歴史、風土

富山の住民行動の近代史 米騒動、イ病問題、エッセイ171

2018.06.24 富山の住民行動の近代史 米騒動、イタイイタイ病問題、171

 富山の民主主義の歴史で特筆すべき事象として、イタイイタイ病(イ病)、越中米騒動がある。これら事象の概要は以下のとおりである。

  イ病では三井鉱山を相手に民衆が鉱毒垂れ流しに厳しく抗議
  米騒動では、コメ価格を不当に吊り上げる社会に厳しく抗議
 いずれの事象も、民衆が生活を守るために声を大にして抗議し、運動を展開して全国に嵐がかけめぐったのであり、戦後の民主主義の原点ともいえる運動である。これが富山を発祥の地としているのである。最近は、民衆の歴史よりも観光が富山でも主となってきているが、民主主義あっての平和であり、かつ観光である。こうした観点で、富山の民衆運動についてここで述べることにする。

 

1.越中米騒動、近代民主主義の原点
 越中米騒動は1918年に、越中富山で起こった住民による社会抗議運動のことである。1918年のものは女性が先導したこと、全国に波及したことが特徴的である。富山発の一大社会問題としてここに論述する。

(1)
 米騒動について概説
 寺内内閣の時期、越中米はシベリア出兵に関連して拠出され、地元には販売用の米が当然少なく、しかも法外な値段で販売していた。そこで、地域の主婦たちが自からの生活を守るために立ち上がった。米の価格が不当であること、地元米を他地域に持っていくなと、女性たちは猛抗議をしたのであった。これを越中のジャーナリストが直ちに全国に状況を発信したところ、全国各地で一気に火がついて暴動が各地で起こったのである。


(2)
 米騒動の本質
 米騒動は人間が生きていくための不正や不合理を鋭く突いた直接行動であった。しかし、その後、米騒動は暴動と捉えられ、「米の争奪、人への危害、商家への放火」といった間違った認識がなされ今日に至った。確かに全国では米騒動は残念ながら暴動に発展したが、富山では真実は「奪わず、危害を加えず、放火せず」であった。
 こうした行動に対し、時の政府はどうしたか。軍隊でもって米騒動を鎮圧したが、一方では総理大臣の首を挿げ替えて鎮静化を図った。

 時代が下ってからは、米騒動は、婦人参政権獲得はもちろんのこと、住民の直接行動で社会の不合理不条理に抗議をしたという前例となって、その後は民主主義の原点となった。

(3) 今日的な問題
 米騒動から100年を経過している。日本では政権政党がきな臭いことをも日常化する政策をとり、ますます国民の生活を窮乏させようとしている。ここはやはり、そうした動きに猛然と抗議をしていかねばならず、その意味でも国民の直接的抗議行動やジャーナリズムの果たす役割は大きいといえる。しかしながら、住民運動の小休止状態やジャーナリズムの権力対抗姿勢の弱まりも残念ながらみられる。だからこそ、健全な民主主義を貫徹する上でも、米騒動の原点を思い出して今後の運動を展開していくべきであり、米騒動は一体何であったのか、何故に問題にし、どう対応していくのか、もっと自分らの今日的な問題として捉えたいものである。

(4) まとめ
 上述のように、米騒動は暴動では生活を維持するための社会不正義に関して激しい抗議であったこと。また、ジャーナリストがことの本質をしっかりと見極めて権力に抗して全国に報道したこと。この2点が米騒動という直接行動の本質である。知識人向井氏は米騒動を「女性による世直し」といっておられた。まさにそうだと思っている。これをもってまとめとしたい。

  

2.イタイイタイ病について、その本質とは  事実検証中です!!!
 明治の頃から神通川流域(特に富山県婦中町)にて、原因不明の風土病として捉えられていたこの病気は、太平洋戦争の頃には相当数の患者になり、戦後も一向に減らなかった。1955年には、こうした病気があることが世に向けて報道されたが、その後はすぐに無報道となった。
 その後、1966年には被害者団体が設立された。被害者団体は、196839日には三井金属を相手に提訴した、その直後59日には公害病と認定その一方では富山県は公害病ではないと主張。そうこうしているうちに、黒部にある工場の煙からCdが検出され、農地汚染が問題となった。もちろん、企業側はこれを隠した。
 時代が下り、1971630日には一審で原告側が勝訴、続いて197289日には二審で勝訴。大企業に対して初めて住民側の勝訴であり、勝訴の報道は全国を駆け巡った。
 ところが、巻き返しは1975年に始まった。文芸春秋の19752月号に「イ病は幻の公害病」ということで反鉱毒が主張されたのであった。これが大きく企業側を力づけさせることになり、以降再び論争となった。
 巻き返しの要因は何であったのか。土壌復元で膨大な金がかかる。これを加害企業の三井が負担することになっていたので、こうした住民運動で同種の企業が窮地に陥ること権力側・企業側が懸念して、かかる運動が全国に波及することを恐れたためである。
 また巻き返しは、自治体レベルでは、被害者救済の道を閉ざすかのように、県の患者認定調査会の審査で、委員長に反Cdを主張する御用学者をあて、しかも現場で実際に診察に当たっている萩野医師を除外し、まったくか患者を診たことも無い医師を委員とするえげつなさである。要は、権力側・企業側に加え自治体も、患者救済にも金がかかるから、患者や住民を無視してもケチることに徹したのであった。
 繰り返し言えば、巻き返しは、患者本位の背策が全国に波及すると企業側が困るからである。こうした状況下では、患者も対抗措置として骨生検で対応した。患者の身を削る骨を提供して検査をして患者認定を申請したのであった。こうなれば、いじわる行為ができなくなり、患者側の身を削る抗議が功をそうしたのである。
 権力側では、富山のイ病が全国に波及を恐れた。イ病が、大企業に勝訴し、患者の救済に全力を挙げるという、全国に先駆けてトップランナーなだけに、権力側が潰しにかかったのである。
 こうした潰しにも毅然と抗して運動が展開された結果、20131217日に企業側と患者側とで採集の和解が成立した。これをもって全面解決と謳われたが、未だに患者認定には高いハードルを設け、患者の切捨てが平然と行われているばかりか、未改良の土壌の放置や神岡での大量の鉱屑の放置があり、これについてどうするかがまるで考えられてはいない。

以下検証中

 また、患者については、20185月現在では200人だったが、今生存は5人である。協定を結んだ後も患者が出てきている。今後も出ることであろう。こうした状況にも、真摯な対応が見られないでで、全面解決はとんでもないといわざるをえない。
 今後については、事実を風化させるという権力側の方策に抗して真実を語り継ぐことが一番であり、その活動を推進していかねばならない。要は、公正さをゆがめ、不都合な真実を隠しごまかす、そんな風潮を、福飛ばすためにも、健全な社会世論を作り、これをより強固にしていくべきと考える。

  

