縁あって 札幌発御朱印の記録    

天神さんと北海道の神社を中心に御朱印を紹介します。
道内の方はもちろん、道外の方も
北海道旅行をしている気分で、のんびりと
御朱印をご覧いただければ、と思います。

猫や車も時折登場します。趣味のブログなのでお許しを。

Mozilla Firefoxでの閲覧をお勧めします。
            
         photo 十勝・糠平温泉中村屋にて 2011・5

琴似神社

琴似屯田兵  亘理伊達、会津の両藩祖祀る  ●札幌市西区琴似1条7丁目

兵舎線形















琴似は北海道で最初の屯田兵240戸が入った地で、「屯田兵第一大隊第一中隊」を構成しました。部隊の主力は戊辰戦争で新政府軍に敗れた東北の武士たち、特に亘理伊達家(110戸)、会津松平家(斗南の55戸)でした。桐紋を掲げた「屯田一宮」とはこの地で北方防衛と開拓の任に当たり、西南戦争では白脚絆、草履姿の異装で戦った琴似屯田兵との深い絆を表しているのです。

境内には兵とその家族が生活した兵屋が保存され、見学できます(写真上)。明治7年(1874年)築の木造平屋で、断熱は板で覆った薄い土壁、内部は天井板のない8畳、4畳半の二間のほか囲炉裏と流しを備えた板の間があります。琴似屯田兵屋のパンフは<土壁つきの家屋は普通水準以上>と説明しています。開拓使の担当者も同様の考えだったようで、顧問のケプロンが提案した石灰を上塗りする白土壁、ストーブの設置などを不採用としました。どうしてこのような発想ができるのでしょう。

旭川で屯田兵屋を見た司馬遼太郎はこう記しています。<貧寒とした粗末さ -たとえば、薄板一枚の外壁(内壁はない)で、窓はガラスなしの単なるすきま- を見ていると、この寒冷地でほんとうにこの小屋に生きた人間が住んでいたのかとうたがわれてくるほどである>(街道をゆく 北海道の諸道)

■旧郷社 屯田一宮
 祭神 天照大御神、豊受大神、大国主大神、武早智雄神(伊達成実)、土津霊神(保科正之)

琴 参道これ













  • 奥州の雄・伊達政宗の従弟で亘理伊達家を興した伊達成実を祀る「武早神社」が始まり。琴似兵村に入った家臣団が1875年(明治8年)、日登寺に祠を設けました。山の手水上通に移転した97年(明治30年)に琴似神社と改称。この時、有珠で開拓に当たっていた亘理家14代当主・伊達邦成は陣羽織と掛け軸を奉納しています。現在地に社殿を構えたのは1915年(大正4年)です。
  • ともに祀られている保科正之は会津藩の始祖です。1994年(平成6年)、正之の遺言で創建された土津神社(福島県猪苗代町)から分祀しました。会津若松商工会議所のホームページによると<明治44年に会津藩祖・保科公の合祀が許可されたが果たせず、創建120周年事業として平成6年にようやく合祀がなされた>.。明治44年(1911年)とは札幌神社(現北海道神宮)から大国主大神を勧請した時期で、これに合わせて藩祖保科正之も祭神となったとされていました。しかし90年(平成2年)にその事実はないことが判明。子孫会が実現に奔走した経緯があります。
  • 「旧会津藩士における神社の研究」(遠藤由紀子著)によると、保科正之の合祀を初めて記述したのは「琴似兵村誌」(1924年、大正13年発行)。<舊会津藩出身者と協議の結果大国主神を祀り伊達成実公と保科正之公とを配祀することとし、明治44年6月出願7月許可を得>。この誤った記述が修正されないまま他の郷土史書のベースともなり、事実として受け止められるようになったそう。1956年(昭和31年)発行の「琴似町史」は<明治44年6月村民が協議した結果、亘理藩を中心とした神社ではなく、名実ともに琴似村民の神社にするため、札幌神社の御霊代を拝受してこれを併祭した>。琴似兵村誌とはまったく異なる内容です。
  • 伊勢神宮の内外宮の両神を祀ったのは第2次大戦後、北海道開道百年に当たる1968年(昭和43年)です。現在の社殿は53年(昭和28年)の造営です。

