おやじ歳時記

四季を彷徨うジイジの日々好き勝手記

タグ:花筏

遅く咲いた今年の桜は、雨にたたられて開花から一週間後の頃にはかすかな風に舞いながら散っていく風景へと変わりました。そして雨や風のいたずらに堪えて踏ん張っていた今年の桜の季節も終わりを迎えています。今年の花は例年になくピンクの色が勝っていたようにも見えました。遅く咲いた分、生命の刹那を一輪ごとの花に託したような切なさすら感じました。色が濃かった分、あっという間の春の出来事が過ぎ去ったような寂寥感、寂しさに包まれているところです。


DSCF5581

初夏かいなと思うくらいに暑かった昨日でした。日田市の気温が29℃超えであったと聞いてさらに驚きました。今日は雨降りに変わって、残りの花も雨しずくと共に落花していっています。雨に濡れたウッドデッキに散る桜はまるで花筏。はらはらと舞ってはへばりついていくさま。これはこれで最後の愉しみをプレゼントしてくれているのかもと思いました。
すべての花が終わり、しべが散ってしまったら今年はたっぷりのお礼肥えをするつもりでいます。なんだか樹勢がイマイチに見えて仕方なくて。例年になく大奮発の肥料をそこら中に埋めていくことにします。今年の夏も暑すぎだったら葉っぱともども枝までダメージを与えられることは決まっています。うんと栄養をつけさせて夏のひどさを乗り切ってもらわなきゃと思っています。


DSCF5587
 
花散らしの庭にあるデウイシタ像。我が家に来てぼちぼち一年になろうとしています。庭のあちらこちらに据えては置き直しの繰り返しで、デウィンタさんもさぞかし落ち着かなかったことでしょうが、昨年秋以来、リキュウバイの下に収まってしまいました。何となくしっくり感じてそのまんまが続いています。収まるべきところに収まる。つまりは「なるようになる」、何やら万事そのように感じるのが人生の成りゆきみたいですね。


DSCF5542

お父上が亡くなった方から忌明けの。家を建てた30歳三代目さんへの新築祝いの内祝いの。それぞれカタログギフトが届いて我が家はにわかに華やいでおります。まるで呉服屋さんが持ってきた反物を広げては喜んでいる細雪のお嬢たちみたい(笑)
選ぶというのはとっても楽しい反面、非常に疲れますね。神経をすり減らしながら品物を選ぶ。つまりは欲深な人間の素のまんまが躊躇なく噴き出ているみたいな。
「兄さん!! もう器の類はやめてくださいよ!! もう我が家に収納場所ないでしょ!! それと訳の分からない使いもしないような物もね」
「へいへい。器、やめまする。食べ物も、やめまする。リゾート温泉利用券も、いりませぬ」
やめまする、いりませぬ。そうやってくると、ほとんど「これぞ!!」というドンピシャが見当たらなくなってきます。頭混乱、取捨選択ゲームにハマっているようなものです。


若だんなの結婚の引き出物もカタログギフトでしたが非常に佳い品ぞろえばかりでした。きっと随分と奮発したようですが、一生の思い出は新郎新婦二人だけにとどまらず招かれた方も大切な思い出になるはずです。その心ばかりのカタチ、お礼の品にケチをしていたらその品物を見るたびに結婚式自体の不満までもが塗り重なってくるものです。現に……という結婚式と引き出物の貧弱さに開いた口が塞がらない体験もしました。大枚包んで料理はバイキングかよ。引き出物はこんな物かよと大いに憤慨した若者の結婚式でした。要は品格ね。すべてに品のないことでした。
人柄が顕著に現れるのが冠婚葬祭とそれにまつらう引き物や季節の挨拶に添える心ばかりの品物。いずれも如何に心がこもっているかいないかということですね。未熟者ではすまされない、これは常識の範疇なんだけどと最近はご同輩が寄って集ってこんな話で盛り上がっています。日々の暮らしの環境や境遇が年齢とともに似てきたということでしょうか。
さてさてそんな神経をすり減らす話よりも品物選び。せっせとカタログのページめくりも激しく行きつ戻りつセレクトに精を出している私です。


