科学・技術

技術者は耐震偽装問題をどのように考えているのか、エッセイ113

2014.07.01 技術者は耐震偽装問題をどのように考えているのか、113 

技術者は耐震偽装問題をどのように考えているのか 07,03,16

 

耐震偽装問題について、日常業務から社会的な次元まで実務者の意見を幅広く収集してその根源に迫ることにした。ただし、住民保障、行政責任、業界責任、マスコミ報道などについては、ここでは本題としないことにした。

 

はじめに

0511月に発覚の姉歯(A)事件、071月に発覚の水落(M)事件が起こった。耐震偽装は、背後には経済優先社会の弊害が横たわり、加えてそれを隠蔽などという悪しき伝統が取り巻き、社会における信頼関係や技術体系そのものを危うくしている。それだけにこうした状況下では、専門家(特に実務者)は業界のシステムの危うさを自ら感じており、この期に乗じて日頃の考えを発信している。

しかしながら、彼らの声が世間に十分に届かないことが問題の解決を遅らせるとともに解決の広がりをそこねたりする原因とも考えられる。そこで、本稿において彼らの声を項目ごとに整理・編集し事の本質に迫ることを試みた。これをもって、問題の草の根的解決に向けて資することにしたい。

なお、収集した声は (1)02年から06年までの学会大会関連行事として実施の「実務者討議の集い」(実務者・研究者・教育者延べ90人)、(2)95年学会富山支所による耐震工学シンポ(実務者100人程)、(3)066月に実施の新建築家技術者集団富山支部の「耐震偽装を考える」座談会(実務者11人)のものである。

 

1.耐震偽装について

1.根源

・この事件は特定の人が起こした特異の問題ではなく、この国の建築生産システムの構造問題が根底にある。

・問題の最大原因は、建築確認検査制度を98年の基準法改正で民間でもおこなえるように規制緩和したこと。

・計算プログラムにも問題あり。大臣認定を見直し、量的に簡素化し、チェック機能をプログラム自身がもつこと。

・設計者が、施工から形式的にも実質的にも独立することが最も基本的で重要なこと。これは、建築士法等の制度改善にとどまらず、設計報酬の確保、不正をただす倫理をどう確立していくかが大きな課題である。

・世間を騒がせているシンドラー社のEV事故も、機械本体が悪いのかメンテに不備があったのかは調査中との事だが、根っこは安ければ何でもいいということにある。耐震偽装問題と一緒。

 

2.技術者の考え

 「言語道断、われら肩身の狭い思いをする」といった声がほとんどであった。技術者ならではの意見を以下に紹介する。

・新耐震以前の建物がA氏物件の建物と同じくらいの耐力である。A氏物件がだめなら新耐震以前のものをどうするのか。これについては確かに大問題であるが、だからといってA氏問題は軽症というものではない。

・実現象;A氏物件の建物は地震に対して危ないのか。地震が来てみないとわからないのではとのコメントあり。これも先のことと同じで、法的な取り決めの根拠を論じることではなく、今の技術水準で取り決めに違反したことが問題である。

・技術者団体は目立たず;A氏の場合には、所属団体は、彼が会員でないので正直ホッとしたところであったろう。今度のケースではM氏は建築系各団体の会員である。彼個人がやっただけのことといった論評が先行し、本当に根本的に何とか対処しようという機運はあまり感じられない。

・断片的情報の伝達;市民にとっては、とにかくインチキ事件ということで理解ができる。では専門家に対して情報はどうなのであろうか。断片的なものばかりの報道であり、全貌が見えない。不思議なことに学協会はことの実態を明確にしようという努力が足りないようにみえる。有識者のコメントも設計基準の詳細の話が多く、その背後の問題にはまったくふれられていない。こうしたことをしっかりと言える方が本当に少ないのも原因であるが。

・本質の報道には専門家とのタイアップが必要であるが、不思議なことに専門家はこれ幸いと口をつぐんでいるように思える。

 

3.技術者側から市民への伝達

・一般の方には、一連の事件で建築に携わる技術者の姿が(マスコミを通して)伝わった。これまで、こうしたことを専門家からはあまり発信していなかった。

 

4.設計

・基準の運用;今回の場合には技術体系がおおいに関与していた。性能設計という設計法を作り上げたのはいいが、そこに問題ありとしてだれも立ち入ろうとはしない。運用者がよい運用から悪い運用までありきといった前提条件であれば、経済性が優先してしまう。そこでまず研究者はそうした運用に関して検討すべし。実務者のみ責めればいい訳ではない。

・あやうい技術体系;性能設計は現実離れした設計法である。

・性能設計の運用に当たっては、ローコストという経済論理を入れるものとなった。あえていえば、悪く運用。

・A氏が限界体力設計法を使っていたら、あの鉄筋量で十分という結果がでてくるというが。

 

2.日常業務において

1.設計

●設計の真骨頂か

・設計値を超える値で設計することは、過剰設計として技術者仲間でも下手な設計とさげすむ傾向がある。

・特例事項(告示等)が多すぎる。最終的に現場技術者の判断にゆだねるとは極論すると何でもありということか。

S56年豪雪で奥飛騨のある体育館が積雪1.5mで崩壊した。当地での設計積雪量は1.5mであり、少なからずの技術者は良い設計であったと賞賛していた。

95年阪神淡路の地震で転倒した阪神高速道路橋脚のうち、転倒した所に隣り合わせで崩壊しなかった所があった。前者と後者では設計者が異なり、後者では想定地震力を多少大目にして設計したので崩壊せずにすんだ。(建設年の違いを割引いても)

●構造計算

・構造計算は完全に確定のものであり、設計者の考えは勿論入らないが、モデル化については設計者各自の考えで様々である。

・構造解析プログラムでは、汎用的な状況設定を前提としているが、汎用でないケースがあった場合、設計者がそれにみあった対応をしてプログラム使用となる。しかしながら、構造技術者の中には、そのことがわからなく、とにかくプログラムをランさせてしまう。

●構造の勉強

・構造について、よく問題を認識している人がいるのに対してそうでない人も結構いる。勉強していかないといけない。ただ、講習会やCPDに参加すれば簡単に身につくというものではない。

 

2.専門家側

●実務者の意識      

・技術者は無知であってはならない。強い責任感が必要。

・自分の判断を信じ毅然とした態度で仕事に望む。

・基準強化のみでは対処できず。設計・施工者の意識向上を。地位向上を。

・安全で使い易い住まいをまず考えること。

・コスト割れにより良い仕事ができないこと多い。

・技術は人間を遠ざけているように思う。規準は規準であり、規準を支える学術体系は体系であり、運用は運用であり、それぞれ別ものとでもいいたげである。そんな割り切り方が技術者の中に潜まされているのではないだろうか。特に、市民の視点がないとすぐに専門分化された狭い世界に陥り、物事の本質が分からなくなる。

 

3.市民側

●一般の方への理解

・要求性能について施主との合意が必要。

・建主・業者への設計の必要性を啓蒙すべき(設計図無しの建設あり)。

・実務者は一般の方に平易な言葉でコミユニケーションを。

・建物がどのような条件や基準で設計されているかを明示し説明する。

・建築基準法は最低基準であることを施主に説明し、よい方向に説得させることが建築士の務め。

・阪神の地震で人命第一として構造物被害はある程度しかたがないということが一般の人の感覚とずれていることが理解されたと思う。

・間取りに構造的なことが必要であることに理解を。(耐震壁、筋かいの必要性を)

・見ためより丈夫さを。丈夫なものの建設に理解を。

・ブレースや壁を多く取り付けることを施主は理解して欲しい。

 

4.社会的背景

●社会資産としての建築

・西山卯三先生はいつも「建築は商品ではない」と主張。

・世間の議論では、消費者に満足いくものをつくらなければならないといった議論が多いが、建築の消費者という前提条件がそもそも間違いである。

・建築の社会資産としての役割を考えていかねばならないのに、市場原理にのる商品という位置づけはまったくの論外である。安ければいいというものではない。社会資産としての建築という視点が今みられない。