 3.おわりに

 以上、富山における近代民主主義の原点が垣間見ることができた。また富山でもっと胸を張って将来に向け歩む自信が強まったように思う。

こうして自分なりにまとめ上げれたのは、イ病や米騒動のシンポ・講演会等に参加したおかげであり、各企画を精力的に進めておられ方々として、特に、ジャーナリストの向井氏、細川嘉六ふるさと研究会代表の金澤氏をはじめ、イ病を語り継ぐ会、米騒動100年記念フォ-ラム実行委員会の皆々様には、記して謝意を表する次第である。

富山県の歴史、アイデンテイテイと興味の郷土史、エッセイ143

2016.07.06 富山県の歴史、アイデンテイテイと興味の郷土史、143

1.                 はじめに

 富山県に住んでいる我らにとっては、富山の歴史については、日本の歴史とは違って何となく身近に感ずるためか、何でもかんでも何となく知ってみたいという気持ちになる。郷土の歴史とはそんなものなのであり、大なり小なりいろんな方々がかかわれるのが一番の魅力といえる。しかも、何かこだわりをもってピンポイントで迫っても歴史に何か新しさを感じ、興味がわいてくる。

 そう思っていると、自分の好きなポイントの歴史を地域におけるアイデンテイテイと捉えることにして、郷土史を自分にとってもっと身近なものにしたくなった。また、全国歴史そのものについては念頭には置くが、富山という地域で特徴的なことが即、アイデンテイテイにつながっていることを実感したくもなった。

そこで、こうした思いを叶えるために県域の変遷史として富山の歴史を書いてみることにした。また、全国に先駆けて富山を有名にした米騒動とイ病(イタイイタイ病)をも扱いますので、お付き合いをお願いいたします。

 

 

2.個人周辺から郷土へ、自分中心史から郷土史へ

 歴史については、むしろ身近な自分の街で小学校が新しくなったとか、ショッピングセンターができたとかいった事が何といっても自分らの歴史である。郷土史は、多分にそんな自分たちの歴史の臭いのする歴史なのであろう。そうなると、ますます自分も郷土史に参加したいという気になるものである。

 では、その源に何があるのであろうか。それは行動圏・生活圏における生活の営みであることはいうまでもない。身の回りの皆さんの思いが積み重なって、総体として地域圏あるいは大きなコミユニテイが時間という奥みをもって形成されていく。その全貌が結果としての郷土の歴史を育み刻んでいくのである。

 

3.具体的展開

 富山の自然は立山ということができる。では富山の歴史はといわれると、すかさず真っ先に佐々成政や前田の殿様が上げられる。これは、関心や興味の歴史として、源平期、戦国乱世の佐々成政、近世の前田加賀藩時代が思い浮ぶからである。

 一方、民衆の歴史として、立山信仰、越中米騒動、イ病があり、文化の歴史として大伴家持がある。

 古代から中世・近代の順に展望していこう。

 

2.1 古代 7-8世紀

<a> 県域

 まずは、富山が歴史的にいつ登場するのか。これは律令制の時代になって初めてではなかろうか。都人にとっては、北陸は北の果てであり、立山連峰が果ての象徴であったのである。そんな時代から展望したい。

 大化の改新(645年)の頃、高志(こし)の国といわれていた北陸一帯は、いまでいう福井敦賀から石川、富山、新潟、山形庄内地方までの領域である。当時は陸路よりも海路が盛んであり、このため北陸の北限については弥彦山あたりとすることもあるという。また、高志のいわれについては、都からみると北にある(高志の)山々を畏敬の念でもって高志としたのではなかろうか。

8世紀以降には、高志の国は、越前、越中、能登、越後に分割され、高志の国が越の国と書かれるようになった。(呼び方は「こし」のくに) なぜ越なのか。分国においても分国境界の山を越え越の国があるという意味で、高志が越になったようにも思う。

越中は、757年に魚沼や頚城が越後に移され、今のスマートな越中におさまった。
 ところで今でも、福井、石川、富山、新潟がなぜ北陸ですかとよく聞かれる。昔は、北に及ぶ権力域は高志の国までであったので、都からすると、そこらの地は北の果てとして北陸といわれたという解釈を今でも使わさせていただいている。

         

<b> 立山開山

 佐伯有頼が立山を702年に開山したという。開山には諸説あり、実存した親の有若ではないのか、佐伯一族ではないのかともいわれている。

 それはさておき、県内ではもちろん有頼が歴史上の重要人物として立山信仰の創始者として祭り上げられている。また、立山信仰の布教で、曼荼羅絵の果たした役割は大きい。

 

<c> 大伴家持

 古代の著名人といえば大伴家持であり、富山の文化性を持ち上げるには一役でも二役でもかっている。

 歌人大伴家持は746(平安時代)に越中国司として国府(今の高岡市伏木)に赴任し5年ほど越中に居していた。在任中、家持にはお気に入りの場所が

    ・二上山(高岡の山。奈良にもある)、

・布施の海(氷見平野、当時は海であった)、

・立山

の三か所であり、これらの場所にて越中の和歌を多数(223首)詠んだ。特に、立山を詠んだ歌が有名である。ただし、富山の雪にはうんざりしていて、そのせか、海越しの立山には興味示さないばかりか、立山の懐近く県東部には足を踏み入れなかったという。県東部での歌は旅人から東部の様子を聞いて詠んだともいわれている。

 立山の和歌については、以下に列挙する。

  立山に ふり置ける雪を 常夏[とこなつ]に

      見れども飽かず 神[かむ]からならし

  片貝の川の瀬清く行く水の

          絶ゆることなくあり通ひ見む

  たち山の雪しくらしもはひつきの

          河のわたり瀬あふみつかすも

 

2.2 木曽義仲

 木曽義仲は倶利伽羅峠で平家軍を敗退させたということで有名であるが、県内ではさほど義仲云々は語られてはいない。理由は簡単である。越中にはまったく住んでいなかった人であり、県西部域にある主戦場「倶利伽羅」において源平が勝手に戦をしただけということが義仲の評価である。

そのためか、県内では、義仲が行軍したルートが人知れず伝聞として残っている(にすぎない)。

 弓の清水の伝聞地では、義仲の軍が越中西部を行軍していたとき、兵士がのどの渇きを訴えたので、義仲が地面に弓をひいて矢を射ったところ、水が湧いたという。どういう訳か、この地が史跡に指定されている。最近、地元の研究者により、そのような場所を義仲が行軍していないことが実証されたが、高岡市はかたくなに史跡解除を拒んでいるという。理由は、「真実はどうでもよく、観光資源が減る」ということのようである。

 

2.3 佐々成政の時期1580-1585

 近世では、越中は一向一揆の時代や上杉統治の時代を経て、織田政権の武将として佐々成政が越中に入り、上杉勢を退けて領国経営にのりだした。とにかく、県内初の戦国大名として越中に居を構えて住み、越中に尽くしたことが評価されている。また、地道な統治の成果として治水事業が有名であり、神通川の佐々堤を築いたことが後世に伝えられている。このことからしても、県内では佐々の人気は前田の殿様よりも結構高いといえる。

 なお、佐々は秀吉に攻められたとき、厳寒期に浜松の徳川に援軍要請のために、北アルプスさらさら峠を越えたことが一層名前を県民の記憶に残したといえる。 

 