今日は海老蔵さんが大分で『古典への誘い』を。昼夜二回の公演らしいです。
昨日から大分入りしている海老さんは今朝などホテル近くのコンビニやファミレスまで散歩したとか。定番のスタイルのサングラスとパーカーと白のTシャツで早朝の大分駅周辺を歩いたのかと思うと、梨園ナンバーワンの家柄のお子の躊躇ない行動に親しみを感じました。
いろいろあったし、奥さんの病気も大変だし、父親の役目もこなさねばならないし。それでも歌舞伎界をけん引する大きな存在へと変わりつつある海老蔵さん。父親の団十郎さんが存命の頃はあまりいい感じのしなかった海老蔵さんでした。今では両肩にあれこれがのしかかって何となくですが可哀想さがを感じているところです。頑張ってほしいです。


 


DSCF2673
■桜に桜羅さん。一面の花絨毯に何だか気取っています■


強い風が吹いた時に一瞬でしたが先が見えないくらいに大量に舞った桜の花びら。とろんとした水の上に浮かんでいたらさぞかし見事な花筏であっただろうなと思いました。数日前まではひと枝ひと枝の先にぽってりとかたまって咲いていた桜の花々。それはまるで歌舞伎の小道具の花錫杖のようでしたが今日のは舞台に舞う桜吹雪。それとも本物の雪が舞う吹雪みたいでした。何万枚もの花びらがまるで絨毯を敷き詰めたように我が家の庭を埋めています。木の下へと真っ直ぐ落下した花びらはまだ幸せな方。あのつむじ風のようだった突風に乗って何処かへ飛んで行った花びらの消息はそれっきりですもんね。人に踏まれるか車の車輪に圧されるか。それともまだまだ遠くへ運ばれたものもあるかもしれません。

家の前の道に花びらの吹き溜まりが出来てひと山ふた山と遊ぶに見事な小道具が。ちょうどご近所の女の子数人がそれを見つけて、両の手いっぱいにすくい取っては宙に向かって投げていました。風も止んでいたので投げた花びらは真下にいる自分にぜんぶハラハラと。そのきれいな遊びに長いこと悦んで続けていました。まるで花祭りですね。女の子と花の風景って可愛らしくて美しいものだなぁとしばらく見つめていました。落ちた花びらも最後にこうやって悦んでもらえて嬉しかったろうななどと思っています。踏まれるよりもよっぽど美しい仕舞い方ですもんね。

この一週間、今年も桜とともに過ごすことができました。ただ今年はあまり見応えがなかったというか、いつもの年に比べたら儚さが際立っていたようにも思っています。きっと開花から満開、そして花散らしまでの時間が短かったからかもしれません。それと今年は花が有る間に我が家にも自分自身にも大きな出来事がなかったから、尚一層花への思い出が薄いのかもしれません。いつもであれば何かしらのことが起きる我が家の桜季ですが。きっと息子たちそれぞれの巣立ちが終わったからかもしれませんね。翻弄も気忙しさも皆無になった我が家です。しかしその平平凡凡こそ実はとても平和で有難いことなんだと今夜はじっくりと感じています。来年からは我が家の桜を落ち着いた心の視座から眺めてみようと思っています。

ただ唯一、今年の桜に思い出があるとすれば先日我が家にお越しの観音様とのコラボでしょうか。我が家に来るまでの時間や距離の長旅のお疲れを花の脇で取ってもらったようなひと時をこしらえることができてこの季節で良かったと思っています。


さて今週はそれぞれの学校などの入学式が行われる一週間になりそうですね。我が家のご近所にも小中高、それぞれの新一年生が誕生します。余所のお子ながらその成長ぶりに目を細める思いです。どのお子も新しい世界で頑張ってもらいたいものだと思っています。そして我が家の若さまも明日から2年生。明日は入学式とかで入部勧誘のヤッサモッサをするとか。一年前とガラリと立場が変わってさぞかし愉快だろうなぁなんて。彼にとってもこの一年間がさらに素敵であるようにと祈っています。