●信頼について

・行き着く先は信頼関係である。建築主と設計者、設計者と役所、お互いに顔をあわせれば信頼関係が生まれるはず。

 

5.経済優先の具体的事象、

●省力化、コストダウン

・建設の際に何も鉄筋量をケチるだけがコストダウンではない。もっと大変なのは、形になって見えないソフトの面にコストダウンをすることが横行している。

・設計監理のおざなりはいうに及ばず、よく図面を見ずして構造計算をするといったことがあるのでは。

・技術者がこれまで培ってきた仕事の勘というものと、やりっぱなしの仕事への姿勢が悪く展開したのでは。

●仕事の勘所

・M氏の場合には割合規模の小さいもの(4,5階建てまで)を大量にこなしていたが、これまでやっていない大規模なもの(11階建てなど)に対しては、中低層の勘所で(自信過剰気味に)対応したものと思える。

・多分これでいいだろうとか、これくらいなら良いといった感覚による遂行は、技術世界の事故と同じ性格のものである。

●仕事へのプライド

・一度やった仕事をじっくりと点検する余裕すらなく、またそんなことを思うことすらないのが実状かと。そんな状況では、仕事への愛着や情熱が育ちにくく、当然人の顔が見えなくなる。

 

6.経済性

●経済性

・健全な架構の経済評価を設定すべし。経済性といえば現在は不完全な架構を対象にしているにすぎないから。

・経済性ばかりの追求に建築士は乗せられすぎ。

・安全性重視もいいが、経済性または施工性を忘れないように。

・強度にまわすお金がない。

・仕事については、行きつく先はコストとやる気か。

・世の中、建物は適当に壊れてくれないと、膨大な人間を抱える建設業が成り立っていかない。(ことの是非は別)。仕事の円滑な流れを優先させることも多い。

・いい仕事とは何かという姿勢で仕事に取り組み続けて、受注競争に勝ち残ることができるのであれば言うことはありません。

 

7.業務の様相

●設計

・耐震設計の方針が施工現場に十分伝わっていない。設計者の監理の権限強化を。

・設計者としてしっかり意見を述べるようにする。(家具転倒、飾り物の耐震、耐震設計理念など)

・設計者の特殊性をアピールしがち。安全性を軽視する傾向。

・構造と住みやすさ使いやすさの兼ね合いをどうするのか。

・耐震を設計次元で意匠とともにトータルに考える姿勢が必要。

    無理なプランをことわる。

・構造躯体の問題よりも、設備設計の耐震を考えて。

・中越地震を契機に、廃棄物を少しでも少なくするようなことを考えることを痛感。設計のときにそのことを意識したい。

●.構造設計

・意匠設計者がもっと耐震の勉強を。そうでなければ、施主との打ち合せ段階から構造設計者も加えること。

・構造技術者が不足。

・デザイン先行の構造計画には無理がある。

・デザイン先行による構造の不備は十分時間をかけて改善を。

・施工容易さ丈夫さを念頭において設計を。

・設計・施工を基本通りに行う。基本がカッコ悪いとの即物的判断は誤り。

・耐震性向上には鉄筋量の増加以外には方法がないのか。

・耐震性向上の方法の検討には、特殊工法設計によらずに一般的な方法で対処できるように。

・新耐震で壊れた建物は過小設計である。設計者の良識を疑う。

・新耐震を正確に守れば問題無しといえる。

・住宅に関して新耐震を適用すべきでない。阪神の無被害住宅に学ぶべし。

・構造設計の実状は想像以上に“ヤミ”の中。コンピュータの使い方を本当の意味で人間の道具にしなければいけない。

●施工

・手抜き工事をしない心構えの啓蒙が必要。責任ある施工を。

・設計の基準と施工現場の品質に格差あり。施工側の技術レベルの低下が問題(下請けの悪面の顕在化と元請けの段取り屋化)

・設計の内容を深く理解し施工したい。

・計算書は殆ど読まれていないので内容は図面に明示を。

●基準

・設計基準を設計者がまちまちに運用しているのが実状。

・無被害にはどれだけのコストがかかるかという性能値が明確になる基準が必要。

・新耐震見直しで重要度係数がアップとなったとき、一般の方にどうわかりやすく説明か(何何地震対応という言い方が一般には理解し易い)。

・建物の性能(強さ)について建築主にもっと選択枝を与えるべき。例えば性能の程度が基準の係数などに考慮可能か。

●建築主とのコミユニケーション

・建築主との打ち合わせの場合、構造の方を連れて行くことはない。構造の方には引きこもっておられる方が多い。ところが設備の方とは種々打ち合わせがあり、結構コミユニケーションを図っている。

・業界には意匠上位の考えが根底にある。それを受けて、引きこもりがあたりまえのようになったのではないか。

●仕事の位置づけ、仕事の社会性

・仕事を金儲けの手段としているところに一番の問題がある。

・構造や意匠が同一のテーブルについてトータルに論議というが、誰が統括するのであろうか。

・社会資本であり、各々の生活基盤である建物、その性能を理解できるように、そして安心・安全な建物が出来る社会システムを作ってほしい。

・これからの建築設計・施工、建築界全体を考えていく上で根本的なことを主張しているようであるから頑張ってより良い建築が出来るようにしたい。

・この世の中、建築イコール商品・消耗品といった考えが根底にある。この種の問題を含めて教育が大事であることを痛感。

・最終的には個人の倫理意識に行き着くが。市民の人に建物は消費するものではなく作り育てていく意識をPRしなければ。

 

3.制度的な対応

1.建築基準法一部改定の動き

●改定のねらい

・罰則が強化されているが、そんなことが問題の本質ではない。現行システムを変えずして規制を強化しても問題解決にならず。

・検査機関について、民間機関をこの際、廃止して欲しい。本来、建築確認申請は行政サービスの一環のものであり、民間でコマーシャルベースにのせるものではない。行政は、もっと検査部局の増員をはかって住民サービスをしっかりと実施すべき。

・構造の設計については、一人の方がするのではなく、考え方の違う複数の方が互いに討議して設計していくことこそ肝心。

・建築基準法及び建築士法の改正については現行法で十分に対応できるのでは。偽装問題については個人的なモラルのこと。

 

2.建築士法一部改定

 0612月の建築士法が改定された。ここにある意見は改定前の時点のものである。

・士法改正については、いろいろな問題をかかえているので基本的には反対。構造設計については、さらに詳細な規定が必要。

●二つの方向

・「アーキテクトとエンジニアを完全に分け、アーキテクトが上にくるようにしたい」というもの。意匠、構造、設備の三つに資格を完全にわける。構造や設備の地位向上をねらってのものであり、技術水準を向上させる方策でもある。ただし意匠からの統括が上位にあるように感じる。

・建築士の資格のなかに、構造や設備の専門のものを専攻建築士として反映させようとするのが良い。

●総合的な資格として

・資格者は、建築そのものをオールラウンドに知った上で各専門に精通するのである。

・大学における建築設計教育について、設計教育を意匠設計に限定するのではなく、意匠、構造、設備の三分野にまたがってバランスよく設計に持っていくべきである。

・専門性と総合性を如何にバランスさせていくのか。具体案がないと議論が進みにくい。

●各分野からの論議

・構造、意匠などと分けてしまうと、構造の方は意匠のことが分からなくなる。逆もあり。建築は、意匠、構造、設備のどれを欠いてもできない総合的なものである。パーツに完全分離するなどはもっての他である。

・仮にそうした制度のもとで資格試験があったら、自分の専門のことのみ勉強し他の専門は勉強しなくなる。

・建築の勉強とは、建築全体の勉強をまっさきにし、次に各専門の勉強が続くもの。

 

4.教育的な対応

1.倫理教育

・技術者の倫理観を高める倫理教育というが、やらないよりはやったほうがましか。問題はそんなことではなく、倫理が経済性優先で追いやられている現実に何とする。企業コンプライアンスを如何に確立していくのか。

