聖徳太子一族への畏敬と鎮魂  ●斑鳩町法隆寺山内1

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<わたくしの心は 「魂の森のなかにいる」>。和辻哲郎は著書「古寺巡礼」(岩波文庫)で法隆寺の印象をこう記しています。中門に入り金堂と五重塔を眺めた瞬間、サアァッという透明な音響のようなものを感じたそう。金堂の屋根の美しい勾配と軒まわりの大胆な力の調和、一本の線でまとめあげた五重塔の微妙な諧調、そしてその粛然とした全体の感じを強調するのが、光や樹木の緑が透かして見える菱角の櫺子窓の神々しい直線の並列。古建築が紡ぐ静寂の美への心象風景を「魂の森」と表現したのでしょうか。

上の写真は夕景にシルエットのように浮かぶ夢殿、金堂、五重塔。斑鳩神社参拝後の帰り道で撮影しました。空が刻々と染まりゆく美しさ。私も静寂さに心を打たれました。
(撮影 2011・11・4 午後4時28分)


<南大門の前に立つともう古寺の気分が全身を浸してしまう(古寺巡礼)
法隆寺門その1

















■聖徳宗総本山 本尊 釈迦三尊像(金堂中の間 金銅仏 国宝) 世界遺産
  • 飛鳥時代の607年(推古15年)、推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺志を継ぎ創建したと伝わります。西伽藍の金堂や五重塔は世界最古の木造建築で、発掘調査から日本書紀に記された670年(天智9年)の火災で焼失した「旧若草伽藍」跡に再建されたものと結論付けられました。法隆寺資財帳には693年(持統7年)に国家安寧を願う仁王会が行われた記述があり、金堂はこの頃に完成、さらには711年(和銅4年)に五重塔初層の塑像群や中門の金剛力士像が設けられたとあるので、平城京遷都の前後に西伽藍が完成したと推定されます。
  • 口元に微笑をたたえたアルカイックスマイルの釈迦三尊像は飛鳥時代の作です。光背の銘によると、聖徳太子が没した翌年の623年(推古31年)、渡来人の止利仏師(鞍作止利)が完成させたとあります。太子が生母の穴穂部間人皇女の看病で倒れた622年、皇族と諸臣とが快復を願い太子の等身大の釈迦像の造立を発願しました。悲しいながら定命であるとすれば浄土へ往けるようにとの思いも込められていたそう。記録によるならば、わずか1年間で造ったのですから驚きです。
  • 聖徳宗は聖徳太子を宗祖とし、法隆寺が法相宗大本山の地位から離脱して1950年(昭和25年)に開設しました。お隣の中宮寺のほか法起寺、法輪寺など29カ寺で構成しています。

金堂と五重塔 情熱的で鋭い美しさをもっている(古寺巡礼)
法隆寺



















■いただいた御朱印

西伽藍 「以和為貴 授与所の「聖霊院」でいただきました。
法隆寺以和尊右肩に「斑鳩」、中央には金堂天蓋を彩る琵琶を弾く天人像、そして「法隆学問寺印」。流れるような筆遣いで書かれた以和為貴とは、聖徳太子が制定した「十七条憲法」の第一条。推古12年 (604年)、夏4月3日の発布です。

一曰、以和爲貴、無忤爲宗
一に曰く、和 (やはらぐ) を以て貴 (たふと)しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里
人皆党有り。亦達(さと)る者少なし。是を以て、或いは君父に順はず、乍(また)隣里に違ふ。
然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成
然れども、上和ぎ下睦びて、事を論ふに諧ふときは、事理自づからに通ふ。何事か成らざらむ。
(訓読文は日本書紀4 岩波文庫)

【現代語訳】
和を大切にし、いさかいをせぬようにせよ。
人は皆それぞれ仲間があるが、全くよく悟ったものも少ない。それ故君主や父にしたがわず、また隣人と仲違いしたりする。
けれども上下の者が睦まじく論じ合えば、おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう。(日本書紀全現代語訳 講談社学術文庫)

<ここで言う 「和」 はよく誤解されるように他人の気持ちを忖度して、それに逆らわないよう調子を合わせることを意味するのではない>。政治思想史研究者で東大教授の苅部直さんは「日本思想史の名著を読む」(webちくま)でこう述べ、<他人からの批判には謙虚に耳を傾け、みずからの意見を他人による検討にさらしてゆくこと。そうした緊張関係を内に含んだ「和」が求められている>と解説します。

