札幌発展を予見した箱館奉行調役 ●札幌市北区篠路4条7丁目
●「他日必ず一都府となり」
篠路神社を1857年(安政4年)に創建した幕府役人・荒井金助直盈(きんすけなおもり)は、箱館奉行・堀利熙(としひろ)が石狩開拓を託した逸材でした。
箱館奉行支配調役並として石狩役所 (石狩市) に赴任した荒井の在任期間はわずか7年でしたが、「石狩改革」と呼ばれる政策などを見事に断行します。
①漁場の管理運営権を箱館奉行に移行
商人任せだった松前藩の漁場請負制度は、アイヌ民族を奴隷労働者のように酷使する弊害を生みました。漁場の利益を吸い上げるだけで何もしない松前藩の収奪システムは、護民官を理念とする幕府にとって到底許せるものではありません。
蝦夷地を松前藩から取り上げて幕府直轄地としたのを機に、石狩場所の請負商人・阿部屋伝次郎を罷免し、箱館奉行所石狩役所の直接経営としました。その上で新規参入の漁業者を募る一方、サケの禁漁区を設置して水産資源の保護を図ります。さらに石狩への移住希望者に、木材を貸し与えます。この改革の結果、漁獲量も人口も増えたそうです。
②石狩望来地区で油田発見
荒井が見つけた油田は、石狩油田として1960年(昭和35年)まで採掘されました。最盛時の年間産出量は1271キロリットルで、道内や樺太に供給されました。
③空知視察で炭鉱を発見
夕張をはじめとする石狩炭田です。日本の近代化を支えました。
④教育に尽力
学校「教導館」を設け、役所に教育担当係を置きました。剣、弓、鉄砲の道場もつくりました。
荒井はさらに1860年、自費で篠路に農家10戸余り50人を入植させ、荒井村を開きます。土地開墾の手本を示そうとしたのが動機といわれます。凶作に備え食糧備蓄庫を設けたりしました。
「石狩の地、他日必ず一都府となり、天皇の臨幸を仰ぐべし」。荒井の遺した言葉です。
札幌の人口は現在190万人を超す東京以北最大のまちとなりました。荒井の予見どおり「一都府」となったわけです。その先見性に驚くばかりです。
●運上所があった石狩市八幡地区に建つ荒井金助のレリーフ。 2011・10・29撮影
●「窘窮骨に至るも自若たり」
資性剛爽、苟も権貴に阿(おもね)らず。夙に文武を修め、志士を愛し書生を養ふ。
食客家に満ち薄禄支へず、窘窮(きんきゅう)骨に至るも、自若たり。(北海道史人名字彙)
荒井に対する人物評です。権力におもねらず、人物を愛し、安い給料の中からもてなし、己の衣食に窮しても心や態度に少しの乱れもない。ひとかどの人物ですね(^∀^)
荒井はその後、室蘭勤務を経て箱館に戻りますが、66年に奉行所のある五稜郭の堀に転落し、58歳で生涯を閉じました。
●狛犬と社殿 荒井金助直盈が篠路八幡社として創建しました。9月2日の秋祭りには、豊作を祈念して篠路獅子舞(烈々布獅子舞)が奉納されます。頭から尾までの長さが6メートルもあり、大人8人が中に入って操る勇壮なものです。