市民、子ども

コミユニテイセンターの子どもむけ地域の現代版寺子屋活動、エッセイ164

2017.09.11 コミユニテイセンターの子どもむけ地域の現代版寺子屋活動、164

1.はじめに

 地域のコミユニテイセンター(公民館)を拠点にした子ども参画の取り組みについて述べる。なお対象公民館は富山の田舎の小学校区のものである。

2.放課後子ども教室としての取り組み

 ここでは、町の教育委員会の依頼を受けて放課後子ども教育と題した子ども向け企画として、「エンジョイ教室」(イベント)と「みやかわクラブ」(現代版寺子屋)の二種類を対象とする。(両者併せて現代版寺子屋企画としたい) 

 プログラムについては、当方側で目的、内容、効果についての検討を経て策定とした。実際には、ものづくりと見学を主とした。ものづくりについては、身近なもの、やりやすいこと、関心を持つこと、制作がおもしろい、ためになること、感覚が磨かれること、他者に喜ばれることを考えた。

2.1 エンジョイ教室

 これは、二ヶ月一回の頻度で主に第二土曜日の午前中に実施している企画であり、今年度は表1のようなプログラムで実施している。内容については、暮らしの行事として母の日や父の日、さらにクリスンマスに新年などを対象として、プレゼントづくりや食べものづくり、記念品づくりを行うことにした。参加者は毎回15-20人程の女子中心の小学1-5年生であった。

2.1.1 メッセージを入れるケースづくりと花火の折り紙絵

A.母親への感謝のメッセージ入れ 子どもは折り紙で封筒を作り、別途母親へのありがとうメッセージを入れていた。

B.花火を複数折り紙でつくる絵。花火を放射状に八分割してその分割の一つ一つを通常の色付き折り紙で折り返しながら作り、これを台紙に貼る。やはり子供である。複雑な折り方をすぐにマスターして完成見本を見ながら、二個の花火、二個の人形(男女一対、出来合いのもの)を絵として制作していた。

   折り紙でみる造形感覚について少し述べる。

 今回は折り紙の色、花火パーツや人形及び星の配置位置が子どもには自由選択であったので、多様な感性が遺憾なく作品に表れていた。なお、参加者12人。

縦使いがほとんどで、一人のみ横使い。

大きい花火は左上に、中花火は右側で少し位置を下げる(7)。逆配置もあり(5)

男の子が右側で女の子が左。逆配置も半々。

男の子と女の子を横に並べるのがほとんどだが、両者を飛び上がらせて横並びにせずもあり。

・ものを貼り付ける場合、8個の花火のパーツが完成してから台紙に並べ一気に糊付けの人がほとんど。

1.2 テイシュカバー木箱

木に親しむことを目的に身近なものの制作として通常の箱入りテッシュの外カバーを木の箱で作ることにした。箱はきめられた大きさで板から必要な部位を切り出し組み立てとなるが、この工程ではもちろん大人と協力しあっての作業となった。今回は組立て後にペンキで着彩した。この時とばかりに子どもは色の選択と刷毛塗りを楽しんでいた。

2.1.3 寺院と歴史出土品館の見学

 地元の歴史を知るという目的で実施。歴史館では石器時代から中世までの埋蔵品を介して、当時の生活模様の説明があった。寺院については、大岩山日石寺では不動明王の摩崖物を見学し、眼目山立山寺では座禅体験を行った。子供にとっては、寺院にはさすがに家族との複数回訪問により、寺院の空間が極身近に感じられているかのようであった。

2.2 みやかわクラブ 

 これは、夏休み学習と遊びの教室であり、当地区の小学校区の名前をいただいて、「みやかわクラブ」と称している。夏休み7月下旬から8月下旬(盆の中旬は除く)までの平日15日間の午前中に小学生のみを対象として自主的に遊びと学びを楽しむものである。位置づけは、寺子屋である。参加者は小学1年から6年までの23人であり、男女ほぼ同数である。また兄弟姉妹参加は3組である。

 この企画に寄せる子ども側と親側の思いを記してみる。まず子ども側では、結構夏休みを嫌う子がいる。理由は、友達と会えない、一緒に遊べない、ずっと家庭にいなければならない、という。子どもにしてみれば、友と一緒に遊べることが何よりも楽しいのである。

 一方、親側にとっては、家に子供が居てはうるさくかなわないとして、どちらかというと託児所の捉え方であり、勉強しないから勉強の場の提供は実にありがたいという。また、熱心な親にとっては、子どもの育ちについて多くを期待している。例えば、兄弟姉妹一緒の行動が見られなくなってきていることや、上級生が下級生の動きに応じて手加減が見られなくなってきていることを憂いて、こうした面をも含めて異年齢間や家族間における子ども成長に期待したいという。

(1)七夕飾り制作:笹のある小枝ぶり竹に紙細工で

飾り、短冊に願いを込める。3回で制作。 

(2)読書:本に親しむことで企画。しかし、子どもは驚くほど本きらい。 

(3)昆虫王国見学:昆虫の博物館で、昆虫生体を学ぶ。自然を学ぶ。 

(4)カレーライスづくり:食づくりと食すことそのものを楽しみ、併せて各自おしゃべりを楽しむ。 

(5)防災教育:水消火器で模擬消火体験、火災の予防を中心に教育。ワンポイントの講演も。 

(6)折り紙:折り紙は使いやすく空間イメージ力の訓練として実施。

3.おわりに

 公民館では、遊びの場や学びの場づくりを手掛け、こうした場で日常的な居という雰囲気づくりに心掛けている。このスタンスで、地域における今年度の子ども対象の取り組みを実施し、ここにその様相を紹介した。

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子育て支援や少子化・人口減少対策として子どもが育つ街をめざして、エッセイ156

2017.03.13 子育て支援や少子化・人口減少対策として子どもが育つ街をめざして、156
  子ども問題についてどう考えるのか人から聞かれたので、本稿をまとめた。 

 子育て支援を含め少子化や人口減少の問題について、勤労の不安定さや実質低賃金などに端を発して日常生活の営みに魅力やゆとりが欠如ぎみとなり、子どもよりも大人の都合を優先させる風潮が蔓延しはじめ今日に至っているといえる。
 解決に向けては、社会全体の取り組みに加え地域社会(家庭を含む)での日常の営み改善を図ることとしたい。すなわち、子どもが育つ街づくりのために地域社会における親を含めた大人世代の意識改革を図りたいものである。


