アメリカの友人

小説と詩を書くブログ。

2012年08月

120825
他力本願の「他力」とは国家や宗教といった権力に依存するという意味ではなく、自分の命を一秒ごとに支えている「見えない働き」に気付くということである。それは自然の営みであったり、過去や未来であったり、誰かの愛であったりする。つまり全ての命は「他力」の中でしか生きていけない赤ん坊なのだ


120829
山下俊一やエートスなどによる福島の「アウシュビッツ化」は、今後、汚染食品や汚染瓦礫の拡散と、マスコミを通じた情報操作によって日本全国に拡大されて行く。もう何処へ逃げても無駄だと国民を観念させ、放射能にまみれの土地で今まで通りの経済活動をやらせる。抵抗することだけが今は正義だと思う


120829
領土問題とそれに煽られたナショナリズムの行き着く先には戦争しかない。そして戦争とは人殺しであり、領土問題に白黒つける為なら相手国の人間を殺しても構わないという無責任な気分こそが、すなわちナショナリズムである。領土問題を悪戯に煽る行為は、人殺しに加担することと同じであると知るべきだ


120831
チェルノブイリ破局後、ウクライナの平均寿命は10歳ほど低下したというから、東日本でも同じような事態が予想されるし、汚染食品の全国流通の現状を考えれば、西日本における平均寿命の低下も避けられないと考えられる。我々は、原発事故によって奪われるであろうこの10年をどう清算したらいいのか


120831
福島の破局後、母親の胎内で受けたDNAの損傷によりこの世に生まれ得なかった子供や、たとえ生まれてきたとしてもダウン症などの障害を背負わされた子供は、それを「仕方ない」運命として受け入れざるを得ないのだろうか。「障害は個性」だとか言って誤魔化していいのだろうか。大人の責任を果たせよ


120831
みんな みんながすき ひとりひとりが いきをしているから――アン・サリー/のびろのびろだいすきな木
http://www.youtube.com/watch?v=5AGkPmPaw1g&sns=em

120821
クジラは大きな脳みその中を泳ぎ 広い海を使って物を考えている 夏の子供がクラゲに刺された思い出から 洋上で行われた水爆実験まで クジラは地球の海で起こった全ての出来事を そのまま地球の脳みそで考えることが出来る かつて人間も草原の脳みそを持っていた しかし今は言葉で嘘を考えている


120822
福島の避難所で放射線検査を受ける3歳くらいの女の子。母親に着せてもらった紫のダウンジャケット。まだ寒い3月の公園をお散歩していたら、急に白い服を着た大人に囲まれて何やらヘンテコな機械を頭に付けられちゃったという感じの写真。女の子を放射能から守っているのは風邪用の薄いマスク一枚だけ
http://p.twimg.com/AyhdpEsCcAAT8p5.jpg


120824
放射能に関する知識をいくら仕入れたところで、このSFのような放射能汚染の危機を「実感」のあるものとして受け入れるのはそう容易なことではない。ましてや政府は安全をアピールするばかりだし、テレビを点ければお笑い芸人が馬鹿騒ぎをしている。でも原爆投下やホロコーストは現実の出来事であった


120825
鹿児島県南大隅町に最終処分場を作るという話は、政府が、汚染土の中間貯蔵施設を双葉、大熊、楢原町に受け入れさせるための方便ではないかと思う。本来であれば、福一周辺に人が住むことは不可能であることを政府は認めその土地を買い上げるべきであり、安全な場所に町の代替地を用意すべきなのである


120825
首相との面会により反原発運動が「市民権」を得たということは、政府にとってそれが何の脅威でもなくなったということである。さらに政府は「反原発にだけ」市民権を与えることで東北関東における「放射能汚染の危機」を国民の意識から切断し、骨抜きにされたデモを利用して時間稼ぎの茶番を演じている


120825
もし官邸前デモの主導権を福島疎開裁判の主催者が握っていたとしたら、きっと首相との面会はおろか、デモそのものが大変な迫害に遭っていたはず。政府がもっとも恐れるのは東北関東から大量の避難が始まることである。だから安心安全の虚構を守るために、あの福島の子供たちに対してさえ疎開を許さない

120816
日本はこれから、隣国や主要国に軽視され孤立を深めて行くのではないかと懸念する。もとより原発事故を起こし、世界中に放射能を撒き散らしているような国が尊敬される訳もなく、その上戦争でも起こそうものなら、日本は70年前と同じように再び世界を敵に回すことになるだろう。本当の敵は国内にいる


