歴史、風土

歴史ドラマの時代考証を楽しむ、エッセイ202

2022.09.21 歴史ドラマの時代考証を楽しむ、202

歴史ドラマの時代考証を楽しむ

1 はじめに  

歴史好きなら歴史問題について考究したいところだが、歴史問題について、仲間内や皆さんとお話するにつれ、市民の歴史の受け止め方に関心をもち、市民にとって「歴史は難しいもの」といった取り方を何とか楽しいものにもっていけないかと考えるようになった。そうした観点で、市民の歴史の楽しみ方といった内容で、2020年3月に大山歴史民俗研究会に書き物を投稿させていただいた。今回は、その延長線上で、テレビの歴史ドラマの楽しみ方として、時代考証がどのようにかかわっているのか、時代考証を自分なりにもしてみたくなり、近世時代(江戸期)の庶民の生活環境として(エッセイとして)述べることにした。

 

2 時代考証そのものも楽しめた番組  

歴史ドラマは、時代考証をもって歴史時代をドラマ仕立てにしている。そこでは、時代考証は表に出ることはないものの、ナレーションで「1両が現在の10万円」といってテロップでの紹介が時折ある。一方では、時代考証というよりも時代論考が表に出たこともあった。1994年から2004年までNHK総合テレビで『コメディーお江戸でござる』の番組があり、お江戸の庶民の人情を劇にしていた。これは、「劇、女性歌手歌唱、おもしろ江戸話」の三部作であり、お江戸検証が時代論考そのものとしてレベルも高く人気があった。担当は、もともと漫画家であり時代考証の専門家でもある杉浦日向子氏であった。ドラマの人情が時代環境のバックグラウンドにて息づいているとあって、歴史ファンのみならず一般の方々には大変な人気であった。今となっては、感心したこと、感動的なことは一切覚えていないが、歴史が市民世界に入いり込んでいることを実感した次第である。市民感覚の歴史とはそんなものかと。皆さん、ご記憶に新しいかと思う。

 

3 江戸期の生活環境、お米と貨幣から

(1) お米

・1石=1人が1年間食べるお米の量=1両

  360日×3合/日=約1000合(1日0.4kg) 1石=150kg=2.5俵

 ・1石=1反(10ア-ル)の農地でとれる米の量(アール=100㎡) 

現在は生産力向上で1反から2.5石とれる。

・5kg袋詰めのお米なら1人で12日分の量。

 ・お米消費(大人1人) 江戸期は1石/年 今はお米離れで0.3石/年 

(2) 貨幣

 ・貨幣=重さで計量;貫、両、斤、匁

1両=金10匁=37.5g 後に貨幣価値減で慶長小判=4.7匁(金4、銀1割合)=17.6g

 ・金1両=銀50~60匁=銭4000文   銀1匁=銭80文

(3) 貨幣価値、江戸期と現代の換算

大工日当、蕎麦、お米が換算対象用の尺度となっている。以下に示そう。

・蕎麦1杯の値段

 元禄期では8文(16文も有)。今の立ち蕎麦では300円相当。1文=40円程

・大工給金(日当)は銀5匁4分。今は1~1.8万円程 ⇒匁100文、1文=25円程

・お米 5kgで2,500円として150kg1石は7.5万円 ⇒ 1両7.5万円。

生産者米価ではひと頃1石=6.3万円

・総合判断 1文は25円(1両4000文として) ⇒ 1両=1石=10万円

(4) 今日の社会構造変化からの今昔換算について

現代ではお米や建築生産、食の提供制度が大幅に変わり、江戸期との比較そのものが難しくなっている。以下に、社会的状況を述べておく。

・大工仕事 明治期に建築生産の制度が輸入され、かつて大工が持っていた棟梁の役割が建築家にとってかわられ、その結果、大工は作業員へと地位を落とし、低い給金となっている。いま職人の地位向上と声高ではあるものの、根本制度が変わらない限り大工地位向上は困難とみている。

・お米 食料の国家管理として食管制度が1942年から1994年まであり、その後は食料制度として自由競争が受け入れられ、今日に至っている。一方では食生活の多様化があり、コメの消費が低下して、お米はかつての勢いを失っている。いまなお、生産者米価の低下が止まらない。

・蕎麦 ドラマでの夜なき蕎麦屋はさしずめ立ち食い蕎麦に対応か。食全体における蕎麦の扱い方には、今は特に間に合わせ的なものを感ずる。

 

4 おわりに  ドラマと現実との相違を踏まえた今昔換算についての雑感

 市民の歴史観に関心があり、歴史ドラマにおけるお米や貨幣等に関する時代考証について、自分なりにも論考を試みた。江戸期では、金の相場制や米の相場制(江戸初中期以降)があり、インフレありで、貨幣価値は言うに及ばず物品価格も安定しておらず、また現代とて同じ状況である。そんな当時と現代における物品価値や貨幣価値を見出そうとするのは大変なことである。そのために、衣食住の住に着目して、住まいを尺度にして今昔換算を試みようとしたこともあったが、まずは社会全体の経済能力と、物品の社会における相対的な価値関係を明確化する事が必要となってこよう。こうした所には生活の満足度が入り込んでくるので、アプローチはなかなか難解である。そのようなことを念頭において、歴史ドラマをつぶさに見ていると、何となく荒っぽい今昔換算であっても、不思議と違和感がないのに気づかされる次第である。これはドラマ世界と歴史現実との違いといってもよいと思っている。

 

謝辞 本稿での各種数値について、現在の値は直接調べたが、江戸期のものは関連のHPや歴史家の談から引用した。関係各位に記して謝意を表する。

暮らしの延長として風土・街・意識、201

2022.09.19 暮らしの延長として風土・街・意識、201

0.     まえがき 活動の経緯  富山の人から聞いた話

「暮らしの延長という姿勢に込めた思い」

 富山において、遅まきながらも地域活動を10数年行っている。主な活動は、

  a.街づくりとして街のハードソフトの活動、同じく集落づくりとしての中山間域での古民家活用の活動、

  b.複数街を含めた地域圏において気質の歴史的な探究、同じく市民のボトムアップ意識醸成の活動、である。

 当初は、地域貢献については出来るところからの着手であったが、そのうち街づくりや意識向上についてまれに講演も行うようになった。当時は周辺の方々から「専門家でもない方がなぜ」と不思議がられたが、理由は直ぐに分かった。「なぜか」には私の場合ボトムアップの思考であり活動であったことが市民に受けたとのことであった。これに気をよくして、自分(自分達)の活動を振り返ってみると、いわゆる専門家によるアプローチではなく、全くのボトムアップであることに気づき、大いに自信を持った次第である。

 ではボトムアップとは何か。それは市民の日常の生活から積み上げていくことであり、これを生活の延長とか生活の拡大とか生活の一環とかいうべきもんであり、ここでは暮らしの延長ということで表現することにした。すなわち、市民自らが発意し行動していく事である。私はこれをしばしば市民主導の街づくりそのものと捉えている。もちろん、専門家とは関係無しにということではなく、専門家も市民と共に居るというスタンスである。

 そう考えて我が行動を今一度振り返ってみると、古民家保全活動であれ、宿場町保全(手伝い)活動であれ、郷土史探究活動であれ、意識情勢としてのコミユニケーションのコミユニテイ活動であれ、すべてがつながってきた。そんなことで本稿を執筆した次第である。


