アメリカの友人

小説と詩を書くブログ。

2007年11月

〈6〉

「『あなたと初めて出会ったとき、私はとっさにそう思ったの。気がついたときには、もう私の腕の中にグロリアがいたのよ』そう彼女は言いながらグロリアの頭を撫でたわ。あたしは赤坂典子と出会ったあの冬の夜、突然熱を出して寝込んだことや、そのとき見た夢の話を彼女にした。彼女はときおり深くうなづきながら、あたしの話を聞いてくれたの。『そんなことがあったのね…』彼女はそう言いながら、何かを考えていたわ。それから彼女はこんな話をしたの。
『あなたの見た夢と少し似た話があるの。中国東北部の少数民族に伝わる民話なんだけどね。
 …ある日狩人が森を歩いていると、若い女の悲鳴が聞こえてきたの。狩人が声のほうへ駆けつけてみると、大きな蛇が女の体に巻き付き、女を頭から飲み込もうとする光景に出くわしたのよ。狩人がとっさに弓を引いて蛇の眼を矢で射抜くと、蛇は女の体からするりとほどけ、よろよろしながら森の奥へ逃げていった…。ここまではあなたの夢の話とほぼ同じね。でもこの話には続きがあるの。
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〈5〉

「『久しぶりね、元気にしてらした?』って老婦人の赤坂典子は声を掛けてきたの。でもあたしは、最初誰だかわからなかった。『ほら、いつか子犬を…』って話を聞いてやっとわかったんだけど、彼女の顔はまるで思いだせなかったわ。『あのときの子犬、ずいぶん大きくなったのよ。これから私の家に見に来ない?』って彼女に誘われたの。あたしも子犬を見たくなったから、彼女の家に行くことにしたわ。彼女とタクシーに乗って数分もすると、古くて落ち着いた住宅街が見えてきた。『ここで止めてちょうだい』って彼女が言うと、タクシーは広いお屋敷の前で止まったの。外から眺めると、敷地の中の建物が見えないくらい庭の木々が生い茂っていたわ。門をくぐると、まるで林のような薄暗い庭が広がっていて、小道がゆるくカーブしながら奥まで続いていた。三十メートルほど歩くと、ようやくひらけた場所に出たの。古い日本家屋が建っていたんだけど、敷地の広さにしては意外と小さい建物だったわ。そこは木々の密集した庭に囲まれていて、まるで深い林の中に連れてこられたみたいな錯覚を覚えるほどだった。『私、ここに一人で暮らしているのよ』って彼女は言って玄関の戸を開けると、醜い犬がシッポを振ってあたしたちを迎えてくれたの。『グロリア、あなたの命の恩人を連れてきたわよ』って彼女が言うと、犬――つまりグロリア――は『ワン!』って吠えた。
あたしは庭の見える部屋に通されたの。壁の棚には本やレコードがびっしり並んでいて、傍らには民族楽器みたいなものが置いてあったわ。中央のテーブルに薔薇を生けた花瓶が置かれているほかは、あまり女性らしい感じのする部屋ではなかったわね。あたしたちはゆったりした籐椅子に腰を下ろして、気持ちいいそよ風に吹かれながら話をしたわ。もう季節は初夏だった。グロリアは見違えるほど大きくなっていたわ。だけどひどく醜い犬になっていた。赤坂典子はそのことを全く気にしている様子がなかったから、あたしも気にしないふりをしたの。あたしたちはまず犬の話をしたわ。ソファーにおしっこを漏らしただの、散歩に連れて行けとうるさいだの、そういう当たり障りのない話をね。それから話が一息ついたところであたしは赤坂典子に訊いたの、『どうしてあのとき犬を引き取ろうと思ったんですか?』ってね。そしたら彼女は『あなたにまた会えると思ったからよ』って言ったの。

