道真の乳母・文子の祈り  ●京都市下京区間之町通花屋町下る天神町400

京都 文子御幣を手に祈りを捧げる若い女性の像が、拝殿の右側にあります。お宮を創建した巫女・多治比文子(たじひのあやこ、生没年不詳)です。

文子は道真の乳母(養育係)を務め、道真没後の942年(天慶5年) 、その御霊を祀る祠を右京七条二坊十三町の自宅に設けました。この祠が文子天満宮の始まりです。

「北野天満宮の前身」とされるのは、道真の託宣によったからです。「われを右近の馬場に祀れ」。右近の馬場とは北野天満宮南東にあった右近衛府管轄の馬術錬成場で、桜の名所でもありました。道真は897年 (寛平9年)に長官職の右近衛大将に任じられており、ゆかりの地でした。

しかし文子は貧しかったため、北野に社殿を設けたのは、託宣から5年後の947年 (天暦元年) でした。北野天満宮の由緒などによると、幼い息子が道真の託宣を受けたという比良宮(現北比良天満神社、大津市)の神良種(みわのよしたね)、北野朝日寺(現東向観音寺、明治以前は北野天満宮の神宮寺)の最珍らが文子の協力者として挙げられています。

北野に社殿ができた後、文子が祀った祠の地は「文子天満宮」として存続します。ただ、邸宅のあった平安京右京七条二坊は今日の下京区千本通り七条付近とされ、当時の左京にあたる現在地とは異なります。いつごろ移転したのかは分かりません。文子天満宮の由緒では、東本願寺が1602年(慶長7年)に建立される際、付近一帯は寺領となり周りの神社は移転を余儀なくされましたが、天満宮だけは歴史を重んじられ免れたそう。このことから江戸初期には現在地にあったことが分かります。社は明治に村社となり、現在の社殿は1918年(大正7年)に建てられました。


●文子の功績を今日に伝えています。
文子 石柱文子 像


















●華やかな梅鉢紋
文子 梅鉢-01














●清らかな手水
文子 手水
















●社は住宅街にあります。
文子 鳥居















●牛像
文子 牛1文子 牛2









●㊧本殿 ㊨拝殿の額の輝きは太陽光とレンズのいたずら? 不思議です (・∀・)
文子 本殿文子 額

















■撮影日 2014・5・4(Sun)