1.はじめに

1.1   目的

中心市街地活性化や観光地域の街づくりなどでは、街づくり専門家が業務として街づくりを仕掛け、域内の住人の協力を得て賑わいを創出している。結構なことではあるが、住民側にしてみれば、WSで自分らの意見が形になるとはいっても、載せられている感があるという。なぜそのようなことを思う人がいるのであろうか。根底には、専門家、市民それぞれに役割に関する問題があるからであろう。

そのように考えると、街づくりについて市民側から積み上げていくアプローチはないものだろうかと。街づくりは健全な暮らしができる場と人づくりを指すならば余計に暮らしの延長上としてのアプローチを模索したくなった。確かに小規模な街づくりや保全運動にはそうした視点が見られるだけに、ここでは、市民主導の街づくりとして問題に迫ることにした。すなわち、市民の思いに着目し、街においていかなる意識で住まうているかをみるとともに、専門家主導との対比をも含め、市民の営みそのものが街に蓄積される様を見ることにした。これをもって市民視点の街づくりアプローチとする。

1.2 視点とアプローチ

街づくりに必要なものとしては、ハード・ソフトのアプローチに加えてヒューマンウエアとしての人のかかわりを重要視する考えがある。本来は、ヒューマンあってのハード・ソフトであるものをヒューマンといわざるを得ないことが問題なのかもしれない。ここでもあえてヒューマンという概念で論じたい。

ここで街づくりについて思うことは次の3点である。

    ・街をもっと広げて、 ・人にもっとスポットをあて、・談義に華を咲かせて。

要は、街を超えて広がりがあること、そこにはコミユニケーション(談義とも言換え)があること、人に着目なら「人のなすこと、なせること」が見えること(健全生活は当然)に加えて、「楽しむ、居す、繋がる(関わり、関係性、縁)」が基本と考えている。

また、街のイメージとしては「人が往来し、話声に包まれる」がピッタリかと思っている。もちろん、人は生活圏において健全な生活を営むことが大条件であることはいうまでもない。

上記のことを念頭において、(著者の受け持つ)街づくり活動としては、

・住民の日常性の延長や意識の延長上として、

 ・広域にて風土や気質を反映させ、・街(集落含)での古い家活用のコミユニテイ活動、

・コミユニケ(コミユニケーション、談義)活動

を考えて今も邁進している。

2.市民の街に関する意識 市民主導の着目としてまず市民の街についての思いをみる

2.1 市民の意識

街づくりについて市民の反応は様々である。一般の勉強会でも、街づくりの話題は盛り上がりに欠けることが多い。これをどう解釈するか。いきなりの街づくり論は市民に大きく固有にあるわけではなく、だからといって市民が街づくりには縁なしでもなく、いい街があって当たり前であり、生活環境が悪くなれば当然改善の市民運動に頑張るということである。

このように考えれば、市民の意識をどう開花させるかが問われてこよう。そこに街づくり専門家も入るのは当然であるが、あえて市民主導との言い方にこだわるのは市民意識のうちのいくつかを専門家が見落としがちだからである。(立派な専門家も多い) 

2.2 市民感覚ならではの見方

街について、建築の人でもぼんやり思考時に考えたことがあるかと思うことを列挙する。扱うは街という空間と時間の領域、並びに人とのかかわりについて。

(1) 街の広がりについて

街と街の間をどう考える→街の領域をどう考える

・街と街の間は→田園もあれば隙間なくびっしりの街もあり

・街内では町内と隣町内とは隙間なくびっしりであるが、町内境界をたまに意識することもある。

・都市では、切れ目なく延々と街が続く。歩いて行けるところ(生活圏)が街であり、車や電車での移動中の領域は街間ともいえる。

・街は広域と一体。広域から街へ、街から広域への関わり有り。

(2) 街の歴史、街の重み

・歴史については、昔のことを知って何になる論が多いが、その一方では歴史的に有名な史跡や観光地では歴史を楽しんでもいる。これをどう見るのか。どこにでもあるような卑近な歴史は「当たり前」という感覚では歴史にあらず、といった歴史観・歴史意識であるが、逆にいえば歴史を意識だって鑑賞する機会が身の回りには少ないということに他ならない。

・しかし、こうした歴史観でも街を構成するそれぞれの建物での生活充実が町全体の住まい文化を定着させていることも、認識されているといえる。街の歴史や文化や各建物に加えて住民の思いが集積されて街の重みとなっていよう。(重み詳細は後出)

(3) 街というコミユニテイには

毎日顔をみあわせての縁、袖すりあうも多少の縁、何につけてもコミユニテイあり。

人間関係希薄化や諸々の関係断絶傾向が生活する上で楽という考えが多いなかでも、多様で個性的な関係性は求められている。気の合ったもの同士といったことでは趣味の世界やwebの世界がそうであろう。以下にコミユニテイの様相を記す。

・多少の縁もにわか縁もコミユニテイに。観光地でも。

・自分の居場所(街)からの延長で他の街や広域あり

  各種コミユニテイとは関係なくても当たり前感がある。

・種々無関心も当たり前感のひとつ。

・何かにかこつければコミユニテイ。コミユニケーションのコミユニテイ。

ご近所にて、道で会えば、買い物中で会えば、寄り合いで、webで、地域を超え、他

(4)風土といえば

 風土もあって当たり前。風土はいいものに決まっている。

・風土は気質や意識にしっかりと反映されている。

・広域の自然や歴史、人的環境も街に色濃く反映。

・古さと新しさで歴史を感じ、風景からは自然環境を感ず

3.街の捉え方  

(1)街の捉え方

    街 = 人 + 建築 + 土地(環境) + 風土・歴史

 街は人と一体となったコミユニテイの総体といえるが、ここであえて街をものの世界と人の世界に分けてみる;

 ・ものの世界:街、広域

 ・人の世界 ;関係性はつぐむ糸のような。人的環境とする。

(2)街の広がり

・地縁としてや生活圏としての街はあくまでも息づかいが感じられ、それこそ「人が往来し、話声で包まれる街」が基本となっていよう。

・広がりとして、基本的街を各々に結合してより大きな街になり、そうしたいくつもの街が交通路で結ばれ、ネットが構成され、さらにネットが複雑に連携して都市に、ということになる。

(3)街並み構成

 街には寺院であれ、商店街であれ、行政集積地であれ核(拠点)となるものがある。それとは別に居住地は同質的様相で一つの特徴ある雰囲気をつくっている。

(4)人のつながり

 生活圏には身近な生活圏と(より広範囲な)行動生活圏の二種を考えることで街と広域の間でのつながりが意識化できることを主張したことがある。

今回は人同士のつながりに着目。人同士において任意であり多様であるつながりが街に人的環境を持ち込んで、街そのものが奥みを増すことになる。また、この種のつながりには街の中においても、街の中と外を結ぶ様相がある。

(4) 街の複相性

 項目(3)と(2)の合体である。すなわち、街は街の中において、さらに広域においても、地縁コミユニテイとしての街に、広域からの関係縁なるコミユニテイがつながる。これを複相的なつながりと称したい。

(5)街の重み、人と街のつながりとして

街そのものには、周辺の風土のもとで過去から積み上げてきた歴史がある。これに加えて、住民もまた住民歴史を育んできている。これらを合わせて、街のポテンシャルとか奥みとかにしたい。ここでは街の重みとしておく。

街の重みとは以下のようにと考えている。

 ・環境(風土)の重み

  ・創生される重み:町衆の識(意識見識良識知識)

