おやじ歳時記

四季を彷徨うジイジの日々好き勝手記

April 2020


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〈大和やなぁ日本やなぁクールジャパンやなぁの風景です〉

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〈ご本殿へと向かう参道の石橋。こちらも素敵です〉

我が家は豊後一ノ宮の西寒多神社(何て読むでしょうか。ささむたじんじゃと言います)の元宮があるお山の裏手。そんなお近くにあるご縁で何ごとかがなくてもちょっとお参りや気分転換に、元宮のあるお山のふもとのご本殿にしばしば行っています。
今年は初詣から半年も経たずに桜、そして藤の花の美しさを神社周りの風景とともに堪能させてもらっています。
こちらの神社は樹齢450年以上といわれている見事な藤の花でも有名です。大きな藤棚の広がりはまるで比翼のようです。毎年この季節になると近在近郷はもとより遠くからも見物にやって来る人が大勢います。見頃を逃すまいと毎年まさしくワッサワサの賑わいだと聞きます。


緊急事態宣言中なのでわざわざ出向くことははばかられます。しかしちょうど他用があったのでせっかくだからとコロナ収束のお願いと藤の花の見物に立ち寄りました。
きれいかった。初夏の光を観るようなと思いつつうっとりしてしまいました。で、観光とはまさに光を観ること。国のもの土地のもの食のもの、そして人々の暮らし。そんなのが光ではなかろうかと。旅人はそこにちょっとお邪魔して様々を肌や心に感じて帰る。観光を思った次第のおっさんでした。
思ったよりも多くの人たちが観にやって来ていました。ほぼほぼの賑わい。皆さんもちろんマスク。黙々と写真撮影している姿を見てインバウンド人のいない静けさを改めて感じました。しかし皆さん、ちょうど見頃をよくご存じで。偶然や思いつき行動の私たちと違って、「今日この時が最高!!」みたいな虎視眈々のような勢いすら感じるパワーをお持ちの方たちばかりでした。「こぞ(去年)はこぞ、今年は今年」の意地も加わったこだわりでしょう。


コロナとインバウンド人激減で日本の観光地も観光施設も、そして交通系も大変な大打撃を受けてしまっています。まさしく経済の隅々までという感があります。コロナがなければせめて日本人が国内旅行をしてインバウンド人減少にいささかでも歯止めができたはずです。まさか思いもよらぬことで、巨額な設備投資をしてしまった企業は本当に気の毒です。
コロナ収束後も観光産業は去年までのような活況は望めないかもしれません。その打開策を見つけなければどうしようもないことになりそうな思いがしています。まるで泡のような存在の外国人に頼らず足元を再発見というか再認識というかをせねばなるまいでしょう。いつかはこんな時が必ずやってくるとずっと思っていましたが、その原因がコロナという厄介な病気だとはおよそ察しも予測もできませんでした。

世界経済の停滞だからでしょうか。南極上空のオゾンホールが急速に回復、小さくなっていっているとか。人間が疫病に苦しんでいるなかで皮肉なもので地球がきれいになりつつあるようです。自然破壊の元凶が人類であったという事実にも改めて驚いています。こんなに早く回復するとはある意味災い転じて福になった気もしています。人や国によりけりで「こんなに簡単に戻るのであればもっと金稼ぎができるぞ!!」と、そんな不埒な考えも生まれるかも。やめときなよ。どれだけの人の命の犠牲の上でのことかを考えてもらわなきゃ。


春から夏へと季節の変化を体で感じるここ数日になりました。この変化とともに疫病コロナも衰えていくようどうか変化してほしいです。
これにて4月のお開きにしましょう。





湯浅さん
〈大量に!!〉

取材を通じて知り合った大先輩ご夫妻。伊勢神宮の式年遷宮の行事のひとつだったお白石持ちでご一緒して以来のお付き合いになるのでもう随分に。
お父さんが昭和8年生まれだから我が家のばあさまと同い年。警察OBだからかしらとっても姿勢がいい。でも堅物どころか非常に気さく。御年87才ながら車の運転も現役。杖にも人にも何もかもに頼りきりになってしまった当家のばあさまとは雲泥の差のハツラツぶりにただただ敬服するのみです。輪をかけてお母さんがまたパワフルで超ざっくばらんな方。婦人会の中枢に位置していてもおかしくないような裁量というか技量力量、そして技量のある方です。


国東半島の付け根の町にあるご自宅から大分市内によくお出かけで、時おり地のものをたくさん持ってきてくださっています。
今回は近くにある養鶏場の産みたてたまごと裏庭の孟宗竹の竹林に生えている筍、キュウリにキャベツをくださいました。筍は28本をお母さん朝早くに竹林に分け入ってひとりで収穫してそのまま裏庭設置の大鍋で茹でたとか。まるで豪快な竹取の媼ですね。おかげさまで毎食の菜に美味しい筍を存分に堪能できそうです。先日の友人マスクと言い、有り難い人たちに恵まれていることに感謝ひとしおです。
ばあさまにこれこれしかじかで筍が届きますぜと奏上したところ、それこそ先日デイケアのお昼が筍ご飯だったとか。しかしとっても甘くて、そもそも昔っから味付けしっかりが好きなばあさま、気持ちが悪くなったと困り顔をしておりました。
「ならば美味い筍ご飯を不肖この私めが作って進ぜましょう」と。
確かに甘い筍ご飯など私にとっても縁遠い代物ですが、どのくらい甘かったのかはほぼ味音痴に老いさらばえたばあさまの舌なのであてにはなりませんが。もしかしたらみりんの少しの甘さで針小棒大かも。まぁ筍と油揚げのコンビネーションでシンプルに炊き上げてみることにしました。あとは芹と春菊の朝地(浅茅)和えと、かき玉のお吸い物でも添えれば申し分のない春のお膳かと。
有り難い到来物に人さまの心遣いと口福をかみしめているところです。そして今この時をしみじみ感じる季節のモノの冥利にも心を込めています。


