Dreaming and ArtLife〜ドリーミングとアートライフ

聖なるガイドの授業。癒しの先にある新しい意識の状態。そして情報とエネルギーと意識のドリーミング(Dreaming)という謎。

2016年09月

ドリーミングの観察:多次元ホログラム構造

オーラ、ホログラム、ドリーミングの多次元構造

ドリーミングは光の粒々として見えますが、光の粒々一つ一つはただの色のついた光ではありません。そこに何らかの情報があります。

光の粒一つに意識を向けると、それは箱が開けられたように、波紋が広がっていくように情報が開示されていきます。これは意識に直接送られてくる情報のようなもので、受け取った瞬間に分かります。しかし、言語化して人に伝えるには多くの時間が必要なくらい情報量も多いです。

どうやらドリーミングというのは多次元構造であって、一つの光の粒であってもそこに多くの情報が詰まっているようです。時間を超えてつながる情報のようなもので、過去も未来もそこに含まれているようです。

過去も未来も違う次元が無数につながっているけれど、意識はその間を自由に行き来できるようです。そして未来は意志による選択で変わって行くようです。そのことで未来は不確定であるように思えもします。

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ドリーミングの観察:光の粒々

オーラ、ドリーミングの姿

ドリーミングはただの色の光ではない。よく観察してみると、とても小さな色の光の粒々に見える。それはまるでスーラの点描画をもっともっと細かくしたような感じである。

光の粒々は視野いっぱいに広がっている。遠い、近い、大きい、小さいといったものはなく、隙間もない。オーラの大きさのことを言っている人がいるが、それはこの光の粒々の大きさのことではなく、同じ属性を持つ粒々の集合場のことであろう。

例えば、テレビの画面に映っている映像では遠いとか近いとか認知できているが、本当はテレビの画面は平面でRGBの光の粒でできているというのと同じである。しかしテレビの画素よりもドリーミングはもっと細かい。そしてRGBでもない。

あまりにも小さいので形は丸なのか四角なのか分からない光の点である。

その光の粒々自体が動いているのか、それとも電光掲示板の電球のように光だけが動いているのかはよく分からないが、直感としては粒々は動いていないのではないかと思う。でもあまりに小さい粒々だし、触れないので本当のことは分からない。

物理学では光というのは電磁波であって、電磁波には波の性質と粒の性質があるという。これは電光掲示板の考えで捉えてみると簡単に理解できることだと私は考えている。

じつは粒は敷き詰められていて動いていない。そこに動いているように見えるのはエネルギーの波だけである。電球に触ろうとすればそれは“粒”として観測され、エネルギーを捉えようとすればそれは“波”として観測されるというだけである。

そこに見えているのはエネルギーだけであって、流れているエネルギーは波として観測され、パターン化したエネルギーの集まりは物質として捉えられ、エネルギーの引き合いのようなものは重力として捉えられているにすぎないのだろう。そして真空にはぎっしりと敷き詰められた明かりが灯っていない粒々だけがあるのだ。

人はとにかく観測というものを客観的に捉えすぎるところがあるのかもしれない。目を閉じていて見えていなくても、一度目にした机の上のコップは“在る”と信じているのだ。観測しようがしまいが物質はそこに存在するという思い込みである。でも、本当にそうなのだろうか?

物理学者もその疑問を持ち始めているようだ。そのことをあえて表現するために「観測者効果」と表現してもいる。観測するのでそう見えるのかもしれない。そして、観測していなければ未知のままなのかもしれない。もしかすると、観測した時に過去も現在も一緒に作られているのではないだろうか?

粒々は動かない、ただ在るだけである。人が“見て”いるのはエネルギーのその時の姿であり、しかもそれは客観的なものではなく、自分の脳で作り出したイメージに過ぎないのだろう。

物質はエネルギーのパターンだけで実在していないと考えるなら、ボース粒子がフェルミ粒子に影響を与えるように見えたとしてもおかしくない。

ドリーミングは物理学ではまだ分からない。私の頭の中で作られているのか、それとも本当にそこにそのようにあるのかを知ることはできない。

私がどう考えていても、ここに見えているのは変わりない光の粒々である。

深瀬 啓介
●ドリーミング・セラピー ≫http://www.pmcv.pw/

ドリーミングに学ぶ:植物のドリーミング

Green Planet Cafe グリーンプラネットカフェの植物のドリーミング

地下鉄東西線の大町西公園駅が近くには、美味しい野菜が沢山食べられる植物園のようなカフェ
『Green Planet Cafe グリーンプラネットカフェ』がある。

そこでドリーミングをスケッチしてみた。店内で色を塗るのはちょっと大げさな感じがするのでよく観察して映像を記憶する

ドリーミングは形や文字や数字より簡単に記憶しやすい。
メロディーを思い出そうとする感覚に近い。
忘れてしまうこともあるが、感覚的な、抽象的な、映像の記憶である。

今日の店内の植物はとても元気…というか、はしゃいでいるようなメラメラ感だった。
色が爆発している感じである。きっと雨で湿気が多いのだろう。

植物は雨の日にはしゃぐ。良くも悪くもはしゃぐ。
以前、HB101という液体を母にもらって植物にあげた時の植物のはしゃぎようは凄かった。
ゴールデンボンバーが家に来るよりうるさいかもしれない!!