2.4 前田の富山藩、1585-1871

 佐々成政以降、越中は前田の領国となり、1639年には、射水郡と新川郡の一部が富山藩となった。前田利次が初代藩主に就任し、新田開発もすすめ加賀藩を支えていた。富山県域にあたる領域(富山藩、射水、砺波、新川)では、40万石は越中といわれている。

 江戸時代、県西部は加賀藩であったので、加賀の武家文化が県西部では華やいでいた。しかし、県東部は、加賀藩でありながら、文化とは無縁の世界であった。理由はおそらく、加賀の文化が富山藩に遠慮して県東部越をしなかったためと、県東部が文化でなく米蔵であれば十分とされたためであろう。このため、富山県西部にある高岡、伏木、射水、岩瀬、砺波では絢爛豪華なお祭りが多いのに、県東部では華やか祭りは全くないのである。

 富山藩はそんな貧乏所帯の藩であり、上述のように文化の香りのないことが特徴的であった。なぜそうなったのか。なぜ、富山藩が神通川と常願寺川の間だけの領域であったのか。本来なら新川を含めて神通川以東すべてを富山藩にすべきと思われる。推測であるが、分藩に際しては

・幕府の手前、分藩ということであれば、ある程度藩としての体裁が必要であったこと。

・分家筋には、母屋は割合冷たく対応した。

・新川域の米生産は魅力であったので、母屋は新川を手放さなかった。

といったことにより、富山藩はこじんまりと富山中心に限定された狭い領域になったのであろう。

しかしながら、富山藩は、諸産業として薬産業に目をつけ、これを奨励し、とりわけ全国に商う売薬を制度化させた。今日、富山が県の中心(県庁所在地)になっているのも、富山に何の産業もなかったからこそ、産業振興に目を向けることができたのである。そのような富山が高岡を押しのけて県庁所在地になってからは、富山の発展ぶりはそれこそ特筆すべきことである。

 なお、参考までに加賀藩の石高について記しておく。関ケ原後1639年までは、加賀は120万石であり、能登23.3万石 越中55.3万石、北加賀26.6万石、加賀西部12.5万石となっていた。1639年には、大聖寺藩7万石、富山藩10万石が独立して、加賀藩本体は103万石となった。

 

2.4 米騒動 1918

 富山県では、明治期、米商人が富山の安いコメを買い占め、県外で高く売って巨利を得ていた。1918年(大正7年)政府のシベリア出兵を機にコメの投機的買い占めが始まり、米価が高騰した。日頃の米価高騰に苦しめられていた魚津の主婦たちが港に停泊の米運搬船へのコメ積み出しを阻止した。これがたちまちのうちに全国に知れわたり、各地で民衆が蜂起したが、軍隊によりすべての騒動が鎮圧された。

 民衆の大抗議運動として特筆すべきこの騒動は、県内ではあまり触れられてはいない。単なる一事件という捉え方しかされていない。

 

2.5 イタイイタイ病(イ病) 1910-1970

(1) イ病

 イ病は、神通川下流域の富山市婦中町で1910年から1970年まで、特に女性に発症した公害病である。症状は、骨がもろくなって折れるものであり、想像を絶する痛みを伴う。患者数は、200-400人くらいといわれているが、過去からも含めて実数は不明という。

イ病の原因は神通川上流にある三井金属神岡精錬所から出る亜鉛精錬の未処理排水に含まれているカドミウムである。これが農業用水や飲用水として使っていた農民の体に取り込まれ蓄積することにより腎臓障害を引き起こし、体内の骨量が減少するのである。

 イ病について、原因が判明し、患者救済や再発防止へと世の中が動き出したのは、1955年からである。すなわち、1955年に地元の萩野医師がイ病を発表し、1957年に鉱毒病として指摘して以来、問題解決に向けて運動が始まった。初めのころは栄養失調とか、風土病とかでカドミウム原因をなんとかうやむやにしようという勢力もあったが、1966年にはイタイイタイ病対策協議会が発足し、粘り強い調査研究・運動もあって、1968年には厚生省は「イタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動によって排出されたもの

である」と断定した。

 その後、すぐに文芸春秋誌をつかった反キャンペーンが繰り返され、長い裁判闘争がくりひろげられた。詳しくのその関係の文献を参考にしていただきたい。  

最終的には、201312月に全面解決として合意書を原告と被告の間で取り交わした。ただし、これですべてが終わったわけではなく、行政はいまだに公害病認定にハードルを上げており、三井金属はいまだに神岡鉱山に残留する廃棄物を未処理のままにしていることなど、問題はいまなお多く残っている。

 

(2) 汚染地域対策

 住民側のパワーが力を増してきて、汚染地域は行政側で土地改良によって汚染程度を低下させることになった。県は、1974年から農用地汚染防止法により農地区域863haを対象として土壌改良を検討し、1979年の本格工事を開始し(33年かけて)2012年にやっと完了した。総費用は407億円であり、これを三井金属、国、県が分担した。

(3) 今

イ病への対応について富山県は、上記土地改良工事の推進と後世に負の遺産として伝えるイ病記念館をオープンさせたが、問題は今なお残っている。ひとつには、改良工事は一応終わったことになってはいるが、未改良地域は大ショッピングセンターや公園として今なお手をつけず残しており、ここにも行政が工事費を浮かせようと思案した名残を見ることができる。第二には、資料館において県が鉱毒説を否定し、患者を著しく危険にさらしたことを少しも展示していない。行政が誰の味方であるかが如実に見て取れるしだいである。といった指摘を含めて、イ病を語り継ぐ会は、いまもなお行政には真摯な対応を求めている。

 

3.富山県域の変遷

 富山県は東西南の三方向で山に囲まれており、県域は自然と地形に沿ったものになるはずではあったが、政治の力関係で、石川域と富山域とで境界線が何回も線引きしなおされた。1876年には、富山域を含めて石川県の領域が定まった。しかし、石川側と富山側とでは行政の主事業が異なっており、石川の道路整備に対して富山の治水事業を優先していたので、富山側の独立が強く叫ばれ、1883年に富山県が石川県から分離して(富山県が誕生し)今日に至っている。

 1889(明治22)には、市制・町村制が実施され、富山町と高岡町が市となり、2市31238村となった。

戦後(1945年)にはいってからは、戦災復興院告示第一号により都市計画事業がすすめられた。その後、市町村については、昭和の大合併で9市18町8村(総計35市町村)となった。

2004年(平成16年)には砺波地方に2つの市が誕生し、1013町4村(27市町村)となった。

 

4.まとめ

 郷土に関心があって、何となく自分でストーリを構成したくなり、富山県の歴史としてまとめてみた。このため、本稿は一般の歴史書とはかなり違って特徴的な様相となった。列挙すると;

(1)    県全体の通史ではなく、県民の歴史人気と住民の苦難について書き記すことができた。

(2)    県民の関心を自然と発掘したおかげで、興味がさらなる興味を引き出すようなイメージを作り出すことができた。

(3)    (一部の事象だけだが)県民の関心はやはり歴史上の人物そのもの。読者が人物と重なると、しらないうちにアイデンテイテイを堪能したことになると考える。

 