そんななか今度は岡江久美子さんの訃報が。ひとつ違いながら同年代です。もうびっくりを通り越して呆然としてしまいました。「まさか!!」の連続はきつい言葉になっています。
志村さんや岡江さんをはじめ、家族はこの病気で亡くなった人との最後の別れを許してもらえず、しかも変わり果てた姿のお骨を家でしか待つことができないなんてあまりにひどい。つらすぎです。不条理です。何のためにこれまで生き、何のために家庭を成し、何のために社会に貢献していたのか。一生懸命や幸せの裏打ちの結末がこんなのとはつらいです。こんなかたちで旅立ってしまったなど本人はきっといまだに気づいていないままかもしれませんし、遺された家族も悪夢を見ているような悲しみと怒りではないでしょうか。


普通に穏やかに暮らしている人の犠牲をはじめとしてこうやってまさかと思うような人が次々と落命していっているこのコロナ。恐怖が身近にあるということを再確認して、そして責任ある行動を一人ひとりがせねばなるまいでしょう。自覚せねば。
湘南に行く大量のおバカもおったし信じられません。行橋の禁漁区でせっせと貝掘りしているセコいおバカ、なんとかならないものでしょうか。いくら自粛をと言われながらも越境してまでパチンコにのめり込んでいる人。ほぼ病を得ていますね。そんな人たちってまるで菌を持ったまま沖縄でゴルフしていた軽々しい石田純一と同じ。危機感などさらさら無くて人の迷惑を顧みず自分さえ良ければという日本人にいつから成り下がったんだろう。礼節や見境を見失った、まさしく本能のおもむくままの生き物になった日本人の行動に驚きです。おかしい、本当におかしい。この疫病の異常なまでの拡大と猛威、そして化けの皮の剥がれた人間の本性。
ウィルスをばらまいて世界中が弱ったところを見計らって世界征服、覇権でも目論んでいるんじゃないの。発生源のあの国は。火事場泥棒みたいに尖閣を盗み取られないように日本は体力を回復せねば!! 気骨のある政治家が本当に絶滅してしまった日本の姿をさらしているのが今。つけ込まれないように用心せねば。

春をね。いつもと変わることのない明るい春を心から寿ぎたいのに今年ばかりは何もかもがうわの空のような毎日になってしまっています。



 


マスク
つらい世の中、せめて家の中では粋に過ごしたいものです

手先が器用な友人の妻さんが手製のマスクをこしらえて送ってきてくれました。素材の布は昨年お孫かご亭主に甚平でも縫ってあげてとプレゼントした竺仙の浴衣生地。よく化けてくれて粋なマスクになりました。ばあさまにもとピンクのを。全部で6つももらったので若さまにもひとつ送ります。心遣いが有り難いです。


さてさて永田町マスクは466億円でもって国民ひとり当たりになんと2枚も支給してくださるよし。しかしながら小さなマスクらしくって大きな顔のカバに小さなマスクみたいな国民の図にならねばよいのですが。
ネットでも意見がありましたが、466億円もの金を使うくらいならばマスク工場でもつくって従業員を雇ってどんどん生産してすぐさま市場に流せばいいのに。マスク2枚支給よりよっぽど生産性も将来性もあるんだけど。どうしてわざわざ敢えて狭小な考えで物事を捉えてしまうのでしょうね。これまでどおり中国の工場でせっせと作らせて逆輸入でもするつもりなのでしょうか。いつものことながら軒先貸して母屋盗られて富栄えさせる感じの中国マスク事情になりつつありますが。潤うのは利権まみれの国会議員とチャイニーズの商売人ということでしょうか。何せ今日本の市場に出回っている・・・、というか売るのも買うのも希少なマスクのほとんどが中国製というじゃありませんか。平気で恩を仇で返すような国にまださらにいい思いをさせる日本?? その仕組みがわかりません。
コロナを撒き散らしておきながら世界中の不幸を好機としてとらえて香港デモを制圧したり南沙の方を実効支配してしまうような大泥棒の国なので、日本だっていつかまた煮湯を飲まされるような日がくるかもしれません。マスク支給の一方で一律10万円の支給がやっと決まりました。この金額が本当に妥当だかどうか分かりません。付け焼き刃、焼け石に水の人だってたくさんいるかもしれません。そしていずれは我々が負担しなきゃならないでしょうが。
国会議員の各々方こそ歳費のほとんどを返上して大いに痛みを感じてもらいたいものです。結局国民が選んでのさばらせてしまった似非上級国民か。


しかしコロナ禍を通して安倍総理の求心力の低下が現れたように感じています。「一強」ももしかしたら風前の灯かも。星野源さんのコラボ動画の
SNSに犬を抱っこや優雅にお茶してる貴族風の姿は、みんながいろいろな場面で苦しんでいるのにあまりに浮世離れしすぎでしょう。あれは無神経だった。在宅してくつろぎ感を国民にも持ってもらいたかったにしてもあれはひどい。こんな姿の総理、日本のリーダーなど誰も見たくはなかったはずです。しっかりしてくだせぇ。
奥さんは当節どこにも行けないからと大分旅行にうつつをぬかしていたとか。なんだか加担してるみたいで大分も宇佐神宮もいい迷惑です。この夫婦、いったいどんな夫婦なのでしょう。奥さん、ルーピーもここまできたらもう人間じゃないです。あまりに我関せずすぎるこの人も自分を上級国民だと根っから思っている遙か遠くからやって来た宇宙人でしょうか。