花散らしの雨



























明け方から降った雨が桜の花を随分と散らしてくれました。まさに桜吹雪が吹き終わったあとの賑やかさとちょっと寂しい華やぎであります。私の人生の終いにもこうやって舞う桜の花びらと一緒にあの世へと連れて逝ってもらいたい。見送ってくれる人たちの肩にはらはらと桜の花びらを残して逝きたい……。こればかりは選ぶことの出来ない夢であります。

満開のピークを過ぎて気付いたのですが、盛りを過ぎた桜の花のひとつひとつは時間とともに色鮮やかなピンクに染まっていくのですね。姥桜だなんて失礼千万。最後まで見せ場を用意してくれている生真面目な桜ということでしょうか。こんな色鮮やかな桜の花と向い合ったのもはじめてでした。

きっとこれまでは何気にしか見ていなかった証拠だったのでしょう。今年はさまざまな桜に傾倒した分、よく観察も出来たような思いがしています。

色のことでは咲はじめから満開までの薄い絹のような白は喜びと希望を告げる春の色。散り始めてからの今の色はまるで涙を枯らした赤い瞳の色のように見えて仕方がありません。桜七変化とはいかないまでも桜の三変化くらいかもしれませんね。そして精悍な梅の香とは異なった丸いほのかな桜の香りにも気付かされた今年でした。


雨が降って桜の花びらが地面に舞い落ちてその敷きつめられた風景はまるでハレの日の毛せんのようにも見えます。池があれば水面に浮いて花筏になるのでしょうが、水のない我が家では花毛せんになっています。それはそれでまた名残の桜の風情で美しいことです。

日本人というのはさまざまに季節をくっつけたり、季節にさまざまをくっつけたりしてその奥深さを楽しむのに長けているようですね。それは私のことでしょうねぇ(自画自賛か!!)


奥深いことと言えば若さまが取り組んでいる『楢山節考』。どうやら今日の午後から一気に読み終えたようであります。ふむ、やる時にはしっかりとやってくれるもんだわと安堵しています。

「さてと、課題の目鼻がついたら感想文を書くとしますか。なかなか面白かったけど最後がちょっと難しい。解釈のとりようを変えてみようかなぁ」

「あのね。あのね。親を山奥に捨てるなんてひどい時代だったもんだねぇ」

「確かに!! 口減らしという観点から言うと大変に理論的ではある。しかし天命や寿命を待つということまで間口を広げて考えてみるならば、食べることに貧しい時代だったあの頃に早晩やって来る親の死を子が仲立ちするのはちょっとね。今の時代であれば親殺しの大犯罪なんだよね。つまり自然淘汰に逆らっている節もある。山の神への生贄のような感じもするし……」

「あ〜〜もう、ややこしい!! だからあんたはあの姥捨て山の風習をどうとらえたの??」

「風習というよりも親の覚悟と子の未練と贖罪かなぁ。それと逆らうことの出来ない悪弊」

そんなことを話していたら急に頭が痛くなったので中止にしました。理論的だの自然淘汰だのよりももそっと奥深い何かを見つけることは出来なかったのか。この続きはきっと感想文完成の暁に再燃するのではないかと踏んでおります。パンダ高校はこうやって堅物をこしらえていくようです。柔軟な私の脳みそには相まみえることの出来かねる金物のような面白味と味気の無さであります。


今日は新歌舞伎座のこけら落としでした。存命であればと指折り数える役者さんが何人いることか。立派になった舞台と建物に思いはあれこれと巡りますが、亡き人たちの遺志や芸の力、日本の伝統文化を損ねることなく歌舞伎と歌舞伎座が発展することを祈っています。



 

このページのトップヘ