・たびかさなる世の中の不祥事を受けて教育界では倫理教育をとり入れだした(金工大をはじめとして)。小中高で受験勉強オンリーなところにいきなり倫理ということは滑稽である。

・教育全体でもっと抜本的な何かが必要である。

・健全な精神をもった学生が就職して数年十数年たっていくと、彼らの健全さ(企業論理により)がしらない間に失われていく。

 

2.技術者教育

・A氏事件ではA氏の技術力が低かったからとの判断があった。ならば解決には、CPDで技術力アップをはかるという対応があり、建築士制度の改定というところまで進んだ。(本質的対応とは思わない。) ではM氏事件ではどう落とし前をつけるのか。何やら技術論を押し通してうやむやになる可能性が高いのか。

・モラルについて一言。現場で若者技術者が鉄筋配置不良で型枠にあたっているのを見たら、上司の方に「直しましょう」と言えるようにしたいものである。

・信頼や倫理をどう教育していくのか。

 

3.危うい基礎的な教育

・今、ものづくりの必要性が叫ばれている。しかしながら、初等中等教育の現場をみると、図画工作の時間は減る一方であり、美術や音楽などは中学では選択授業となりかねない状況がある。こうした中で、どう感性や人間性を磨いていけというのか。

・教育で、役に立つことのみ勉強するという考えが曲者であり、役立つ範囲がきわめて狭くかつ浅く捉えられている。勉強がそうならば、卒業後の仕事遂行にもそのような姿勢が引継がれ、市民の視点や総合的な視点が根づかなくなっている。

・教育現場とは別にTVITなどの情報洪水として視覚的に訴える。世の中の風潮がすりこまれている。ものを大事にしない風潮はそのままであり、大量生産大量消費の価値観が一向に改まらず、そのなかで建築は社会的資産としての価値をどう定着させていくのか気がかりである。

 

4.消費者教育

・今度の事件で消費者の意識改革をしなければならないということを建築系の多くの団体の長や有識者が言っている。「消費ということにモラルをもてとか、安くてもよし」といったことを合理的におしつけるような気がする。市民という感覚がなぜもてないのか不思議である。

・貧困な住環境。ウサギ小屋や下宿の住まいが住文化を貧しくする。住まいにもっともっと愛着を持って、住まいの文化をもっと成熟させたいものである。

 

5.おわりに

 意見収集をしてみて、多くの方が日頃の思いを発信したいというニーズに応えられるようにコミユニケの場とチャンスの提供が急務であることを感じた。またこの問題で討議された方々が構造に偏ることなく、意匠、設備、官公庁、教育と多岐にわたっていたことより、明日が明るいことを確信した。ここでいくつかの気づきをまとめとして列挙する:

1)  法規制そのものでは根本的な解決は難しい。

2)  社会資産としての建築といった捉え方が乏しく、この期に及んでも商品としての建築の考えが根底にある。根本的な問題として建築の文化を育成したい。

3)  健全な技術者のがんばりで、今が築かれており、将来も自信もって望みたいものである。

4)  文化育成といったことを含めて教育が大事と考える。

5)  技術者教育の問題も資格議論とあわせて検討が必要。

耐震偽装問題について技術者の日常で捉える、エッセイ104

2014.06.18 耐震偽装問題について技術者の日常で捉える、104
 耐震偽装問題について技術者の日常で捉える 07.03

この問題を単に構造設計の問題ではなく、建築設計技術運用に関する問題として、(市民を大事にする)技術者視点でアプローチした。なお、学術的問題や政治・経済、市民生活などからの問題については他の方にレポートをおまかせしたい。


1.はじめに

富山から耐震偽装問題が勃発した。今回の偽装は、背後には経済優先社会の弊害が横たわり、加えてそれを隠蔽などという悪しき伝統が取り巻き、社会における信頼や技術体系そのものを危うくしている。このことは、何も建築のこの種の問題に限らず、食肉問題、自動車リコールや原発データ改ざんなど枚挙にいとまがない程、とんでもない状況をつくっている。我らは、建築分野でこの種の問題に取り組むとともに、他の問題にも状況改善について応援していきたいものである。

建築ではご承知のように、姉歯氏(以後A氏)事件の後に審査制度・資格制度などに改善策が講じられ一件落着の感があったが、今回の事件(当事者水落氏、以後M氏)ではA氏事件と性格が異なり、問題がもっと根源的にもかかわらずそれ相当の対応がなされていないとみている。肥大化した技術体系が人間の顔を忘れかけたような感すらする。そこで、私は技術者の日常面の視点で問題を捉えるべきとした。具体的に扱う事象は次の三点である。(1)仕事に臨む姿勢、(2)市民および専門家の教育的環境、(3)情報伝達のあり方。


2.不思議なこと

 皆さんもよく感じておられるように、報道や各団体の話で「あら不思議」と思うことが多々ある。

(1)専門家のひとつの考え

新耐震以前の建物がA氏物件の建物と同じくらいの耐力である。A氏物件がだめなら新耐震以前のものをどうするのか。これについては確かに大問題であるが、だからといってA氏問題は軽症というものではない。

(2)実現象とからめて

実際にA氏物件の建物は危ないのか。地震が来てみないとわからないのではとのコメントをよく聞いた。これも先のことと同じで、法的な取り決めの根拠を論じることではなく、今の技術水準で取り決めに違反したことが問題である。

(3)技術者団体は目立たず

A氏の場合には、所属団体は、彼が会員でないので正直ホッとしたところであったろう。今度のケースではM氏は建築系各団体の会員である。彼個人がやっただけのことといった論評が先行し、本当に根本的に何とか対処しようという機運はあまり感じられなかった。

(4)断片的情報の伝達

 市民にとっては、とにかくインチキ事件ということで理解ができる。では専門家に対して情報はどうなのであろうか。断片的なものばかりの報道であり、全貌が見えない。不思議なことに学協会は事の実態を明確にしようという努力が足りない。それを裏づけるかのように、有識者のコメントも設計基準の詳細の話が多く、その背後の問題にはまったくふれられていない。こうしたことを明確に語れる方が極めて少ないのも原因である。


3.経済優先の具体的事象、―――(技術体系の危うさ)

(1)省力化、コストダウン

 建設の際に何も鉄筋量をケチるだけがコストダウンではない。もっと大変なのは、形になって見えないソフトの面にコストダウンすることが横行している。設計監理をも含めた建築構造設計の場合には、ある方は23箇月に1棟が関の山という。ところがM氏の場合、年間平均13棟というハイペースである。こんな膨大な量をこなすことが出来るのか。如何に所員を数人かかえているとはいえ、コンピュータ処理しているとはいえ、無理であろう。となるとどういうことになるのか、設計監理のおざなりはいうに及ばず、よく図面を見ずして構造計算をするといったことになり、玄関前にブレースが平気で設置などということが起こるのではないのか。これは「ずさん」というよりも、もっともたちの悪いものである。このとき、個人のレベルでその理屈のよりどころは何か。それは、(社会・経済等の問題は置いといて)技術者がこれまで培ってきた仕事の勘というものと、やりっぱなしの仕事への姿勢が浮かび上がってくる。そしてまた、最も危惧すべきことは技術体系が経済性に対応可能となったことである。

(2)  仕事の勘所

 技術者は仕事をこなしていくうちに勘というものが育まれていく。M氏の場合には割合規模の小さいもの(4,5階建てまで)を大量にこなしていたが、これまであまりやっていない大規模なもの(11階建てなど)に対しては、中低層の勘所で(自信過剰気味に)対応したものと思える。それを裏付けるかのように、富山県内(ほとんど中低層の物件)では、偽装物件は(今のところ)出てきていない。それゆえ、A氏のように故意に種々改ざんしたことに比べれば、M氏の場合には個人の領域を超えて技術社会全体がそのような事を許してしまったように見える。多分これでいいだろうとか、これくらいなら良いといった感覚による遂行は、技術世界の各種事故と同じ性格のものである。