反日スローガンで大いに盛り上がったらしい韓国の総選挙。日本の悪口さえ言えば当確で与党が勝利したとか。しばらくは安泰な文大統領、いい気になって反日に没頭するでしょう。しかし反日で投票率アップとか信じられません。悪口で国が動くなんてどれだけ低俗で野蛮なの?? どういう頭の中身なのでしょうか。正真正銘のプロパカンダだ。
もう泣きついても相手にしないことです。いや、これまでは金を借りるのではなく「借りてやった」くらいのバカ脳細胞。日韓スワップ協定再開要求か?で麻生財務大臣が「『(韓国がどうか)借りてくださいと(日本が)言うなら、借りることもやぶさかではない』と。(金を貸す側が)頭を下げて『借りてほしい』などという話は聞いたことがない」。そのように言っていました。もっともです。反日を繰り返しながら金貸せなどよくもまぁ厚かましい。ハッキリともの申すこんな時の麻生さんは好きだなぁ。
日本が大嫌いなら来ることまかりならん。小汚くて横柄で感情的で、キムチやら安っぽい香水やら何やらで臭い。そんな人種が日本にやって来ても日本の良さなどわからないでしょうに。睥睨するような態度で日本を歩く姿は征服、侵略でもしてるつもりでしょうか。嫌いなら本当に来なくて結構。どこかよそに行ってまた笑われればいいんじゃないの。


アヤメ
世の中の憂いごとをよそに美しく咲きました

前のお宅のおじいちゃんが亡くなる日の朝に持ってきてくれたアヤメが咲き始めました。小ぶりなアヤメをネットで調べたら「チャボ
(矮鶏)アヤメ」と言うようです。ボッテリ感のある大きいのよりも僕はこのくらいの華奢なほうが好きです。
おじいちゃんのアヤメ。これから毎年咲いてくれるように、おじいちゃんのこれまでの丹精が花にも伝わるように大切に育てなきゃとネットで「アヤメの育て方」を学習しつつ思いを新たにしています。しかし人がいなくなっても花は変わらずに咲いてくれるのですね。そうやって花も木もひとつの所に定まって、居ながらにして歴史を刻んでいくのでしょうか。人間の命や日々の営みを変わらずにそっと見守る・・・、まるで時の証人のようです。
そう言えばセレブに舞い上がっていた剛力彩芽さん。この人も男にとっては季節の花みたいなものだったのかなぁと・・・、観賞し終えてハイお終いかなと思っていたら復縁なさったとか。見事に返り咲いたんだ(笑) 



 


であいのもの
春料理は「であいのもの」が特に似合います

コロナウィルスさえなければ今時分の佳い季節は、毎年と変わらずに春の自然やこの季節ならではの人とのお付き合いなどさまざまを堪能できたはずなのに、本当に悔しい令和2年の春になってしまいました。
令和2年の表現はやめましょう。日本だけが災難を被っているみたいなので。世界規模の大災難なので西暦でいきましょう。
2020年の春、そしてこれからやって来る月日はいつもとまったく違ったものになるかもしれません。経済も人の心も。荒まねばよいですが覚悟をしておかねば。


この季節は本来であれば入園入学、クラス替え、そして新社会人誕生の入社などを通して新たな出会いが生まれます。一生の友人、もしかしたらいろいろなシチュエーションを通じて生涯の伴侶となりうる人との出会いだってある美しい季節でもあるはずです。
今年は何もかもが皆無もしくは先の見えない先送り。出鼻をくじかれるとはこういうことを言うのでしょうね。人生にとってかけがえのない大切なスタートがかくも混迷してしまって当事者であるそれぞれの立場の人たちがかわいそうです。こんなことが起きてこんなことになるとはゆめゆめ思いもしませんでした。


人と人とが出会う。相性が良くてずっと仲良くできる二人にとっては運命の出会い、終生連れ添うみたいなステキなお互いになります。そんな友人関係を「莫逆の友」だと聞いたことがあります。
ネットに「親友」とはこんな仲だ。という9つがありました。
秘密を「秘密」としておける
たとえ一人になっても味方でいてくれる
「好き」を熟知している
イヤなことも忘れさせてくれる
なんか、安心できる
笑いのツボが一緒
自分のために泣き自分のために笑い自分のために喜んで、自分のために叱ってくれる
あなたの「クセ」を許せる
気がねしない


どうです?? 確かにこの9つすべてをお互いに持ち合わせている人ってそうザラにはおりませんがいくつかは当てはまる関係があると思います。
しかしこの人とはそんな磁力がありそうだと出会いの最初は思っていても心の行き違い、ボタンのかけ違いで疎遠になってしまうことも事実としてあります。二人でつくった思い出など関係なしに距離が遠くなっていき縁が絶たれていく。その原因の大方が片方のわがままや誤解から生まれます。納得できないのであればどうして話し合おうとしないのか。酒を飲んだり家族で温泉に行ったり人生の相談をしあったりの二人の歴史の構築ってなんだったのかと。いざとなった時に感情的になって許しの心を持つことができない性分ということでしょうか。
会者定離とはよく言ったものです。出会ったのに別れる、もったいないことです。せっかくの友人をメッタ斬りにできるとは大層な根性悪です。しかしその時にやっとその人の本性や生まれ育った環境が見えてきます。かわいそうに大した素性の人ではなかったんだと。遅かりし由良之助ですが(笑)