 ここで具体的な話として晩婚化や未婚化をあげる。今、若者にとって結婚が魅力的ではなくなり、子どもと共に将来生活を展望することもおぼつかないといっても過言ではない。確かに若い人たちには「お金がたまってから結婚」「結婚そのものが自由からの拘束」「男には結婚は節目」「女は結婚よりも仕事での生きがい」などの思いがある。どれをとっても、働き方、経済状況、社会通念などに問題がある。これについて対処は社会全体もさることながら大人の意識改革をもって地域や家庭から取り組んでいきたい。以下に具体的に二点述べる。

まず人間関係の希薄化について: これは、どんな集団でも男女間においても当然進行しており、お互いの理解にはコミユニケーションが不足している。確かに今は人を介さずとも買い物や時には仕事すら可能になろうとしている。コミユニケーションの充実には何のためのものかを明確にすることからして、ムード作りが必要といえよう。

次に人間尊重について: 地域や郷土に愛着をというスローガンの活動が各地盛んである。にもかかわらず愛着はいつも観光の次元で留まっており、人を愛して敬うといった次元までなかなか高揚していない。また各地の自然教室でも、自然界で一番好きなものの中に人間が入っていないことが気にかかる。ここは常に人間主体のムードを作るべきかと思う。


 以上まとめてみると、問題の解決には環境改善としての意識改革を含めて雰囲気づくりがあり、当事者同士の努力はもちろんのこと地域社会の後押しが必要といえる。そのためには大人は地域の子どもと共に居し、人の慈しみや楽しみといった意識を育むといった日常生活を意識して充実させることしかないと考える。これをもって環境の基礎的雰囲気の醸成といいたい。


子ども環境の健全化に向けての議論、エッセイ149

2016.11.01 子ども環境の健全化に向けての議論、149

1.はじめに 

 子どもの諸施設については立地する地域においてトラブルが多く発生している。例えば、子どもの声が騒音とすることによるトラブル。これについては、(子ども施設を)新規に建設する場合は半地下式や防音壁を設けてといった設計を余儀なくされることが多い。その一方では、この種の問題は地域コミユニテイの問題であり、騒音対策の設計手法に頼らずに解決を見出す努力もなされている。

しかし、コミユニテイでの解決は前途多難という。なぜであろうか。子どもの問題は一断面のみに着目しても解決できず、社会全体の問題としてとらえることが要求されているからである。ところが肝心の社会においては、子どもの環境にはかなりのいびつさがあり、加えて日頃からの健全な環境づくりが実は難しくなっているのである。

そこで本稿では、かかる問題に向けての取り組みの一歩として、なぜ子ども環境がいびつなのか、いびつな状況(阻害要因)について検討し、健全化に向けての方向性を探ることにした。具体的には、生活の視点で教育と技術をも含めて意識について横断的に論議することにした。ただし、貧困やいじめなどの問題は今回扱わない。

 

2.子ども環境の阻害要因

社会の様相で気になる傾向(子どもの成長を阻害する要因)を列挙すると、「かまいすぎ、ノーリスク、バーリア(囲いづくり)、関係の希薄化、手間隙かけず」がまず挙げられる。これらは、物事の(肥大社会で必要として)「単純化、同質化、効率重視」をもたらしている。

ここで上記要因が実際にどう我らの前に現れてくるのかみよう。まず家庭では、かまいすぎによる人格問題がある。親は子どもの人格を忘れがちとなり、子どもは親に遠慮しがちとなり、大人の都合()にあわせるよう努力している。また地域では、核家族世帯が新興団地に結集することにより、地域からは老人世帯域のみが残ってしまうことや、健常者居住地から障害者が施設に入居として結果的には両者の居住分離が生じてしまうこと、があげられる。これは、集住の(同じもの同士ですむ)同質化といってもよく、多様性の概念からは大きく外れることはいうまでもない。

 

3.阻害要因詳細

3.1 同質化

 地域の集住における同質化とは、老いと若きの領域が分かれ、それぞれが同質となっていることを指す。住まい方について核家族が将来、老家族と若家族に分かれた時でも、同質化の様相は変わらないばかりか、若年、中年、老年の人的構成には多様さが失われてしまうといいたい。家庭や地域で年齢層が連続になるようにしたいものである。また、地域で幼保施設と老人施設の隣接だけでなく、家庭や地域に多様な年齢構成を求めたいものである。なお、各種年齢層が一緒に住める経済政策などの必要性はいうまでもない。

 それにもうひとつ、健常者のみで構成という同質化がある。障害者は健常者と同質ならばいいが、障害者と健常者との区別が結果的に隔離を生むことにもなる。日常、健常者と障害者とが集住あればと思う。なお、子どもの場合、両者が9才頃まで一緒に住んでいると、障害者が特別視されることなく、障害者がいることが当たり前と認識されるという。

3.2 意識の均質化

均質化とは物事の単純化と軌を同じにすることにあり、周りに配慮しすぎることで、一つは協調というモノトーンな考えが、今一つは時には自己の押し殺してしまう考えが生じてくる。そこにはもう批判精神は育たないばかりか、無関心や無関係が横行していく。そのような意識が漂う中では、生活には多様さが霞み、偏った生活が営まれてしまう。是正が必要である。

 

3.3 人間関係の希薄化 

関係の希薄化の要因は何であろうか。(社会的疎外感が要因であるが、受け止める方としてはどう考えているかといえば)人間関係をつくりあげる余裕なしとか、必要性を感ぜずとか、わずらわし感あり、といったことである。関係の育みが叫ばれている一方では、関係なくしても孤立しても生きていける環境がどしどし作られている。何とかして関係のよさを認識することを考えていかねばならない。ここで関係希薄の様相を二面から捉えたい。

(1)相手の存在希薄:相手の存在が薄い場合、コミユニケーションそのものが図れない。相手の土俵にのる意欲が欠如しがちだから、人とのコミユニケーション機会が減る傾向があり、またコミユニケーションスキルに頼りがちであり取り繕いがちとなっていく。

(2)気配を断つ:内と外の関係の断つことが多くなってきている。風通しは悪くなるは、光が差し込んでこなくなるは、必要以上の防音・遮音により生活音がなくなりかけたり、街の中では見通しが悪くなったり。これらは、中と外の関係、人と環境との関係断つ方向にあるといっても過言ではない。

3.4 手間をかけない

ものごとの結果を求めること急ぐために、手間をかけなくなってきている。スピード社会が形先行により、内容や本質をかなぐり捨てるかのように振る舞うことが多くなってきている。そこでは、即物的な目的を小さく求めるあまり、単純化による即決行動が横行し、小さな結果を得ることが当たり前のようにもなっている。(これは随時小さな目的を設定して小さな結果を繰り返し積み上げていくということとは違う。)