共に是れ凡夫 <誰もが多かれ少なかれ愚かさを抱えている>。和の思想の核となる考えが十条にあります。<心の怒りを絶ち、顔色に怒りを出さぬようにし、人が自分と違うからといって怒らないようにせよ>(講談社学術文庫)。

♦五重塔相輪
 宝輪にある鎌は怨霊封じとも…
法隆寺水煙これ自分の価値観に固執し、相手の意見をたちまちに誤りと断じて拒絶する態度を戒めていると、苅部さんは指摘します。ここで押さえておきたいのは十七条憲法は国家を運営する為政者と官僚の規範だということです。権限を与えられた者こそ謙虚になれといっているのです。

その規範を支えるモラルを六条で厳しく説きます。<悪しきを見たら必ず匡(ただ)せ>。善悪をないがしろにする姿勢は国の大きな乱れのもととし、悪質な2タイプの人物像を列挙しています。

諂い詐く(へつらいあざむく)者 上役の意向におもねり迎合する。忖度という言葉に置き換えてもよいでしょう。その姿勢は<国家を覆す鋭い道具のようなもので、人民を滅ぼす鋭い剣ともいえる>(講談社学術文庫)。森友学園への国有地8億円値引き売却と加計学園獣医学部新設計画で問われている疑惑の官僚の姿が浮かびます。

例えば国税長官に今年7月就任した
佐川宣寿氏は会見を拒んだままです。朝日新聞(8月8日付電子版)によると<新長官の会見がないのは異例。佐川氏は長官に就く前の財務省理財局長時代、学校法人「森友学園」への国有地売却問題で国会答弁に何度も立ち、事実確認や記録提出を拒んで「真相解明を阻んでいる」などと批判を浴びていた会見しないのは<諸般の事情>だそう。う~ん、すごい理由です。やましいことがあるのでしょうか? 昇進は追及をかわした論功行賞との見方があります。批判と向き合わず、このまま沈黙を押し通すつもりなのでしょうか。

佞み媚ぶる(かだみこぶる:こびへつらう)者 <上に向かっては好んで下の者の過ちを説き、下にあえば上の者の過失をそしる(講談社学術文庫)。ミスは部下のせいであると上司に弁解し、部下には上司の意向だといってうわべだけ憤る。保身の最たる例です。

保身、出世、カネ。飛鳥時代から変わらぬ永遠のテーマなのでしょうか。嘆かわしいことです。


東伽藍 夢殿 救世観音 こちらも聖霊院でいただきました。
法隆寺夢殿救世観音さん公開期間中のみ授与されます。御朱印をいただいた後に、すてきな見方を教えていただきました。「観音さんの前で20秒ほど目を閉じた後に見てください」

夢殿の格子窓を隔てて観音さんと向き合い、言われた通りに瞑った目を開くと、観音さんがふわっと暗い堂内に浮かんで見えました。目を慣らしたためですが、感動しました。参拝される方は、ぜひお試しを。お薦めです。

観音像が夢殿に納められたのは奈良期の739年(天平11年)。明治期に米国人フェノロサが調査するまでは僧侶さえ見ることを禁じられた秘仏として、厨子は封印されてきました。

その根拠は、像が聖徳太子の写し身で、封印を解けば太子の怒りに触れるとの伝承。フェノロサの調査を寺側が拒み続けたのもこのためでした。


●瞑想の美しさにのみ人を引き入れる

「古寺巡礼」で和辻哲郎は、このフェノロサと寺側との交渉と調査の様子を記しています。

<寺僧は、そういう冒涜(救世観音の厨子開帳)をあえてすれば仏罰たちどころに至って大地震い寺塔崩壊するだろう、と言って、なかなかきかなかった。この時に寺僧の知っていたところは、秘仏が百済伝来の推古仏であることと、厨子が二百年以上開かれなかったことのみであった>

♦夢殿の宝形
法隆寺夢殿飾りこれ<長い論判の末にとうとう寺僧は鍵を持って中央の壇に昇ることになった。数世紀間使用せられなかった鍵が、さびた錠前に触れる物音は二人(フェノロサ、九鬼隆一)の全身に身震いを起こさせた>

<厨子の中には木綿の布を一面に巻きつけた丈の高いものが立っていた。布の上には数世紀の塵が積もっていた。塵にむせびながらその布をほどくのがなかなかの大仕事であった。布は百五十丈(約450m)ぐらいも使ってあった>

<ついに最後の覆いがとれた>。観音像と対面したフェノロサは、その横顔はギリシア初期の美術と同じ高みにあると評し、静かな神秘的な微笑はダヴィンチの「モナ・リザ」に似なくもない、と感じたそう。