読者の皆さん、いかがでしたでしょうか。本稿から県民の様々な声が聴けたのでは、と思う次第です。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

 

A.あとがき

 富山の歴史を扱った本は、本当に沢山出版されている。それだけに、歴史に寄せる思いは皆さん、強いということができる。

 かくいう自分も歴史ファンである。かなり知識がたまってきたので、何か書きたくなってきた。しかしながら、単に富山の歴史というのでは、いかにも歴史を勉強してまとめましたってことになるもので、おもしろくない、

 そこで考えたのが、「歴史は何のために歴史か」という視点でもって歴史を語ることにした。皆さん、歴史を何のために知るかといえば、郷土のアイデンテイテイを知るためとか、人間の営みの積み重ねを知るためということである。(時には負の歴史も)

 本稿はそうしてまとめたものである。単なる歴史書とは違って、一味も二味もあること間違いないといいたいのである。

 歴史は、そんな観点に立てば、いろんな対象で歴史を語ることができる。誰でもが語れる、それが歴史なのである。

 

追記

最後に、なぜ執筆か、今一度理屈を述べたい。

世の中に多くの本が出ていても、自分で歴史を勉強していくと、何となく(歴史を通して参加したくなり)まとめてみたくもなる。実際にまとめだすと、何か自分らしさを出しながら編集したくなってくるから不思議なものである。そんな思いをもって執筆した。

 

追記2 感想

 本冊子を何人かの友人にお見せしたところ、感想をいただいたので、ここに紹介する。

・越の国はなぜ越なのかの議論について;おもしろい。(朝鮮から)海を越えての越ではないのか。

これを聞いて編者の見解として、当時、海路が主でしたから、これまた敦賀の方から海を越えての感覚があったのかもしれない。

・歴史「history」を「his-story」としてではなく「my-story」として。編者はこれにうなずきました。なるほど。

 

立山信仰の今、こぼれ話、エッセイ132

2016.01.05 立山信仰の今、こぼれ話、132
 こぼれ話として、和歌、神社、神道、Q&Aなどを記すことにする。 


1.
大伴家持の和歌

1.1 家持概要

 平安時代の越中国司に赴任した。家持お気に入りの場所は次の三箇所である。

   二上山(奈良にもある)、布施の海、立山

ただし、富山の雪にはうんざりしており、また海越しの立山には興味を示さなかった。氷見から見る立山は氷見の海岸、富山湾、立山連峰という実にすばらしい光景が気にいらなかったのはなぜかは分からないという。


1.2
 立山の和歌

 立山について詠まれた歌は以下の通りである。

・立山に降り置ける雪を常夏に

          見れども飽かず神からならし

・片貝の川の瀬清く行く水の

絶ゆることなくあり通ひ見む

・たち山の雪しくらしもはひつきの

河のわたり瀬あふみつかすも


2.雄山神社 

2.1 建物と敷地

雄山神社は. 立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿 ・岩峅前立社壇(まえだてしゃだん). 三社殿からなっている。また、本社は、その昔には岩峅と芦峅の神社が相対立していたため、岩峅や芦峅ではなく山頂に峰本社として置いた。今は、宮司はひとりであり、芦峅中宮祈願殿に詰めておられる。

雄山神社管轄域は大変広く、立山一帯(剣、大日、三山、薬師)にわたっている。雄山山頂は雄山神社所有の土地であるが、山頂社務所は国有地である。

参考までに、富士山では、頂上は浅間神社のものか国有地かでもめている。山梨県は神社側に、国には静岡県がそれぞれついて争っている。


2.2
 ご神体

 ご神体は霊峰立山であり、立山の神は伊邪那岐神(いさなぎのかみ、神仏分離前までは立山権現雄山神・本地阿弥陀如来も)・天手力雄神(あめのたぢからおのかみ、神仏分離前までは太刀尾天神剱岳神・本地不動明王も)の二神である。雄山神社は神仏習合時代でも修験道として仏教色の強い神社であったが、寺院ではなかったが特徴である。ちなみに、岩峅や芦峅の峅には神が降り立つ場所という意味があるという。


3.神道

3.1 神社建築

 我らにとって年に一回の初詣で神社はなじみ深いとはいえ、よく考えると分からないことだらけと思う。ここでは、神社建築の特徴をまず列挙したい。本文と重複のところもあり。

・建物:拝殿・幣殿・本殿の三棟からなる。

   本殿はご神体が安置されているところ、拝殿は参拝するところ、幣殿は神に奉納するところである。

・屋根:瓦ではなく木肌葺き(後年檜葺き)である。仏教と抗するためという。

・立地場所:神社は氏子を守るように村の外れかつ標高の高いところに設置される。

・社の方向:神社正面は村の中央に向く。

    山岳神社についても人の住んでいる方向という説と、太陽をつねに向くとして南に向くという説もある。

・社殿と祠:参拝者がぬれないように屋根があるのが社殿、ないのが祠。

・神:神は自然物の場合、本殿はなく拝殿だけがある。

ご神体が鏡のように安置できる場合には本殿が神の住まいとなる。ただし、もともと神は出雲におられ、お祭りの際に神輿にのってやってくる。祭りが終われば神は出雲に戻る。

・寺の山号:寺には山号がある。例えば比叡山延暦寺といったように。立山の場合、神道中心であり、寺院は建立されなかった。なお、ふもとの寺院として例えば上市では大岩山日石寺がある。


3.2
 神道

・本地垂迹説(ほんじすいじゃく)は神仏習合のひとつの考えで、仏様イコール神様、大日如来は天照大見の神というもの。これに対抗して神本仏迹説は、神道を仏教と一線を画すために、神仏習合はすれども、神が主で仏が従という考えである。今の神道はまさにそれである。

・修験道 奈良時代に役小角が創始し、平安時代に盛んとなったといわれている。もともと山岳信仰と密教が結びついて、厳しい修行を中心とした信仰が根付いて修験道となったといわれている。立山の場合も、修験道が中心であったようであり、これが江戸時代に入って、真言宗か天台宗のいずれかに属さねばならなくなり、本文では、参拝のルートが芦峅ルートと大岩ルートの二つがあったのである。明治に入り、修験道は禁止されたが、仏教色を廃して神道に移ったものもある。立山信仰はこれではなかろうか。

・磨崖物の岩はもともと神道ではご神体である。ご神体の岩を彫刻して仏像とする。これも神仏習合あってのなせることである。

・神道は明治に入って制度化され、国教となり、全国各地に神社が建立(一集落一神社)された。

・神仏分離 1868年に明治政府が神仏判然例を発布して、神仏分離がなった。岩峅にあった立山寺(岩峅寺ともいい、平安初期建立、源頼朝が修復・再建)と芦峅にあった中宮寺(芦峅寺ともいい平安初期建立であろう)が完全に消滅し、今の雄山神社を形成している。もともと神仏分離は仏教の目に余る横暴で地域民が苦しめられたことにより、廃仏毀釈をすすめていった。