          町衆の活力;種々関係性、共有知の蓄積

  ・街の歴史:歴史は民衆を対象として民衆の物語をつくる。

    民衆が街をつくり維持発展させてきたその背景には生活を守る歴史が脈々とながれている。これを物語として、街の重みの一つにする。

 

4.仕掛け人主導の街づくりとの違い

 中心商店街の活性化や地域活性化のための拠点整備などのいわゆる地域起こしを含めた街づくりについて、市民主導の場合と専門家主導とどこに違いがあるかを述べる。ただし、これまで以上に仕掛け人主導も進化していることを付記しておく。

(1)住民の意思尊重として街づくりに向けての住民意思がWSにて適宜取り上げられ、その意味では評価も高い。今までは、仕掛け人のアイデアでWSの方向性をも決めて、誘導スタイルが多かったが、ここ最近になってより住民の意思を尊重するようになってきた。大きな前進である。

(2)仕掛け人が主導となることによる不都合とは。仕掛け人はその道の専門家であり、住民と共に歩むといった悠長さは許されないことが多い。このため、仕掛け人はプロ意識での行動に知らず知らず走りがちといえる。

(3)仕掛け人は、目的遂行が第一になりやすく、住民の日常やその延長、生活延長という視点を考慮しにくいともいえる。

(4)住民主導での街づくりには大規模なケースでは全くないが、中小規模では結構成功している。理由はのんびりした生活の延長で街の領域に入込むことができるからである。

5.具体的活動、富山にて

 暮らしの延長として、住民行動に触れ、遠きにあるお気に入り風土風景(場所)とのつながりを求め、自由闊達コミユニケーションを楽しむ、といった活動について紹介する。もちろんこれらは、ボトムアップの市民行動であり、街づくりへと直結していくものである。

5.1 地域の歴史について、住民行動史も街衆に受け継がれる歴史文化

 街の歴史は主に文化財を中心に街の価値として位置づけられている。それとは別に、住民行動歴史のように街衆に受け継がれていく歴史もある。これはいわば歴史意識の文化の伝承といえる。富山では、住民行動史として意識文化として、誇るべき歴史文化がある。それは、越中ばんどり騒動、越中米騒動、イタイイタイ病事件(今回略)である。紹介する。

<1>.ばんどり騒動

(1)概要:1859年(明治2)の大規模農民一揆、新川域にて、総勢2.3~5万人の一揆隊が   農民の窮状を訴え、(県中央部)舟橋村から(県東部端)泊までの大規模デモ行進し、(県東部元県庁所在地)魚津の藩政治局に嘆願した。進撃の際には、進撃路周辺の富豪や十村を襲撃したという。

(2)主張:加賀藩役人と彼らを支援する村幹部に不正を訴える。また嘆願は年貢減免よりも農業政策改革であった。これは今でも通用する当時としては画期的なことであった。

(3)一揆の結末:処罰としては、指導者一人のみ断罪、農民はおとがめなし。役所側では過度の処分を下せれず。郡内十村更迭で事態収拾となった。理由は、理路整然抗議行動で農民支持をせざるを得なかったという。なお、後世には、理にかなった行動は正しいと伝わり、越中米騒動では一人の処分者も出なかった。

<2>.越中米騒動 (1)概要:1918年(大正7年)、米価高騰に日頃苦しめらえていた新川の民衆(主婦)が立つ。これが全国に波及し、民衆が蜂起した。写真1

(2)抗議行動:日本の民主主義の原点。民衆は米の買い占め、米価の不当つり上げに抗議。暴動ではなく社会運動そのもの(県外は暴動)。救済事業で民衆救われる。処分者なし。

(3)評価:整然とした抗議行動(ばんどり騒動が一役)には権力側に付け入るスキ与えず。権力側は民衆の願いを無視できず、弾圧鎮圧に走れなかったという。

5.2 近くにあっても遠くにあってもコミユニテイのネットワーク的拠点は可

 古民家活用の活動をしていると、地元人はもちろん遠くの方々も、当該地をまるごと自分の(地域の)奥オアシスや新ふるさとにしている。そこでは、ホストとゲスト、ゲスト同士で歓談に華が咲き、時には大家族のようなにわかコミユニテイが形成されてもいる。これは、言ってみればコミユニテイのネットワークの結節点ともなっている。もちろん、各地の観光地も程度の差こそあれ、上記の減少はみられるべきと思っている。

対象となった居場所としての古民家「花の家」を紹介する。富山県上市町大岩の山の中に「花の家」、築130年以上は経過、ハイカーの休憩所として運用。2012年にはお家を舞台にしたアニメ「おおかみこどもの雨と雪」がヒットで、アニメファンや家族連れが年間1万人訪問。家のご主人とスタッフで大家族模様を展開。なお、訪問客は大フィーバー、婚約の場所、新婚旅行の場所、として。お土産持参の方も少なからず。写真2

5.3 自由闊達で論議 健全な暮らしの素養磨き、暮らしの健全化をもとめるには

 健全な暮らしは素養磨き(民度向上や市民力向上)により自由闊達な話ができる場が必要である。しかしながら、そうした場はあるようでない。お仲間さんのサロンはいいにしても、ご近所でも職場でも自由闊達なコミユニケ場があれば、日常に生活の事、世相のことなど、大いに語り合える。

 県内では、時事問題も含めいろんな問題について会話を楽しむ場もここ10数年前から増えてきた。もちろん、趣味の場とか読書会などのサークルは別とし、また学協会や行政などが主催する場は扱わない。

 談義の場としては、街中の場、仕事の場、教養等の場がある。開催頻度は週2から月1。回。印・・は著者主催の企画。写真3

・・朝活上市:仕事前に知的交流談義、他に朝活富山、朝活呉西あり、・・古民家居場所談義

・・街中ゆったりカフェ(四方山談義)、・・富山地震防災セミナ(防災他に多彩な話題)

・哲学カフェ、・社会科カフェ、・女性のための社会科カフェ、・憲法カフェ、

・歴史カフェ、・ワールドカフェ(時事問題論議)、・街の語り場(街づくり)、・とやま応援隊

5.3’談義の場

 現役のときには学協会はもちろん職場や地域でも所かまわず談義スペースを設け会話を楽しんだ。地域のお祭りの場でも勝手連としてメイン会場近くに会話場を陣取ったり、各地域に出かけ辻会話の場を作って楽しんだものである。退役後はもとのもくあみ。

 

6.まとめ 

 市民視点の街づくりのあり方について、暮らしの延長が街づくりとして街の枠を広げ、人に注目し、談義に華を咲かせるといった市民感覚で街を如何に捉えていくべきかを論じた。以下に論点の特徴を記す。

(1) 健全な暮らし

安心安全、(どんな形態であれ)自然との一体、理性と本姓のバランス思考・行動、  

人との関係や交流、など包括したものとした。

(2)市民にとって

  ・暮らしの延長という視点で、街づくりを実感できる。

歴史やネットワークや談義を自分のものとして素養が形成。

  ・街と広域を俯瞰によって街の息遣いが実感できる。

  ・市民主導には、市民のつながりの形成として(街づくり行動とは直接結びつかなくても)談義の場からの参画が可能である。

(3)街づくりの理念化として

  ・街イメージ :「人が往来し、あちこちの話声で包まれる街」

  ・広域における街のイメージ:

