こうした施設を利用し利用せざるを得ないことを踏まえて、建築にたずさわる人にとって、そんなときだからこそかかる施設には建築的にどのような英知があり工夫があるのか、やはり適切な評価をしなければならないといえる。

 いざ読者の皆さんに何かを訴えればいいのかを考えると「困った」が正直なところである。建築いや建設業界といった方がいいかもしれないが、これまでのように建築物をどしどし作る時代は続かないことが威勢の良いプロジェクトに遭遇する度に実感する。構造物の持続可能性を如何に追求していくのか、サステイナブルやリサイクルの時代に対して如何に建築(業界)が望んで行くのか、新たな提案が待ち望まれる。今の混沌はそのための準備期間である。

 今ひとつ付け加えるならば、もっと卑近な問題として日照権にからむマンション問題や高速道路建設問題などなぜ建設するのかといった観点からの批評ということは、建設関係の方からはなかなか出てこないが、あえてこうした問題に正面から取り組んで建設が住民に如何に関与するかを扱っていくべきなのであろう。

 

3.批評と我々の生活。批評一般論

3.1 批評の意味

 「批評とは、ものの真実を分析し問題点を指摘し、次に如何なる指針で対応するかを総合的に論じるものである」。批評は、時には反体制のセンセレーショナルな派手さをともなってかつては反体制運動の理論的支柱というか武器であったかのようにもとれた。現在でもかつての反体制のスタンスは少ないものの、それを受け継ぐように批判めいたものは多い。最近は、かつての運動のおもかげは少なくやはり体制に皮肉といったことの使命が担わされている。こうした皮肉といったもののない批評はわさびのきかない寿司のようなものといっても良い。

 批評には肯定的とか良いところを評価といったことは少ない。なぜなら、否定的なことこそ、専門家の視点が必要であり、結果が将来にわたり憂いを残すからなのであろう。しかし、良さは次への飛躍といった捉え方の批評が少ないのも気にかかる。

 

3.2 一般の方と専門の方の批評スタンス

 批評を一般の方を対象として行う場合と専門の仲間たちを対象とする場合とでは、スタンスが異なる。一般の場合には、わかりやすくしかも間違いのないようにということは言うまでもない。内容が難しいときには明快に単純にメカニズムを解明し、ポイントを押さえる。専門家にとっては、言うはやすし、行うは難しである。その点、評論家という方はこうしたところのツボを心得ている。とはいっても、評論家は一般人相手とのコミユニケーションの専門家であり、事の内容、すなわち題材については専門家からのアシストを受けねば成り立たない。その意味で専門家にとっては評論家相手のコミユニケーションをも図らなければならないことになる。

 

3.3 批評は何のため、誰のため

 なぜ批評するのか根源的に立ち帰えてみる。     (1)正しい方向を示すため。その意味では批評

   はオピニオン(リーダー)的な存在。

(2)一般人によるジャッジの手助けをする。

 一般人は専門家ではないので専門的なことについて、専門家との間にコミユニケーションを必要とし、逆に専門家は専門分野における一般人の想いをニーズとして引き出すことも必要である。自分らの生活をより良いものにするために、手助けするものが批評であろう。


4.批評の分類

 誰が何のために誰に何を知らしむるのか。こうした観点に立つと、発信は専門家、受信は範囲を広げて一般の方もしくは範囲を狭めて専門家であるといったセンセレーショナルで激的なコミユニケーションの一形態が論評であることに気づく。そうしたときに、批評の本質やあるべき批評、今日的意味を持つ批評、とは何かといった問題が生じる。発信者が専門家の場合には、割合妙な遠慮があったり、視野が狭かったり、真に受け手に専門家らしい伝え方をしていないことも多い。

では一体どうするのか。これには、まず、論評の内容や種類から整理して行きたい。内容そのものを根底から分類してみよう。


(1)割合、すぐに各論にはいってしまう批評。

  専門家に多い。特に、建築の批評の時に、問題点を列挙することが多く、全貌をあたかも熟知しているかのように、デイデールに走ってしまう。この場合、聞く人にとっては評価と同じ情報を持っていないと、批評の中身がまったく不明となってしまう。