120816
長崎で被爆した10歳くらいの女の子。写真右側に立つ、表情を失った看護婦に支えられ、彼女は誰かに微笑みかけるように首を傾げている。あのピカの中で、どうにか少女の面影を残せたこと以外全てを奪われてしまった。そして二人の肩越しに顔を出す若い士官は、この写真を守るためにカメラを睨んでいる
http://p.twimg.com/A0T1f0YCYAA1fx5.jpg


120818
慰安婦問題を「時代遅れ」の問題だと考える向きもあるが、被害の当事者にとってそれは、幾ら時代が過ぎようと風化することのない「痛み」である。暴力の被害者は心身に受けた深い傷の中から人生を見出だし、そして痛みを克服するのであって、暴力と痛みがそこに存在したという事実が消滅することはない


120819
エートスという核汚染地域支援事業を作り、資金を出しているのは原発利権組織である、という明白な事実があるのに、なぜか意見することを避けている反原発派が少なからず居て、妙な気持ち悪さを感じる。自己責任で福島に残る人を批判出来ないとかそういう理由か?自己責任とは何と都合のよい言葉だろう


120819
「原発反対」なら「戦争」も反対すべきだと思う。なぜなら原発も戦争も、市民の命を犠牲にすることでしか成立し得ない、不当な権力によって行使された「暴力」だからである。嘘だと思うならチェルノブイリの奇形児と原爆の熱線で皮膚が溶けた子供の写真を見比べてみるといい。そこには暴力が写っている

120813
原爆と原発は、ウランやプルトニウムといった「不安定な物質」が安定しようとするときに起こる「核分裂」を利用するという点では全く同じもの。違うのはその核分裂を制御する入れ物と、それを戦争利用とか平和利用とか区別する人間の勝手な都合だけです。あと、放射性物質の量は原発の方が桁違いに多い


120814
反原発勢力を牽制し弱体化させるには、隣国と戦争することが一番効果的かもしれない。現在の、特に若い層の政治意識には「ナショナリズム」と「反原発」が共存しているという状況で、その両者に共通する思考原理は「中立性」という言葉に象徴される空虚な「相対主義」、つまり、あなたはあなたで私は私


120814
相対主義とは、良く言えば客観的に物事を捉えるということであるが、悪く言えばあなたはあなたの責任を取り、私は私の責任を取るだけで、「社会的」な責任を取る主体がぼやけている。「責任」とは本来、社会や他者に対するものであるはずなのに、あなたと私の責任を区別すること自体が論理矛盾している


120814
福島エートスとは、放射能汚染地帯に留まることを支援する活動であるが、色々と調べているとその「エートス」というプロジェクトが、仏を中心とする国際的な原子力組織によって生み出され、支援されているという図式が見えてくる。つまり彼らの目的とは、ひたすらに原発のイメージを損ねないことである


120814
福島の人々は今何を思っているのか。あの原発事故はただの運命なのか、それとも抵抗すべき敵なのか。東電や政府はもちろん赦せないが、空いっぱいに文句をぶちまけたところで、現実の生活がどうにかなるわけでもなく、ただ福島に生まれ育ってきただけなのに、ただ普通に呼吸して笑っていたいだけなのに

120812
福島エートスの「エートス(ethos)」には――性格、品性、社会的習慣、道徳的規範といった意味があり、反対語である「パトス(pathos)」には――想念、情熱、情念という意味がある。つまりエートスは秩序であり、パトスは破壊だと? しかし原発事故というパトスを行ったのは権力者である


120812
大人が平気で嘘をつく社会で子供に嘘つくなとは言えないし、貧困や放射能汚染に苦しむ人々を見棄てるような社会で子供にいじめをするなとは言えない。子供は決して「未熟」なのではなく、純粋な曇りなき目で世界を眺めているだけである。でもその子供たちもいずれ嘘を覚え、人を見棄てる存在になるのか


120813
「このお握りには毒が入っているかもしれない」と言われれば誰もそのお握りを食べようとは思わないが、「でも百万分の1のリスクだから皆気にしないで食べてますよ」と言われれば、じゃあ大丈夫かという気持ちになってしまう。「リスク」という言葉は、毒の入りのお握りを食べさせるための方便にもなる


120813
あなたのいない世界には あたしもいない――aiko/くちびる
http://www.youtube.com/watch?v=Gnzkj6j6OAc&sns=em


120813
悲しみという言葉は、美しい記憶から生まれている。それは赤ん坊のとき母親に抱きしめられたときの記憶である。生きることは悲しい。だから母親は思わず赤ん坊を抱きしめ、この残酷な世界から赤ん坊を奪われまいとする。たとえ冷たくなっ赤ん坊であっても、母親にはそんなこと関係ない。ただ温めるだけ

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