地縁街を中心に広域における多数の軽快コミユニテイが重なり繋がる

以上をもって、市民視点の街づくりに資することにし、街づくり具体論を展開したい。

楽しむための歴史について生活感覚からの雑感、エッセイ184

2019.10.25 楽しむための歴史について生活感覚からの雑感、184

1.はじめに

歴史といえば一般には支配層の政治史をさすためか、一般人にとって歴史はつまらないものという捉え方が多く、日常生活においては、歴史に触れることはあまりない。歴史的というならば、歴史ドラマ(NHK大河ドラマ)や時代劇(銭形平次などのTVドラマ)により楽しみの対象であるが、歴史については「昔のことを知って何になる」といった認識が当たり前ということが少なからずある。

ここでは、歴史とは結構面白いはずなのに、何でまた歴史に疎遠なのか、そんな観点から、もっと歴史を楽しむには歴史の本来をもっと知るべきという思いを持ってそんなノリで、歴史と生活の枠組みで楽しみ方に論及したい。すなわち、上述の観点で「楽しむための歴史」を生活歴史の面から論議したい。具体的には、生活のなかでの歴史の捉え方について昨今の様相を展開することにした。主に扱うのは、郷土史と歴史ドラマである。ただし本稿は論文ではなく随筆である。

 

2.歴史に接する

2.1 学びの対象としての歴史

 歴史というものの出会いは何といっても学校教育にある。小学校から高校まで、社会科で歴史をしっかりと学んでいる。最初のころは、さしたる困難もないが、学年が下るに従い、歴史イコール年号となってしまってからは歴史きらいが急増する。歴史はそうじゃないんですが、といったところで声が霞みがちとなる。

2.2 観光として触れる歴史

観光旅行で、名所旧跡を訪れると、年号なんて関係なく、歴史遺産や歴史偉人についてみたり聞いたりを割合面白がっている。京都のお寺さん巡りや何やらは、学校教育での歴史ではなく観光での歴史なのである。そんな歴史を受け入れる土壌が皆さんの根底にある。これをもっと大事にしたい。

2.3 郷土にて触れる歴史

 歴史といえば一般には支配層の政治史をさすためか、一般人にとって歴史はつまらないものという捉え方が多い。しかしながら、郷土の歴史となると話は別で、自分らの街の歴史としてあるいは歴史としての捉え方が自然と湧き上がってくる。例えば、街にある樹齢何百年の巨木とか、旧街道の道とかが歴史としての街のアイデンティティとなり、またそんな事象を歴史ドラマ仕立てにして過去へのタイムスリップとして楽しむこともできる。

2.4 生活の中での歴史

 生活の上で歴史を感ずるのは自宅ではなかろうか。小さい時の思いで、御成長に合わせて家の中の設えや空間に年季が入り込んでくる。これが、我が家のれきしである。ここにご近所さんや親族が居れば、一門の歴史、近所さん歴史となり、ときには自分のルーツとしての歴史まで花が開いてくる。

 要は、生活の営みを刻めば、これが歴史となり、生活の充実は「歴史を楽しむこと」といったことにもなる。

2.5 ドラマ仕立ての歴史

昔の時代における人間ドラマとしてつくられるいわゆる歴史ドラマって、歴史ファンでなくても一般の方々でも鑑賞は多い。さらにいえば、捕り物帳などサスペンスものは時代劇として娯楽を楽しむファンも多い。

これをもって、なんとなく無自覚であっても歴史に触れていることになるといってもいいであろう。しかも、時代劇も含めて歴史ドラマがさりげなくみていることで人を楽しませるならば、歴史の楽しみともいえよう。なお、歴史ドラマについては後章で詳しく扱う。

 

3. 歴史の意味

 我ら、歴史といったときに歴史をどう捉えるのであろうか。いわゆる歴史、街の歴史、ドラマで描かれる歴史といった観点から、我らの歴史観をまずおさえておく。以下に、歴史の接し方についての思いをいくつか述べることにする。

3.1 歴史の本質

 よく歴史ファンに対して「昔のことを知って何するのか」といわれることがままある。そんな時、「温故知新や過去との対話です」と気取って言うこともあれば、「とにかく面白いでしょう」と言うこともある。最近は、街づくりのアイデンティティは歴史からという位置づけもある。このように歴史の位置づけは多種多様であるが、やはり歴史が過去片現在と未来をつないでいることを強調して「現在は過去の結果、未来は現在の延長」という捉え方が一番わかりやすく、理解されやすいと考える。なお、現在とは今ある環境や人間の存在と関係性などすべて込みにしたものとしている。

3.2 我らにとっての歴史とは

歴史とは、政治の視点から支配層の歴史イコール世の中の歴史と常にいわれている。また、庶民(民衆)にとってはそんな支配のもとでの生活の営みであれば、当然歴史は支配層中心の歴史となってしまう。しかしながら、例えば食や住まいなどの歴史的起源や変遷といったことは民衆には歴史と捉えることができ、生活環境の身近な点から民衆は歴史を大いに支えていることになる。

3.3 なぜ歴史が大事なのか

歴史が大事とよく言われているが、何がどう大事なのかと聞かれるとハタと困ることが多い。「○○年に何がどうなって、だからこうだって」ということはなかなか言えないのではなかろうか。その点、「街のアイデンティティや個性は歴史である」と割合容易に言える。しかも、街の変化も歴史という捉え方が我らにとって一番しっくりもくる。例えば、身近な自分の街で小学校が新しくなったとか、ショッピングセンターができたとかいった事が何といっても自分たちの街の歴史となる。

3.4 歴史の活用

 歴史をなぜ学ぶかが。それは現代に役立てるためである。これには、温故知新の考えと過去の結果が現代という考えの二つがある。

 第一の考えはビジネス書にみられる。ビジネスでは、人材活用、攻めの戦略、人心掌握などを戦国武将から学べとかいった本が多く出ている。これらは戦国武将の思考が現代に展開できることを前提に、戦国期に学べということである。確かに読んでいると面白いし、ビジネスにも大いにヒントとなるものである。

 第二の考えは己を知り相手知るためには、現代の分析を過去からの時空間で検討しようというものである。例えば、紛争の解決に向けて、進むべき方向の妥当性の検証に、相互尊重を図るうえで、など現代から未来へと歴史をつみあげていくことができる。

 

4.歴史ドラマ

昔の時代における人間ドラマとしてつくられるいわゆる歴史ドラマって、歴史ファンでなくても一般の方々でも鑑賞は多い。さらにいえば、捕り物帳などサスペンスものは時代劇として娯楽を楽しむファンも多い。ここで、時代劇も含めて歴史ドラマがさりげなくみている人を楽しませる理由について考えることにして、ここに歴史の持つ魅力を少し垣間見よう。

4.1 歴史ドラマにおける歴史

 歴史ドラマでは、昔の方々がどう時代を生きたのかとして偉人や一般庶民の生活ドラマを垣間見ることになる。これの意味するところは、偉人伝に関心もあるが、(それも含めて)人間ドラマについて時代設定を変えたところで(昔のこととして)楽しむ人間ドラマと言った方がいいであろう。すなわち、歴史ドラマでは人物と生活さらに風景などの環境が盛り込まれている。現代での設定ドラマでは設定の枠は現代の中でのものであれば、その枠を超えるには、未来か過去しかない。その意味で、新たな環境を昔に求めたのが、歴史ということになるのではなかろうか。これより、逆にいうと現代にない環境ということでの人間ドラマが歴史ドラマということともいえる。そう考えると、ドラマの中に、人物を通してまた環境を通して、時代の様相がふんだんに盛り込まれることにより、歴史の時空に見おくということにもなり、歴史を体感しているといってもよい。

