アメリカの友人

小説と詩を書くブログ。

2007年12月

一時間ほど部屋で過ごすと、恋人は帰っていった。冷蔵庫の女はさっそく缶ビールを開けていた。
「なんで彼女のこと送ってあげないのよ」と女は言った。
「今日は送らないでいいってさ」
「ふ~ん、なんか気に入らないことでもあったのかしら」女はぐびぐびとビールを飲んだ。「あの子、ちょっと神経質そうだったわよ」
「そうかな」
「そうよ」
女はビールを飲み終えると冷蔵庫に入った。

冬、クリスマスの一週間前になって、僕は恋人と別れた。恋人の言い分は「あなたが嫌いになったわけじゃないの。でもあなたのことがわからなくなった」というものだった。だから、「心の整理」をするために僕とはしばらく会わないことに決めたのだという。僕はいつまで待てば「心の整理」がつくのかと尋ねたが、恋人は「わからない」と言った。「わたしのことは待たなくていい」と。まるで一昔前の歌謡曲に出てくるセリフのようだった。僕はクリスマスの美しい電飾に包まれた夜の街を、一人とぼとぼ歩きながら自分の部屋に帰った。僕は部屋に入ると明かりも点けず、そのままソファーへ沈み込んだ。しばらくすると冷蔵庫がそっと開き、明かりが真っ暗な部屋に漏れた。冷蔵庫の女は静かにソファーへ近付き、僕の隣りに腰を下ろした。
「泣いてるの?」と女は言った。僕は何も答えなかった。
「振られたのね…、かわいそうに」女はいつになく優しかった。「あの子のことがよほど好きだったのね」
僕の顔に、女のあたたかい唇が触れた。それから女は僕のズボンを脱がせ、僕のペニスを冷たい手で握った。女がしばらく手を動かし続けると、僕は射精した。
「おやすみ」と女は言い、また冷蔵庫に戻ろうとした。
「待ってくれ」と僕が言うと、女は暗闇の中で立ち止まった。「君もつらかったのかい?」
 二秒ほど沈黙したあと「気にしないで」と女は背中越しに言った。女は冷蔵庫を開け、冷蔵庫の光の中へ消えていった。
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夏だった。冷蔵庫を開けると、中から女が出てきた。女は僕の缶ビールを勝手に飲んでいた。
「ハロー!」と女は軽く挨拶すると、部屋を横切りソファーに腰を下ろした。「この部屋暑いわね。なんでエアコンつけないの?」
「三日前に壊れて…いや、そんなことより、君はいったい誰なんだ? いつの間に冷蔵庫なんかに…」
「ハイハイ、わかったから」女は僕の言葉を遮るように言った。「そんな質問はうんざりしてるの。あたしは誰で、目的は何かってことでしょ。あたしはただの女で、目的は冷蔵庫に住むこと。これでいい?」そう言うと女は、ぐびぐびと旨そうにビールを飲んだ。僕があきれた顔で女を眺めていると「あなたもビール飲めば?」と女は言って、缶ビールを一本、僕に投げてよこした。
それから女は、僕の部屋の冷蔵庫に住むようになった。冷蔵庫から出てきては、僕の部屋を我が物顔で使っていた。テレビを観たり、シャワーを浴びたり、大好きなビールを飲んだりしていた。気に入らないことがあると、僕に文句を言った。カーテンを変えろとか、タバコを吸うなとか注文をつけてきた。僕が女の言うことを無視すると、女は冷蔵庫から一切出てこなくなった。僕は結局カーテンを変え、ベランダでタバコを吸うはめになった。
 あるとき女は、僕のパソコンでインターネットをやっていた。女がいったいどんなサイトを見ているのか僕は少し気になった。あとでパソコンを調べてみると、サイトの履歴はきれいに消去され、おまけにパソコンの壁紙も勝手に変えられていた。新しい壁紙は、路上に佇む男女の姿が写ったモノクロ写真だった。写真の中で男はそっぽを向き、女は真正面を向いていた。写真の中の女は、何か言いたげな顔をしていた。
 女はいつも冷蔵庫か部屋の中で過ごしたが、月に一度外出することがあった。外出するときはなぜか、昔のハリウッド女優のような大袈裟な衣装に分厚いサングラス、という格好をして出かけていた。いったいどこに出かけているのか尋ねると、「そんなこと知ってどうするの?」と言ってまったく取り合わなかった。女は何も教えたくないようだった。