で、人との出会いには悲喜がついてまわりますが、季節の料理の「であいのもの」にはそんな野暮ったいことがなくて恂にもって簡単明瞭にして感動を与えてくれます。であいのものは美しい四季を持ち、春夏秋冬に旬がある日本ならではの有り難い自然の恩恵かもしれません。
さて今どきは筍が店頭に出回り始めます。ご近所の道の駅などは掘りたての筍がずらりと並んでさながら春の竹林の一角のようです。切り口が瑞々しい、掘ったばかりのこの筍を買って帰って大鍋にて米糠と鷹の爪を入れて小一時間茹でます。頭を斜めに切り落とし縦に包丁を軽く入れて後々皮を剥きやすいようにしておきます。時折様子を見ていないと沸騰とともに糠が盛り上がって吹きこぼれてしまいます。まるでシフォンケーキみたいにふわふわと。茹で上がったらそのまま冷えるまで放置。その間にこの筍をどのようにして食するか。思いを駆け巡らせる愉しい時間です。今年の初物なので昆布出汁とみりんと薄口醤油ですっきりさっぱりと煮ることに決定。前日に買って茹でていたこごみもちょっとくぐらせる程度で味付け。筍とこごみ、そして庭の山椒をちょいと天盛りに。であいのもの完成であります。まっこと裏切りのない味。最近はジジババ食の腕も上がったようで自画自賛の一品になりました。
ちなみに茹で汁は捨てずに桜の木の下にまきました。米糠が十分に抽出されて栄養価は高いと見ていますが。
であいのものでも愉しまなきゃ当節やってられませぬ。



 


カエル
明日から天気はまた下り坂。雨の前のお出ましです。

奥深い懐かしさのなかにある平穏と静けさ。そしていつか体験したことがあるかもしれないような不確かな安らぎの風景というか雰囲気を心のどこかでワサワサっと感じることがあります。一瞬の思いが深い過去の空気感を呼び覚ます言いようのない感じ。時折匂いさえもともなうことも。鼻腔の記憶でしょうか。これってなんなんでしょう。デジャブでしょうか。それとも幼児体験の遠い記憶でしょうか。「この形容がし難くて掴みどころがなくて、でも懐かしい世界に戻りたい」みたいな。
街歩きをしてても、集落がまばらな田舎道を走っていても、心がふと異次元というのか子どもの頃の過去に吸い込まれていく感じ。きっと何もかもが今とまったく異なっていた時代に生きた人間だからそこ、殊の外そんな思いになるのかもしれません。わずか半世紀の間に世の中のすべてが想像もしなかった進歩を遂げているからかもしれません。


時折、寝入り端にすっぽりと布団をかぶって体を丸めて寝ることがあります。これも小さい時からもっとも安心する寝かたでした。大きくなって気づいたのですが、これってオフクロのお腹のなかを潜在的というか本能的に思い出した行動かと。布団が胎内かもしれません。いい年をした男がおかしな話ですが。
それと小さい頃はかぶった布団が大きな屋敷の大きなホールなんだと想像を膨らませてさまざまな登場人物と遊んでいました。子どもが好きな基地遊びと同じでしょうか。さすがにそんな妄想ごっこはできなくなってしまったジイジですが。今では夢の大ホールどころか、追々お邪魔するお墓の下の空間の方が超現実的になってしますが。


ミレニアムの2000年を体験した我々。次の2100年の時はお孫が80歳過ぎ。私はきっと石材の石の家のなかに置かれた小さな壺に収まっているはずです。捨てられていなければ笑。父と母と私の3人で「最近は誰も来んのう」とぼやきつつ暑さ寒さをしのいでいるのでしょうね。
しかし2000年からもう20年がいとも簡単に過ぎていったのですね。速すぎでしょう。自分が成人の二十歳を迎えるまでの20年間とえらい違いの速さです。年とともに時間が速く経つような思い、こんなのをジャネーの法則と言うそうです。
40代50代のまだ感性が少し残っていた年齢に行くことができたヨーロッパに今もう一度行きたい。しかしそんな夢も希望もコロナで一撃を食らってしまいました。もう無理でしょうね。それに中国のおかげでアジア人みんなを差別し続けるかもしれない所にはしばらくは足を踏み込めないでしょうし。何せ根拠のない魔女狩りの黒歴史がある所ですから。


「老老山居の亭主」みたいになってしまっている私。親の面倒を見ずに済む人が羨ましいです。見て見ぬふりができる特に身近な人間には腹立ちさえ覚えます。「何考えているんだろう」と沸沸と怒りが沸き上がってきます。気遣いのできないつまらぬ嫁を娶ると、所詮こんなものでしょうか。嫁の賢さが、親の老いとともによく見えてくるものですね。きれいごとばかり並べ立てる言葉などなんの役に立つものかです。
年賀状も今年頂かなかった人には来年はもう送らないことに決めました。身近なことから思い切って断捨離です。「年賀状やめた」とっても勇気が必要で、そして後悔することしばしばらしいです。なればこちらが出して送られてこない先方には見切りをつけることが、こちらにとっても先方にとっても何より身軽気軽になるのではないでしょうか。負担軽減をスローガンにひとつ思い切ってみますか。でもでも昨年は喪中が多かったのでいくらか宛先減でしたが、送らずに済んだ人、送ったのに来なかった人や儀礼上の人、差っ引いてみたらいつもと変わらない枚数かと。負担軽減はまだまだ先のようです。




サクラ
大好きなレースかぶってるサクラさんは先が見えていますかぁぁぁ??