4.2 歴史ドラマは歴史そのものではない

 歴史ドラマをすぐ歴史と思っても不思議でない。NHKの歴史ドラマでは時代考証はあるものの、そそっかしい市民ならドラマのせりふがそのままの事実と勘違いもする。

 一方、ドラマ制作側では、何で歴史ドラマかを考えてみると、時代境遇が懇意地とまるで違うことにより、歴史空間で 歴史の観察者の気分だから。ドラマには政策意図もあり、フイクション満載。だからこそ視聴者を面白くさせる。歴史の時代考証は風俗や環境、史実との整合性が中心である。

この話題はどこかで論じたい。

 

5.生活感の歴史

5.1 歴史に接して生活を振り返る

歴史ドラマの鑑賞として、自覚しようがしまいが当時の生活を自分らの生活をダブらせてドラマを見ている。

例えば、江戸時代、お蕎麦屋さんで蕎麦をすすれば何文か、今でいえば何円かといったように、生活環境のもとで時代に浸っている。そんな時、生活環境の昨今について、ちょっとでも考えれば、歴史というものがより一層身近に感じられてくる。

 また自分の周辺についても歴史を感じる時がある。これは多分に自分史といえるものでもある。多くの方々の自分史が郷土全体で集積するなら、結果は郷土史ともいえる。歴史とは、多分にそんな自分たちの歴史の匂いのする個々の歴史そのものなのである。

5.2 歴史に施しいて昔の生活を想像

TV歴史ドラマでは、何万両は今のいくらなのか、100万石はどのくらいの大会社なのか、といったことを思いながらいつも見ている。そんな思いの下地には時間移入を容易にするためであろう。

 磯田道史氏の「武士の家計簿」という本ではないが、そんな考えのもとでは当時の生活が垣間見られる。人の生活をつぶさに見るとなると、大人や子どもがどんな生活をしていたのかなあ。コメの食卓で家族団らんか。子供はやっぱり飴玉をしゃぶって遊んでいたのかな。いやいや野良仕事で多忙だったということか。などなど、想像は膨らむばかりある。

5.3 歴史の捉え方、市民の声

(1)     忠臣蔵や水戸黄門といったドラマよりも、武士の家計簿のような真実の記録の方が歴史の謎を解くカギになる、って指摘しておられた。

(2)     歴史ファンには当時の人々の生活実史もいいなあといっておられた。理由は、現代の生活の歪み具合を時空間から検証をすべき、社会学的人間関係構成論を検証すべき、だからである。

 

6.郷土史、 地元富山の歴史

富山県の歴史については、日本の歴史とは違って何となく身近に感ずるので、何となく知ってみたいという気持ちになる。郷土史とはそんなものなのであり、大なり小なり、いろいろな方々が関われるのが一番の魅力といえる。しかも、何かこだわりをもってピンポイントで迫っても、何かしらの新しさを感ずる。そんな観点で、私は自分の好きなポイント歴史として富山の歴史に対面している。

6.1 具体的展開

 富山の自然は立山ということができる。では富山の歴史はといわれると、すかさず真っ先に佐々成政や前田の殿様が上げられる。これは、関心や興味の歴史として、源平期、戦国乱世の佐々成政、近世の前田加賀藩時代が思い浮ぶからである。

6.2 郷土史

 富山県に住んでいる我らにとっては、富山の歴史については、日本の歴史とは違って何となく身近に感ずるためか、何でもかんでも何となく知ってみたいという気持ちになる。郷土の歴史とはそんなものなのであり、大なり小なりいろんな方々がかかわれるのが一番の魅力といえる。しかも、何かこだわりをもってピンポイントで迫っても歴史に何かしらの新しさを感じ、興味がわいてくる。

 そう思っていると、自分の好きなポイントの歴史を地域におけるアイデンティティと捉えることにして、郷土史を自分にとってもっと身近なものにしたくなった。また、全国歴史そのものについては念頭には置くが、富山という地域で特徴的なことが即、アイデンティティにつながっていることを実感したくもなった。

6.3 個人周辺から郷土へ、自分中心史から郷土史へ

 歴史については、むしろ身近な自分の街で小学校が新しくなったとか、ショッピングセンターができたとかいった事が何といっても自分らの歴史である。郷土史は、多分にそんな自分たちの歴史の臭いのする歴史なのであろう。そうなると、ますます自分も郷土史に参加したいという気になるものである。

 では、その源に何があるのであろうか。それは行動圏・生活圏における生活の営みであることはいうまでもない。身の回りの皆さんの思いが積み重なって、総体として地域圏あるいは大きなコミユニテイが時間という奥みをもって形成されていく。その全貌が結果としての郷土の歴史を育み刻んでいくのである。

6.4 自分流の郷土史の勉強

 富山の歴史を扱った本は、本当に沢山出版されている。それだけに、歴史に寄せる思いは皆さん、強いということができる。かくいう自分も歴史ファンである。自分で歴史を勉強していくと、何となく(歴史を通して歴史に精通したくなり)富山歴史をまとめてみたくもなる。しかしながら、オーソドックスな富山の歴史というのでは、いかにも歴史を勉強してまとめましたってことになるもので、おもしろくないと思っていた。

 そこで考えたのが、「歴史は何のために歴史か」という視点でもって歴史を自分流に語ることである。これは、世の中では当たり前であっても、自分にとってはオリジナルであることを言っておく。これによって、よくいわれている「歴史を何のために知るかといえば、郷土のアイデンティティを知るためとか、人間の営みの積み重ねを知るため」が自然と板についてくる。このように考えて、オーソドックスな歴史書とは違って、一味も二味も違った味付けが可能となる。

 歴史は、そんな観点に立てば、いろんな対象で歴史を語ることができる。誰でもが語れる、それが歴史なのである。と思っている。

 

7.おわりに

 歴史がもっと生活の身近にあれば、との思いをもって一般的な歴史論そのものについて展望してみたところ、生活実態に着目すれば、歴史的に生活の実像化が可能となって、ひいては歴史は日常的認識そのものと確信するに至った。また、歴史登場人物に着目して歴史の縦断的な流れを把握するなら、時代を読むことさえ可能となってくるともいいたい。

歴史ドラマの鑑賞を例にあげれば、過去へのタイムスリップで我ら時代を堪能していることになる。そこに、例えば江戸時代の1両は今の(5)10万円といった当時の生活水準を把握することができれば、昨今の社会の比較を通り越して昨今社会の同時体験が可能となるならば、歴史がますます身近なものになってくるといえる。

ここではそのうちの生活に視点を置き、歴史の面白さを郷土史の在り方にとして歴史を展望できた。これをもってまとめとする。

富山の住民行動の近代史 米騒動、イ病問題、エッセイ171

2018.06.24 富山の住民行動の近代史 米騒動、イタイイタイ病問題、171

 富山の民主主義の歴史で特筆すべき事象として、イタイイタイ病(イ病)、越中米騒動がある。これら事象の概要は以下のとおりである。

  イ病では三井鉱山を相手に民衆が鉱毒垂れ流しに厳しく抗議
  米騒動では、コメ価格を不当に吊り上げる社会に厳しく抗議
 いずれの事象も、民衆が生活を守るために声を大にして抗議し、運動を展開して全国に嵐がかけめぐったのであり、戦後の民主主義の原点ともいえる運動である。これが富山を発祥の地としているのである。最近は、民衆の歴史よりも観光が富山でも主となってきているが、民主主義あっての平和であり、かつ観光である。こうした観点で、富山の民衆運動についてここで述べることにする。