立山の仏教系では、立山権現は廃され、布橋灌頂会や大権現布教が禁止となった。

・岩峅と芦峅の神社がその昔対立していた。このため、本社は岩峅や芦峅におかず、山頂に峰本社として置いた。今は岩峅と芦峅の社を一人の宮司が運営している。 

・参拝は社に向かって行う。社正面は南向き(太陽に向く)であるので、結果として北に向かって参拝となっている。参道も正面から直線状に南北に走る。

・雄山の峰本社の背が剣を向いているといわれているが、これは間違い。本社が南に向いているので結果的に、背が北方向の揺るぎだけになっただけである。


3.3
 布教と売薬

・越中の薬売りは、芦峅寺の立山信仰の信徒が、「一山会」という独特の組織を形成し、16世紀以降(江戸時代から)諸国を配札檀那廻りし、立山の縁起図や立山牛王紙、薬草や薬粉などを配置し、翌年代金を受け取っていた。これが売薬の始まりであった。


4.こぼればなし

・立山三山

われらは雄山、大汝、富士の折立の三つとしているが、信仰では、浄土、雄山、別山の三つとのこと。浄土は過去、雄山は現世、別山は未来、とのこと。

・雄山はどうも御山ではなかろうか。神話では山には男性、女性の神々がおられたという。山に男(雄)の意味をもたせることはないようにおもう。

・仏教が入ってから前人未到の険しい山が針の山とか地獄の山と称されるようになった。

・アルペンルートは交通公社の命名。発案の(芦峅宮司の系統)佐伯宗義さんは人を大量に呼び寄せることを嫌っていた。

・布橋灌頂会で使われる目隠しは前も足元も見えるようになっている。参加費は12万円(5万円から値下げ)。

・昔の登山道は山の水脈を切らないように分水嶺に敷かれている(美女平から室堂まで)。今は分水嶺を無視して道がつくられており、生態系にかなり悪い影響を与えている。


 


<Q&A>

立山に上ってみるといくつか疑問を持つ。以下に疑問を列挙する。答えについては本文中に記しておいたが、後ろ2点は現在検討中である。

・立山が仏教で開山といっても、立山には寺はない

し、山頂もすべて神社ではないか。

・佐伯有頼一人の人間で開山ができるのか。

・なぜ阿弥陀如来に矢を射ったのか。武器がでてこなくていいのでは。

・立山山頂では剣岳に向かって参拝するとされているが、どうしてそんな考えが定着したのか。

・立山はなぜ女人禁制をまじめにやったのか。

・布教に際し、後年、売薬が本当に関わっていたのか。

・芦倉寺と岩倉寺との諍いはなぜなくなったのか。

・後立山連峰は富山側の見方。しかし、後立山が北アルプスとして栄えている。東京に近いだけでこうも違いが出るものか。

 

 

 

 

立山信仰の昨今、立山で今ひとつの楽しみを、エッセイ131

2016.01.04 立山信仰の昨今、立山で今ひとつの楽しみを
、131

 我らは山に自然と足が向き理屈抜きに登る。仮に理屈をつければ、山のすばらしさを堪能しに、あるいは山にあこがれて、というところであろう。さらに理屈を求めるならば、それは歴史ロマンであり、ついこの間までは信仰の対象であった人間の精神活動のあれこれ(歴史)である。

 我らは、そんな理屈のもとに山登について大自然の雄大さを求めるとともに山岳信仰という結晶化した山の文化を垣間みることにより、登頂達成感に加えて自然と人間の営みを楽しむことができ、また山に入り込んだそのときから不思議な感情に浸りきることができる。

 理屈の前置きはこのくらいにして、我らの立山について語ろう。なぜ立山かというと、著者が富山人であり、こよなく立山を愛しているからである。当然のことながら、我らの立山登山についても、文化と自然の両面での楽しみを満喫するということになる。しかも、我らだけでなく皆さんとともに、立山のことをもっともっと知り楽しむことにしたい。

そこでここでは、(大自然は別稿で準備するとして)立山の文化性としての立山信仰について、立山一帯が宗教の大空間を彷彿させることを述べ、皆様がもつ歴史ロマンをかきたてることにしたい。おつきあいください。

 参考までに、立山の歴史を記しておく。

   ・・  狩人の時代    

   702年 佐伯有頼による開山

747年 大伴家持の立山の和歌

19世紀後半 女人禁制解除

20世紀前半 青年立山登山  

20世紀後半 登山の大衆化



<1>  立山信仰

1.信仰

 山の秀麗さや気品さが我らに山への畏敬の念を持たせ、その念は神への信仰へと変わっていく。山は、天空への入り口として、いや天空として、神が住んでいるところとされるようになったことは容易に想像がつく。もともとの山岳信仰とはまさにそうしたところから自然にでてきたものであり、仏教とあいまって進化したといえよう。

さて立山の場合、霊峰が極楽浄土であり、火山噴気孔や湧き出し温泉が地獄であり、天国と地獄が隣接しているのが特徴である。こうしたシチュエーションは山岳信仰にはうってつけであり、後年の布教とあいまって、立山信仰が一大勢力をもったものといえる。

立山信仰の基本は「立山に登れば生まれかわれる。頂上に上ると生きながらにして生まれ変わる」といった信仰である。とくに、疑死再生という考えは「山に入ると死に、拝んで生まれる」のことであり、山に登ることが信仰の形態となったのである。なお、俗説では「立山に上ると地獄に落ちない」という明快な教えもある。



2.立山一帯が仏法の世界

a.立山一帯を構成するいくつもの山があり、地獄もある。これが仏界を構成している。まずは、霊峰を極楽浄土としており、これには

     「浄土山(過去の世界)、雄山(現世の世界)、別山(未来の世界)」

の山がある。

 次に、地獄については、火山噴気孔や湧き出しのあるところを地獄谷と称している。そこには、

「賽の河原、血の地獄。冷水の地獄、

湯の地獄」

がある。また、地獄には、針の山として剣岳がある。



b.立山一帯の山々

当地には、大汝山、富士の折立、大日岳、室堂山、薬師岳、鬼岳、獅子岳の山々に加え、弥陀ヶ原、室堂、弘法、称名滝がある。これらは、仏界のロケーションを構成するので、仏法にちなんだ名称となっている。



3.山に登るという信仰

 立山三山といえば雄山、大汝、富士折立の三つの山をさすが、立山信仰では雄山、浄土山、別山のことであり、仏界として現世、過去、未来をそれぞれ対応させている。

 立山信仰では次のような登り方により信仰を極めることになる。すなわち、室堂からまずは現世の雄山に上る。次に過去の世界である浄土山に登る。続いて現世の雄山に戻った後に未来の世界の別山を上る。そして現世の雄山に戻り、室堂に帰還する。

 これをもって、生まれ変わりをなしえたとするのである。

  室堂 →雄山→浄土→雄山→別山→雄山→ 室堂

       現世 過去 現世 未来 現世



4.曼荼羅

 平安時代にさかのぼる立山信仰について、なぜ全国的に知られるようになったのであろうか。それは、芦峅の信徒が布教のための会を組織して、立山信仰の教えを可視化した曼荼羅という絵を用い全国各地を回って活動した努力の結果である。なお、越中売薬については、彼らが布教の傍ら薬を販売したことがルーツといわれている。