昨年旅立っていった人たちのそろそろ一周忌が順番にやってきています。というか何人かはもう1月2月に過ぎてしまっています。
亡くなった人を偲びつつ、あっという間に迎えたこの一年なんだなと改めて感じているところです。よそさまの子どもの成長の早さと同じように、それぞれの人たちの命が終えて旅立っていった時からの時間の経過って本当に早いです。この世でせわしなく過ごしているからでしょうか。亡くなった人を思い出し続けることが供養だとも言いますし。どちらにせよ今年は改めて思い出す人たちの多さです。いつかは自分も思い出される側に立つのですが。

訃報をもらった日が春爛漫の日、その日と同じようなお日和だった先日、一周忌のお参りに行ってきました。マスクをしながら仏壇の前に座ることってちょっと憚られて、マスク無しにして滞在を早々に切り上げて辞去しましたが・・・。積もる話はいくらでもあるし、昔のことを掘り起こせば掘り起こすだけ思い出話にお互いの花が咲き競うはずですが、時節柄長居は返って迷惑だと今の世の中の不文律を踏襲して帰ってきました。
こんな世の中になってる最近、なんか侘しいし寂しいしつまらないことです。それでも遺された家族はみんな元気に、そして変わらない日常に戻っているようで安心しました。悲しみに暮れて故人を偲び過ぎると安心して眠るに眠れない仏さまにしてしまうよりも、思い出すことが供養だとは思いながらも半分忘れかけているほうがというのか、日常の暮らしに紛れてしまうほうがと言うのかが、故人の魂の負担にもならず供養としては良いのかもしれませんね。まずまず成仏してもらわねば。

世界中、地球の津々浦々まで侵しつつある今回のこのコロナ禍。第三次世界大戦と言う人まで現れています。アマゾンの奥地に住む先住民まで侵されつつあるのですからよく考えてみたら人災も混ざっているテロに等しいことではと。途上国は医療だって不十分なのにどうなることやら。こんな感じで地球を何周もされてはたまったものではありません。先がまったく見えない状態です。出口の糸口が早く見つかってくれないものでしょうか。
大学進学や就職で生まれて初めて親元を離れなきゃいけない子どもさんたちにとっては本当につらいことだろうと察するに余りあります。親にしてもただでさえ独り立ちを見送ることって生木を裂かれる思いなのに。コロナ渦巻く大都市での暮らしを遠隔地からただただ無事にいてくれと見守らなければならない親御さん。どれだけ心配で不安が募り、そして抗うことのできない相手に怒りすらあることと思います。
私も東京に暮らす息子ふたりやお嫁さん、そしてお孫を戦場にでも置いているような思いの毎日なのです。こんな年になってこんなカタチで心が襲われていることにとても恐怖を覚えています。
それもこれも最近は開き直って他国に責任転嫁しているコロナ元凶の中国が悪い。そして日本は春節に中国人を日本に入れた政治家たちの脇の甘さも悪い。国民の命より経済を優先させたようなものです。

日本の国会議員ってこんな大変なことになっても真剣に国民を守ってくれていないような気がします。他人事のようにしか振る舞っていないですもん。
立憲民主党の男なんてこの非常時に歌舞伎町の性風俗店に行っていたとかで、ただの除名。それだけで済ませようとする党の構造もおかしい。なぜすぐに議員を辞めさせないの?? どうすれば国民が納得するかということすら分からないくらい頭がマヒしてるの?? 特にこの政党は救いようがないね。
「見せしめ」ではなく「けじめ」を今ここで国民にしっかり見せなきゃ、立件民主党はズブズブの泥沼でもがきながら消滅だよ。しかしこのエロ議員、人の挙足を取ったり批判非難ばっかりの仕事でなんの役にも立たない東大出身者。なぜ世の中のことがわからないんだろう。常軌を逸することをするなんて露ほども感じなかったのでしょう。いくら勉強ができてもねぇ。北海道や大阪の若い知事たちの方がよっぽど頼りがいがあります。政治家ってつまりは情熱と優しさではないかなぁ。剛毅をともなった勇気がある人ほど本当は人間味があって優しいと思います。

なんだか日本の真の姿って本当は脆弱でどうしようもないその場限りの当てずっぽうなんじゃないかと思っています。だってこんな緊急事態時にアヘアヘやってるおバカな国会議員がいる国なんですもん。こんな時こそ政治家は一丸となってもっとやらねばならないことを速かにやってほしいです。超党派で。野党が無能すぎて無理か。
国民の所得が下がろうが倒産する企業が出てこようが自分たちの懐はひとつも痛まなのですから結構なことです。あの人たちの歳費はたったの2割カットとか。まったくもって浮世離れしすぎ。何が国民に寄り添うですか。次の選挙ではこれまで大した仕事をしていなかった人、ちょっとやばくなったら仮病で雲隠れする人、若手ホープ議員ともてはやされている口が達者なだけの人。そんな人たちをどんどん落選させることです。化けの皮がすぐに剥げるその場だけの慇懃さや口の上手さに惑わされず、国のため国民のためにしっかりやってくれる人物か、本物の人間かどうかを見極めなきゃと思います。
議員らしからぬ不心得の人はコロナで犠牲になっている人たちの命の代わりに市井で世の中のつらさや悲しみや痛み、そんなどうしようもならない慟哭の事実を体感してもらいたいです。伊藤博文や板垣退助や大隈重信、田中角栄などが祟り神になってこんな薄っぺらい国会議員をこらしめてくれんでしょうか。