これと軌を同じくするのが便利さの追求である。これには、即席間に合わせと機械代用がある。前者には、間に合わせイコール手間暇不要イコールゆっくり行動排除がある。また後者では、省力化としてものぐさ化として人間の意思による行動が機械で代用ということにもなる。

 

3.5 かまいすぎ 

 これは、便利さと効率をもとめるあまり、良かれと思うことを無理強いすることであり、 人の行動を一方的にしむけることや個人の意思をかき消すことへとつながっていく。また、かまいすぎの向かう先は、子どもであり、学生であり、あろうことか弱者に対してもある。

 かまいすぎの種々をみてみよう。

・地域でのかまいすぎ;ノーリスク 池に水なし等 

・親から子へのかまいすぎ;一方的押し付け   

・技術のかまいすぎ;ものぐさ推奨か。必要以上の非接触対応。省エネのためのエネ消費

・教育のかまいすぎ;本質思考よりも繕い訓練か。きめ細かな指導で自主性の芽摘み

・食でのかまいすぎ;ファーストフード、家庭の味・愛情欠落

・客への過剰サービス;金につながるベタサービス。マニアルによる過剰な挨拶

 とにかく、この世はかまいすぎといいたい。その結果、かまいすぎが当たり前となってきている。オーバーサービス定着については、誰も疑問に思わなくなりつつある。とりわけ、食と技術について、何とかしたいところである。

  食事: ファーストフード、孤食、各個別メニュー、

  技術: 設備機器:非接触型(カラン、電灯)

3.6 おしつけ 

 街づくりや地域おこしで関係者が自分の都合を子どもに押し付けている。また、学校においても学校側が子どもへ押し付けとして行動規制をしいている

(1)観光や街づくりなどのイベントにねらわれる子ども

・子どもをだしに:各種行事に子どもをターゲットにしておけば親が来て、街が賑わうとしている。これは、子どもを金落としのシステムにのせていることに他ならない。

・巻き込む:主催者側が街の方々や子どもを有無をも言わさず巻き込んでいく姿勢が目立つ。そこには街の方々や子どもの了解なないことはもちろん、人格尊重はみじんもない。

(2)教室において子どもに行動規制;廊下と教室の壁を取り除いたオープンスクール形式では隣接教室の授業時の声が騒音にならないように、子どもには「挙手はひじを上げない、声量は中くらい」といった行動規制を求めている。建築的欠陥をなぜ子どもにしわ寄せる。

 

4.生活からの子ども環境づくり

4.1 生活には

子ども環境づくりの健全化をめざすことになれば、阻害要因の各個改善もいいが健全な生活の営みの上で解決して行くべきと考える。では、生活の上で何が必要なのであろうか。以下に列挙する;

・ゆとりの見出し → 寛容、手間暇かける、

・人格尊重 → コミユニケーション円滑、人間関係改善、押し付け排除

・多様性受け入れ → (多分に上記項目と関係) 多様な考えや行動、バランス感覚

以上のように項目化をしたが、各項目は相互関連しているので、生活には何事にも意識的に、ということになろう。以降の節で具体的にどうすべきか意識の問題として論じたい。

4.2 大人は変わるべし

生活における子どもと大人の役割は如何に。よく世の中を変えるのは子どもであり、子供が変われば大人が変わるというが、それは間違いである。子どもは、社会の都合で行動が束縛されているのである。真っ先に変わらねばならないのは大人であり、大人の意識変革があってこそ環境が次第に健全な方向に動き、子どもとともに生活の充実が図られるのである。もちろん、子どもはなされるがままではなく、自ら内在する力を発揮させて環境づくりに参画しているのである。この点を見逃してはならない。

4.3 人格尊重と多様な感覚

子どもが環境づくりにどう参画していくのか。子どもの参画要件としては、大人からの子どもへの人格尊重や多様的な感覚の研ぎ澄ましがあろう。すなわち人格と感性がまず身に着ける一番のものである。これがあって初めて、偏った世界ではなく多様的な世界としての環境に子どもが自らの力を日々発揮していくといえよう。

(1)人格:本来、子どもは自らの力で成長していくもの。かまいすぎをなくすには、大人は子どもを見守ることであり、これには次の二点を挙げたい。

a)視線   子どもには大人の視線も要 視線には子どもの人格認識の役割あり。

b)スケール 子どもは大人のスケールを感じながら成長。スケールをゆがませない。

(2)バランス感覚:これは感覚における多様性といった方がいいものでもある。子どもには、不自由と自由、不快と快といった二律することを体験しバランス観を養う。これを無視して、子どもに例えば自由や快といった一面のみの体験では意識形成には偏りが生ずる。多様性というと、価値観の多様ばかりが世の中でいわれているが、これに感覚の多様性をも含めていくべきである。すなわち、対立二極の良さをみいだし、バランス感覚を身に着けることこそ肝要である。

4.4 子どもと大人で関係づくり

 環境は大人と子どもによる生活の営みから作られるものであることを念頭に置いて、子どもと大人の関係づくりを論じたい。

(1)子どもは地域で人をつなげる:子どもを介して老若がつながり、健常者と障害者がつながる。人間の本来的な関係性はそうしたことから培われるといえよう。

(2)愛情醸成:家庭はいうに及ばず地域においても愛情が時間をかけてゆっくりと醸成されていく。食であれば手間暇やコミユニケーションなどが欠かせないことは言うまでもない。

(3)多様な体験:体験は何も子どもだけではなく、大人にも必要なものである。特に、批判能力や創造能力は多様性のもとのびのびとした体験がベースとなると考える。すなわち、人間特有の能力は、基礎能力の上に生活における多様的な認識を積み重ねて形成されるものである。能力の醸成には生活圏の多様さや広さが必要不可欠といいたい。

(4)営みの喜び:何といっても、人間らしさの一番は喜びを共にすること。共感がなによりである。営みを実感できる環境がつくられるべきである。

 

5.おわりに 

 本稿では子ども環境づくりの健全化に際して阻害要因を洗い出しながら検討を加えた。その結果、(1)「大人の都合、効率最優先、経済優先」という社会的要因をもとに「関係希薄化、単純化、かまいすぎ、他」があることを指摘した。(2)環境改善としては、「子ども視点、人間性の醸成、家庭や地域の充実など」を念頭に置いて、大人の意識変革や子どもの内なる力の育成を日常的に図ることを述べた。

なお、子ども環境改善にむけて期待される建築へは、諸問題がコミユニテイで解決できるようにしてほしいものである。また、声が通る地域、笑い声が絶えない街をめざしたいものである。今回は諸実態についての論考である。今後は具体的な実践プログラム作りにはげみたい。