(3)仕事にプライドがもてない昨今

 とにかく今は仕事はやりっぱなし、やっつけ仕事という言葉があるように、一度やった仕事をじっくりと点検する余裕すらなく、またそんなことを思うことすらないのが実状かと思う。そんな状況では、仕事への愛着や情熱が育ちにくく、当然人の顔が見えなくなるのであろう。

4.       問題の本質

(1)最低基準から最高基準への変質か

 本来、建築基準は最低基準として設定されたものであり、余裕を持って運用するものであったが、いつの間にか、設計者はこれをすれすれクリアーすればOKといったことで使っている。そうでない場合を過剰設計として技術者仲間でも下手な設計とさげすむことが多い。もちろん、経済優先がこれに拍車をかけている。また特例事項(告示等)が多すぎる。最終的に現場技術者の判断にゆだねるとはいったい何事か。基準の運用はこれが現実である。設計に際していくつか例を出す。

56年豪雪で奥飛騨のある体育館が積雪1.5mで崩壊した。当地での設計積雪量は1.5mであり、少なからずの技術者は良い設計であると賞賛していた。(私も調査に行った)

95年阪神淡路の地震で転倒した阪神高速道路橋脚のうち、転倒した所に隣り合わせで崩壊しなかった所があった。前者と後者では設計者が異なり、後者では想定地震力を多少大目にして設計したので崩壊せずにすんだ。(by高速道路公団職員談)

(2)危うい技術体系

 耐震技術の向上には目覚しいものがある。1981年の新耐震以降、技術は向上し安全性は格段に保障されるようになった。しかし、その一方ではスクラップアンドビルドという建設需要の創出の動きはおさまらず、経済性重視の技術体系は依然として健在であり、その際たるものは最小重量設計法や最適経済設計として脈々と流れていた。そんな折、1998年の日米経済協定であるプラザ合意により、アメリカ流の設計法を受け入れ、それを性能設計という目新しい言葉で2000年から推進するようになった(現実離れした設計法)。設計条件を経済次元で設定して設計するというしろものであり、これを開発した研究者はもっと安全性を確保したいとの一念でつくりあげたなかなか優秀な体系であったにもかかわらず、当然のことながら、その運用に当たっては、ローコストという経済論理を入れるものとなった。あえていえば、悪く運用することとなった。そのおかげで性能設計になってからは、建物の安全性は20%以下に減少したと報告もある。もっといえば、A氏が限界体力設計法を使っていたら、あの鉄筋量で十分という結果がでてくるという。もちろんそうするとA氏の行為は合法なのである。技術体系の危うさがかいまみられる。

5.情報伝達・報道

 本来、マスコミは市民の味方であるということを前提として論ずる。技術体系が危ういなどといった事の本質を市民にどう伝えるか。マスコミが耐震問題の専門家でないのは当然であるので、本質の報道には専門家とのタイアップが必要であるが、不思議なことに専門家はこれ幸いと口をつぐんでいるように思える。もっと問題点を整理してマスコミとタイアップして市民に伝えるべきなのに。こうしたところにも、専門家は単に技術行使の次元から一歩も出ていないといえる。そろそろこれを契機に出てもいいのではないか。ただし、そうした中でもがんばっている専門家とマスコミもあることを付記しておく。
 

6.対応

6.1 社会的観点からの教育

(1)技術者の倫理観を高める倫理教育というが

 私は、やらないよりはやったほうがましであると思っている。問題はそんなことではなく、世の中全体に、倫理が経済性優先で追いやられている現実に何もしないで、個人のレベルでうんぬんとは抜本的な対応になっていないといいたい。企業コンプライアンスを如何に確立していくかなどの議論は、社会の問題という観点がない限り成立しないといっても過言ではない。今臨まれていることは、経済優先主義を如何に克服していくか、その手立てをどうするかである。

6.2 危うい基礎的な教育

 人間破壊などという言葉が出てくる昨今、抜本的な解決を目指して人間性の追及とか感性や個性、独創性の育成などもっと真剣に考えなければならないが、教育改悪が忍び寄っている。

・今、ものづくりの必要性が叫ばれている。しかしながら、初等中等教育の現場をみると、図画工作の時間は減る一方であり、美術や音楽などは中学では選択授業となりかねない状況がある。こうした中で、どう感性や人間性を磨いていけというのか。

・教育で、役に立つことのみ勉強するという考えが曲者であり、役立つ範囲がきわめて狭くかつ浅く捉えられている。勉強がそうならば、卒業後の仕事遂行にもそのような姿勢が引継がれ、市民の視点や総合的な視点が根づかなくなっている。

・世の中の風潮は、教育現場とは別にTVITなどの情報洪水として視覚的にすりこまれている。ものを大事にしない風潮は微動だにせず、大量生産大量消費の価値観が一向に改まらず、そのなかで建築は社会的資産としての価値をどう定着させていくのか気がかりである。

6.3 技術者の環境

(1)制度の整備と運用

 制度を整備すれば、それで終わりといった感がする。総合化の必要性が叫ばれており、建築士でも総合建築士といったものが制度に盛り込まれているが、肝心の何のための総合化かといった視点が抜けているので、根本的解決はまだまだといえる。

(2)CPDで対応

A氏事件はA氏の技術力が低かったからとの判断があった。ならば解決には、CPDで技術力アップをはかるという対応があり、建築士制度の改定というところまで進んだ。(本質的対応とは思わない。) では今回はどう落とし前をつけるのであろうか。何やら技術論を押し通してうやむやになる可能性が高いようにみえる。

(3)基準の運用

 今回の場合には技術体系がおおいに関与していた。性能設計という設計法を作り上げたのはいいが、そこに問題ありとしてだれも立ち入ろうとはしない。運用者がよい運用から悪い運用までありきといった前提条件であれば、経済性が優先してしまう。そこでまず研究者はそうした運用に関して検討しなければならない。実務者のみ責めればいい訳ではないといいたい。



7.おわりに

 技術は人間を遠ざけているように思う。規準は規準であり、規準を支える学術体系は体系であり、運用は運用であり、それぞれ別ものとでもいいたげである。そんな割り切り方が技術者の中に潜まされているのではないだろうか。個人で倫理観を持って気をつけることは当然にしても、そうした分断されたシステムの中で物事を見ていくことは、よほど気をつけていないと無理である。特に、市民の視点がないとすぐに専門分化された狭い世界に陥り、物事の本質が理解しにくくなる。今回の問題にはそうしたことを浮き彫りにしたともいえる。


 

教育と技術---専門家の役割、エッセイ21

教育と技術---専門家の役割、2000.10「ゆるる」、エッセイ21

1.はじめに、essei21

 専門家って一体何?そう聞かれたときにふと「阪神大震災」を思い出した。あのとき、専門家は一体何していたのか、専門家と市民(専門家以外としておく)との間にはどんなコミユニケーションがあったというのか。いまさらながら事の重要さに驚き、だからこそ専門の教育や技術というものについて雑感としてまとめ述べることにした。なお、本稿でいう専門家は市民に対しての専門家という意味で使っており、時には研究者や教育者であり、時には実務家のことでもある。



2.阪神大震災を例にして専門家とは

 改めて阪神大震災(以後単に阪神)って何であったのか。私たちはどうこれを受け止めなければならなかったのか、この問題は建築に従事する方のみならず、すべての国民にとっての問題であったし、また今も問題である。今回の地震では、危機管理は行政にまかせっきりでなく、ボランテイアの援助を受けても「自分のことは自分で」といったことで、市民が動いていた。

