山梨・山の会 随想録

山に関すること、そうでないこと、 『山梨・山の会』会員が綴ります。 どうぞお付き合いください。

錦踏む

 「燃えかすの始末もできんもんを買うてどうするの」
 ベトナム旅行中のわたしの姉がベトナムの若いガイドさんに返した一言。原発のこと。
 「まだ停電のあるベトナム。いま原子力発電は必要です」と案内されたらしい。
 直截な言い方は姉のいつものこと。広島、長崎、福島のつぎに「ベトナム」、これに黙っていられなかったようだ。
 危険極まるものを手に入れようとしている友人に直截な忠告をするのは真の友情。「あなたの決めることですが…」という前置きはいらない。
 アメリカのばらまいた枯れ葉剤や戦争の被害がなおつづく国に“被曝”の新たな禍ちをもちこんではならない。
 この原発売り込みも、日本での再稼働、推進の動きも国家独占資本に肥え太った勢力の戦略にほかならない。ことは深刻である。

 姉様の自在に遠く豆をむく

 この話、姉の旅に同行したわたしの古い友人からの便りで知った。その便りの文をかみしめながら、わたしは小豆をむく。
 四年前にもベトナムに旅し、そして今回。「発展、発展で大忙し」のベトナムの姿を目のあたりにした友人は釈然としなかったとつけ加えている。
 なお読み返し豆をむく。句は拙作。
 その“にわか百姓”の豆、ことしは小豆はまずまずだが大豆の実入りはよくない。草取り、手入れもしないことはさておいて、「このご時世だからな」とつぶやく。
    ※
 「小紋のようだわ」
 林道に散り敷いた落葉を踏むのをためらいつつつれあいがつぶやく。
 錦を踏む。そんな思いの散歩である。
 御正体山の二合目ほどのわが小舎のあたりに、まさに秋がとどまってくれている。
 「まだ来ないようだな」
 村の婆たちが畑に入れる落葉かきにくるころなのだが、まだ現われない。
 嫁さんに軽トラックを出させて、袋につめた落葉を満載していくのだ。婆たち、ことしも元気か。
 間伐材活用のため村が開いた新しい林道。杉と桧の林を三百メートルほど歩けば、雑木林。
 沢に落ちこむような斜面が鮮やかな装い。「あんなところに目薬の木が...」と発見がうれしい。
 村の温泉は改修で休業中。薪を燃料にして来春には営業再開する。
 その間伐材を活用するためとりくみも進んでいる。杉林に日差しがまぶしい。
 先月、熊野古道を旅した。頂稜まで杉の植林の山、水害のすさまじさをみてきた。くらべて道志は山こそ小さいが自然林も多く混在する。
 この村、まだまだ山も元気である。

山の随想あれこれ(その十二)

『山裾の集落のはなし』

 なにかの拍子に、かつて登った山々の回想にふけることがある。そこで先ず思い浮かぶ情景は、目指した山頂かと思うと必ずしもそうではない。
 それは、汗と鼓動にあえぐ鬱蒼とした針葉樹林帯や、口づけして飲んだ清冽な沢の流れ、また忽然と現われた可憐なカタクリの群落だったりする。
 あるいはまた、登山口が不明瞭でまごついたことや、その時何気なく交わした村人とのやりとりなど麓の出来事のこともある。
 山歩きとは、どうやら山裾から山頂まで、すべて公平に強い心象映像を残してくれるようだ。

 山裾といえば、ここ三十年くらい前から急速に山懐深く延びた目的不明ともいえる林道と、高性能のRV車によって、山裾の集落などは車窓から眺めるだけのことが多くなった。
 おかげさまで、私のような筋力や心肺機能が衰えた年寄りも、なんとかそこそこの山歩きができる。
 それはそれでまことに有り難いのだが、かつての不便きわまる登山口までのアプローチを思いだすと隔世の感がある。

 昭和三十一年、有名な経済白書「もはや戦後ではない」が発表されると、同年、日本ヒマラヤ登山隊のマナスル初登頂も重なって、空前の登山ブームが始まった。
 全国のバス会社は人気の高い山奥ぎりぎりまで路線を延長し、日本中で山小屋建設の槌音が絶えることはなかった。
 それ以前の昭和二十年代はどうであったか。たとえば甲斐駒の場合、夜行列車で日野春駅下車、懐電たよりに七里岩を下って、竹宇駒ヶ岳神社から黒戸越えが当り前だった。
 一事が万事この調子だったが、なにせマイカーなど夢想もしなかった貧しい時代。登山口にある最後の集落までたどり着くのに数時間もかかったことも珍しくなかったのである。