和辻は救世観音とモナ・リザとも<内部から肉の上に造られた美しさであり、深い微笑である>とフェノロサに理解を示しながらも、両者の微笑には質的な違いがあると述べています。

モナ・リザには<人類のあらゆる光明とともに人類のあらゆる暗黒が宿っている>。霊的なものへの憧憬と罪の意識。それと相反する奔放な人間性への自覚。微笑には霊と肉との苦しい争い、すなわち、人間の心情を底から掘り返したような深い鋭い陰影を帯びているのです。

救世観音の微笑は<瞑想の奥で得られた自由の境地の純一な表現>。霊と肉との調和、理想化された慈愛の結晶なのです。<謎めいてはいるが、しかし暗さがない。愛に充ちてはいるが、しかしインド的な蠱惑はない>。ただ素朴で、しかも言い難く神秘的。モナ・リザの内にある霊と肉とが争う懊悩、深い内生の葛藤とは無縁なのです。<感覚的な肉の美しさを閑却して、ただ瞑想の美しさにのみ人を引き入れる>。その点で、人間の感情を超越した美しさであるともいえます。

●捨身 聖徳太子一族の滅亡

夢殿一帯は聖徳太子一族「上宮王家」が生活した斑鳩宮跡で、寺とは別体でした。

太子没後の643年(皇極2年)、皇位継承最上位で「大兄」職にあった息子の山背大兄王は従兄弟の蘇我入鹿に襲撃され、斑鳩宮を脱して生駒山に逃れたものの、斑鳩寺に入り妻子ともに自害。太子の血脈は絶えました。

山背大兄王の最期の言葉が日本書紀にあります。

<軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一つを入鹿にくれてやろう>(日本書紀全現代語訳 講談社学術文庫)

夢殿 八角形の建物は鎮魂を表しているそう。
法隆寺夢殿生駒山中で山背大兄王は、東国で軍勢を募って一戦を勧める三輪文屋の献言を断り、斑鳩寺に入ったそう。上記の最期の言葉は、寺を包囲した蘇我の軍勢に対し、使者に立った三輪文屋が告げたものです。

<この行動は、明らかに「捨身」すなわち 「他人のために死ぬ」という思想である> (逆説の日本史2 井沢元彦著 小学館文庫)。

<戦って勝ったからといって丈夫(ますらお)と言えようか。己が身を捨てて国を固められたら丈夫といえるのではなかろうか>。日本書紀が伝える山背大兄王の生駒山中での決断は、見ず知らずの他人のために死ぬという日本最初の殉教である、と井沢氏は記しています。そして、その考えは突然生まれたものではなく、父の聖徳太子の思想を受け継いだものと、美術史家の上原和氏(故人)の見解を紹介しています。

♦金堂の彫刻 龍の左には雲形斗栱
法隆寺金堂彫刻の龍飛鳥時代作の造られた寺伝来の国宝「玉虫厨子」には、釈迦の前世の説話をもとにした二つの捨身図が描かれています。

施身聞偈図 ヒマラヤで修行中の雪山童子が耳にした「諸行無常、是生滅法」の偈。それを唱えるのは飢えた鬼。偈の後半を知りたい童子は鬼に身を捧げると約束し「 生滅滅已、寂滅為楽」の教えを聞きます。そして崖から投身。鬼は帝釈天となり、空中で童子を受けとめます。

捨身飼虎図 飢えのため子を食べようとした親虎を見かねた薩埵王子は、わが身を与えようと決意。衣服を脱ぎ崖から墜落死して餌となった。

仏の教えを護持するには、身命を顧みず-。太子が著したとされる経典注釈書「三経義疏」の一つ、勝鬘経には捨身の思想が貫かれているそう。太子は注釈で捨身飼虎図のエピソードを取り上げていることから、<聖徳太子は明らかに「捨身」の思想に深い共感を抱いていた。それは太子の死後、その息子である山背大兄王一家にも受け継がれていたことがわかる>(逆説の日本史2)。


●太子一族鎮魂の寺

上の写真は金堂の彫刻を撮ったものですが、龍の左後方に写る「雲形斗栱」は、玉虫厨子の組物と同じデザインなのだそう。屋根の張り出しを支える部材に、あえて雲の形を採用したのは<太子遺愛の玉虫厨子をモデルに建てられた>からとの見方があります。