子ども環境に関する教育的議論、エッセイ139

2016.03.19 子ども環境の教育的議論、139

1.はじめに 

 子ども環境の悪化が懸念されている昨今、問題として子どもの基礎能力や体力の低下や、子どもへの管理強化などに加え子どものいじめや引きこもり、家庭の貧困など、枚挙に暇がない。ここでは、子どものより良き環境づくりとして、子ども教育、技術、大人・社会など広範囲にわたって、現状と問題点を指摘し解決に向けて教育視点で検討することにした。これをもって、幼保建築の土壌作りに資することとした。ただし家庭や地域での生活の営みそのものを教育的実践と考えたことを断っておく。

 

2.教育  子ども視点の教育のあり方

2.1 教育制度から 

 近年、過疎化対策や中心地空洞化対策に名を借りた学校統廃合が加速すると共に、コンパクトシティの名を借りた効率優先の施設作りが始められようとしている。このような動きは街そのもののコミュニテイを崩壊させるものであることはいうまでもない。そこで、新たな考えとしてコミュニティを守ることを制度面からアプローチしたいものである。最近、制度を6・3・3・4制から4・4・4・4制にとの声もあるが、小学校の前半部を地域に預けるというシステムを提案したい。

 

2.2 子どもの育ちについて

親は子どもの将来についてなるがままに対処することもあれば、親の考えに基づいてエキセントリックに対処することもある。両ケースを対比して、子ども自身の教育を受ける権利の面から、教育の本質が浮かび上がらせて議論する

a. 自由闊達に子どもを遊ばせ育む家庭の場合

子どもの意向を聞いて時には学校に行かないことを受け入れる事も良いとすると、結果として一つに公教育を否定し、二つに自由な生活圏という社会を謳歌することになる。

第一の公教育については、文科省管理でロボット育成のように見えることもあるが、教育本来の運営が実際に携わる方々や受け手側の多くの方々の頑張りによってなされ(支えられ)ていることは高く評価されてもいいであろう。そのような頑張りがなければ、管理教育がますます強化されていく。

第二の社会については、自然の営みの中で作られる狭い社会であっても、それは日常の営みそのものであり、家庭を核にした生活圏において、子どもはまことに愛情あふれる家庭環境で育まれている。また、自然体験の日常的積み重ねは自然を愛し、生命をいつくしむもっとも崇高な人間性を充実させている。これにより子どもの自立を含めた育ちや自然な精神性が醸成されているといえる。

b. ごく普通の一般的な家庭の場合

 経済優先・効率優先の社会システムの中で家庭の今について二点指摘したい。第一は、家庭が分業化・効率化の波に洗われていることである。第二は、社会の拡大化が社会のあらゆるものに多様性もたらして一見いいことのようにみえることである。ただしこれには、多様性についての恩恵は社会へのかかわり方すなわち生活圏の広さに対応していることに注意したい。

c. 生活圏と子どもの活動 

 子どもは子どもらしい心身の活動体験を蓄積して育つ。これには、子どもの環境・生活圏の適正な広がりが必要であることはいうまでもない。ではどのくらいかといえば、行動を制限させない広がりとでもいいたい。一般に、現代社会では生活圏を広いのにもかかわらず狭くしがちであり、このような環境下では子ども環境をいびつにさせ、学びや実体験の蓄積が乏しくなる。そんな家庭では自由闊達な家庭のあり方や遊び方・自然体験について大いに見習うべきともいえる。

 一方、自由闊達な家庭の場合では、子ども期における成長過程の充実をどう図るかが大事な問題である。これについては、子どもは通常狭い範囲内の交流をどう考えるかにかかっており、一般家庭とは違った対応が二つある。一つには親とその同志の来訪者という大人の交流や、二つには莫大な自然体験が狭い交流範囲を奥深いものに仕上げていることである。これによって、子どもは割合早くに大人になる面はあるものの特長あるひとつの子ども時代を作っているといえる。ただし、間違えてならないことは自由闊達ならすべて良しということではない。不断の努力を怠ると、子ども期の生活体験を薄いものにしてしまい、子どもの成長が偏ってしまう。

. 親のかまいすぎ 

 親が子どもに対してかまいすぎや押し付けがよく問題となっている。これらについては、親の子どもへの無理解が生んだ結果といえる。かまいすぎではなく無理解といった方がいいように思う。以下に三つの観点をあげてみる。

 第一に、子ども期の存在が忘れがちな無理解を考える。これには自由闊達な親を引き合いに出す。この種の親は、子ども時代をたっぷりと過ごして大人になってから自由闊達さを選んでいる。子ども時代が本人の素養の下地になっていることはいうまでもないが、親は案外このことに気づかずに子どもに対応するので、下地の無い子供は人間的な下地を作れないまま(いびつに)育ってしまう。早めの気づきがあれば何の事はない。

第二に、子どもの欲することを親の若い時期の思いとダブらせる無理解を考える。これは、親が子ども時代に不自由したことや夢への挫折が子どもへの期待となって押し付けることを意味する。

第三に、社会の狭さから来る無理解を考える。これは、社会の豊かさが地域社会の助けを必要としなくなり、個人コミユニティが成立したかのようになった家庭で、家族同士の尊重が成立しにくくなったことを意味している。その結果、かまいすぎが当然のように生じてきたといえる。しかも、親の高学歴化が歪んだ社会では差別化と不信感蔓延をもたらし、他者との関係希薄化が個人主義を過度の利己主義へと変質させる。これが自分側において防御感を高じさせ、他者への攻撃性を増すことへとつながる。すなわち、かまいすぎからくる攻撃姿勢への転化はそうしたプロセスを経たものではなかろうか。

 

2.3 教育の効用

a. リテラシー能力 

 読み書きの能力は日常生活における親子の対話を源にしている。その後に公教育において磨きがかかっていく。

 一方、数についても読み書きと同様である。この場合は、訓練的な要素が大きいだけに公教育での持続したボュームが必要である。いまはそれが少ないだけに、弊害が数字嫌いを通り超えて理詰め志向の拒絶へとつながってあらわれている。

. 批判能力や創造能力 

 批判能力や創造性能力は基礎能力の上に積み重ねられるものである。これらの能力は思考の多様性に基づくものと考えられるので、生活における多様的な認識を積み重ねることが素養の源になる。このため、生活圏の多様さが必要不可欠となる。

これには広い世界が必須であるが、仮に狭い生活圏であれば奥を極めればよいとも考える。自由闊達家庭系では、生活圏がすばらしいだけに、広さを超える密実度が要求されるともいえる。なぜなら、リテラシー能力があっても環境の多様さから学び育まれる精神性の能力には多様な認識が必要だからである。それがなければグローバルに世界が見えなくなることに加えて批判精神、独創性、感性の育みに黄信号がともることになる。