また忘れてはならないことに、行政のトップに対して住民からは「私たちの生活をしっかりと守ってくれているのか」といった声が直に通り、またその逆の返答もあった。さらに加えれば、住民から専門家に対しても「建築をしっかりと造っているのか、崩壊しないといっているが壁にキレツが走っても大丈夫などというが冗談じゃない。すごく不安、専門家の慢心ではないか」。これまでも事あるごとに専門家は一般市民に対してマスコミ番組の解説者として登場し解説しているものの、それだけで終わっていたが、阪神の時ほど「専門家は誰のための何のための」を問われたことがないであろう。

 学者の集まり(建築学会)でも阪神地震の総括が行われた。何やら難しい話が多かった中で、やはり技術(技術者)のモラルが問われた。若干解説すると、丈夫につくろうと思えばそれなりの対応をすることがモラルであり、これくらいで十分とか、どこかの場所に前例があるからこれで十分といったことでは決してないはずである。また、「建設費が押さえられているから実際の費用はこのくらいにして、安全性はこのくらいにして」といった、技術を運用する姿勢はないはずである。事実、施工不良、設計不良(造語)のものが阪神で大きく壊れた。「ものを丈夫に」、「メカニズムがわからなければ、その時点でベストをつくすよう何重にも配慮を」としても、建設費はさほど上昇しないことが指摘されているにもかかわらず、あたかも苦労を惜しむかのようなことが多い。こうしたことを踏まえて専門家の役割がいみじくも語られたものであった。

 あれからもう阪神はどこへいったのか。設計は性能に着目(仕様規定から性能規定へ)するようになった。専門家は少なくとも設計方法の根幹を変えることで反省したとのこと。それだけでいいのか。設計とは本来何々規定というもので縛るのではなく、設計者として当たり前のことをすることが肝要である。1981にも設計法が変わった(新耐震設計法)とき、心ある設計者はそのようなものが出る以前から当たり前にやっていた。今回も似たようなことが当然いわれている。当たり前のことを何で当たり前に出来ないかと嘆いている人の声が聞こえてくる。単に専門家といってもバックグランドが問われて始めて本物の専門家ということがものの見事に例証されたといえる。

 いまひとつ阪神について、(多少専門的になるが)阪神では設計に関してはもっと思慮深く設計していなかった。例えば、倒壊した道路橋脚のすぐ側に倒壊しなかった橋脚があった。これは設計者が思慮深く設計震度を高めた結果のものといえる。またもうひとつの秘術の話として建築従事者なら誰でも知っていた「溶接の施工の粗雑さ」があった。これは、いずれは地震被害となってシッペ返しがあるとの警告があったにもかかわらず、今回の大被害に結びついた。など枚挙にきりがないが、これらは設計者および施工者のモラルの欠如として大いに報道され、これをもって総括とされていた。しかし問題は、「モラルの欠如ではなく、無知による」といいたい。建設業界にたずさわる人の90%がまったく建築の教育を受けていない。そのようななかで残り10%の人も真にものが分かっていたかは、あやしいものである。「専門家の無知という」問題の奥深さが垣間見られる。



3.専門家の歴史

 日本における科学・芸術・技術は明治以降、西洋からの移入のものが進化したものといえる。もちろん、日本的技術の蓄積はあったが、富国強兵、殖産興業として急速な近代化をめざした結果、江戸時代以前のものは古くて使い物にならず、明治以降のものが新しいということになり、価値観や伝統などすべてが明治の期に不連続になった事は言うまでもない。例えば、大工さんは、昔、建築を設計し施工するオールラウンドプレイヤーであったにもかかわらず、今は単に下請けとなった(大工が下請けに)。造り手においてもそのような状況があるので、建築に住む側にとっても同じ様なことがいえる。要するに借りものを持ってきて住んでいる。端的にいえば、現在も技術はいまだ皆さんのものになっていないといえる。だからこそ、身についていない技術、身についていない技術が問題といわれているのである。

 技術の対極にあるデザインについてはどうであろうか。これとて技術と同じ話がある。日本のデザインはダサイ。だからイタリアを初め欧米のものをとりこんでと言う。またそういった模倣も横行する。そのくせ(一般の方は)デザインがわかっちゃいないと(一部の)デザイナーはいう。また商業ベースも入ってくる。必要に迫られてのデザインのようにも見えるが、つきつめれば上からの押し付けであり、(一般の方は)それを選択し、選択そのものがデザインを評価しているようにも見える。実際にはそうではなく、造られた虚構のなかでのものでしかありえず、真の眼力が育っていないといっても過言では無い。

 専門家のスタンスは上述のように一方通行的なものに立脚しているといえる場合が横行することが多い。気をつけたいものである。



4.専門家と市民

 市民の要求に応えるべく専門家が育成され、その専門家が仕事を遂行し、その結果を市民が享受する。専門家は市民へのサービスに向けて、その技量を磨き、専門は分化・分業により進化していく。これに伴い、システムが複雑となり、システム内外のコミユニケーションが疎となっていく。もともとこの種の疎遠は明治期の技術移入の目的が市民のものでなかったことに端を発しているので、学歴偏重主義などどれひとつとっても、専門という範疇に市民という言葉が出てきていないのが何よりの証拠である。

そういえば、学者の集まり(建築学会の大会)の討論会があったとき、大学は知識を教えているがモラルを教えていないと指摘があったが、よく考えれば、市民というスタンスの欠如そのものが問題であったのである。市民という文言が教育システムの教える側にもまた技術を使う側にもないように思えるくらいである。



5.若人への教育

世の中を変える役目の若者(高校生)と彼らを教育する教育者との関係を見よう。まず教師については、専門的な観点からの資質や素養が必要といいたい。ところが、多くの教師は教育学部出身であり、教育以外の専門分野からの出身は少ない。日本の場合、受験体制が教育の様相をいびつ化させ、英数国主要科目や理社を含めて主要科目が中心であり、それ以外の科目は極論するとあってもなくても同じといった感がある。もちろん、教育学の必要性はみとめるが、専門性をもつ人が入りにくいということを超えて必要なしといった雰囲気が教育界にあることの方が重大である。

次に若者について扱う。若者が将来の選択を上位学校の進学を期に行っているが、いきなり進学先(大学や専門学校)で何をするのか、学科を選ぶ段になって多くの若い人はやはり困りはてている。高校教師がその時点で適切なアドバイス必要もさることながら、大学においても継続して将来展望を描けれるようにすべきである。しかし実際にはそうではなく、教養部を廃止して若い人に即未来の進路を決めさせようとする。(その一方で進路変更を可能とするよう生涯教育が必要ともいっている。おかしな話だが)。こういった状況が、高校において大学入学のみ目的化し、将来展望の描けない無目的人間を多く生み出す要因にもつながっている。だからこそ、教育者に専門がより身近なものであることに応えていくことが必要と思う。

6.一般人に対しての専門家の信頼

 専門家は市民に信頼されている。このことがいま揺らいできている。信頼がどう評価されているかは、種々の場でそれぞれに対応してみることができる。

(1)私たちが病気になると医者にみてもらい、ここがこうでといって症状をいい、またどうすれば良いのか、どうなるのか、自分自身のことだけに本当に気になるところであり、最終的にはおまかせしますといったところであろう。医者が信用できねば医者を替える。もっとも信頼のおける医者をまず選択してから医者にかかるが。

(2)衣服などについてはどうか。気に入ったものを買い求め、気に入らなければすぐに別のものをといったことが多い。イタリア人は気にいるものをじっくりとみて買えばずっと着こなす。そこに国民性の違いがあり、良いものをみる眼力が育つ。日本はアメリカ大量消費文化にそまっていて使い捨てを旨としている。

(3)家についてはどうか。一般人にとって簡単に使い捨てとはいかないが少なくとも昔のように3世代で住み受け継ぐといったことはほとんどなくなった。ものの評価が即物的になっていることに他ならない。