山椒
深山風にしている北の庭一画。ややっ。山椒が芽吹いておりました。

亡くなっていく友人知人が多くてお悔やみに奔走していた昨年。一年先がまさかこんな令和2年になろうとは思わなかったです。近年繰り返されるさまざまな天災の間隙を縫うように拡大されている今回の疫病は人類が辿る定めでしょうか。もてはやされてきたグローバリズムも大きな拡大原因のひとつ。あまりに酷い試練です。
亡くなった志村けんさんの追悼番組や再放送を観るたびに思うのですが、死して後までもこの混沌とした日本に笑いを提供しているのかもしれませんね。生前の活躍ぶりとは裏腹の、ひっそりとした旅立ちをさせられながらも稀代のコメディアンの役目をいまだに続けているのでしょうか。



 


桜満開
満開です!! 来年の桜の季節はよい季節でありますように。

よその桜に比べていくらか遅咲きの我が家の今年の桜。とは言うものの大分市の城址公園にある老木の桜満開にあわせて大分も昨日満開宣言をしていました。どう見ても市内の桜は散っている方が多いように見えるのですが。姥桜に花を持たせた優しい葉桜たちとの共艶かもしれませんね。
我が家の桜こそここ数日がどうやら満開のようでした。旧宅の時の毎年の桜狂いはなんだったんだろうかと思えるくらい、こちらに越してきてからはあまり気持ちも昂らず萌え萌え萌え桜ごころにもならずが不思議です。きっと旧宅の大きな桜木から一気に頼りなさげの幼木を目の当たりにしているからでしょうか。まだまだ花数も少なくてスッカスカ、見応えに欠けます。
あんなに大きくなるまでおよそ15年かかりましたが。さてあと15年も先までこの桜とともに過ごせることやらです。そんな未来展望の先細りの思いも相まってか、やっぱり気持ちが浮き足立ちません。それとコロナ。この厄介者の出現で世の中の騒動や恐怖と同様に私の心も所在ありません。世界中の危惧をよそに幼木ながらも一生懸命に華やぎを放ってくれているのに申し訳ないね。
年とともにものの見方や感じ方が鈍ってくるのでしょうか。いけませんね。感動薄は高齢者独特のものとか言いますが喜怒哀楽こそ暮らしのなかのメリハリなのかもと気づく昨今です。いま非常にそれを痛感しています。でもやっぱり気持ちが湧いてこないというか浮かないんですよね。ばあさまとともにメルトダウンしそうです。


仕事も極力出向かずに家でやり取りさせてもらっています。ウィルスも人間も「持ち込まないで」「ばらまかないように」ですね。多勢のなかに入っていつものようになど無責任なことはできません。
ソーシャルディスタンス、意図的に人と人との物理的距離を保つこととか。
聞き慣れないというか初めて耳にした言葉でした。近寄ってはならぬことが絶対の今の日本や世界です。
サクラさんたちが食している大切なペットフードがぼちぼち底をつきそうなので午前中にホームセンターに行ってきました。完全防備で行ける時に行かねばです。レジ前に2メートル間隔で足あとマークとそれを囲むテーピング。そんな縄張りみたいなのが列をつくっていました。見ていたらマスクしていない人ほど間隔を空けていないし前に前に行きたがっている様子がバレバレ。こんな時ほど人間性というか本性がよく見えるものですね。それとキャッシャーさんとお客さんの間にもアクリルボードがぶら下がっていて刑務所の面会みたい。とっても殺伐とした雰囲気ですが仕方あるまいでしょう。こうでもしなきゃコロナは拡がる一方。これが今言うところのソーシャルディスタンス・・・なんだと直に見て実感しました。

まずは不用意に最初から外出せぬことですね。おバカな慶大病院の研修医たちの痴態にも口あんぐりです。するなちゅう会食をしてやがってた。大学のお達しも無視とはいい根性しています。抗体もできたでしょうから治ったら率先してコロナ罹患者の治療にあたってもらいたいですね。しかし彼らが人の命を守れる人間ではないことが本当に哀しいです。頭が良くても常識足らず。医は仁術なりと、それができるから先生と呼ばれる人のはずなのにバカ丸出し。するなと言われていることをする、我が家のお孫だってそのくらいは守ってくれていますが。
大都市みたいに必然的に人との距離が縮んでしまうこのとのないこんなローカル街であれば心がけひとつで2メートルくらいは間隔を保てるはず。でもなるべくならば家から出ないに越したことはありません。そういうことで大方のクライアントさんも鎖国状態、パソコンが出島みたいな変な感じです。

 

別府
画像お借りしました。

別府の飲食店に少しでも元気をと「別府エール飯」というとっても面白い企画が誕生しました。NHKの「サラメシ」みたいな洒落たインパクト。スマホやタブレットなど文明の利器の駆使ですね。友だちのレストランも加わっているようです。同業の皆さんが別府のために力を合わせるってとても素敵です。
コロナに負けるな。災難を逆手にとって地域活性化をという素敵なアイデアです。
「プロジェクトは、購入者らに持ち帰りメニューの写真を撮ってもらい、ツイッターや画像共有アプリ「インスタグラム」などに「#別府エール飯」とハッシュタグ(検索目印)を付けて投稿してもらう。店も同じ方法で投稿し、メニューを宣伝する。店内で飲食しなくても売り上げを支えられる取り組み」
・・・こんなことを若者が考え別府中の飲食店が次々に名前を連ねていっているようです。違ったやり方のソーシャルディスタンスですね。



 


湯布院
去年とまったく同じ場所ながら違う風景。人も風景のひとつということでしょうか。サギがお尻をこっちに向けて長閑に飛んでいきました。

ガチョウ
湯布院金鱗湖の人慣れしたガチョウ。サギと違って逃げも隠れもしない豪胆さです。面構えもよろし!!