伊達成実を祀る「武早神社」社殿を移築した境内社・報徳神社
琴 報徳神社2
屯田兵村の守護神として亘理伊達藩祖を認めながら、会津藩祖は許可しない官の姿勢は、会津憎しの感情の反映といえます。

戊辰戦争や箱館戦争の敗者を対象にした屯田兵募集も、当初は会津だけ除外されたそう。旧会津藩士は強制移住させられた青森県(斗南)出身として志願したのです。

会津人を公言できない環境にあって、心の支えを忠誠の対象である藩祖・保科正之に求めたのでしょう。斗南でも沈んだ家臣の士気を高めるため、藩祖を祀る神社を設けています。琴似兵村でも同様、藩祖が祭神となったと受け止めた明治44年までの36年間、合祀を嘆願しては拒絶されてきたのです。会津人の願いが結実するには、平成に至るまでの120年もの歳月を要したといえます。

<会津人は戊辰の戦後、凄惨な運命をたどらされた。かれらは明治時代、とくに官界において差別された。(中略)権力の座についた一集団が、敗者にまわった他の集団をこのようにしていじめ、しかも勝利者の側から心の痛みも見せなかったというのは、時代の精神の腐った部分であった>
「街道をゆく 白河・会津のみち」(司馬遼太郎著)


琴似朱印●水盃で蝦夷地へ

奥州の武士たちが屯田兵を志願したのは、戊辰戦争で新政府に敵対した罪で士籍と禄を剥奪され、生活が成り立たない状況に追い込まれたためでした。

亘理伊達家は2万4千石からわずか58石に減封。収入が400分の1以下となり、家臣1362戸、7854人を養えなくなりました。

会津はさらに悲惨です。23万石から3万石に減らされた上、家臣約1万4千人に青森・下北への移住が命じられました。下北は8割以上が森林で、土壌は農耕に適さない火山灰地と泥炭地という不毛の地でした。3万石は名目に過ぎず、食べてゆくあてのない「集団流罪」となったのです。

屯田兵制度は、北方防衛と開拓が任務ですが、困窮した士族の授産対策でもありました。3年間に限り家屋のほか、一日当たり一人に玄米7合5勺を支給。鍋、釜といった生活用品や農具が貸与されました。東北の武士たちが、この制度に活路を求めたのも無理ありません。北海道に移住する際「水盃を交しお互いの無事を祈った」「泣き崩れて別れの言葉も言えなかった」などという逸話が数多く残されています。そうまでして故郷を離れたのは、餓死する心配がないという痛切な動機によるものでした。

会津、亘理伊達両藩祖にちなむ旗
琴 拝殿旗これ●賊軍の汚名を晴らすべく

琴似の部隊は西郷隆盛ら薩摩士族が起こした内乱・西南戦争(1877年、明治10年)に出征しています。

政府は当初、屯田兵の裏切りを恐れ鎮台兵部隊と狙撃兵を付属しましたが、その疑念は屯田兵自らが奮戦して払拭しています。

琴 社号標<屯田兵の負傷者は下士官に多いが、将校に負傷者の無いのは不審に思っていたが、今日の戦闘を見ていて、戦闘をしているのは兵隊等であって将校ではない>(琴似屯田百年史)。一ツ瀬川の戦いで、屯田兵部隊に後続した鎮台部隊将校の感想です。複雑な感情を抱き消極的な指揮をとる薩摩出身の屯田将校に代わり、最前線に下士官や兵卒として配された会津、伊達の旧藩兵自らが戦況を判断して戦っていたのです。