7.一般への働きかけ

 一般への働きかけは、若い人に新しい眼を肥やさせる。一般の方にも、カルチュアー的なもの、啓発など種々、最近大学など教育機関が市民講座を開催したり、マスコミがカルチュアーセンターを開いたりしている。彼らの目的は(好奇心ある市民に)一般教養を高めようとのことであり、それなりの効果はあろう。実際にはそれだけにとどまるところなく、「もっと専門が身近に」をモットーとして働きかけが必要となってきている。そうなると先ほど論じていた専門教養論が台頭してくる。教育は第一段階として高度な知識を要求する社会で快適な営みを行うためのものを、第二段階としては、より良いものを評価できる積極的なものを持つ、文化創造を担うというべきものである。



8.おわりに

専門は専門家が行使しているが、その先には市民がいるということが時折忘れられているかのようである。これは明治以降の近代化が市民レベルとはかけ離れて急速進展しただけに、学術・芸術・技術がいまだ市民のものになっていないということの現れである。専門家は、こうした点を踏まえて市民のより良い生活の営みのために社会を構成する高度な技術を修得し知識を得るということだけにとどまらず、文化創造まで進み、併せて専門を市民に対して身近なものにしようと努力している。このために教育への期待が大きく、技術一辺倒にとどまらないように、広い視野のものが切望されている。

これまで高等教育ははたして有用かといわれていたが、かかる意味でも万人に対して、市民側の役立て方の選択を許して高度な技術は共通遺産となるべきといえる。これに向けて教育が時間をかけて実が結ぶことであろう。専門教育とは上述のような教育のことであるといえる。







 


 


 


 


 


 


 


 


 

我々にとって批評とは、特に専門家による批評の視点は大丈夫か、エッセイ19

我々にとって批評とは、特に専門家による批評の視点は大丈夫か(主に建築の批評をとおして) 2000.10 、2001.12.8、エッセイ19


 いわゆる批評というものは批評家や評論家でのみなされる訳ではなく、実務の専門家が実務を通して一般人に対しコメントするという批評もあり、これが世論構成にも大きな役割を担っている。こうしたときのあるべき批評を問うてみたい。加えていうならば本稿では、専門家が一般の方にあるいは同業の専門家に批評というメッセージを如何にして送るのかを問うてみたく、いってみればコミユニケーションに関する専門家の役割を問題にしたい。

 

1.ことのおこり

 たまたま、新建築家技術者集団(以後新建)富山支部の人からの依頼で2000年富山国体の施設についてコメントを当該会誌に掲載することになった。国体では、陸上競技場や体育館、水泳場、カヌー場、クライミング会場など久しぶりの大型公共施設の建設であり、富山は建設ブームに酔いしれたといっても過言ではない。言うに及ばず新建のスタッフ一同(土肥夫妻、藤本の各氏)とともに、国体開催前に多数の施設を見学し種々のコメントを用意した。しかしこの時、どんな批評するのか、国体そのものの意味無しとして批評するのか、建物の欠点を批評するのか、建設反対とするのか、おめでたい批評とするのか、どんなスタンスでコメントを掲載するかということが、一番の問題であった。

 次の問題としては、批評そのものの範囲と内容である。よく間違える方が多いのは、こうした批評の時には辛口の批評となることが多くなり、しかもはやる気持ちが論評をいきなり細部にわたって限定してしまうことである。富山では90年代に外国人著名建築家による「街の顔事業」(各市町村に1個数千万円から数億円規模のモニュメント的な建造物を街の顔として建設した富山県の街起こし事業)に対して賛否の議論があった。このとき、反対派の一部の方の論評が著しく細部にわたっており、専門家でないと理解しがたく、折角の反対が少し分かりにくくなったこともあった。自分の想いを如何に一般に伝えるかを忘れてしまい、とにかく伝えることだけが中心となってしまう専門家は多いのである(そうでない人も沢山おられることはいうまでもない)。こうしたこともまた批評の問題として扱ってみたい。

 

2.建設の是非を如何に問うのか

 (国体施設建設について思うことを例として)

 2000年国体「とやま大会」が開催された。富山県では40数年前に開催された富山国体のときの施設とは別に2000年国体のために種々の施設が続々と建設された。国体について賛否議論がつきず、これまでのどの大会でもお祭りや大イベント、さらに経済効果を期待して大々的に実施されてきている。国体施設は箱物行政そのもの、施設そのものにとっては白い目でみられることもあることも事実である。とはいえ、施設そのものや建設する技術者そのものに責任がある訳ではなく、当然のことながら是非論は必要であるが(関連するところでは必ず議論して欲しい)ここでは現実的に着眼点を替えて、少なくとも設計や施工にたずさわられている方が多くおられることや、今後こうした施設を利用し利用せざるを得ないことを踏まえて、建築にたずさわる人にとって、そんなときだからこそかかる施設には建築的にどのような英知があり工夫があるのか、やはり適切な評価をしなければならないといえる。

 いざ読者の皆さんに何かを訴えればいいのかを考えると「困った」が正直なところである。建築いや建設業界といった方がいいかもしれないが、これまでのように建築物をどしどし作る時代は続かないことが威勢の良いプロジェクトに遭遇する度に実感する。構造物の持続可能性を如何に追求していくのか、サステイナブルやリサイクルの時代に対して如何に建築(業界)が望んで行くのか、新たな提案が待ち望まれる。今の混沌はそのための準備期間である。

 今ひとつ付け加えるならば、もっと卑近な問題として日照権にからむマンション問題や高速道路建設問題などなぜ建設するのかといった観点からの批評ということは、建設関係の方からはなかなか出てこないが、あえてこうした問題に正面から取り組んで建設が住民に如何に関与するかを扱っていくべきなのであろう。

 

3.批評と我々の生活。批評一般論

3.1 批評の意味

 「批評とは、ものの真実を分析し問題点を指摘し、次に如何なる指針で対応するかを総合的に論じるものである」。批評は、時には反体制のセンセレーショナルな派手さをともなってかつては反体制運動の理論的支柱というか武器であったかのようにもとれた。現在でもかつての反体制のスタンスは少ないものの、それを受け継ぐように批判めいたものは多い。最近は、かつての運動のおもかげは少なくやはり体制に皮肉といったことの使命が担わされている。こうした皮肉といったもののない批評はわさびのきかない寿司のようなものといっても良い。

 批評には肯定的とか良いところを評価といったことは少ない。なぜなら、否定的なことこそ、専門家の視点が必要であり、結果が将来にわたり憂いを残すからなのであろう。しかし、良さは次への飛躍といった捉え方の批評が少ないのも気にかかる。

 

3.2 一般の方と専門の方の批評スタンス

 批評を一般の方を対象として行う場合と専門の仲間たちを対象とする場合とでは、スタンスが異なる。一般の場合には、わかりやすくしかも間違いのないようにということは言うまでもない。内容が難しいときには明快に単純にメカニズムを解明し、ポイントを押さえる。専門家にとっては、言うはやすし、行うは難しである。その点、評論家という方はこうしたところのツボを心得ている。とはいっても、評論家は一般人相手とのコミユニケーションの専門家であり、事の内容、すなわち題材については専門家からのアシストを受けねば成り立たない。その意味で専門家にとっては評論家相手のコミユニケーションをも図らなければならないことになる。

 

3.3 批評は何のため、誰のため

 なぜ批評するのか根源的に立ち帰えてみる。     (1)正しい方向を示すため。その意味では批評

   はオピニオン(リーダー)的な存在。

(2)一般人によるジャッジの手助けをする。

 一般人は専門家ではないので専門的なことについて、専門家との間にコミユニケーションを必要とし、逆に専門家は専門分野における一般人の想いをニーズとして引き出すことも必要である。自分らの生活をより良いものにするために、手助けするものが批評であろう。


4.批評の分類

 誰が何のために誰に何を知らしむるのか。こうした観点に立つと、発信は専門家、受信は範囲を広げて一般の方もしくは範囲を狭めて専門家であるといったセンセレーショナルで激的なコミユニケーションの一形態が論評であることに気づく。そうしたときに、批評の本質やあるべき批評、今日的意味を持つ批評、とは何かといった問題が生じる。発信者が専門家の場合には、割合妙な遠慮があったり、視野が狭かったり、真に受け手に専門家らしい伝え方をしていないことも多い。