いつも彼らは恨みをもったりしないのが不思議に思う。
踏まれても、枯れても、彼らは怒らない。悲しみや寂しさや欲求はあるようだが、人とは違う。

人がハサミを持って近づいても特になにも変わらないが、「切ろう」と意識を向けた途端、いやその数秒前からすでに何かを感じているようではある。

彼らも防衛をする時はする。でも、それはそういう仕組みのようなもので、怒りや恨みなんかではない。
私も完全にそうはなれないけれど、見習おうと思っている…
でも、怒りや憎しみがあるのが人のようだ、それはそれで観察の対象となるだけだ。

ドリーミングは幻なのだろうが、私に必要なたくさんのことをを教えてくれているように思う。

グリーンプラネットカフェはいつも素敵なドリーミングで包まれている。
オーナーには植物に対する興味や愛情があるのだろう。

深瀬 啓介
●ドリーミング・セラピー ≫http://www.pmcv.pw/

ドリーミングへのアクセス:細かく観察する

ドリーミングへのアクセス

知り合いの男性のヨガの先生とお会いした時、初めて逆立ちのポーズを生で見ることが出来た。

私はヨガにはなってでないが、昔真似をしたことある。あの時は力技で、呼吸は完全に止まっていた。

先生のポーズはもっとしなやかで、呼吸も出来ていて、ゆったりとした動きで、重力を感じさせない。

印象に残ったのは、赤いオーロラの中に強いオレンジ色の層が重なったメラメラと立ち登る、身体を取り巻いているドリーミングだった。

胸からはシアン系の薄い青と黄緑色のグラデーションがメラメラしていた。先生の周りにはメラメラとしたものの破片のような小さなドリーミングがあったが、これらにはそれほど重要な情報はない感じだった。

一人の人のドリーミングを細かく描いてみた。たぶん、あの赤の中のオレンジ色にアクセスすると、何か重要なものが見れるかも知れないと思う。

ドリーミングには観察する人とそれを身にまとっている人に共通する、今必要な重要な情報というのが出てくる特性があるようだ。つまり、これは観察者によって変わるのだろうが、私は私以外の観察者になったことがないので正しくはわからない。

共時性(シンクロニシティ)というなら、そうなのかもしれない。相手と私の出会いは意味のある偶然の一致、いや必然の一致なのだと考える。そう考える根拠は、ドリーミングがお互いを引き合い、からまり合い、混ざり合い、情報交流をしているからである。

その場にいる誰もが、無意識的にドリーミングをつなげている。そのこに意識的に気づいている者もいるのか、強く結び付く者とは目が合うことがある。

逆に目があって何かピンとくるなら、その者とは何か共通のテーマがあるのか、補完しあえる関係になるのか、学びに適した相手なのか、とりあえず何か意味があるのだと考えて良いだろう。

深瀬 啓介
●ドリーミング・セラピー ≫http://www.pmcv.pw/

ドリーミングへのアクセス

ドリーミングへのアクセス

情報とエネルギーが一つであるドリーミング。これは宇宙を構成している要素であり、私たちの身体もこれでできている。

気やオーラという言葉を使わなかったのは、それらが「身体から出ているエネルギー」という意味が強いからである。

情報とエネルギーは一つであり、身体そのもの、物質そのもの、細かく言えば素粒子そのものを構成していて、さらにオーラのように身体や物のまわりにもあり、磁気のように空間を流れてもいる。

ドリーミングはオーロラのように光のカーテンや、光の線のようにも見えるし、光の層や光の霧のような塊にも見える。

そのドリーミングに意識を向けると、カーテンが開くように新しい層?が出てくる。その層は机の引き出しみたいなもので、私にさまざまなイメージを与えてくれる。このことを私は「アクセス」と言っている。インターネットのサイトにアクセスするのに近いからだ。

アクセスで得られるイメージは映像だけではない。音や匂いや温度、感情などもある。これは頭に浮かぶイメージというのとはちょっと違うもので、薄い白昼夢を見ているような感じでもある。

小さい頃、宮城県美術館で見たカンディンスキーの絵には音があった。音楽とまではいかないが、「ポーン」という木琴のような音や、「キーン」という鉄琴の音、複雑な響きのヴァイオリンのような音もあった。

ドリーミングの層は幾重にも重なっているようで、深くまでアクセスすると眠くなる。無意識に引っ張られるのだ。

ドリーミングにアクセスするとどうなるのか、それを簡単に描いてみた。

この人は全く知らない人である。ドリーミングは沢山あるので、今日のこの人のいちばん入りやすいものにアクセスしてみた。

そこには明るい光が差し込んでくる窓辺で食事をしている家族のような人たちの映像があった。窓からの光がとても柔らかくて、澄んでいて、長閑な朝の食卓みたいな感じである。

この人の今のテーマは“平和な団欒”?、そしてこの人をそこへサポートする色は“ペールオレンジ”、とても明るいオレンジ色である。もしかすると、家族と離れているのかもしれない。もしかすると、これはこの人の未来なのかもしれない。悲しい感じはなかったが、寂しい感じはあった。

もっと層があるようで、どんどん深くまでたどっていくと、そこに物語が展開し、様々な“シンボル”も現れてくる。


表現として“シンボル”とつかったが、客観的に観察できるような色や形という“シンボル”ではなく、ドリーミングにおける“シンボル”は直接ハートに伝わってくる信号の塊のようなもので、受け取った瞬間に知る。しかしそれをすぐに言葉にできないという意味での“シンボル”である。

深瀬 啓介
●ドリーミング・セラピー ≫http://www.pmcv.pw/