 

2.4 生活感漂う教育

教育としてとりわけ初等中等教育において、もっと生活感が漂う教材やシチュエーションで人間性を前面に押し出した教育が必要であると考える。その意味で、教える側と学ぶ側で、もっと生活を楽しむことが学校から社会へにじみ出てくるようにし、関係するシステムもまた人間性をより反映させたものにすべきと思う。街や住まいにそのような雰囲気が醸成されることこそ肝要と考える。

 

3.教育 こどもむけの各種教室

3.1 子ども向けの教室

 最近、子供を対象としていわゆる大人の各種専門グループが小学校や地域に出かけ、建築を教えたり工作を教えたりなど盛んである。早い時期から、専門性に触れるとか、目的意識の育成といったことが重要とされ、子どもに新しい芽を植え付けることが強調されている。

これに対して、子どもが健全に成長することこそ肝心なこととして、子どもにはスキル中心ではなくおおらかさを強調することで、感性や思考能力が身に付けることも考えるべきというものもある。例えば、ある子ども遊び支援で学生が関与していたとき、二点を強調していた。一点目は、子どもの遊びに大人はおろか学生でも入っていってはならないと感じて遠巻きに子どもを見守っていたこと。二点目は、現場サイドの声として、「大人の考えた子ども用のメニュー、いつも大人が評価していて意味なし。子どもの反応をしりたい、子どもがどう思っているのかを」ということである。学生は子ども遊びを観察・研究の方であった。なお、ここでは学習塾は扱わない。

 

3.2 独創性教育

 創造教室のたぐいのものが地域で少なからずみられ、そこでは創造そのものを訓練によって形成させようという。こうした教育において、独創性や個性を磨くとされているが、その割にはスキル中心で実態が伴っていないとみている。とくに、独創性や個性の必要性が市民視点ではなく企業視点であるという偏ったところが問題であり、企業では未だに出る杭は打たれる風潮が残っている。また、独創性はごく普通のことをしっかりとやった後に創意工夫が芽生えるのであり、平生のことに目が行き届かないようでは何で独創性が芽生えるのであろうか。

 

4.子どもと技術

 技術としてロボットやゲームを扱う。

4.1 ロボット技術

 ロボット技術は介護現場での適用に加えてコミユニケーション相手などにも使われている。このうち、健常な子どもを対象として遊び相手用のロボットを製作した技術者がいた。コンセプトは、引きこもりやいじめで家におらざるを得ない子どもに対して技術者が考えた「友達のいない一人ぼっちの君よ、ロボットと遊ぼう」であった。

この種の問題について、コミユニケーションロボットで解決をはかる考えそのものは問題の本質を見極めていないのではなかろうか。本来は、子どもどうし仲間で遊ぶことが子どもにとって素養磨きの面からも必要なことである。ロボットがそうした子どもの遊びの中に登場するなら、ロボットは歓迎されよう。

 事例を出そう。ある子ども向けイベントでロボット技術者がアイボ君のようなロボットを出品していたものの子どもが寄ってこずであった。そこで、ある方の入れ知恵で細長い風船をどこぞかから借りてアイボ君の頭に巻きつけていたところ、複数の子どもがよってきて遊びだした。

次にもうひとつ。コミユニケーションロボットとして最近一部のホテルでも導入されていることについて一言述べる。コミユニケーション用案内ロボットの導入が好評とのことではあるが、お客とのコミユニケーションはロボットではなく人間でもいいのではないのか。(人間同士の)コミユニケーション機会が減少の一途をたどっていくかのようにも思える。似た例として、自販機で物を購入すると「ありがとうございます」の声が発せられても、人間にとっては何の面白みもない。それこそ、苦情を機械が聞いてくれることを考えてみてはといいたい。

 

4.2 ゲーム

ゲームには、仮想現実と現実の区別がつかなくなること、生命とか尊厳にうとくなること、ゲームへの長消費時間による(睡眠不足等の)日常生活のリズム狂いが指摘されている。

では、なぜ子どもがゲームに興じるのか。現実の世界で面白さを見出せないとか、ゲーム技術が子どもをのめりこみさせるよう仕組んでいるといったことがいわれている。

解決方法のひとつとしてコミユニケーションがあげられる。コミユニケーション好きな子どもは人とのコミユニケーションを楽しみ、当然のことながらゲーム依存になることはないという。コミユニケーションに期待したい。

 

4.3 技術に求めたいこと

 ロボット技術もゲーム技術も、いってみれば顧客満足について知恵を絞っているが、満足の設定があまりにも技術者側(正確には売り手側)の勝手読みそのものである。今、何が問題であり、どう技術が関わればいいかが十分検討されているとはいえない。このため、技術者側に視野の拡大を求める動きの対極として、しかるべき方々が技術者側にしっかりと指摘すべきことが今求められているともいえる。

 

 5.生活環境

5.1 都市での生活

都市化の中で子どもはどう生活していくのか、都市というよりも高度技術社会での生活といった方がいいのかもしれない。技術が子どもの生活空間のみならず子どもの人格形成にも関与しているだけに、子どもの生活そのものにスポットをあてて論議したい。近年、生活の営みが変質してきていることも併せて事例考究したい。

 事例 一般に高層住宅の上部階の子供は外へは遊びに行かない。小さい子供と時にも母親は水筒をもってまるで多少ピクニックの感じで外の公園にでかけるという。もちろん外に出る回数は減る。こうした状況における技術は、低層化を進めるよりも高層のままで改善策として、中間階にポケットパークをつくるとか、虚像の世界を利用するとかアイデアの実現を後押ししている。実際の効果的な解決策とは、低層化をどう実現すべきか、そのための周辺の計画を進めた方がいいと考える。また、技術は進化する方向を大きく変えずに今を後押しすることが多いが、もう少し枠を超えたところで知恵を絞ってみるのもいいのではと思う次第である。

 

5.2 子どもの視線

 子どもと大人の関係として、視線に着目する。子どもは子どもどうしで遊ぶとともに、大人が子供と一緒に遊ぶことも多い。このとき大人は大人の視線で子供は子供の視線でとよくいわれるのは子供の人格を認めることに他ならないからである。しかし、大人は子どもの目線に立ってというが、大人と子どもの違いは歴然であり、これをあわせる必要がないともいえる。大人は子どもになれないし、子どもは大人の視線を感じながら大きくなっていくのである。住まいにおいても、ドアノブは大人用であり、机は大人用である。そうしたスケール感覚で自分達のスケールを育んで次第に大人になっていくのである。