琴似屯田兵の軍装は開拓使の象徴である北辰章(北極星)を左肩に縫い付け、白脚絆の草鞋姿。軍事行動では靴に勝るとの考えです。靴履きの鎮台兵はその前時代的な姿を嘲笑していましたが、白兵突撃も辞さない屯田兵の奮戦ぶりを見せられ尊敬へと変わったと伝わります。

九州で転戦すること120日。琴似に凱旋した屯田兵への恩賞は酷薄でした。中尉1人が抗議の切腹、さらに1人が職を投げ打ち東京へ去ったそう。

琴似屯田兵は1891年(明治24年)、16年間の兵役を務め予備役となり、屯田兵制度が廃止される1904年(明治37年)を後予備役として迎えています。琴似兵村は琴似村となり、24年(大正13年)には旧屯田兵村に残ったのは30戸のみでした。

♦神明造の社殿、中段右は神門。「村社」と刻まれた旧社号標が玉垣のそばあります(写真左下)。側面の年号は「紀元二千五百七十五年」。現在地に移転した大正4年(1915年)のもので、この年に無格社から昇格しました。狛犬さんは新しそうですね。
琴 拝殿













琴 村社碑琴 神門








琴 神門粉犬左琴 神門狛犬右












授産場趾碑 開拓使が屯田兵に奨励した農業は、養蚕と製麻。現在の境内はかつて養蚕室が設けられ、繭糸を作っていました。兵村には開墾地のほか、麻畑もあり麻綱も製造していました。
琴 授産場碑横















琴似屯田兵を祀る報徳神社 五七桐紋の金具が打たれた社は、伊達成実を祀る「武早神社」社殿を移築したもの。琴似神社草創期の建物です。琴似屯田兵240人と、氏子の戦没者を祀っています。
琴 報徳社殿扉報徳たて




















御門山琴似天満宮 雨乞いの神として三角山の麓に祀られた「御門山豊受神社」が前身。1950年(昭和25年)の旱魃で、琴似神社宮司が雨乞いすると効験があったと伝わります。琴似神社境内には92年(平成4年)に移り、天満宮となりました。祭神はもちろん、菅原道真さんです。
琴 天満宮琴 天満宮祭神










琴 天満宮額琴 天満宮牛像












兵屋140番 境内に保存展示されている兵屋の番号です。間口9m、奥行き6.3m。1958年(昭和33年)に札幌市に寄贈され、64年(昭和39年)に境内に移設。その際、損傷していたトイレや煙出しを復元し、当時の姿に蘇らせました。道文化財です。
兵舎トップ















司馬遼太郎が旭川で見た屯田兵屋は「陸軍省標準型」と呼ばれる典型的なものでした。開拓使が廃止され陸軍省に管轄が移りましたが、兵屋の構造は変わりません。司馬遼太郎の目に映ったものは、粗末さを「標準」という言葉で繕った<凄み>でした。
  • <東北の農家にくらべて、比較にならないほど寒さからの防御力がない。せめて東北の標準農家ぐらいをなぜ建てなかったのだろうか>
  • 屯田兵を「武門武士ノ列ニ加ハリタル」とする国をこう痛罵しています。<「武門武士ノ列」ならば玄関のひとつもあるべきものなのだが、そうではなくて出入り口は便所の戸板のようなもの一枚でふさがれているだけである>
<なま身の人間をこういう小屋に入れて寒冷地開拓をやらせた政治家や役人どものおそろしさを記念するという意味でも、この標準兵屋はながく保存されていい>(街道をゆく 北海道の諸道)

♦薄い土壁、天井板はなく、暖房設備は囲炉裏だけ。これで北海道の冬を越したのです。
兵舎土壁兵舎天井これ







兵舎 囲炉裏





















♦完成直後の琴似屯田兵屋。明治7年(1874年)撮影
琴似屯田兵屋-01屯田兵の起床は午前4時。ラッパの合図で寝床を離れ、午前6時から午後6時まで農地開拓や軍事訓練に取り組みました。「監獄に入った気持ちで働いた」と経験者の記録があります。