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私は妻とふたり、寄り添うように暮らしました。娘がいなくなってから、妻は少しづつ体調を崩していきました。妻はよく、娘のお気に入りだった木陰で何時間もぼうっと佇んでいることがありました。あるとき、妻はぱったりと餌を食べなくなりました。体は急速に弱ってゆき、立つことも出来なくなりました。ほどなくして妻は死にました。私はひとりぼっちになってしまいました。
私はただ餌を食べ、ただ水を飲み、ただ生きていました。あの柵で囲まれた狭い飼育場が、やけに広く感じられました。私は寝ぐらにしていた小屋のコンクリートの壁を、いつまでも眺めていました。灰色の壁に刻まれたヒビ割れを、意味もなく辿り続けました。幸せだった頃の記憶など、いったい何の役に立つのでしょう。すべては幻だったのかもしれないのです。妻や娘など、始めから存在しなかったのかもしれません。私の記憶はコンクリートのヒビ割れの中に吸い込まれていきました…。
私が壁を眺めることさえ止めてしまったある日、小屋に聞き慣れない足音が響きました。いつもの飼育員の足音とは違い、どこか柔らかい感じがしました。足音の主は新人の飼育員でした。彼女は私の世話をすることになったのです。彼女は親切でした。汚物や何かが散乱した不快な私の小屋を、嫌な顔ひとつせず、ゴシゴシと丁寧に磨いてくれました。私は清潔になった小屋に入るといたたまれなくなりました。愚かな動物でしかない私は、せっかく彼女がきれいにしてくれた小屋を、また汚してしまうだろうと思ったからです。それでも彼女は私のために、不快な汚い小屋を何度でも磨いてくれるでしょう。私は次第に彼女が愛しくなりました。彼女は私のために餌の世話もしてくれました。餌を食べる私を、彼女は鉄格子の向こうからじっと眺めていました。私は微かに漂ってくる彼女の匂いを嗅ぐことが出来ました。それは妻や娘の匂いとはまるで違いました。でも彼女の匂いは、どこか懐かしく、心地よい感じがしました。私は、もう思い出すことをやめたはずの記憶を、再び思い起こそうとしました。しかしいくら探しても、彼女の匂いに結び付く記憶は見つかりませんでした…」
夢はここで終わった。僕はバッファローのことがしばらく頭から離れなかった。
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バッファローは動物園で一番人気のない動物だった。ほとんど動かない、というのが大きな理由だ。遠目には黒い岩の塊のようにしか見えないし、できるだけよく観察しようとしても、「あれは岩じゃなくて生き物なんだな」ということをやっと確認できるだけ。動物園の客は、あの黒い塊が生き物だということがわかっただけで満足し、隣りのカモシカを観るために早々と歩き出すのだった。
 バッファローの飼育場は、テニスコートほどの広さの柵で囲まれていた。草原をイメージした緑の下草や所々に植えられた背の低い木々は、草原のイメージとは程遠く、かえって悲しく見えた。バッファローは飼育場の一番奥に佇み、冬の暖かな光を静かに浴びていた。彼の盛り上がった巨体からは、微かに湯気が昇っている。僕はふと、彼は案外幸せなのかもしれないなと思った。近所の猫が気持ち良さそうに日向ぼっこしている姿と、そう変わらないのではないか…。
「ねえ、ねえ、パパ~!」三歳になる娘が僕のズボンを引っ張っていた。「キリンさんだよ、ほらキリンさん!」娘の指差すほうを見ると、木の上からキリンが顔を覗かせていた。間抜けな顔をしていたが、キリンは間違いなく人気者だった。僕は心の中でバッファローに「さよなら」を言い、早く行こう、とせかす娘に手を引かれながら間抜けなキリンに会いに行った。

その日の夜、僕は変な夢を見た。なぜかバーのカウンターで、あのバッファローと一緒に酒を飲んでいた。
「昼間はどうも」バッファローは僕にあいさつをすると、話を切り出した。「昼間、どうして私のことをじっと見ていたのですか?」
僕は返事に困った。
「ごめん…。人から見られるのは嫌なのかい?」
「いいえ、それは構いません」バッファローは首をふった。「人から見られようが、無視されようが、そんなことは気にしていません。ただあなたのようにじっと私に見入っている人はあまり見掛けたことがなかったので、少し気になったのです」
「まあ、深い理由はないんだけど、君が気持ち良さそうに日向ぼっこをしていたから…。なんとなく眺めていたかったのさ」僕が照れくさそうに言うと、バッファローは微笑んだ。
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