(2)自分のいうことが正しいとして論評。

  特に、自分が民主的団体に属していて、いうことがすべて正しく錯覚する場合がある。時には、そうした団体が正しいことをいっていても、割合、他の人に理解されないこともある。JAS(日本科学者会議)という団体がある。私が名古屋に住んでいたときJAS会員であり、大いに勉強させていただき、また幅広い視野を身につけさせていただいた。この時の友人が数年前に富山のある大学に赴任してきた。JASの該当支部に属して活動しているのかと思ったら、当該支部の人は穴蔵にこもって何ともし難いとのこと。独りよがりといいたかったのだろうか、内心そんな気持ちであったろう。もちろん、こうしたケースは希なケースであるが、あってはならないことと思うので取り上げた次第である。


(3)何か批評として自分の感想を押し付け。

  一番迷惑するのが、TVドラマの解説。解説をあらすじ程度に留めれば良いものを、自分の感想で「おもしろくないだの」の批評を聞かされてはたまらない。自分で考えて感想を持つことに変な先入観を与えてしまうことにもなる。多分、あまり深入りしない批評では読者が見向きもしなくなり金にならないのであろうか。


(4)何か反対すればさまになるという考えの批評。

  新聞のコラム欄で秀作もあれば、何か批判めいたものを無理にこじつけるように感じることもしばしばあり、こうしたこじつけは実に見苦しくも感じることが多かった。また、60年代後半から70年代前半では、たまに一部の芸能人が(批判的であってはいけないということではないが)まとはずれな批判をしている人もいた。一部のタレント議員などはその最たる例でもあった。最近では事件を起こした大阪府知事も記憶に新しい。


(5)反対の一方法として何もしないという批評。

  何か問題が生じると反対しなければならないことも多々ある。なぜなら、何かすること自身が改定や改正や改良ということではないからである。ときとして、改悪の場合には当然反対となり、何もしないことがかえって良いことがある。こうしたとき、問題を推進する側にとっては、非協力的とか反対のための反対といって避難の応酬がある。そうしたことは単なる平行線で何ら建設的でないとして、最近、対案を出すようになってきている。しかし、これとて何で対案なのかといった疑問もあり、我ら生活を守るために反対するのであり、対案による政策論争は政治家にでもやっていただきましょう。そんな意見もあるが、大方は、やはりお互いの立場でのコミユニケーションを試み、事態の打開を図ることになる。労働組合対経営者、地元住民対自治体、といった枠組みにおいて、まさにそのようなコミユニケーションがある。もちろん、皆さんが建設的視点をどう持つかがポイントであることはいうまでもない。

(少し話をかえて、どこにでもあるローカルな話として)我ら富山では、地方の公共鉄道を残そうという問題がある。解決には経営者のみの交代で第三セクター運営という意見がある。建設的に何をするのかを議論すべきでところではあるが、結局、住民切り捨ての選択もあれば、何もしないことの選択もある。ただし、なぜ何もしないことがいいのかそうしたところを理論的に分析しておかないと意味なしということになる。この観点から専門家ももっと頑張って欲しいものである。(こうした問題はもっと検討必要)


5.いくつかの批評の事例

 前述のセッションと多少重複するが、今一度、批評の各様相を書き綴ってみる。

 (1)「ばかげたことだ」としてのジャッジ批評。

  言っている本人が気づかないが、そう言ってコメントを打ち切ることが多々ある。(至る所に該当する例があるが一例として)2001年道路関係のシンポジウムで友人がパネラーとして参加したときに、フランス人のパネラーが日本の世相をするどく批判した。「若者が携帯電話をもってメイルにいそしんでいることはまったくばかげている」と。誰しも根底にある気持ちは同じであるが、コメンテーターとしては、そうした発言はそこでサジを投げたか、批評進行をストップさせたことになる。やはり、なぜそうなったのか、どうするのか、踏み込んでこそ、ばかげたことの意味が次への飛躍に繋がるものとなる。割合、我々はこうしたことに気づかないことが多いのも、技術者としての専門家の生態なのかもしれない。ではどうするかは別途考えたい。