〈4〉

「あたしは子犬をゴミ箱から拾い上げて腕に抱いたわ。コンビニの店員は困った顔をしてるし、この子はあたしが引き取るしかないわねって考えてたの。でもそこへ品の良い老婦人が声を掛けてきたのよ。あたしたちのやりとりを近くで見ていたのね、老婦人は『その犬、私が引き取ってもいいかしら?』って言ってきたの。悪い人じゃなさそうだしあたしも困ってたから、震える子犬を彼女に手渡したわ。すると彼女はバッグから一枚の名刺を取り出して、あたしに渡したの。そこには『赤坂典子』っていう名前と、電話番号だけが書いてあった。『困ったら電話してちょうだい』って彼女は言って、そのまま犬を抱いてどこかへ行ってしまったの。夜空からは雪が降り始めていた。あたしは家路を急いだわ。部屋に着くとひどく寒気を感じて、あたしはそのままベッドへ潜り込んだの。そのあと熱を出して三日間も寝込んだのよ。あたしは熱にうかされながらずっと夢を見た。あたしは夢の中で、エデンの園みたいな楽園にいたの。あたしは楽園で花を摘んでたわ。するとあるとき裸の男性が現れたの。男性は優しく声を掛けてきたんだけど、何を言っているのかさっぱりわからなかった。でもそのとき、あたしはふと自分が裸だということに気が付いたの。あたしは恥ずかしくなって森へ逃げ込んだわ。すると森の暗い陰から蛇が現れて、あたしの足に絡み付いたの。あたしが必死で蛇を振りほどこうとすると、蛇はたちまち数を増やし、あたしの体を締め上げようとした。あたしは死ぬ思いで叫び声を上げたの。すると突然、暗い森が光に包まれ、あたしの体からするすると蛇たちがほどけていったの。次の瞬間あたしは草原に横たわっていた。傍らにはさっきの男性が立っていたわ。今度はお互い裸じゃなく、ちゃんと服を着てた。あたしが体を起こすと、彼はその場を立ち去ろうとしたの。あたしが『待って!』って声を掛けても彼は立ち止まってくれなかった。『あなたが助けてくれたんでしょう! ありがとう、ありがとう…』ってあたしは叫び続けたわ。そこで夢は終わったの。枕が涙で濡れてたわ…。
あたしは次第に、子犬や老婦人のことを忘れていった。名刺に書かれていた電話番号に電話することもなかったわ。でも半年くらい経ったある日、あの老婦人の赤坂典子と街でばったり会ったの。

わたしは図書館から帰り、一息ついたあと彼の手紙を取り出した。封筒からは数枚の厚紙が出てきて、紙に触れると点字が打ってあった。

「〇〇さん、お久し振りです。しばらくあなたの姿が見えなくなったので心配していました。あなたがこの手紙を読む頃には、僕は図書館にはいません。就職活動が忙しくなってきたので、残念ですがアルバイトを辞めることにしました。あなたとはほとんど話す機会がなくて本当に残念です。せめて手紙でもと思い、慣れない点字で文字を打っています。
正直に言うと、僕は点字コーナーで仕事をするのは気が進みませんでした。障害者の方を見ていると気持ちが重くなるからです。気を悪くしたらごめんなさい。でも、僕はあなたに正直に話したいのです。僕はあなたが点字を指でなぞりながら、何時間も本を読み耽っている姿をなにげなく眺めていました。あるとき、職員の方から、あなたが生まれつき目が見えない人であることを訊きました。僕はそんなあなたの境遇に心を痛めました。でもそれより、あなたの姿を見ていると、あなたの生きている世界がどんなふうに感じられるのか想像せずにはいられなくなったのです。僕は夜ベッドに横たわり、真っ暗な部屋の中であなたの世界を想像してみました。暗くて寂しくて何もない、まるで死の世界のようでした。僕は怖くなって部屋の明りを点けました。でもしばらくして、自分の想像が完全に間違っていることに気がつきました。なぜならあなたが、そんな死を思わせるような世界に生きているわけがないと思ったからです。あなたが図書館で時折みせる笑顔を見れば、それですべて納得出来ました。あなたの世界には、きっとキレイな花が咲いているのですね。そのことをどうしてもあなたに伝えたかった…」

わたしはそっと手紙を置いた。遠くでは、賑やかな太鼓の音が響いていた。

―end―

『太鼓』


母は、わたしのことをキレイだと言っていた。でもわたしには確かめようがないし、興味もなかった。わたしは生まれつき目が見えないのだ。ある人は、目の見えない世界とはどんなものか知りたがる。わたしが「あなたと同じですよ」と言うと、大抵の人はピンとこない。誰でも自分の見ている世界や、知っている世界こそが、本物の世界だと思っている。わたしにしてもそれは同じで、あなたと何も変わらない。
大学生の頃、わたしはよく図書館に行った。点字の本がたくさん置いてあったからだ。それに図書館にただよう本の匂いを嗅ぐと不思議と気持ちが落ちついた。本は人に読まれるのをただ待ち続けている。古い本になると何年も人に読まれないまま、ページさえ開かれないまま、長い時間をずっと待ち続けている。わたしは点字しか読めないから、そんな古い本を手に取ることはない。でも本たちはまるで古い友人のように、図書館に来るわたしを迎えてくれているような気がする。
ある日、わたしはいつものように図書館で本を探していた。点字本のリストを指でなぞりながら本を選んだ。係りの職員に本の貸出を申し込むと、聞き慣れない若い男性の声が返ってきた。わたしは一瞬、不意を突かれた気分になった。澱んだ空気の流れが少しだけ変わったような気がした。それが彼とのささやかな出会いだった。その後、わたしが図書館へ行くと、よく彼が対応してくれた。彼が職員の人と話ているのを傍らで聴いていると、どうやら彼も大学生で、最近になって図書館でアルバイトを始めたのだということがわかった。わざわざ図書館なんかでアルバイトをするなんて…、でもきっと心が穏やかな人なのだろうと、わたしは勝手に想像した。
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