船津口登山道の由緒書き その1
中世に修験道が栄えた道程
西暦864年青木ヶ原樹海を形成させた富士山北側斜面、長尾山の火山の溶岩噴出はセノ湖を分断し本栖湖と精進湖を形成した。この天災地変に対し朝廷は占いを行い、その結果、駿河浅間神社(現、富士山本宮浅間大社)神職の祭祈怠慢によるものとされ、駿河国同様に甲斐国司にも奉幣解謝が命じた。これにより八代郡に浅間明神(アサマミョウジン)が祀られた。その地が河口浅間(アサマ)神社です。
(注:アサマとはアイヌ言葉であり、漢字が導入される前の在来の言葉です。)
(注:アサマとはアイヌ言葉であり、漢字が導入される前の在来の言葉です。)
浅間の神をお祭りした(里宮)神社から頂上に向けて登拝に移ることは自然の理で、霊山の入り口や山麓の河川や湖沼(河口浅間神社の場合は河口湖の船津の畳岩)で心身を清めてから最短距離で直接富士山頂上を目指す道が開かれて行きました。神社で遙拝する時代から登拝する時代に移りました。
(注:中世とは武士の時代で戦国末期まで。江戸時代は近世。)
中世の時代、その信仰は修験道であり、山伏と呼ばれ山岳で修業する宗教者が富士山麓や富士山に滞在する修行の場です。わかりやすく、その姿を外見で表現すれば、現在も天台宗や真言宗と習合した吉野熊野の奥駆けの荒行の姿と類似しています。
一方、富士吉田口登山道は江戸時代に富士講集団により多く利用されますが、吉田口の登山道の起点となる北口本宮浅間(せんげん)神社は、元々あった諏訪の杜の地域内に1541年(天文10年)浅間明神(神社)が勧進され、武田信玄の永禄年代にかけて社殿を整備されて行ったと推定されています。元々あった諏訪神社の境内に割り込んで来たものです。それまでは下吉田に小室浅間神社として起点がありましたが、何時の時代から、何故その地に祀られ、どのような経緯で社殿が祀られたか等、つまびらかになっていません。そして何らかの理由で現在の上吉田に引っ越しをして来ました。そして登拝者を迎え入れる御師街が整備され充実して行きます。
この上吉田口の繁栄は1550年代の富士講の元祖角行の時代から隆盛を開始して江戸時代に入り富士講という観光旅行業システムの確立により大衆社会の旅行団体を受け入れました。白い装束を身にまとった「死に装束」の姿で来世の世界である富士山火口を覗き、来世に幸福な世界に入れるように祈願すると共に、来世体験(死)からの生還即ち再生の体験学習をしました。現生御利益の分かり易い富士講の売りの部分です。
江戸時代は身分社会であって封建社会の構成秩序は儒教であり、差別が強かった。
富士講の精神的な中興の祖、身禄は男女の平等、士農工商の身分の平等思想を唱えます。富士山詣では全ての人に機会均等に与えられるものであり、等しく来世の幸福を約束されるものであると。この平等思想は封建社会を支えている幕府体制に抵触する思想であり、幕府から何度も禁止令や制限が出されます。(例えば女性は頂上まで登れない。)
平等思想に裏打ちされた富士山詣では、旅行ブーム例えば伊勢参りや、四国霊場三十三カ所巡り、善光寺参り、各所の観音霊場巡り等と相まって、全ての階層の庶民に共感を得て富士山の見える江戸を含む関東平野からの登山が増えました。
しかし、信仰を伴うとは言え、物見遊山であることには変わりなく経費が掛かります御師、浅間神社、山道の茶店や石室の宿舎への支払い。通行料金(山役銭)、宗教的な行事へのお賽銭等。登山の繁栄の裏には旅行客から地元の富士山関係者に対するお金の流れがあります。お金の流れは地域経済の繁栄をもたらします。静岡県側を含めた各登山口間の競争は経済性を追及したものでした。
このことに依り富士山詣客から関係者に対する評価は悪く「富士山泥棒」との異名が付けられるほど問題がありました。何度も自粛策を採りますが過度の金銭の追及は精神性を蝕む事になりました。 (Oo)
(以下、10月号に続く)