 

(2)時としておせっかいな批評。

  例えば(前述したが)新聞でTVドラマなどの解説で自分の意見を言ってしまって、これから見る人を興ざめさせてしまう。皆さんよく経験したことでしょう。また、こうしたことは、見る人に先入観を与えるし、そうした結論を結果的に押し付けていることになる。批評を見なければいいではないかとか、必要としている人が見ればいいのではといった論調はある。しかし、マスコミニュケーションの場合、そうした選択は出来そうで実は出来ないところに問題があるといいたい。こうした傾向が一般社会にも浸透しており、ちょっと古い例だが1985年頃大竹しのぶ主演の野麦峠という映画があり、一般人の一般人に対しての批評が「たいしたことなし」の段階でとどまらなくて「見る必要なし」というところまでいきつき、まだ映画を見ぬ人にお節介をしていたのである。今もこうした状況は変わっていない。

 

(3)何が何でも皮肉りを入れなくてはという批評。

  新聞のコラムで、たまにみかけることには、最後の節においてちょっと皮肉ることでなりたっている低級なコラムは実に始末が悪い。批評としてのポイントが示せれないから、人当たりのいい関心のあるところで皮肉るのである。やはりきっちりとした批評が必要である。

 

(4)奥の浅い論評

  卑近な例としてスポーツの場合。野球選手がエラーしたり急に打てなくなったりしたとき、気合いが入っていないとか、球をよく見ていないとか、そうした分析しかしない解説者が一部にいる。そんな分析は分析にあらず。その点、まともな分析は聞いていて面白い。例えば、外国人選手がシーズン終わりになって優勝戦線に加わらなくても俄然ハッスルするのは次年度の選手契約を有利にするためである、といった分析はプロ野球を数倍も面白くさせる。このように、分析は楽しさや面白さをもたらし、また批判力を育成する。こうしたところのメカニズムを探りたいものである。

 

(5)しっかりとしたコメンテーター

  有田芳夫氏はオーム事件1995のときに解説者としてTVによく登場されていた。理由は、コメンテーターの一部がいい加減なコメントをしているので、しっかりとコメントをしないといけないと思って私が登場したという。まさに、これは本質をついているといえる。

 

(6)阪神大震災における専門家のコメント

  阪神大震災の時に建設系の専門家がTV報道解説番組に引っ張りだこであった。そのときに(皆さんどう思われたでしょうか)、専門家の一部は案の定、細かなデイテールの話をして、例えば「鉄筋の帯筋のピッチが10cmではなかったため崩壊を招いた」といったことは、専門家の間では確かにそのとおりの指摘ではあるが、一般の方には(何のことか)理解できないことであった。一般人にとっては、そうしたコメントが理解できずというよりも理解する必要が無いのである。そうしたところを専門家がカバーしなければならないにもかかわらず、専門家は無力であったといってもよい。

専門家は細かな話をする一方で、一般の方は「とにかく壊れた。何とかして欲しい」といったように、「壊れたこと」に対してどう対応してくれるのか、行政は我らの生活を技術的にサポートしているのか、といったように種々論調があった。そしてけんけんがくがくの議論の末、ようやく専門家の間では壊れることの意味について専門家と一般の方との間にギャップがあることに気づいた。この話の後は別項に譲ることにして、今一度、専門家は一般人が何を求めているのか、何を鋭く指摘しなければならないのか、割合分からないといったところである。その点、ジャーナリズムの方はツボを心得ているといえる。しかし、ツボの発見のみで深く掘り下げられないこともあるので、専門家とジャーナリズムのタイアップが必要となるが、専門家の間にはあまりこのことを重要視する傾向は少ないことが気にかかる。

 