では一体どうするのか。これには、まず、論評の内容や種類から整理して行きたい。内容そのものを根底から分類してみよう。


(1)割合、すぐに各論にはいってしまう批評。

  専門家に多い。特に、建築の批評の時に、問題点を列挙することが多く、全貌をあたかも熟知しているかのように、デイデールに走ってしまう。この場合、聞く人にとっては評価と同じ情報を持っていないと、批評の中身がまったく不明となってしまう。


(2)自分のいうことが正しいとして論評。

  特に、自分が民主的団体に属していて、いうことがすべて正しく錯覚する場合がある。時には、そうした団体が正しいことをいっていても、割合、他の人に理解されないこともある。JAS(日本科学者会議)という団体がある。私が名古屋に住んでいたときJAS会員であり、大いに勉強させていただき、また幅広い視野を身につけさせていただいた。この時の友人が数年前に富山のある大学に赴任してきた。JASの該当支部に属して活動しているのかと思ったら、当該支部の人は穴蔵にこもって何ともし難いとのこと。独りよがりといいたかったのだろうか、内心そんな気持ちであったろう。もちろん、こうしたケースは希なケースであるが、あってはならないことと思うので取り上げた次第である。


(3)何か批評として自分の感想を押し付け。

  一番迷惑するのが、TVドラマの解説。解説をあらすじ程度に留めれば良いものを、自分の感想で「おもしろくないだの」の批評を聞かされてはたまらない。自分で考えて感想を持つことに変な先入観を与えてしまうことにもなる。多分、あまり深入りしない批評では読者が見向きもしなくなり金にならないのであろうか。


(4)何か反対すればさまになるという考えの批評。

  新聞のコラム欄で秀作もあれば、何か批判めいたものを無理にこじつけるように感じることもしばしばあり、こうしたこじつけは実に見苦しくも感じることが多かった。また、60年代後半から70年代前半では、たまに一部の芸能人が(批判的であってはいけないということではないが)まとはずれな批判をしている人もいた。一部のタレント議員などはその最たる例でもあった。最近では事件を起こした大阪府知事も記憶に新しい。


(5)反対の一方法として何もしないという批評。

  何か問題が生じると反対しなければならないことも多々ある。なぜなら、何かすること自身が改定や改正や改良ということではないからである。ときとして、改悪の場合には当然反対となり、何もしないことがかえって良いことがある。こうしたとき、問題を推進する側にとっては、非協力的とか反対のための反対といって避難の応酬がある。そうしたことは単なる平行線で何ら建設的でないとして、最近、対案を出すようになってきている。しかし、これとて何で対案なのかといった疑問もあり、我ら生活を守るために反対するのであり、対案による政策論争は政治家にでもやっていただきましょう。そんな意見もあるが、大方は、やはりお互いの立場でのコミユニケーションを試み、事態の打開を図ることになる。労働組合対経営者、地元住民対自治体、といった枠組みにおいて、まさにそのようなコミユニケーションがある。もちろん、皆さんが建設的視点をどう持つかがポイントであることはいうまでもない。

(少し話をかえて、どこにでもあるローカルな話として)我ら富山では、地方の公共鉄道を残そうという問題がある。解決には経営者のみの交代で第三セクター運営という意見がある。建設的に何をするのかを議論すべきでところではあるが、結局、住民切り捨ての選択もあれば、何もしないことの選択もある。ただし、なぜ何もしないことがいいのかそうしたところを理論的に分析しておかないと意味なしということになる。この観点から専門家ももっと頑張って欲しいものである。(こうした問題はもっと検討必要)


5.いくつかの批評の事例

 前述のセッションと多少重複するが、今一度、批評の各様相を書き綴ってみる。

 (1)「ばかげたことだ」としてのジャッジ批評。

  言っている本人が気づかないが、そう言ってコメントを打ち切ることが多々ある。(至る所に該当する例があるが一例として)2001年道路関係のシンポジウムで友人がパネラーとして参加したときに、フランス人のパネラーが日本の世相をするどく批判した。「若者が携帯電話をもってメイルにいそしんでいることはまったくばかげている」と。誰しも根底にある気持ちは同じであるが、コメンテーターとしては、そうした発言はそこでサジを投げたか、批評進行をストップさせたことになる。やはり、なぜそうなったのか、どうするのか、踏み込んでこそ、ばかげたことの意味が次への飛躍に繋がるものとなる。割合、我々はこうしたことに気づかないことが多いのも、技術者としての専門家の生態なのかもしれない。ではどうするかは別途考えたい。

 

(2)時としておせっかいな批評。

  例えば(前述したが)新聞でTVドラマなどの解説で自分の意見を言ってしまって、これから見る人を興ざめさせてしまう。皆さんよく経験したことでしょう。また、こうしたことは、見る人に先入観を与えるし、そうした結論を結果的に押し付けていることになる。批評を見なければいいではないかとか、必要としている人が見ればいいのではといった論調はある。しかし、マスコミニュケーションの場合、そうした選択は出来そうで実は出来ないところに問題があるといいたい。こうした傾向が一般社会にも浸透しており、ちょっと古い例だが1985年頃大竹しのぶ主演の野麦峠という映画があり、一般人の一般人に対しての批評が「たいしたことなし」の段階でとどまらなくて「見る必要なし」というところまでいきつき、まだ映画を見ぬ人にお節介をしていたのである。今もこうした状況は変わっていない。

 

(3)何が何でも皮肉りを入れなくてはという批評。

  新聞のコラムで、たまにみかけることには、最後の節においてちょっと皮肉ることでなりたっている低級なコラムは実に始末が悪い。批評としてのポイントが示せれないから、人当たりのいい関心のあるところで皮肉るのである。やはりきっちりとした批評が必要である。

 

(4)奥の浅い論評

  卑近な例としてスポーツの場合。野球選手がエラーしたり急に打てなくなったりしたとき、気合いが入っていないとか、球をよく見ていないとか、そうした分析しかしない解説者が一部にいる。そんな分析は分析にあらず。その点、まともな分析は聞いていて面白い。例えば、外国人選手がシーズン終わりになって優勝戦線に加わらなくても俄然ハッスルするのは次年度の選手契約を有利にするためである、といった分析はプロ野球を数倍も面白くさせる。このように、分析は楽しさや面白さをもたらし、また批判力を育成する。こうしたところのメカニズムを探りたいものである。

 

(5)しっかりとしたコメンテーター

  有田芳夫氏はオーム事件1995のときに解説者としてTVによく登場されていた。理由は、コメンテーターの一部がいい加減なコメントをしているので、しっかりとコメントをしないといけないと思って私が登場したという。まさに、これは本質をついているといえる。

 

(6)阪神大震災における専門家のコメント

  阪神大震災の時に建設系の専門家がTV報道解説番組に引っ張りだこであった。そのときに(皆さんどう思われたでしょうか)、専門家の一部は案の定、細かなデイテールの話をして、例えば「鉄筋の帯筋のピッチが10cmではなかったため崩壊を招いた」といったことは、専門家の間では確かにそのとおりの指摘ではあるが、一般の方には(何のことか)理解できないことであった。一般人にとっては、そうしたコメントが理解できずというよりも理解する必要が無いのである。そうしたところを専門家がカバーしなければならないにもかかわらず、専門家は無力であったといってもよい。

専門家は細かな話をする一方で、一般の方は「とにかく壊れた。何とかして欲しい」といったように、「壊れたこと」に対してどう対応してくれるのか、行政は我らの生活を技術的にサポートしているのか、といったように種々論調があった。そしてけんけんがくがくの議論の末、ようやく専門家の間では壊れることの意味について専門家と一般の方との間にギャップがあることに気づいた。この話の後は別項に譲ることにして、今一度、専門家は一般人が何を求めているのか、何を鋭く指摘しなければならないのか、割合分からないといったところである。その点、ジャーナリズムの方はツボを心得ているといえる。しかし、ツボの発見のみで深く掘り下げられないこともあるので、専門家とジャーナリズムのタイアップが必要となるが、専門家の間にはあまりこのことを重要視する傾向は少ないことが気にかかる。

