2020年01月03日

帰省という文化


 年末年始になると帰省客のために新幹線や高速道路が混雑する。少なくとも「帰省」するという文化が存在するということは、帰るべき故郷があり、そこに両親や一族が存在するということなのだが、このような文化はいつまで継続するのだろうか。

 オレはもう帰るべき田舎を持たない。父の実家はクルマで30分くらいのところにあるが、その当主である従兄弟に別に会いに行く予定もないし、母の実家のあった鹿児島県の坊津なんてもう家もなくなって荒れ果てている。中学生の頃は夏休みに帰省して海で遊んだりして過ごしたものだが、最後に坊津に行ったのは高校生の頃だろうか。

 むしろ我が家が家を出た息子たちが帰ってくる場所となっている。1月1日から4日まで、今働いている埼玉から帰ってきた次男が滞在していたのである。

 民族大移動とでも言うべき大渋滞が東名や名神で発生し、新幹線の自由席の乗車率が150%くらいになるというのは利用者にとってはかなりの苦しみをもたらすわけだが、上手に混雑を避けて移動すればいいわけで、昔よりもそうした混雑はかなり緩和されてるのかも知れない。それよりもオレが関心を持つのは「帰る」というその行動の意味なのである。人はなぜ田舎に帰る必要があるのだろうか。帰りたいと思うのだろうか。

 今、田舎には働く場所がない。若者がほとんどいなくなって、大きな家に老人だげが住んでいるというのが普通で、それは田舎には若者の働けるような場所がないからなんだが、その老人も死んでしまうとあとは空き家になる。そうなると廃墟になるだけである。

 田舎に帰るべき場所が存在するということは、昔はセフティネットの一つだった。失業したり、離婚したりして生活が困窮した場合は田舎に帰ればよかったのである。公的扶助に頼らない血族間の相互扶助のような仕組みが存在したし、田舎には小さな子の面倒をみてくれる親がいたわけで、出戻り娘を受け入れてくれる環境が存在した。今、離婚して養育費をもらえずに苦しむ親が多数存在し、それを生活保護などの仕組みでカバーすることが昔に比べてよいことなのかどうかオレにはわからない。

 我々の生活が失ってしまったものを、公的な制度が完全にカバーすることは無理だ。しかし生活はどんどん変化していく。帰るべき田舎の家はどんどんなくなっていくし、血族間のつながりも薄れていく。昔は葬式といえばかなり遠い親戚まで集まったものだが、今は家族葬が主流となってしまった。そうしてどんどんつながりは失われ、自分の親族にどういう人がいるのかわからなくなっていく。そうした親族間のつながりを拒否したり面倒だと感じている人も多い。

 我々がいつのまにか失ってしまったものは、後から手に入れようとしてももはや不可能なことが多い。この年末年始の民族大移動という習慣ももしかしたら50年後にはなくなってるのかも知れないし、あるいは日本人の構成が劇的に変わってそのルーツが海外居住者になってしまった時、新たな帰省文化が生まれるのかも知れない。

 孫たちが次々と実家に帰ってきて、おじいちゃんおばあちゃんがニコニコしてお年玉を渡すという幸福な状況はいつまで見られるのだろうか。お正月を田舎で過ごすという日本の習慣はいつまで存続するのだろうか。



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コメント一欄

1. Posted by 手ぬぐい親父   2020年01月04日 19:42
 まだ名残惜しさもある故郷に、ケツを向けてUターンする人々の群れは本日(1/4)あたりがピークか。明日1日休んで明後日が仕事始め。年末年始の交通の混雑や渋滞の中、故郷への帰省も楽ではない。東京で学生の頃の当方も、この民族大移動の表現者だった。通路やデッキにまで人の溢れた満員御礼の帰省列車で、足腰も随分と鍛えられたのかも。

 上野発の夜行列車に限らず、日中の列車も指定席の確保が難しく立席の時代。高速の東北新幹線などなく、長時間の直立不動の苦行を強いられた。何度か苦行を重ねた末に、新潟行きの最終夜行臨時急行なら座って行けるのを発見。目的地の秋田までの運賃は変わらないが、新潟から秋田までの急行料が別途で少し割高。それでも苦行がないのは納得モノ。