 なお、子どもの遊びについて、大人の役割としては、遊びが日常の営みである子どもの世界づくりに尽力し、子どもをとにかく遊ばせ、遊び仲間の親達がクレームを寄せてきたときにひとつひとつ丁寧に説明することである。そんなことを実践されている方が割合多いのには力づけられる。

 

5.3 バランス感覚

 今の大人は不自由さを知って自由を、不快さを知って快さを求めている。これに対して子どもは、不自由や不快さを(あまり)知らず、ただ一方のみを知っている。もちろん、不自由さや不快さは時代と共にかわっていくものであるが、あまりにも対立二極の良さを経ずして一極のもとに意識形成が偏っているといいたい。

 

5.4 すべきこと

 このような時代には我ら何をなすべきか。あたりまえのことだが、(1)子どもの世界を大人が知る。(2)子どもと大人のコミニュケーションを大事に。(3)技術の子どもへの関わりに熟考を。

 親が親らしく大人は大人らしく振舞うことこそ肝心であり、変な理屈や理論立てはまったく不要といいたい。ごく自然に、なすがままにという考えで大人環境の改善が求められているともいえる。

 

 6.意識

生活レベルでの大人の意識から子ども環境をアプローチしたい。まず、共働き世帯では子育て時間の捻出として育児休暇や休業に加えて最近は(労働)時短もあり、保育施設の充実などが、施作として実施されている。これに伴って、この種の問題を大人と社会との関係を将来につなぐ人づくりと捉えることにして、その方向での意識変革(意識改革)をどう展開していくかを考えたい。特に指摘したいことは取り組み姿勢であり、時には大人目線が目立ち、子どもの視点が十分に反映されていないとみている。しかも、本来変わらなければならない大人社会の人とのかかわりがますます人間的貧困化に向かっているのではと危惧する次第である。ここでは、人間交流としてのかかわりおよび所属集団というカテゴリーにわけて雑感を交え述べることにする。

6.1 人とのかかわり

a.  子ども育てに関する社会的分業について、どこまでが分業であり、その際の取り決めは何かについて考えたい。子どもは、家庭、地域、学校などを成育の場としている。一方の大人は、保育園や学校には本来のこと以外に、朝食の場やしつけの場を求めることもままあり、家庭で出来る本来のことを外に求めている。これは、生活の端々における丸投げ思考ともいえるし、当然との声もある。実情としては、かかわりの状況が各人の思いのままであるといったようにみえ、主体がどこにあり、何をどうかするかという社会契約的な考えがより有益なようにみえる。もちろん、人間関係希薄化の世の中で、コミユニケーションの円滑とか人間関係の親密な再構築といったことも同時に図られていくべきとも思う。

. 人とのかかわりは人との直なかかわりのものばかりではなく物を介在してもその姿勢を作っていける。これが物を大切にする原点である。「もったいない」の背後にはこうしたことであろう。

. ひろがり(地域など空間)とのかかわりとして、土地への愛着、風土への愛着はまさにこうした考えのものである。

 

6.2 コミユニケーション

健全な精神が育まれるためには、日常生活における健全な人間関係がどうあるべきなのであろうか。今、人間関係の希薄化が進んでおり、密なコミユニケーションを求めるよりも広く浅くのコミユニケーションが定着してきており、そのような状況下では、子育てはおろか子どもそのものにも愛着を示さなくなる傾向が強まるように思えてくる。解決としては、コミユニケーションの形態そのものを考え直し、人との交流を考え直し、生命をいつくしむ心が育まれるようにしたいものである。今生活の便利さや効率優先を掲げる今の世の中において、人間関係までをも効率化最優先ではなく、ごく普通の営みそのものが肝要と考える。すなわち、人との関わりや社会とのかかわりをごく自然にしたいということであり、そこには手間ひまかけるという精神を育ませたいものである。

 

6.3 各集団におけるかかわりの様相

a. 家庭において

・食 家庭の本来のあり方として食事にもっとコミユニケーションを求めて欲しいものである。孤食はもってのほか、家族全員で同じものを同じように食べるということを大事にしたい。若い方が家庭料理の温かさならコンビニの電子レンジのチンでも暖かいとかいった勘違いがなくなるかと思う。手間ひまかけるということは、かかわりやつながりの原点そのものである。大事にしたい。

・家庭と感性 感性の育成においても、住まい環境の健全さが必要条件となっていることはいうまでもないが、(感性育成の)周辺環境の整備はお粗末極まりなく不十分なように見える。確かにこうした意味で議論花盛りである「子供の居場所の問題」が問題を解決するかのように思われるが、居場所そのものがセンス育成環境そのものではないことに加えて、居場所という特定の空間が限定されるのは子どもと大人の交流がそこなわれることにもつながる。それでも居場所というならば、家の中や地域の中で特別に居場所をつくるのではなく、家も街もすべてが居場所となるようにするべきであろう。

ちなみに、地域からの風が家庭に吹き込むのも家庭内コミユニケーションとして良い環境づくりとなろう。

 

. 企業のかかわり方

企業の社会的貢献ということで企業側から家庭への対応がある。これには、(学校の授業参観とは逆に)企業内での子どもによる仕事参観や家族ぐるみの企業旅行に加えて、企業と家庭を結ぶようなコミユニケーションツールを導入してはいかがかと考える。ある中小企業では、職場のお父さんの活躍ぶりを社内報にして各家庭に配布し、家族みんなが社内報を見て話しに盛り上がったという。職場の雰囲気を家庭にちょっと伝えるだけでも、企業と家庭がある意味つながっているのである。これもひとつのコミユニケーションの方法である。

. 地域のかかわり方

 地域で子どもの面倒を見るとか地域で育てるということは、周知のように子どもの外遊びする環境づくりを支援することから始まる。まず地域の安全性の問題をクリアーにすることから始めて、地域が子どもの姿をみるならば地域の各人が子どもとかかわりつながることになる。今は、子供のいることがうるさく迷惑という捉え方もあるだけに、子どもの声で街を照らす明りのようなものとなり、個々の閉鎖的な雰囲気が開放的になるものといえよう。家庭が明るくホットに、社会もホットに、ということにしたいものである。

. 建築や保育・育児の専門家とのかかわり方

 経済的支援にも安易に走らないように心がけたい。たとえば、都会で大流行りの駅前保育園などは遊び場もなければ何もない、ただの便利さの追求の結果ではないのか。これをもって待機児童ゼロ施策というのは本質を見誤っているといいたい。

こうした問題に、専門家側から、本質的なアドバイスが必要と考えるが、なかなか大きな力にはなっていない。それこそ、社会全体で取り組んでいくべきものである。

. 街づくり

街づくりについては、外観のみを揃えようとか、観光とかいう次元でとらえられがちであるが、地域で子供を育てるという観点でいえば街づくりは人づくりそのものである。コミユニケーションの輪を広げ、かかわりを深めていくべきといえよう。