 こうしてようやくたどり着いた最後の集落を抜けると、村はずれの氏神様の境内などで一息入れた。
 さぁ、これから山に入る。街暮らしとは何日かお別れだ。
 そこは屋根の下で布団に風呂といった日常と、粗末なテントに寝袋といった非日常の世界である山とが分かれる関所だった。

 下山の時も同様である。暮色が漂い始めると決まって啼き出すヨタカやコノハズクに追い立てられるように重い足取りで通り抜ける集落。
 かまどの煙に障子ごしの人影、あぁ、ここにも人の暮らしがある。そして、ここで「山」は終わったのだという達成感と安堵感に、いつも山への別れの感傷的な気分が重なってしまうのであった。

 麓の集落には、長い時の流れを超えて厳しい自然と関わってきた先祖代々の住いと文化や風俗に田畑がある。さらに山は畏敬と恵みをもたらす大切なもの。
 廃屋がめだち、ひっそり暮らしている過疎の部落。お礼の言葉をつぶやきながら通り過ぎようといつも思っている。

2011年12月の表紙

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篠井山 明源の滝

山伏 西日影沢コース

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私の山梨百名山99座目の山伏(やんぶし)、早川町からの林道が閉鎖中なので、静岡県の梅が島温泉からの「麓からの登山」になりました。
温泉手前、新田集落を左折、川に沿って進み、別荘地に入ることなく川沿いの工事用悪路を直進すれば駐車場。
5分ほど歩き、沈下橋を渡るとすぐに西日影沢登山道です。15分ほど歩いて沢に下り、その後、巨石まで3回の渡渉がありますが、台風で沢は荒れており、橋は全て壊れていたので、水量のある沢を渡るのに苦労しました。
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巨石を過ぎると蓬峠への急登になります。ここも崩落や土砂の押し出しで道は寸断。放っておくとこの道は使えなくなりそうです。
蓬峠では大谷嶺や大谷崩れを展望、その後は気持ちの良い登山道が山頂まで続きます。やがて縦走路に合流すると幅の広い明るい道となり、笹原の山頂まで15分あまりルンルン歩き。
山頂からは南アルプスの大展望が広がります。鹿の食害からヤナギランを保護する柵がめぐらしてありました。
下りも蓬峠からは慎重に下り、8時間あまりの行程を終えました。沢歩きなどオプションがたくさんついた飽きない登山になりました。  (Ki)
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きのこ探す

枝沢にそって少し登る。小沢を渡る。
 いつもなら、ほいっと降りられる岸が大雨でえぐられ崖になっている。足場を確かめ木の根をつかんで渡る。 イノシシのヌタ場の脇をのぼる。「ゆうべも来たようだナ」。大小の足跡が縦横、湿った土が掘り返されている。杉林のゆるやかな坂をつめると、林道の奥に出る。
 ここからは林道をゆるゆると下る。いつもなら湿地茸がみごとな頭をならべてむかえてくれる。たのしみつつ下りきれば小さな籠はいっぱいになるのだが…。
 「ことしは変だわ」
 草群を分けながらつれあいがつぶやく。やっと汁に入れるほど採れる。
 それでもたのしいゆるやかな森の散策。
 欅の葉が色づきはじめ、重々と盛りあがっていた夏山も秋の兆しが早い。すでに散り敷いている朴の葉をふんで角をまがる。
 「山河汚染か」
 あるきつつ思いは、一点に戻る。
 地震、津波、原発崩壊からこの国の人たちは先のみえない重い日々のなかにいる。
 原発汚染のニュース報道の地名は東京、千葉、神奈川、静岡と広がる。
 東京・世田谷では測定運動から新たな現実も浮かぶ。ラジウム、ラドン、さまざまに一般に放射性物質が出回っている実態。それを規制する法律はこの国にはないという。
 “除染”がだんだん声高になる。子どもたちにかかわる学校、保育所、公園などはともかく除染することだ。
 しかし、この国の密集市街地、広大な山林原野、食糧の生産現場の田畑。考えるほどに気が遠くなる。
 “除染”、安心という構図はことの核心を脇に押しやってしまう。ただでさえ“専門家”のなかに「さわぎすぎ」という向きさえ出はじめている昨今なのだ。
 原子炉はこわれたまま実態さえ不明。いまを正確に知ること、そこから“安心”だけを求めるのではなく、なにをやるかをみつけること。人々は“覚悟”すべき時代か。
 原発汚染物質を東京電力本社はじめ敷地に運び、責任をとって頂くというのは“夢”か。
 思いつつ、足元の湿地茸をたしかめるのもつい忘れ林道を下りきる。つれあいはすでによほど先を歩いている。