法隆寺が全焼したのは670年(天智9年)。当時の中大兄政権は百済復興を掲げ朝鮮半島に出兵し、唐と新羅の連合軍に大敗(663年、白村江の戦い)。国土防衛の緊張が高まるなか、近江大津に遷都します(667年)。<天下の人民は遷都を喜ばず、諷諫するものが多かった。童謡(わざうた : 政治風刺の流行歌)も多く、夜昼となく出火するところが多かった>(日本書紀)。飛鳥では民衆の不満が募り放火が相次ぐなど、政情不安だったことが読み取れます。そこに起きた法隆寺炎上。この寺で27年前に滅亡した太子一族の事件の記憶から、無念の死がもたらした不吉な事象と捉えた民衆の不安と怯えは増幅したと思えます。

♦山背大兄王と妻子は五重塔で縊死しました。
法隆寺五重塔よこ <太子および斑鳩寺の塔に非業の最期を遂げた山背大兄王ら太子一族の霊鎮のために、急遽法隆寺の再建が企てられることになるのはあまりにも自明のことといえよう>。 「逆説の日本史」で井沢氏は、法隆寺が太子一族鎮魂の寺として再建されたとする上原氏の考察を紹介しています。

山背大兄王一族討滅は、日本書紀では蘇我入鹿の指示で巨勢徳多と土師娑婆連が行ったとあります。

しかし平安初期成立の「上宮聖徳太子補闕記」は、蘇我宗家を滅ぼした大化の改新後に孝徳天皇として即位した軽皇子も襲撃に加わったと記しています。さらに太子一族を葬った巨勢徳多は中大兄皇子(後の天智天皇)が主導する新政権への降伏を許され、後に左大臣にまで昇進しているのです。単に入鹿の思惑に加担したのではないでしょう。(土師娑婆連は斑鳩宮襲撃時に戦死しています)。

一方、入鹿が皇位継承者に推した古人大兄皇子は大化の改新後、中大兄皇子が要請した皇位就任を辞退して出家しましたが、吉野に隠遁後に謀反の罪を着せられ粛清されました。邪魔者を消すための政権闘争、謀略の凄まじさを感じます。

このことから上宮王家滅亡は、山背大兄王の皇位継承を阻みたい他の皇族の思惑が働いたとされています。720年完成の日本書紀は時代が近いことから意図的に核心部分に触れなかったのかもしれません。後世でなければ書けないこともあります。

♦中宮寺へと向かう道の土塀 国重要文化財です。
法隆寺土塀これ●「千日聞き流しせよ」

五木寛之さんの著「古寺巡礼」で感銘を受けた記述があります。学問寺・法隆寺の伝統を受け継いだ元管長・佐伯定胤さんと若い学僧とのエピソードです。

この学僧は佐伯さんの唯識、俱舎論の講義に一日も休まず、予習と復習を欠かさずに臨んでいたそう。しかし、思想の核心がなかなか理解できません。

「学問に向かない人間なので、田舎に帰ります」。思いあまって別れのあいさつをした学僧に佐伯さんは「千日聞き流しせよ」と告げたのです。分かっても分からなくてもよいから、話を聞きなさい。話を聞き流すつもりで前に座っておったらどうか-。

♦中宮寺へと向かう石畳
法隆寺石畳仏教や思想や学問に大事なことは、その理論だけではない。人間の魂のありよう、情熱、その人間の至心、つまり<まことのこころ>などが伝わっていくことが大事なのだ。必ずしも、言葉で言い表された細かい理屈だけを、頭で理解することではない。五木さんはそこに「面授」の大切さを見出します。

<佐伯氏が法隆寺で講義をつづけたのは、おそらく、仏教の思想を人びとに伝えたい、というまごころからだったと思う。その細かいところを理解できなくても三年間黙って座って話を聞き、顔を見ていればいい。そうすれば必ず、そのほとばしる情熱や気持ちは、聞く人の体に染み込むように伝わっていくに違いない>

そして、こう結びます。<理論だけなら書物を読めばいい。しかし書物からは伝わらないことがある。あるいは、理屈だけではない大事なものが人間の肉声にはある。顔の表情にも、声にもある。そういうものを感じとっていく。理解するだけでなく、感じるのである。このことも、人間にとっては大事なのだ。もし面授が大事にされなければ、人間は大切なものをなくしてしまうのではなかろうか>


♦中門と五重塔。中門には日本最古の金剛力士像があります。下段はJR法隆寺駅から見た夕景です(撮影 2011・11・4 午後4時58分)。
法隆寺仁王門と塔














法隆寺仁王左これ法隆寺仁王右
















夕焼け













■撮影日 2011・11・4(Fri)/2015・10・30(Fri)