「汝等ノ身命ハ、上、天皇陛下ニ捧ゲ奉リシモノニシテ、自身ノ生命ニハアラザルナリ」。屯田兵員及家族教令の一文です。

司馬遼太郎は「街道をゆく 北海道の諸道」で為政者への憤りを次のようにし記しています。

<たれもそういう契約をしたおぼえもないのに、とんでもない修辞をやってのける。こういう美文で封建期以来ひとびとがもちつづけている忠誠心を刺激し、万事を解決しようというのである。最初にこういう文章を書いて、屯田兵という本質的には世帯もちの農民であるひとびとに押しつけた人間というのは、どういう神経の、どういう顔をした人物だったのだろうか>

<お前はある人の所有物であって、お前自身のものではないぞ。
というのは、自分一己の個人的信条ならともかく、第三者にいえるものではないし、たとえば戦国時代の武将で、もし士卒にこういうことを言ったものがあるとすれば、狂人としてあつかわれるか、さもなくば即座に没落したにちがいない>

■撮影日 2017・6・6(Tue)

琴 額
【後記】亘理伊達と会津の両藩祖が祭神とされた時期に、あまりに大きな時間差があることが不思議でなりませんでした。遠藤由紀子さんの論文「旧会津藩士における神社の研究」を読み、一義的な謎が解けたような気がします。残念ながら「琴似兵村誌」の誤記載が裏付けのないまま書いただけなのか、官庁の思惑に乗せられたものなのかは、もはや確かめるすべはないでしょう。

「藩祖は仲良く神社に納まっているのに仙台藩の子どもと会津藩の子どもはよくけんかした」。琴似屯田兵の子孫の回顧談は、会津人にとっては藩祖・保科正之が琴似神社の祭神であったことを示しています。平成2年に会津出身者が神社に問い合わせをしなければ、放置されていたのかもしれません。罪深いことです。

そして屯田兵屋。司馬遼太郎は昭和41年1月、函館湯の川温泉にある数寄屋建築の老舗旅館に泊まり、就寝中に額が痛くなる寒さを経験しています。

<ふとんの中に襲いこんでくる寒さの中にいると、身を一ミリでも動かしただけで一ミリぶん部屋の寒気が入ってくるようだった。当然、顔だけがそとに出ているのだが、寒気でひたいが痛かった。ひたいが痛む寒さというのは旧満州の戸外で防寒帽を試しにぬいでみたときに経験したが、それ以来はじめてであった>。

ストーブの焚き忘れで、部屋が冷蔵庫のように冷えたそう。道内では冬も温暖とされる函館でも防寒を怠ると凍えてしまうのです。酷寒を考慮しない屯田兵屋に、為政者の無神経さと傲慢さを司馬遼太郎は感じたのでしょう。

ねこ科 @札幌芸術の森

ねこメーン
















新緑森を散歩する猫。実はこれ、自然の中に展示した大型写真です。札幌芸術の森野外美術館で開かれている岩合光昭さんの屋外写真展「THE CATS ねこ科 ねこは野生動物だ。」を9日鑑賞しました。屋外展は初の試みで、岩合さんが40年にわたって追い求めてきた「ねこ」の魅力を 「橋」 「丘」 「森」 「家」 の四つのゾーンで紹介しています。「ねこ科」とあるように、ライオンやトラ、チーターなどの姿も、最大2㍍級の写真パネルで楽しめるのです。新緑の中を散策しながら、パンフに記された<「ねこ」たちが見せる美しさや気高さ>に触れる、ちょっと不思議な空間です。会期は7月23日(Sun)まで。


♦ねこの橋 「好奇心に満ちたまなざし」の6点
橋







橋1橋&水




















♦ねこの丘 「しなやかな動き」の16点
丘看板








丘3












丘4
丘2







丘ヒョウ















♦ねこの森 「自然に寄り添う穏やかな姿、時に見せる厳しい表情」の44点
森-01












森6森2
















森4















森5













森水















♦ねこの家 「ネコとライオンの同じポーズを並べ、異なる愛らしさを共鳴させる」40点(室内展示)。
家1












家にてる1










家横顔2




家横顔1








家寝姿1家寝姿2









■撮影日 2017・6・9(Fri)