  悠揚と秋に入るなり山の村

 「山河怒る、か」
 二度の大雨で激変した沢をたどる。沢水使用の水道設備もとばされて、村の水道屋さんにご苦労願った。その見回りである。
 岩魚にあえた渕もうまり、岸の木が何本も倒れこんでいる。それでも大雨がえぐった新しい沢筋を水は走り下っている。
 時をかけて、岩魚の戻るいい流れをつくってくれそうである。句は拙句。

山の随想あれこれ(その十一)

  『続・湯村山と愛宕山』

 ところで愛宕山は私の少年時代の思い出深い山である。
 戦時中の昭和十八年四月、浦和から甲府の穴切国民学校(小学校)六年に転校してきたことはすでに触れたが、富士山の次に山の名前を知ったのがこの山。
 なぜなら、通称「ドン山」の愛称で、山頂近くでこの大砲の空砲発射音により、正午を知らせていたからだ。

 どこまでも平坦な関東平野の浦和からすると、ぐるりと山並みに囲まれた甲府の街は、少年の冒険心を呼び起こす魅力あふれた街であった。
 ひと通り市内の道順を覚え、間違わずに家に戻ることができるようになると、早速、大砲のドンを見届けるべく愛宕山に登った。

 山頂近くどのあたりであったか定かな記憶はないが、板張りの小さな小屋があった。
 どうやらこの中に大砲があるらしいと見当をつけ、とがめられてはと五十メートルほど離れた茂みに身を潜め、まずは両手の人差し指で、耳の穴深く栓をした。
 でがけに聞かされた母親の「ドンで鼓膜が破れるといけないから、しっかり耳に蓋をしなさい」との言いつけを忠実に守ったのだ。そして、高鳴る鼓動を抑えながらその時を待った。

 なにしろ戦争のまっただ中である。大砲を撃つからには、軍服風の身なりで、いかめしい人物が現れるに相違ないと考えていたのだ。
 ところが間もなく、案に相違して小柄でフツーのおじさんがフツーの身なりで現れた。
 そして小屋の戸をあけるなり車輪のついた小振りの大砲をウンコラショとばかりに牽き出し、周りをなにやらコチョコチョと動き回ると、突然、白煙とともに“ズドン”とくぐもった発射音を鼓膜がとらえた。

 ドン探索は期待をはずれたものだった。肝心の大砲は意外に小さなものだったし、なによりがっかりしたのは、射手が魔弾の射手ならぬ何処ででも見かけるフツーのおじさんだったことだ。
 おまけに、肝心のズドンが人差し指のために著しく迫力を欠くものであったからである。

 ところでこの大砲、なんと明治十年、西郷隆盛が起した西南戦争の捕獲品とされているから、その当時でも七十年近く前の年代物だったらしい。
 なおこの大砲、この年に金属不足におり兵器の材料として回収されたらしいので、どうやら私はその見納めの頃に立ち会ったようだ。

 さて、この愛宕山と湯村山。七十年近く経った今、湯村山は大きな変貌はないのに比べて、愛宕山の東斜面は最新住宅の展示場のような住宅団地になってしまった。こうなると、山と呼ぶのに何故か戸惑いを感じてしまうのだ。

2011年11月の表紙

arasugezawa


雨飾山:荒管沢より山頂を望む。

大雨余話

 「大正の“神地荒れ”以来かな」
 台風12号の大雨のこと。ある長老の話。
 神地(かんじ)は集落名。長老も生まれる前のこと。親の話の記憶だろう。
 ともかく千ミリはこえた。わが家の雨量計は大きめの洗い桶。二階の窓の外に出しておく。満杯になると深さは13センチ。それが三日間で八回もいっぱいになったのだ。
 石や岩を押し流す音が一晩中つづく。いつでも逃げ出せる服装で寝る。
 沢があばれている間はまず安心。急に静かになったり流れが小さくなったらいけない。
 上流で土砂ダムができている事態。
 「あぶなくなったらうちに来いよ」。下の集落から何本も電話がくる。実に有り難い。
 道志川本流や大きな支流近くの集落に避難指示が出た。百二十人をこす人が避難。
 「一晩だけでも大変。もう半年こえている東北の人は…」。避難した友人は絶句する。
 明けて沢をあるいてみる。
 径一メートルをこす岩が動いている。小舎の前、沢岸に立つ桂の根元が石や砂利で埋まる。岩もある。河原に一変している。
 一角に桂の木を配した快適な空間である。“桂浜”とでも呼ぶことにするか。
 「精進場」といわれ、石の祠が大岩の上に鎮座するあたりは激変している。
 方向を変えた流れが斜面をえぐり崖になっている。堆積していた土砂は流されている。
 えぐられた上の急斜面の雑木林は安泰。成長した楓などがしっかり土をつかんでいる。
 自然の復元力もみた。
 体積土砂が流されたあとに岩を累々と連ねた、かつての沢筋が出現、水が走っている。そこが主流であったみごとな証明である。
 わが水道も思いがけず快適になった。
 取水口を復旧するのに流れの中で少々手こずったが、沢底も水も輝いている。
 岩の苔も流れの砂も、登山者の“忘れ物”も掃除されて、コーヒーがうまいぞ。

