2005年02月

2005年02月25日

携帯ストラップ(鞄教室 二回目)

329cc9ec.jpg2月17日(木)を初回に、
毎週水曜日、鞄教室の講習を受けはじめる。


一回目は、革の切り方と、ミシンの扱い方、
それに革の漉(す)き方の練習。

皮切り刀と糸切りバサミを贈呈され、
そのキャップを作る。


今週23日(水)の二回目では、
携帯のストラップ作り。

実際には、革を切り、薄く漉き、
ゴム糊で貼り付けてから刻印を押し、

革の側面に、バスコという
ニスの様な白い液体を塗り、

それからはじめて縫い始め、
最後に金具で輪を作りとめて出来上がり。


講習では、既に革は、
切り、漉き、貼り付けてあり、

バスコを塗ってから、
ミシンで縫って金具で止める作業をする。

体験と練習をかねて、
ゴム糊での革の貼り付けをして、
ミシン縫いを始めてみる。


それがなかなか難しい。

革の端の丸いカーブは、慣れていないので、
一目ずつ縫う毎に、革を回転させていく。

大概、一度に二目縫ってしまったり、
見当違いで、綺麗に丸く縫えない。


教えてくれる若き職人さんは、
さすがに手馴れた手つきで裁いてしまう。

それでもはじめての素人には、
単にミシンで縫えてだけでも、大喜び。

子どもの時と変わらぬ充実感を味わう。


お店では、一つ1,680円で、
実際に売られております。

(それを5本も作らせて貰えたので、8,400円分!
……いやいや、この腕前では、アウトレットにもならないでしょう)

ストラップ一つに、少々高値に感じますが、
実際にこうして製作を体験すると、

これだけの手間と材料ならば、
納得できてくるものです。

こうした経験によって新たに知る事が、
体験学習の醍醐味でありましょう。


ミシンの一縫いにも、職人の手の温もりを、
じんわりと、想像させられます。

それでも、趣味の人と職の人、
その差は、覚悟も腕前も、歴然たるもの。


体験してはじめてわかるもの。

学びの多い、鞄教室であります。



追記:

鞄工房土屋:楽天市場店
http://www.rakuten.ne.jp/gold/takuminowaza/Ippan/top.html



extudes at 16:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 鞄工房土屋 

2005年02月24日

夢着

eeeccfaa.GIF夢の中で、子どもの様な姿で、
こんな風な着物を纏っていました。

extudes at 17:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

主題性と非主題性

 
 
歴史は事象の主題化である。

歴史は変化への意識(主題化)によって生じる。

戦争は名づけられる事で、歴史の一歩を踏み出す。

当事者亡き時代にこそ、歴史は成り立つ。

歴史の現場を経験したものが生きている限り、
その事象は歴史として成り立たない。


歴史は事象の一部分を
浮かび上がらせる事で主題化される。

しかしその一方で、
その大部分は切り棄てられ、忘却される。


歴史と成る事は、忘れられる事でもある。

歴史は一種の風化である。


歴史は事象の標本化である。

そこにおいて、当時の経験は死滅せられている。

その当時の人々の生き生きとした鮮やかさ。
――歴史は真っ先に、こうした純粋な経験を切り棄てる。


歴史として主題化する事で、新たに解する事もある。
しかし、歴史として割り切っては未だならぬ事態がある。

正に自らその内に在る時から、
事象を歴史として主題化するのは難しい。

近い歴史、未成熟な歴史こそ、
忘却と記憶が入り乱れ、様々な問題を孕む。


経験は過ぎ去る事で、
歴史としての始まりを歩みだす。

歴史の多くの切り棄てられて部分は、
想像力が補完する。

その補完された歴史は、
記憶として本人の内に留められる。


時間は現在の軌跡である。

刻々と刻まされる現在は、
意識によって主題化される事で、
記憶として留められ、一種の歴史となる。

しかしそこには、
経験した本人の想像力が宿っている。

(意識せずとも、留められる記憶がある)


記憶は一種の想像力である。

記憶と歴史の違いは、想像力の有無である。

経験によって生じる想像力と、
それによって為される補完。

実際に経験しなかった歴史も、
想像力によって、記憶として留められる。

記憶の鮮やかさ――、
それは経験と想像力の賜物である。


一過性の価値とは、経験の純粋性にある。

経験そのものは、留められない。

想像力によって補完されたものは、
嘗ての経験そのものではない。




経験は、非主題的である。


表現、言語、存在、対象、知識、概念、客体。

これらは皆、主題的である。


私、生、世界、神、主体。

これらは皆、経験であり、非主題的である。




意識には、主題性と非主題性の両面がある。


非主題的な意識があるはずである。


経験は意識の内である。


経験の全てが、非主題的とは限らない。


非主題的な表現もまた、ありえる。


生はまた、一種の表現である。
 
 
 
                             個人的な手帖 より
 
 

extudes at 16:03|PermalinkComments(3)TrackBack(0) 考察(問い) 

2005年02月08日

苦い思い出

 
 
  珈琲は、西洋の抹茶である。
 
 
 

extudes at 15:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)