去年とほぼ同じ日だった先日、湯布院に行ってきました。打合わせ帰りの立ち寄りでしたが。
濃厚接触の相手は助手席のいつものお一人、大王さまだけですもん。なんだか車の中が一番安全な世界みたいに思えています。
道に溢れんばかりに闊歩していたり店先にたむろしていたり、スーツケースをガラガラと音を立てて遠慮会釈なくみんなの公道を横一列に歩いていた奇妙キテレツな風態だったあれだけのインバウンド人がまったくおらず、湯布院がもぬけの殻のような静けさ。土足人、跳梁跋扈一掃みたいな。これを寂れた景色と言うにはもったいないくらい10数年前の湯布院そのものの風景なんだけどなぁ。人かずの少ない観光地の様子はまるで今の世界中の縮図みたいなものです。
宿泊業界は大変な痛手でしょうが、日本人としては我が国が穢されることなく美しい春を奏でているようで久方ぶりに湯布院らしさを体感できました。有名だったうどん屋さんも中韓人ばっかりでどこぞの国の屋台みたいな猥雑さだったのが楚々とした昔に戻ったような感じでした。今回は食べませんでしたが。
どこかの町の飲食店は爆々の上客もどきにしか気持ちが傾かずで中韓にウェイトをおくばかりに「日本人お断り」の貼り紙を正々堂々として顰蹙を買っていましたが、大いにアテにしていたインバウンド人が一気に居なくなって、はてさて今ごろはどんな店になって、そして邪魔者扱いをした日本人の客をどのようにあしらっていることやら。天に唾を吐いたようなものです。青息吐息なことでしょう。

狂乱にも似ていた数年間。あぶく銭、バブルであったとあきらめるほかないでしょうが、ちょっと無残すぎる潮の引き方でもあります。いつかは必ずこんな時がやってくると思っていましたが、やっぱり所詮他国からの観光目的人はただの浮き草と同じってことですね。あてにならない他力本願はもうやめて、異なる方法で国や観光地が潤えないかと思います。
しかし改めて気がついたのですが日本人っておとなしいですね。去年までは行く先々にはまるで吠えるか喚くかのような会話が怒涛のごとくに飛び交っていましたが、今年は上品な会話の日本人だけの観光スポットに立つと鳥たちのさえずりや池に泳ぐ魚の跳ねる音、風のささやかな音など自然の音のほうが鮮明に聴こえてきます。雑音がなくて心地よいですね。

中韓にはっきりとものを言っていた安倍総理。それまでの弱腰の総理大臣に比べてずいぶんと心強いし頼もしいと思っていました。ところがこのコロナ禍の対応のまずさったらあまりにひどい。実は無為無策、口ばっかりの人が長期にわたって日本を牽引していたということだったのでしょうか。韓国への対応が心強いと思っていたのですが「ただの嫌いな国相手」ゆえにできていた強気外交だった。そうにしか思えなくなってきています。この期に及んでですが国民を守れない、口が達者なだけのただのオッサンだったということにしかもう思えません。
早く、一刻も早く日本をなんとかしてもらわねば。マスク2枚やら現金30万円やらの前に緊急事態宣言を出して、遅きに失した感染拡大を身を呈する覚悟で止めてほしいです。
戦争体験のあるばあさまにとっては身に迫る恐怖感の再来のようでもあります。戦後生まれの人たちをはじめ、これまで生きてきた私などは他から与えられる恐怖など生まれて初めてです。逃れられないのであればせめて自衛に徹するほかないというなんとも心細いことです。

今日は若ぎみの幼稚園入園式。世の中がこんなことになってかわいそうなスタートです。新入社員になった若さまも。流行っている病気の怖さも大人たちの無責任な行動もまだ理解できない年端もいっていない幼子の門出。どうか我が家に限らず国中、いや世界中の子どもたちが天真爛漫に活動できる日が一日も早く訪れますように。
満開に咲いている桜もぼつぼつ散りゆく頃となりました。はらはらと舞い落ちている花びら一枚一枚がコロナで苦しんでいる人たちの身代わりに……、今年はなってくれればいいのですが。




 


陰膳
ささやかなしきたりの陰膳。鯛の刺身とお赤飯、それに若さまの大好きなフンドーキン醤油のお味噌汁。

入社式とは言いがたいような時世に沿った若さまの社会人1日目でした。大分から陰膳でお祝いしました。カタチだけの。
式らしいこともなく明日からのテレワークの説明やらパソコンのセットアップの方法やらこれからしばらくのことがが淡々と行われた由。明日からは引きこもりのオタクです。パソコンを据えて朝9時から夕方までみっちり出社してるのと同じみたいで大変なことです。窮屈極まりありません。いろいろ食料を送っていますが事足りるかどうか。外出を極力控えるようにと言いながらも買い置きを奨励しています。
華もなければ気持ちの区切りもなくて、今年入社する新社会人やそれぞれに入園入学する若者には思い出薄い春になってしまいました。若ぎみの港区の幼稚園入園式は行われるそうですがその後は不透明。自宅待機かもしれません。晴々しい門出のそれどころではないコロナまん延に気もそぞろの若夫婦ではなかろうかと思っています。
主役たちのいない令和2年の春になってしまっています。