 

1.越中米騒動、近代民主主義の原点
 越中米騒動は1918年に、越中富山で起こった住民による社会抗議運動のことである。1918年のものは女性が先導したこと、全国に波及したことが特徴的である。富山発の一大社会問題としてここに論述する。

(1)
 米騒動について概説
 寺内内閣の時期、越中米はシベリア出兵に関連して拠出され、地元には販売用の米が当然少なく、しかも法外な値段で販売していた。そこで、地域の主婦たちが自からの生活を守るために立ち上がった。米の価格が不当であること、地元米を他地域に持っていくなと、女性たちは猛抗議をしたのであった。これを越中のジャーナリストが直ちに全国に状況を発信したところ、全国各地で一気に火がついて暴動が各地で起こったのである。


(2)
 米騒動の本質
 米騒動は人間が生きていくための不正や不合理を鋭く突いた直接行動であった。しかし、その後、米騒動は暴動と捉えられ、「米の争奪、人への危害、商家への放火」といった間違った認識がなされ今日に至った。確かに全国では米騒動は残念ながら暴動に発展したが、富山では真実は「奪わず、危害を加えず、放火せず」であった。
 こうした行動に対し、時の政府はどうしたか。軍隊でもって米騒動を鎮圧したが、一方では総理大臣の首を挿げ替えて鎮静化を図った。

 時代が下ってからは、米騒動は、婦人参政権獲得はもちろんのこと、住民の直接行動で社会の不合理不条理に抗議をしたという前例となって、その後は民主主義の原点となった。

(3) 今日的な問題
 米騒動から100年を経過している。日本では政権政党がきな臭いことをも日常化する政策をとり、ますます国民の生活を窮乏させようとしている。ここはやはり、そうした動きに猛然と抗議をしていかねばならず、その意味でも国民の直接的抗議行動やジャーナリズムの果たす役割は大きいといえる。しかしながら、住民運動の小休止状態やジャーナリズムの権力対抗姿勢の弱まりも残念ながらみられる。だからこそ、健全な民主主義を貫徹する上でも、米騒動の原点を思い出して今後の運動を展開していくべきであり、米騒動は一体何であったのか、何故に問題にし、どう対応していくのか、もっと自分らの今日的な問題として捉えたいものである。

(4) まとめ
 上述のように、米騒動は暴動では生活を維持するための社会不正義に関して激しい抗議であったこと。また、ジャーナリストがことの本質をしっかりと見極めて権力に抗して全国に報道したこと。この2点が米騒動という直接行動の本質である。知識人向井氏は米騒動を「女性による世直し」といっておられた。まさにそうだと思っている。これをもってまとめとしたい。

  

2.イタイイタイ病について、その本質とは  事実検証中です!!!
 明治の頃から神通川流域(特に富山県婦中町)にて、原因不明の風土病として捉えられていたこの病気は、太平洋戦争の頃には相当数の患者になり、戦後も一向に減らなかった。1955年には、こうした病気があることが世に向けて報道されたが、その後はすぐに無報道となった。
 その後、1966年には被害者団体が設立された。被害者団体は、196839日には三井金属を相手に提訴した、その直後59日には公害病と認定その一方では富山県は公害病ではないと主張。そうこうしているうちに、黒部にある工場の煙からCdが検出され、農地汚染が問題となった。もちろん、企業側はこれを隠した。
 時代が下り、1971630日には一審で原告側が勝訴、続いて197289日には二審で勝訴。大企業に対して初めて住民側の勝訴であり、勝訴の報道は全国を駆け巡った。
 ところが、巻き返しは1975年に始まった。文芸春秋の19752月号に「イ病は幻の公害病」ということで反鉱毒が主張されたのであった。これが大きく企業側を力づけさせることになり、以降再び論争となった。
 巻き返しの要因は何であったのか。土壌復元で膨大な金がかかる。これを加害企業の三井が負担することになっていたので、こうした住民運動で同種の企業が窮地に陥ること権力側・企業側が懸念して、かかる運動が全国に波及することを恐れたためである。
 また巻き返しは、自治体レベルでは、被害者救済の道を閉ざすかのように、県の患者認定調査会の審査で、委員長に反Cdを主張する御用学者をあて、しかも現場で実際に診察に当たっている萩野医師を除外し、まったくか患者を診たことも無い医師を委員とするえげつなさである。要は、権力側・企業側に加え自治体も、患者救済にも金がかかるから、患者や住民を無視してもケチることに徹したのであった。
 繰り返し言えば、巻き返しは、患者本位の背策が全国に波及すると企業側が困るからである。こうした状況下では、患者も対抗措置として骨生検で対応した。患者の身を削る骨を提供して検査をして患者認定を申請したのであった。こうなれば、いじわる行為ができなくなり、患者側の身を削る抗議が功をそうしたのである。
 権力側では、富山のイ病が全国に波及を恐れた。イ病が、大企業に勝訴し、患者の救済に全力を挙げるという、全国に先駆けてトップランナーなだけに、権力側が潰しにかかったのである。
 こうした潰しにも毅然と抗して運動が展開された結果、20131217日に企業側と患者側とで採集の和解が成立した。これをもって全面解決と謳われたが、未だに患者認定には高いハードルを設け、患者の切捨てが平然と行われているばかりか、未改良の土壌の放置や神岡での大量の鉱屑の放置があり、これについてどうするかがまるで考えられてはいない。

以下検証中

 また、患者については、20185月現在では200人だったが、今生存は5人である。協定を結んだ後も患者が出てきている。今後も出ることであろう。こうした状況にも、真摯な対応が見られないでで、全面解決はとんでもないといわざるをえない。
 今後については、事実を風化させるという権力側の方策に抗して真実を語り継ぐことが一番であり、その活動を推進していかねばならない。要は、公正さをゆがめ、不都合な真実を隠しごまかす、そんな風潮を、福飛ばすためにも、健全な社会世論を作り、これをより強固にしていくべきと考える。

  

 3.おわりに

 以上、富山における近代民主主義の原点が垣間見ることができた。また富山でもっと胸を張って将来に向け歩む自信が強まったように思う。

こうして自分なりにまとめ上げれたのは、イ病や米騒動のシンポ・講演会等に参加したおかげであり、各企画を精力的に進めておられ方々として、特に、ジャーナリストの向井氏、細川嘉六ふるさと研究会代表の金澤氏をはじめ、イ病を語り継ぐ会、米騒動100年記念フォ-ラム実行委員会の皆々様には、記して謝意を表する次第である。

富山県の歴史、アイデンテイテイと興味の郷土史、エッセイ143

2016.07.06 富山県の歴史、アイデンテイテイと興味の郷土史、143

1.                 はじめに

 富山県に住んでいる我らにとっては、富山の歴史については、日本の歴史とは違って何となく身近に感ずるためか、何でもかんでも何となく知ってみたいという気持ちになる。郷土の歴史とはそんなものなのであり、大なり小なりいろんな方々がかかわれるのが一番の魅力といえる。しかも、何かこだわりをもってピンポイントで迫っても歴史に何か新しさを感じ、興味がわいてくる。

 そう思っていると、自分の好きなポイントの歴史を地域におけるアイデンテイテイと捉えることにして、郷土史を自分にとってもっと身近なものにしたくなった。また、全国歴史そのものについては念頭には置くが、富山という地域で特徴的なことが即、アイデンテイテイにつながっていることを実感したくもなった。