森とねの【後記】野外美術館の敷地総面積は7.5ヘクタール。「ねこ科」展は入口から「子どもアトリエ」までの範囲ですから、のんびり見て1時間かかりません。

お薦めは「ねこの森」。木立の中に写真パネルが置かれているのですが、野生動物が実際にいるかのような錯覚をしてしまいます。
相棒2
下の写真は我が家の相棒。車に乗ってごきげんです。上の写真の威嚇するような顔をした猫さんと見比べると、緊張感がありません。周りを警戒せずにすむ環境で、穏やかに暮らしているからでしょう。それはそれで、幸せなことだと思います。

札幌三吉神社

南一条通の変遷 札幌草創期から見守る  ●札幌市中央区南1条西8丁目

三吉 狛犬と電車2













境内の前を東西に行き来する路面電車を狛犬さんが見守っています。神社の面する南一条通は札幌で最も古い街路の一つで、当初は創成川の東側を「日高通」、西側を「渡島通」と呼びました。

神社の東には丸井今井、札幌三越、パルコなどの大型商業施設がならぶ大通地区商店街、さらに進むと南北に走る創成川通と交差します。ここが開拓期、札幌建設の基点となりました。南一条通は北側を官用地、南側を町用地に分割する横軸。当時は大友堀といった創成川は東西に分ける縦軸です。京都を参考に、60間(109㍍)四方の格子割りによる街区の原型がつくられました。この地に社殿を構えたのは明治12年。札幌の草創期です。現在の狛犬さんは昭和初期のものですが、初代から大通地区の変遷を見続けてきたのでしょう。

札幌の商業ゾーンは現在、大通地区と「サツエキ」と呼ばれる札幌駅エリアの二つが競合していますが、大通は押され気味。そして今年(2017年)、神社近くの西6丁目にある東急ハンズ札幌店が札幌駅近くの東急百貨店内に移転する予定です。致し方ないとはいえ、寂しくなりますね。


■旧県社 総本宮 太平山三吉神社(秋田市)
 祭神 大己貴神、少彦名神、三吉霊神(以上、総本宮と同じ)、大物主神、菅原道真

三吉 社殿これ










  • 祭神の三吉霊神とは<力の神、勝負の神、破邪顕正の神>(太平山三吉神社)。室町期の武将で、城を失った後に太平山中で修験行者となり験力を発揮した藤原三吉を神としています。曲がったことが大嫌いで、弱きを助け邪悪なものをくじくそう。江戸期を通じ秋田藩20万5千石の大名・佐竹氏から累代敬われました。
  • 創建は1878年(明治11年)。秋田県出身者が故郷の太平山三吉神社の祭神を豊平川東詰に分祀し遷座祭を行いましたが、翌79年に現在地に移転しました。防火用の空き地である火除地と接していたため、開拓使から移転を厳命されたのです。この地所は火除地に接するを以て除宮すべし殊に参詣人を許さず>(北海道神社庁データベース)。神社創建前年の77年、当時の開拓長官・黒田清隆の指示を受け、札幌の主任官は豊平橋の東西にそれぞれ20間、25間の火除地を設けるため民間に土地割譲しないと決済していました(札幌市文化資料室)。神社の用地取得時に気付かなかった行政側のミスでありながら、除宮すべし、とはねぇ…。
  • 神輿渡御は1903年 (明治36年) に始まりましたが、戦争のため40年(昭和15年)に中断。85年(昭和60年)に復活しました。当初は5月8日でしたが雨天が多かったため、24年(大正13年)に15日と改めたそう。現在の社殿は1977年(昭和52年)建立です。