曼荼羅の絵には、天界と地獄を阿弥陀如来・閻魔大王などとともに描かれ、また人の一生を誕生・成長・老化・死の過程でも捉えて描かれている。

なお、曼荼羅絵は絵鏡ともいわれ、自分の心が写るとされており、その意味では神様・仏様とのコミユニケーションツールともいえる。



<2> 立山開山

1.山の神、開山とは

1.1 山の神

 山はキコリや猟師の生業の場としたところであり、同時に上の住む場所でもあった。神は熊や鷹に姿を変え、山の生活を支えていたのである。そんなところに、修験者が山に入って修行鍛錬の場としたのは、やはり仏教が入ってきてからであろう。

ではどうして、立山信仰として多くの信者が集まるようになったのか。逆に言えば、だれが立山信仰への道を切り開いたのか。これは立山開山の話として興味深い。

1.2 開山とは

 宗教施設を山のなかに作ることをいう。このため、まずは登山道を整備し、開けた土地に社殿を建設する。次いで仏様を安置する。この一連の行為が開山である。立山では、ふもとの岩峅寺・芦峅寺から始まり室堂を経て雄山山頂までの登山道を整備したものと思われる。



2.佐伯有頼伝説

 702年には佐伯有頼が立山を開山したという伝説がある。平安期の頃、佐伯有若(実在人物)が越中国司のときのことである。有若の息子有頼は、父愛用の逃げた鷹を追いかけ山に入ったところ熊に出会い熊に手傷を追わせ、奥山へと逃げる熊を追い室堂の洞穴に到達した。そこには血を流している阿弥陀如来(熊が変身)と不動明王(鷹が変身)が立っていて、阿弥陀如来からは有頼に「立山を開山するように」と告げられたという。これが有頼伝説である。



3.立山開山伝説の検証

3.1 和歌

 有頼の後年、越中国司に赴任した大伴家持が越中国にて748年、立山を題材に読んだ歌には次のものがある。

   立山に ふり置ける雪を 常夏[とこなつ]に
   見れども飽かず 神[かむ]からならし

この歌には山(立山)は依然として神の山と言っている。

 これをどう捉えるのか。有頼以降46年経過して、仏教と神道はどうバランスしていたのか。開山とはいっても仏教ではなく、神道が中心だったということなのであろうか。まだまだ開山が道半ばなのか。神仏習合の観点から考えてみよう。



3.2 神仏混合

 仏教伝来の後、587年には物部氏と蘇我氏とで仏教の受け入れをめぐって権力争いがあった。この争いの後115年経過した佐伯有頼の時代においても、地方で仏教がすんなりと受け入れられたのであろうか、考えたい。

肯定説としては、中央権力の介在もあって神道側が積極的に仏教に寄り添ったというものである。(そうしないと神道が立ちゆかなかったといわれている)

他方否定説としては、地方では八百万神が農耕社会に入り込んでいたために、仏教進出に際し争いがあったというものであり、神道の神である熊が矢で射られたというのも、混乱を象徴しているように思える。

立山の場合、いずれにしても神仏習合で神道が仏教と一線を画したことにより、仏教側で開山がすすめられたにもかかわらず寺院の建立はなく、神道が仏教の教えを活用した、ということができる。平安の家持の時代でも立山を神の住まいとみていたといえる。



3.3 誰が開山か

佐伯有頼が立山開山したといわれているが、1人の人間で果たして開山が可能だったのか。そう考えるのではなく、都から関係の方々がやってきて開山したのでは。佐伯有頼を持ち出したのは地元の支援を得るためなのではなかろうか。事実、立山のふもとにある芦峅寺の地域では佐伯姓がほとんどであることを考えると、推量ではあるが都からの指示という説が浮上してくる。

佐伯有頼については、記録上の人物でないだけに、実存したのか、あるいは他の方ではといった憶測もある。なかでも、片貝川の流域に住んでいた方ではとの説もある。ただし、これには立山へのアプローチが常願寺川系に比して難コースであるという難点がある。



<3>各種施設 

1.社殿

 神道ではご神体が山や岩や樹木などの自然物であり、参拝はご神体に向かって行うものである。時代が下るに従い、神様とのご対面の場所を社(拝殿)という建物を造るようになった。ご神体が自然物でなければ当然、社(本殿)に特別に安置設置され、そのうち神に奉納する場所(幣殿)が拝殿と本殿の間に設けて三棟として、神社は今にある形態となった。

 神社の設置場所について、ご神体と氏子とを結ぶことがポイントとなる。村の鎮守様の場合には、村のはずれの標高の高いところ(洪水を避けるため)が立地場所であり、拝殿は氏子のいる方向すなわち村の中心に向けている。これは神が氏子を見守ると考えるのであり、ご神体が木や岩の場合であればそのことがよくイメージできる。

 これに対して、山がご神体である場合も同様、拝殿正面が氏子のいる方向に向くことになるが、山頂にある社については(太陽光を常に受ける方向として)南側を向いている。これは多分に太陽神を意識していると考える。よく社屋背面が北を向いているから、不動の方向(北極星の方向)が意味を持つといわれているが、そうではない。

 立山一帯における社について、社の向きを原則南にしているが、山頂部敷地の状況に応じて建設しやすいように方向が設定されている。以下には、飯田肇氏(富山県立山カルデラ砂防博物館)の調査結果を記す。

a.剱岳の祠背面の向き

 落雷で数年前に祠が燃えたので再建された。

旧 北西向き(早月川河口方向) 

新 南西向き(鍬崎山方向)

b.別山の祠背面の向き

 今までなかったようだが最近作られた。

新 西向き(屋根の向きは雄山方向だが、

祈る向きは西向きになっている)

c.雄山

 山頂の社は峰本社とよばれている。社背面の向きは北向き(剱岳方向)



2.石仏

a.石仏

 立山を水源とする常願寺川の扇頂部となる岩峅寺から立山室堂までの直線にして30km程の立山街道・立山登山道において、33箇所に石仏が配置されている。スタートは岩峅寺の熊の神社であり、最後は室堂山荘の付近である。その昔、参拝者が地蔵に見守られながら登っていたのである。



b.一の越から頂上までの石仏

 石仏は、一の越から頂上までの各地点にも祠付で設置されている。これは以下のように意味をもたせている。すなわち、阿弥陀如来の体の各部が石物として祭られている。

   一の越 スタート   二の越 足、拝みは西

   三の越 腰      四の越 肩

   五の越 首      頂上  



<4>.女人禁制

 女人は神聖なところには入れない。根拠がいくつかある。

  ・男性修行僧が性欲に惑わされる。

  ・神通力が失われる。

  ・体外に出た血は穢れそのもの(男女とも)。

・山の神は女性であるので女性入山により女神が嫉妬する(災害が起こる)

からともいう。

 こうした伝統は鎌倉期に出来上がったとされている。法然や日蓮などは禁制に反対したという。経典に無いことをもっともらしく行動規範にすることに異議を唱えたものといわれている。