そこで、こうした思いを叶えるために県域の変遷史として富山の歴史を書いてみることにした。また、全国に先駆けて富山を有名にした米騒動とイ病(イタイイタイ病)をも扱いますので、お付き合いをお願いいたします。

 

 

2.個人周辺から郷土へ、自分中心史から郷土史へ

 歴史については、むしろ身近な自分の街で小学校が新しくなったとか、ショッピングセンターができたとかいった事が何といっても自分らの歴史である。郷土史は、多分にそんな自分たちの歴史の臭いのする歴史なのであろう。そうなると、ますます自分も郷土史に参加したいという気になるものである。

 では、その源に何があるのであろうか。それは行動圏・生活圏における生活の営みであることはいうまでもない。身の回りの皆さんの思いが積み重なって、総体として地域圏あるいは大きなコミユニテイが時間という奥みをもって形成されていく。その全貌が結果としての郷土の歴史を育み刻んでいくのである。

 

3.具体的展開

 富山の自然は立山ということができる。では富山の歴史はといわれると、すかさず真っ先に佐々成政や前田の殿様が上げられる。これは、関心や興味の歴史として、源平期、戦国乱世の佐々成政、近世の前田加賀藩時代が思い浮ぶからである。

 一方、民衆の歴史として、立山信仰、越中米騒動、イ病があり、文化の歴史として大伴家持がある。

 古代から中世・近代の順に展望していこう。

 

2.1 古代 7-8世紀

<a> 県域

 まずは、富山が歴史的にいつ登場するのか。これは律令制の時代になって初めてではなかろうか。都人にとっては、北陸は北の果てであり、立山連峰が果ての象徴であったのである。そんな時代から展望したい。

 大化の改新(645年)の頃、高志(こし)の国といわれていた北陸一帯は、いまでいう福井敦賀から石川、富山、新潟、山形庄内地方までの領域である。当時は陸路よりも海路が盛んであり、このため北陸の北限については弥彦山あたりとすることもあるという。また、高志のいわれについては、都からみると北にある(高志の)山々を畏敬の念でもって高志としたのではなかろうか。

8世紀以降には、高志の国は、越前、越中、能登、越後に分割され、高志の国が越の国と書かれるようになった。(呼び方は「こし」のくに) なぜ越なのか。分国においても分国境界の山を越え越の国があるという意味で、高志が越になったようにも思う。

越中は、757年に魚沼や頚城が越後に移され、今のスマートな越中におさまった。
 ところで今でも、福井、石川、富山、新潟がなぜ北陸ですかとよく聞かれる。昔は、北に及ぶ権力域は高志の国までであったので、都からすると、そこらの地は北の果てとして北陸といわれたという解釈を今でも使わさせていただいている。

         

<b> 立山開山

 佐伯有頼が立山を702年に開山したという。開山には諸説あり、実存した親の有若ではないのか、佐伯一族ではないのかともいわれている。

 それはさておき、県内ではもちろん有頼が歴史上の重要人物として立山信仰の創始者として祭り上げられている。また、立山信仰の布教で、曼荼羅絵の果たした役割は大きい。

 

<c> 大伴家持

 古代の著名人といえば大伴家持であり、富山の文化性を持ち上げるには一役でも二役でもかっている。

 歌人大伴家持は746(平安時代)に越中国司として国府(今の高岡市伏木)に赴任し5年ほど越中に居していた。在任中、家持にはお気に入りの場所が

    ・二上山(高岡の山。奈良にもある)、

・布施の海(氷見平野、当時は海であった)、

・立山

の三か所であり、これらの場所にて越中の和歌を多数(223首)詠んだ。特に、立山を詠んだ歌が有名である。ただし、富山の雪にはうんざりしていて、そのせか、海越しの立山には興味示さないばかりか、立山の懐近く県東部には足を踏み入れなかったという。県東部での歌は旅人から東部の様子を聞いて詠んだともいわれている。

 立山の和歌については、以下に列挙する。

  立山に ふり置ける雪を 常夏[とこなつ]に

      見れども飽かず 神[かむ]からならし

  片貝の川の瀬清く行く水の

          絶ゆることなくあり通ひ見む

  たち山の雪しくらしもはひつきの

          河のわたり瀬あふみつかすも

 

2.2 木曽義仲

 木曽義仲は倶利伽羅峠で平家軍を敗退させたということで有名であるが、県内ではさほど義仲云々は語られてはいない。理由は簡単である。越中にはまったく住んでいなかった人であり、県西部域にある主戦場「倶利伽羅」において源平が勝手に戦をしただけということが義仲の評価である。

そのためか、県内では、義仲が行軍したルートが人知れず伝聞として残っている(にすぎない)。

 弓の清水の伝聞地では、義仲の軍が越中西部を行軍していたとき、兵士がのどの渇きを訴えたので、義仲が地面に弓をひいて矢を射ったところ、水が湧いたという。どういう訳か、この地が史跡に指定されている。最近、地元の研究者により、そのような場所を義仲が行軍していないことが実証されたが、高岡市はかたくなに史跡解除を拒んでいるという。理由は、「真実はどうでもよく、観光資源が減る」ということのようである。

 

2.3 佐々成政の時期1580-1585

 近世では、越中は一向一揆の時代や上杉統治の時代を経て、織田政権の武将として佐々成政が越中に入り、上杉勢を退けて領国経営にのりだした。とにかく、県内初の戦国大名として越中に居を構えて住み、越中に尽くしたことが評価されている。また、地道な統治の成果として治水事業が有名であり、神通川の佐々堤を築いたことが後世に伝えられている。このことからしても、県内では佐々の人気は前田の殿様よりも結構高いといえる。

 なお、佐々は秀吉に攻められたとき、厳寒期に浜松の徳川に援軍要請のために、北アルプスさらさら峠を越えたことが一層名前を県民の記憶に残したといえる。 

 

2.4 前田の富山藩、1585-1871

 佐々成政以降、越中は前田の領国となり、1639年には、射水郡と新川郡の一部が富山藩となった。前田利次が初代藩主に就任し、新田開発もすすめ加賀藩を支えていた。富山県域にあたる領域(富山藩、射水、砺波、新川)では、40万石は越中といわれている。

 江戸時代、県西部は加賀藩であったので、加賀の武家文化が県西部では華やいでいた。しかし、県東部は、加賀藩でありながら、文化とは無縁の世界であった。理由はおそらく、加賀の文化が富山藩に遠慮して県東部越をしなかったためと、県東部が文化でなく米蔵であれば十分とされたためであろう。このため、富山県西部にある高岡、伏木、射水、岩瀬、砺波では絢爛豪華なお祭りが多いのに、県東部では華やか祭りは全くないのである。

 富山藩はそんな貧乏所帯の藩であり、上述のように文化の香りのないことが特徴的であった。なぜそうなったのか。なぜ、富山藩が神通川と常願寺川の間だけの領域であったのか。本来なら新川を含めて神通川以東すべてを富山藩にすべきと思われる。推測であるが、分藩に際しては

・幕府の手前、分藩ということであれば、ある程度藩としての体裁が必要であったこと。

・分家筋には、母屋は割合冷たく対応した。

・新川域の米生産は魅力であったので、母屋は新川を手放さなかった。

といったことにより、富山藩はこじんまりと富山中心に限定された狭い領域になったのであろう。

しかしながら、富山藩は、諸産業として薬産業に目をつけ、これを奨励し、とりわけ全国に商う売薬を制度化させた。今日、富山が県の中心(県庁所在地)になっているのも、富山に何の産業もなかったからこそ、産業振興に目を向けることができたのである。そのような富山が高岡を押しのけて県庁所在地になってからは、富山の発展ぶりはそれこそ特筆すべきことである。