(7)封じ込められる批評

 皆さんの職場でも、討論はわだかまりなく忌憚のないものでといって討論として批評が席上に出されるが、討議終了の何日か経過して、わだかまりが噴出すことを経験された方がおられることでしょう。批評の内容を今後どうしていくかということよりも、あの席上の批評行為そのものが問題視されるのである。こうなれば、批評などのありようがなくなる。

 

(8)論外な批評

 一番困るのがケチをつけることを批評と思っている方が多いことである。本人は批評のつもりだというが、自分が何もしていないことを合理化するが如く、ひどいときには感情まであらわにする。このとき場はさすがに気まずくなるものである。これがひどくなると、中傷誹謗が批評ということになっていく。

 

(9)前提条件やシステムを度外視した批評

 このような前提条件でこのようになっていますといった論調に対して、前提条件以外のまったく関係ないことをあつかった批評がある。このときは、まったくすれ違いの議論となる。(結構目撃する)。的外れとはまさにこのことをいうのである。もちろん、前提条件そのものの議論ならば、それなりの様相で議論はなされるが、そんなことを意識していないのが的外れ批評の特徴である。

 

6.まとめ

 ここでの一番の主張点は、専門家が一般人に対して専門的分野の内容を如何に伝えるかである。これのひとつとして批評という名のコミユニケーションがあると思っている。技術社会が環境破壊をいとも簡単に引き起こすことが可能となった今日だからこそ、市民生活を守る上であるいは市民生活をより向上させる上で、こうした観点から論評としてのコミユニケーションを担う専門家の果たす役割が大きいといえる。

一般人に対してコミユニケーションするにはマスコミの専門家がおり、実にきめ細かに対応している。我ら専門家はマスコミの専門家とタイアップで、種々報道解説や啓蒙啓発報道に参加している。こうした分野において活躍できる人もいなければいけない。

それに加えて、(マスコミとは直接関与しない)圧倒的多数の専門家の役割も重要であり、彼らは実務を通して一般人と接するときに、一般人に対して適切な批評を行っている。

最後に我らは、今の時代に狭くなりがちな視野は広く、ゆらぎかねない視点はよりしっかりとさせて、分析の目をより健全に良いものにしていくという当たり前のことをもっと心がけたいものである。


 

 

 

 

 

 

 

未来を拓く研究と技術開発の理念的展開、分析の時代から総合化の時代に向けて何を問いどう展開すべきか、エッセイ16

未来を拓く研究と技術開発の理念的展開、分析の時代から総合化の時代に向けて何を問いどう展開すべきか 2002.3、エッセイ16

 


1.はじめに

   地球資源の問題、環境の問題、情報洪水の問題、人間性の喪失の問題など高度技術社会の弊害が叫ばれ、昨今の構造的な不況とあいまって今まさに根源的かつ抜本的な対応に迫られ、特に建設の分野では造りっぱなしの時代からの決別を余儀なくされている。これに呼応して、産業界や人間社会に対して種々アプローチする研究や技術開発についても、資源の有効活用、リサイクル、リユース、サステイナブルなどのキーワードに代表されるように、今まさに質的転換が始まり動いているといえる。しかし、そうした動きは確かに革命的であるが、大量生産大量消費の構造が資源循環の構造に変わるだけに何か大事なことが問われているのではなかろうか。私は理念の欠如が問われており、あくまでも理念をもってそこに種々のアプローチがあるべしと考えた。

 今ここに20世紀は何かと問われたら「分析の時代」。では21世紀は問われたら、分析を総合する時代、「総合」の時代が来るといってもよい。考えてみれば、建築学の大きな体系を構成する構造とか計画とか設計といった体系もまた肥大化してきており、そうした体系を誰がどのようにかかわりあうのか、対人間の観点もまた霞んでみえる。総合化はまさにそうした観点をまとめたキーワードといえる。

 総合化は人間性あふれるもの。ここでは、明日を拓く理念としての総合化がなぜ必要かということを理念的に述べ、その後に各論に展開することにした。なお、本稿で大上段に構える理由は専門化・細分化された議論が理念構成にそぐわず大きな展望を描きにくいからである。

 