み試-これ神輿渡御 なまはげが供奉

札幌の祭りの先陣を切るのが、「さんきちさん」(三吉神社の愛称)です。

毎年5月15日の例大祭が迫ると、大通地区に幟が並び、市電ループ化以前は南一条通の西4丁目駅に「御神燈」と書かれた提灯が掲げられました(現在はどうなのかは確認していません)。前日の宵宮祭から露店が並び、神輿渡御を迎えます。

神輿は札幌の中心部を5.5キロ練り歩きますが、その供奉(おとも)をするのが「なまはげ」。そう、鬼の面をつけ出刃包丁をもって「泣ぐ子はいねがー」と荒々しい声で子供を驚かす、秋田県に伝わる厄払いの神使です。祭りの動画サイトを見ましたが、不思議な光景です。秋田由来のお宮の祭礼は、なまはげに札幌から災いを祓う役目を担わせているのでしょう。



♦市電西4丁目駅の例大祭の提灯(2012・5・8撮影)。左上は三吉大神の絵馬。中段右は神社前を走る新型市電「ポラリス」。北極星を意味します。南一条通は「電車通」とも呼ばれています。
三吉 神灯これ三吉 絵馬これ







社殿と最新路面電車








三吉 社殿と木















路面電車
















石鳥居脇を固めるブロンズの狛犬 台座は「昭和九年一月十六日」とあります。
三吉 狛犬左三吉 狛犬右
















三吉 狛犬台座











三吉 出世稲荷出世稲荷神社 京都の出世稲荷神社から勧請しました。豊臣秀吉が聚楽第に祀っていた稲荷社に対し、行幸した後陽成天皇が、その立身出世にちなんで社号を授けたとされます。写真を撮影してる時に、スーツ姿の会社員が深々と頭を下げてお祈りしていました。秀吉の幸運にあやかりたいのかな。 

大神碑稲荷社の左後方に二つの石碑が見えます。向かって左は「郷社三吉神社」碑。右は「三吉大神」碑です。
 
「大神」の碑は自然石をそのまま使い、背面に「祈念碑」と彫られています。他の文字は風化して読み取りにくいです。説明板があればうれしいのですが。


■撮影日 2017・5・30(Tue)

三吉 扁額【後記】北海道神宮と開拓神社に続き、写真を更新して文章を手直ししました。最初に掲載したのは2011年8月29日。読み直すと、御朱印と数枚の写真を載せていましたが、御朱印だけアップすればいいのか、と突っ込みたくなる出来でした(歴史ブログとしての自己採点で、御朱印のみを紹介するサイトを非難するものではありません。私も参考にさせていただいています)。

三吉さんは仕事の合間に参拝しているお宮です。札幌都心にあって、静寂さを感じられる貴重な空間です。この魅力にどこまで迫れたか自信はありませんが、少しは良くなったかな。
プロフィール


やま

ネコ好きなアルファ乗りです。御朱印の美しさに魅せられ、神社とお寺詣でが趣味となりました。

御朱印の旅の相棒は車が大好きな「森の猫」。我が家に来て10年、10歳。あっという間に時間が過ぎたような気がします。いつまで一緒にドライブできるかな。

相棒がお気に入りの愛車QVも3年目。トラブルもなく元気に走ってくれます。相棒と御朱印の旅を楽しみながら、いろいろな場所を訪れたいと思います。

さて、次はどこにいこうかな…
v(^^)


photo
噴火湾パノラマパーク
2011・8・27
御朱印や写真追加しました
過去記事の更新情報です。日付は更新日です。

【2015年】
11・15 北海道十勝・音更神社
     新しい御朱印と写真
9・5  浅草神社 夏詣御朱印
3・17  札幌・豊平神社 見開き
北海道の神社
●札幌市