 

7.おわりに 

 子ども環境で気になったことは、大人の都合、効率最優先、売れすじ追及の技術、である。改善としては、月並みだが子ども視点、人間性の醸成、家庭や地域の充実等をあげておく。今回は諸実態について論考。今後は具体的な実践プログラムを作りたい。

子どもの自然体験と教育、親側について雑感、エッセイ121

2014.10.22、子どもの自然体験と教育、親側について雑感、121

1.    はじめに 

 こどもを取り囲む環境がすこぶる悪くなっている。子どもへの管理強化、子どものいじめや引きこもり、家庭の貧困、など問題が深刻化しているといっても過言ではない。ここでは、環境改善に向けて、子どもの遊びから、自然体験や教育のあり方など、広範囲にわたって、現状と問題点を指摘しながら解決の方向を検討することにした。具体的には、子どもの自然体験と教育とについて焦点を当てて論述することとした。


2.自然体験 自然と人間が一体という自然観を身近に!

 最近、子どもを里山で遊ばせたり、学習させたり、農業体験させたりするいわゆる自然体験のサークル活動が花盛りである。全国どこでもあちこちの里山を拠点にして、多種多様な方々が体験活動をオルグしている。この種の活動が当たり前になりつつあることを大いに評価したい。
 しかしながら、それと裏腹に活動そのものの根源的な役割が十分論議されず、あまり確立されていないようにみえる。ここでは、サークル活動の広がり、地元の役割、自然体験の包括的な意味、自然観の育みについて検討したい。


(1)活動の広がりとは誰にとっても身近な存在そのもの
 自然体験サークルの多くの方々は、体験される親子の数をもっと増やし、自然の良さを体験していって欲しいという。確かにその通りなのであるが、具体的や考えが己らのサークルの中だけの話に閉じてしまっている。自分らのサークルを含めて多くのサークルでは、希望する親子がどこででも自然体験をしたいという本質的なニーズがまったくおざなりにされている。
 今大事なのは、いつでもどこでも誰でもが自然体験をできるようにすべきことである。このため、全国各地における自然体験サークルが例え連携しなくても、「皆様、お近くのサークルへどうぞ」といった考えが少しでもでてくるべきである。ところがそうはならない。理由は、自分らがやっている活動が一番であり、自分らが一番面白い体験メニューを持っていると自負しているからである。
 本来活動の自負とは、自分らだけが一番という考えを変えて自分たちと同じような方がいるという認識に立っことではなかろうか。要は、サークルが差別化されて洗練されることを考えるのではなく(実際にはそこまでもいっていないが、)身近な存在を己一人ではなく皆と共に実現させていくべきである。
 それにもうひとつ。関係方々の交流がもっとあってもいい。どういうわけか、他のところに出向いて見学ということはほとんど聞かない。見学というのは必ずしも、ヒントをもらったり、やり方を教わったり、といったことだけではなく、むしろ見学先の方々の心意気と笑顔をみることかと思う。これが目に見えない一つの仲間意識ともなろうに。


(2)地元とのつながりとは自然環境の意味の理解そのもの
 いつも思うことがある。サークルでは自ら楽しむことを当然第一としているのはいいが、地元を無視するかのように勝手に遊んで「はいさようなら」といった傍若無人に近い様相がままあるということも気がかりである。他サークルと交流せずはいいとしても、地元との関係はいま少し考えた方が良い。なぜなら、里山を手入れし守っているのは地元だからである。
 ではなぜ地元軽視の発想になるのであろうか考えてみたい。思うには、世の中の自然観が(一部には)間違って認識されているのではなかろうか。
 古来日本では自然と人間は一体である。自然という大空間の中で人間が生活を営んでいる。日本人の自然観はそうしたところから自然に育まれてきたのである。自然体験をするとは、自然空間とそれと一体となっている地元民の心意気との交流そのものである。そのことを理解しない方が自然体験と言っても、それは木を見て森を見ずといった目先にある薄っぺらな体験としかいいようがない。子どもにはもっともっと大きな自然体験をさせるべきである。それが本当の意味の自然体験である。具体的な取り組みはそれこそ、皆さんで考えるべしといいたい。


(3)結集(目に見えない連携も含めて)、そして世直しへ
 子ども環境を改善するためには何か横の連絡が必要である。なぜ連絡かといえば、勉強のため、教えをこうため、情報交換のためなど即物的な良さばかりだけではなく、自分たちの活動の相対化が出来ることが一番のメリットである。とかくこの種の活動は自分たちでなし得ていると捉えることにより(お山の大将として頑張っていることにより)、後の発展を鈍らせることもままあるので、活動の相対化を皆さんに勧めている。
 今私たちが目指しているのは子ども環境を種々の面から健全化することにある。その意味で私たちは、遊び団体、自然体験団体、冒険遊び、スポーツ、福祉、子育て、幼保教育、建築のあらゆる面から行動するといういわば世直し運動として、全国津々浦々から種々の活動を支援していくことしている。だからといって、各団体に連携を必ずしも求めるのではなく、全国の皆さんがそれぞれ固有に頑張っていることを互いに認識しておけば良いというスタンスでいる。もちろんそこに連携があってもいいが、活動には相対化を図り、自分たちの活動に誇りと自負を自然と醸成されたいものである。またこの種の運動で全国をうめつくしたいものである。


(4) まとめとして
 いいたいことは、・子どもに心底自然に触れさせて欲しいこと、・大人がそれに向けてシステムを整備すること、・そして自然環境を人間として堪能していくことである。
 また、体験行為については、・人間が自然と一体となっていること、・自然の中には地元民と共に来訪者がいるということを念頭に置くことである。特に地元民の存在を忘れてはならない。地元民はたゆまぬ努力で自然を守り、地域固有に生活の営みを形づくっているのである。彼らによって初めて、自然体験が自然と人との大空間の中での体験となりうるのである。今後はそうした活動により、体験の場が地域個性を生かして全国津々浦々当たり前のように身近になることを期待している。子どもの楽園となるように。


3.教育  子ども視点の教育のあり方!