 女人禁制の実際はどうであったのか。地域によって事情は異なっていた。

 まず、富士山では観光客は大事な客であり、女性の入山も禁制ではなく商業の一環でウエルカムとなった。ただし、江戸など各地では、表向きは女性のために庭に富士山を模した丘を作り富士登山を実感するといった仕掛けが多く設けられた。

 一方、立山では禁制まで厳格に守り通していた。しかしながら、その昔に禁制をしいたことは実際には登っていた人がいたという裏返しを意味している。禁制は後から取ってつけたことであり、法然が言うように女性を山から締め出す口実ということなのであろう。

 時代が下り、富士山は江戸後期、立山、白山は明治初期(1872年)には禁制解除となった。しかし、出羽三山は1997年になってやっと解禁となったが、いまだに禁制を続けているところがある。理由は、禁制という伝統を守るためである。とにかく、禁制の伝統も長く続けば立派な文化であるということのようである。



4.2 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)

 立山の場合、富士山の場合と同じように女性用に立山登山をさせるのではなく、生まれ変わるという信仰をふもと(芦峅)で再現する仕掛けが作られた。布橋灌頂会と呼ばれるものである。赤い橋に白布を引き、その上を目隠しした女人が渡るのである。現世にやましいことをした方は橋から落ちてしまうとされている。

無事渡り終えた方は真っ暗な姥堂に入り、時を見て姥堂の東側扉を一気に開けて与四兵衛山(立山山麓雷鳥バレースキー場北隣で常願寺川左岸に位置)を背景にした極楽浄土が再現されるのである。この行事は江戸時代後期から始まり、明治時代に途絶えたが今(2011)では観光用に復活した。



<5> 立山へのルート

立山信仰は立山の見えるふもとからから始まる。信仰の基点位置は富山と滑川であり、そこから立山を見ながら接近するようにルートがある。以下に列挙すると;

  <>富山基点

  ・大山街道をくだり、岩峅寺・芦峅時を経て、千寿ケ原に出て、美女平・弥陀ヶ原・室堂から、立山へ。芦峅寺ルートと称される。

  ・岩峅寺から芦峅寺を迂回するよう本宮から千寿ケ原に出て、美女平・弥陀ヶ原・室堂から、立山へ。もうひとつは、美女平を経ず、立山温泉から弥陀ヶ原にでて室堂、立山へ。

岩峅寺集落と芦峅寺集落が信者の奪い合い合戦をして、互いに犬猿であったために、岩峅寺からの本宮経由のルートが作られた。

  <>滑川基点

・上市川支流郷川からのぼり、山加積や黒川谷から護摩堂、千石城山をへて大熊山から早乙女に入り大日岳、立山へ。

・早月川をさかのぼり、馬場島を経て室堂野越から室堂、立山へ。

・上市から大岩に出て、浅生、種を経て、大辻、大日岳、立山へ。

 上記のルート群は、佐伯有頼から始まった立山信仰当初のものである。やや時代が下って当時メジャーな宗派の天台宗と真言宗が立山に参入してからは、真言宗は大岩ルートを、天台宗は芦峅寺ルートをそれぞれ分担していたが、そのうちどの宗派も芦峅寺ルートを利用するようになった。

 江戸時代にはいると、当該地を支配する加賀藩は、立山ルートを岩峅・芦峅の一本に固定化し、かつこれを奨励して他ルートを完全に寂させた。また、立山から長野に抜けるルートも立山ルート独占と防衛上の理由で禁止とした。かくして、立山信仰による(観光の)上がりは加賀藩の財政を大いに潤すことになった。



<6> そしていま

今、立山には年間100-120万人が訪れている。登山半分、観光半分といったようにもえる。このうち登山については、ハイヒールや革靴の都会客が春山でもにわかに登山する姿をしばしば目撃したが、ここ10年前くらいからは、山のマナーが周知徹底されたのか、無鉄砲なイカレがいなくなったのか、そんな客は皆無となった。

では観光客の多くは、何に期待してやってくるのであろうか。大自然をみたいとか、登山による達成感に浸りたい、など理由が挙げられ、どちらかというと立山信仰は後付で聞くといったところである。がしかし、自然鑑賞もさることながら、初詣と同じのりなのであろうか、山頂の社務所での買い物や峰本社での礼拝などの行為も目を見張るものである。

では、そののりの源は何であろうか。それは神社(仏閣も)が観光対象であるからである。江戸時代には信仰心の厚さもさることながら信仰による観光旅行が許されていたこともあって、人々にとって宗教施設観光が何よりの楽しみになっていたのである。

 立山の場合、立山信仰から立山観光にモードがかわったとはいえ、立山登山への価値付けには立山信仰が立山の歴史・文化として大いに関与している。神社が依然として観光を下支えしているということになる。かくして、立山は時代に対応するかのごとく君臨しているということができる。



<7> まとめ

 立山の歴史と文化を立山信仰の面から8世紀にさかのぼって展望したところ、山の文化はまさに立山信仰そのものを実感することができた。とくに神道と仏教を神仏習合以上の壮大な仕掛けにはおどろくばかりである。すなわち、第一には、立山一帯が仏界として、現世、過去、未来、の時間軸ともに、極楽浄土と地獄の空間軸で捉えられ、第二には、神道世界として天界イコール山と直接結びつけた古代神が脈々と流れている。こんな壮大なスペクタクルは他に例を見ない。ここに、先人たちが今風に言えば如何にロマンをもとめていたのかがわかる。そんな立山に今においてもなお不思議な畏敬の念をもつのも自然な成り行きといえよう。



<あとがき> 

 富山では、立山が一番の観光資源とされているので、観光に際し、文化・歴史の価値付けを核にした差別化施策が図られている。

 では実際に、どこまで文化の価値付けを行ったのか、行っているのか、調べていたところ、案の定、上滑りの観光として都合の良いように、歴史と文化を観光につなげていた。これは山の大衆化のなせる業であり、経済活動に即した行為でもある。しかし、これに満足しない方々も当然おられるので、私は急遽本稿を執筆した次第である。

内容については、地元の歴史家、神主さん、アルピニスト、学芸員、研究者などの方々ヘのヒアリングが主である。

末筆になりましたが、関係各位にはお世話になりました。ここに記して謝意を表します。また、皆様には最後までお付き合い下さいましてありがとうございました。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

若者へのメッセージ(5)、文化と郷土、エッセイ56

2014.03.25  若者へのメッセージ(5)、文化と郷土、56
若者へのメッセージをいくつか送りたい。第五回目は「文化と郷土」と題して建築の話を一般向けに3本をおくる。かなり以前に書いたものであるが、内容は今も変わっておらず、面白いはず。
09年11月: 「 文化および文化財をもっと身近にするには」
06年10月: 「郷土の良さを見つけ育てましょう」 
05年10月: 「我らの立山について」 

◆「 文化および文化財をもっと身近にするには 」     
 食欲の秋、スポーツの秋、勉学の秋、文化の秋、秋はまっ盛りです。 秋のしんがりをつとめるのが文化といったところでしょうか。我ら、 文化とはどのように向き合っているのでしょうか、秋だからこそ考えてみましょう。