2.総合化の今日的意味と内容

 総合化というとき、これは部分部分を「いくつかの見通しのもとで結びつけるというように考えて見ると、「つながり」と「拡がり」ということばで表すことができる。またその見通しというものには人間がかかわり、そこには良識・博識・見識をもって技術や研究の体系とは別に利用者の系もまた入り込むことも明らかである。歴史性や風土性などを含めて、それこそ人間(臭さと)らしさが滲み出てきて、現代における閉塞感を打破することが容易に想像できる。こうしたスタンスで総合というものを捉えるならば、これまでよくいわれてきた問題もまた明確につながりを持たせて整理することができ、各部分部分にかかわる人たちの相互理解へと発展していくものともなる。要は、時間的(歴史的)にも空間的(種々ジャンル、種々専門)にもそうしたスタンスがあれば、発想が飛躍し、各論各部はほっておいても成長していくといいたい。

 


3.よくいわれている問題(各論として)

 いままでいわれている以下の問題もまたいってみれば総合化が研究・技術の水準に比して十分でないことによるものである。具体的に論じてみる:

(1)研究と実務のギャップというが:研究者の盛りだくさんの研究成果が実務の世界で十分役立てられていないこと。実務は研究より下位のものということではなく、むしろ研究成果の総合化が全体の体系と遊離しているのであると考える。

(2)モラル育成も「総合化」から:阪神大震災の例をひくまでもなく技術者のモラル低下が叫ばれているが、実はモラルではなく無知が根底にあるものと思っている。あまりにも分業化や専門化が進んだ結果、ものの本質の探求と配慮の欠落を招いている。エリート技術者は別にして多くの技術者(むしろ職人達か)のための研究や教育が効をそうしているかはなはだ疑問に思える。

(3)活力の源もオールラウンドな視点から:最近の不況にもよるが建築従事者に元気がないようにみえる。2030年前はもっと元気があったと思っている。(元気な人がもちろんたくさんおられるけれども)デザイナーのありあまる元気はどこにいったのか。また建物のデザインを実につまらなくしているのはなぜであろうか。理由は、デザインと(真の)構造のいわゆる総合化がないからである。これは何もデザイナーが構造を理解すべしということをいうのではなく、相互理解としての構造家(構造計算屋ではない)とのコラボレーションを意味する。

(4)街並みや環境やというが(by坂井):建築設計は恣意的な要素が非常に強い。このため街並みとか広範囲な地域とかいったように大きな次元になると、建築家はなかなか絵を描くことが難しい。橋とか塔などの大型のデザインにしてみても建築分野からの絵があってもいいがほとんどない。土木分野では風土とか風景といった分野があり、対応して建築では(広い意味の)環境の分野があるが、建築らしい評論的な段階を建築らしく乗り越えて欲しく、その意味で建築の恣意的行為を論理的にでも感性的にでも総合化させるべきなのであろう。

(5)工学的判断:工学は経験に基づくといわれているものの、項目(1)ともリンクするが、経験は経験、理論は理論といったように分離しているように思えてならない。経験工学の経験そのものにもっとスポットをあて、経験センスを磨くことについて何をなすべきか、経験を論理の主軸や各論理の接合として総合化があればと思う。

(6)過去の技術の評価は:例えば伝統工法は職人減にもよるが正当な評価が得られていない。これは、そうした過去の技術を今日的に研究していないからといっても過言ではない。文化が軽視されぎみなことがあるのもこうしたところにも原因あり。歴史と伝統が単に心情的なものや単に過去のものといった捉え方ではなく、しっかりとした評価をしたいものである。こうした時代の連続性が未来の技術の礎や活力のなるものといえる。

(7)礎はどこに:項(6)ともリンクするが、何につけ独創性が無いといった発言が多々あり、ややもするとこれまで築き上げたものが無用といったことをしばしば目撃する。当り前の事の評価およびそうしたところの総合化が希薄なのではなかろうか。当り前の事を地道につみあげることが必要であるべしといえる。