(1)教育制度から 

 近年、過疎化対策や中心地空洞化対策に名を借りた学校統廃合が加速すると共に、コンパクトシティの名を借りた効率優先の施設作りが始められようとしている。このような動きは街そのもののコミュニテイを崩壊させるものであることはいうまでもない。そこで、新たな考えとしてコミュニティを守ることを制度面からアプローチしたいものである。最近、制度を6・3・3・4制から4・4・4・4制にとの声もあるが、私は小学校の前半部を地域に預けるというシステムを提案したい。


(2)子どもの育ちについて

 子どもの育ちについては、親の子どもに対する姿勢に左右されるだけあって、問題の論述には、親の考えが家庭作りや行動にどう反映されているかということを中心に添えることにする。対象とした家庭(実際には親のことではあるが)については、自然系のもとでの家庭(いわば自由闊達な家庭)とそうでない一般の家庭とに分けてみることにした。


a. 自由闊達に子どもを遊ばせ育む家庭の場合

自由闊達な家庭の親は子どもの将来について自然の成り行きで対処している(そのようにみる)。この場合、子どもの意向を聞いて時には学校に行かないことを受け入れる事も良しとし、結果として一つに公教育を否定し、二つに自由な生活圏という社会を謳歌することになる。このことを、子ども自身の教育を受ける権利と対比すると教育の本質が浮かび上がってくる。

第一の公教育については、文科省管理でロボット育成のように見えることもあるが、教育本来の運営が実際に携わる方々や受け手側の多くの方々の頑張りによってなされて(支えられて)いることは高く評価したいものである。

第二の社会については、自然の営みの中で作られる狭い社会であっても、それは日常の営みそのものであり、家庭を核にした生活圏において、子どもはまことに愛情あふれる家庭環境で育まれている。また、自然体験の日常的積み重ねは自然を愛し、生命をいつくしむもっとも崇高な人間性を充実させている。これにより子どもの自立を含めた育ちや自然な精神性が醸成されているといえる。

ここでもうひとつ問題を提起しておく。このケースでは、子ども自身が子どもの将来を決めるという判断力が備わっていない時期に親の介入はいかがなものか、として疑問を呈される方が多い。これについては、成り行きで対処という言葉を本節冒頭に使ったように、当該家庭の子どもは早くに自由闊達な価値観を持つようになり、その結果、親が成り行きに任せて行動しただけである。これがひとつの多様性と捉えることができ、また社会に対しては家庭の社会的評価の検討を投げかけたともとれる。


b. ごく普通の一般的な家庭の場合 

 経済優先・効率優先の社会システムの中で家庭の今について二点指摘したい。第一は、家庭が分業化・効率化の波に洗われていることである。第二は、社会の拡大化が社会のあらゆるものに多様性もたらして一見いいことのようにみえるということである。ただしこれには、多様性についての恩恵は社会へのかかわり方すなわち生活圏の広さに応じていることに注意したい。


c. 生活圏と子どもの活動 

 子どもは子どもらしい心身の活動体験を蓄積して育つ。これには、子どもの環境・生活圏の適正な広がりが必要であることはいうまでもない。ではどのくらいかといえば、行動を制限させることの無いことが条件となる。一般に、現代社会では生活圏を広いのにもかかわらず狭くしがちであり、このような環境下では子ども環境をいびつにさせ、本来学ぶべき・体験すべきことの蓄積が乏しくなる。そんな家庭では自由闊達な家庭のあり方や遊び方・自然体験について大いに見習うべきである。

 一方、自由闊達な家庭の場合では、子供期における成長過程の充実をどう図るかが大事な問題である。これについては、子どもは通常狭い範囲内の交流をどう考えるかにかかっており、二つに面で一般家庭とは違った対応がある。ひとつには親とその同志の来訪者という大人の交流や、二つには莫大な自然体験が狭い交流範囲を奥深いものに仕上げていることである。これによって、子供は割合早くに大人になる面はあるものの特長あるひとつの子供時代を作っているといえる。ただし、間違えてならないことは自由闊達ならすべて良しということではない。不断の努力を怠ると、子ども期の生活体験を薄いものにしてしまい、子どもの成長が偏ってしまう。


. 親のかまいすぎ 

 親が子どもに対してかまいすぎや押し付けがよく問題となっている。これらについては、親の子どもへの無理解が生んだ結果といえる。かまいすぎではなく無理解といった方がいいように思う。以下に三つの観点をあげてみる。

 第一に、子ども期の存在が忘れがちな無理解を考える。これには自由闊達な親を引き合いに出す。この種の親は、子ども時代をたっぷりと過ごして大人になってから自由闊達さを選んでいる。子ども時代が本人の素養の下地になっていることはいうまでもないが、親は案外このことに気づかずに子どもに対応するので、下地の無い子供は人間的な下地を作れないまま(いびつに)育ってしまう。早めの気づきがあれば何て事はない。

第二に、子どもの欲することを親の若い時期の思いとダブらせる無理解を考える。これは、親が子ども時代に不自由したことや夢への挫折が子どもへの期待となって押し付けることを意味する。

第三に、社会の狭さから来る無理解を考える。これは、社会の豊かさが地域社会の助けを必要としなくなり、個人コミユニティが成立したかのようになった家庭で、家族同士の尊重が成立しにくくなったことを意味している。その結果、かまいすぎが当然のように生じてきたといえる。しかも、親の高学歴化が歪んだ社会では差別化と不信感蔓延をもたらし、他者との関係希薄化が個人主義を過度の利己主義へと変質させる。これが自己側において防御感を高じさせ、他者への攻撃性を増すことへとつながる。すなわち、かまいすぎからくる攻撃姿勢への転化はそうしたプロセスを経たものではなかろうか。


(3)教育の効用

a. リテラシー能力 

 読み書きの能力は日常生活における親子の対話を源にしている。その後に公教育において磨きがかかっていく。

 一方、数についても読み書きと同様である。この場合は、訓練的な要素が大きいだけに公教育での持続したボュームが必要である。いまはそれが少ないだけに、弊害が数字嫌いを通り超えて理詰め志向の拒絶へとつながって現れている。


. 批判能力や創造能力 

 批判能力や創造性能力は基礎能力の上に積み重ねられるものである。これらの能力は思考の多様性に基づくものと考えられるので、生活における多様的な認識を積み重ねることが素養の源になる。このため、生活圏の多様さが必要不可欠となる。

これには広い世界が必須であるが、仮に狭い生活圏であれば奥を極めればよいとも考える。自由闊達家庭系では、生活圏がすばらしいだけに、広さを超える密実度が要求されるともいえる。なぜなら、リテラシー能力があっても環境の多様さから学び育まれる精神性の能力には多様な認識が必要だからである。それがないと、グローバルに世界が見えなくなることに加えて批判精神、独創性、感性の育みに黄信号がともることになる。


4.おわりに 

 子どもの成長に欠かせない遊び・学び体験の蓄積という観点から家庭のあり方や自然体験や教育のあり方を論じ、子ども環境の充実やそれに連動する各種能力の磨きについて論考した。検討結果の各分野への反映は今後としたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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