 なお、参考までに加賀藩の石高について記しておく。関ケ原後1639年までは、加賀は120万石であり、能登23.3万石 越中55.3万石、北加賀26.6万石、加賀西部12.5万石となっていた。1639年には、大聖寺藩7万石、富山藩10万石が独立して、加賀藩本体は103万石となった。

 

2.4 米騒動 1918

 富山県では、明治期、米商人が富山の安いコメを買い占め、県外で高く売って巨利を得ていた。1918年(大正7年)政府のシベリア出兵を機にコメの投機的買い占めが始まり、米価が高騰した。日頃の米価高騰に苦しめられていた魚津の主婦たちが港に停泊の米運搬船へのコメ積み出しを阻止した。これがたちまちのうちに全国に知れわたり、各地で民衆が蜂起したが、軍隊によりすべての騒動が鎮圧された。

 民衆の大抗議運動として特筆すべきこの騒動は、県内ではあまり触れられてはいない。単なる一事件という捉え方しかされていない。

 

2.5 イタイイタイ病(イ病) 1910-1970

(1) イ病

 イ病は、神通川下流域の富山市婦中町で1910年から1970年まで、特に女性に発症した公害病である。症状は、骨がもろくなって折れるものであり、想像を絶する痛みを伴う。患者数は、200-400人くらいといわれているが、過去からも含めて実数は不明という。

イ病の原因は神通川上流にある三井金属神岡精錬所から出る亜鉛精錬の未処理排水に含まれているカドミウムである。これが農業用水や飲用水として使っていた農民の体に取り込まれ蓄積することにより腎臓障害を引き起こし、体内の骨量が減少するのである。

 イ病について、原因が判明し、患者救済や再発防止へと世の中が動き出したのは、1955年からである。すなわち、1955年に地元の萩野医師がイ病を発表し、1957年に鉱毒病として指摘して以来、問題解決に向けて運動が始まった。初めのころは栄養失調とか、風土病とかでカドミウム原因をなんとかうやむやにしようという勢力もあったが、1966年にはイタイイタイ病対策協議会が発足し、粘り強い調査研究・運動もあって、1968年には厚生省は「イタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動によって排出されたもの

である」と断定した。

 その後、すぐに文芸春秋誌をつかった反キャンペーンが繰り返され、長い裁判闘争がくりひろげられた。詳しくのその関係の文献を参考にしていただきたい。  

最終的には、201312月に全面解決として合意書を原告と被告の間で取り交わした。ただし、これですべてが終わったわけではなく、行政はいまだに公害病認定にハードルを上げており、三井金属はいまだに神岡鉱山に残留する廃棄物を未処理のままにしていることなど、問題はいまなお多く残っている。

 

(2) 汚染地域対策

 住民側のパワーが力を増してきて、汚染地域は行政側で土地改良によって汚染程度を低下させることになった。県は、1974年から農用地汚染防止法により農地区域863haを対象として土壌改良を検討し、1979年の本格工事を開始し(33年かけて)2012年にやっと完了した。総費用は407億円であり、これを三井金属、国、県が分担した。

(3) 今

イ病への対応について富山県は、上記土地改良工事の推進と後世に負の遺産として伝えるイ病記念館をオープンさせたが、問題は今なお残っている。ひとつには、改良工事は一応終わったことになってはいるが、未改良地域は大ショッピングセンターや公園として今なお手をつけず残しており、ここにも行政が工事費を浮かせようと思案した名残を見ることができる。第二には、資料館において県が鉱毒説を否定し、患者を著しく危険にさらしたことを少しも展示していない。行政が誰の味方であるかが如実に見て取れるしだいである。といった指摘を含めて、イ病を語り継ぐ会は、いまもなお行政には真摯な対応を求めている。

 

3.富山県域の変遷

 富山県は東西南の三方向で山に囲まれており、県域は自然と地形に沿ったものになるはずではあったが、政治の力関係で、石川域と富山域とで境界線が何回も線引きしなおされた。1876年には、富山域を含めて石川県の領域が定まった。しかし、石川側と富山側とでは行政の主事業が異なっており、石川の道路整備に対して富山の治水事業を優先していたので、富山側の独立が強く叫ばれ、1883年に富山県が石川県から分離して(富山県が誕生し)今日に至っている。

 1889(明治22)には、市制・町村制が実施され、富山町と高岡町が市となり、2市31238村となった。

戦後(1945年)にはいってからは、戦災復興院告示第一号により都市計画事業がすすめられた。その後、市町村については、昭和の大合併で9市18町8村(総計35市町村)となった。

2004年(平成16年)には砺波地方に2つの市が誕生し、1013町4村(27市町村)となった。

 

4.まとめ

 郷土に関心があって、何となく自分でストーリを構成したくなり、富山県の歴史としてまとめてみた。このため、本稿は一般の歴史書とはかなり違って特徴的な様相となった。列挙すると;

(1)    県全体の通史ではなく、県民の歴史人気と住民の苦難について書き記すことができた。

(2)    県民の関心を自然と発掘したおかげで、興味がさらなる興味を引き出すようなイメージを作り出すことができた。

(3)    (一部の事象だけだが)県民の関心はやはり歴史上の人物そのもの。読者が人物と重なると、しらないうちにアイデンテイテイを堪能したことになると考える。

 

読者の皆さん、いかがでしたでしょうか。本稿から県民の様々な声が聴けたのでは、と思う次第です。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

 

A.あとがき

 富山の歴史を扱った本は、本当に沢山出版されている。それだけに、歴史に寄せる思いは皆さん、強いということができる。

 かくいう自分も歴史ファンである。かなり知識がたまってきたので、何か書きたくなってきた。しかしながら、単に富山の歴史というのでは、いかにも歴史を勉強してまとめましたってことになるもので、おもしろくない、

 そこで考えたのが、「歴史は何のために歴史か」という視点でもって歴史を語ることにした。皆さん、歴史を何のために知るかといえば、郷土のアイデンテイテイを知るためとか、人間の営みの積み重ねを知るためということである。(時には負の歴史も)

 本稿はそうしてまとめたものである。単なる歴史書とは違って、一味も二味もあること間違いないといいたいのである。

 歴史は、そんな観点に立てば、いろんな対象で歴史を語ることができる。誰でもが語れる、それが歴史なのである。

 

追記

最後に、なぜ執筆か、今一度理屈を述べたい。

世の中に多くの本が出ていても、自分で歴史を勉強していくと、何となく(歴史を通して参加したくなり)まとめてみたくもなる。実際にまとめだすと、何か自分らしさを出しながら編集したくなってくるから不思議なものである。そんな思いをもって執筆した。

 

追記2 感想

 本冊子を何人かの友人にお見せしたところ、感想をいただいたので、ここに紹介する。

・越の国はなぜ越なのかの議論について;おもしろい。(朝鮮から)海を越えての越ではないのか。

これを聞いて編者の見解として、当時、海路が主でしたから、これまた敦賀の方から海を越えての感覚があったのかもしれない。

・歴史「history」を「his-story」としてではなく「my-story」として。編者はこれにうなずきました。なるほど。

 

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