 稚(やや)を背にデモ行進の白日傘

 薪用に流木をかつぎあげて“神地荒れ”以来の後始末も一段落する。
 一息いれてテレビをみる。
 「原発攻防180日」という特集。また怒る。
 地震直後、事故の重大化を防ぐ手段はいくつかあった。それがはたらかなかった。
 非常用のバッテリーが動く。そのバッテリーがきれる。ところが替えるべきバッテリーが重くて運べなかった。
 緊迫のなか暗闇で作業手順書を探して“勉強”するという事態もあったという。
 度し難い能天気ぶり、大資本の犯罪。
 六〇年代、労働者は炭鉱大資本の「保安のサボ」と対決、大闘争を展開した。
 いまどうたたかうのか。子の孫のいのちと人生がかかっている。句は「赤旗」文芸、千葉の松村凌雲さん。

山の随想あれこれ(その十)

  『湯村山と愛宕山』

 湯村山山頂から東の方角を見渡すと、ほぼ同じ高さで「県立愛宕山こどもの国」のドームがある愛宕山が目に入ってくる。
 それもそのはず、愛宕山が423メートル、湯村山は446メートルだから、その差はわずかに23メートル。6,7階建てのビルほどの違いでしかない。
 おまけに山容も似たり寄ったりで、至極ありふれた低山どうしである。

 そもそも甲府市の北部は、岬のように突き出したこの2つの山と、これに続くなだらかな尾根にU字型に包み込まれるように緩やかに傾斜を増している。
 市街地の西武を流れる相川の三本の源流は、U字の先端にある積翠寺部落で合流して、市内では数少ない棚田を潤し、水量はさして多くはないが、それなりに心なごむ水辺の風景を提供しながら、荒川へ注ぎこんでいる。
 したがって、北部一帯は形状から察して相川の小扇状地なのだろう。

 はなしは変わって、県庁の前庭に見事なクスノキが何本かあるが、その根元にひっそりと「経緯度標公共基準点」なるものがある。
 それによると、この地点は東経138度34分9秒2、北緯35度39分50秒7であり、標高は273メートル486となっている。

 さすがに県庁の構内だけあって、経緯度は秒コンマ以下まであるし、標高にいたっては48センチ6ミリとなんとミリ単位である。
 「へーぇ、ほんとかな」などと科学音痴の私などはすぐ疑ってしまうが、どうやら何のことはない高精密のGPSのなせる業と知って、改めて計測技術の進歩に驚嘆すると同時に、なんだGPSかといささか拍子抜けしてしまった感もある。

 が、しかしである。この「経緯度標公共基準点」も、東日本大震災により計測値が狂ってしまったかも知れないのだ。
 先日の報道によると国土地理院は東日本の十八都道府県にある三千七百ヶ所の三角点と水準点でずれを調査するらしい。
 それはそうだろう。やらせまみれの原発推進勢力の実態が明らかになるのと併せて、日本人がついこの間まで持っていた暮らしのありようや、社会観、価値観を大きく揺さぶった巨大地震なのだから。

 改めて振り返ると、三陸沖の海底断層のずれは南北に五百キロ、東西二百キロ。
 幅は二十メートル、深さ六十キロから五キロも一気に“どすん”とずれたのだからたまったものではない。
 やはり、地球は生きている惑星の一つなのだ。

 愛宕山、湯村山とも登り口は県庁よりだいぶ高いので、比高は百メートルちょっとだろう。子供の脚でも20分もあれば山頂に立てる。そこにはぐるり甲府盆地と、城壁のような御坂山塊の上にすっくと立つ富士山を目にすることができる。
 そんなこともあって、この2つの山は甲府市民にとっては、ひとしお愛着が深い山である。  

 (次号へ続く)

2011年10月の表紙

P8280051


白馬山頂から白馬鑓ヶ岳を望む。
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