安倍総理がひと世帯あたりにマスクを2枚、たったの2枚支給するとかで海外からも失笑の的。何もかもが後手後手なうえにたった2枚で人の命が救えるのか、お為ごかしもいいところです。あまりに国民を軽視しすぎじゃないのコレって。まるでどこかの国の党の委員長がやっていることと遜色ないバカバカしさです。
収入が下がった人には30万円を支給するとか今日は言っていましたが現金支給は国民に一律ではないのですか。収入が下がった線引きはどうやって決めるの。手続きはどうするの。アメリカなんて本当に一律に13万円を国民に渡すというのに日本はどうなっているの。
日本が富栄えていた昭和や平成の時代に時の総理大臣や政府はいろいろな国にODAとやらで資金援助を惜しみませんでした。湯水のごとくに。それはそれで政治的や外交上の駆け引きであったでしょうが、こうやって自国人が瀕してしまった今、たったの2枚のマスクですか。「アベノマスク」とはよくぞ言ったと、なんだか悲しみを通り越してヤケクソぎみにニュースを見ています。
こりゃ本当に日本がダメになる。ダメにしていってるのは政治家。


そんななかで大分県にビッグニュースが飛び込んできました。大分空港が宇宙港に決まったそうです。アジアで初めて。難しいことはまだよくわかりませんが宇宙に直結する空港であることには間違いないようです。しかしなぜに大分空港がと不思議に思ったのですが理由のひとつが離発着便が少ない空港だから・・・ですと。それに辺鄙だし。それを言われちゃあおしまいですが納得してしまいました。でも不便この上ないアクセスの大分空港が違うことで脚光を浴びてネームバリューアップになることは喜ばしいことです。いっそのこと宮崎ブーゲンビリア空港を真似して大分スペース空港にでも改称すればさらに知名度アップかと。スペース、なんか狭そうにもとれるやっぱり大分空港か。
数代前の大分県知事の鶴の一声で決めた国東半島の空港。全国でも最下位クラスの不便空港です。広瀬知事、よっぽど遠い大分空港が疎ましいのでしょう。先日、長い年月廃止になっていたホバークラフトを復活させることを決めました。そりゃ20数分で大分市と大分空港を結ぶ速さは陸走交通手段のストレスをひと思いに解消ですもの。ホーバークラフト再お目見えの決断とプレス発表は宇宙港事業の伏線であったのかもしれませんね。
その宇宙港に携わっているお一人が若さまの知り合い。東京で良くしてくださっている方とか。もう少し欲を出しておけば良かったのにと思う私は「子どもの心親知らず」ってものでしょうか。




 


桜羅さん
桜羅さん我が家に来て今日で12年!! もはや私をしのぐ家の主ですわ。

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今朝の神社

雨と強い風吹いた今日は4月の朔日。桜は場所によりけりの咲き具合で一気に満開を愉しめない代わりに、もしかしたら長い日にちで各地に咲く桜を愉しませてくれる今年かもしれません。
家の庭の桜もぼちぼち咲きそろいはじめた感じです。もっとダイナミックな桜を観たいものですが大分県は明日から一週間、外出自粛のお達しが出たのでそこら辺をコソコソと観て廻ることにします。
そんな今日は我が家の桜羅さんが家族になって12年目のおめでたい日でもありました。我が家に来た日は旧宅の桜がまさしく満開でありました。勢いのある育ち方をしていた旧宅の桜のもっとも育ち盛りの頃にやって来た桜羅さん。以来立派な姿に変わっていっていた桜の木とは別れてしまいましたが、元気な桜羅さんとはずっと一緒に暮らしています。変わらずに居てくれることが何より安心で、そして嬉しい限りです。あの日から干支が一周してしまったのかと思うと万感です。


若さまが入社する会社は3つのグループに分かれて今日から3日間かけて入社式。分散型入社式というところでしょうか。若さまは最終日の4月3日。その後はいつまで続くかわからないテレワーク。企業のことも社会のことも右も左もわからない新米の新入社員もですが受け入れてくれる企業も大変です。

そんな若さまの前途が平安であり、そしてどうか健康でありますようにとの大きな願いを込めて月次祭に行ってきました。いつもより参拝の皆さんが少ないのは当然のことですがやはり寂しかったです。仕方がないですね
祭典の間、大粒の雨だったり落ち着いた雨足に変わったりと忙しい朝の雨でしたが、降る雨に蒸されたかのように徐々に霞が地面から立ってくる景色もまた素敵でした。さらにそんな霞むなかに薄く映える桜の花。天晴れもどきの晴天の桜を見慣れている身にとっては非常に嬉しい雰囲気を味あわせてもらいました。華やかなはず華やかさが似合うはずの桜が今日は何者も寄せ付けないような「寂」。そして「凛」。趣が異なっていい感じでした。風景のこんな閉ざされ方も好きな私です。

毎年2月と3月が終生厄月の私。ここ数年は大きな問題もなく無事に乗り越えることができていましたが今年は3月がいけませんでした。久々にやってきた不安材料のいくつか。
月も変わったし、なんとか軌道修正して大難を小難に変えなきゃと思っています。世の中の疫病も私の災いもどうか一日も早く一掃できますように。そして皆さんもどうか無事にこの難局を乗り越えていただきますように。祈ります。




 

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