豊臣秀吉の死後、豊臣家側から徳川家康と覇権を争った
石田三成の重臣に、島左近という人物がいます。
関ヶ原の戦いで、黒田家の鉄砲隊にやられて討ち死にした
とされていたんですが、実は生きていたという説もあり、
各地にお墓があります。

その中の一つ、京都の教法院という寺にある墓の
発掘調査をしたところ、全身の骨が見つかったそうで、
島左近のものかどうかは不明ながら、そもそも
お寺の住職は「骨などない」と思っていただけに
ありがたいことだそうです。
ちなみにその寺の過去帳によると、島左近は
1632年に死んだそうです。

石田三成が関ヶ原の敗戦後になぜ逃げたのか、
本人曰く「僅かでも再起の望みがあるなら
それに賭ける」ということだったんですが、
その意味が相当変わってきますね。
関ヶ原で島左近が、負傷したにせよ生きている
可能性があったなら、三成が逃げるときに
左近と佐和山の城辺りで再会・合流しよう
と約束したかもしれませんし、三成にしても
左近が生きているなら、再起の見込みは
それなりにあったでしょう。

三成たちが佐和山の城で籠城している間に、
大阪にいる毛利輝元が動けばまた違いますし、
それは無理でも、三成と徳川の争いを最終的に
秀頼(淀殿・茶々)が仲裁する形を取れば、
史実よりは豊臣家の権威は守れたはずです。

まだ真偽不明ながら、面白くなってきました。