【中央区】

北海道神宮


開拓神社


北海道神宮頓宮


伊夜日子神社


札幌護国神社


札幌祖霊神社


水天宮


伏見稲荷神社


札幌三吉神社


多賀神社


【北区】

江南神社


篠路神社


新川皇大神社


新琴似神社


【東区】

諏訪神社


札幌村神社


烈々布神社


大天満神社


【白石区】

白石神社


【厚別区】

信濃神社


澄丘神社


大谷地神社


【豊平区】

相馬神社


月寒神社


豊平神社


西岡八幡宮


平岸天満宮


【清田区】

厚別神社


清田稲荷神社


【西区】

上手稲神社


琴似神社


西野神社


西野神社干支御朱印


発寒神社


札幌御嶽神社


【南区】

石山神社


【手稲区】

手稲神社


星置神社



●函館市

函館八幡宮


函館護国神社


山上大神宮


亀田八幡宮


北海道東照宮


湯倉神社


大森稲荷神社


函館乃木神社


厳島神社


高田屋恵比寿神社


船魂神社



●小樽市

住吉神社


龍宮神社


小樽天満宮


潮見ケ岡神社


豊足神社


高島稲荷神社




●石狩管内

【石狩市】

石狩八幡神社


厚田神社


【江別市】

江別神社


錦山天満宮


【北広島市】

札幌八幡宮


【千歳市】

千歳神社


【恵庭市】

豊栄神社


【当別町】

当別神社



●渡島管内

【北斗市】

矢不来天満宮


【松前町】

松前神社


【福島町】

福島大神宮



●後志管内

【余市町】

余市神社


【仁木町】

仁木神社


【岩内町】

岩内神社


金刀比羅神社


【俱知安町】

倶知安神社


羊蹄山神社


【京極町】

京極八幡神社


【喜茂別町】

喜茂別神社


【留寿都村】

留寿都神社


【真狩村】

真狩神社


【寿都町】

寿都神社



●胆振管内

【苫小牧市】

樽前山神社


【登別市】

湯澤神社


【白老町】

白老八幡神社



●日高管内

【平取町】

義経神社



●空知管内

【岩見沢市】

岩見沢神社


【夕張市】

夕張神社


【長沼町】

長沼神社


【栗山町】

栗山天満宮



●十勝管内

【帯広市】

帯広神社


帯広明神大社


大正神社


十勝護国神社


【音更町】

音更神社


【鹿追町】

鹿追神社


【士幌町】

士幌神社


【上士幌町】

上士幌神社



●留萌管内

【増毛町】

厳島神社
東北のお寺
未参拝です
関東の神社
関東のお寺
まだ群馬の2社のみです
東京のお寺
待っててね
京都のお寺
大阪のお寺
待っててね
兵庫の神社
●神戸市

【中央区】

神戸北野天満神社


走水神社


【須磨区】

綱敷天満宮


●尼崎市

長洲天満宮


●西宮市

西宮神社(えびす宮総本社)


●明石市

休天神社


●高砂市

曽根天満宮


●姫路市

大塩天満宮


●三田市

三田天満神社
兵庫のお寺
未参拝です
滋賀のお寺
●大津市

石山寺
和歌山の神社
まっててね
和歌山のお寺
未参拝です
伊勢神宮&三重の神社

伊勢の神宮


内宮 皇大神宮
外宮 豊受大神宮
月夜見宮
月讀宮
瀧原宮
伊雜宮
倭姫宮
東海の神社
未参拝です
甲信越・北陸の神社
未参拝です
中国・四国の神社
九州・沖縄の神社
東照宮
■北海道

【函館市】

北海道東照宮


■宮城

【仙台市】

仙台東照宮


■東京

【台東区】

上野東照宮


【港区】

芝東照宮



■埼玉

【川越市】

仙波東照宮



■群馬

【太田市】

世良田東照宮


徳川東照宮



■滋賀

【大津市】

日吉東照宮



■香川

【高松市】

讃岐東照宮屋島神社

護国神社
■北海道

【札幌市】

札幌護国神社


【函館市】

函館護国神社


【帯広市】

十勝護国神社



■宮城

【仙台市】

宮城縣護国神社



■滋賀

【彦根市】

滋賀県護国神社



■沖縄

【那覇市】

沖縄県護国神社
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