藻塩焼く 古の大鉄釜   ● 宮城県塩竈市本町6-1

御釜-01浜辺で塩を焼く塩竈の光景は、平安貴族の詩情をかきたてました。河原左大臣と呼ばれた源融(みなもと・とおる、822~95年)は別荘の庭園に塩竈の浦になぞらえた池を設け、毎日難波から海水を運び入れて塩を焼く煙を上げさせたそう。竈に据えた大釜に海藻を積み重ね、海水を注ぎ煮詰めていく。竈から上がる塩焼く煙に、遥かなる奥州への思慕を重ねたのでしょう。

この古代の製塩を今日に伝えているのが御釜神社の「藻塩焼神事」です。塩竈の地名の起こりとされる鋳物の神竈 (直径180㌢)が4個あり、毎年7月に行われる鹽竈神社例祭の神饌はこの竈で用意されます。神事は宮城県の無形民俗文化財で、社伝によると竈は鹽土老翁神 (しおつちのおじ) が人に塩づくりを教えた時のものだそうです。

この社を訪れ神竈を見た司馬遼太郎は、奥州の古代製鉄の独自性に思いをめぐらします。砂鉄製煉による鍛鉄が主流だった白河以南と異なり、鉄鉱石を用いた鋳鉄が発達した奥州は大陸にあった渤海国の影響を受けているかもしれない、という想像です。

高い造船能力と航海能力をもつ国だったから、容易に日本の奥州にくることができる。渤海国の影響を奥州が受けなかったとみるほうがむりである。
古い時代、鋳鉄の技術のなかに、「秀衡流」というのがあったそうである。平安末期から鎌倉初期にかけて花火のような光芒を放った奥州平泉の藤原三代を「秀衡」という名で象徴させている。奥州は、単に黄金の文化だけではなく、鉄冶金の面で、先進的な-あるいは独立した-文化をもっていたのではあるまいか。
さらに釜石付近では、ふるくから天然の鉄鉱石が出たことをわれわれは記憶しておかねばならない。この鉄鉱石は純度の高い磁石鉱だったという。奥州の鍛冶や鋳物師はこれを餅鉄とよんでいた。ともかくも、独自なものであった。(街道をゆく 仙台・石巻 塩と鉄)


宮城県山元町 「熊の作遺跡」 から昨年12月、製鉄作業に動員された住民を管理する名簿と推測される1300年前の木簡が見つかり、製鉄工房跡が確認されました。木簡は東北最古級のもので「信夫郡安岐里人」 「大伴部法麻呂」 など男性4人の名前が書かれていました。信夫郡安岐里は現在の福島市と福島県川俣町の境界付近に当たり、遺跡から約40㌔。大宝律令の郡里制に基づく地名表記から701~717年のものとみられます。奥州の古代製鉄史解明の手がかりになるとよいですね。

「奥州における製塩と鉄冶金という面で、奥州の歴史学者たちに切りひらいてもらわねばならぬ分野が大きいように思えてくる」(司馬遼太郎)