 

(7)封じ込められる批評

 皆さんの職場でも、討論はわだかまりなく忌憚のないものでといって討論として批評が席上に出されるが、討議終了の何日か経過して、わだかまりが噴出すことを経験された方がおられることでしょう。批評の内容を今後どうしていくかということよりも、あの席上の批評行為そのものが問題視されるのである。こうなれば、批評などのありようがなくなる。

 

(8)論外な批評

 一番困るのがケチをつけることを批評と思っている方が多いことである。本人は批評のつもりだというが、自分が何もしていないことを合理化するが如く、ひどいときには感情まであらわにする。このとき場はさすがに気まずくなるものである。これがひどくなると、中傷誹謗が批評ということになっていく。

 

(9)前提条件やシステムを度外視した批評

 このような前提条件でこのようになっていますといった論調に対して、前提条件以外のまったく関係ないことをあつかった批評がある。このときは、まったくすれ違いの議論となる。(結構目撃する)。的外れとはまさにこのことをいうのである。もちろん、前提条件そのものの議論ならば、それなりの様相で議論はなされるが、そんなことを意識していないのが的外れ批評の特徴である。

 

6.まとめ

 ここでの一番の主張点は、専門家が一般人に対して専門的分野の内容を如何に伝えるかである。これのひとつとして批評という名のコミユニケーションがあると思っている。技術社会が環境破壊をいとも簡単に引き起こすことが可能となった今日だからこそ、市民生活を守る上であるいは市民生活をより向上させる上で、こうした観点から論評としてのコミユニケーションを担う専門家の果たす役割が大きいといえる。

一般人に対してコミユニケーションするにはマスコミの専門家がおり、実にきめ細かに対応している。我ら専門家はマスコミの専門家とタイアップで、種々報道解説や啓蒙啓発報道に参加している。こうした分野において活躍できる人もいなければいけない。

それに加えて、(マスコミとは直接関与しない)圧倒的多数の専門家の役割も重要であり、彼らは実務を通して一般人と接するときに、一般人に対して適切な批評を行っている。

最後に我らは、今の時代に狭くなりがちな視野は広く、ゆらぎかねない視点はよりしっかりとさせて、分析の目をより健全に良いものにしていくという当たり前のことをもっと心がけたいものである。


 

 

 

 

 

 

 

学生時代からふりかえって教育今昔30年史、エッセイ17

学生時代からふりかえって教育今昔30年史  05nen7gatu、エッセイ17

<1>.はじめに

 30年前を振り返ってみて今は何とする。若かりし頃はひたすら我武者羅であったが、今は過去を振り返るという年代となったのか。皆さんもそうだと思いますが、過去を振り返って何か一言といえば、社会情勢や何やらいうことに加えてまず真っ先に「学生時代や、新人社員の時代」をあげる。それくらい、各人のパーソナリテイーの基礎というかスタートの時点を一番大事にしている。確かに、思い出はいっぱい詰まった青春時代。となると、触れたくなるのは学生時代そのものであり、ここに教育問題という観点で今昔30年を語ることにする。


<2>高等教育展望

教育全般について歴史的経緯を概観しよう。ここでは近代日本において教育の改革は明治の近代化から始まって大きく五段階あるとした。それぞれを時代のスローガンのもとに建築教育と初等教育の問題とをリンクさせてみると以下のように整理できる。


2.1
 明治の近代化がある。欧米に追いつくことをスローガンにかかげ、リーダーの育成に加えて底上げの人材育成として学校教育制度が創設され、国家目的の手段としての教育が行われた。国家をリードする高学歴エリートや(彼ら以外にも)高い志の多くの人々により科学技術の向上という目標によって近代日本の基礎が形つくられた。


2.2
 戦後改革がある。戦前のエリート教育や思想刷りこみ教育の反省に立って教育の民主化・大衆化・平等化に向けて改革が断行され、こうした大衆教育で輩出された人材は50年代後半以降の高度成長を支えた。また70年代には二度のオイルショックを経て人材の優秀さと豊富さにものをいわせて経済大国にのし上がった。もちろん戦後一環として学歴による社会構成が一段と強化され、教育において激しい競争がくりひろげられ、この面からも教育の質が向上した。そして、専門教育の目標は大量生産時代にふさわしい技術者の大量養成であり、適度の水準を満足し、意匠・構造・環境の各分野にわたるオ-ルラウンドプレイヤーの育成でもあった。


2.3
 80年代の改革がある。物質的な要求が満たされるようになると、次に精神的な豊かさが求められるようになった。そしてこれまでの競争社会が生み出した種々の弊害を反省する上でも、教育に「ゆとり」が要求されるとともに教育の個性化・自由化・国際化が求められた。こうして、日本は世界の中で国際的な地位を獲得した。当然技術においても「ゆとり」が求められるようになった。


2.4
 90年代の改革がある。経済ではバブルが崩壊し不況の時代に入った。期を同じくして国際的地位にふさわしい技術立国を可能にしようとして、大学院学生倍増計画が推進され、高級技術者の大量育成により技術水準の向上を図った。反面、これが専門分化に拍車をかけることにもつながり、いきおい総合的な視点が欠落しかねない状況をつくった。


2.5
 02年の改良混乱がある。初等教育にはさらなるゆとりの追及がめざされた。その一方では少子化による教育の市場化がますます促進され、かかる状況のもとで教育は時代の波に翻弄されながら確たる目標も求めようとしている。社会においても技術においてもことさら総合的視点や創造性が必要として、その育成に気を配るものの市場化のもとでどう展開するかというビジョンの討議が繰り広げられている。そして今、それが早くも見直されている。


<3>.初等中等教育、
60年代からの今

 我ら学生時代の時期はまさに高度成長期であり、ここから教育は試行錯誤的に変動し、今ある教育の荒廃を作っているといっても過言ではない。この時期を今少し見よう。

 60年代、高校への進学率は90%以上であったが、大学への進学率は高校のそれに比してさほど高くはなく1/4ほどであった。大学は大衆化されてはいたが、大学至上一辺倒ではなかった。これが、高度成長期真只中で繁栄を謳歌する70年代に入ると、大学進学は過熱・スカレートするばかりであり、受験の負担を軽減として始まった(80年代導入の)共通一次試験や(90年代導入の)センター試験などが、逆に大学の序列化をもたらし、より一層の競争をもたらした。また、ペーパーテストでは実力が測れないとして日ごろの授業態度をも評価の対象とした内申書が70年代から重要視されてきたが、これは受験競争を通常授業の中にも持ち込み、大学に進学しないものに対しても一律に人間評価を行うものであった。それに伴うかのように、校内暴力が取りざたされ、悲惨な事件が発生するようになってきた。このような問題の解決として、これまでの画一化教育を反省して00年代に総合学習を導入したが、すぐに立ち行かなくなり、今は右往左往の混乱期に入ったといっても過言ではない。

こうした問題の背景には、(辛抱とものわかり良さの)画一教育、大量人材育成教育がある。これを変えない限り、小手先では解決はできないとまでいわれており、こうしたなかでも教育の荒廃がぬきさしならないところまできている。当然のことながら、家庭教育、地域教育はもちろん機能せず、こうした教育を学校教育に期待する傾向が一段と強まってきている。と同時に、対症療法的に何の長期ビジョンももたない地域教育やなにやら教育が横行してきている。これもまた過渡期のなせる技である。


<4>.おわりに :かかる時代にいる我らにとって、のびのびした時代をすごしているだけに、その良さを一番良く知り理解している。それが時代に翻弄されても伝わっていないことは何とする。言うべきことを言い続けることこそ肝要か。そんな想いを皆さんおもちではないでしょうか。なお、大学教育などは省略。

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