 午前零時前後に上野駅を出発した臨時急行列車は、夜遅くに谷川岳の清水トンネルを通る。国境の長いトンネルを抜けると雪国だった 夜の底が白くなった・・・川端康成の小説「雪国」の光景が、鮮やかに窓越しに広がったのを覚えている。上越線経由の帰省も悪くはないと思った。上越新幹線や関越自動車道の現代も、この光景は変わらないのだろうか。「文学の香り漂う帰省」ならば、帰省の苦労やイヤラシさも少しは緩和されたりして・・・。 
2. Posted by 利根   2020年01月06日 18:20
私も上京してからは年末年始はいつも上野駅から夜行の急行列車で帰省していました。指定席などあったかどうかも覚えていませんで基本早くに並んで席の確保をしていました。ある年の暮れ隣に若い女性が座ったので話しかけたら私と同じ集団就職だとかで、なんとなく話が合い楽しい時を過ごすことができました。連絡先を聞き手紙を出したのですが返事も来ずそれっきりで終わりました。あのとき返事が来ていればそしてもし交際できて結婚でもしていたら人生は大きく違っていただろろうなと、この時期になると思い出します。
3. Posted by 手ぬぐい親父   2020年01月07日 00:28
 昭和の時代は夜行の急行列車が多く、寝台車両も連結されていた。夜行の方が日中の急行より、乗客は幾分少なかったようだ。年末年始の寝台は簡単には取れなかった。長距離の夜行列車は新幹線が開通し、徐々に数を減らし今では時刻表にないのかも。

 当地(秋田)の土崎車両区には、過去に上野〜青森を走行した寝台特急「あけぼの」の車両が置かれているが、風雨に晒されて老朽化している。闇夜の吹雪の中を疾走する長距離夜行列車の勇姿が、もう見られないのは寂しい気がする。列車の窓明かりに照らされた雪は、旅する人の心を詩情豊かにした。

 夜行列車の隣席の異性との会話や出会いも、仰せのように何か記憶に残ったりもする。夜の静寂(しじま)と緩やかな列車の走行音が、シトビトをそのように誘うのか。若かりし頃の当方にも、そのような経験があった・・・のかどうか。凡庸な時の流れに身を任せて生きている今、そんなことは忘れてしまった、と言っておくのが無難だったりして。
4. Posted by 江草乗   2020年01月07日 09:31
利根さんにはそんな素敵な思い出があったんですね。
 私が小学生の頃に使った社会科の教科書には
集団就職や、大阪の船上生活者のことが書かれてました。万博の時にそうした船は一掃されてしまいましたけど、映画「泥の河」を私の父がとてもなつかしそうに観ていたことを思い出します。あの作品世界は父の子供の頃の思い出につながるものでした。
集団就職はいつまであったんでしょうね。

 夜行列車というのは貧乏な学生にとってとても便利で、自転車を分解して輪行袋に入れて、急行八甲田で青森について、そこから十和田湖方面に走り出したのは私が大学3回生の夏でした。

 手ぬぐい親父さん、夜行列車そのものが今はほぼ絶滅種になってしまいましたね。夜行バスとの価格競争に勝てないし。

5. Posted by 利根   2020年01月08日 01:48
 夜行バスに自転車積めると良いのですが。なぜか自転車は禁止で乗せてくれないんですよね。輪行袋に入れても、折りたたみのコンパクトタイプでもダメなんです。

 京都なんかは自転車で観光できると効率も良いのですが残念です。現地でレンタサイクル借りたことありますが普段は10キロくらいのMTBに乗っているので20キロ近いママチャリでダラダラ坂上がるのにメチャ疲れました。
6. Posted by 江草乗   2020年01月08日 06:48
利根さん
確かに京都の坂をママチャリはつらいです。
今はレンタサイクルに電動アシストバイクがあるので
かなり楽になってるかと思いますよ。

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