(8)バーチュアル技術は:街並景観、造形、視覚など感覚の分析問題が人間の能力を拡大する形で研究が進んでいる。バーチュアル技術は、確かに人間の感覚に作用してバーチュアルリアリテイを提供しているが、よくいわれているように人間の感性を鈍らせることが危具されている。これとて人間性を主とする理念に基づいて技術が対処してこそ奥深い発展が期待できるものである。

(9)専門非専門の教育は:(すばらしい技術者が多いが)技術者の行使する技術レベルの格差は甚だしく大きい。よい建築をといってみたところで、マニアル依存技術者は対応に苦慮することもあり、圧倒的多数の彼らにとっては、自己研讃を望む余裕はなく、加えて研究や技術開発の成果の恩恵を受けることもないとみている。これとて技術者の必要なグレードとレベルに対応して、研究の成果(体系というべきか)が利用できる状態になっていないからである。こうした問題は一般市民に如何に建築文化を理解して頂くかという問題と根源的に同じである。

 


4.根源的な問題

  以上見たように結局のところ総合化には人間のかかわり方が大きく関与しているが、阻害要因にも対処しなければならない。


(1)
技術の高度化に際して

 高度技術化になればなるほど、役割分担、分業化が加速してきている。技術体系が人間とバランスさせるにはそうした分化が必要となったのであり、また人間を遠ざける要因も体系自身もっている。すなわち、人のかかわり方が狭まっている(その分、深くなっていることもある)。しかし、技術は本来、人間生活を豊かにするものであり、技術によって生み出された余剰時間こそ、人間が生活を本来楽しむために使うものである。ところが、全体を見る人がますます少なくなってきており、人間疎外といったことが、技術の高度化にともなって加速している。産業革命の頃と違うのは、各自各人がそのような傾向を暗黙のうちに、受け入れたり刷り込まれたりしている所に問題がある。啓発が必要であろう。


(2)
二極分化をどうのりこえるのか

 一部のエリートの存在が必要としても、高度文明化社会では高度すぎるゆえの秩序としてエリートとワーカーの構成と機能円滑化のシステムが導入され、それがますます性能を高め、時にはブラックボックスを大量に導入しながら、システム自身の高度化が助長されている。こうなると、ますます人間の存在がみえなくなってきている。しかしこれは、人間全部が不要になるのではなく、その役割が少なくなり、またシステムにより与えられた小さな役割を演ずることだけになるというのが実際の状況である。その意味ではマンマシンシステムの効率よい形態が模索されていくのであろう。果たしてそれで人間は満足するのであろうか。もちろん、いいえであろう。こうしたところにも英知が必要であるといいたい。


(3)
総合化してあれば

 研究や技術開発といった最先端の先鋭化も必要であるが、私は先端技術の普及が大事であり、発信側と受信側ともにコミユニケーションとしてかかわりを考える。例えば、利用者側のいく段階ものグレードにあわせた種々のニーズに応じて対応する体系から必要な部分体系を利用活用できるようにしたい。そこには体系そのものがグレードに関して連続化されていたり、体系の構成を変えたり(組替え)することも必要となる。実務と研究のギャップとか教育と研究の可分や不可分の問題も何の事はない、連続性があるかないかの話であり、総合化がこうした展開で効をそうするといいたい。特に、教育関係には学力レベルに応じた組替えた体系で大きな力が発揮されるものと思う。

 

5.まとめ

 分析の時代が終わり、総合化の時代が到来し、このスタンスにより研究や技術開発がすすむものであることを力説した。特に総合化は何の目的をもって総合化するのかということがあって初めて成立するものであるので、人間性がもちろん色濃く入り込む。そうしたところに人間と組織や体系との人間味溢れるシステムが構成され、資源枯渇や情報過多といったような混沌とした現世界において新しいものを築くと思っている。そして、こうした観点をもつ世論形成の必要性を感じると共に一人一人の心がけが大きく世界を変えるものであると思っている。研究と技術開発の理念はまさにここにありといえる。

追記 世論形成のオピニオンリーダーたれ。

   

プロフィール

essey7

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