 文化とは何ですかと問われると、なかなか答えにくいものです。しかし、ラーメンの好きな人(特にこだわる方)に「なぜラーメン(にこだわるの)ですか」と問いますと、「ラーメンは文化だからです」と答えが返ってきます。このように、我らの生活のこだわりそのもの が文化であり精神活動そのものであるといったことなのでしょう。しゃちこばった文化の定義はさておき、実感はそうなのです。

 では、「文化財とは何ですか」と問いますと、先ほどのように 威勢のよい答えは返ってきません。「あー、古いものですね。観光地 にあるもの」、しまいに「関係ないや」といった調子となることもままあります。とはいっても、例えば神社仏閣の造形物をみて純粋に 「すごいなー」といった感動は我らにはあるはずですので、問題は「なぜ文化財が我らに縁遠いのか」にあります。

 ではどうすればいいのでしょうか。我らの身近において、さしずめ 文化財を介した生活というものをもっと考えていくべきです。文化財 は一級品でなくても名も無きものがたくさんあります。我らはそれに気づいていないだけです。そんな文化財を意識しながらの生活は、文化の育成や擁護につながります。事実、ヨーロッパでも現存する 古い建物の街での生活そのものが文化の堪能と理解へとつながっているといいます。

 以上のように考えれば、結局のところ、我らが積極的にゆとりを追求し物を大事にするといったことに尽きるかと思います。「なーん だ、それでいいのか」といわれがちですが、それで十分なのです。 これが、生活のゆとりを実感し、文化を理解し、堪能することになります。我ら、そうしたことを心がけて日常生活を営んでいきたいものです。

「郷土の良さを見つけ育てましょう」 
 「皆さん、郷土についてもっと関心を持ちましょう」というのが今回の論旨です。私は出かけ好きで郷土には何となく関心をもっていたところ、つい最近東京 からやってきた友人と話をして、改めて郷土の良さをしみじみと感じました。

  その友人とは、海外渡航経験も豊富な芸術家で、今も諸外国を渡り歩く行動人です。彼が近代的なものよりも何か渋い土着のものを見聞したいというので、総曲 輪(富山一番の繁華街)でも出かけて買い物とグルメを楽しもうという予定を急遽変更して、次に示すような郷土自慢のところを案内しました。それは、高岡端 龍寺(大規模伽藍)、高岡金屋町(古い街並み)、新湊内川(ベニスのような雰囲気)、新湊曳き山(実際に引かせてもらった)、上市町大岩山日石寺(三重の 塔)、上市町眼目山立山寺(トガ並木)など名所旧跡は当然のこと、立山と称名滝のパノラマ展望道などです。このうち高岡の瑞龍寺は全国的に知られています ね。

 友人は帰りしな、「郷土のことをよくそんなに知っていますね、あなたが私の所にこられてもどこへも案内できません。著名なところは直ぐに思いつくのですが 郷土となると、うーん思い浮かばない」と言いました。このような話になるとは思わなかっただけに、「そうねー、有名な場所も確かにいいのですが、自分の住 んでいる所にも渋く光る良いものがあるはずだと思うのです。ただそれを見つけることが難しく、しかも育てることはしていないのではないでしょうか」と言葉 を返しました。

 この後、「郷土に関心を持つとはどのようなことか」へと議論を続けました。 自然鑑賞・名所旧跡訪問・文化財鑑賞など観光といえば、直ぐに著名な所へ行きたがりますが、本当にそのような選択でよいのでしょうか。観光地の過密化、 逆にまた荒廃の危惧はこの安易さの結果ではないでしょうか。文化財保全とか自然保護というと、とかく、それは特定(観光地)のものだけを対象としがちで す。また、対策も対症療法的な感が否めません。ものを守り育てるという観点を見失いがちなのはなぜでしょう。本来守り育てるべき対象は、むしろ私たちの日 常や周辺のものではないでしょうか。日常に目を向けて初めて、ものについての愛着が生まれるのではないでしょうか。
 
 愛着とは、やはり自分や自分の周りから育むものですし、物事の価値や素晴しさはその結果見えてくるはずです。その意味で、郷土のよさの発見と育成は欠か せないことと思います。さらに付け加えれば、「人にやさしい、環境にやさしい」という「やさしさ」は「まず自分から、自分のまわりから」を原点にしなけれ ばならないと思います。
皆さん、いかがでしょう。

 「我らの立山について」
  皆さん、我らの精神的バックボーンは何といっても「立山」ではない でしょうか。立山を見ながらの日常生活。立山について理解を深めて、今後にむけての糧にしましょう。

(1)自然:富山の特徴はと聞かれたら、「山と 自然と水と森林と米」、特に「立山」と即答します。立山は駿河の富士山と加賀の白山とともに日本の三名山であり、富山ではシンボル的存在として有形無形に(農耕や宗教など)我らの生活の営みに大きく関わっています。それは何といっても立山のスケールの大きな山容に根ざす畏敬の念によるものであり、また立山が(富山平野の東側に)大きく聳え立つ屏風による独特の気候(夏の多湿、冬の豪雪)が野や山に実りをもたらしているためともいえます。

(2)いわれ:立山は、一つの頂を持つ山という よりも連峰そのものであり、「屏風のようにそびえ立つので立山となった」といわれています。この他、立山の荒々しさ・力強さに着目して「ノコギリのようになっているとして太刀山が立山となる」といった説もあります。ともあれ、立山は、平安期には立山連峰(毛勝三山から薬師岳までの連なり)の総称でありましたが、時代が下るとともに、連邦の中心部にある立山三山(雄山富士の折立のみの総称となりました。

(3)歴史: 平安末期以降の末法思想とあ いまって山は宗教的要素を強め、修行の場となっていきました。特に立山の場合には、3000m級の高地が霊を招く極楽浄土となり、また室堂平付近(地獄谷)にある数多くの噴気孔は地獄そのものを演出しています。極楽のすぐそばに地獄があるのは立山だけであり、山岳宗教の場が一段と神秘性を富ませています。そしてまた、立山頂上には富士の折立や白山神社の系統のものまであり、さながら日本三名山の三宗教が一同に集められたことになっています。

(4)布教:修験者は、立山信仰の布教に曼荼羅 と称した絵巻物をもって全国各地で活動したといわれています。曼荼羅には、「立山の開山の歴史」「立山の極楽と地獄」「布橋の話(立山山麓にある橋。生前悪いことをした人は橋から落ちるとされている)」が描かれています。なお。売薬の薬はもともとは修験者が持ち歩いていたという説もあります。

(5)現代:立山は現代文明の荒波に洗われ開発 され、1970年の立山黒部アルペンルート開通によりそれまで20万人であった観光客が以後100 万人となり(環境問題はぬきさしならないところまできていますが)、より一層大衆化されてきました。それでも我らにとっては霊験あらたかな立山の雄姿は依然としてかわらず、富山の精神的なバックボーンとなっています。みなさん、そうでしょう。


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