ウラダッシュ

2004年09月27日

旧オタクへのオマージュ

 面白い考察ですー。現在のオタク市場について、昔気質のオタクさんのオマージュとも取れますね。
「我々は、かりそめの客なのだ」
周辺領域・別館: http://rim-area.cocolog-nifty.com/annex/2004/09/post_7.html
 オタクさんの本質は商業と相いれないものであり、いずれ食い尽くされるってことですかね。だけど商業はきっかけでニーズはその先の大衆=マスにあるから結局はマスが本当のモンスターということになるでしょうか。いくら企業が仕掛けたところで、選択権はユーザーにあるもの。それより、オタクの条件がマイノリティで個性や創造性だとするならマス向けに抽象化された時点で別ものになってるんじゃないかしら。「かつてのおたく」と線引きしちゃってるとこからして、興味の対象は同じでも何か違うと思います。創造する相と消耗するだけの相と言い換えてもいいかもしんない。野村総研でいうところのアニメやコミックス市場の大半は新しいものを貪欲に求め、消費するリバイアサンが占めています。同人誌市場などはその傾向が顕著で、「好きだから」作ることから「売ること」を目的としたプチ市場と化してるし。商業主義がその窓口を開いたとしても、食うのはマスなんだよね。その内実といえばオタクの認識があるヒトからないけどやってることがオタクの定義に当てはまるとゆー幅広さ。1990年代から市場は企業誘導型じゃなくて個人主導型になってると思うの。で、さらに個人がよりどころを求めて共通認識としてのアイテム(萌えとか)を求めるようになったと。でなけりゃメーカーやアイたちの職業がこんなに苦労するはずもなく(涙)ほんと、誘導してひっかかってくれたらウマウマです。
 だけどこうもいえるのでは。真のオタクを極めてるならマス化した市場の衰退なんて鼻で笑って見てられるよーな気がします。大企業の参入により独創性のないテンプレート要素の強いものが大量投入・大量購買されることで確かに市場は荒れるし、それによって自分が愛するモノが存在する市場が崩壊する危険はあるけどね。特色が創造性と個性とゆーのであればそれは文化に類似するものだろうし、マスに取り込まれてもなお生き残るしたたかさがないと文化としての萌芽はないわけで。文化も時の流れで風化するものですから、もう一度リバイバルするかしないかの差ではないでしょうか。リバイバルするためには創作物を残さなければならない。残せない文化は文化ではなく、滅びるしかないのでしょう。旧オタクの血を引くヒトは生き残るために戦うオタクになるか、それとも世界を作って閉鎖してしまうか、滅びるか、美しく散るか…って何の話デスカー(笑)そこまでしなくっても残るモンは残るでしょ。
 なんだか最近萌えは滅びるとかフィギュアバブルはじけるとかそんな暗いニュースばっかりですネー。自己暗示かかっちゃいそうで怖かったり。そして多くのヒトたちは「なんでそんな悲観的に考えるわけ?」と首を捻ることでしょう。そーゆう説もあるくらいに思ってもらえれば。オタクにもいろいろなんだな、と。アイはどっちかってと旧世代のほうなんだろーけど、そういう在り方もありだと思いますヨ。昔はよかったよと嘆きながら憂いながら、あんまりにも軽やかなリバイアたん(違うキャラになってる)たちがちょっとだけうらやましかったりもします。


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オタクは過去からホイサッサ【周辺領域・別館】at 2004年09月29日 03:21